
第壱弐話外伝 雨月 3
「――HI、翡翠お兄ちゃん」
重苦しい空気を優しく払い、開かれた扉にきらきらと金色の光が散る。入ってきたのは赤いワンピースに金髪の映える少女であった。
「や、やあ、マリィ。――いらっしゃい。よく来てくれたね」
先の雨紋、織部姉妹以上に、ビジネススマイルとは遠い本物の微笑を浮かべる如月。朱日が目を丸くしているのが解ったが、今回は無視だ。
「――ひょっとして、一人で来たのかい?」
マリィ・クレア。アメリカ軍に、その後とある組織により、生体兵器として育てられていた少女。そして【四神】の一つ、【朱雀】の【力】を持つ【仲間】。――現在は【仲間】の一人である美里葵の家に養子として迎えられ、家族と共にある幸せな日々を送っている。――その笑顔を見る時だけは、如月も自分の使命や立場を忘れて心底ほっとできる。名実共に孤児となってしまった彼女を引き取ろうと思った時期もあったが、やはり美里家に任せて良かった。彼女の養子縁組がスムーズに行くよう、龍麻とともに色々と裏工作を施し、【九頭竜】やら警視庁やらを巻き込んでマリィと、共に救い出した三人の少年少女の戸籍等を偽造した努力は、この笑顔一つで充分に報われている。
「ううん。今日は醍醐お兄ちゃんと、アランお兄ちゃんとも一緒だヨ」
マリィが振り返ると、ちょうど戸口を大柄な男子高校生が二人、連れ立って潜り抜けた。
「HI、ヒスーイ。お邪魔するネッ」
「ようッ、如月。ちょっとご無沙汰だったな」
入って来たのは、夕刻には冷え込むようになったというのに太陽マークの入った半袖Tシャツ一枚の外人青年と、真夏の盛りでも遂に脱ぐ事のなかった学ランを纏った巨漢であった。外人青年は聖アナスタシア学園のアラン蔵人。学ランの巨漢は真神学園の醍醐雄矢だ。そしてこの面子は【仲間】の中でも更に特殊な、【四神】の【宿星】を持つ者たちである。
「これはまた…珍しい組み合わせだね」
今日は本当に来客の多い日だ。外はこんな――雨だというのに。
「はははッ、そうでもないだろう。俺達は――っと、来客中か?」
俺達は――の後に続く言葉を飲み込む醍醐。マリィに対する如月の態度に呆然と突っ立っていた朱日に気付いたのである。
「は、はい…。わ、私、如月君と同じ学校の…橘朱日といいます…」
決して脅している訳ではないのだが、のしかかるほどの巨漢である醍醐に圧倒されてしまう朱日。醍醐本人には自覚がないのだが、京一曰く【オッサン臭い】厳つい顔立ちは、一般人には少々恐い印象を与える。勿論、一言でも言葉を交わせば、それが誤解である事が解るのだが。
「――如月の同級生か。それならば挨拶せねばな。――俺は新宿・真神学園の醍醐雄矢だ」
「HA−HA−HA。僕は聖アナスタシア学園のアラン蔵人言いマース」
胸を張るところまでは良いとして、その腕を組むポーズが他人を威圧する事をまったく理解していない醍醐と、何が楽しいのか解らないが笑顔を振り撒きっぱなしのアラン。
「マリィ――マリィ・クレア・ミサトです。この子はメフィスト」
これは美里葵の教育が良いのか、きちんとお辞儀するマリィに、黒猫のメフィスト。――そのおかげで退き気味だった朱日の態度も軟化した。――この二人の男どもにも見習って欲しいものだと如月は思った。
「ところで、今日は何の用だい?」
雨紋や織部姉妹のようなツッコミを入れられる前に、自分から切り出す如月。――いい加減、似たようなパターンに飽きてきたのだ。
「用と言うか…雨紋から、お前が瀕死の重傷を負ったと聞いたものでな」
「なっ…!?」
「OH…ヒスーイ。全治六ヶ月もの重傷だなんて、一体どうしたデスカ? ベッドの下敷きになってダンプにはねられて、マンホールにまで落っこちたそうじゃないデスか。不注意にもほどがありマース」
「そんな事を、雨紋君が…?」
「マリィ…とっても心配したヨ。ミューナントカに【変身】すればダイジョーブだからってウモンお兄ちゃんは言ってたけど、翡翠お兄ちゃんが怪我したら、マリィ哀しいヨ…?」
「大丈夫だよ、マリィ。――心配してくれてありがとう」
マリィの頭をそっと撫でつつ、如月の心中では角の生えた【玄武】が炎のような舌を吐いていた。
(ふふふ、雨紋君…君に明日の朝日は拝ませないよ…!)
そんな物騒な事を考えているとは露知らず、マリィは如月の顔を覗き込んだ。
「ホント? ホントに怪我してナイ?」
「――ああ、本当だよ」
「…ウン! 良かった。マリィ嬉しいヨッ」
マリィが相好を崩したので、如月はもう一度彼女の頭を撫でてから姿勢を正した。
「ご期待に添えなくて申し訳ないが、それで、本当の用向きはなんなのかな? まさか雨紋君の馬鹿な冗談を真に受けた訳じゃないんだろう?」
「はははっ、それはまあ、その通りだ。――だが雨紋の奴、随分と心配していたぞ? お前がいつもとまったく違う様子だったと言って、何か変な物でも喰ったんじゃないかとな」
「ふふ…ふ…。そんな事、ある訳ないじゃないか。見損なわないでくれたまえ…」
(雨紋…今夜が君の最後の夜だ…!)
もう今すぐにでも愛刀の【才蔵】を砥ぎに掛かりたい気分の如月である。今宵の雨は朱に染まりそうだ。――などと考えていると、今度はアランが口を挟んだ。
「OH…ヒスーイ。ユーとミーはフレンドネッ。見損なったりしまセーン。デモ、困った時には頼りにして欲しいデース」
「――いや、僕の問題は、僕自身で解決せねばならない。――僕が君たちに力を貸すのは目的が同じだからだが、君たちが僕に力を貸す必要はない」
「No…I’m so blue。 ナゼ、そんなクールなコト言うデスカ、ヒスーイ?」
アランが天を仰ぎ、嘆きの表情を作る。――いちいちオーバーアクションだが、彼の言葉と表情には嘘がない。これも――自分とは違うところだ。自分は彼のように、あるがままの自分を外に出せない。なぜならば――
「僕たち、ユーをヘルプするのに何のためらいもありまセーン。借りとか貸しとか、考えたりしまセーン。それが、【仲間】というものデース」
「…確かに僕は、君たちに対して責任ある立場にいる。しかし、これは僕の…言わばプライベートな事情だ。これは譲れない。たとえ、君たちでも」
その筈だ。飛水家と鬼道衆の闘いは、江戸の昔から続いてきた。徳川家の、江戸の繁栄の陰で、二つの勢力の間にどれほど多くの血が流されたか知れない。中でも最悪だったのは、江戸末期に奈涸(という飛水流随一の実力者が飛水流を裏切り、鬼道衆に付いたという重大事件だ。当時、当主の座を継いだ涼浬(は実兄である奈涸の抹殺を一族の悲願としたが、時は経ち日は過ぎ、飛水流の根幹たる【玄武】の力が涼浬の系統に受け継がれたことにより、今や財閥にまで成長している奈涸系統の如月家との確執は存在しない。だが、その根本原因を作った鬼道衆に対してはいまだに憎悪の牙を納められずにいる。
本来ならば、この戦いに余人の立ち入る隙はない。たとえ【力】を持つ【神威】でも、対テロリスト部隊であった緋勇龍麻でも。――そう。目的が同じだからこそ、協力しているだけ…。この戦いは自分の、飛水家の為に行っているのだ。
「翡翠…マリィの事、嫌いナノ?」
「――!? いや、そういう事じゃないよ、マリィ」
少し慌てて、如月。しかしマリィは少し寂しそうな目を上目使いに向ける。――この眼には、弱い…。
「それじゃ、どうしてナノ? マリィたち、翡翠の友達だヨ? 一緒の組織にいるだけじゃなくて、ミンナで力を合わせて、助け合うのが友達だって、龍麻お兄ちゃんも言ってるヨ? 翡翠は、マリィたちを助けてくれるのに、マリィたちは、翡翠を助けちゃ駄目ナノ?」
「そんな事はない。僕はマリィたちに随分助けられているよ。これは…僕の宿題みたいなものなんだ。だから、他人の力を借りちゃいけないんだよ」
「翡翠の宿題…?」
「そう。だから、助けてもらったら自分の為にもならないよね?」
「ウン…マリィもそう思うけど…」
成長を止められ、精神的にも幼いマリィの言う事は、幼い故に純粋で、常にストレートだ。だからこそ、こんな屁理屈をこねて言いくるめようとしている自分に腹が立つ。そうは思ったが、やはり如月は、ここは退けなかった。自分には飛水家という護るべき家があり、自分自身にも誇りとプライド、意地がある。
