第六話閑話 武道 6





 
 嗅覚の鈍い人間でさえ、脳髄のうずいを直撃する臭気! 【獣】と化した者たちには更に強烈な刺激であったろう。自然に、この場にいる者の目がある一点に吸い寄せられる。むせ返るような血臭と、鼻が曲がりそうな悪臭の発現点へ。炎から生まれた熱風に翻る、グレーのコートの主へ。

『緋勇…龍麻…!』

 本気になった紫暮兵庫、風見拳士郎を目の前にした不破でさえ、なお目を吸い付けられずに置かぬ存在感。――龍麻はただ、その場に立っているだけである。全身の包帯に血と小便を染み込ませた、一見すれば無様な姿で。だが、今の彼には、武に携わった者、獣となった者の闘争本能を刺激してやまない何かがあった。同時に、【なぜそこにいる】という、強烈な違和感。本来は闇に潜んでいるべき獣に、日の光の下で出くわしたかのような、予想外の恐怖感。

 劇的な演出もなく、コートが翻った。龍麻が引きずっていたものを持ち上げたのである。巻き付いている物が紺色の布切れだからこそ解る、【元】人体。龍麻が腕を振り出すと、人体のなれの果ては大きく弧を描き、不破の足元でベチャッと血と臓物を跳ね散らかした。

『貴様…我が配下を殺したか』

「…ッッ!」

 予想はしていても、目の前に現実を突き付けられると衝撃は大きかった。ミッキーや前田、剣持ら一般人はもとより、【武道】を深く学んでいる拳士郎、【仲間】である紫暮でさえも、一刷毛の恐怖を覚えずにはいられなかった。――彼らが【本気】〜【殺す覚悟】を固めるまでには、ここまでかかったのだ。自分が殺される側に立たされたとしても、まともな人間にとっては人が人を殺すという行為〜一個の生命体の全否定という事実はそれほどまでに重いのだ。

 しかし不破は、唇をめくり上げ、牙を剥き出して笑った。――捕食者にとって、捕食される側の死は自らの生きる糧であり、慰みだ。そして【魔獣】ならばこそ、【同類】の死を悼む事などない。

『ククク。そうか。貴様がこの茶番の仕掛け人であったか。死をも装ってこのわしに挑む気概――面白い。実に面白い。さすがは緋勇弦麻の血を引く男、緋勇龍麻よ! 貴様の実力、このわしが見極めてやろう!』

 弥生を人猿に任せ、ダン! と地面を踏み鳴らす不破。龍麻が身構え、しかし次の瞬間――背後から襲い掛かってきた白い塊が龍麻に命中し、べったりと絡み付いた!

「ッッ! ――緋勇ッ!」

「龍麻ァッ!」

 一斉に唸り声を上げ、龍麻に踊りかかる魔獣の群れ! どんな状況であろうと必ず覆す――それが緋勇龍麻という男だが、これは予想外。矢部が吐き出した、ガムよりも遥かに強い粘着性の液体は彼の動きを封じ、彼はあっという間に魔獣の群れに飲み込まれた。後は――正しく肉食獣の饗宴きょうえん。猛り狂う魔獣の群れの中から、噛み裂かれた手や足が宙に舞い、それすらも奪い合う。そして――獣との決定的な違い〜十数本に及ぶ短槍で串刺しにされた肉塊が、勝利を誇示すべく高々と掲げられた。潰れた熟柿のごとく脳をはみ出させた首がブランと垂れ下がると、剣持が堪え切れずに高い悲鳴を上げた。

『ふはははははっ! 愚かなり、緋勇龍麻! 一対多数こそ戦場ののり――わざわざ姿を晒すなど愚の骨頂よ! 黄泉路の果てで父に伝えるが良い! お前の息子を倒したのは神羅覇極流柔術の不破弾正であると!』

 心底嬉しそうに、こういう所だけは人間臭くそっくり返って笑う不破。自分が闘うと見せながら矢部に不意打ちさせ、手下に襲わせ、なおかつ父親への恨みを息子に晴らすとは論外の筈だが、そんな事を気にする様子は微塵もない。勝てば官軍――坊主憎けりゃ袈裟まで憎い――という奴だ。

『役に立たん頼みの綱だったな! お前たちも奴の後を追うが良い!』

 今度こそ絶体絶命。不破が腕を一振りして、魔獣たちが一斉に血まみれの牙を剥いた時である。

『グバッ!』

『ギャヒィッ!』

 突如包囲網の一角で魔獣の悲鳴が上がり、人猿が二体、血の糸を引いて宙に舞った。

『ぬうっ!?』

 不破の唸りに、弥生の悲鳴が混じった。彼女の顔面を掠めて唸り飛んだ掌底突きが、彼女を抱えていた人猿の顔面を直撃する。人猿は目、鼻、口、耳から血を飛ばしてその場に崩れ落ち、倒れ込む弥生を受け止めたのは――血と臓物に塗れた死体であった。

『なんだッ、貴様ァ!』

 獲物を奪われる――肉食獣の本能が沢松と竜崎を衝き動かした。沢松が地を低く駆け、竜崎が宙へと飛び――天地から襲い掛かる二条の銀光! そのスピードの前に、人間一人を抱えている死体に逃げ道など――!

『ぶわッ!!』

 二人の魔獣に叩き付けられる人猿。――弥生を抱えた死体が蹴り上げたのである。二人の爪は人猿を三つに分断して灰化させたが、死体にはあと一歩及ばず、その身を覆っていたボロ布を切り裂いたのみで取り逃がしてしまう。大きく跳び下がる死体を追いきれず、ボロ布が羽毛のごとく舞い散り、黒煙を渦巻かせる風が目元まで覆う長髪を繚乱と吹き散らした。炎の照り返しを受けて半分だけ露わになる、血泥をこびり付かせた素面。その顔は正しく――

「ひーちゃんッ!?」

「――ひ、緋勇龍麻…!」

 拳士郎は素っ頓狂に、剣持は呻くようにその名を呼んだ。

 紫暮に殺されたのはフェイクだったとしても、今また魔獣の群れに殺されたと思ったばかりの男。その彼が生きていた…! 心底良かったと思う一方で、拳士郎は全身を突っ走る戦慄に身を震わせた。――先のフェイクは見抜いたが、今は完全に欺かれた。敵も味方も、誰一人として彼の偽装を見抜けず、彼はまんまと弥生の確保を成し遂げたのである。【武道家】ではないとの言葉通り、騙し討ち、不意討ち、そして最悪――生きた身代わりまで…素の意味で手段を選ばぬ超合理主義。彼の敵に廻ったならば、そのものの命は確実に失われるであろう予感が、【武道家】としての拳士郎の本能を凍り付かせた。

 そして、この格好は何の冗談か? 腿に括り付けた先詰めライフルに短機関銃、背中のショットガン、ヒップホルスターのウッズマンにショルダーホルスターのリボルバー…これ見よがしにも程がある重装備。更に紫暮をも唖然とさせたのは、事前に用意した装備品の中で最も不可解だった物〜有名ブランドのナイフとフォークが彼のコンバットスーツに鈴なりになっていた事である。全身を本物の血と臓物で染めていなければ、何のパフォーマンスだと頭を疑わずにはいられない。

「何だァそりゃあ…? 【バーテン左京次】か【キャプテン・スーパーマーケット】かよ、ひーちゃん」

 紫暮から多少なりと龍麻の事を聞いていても、こんな光景を目の当たりにしては、さすがに拳士郎も困惑の極みに達し、そんなコアで間抜けな事しか言えなかった。しかし――それとて、彼の真正面から向かい合っていなかったからこその幸い。今、一見すれば滑稽にさえ思える龍麻の正面に立った沢松と竜崎は、【無敵】と自負する己の能力を認識していながら、それ以上動けなくなった。

(何だ…コイツ…!)

(まるで別人…いや、コイツ…本当に人間か!?)

 魔獣たる身に不破の【気】を受けて更にパワーアップし、その凶暴性をも受け継いだ彼らをして警戒心を招く殺気を放つ緋勇龍麻。彼らはそれを【危険】と判断した。このプレッシャーは近代兵器の所持云々ではなく、もっと根源的な、本能に訴えかける何かだ。それを察した野生の勘が危険信号を出し、全身の毛がザワザワと逆立っている。

 沢松と竜崎が動きを止めた代わりに、不破が前に進み出る。やはり弥生を救助――足手まといを抱えている状況が、龍麻と向かい合わせていない【覇王館】側に笑いをもたらした。

『ほほう、貴様こそが緋勇龍麻であったか。一度ならず二度までも死体を演じるとは、なかなかやってくれる。だが所詮は若輩の浅知恵。人質など捨て置いて仕掛けてくれば、僅かなりと我々に手傷を負わせる事も出来たかも知れんのにな。もっとも、その銃が本物であればの話だが』

 さすがは戦場を知る男。龍麻が銃を持っている事に、彼は細波ほどの動揺も見せなかった。僅かなりと口調に賞讃を込めたのは、彼もまた完璧に騙された為であるが、その貴重な瞬間を弥生の救出に使ったとなれば、銃の真偽は一目瞭然だ。もし銃が本物で、そのタイミングで仕掛けられていたならば、致命傷とは行かないまでもかなりの被害を蒙っていただろう。そして今も片手を空けているにも関わらず、銃を握っていない。銃を【偽物】と断じたのは、それが理由であった。

『しかしその度胸は誉めてやる。――どうだ? 暁弥生を引き渡し、わしに服従を誓うならば、貴様にも我らと同じ超人類への道を授けてやるぞ』

 不破の僅かな目配せで獣人たちが龍麻を包囲する。紫暮達に迫っていた獣人も向き直り、殊更に爪や牙を誇示しつつ、一斉に威嚇の唸りを上げた。――見事な統率力だ。真に絶体絶命。

「――ありがたい言葉だが、それは辞退しよう」

『――!?』

 傲岸不遜もここに極まれり。龍麻の呟きには、紫暮達さえ唖然となった。

「こいつらはただの奴隷だ。推測だが、魔獣ウイルスの媒介者は派生した獣人に対して絶対的優位性を持ち、群れとして統率できるようだな。そして勢力拡大にはこの暁嬢のように条件に適う女性をより多く集めてハレムを形成する必要がある。――極めて単純な縦社会型支配体系だ。しかし魔獣の母体を造れるのが【司教】だけである以上、群れのリーダーとて奴隷頭に過ぎん。リーダーが死ねば、群れは崩壊する」

 ざわ、と銀毛を逆立てる不破。そして低く唸る獣人たち。一介の高校生が自分達の秘密をここまで知っており、その推測も当たっているとなれば当然の反応であった。獣人たちは、自分が己の忠誠心で不破に従っていると思っていたのに、それがウイルスによる強制――自分が奴隷である事を知らされて動揺した。

『随分と余計な事を知っておるようだな。あの娘が言ったように、【司教】に一矢報いたというのもあながち嘘ではないようだ』

 ダン、と不破は地面を踏み鳴らした。

『ならば貴様は断じて生かしておけん! 弦麻のいる地獄に送り込んでくれる!』

 不破が唸り声を上げ、銀毛を逆立てると、それに獣人たちも一斉に唱和した。そのシンクロ性は、正に不破が彼らの頂点であり、彼らは決して【上】に上がれぬ配下――奴隷である証であった。

 しかし――

「お前はこの件を上に報告しろ。――見事な仕事だったな。帰ったらシャトー・メルシャンの白を奢る。オーバー」

「!!」

 この言葉に誰が驚かずにいられようか!? 龍麻は最初から別の誰かと話していたのであった。誰が見ても絶体絶命の状況で、自分を包囲する獣人たちにも、その長たる不破にも、さしたる注意を向けていなかったのだ。しかも明らかに味方がいながら、その支援を断るとは…!

『よくもそこまで虚仮にしてくれるものよ…。やはり貴様は緋勇弦麻の息子! その血脈、断たずには置かぬわ!』

 そして不破は手を振り下ろし、まず沢松と竜崎が前に出た。そして――イヤホンを外した龍麻がふと、顔を上げた。

『〜〜〜〜ッッ!』

 視線に射抜かれる――その表現がどれほど的確なものか、沢松も竜崎も瞬時に理解した。



 ――断言してもイイッ!

 ――コイツは今、初めて俺を――視た!

 ――かつて不意打ちを仕掛けた俺を、意識していなかった!

 ――かつて小便を引っ掛けた自分を、認識していなかった!

 ――今も――俺たち全員、【敵】だなんて思っていない!

 ――勝つとか――負けるとか――そういう次元じゃねェッ!

 ――コイツは、俺たちを――!



『俺がるぜ』

 グワッ! と牙を剥き、鉤爪を構える沢松。公衆の面前で恥をかかされた相手に、束の間とは言え【人間】相手に恐怖を覚えた自分を罵るように唸る。筋肉が膨れ上がり、剛毛が逆立ち、牙を噛み鳴らす。正しく――魔獣。

 しかし龍麻は僅かに顔を巡らせ、一言だけ口にした。

「――戦闘準備ロックンロール

 それを聞いた途端、紫暮は拳士郎を、亜里沙は剣持たちに跳び付いて伏せさせた。龍麻自身もすっと腰を落とし、不破の視界から消える。その唐突な動きには彼らを包囲する人猿も思考が追い付かず、次の瞬間――!



 ――ZBBANBAN!!



 魔獣たちの群れの中、掲げられていた死体〜龍麻の身代わりを務めた小山芳樹が爆発した。

 ただの爆発ではない。コートのポケット一杯に詰まっていた鉄釘を撒き散らす、殺戮の為の爆発だ。どれほどパワーアップしていようが、それが生物の範疇に留まる限り魔獣どもがそれに耐えられる道理はなく、十体以上の魔獣がまとめて吹き飛ばされ、その身を引き裂かれた。跳ね飛ぶ血と肉片、そして爆風には敵も味方もなく悲鳴を上げる。

『――ぬうッ! 爆弾だとッ!?』

 こればかりは【人間】として培った【勘】の効能か、不破は爆発直前に地面に身を投げ出し、配下の人猿を盾にして難を逃れていた。しかし――

 ――シャカッ!

