第壱弐話外伝 雨月 2





 翌日――



「…クッ。まだ痛むな…」

 毒そのものは漢方の【麝香丸じゃこうがん】で大方抜けているが、手当ての遅れた傷の治りは遅かった。雨の湿気のせいもあるかも知れない。そう――今日も雨が降っていた。

 のそのそと布団から這い出し、和服に着替える。――制服でないのは、今日も学校に行く気にはならないからだ。一般人とは異なる立場と使命――それを抱えたまま、何も知らずに生きている若者の群れに身を投じるのは苦痛以外の何ものでもない。昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が来ると信じて疑わず、ただ悪戯に享楽に身を浸し、無駄な時間をすごしていくだけの若者達。――そんな者たちの為に自分の使命があるのかと考えると憂鬱になる。――と、今日は休日ではないか。国民の祝日。そんな事も忘れていた自分に腹が立ち、ふとその時、一人の男の顔が脳裏に浮かぶ。今日は――厄介事とは別に。



『誰に感謝されようとも思わん。究極的には自分自身の為――自己満足の為に戦っているのだ。――とりあえず、その程度の認識でも良い』



 男はそう言う。常人では対処できぬ戦いに身を投じるのは自分たちの選んだ道だが、それを重く捉え過ぎるなと。任務、使命、宿命――呼び方は様々でも、今の自分たちは、自分たちが今感じている想いに則って動いているのだと。

 だからこそ彼は、自分以上に過激な人生を送りながら、同世代の若者の群れの中でもやって行ける。否、自分を見失わないまま、そんな若者達の中に溶け込もうと努力している。――凄い事だ。とても自分には――真似できない。

 そんな考えが、如月に昨夜の一件を思い起こさせた。

(あんな連中にしてやられるなんて、修行が足らない証拠だ。こんな事じゃ、お爺様やご先祖様に申し訳が立たない)

 飛水流の使命――江戸を護る事。現代では笑い話にすらなりかねない、如月家に代々続く使命。しかし現実に、鬼道衆なる如月家の宿敵が現代に甦り、暗躍しているのだ。そしてかつては数十数百の忍軍を抱えた飛水流も、その忍術を継承しているのは如月一人になってしまった。江戸時代に分かれた飛水の――如月の血の片割れは今や巨大な財閥となっているが、表向きは二つの家に何の関わりもなく、かの家には使命も存在しない。何よりも、飛水流の根幹たる【玄武】の【力】が継承されていない。

 鬱な気分を振り払うべく、店の戸を開け、朝の新鮮な空気を取り入れる。――が、雨が降っているので、程ほどに。骨董品は湿気や乾燥に弱いのだ。

 毎日欠かさぬ朝の日課、店内の掃除を行っていると、店の戸がカラカラと音を立てて開いた。

「いらっしゃ――」

 如月の声はそこで止まった。入ってきた人物の為だ。

「こんにちは」

 昨日と同じく、どこか冷たいと思わせる口調と表情。客は、橘朱日であった。

「君か…」

 口調が固くなる如月。

「へェ…明るい所で見ると、綺麗に片付いてて意外と良い感じ。骨董屋さんって、もっと暗いイメージがあったけど」

「…何か用かい? 用がないなら帰ってくれ」

 どうもこの少女は苦手だ。冷たい言い方をしても堪えた様子がない。それに、一晩もの間無防備を晒し、着替えさせられたという事実が、妙な負い目として感じられるのだ。

「――ご挨拶ね。これでも一応、お客として来たつもりだけど」

「…君の気に入る、いや、君の手が届く品があるとも思えないが」

「あら? 気に入るかどうかは私次第でしょ?」

 そう言うと朱日はするりと如月の脇をすり抜け、陳列された品々に目を通し始めた。

「へェ…これ珍しいわね。随分と古い鏡みたいだけど…これっていくらなの?」

「六十二万八千円だ」

「ろく――ッ!」

 これにはさすがに絶句する朱日。その、実に一般人らしい反応に、如月は少し【してやったり】という気分になった。――と、そんな事ではいかんと思い直す。

 だがしかし、朱日は別の物に目を向け直した。

「あッ、この珠の付いた首飾りも綺麗ね。こっちはいくら?」

「六十四万円」

「……」

「……」

「…それじゃ、この八角形の鏡はいくら?」

「それは少し安い。――三十八万円」

「…こっちの…数珠みたいなのは?」

「念珠と言うんだ。六万九千円」

「……」

「……」

「へェ…。どうしても私に売る気はない訳ね」

「売る気のあるなしじゃない。――言っただろう? 君の――高校生の手が届く品はないと。それに、一般人が持っていても意味がないものだ」

 老舗である如月骨董店は、商品に値札を付けるような真似はしない。多少の市場価格は設定されているにせよ、骨董品とは、それを欲しがる者がその物品にどれだけの価値を見出しているかで価格が決まるものだ。たとえ百万円出して買った品でも、他人にとってはガラクタ――それが骨董品だ。

 そんな事も知らない朱日が、なぜかムキになって値段を聞いてきたものだから、つい如月は口を滑らせてしまった。

「一般人って…それは、どういう意味?」

「君が知る必要はない」

 またしても、断ち切るような口調。本当は昨夜の礼くらいは言って置くべきだと思っていたのだが、どうしても反発心が先に立ってしまい、言い出せない。

「そう。――それじゃ」

 やはり、怒っているのか悲しんでいるかも判らぬ無表情のまま、朱日は踝を返した。すると、その眼前で戸が開き、店に入って来ようとした少年とぶつかってしまった。

「おっとッ――」

「ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げ、少年の脇をすり抜ける朱日。少年の方もちょっと会釈して、それから店内へと入った。

「――どうしたんだい、あの姉サン?」

「雨紋か…」

 休日だというのに、変形させた学生服に、ツンツンと逆立たせた金髪。そして学生には絶対にそぐわぬ品――袋に詰めた槍。やって来たのは【仲間】の一人、【真神愚連隊ラフネックス】中距離戦闘班長、雨紋雷人であった。

「ん〜、如月サン、ちょっといいかい?」

 そう言って雨紋は如月の袖をつまみ、彼を店の中央に引っ張った。

「…何の真似だ?」

「いやあ、如月サンも隅に置けないな――と」

 わざとらしく笑いながら頭を掻く雨紋に、如月は少しだけ腹を立てた。なぜ少しだけなのかと言うと、決定的な切り返しの一言を持っていたからである。

「…君も相当、龍麻君に毒されているようだね」

「――ッッ!!」

 パタン、と槍を取り落として固まる雨紋。相当酷いショックを受けたらしい。如月は【してやったり】と胸中で笑った。――いや、そんな事ではいかんと思い直す。

「それで、今日は何の用だい?」

 雨紋、再起動。

「そ、そうだよッ。そんなコト言ってる場合じゃないぜ」

「どうした? 鬼道衆にでも襲われたか?」

 雨紋の顔が真面目になる。

「なンだ。やっぱり知ってたのか。――ってコトは、如月サンも?」

「あァ。名指しで襲ってきた。――さすがに奴らも必死らしいな」

「――だな。まっ、俺サマの槍で返り討ちにしてやったけどよ。――奴らとケリ付けるまで、これからもこういうコトはあるだろうな。――如月サンも気を付けた方がいいぜ。何せ如月サンは【真神愚連隊うちら】の副長だからなァ」