「そうは言うがな、如月。一人では背負いきれないものもあるぞ。そんな時には頼りにして欲しいし、また、頼られるほどに強くありたいとも思う。――何でも一人で解決しようと考えるのは――俺が言って良い事じゃないが――お前の悪いところだ」
頑(なな如月の態度にかつての自分の姿を見たか、醍醐はやや気難しい顔で言う。
「俺も例の一件では随分と苦しんだし、悩みもした。結局、皆の前から姿を消して、皆に大変な迷惑をかけてしまった。ところが、そんな俺を救ってくれたのも皆――お前を含めた【仲間】たちだった。――ありがたかったよ」
「……」
「【仲間】というのはそういうものだ、如月。お互いを支え合って生きていくものだ。自分一人で全てを背負おうなんて、とてもできるものじゃない。――それを気付かせてくれた一人であるお前が、俺の真似をしてくれるな」
「そう言ってくれるのはありがたいが、僕は自分を良く知っている。僕はそれ程、自惚れてはいないよ」
醍醐の言いたい事は判る。だが――それは求めてはならぬものだ。彼らと付き合う事で、使命というものをもっと客観的に、柔軟に捉える事ができるようになった自分だが、彼らと共にある居心地の良さに甘えてはならない。甘えは油断に繋がる。飛水の者は常に【中庸】――何事にも捉われ過ぎてはならない。
「翡翠…ヤッパリ、無理してるヨ? だって、そんなに哀しい目をしてるモン」
「そ、そんな事はないよ。マリィを心配させるようなことはしない。約束する」
「本当に?」
「ああ。本当だ。――指切りしても良いよ」
「…ウン!」
小指を絡めて【指きりげんまん】をする如月とマリィを交互に見て、アランはちょっと唇を尖らせて腕を組んだ。
「OH…ヒスーイ。僕たちとマリィとでは随分態度が違いますネー。そんなコトだと本当にロリ…ッッ!」
アランの言葉は、背後から襲ってきた豪腕によって無理矢理封じられた。
「ロリ…なんだって…?」
如月が刃物のように細めた目でアランを睨んだ時、彼は醍醐によってチョークスリーパーホールドを極められていた。
「――ロリ・ラフリンみたいだと言いたいんだろう、アラン? 【フルハウス】でジェシーの恋人ベッキーを演じていた彼女が【悪魔の棲む家パート3】に出演していたと知った時は俺も驚いた」
(醍醐君…凄く苦しい上に随分とコアな言い訳だね。――龍麻君並みだ)
すると醍醐は突然、フラフラッとよろめいた。
「――醍醐お兄ちゃん、どうしたの?」
「ン――いや、何でもないぞ、マリィ。ただなんだか…急に目眩に襲われてな…」
頭を振り振り、しかし立ち直る醍醐。如月は思わず【ちッ】と舌を鳴らしたが、誰も気付かなかったようだ。
「まあ、何だ、如月。俺たちはお前の考えが間違っているなんて言うつもりはない。ただ…仲間にしろ、友にしろ、大切なものっていうのは、失くしてみて、初めてその存在の大きさに気付くものだ。その癖、意外とたやすく指の間から抜け落ちてしまう。――俺はそうしてしまった。だがそれを、取り戻してくれた男がいた。――だから、言うんだ、如月。俺は辛うじて取り戻せたのに、その男は、もう取り戻せないんだ。その男自身の過ちでもないのに――な。だから――自分から何かを捨てるような真似はしないでくれ」
「……!」
これにはさすがに、如月もとっさに何も言えなかった。
過ちを犯した訳でもないのに、全てを失った男。もはや大切なものを、自身の生存という形でしか持ち続けられない男。――自分には飛水家という、無形であっても誇りとできるものが確かに存在している。だが彼は――その存在そのものを否定され、抹消されたのだ。強大な権力の奴隷によって。彼には自分を肯定できる者が、もはや彼自身しかいないのだ。
「まあ、なんにせよ、お前が元気そうで良かった」
醍醐の言葉が、如月の顔を上げさせた。
「雨紋にはちょっとだけ灸を据えておこう。――如月、お前がどう思おうと、俺たちはいつでも頼りにしてもらって良い。下手な遠慮は要らん。――独り占めするなよ?」
「……」
最後の言葉の時、不敵な笑みに凄みを漂わせる醍醐、そしてアラン。
彼らはこう言っているのだ。鬼道衆は、如月一人の敵ではないと。この街を、人々の生活を、それがある故に浸れる自分達の平穏を護るために矢面に立つと決めた瞬間から、鬼道衆は自分達に共通する敵になったのだと。
如月の脳裏に、龍麻の言葉が甦る。
――お前の事情には関知しない。だが俺にも、奴らと戦う理由がある
――俺にとってはやり残した仕事だ。俺が俺である為の戦いだ
そうだった…。あの時の龍麻は、こうも言っていた。
――俺は殺せる。一瞬の躊躇も、微塵の後悔もなく、奴らを殲滅できる。それは俺が向こう側の人間であり、俺の存在理由であるからだ。だがお前たちはどうだ? ――学生さん?
――奴は俺を名指しで挑んできた! 俺を殺すために! 俺に殺されるために! だから俺は奴を殺す! それが俺たちの礼儀であり、それが唯一絶対の、闘争の契約だ!
(そうか…。醍醐君は一度、龍麻君にも拒絶されていたな。そして醍醐君は…最初こそ状況に流されてしまい、取り返しの付かない事を…。一度はどん底にまで落ちたのに、仲間に支えられてこれほどに…)
そう。醍醐は強くなった。――初めて見た時は、拙(い【力】に振り回されているようにすら見えたのに。【覚悟】の意味も知らず状況に流されるままに戦い、目を掛けていた同級生を殺す羽目になり、一度は堕ちる寸前まで行った。だが戦いというものに抱いていた甘い幻想を捨て、闘争の厳しさと争う痛みを胸に秘め、立ち向かう事を覚えた時、彼は【白虎】としての完全な覚醒を見たのだ。
(【四神】の中では、僕が一番弱いのかも知れないな…)
南米の山奥で平和に暮らしていた時、突然現れたネオナチの一派と【盲目のもの】に家族を、友を、優しき人々を、居心地の良い村を全て奪われたアラン。復讐を胸に秘め、特例措置で入れられた海兵隊でひたすら牙を磨き続け、そのままならば修羅の世界をひた走っていたかも知れない彼。だが彼も――自分を救ってくれたヒーロー〜龍麻への憧れを抱き続け、多くの人々によって支えられ、この街に来て皆と共に戦い、笑顔を失う事なく想いを成就し、更にこの街を護る闘いに臨んでいる。
そして――親の顔も覚えていない頃に誘拐され、【発火能力】を駆使するPSYソルジャーとして育てられてきた少女、マリィ・クレア。常に感情を押し殺す事を強いられ、成長さえ止められ、狂人の妄想に翻弄され続けてきた彼女。彼女もまた、運命に立ち向かった。【人】として戦う強く優しい【兄】の導きによって、常に否定され続けた心を、自分の中に芽生えた暖かいものを護ろうとした時、【朱雀】は彼女に未来へと羽ばたく翼を与えたのだ。
――自分はどうだ? 如月は考える。
彼の【玄武】の【力】は飛水家に代々受け継がれて来たもので、彼の場合は祖父より【継承の儀】を行い、その身に宿したものに過ぎない。勿論、【玄武】を継承する為に、体中の血を絞り尽くすような鍛練の日々を送った。【普通】の子供達がひらがなを覚える頃には漢文を諳んじ、九九を習う頃には漢方薬の調合法を学んでいた。夏休み、他の子供達がラジオ体操や、海や山に遊びに赴く頃には、人を容易に寄せ付けない深山に篭り、早朝から滝に打たれ、枯れ沢を早駆けし、崖を駆け降り、夜の闇の中で座禅を組んだ。
如月は他の【神威】のように、ある日突然【力】に目覚めた訳ではないのだ。【力】を得るべく、【力】を使いこなすべく修行を重ね、遂には【玄武】の【力】を継承し、この戦いに身を投じた。だからこそ半端な気持ちで闘いには臨まないし、プライドも誇りもある。
しかし自分は――自分自身の宿命に、運命に立ち向かっているだろうか?
飛水家の使命は重要だ。そして自分は自分の【宿星】を受け入れ、それに殉じる覚悟も決めている。だがそれは結局、状況に流されているだけではないのか? 他人――代々の飛水家が交わした闘争の契約に、ただ盲目的に従っているだけではないのか?