 不破の思考を断ち切る、ある特定の世界にいる者には聞き逃す事の出来ない金属音。しかし、それは偽物では――!

『――ッッ!』



 ――ダラララッダッダッダララァンッ!



 耳を劈く銃声に、闇に尾を引くガンファイア。一瞬でも自らの考えに固執すれば間違いなく直撃弾を受けていたであろう不破は、地を稲妻のごとくジグザグに駆けて銃撃をかわした。片膝立ちから立ち撃ちに切り替えて追撃の弾丸を送る龍麻。――速い! 銀毛の輝きが残像の尾を引き、龍麻のポイント射撃すら幻惑する。三〇発の弾丸は遂に不破を捉えず、代わりにまだ爆発に気を取られて呆然としていた人猿の群れを薙ぎ倒した。

『――ほ、本物のッ…!?』

『マシンガンッ!?』

 致命的な虚脱状態を五秒近く続け、沢松、竜崎、矢部ももたもたと跳び下がって伏せた。龍麻が握っている銃は、短機関銃でありながらその重量がライフル銃並みであると不評の、しかしそのデザイン性から映画界からは引っ張りだこの鉄の箱〜ミニ・ウージー、九ミリサブマシンガンだ。世界中で使用されている九ミリ軍用弾パラベラムの固め撃ちは、不破こそ仕留めそこなったものの、人間を超えた人猿どもを尽く弾き飛ばし、包囲網を内側から寸断してのけた。

 悲鳴と驚愕が錯綜する中、空になったマガジンが地上で跳ね、ウージーが新たな弾丸を飽食する。そして銃を腰溜めに再度不破を追撃しようとする龍麻であったが――

『――クソッ! 舐めるなァッ!』

 銃を持っているとは言え、人間一人を小脇に抱えたまま戦おうなど、何という不遜、何という傲慢。沢松と竜崎が吠えて跳ね起きた。もはや人間の言葉を発する事すら不自然なほど変形した肉体は、軽い一跳びで十メートル以上の間合いを霧消させて龍麻に肉迫する。銃口が直ちに旋回して火を噴き、三発づつ九ミリ弾を叩き込むが、僅かに身体を揺らしたのみでそのまま沢松は地を這うほどに低く駆け、竜崎は宙へと跳ね――

『――甘いぜ!』

 空中からスピードが倍増しになった竜崎の鉤手! 間合いが急速に変化し、三次元力学を無視した角度から走った爪がウージーを弾き飛ばし、下方から急速に跳ね上がった沢松の鉤爪が龍麻の頬を浅く裂く。――回避行動は早かったものの、抱えたハンデがバランスを狂わせたのだ。

『フンッ! 貴様のような小僧がどこから手に入れたか知らんが、そのような無粋な道具に頼るなど、それでも弦麻の息子か。いや、それこそが緋勇の血という訳か。命を賭した戦いの価値も解らぬとはな!』

 龍麻が本物の銃を持っていた事に、不破は僅かながら驚いたようだが、その口調に恐れの色はなかった。その不遜なる自身の源は――

『しかし、やはり愚か者の息子は愚か者よ。たかが銃の一丁や二丁で我が【覇王館】を落とせるとでも思ったか? その銃に弾は何発入っている? 予備を取り出すまでにどれだけの時間がかかる? ――所詮多勢に無勢よ。爆薬や飛び道具で何人か殺したところで、貴様の敗北は決定している。そもそも銃ごときで我々を殺せると思ったか!』

 その言葉を合図としたか、先の銃撃で倒れた人猿どもから唸り声が上がる。ばね仕掛けのように跳ね起きた人猿どもは撃たれた胸元を掻き毟り、紺胴着を引き裂いて打ち捨てた。露わになった胸板には赤黒い肉が爆ぜ割れていたものの――何という事だ! 固まった血が零れ落ちていく下では、ピンク色の肉が盛り上がって張り裂け、そこから針金をより合わせたような剛毛が幾重にも重なって生えてくるではないか。その毛こそ、九ミリ軍用弾のインパクトを吸収し、損傷を最小限に留めた原因であった。

 今までの【獣人】とはまた違う、より銃撃戦に備えた身体構造。人猿もまた、既に雑魚にあらず。対人用としてならば充分に殺傷能力を持つ九ミリ軍用弾に耐え切った魔獣の群れを相手に、たかが人間がよく闘い得るか? ――勝てる訳がない。

『我々は新たなにえを得て更なる高みへと至る。貴様ら旧人類はさっさと黄泉路を行くが良い! ――殺れ、者ども!』

 こんな所まで獣と同じだ。一斉に袋叩きというのは人間だけがやる戦闘法であり、獣は必ず中堅クラスが様子見をする。――龍麻の流血に自信を取り戻し、竜崎が先鋒を買って出た。

『ケェッ! この期に及んでま〜だ女を放さねェつもりかよッ。――漫画じゃねェんだ。いつまでも調子こいてんじゃねェぞ、小便野郎ォ!』

 失ったのがウージー一丁だけとは言え、拳銃は問題外、唯一脅威となり得るショットガンは片手では使用不可――絶体絶命の状況は変わらぬのに、龍麻は弥生を放そうとはしなかった。それどころか、マシンガンをぶっ放した直後だというのに殺気の片鱗すら感じられない。余裕とも自信とも取れぬ静謐さ――それが竜崎を酷く苛付かせた。

「ちょっとキミ…! このまま戦うなんて無茶よ…ッ。あたしに構ってたら死んじゃうわよッ…!」

 苦しい息の下で、弥生は彼を見上げて呻くように言った。龍麻の頬の傷は、彼女の為にバランスを崩しただけではない。沢松の爪から彼女を庇った結果であった。彼女も武道家。不合理な動きの理由くらい察しが付く。

「――確かに重いな」

 龍麻はあっさりと頷く。デリカシーのかけらもない言葉にはさすがに弥生も目を剥いたのだが――

「ならばしっかり掴まっていろ」

「え!? ちょっとッ!? ――キャアッ!」

 いきなり弥生を襲う浮遊感覚。一瞬後、彼女は龍麻の左肩に担がれていた。ミニスカートの少女にあるまじき扱いに加え、太腿をがっしり抱え込まれ、顔を真っ赤に染める弥生。しかし――

「二分だけ耐えろ。――吐くと窒息するぞ」

 ぞ、の音が空気に溶ける直前、弥生の視界が吹っ飛んだ。

『――ッッ!』

 竜崎が間合いを詰められたと知ったのは、視界一杯に龍麻の掌打を捉えてからであった。魔獣の反射神経で顔を横に振る竜崎。しかし不発した掌打が追ってくる!? 手首の返りだけでも打撃と成せる骨法の技法だ。脳を揺らすには効果的な技だが、こんな魔獣にどれほどの効果が――



 ――グジィッ…!



『――イギィッ!!』

 とっさに鉤爪を振り、後方に跳ぶ竜崎。龍麻もまた、親指の先から血の糸を引きつつするりと跳び下がった。

『て…んメェェェェ…ッッ!』

 竜崎の、顔を押さえた手の下から鮮血が零れる。そして龍麻の手から零れ落ちる、紐を絡み付けた白い球体…

『――マジかよッ!?』

『アイツ――目潰しをッ!?』

 先の【死合い】で自分たちが使用しておきながら、自分たちが使用される側に廻るとは思わなかったのか、沢松や矢部たちに衝撃が走った。あらゆる格闘技における【禁じ手】の一つ――目潰し。しかし龍麻のそれは日下部のような二本貫手ではなく、古武道本来の技法〜五指を揃えた【掌打】を親指の第一間接のみ曲げて打つ事により、面攻撃と点攻撃を同時に行う実戦技であり、眼球を突き潰すよりも確実にして簡便、そして自らは安全――指先を眼窩に滑り込ませ、眼球を抉り出したのであった。これではいかに魔獣と言えど、すぐに再生という訳には行かない。

『やって…くれるぜェ〜〜〜ッ! 久し振りに燃えてきたァァッ!』

 竜崎は吠え声を上げ、腕を振り出した。一気に両腕が三メートル以上も伸び、蛇のごとく鎌首をもたげる。その腕がどれほど変幻自在な攻撃を繰り出すかは既に実証済みだ。



 ――そうとも! 俺は――超人類だ! もはや人類は敵ではない! まずはそっ首刈り取って――!



 唐突に獲物の姿が消えた。

 死角に回り込まれた!? 振り返る竜崎。いた! ――目の前に!

『ぬわわッ!』

 竜崎は肘打ちを繰り出し――無意味に肩だけを揺すった。その無防備な喉に瀟洒な銀のナイフを突き立て、更に捻る龍麻。やっと竜崎の腕が蛇のごとく跳ね上がった時、彼はむしろ緩やかに後退していた。

『…ゴボッ…ガバォッ!』

 喉の傷を押さえ、零れんばかりに目を見開いて何事か言おうとする竜崎。しかし血泡がゴボゴボ言うのみで言葉にならず、彼はそのまま仰向けに倒れて狂おしい死の痙攣の果てに灰と化して飛び散った。――【覇王館】七本槍の一人に数えられ、魔獣の群れの中核をなす男が、こうもあっさりと…!

(あの野郎…! 竜崎をわざと怒らせてから懐に飛び込みやがった…!)

 同胞が迎えたリアルな死は、あまりにも速やか且つ静謐過ぎて、かえって沢松に冷静な分析を促した。しかし――それゆえ恐怖は倍増し! 魔獣としての能力を発揮したからこそ生じた隙を、この男は見事に突いたのである。まさかコイツ――自分達の能力を観察する為、仲間の窮地も黙って見ていたのでは!? 銃を使ったのも、自分達を【変身】させるため…!?

『ホ、ホ、――ホキャアァァァッ!』

 自分達より遥かに強いものが瞬時に殲滅されたという恐怖! 恐怖は狂気を生み、恐怖の源にがむしゃらな攻撃を命じる。目の前の死そのものにトンファー使いが気勢を上げて殴りかかり、脇差の剣士が横手から切りかかった。――【覇王館】では同士討ちなど気にしない。仲間ごと敵を殺す気迫こそ求められている。更に、短刀を持った二体の人猿も波状攻撃に加わった。蕪雑で稚拙でも、パワーとスピードで敵を圧倒し、押し潰す! 押し潰して見せる! そうしなければ自分たちが――!



 ――バキン!



 甲高い金属質な破砕音が、本格的な闘争の合図となった。

 岩をも砕くトンファーが振り上げられたと同時に、使い手の出足に龍麻がブーツの踵を叩き込んだのだ。接地直前の膝を正面僅かに横から蹴り込んだ事により、【常人以上】の耐久性を誇る魔獣の膝があっさりと砕ける。

 絶叫を放って転がるトンファー使いは無視し、脇差に向き直る龍麻。放たれた技は刺突ッ! が、龍麻の姿が掻き消えた直後、膝に激痛! 間髪入れず喉にも! ――身を沈めながらの三才歩で刺突を掻い潜りつつ膝に一撃、引き足と共に伸び上がり喉に切り付けたのだ。――それを捉え得たのは、紫暮と拳士郎だけであった。

 脇差が灰になる前に横蹴りを飛ばす龍麻。

 灰化寸前の死体をぶつけられ、わっと顔を覆う短刀使いの人猿。龍麻は蹴りの反動を利用して背後にナイフを投擲、サイ使いの口を貫く。――カタール使いが突いて来るのを、弥生の体重を利用して上体を思い切り倒し、カポエイラ式の高上段後回し蹴りでカタール使いの顎先を蹴り上げ、そのままタックルを掛けて来た人猿の後頭部に踵落とし――を通り越して地面に踏み付けるや、それを軸足に下から上への三日月蹴りをヌンチャク使いの金的に叩き込み、引き足を降ろさぬままに後蹴りで二丁鎌使いのこれまた金的を叩き潰す。更に転身した軸足でタックルの人猿の首を捻り折り、灰化して崩れ落ちるサイ使いから引き抜いたナイフでカタール使いの喉を掻っ捌きつつ短刀使いに打ち付ける。――パワーとスピードが尋常でない人猿だからこそ、カウンターが凄まじい威力を発揮するのだ。【常人以上】の能力こそが仇となる、なんという皮肉。恐るべきは緋勇龍麻!

「ウグゥッ!」

 正に流麗にして一瞬の早業。しかし龍麻の背で、出鱈目な彼の起動に付き合わされた弥生が苦鳴を放ち、必死で掴んでいた彼の服から片手を放し、口元を覆う。――彼女と一体化する事で維持していたバランスが乱れ、そこに襲い掛かる人猿の第二陣! その中にはブレザーとプリーツスカートを纏った肉食恐竜ラプトル〜矢部!

『――ガァァッ!』

 【本物】のラプトルも知能が高く、集団でのハンティングに秀で、撹乱や待ち伏せ、数を利しての連携などを駆使したという。矢部もまた、人猿に同時に襲い掛かられ、弥生を庇って直線的に後退するしかない龍麻の隙を窺い、致命的な一撃を狙った。そして――待ちわびた瞬間! 龍麻が人猿の攻撃を捌き切れなくなり、唯一自由にできる右腕を取られた瞬間、矢部は人猿の陰〜龍麻の真横から粘着液を飛ばした。

「――右よ!」

 必死に弥生が叫ぶのと、龍麻の腕を掴んだ人猿が宙に舞うのと、殆ど同時であった。――合気投げ! それこそが狙いであったか、掴まれた右腕を捻っただけで人猿が投げ飛ばされて粘着液の盾になり――あろう事か人猿の腰が激突した魔獣が弾かれて隣の仲間に激突し、更にその仲間が別の仲間にぶつかり…さながらドミノ倒しの如く同士討ちの山を築く。――大東流合気柔術! そして――投げ飛ばされて来た人猿を跳躍でかわす矢部。ラプトルも得意としたであろう、跳躍からの蹴爪攻撃! 直撃すれば胴体ごと引きちぎられる!