「あァ。気を付けるよ」

 そこで雨紋は、少し思案顔になった。

「…なんか如月サン、顔色悪くねェ?」

「いや、いつもと同じだが」

「そっか…ならいいけどサ」

 この場で、油断して毒を喰らったと言う訳には行かない。恐らく龍麻も――【真神愚連隊】の隊長、緋勇龍麻も同じ事をするだろう。優れた指揮官もしくは階級が上の者は、下の者に対して僅かな不安要素も見せてはならないのである。

「まッ、如月サンなら、俺サマが改めて忠告する必要なんかねェよな。――じゃ、俺サマはこれからバンドの練習があっから」

「? 用はそれだけなのか?」

「あン? あァ、そうだよ」

「…それだけならわざわざここまで来なくても…電話一本で済むだろうに」

 すると雨紋は少し困ったような笑顔を見せた。

「近くまで来たからサ。――へへッ、それに如月サンの顔も見たかったしな」

「なに?」

「如月サンには日頃から世話ンなってるし、第一、俺サマたちは【仲間】じゃん? 仲間を心配するのは当然さ」

「……」

「――ほんじゃ、またなッ」

 軽やかな笑い声を残し、雨紋は店を出て行った。本当に、用はそれだけだったらしい。

 しかし、如月は雨紋の残していった言葉を反芻していた。

「【仲間】…か」

 【仲間】…傍にいるとありがたいもの。安心できるもの。そして――頼れるもの。

 祖父の言葉が思い起こされる。





『翡翠よ。忍者の極意とは何か?』

『はい――。【虚】と【実】です』

『うむ。――【虚】とはすなわち【空】の事。【実】とはすなわち【充】の事。――この世の万物、森羅万象は【中庸ちゅうよう】の状態にある。【中庸】とは、すなわち琴の弦が張り過ぎず緩み過ぎず、【中庸】にあって初めて美しい音色を奏でるように、全てにおいてバランスが取れた状態を指す』

『はい』

『しかし、どんなものにも油断の瞬間が存在する。【中庸】――最もバランスの取れた状態から、自らバランスを崩す瞬間が。その機会を逃さず行動することこそ、忍者の極意だ』

『はい』

『【虚】を見て【実】を逃がさず。【実】を見て【虚】を突く。――これすなわち忍術の――延いては兵法の極意。――我々、陰にて動く者は、相手にそれを悟らせてはならぬ。【無】の心を持ちて、常に【中庸】たれ。我らが守護神、玄武の如く硬き甲羅に心を沈め、どんな些細な事にも心動かされてはならぬ。――よいな、翡翠よ』

『はい、お爺様。――この如月翡翠、飛水流の末裔として、その責務を果たしてご覧にいれます』

『うむ。――だが翡翠よ。もし――』





 カラカラと開いた扉が、如月の黙考を破った。

「いらっしゃい――って、また君か」

 雨紋が帰るのを待っていたのだろうか? 如月は時計を見てはっとなった。物思いに耽っていたのは数分の事だと思っていたのに、雨紋が帰ってから一時間以上が経過していたのだ。

 身体が本調子でないせいか? ぼうっとして時間が経つのも忘れていたなどとは、忍者の恥だ。そんな事で使命を果たせるものか。

 そんな想いが、口調に出てしまった。ぶっきらぼうに言う。

「なぜ、僕に付きまとう? 僕に関わるなと言った筈だ。それに、家に帰ったんじゃなかったのか?」

「…近くの公園で、時間を潰してたのよ」

 やはり、朱日の表情も口調も動かない。その態度は、なぜか如月を苛立たせた。

「どう? 傷は…」

「どうって事ない。もうほとんど治っている。――いい加減、僕の事は放って置いてくれないか」

 本当は礼の一つも――そんな考えが目の前にちらついているが、如月はそれを口にできなかった。代わりに出たのは――

「はっきり言おう。――迷惑なんだ」

 きっぱりと言い切る如月。

 ――そうとも。関係ない。自分には、世間も何も、関係ない。学校に行っているのも、その方が身分をごまかすのに都合が良いからだ。下らない詰め込み教育に付き合う必要も、友達を作って享楽にふける必要もない。――誰に嫌われようと、そんな事は問題ではない。

「…哀しい

「――ッ!?」

「そういう事を言う人って二通りいるわ。一つは、本当に何もかも面倒臭がっている人。もう一つは――。…本当は、あなた――」

「……?」

 その瞬間、確かに朱日の表情が動き、口調の冷たさが消えていた。しかし――

「ううん…何でもないわ」

 一体何を言いかけたものか、朱日の表情が辛そうに歪み、すぐに元の無表情に戻った。そしてなんとも気まずい空気が店内に流れ――



 カラカラカラ…



「あッ、いらっしゃ…」

「――いらっしゃいませ」

 ――!?

 客が入ってきたというのに、呆然としてしまう如月。彼が再起動した時には――

「すいませーん。これ、見せていただけますか?」

「は〜い。どれでしょうか?」

「あの〜、これなんですけど」

「はいッ、赤と青、どちらがよろしいでしょうか? ――青はラピスラズリ、赤はカーネリアンです」

「う〜ん、それじゃ、赤で」

「はいッ、かしこまりましたッ。え〜っと、税込みで、五千円丁度になります」

「え〜っと…あったあった。それじゃ、丁度で」

「はいッ、有難うございました。――またのご来店、お待ちしておりま〜す」

「はいどうも〜」

 あれよあれよという間に、若い客はパワーストーンのブレスレットを購入し、帰って行った。

「お、おいッ、橘さん!」

 ようやく我に返った如月の前に、ひょいと五千円札が突き出される。

「一応、高校生でも手が届くものがあるじゃない。こっちのには値札も付いてるし」

「それは、高い物ばかりではやって行けないからとりあえず置いてあるものだ。確かに売れ筋ではあるが…って、違う! 一体何のつもりだ!?」

「介護ボランティアとかならやった事があるんだけど、一度、こういうのもやってみたかったの」

「やってみたかったって…」

「患者さんを着替えさせるのはちょっと自信あるけど、こっちも結構手馴れたものでしょ?」

「や、やっぱり君か!」

 なんというコトだ。この如月翡翠が、飛水流の継承者が、毒を喰らって無防備になったばかりか、同じ世代の少女に着替えまで…

「――って、違う! ――橘さん。僕の店で勝手な真似をしないでくれたまえ」

 咳払いして無理矢理平静を取り繕い、敢えて冷徹に告げる如月。しかし――明らかに慌てているのをごまかそうとしている今、かえって滑稽である。

「なに言ってるのよ。怪我してるくせに」

「もう治っていると言った筈だが?」

「――それじゃ、見せてごらんなさい」

「な、何!?」

 今度こそ、動揺を示す如月。朱日は畳み掛けるように言った。

「介護ボランティアの経験があるって言ったでしょ? 応急手当をした手前、如月君の怪我が悪化したら私にも責任があるから。――あなただって困るでしょ?」

「そ、それはそうだが…いや! そんな事はない。一人で大丈夫だ」

「…結構意地っ張りね。一人だから困っていたんでしょうに」

「……」

 どこまでも無表情、無感情な口調なので、からかわれているとも思えないのだが、如月はどうにも居心地が悪かった。そもそも彼は、同世代の女性の扱い方などマニュアルを持っていないのだ。