「――ノープロブレム! 翡翠お兄ちゃんが大変な時はマリィもミンナと一緒に手伝うヨ?」
「あ…あァ、ありがとう、マリィ」
マリィの満面の笑顔が、思考の堂々巡りに落ちかけていた如月を我に返らせる。
(【仲間】…か)
「HA―HA―HA。僕たちよりマリィの方が頼りになりますネー。――ところでヒスーイ。今日はマリィのオシャレの道具も見に来たのデスガ?」
「!? ――あァ、そうか…」
【オシャレの道具】と言われて即座に意味を理解できかねた如月であったが、傍らに朱日がいる事を思い出し、とっさに口裏を合わせる。――本来なら朱日が帰ってから気兼ねなく【装備】を選定したいところだが、彼らも事態の切迫を懸念しているのだ。
「一応色々と取り揃えてみたんだが…微妙なものが多いんだ」
マリィは完全に【術】系統の【神威】なので、精神的な負担を軽くし、能力をサポートするものが望ましい。――龍麻としては彼女を戦場に出すのは本意ではなかったらしいが、マリィ本人の度重なる懇願の果てに、あの龍麻をして決定を翻さざるを得なかったのだ。
【それ】を見せると、マリィは目を輝かせつつも、小首を傾げた。
「…鈴?」
「…僕としても精一杯探したんだが、今のところこんな大きな物しかないんだ。今、知り合いを当たってもっと小さな物も探しているんだけど」
マリィの装備として用意したのは、祭祀用の霊鈴である。一口に【術】系統と言っても、葵のように自分の【気】を与え、あるいは触媒として利用する術と、裏密のような魔術系の術では用法が大幅に異なる。葵が精神力をサポートするパワーストーンを指輪にして携帯し、裏密が魔術師の定番アイテム、杖を携帯するのも、この用法の違いから生じたものなのだ。
マリィの能力は【発火能力】。対象物を燃焼させ、あるいは炎を爆発させる能力だ。これを制御するアイテムとしては鈴と、リボン状にした霊布があるが、【発火能力】と霊布では相性が悪い。したがって鈴と相成った訳だが…もともと祭祀用の鈴は大きな物が使われるのである。
「確かに…大きすぎるな」
醍醐も身を乗り出す。一番小さな鈴を手に取って見るが、それでも野球のボールほどの大きさがある。
「しかもこの鈴…【老】、【病】、【死】の苦悩を滅する事を願っている為に、三個で一組になっているんだよ」
「三個でセットか…確かにちょっと目立ち過ぎるな。――マリィはどう思う?」
マリィのような少女が、アクセサリーには大きすぎる鈴を三個も身に付けている図は…可愛いかも知れないが目立ち過ぎる。
「う〜ん…マリィはコレでも良いけど、お兄ちゃん達は駄目だと思うノ?」
「OH! マリィ! そんな事はありまセーン!」
突然、アランが大声を上げて手を握ってきたので、マリィはびっくりして目をぱちくりさせた。
「マリィにはコレがとってもお似合いデース! これ以外には考えられまセーン! Oh、ヒスーイ! Your sence is Greatest!」
「はあ…?」
なぜか異常に喜ぶアラン。如月には、いや、醍醐もマリィ本人にもまったく解らない。
「ヘイ! ヒスーイ! 僕がマネー出しますカラ、マリィに合うメイド服と手袋を入荷しておいてくだサーイ!」
「め、メイド服!? ……アラン…何か良からぬ事を企んでないかい?」
「トンでもナイ! きっとタツマも喜ぶネッ!」
龍麻も喜ぶ…? ますます訳が解らない。
「龍麻お兄ちゃんも喜ぶノ? じゃあマリィ、これにスル!」
マリィが取り上げたのは、夏みかんほどもある鈴――【神鈴神楽】であった。神楽で行われる神楽舞いに使用される鈴で、修行者や彼ら【魔人】が持つと、その音色に宿す魔を打ち払う【力】を増大させることができる。
「まあ、マリィがそう言うなら…。しかしアラン、僕の店は何でも屋じゃない。メイド服なんて置いてないぞ。そういう服は駅近くのブティックで扱っていたが…」
その時如月は、踏んではならない地雷を踏んでしまった気がした。
「Wow! Cool! ――それでは早速ソコ行ってみるデース! さあ、マリィ! 目からビーム! ほかほかご飯にょ! 善は急げデース!」
「エ!? エッ!?」
謎のハイテンションで謎の単語を連発しつつマリィの手を引くアラン。――まるっきり、赤い服着た女の子を連れ去る異人さんである。その時朱日は「で○子?」と呟いたのだが、如月も醍醐も、その意味は解らなかった。
「HAHAHAHAHA〜! 女優への道の第一歩デース!」
「ば、バーイ! 翡翠お兄ちゃん…!」
雨の中、フェードアウトしていくアランとマリィ。醍醐は慌てて、
「こ、こらアラン! ――済まんな、如月! 俺も行く! ――色々と邪魔をしたようで済まんな、橘さん!」
「い、いえ…」
頭を下げる醍醐に朱日も礼を返そうとしたのだが、その時既に彼は傘を広げ、雨の中を走っていくところであった。
「…まったく…」
今の数刻のやり取りでどっと疲れてしまい、如月は座敷の上がり口にどっかと腰を下ろした。――普段ならば、独りでいる時でもやらない行為である。
そんな彼を、朱日が振り返る。
「…なんだかんだ言っても、如月君って友達多いのね」
「いや、彼らは――」
「友達じゃない? 【仲間】? それとも、私の想像を超える関係? ――そうでしょうね。あの人たち、如月君の事凄く理解しているもの。家族だって、あそこまでは中々言えないと思うわ」
「家族? ――やめてくれ。想像したくもない」
家の中に醍醐がいてアランがいて、雨紋がいて織部姉妹がいて、マリィ…なら歓迎するが、更に龍麻や京一やらがいて…。――どう考えても阿鼻叫喚の地獄絵図しか思い浮かばない。この伝統ある日本家屋と骨董品の数々は、元気が溢れるほど有り余っている連中の前には脆いのだ。
不意に、朱日がこんな事を言った。
「――私、あなたが羨ましい」
「……ッ!?」
――羨ましい!? 羨ましいと言ったのか、彼女は!? その余りにも意外すぎる言葉は、如月に二の句を継げさせなかった。
「本当の自分を知っている人…本当の自分を見てくれる人…。または知ろうと、見ようとしてくれている人がいるなんて、とても羨ましいわ」
「……」
「――そんな事ないって言おうとしているでしょ? でも、私にはそう感じたの。雨紋君を織部さんたちも、今の三人も、皆凄くあなたの事を気に掛けているわ。――そういうのを【友達】って言うんじゃなくて?」
「……そんな事は…」
言いかけ、それが既に彼女の言葉にあったと思い返して口をつぐむ如月。――彼らが自分を気に掛けている。――当然だ。自分は、龍麻に次いで、皆を纏める義務がある。戦術を組み立てるキーマンの一人として重要だから――
「でも、確かにあなたの言う通りかも知れない。――ここに来た人たち、話し方に独特の癖があるものね。時々何かを誤魔化すみたいに言葉を選んで、肝心な事は何一つ聞かせまいとしてる。――私には、関係ない事なのね…」
「それは…!」
それは…その通りだ。この闘いが世間に知られれば、首都圏はパニックに見舞われる。自分たちも居場所をなくす。――龍麻は着々と人脈を広げ、仲間たちの身に危険が及ばぬように工作しているが、彼の危険な立場を正しく認識し、秘密を守るべく尽力する者はやはり少ないのだ。
「でも…解る気がするわ。皆、何か凄い迫力があるもの。あの女の子…マリィって言ったかしら? あの子ですら何か、私には及びも付かないような、信念みたいなものが感じられたもの」
「………それが解るのならば、ここを出て、今の出来事を忘れるべきだ。【好奇心は猫を殺す】という諺もある。いくら情報公開だとか報道の自由なんて言ったところで、その意味を理解できない、理解しようともしない人間には、伝えてはならぬ事がこの世にはいくらでもあるんだ。だから…その…だから…」
拙い言葉を駆使して、精一杯穏便な説得を試みる如月。――やはり気弱になっている。やはり、心が揺れ動いている。今日一日の間に訪れた【仲間】の言葉がやけに胸に響き、【中庸】たらんとする事が出来ない。
だが、冷たい拒絶には応じなかった朱日が、やや気弱な如月の言葉に表情を動かした。
「…そうね。変な詮索をして、ごめんなさい。――私、もう帰ります」
「あ、あァ…」
靴を履こうとする朱日に如月が曖昧な返事をした時である。店の入り口に、何か巨大な翼のようなものが翻った。
「――ッ!」
あれは…! コートに付いた水滴を払ったのだ。暑くはないが寒い訳でもないこの季節、コートを着て【こちら側】の店に姿を現わす者は一人しかいない。
そして、声が聞こえた。
「――いるか、如月」
これ以上の来客はもう御免だ――そう思っていた矢先、よりにもよって最悪の相手が来てしまった。真神学園三年生にして、【真神愚連隊(】の隊長、緋勇龍麻だ。
「た、橘さん! とりあえず奥へ!」
「――えッ!?」
これから帰ろうというところをいきなり引き止められ、しかもあの如月が焦っている事に目を丸くする朱日。しかし――それは既に如月の眼中になかった。
あの誤解コンボ男にこんな所を見られたらまずい! それは身の破滅を意味する。あの男は戦闘に関しては信頼度抜群なのだが、それ以外の部分では非常識極まるのだ。
「とにかく隠れて! 頼むから!」