「キャアッ!」

 猛烈な勢いで旋回する弥生の視界。ある意味龍麻らしくない大技――飛び後回し蹴り――弥生が見せた【クーシャンクー】! こんな大技は予想外。腹部にカウンターを喰らい、撃墜される矢部。だが硬い鱗で全身を覆った矢部はそれに耐え、爪と尻尾で地面を捉えて強引に態勢を立て直す。そして再び粘着液を吐くべく口を開き――

『ヒッッ!!』

 弥生からはその瞬間が見えなかった事こそ幸い――矢部の視界一杯に黒い死の淵が広がり、そして轟く雷鳴! 龍麻が背中から抜いたショットガン〜ヴェネリM1スーパー90・20SLUGが吐き出したOOB弾の直撃で矢部の頭部が血煙となって爆発四散した。ブレザーとプリーツスカートを纏った首なし爬虫類の【死の舞踏ダンス・マキャブル】は正に悪夢の光景であった。

 硝煙を引きちぎり、銃口が旋回する。

『ヒイッ!』

 団子状にもつれ合う魔獣たちは、自らの死を待つ事しかできなかった。【魔人】的腕力とオートマチック・ショットガンのコラボレーション。片手撃ちのM1が二度咆哮する。――拳銃弾を弾く毛皮も、コンクリートブロックを粉砕するOOB弾までは無理だった。大型獣ハンティングに特化した二〇インチ銃身から吐き出された九個〜計一八個の九ミリ球状ボール弾頭はほとんど散らばらずに人猿の頭部と言わず胸部と言わず消し飛ばし、緩やかに散らばった散弾は人猿の毛が薄い部分を引き裂いた。たった二発で六体が即死し、三体が瀕死の重傷を負う。飛び散る灰がもうもうと渦巻き、弥生が場違いなほど可愛らしく咳き込む。

『おのれ!』

 銃など効かぬ――その自信が打ち砕かれるまで僅かに一分足らず。不破が唸る。この緋勇龍麻だけは、紫暮や拳士郎たちとは何もかもが違う。【武道家】として技を高める為に戦っているのではなく、最初からこちらの正体を承知の上で完全に【殺し】にかかっているのだ。

 だが、銃は弾丸あってこその武器である。

 龍麻のM1は日本では違法なボックス・マガジンを使用し装弾数八発。しかし六発目〜十三体目の人猿を消し飛ばした時、排莢口がガキン! と嫌な音を立てた。――装弾不良ジャムだ! オートマチックならではのリスク。特にヴェネリM1は慣性利用オートマチックなので、正しいフォームで発砲しなければたやすく装弾不良を起こす。その上、散弾実包ショットシェルはその独特の形状からボックス・マガジンからの給弾が難しい。言わば、起きるべくして起こった装弾不良であった。

『今だ! 押し切れいッ!』

 不破の目がカッと光るや、人猿の動きが倍化した。フォーメーションが更に緻密になり、左右からシンクロして飛びかかる人猿!

 龍麻の手元でバチン! と金属音が走る。

 左右から挟み込むように走った人猿から、龍麻は転身しつつ一歩前に出て身をかわす。攻撃失敗から次の攻撃に移るまでゼロコンマ五秒。急制動を掛けて振り返った人猿が鉤爪を振り上げ――そのまま彼らの頭部は慣性の法則に従って吹っ飛んでいった。次の瞬間、灰となって分解する人猿。龍麻は更に――弥生の体重をも利用して鋭い旋回を繰り返し、次々に飛び掛ってくる人猿をM1で薙ぎ払う。するとどうだ!? 人猿どもは胸板と言わず腹部と言わずざっくりと切り払われ、鮮血と灰を撒き散らして消滅した。

『〜〜〜〜ッッ!』

 龍麻の振るっている【武器】に唖然とする不破。

 龍麻が握っているのは装弾不良を起こしジャムったM1だ。しかしもはや殴り合いくらいにしか使えない筈のそれに、ナイフが銃剣代わりに装着されていたのである。――弾丸が広がり飛ぶ、近距離での面制圧に使用されるショットガンに、銃剣などミスマッチもいいところだ。いやしくもプロならば、ショットガンを持っていて、そんなもので斬り合う間合いを許すべきではない。しかし――援護なき単独戦闘に加え、装弾不良ジャムを覚悟の上であればこそ導入したセオリー無視の銃剣は、雑草を刈る無造作さに機械のごとき精密さを加えて的確な攻撃を繰り出し、パワーのみで【達人】の域に達していない人猿の杖や短槍と一合もせぬまま、黒い灰の堆積を生産していった。

 しかし敵も魔獣。不破の唸りを受けた一体の人猿がナイフを腹で受け止め、M1にしがみ付いた。仲間が捨て身で〜実際には捨石にされて叩き出したチャンスに、残りの人猿が一斉に波状攻撃を仕掛ける。技に優る者を倒す最後の手段――人海戦術!

 M1に固執せず、銀の広告塔が鋭く旋回する。

 これが肩に人間一人を乗せた者のアクションとは!? 振り返った勢いで投じたフォークが人猿の目玉から脳まで刺し貫き、龍麻の傍らを駆け抜けた人猿は喉にナイフを叩き込まれていた。密着に成功し鉤爪を振りかざす人猿が三体――掌打からの合気投げで一体目を頭から地面に投げ落とし、二体目の膝を踵蹴りで真正面から砕く。三体目の喉に腿から抜いたフォークを突き立て――直後に逃げを打てなかった二体目の喉を掻っ捌きつつ投じたナイフが、唸り声を上げて突っ込んできた四体目の口に飛び込み、ぼんの窪まで貫いた。

 しかし、仲間がどれだけ倒され、その灰を浴びても突進を止めない人猿! 明らかに怯み、脅えつつも、恐怖に駆られて突っ込んでいく。龍麻は攻撃を防御に彼らを圧倒したが、一人倒す毎にナイフを失い、夥しい灰の山を築いた果てにナイフが底を尽いた。

『行け! ――行けッッ!』

 今度こそ押し切れるか!? 今一度踏み込もうとした人猿の視界に、目元の見えぬ男の顔が大映しになった。間合いに踏み込む前に、踏み込まれたのだ。一瞬の硬直は永遠の後悔〜にすらならず、人猿は膝を正面から蹴り砕かれ、絶叫を放って崩れ落ちる所にカウンターの掌打で喉を潰され、永遠に沈黙した。その灰を地に落ちる前に渦巻かせた蹴りは、後続の人猿の腿を誘導路に金的を叩き潰して即死させ、振り向き様に手刀の指先で背後に迫った人猿の目を切り裂き、金的を骨盤ごと蹴り砕いた。――この男、徒手でさえ獣人を圧倒するのか!?

『――足を止めろ!』

 不破の叱咤が飛び、遂に人としての動きを捨て、両手を地に付いた態勢から仕掛けるタックル! 【死合い】で拳士郎が見せたのと同じ原理だ。攻撃しにくい低い姿勢で同時に襲い掛かられては、どのような技も凌げまい! ――殺った!

『――ンギャァァァッッ!!』

 突如、人猿が絶叫を放って仰け反り、あるいは地面に突っ込んだ。涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を掻き毟る人猿ども。嗅覚も【人間以上】の魔獣が何でたまろう――龍麻の腰に付けられたシガレットケースは、野戦で消臭などにも使用されるCSセシウムガスの噴射機であった。

『グウッ!』

 正にトータルファイティング。戦闘の申し子か。飛び道具を奪い、ナイフを使い切らせ、もはや素手のみにしたと思ってさえ、思いがけない武器が出てくる。素手でさええげつない――否、効果的な技を平然と使いこなす男はガスを振り撒きながら歩を進め、人猿たちは苦悶にのたうちながら跳び下がった。

『! 下がるな――馬鹿者ども!』

 不破が怒鳴るが――時既に遅し。龍麻はショットガンを回収し、機関部をブーツで蹴飛ばして、詰まった空薬莢を弾き飛ばした。人猿が再び襲いかかった時にはM1は銃たる本性を取り戻しており、真っ先に飛び掛った人猿が顔面を撃ち砕かれ、遂に片手で数えられるほどに減った人猿は次の犠牲になる事を恐れて転がるように飛び退いた。もはや認めざるを得ない彼我の戦力差と、薬室に残った一発の為に、彼らはM1が新たな弾丸を飽食していくのをただ見送るしかなかった。

『ムウウ〜ッ! 揃いも揃って、不甲斐ない奴らよ!』

 だが、それを責めるべきか!? ここまでで実に二分。たったそれだけの間に竜崎と矢部、パワーアップした筈の人猿二三体が殲滅されたのである。これではいくらなんでも緋勇龍麻に対する認識不足を理解せずにはいられない。【武道家ではない】――龍麻が再三言っていた事だが、確かにこれは、拳一つで己を語る武道家の戦いではなかった。今まで戦ってきた相手――ポイントを競うスポーツマン、道場を構えるあらゆる種類の武道家…その中には金メダリストもいたし、【実戦】を追及するあまり前科者となった者もいた。武装したヤクザを相手にした事も少なくない。そして不破本人に至っては【実戦】の究極形――【戦場】で銃を持った軍人とさえ戦った。

 だが、それでもなお、この緋勇龍麻のようなタイプの相手と戦うのは初めてであった。

 ヤクザでもヒトの子。暴力を生業としても、【殺し】となると覚悟を固める必要がある。【戦場】で戦っている兵士でさえ、それが【仕事】である故に殺しを【作業】として捉え、特別な感情を持たぬようにしている。交戦規程という【ルール】に則って、敵と出くわしたら戦うという、機械的な【流れ】としての殺しだ。戦闘がなければそれに越した事はなく、もし生き残っている者があれば捕虜として生かしておく――【戦争】はどれほど暴力的であろうと外交手段の一手に過ぎず、現場の兵士にとっても【殺し】は究極目標ではないのだ。

 勿論、【殺し】を目的にする者たちとの戦いも経験している。始めから自分を殺すつもりで襲ってくるのは、金目当ての殺し屋、不破の急激な権威拡大を恐れた【同僚】、そして裏社会を形成する一柱、【九頭竜】の殺手。いずれも不破を殺す事を目的とし、飛び道具は言うに及ばず、待ち伏せ、放火など、あらゆる姦計を用いて挑んできた。

 だが、それらも予測範囲内だ。所詮この日本では武器にも戦術にも物理的制約が付きまとう。例えば【覇王館】ビルごとピンポイント爆撃されれば不破とて生存は難しいが、基本的にそれは不可能なのだ。

 ところが緋勇龍麻には、その制約が感じられない。

 対獣人用に特化した装備から、龍麻が不破とその勢力の完全抹殺を目論んでいるのは明白だ。可能な限りの情報を集め、莫大な資金をつぎ込んで準備万端整え、負ける要素を極限まで減らした状態で、誰一人残すつもりのない【殲滅戦】を仕掛けている。しかし――何の為に? 【殺し】を生業としている【殺し屋】ですら、予算にはシビアだ。見返りがなく、リスクだけが大きく、金が湯水のごとく消費される戦いに、誰が好き好んで身を投じるか? 確かに友人を助けるという大義はあろうが、そんな【制約】がなければここを爆撃させる事も厭わぬ脅威を感じる。主義主張や思想は勿論、損得勘定や偏執的快楽主義とも無縁の、【殺し】のみを目的とした男。【戦場】を経験している不破をして、初めて出会う【敵】。不破は自分が今再び、真の生死の境に立っている事を悟った。

 M1に弾丸をフル装填した龍麻が立ち上がる。仲間を助ける為ではなく――敵を殺す為に。

『――良かろう』

 不破はクワッと牙を剥き、銀毛をザワザワと逆立てた。――久しく忘れていたこの感覚。【九頭竜】の殺手たちと戦ってさえ満たされなくなりつつあった、死の淵ギリギリに立つ緊張感が醸し出す快感。それがよもや、一介の高校生ごときを相手に味わえようとは。

『どうやら貴様を根本的に読み違えていたようだ。武道家にあらぬとはよく言ったものよ。その戦闘力、その殺気――やはり貴様の命、わし自ら絶たねばなるまい』

 シャキン! とM1の銃口がポイントされた直後、銀色の光が尾を引いた。

「――ッッ!」

 猛スピードで駆ける銀光が視界を塗り潰した直後、その場を飛び退いた龍麻の脇腹に衝撃が走った。息を詰まらせつつM1を突き出す龍麻。視覚を幻惑する黒と銀の入り混じる帯に向けて発砲――着弾! その直後、OOB弾が雨滴の如く帯の表面を滑り散った。

『――無駄だ』

 ――正面! M1の銃口が弾かれた刹那、丹田、水月、壇中に強烈な打撃が炸裂し、最後に顎を衝撃が駆け抜け、龍麻を弥生ごと宙へと吹っ飛ばした。

(――【龍星脚】!?)

 最初の蹴撃の瞬間に自ら跳んでいた龍麻はトンボを切って辛うじて足から着地する。再び残像を引いて疾る不破に三度発砲。ただ一度で残像の幻惑を見切り、三発とも着弾させる龍麻であったが、弾丸は猛烈なスピードと、恐らくは不破の体毛に絡め取られて弾け散った。そして――左右への蛇行から垂直に飛び上がる黒銀の帯。その先端で実体化したのは――大きく身体を捻った不破! これは――!

(――【龍落踵】!)

 とっさに斜めに掲げたM1越しに脳天から足裏まで突き抜ける衝撃! 龍麻の足元が陥没し、M1の機関部が歪む。【龍落踵】〜徒手空拳【陰】の前空転踵落としを受けられた瞬間、不破はトンボを切って龍麻の目の前に着地したが、その威力は龍麻をして即反撃が出来なかった。むしろ悠然と伸ばした掌底が、無理に立ち上がった龍麻の胸板に添えられる。――【掌底・発剄】!