「それじゃ、こういうのはどう? あなたの怪我が治るまで、お店を手伝ってあげる。何で怪我をしたのか、その理由は一切聞かない。――その代わり、一つお願いがあるの」

「お願い?」

 そうか。そういう事だったのか。如月は勝手に納得した。この橘朱日は、何事か自分を利用したいが為に付きまとっているのだと。それなら――条件に合わなければ突っぱねるまでだ。――いつものように。

「えェ」

「何だ、一体?」

 付き合ってくださいとか、写真を撮らせてくださいとか言い出すんじゃないだろうな? と、似たような申し出を何度もされている如月は警戒した。しかし――

「ん――、また今度、話すわ」

 何だそれは!? と如月が再度問おうとした時である。また店の扉が開いた。そして今度も如月が止める間もなく――

「いらっしゃいませ――」

 新たに現れた客に挨拶する朱日。――如月も客の前で言い争う訳にも行かず沈黙した。そして――なぜか今日に限って次々に若い客が現れ、その応対に追われるまま、遂に彼女を追い立てる事ができなかった如月であった。









 結局、なし崩し的に店を手伝わせてしまい、もはや朱日を無碍に追い出す訳にも行かなくなってしまった如月は、座敷に彼女を招いて茶など出していた。

「――ふゥ。さすが茶道部部長さんのお点前ね。とても美味しい。――骨董品店って、結構お客さんが来るのね。ちょっと誤解してたわ」

「あァ。うちは江戸時代から続く古い店だからね。造りは小さいが、業界では大御所だよ」

「へェ。確かに店内も、古さよりも風格や歴史を感じるものね」

 こういう会話は得意ではないが、褒められて悪い気はしない。それに、彼女の接客態度に非がなかったのも、如月の態度を軟化させていた。

「そう言ってもらえるとありがたい。――店の奥に飾ってあった掛け軸も、うちのお客だった勝海舟が、店のために書いてくれたものなんだ」

「勝海舟って…あの勝海舟!? 日本史の教科書にも出てくる幕末の有名人でしょ!?」

「驚いたかい? 彼が幕府の隠密として風々斎ふうふうさいと名乗っていた頃に当時の店主と仲良くなって、その後彼がアメリカに渡った時に向こうの珍しい品々を持って来てくれたりしたんだよ」

「道理で…海外の品物も多い訳ね。――すると、ああいう刀なんかも有名どころ?」

 朱日が指差したのは、ケースの中に飾られてはいるが【非売品】と札が貼られている一振りの刀であった。

「鎖が巻いてあるところなんか、いかにも曰くありげだけど…その、いわゆる妖刀っていう奴かしら?」

「そうだよ。勢州村正朝臣あそん。日本で最も有名な妖刀だ」

 ごくあっさりと言う如月。――別に隠す必要もない事だ。蔵の中には村正銘の小刀と包丁が二振りづつ眠っている。

「妖刀って…本当なの?」

「銘は削られていて無銘扱いだけどね。――見る人が見れば判る。素人でも、左右揃った乱れ刃紋を見分けることは容易だよ」

「でも…妖刀なんでしょ? 危なくないの?」

「橘さんも妖刀伝説を信じているのかい? そもそも村正の妖刀伝説は、たまたま徳川家の人間が何人か、村正銘の刀や槍で怪我をした事から発生した、いわば言いがかりなんだよ」

 ここは、ちょっとした歴史上の無駄知識である。しかし朱日が聞きたそうにしているので、如月は続けた。

「村正は室町時代から江戸時代初期まで三代続いた刀工で、初代村正はかの岡崎五郎入道正宗に師事したと民間伝承があるほどの名工だったんだけど、実用本位の職人気質の人だったらしくて、実にたくさんの作品を安価で世に送り出していたらしいんだ。そして村正発祥の地である伊勢の桑名は徳川の支配地であった三河に近い。当然、当時から有名で、性能も良く安価な村正の刀が徳川に流通したとしても、少しもおかしくない。つまり村正で怪我をしたと言っても、それは偶然の範囲内であるという説があるんだ。しかし縁起を担いだ徳川家が出した村正処分令で大部分が処分されてしまい、その性能を惜しんだ一部の人たちが銘の切り直しなどの工夫で世に残した事でその価値が非常に高まり、それが伝奇的な伝説を生み出すに至ったんだ。徳川家康に切りつけた真田幸村や、幕府転覆を図った由井正雪といった有名人が所有していたのも、伝説に拍車をかけたんだけどね」

 【それ】を持ち込んだ男の事を思い出し、苦笑する如月。彼は最初から妖刀というものなど信じていなかった。しかし自己暗示や殺人衝動を起こす要素を持っているようだから、ここで封印して欲しいと頼みに来たのだ。――そういうのを【妖刀】と称するのだが。

「ただし、【あれ】は本物だ。勢州村正とは言ったけど、僕の見立てでは、あれは初代村正が世の平穏を願って【妙法村正】を製作する際、みそぎとして打ち上げた、言わば【妙法村正】の陰となる一振りだ。本物の【妙法村正】と寸分違わぬ造りだけど、刀身には法華経の真言が刻まれていない。初代村正はあの刀に、自分の内にある殺気や煩悩を全て打ち込み、澄んだ心で【妙法村正】の製作に臨んだ。その一方で、【陰】の【妙法村正】は神に逢うては神を斬り、魔物に逢うては魔物を斬る――そういう刀になったんだ。もともと道具というものは長い時代を経る事によって魂を得る事がある。特に刀は刀工の念が打ち込まれる上、本来は人殺しの道具だからね。あの刀も随分とたくさんの人の命を奪い、その果てに凶悪な【力】を得た。今はあの鎖の力でおとなしくしているけど、もう売り物にはならない品だよ」

「【力】…ね。私は現実主義であろうとは思うけど、まだ科学では説明できない事もたくさんあるから、信じるわ。――如月君の家って凄いわね」

「――まあね」

 珍しく、少し照れて鼻の頭を掻く。こういうのもたまには――悪くない。

「そんな訳で僕の家は先祖代々――」

 だが、【先祖】という単語を口にした事で、祖父の言葉が思い出されて如月ははっと口を押さえた。



――飛水家の使命は江戸の守護

――常に【中庸】であれ

――飛水家の者として、使命を全うする事だけを考えよ



 ふと気付くと、急に黙り込んだ如月を心配して、朱日が彼の顔を覗き込んでいた。

「…大丈夫? 傷…痛むの?」

「い、いや、そういう訳じゃない」

 勝海舟や村正の説明をしていた時とは違う、固い返事。朱日は少しだけ眉をしかめた。

 と、その時である。

「クッソー、スッゲェ雨だぜ。――如月サン、いるか〜い?」

(あの声は…まずい!)

