第壱弐話外伝 雨月 4





「はァ、はァ、はァ…。まだ…本調子とは言えないな…」

 駅方面から駆け戻り、近所の児童公園へと如月が辿り着いた時、周囲は既に闇が支配していた。叩き付けるような豪雨の中、街灯は頼りない光をボウと浮かび上がらせるばかりで、闇を駆逐する力などありはしない。そして、時折走る稲光が照らし出す公園に、人影などあろう筈もなかった。

「いる筈…ないか」

 元々期待はなかったので、失望感は薄い。だが、胸がキリキリ痛む。――いつもの痛みとは違う、妙に空虚な…喪失感だ。

 取り敢えず雨を凌ごうと、公園の公衆トイレに身を寄せた時であった。

「如月…くん…?」

 はっとして振り向く。コンクリートの壁にもたれるようにしているのは、紛れもない朱日であった。

「橘…さん…」

「…どうしたの? こんな所で…傘も持たずに…」

「いや…何でも…」

 違う。言うべきは違う事の筈だ。――目的の人物が見つかったというのに、まだ飛水の仮面に逃げるつもりか? 雨が地面を叩く音は、そんな風に聞こえた。

「その…すまなかった…」

「え…?」

 如月の口からそんな言葉が滑り出すなど、予想もしていなかったのだろう。朱日は目を少し見開いた。

「君の言う事は正しい…。僕は…臆病者だ…」

「……」

「…今日一日だけで、十年も過ごしてきたような気分だ…。僕は一人で生きてきたから、何でも一人でできるつもりになっていた。だけど本当は…僕を心配してくれる人間を欲していたのかも知れない…」

「如月君…?」

「僕は…怖いんだ…」

 一度口に出すと、もう止められなくなった。胸に秘めていた、心の奥底に沈めていた想いが次々にせり出してくる。

「僕は、自分に自信が持てない。誰かを支えた事も、支えてもらおうとした事もないからだ。自分の中だけで処理している内はまだ良い。だけど、僕に関わった人たちが、僕に関わったが為に傷付く事を考えたら…!」

 それは、自信とは対極に位置する、自惚れだ。自分の為に誰かが――こんな考えは自惚れ以外の何ものでもない。偽善者の戯言だ。

 それが解っているから、怖い。自分の力では、自分一人を護るのが精一杯だ。それを認めるのが怖い。目の前で、知り合った誰かが傷付くのを見るのはもっと恐ろしい。その、誰かを護り切れるという自信を持てぬ、弱い自分と向き合うのが怖い。

 あの龍麻でさえ、そうだったのだ。彼ほどに強く、ありとあらゆる戦闘技術を、生き残りの技術を持つ者でさえ、たった一人の少女を救う事ができなかったのだ。

 だからこそ彼は、強くなる事に貪欲だ。どれほど強くなろうと、彼には満足がない。哀しみを覚える事も、辛いと考える事もできない男だからこそ、自ら強くなる事でそれらを取り戻そうと足掻いている。そして――失ったと思っていた【兄弟】を取り戻したのは、つい先日の事だ。

 自分と彼は違う。だが、彼のようにありたいと願っている自分に、如月は先ほど気付いた。否、朱日を始め、【仲間】たちが気付かせてくれたのだ。弱い自分と向き合う勇気を――戦いの果てに目指すものが何であるかを――。

「それが…如月君の秘密…? 関わると傷付くとか…護らなければならないとか…一体それは…――ッッ!」

 いきなり、如月は朱日の腰を抱いて横っ飛びした。――次の瞬間、コンクリートの表面で鋭い金属音が弾ける。

 公園の雰囲気が一変したのはその時だ。

 ただでさえ、冷たく重い雨粒の降りしきる、陰鬱な夜なのに、ここだけは更に邪悪な気配をも孕み、街灯の明かりがますます頼りなく闇に呑まれる。家並みが作り出す影はそれ自体が朧な闇の壁となり、公園を押し包む。そして、滲み出る無数の人影。

「…飛水流当主、如月翡翠よな」

 暗がりからそっと忍び入るかのような声に鳥肌を浮かせた朱日は、更に闇から分離するように現れた鬼の面を見て絶句した。

「鬼道衆…」

「きどう…しゅう…?」

 朱日を背後に庇い、一歩前に進み出る如月。忍び刀は――用意良し。手裏剣は――少し数が少ないか。一瞬の状況分析は戦況不利――圧倒的不利を悟らせた。

「――僕一人にこれだけの数を投入するとは、いよいよ後がなくなってきたようだな、鬼道衆」

 実力的には、先日の刺客と同レベルか? しかし、背後にたたずむ四人の忍者の放つ【気】が異常だ。何かに――憑かれている!?

「…先日の同胞は不覚を取ったが、我らはそうは行かぬ。――先の同胞が与えし毒の効き目、まだ残っておるようだな」

「え…? 毒…?」

 朱日は驚き、如月の顔を見る。その顔つきは美しく凛々しいが、同時に切なさをも誘った。――覚悟を決めた者の顔は、いつでもそうなのだ。

「いと憎きは飛水の末裔…貴様の首を討ち取り、黄泉路を辿りし同胞の御霊を鎮めてくれん」

 スラリ、と引き抜かれる刀、槍、短刀…ざっと三十以上の得物が、稲光を受けて水溜りに影を落とした。

「フッ…。闇より出でしものは闇へと還れ。時に忘れ去られた亡霊ども」

「如月君…あなた…!」

 朱日の目にはなにやら異様な暴漢としか見えないが、如月の目にはそのように映っていないと、彼女は悟った。そして――戦うつもりだ! 相手は三十人以上もいるというのに!?

「今宵、この場を持ちて飛水家はついえる。――覚悟せよ、如月翡翠!」

「――如月君! 逃げましょう!」

 如月の腕を取る朱日。――委員長を務める才女は、同時に携帯電話を探っていた。片手だけで一一〇を押し――何も反応しない事に愕然とする。

「無駄だよ。電波は飛ばない。ここは既に、君の知っている世界ではないんだ。そして僕は――逃げる訳には行かない」

「ど、どうしてッ!?」

 朱日の顔に恐怖が走った。如月もまた、白刃を引き抜いたからである。

「闇より這い出したるもの――鬼道衆を倒す事が、僕の使命だからだ」

「し、使命って…! 相手はこんなにいるのに…!」

「数は問題ではない。そして、こいつらは僕を名指しで挑んできた。――僕を殺すために――僕に滅せられるために――。だから僕はこいつらを滅す。それが僕たちの礼儀であり、それが唯一絶対の、誰にも覆す事の叶わぬ、闘争の契約だ!」

「――ッッ!」

 如月の全身から、青白いオーラが放出される。――それを見た朱日は圧倒された。恐怖ではなく、あまりにも神聖にして、鮮烈な輝きに。戦う男の――凛々しさに。

「大した自信よ。これだけの人数に勝てるつもりでいるのか…?」

「下がっているんだ、橘さん。――僕からも言わせて貰おう。たったそれだけの人数でこの僕に勝てるつもりでいるのかい?」

 朱日を背後に庇いながら挑発的な、否、自信に満ちた宣言を発する如月。

「今は雨。そして僕は――飛水流当主、如月翡翠! 並びに――【真神愚連隊ラフネックス副長サブコマンダー、如月翡翠だ!」

 カッと波動を伴って放出される純粋なる殺気! 三十人からいる鬼道衆忍軍は、一瞬とは言え確実に気圧された。

「――クッ! かかれ! 攻囲し、攻め立てるのだ!」

 号令一下、忍軍がバラバラと展開しようとした時である。闇夜に稲光が走った。――忍者の一人に向けて!