「え、ええッ・・・! ――キャッ! ちょっと! ドコ触ってるの!」
「す、済まないッ! でも早く! ――っと!」
「きゃあ!」
常ならぬ体調で一刻も早く朱日を座敷の奥へと押しやろうとした為、如月が躓いた時である。店の戸がガラッと開いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
長い前髪が目元を隠しつつも、絡み合う三対の視線。グレーのコートを纏った死神でも訪問してきたかのように、如月も朱日もそのままの姿勢で固まってしまった。――かなりまずい状況。座敷に尻餅を付いた朱日と、転んだ弾みで彼女に覆いかぶさってしまった如月。――正に三流ドタバタラブコメディーの王道的一場面。
耳が痛くなるような沈黙が十秒ほど続いた後、緋勇龍麻が口を開いた。――雨紋が言っていたように、どこか不機嫌な声で。
「――時間は取れるか、如月?」
「あ、あァ。勿論だ」
如月、再起動。――なるべく龍麻の視線を遮るようにしながら、朱日に奥の部屋へと行ってもらう。
「そ、それで、今日はどんな用件だい?」
咳払いを一つして落ち着きを取り戻そうとするが、やはりどもりがちになる如月。しかしこの辺りはさすが緋勇龍麻。他の仲間達のように邪推や揶揄はしない。いきなり本題に入った。
「うむ。まずはこれを見ろ。――ここ三ヶ月の、世界の市場の動きをまとめたものだ」
龍麻が取り出したのは一枚のMOディスクであった。――如月も見覚えある、龍麻が投資に使っているデータの入ったMOディスクである。中身は経済新聞のスキャンデータと株価の値動きをグラフ化したデータだ。
「――!? 何かおかしな動きでもあるのかい?」
織部姉妹や醍醐たちと異なり、龍麻は鬼道衆関連の警告をしに来た訳ではないようだ。とりあえず座敷へと招き、ノートパソコンを開いて最新のファイルを展開する。そこには経済新聞の切抜きの他、龍麻が投資している会社の値動きがグラフとなって纏められている。それと一緒に、この数日で激しく変動している会社の名前が列挙され、更に世界レベルでの市場の動きが体系的に分類されていた。
「これは随分と手のかかる事を…。それに、なんだいこれは? 重工業関係株が軒並み四桁に届く上げ下げを繰り返しているなんて・・・」
「G○やロッ○ード、マク○ネル・ダグ○ス社の動きは特に激しい。だがこちらほど派手に動かずとも、似たような波形で変動している業種がある。運輸、エレクトロニクス、医療。商品相場では金、銀、白金(、銅、それに原油だ」
龍麻の挙げた業種を聞いて、如月は眉間にしわを寄せる。一間、何の関わりもなさそうな業種であるが、【経済】という巨大な生き物を観察する目を持つ如月には、龍麻の言いたい事が理解できたのだ。――口の中で小さく呪を唱えつつ、祭祀呪文を記した符を襖に貼って【人除け】の結界を施す。これで侵入者はおろか、防音対策も完璧だ。
「・・・湾岸戦争の頃に似た値動きだね」
「――その通りだ」
高校生にあるまじき事を言う如月に、即座に頷く龍麻。
「海外の投資家も困惑している。いまだ噂の域を出ないようだが、暴落原因の八割が意図不明の【空売り】によるものらしい。慌てた投資家達が【売り】に走って持ち株を手放すと、紙屑同然になった株を買い占める奴が出てきて、その後株価が爆発的に値上がりするようだ。――今年の春頃からこのような値動きの兆候が出始め、今月になって一気に十倍近い値段での取引が行われ始めたとの事だ」
「――株価操作だね」
端正な顔に嫌悪の表情を浮かべる如月。――最近はそうでもなくなったが、彼が無防備に表情豊かになるのは龍麻の前だけである。
「それも大規模な。――世界レベルでこんな事をやってのけるなんて、どこの誰の仕業だろう? やはり、アメリカかな?」
「俺も最初はそう考えた。しかし金の流れを見てみると、どうも違うようだ。各国の有力投資家の殆どが同比率の利潤と損失を出している。――投資家Aが損失を一出すと投資家Bが十の利益を上げ、そこから一の損失を出すと、投資家Aが十の利益を上げるようになるシステムが世界レベルでできあがっているようだ」
如月の顔が俄かに険しくなる。龍麻の説明が導き出した答を見付けたのだ。
「…ベトナム戦争の時と同じか」
ベトナム戦争…アメリカの、いや、世界の歴史に今なお暗い影を落とす、忌むべき戦争の一つ。
全世界の大多数の人々は、かの戦争をアメリカ対ベトナムという図式で見ているが、実は経済という観点から見た場合、これは大きな間違いである。ベトナムは言わばリングに過ぎず、ホー・チ・ミン率いる北ベトナム軍と、アメリカの後押しで発足したゴ・ジン・ジェム政権率いる南ベトナム軍の内戦に、西側と東側の勢力が介入した、地域限定の世界大戦であったのだ。そして、ベトナムという土地で起こった戦争の歴史を考えるならば、かの戦争の口火を切った最初の国はフランスなのである。
ナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏し、第二次世界大戦が事実上終結したのが一九四五年五月。同年八月には日本がポツダム宣言を受諾し、十月には国際連合が発足した。これにより第二次世界大戦は事実上の終わりを告げたと言って良い。だがその一方でベトナムでも一九四一年に結成されたベトナム独立同盟(ベトミン)が独立運動を起こし、一九四五年九月にホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言した。
フランスの介入は実に、世界大戦終結の翌年である。一九四六年七月にベトナム南部にコーチシナ共和国を樹立し、ベトナムの再植民地化を画策したのだ。当然ベトミン軍がこれを許す筈がなく、四八年から五四年にかけてインドシナ戦争が勃発するに至ったのである。フランスは最新の空挺部隊を投入するなどしたが、ベトミン軍の攻勢を凌げず、遂に五四年五月七日に降伏、翌八日にジュネーブ会議が開催され、北緯一七度線を境界としてベトナムは南北に分割されることになった。
フランスが手を引いた後、南ベトナムに手を付けたのはインドシナ戦争当時からフランスに援助を行っていたアメリカである。ゴ・ジン・ジェム政権は共産主義の台頭を恐れたアメリカのバックアップで発足したものだ。これは二年ほど続いたが、キリスト教徒であるゴ・ジン・ジェムはベトナム国民の多くが仏教徒であるにも関わらずこれを弾圧し、多くの寺院を破壊するという暴挙を行った。それに対して何人もの僧侶が抗議の焼身自殺を実行し、全世界の注目を浴びたのだが、これをジェムの弟ゴ・ジン・ニューの細君が【坊主のバーベキュー】と発言した事から国際世論が非難の指弾を浴びせ、遂にクーデターが勃発、既にアメリカに見限られていたゴ・ジン・ジェム政権は崩壊した。一説には、CIAがこれを誘導したとも伝えられる。
この当時、アメリカはあくまで援助国という立場を取っていたのだが、六四年に発生した、北ベトナム軍の魚雷艇がアメリカ巡洋艦を攻撃した【トンキン湾事件】をきっかけに本格的に軍事介入、【ピースアロー作戦】において初の空爆…北爆を敢行した。
【第二次インドシナ戦争】が史上類を見ない戦争になり、これを【ベトナム戦争】と呼ぶようになったのもこの頃からである。
前線の兵士たちは様々な交戦規則でがんじがらめにされ、違反した者には重罪〜最前線勤務の延長が課せられた。その交戦規制も、【地上に駐機しているミグ(北ベトナム軍の主力戦闘機)は攻撃してはならない】、【道路上のトラックは攻撃可、トラック製造工場の爆撃は不可】、【一七度線を越えての交戦は認めない】など、更には射程距離百キロを誇る最新鋭空対空ミサイル【スパロー】を抱えたアメリカ空・海軍戦闘機に対して、ミグの抱えたミサイルの最大射程七〇キロ圏外からの発砲を禁じるなど、およそ正気の沙汰とは思えないものばかりであった。
前線の兵士にしてみればとんでもない話である。そして正にそれこそがベトナム戦争の悪夢を生んだ根本原因であった。
当時のアメリカ大統領J・F・ケネディはベトナムへの援助縮小を唱えていたが、彼はテキサス州ダラスでかの有名な【疑惑の銃弾】に斃れ、後任のジョンソン大統領はベトナム戦争への本格介入を推奨した。その結果、アメリカ国内の軍需産業は多いに潤い、ドルは上昇、各国もこれを受けて次々にベトナムに介入、戦争の生む甘い蜜を吸ったのである。南ベトナム側にはアメリカ、韓国、タイ、オーストラリア、イギリス、フィリピン、ニュージーランドなどが付き、北ベトナム側には非公式にソ連と中国が付いた。更に南、北双方のベトナム軍内でも北ベトナム軍(NVA)と南ベトナム解放戦線(NFL〜いわゆるベトコン)、南ベトナム政府軍(ARVN)とアメリカ軍在ベトナム軍事援助司令部(MACV)、更に双方の指揮系統から微妙に外れた国際反共十字軍など、いくつもの勢力に分かれ、一歩裏に廻ると、北ベトナムすらもアメリカドルで動いていたのである。