 如月がそう思った時には既に遅く、朱日は立ち上がっていた。

「お客さんかしら? 閉店の札は出しておいた筈なんだけど」

「ちょ、ちょっと待った! ――待って!」

 慌てて立ち上がった弾みで茶をこぼしてしまう如月。そのせいで出遅れる。

「え? なに?」

 こぼした茶と格闘している如月を尻目に、再度響く声。

「お〜い、如月サン。いねェのかい? それとも座敷の方か〜い?」

「は〜いッ。ただいま――」

「だ、だから行かなくていい!」

 珍しく泡を食う如月であったが、声の主はずかずかと上がり込んできてしまう。

「何だ。いるんじゃねェの、如月サン。――って、あれ? アンタ、昼間会った――」

「あッ、あの時、お店に入ってきた――」

 唇を噛む如月。よりによってこんな所を、この雨紋雷人に見られるとは…!

「私、如月君の同級生で、橘朱日といいます」

「あァ、同級生。なるほど、そっか。――俺サマは雨紋雷人。ガッコは違うけど、如月サンの後輩ってトコさ。――ヨロシクッ」

「ふふふっ、こちらこそ、よろしく」

 この雨紋は、見かけと違って人当たりがいい。一度でも話せば人となりが判るから、他人と打ち解けるのも早いのだが――

「ところでアンタ、ひょっとして如月サンの彼女?」

「えッ!?」

「ゲホゲホゴホッ!!」

 文句を言う前に、思いっきり咳き込んでしまう如月。雨紋はきょとんとした顔で、

「アレ? 違うのかよ?」

「たッ、ただの同級生よ」

 とりあえず言いたい事は朱日が言ってくれたものの、如月は心中穏やかではなかった。

(雨紋…後で殺す…!)

 思わずそんな物騒な考えを思い浮かべてしまう如月であったが、雨紋はそれを確定的なものにしてのけた。

「なァんだ。つまんねェなァ。せっかくミンナにバラそうと思ったのに」

(雨紋…後じゃなくて今死にたいか…!)

「あン? どうしたんだよ、如月サン。グーをプルプルしちゃってさ。寒いのかい?」

「…ふッ、気のせいだ」

「ふ〜ん…。まっ、そうだよな。――そういや朱日サンは知ってるかい? 如月サンって忍――」

 その瞬間、雨紋の口に湯のみが飛び込んだ。

「雨紋! ――茶だ!」

「モゴモガムガァッ!」

「さあ呑め! 今呑め! もっと呑め!」

 問答無用で茶を雨紋の口に流し込む如月。いきなりの暴挙に雨紋は暴れるが、如月がツボを押さえている為に逃げられない!

「にん――って何?」

「にん――ニンニクが嫌いなんだ! あと十字架も! ――そうだな、雨紋…!」

 ドスの効いた声で因果を含める如月。しかし雨紋はお茶で溺れているので返事ができない。

「はあ…ドラキュラみたいね。でも…如月君。彼――溺れてない?」

「あッ!? ――い、いや、別に」

 如月が手を放すと、雨紋は盛大にゲホゲホと咳き込んだ。

「き、き、如月サン! 俺サマを殺す気かよォッ!?」

「あ、あァ、すまん」

 かなりヤバい状況だったようで、本気で涙目になっている雨紋に、しかし如月は咳払いを一つして、

「そんな事より、雨紋。僕に用事があって来たんじゃないのか?」

 話を逸らす。すると雨紋はすぐに復活した。

「――そうそうッ、忘れるトコだったぜ。まァ、そんな大した用事じゃないんだけどよォ…。俺サマのバンド! 【CROW】のライブが決まったンだぜ!」

「ほう…」

「渋谷の円山町にあるライブスタジオでなッ。――へへへッ、スゴイだろッ?」

「……」

「……」

「………………凄いのか?」

 イマイチピンと来なかった如月の一言に、雨紋は胸を押さえてへなへなと崩れ落ちた。

「き、如月サン…。それ…無茶苦茶キッツいぜ…! でもまァ、如月サンに聞いたのが間違いだったか…」

 その時、フフフッと笑い声が上がる。朱日のものだ。

「まッ、いっか。――如月サンにも聞きに来て欲しくてさ、チケット持ってきたんだよ。良かったら、受け取ってくれよッ?」

「…まあ、くれると言うなら貰っておこう」

 それなりに造りの良いチケットを差し出す雨紋。特に音楽に興味はないが、せっかく上機嫌でいる彼を凹ます事もあるまいと、如月はチケットを受け取った。

「サンキュー、如月サン!」

「あァ。一応、楽しみにしておくよ」

「――へへへッ、一応…ね。――そうだ、朱日サンにもあげるから、一緒に来てくれよなッ」

「えッ!? あ…ありがとう」

 余程嬉しいのか、雨紋は鼻高々に満面を笑みに埋める。

「そーだッ、アランも来るって言ってるから、一緒に楽屋まで遊びに来てくれよな」

「――解った」

「ホント、楽しみにしてくれよッ。最ッ高の夜にするからよッ。――じゃ、もう帰るぜ。この後龍麻サンとこにも寄らなきゃならねェし――あんまり邪魔しても悪ィからな」

「だから! 違うと言っているだろう――って、何だ。龍麻君のところにはまだ行っていなかったのかい?」

 そこで少しだけ雨紋は思案顔になった。

「あァ。実は先に龍麻サンとこ行ったんだけど…なんだかエラく不機嫌そうに見えたんで話し掛けるの辞めたんだ。――京一やら醍醐サンたちもビクビクしてたな」

「龍麻君が不機嫌? ――珍しい事もあるものだ」

「まァ、せっかくのライブだから龍麻サンにも来て欲しいし、今度はちゃんと話してみるよ。――それじゃお二人さん、ごゆっくり」

 スチャッと敬礼などして去っていく雨紋。朱日は笑いながら「さようなら」と言ったが、如月は塩を撒きたい気分であった。

「やれやれ…。雨紋にも困ったものだ」

 我知らず、頭を掻く。すると朱日がふふっと笑い声を立てた。

「? ――なんだい?」

「如月君も、そういう顔をする時あるんだ――って思って」

「…僕は、普段と変わらないと思うが…」

「そういう事って、自分では気付かないものよ」

「…そうなのか?」

「えェ。だって…私もそうだから…」

「君も?」

 そう言われて、初めて如月は気付いた。――接客をしている時、店の話をしている時、そして今――彼女の表情も口調も柔らかく豊かに弾んでいる。

「ねェ、如月君…一人でいて、寂しくない?」

「? ――特にそう感じた事は…いや…たまにはあるかな…?」

 そんな事、今まで考えた事もなかった。そもそも、そんな質問をぶつけてくるほど親しい者はいなかったのだ。

「…おかしいな。昔は、こんな事、考えもしなかった。――いつからかな? そう感じるようになったのは…」

 飛水流に伝わる使命を護る事。それが自分の存在意義だった筈だ。寂しいとか辛いとか言うのは忍者にとって恥である。それなのに――今の自分は…

「…いや、君にこんな事を言っても仕方ないな」

「…そうでもないわ。その気持ち、私も解る。だって…私もそうだから…」

「君も?」

 そう言われても、とっさには信じられない。先ほどの接客態度や、勝海舟や村正に対する知識…人当たりも勉強も良くできる筈だ。

「如月君、あまり学校に来ないし、来てもすぐに帰っちゃうから解らないかも知れないけど、私、クラスでなんて言われてると思う?」

「いや…解らないな」

「…成績が良くて、クラス委員で、クラスメート達の人望も厚い。でも――誰にも心を開かず、仲の良い友達は皆無。何を考えているのか解らない【冷血女】――」

「……」

「如月君に初めて会った時から思ってた…。あァ、この人は私なんだ――って。人一倍、人恋しい癖に、心を閉ざしている人。孤独になるのを怖がるあまり、友達を作る事さえしない。――だって、そうよね。どんなに仲良くなった友達だって、いつかは離れて行く…。その時、その寂しさに自分が耐えられないって解っているから。――さっき、雨紋君と話しているのを見て、改めて、そう思ったの。私と――似ているって」