「――ぎゃああァァッッ!」

「ぬうっ!?」

 突然の事に、そちらに気を取られる忍軍。そこに、呆れたような声がかけられた。

「あ〜あ。まったく、おたくらも懲りないねェ」

 闇の壁から突き出ているのは、帯電して輝いている槍の穂先であった。それは更に伸び、その所有者も闇の壁を通り抜けて姿を現わした。

「よおッ、如月サン。――なかなか楽しそうな事やってんじゃん? 俺サマも混ぜてくれよ」

「雨紋…なぜここに?」

「いやァ、なぜってほどのモンじゃねェけど、如月サンが体調悪そうにしてたからさッ」

「――そういうこった。いつも以上に辛気臭いツラしてっから、こんな連中が付け上がるんだぜッ」

 乱暴な言葉は、驚くべき事に少女のものだ。雨紋と同様、闇の壁を抜けてきたのは織部雪乃。その背後には弓を携えた織部雛乃も付き従っている。そして――

「はははッ、そう言うな。これでなかなかこいつらも考えているようだぞ。まあ、この程度の人数で如月を倒そうとは、まだ考えが甘いがな」

「まったくデース。ヒスーイをやっつけるなら、この倍でも足りませんネ」

「そうだヨッ。翡翠お兄ちゃんはずっとずーっと強いんだカラ!」

 あれよあれよと集結したのは、いずれも【力】を持つ【神威】達。鬼道衆忍軍は如月を攻囲する形から、全周囲防御の陣形を取らざるを得なくなる。

「君たち…どうして…?」

「うん? ――何の事はない。マリィがその…お前にも見てもらいたいと言うので戻ってきたんだ。雨紋たちとは、そこでばったり会ってな」

 空々しく頭を掻きながら、醍醐。――以前の彼はやや義心の押し売りみたいなところがあったが、ここに来たのはさも偶然であるかのように言ってのけるようになった。

「そうデース。可愛いマリィがもっともっとプリティになりまシタ」

「ね、ね、翡翠お兄ちゃん! マリィ、可愛い? コレ、似合う?」

 アランの手によって見事に【変身】してしまったマリィを見て脱力感を覚える如月。マリィはお気に入りの赤いワンピースから可愛らしい青のメイド服に替え、【法鈴】を首飾りと髪飾りにしている。手には指がころりと太い手袋を填め、とどめは猫の尻尾。実に見事な【でじこ】の――コスプレである。

(アラン…君も今夜が最後の夜だ)

 そんな物騒な事を考えつつも、期待感一杯に自分を見詰めてくるマリィには…

「ああ。可愛いよ、マリィ。とても良く似合ってる」

 これは本心から言ってしまう如月であった。

「Thanx! マリィ、嬉しい!」

「ふふっ、良かったですね、マリィ様。――とっても愛らしくていらっしゃいます」

「エヘヘ…アリガトッ、雛乃お姉ちゃん」

「う〜ん、確かにムチャクチャ可愛いけどさ、男の欲望丸出しって感じもするんだよなァ。――ええ、どうなんだ、アランよォ?」

 マリィの頭を撫でながらジト目を向けてくる雪乃に、少し退くアラン。

「な、ナニ言ってるデスカ!? コレぞ男の理想像ネッ! マリィなら我々同志の女神様にもなれマース! ヒスーイもそう思いますよネッ? ネッ!?」

「…なぜ僕に同意を求める…?」

 訳の解らん事を力説するアランをばっさり切り捨てる如月。アランは天を仰いで目の幅涙を流す。

「ハハハッ。もうこの辺にしておかんか? ――奴らを見ろ。立つ瀬がなくて困っているぞ。俺も少し、奴らが哀れになってきた」

 醍醐の言葉ではっと我に返ったのは、鬼道衆忍軍の方であった。

 なるほど、と思う如月。醍醐が目の前の敵を無視した事から何かあると思ったが、こういう事か。

 鬼道衆の兵隊…忍者はクローニングと外法によって生み出された異生命体だ。使いようによっては強力な兵士となり、鬼道衆と手を組んだ軍隊は世界最大の歩兵力を有する事が可能になるやも知れぬ。

 だが――やはり訓練された兵士とは異なる。彼らには指揮官を除き、判断能力がない。如月を攻囲した時には統率もチームプレイも完璧と思われたが、新たな敵の出現に対処するまでに若干のタイムラグを必要とし、今の間抜けなやり取りの間、彼らは次の行動を判断しかねていたのだ。新たな【敵】が、フォーメーションを整えているとも知らずに。

 そして、彼我の戦闘力を考慮した場合、この場での最適な判断は――

「――六人増えたとて、我らの優位は動かぬ! ――かかれ!」

 三十人からの鬼道衆忍軍は一斉に身構え、そして醍醐は指を鳴らして言い放った。

「上等だ。――如月副長! 醍醐雄矢以下五名! 副長の支援を行います!」

 ピッと敬礼し、ニヤリと笑う醍醐。最初からそのつもりの癖に…と、如月は苦笑を洩らした。それは確かに苦笑ではあったが、朱日はそこに【嬉しさ】を見た。

「――了解! 各員、デルタ・フォーメーションそのまま! 長距離支援班、攻撃開始!」

「OK! It’s show time!」

「織部雛乃、参ります!」

 不格好なほど大きなポケットから抜き出されるアランの愛銃・コルトSAA・シビリアン。そしてギュン! と引き絞られる、今日雛乃が購入したばかりの【与一の弓】。

 闇夜を貫き、轟音と風切り音が鬼道衆忍軍に襲い掛かった。

 機先を制された鬼道衆忍軍の陣形が乱れ、そこに雨紋と雪乃が左右に散って突入した。長柄である槍と薙刀の特性を生かし、縦横無尽に忍群を突き倒し、切り伏せる。その一方で醍醐は長距離班を守る【壁】のポジションを維持しつつ、部隊を前進させる。