「ガッッ!」

 ぎりぎりで気勢を発して発剄の体内浸透を防いだ龍麻だが、剄の激突で生じた爆発がまたしても彼を吹き飛ばした。地面に十メートル近い斬線を刻みつつ踏み止まった龍麻だが、口から本物の血泡が零れ、地面に片膝を突いた。

『フハハハハッ! どうしたそのザマは? それでもかの無頼の拳士緋勇弦麻の息子か。役立たずの銃などに頼らず、自慢の徒手空拳を見せてみるが良い! もっともそんな技ごとき、既に見切っておるがなァ!』

 龍麻は血の混じった唾を吐き捨て、ひしゃげたM1を見やった。排莢口が潰れて歪み、外板から薬室内まで亀裂が走っている為に暴発は必至。――不破の言う通り、もはや役立たずだ。

「……」

 龍麻は次いで弥生を見る。この激闘の最中、彼女にはかすり傷一つ増えなかったが、不破の技による高熱に加え、龍麻の激しい機動に付き合わされた挙句の吐き気に苛まされている。――足手纏いを抱えて勝てる相手ではない。

 だが、龍麻は――

『――ッ!? ――何の真似だ、小僧…』

 不破の不審も道理。紫暮や亜里沙さえ、龍麻の行動が理解できなかった。龍麻は弥生を肩から下ろし、なんと彼女を盾にするように己の胸前に抱え、その首に銃剣を突き付けたのである。

「――見ての通りだ、不破弾正。彼女を殺されたくなければ、部下を下がらせろ」

 一体何を言い出すのか、この男は。これほどの策略を巡らせ、これほどの死を振りまいたのは仲間を――彼女を救う為ではなかったのか? それが――なぜ?

『貴様…身内が人質になると思っておるのか?』

「なるとも。お前たちの目的がこの娘である限りな」

 そう言うと、龍麻を知る者には信じられぬ行為〜彼は弥生の胸に手を掛け、その膨らみを鷲掴みにした。

「――ッッ!」

 意識が朦朧としていた弥生もこれにはたまらず我に返り、身をよじって逃げようとしたが、あろう事か龍麻はセーラー服の中にまで手を突っ込んだ。布地が中に潜り込んだ手に合わせてもぞもぞと蠢き、弥生は苦しい息の下で龍麻の手を押しのけようとしたが、不埒な手の動きを押さえる事は叶わず、それまで無表情だった龍麻が、その口元に笑いさえ刻んだ。

『貴様…!』

「悔しそうだな? 筋力や戦闘力のみならず、性欲も人間以上となれば当たり前か。――皮肉なものだな。この娘を傷付けまいとするあまり、貴様は俺を殺すチャンスを三度も見逃し、部下を無駄死にさせた。どんな形にせよ、弱みを見せるべきではなかったな。とは言え確かに若者たちを熱狂させ、魔物をも狂わせるだけの事はある。勝ち目なき戦いならば、絶対均整とやらの肉体を味わってから死ぬも一興だな」

「だ、誰がアンタなんかに! ――はうっ!」

 何をされたものか、弥生がビクウッ! と身を反り返らせ、ぶるぶると震える。龍麻の手はセーラー服の中を滑り降り、スカートの中にまで差し入れられた。弥生は苦悶に咽びながら彼の手を押しのけようとするが、不破の術が肉体を苛む中、片手では所詮はかない抵抗であった。――不破の牙がギリリと鳴る。

「騒ぐな。化け物に犯される毎日よりはマシかも知れんぞ。死にたくとも死ねぬよりは」

「はぐっ…!」

 よもや龍麻がこんな真似まで? 龍麻は弥生の口に何かを押し込み、それを無理矢理飲み込ませた。すると――弥生はぐったりとして龍麻にもたれかかり、彼が手を放しても抵抗する様子はなかった。――痺れ薬か!?

『訳の解らぬ奴。…何が望みだ?』

 無理に押さえた声で不破は問う。龍麻は口を歪めて笑った。

「察しが悪いな。――まずは部下を下がらせろ。――お前たちも勝手に動くな」

 龍麻が鋭く言い放ったのは、事もあろうに紫暮たちにであった。じり、と一歩を踏み出しかけていた紫暮と拳士郎が立ち止まる。――後にまで目があるのか!?

『…何を考えているのか知らんが、今更どんな小細工を弄そうとも逃げられんぞ。それともまだ勝算があるとでも言うのか?』

「勝算? ――全てを計算づくで戦って、楽しいか?」

 龍麻は再度口を歪めて笑い――M1を投げ捨てた。

『……ッ!?』

 次いで龍麻は弥生を解放し、ベルト・キットを捨て、ショルダー・ホルスターを外し、腿のライフルも投げ捨てた。コンバット・スーツも脱ぎ捨て、上半身をタンクトップ一枚になる。武器は――全て外した。真に徒手空拳。

「素手のみの闘いなど愚の極みと思っていたが、なかなか面白いものだな。――確かに銃など不粋だ。望み通り、素手で相手になってやろう」

『何ィ…!』

「無理にとは言わんぞ。貴様らは束で来ようと武器を使おうと一向に構わん。ただしその場合、望むものは手に入れられん。――総取りしたければ、賭け金は自分の命だ」

 へなへなとその場にうずくまる弥生の首に、デジタルタイマーの付いた首輪を填める龍麻。――亜里沙には解る。一切の妥協なき龍麻の恐ろしい部分…爆弾付きの首輪だ。

「タイマーは五分にセットした。戦闘時間としては妥当だろう。キーはここだ。言うまでもないだろうが、無理に外そうとすれば爆発する。――連中にも邪魔はさせんから心配するな」

『貴様…なぜそこまで出来る? 貴様の目的は友を救う事ではなかったのか?』

「自分の身も守れぬような弱者を仲間とは言わん。――手段を選ばずテロリストを殲滅する。それが俺の任務だ」

 【任務】という単語に不審顔になった不破だが、その時初めて龍麻の肩に刻まれた刺青に気付き、不破は目を見開いた。

『貴様…その紋章は!』

 不破の唸りを受け、拳士郎も驚愕の呻きを発する。

「レッドキャップス…! アメリカ陸軍対テロ特殊攻性実験部隊…! 生き残りがいたのかよ…!」

 なぜ拳士郎がそんな事を知っているのか? しかし紫暮は龍麻から目を離せない。彼にはありえない行動と言動に加え、絶体絶命の状況で自ら素手のみになった事こそ理解できないからであった。そして、不破は――

『…なるほどな。貴様の力…ようやく合点がいったわ。――なるほど確かに、緋勇の血筋には相応しき戦場よ…! この不破弾上、感服したわ!』

 【緋勇】の名とレッドキャップスのエンブレムにどんな繋がりを見たものか、不破がそっくり返って笑った。その理由は知らず、しかし不破は背後に向かって怒鳴った。

『者ども下がれィ! こやつはわし自ら相手をしてくれるわ!』

 今まで以上に攻撃的な、凄絶なハウリングが不破の口から迸った。

 銀毛がザワザワと波打ち、筋肉がみるみる膨れ上がる。狼がその性質を保ったまま理想的な直立二足歩行を行えばそうなるであろう形状。

『五分は要らぬ。三分で片付けてくれるわ』

 そして不破が、構えを作った。強靭な爪を有する、人間と等しくする形状の手を開掌で胸前に構える。魔獣の肉体で――武道の型。それが――掻き消えた。

「――ッ!」

 無意識に上げた左腕に強烈な衝撃! 右拳による打撃と知ったのは吹っ飛んだ後であった。靴底に地面を捉えた直後、またしても掻き消える不破。今度は脇腹から上方に衝撃が駆け抜け、龍麻はくの字になって宙に弾け飛んだ。――松田雄二郎が使った【無拍子打ち】! 空中ゆえに何も出来ない龍麻を掴み――水道タンクの配管に投げ付ける。身を捻って頭部を守った龍麻だが、背中を強かに打ち付けて地上でバウンドし――

「――シッ!」

 更に追い討ちをかけようとした不破に向かって足払い! 不破はジャンプしてそれを避け――そこに襲い掛かる龍麻の中段廻し蹴りと上段後廻し蹴り! これは――【龍旋脚】!? 獣の反射神経で不破が二発目の後ろ廻し蹴りを十字受けした瞬間、龍麻は【そこ】を支点に真上から真下に走る廻し蹴りを不破の延髄に叩き込んだ。【龍旋脚】から派生させた【龍星脚】! これ以上はない会心の一撃は、しかし異様な手応えと共にパワーが散華し、苦鳴を洩らしたものの不破はスピードも落とさず跳び下がる。

(――あの毛と脂か)

 今の手応えと結果から瞬時に答えを弾き出す龍麻。

 初めて遭遇した獣人も、三五七マグナムを不完全とは言え受け切っていた。先程の人猿も九ミリ弾程度ならば弾いてのけた。――不破のそれは、鋼の強靭さにしなやかさを加えた獣毛に、摩擦係数を大幅に低下させる獣脂を塗布しているのだ。それは空気抵抗を極限まで減らし、球面で捉えればOOB弾すら滑らせる。突き蹴りによる打撃衝撃も散らされてしまい、余程強力かつベクトルが直進する一撃でないとダメージにならないのだ。さもなくばダメージの逃げ道のない、急所への一撃――

「――ムン!」

 土塊を弾き飛ばす猛ダッシュから、日本刀で切り払うかのようなローキック! 山岳系民族である日本人の創始した日本武術は足捌きに重きを置き、同時にそこがウィークポイントに――などという通説は無意味そのもの。ローキックは下段蹴りで蹴り潰され、地面に膝を突いた龍麻の顔面に直突き! 頬に朱線を刻ませる程にそれを引き付け、カウンターの【掌打】で水月を狙う龍麻。――と、何を持っているか判らぬ龍麻に対して大胆不敵。不破は自ら踏み込んで【掌打】を腹筋で受け止め、あまつさえ衝撃をそっくり跳ね返して龍麻の肩関節を脱臼せしめた。

「――グッ!」

 腱の上げる嫌な軋みを無視し、密着した不破の脇腹に一本拳の廻し打ち! 肋骨の隙間を捉えた打撃が不破の脇腹を変形させる。しかし決定打には遠く、不破の手が龍麻の襟首を掴み上げ、彼を水道タンクに叩き付けた。掛け値なしに地響きがして、タンクが人型に陥没する。そして龍麻の口で血泡が弾ける。

『どうした、緋勇の息子よ! 銃がなければその程度か! いや、あの娘の血を引きながらその体たらくとは、やはり緋勇弦麻は半端者の武道家であったという事だな!』

「……」

 挑発には応えず、タンクから身体を引き剥がす龍麻。この期に及んでまだ無表情な彼に、不破が歓喜と憎悪の混じった複雑な笑いを浮かべる。

『そうだ。それこそが緋勇の血のなせる技! 緋勇龍麻よ! 貴様を認めてやるわ!』

 タンクから身を剥がしたまでは良かったが、足元がふらついた龍麻に向けて不破の貫手が走る。狙いは――心臓! 骨込めに生き胴を貫く一撃が――龍麻の肩に突き立った!

『――ぐおッ!』

 これぞ【肉を斬らせて骨を断つ】か。肩を貫いた貫手がキャッチされると同時に、逆の手で鉤手を放つ不破であったが、それを待ち構えていた龍麻は鉤手を捉えた瞬間――【腕絡み】から【体落とし】! 遠心力で落ちる軌道を捻じ曲げ、龍麻は自分をも地面に叩き付けるように、不破の頭部を水道管のバルブに投げ落とした。――凄惨! ――酸鼻! ただでさえ受身不能に加え、バルブの突起部が不破の眼窩に引っ掛かり、頭骨が掻き取られる。血と脳漿と毛が飛び散り――これぞ魔獣! 半顔を失いながらもバックハンドの鉤爪を振るい、龍麻の胸板をざっくりと切り払った。

「――ガフッ!」

 スウェイで致命傷だけは回避したものの、踏み止まる事が出来ずに仰向けに倒れる龍麻。噴き上がった血飛沫の向こうから、こちらも顔面から鮮血を撒き散らしながら不破が飛び掛ってくる。避ける態勢にない龍麻の喉に不破の下突き――いや、五指を揃えた貫手!

「龍麻ァ!」

 亜里沙が叫び――次の瞬間、龍麻と不破の位置が逆転した。やはりノーダメージとはいかなかった不破の貫手を紙一重でキャッチし様、跳ね上げた両足で不破を腕ひしぎ逆十字に捉えつつ投げを打ったのである。不破は芝生に顔面を突っ込まされ、その腕が龍麻のホールドからすっぽ抜ける前に――



 ――めちめちめりっ!



『ぐぬうッッ!』

 激痛を噛み砕きつつ裏拳を放つ不破。しかし龍麻は不破の腕が抜けた勢いで跳び下がっている。掴み所がない故に龍麻が全身でホールドした不破の右腕は、肩、肘、手首の三箇所で奇怪に折れ曲がっていた。

 肋骨の骨折と肩の脱臼、胸板の裂傷の龍麻。右眼球欠損を含む顔面の破壊と頭骨の破損、そして右腕全壊の不破。魔人と魔獣をしても無視できぬダメージ。しかし龍麻に徒手空拳【陽】の回復術を駆使する余裕はなく、不破の肉体も脳が剥き出しになるほどのダメージを蒙っては即再生という訳にはいかないが――

「――破ッ!」

『フンッ!』

 【掌底・発剄】の激突! 二人の間で爆発が起こり、衝撃波が地面に斬線を刻む。威力は――互角! 空中に弾けた【気】の残滓が火花を散らす中、龍麻は肩を入れただけ、不破はそのままで猛然と踏み込んだ。

 不破が振るった鉤爪をギリギリまで引き付け、龍麻が不破の死角側に飛び込む。ハンデがない今、彼のスピードは魔獣にも匹敵する。迎え撃つ不破の蹴りに胸板を裂かせつつ捉えた、受ける事は叶わず、かわしても瞬時に追い詰められる位置から【掌低・発剄】の態勢。――殺った! 誰もがそう思った瞬間、不破の左腕から真紅の輝きが発せられ――

『キィェェェッ!!』

 跳び下がりながら振られる裏拳。牽制にもなり得ない打撃が走った直後、不破を中心とした半円状に天をも焦がせと巨大な火柱が立ち昇った。火柱は龍麻を飲み込み、芝生も、積もった灰も吹き飛ばして渦巻き、触れるもの全てを超高温の舌で舐めた。

(日下部の技か! だがこれはどう見ても――緋勇の【巫炎】!?)