 何か…妙な雲行きだ。如月は思った。こんな心境を打ち明けられても、自分にはマニュアルがない。ただ――自分と似ていると感じたのは、なんとなく理解できる。ただし、根本的なところが決定的に違っているが。

「…君は変わっているな。そんなに親しくもない僕に、そんな話をするなんて」

「え…?」

「そんな風に話し掛けられたのは初めて――いや、厳密には二回目だよ」

「二回目?」

「あァ。僕はここ数年、ずっと一人で暮らしてきたから、一人の生活が当たり前だと思っていた。それを、そう思い込んでいるだけだと言った――気付かせてくれた男がいたんだよ」

 最近は妙な事を覚えたりして迷惑をかける事も増えたが、鮮烈な生き方をしている男の顔が浮かぶ。あの男が一人でいた期間は自分より遥かに短いが…友達どころか、生死を共にした仲間を奪われ、たった一人で生きる事を余儀なくされたのだ。だが彼は、それを【孤独】と認識する事すらしなかった。自分が生き続ける事で、常に自分が【仲間】と共にあるとして。

「そんな人がいたんだ…。でも、どうして一人で骨董屋さんを?」

「話せば長い事だが――簡単に言うと、考古学の研究で年中海外を飛び回っている両親が他界して、僕を世話していた祖父がそのまま僕を引き取る事になった。この店は、祖父の店なんだ」

「そう…なんだ…」

「祖父は厳格な人でね。古い格式や家の伝統を重んじる人だった。僕も小さい頃からそういう事を教えられたんだ。如月の家の事、自分の為すべき事、そういった事をね」

「なんだか…凄い話…」

「その祖父も数年前に、【店を頼む】と書置きを残してどこかに消えてしまった。――それ以来音信不通。その直前まで色々と仕込まれていたから、祖父の代わりを務めてこの店をやっているのさ。最近では業界でも認められるようになったしね」

 なぜか、今日は喋り過ぎる。如月はそう感じていた。やはり、少し気弱になっているのかも知れない。

「そっか…。如月君も大変なんだね…」

「――それ程でもない」

 不意に、如月は怒りにも似た苛立ちを覚えた。

「他人に大変だと思われるような生活をしているつもりはない」

 これは、自分が望んでやっている事だ。同情だろうと蔑みであろうと、他人にとやかく言われる事ではない。

 だから嫌なのだ。同世代の若者と関わりあうのは。目先の事、【虚】にとらわれ、【実】を見ようとしない。大変な生活をしている人間を見れば同情する――本人にとっては優しさのつもりだろうが、それは同時に、その人間を馬鹿にしている事にも通じるのだ。本人の気持ちも知らず、その状況のみ見てかわいそうだと同情する事で、自分がさも優しい人間だと、恵まれているのだと、無意識的自己陶酔に浸る。――そんな人間ばかりだ。

 如月が知るもう一つの世界――アンダーグラウンドに生きる者たちは違う。どんなに苦しかろうが、辛かろうが、恵まれていようが、裕福であろうが、誰もが生きる事に必死だ。今日の食い物すらない者は飢えと戦い、裕福で美味飽食に明け暮れる者も、その富を守らんが為に戦っている。陰謀と謀略が絡み合い、しかし信頼や恩義が真に生きる世界。そんな世界を知っている如月には、【現代】の【表】の世界は薄っぺらな三文芝居にも見えるのだ。

「――下らない話をしたな。忘れてくれ」

 この世界の【虚実】を知らぬ者、気付かぬ者、あるいは――気付きつつも見ようともしない者とは、所詮自分は相容れない。如月は断ち切るように言った。

「そう…。でもありがとう、如月君。私なんかに、大切な話をしてくれて」

「別に君だから特別という訳じゃない。それ以前に、自分を【なんか】なんて言うな」

「うん。そうね。ごめんなさい。でも――単純に嬉しかったの。だって…」

 そこまで言った時である。再び店の扉が、先程よりも柄の悪い音を立てた。

「おうッ、骨董屋! ――いるかいッ!?」

「あッ、また誰か来たみたい。――ここって、閉店してもお客さんが来るのね。でもなんだか、借金取りの声みたい…」

「…ッッ!」

 思わずガクっとする如月。よりにもよって、借金取りとは…。まァ、【彼女】の掛け声ならそう思うのも無理はないだろうが…。

「ちょいと邪魔するぜェ。――いよォ、骨董…やッ…」

 朱日が立ち上がろうとするよりも早く、ズカズカと座敷まで上がりこんでくる【彼女】――であったが、座敷の中を見た途端、固まった。

「――姉様、そんな風に人様の家に図々しく上がるものでは――」 

その背後に、【彼女】とそっくりな少女が続く。そして――やはり固まった。

『………………』

 絡み合う四対の視線と、一方的に気まずい雰囲気。

「あの…いらっしゃいませ…」

 沈黙に居たたまれなくなった朱日がまず口を開き、雰囲気は異なるものの顔立ちがそっくりな少女達の視線が彼女に向く。表情は…ない。

「…やァ。織部さんたち…」

 取り敢えず口を開いた如月であったが、その途端、ポニーテールの少女に物凄い勢いで胸倉を掴み上げられた。

「――なんだなんだなんだなんだッ!? この子なんだッ!? お前の彼女かッ!? 偏屈で守銭奴で気取り屋で招き猫マニアのお前にッ!? 一体どこから拉致って来たッ!? お前にしては良くやったと思い切り褒めてやるからさあさっさと白状しろこのむっつりスケベ!」

「ぐぐ…苦しッ…ッ!」

 普段ならばこんな風に胸倉を掴まれる事などないのだが、何しろ治り切っていない傷が痛んでいたのと、「むっはーッ!」と鼻息荒く、腹ペコの最中にお菓子の家を発見したヘンゼルとグレーテルもかくやという興味津々を通り過ぎてある意味イッちゃった目をした少女…織部雪乃の迫力に身が竦んでしまった如月は、恐らく彼女自身無意識なのだろうが襟締めに極められてしまい、あっという間に意識が闇に沈みかけた。