 そしてマリィは、朱日の下に走り寄った。

「――お姉ちゃん、マリィから離れちゃ駄目だヨ?」

「――あ、あなた達って、一体…?」

 目の前で展開している、常識外れの戦い。――この現代日本で、忍者と高校生が戦っているのだ。それも試合などとは程遠い、本物の殺し合いをしている。槍も薙刀も、銃も全て本物だ。――悪い夢なら、早く覚めて欲しい。

「――お姉ちゃんは、知らない方が良いヨ?」

 澄んだ青い目を向けられ、朱日はうろたえた。明らかに年下の女の子の、深い眼差しに打たれて。

「恐いでショ? どうしていいか解らないでショ? ――ホントは、マリィ達も一緒だヨ? でもマリィ達は戦う【力】があるカラ、逃げちゃダメだって思うカラ、戦っているんだヨ。それは、マリィ達が自分で決めた事だカラ」

「そんな…! だってこれは…人殺しじゃ…!」

「――そうだヨ」

 マリィは口調にこそ哀しみを込めたが、目の輝きまで揺るがせはしなかった。

「戦いは恐くて、残酷で、とっても哀しいヨ。でもマリィ達が逃げちゃうと、あのヒトたちはもっと悪いコトするヨ。一杯ヒトを殺して、マリィみたいな子を増やしちゃうヨ。――そんなコト、マリィ、許さナイ」

 ふわ、と金髪が翻り、鈴が鳴った。愛らしい少女の目に炎の揺らめきが宿り――実際にマリィの顔前で炎の塊が出現し、そこから真紅の炎がレーザー・ビームのように走った。

「【デュミナス・レーイ】ッ!」

 闇を切り裂いて走ったレーザー光が、一同の背後から迫っていた忍者を三人まとめて横薙ぎにし、超高温の刃で真っ二つに切り裂いた。――通常の生命体ならば切断面が炭化してもある程度の形を残すが、この忍者達はボッと燃え上がり、たちまち塵となって燃え尽きる。

「ホントはネ、悪いヒトなんていないとマリィは思うヨ」

 思ったよりも動きの良い忍者に防御ラインを突破された事を片手拝みに謝る醍醐に、マリィは「めッ!」とサインを送りつつ、驚愕の表情で固まっている朱日に憂いの滲む目を向けた。

「ただネ、ちゃんと皆で仲良くご飯が食べられれば幸せなのに、ヒトの分まで欲しがったり、皆の為に何もしないのにご飯だけ食べようとするヒトがいるからいけないノ。自分だけおなかいっぱいにご飯を食べて、他のヒトがおなかを空かせているのを知らんふりするから、喧嘩になっちゃうノ。でもネ…」

 空を切り裂いて走ってきた手裏剣を【デュミナス・レイ】で次々に蒸発させるマリィ。

「自分がおなかを空かせているカラって、他の人もそうしちゃえって考えるノモ、マリィは良くないと思うヨ。それをやっちゃうト、二度と仲良くなれないカラ」

「……!」

 例えそのものは幼いが、良くも悪くも優等生である朱日はそこに秘められた重大な意味を汲み取る事が出来た。

 自分だけご飯を食べようとする――これは先進国の一部権力者や企業家の事だ。

 自分が腹を空かせているから、他人を同じ目に遭わせる――これはテロリストの事だ。

 どちらの存在にも虐げられるのは、戦う力を持たない、あるいはそれを忘れた人々だ。

 ――だから、闘うというのか? 如月も、このマリィも、他の者達も。闘う【力】を持ち、【それ】から目を逸らす事を由としなかった故に。それが如月の口にした――【使命】の意味…。

 その、如月が【仲間】たちに叫ぶ。

「――来るぞ!」

 体術を駆使する忍者は殲滅したが、強敵になると読んでいた忍者四人が変異を始める。――変生とは異なるようだが、忍び装束を引き裂いて肉体が巨大化し、頭部が馬の、あるいは牛のそれになる。

牛頭鬼ごずき馬頭鬼めずき――地獄の番卒どもという訳か。――虚仮脅しを!」

 忍び刀の峰に剣印を当て、すばやく呪を唱える如月。激しく降りしきる雨粒が彼の周囲で滞空し、みるみる巨大な水の塊と化す。彼の足元からも水が生き物の――水竜のように立ち昇り――

「【水流尖】ッ!!」

 渦を強力なドリルとする水柱が、地面を引き裂きうねりつつ牛頭鬼馬頭鬼に襲い掛かる。――今は雨…水を操る如月にとっては、その能力を最大に発揮できる条件下なのだ。彼の【水流尖】は直撃を受けた牛頭鬼一体を瞬時に分解し、残りの三体にも痛打を浴びせた。しかし――

「――ッッ!」

 逆巻く高水圧の刃に身体中をズタズタにされながら、なお突っ込んできた牛頭鬼が如月に体当たりを掛けた。――普段の彼ならば難なくかわせたであろう突進も、今の彼には重大な脅威だ。直撃こそ外したものの、如月は大きく跳ね飛ばされて泥水の上を滑った。

「――如月君ッ!」

「――ダメ! お姉ちゃん!」

 思わず飛び出した朱日を、マリィは止め切れなかった。如月が思ったよりも大きく跳ね飛ばされた為、彼を即座に援護できる位置には誰もいない。倒れた如月に迫る牛頭鬼。その拳が振り上がった時、朱日は如月を庇って両手を大きく広げて立ちはだかった。

「クッ! ――如月!」

「Shit! ――間に合エ!」

「橘さん――!」

 【仲間】の悲鳴のような声と、自分を庇って前に飛び出した朱日の背を見た時、如月は――



(――死なせはしない! 誰一人! 彼らは僕の、大切な【仲間】だから――)



「【四神覚醒・玄武変】ッッ!!」

 爆発的に膨れ上がる如月のオーラ! 彼の目は碧玉の光を放ち、大地にたまった水が、降りしきる水が渦となって彼に絡み付く。そして如月は、自分の守護神の声に耳を傾けた。



『――我は玄武。北方の守護者なり。――我が守護せし飛水の者よ。水は生命の源なり。我が力を欲しなば、大慈しみをもって享け賜われ――』



(解っている。――いや、今解ったよ、玄武。そして――おじい様。僕の【力】もまた、【護る】為の【力】だと――)