要するに、それは【戦争】を【商売】にした者たちの作った茶番であったのだ。自ら不利になる意味不明な交戦規則を作ったのも、標的が存在しない爆撃ポイントを指定したのも、ベトナムから遠く地球を半周した先にある、ワシントンの文民政権であり、パリ会議に集結した各国代表達である。――戦争が生む甘い汁を少しでも長く吸い続ける為――戦争を長引かせる為にそうしたのだ。現場ではソ連や中国から強力な武器が持ち込まれているのを何度も確認し、それらをバックに強大な勢力となった北ベトナム軍が南下しているという情報さえ、ワシントンは無視したのである。それが世に言う【テト攻勢】、六八年の一大侵攻作戦を誘発し、南ベトナム全土で僅か一週間の間にアメリカ、南ベトナム軍人の死傷者約二万人、民間人の死傷者約三万八千人もの死傷者を出す事になったのである。
【テト攻勢】そのものは戦術的には失敗であった。現地に投入されているアメリカの総兵力を考えれば被害は甚大とは言い難く(政治家の言う事だ)、一大兵力を投入した北ベトナム軍は、その後の反撃で約四万もの兵を失ったのだ。しかし一時的にせよサイゴンを陥落させ、アメリカ領事館を占拠した事はメディアを通じて全世界に報道され、国際世論を動かした事から、戦略的には成功を納めたと言える。――アメリカ本国で一気に反戦運動が高まったのも、この【テト攻勢】が切っ掛けであった。
その後の顛末は酷いものであった。ベトナム戦争の真の意味、あるいはなぜ戦争が起こったのかを知ろうともしない者たちは、単なる人道上、宗教上の理由に加え、軍需産業以外のアメリカ経済がインフレを起こしたなどの理由を上げて政府を批判した。更には出所不明、真偽不明の八千ページにも及ぶ【戦争犯罪】が記録された【CIAの機密文書】なるものが某大手新聞社にて連日公開され、それを鵜呑みにした【善意の市民】が国の内外で声高に反戦を唱えるに至り、ジョンソン大統領を窮地に追い込んだ。特に反戦運動の主力となったのが、皮肉と言うにも足りない、戦争の現場を知らない子供達…メディアの独善と偏見に満ちた限定的な情報に躍らされた学生や、麻薬の常用で徴兵を免れた【自称】真の自由人…ヒッピーであった。そして彼らは…戦争の根本原因など知らぬままに安っぽい反戦ソングに酔い、風潮に乗っただけの的外れな反戦映画に涙し、自分達でも接触できる、何も知らずに無理矢理駆り出されていった一般兵士たちを【赤ん坊殺し(】と罵り、蔑み、迫害した。政治信条もポリシーもない金儲けの為に行われている戦争による精神外傷を、母国人によって抉られた兵士達は更に心の傷を深くし、ある者は世捨て人となり、ある者は狂気の犯罪に走った。彼らベトナム帰還兵にとって平和すぎる母国は針の筵であり、死と隣り合わせの地獄が安息の地と成り果ててしまったのだ。そして、事の是非、理由の如何に関わらず【戦争】を悪と断じ、【軍隊】を忌避する風潮が生まれ、マスコミは自らに大衆をコントロールする力があるなどと曲解し、これは現代まで続いている。
そんな、ある意味最悪の時代に、現在の経済の動きが似ているというのである。龍麻も如月もあくまで個人投資家レベルでしかないが、この株価の動きは近い将来に極めて暗い翳を落としている事が容易に推察できた。
「湾岸戦争の時にも似たような動きはあったが、あの当時は世界的な不況に陥っていた為に限定的なものであった。しかし現在とて状況が改善されたとも思えぬのに、一部有力投資家…仕手屋が思い切った動きを見せ、確実に利益を上げている。――仕手屋同士がグルにでもなっていない限り有り得ん。そして――これだ」
龍麻はもう一枚のMOディスクを取り出した。
「…これは?」
画面に現れたのは、どこかの鉱山の鉱物資源採掘表である。鉱山のある場所は…アフリカ、ダナビア王国だ。産出しているのはダイヤと白金(である。ただし、独立してまだ十年ほどにしかならぬ為、資源産出国としての地位は低い。
「…先日ダナビアで殺された、ある企業の海外特派員が持っていたディスクだ。厳密には、企業用の秘匿回線を通じて日本在住の投資家仲間に送られたデータだ」
「うん? ダナビアと言えば、先日革命が起こって、新政権に変わったばかりの国じゃないかい?」
「その通りだ。――しかしこれには裏があって、革命と同時に大統領を救出するプランが立っていた」
「…どういう事だい?」
「全ては、ダナビアの鉱物資源を狙った、一企業による自作自演という事だ。ダナビアは独立して十年ほどになるが、隣国に対する防衛費に予算を取られ、国民の生活水準を上げられないでいる。唯一の生命線がダイヤと白金なのだが、手掘りの為に効率も悪く産出量も微々たるものだ。大型機械を導入して大量に産出すれば充分採算は合うのだが、アメリカもヨーロッパも機械だけを売るつもりはなく、仮に導入が叶ったとしても、それを使いこなす技術者がいない。――そこに食い込んだのが、某日本企業だ」
原料資源を輸入に頼る日本にとって、特にエレクトロニクス部門に置いて生命線になるのが白金を始めとするレアメタルだ。アメリカとヨーロッパが手を出しかねている原料原産国など、日本にとっては垂涎の的であったに違いない。
「ダナビアのダイヤ、白金共にかなりの埋蔵量が望め、技術提供料だけでも相当の利益が見込める。ところが鉱脈のありかは大統領しか知らず、大規模な調査は行われていない。しかも手掘りとは言え、これまで採掘した白金もかなりの量に昇る。しかしこれに関しても、大統領は大量輸送を承諾しなかった。――賢明だな。裕福な暮らしを先送りしてでも国の独立と権益を守るという、大統領の方針だ」
「ははあ…なるほど」
如月は少し眉を顰め、納得の表情を作った。
「企業側としてはダナビアの未来などどうでも良い。欲しいのはダイヤと白金だけ。そこでダナビアに傭兵団を送り込んで革命を起こさせ、自分の息がかかった人間を後釜に据え、新政権から資源の採掘、運輸関連の権利を得る訳だね。同時に、大統領には命を救ってやったという恩を売って白金を放出させ、同時に鉱脈の在処も聞き出す…と。――酷い話だ。ダナビアは独立しているというだけで、資源も貯金も企業に絞り尽くされる訳だ。――君の不機嫌の理由が解ったよ。一部の者が利益を上げる為に、戦争まで起こそうと言うのだからね。でも、こういう事は裏で結構行われている。けしからん事ではあるけど、君がそこまで不機嫌になるとはね」
「――本題はここからなのだ、如月」
「――ッ!?」
不意に、戦闘時のような鋭さを見せた龍麻に、如月は目を丸くした。
龍麻は白金の市場価格を見ろと如月に促した。
「白金の相場は現在かなりの高値を付けている。先月――アラスカで核の誤爆があった時に買い注文が殺到した為だ」
「ああ…確かアメリカ海軍の巡洋艦がコンピュータ・ウイルスにやられてトマホークを三発も発射したという事件だったな。その影響でアラスカとシベリアの鉱山が操業停止に追い込まれたと聞いた。そのおかげでエレクトロニクス関連株も軒並み下がって、君も影響を受けたんだったね」
「うむ。事前に空買いをかけた連中がいた事から自演も疑えるが、手段があまりに荒っぽい。――ところがその後の調査で、アラスカで核爆発が発生した事は紛れもない事実であるのに、なぜか残留放射能が一切検出されなかったとの事だ。鉱山への影響はごく軽いもので、年内に操業を再開できるそうだ」
「なんだって!?」
核爆発が起きたのに、残留放射能がない!? 現在の技術では、軍の最高機密も含めて不可能な話だ。たった一つ、核分裂反応を誘発しつつ放射能を出さない化学反応に核融合があるが、これはまだ実験段階にすら至っていない。――ある時、試験管内での核融合に成功したという怪情報が流れたが、それが特許権を先取りしようとする者がでっち上げたホラ話である事は誰もが知っている。
「確かな筋からの情報だ。市場としては明るいニュースで、白金の相場に下げの兆候が見られるようになった。同時に、核爆発の影響で溶けた永久凍土の下から新たな白金の鉱脈が見つかり、アメリカが真っ先に飛び付いた。災い転じて――という訳ではないが」
「う…うむ…」
「当然利権はアメリカの物となったが、凍土における採掘技術は現在のところ日本が勝る。そこで名乗りを挙げたのがダナビアを傀儡にしようとした企業だ。――その企業はアラスカの開発に重点を移し、ダナビアにおける計画を変更した。――当初の計画では革命軍の編成や調査団の投入で金も時間もかかるが、同じ金を掛けるならアラスカという事で、単純にダナビア大統領を暗殺して傀儡政権を打ち立てる事にしたのだ」
「…そっちの方が酷い話だな。――大方、救出チームに大統領を殺させ、その傭兵たちを憎むべき敵として捕らえ、処刑した者が英雄となり、国民の総意で大統領の座を引き継ぐ――それが叶えば傭兵への報酬も、亡命大統領への援助金も皆浮く訳か。そして大統領の死によって白金の放出がストップすれば価格上昇は必至、大統領だけが知っている鉱脈は傀儡政権下でゆっくり探し、利権は総取り。後はいつでも仕手戦を展開できる…。そんな所か」