「――姉様。それでは如月様の息の根が止まってしまいますわ。どうか落ち着いてください」

 落ち着いた物腰で雪乃の暴走を押さえる彼女の双子の妹…織部雛乃。しかし如月が酸素を求めて思い切り深呼吸をした直後、

「さあ如月様、わたくしもこのような事を聞こうなどとは差し出がましいと思うのですが、やはりここは今後発生する可能性のある大きな誤解を未然に防ぐ為にも今この場で大いに納得できる説明をしていただきたいと存じます。勿論賢明な如月様の事ですから口が災いの元である事は重々承知の事とは存じますが、このような状況に対してわたくしたちが不慣れであるのをいいことに虚偽申し立てをした場合、わたくしたちにもそれなりの覚悟がございます事を念頭に置いてどうか思う存分申し開き下さいませ」

 おっとりと穏やかな微笑を浮かべているにも関わらず、姉に負けず劣らず「むっはーッ」と鼻息荒くイッちゃった目をして懇切丁寧に言う雛乃。――さすが双子の姉妹。快活そうな姉とおとなしそうな妹…雰囲気はまるで正反対なのに、脳の構造は同じだ。

「…君たちが僕の事をどう見ているのかよ……っく解ったよ…」

 本人を前にそれだけ言えれば、本当に立派だ。雪乃は男勝りな性格だから、百歩譲ってそんな反応も想像できたが、まさか雛乃までとは…。

「ンな事ァどうでも良いじゃねェか。この子何なのさ? ――バイトだなんて月並みな嘘は通用しねェぞ。こんな顔が良いだけの偏屈モンが店主やってる怪しげなグッズ売り放題の店にバイトなんか来る訳ねェもんなッ」

 ゴホン! と咳払いして気を落ち着かせ、如月は努めて冷静に言った。

「…いい加減にしてくれたまえ。彼女はただの同級生だ」

「――またまたッ。それも使い古されてるぜッ。――この色男ッ」

「そうですわ。そんなありきたりな説明では納得できません」

 如月の言葉が終わらぬ内に速攻で否定する雪乃は、心底楽しそうにニシャニシャと笑いながら如月を肘で小突く。普段は姉の陰に隠れている事の多い雛乃も身を乗り出して、期待感に目を爛々と輝かせている。――如月は盛大にため息を付いた。

「一体どう言えば信じてくれるんだい? ――君たちも龍麻君と高見沢さんに随分と毒されているようだね」

 カラン、と雪乃の、そして雛乃の手からそれぞれ薙刀と弓が落ちた。――雪乃はカクン、と口を開けたまま固まり、雛乃に至っては貧血にでも襲われたか、フラフラっと床に倒れこむ。

 【してやったり】――これぞ忍者の面目躍如。【虚】を掴ませて【実】を制する。これぞ兵法の極意である。

 取り敢えず再起動するのは、雛乃の方が早かった。

「――姉様、確かにこの方は王蘭学院の制服をお召しになられています。――残念ですが、本当に如月様の御学友かと思われます」

(今まで気付かなかったのか!? それ以前に、何が残念なんだ!?)

 それこそ声を大にして突っ込み、丸一日でも問い詰めたい如月であったが、そこは自分の【使命】を思い出して全力で自制する。

「そ、そうか…。珍しく疲れた顔をしているからオレはてっきりそうだと…」

(てっきり…何がどう【そう】だというんだ!?)

 こちらも再起動した雪乃の言に、神経をかんながけされてしまった如月であったが、堪忍袋に南京錠を下ろし、事務的な口調で言った。

「改めて紹介するが、彼女は――同級生の橘朱日さんだ」

 王蘭学院では【アイスマン】とまで言われている男にここまで体当たりで接する事ができる人間…それも女の子がいると知って呆然としていた朱日であったが、如月に促されて一歩前に出た。

「はじめまして、橘朱日です」

 ぺこりと頭を下げる。雪乃は後頭部に左手を当てて軽く会釈し、雛乃は深々と頭を下げて挨拶を返した。

「――オレは織部雪乃ッ。荒川区にあるゆきみヶ原高校の三年だ。織部神社っていうトコの巫女でもあって、ま、困った事があればいつでも相談に乗るぜッ。――で、こっちが妹の雛だ」

「はじめまして。織部が妹――雛乃と申します。――どうもお見苦しいところをお見せいたしまして。どうかお気になさらず、以後、よろしくお見知り置き下さいませ」

「ど、どうも…。私の方こそ、よろしく」

 もう一度頭を下げ、次いで二人をまじまじと見てしまう朱日。

「ん――? オレたちの顔、なんか付いてる?」

「い、いえっ。ごめんなさい。――双子の巫女さんって、凄いと思って」

 すると雪乃は男の子の様なはにかみ笑いを見せ、雛乃を前に押し出した。

「いやぁ〜ッ、オレはどっちかっつーとあの格好苦手でさッ。こっちの雛だったら似合うんだけどなッ」

「まあ、姉様ったら。またそんな事言って…」

 ぬははと雪乃が笑い、朱日もつられて笑う。そして雛乃も、ぷっと吹き出した。――これで三人とも、新しい友人ができた事になる。

「ははは。な〜んか、アレだな。アンタがいてくれてさ、なんかホッとした。なッ、雛?」

「同感ですわ、姉様」

 双子の姉妹は向かい合って笑みを浮かべる。朱日にはその意味が解らなかったのだが、雪乃が如月に向き直った。

「大したことじゃねェけどさ、骨董屋にもちゃんと学校の友達がいるんだ――ってな。――お前ってガッチガチに固いところがあるから、なんとなく気にしてたんだ」

「…彼女は友達じゃない。ただの同級生だ」

 如月は言下に否定する。

「――何だよォ。同じ事じゃねェか」

「――いいや。僕には何の関わりもないし、この先、関わり合いになる事もない」

 その時、朱日の表情が曇ったのを雪乃も雛乃も見逃さなかった。――彼女達が気付いたという事は、如月も当然、気付いていたのだが、彼は取り消そうとも訂正しようとも思わなかった。

「あらら、言い切っちゃったよ」

 雪乃はごく軽く言った。

「まッ、お前が同級生の事をどう思おうと勝手だけど、ちょっとくらい肩の力を抜いてみちゃどうだ? あんまり使命だ宿星だ――って凝り固まってると、独身街道まっしぐら、因業爺に一直線だぜ? ただでさえ骨董屋で、嵌まり過ぎなんだからよッ」