 幼き日、繰り返し聞かされた祖父の言葉の中で、たった一つ理解しきれず、曖昧な記憶の中に埋没していた言葉。それが今、はっきりと甦る。



 ――もしもお前に、真に護りたいものが出来たならば、使命に囚われず闘いなさい



 それは、祖父の言葉。同時にそれは、江戸時代に分かたれた飛水流の正当後継者となった涼浬すずりの遺した言葉でもあった。

 涼浬は生涯、兄を討ち果たせなかった事を悔いていた。また、討たなくて良かったと考えていたとも伝え聞く。彼女達兄妹の間にどんな確執があり、不倶戴天の敵となったのかは伝わってはいないが、彼女は恐らく【使命】を優先させたが故に、長く後悔する事になったのだ。しかし彼女は時を越え、如月翡翠に【使命】をも越える【大切なもの】を説いたのだ。

「オオオォォォォォォ――ッッ!」

 如月の気勢に合わせ、無数の水柱が如月と朱日の周囲に立ち昇り、牛頭鬼の攻撃を弾き返す。更に水柱は水竜の形を成して牛頭鬼二体を飲み込み、その高水圧を以って押し潰した。

 残るは馬頭鬼一体のみ。そいつは明らかに遅すぎる撤退をしようとして、最も御しやすそうに見えるメイド姿の少女目掛けて走った。その子が実は――このメンバーの中でも最大の潜在能力を持つとも知らずに――。

 だが、マリィは動かない。馬頭鬼が突進してくるのをただ黙って…小さな笑みを浮かべて見ていた。

「なっ!? マリィ!!」

 如月が血相変えて叫んだ瞬間、地面を引き裂いて走った衝撃波と光り輝く巨大な鳳凰がマリィの傍らを駆け抜け、馬頭鬼の巨体を両断し、惰性で突き進む肉塊を原子の塵に還元した。

 同時に、公園の周囲を覆っていた闇のカーテンがすうっと消え、元の町並みを露にする。その向こうに立っているのはコート姿の青年と、木刀を持った赤毛の青年であった。

 手を振るマリィに、赤毛の青年がニヤッと笑って応え、木刀を肩に担ぐ。

「ヘヘッ。蓬莱寺京一、見参! ――って、もう今のでラストだったのかよ?」

「龍麻君…。蓬莱寺君…」

 今のは蓬莱寺京一の【地摺り青眼】と龍麻の【秘拳・鳳凰】だったのか。――落ち着いていれば彼らの接近に気付けただろうに、つい、我を忘れてしまっていた。如月はそんな自分に怒りを感じ――しかし醍醐が肩に手を置いたので我に返った。

「――安心したよ、如月。お前が、そんな顔を俺たちに見せてくれてな」

「醍醐君…?」

「実戦の中で生き抜いてきた者に、弱い仲間など最初から要らない。――俺たちはやっと、お前の眼鏡に叶うようになれたと解釈して良いよな?」

 ――いや、それは大きな誤解だ。自分の殻に閉じこもっていたのは自分の方で、彼らはずっと以前から強かった。【力】の事ではない。【仲間】を信じ、思いやる心こそが。

「――とんでもない。君たちは強いよ。――信頼してる」

 今こそ、如月は素直な心でそれを告げた。【信用】を超えた、【信頼】という言葉を。――今のマリィが見せてくれた。マリィは龍麻と京一の【気】を感じ、彼らが護ってくれると全幅の【信頼】を置いていたので、動かなかったのだ。そして龍麻らは見事に、マリィの【信頼】に応えて見せた。【強い】とは、【信頼】に応える【力】を備えているという事なのだ。

「――大丈夫かい、橘さん?」

 戦いは終わったのだと、自分は助かったのだと判った瞬間、朱日は腰が抜けてしまい、泥水塗れの地べたに尻餅を付いてしまっていた。しかし、如月が声をかけた事でノロノロと顔を上げる。

 今日一日で、彼女にとって衝撃的な事が起こり過ぎた。如月の人となりを知った以上に、日常の【常識】を根底から覆すような怪異に立て続けに襲われたのである。常人ならば、混乱するのも無理はなかった。あるいは――彼らの存在にこそ恐怖するのも…。

 しかし――

「これが…これが如月君の戦いなのね…」

 その声には、目の前にあるものを否定し、恐れ忌避する響きはなく、事実をありのまま受け入れようとする者の落ち着いた響きがあった。

「私…誤解してた。自分一人で孤立して、こんな世界なんてなくなれば良いなんて事を考えたりもしたわ…。ひょっとしたら、如月君もそういう風に考えていたんじゃないかって…」

「……」

「でも…とんでもない誤解だったわ。如月君も、あなたたちも、この世界を必死に護ろうとしているんだって…。この世界は護る価値があるものだって…。あなたたちの戦いを見て、この世界がとても大切なものだって解った気がするわ…」

 如月は無言で、しかし微かな笑みを口元に刻みつつ彼女に手を差し出した。朱日はおずおずと手を伸ばし、彼の手を取る。次の瞬間、彼女はしっかりと自分の足で立ち上がっていた。

「…本当に大切なものは」

 如月は、自分に言い聞かせるように言った。

「常に、思いがけないほど近くにあるものだ。しかしそれは近すぎて、当たり前すぎて、その大切さに気付かない。失ってみなければ、その大切さは判らない。それを知った時にはもう手遅れ…。僕達だって同じだよ。だけど僕達は、後悔しない為に今を精一杯戦う事に決めたんだ。報われようとも、誰に認められようとも思わない。それをエゴだと言いたい奴は言えば良い。これは僕自身…僕達自身で決めた道なのだから」

「そうね…。どんなものも、一方的に無価値だなんて決め付けてはいけない。それを大切だと思う人がいる限り…」

 朱日は如月を束の間見つめ、彼の【仲間】達一人一人に視線を移していった。個性的で、陽気で、こちらにまで元気を分けてくれるような者たちを。あれほどの戦いを繰り広げながら、悲壮感も諦観も漂わせず、しっかりと己の足で立っている者たちを。

「理解して頂き、感謝する」

 そんな彼らのリーダー、緋勇龍麻がするりと近付き、朱日に敬礼した。

「我々とて、己こそが絶対的正義であるとは考えていない。同時に法律的には違法である事も認識している。だが奴らは、この世に死と恐怖を撒き散らし、破壊と破滅を望んでいる。その先にどんな目的があろうとも、我々を含め、この街に住む多くの人々の生活を脅かし、ささやかな平和を踏みにじろうとしている。そして奴らの前には法律も官憲も道徳も社会正義も有効な盾とは成り得ず――何の因果か我々はそれに対抗し得る【力】をこの身に宿し、己の生活を、ひいては街の平和を護る側に立つ事を選択した。使命、義務、責任、宿命――後付できる定義はいくらでもあるが、何よりも先ず、これが我々自身の下した選択なのだ。よって我々は――行き付く先が地獄であったとしても、この街を守るべく戦う。たとえ世界がそれに異を唱え、我々の破滅を望んだとしても、これに抗い、勝利する。誰が為になり得る、強い自分自身となるために」