 圧力となって襲ってくる強烈な爆風と熱気に耐えながら、紫暮。――用法は微妙に異なるが、原理は間違いなく徒手空拳【陽】の奥技【巫炎】。体内で強力に練り上げた【気】に炎のイメージを纏わせ、【炎気】と化して打ち出す奥技。――異なるのは【巫炎】が射程を犠牲にする代わりに自分の前面を広くカバーする炎の壁を発生させるのに対し、火力を収束して一撃で敵を焼き尽くす爆炎を生み出している。――二条の炎を生む事で威力をカバーしていた日下部と異なり、こんなものを食らえば廻し受けでも防御不能、常人ならば即死必至だ。いかに魔人、緋勇龍麻と言えどもこのタイミングでは――

『ふははははっ! 見たか緋勇の息子よ! 我が神羅覇極流は炎の拳! 絶技・炎魔紅塵掌! 貴様ら徒手空拳の炎術など、大道芸にも等しいわ!』

 不破は右手で拳を作り、それを天に向かって突き出した。それがゴキゴキっと物凄い音を立てるや、折られた筈の関節が再生し、常態に復す。攻撃に向けていたエネルギーを回復にまわしたのだ。砕けた顔面もみるみる肉が再生し、元通りになっていく。――徒手空拳を完全再現するほどの【気】に加え、これほどの再生力を攻略できるのか!?

『所詮、緋勇の技など滅び去った王朝の技! 言わば負け犬の技よ! 大和の世より朝廷守護にあった我が拳の前には塵芥も同然! 次代を担う超人類の盟主には我こそが相応しいィィィッ!』

 ビルを焼く火気を受けたか、なお燃え盛る炎の塊を前に哄笑する不破。そのシルエットは限りなく人間からかけ離れているのに、その笑いに含まれる邪悪さは人間以外にあり得なかった。――あらゆるしがらみから解放されて自由を得るために人間という殻を捨てた不破と、【武道】を志して規範と制約の中に生きる自分達と、果たしてどちらが人間だ!?

 しかし――

『貴様もそう思わぬか? 緋勇龍麻!』

 その瞬間、炎の壁を貫いて気弾が走った。クワッと笑いの形に牙を剥き、それを叩き落す不破。――龍麻の【掌底・発剄】だ。誰の目にも直撃と見えたが、そこは百戦錬磨の男、己も使う技であればこそ、ダメージを最小限に留めたのだ。そしてそれがさも当然であるかのように、不破が笑い声を立てる。たった今こき下ろした筈なのに、酷く嬉しそうに。

『ククク。そうだ。そうでなくては面白くない。さあ! 貴様の力、もっと見せてみろ! 【気】を打て! 炎を放て! 全力を尽くして、この場で果てィ!』

 芝生を蹴散らし、不破が銀色の旋風と化す。龍麻の正面から瞬時に背後に回り込み――【掌底・発剄】! 龍麻は一歩だけサイドステップし、後ろ回し蹴り! これは不破に簡単に受け止められたが、龍麻は足首で彼の腕を絡め取って引き倒す。不破は足を踏み出して堪えたが、龍麻の足が器用に逆間接を取り、そんなトリッキーな動きには抗し切れず投げ倒された。そこに龍麻のブーツの踵が打ち下ろされるが、不破は肘打ちで受け止めて脱出する。一瞬跳び離れた二人だが、次の瞬間には突き蹴りを交錯させ、激しく位置を入れ替えながら血と汗と【気】を撒き散らす。一撃ごとに互いにダメージを蓄積し――ただし、龍麻が押され気味だ。突き蹴りを【受け崩し】で撃墜しつつも不破の手足は容易に破壊できず、屋上の隅へと追いやられつつある。しかし――

『――やるな。緋勇龍麻よ』

「……」

『この短時間で、もうわしの動きに付いて来られるか。ましてその足場を選ぶとはやってくれる』

 真摯な感嘆を含む不破の言葉の意味を知り、紫暮は思わず唸った。押されていたと見えながら、龍麻は破壊された水道タンクが作り出した泥沼を戦場に選んだのであった。磐石の大地あってこその不破のスピードも、ここでは否応なしに半減させられる。しかし…

『まさか今更銃に頼るなどとは言うまいな? いかに大口径ライフルでも、二発目は待たんぞ』

「……」

 不破の指摘にちらり、と先程捨てた装備一式を見る龍麻。跳び付けぬ距離ではないが――銃を取り、それを向けるまでの間に不破ならば龍麻を三回は殺せる。――お互い納得づくだ。この戦いを真に生き抜くには、最も信頼できる己の手足と能力のみで――それを確認したに過ぎない。だからこそ龍麻も、不破を手招いた。

「――来い」

 そして再び、銀の風と化す不破。龍麻の狙い通り、スピードが乗らない。しかしそれでもなお常人では追い切れぬ速度で龍麻の周囲を旋回する銀の帯に、赤い光が混じった。そして急速に膨れ上がる【火気】! ――スピードは封じても不破には【これ】があった。

『神羅覇極流奥技・天破炎龍昇!』

 足場とは無関係の、【気】の放出技! タイムラグなしに、全周囲から襲い掛かる炎の渦! それは龍麻を中心に炎の竜巻となって天へと駆け上り、夜空を赤々と焦がした。猛烈な熱変化がもたらした乱気流に煽られ、黒煙が渦を巻き取材ヘリがよろめき、紫暮達も地に伏せて耐えるしかなかった。上下前後左右に隙なし――脱出不能! こんな炎の洗礼を受けては、並みの人間ならば骨すら残るまい。

『――むうッ!?』

 炎の中で立ち上がる影! その右手に殺気が凝集すると同時に横っ飛びした不破であったが、足に大量の泥が付着して彼のスピードを奪い、瞬時に密着した龍麻渾身の【掌底・発剄】が彼の壇中を直撃した。大きく吹っ飛ぶ不破。

「――やった!」

 快哉を叫ぶ亜里沙。紫暮も思わず大きく頷いていた。いかに魔獣とは言え、生物としての形状を備える以上、正中線に必ず急所がある。紫暮の目にもそれは会心の一撃と見え、それは確実に不破の急所を捉えた筈だ。

 炎が吹き払われ、そこに立っていた泥人形からボロボロと乾いた泥が剥がれ落ち、緋勇龍麻の形を取る。龍麻は炎に包まれる直前に自ら泥にダイブし、【雪蓮掌】で泥を凍らせて鎧としたのであった。不破の足に付着したのも、その余波で凍った泥土だ。

 しかし龍麻も片膝を付く。――純粋な【気】の放出系の技を、未だ彼は己のものとしていないのだ。連続した【気】の爆発的消費がこれまでのダメージ、限界ギリギリの酸素欠乏と重複し、一気に疲労が襲い掛かってくる。【これ】を克服するにはまだ時間がかかりそうだ。

 だが今、そんな時間があるか!?

「――ッッ!」

 不意に突風のような闘気が吹き付けられ、龍麻以下、紫暮たちも顔を庇った。肌が鞭打たれるような、強烈な殺気。それもただ強いだけではなく、恐ろしく研ぎ澄まされた、透明な殺気であった。

「馬鹿な…! あの一撃を受けてまだ闘えるというのか…!」

「あのオッサン、半端じゃねェ…!」

 腕で拭うは冷や汗か、不破の放つ熱気を受けた汗か。初夏の心地よい夜風は灼熱の魔風と変わり、全身から汗が噴き出すほどに暑いのに、身体の芯だけは凍り付いている。――殺気だけでこの有様だ。

 そして、不破がゆらりと立ち上がった。

「……」

 龍麻の一撃は決して無力ではなかったに違いない。不破の全身から銀毛が抜け落ち、その下から見事にビルドアップされた【生身】の肉体が現れる。激烈な鍛錬の果てに培われた筋肉と、潜り抜けてきた修羅場の凄惨さを物語る数々の傷。それを前にした時――

「――オイオイ、こいつァ…」

「怪物の時より…倍は強く見える」

 どんな状況でも飄々とした態度を崩さなかった拳士郎の頬を冷や汗が滑り落ち、魔物を前にしても豪胆そのものであった紫暮の顔にも緊張が走る。まるで――魔獣の姿こそかりそめ。今、人間の姿に戻った不破こそ、正に格闘の羅刹であった。

 それが、ふ、と笑った。

『わしを倒すには【気】の練磨が足りんな。銃に頼り過ぎて修行不足か。それとも修行不足故に銃に頼るのか。――弦麻は違ったぞ。彼奴は銃弾飛び交う戦場でさえ飛び道具になど頼らなかった。己を高める為、自らを鎖で縛ったままでも戦いおったわ』

 ヒュゴッ…! と不破が【息吹】を放った。

「…ッッ!」

 ただでさえ圧倒的な殺気が、物理的に大気を切り裂く力と化し、龍麻は二歩下がった。そして――全身に気力とアドレナリンを行き渡らせた不破は構えを作った。開掌の両手を正中線に沿うように並べ、身体そのものは右肩を前、膝を緩め僅かに腰を落とす――真に人間技。【力】を欲した果てに【魔獣】の肉体を得た男が、なんと自ら【人間技】に立ち返ったのである。

 龍麻も血の混じった唾を吐き捨てて立ち上がり、構えを作る。――奇しくも同じ構え。ただし打撃技主体の龍麻はスタンスがやや狭く、両肘をより深く縮めている。

「緋勇…」

 ――やる気だ。二人とも、徒手のみで――

『――呼ッ!!』

「!!」

 ――動いた! そう感じる前に【掌打】を打つ龍麻。不破の【無拍子打ち】が正に龍麻の目前で寸止めされる。龍麻の【掌打】もまた、不破が後半歩踏み込んでいたならば頚動脈を切断する位置にあった。クワッと凶暴な笑いを浮かべる不破。

 リーチに優る不破が先に【狐拳】を飛ばしてくるのに合わせて入り身になり、【面】を捉える【掌打】を飛ばす龍麻。【狐拳】の勢いを殺さず上体を反らして【掌打】をかわす不破。龍麻の【掌打】は先の竜崎戦時と同様、急速に方向転換し目潰しを見舞う。しかし不破の【孤拳】が逆落としの鉤爪に変化し、途中で強引に流れを断ち切って龍麻は後方に跳んだ。間髪入れず放たれた不破の【龍星脚】が龍麻の顎を掠め、一発目がかわされる事を見越していた逆足がソバットとなって龍麻の水月を直撃した!

「――グッ!」

 息を詰まらせてよろめく龍麻に、再び飛び技! 浴びせ蹴り――否、【龍落踵】! かわし切れず十字受けした龍麻だが、斜めに衝撃を逃がした先刻と違い、全身に波紋のごとく【剄】が広がる。――【気】の防御が破られ、ダメージを受けたばかりの肋骨に鋭い痛みが走る。

『――キエェェィッ!』

 龍麻のダメージを知り、不破の前蹴りと横蹴りが連続して負傷箇所を襲う。東北地方に伝わる古流柔術、諸賞流和術式の強烈な当身! 素拳で甲冑の【裏側】を突き破る当身の直撃二発目で龍麻の肋骨が粉砕されるが、それを犠牲に蹴り足をキャッチ、膝十字固めとアキレス腱固めの複合関節技に持っていく。地面に引き倒された不破は間接を極められる前に全身をスピンさせ、龍麻のホールドを弾き飛ばして脱出。素早く飛び退いて身構える。

『寝技も【使える】な! 面白い!』

 彼もまた武人――弾丸すら滑らせ、砕かれた間接をも即座に修復できる肉体に対して、敢えて再び関節技などを使った龍麻を警戒し、ロングレンジの【掌低・発剄】! 【気】が芝生を抉り、激痛に歯を食いしばりつつトンボを切った龍麻が地に降り立つ寸前、獣の瞬発力を充分に生かした踏み込み様の【掌打】。しかし龍麻は両足の配置を定める前に三才歩で身を引き、不破の【掌打】をキャッチし様投げに行く。――合気道の基本、【四方投げ】。不破は己の【掌打】の勢いで綺麗な弧を描き――

『甘いわァッ!』

 柔術ならば不破に一日の長あり。不破は自ら回転を加速し、足から着地すると同時に、龍麻に取られている手首を支点に回り込んだ。その結果、手を放す事ができなくなった龍麻の手首、肘、肩が同時に極められ、彼は容易く地面に転がされる。そこに再び【龍落踵】! カポエイラ式の逆立ち蹴りで致命の一撃を外した龍麻に、追撃のバックハンドブローと鉤爪のフック、廻し蹴りの連続技。龍麻は下がりながらの【龍旋脚】で攻撃を弾き飛ばし、不意に軸足をステップインして不破の延髄に踵を叩き込み、その反作用を利用した肘廻し打ちを一撃、背中合わせに不破の顎を取って投げ落とす。――が、打撃をわざと受け、自ら跳んでいた不破は両足が地に付いた瞬間、両掌を鋭く突き出し――形意拳式の【双撞掌】! 龍麻は吐瀉物を撒き散らしながらくの字になって吹っ飛び、またしても水道タンクにめり込む勢いで叩き付けられた。

 間髪入れず、胸が地に触れるような前傾姿勢で猛ダッシュする不破。こんな普通の――タックルからのマウント狙い!? いや、龍麻が膝蹴りを合わせようとした瞬間、いきなり上体を跳ね上げ――意外! 振り出した左手が龍麻のタンクトップを掴み取り、右手刀を肋骨の下に突き込んでの背負い投げ! 折れている肋骨を掴まれる激痛が受身を忘れさせ、しかし泥の為に威力は半減――かと思いきや、一瞬にして組み手を変えて十字締めに龍麻の首をホールド! 頚動脈を極められて思考が断絶した龍麻を地面から引き剥がし、自分ごと彼を頭から投げ落とした。二人分の体重×加速度の衝撃に龍麻の頭蓋内で火花が飛び散り、それも一回で終わらせない。龍麻の首を絞め続けながら二度、三度と彼を地面に叩き付ける。これは――