「………」

 確かに死線を共に潜り抜けてきた【仲間】ではあるが、こうまでズケズケとものを言われてさすがに如月は沈黙する。

「――お気を悪くなさらないでください、如月様」

 雛乃がそっと、姉の無礼をフォローする。

「姉様は如月様の事を案じております。乱暴な物言いではありますが、大切な【仲間】を思う気持は私と一緒ですわ」

「オイオイ、雛ッ。半分はそうだけど、もう半分はからかってるだけだぞ?」

「もう…またそんな事を…」

 二人が自分の身を案じてくれているのはよく承知している。しかしやはり、使命と宿命は微妙に違うものだ。これは――混同するべきではない。

「ところで、この雨の中、今日の用事はなんなんだい? 別に遊びに来たという訳ではないのだろう?」

 これ以上、この話題には触れたくない。如月は話を逸らした。

「あ――と、そうだ。今日は雛の弓を見てもらいに来たんだよッ」

「弓? それはまた…なぜ?」

 雛乃がそっと、自分の弓を示す。

「実は先日、弦を切ってしまいまして、どうもそれ以来調子が上がらないのです。弦を何度張り直してもうまく行かなくて…」

「――雛も手入れは欠かしてねェし、見た目はどこも悪いトコがねェんだ。そうなるとやっぱり専門家に任せるか――って事で、ここに持って来たんだよ」

 ふむと頷き、如月は雛乃から弓を受け取り、袋から出して仔細に目を凝らした。

 彼女の使用している弓はここ如月骨董店でもかなり値の張る品だ。【陰陽の弓】。由緒正しい【力】を持つ品で、これを真の意味で使いこなせる者は限られてくる。しかし…。

「うむ…。見た目こそ問題はなさそうだが、弓自体の生命力が落ちているね」

「えッ…?」

「武具も生き物だよ。今まで随分活躍して、疲れているんだ。――直せない事はないけど、時間がかかる。それに…弓自身も、いよいよ君が更なる高みを目指す事を望んでいるようだ。この弓は、もはや自分では君の実力を引き出す事はできないと解っているんだよ」

「そう…ですか…」

 返された弓を愛しそうに撫でる雛乃。彼女の三年越しのライバルにして親友、そして【仲間】である真神学園の桜井小蒔に送った物と対になる弓である。愛着も思い出もあるのだ。別れを惜しむのは、むしろ当然の事であった。

「君の気持ちも解るが、別に永劫の別れという訳ではないよ。弓は道具だが、教師でもある。君はこの【陰陽の弓】から卒業するんだ。そして【彼】は新たな生徒が現れるまで少し休む。――そういう事だよ」

「…はい」

 少し寂しそうにしつつも、笑顔を見せる雛乃。もう一度弓を愛しそうに撫でてから袋に納め、如月に差し出す。

「修繕は充分時間を掛けて念入りにやってもらうよ。帰ってきたら連絡する。それで良いかな?」

「はい。それで…あの…」

「?」

 少し、言い出し難そうにもじもじする雛乃。そこで雪乃が前に乗り出す。

「すぐに直るって訳じゃないなら、代わりの弓を見繕ってやってくんねェか?」

「――!? あァ…今なら手頃な在庫があるが…急ぐのかい?」

「ああ…ちょっと耳貸せ、骨董屋」

 雪乃はちらっと朱日を眺め、それから指でちょいちょいと如月を手招いた。

(奴ら――うちの神社まで押しかけてきやがったんだよ)

(!? ――鬼道衆か)

(さようでございます。私の弓の弦が切れたのは、その節の事でございます。――聞けば高見沢様や紫暮様も…。如月様の方はお変わりありませんか?)

(いや、僕は大丈夫だ。――ひょっとして龍麻君が不機嫌なのはそのせいかな)

(そっちの方は知らねェけど、奴らもいよいよ個別撃破を狙ってやがるぜ。――顔色悪ィけど、本当に大丈夫か?)

(あァ。君たちが心配するほどの事じゃない)

(…そうですか。でも、くれぐれもお気をつけになって下さいませ)

(解った。君たちも用心してくれよ)

 一連の会話は、龍麻から教わった特殊な会話法を用いているので、朱日にはまったく聞こえていない。仮に聞こえていたとしても、言語そのものが日本語とも英悟とも異なるので、彼ら【真神愚連隊】以外の者にはまったく理解できない。

 そして如月は、普通の口調に戻った。

「――なるほど。大事な試合を控えているとなれば、良い弓なしでは始まらないね。ここは少々、僕も勉強させてもらおう」

「ああ。頼むぜッ」

 朱日に下手な疑問を抱かせぬ為にさらりと口裏を合わせる。ちょっと待つように言い、如月は店の裏手にある蔵まで行き、木箱に納まったままの弓を二本ほど選び出して戻ってきた。【常に最良の装備を】と龍麻に頼まれているので、仲間たちの実力に相応しい武具は日頃からチェックしている。代金も龍麻から預かっているので、仲間たちは安心してかなり高額な品でも購入できるのであった。

「――この辺りでは、どうかな?」

 如月が選び出したのは【与一の弓】、【花栄の弓】。並の人間には単なる高品質の弓だが、共に【陰陽の弓】より高位の【力】を持つ品で、彼ら【神威】の【力】をより強く引き出す能力を持つ。ただし、使用者の力量が足りないとまともに弦を引く事さえできない。

 雛乃は手甲と胸当てを付け、【与一の弓】から弦を引き絞って調子を見た。

 朱日は雛乃の真剣な眼差しと、背筋をピンと伸ばした姿勢の美しさにうっとりするような感動を覚えた。一芸に秀でるという事はこれほどまでに美しいものか。同時に、これほどの実力があればこそ、あの如月と対等に話せるのだとも理解する朱日であった。

 しかし雛乃は、弓道を知る者からすれば首を捻るような事もした。

 最初こそ、正当な作法に則って扱っていた弓を、激しい動きの中で構えたのである。本来はどっしりと足場を固めるべきところを、空手や拳法で言う【三才歩】で移動しつつ弓を構える。その射線は固定目標を狙うものではなく、明らかに移動目標を狙うもので、射撃姿勢を維持したまま、柱や天井板が織り成すラインをなぞるように狙いを移動させ、身体の前面百度圏内に対してスムーズな射撃ができるかチェックしている。それは――実戦の構えであった。

 続いて雛乃は、【花栄の弓】も同様にチェックした。正当な作法から、実戦的な構えへ。朱日の目にはどちらの弓でもスムーズに、実戦的な荒々しさも優雅で美しく見えたのだが…。

「――如月様。私はこちらの【与一の弓】を選びとうございます」

「うん。君がそう言うならば。――僕には【花栄の弓】も使いこなしているように見えたが、何か問題でも?」

 すると雛乃はおっとりと微笑しつつ、

「はい…。こちらの【花栄の弓】も大変良い品である事は解りましたが、私の力量ではまだ至らぬかと存じます。――試合には良いかと思うのですが」

 如月は少し目を見開き、次いで僅かに微笑を浮かべた。

 雛乃は【実戦】を主眼に置いて【与一の弓】を選んだのだ。彼女の力量ならば【花栄の弓】も使いこなせる。だが彼女自身は弦の引き分け(弦を引く力)を【重い】と感じたのだ。それは極めてささやかな違いではあったが、【実戦】ではそれが致命的な事態を招く事があると、彼女は良く理解しているのだ。

 武器は自分の力量に応じ、【可能な限り多様な状況下で、完全に使いこなせる】物を選ぶべきなのだ。

 龍麻を例に挙げよう。――彼は銃を状況に合わせて使い分けている。常用するのは九ミリ軍用弾パラベラムを使用するグロック19、耐久力や防御力に優れる相手に対しては三五七マグナム弾を使用するコルト・コンバット・パイソンである。