「……!」

 見た目こそ一介の高校生の、堂々たる宣言。朱日はしかし、自然と背筋が伸びるのを知った。あのとてつもないボケっぷりを見た後でさえ、圧倒される存在感。それは畏怖や恐怖、威圧感ではなく、太陽のように眩しくて熱い、それがあるからこそ命が育まれるという包容力溢れる存在感だ。【この人に任せておけば大丈夫】と無条件に信じられる安心感。

 だからこそこの如月も彼と共にあるのだろう。この場にいる者全員が、志を同じくする【仲間】なのだ。そこに自分の居場所は――

「だからこそ、貴殿にも願いたい。平穏な日常こそ、実は得がたい尊いものであると、世の人々に伝えて欲しい。どんなにささやかな事であろうとも喜びを、楽しみを見出し、それを他と分かち合える事こそ幸福であると。いつの日か、全ての人々がそれを出来るように。――大層な事をしろと言っているのではない。ちょっとした気配りと親切を他に施し、また、自分が施された時には感謝を向ける――その手本となって欲しいのだ。既に貴殿は、それができているのだから」

「わ、私はクラス委員だから…」

「その義務を果たし、責務をこなし、人の嫌がる事をできている事こそ尊いのだ。――声高に唱える必要はないが、貴殿は自分を誇って良い」

「…ッッ!」

 ズンと重く胸に響く言葉。――幼き日に、母の手伝いをした時に聞いた【ありがとう。偉いね】という両親の言葉と同じ、実は朱日が最も欲していた言葉。

 成績優秀なのは――勉強が好きだったからではない。

 クラス委員になったのも――望んでなった訳ではない。

 介護ボランティアをやったのも――率先してやった訳ではない。

 いつも――他人から言われてからやった事なのだ。それをやれば…褒めてもらえると思って。そして現実は…成績が上がれば落ちる心配〜怒られる恐怖に怯え、優秀だからと役職と責務を押し付けられ、それを断る事によって生じる変化を恐れ、仕方なくやったボランティアで感謝される事に笑顔で応えられない自分が嫌で…。

 それをこの男は、こんな短い言葉で払拭してのけたのだ。まず、自分で自分を褒めてやれと。心中はどうあれ、【出来ている】事こそ尊いのだと。そして――それができる者は【仲間】と同じだと。

 この男がどういう人生を歩んできたのか、朱日には想像も出来ない。しかし同年代の若者とは一線を隔す、はるかに思慮深い大人である事は容易に察する事が出来た。

 そして、そんな男だからこそ気配りも効く。

「この雨の中で立ち話もあるまい。如月の家で一休みさせてもらうと良い。――構わんだろう?」

「勿論だ」

 龍麻の問いに、薄い笑みで応える如月。自分ではうまく言葉に出来なかった事を、彼が全部言ってくれた。おかげで――朱日の目には、自分達に対する怯えや忌避はない。

「――とは言え、この大人数では迷惑だな。我々は河岸かしを変えて休むとしよう。それとマリィは遅くならぬように――」

 そこで初めて、龍麻はマリィの今の姿に気付いた。

 ピリッと空気に何かが走ったので、付き合いの長い醍醐が慌ててフォローする。

「あ〜、龍麻。その、つまりだな。お前の言う通りマリィの装備の選定に付いて色々と考察した結果でな…」

「ネ、ネ、龍麻お兄ちゃん! これ、似合う? マリィ、可愛い?」

 やはり、誰よりもこの男の誉め言葉が欲しいのだろう。マリィは期待一杯に目を輝かせて龍麻を見上げたのだが…。

「…………」

「どう…したノ? 龍麻…お兄ちゃん?」

 龍麻は答えない。むっつりへの字口の角度がきつく鋭角になり、硬く握った拳がワナワナと震えている。――今日、不機嫌だった事を考え合わせると、それは激怒していると見て取れた。

「マリィ、可愛く…ない?」

 それを察したか、マリィの表情が曇る。彼女を【変身】させた張本人であるアランは龍麻のただならぬ様子にこっそりと逃げ出そうとしたが、醍醐に襟首を捕まえられ、雨紋にも織部姉妹にも前面に押し出されてしまった。――【仲間】は大切だが、犠牲は最小限にせねばならない。

 しかし、こんな時に重宝する男がひょいと龍麻の顔を覗き込み――

「――萌えてんじゃねェ! コスプレオタクがッ!」

「――おおッ!?」

 京一に背中を蹴飛ばされ、危うく顔から泥水に突っ込む所を踏み止まる龍麻。――いつもならば軽くかわして見せたであろうツッコミが入った事を、この場にいる誰よりも京一自身が驚いた。

 しかしいつもならば必ず報復したであろう龍麻は、泥水をものともせず片膝を突いてマリィと視線を合わせ、その手を取った。

「むう…不覚であった。これほど身近な所にこれほどの才能が眠っていたのに気付かなかったとは…。大変良く似合っているぞ、マリィ」

「I‘m so happy! 大好き! 龍麻お兄ちゃん!」

 大喜びで抱き付いてくるマリィを受け止め、彼女の頭を【ナデナデ】する龍麻。――これが先刻の、世界を相手に闘うと宣言した男と同一人物なのか!? 朱日はさすがに混乱して如月を見たが、彼は苦笑して肩を竦めたきりだった。ただその苦笑は――温かかった。

 ただし、【仲間】ならばこそ、特にこの男は【親しき仲にも礼儀あり】という言葉を知らねばなるまい。

「何だよォ、オイ。雛乃ちゃんの巫女さんはスル―した癖に、マリィのメイドはアリなのかよ? ははあ、ひーちゃんってば隠れメイド属性に隠れ妹属性だったのか」

 ピーン、と華やいでいた空気に再び何かが張り詰めた。

 その中心に最も近い位置にいた雪乃が「ゲゲッ!」とうろたえ、三歩ほど退いた。自分と同じ容姿に正反対の性格ながら、本気で怒らせたら確実に自分より怖い妹の鬼気を感じたのである。表面上はおっとりとした微笑を浮かべているのに、その裏では飢えた虎が唸っているかのようであった。

「――俺は逃げも隠れもせん。似合っている者を褒めるのは当然の事だ。そして雛乃は神事に携わる本職の巫女であり、正装だ。これを趣味嗜好の世界と同列に置く事は双方に対し大変な失礼に当たる。敬いて触れずを厳守せねばならん」

 再び雪乃は二歩退く。姉ならばこそ生真面目な雛乃が謹厳実直な龍麻に惹かれているのを察しているだけに、雪乃は背筋が凍る思いであった。もちろん龍麻は神事仏事を尊重しているつもりだろうし、この朴念仁にそこまでの考えはないだろうが、取り様によっては雛乃は恋愛対象にならぬとも聞こえてしまうではないか。