「その通りだ。白金放出時の空売りと比べれば利率は落ちるが、大統領を抹殺し、傀儡政権に白金の放出中止を宣言させて再び価格暴騰を煽れば、空買いで充分な利益を得られると共にアメリカにも恩が売れ、将来的に有望な鉱山とのパイプも出来る。その後で白金を放出すれば、当初の計画の倍近い利益を得られるだろう。――だが救出チームの面々はこのからくりを見抜き、大統領一家を連れて国外脱出を敢行した。当然、大統領は掘り出し済みの白金を予定通り放出して資金調達を行うだろう。そうなれば企業の自作自演が明らかになり、国際世論が黙っていない。白金の市場も元に戻り、アラスカの開発がもたらす利益も減少する。――そこで企業は、大統領を確実に抹殺するべく、当初の計画通りに革命軍に扮する筈だった兵士を動かした」
そこで龍麻は一旦言葉を切った。――そこが真に重要な所だと悟り、如月も黙って彼の言葉を待つ。
「この兵士たちは当然、政府軍よりも強力な軍として編成されていた。しかし特筆すべきは、そいつらは顔も肉体も全て同一の、食事や睡眠すら必要としない兵士だったのだ」
「――なんだって!?」
思わず身を乗り出し、湯飲みを倒してしまう如月。――その事実はそれほど衝撃的だったのだ。
顔も肉体も統一された兵士――つい先日、自分たちはその様な連中と戦っている。クローニングによって作り出された兵士。外見は人間でありながら、代謝機能は植物のそれに近く、食事や排泄、睡眠を必要としない。そしてそいつらを創ったのは、自分たちの不倶戴天の敵。その名は――【鬼道衆】。
「するとその企業は…鬼道衆と繋がっている…?」
「――恐らく。いや、間違いない」
ようやく、如月は龍麻が不機嫌である真の理由が理解できた。
鬼道衆は確かに【東京の壊滅】を掲げているが、現代の日本でその様なテロを行うのは無意味である。ならば何が目的か? ――【真神愚連隊】に協力しているジャーナリストの天野は、鬼道衆の目的を【菩薩眼】の覚醒ではないかと推察しているが、この【菩薩眼】に付いて、龍麻たちは今のところ情報を持っていない。鬼道衆の頭目の正体も不明だ。
このように、未だに敵の正体が不明の状態で、敵勢力の巨大さだけをまざまざと見せられたのである。――龍麻が不機嫌になるのも当然だ。
「一体、どこの企業なんだい?」
如月の口調にも怒りが現れる。鬼道衆に組しているというならば、【普通】の企業でも如月にとって【敵】だ。
「企業も傀儡だ。その背後にいるのは【シグマ】と呼称される一種の経済共同体であり、その一角を為しているのは葦下兄弟だ」
「――ッッ!!」
よりにもよって、ここでその名を聞こうとは!? 如月はこめかみに手を当てた。
葦下兄弟…。およそ金融業界に一度でも関わった者ならば、否、およそ商売と呼べるもの全般において、世にも珍しい五つ子の財界人の名を知らぬでは済まされない。証券、金融、流通業界に深い根を下ろし、市場を巧みにコントロールする事により、常に莫大な利益を上げ続ける脅威の財界人。そして、このテの人間にはありがちな性癖であるが、およそ利益になることであれば赤ん坊の歯を抜くような非道も平然と行い、出すものは舌どころか吐く息さえ惜しいという金の亡者である。特に一九九五年に発生し、死者約六千三百名以上、負傷者約四万名以上にも昇る犠牲者を出した阪神淡路大震災の時には、即座に必要となる生活支援物資を流通経路ごと押さえ、これを被災者に高値で売り付ける事により莫大な利益を上げた。一説では、地震の被害を利益に結び付ける試算を行う為、地震発生後直ちに駆け付けた各国の救援部隊の現地入りに待ったをかけたのも、実はこの葦下兄弟の仕業だと言われている。その癖、とあるジャーナリストに「被災者の為に募金はしないのか?」と質問されると、兄弟揃って独特のオカマ口調で、「何でそんな事する必要があるザンスか?」と平然と切り返し、被災地におけるソーセージ一本五千円、靴下一足二千円という暴利を非難されると、「嫌なら食わなきゃいいんでヤンスよ。貧乏人は猫缶でも食べてりゃ良いザンス」と言い切ったのである。
最近では、彼らと同等の権力を握っていた証券業界のガン、室田克典が伊豆の修善寺で割腹自殺を遂げた為、彼の縄張りを接収し、より巨大な権力を振るうようになったとも聞く。それが自殺に見せかけた【粛清】である事は政界財界人には明白であり、どれほど気に入らなくとも、他の業界人も彼らに付いていくしかない有り様である。
しかし、それほどの巨悪でありながら、その存在も現代日本では【良くある事】の認識範囲内でしかない。いわゆる、【解っていても手を出せない犯罪者】の一人…いや、五つ子なのだ。ならば…刃向かうよりはむしろその味方に付いてしまった方が…と考える日和見主義者が、更にその権力を拡大させてしまっている。
そして如月も、彼らが行った違法な株価操作により、何度も煮え湯を飲まされている。彼の投資スタイルは実に堅実なものなので元金割れだけは免れていたが、一度仕手株の罠に嵌まり、元金と持ち株、回転させていた資金を丸ごと奪われる所であった。その時の数字上の損失は二百万円だが、実質二千万近い損失を出す所だったのである。幸い、罠を見抜いた龍麻の助言で危うく難を逃れ、元金の保守に成功したばかりか、別株への買い直しで実質三百万の利益を上げる事が出来た。――が、その龍麻への借りを返す為にとんでもない目(第九話閑話・ヒーローが一杯!? 参照)に遭ったのである。――逆恨みと言われようがなんだろうが、葦下兄弟はこのように、真面目な投資家全ての敵なのである。
「鬼道衆の活動資金がどこから出ているか――これは長らく疑問に思っていた事だ」
龍麻の言葉が、嫌な記憶に埋没しかけていた如月を現実に引き戻す。更に龍麻は、MOに添付されているファイルを見るように言った。
「そこにあるのは警視庁から手に入れた、先のローゼンクロイツ学院における調査報告書だ。――警視庁内部にも鬼道衆の手が伸びているらしく、証拠の大部分が握り潰されたようだが、その証拠物件乙四から乙六を見ろ」
「…保存卵子が一万個…生理食塩水のプールに紫外線灯が百基…それに少年のものと思われる脳殻多数…か」
「ドクター・スカル…ジルは鬼道衆の忍者を製作すると同時に、海外にも兵士を輸出していたという訳だ。どれほどの数が流出したか不明だが、研究所の規模から推して少数ではないだろうが大人数でもないと思われる。更に雷角はそれらを【二級品】と呼んでいた。戦闘力も従来の鬼道衆忍軍とそれほど変わらぬだろう。――悪党同士の繋がりなど、その程度のものだ」
龍麻の口調はごく軽いが、その中には僅かな安堵がある。――ローゼンクロイツ学院内で対決した【前】ナンバー9が大量に生産され、更に【力】を持たされた上で戦線に投入されたとしたら、世界の軍事バランスは完全に崩壊する。いや、もっと酷い事になり兼ねない。――組織もしくはグループ内で頭角を現そうとするジルのスタンド・プレーが、逆に最悪の事態を回避させたのだ。
「大量生産できる兵士の輸出こそが、鬼道衆の資金源だ。最低でも、葦下兄弟から資金が出ている事は間違いない。つまり鬼道衆もまた、政界財界にかなりの影響力を持っていると考えられる。――無尽蔵に生産できる兵士がいれば、一企業が国一つ支配する事も容易い。国としてその兵士を採用すれば、大規模な戦争を起こす事すら可能だろう。もっともダナビアとアラスカの件を考え合わせると、この葦下兄弟とて世界レベルで機能している利益収集システムの一部であり、その兵士生産ノウハウを各国の代表が放っておく訳がない。鬼道衆を相手にするという事は、全世界が敵に廻るという事かも知れん」
「………!」
龍麻は常に最悪の事態を想定して動くが、さすがの如月もこの大胆にして、恐らく当たっているであろう推察に青くなった。
鬼道衆が単なるテロリスト集団であるというならば、まだ自分の手に届く範囲である。既に幹部であった五人衆は殲滅し、残るは頭目のみである。だが、鬼道衆の価値がその様な形で世界に認められているのであれば、自分たちはとてつもない敵を相手にする事になる。それは国家という枠組みさえ越えた、全地球レベルの経済集団だ。それに鬼道衆が提供する無尽蔵の兵力が加わったならば、果たしてどこの誰が対抗できようか? ――できる訳がない。
「だが――ならばこそ手の打ちようがあるのだ」
「え…?」
「先ほども言ったが、ダナビアの一件では大統領が死んだものとして処理されているものの、実際には救出作戦に当たった傭兵共々、国外脱出に成功している。そして大統領は国際法廷…IFAFにこの一件を提訴し、白金を放出する事で再起する資金を得るだろう。当然、そうされては困る葦下兄弟は大統領に対して暗殺者を差し向けた。――大統領の首に二百万ドルの賞金を懸けたのだ」
「…随分と思いきった手に出たね。数字が大きいだけにかえって嘘臭いけど」
大きく龍麻は肯く。
「大統領の死亡を確認した後、暗殺者も始末するつもりだ。――だが、世の中うまくしたものでな。大統領の一家が逃亡先に選んだのはこの日本なのだ。より正確には、大統領一家を護衛していた傭兵が日本人でな。――お前も知っている超一流のボディーガードだ」
「【音速の護り手(】…!」
「更に、彼が日本で仕事を続けるに際して頼りとしたのが【一匹狼(】だ。――この二人に組まれては、一流どころの殺し屋でも迂闊に手は出せん」