 単純に威力だけを比較するのであれば、三五七マグナムの方が強力である。自動車のエンジンすら撃ち抜くパワーは人体には強力過ぎるとされ、魔物相手でも充分な効果が期待できる。

 ならばいっその事、三五七マグナムだけを用意すれば良いのではないか? 素人ならばそう考える。しかし強力なマグナム弾にも欠点は存在するのである。

 強力であるが故に、それを発射できる拳銃は堅牢に、重く造られている。弾丸自体も大量の火薬パウダーを納める為の長い薬莢カートリッジを有し、一発一発が大きく、重い。発砲時の反動リコイルも強い為に筋肉への負担も大きく、一日に五〇発も撃てば慣れた者でも一両日中は腕が使い物にならなくなる。また、生死に関わる場面で確実な発砲を望む為には絶対に回転式拳銃リボルバーに限り、その為に装弾数が限定され、弾丸の再装填リロードにも時間がかかる。

 だからこそ龍麻は、ここぞという場面でしかマグナムを使用しない。そしてマグナムより威力が劣るとは言え、九ミリ軍用弾パラ使用のグロック19は装弾数十五プラス一発。二発撃ち込んで威力を補い、なおお釣が来る。しかもスピード・ローダーを使用するマグナム弾は携帯時にやたらとかさばるが、自動拳銃の弾倉は平面的な角柱なのですっきりと納まる上、慣れれば再装填にも二秒とかからない。更にSIGやベレッタなど、名機が目白押しの九ミリ自動拳銃の中から、時に【垢抜けない】と評されるグロックを選んだのは、硬質樹脂を多用して本体重量を軽減しつつもスライドの重量を増して反動の軽減に成功し、単純な射撃機構の採用で整備性を高め、プレス加工生産により品質が均一且つ安価な交換パーツを有し、野暮ったいデザインが実は抜き撃ち時の着衣への引っ掛かりを防ぐなど、彼の生きる環境に相応しい条件を揃えているからだ。そしてモデル19を選んだのは、装弾数を二発犠牲にしてもモデル17よりも短い銃身長で、且つ携帯性重視のモデル26よりも五発ファイアパワーが勝るからである。

 これが、戦術思想というものだ。威力のみ追求して他の部分をおろそかにしては、【実戦】を生き延びる事は出来ないのである。雛乃はその点を良く弁えていて、【花栄の弓】より若干威力は劣っても、どんな状態でも素早く扱いきれる【与一の弓】を選んだのであった。

「それでは受け取りに署名を。――こちらの矢はサービスだ」

「オッ!? 今日は気前が良いじゃねェか。いつもはビタ一文まけねェ癖にさッ」

 再び、何やらにしゃにしゃと笑いながら、雪乃。すると如月は、やや口の端に固い笑いを浮かべつつ切り返した。

「雛乃さんは商品を壊したりしないからね。――例えば君が先日薙刀を見た時に壊した備前焼の壷は――」

「わ、判った判ったッ。オレが悪かったッ」

 即座に白旗を掲げ、両手を合わせて拝む雪乃。まあ、こうしてすぐに謝るところが、真神の蓬莱寺京一よりずっとマシである。

「――ん? 何かお前、失礼なコト考えてねェか?」

「――いや、別に」

 表情にでも出ていたのだろうか? 気を付けねばと胸中で唸った時、雛乃が受け取り証明にサインを終え、如月に差し出した。

「うむ。――それでは、手続きは僕の方でしておくよ」

 手続きとは、龍麻への連絡だ。装備の買い替えは自由だが、記録は残す。彼は収支にはシビアである。

「ああ、頼むぜ。――それじゃ、オレ達はそろそろ帰るぜ。――じゃあな、朱日さんッ」

「それでは失礼いたします。橘様も、ごきげんよう」

 雪乃は手を振り、雛乃は深々と頭を下げる。朱日も笑みと共に礼を返した。

「さようなら。――また、お会いしましょう」

 店の戸が閉まり、二人の姿が見えなくなるまで、朱日は如月と共に彼女たちを見送った。

「素敵な方たちね。雪乃さんは元気一杯だし、雛乃さんは話していてとっても安らぐし。――如月君って、意外と友達多いのね?」

「友達? 彼女達は、別に友達という訳ではないよ」

「!? それじゃ、どういう知り合い?」

「…君には関係のない事だ。少なくとも、君の想像を遥かに超える関係である事は間違いない」

 同じ目的を――この東京を守るという使命を持つ【仲間】だなどと、どうして一般人に説明できようか? そんな事を言ったところで、一笑に伏されるのが落ちだ。飛水の者、そして織部の者が背負う【宿星】の重さは、当人達にしか解らない。最低でも、【仲間】たちにしか解らない。

(そうとも…橘さんには関係ない。彼女は僕たち――僕と関わってはならない人間だ)

 そう断ずる如月であったが、すると小さく胸が痛んだ。傷の痛みかとも思ったが、どうやらこの痛みはもっと奥で疼いているようだ。

「…肝心な事は、何も教えてくれないのね。まあ、想像を遥かに超えるとまで言われたら聞くに聞けないけど」

「君に教える所以はないよ。これ以上、僕の事を詮索しないでくれ。その方が君のためだ」

 自ら危険に踏み込む事はない。この戦いは闇対闇、影対影の闘争だ。表の人間が立ち入る隙はない。

「そう…そこまで重大な事なのね」

「そうだ。君はもう、ここには来ない方が良い」

「………私、そんなに迷惑? ………ずるいのね、如月君って」

 ずるいと言われ、その意を少し考える如月。

(――!? 何か彼女、変な誤解をしてないか?)

 変な事を言った覚えはないのだが…と自問する如月。――この辺は如月も、龍麻の事を悪く言えない。彼の思考も表の人間から見れば充分にズレているのだ。

「僕と君は、同じ学校に通う、ただの同級生だ」

 如月は慎重に言葉を選んだ。

「ただ…それだけの筈だ。そうでなくてはならない」

(そうとも…僕は望んではならない。何かを望めば、僕の【宿星】は否が応でも周囲を巻き込んでいく。僕に関わった人たちが傷付くのは御免だ…。最初から望まなければ、拒絶していれば、少なくとも、傷付くのは僕だけで済む。それで――いいんだ。それが飛水家に生まれた者の【宿星】だ)

 その言葉の何が彼女に訴えたのか、如月には判らない。だが朱日は明らかに態度を固くした。雰囲気も、最初の時と同じ、冷たいものに変わる。

「…あなたと解り合おうとした私が馬鹿だったわ。あなたも…きっと私と同じだと…私と同じように、自分を傷付ける生き方しか知らない人だと思ってたけど…」

 冷たい雰囲気とは裏腹に、声には激情が震える。彼女を知る者がそれを聞けば、泣いているとも取れる声であった。

「……」

 如月はただ黙って彼女を見詰める。――このような場面に対する言葉を彼は知らず、彼女が怒って出ていってくれれば、それが一番良い。そうすれば彼女は二度と自分に関わる事なく、したがって、危険に踏み込む事もなくなる。

「如月君。あなたは――」

 何事か、押し殺したような声で朱日が言いかけた時である。閉じられた店の戸が、また開いた。











  第壱弐話外伝 雨月 2    



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