 余計な事に、この男もそう理解したようだ。

「へっへー。ライバルが減るってのは良いもんだ。――どうだい雛乃ちゃん? この能面面の朴念仁なんざ放っておいて、この京一サマと付き合わない?」

「バッ、馬鹿ヤロウッ! 誰がお前みたいな奴にッ…!」

 雪乃が引き攣った怒声を上げ、如月、醍醐、雨紋が揃って合掌し、アランが十字を切った時である。地獄の釜が溢れ出したかのような声で雛乃は信じられぬ事を口にした。

「…ええ。よろしくお願いいたしますわ、蓬莱寺様」

「なッ!? ちょッ…雛ッ…――!」

 驚いて妹を振り返り、雪乃はドドドーッと滝のように血の気が引く音を聴いた。普段は軽薄な彼をいけ好かないと思いつつ、「えっ!? ホントッ!?」などと小躍りしている京一に、今日だけは本ッ気で同情する。

 そして、唸り飛ぶ風切り音を反射的にかわした京一の傍らを、矢が凄い勢いで走り抜けていった。

「なっ、何をするんだ!? 雛乃ちゃんッ!?」

 今更何をするんだもないだろうが、自らの今後に色々妄想を巡らせていた京一の視界に、輝くばかりの笑みを浮かべたまま矢を番える雛乃が映った。

「――光栄ですわ、蓬莱寺様。この未熟な織部雛乃の鍛錬にお付き合いくださるなんて…」

「ちょ、ちょっと待って…! 付き合うってそういう意味じゃ…!」

 手を振って抗弁しようとする京一に、雛乃の三連射が襲い掛かる。これが――結構本気! 京一はかわしきれぬと見た矢を全力で撃墜した。

「――さすがは蓬莱寺様。お見事ですわ。この織部雛乃、安心して全力を尽くさせていただきます」

「おわあっ!」

 先刻の戦いよりも更に気合の入った射撃の嵐! 一瞬でも背を見せれば間違いなく射抜かれると見た京一は正面を向いたまま下がる事しか出来ない。

「まっ、待った! お、落ち着いて話し合おうじゃないか! 雛乃ちゃん!」

「お見事。私も全力を尽くしているつもりですが、まだ口をお開きになる余裕がおありになるなんて。この織部雛乃、己の未熟に恥じ入るばかりでございます」

 そんな事を言いつつ、しかしするすると間合いを詰めていく雛乃。そして――京一に打ち落とされ、地面に突き立った矢を取って番える。――武士の忌み事。【返し矢恐るべし】。

「さあ蓬莱寺様。存分にお付き合い願います。――お覚悟を!」

 ふわ、と雛乃の全身が燐光を放ち、黒髪が揺れる。――本気だ! 目にちょっぴり本物の殺意がある。

「――む? まあ待て雛乃。鍛錬に熱心なのは大いに結構だが、このような所で全力を尽くす訳にも行くまい。訓練ならば旧校舎でも――」

 こんな時にこそ読んで欲しい空気を全く読めぬ男の傍らを、矢が凄まじい勢いで走り抜ける。あの龍麻をして、一瞬の硬直を余儀なくされる、雛乃の殺気であった。

「まあ、龍麻様まで私の訓練にお付き合い下さるのですか。この織部雛乃、光栄至極に存じます」

「ま、待て雛乃。何をどう解釈すればそのような結論に至ると言う――」

 それ以上の問答は無駄であった。にっこりと輝くばかりの笑みを凍り付かせた雛乃が真っ直ぐ龍麻に狙いを定めたからである。この時龍麻はつい先日発生した醍醐失踪事件の顛末を思い出し――普段おとなしい少女こそ、キレた時が恐ろしいと一つお利巧になったのであった。

「――お覚悟!」

「おおっ!? おおおっ!?」

 本気になった証――怒涛の三連射を二連撃! さすがの龍麻もこれはかわすだけで精一杯である。しかも――雛乃が何に怒っているのか解らないと来ており、それが更に雛乃の怒りを煽っていた。

「あの…如月君? 雛乃さんってひょっとして、緋勇君の事…」

「ん――うん…いや、僕には良く解らないけどね。――それにしても凄いな、雛乃さんは。換えたばかりの【与一の弓】をこうまで軽々と扱えるなんて」

 この時朱日は、如月の語尾が僅かに棒読みになった事に気付いた。例の冷たい声ではなく、彼には似つかわしくない、何かをごまかすような口調。

 その答えは、静かな足音であった。

「――嬉しゅうございます。ですが如月様…まことに申し上げにくいのですが…」

 おっとりとしているのに、何故か地の底からでも響いてきているような雛乃の声。龍麻と京一が逃げたものか否かと悩んでいる内に、彼女の立ち位置が近付いていたのである。そして――如月がほんの少し、それと判らぬほど後退したのを朱日は目撃した。

「な、何かな?」

「私、やはり【花栄の弓】を選びとうございます。この【与一の弓】も大変良い品なのですが……物足りないのです」

 にこり、と笑う雛乃のなんと美しく、なんと恐ろしい事か。彼女の怒りの矛先――もとい的になっていない事を、如月は心底安堵した。

「そういう事ですので、こちらの【与一の弓】は本日この場で存分に使い納めさせていただきます。――それでは橘様、ごきげんよう」

 くるり、と再び龍麻と京一に向き直る雛乃。――まさか彼女がそのような行動に出るとは思っていなかったので、二人とも逃げ出すタイミングを逸していた。しかもこの至近距離だからこそ雛乃の射撃をかわせるが、距離を取ろうものならば確実にホーミングされて仕留められるという彼ら【魔人】ならばこその不条理。――逃げられない!

「うふふ、龍麻様も蓬莱寺様も、私の鍛錬に付き合ってくださるべくお待ちくださったのですね。この織部雛乃、光栄ですわ」

「ま、待て! 自分には今夜任務がある。お前の訓練には後日改めて――」

「――私の鍛錬より大切な用事でいらっしゃいますの?」

 龍麻の口が即座に動きかけ――しかし珍しく口ごもる。恐らく彼は「そうだ」と言おうとしたに違いないが、どうやらもう一つお利巧になったようだ。曰く――おとなしい子がキレた時は決して逆らうべからず。

「よ、よろしい。存分に付き合ってやるぞ、織部雛乃。全力でかかってくるが良い」

 ――ピキピキピキッ…!