凶津まがつ流――【夜叉車やしゃぐるま】!』

 古流柔術の危険な部分を【実戦】で使用した投げ技! 五度目の投げの際にタンクトップがちぎれ飛び、龍麻は辛うじて肩から泥の中に突っ込んで受身を取った。――運が良かった。もし地面がアスファルトならば最初の投げで即死だった。しかしダメージは深刻――龍麻の足はもつれ視界は歪み切り、即応できない。追撃の不破の突きが龍麻の横面を直撃し――しかし打撃を受けると同時に繰り出した龍麻の前蹴りがカウンターで不破の水月に突き刺さる。共に弾け飛び、踏み止まる動きをそのまま【龍落踵】に繋ぐ不破、【龍星脚】で迎え撃つ龍麻。【気】が激突し、鮮血が飛び散り、骨肉が上げる軋みが空気を震わせた。

「――気付いたか、兵庫?」

 固く拳を握り締めて戦いを見詰めていた拳士郎が口を開く。

「ああ。龍麻が素手になってから雰囲気が変わった。互いに本気で殺し合っているのは判るが、何か…組手を見ているようだ」

 【それ】に気付き、紫暮は緊張と興奮と感嘆と――戦慄に身を震わせる。

 不破が龍麻の負傷箇所を連続攻撃して肋骨を奪ったように、龍麻もまた受身不能の体落としと腕ひしぎで不破の顔面を砕き、腕をへし折った。今更再認識するまでもない事だが、この二人は間違いなく、互いを殺すつもりでいる。そしてどちらも、【殺す為】の技を知っている。関節技は極めたら折る。打撃技は急所や負傷箇所を狙う。締め技は相手を窒息させるまで締める。投げ技は頭から落とすか、石や突起物に対して叩き付ける。――これらを【えげつない】とか【フェアじゃない】と言うのは、完全にスポーツの考え方だ。

 龍麻の軍隊格闘術〜否、本来の【殺し技】には【えげつない】技や【残酷な】技などないのだ。いかに速やかに無力化――ありていに言えば【殺せる】か、人体破壊の効率性を追求すればそうなるであろう形があるのみだ。その理想は、己は思うままに動き、相手には何もさせず、可能な限り速やかに、可能な限り多くの敵を打ち倒す事にある。【砂粒一つでも持て】という教えは、フェアプレーとは対極にある、【殺し合い】ならではの言葉だ。龍麻が大量の武器を用いて常に急所を狙うのも、不破が全身を剛毛と獣脂で覆っているのも、【戦場】における【正攻法】なのだ。いや、一対一などという戦いになっている事さえも、真の【戦場】においては【邪道】だ。

 だからこそ、紫暮は戦慄したのだ。

 確かに容赦ない攻防の果てにお互い深刻なダメージを蒙った。しかし、【戦場】を知ると自負する男と、【実戦】の恐ろしさを知り抜いている筈の男が、互いに魔人的能力と魔獣的能力を駆使しながらもギリギリで【徒手同士】などという【フェアプレー】。その気になれば芝生も土も、空気さえ武器にできる男たちが、【本気】で【殺し合い】に臨みながら、お互いに身に付けた技のみで戦っているのである。その意味するところは――

(緋勇…。お前は今、どこにいるのだ…?)

 まだ龍麻と付き合いの浅い紫暮だが、彼の思考形態はおぼろげながら解っている。目的の為――この場合は亜里沙と弥生の救出だ――ならば手段を選ばぬ彼にしては、珍しいを通り越して異常な行為だ。だが既にここは――小手先のテクニックなどでは生き残れぬ、戦いの征途。己の全能力、全存在を賭けた、純然たる戦いの場。誰かの為、何かの為――それら不純物を全て排除し、己の鍛え上げた肉体一つ、拳士としての尊厳一つで挑む戦い。――紫暮は戦慄と共に、【そこ】に到達した二人に狂おしいほどの嫉妬を覚えた。

 そして再び交錯する拳足。一撃の威力は遥かに不破が上で、技の錬度も彼が優るが、徹底してカウンターを狙う龍麻の連撃は、岩を穿つ水滴の如く不破に確実なダメージを与えつつあった。――命懸けの【実戦】であればこそ、龍麻は一撃ごとに技を高め、本来ならば問題にならぬ僅差〜龍麻の才覚と若さ、今日出会った【達人】たちの教えが融合し、武道的力量に優る不破と互角の戦いを演じさせている。そして――遂にチャンス到来。龍麻の拳がスピードの鈍った不破の頬を裂き、連動する直突きが左目に吸い込まれた。視覚を失えば、いくら魔獣とて――!

『――シィッ!』

 下がれば呑み込まれる! 龍麻の拳を強引に額で受け、不破の貫手が龍麻の喉元を狙い――皮一枚切らせてカウンターの一本拳を放つ龍麻! しかし不破は――龍麻の読みに反して強引に突きの外側へと身を捌いた。龍麻の拳が不破の頬肉をえぐり、しかし踏み込んだ位置は、龍麻の足の裏側! 同時に胸板を刷り上ってくる不破の【掌打】!

(大外刈りッ!? いや、これは――!)

 襟と袖を取れば柔道の大外刈り。しかし不破は龍麻の肩に鉤手を食い込ませ、左の【掌打】を【虎口拳】に変えて龍麻の喉を掴み、彼の後頭部を急角度で地面へと叩き付けた!

『凶津流――【鬼哭楼きこくろう】!』

 大外刈りがあくまで衣服を掴むのに対し、強靭な握力で急所を掴んで投げ落とす荒技! さすがの龍麻も意識が飛び――不破はそこで技を止めず、自身をも放り投げるように【夜叉車】を三連発! 龍麻を地面に叩き付ける。

「龍麻ァッ!」

 無意識のままに跳ね起きたのはさすがと言うしかないが、不破が迫ってきても彼の目には不破が五人にも見えていた。その虚像に向けて龍麻は蹴りを繰り出し――不破はその蹴り足を足場にして宙に跳ぶ。――月面宙返り!? 龍麻が振り返り様の裏拳を放つと、その腕に、足に、不破の手足が蛇の如く絡み付いた。これは――!?

「――こッ、コブラツイストォ!?」

 拳士郎の驚愕も道理。よもやこんな場面で、プロレスの技!? これには龍麻も完全に虚を突かれた――と見え、しかしそれは危険を減らす為わざと隙を作ってある【興行用】のコブラツイストとは異なり、手足の自由を完全にロックする、言わば【完全形】にして【武道的用法】されたコブラツイストであった。

『凶津流――【大蛇絡おろちがらみ】! ――弦麻に初めて土を付けた技よ! お前に破れるか!』

「グヌウッ!」

 初めて龍麻の顔が苦痛に歪む。手首、肘、肩、腰、膝に至るまで完全に極められ、反撃はおろか半歩動く事さえ出来ない。同時に間接が、腱がギシギシと嫌な軋みを上げ、激痛が龍麻を襲う。脱出不可能! そして――龍麻の左眼から赤い光が漏れ出す。

 しかし――

『――ガフゥッッ!』

 突如、鋭く走った光が重なり合う二人の胴を貫いた。どうと地面に倒れる二人。不破の胸板には背中まで貫通痕が刻まれ、しかし血の一滴も流れ出さなかった。その傷口が焼き潰され、炭化していたためであった。一方の龍麻は、脇腹から溢れる血がタンクトップを重く湿らせていく。そして、ピクリとも動かない。

『グ…ヌゥゥッ…!』

 口から血泡を噴き零れさせながらも、身を起こして振り返る不破。その視線の先にいたのは、天使のごとき羽を生やした偉丈夫――日下部登喜雄であった。

『――愚かなり、不破弾上。己の戦いのみに目を奪われ、背後をおろそかにしたな』

『日下部…何の真似か…ッ!』

 日下部の技、神羅覇極流絶技【鳳凰天翔・夢幻光翼陣】〜超高熱の羽矢は不破の肺を貫いて焼き潰しており、獣人の不破をして致命傷だ。それでもなお怒りに身を焦がし、血をゴボゴボ言わせながら問う不破。

『あなたはもう用済みという事ですよ、館長殿。――いい加減にしていただきましょう。いつも実戦がどうの非情の血がどうのと言っておきながら、何をチャンピオンシップに浸っているのですか。それ以前に、あなたこそ裏切り者ではありませんか』

『何…?』

 唇の端がきゅーっと吊り上がる、天使の顔に悪魔の笑み。人を見下せる喜びに満ちた、【人間】ならば最も醜い顔。

『【司教】殿が気付いていないとでも? 【あの娘】への情にほだされ、【司教】殿を裏切ろうとしたのはあなたが初めてではないのですよ。多くの命を啜ってでも【力】を欲した者が、餌に過ぎぬ小娘に惚れ込み、その【力】を捨てようなどとは。ましてや、次なる贄に決まっている娘を横取りしてかくまうなど。あなたのつまらぬ義侠心の為に迷惑を蒙った人は多いですよ。新山麻美、剣持鈴菜、暁弥生…他にも何人かいましたね。まあ、あなたが獲物を一箇所に集めておいてくれたので、私も良い点数稼ぎが出来ましたよ』

『貴様…!』

 グワ、と牙を剥く不破。――紫暮たちにしても、それは衝撃的な事実であった。諸悪の根源と思っていた者が、実は獣人の蹂躙を阻止しようとしていたなど…!

『今更怒って見せたところで手遅れですよ。いえ、むしろ滑稽ですね。ここで無頼を装い、悪役を演じながら、あの娘と接する時のあなたと言ったら…。あの娘に想い人がいる事を知りながら、よくもあそこまで青臭い態度が取れるものですね』

 不破の顔に憤怒と、恥辱が揺れる。そんな事まで知っているという事は、この日下部は――

『――ええ。その通りです。【司教】殿はあなたが気に入らないようで、私を後継者に指名してくださいまして、一部始終を見させていただきましたよ。もう、笑いを堪えるのに必死でしたね。しかしおかげさまで私も愉しませて頂いていますよ』

『日下部…。まさか貴様…!』

 不破の顔色が変わり、日下部は肩を震わせ…否、天を仰ぐ哄笑を放った。

『ええ、そうですとも。ククク、あなた程の者が狂うのも無理はない。確かに傷物とは思えない素晴らしい味ですものねえ、長瀬瑞穂という娘は。――ああ、ご心配なく。あなたの仲間だと偽って口説き落としましたから、他の方のように乱暴な真似などするまでもなく、存分に堪能させていただいていますよ。健気ですよねえ。ご両親の為、恋人の為だと言うだけで、躊躇いながらもどんな要求にも応じてくれますものねえ。それが儚い希望に過ぎず、ただ私に弄ばれていただけだと知ったら彼女はどんな顔をするのでしょうね?』

『――黙れッ!!』

 怒りに銀毛を逆立て、血を振りまきつつ宙へと躍り上がり――その直後、背後から不破の背を稲妻が刺し貫いた。新たな血泡を噴きながら振り返った視界に、槍を握った狒狒が映る。

『ぐぬうっ! 沢松! 貴様もかッ!』

『――ったりめェじゃねェか。この裏切りモン』

 沢松はこれまでとは一変した不遜な態度でケッと唾を吐き捨てた。

『道理でいつまで経っても女どもを姦らせねェ訳だ。まだ早ェだの未熟だのってお預け喰わせながら、腹ン中じゃヒーロー気取って悦に入ってたんだろうが! それで最強を目指してるたァ、笑わせるぜ』

『正しくその通り。武道とは修羅の道行き。何ものをも犠牲にしても振り返らぬが至上。そのような心根は武道家にとって唾棄すべき弱さ! そして弱き者に、盟主たる資格はない! あなたを殺して私が全てを引き継ぐ! 覇王館も! 盟主たる座も! 秋月某の予言通り、若き龍を飛び立たせる為、手負いの狼は炎の中に消える。正に今がその時ですよ!』

 これが、先程まで師と仰いでいた者に対する言葉か!? 不破の気を受けて傷を癒していたのは日下部も同じであろうに、彼は狸寝入りを決め込み、真に狙っていたのは師の命であったとは。自分を倒すほどの者達を相手にすれば、必ず不破が隙を見せると踏んで。自分の――恩師を殺すために…。

 そして日下部は、腹を押さえて気絶している弥生に視線を落とした。

『――当然、この娘も。真に強き者こそが全てを得る権利を有する――それがあなたの持論でしたね。確かにその通りですが、私の持論では――己の手足を振るって事を為すなど真の盟主にあらず! まして劣った存在に全力を尽くすなど愚の骨頂! もはやあなたには学ぶべきものもなければ、忠誠を尽くす義理もありませんよ』

 弥生を抱き上げ、翼を広げる日下部。その周囲に沢松が、人猿が群れ集った。事、ここに至って、覇王館の最後の精鋭も不破を見限ったのであった。

『ヌウッ…貴様ら…!』

 ギラリと光る不破の目。群れの頂点たるものの命令は――発動されなかった。

『無駄ですよ。既に私の方があなたより強い。新たなリーダーを得た今、弱きリーダーを振り返る獣はおりません。それに――裏切り以前に、あなたは傲慢過ぎた。気合だの根性だのと、下らぬ精神論を振りかざし過ぎました。あなたは結局、己の腕力に溺れていただけなのですよ。組織を束ねる者としても、教育者としても最低だ。組織の表看板としては役に立ちましたがね』

 すう、と浮かび上がる無数の羽矢。

『でももう用済みです。――さようなら、元館長殿』

 それだけが別れの挨拶か。日下部はぱちんと指を鳴らした。光の羽矢が一斉に不破に襲いかかり――とっさに固めたガードの隙を突いて、沢松の振るった短槍が不破の胸板を刺し貫いた。

『あばよ館長。――アンタは強ェだけのクソだったよ』

 ゴフッと血の塊を吐き出し、不破は大の字になって地面に倒れた。次いで――凄惨! これまでの恨みか憎しみか、人猿どもの槍が彼に突き立ち、不破を槍衾に変えた。獣達の頂点を占めていた男が倒れ、新たなるリーダーの誕生を祝う血の宴であった。

 日下部は高らかに笑い、紫暮達を振り返った。

『御覧なさい! 武道家などというものの哀れな姿を! 純粋なる闘争につまらぬプライドや友愛を持ち込めばこその末路を! 敬意だの友情だの、愛などと――弱肉強食の戦いにあってはそれら全てが不純物! この世にはもはや、愚鈍なる合成物など必要ない。下らぬ思想を抱いたまま、あなたたちも死になさい!』

 不破を放り出し、一斉に牙を剥く人猿達。確かに先程までとは違い、統制された群れの威圧感はない。ただし後先考えぬ狂犬集団と堕したのは間違いなさそうだ。

『さあ行きましょう。私たちの輝かしい未来へ!』

 日下部が感極まったような笑みを浮かべて地上を離れる。亜里沙が飛び出しかけ、しかしその腕を掴み止める手があった。その時――!