今度は如月が肯く番であった。――【裏】如月骨董店に出入りする中でもトップクラスの人間たちだ。少しでも裏世界の空気を吸っている人間ならば、これは手出し無用と諦めるだろう。
「だが、相手が鬼道衆とその背後にいる経済集団となると、大統領の復帰だけで根本解決は望めない。そこで今夜、俺が大統領を始末する」
「――ッッ!?」
いきなりの爆弾発言に、如月はまたもや湯飲みを倒しそうになった。
「――そう驚くな。勿論、ペテンに掛けるだけだ。今夜中に俺が【九頭竜】の暗殺者として大統領一家を殺害、ボディーガードと相討ちになる。――これが完璧に実行されれば、葦下兄弟は必ず限界まで白金を買い漁り、大統領の死亡情報が知れ渡る前に東京市場を煽るだろう。当然、背後で暗躍している【シグマ】、うまくすれば更に上位の連中も彼らの動きを察知して乗り出して来る。このタイミングで、葦下兄弟以下、鬼道衆の資金源となっている関連企業を叩き潰す」
「……ッッ!」
龍麻の人となりは知っているつもりだったが、ここまで大胆不敵な作戦に如月は改めて驚き、呆れた。そしてほんの爪の先だけ、龍麻がマシンソルジャーである事に感謝したくなった。――この冷徹無比な思考と先見性、大胆不敵な行動力を誤った方向に使った場合、龍麻は歴史に残る大犯罪者にもなれるだろう。個人的な欲と無縁なのは、本当に有り難い事だ。
「し、しかし、そう簡単に行くかな? 相討ちになると言っても相手が相手だし、それを確認するのは葦下兄弟の息がかかった人間じゃないのかい?」
「それも考慮してある。【九頭竜】から二代目【毒揚羽】を助っ人に雇い、とある警視庁キャリアに現場検証の捏造を依頼した。――さすが【彼女】だ。趣旨を説明したら快く引き受けてくれてな。工作資金も五〇〇万ドル出してくれた。他にも【一匹狼(】や【音速の護り手(】、元外務省官僚や中小企業の社長、専務クラスなどが白金の相場を張る資金源として名乗りを挙げた。彼らに対する報酬となる相互技術提携扶助基金も設立準備が整っている」
「ッッ!」
坐っていなければ盛大にコケたであろう如月。――大犯罪者? その評価は甘すぎた。その人脈をも駆使すれば、国の一つや二つ取りかねない。
「いずれにせよ、今夜が前哨戦だ。大統領は今夜、新宿の京王プラザホテルに身分を隠して入室する。無論、敵の監視付きだ。――急ぎ、必要な装備を揃えて貰いたい。ステルス・モーター・グライダーを二機、四連装対戦車ロケット・ランチャー、スモーク弾五発。それに【草人形(】を人数分…十個。【麻沸散】を一ダース。【白蓮花】、【風火輪】、【混元傘】、【幌金縄】だ。――在庫はあるか?」
「問題ない。だが…重装備だね。――本気で闘り合うのかい?」
「畑違いではあるが、向こうも目利きだ。本気でやらねばペテンに掛けられん」
「君と【毒揚羽】が組み、相手は【一匹狼】と【音速の護り手】…。申し合わせがあっても命懸けになるな。――いや、元々経済的な打撃は核をも凌ぐ。それも当然か」
すぐに用意する、と言って、如月は立ち上がった。――並の骨董品とは異なる品なので、それらの道具類は倉の中なのだ。近代兵器に関しては【裏】扱いである。
だが、【人除け】の結界を外した所で、ずっと隣室に押し込めていた朱日が、茶を持って顔を出した。
「あ、あの…お茶をどうぞ…」
「うむ」
とんでもない場面を見られてしまい、顔を真っ赤にしている朱日であったが、龍麻の表情はまったく動かない。黙って茶を受け取り、口に運ぶ。
「…美味い」
ポツリ、と呟き、龍麻は顔を上げた。そして――
「――失礼だが、貴殿は如月の奥方か?」
――ガタ――ンッ!!
廊下の奥で如月が派手にコケる音が聞こえたが、朱日は生真面目な顔で今までにないボケをかます龍麻の前で石になってしまった。
「――如月、足元には気を付けろ」
「――誰のせいだッ!?」
忍者にあるまじき失態。床にぶつけてしまった鼻を押さえ、如月は涙目で抗議する。それで、朱日も辛うじて石化が解けた。
「わ、私、如月君と同じクラスの――橘朱日と言いますッ。そのっ…ただの同級生ですッ」
「如月の同級生か。――自分は緋勇龍麻。新宿・真神学園の三年だ」
わざわざ立ち上がり、きりっと敬礼する龍麻に、またも呆然とする朱日。緋勇龍麻――先程からの来客がしばしば口にしていた名の持ち主が目の前の男だと解っても、その人となりがまるで理解できない。――前髪が目元を覆い隠していて素顔は窺い知れないし、室内だというのにコートを脱がないし、ちゃぶ台の上に置かれたノートパソコンには株式情報が映っているし、広げられている書類は全部英語だし、そして何より、他の来客たちとは一線を隔すボケ(笑)。とどめは、付け焼き刃とは思えない敬礼。――訳が解らない。そして…
「それで、式はいつ挙げるのだ?」
「は?」
冗談を言っているとは思えない、生真面目な顔。如月は猛然と否定した。
「龍麻君! 彼女とはその様な関係ではない!」
「違うのか?」
「違う! そもそも君は、どこからそういう発想が出るんだッ!?」
そこでふと思い出した。京一や醍醐が言っていた、龍麻の性癖を。プロファイリングや、その他推理を働かせた後、龍麻が必ずボケる事を。――どういう精神構造なのか理解に苦しむが、彼はそうやって精神的な安定を保っているらしいのだ。
「茶の煎れ方が上手い。――同じ茶葉とは言え、お前に迫る」
「そんな事くらいで…!」
「――違うのか? 急須を事前に温め、茶葉を湯に馴染ませるのがコツだとお前から聞いたが、この茶もそれを正しく実行している。お前の薫陶を受けたものかと思ったのだが」
「……」
確かに以前、チラッとそんな話をした事があったが、よくもそんな事まで覚えているものだ…と呆れかけ、ふと如月は沈黙する。この男の事情をある程度知っているからだ。
この男の雑学の豊富さは、興味を向けて取り込んだ情報を決して忘れない事から来ている。忘れない――忘れられないようになっているからだ。彼の脳内シナプスは常人のそれと著しく異なり、世界最速のコンピュータも及ばない速度で情報を処理、取捨選択し、必要な回答を導き出す。そして情報端末…神経細胞は体中いたる所で小脳化し、センサー…常人の二十倍の痛点を持つ強化末端神経とダイレクトに接続している事で、脊髄反射以上の速度で最適な筋肉の機動を促す。
この戦闘体質をいわゆるスポーツに応用した場合、それが個人競技であれば彼はどんなスポーツでもこなせる。仮にゴルフなどをやらせた場合、気象条件、芝の状態、自分の筋力とゴルフクラブの選択など、必要な情報を瞬時に計算し、最良のショットをこなすだろう。
その代わり、彼には心がこもらない。例えば日本舞踊をやらせると、動きは完璧にこなせる。間の取り方も、優雅さもある。だが――そこに心がないのだ。あるものはデータの羅列と計算結果であり、【美しい】とされる動きを完璧にトレースした人形がいるのと変わらないのだ。
だからこそ、今の彼は興味を持ったものをとことん追求しようとする。雑学はその過程で得た副産物だ。事もあろうに彼が興味を持続させているのは落語とオタク文化であったが、そのおかげで彼は確実に人間味を増している。――それは喜ぶべき事なのだ。
だが、こんな場合は別だ。
「――その様な気配りが出来る女性こそ、嫁に相応しいと聞く」
「――なぜそこに戻る!」
「いかんのか? 法律では、親の同意があれば婚姻も許されている」
「だから違うと言っている!」
常になくムキになっている如月は、朱日が呆然と自分を見ているのを見て、深呼吸で自分を落ち着かせた。
「彼女は僕の学校の同級生だ。今日は学校関係の用事でここを訪ねてきた。――君たちの学園でも文化祭はあるだろう? そのプリントを届けてくれたんだ」
「――文化祭とはなんだ? コミケのようなものか?」
「む…むう…。まあ…似たようなものと言って良いだろう」
「そうか。――お前は何か出店するのか?」
妙な雲行きになってきたな、と如月は警戒する。
「いや。――僕には関係のない話だ」
「関係なくはなかろう。お前が所属する学園のイベントだ」
「僕は――そういうものに関わっている暇はない」
きっぱりと否定する如月。――そうだ。自分には、龍麻のような器用さはない。自己を鍛え上げつつ、人間性を追求できるほど、自分の器は大きくない。
「…俺は、お前の事情には関知しない。だが――あれは良いものだ」
「……」
「【水清ければ、如月あり】。だが、【水清ければ、魚住まず】とも言うぞ」
龍麻は残りの茶を干し、するりと立ち上がった。
「――帰るのかい?」
「うむ。今夜の準備を整え、後ほど道具類を受け取りに来る。それから――明日はお前の手を借りたい」
「――直接対決を挑むつもりかい?」
「そうだ。奴らもネット上での取引は避ける筈だからな。知り合いの社長や専務に応援を頼んであるが、やはり相棒がいた方が心強い」
「――心得た」
【普通】の戦闘とは異なる【戦場】。確かにそこで龍麻と肩を並べられるのは、自分しかいない。
しかし、朱日が声を上げた。
「明日って…ちょっと、如月君。明日は学校もあるのよ?」
「僕は休む。――いつもの事だ。気にしないでくれ」