 どうしても【その方面】にはお利巧になれないらしい龍麻の発言に、遂に雛乃の笑顔に怒りマークがいくつも浮く。

「…お心遣いに千の感謝を。――織部雛乃、参ります!」

 そして始まる、人外の鍛錬。こうなると他の【仲間】達も、巻き添えを恐れて指を咥えて見ている事しか出来ない。事情が全く理解できぬマリィだけが「お兄ちゃんもお姉ちゃんもがんばれ〜」と声援を送る。そして…

「あの…如月君? こういう言い方は失礼だと解っているけど…緋勇君って、ちょっと変?」

「ん――うん。まあその…変と言えば変かも知れないけど…あれもまた、彼のパーソナリティの一つだからね。僕達にも彼の事は良く解っていないんだよ。表とか裏とか、そういう単純な事じゃなくて、彼はちょっと…大き過ぎるんだ」

いかに非日常に足を踏み入れた身とは言え、その実体は十代の若者。人を視る、人生を語るには未熟な自分達だ。自分達より遥かに苛烈な人生を送っていた男の器は、たやすく推し量れるようなものではない。

「そうね…。だから如月君も、他の人たちも、あの人と付き合うのが面白いのね」

「そうかも知れない。でも時々、どっと気疲れさせられる事もあるんだよ」

 我が家の近所で大暴れする輩を野放しにする訳にもいかず、簡単な結界を張り直しながら言う如月。だがその口元には、押さえ切れない微笑が浮かんでいた。

「うん。それは解るわ」

 ふと変わった、朱日の口調。少し驚いた如月が見たものは――朱日の笑顔。初めて見る、屈託のない笑顔であった。

「でもそれも、楽しいんでしょ?」

「――まあね」

 そして如月は――ついに堪えきれず吹き出した。同時に朱日も口元を押さえつつ、しかし二人とも声を上げて笑った。心底楽しく、屈託なく、無邪気に。周囲の目など気にしない、計算も気取りもない、自然な笑い。

 如月のそんな姿を初めて見た醍醐たちは、胸中にこみ上げた温かいものに、こちらも自然と微笑を洩らした。

 ただし、軽薄な爆発音はその後しばらく続いていた。









「――気を付けて行ってらっしゃいませ」

「――うむ。ご苦労」

 入所段階から注目を集める為に用意したリムジンの運転手にチップを渡し、龍麻はいかにも大物そうに鷹揚に肯いた。

 今の龍麻の格好は黒のスーツに深い青のネクタイ。長い前髪をムースでアップに仕上げ、オークリーのサングラスで目元を隠す。――それだけで実に大人びて見え、凄味もある。一方の如月も黒のスーツ姿で、ネクタイの色は品の良い緑色だ。彼も元々大人びた顔立ちなので、レイバンのサングラスを掛けるだけで高校生然とした雰囲気は消え去る。二人とも、危ない橋を何度も渡った事がある若手実業家といった雰囲気だ。

「いよいよだ。気分はどうだ?」

「悪くない。良い緊張感だよ」

 すぐ傍に首都高速道路を望む、中央区日本橋兜町にある東京証券取引所のビルを見上げ、束の間感慨に耽る二人。彼らの取引はネットや代理人を通じて行われるので、ここに直接足を運んだ事はなかったのだ。そしてこの内部では、現金と証券を弾丸にした戦争が毎日のように行われているのである。――そう、彼らの服装は、その戦争に赴く戦闘服であった。

「おお、緋勇君。こっちだよ」

 玄関に入ってすぐのロビーで待っていた、個性的な四角い顔の青年と初老の紳士が手を振る。青年は【志葉エレクトロ】の若き専務にして元陸上自衛隊特務工作部隊で【メカニカル・ネクロマンサー】、通称【メカネ】と呼ばれ恐れられた電子工学の天才かつ同人サークル【馬馬鹿鹿研究所】の代表志葉繁であり、初老の紳士は【青田建設】の社長、にしてサバイバルゲーム・チーム【下北沢ナイトウォリアー】の狙撃手、通称【射的屋のアオさん】こと青田幸三である。――今回の作戦に際して招集した、経済に明るい助っ人たちである。

 メカネとアオさんは如月とも挨拶を交わし、先に立って歩き出した。

「――君たちも知っていると思うけど、今日の白金の取引は九時開始。九時三〇分に出来高の発表があって、十時までが取引可能な時間だ。終了ベルが鳴ったら、その時点で全ての取引を終えなければならない。――ネット上の取引ではここの終了時間との時間差を利用して儲ける輩がいるけど、ここでは絶対に通用しない。正に時間が勝負の鍵だ」

 アオさんの言葉に頷きながら、既に歓声と怒号、紙切れが飛び交い、熱気に満ちた取引場を進む龍麻と如月。――彼らをして圧倒される光景がそこかしこで起こっている。

「あそこで商っておるのは大豆だな。その向こうが原油に、鉄鋼だ。君の情報通り、どちらも妙な仕手が入ってからあの騒ぎよ。そして――ここが我々の戦場だ」

 四角い眼鏡をきらりと光らせて、メカネ。正方形に組まれたカウンターの中に数台のコンピュータとオペレータが座し、その周囲を若いのから年配まで、武道家の殺気にも匹敵するような迫力を滲み出している投資家たちが黙って、あるいはヒソヒソと言葉を交わしつつ、取引開始の時を待っている。その中には葦下兄弟の末っ子が、ニヤニヤ笑いを抑え切れぬままに混じっていた。

「――他の連中は上にいるようだね」

 龍麻と如月にこっそりと合図を送るアオさん。そちらをチラリと見上げると、二階席の素通しガラス越しに、同じ顔に背格好のオカマが四人並んでいた。

「…奴らこそ鬼道衆だな」

「やめてくれ、龍麻君」

 あの鬼道衆忍軍がすべて葦下兄弟と同じ顔であったら、自分達の負けは決定事項だ。如月は苦笑して、ロクでもない想像を頭から追い払った。

「――連中と一緒にいる女は誰です?」

 見れば葦下兄弟の傍らに、まだ二十代と思しき美女が立っている。背は一七〇センチ前後と女性にしては高めで、ワインレッドのスーツが嫌味も下品さもなく、大輪のバラが咲くかのような協調美を醸し出している。薄い茶色のサングラスの奥ではきつそうにもけだるげにも見える微妙な風合いの目が光っていた。

「…いや、最近良く見る顔だが、名前くらいしか解らないね。確か神楽坂…とか言ったかな? やたら大物と接触しているようだけど、素性は良く解らないんだよ」

「興味あるならやめておけと勧める。見た目は良いが、ありゃ中身がいかん。背中にどんなバックを貼り付けているか解らぬが、自分以外の全てを見下しておるような女だ。ウチに来た時は即刻塩を撒いておいたぞ」

「――そうですか」

 龍麻は頷いたものの、サングラス越しにまだ彼女を見ていた。――別に興味が湧いた訳ではない。どこか…南雲警視や若林警視に通じる雰囲気が気になる。エリートの放つ香とでも言おうか? しかしその香にはどこか蟲惑的な、食虫花のようなすえた臭いが混じっていそうだ。