『ぐわッ!』

 突然、日下部の端正な顔面が陥没し、彼は大きく仰け反った。噴き出した透明な鼻血が空中にある間に固まって黒い灰と化し、天使は再び地上に叩き落された。

「下らないのは――」

 日下部の腕から飛び降りた、しなやかな肢体が鋭く旋回する。バレリーナのごとき優雅な転身から繰り出された凄絶なバックハンドブローに、銀色の閃光が尾を引いた。

「――アンタでしょ!」



 ――ギンッ!



 光の正体――銀色のメリケンサックを顎に受け、日下部は灰を撒き散らしつつきりきり舞いして地面に叩き付けられた。

『なッ! ――貴様!!』

 なぜ弥生が!? 予想外の出来事に泡を食った沢松が右フックを放ち――トラックをも粉砕するパンチが、ふわりと孤を描いた女子高生の細腕に弾き飛ばされる。古流空手――【抜塞パッサイ】! 怪力がベクトルを奪われ、腰砕けになった沢松の顎にカウンターで突き刺さる、弥生の右前足蹴上げ! だが完璧に決まった技なればこそ沢松は思惑以上に大きく態勢を崩し、弥生の美脚は彼の頬をざっくり裂かせるのみにとどめて虚しく空を駆け上がって行く。大技は外されれば終わり――沢松は美脚とストライプ柄のコラボを愉しむ余裕すら持って彼女に組み付こうとして――今まさに噛み合わされんとする巨大な獣のあぎとを見た。それは――

「――【タイガーファング】ッ!」

 美声と共に、沢松の目の奥で火花が散った。一瞬で脳が百のオーダーで頭蓋内に激突し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚もろもろが消し飛ぶ。――前足蹴上げから変化させた超鋭角の拝脚による踵蹴りを顎に、追撃の飛び回し蹴りをこめかみに、全身のスピンをも加えて叩き込む、乾坤一擲の荒技。それは沢松の猪首をもへし折り、頭蓋骨に亀裂を走らせ、下顎を割って牙を飛び散らせた。

 しかし、沢松も魔獣。常人ならば即死必至のダメージを受けてなお、直前の指令に従った肉体が弥生に組み付いた。捕まえてしまえば力が強い者が勝つ。たとえ【ナイファンチ】で力を霧消化しようとも、逃げる前に配下の者たちが飛び掛り――

「弥生ィ!」

 声と同時にぱっと身を沈める弥生。その直後、雪崩を打つように飛び掛っていた獣人たちが突風のごとき衝撃波に弾き飛ばされた。――【百歩神拳】。そして【掌底・発剄】! 龍麻対不破、そして不破たちの同士討ちの最中から練り上げていた【気】が獣人どもを打ち砕く。更に――

「この――腐れ外道ッ!」

 サウンドバリアを打ち抜く炸裂音が、首をぶら下げたままなお弥生に組み付く沢松の胸板を直撃して、今度こそ宙に舞わせた。――残酷などとは微塵も思わぬ、これまで以上に怒りに満ちた一撃。当然だ。この連中は、知らぬ訳ではない娘の名を出し、その心さえ弄んでいる事を自慢げに語ったのだ。

「道理で悪党ぶりに無理がある訳だ。――格好良過ぎだぜ、オッサン。だがテメエらのやり口は徹底的にトサカに来たぜ。もう手加減なんざしてやらねェ。――ぶっ潰すぜ! 【化物スクリーマー】!」

 初めて殺気を漲らせた拳士郎の全身から、龍麻ら【魔人】と似て非なる闘気が溢れる。憤怒の表情の中で深い哀しみを宿した目が光り、業火のごとく揺らめく黄金のオーラはある明王の姿を思わせた。――悪を滅するにも大慈しみをもって臨む、不動明王を。

『しゃら…くせェェェッ!!』

 ゴキリと物凄い音を立てて首を無理矢理戻す沢松。――弥生の【殺し技】も亜里沙の怒りの一撃も決定的なダメージとならなかったのか!? いや、力のみを信じるものとして、彼もまた己の全霊を以ってその持つ【力】の全てを開放していればこその再生力であった。力こそ正義、力のみ絶対と、全ての筋肉が、その筋繊維一本一本が爆発さながら膨れ上がり、人としても魔獣としても異常な筋肉形態へと変化する。それはまるで――全身で作る握り拳であった。

『喰ってやる…喰ってやるゥ! 貴様ら全員、食い散らかしてやるゥッ!』

 巨大な握り拳が疾った。転がるように、弾むように、しかし稲妻の如く速く!

「ムンッ! ――破ァッ!」

 最初の標的は、やはり首をへし折ってのけた暁弥生。紫暮は即座に【二重存在】を展開して彼女達の盾となり、同時に【掌底・発剄】を放つ。しかし――沢松の強烈なスピンが【気】の衝撃波を弾き飛ばした!

「――クッ!」

 それぞれ亜里沙と弥生の腰をさらって跳ぶ紫暮。沢松の体当たりを受けた地面が陥没し、階下にまで届く大穴が空いた。しかも――あの猛烈なスピンから伸びてきた牙と爪の威力! 不破のような幻惑作用は持たずとも、風圧だけで紫暮の肩から胸板にかけてすだれ状の斬線を刻むパワーを持つ。直撃を喰らおうものなら人間など一撃でノシイカにされ、牙か爪にかかれば輪切りは必至。そしてあのスピンを前に、こちらの技は全て弾き飛ばされてしまう。

『貴様らごときが! 人間ごときが獣に勝てるか! 身の程を知れェィッ!』

 両手を地面に付き〜正に魔獣〜凄絶な遠吠えを上げる沢松。技師たる日下部とは異なる道〜力を選んだ魔獣か。いかに超人的な技を振るうとは言え、人間の知恵をも兼ね備えた獣相手に、紫暮たちにいかなる勝算がある?

「ケッ、勝手にほざいてろ。ケダモノごときが、武道舐めんな!」

 そして拳士郎もまた、凄まじい呼気を搾り出した。

「クオォォォォォォォォッッッ!!」

 屋上であるが故に、上空には無限の解放空間が広がっている。それなのに空気がビリビリと振動し、肌が焼け付くような熱気を孕む風が吹きすさぶ。そして…

「ケン…本気だな…!」

 【息吹】は肉体の潜在能力を引き出す空手の奥技だ。生理学的にはアドレナリンの分泌を促し、血液流量を増加して筋肉のパワーと耐久度をアップさせるものである。しかし彼のそれは、そんな医学的理屈など軽く一蹴するほどに凄まじかった。

 一見細身の拳士郎の肉体がそれこそ倍にも膨れ上がり、ただでさえ張り詰めていたシャツを引き裂いて、彼の名の元となった男と同じ、七つの傷が剥き出しになる。特に顕著な変化を見せたのは背中で、背骨と肩甲骨に絡み付いた太い木の根のような筋肉が大きくうねった。常人ならばありえぬ箇所〜肘の内側にさえ小さな力こぶが生じる。

 打撃系格闘技にとって要となるのは背中の筋肉であるという。大きすぎる大胸筋は、むしろ肩間接の可動域を狭めてしまうと言われるほどだ。また、ダンベルトレーニング等によって作られた筋肉は柔軟性に欠け、瞬発力や持久力においても劣るとされる。

 ならば拳士郎のそれはどのような鍛錬が生み出したものか? 彼の肉体は、医学的に言うと不随意筋が恐ろしく発達しており、それが【息吹】によって随意筋を押しのける勢いでバンプアップされたものであった。常人にありえぬ筋肉組成に見えながら、それこそが【人間】の究極的筋肉形態。【空手】という、【本能】と対極にある【文化】によって培われたアンナチュラルの極致。言うなれば――総天然空手体型。

『グルゥゥゥゥァァァァ――ッ!!』

 今、魔獣の咆哮が上がる。捕食者であるが故に生まれついての戦闘的肉体を持つ【魔獣】と、脆弱であるが故に道具を使って進化した果てに、今一度己の肉体に秘められていた潜在能力を目覚めさせた【人間】との一騎討ち。【魔獣】は牙を大きく剥き出しにして全身をたわませ、短距離走のクラウチング・スタイル、あるいは相撲の立ち合いよりもなお低い、一撃で獲物を噛み砕く構え。対して拳士郎が取った構えは――正拳中段突き。空手において、否、およそ突き技を能くする格闘技ならば、共通して最も初期から、最も長く修行する技。ただし彼のそれは拳を握らず、五指を伸ばし、人差し指と小指を僅かに開いた一種奇怪な構えである。金属的質感のある彼の手で構えられたそれは、どこか最新鋭のジェット戦闘機を思わせた。

「――来な。肉ダルマ」

『! ――ヌオォォォォォァァァッ!』

 ボッ! と空気を抉り、魔獣が地を蹴った。既知の猛獣〜ライオンや虎が獲物を襲う際のダッシュは瞬間的に時速五〇キロから八〇キロに達し、魔獣たる沢松のそれは実に――時速二三〇キロ! 艦載機のカタパルト離陸に匹敵する速度と瞬発性を前に、拳士郎は――

(――こいつッ!?)

 獣の反射神経が支える動体視力が拳士郎の正拳突きを捉え――その瞬間、超絶の打撃が沢松の胸板に炸裂し、二五〇キロの巨体が真っ向から弾き飛ばされた。魔獣の目にさえ捉え切れぬ拳が耳を劈く炸裂音を立てたのは、沢松の肋骨が微塵に粉砕された直後であった。

『ガッ…ハァァッッッ!』

 口から黒血を盛大に吹き上げ、仰向けに倒れる沢松。時速二三〇キロで駆ける二五〇キロの巨体を、九五キロの全体重を乗せた時速一二〇〇キロオーバーの正拳突きがカウンターで迎え撃ったのである。沢松の肉体は胸骨のみか内臓も粉砕され、その衝撃波は全身に広がり、爪を弾き飛ばし剛毛を飛び出させて血を霧のごとく噴出させた。

「【音速拳】…!」

 一瞬にして凄惨な敗者となった沢松より、その結果をもたらした風見拳士郎の突きに戦慄と感嘆を覚える紫暮。空手の【一撃必殺】は伝説にあらず。多くの【達人】達の教えを受けた若き具現者がここにいた。

 しかし――

『まだ…だ…!』

 もはやまともに動く事さえ――そもそも生きている事さえ不思議な身で、沢松は唸り声を上げた。そして確かに、血が速やかに凝固し、死んだ細胞を膿として吐き出し、魔獣の肉体は再生しようとしている。――どうすればこんな獣を殺せる? いや、これほどの目に遭わされてなお【死ねぬ】肉体を持つ事が沢松の望みであったとでも言うのか!?

「…解らねェな。――沢松。お前、そんな身体になってまで、一体何がしたかったんだよ? 人類を支配するとか何とかって、そんな【暴力】だけじゃ何も出来やしねェよ。せいぜいテメエの気が済むまで人をぶっ殺しまくって、いつの間にかテメエ独りきりになって自殺するのが関の山さ。――って、もう聞く耳もねェか」

『殺してやる…ぶっ殺してやる…ぶっ殺してやるゥ…!』

 その言葉のみを呪詛のごとく呟きつつ、遂に半身を起こす沢松。血涙を垂れ流しにしたその目には、もはや狂気しか彩られていなかった。――人間の可能性を否定し、技を否定し、力のみを絶対と信じてきた男が、拳士郎の【人間技】で打ちのめされたのである。【力】のみを信じる者にとって、それは絶対にあってはならぬ事であった。たとえ――何ものをも犠牲にしても。

 そして沢松は突然、配下の人猿を捕らえるや、その首に喰らい付いた。

「ひっ…!」

 剣持が、小柳が息を呑む。亜里沙や弥生も例外ではない。――人猿は一瞬にしてその首を食いちぎられ、しかしそれこそが恐怖の根源〜絶対的強者に食われる至福の表情を浮かべていた。そして沢松は人猿を抱え上げ、噴水のごとく噴出す血潮を、さもうまそうに喉を鳴らして呑んだ。すると再び――その肉体がみるみる隆起し始める。文字通り、命を糧に…。食われる事さえ至福に…。これが――魔獣。

「…仲間まで食っちまうのかよ。――しゃあねェ。テメエの命、俺が背負ってやるよ」

 それは――沢松を殺すという意味か!? しかし紫暮もまた、拳を固めて前に出た。

「お前一人に背負わせはせんよ。武が暴力を止める力であるならば――これも武道家の務め。この宿業、目を逸らす訳には行かぬ」

 こんな生命体の存在を許す訳には行かぬ。だがその生命体は――元人間。紫暮と拳士郎は指が白くなるほど拳を固く握り締め、前に出た。そして沢松が二人目に手を伸ばしたところで――

『ぐわっ』

『ギャッ』

 全く予期しなかった方向――人猿どもの背後から、鋭く回転する飛来物が彼らに襲い掛かり、その首や胴に絡み付くや、ワイヤー両端の錘〜小さな鎌の刺さった位置から爆発的に腐食させ、人猿を瞬時に分解せしめた。空を掴んだ沢松が振り返ると、そこに黒くしなやかな影が舞い降り、その爪を優美に一閃させると、状況の変化に付いていけなかった人猿の首や頬に小さな傷が走り――傷口が爆発して血肉がちぎれ飛んだ。

『ギャァァァァッヒギィィィィィッッ!』

 絶叫を放って地面に転がり、爆散する人猿。餌を奪われて憤怒の形相になる沢松の前に、アッシュブロンドを風になぶらせつつ黒いボディースーツの影――女が立ち上がる。その顔が仮面で隠れていても、亜里沙だけはその正体がすぐに判った。

「――ラヴァ!」

 亜里沙が声を上げると、かつて【毒揚羽】と呼ばれ恐れられた殺手ラヴァは、仮面から覗く口元に薄く笑みを刻んだ。

『何だ、貴様はァッ!』

 吠える沢松であったが――女〜ラヴァの視線は彼を素通りした。

『ッッ!』

 その瞬間に襲ってきた、世界から切り離されたかのような孤独! 沢松右京という男が始めから存在しないかのような完全無視。――世界に否定される恐怖に総毛立ちつつも、世界との繋がりにしがみ付くべく渾身の後蹴り@@@を放った事こそ、沢松がかつて【武道家】を目指した証であった。しかし――



 ――トスッ



 全てがスローモーションで動く世界の中で、ごく軽い衝撃が喉に染み入る。心底凍てつくような、冷たい刺激。それは一回だけ体内で捻られ、すっと遠のいた。沢松が己の血を纏ったナイフを目で追うと、そこには自分を見下ろす男の顔――はなく、ただ背中のみが見えた。

(待て…待ってくれよ…!)