「困るわ。私、これでもクラス委員なのよ? そんないい加減な事、幾らなんでも通せないわ」
「僕には関係ない」
「如月君!」
朱日が如月に食って掛かろうとするのを、龍麻は手を差し出して止めた。
「――橘殿。自分らは遊びに行く訳ではない。そして、貴殿の了承も必要としない」
「そんな…勝手だわ! 校則をなんだと思っているんですッ!?」
「…三百五十万の人命を引き換えに出来る校則が存在するか?」
いきなりきた爆弾発言に、朱日は面食らう。しかし先程のボケ発言と違い、如月の顔も真剣だ。ただし如月のそれは、龍麻がそれを口にした事に対する非難が込められていた。
龍麻は構わず続ける。
「この国では、平和も安全もただで手に入ると思っているようだが、それは大きな間違いだ。この国の安全を守る為に、今日も世界のどこかで戦っている者たちがいる。だが、多くの人間はその事実を知らず、知ろうとせず、知っても何もしない。貴殿はそれを知らない側の人間であり、自分らはそれを知っている側の人間だ。そして――知っているが故に、目を背ける事は許されない。――助ける能力を持ちながら、遅刻を恐れて目の前で溺れている人間を見捨てるか? ――そういう事だ」
「…!」
一介の高校生が口にするものとは思えぬ、余りにも現実離れした言葉。――龍麻以外の者が口にすれば、極端な誇大妄想とも取れる言葉だ。だが彼の言葉には真実の響きがある。どれほど否定しようとも、動かしがたい重さがある。朱日はただ、圧倒された。
「――明朝〇七〇〇時に迎えを廻す。それまで準備には怠りなく。良いな?」
「勿論だ」
如月の返答に肯き、龍麻は店先に降りた。――彼は明日の戦いの前に、今夜、命懸けの闘いがある。それなのに、その背には気負いも何もなかった。ただ――自然体。
(【中庸】たれ――か。君は既にその境地に達しているな)
自然体でありながら、信頼感溢れる背中。この男といれば、どんな困難も乗り越えられると信じられる。そんな彼だから――付いて行く気になったのだ。この自分が。
「では、気を付けて」
如月の声を背に受けつつ龍麻は戸を抜けようとして、ふと振り返った。
「うむ。――ところで如月、一つ良いか?」
「ああ、なんだい?」
彼は極めて優秀な指揮官だ。常に仲間の身を気遣い、危険を減らすべく最大限の努力を惜しまない。そして忠告も、それをうるさいと感じさせる事はない。
「この時期、我々も非常に微妙な立場に立たされている。目立つ行動は厳禁だ。当然、解っているな?」
「うむ」
「お前の事だから万が一という事はあるまいが、この世界、予測を越える事態が発生する事は珍しくない。【備えあれば憂いなし】という諺は真実だ」
「解っているよ、龍麻君。――君の良い所だ。改めて気を引き締めておくよ」
「うむ。一刻も早く、このような状態を脱したいものだ。この緊張状態は精神衛生上良くない。しかし勝利を得た暁には、それを盛大に祝う事も出来よう。それまでは、どれほど苦しくとも耐えるべきだ。それに解放の時も、さほど遠い未来の事ではない」
「…珍しいね。君が未来の展望を述べるとは。――大丈夫。僕は苦しいと感じた事は一度もないよ。自分で選んだ道だ」
「――ならば、俺が忠告する事は何もないな。俺が気に掛けるまでもなかったか」
「ふふ。君の場合は、それを口にするだけでも凄い効果がある。無駄な事は何一つないよ」
「うむ。やはりお前は良い男だ。頼りになる。――これからも宜しく頼むぞ」
「なんだい改まって? 何かくすぐったいな」
「余計な気を廻したものだと反省しているのだ。お前が己を見失う事はない。だが皆を含め、お前の良き未来の為にも、俺は最大限の努力を惜しまない」
「――? 僕の!? ――何の話だ?」
「……スキンの準備は、男の責任だ」
「は?」
「たとえどんな時代、どんな状況でも、男であれば性欲を持て余す。――仮にミスを犯しても案ずるな。お前ならば良き父親になれる」
「――ッッ!!」
――ズドドドドドドドッ!!
次の瞬間、ピシャリと閉められた引き戸に十数本の手裏剣が音を立てて突き刺さった。
「はーッ! はーッ!! ハァーッッ!!」
あの男は〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!
一瞬で十数本の手裏剣を投げ付け、しかし標的を逃してしまい、肩で息をする如月。――あの男はちょっと油断するととんでもない事を口走る。いつもと同じ無表情で、まったく同じ口調で話すものだから、つい真剣になって聞いてしまったではないか! しかもあの男の場合は【本気】だけに余計始末が悪い。――実際龍麻は如月の怒りを照れ隠しと認識し、店の外でなにやら首肯しつつ「出産祝(!)は何にするべきか?」などと一人ぶっ飛び思案していたのであった。
「お、面白い人ね…!」
顔を真っ赤にしながら、朱日。そりゃあ、あんな場面を見られた上で、あんな事を真顔で淡々と語られたら、きちんと教育を受けてきた真面目な女子高生としては赤面するしかないだろう。
「――面白いんじゃない! 非常識なだけだ!」
思わず大声を上げてしまう如月。今日一日だけで朱日は、如月に抱いていたイメージが根底から覆るのを感じた。学校では【氷の男(】とまで言われている鉄面皮なのに、【仲間】と呼称できる者たちの前ではこれほどまでに人間的だ。――自分とは…違う…。
「それで…やっぱり明日も学校休むの? その、何か秘密の事で?」
この時、激劫していた如月は彼女に対しても大声を上げてしまっていた。
「ああ、その通りだ! 僕は君たちとは違う! 普通に生きて、勉強して、遊んで、自堕落に、無為に過ごす日々は無縁なんだ! ――もう、僕には関わらないでくれ!」
如月の怒声よりも、そこに込められた激情に朱日はビクッと震え、顔を伏せた。
「そう…。――ごめんなさいッ!」
パッと身を翻し、朱日は今度こそ座敷を――店を出て行った。
その目元に光るものを捉えていた如月ははっとして足を踏み出しかけ――踏みとどまった。
(追いかけて――どうしようというんだ。これで、良かったんだ…)
再び、キリキリと痛む胸。――傷の痛みだと思い込もうとしたが、旨く行かない。今日は――色々な事があり過ぎた。普段の自分には考えられない事ばかりがあり過ぎて、混乱もしている。だが傷さえ癒えれば――
(僕は――卑怯者だな。橘さんの言った通りだ…)
傷が癒えても無意味だ。痛みの原因は、実は判っている。――今まで、散々感じてきたものだから。
普通の子供達とは違う生き方をしてきたからこそ、如月はいつも孤立していた。遊び方も知らないし、会話の中に出てくる漫画のタイトル一つ知らなかったからだ。苛めの対象にならなかったのは、如月が強すぎた為である。机に落書きされても、教科書を隠されても、必ず犯人を見つけ出し、なぜそんな事をしたのか詰め寄った。逆上した犯人が襲い掛かってきても、軽くあしらった。番長を気取っている者、他人や大人を利用する者には手加減を少々控えて強く警告した。そして如月は…一人の友達も作らなかった。――作れなかったのだ。
そんな時、如月はいつもこの痛みを感じていたのだ。肉体が傷付いているのではなく、心が傷付いていたのだ。その度に如月は祖父の教えを護り、心を沈め、感情を押し殺してきた。【無】へと辿り着くべく、【中庸】を維持すべく、心の鍛錬をも行ってきた。
――それがどうだ? 一人でいる現実を思い知らされただけで、この有様だ。
外は、まだ雨が続いている。それも、酷い土砂降りだ。自然の優しさよりも、厳しさを感じる雨。人の想いや思惑など、叩きのめしてしまいそうな、雨。
(…橘さんは、大丈夫だろうか…?)
ふと、そんな考えが過ぎる。
(馬鹿な…。橘さんだって子供じゃないんだ。これほどの降りなら真っ直ぐ家に帰るだろう)
しかし、一度芽生えた不安は一向に消え去ろうとしない。
(そう言えば今朝も…何かを言い出そうとしていたな。それで…公園で時間を潰していたとか…。店を手伝う代わりに何かを頼みたいとも…)
不安感が、今は嫌な予感にまで高まっている。雨が、水が、何かの悪意を伝えてきているかのようだ。
「……」
遂に如月は店先に下げてあったフード付きのケープをまとい、雨の支配する夕刻の街へと飛び出した。
雨が、水が伝えてくる。自然の息吹が、教えてくれる。――何かの悪意が急速に高まっていると。どこかで何かが、起ころうとしている。――急げ。――走れ。
(それ程遠くへ行ってはいないと思うが…馬鹿だな、僕は。そもそも僕は、彼女の家がどこにあるかさえ知らないのに…!)
だが、水は叫んでいる。――走れ。――止まるな。――駆けろ、と。
(闇雲に駆けたところで事態が良くなるものでもないが――)
今までの彼女の言動を素早く思い起こす如月。龍麻ほどではないにせよ、如月の記憶力も常人の及ぶところではない。そして出たのは――行動の指標になりそうなのは【公園】というキーワードのみ。如月は足を自宅近くの公園へと向けた。
第壱弐話外伝 雨月 3
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