 しかし龍麻は、意識を目の前に向ける事にした。いよいよ白金の取引開始を告げるベルが鳴ったのである。

「――戦闘開始コンバットオープン

 如月が、そしてアオさんがゴクリと唾を飲み込み、龍麻の前髪の奥で目がきらりと光った。

 その日、東京証券取引所に激震が走った。









 長く続いていた雨が止み、からりと晴れた朝を迎えた王蘭高校は、ちょっとしたざわめきに包まれた。

 近頃姿を見せなかった茶道部部長、如月翡翠が登校した為である。しかも【氷の男アイスマン】と陰口を叩かれる彼にしては珍しく、穏やかな口調で級友たちと挨拶を交わしたのだ。そして――

「――おはよう、橘さん」

「あ…! ――おはよう、如月君」

 思い掛けない――とは既に言えない如月の挨拶に、橘朱日も相好を崩した。

「それで…どうだったの? うまく行った?」

 最初から答えの解っている質問だ。朱日の手元の新聞には、【決戦】から三日を経てもなお収まらぬ証券界の動乱を伝える文面が所狭しと踊っている。しかし多少なりと事件に関わった身としては、やはり当人の口から聞きたい。その――勝利を。

「――ああ、全てうまく行った。証券界の癌は一時的にせよ叩き潰したし、テロリストの資金源になっていた企業は総資産の四五パーセント程を損失して、これには政府からの援助金も出ない事に決定した。大統領一家も再興資金と新たな護衛部隊を得て無事に帰国したよ。――これは君の分だ」

 ポケットから封筒を取り出し、朱日に差し出す如月。彼に促され、封筒の中を覗き込んだ朱日は、そこに入っていた小切手に記帳された数字を見て目を丸くした。

「き、如月君! これって…ッ!?」

 そこで朱日は言葉を詰まらせた。如月が悪戯っぽい微笑を浮かべつつ、人差し指を己の唇に当てたからだ。――これも、秘密だと。

「学生の身には多すぎるかも知れないけど、それは君の正当な収入だよ。まあ、違法な市場操作に対する意趣返しだから、二度とこんな事はない。大事に使う事だね」

「え、ええ…。ありがとう」

 動揺しながらも朱日は礼を述べ、封筒を大切に仕舞った。小切手の額面に記入してある数字は【金弐百萬円】。現役高校生としては決して安くない五千円の投資が、四百倍になって戻ってきたのであった。

「あの…聞いても良い? あの緋勇君、この一件で一体幾らくらい、その…儲けたの?」

 さすがにこれは小声で聞く朱日。すると如月は、苦笑を浮かべた。

「聞きたいのかい? きっと驚くよ。――総額七千六百五十億八千万円ってところかな」

「ななせ…!」

 さぞ凄いだろうとは思っていたものの、その数字は想像のレベルを遥かに超えていて、朱日は絶句するしかなかった。

「この中には他の出資者の分も含まれているから、彼の取り分はこの半分くらいかな? それでも莫大な資産である事は間違いない」

「…そんな大金、彼は一体どうするのかしら?」

「…これも驚くと思うけどね。――今回の一件で彼が儲けた金は既に七割方使ってしまったんだ。「これからは中小企業だ」と言ってね。今の日本を支えているのは支配階級気取りの大手ではなく、本当に技術を持っているのは中小企業であり、投資はそこに行くべきだというのが彼の持論だ。それらを総括できる企業支援基金を設立して、優秀な技術力がありながら、銀行の貸し渋りに苦労している中小企業…二百社くらいかな? 十年間無金利、その先も〇・〇〇一パーセントの低金利で十億円以上ずつばらまいたんだ」

「……っ!」

「更に二千億円ほどは、発展途上国における学校や病院の建設や経営、農地の整備等を支援する福祉基金の創設に投じてね。この三日だけでもダナビアを始め、アジアやアフリカ諸国、計六十の地域に対して学校と病院の建設計画を立ち上げたよ。そして基金の運営費は世界各国の中堅優良企業の株主配当で賄えるように整備済みだ。――将来的に、ノーベル平和賞を与えられるかもね。彼が、【表】で知られるようになればの話だけど」

 もはや言葉もない朱日に、如月は薄く笑った。

「――そういう男なんだよ、彼は。個人的な欲望よりも全体を見る。中小企業が活力を取り戻せば経済が活性化し、発展途上国に置ける教育と医療が充実すれば生活の改善が進み、それはいずれ世界的な平和にも繋がる。そうなれば彼にも利益が還元されるからね。――これが本物の【投資】というものだよ」

「そ、そう…。本当に凄い人ね。私もお礼を言っていたと伝えてね」

「会う機会は少なくないだろうから、自分で言うと良いよ。それに僕はちょっと、彼と決着を付けなくてはならなくてね」

 そこで僅かに、如月の微笑に冷たい硬直があったのを朱日は見逃さなかった。

「決着って…何かあったの…?」

「いや、なに、君に心配してもらうほどの事ではないんだけどね。可愛い義妹をコスプレーヤーにされかけたマリィのお義姉さんとの決着は福祉基金で煙に巻いたようだけど、僕の分は…まあ、男同士の決着と言うところかな」

 そんな事を言ってから自分でも気恥ずかしくなったのか、如月は鼻の頭を掻いた。しかし心中穏やかならぬのは事実である。何しろ今朝一番で彼から届いたのは、【出産祝い】の熨斗紙が付いた大量の紙オムツだったのだ。

 だが如月は、炎を吐く【玄武】の猛りを悟られる前に、その話を打ち切った。

「ところで――学園祭実行委員のポストはまだ空席のままなのかな?」

「え!? ええ。まだ空いたままになっているわ」

「それでは――僕が立候補しても構わないかな?」

 あまりにも意外な言葉に朱日は驚き――はしなかった。彼は確かに心に厚い壁を持っている。だがそれは彼にとって真に必要なものであったから。その裏側には温かい心も、熱い情熱も持っている。それを知った自分は【彼】の、【彼ら】の【仲間】になったのだ。

「ええ、勿論。――歓迎するわ」

 クラスメートたちが驚きの目を向ける中、差し出された如月の手を朱日はそっと、しかし強く握り返した。

「さて、文化祭の実行委員というのは、具体的にどんな事をすればいいのかな? 何しろ僕はそういう経験がない。色々と教えてもらう事があるようだ」

「ふふッ。そうね。――それじゃあまず…」

 雨の名残の水滴が久しぶりの太陽を受けて無数に輝く中を、朱日の明るく弾んだ声が渡っていった。









 第拾二話外伝 【雨月】 完









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