 これだけなのか!? これで終わりなのか!? この俺が!? 世界チャンピオンのこの俺が!? 最強の魔獣たるこの俺が、こんなナイフ一本で!? それに――何でお前は背を向けている? お前はこの俺を、世界チャンピオンのこの俺を、最強の魔獣であるこの俺を殺したんだぞ? なぜ喜ばない!? なぜ俺を見下し、罵倒し、勝ち誇らない!? なぜ――

(ああ…そうか…!)

 沢松は豁然かつぜんと悟った。

 忘れているのだ。もう、忘れてしまっているのだ。紫暮や拳士郎のような決意も、自分のような愉悦もなく、ただ淡々と【作業】として【死】を与えるこの男には、殺した相手を顧みる必要も理由もないのだ。殺したら――忘れる。相手が世界チャンピオンでも大統領でも、たとえ女、子供、老人であっても関係ない。命を奪いながら、そこに向ける一切の感情がない為に、命を奪いながら、喜びも悲しみも憎しみもなく、次の獲物へ、そのまた次の獲物へ…何一つ得るものもなく、満たされる事もなく…。

 ――恐ろしい。心底恐ろしいが、それこそが自分の望んだ超王の姿ではなかったか。人の命さえ雑草のごとく刈り取れる絶対存在。それがこれほどまでに恐ろしく、空虚なものであったとは…! もっと早く悟っていればと悔やみつつも、沢松は自分が【そう】ならずに済んだ事、こんな身体になってもまだ【人間】を捨て切っていなかった事に安堵し、自分を対等の相手として戦ってくれた紫暮と拳士郎に、チャンピオンである自分を【未熟】と断じ続け、今際の際に【それ】に気付かせてくれた【館長】に感謝の念すら抱きつつ爆散した。

「緋勇…!」

 さすがに今度は死の偽装ではなかったようだ。不破の胸を貫いた羽矢は龍麻の脇腹をも大きく抉り、今も出血が続いている。しかし――口調に変化はない。

「良いタイミングだ。助かった」

「そう思うなら、ロマネ・コンティでも奢って貰おうか」

「――高過ぎる。レオヴィル・ラスカーズにしろ」

「ラフィット・ロートシルトの八〇年台ものならば手を打つ」

「烏龍茶のタバスコ割りと炒飯の蜂蜜あんかけを辞めるなら奢ってやる」

「……」

 抑揚もなく感情も込もらず――これが殺戮の直後の会話か? 命を奪うという行為よりも、世にも恐ろしい料理の禁止要求にこそラヴァが微かに唇を尖らせるのを尻目に、龍麻は桜ヶ丘特製の軟膏で止血すると共に、ライフルを手に取った。――沢松が灰となり人猿は全滅して、残るは日下部だけである。そして彼は――身も世もなく呻き声を上げていた。

『わ、私の顔が…こんなに…! ――館長の技を受けて、なぜ…ッ!』

 日下部が焼け崩れる半顔を押さえ、並んで身構える亜里沙と弥生に向き直る。残る半顔は恐怖に引き攣り、色の抜けた髪もばさばさと抜け落ちていった。酷く醜悪な光景なのだが、血が水の如く透明なのでシュールにして非現実的。このメンバーでは、怖気を振るう者は皆無であった。

「ざ〜んねん。そこのゾンビ君が治してくれたのよ。こんな物まで貸してくれてね」

 やや頬が引き攣りながらも、務めて威勢良く啖呵を切る弥生。龍麻の異常行動の真意は、正にこの為だったのだ。口に押し込んだのは気力体力を回復させる【太精神丹】。猥褻行為と見え、実は気付と、壇中、水月、丹田への【冷気】の投射。更にどんな事態を想定したものか、彼女に対獣人用の切り札〜銀のメリケンサックまで渡して。

「でもおかげで胸揉まれるわスカートの中まで手ェ突っ込まれるわ、このムカッ腹どうしてくれようかッ」

「ははは…下心はないんだから許してやってよ。龍麻って朴念仁で鉄面皮で甲斐性なしで女の扱いもとことんなっちゃないけど、一応フェミニストっぽい所もあるから。全部アンタを助ける為にやった事さ」

「解ってるけど理屈じゃないのッ。むしろ余計ムカ付くわッ! それに亜里沙だって最初から解ってたんでしょ?」

「ん〜、最初って事はないけど、その辺はまあ色々と」

 複雑な乙女心を理解しつつも、敢えて言葉を濁す亜里沙。――彼女とて全てを解っていた訳ではない。ただ、龍麻が彼にあるまじき猥褻行為に及んだのでピンと来たのだ。それに、単純に【動くな】と言えば良い所を【勝手に】などと付け加えた指示。そして【素手同士】などという戦いを受け入れた事。遡れば不自然な龍麻の無駄口〜【シャトー・メルシャンの白】…誰が命懸けの仕事の代償に、わざわざ安価な大衆向けワインを奢るだろうか。

 そんな言動の端々に隠された【虚実】を見抜けたのも、紫暮よりは多少龍麻との付き合いの長い亜里沙ならではだ。事前の示し合わせがなくとも、具体的な指示にのみ従っていれば間違いないのだ。

 だが、紫暮は【武道家】であるが故に、龍麻の【作戦】の真意を知って慄然とした。

 確かに龍麻は一対一の勝負に持ち込む事で弥生の一時的な安全を確保したかに見えるが、それこそが二重三重に張り巡らせた計略ではなかったか? 不破の戦闘力を考え合わせるに、龍麻が銀のメリケンサックを装着しても有効打が加えられたかどうか。そこで弥生に猥褻行為を働く事で自らの孤立を演出しつつ、治療と共に最も有効な武器を彼女に託し、強力な助っ人のラヴァも自らの窮地には手助けさせなかった。そして不破に対して可能な限り確実な抹殺タイミングを得る為に自らを囮にしたのでは? 勝負の行方がどうなるにせよ、不破が必ず弥生に手を出すと計算し、その時こそ、この場の誰も警戒しないであろう弥生と、既に帰ったと思われたラヴァが不破を倒す切り札となるように。

 しかし、実戦とは常に流動的なもので、作戦通りに事が進むなど滅多にない。現に不破は真っ向勝負を受け、代わりに日下部達が裏切った。大筋に於いて龍麻の読みが当たり、こんな危機的状況を見事にクリアさせたと言えるが、裏読みすれば龍麻には真っ向勝負する気などなかったとも言える。最大の目的である亜里沙と弥生の救助、そして不破の殲滅の為に、【卑劣】と謗られても当然の騙し討ちを仕掛けていたのだ。【武道家ではない】――龍麻の言葉は真実であった。

 そして龍麻はライフル――ランダルに初弾を装填し、銃口を日下部に向けた。

「【司教】はどこにいる?」

『――!』

 いきなりの質問に、日下部がビクッと肩を震わせる。――知っているという事だ。

「とぼけても無駄だ。あの男は求道精神を持ち、見せ掛けのハッタリや安易な力の行使には否定的な、悪党としては失格者だ。それは【司教】の望むところではない。その能力レベルと暁嬢への執着――貴様は独自に、【司教】との密接な繋がりを持っている。貴様のようにプライドばかり無駄に高い馬鹿なガキは扱いやすいが、何をさせるにも手綱の操作が必要だ」

 龍麻の特技――プロファイリング。それは事実を的確に見抜き、しかもなんと辛辣か。日下部はギリッと歯を鳴らし、翼を僅かに揺らめかせた。その途端――

 ――ズドォンッ!

 耳を劈く三〇−〇六カートリッジの咆哮! 日下部の右翼が根元からちぎれ飛び、透明な鮮血が噴き上がった。悲鳴を上げて仰け反る日下部を冷ややかに見下ろし、空薬莢を排莢する龍麻。

「妙な動きをするな。次は右腕を貰う」

 静謐にして抑揚のない脅し文句。それ故に威圧感も恐怖も倍増し。――亜里沙とラヴァ以外は紫暮までが一歩下がった。

「あ、あなた! まさか本気で…!」

 辛うじて食い下がったものの、言ってから自分が酷く馬鹿な事を言っていると気付く剣持。――龍麻は既に沢松も竜崎も矢部も、その他大勢の命も奪っているのだ。今更日下部一人助命するなどあり得ない。

 しかし――ほんの三十分ほど前までは【仲間】だった男の事だ。いかに常識外れの怪物と化していても、その男は紛れもなく日下部登喜雄だ。そして今は――無力な敗者。敗者には何も残らぬと常々聞かされてきた彼女だが、目の前でリアルな死を与えられようとしている日下部を前に、人間として当然の感情が湧き起こった。

「やめて! 殺しては駄目!」

 剣持の金切り声に、当然の如く龍麻は無反応。いや、極めて珍しい事に、視線は日下部に据えたまま問い返した。

「何故だ?」

「何故って…いけない事だからです!」

「【悪】を滅ぼす。――お前の望みだ」

「そ、それは…私も間違ってました。この場は警察に任せるべきです!」

 そんな議論が不毛な事を、よく解っている亜里沙が剣持の肩に手をかけた。

「アンタの言いたい事はよく解るよ。でも、これは戦争なんだ。もう法律がどうとか言うレベルじゃないんだよ。勿論あたしだって龍麻だって、これが絶対正しいなんて思っちゃいないさ。でもね、コイツを生かしておいたら、また誰か殺されるんだよ」

「で、でも! 人を殺す権利なんて誰にも…!」

「――ある。人間のみならず、生きとし生けるもの全てに」

 剣持の言葉を遮り、恐ろしく重い響きが、龍麻の口から発せられた。

「己が生きる為に他の命を奪う――これが弱肉強食、自然の摂理だが、そこには逆襲され、己が殺されるリスクが常に存在する。己の生命財産、家族、群れを守る為に、それを脅かすものと戦い、抹殺する権利は、ありとあらゆる生物が有しているのだ。――聖人気取りで大層な理想や信条を振りかざし、己に酔うのは勝手だが、先に手を出した者の罪と、理不尽に殺された者の命を無視するな」

 ぐ…と詰まる剣持。――龍麻が言っているのは正論だ。しかも人間がわざわざ明文化した法律以上の、生物としての根本的ルールだ。獣は基本的に、喰う為にしか殺さない。同属殺しは生物界においてもタブーであり、繁殖期におけるメスの奪い合いも、相手の命まで取る事は滅多にない。

 だが、人間はどうだ?

 特殊な例を除いて、喰う為に他人を殺す人間はいない。人間が人間を殺すのは、多くの場合欲望に根ざした我侭であり、食欲も性欲も【理性】による制御を可能とした【人間】にとって、それは明らかな【罪】だ。【理性】を持たぬ事を環境や教育、あるいはテレビやゲームなどのせいにし、殺された者の【人権】は無視しても、犯罪者の【人権】は被害者とその遺族を【悪人】に仕立ててでも守るという者が激増している現代だが、生物としての本能的タブーすら踏みにじるものの存在を許すという事は、人間という【種】の存続の危機であるとさえ言える。

『ク…ククク…。だから、あなたが私を殺すと言うのですか? 銃がなければひ弱な旧人類に過ぎないあなたが、超人類たる私を? 武道家のプライドもないあなたが、旧人類の代表を気取るのですか?』

 折れた歯をフガフガ言わせながらも嫌な笑いを浮かべた日下部は、しかし轟音と共に右腕の肘から先を吹き飛ばされた。――宣言通りに。

「お前に聞いているのは【司教】の居場所だけだ」

 これだけの真似を行使しているというのに、今の龍麻は殺気を発していない。だからこその悪罵であったが、その返礼は相当にきつく、しかも龍麻は珍しく付け加えた。

「俺は武道家ではない。貴様の言葉遊びに付き合うつもりもない。だが、一つ勘違いを正してやろう。――貴様は素手で人を殺せるというその身と技を鼻にかけているようだが、お門違いもいいところだ」

『何ですって…?』

 激痛の余り、逆に目が据わった日下部に対し、龍麻は弾帯から一発の弾丸を取り出した。

「こいつはウィンチェスター三〇−〇六カートリッジ。大型獣ハンティング用に、日本でも市販されている弾丸だ」

『…たかが銃弾が…なんだと言うのですか!?』

「こいつの値段は一発二八〇円。――熊やトラ、ライオンなどの大型獣ですら、その命を奪う為に必要なコストはたったそれだけだ」

『――!』

 龍麻の言わんとしている事を察し、頬肉が千切れそうなほど顔を引き攣らせる日下部。龍麻は馬鹿にするような笑い〜まだうまく表情が作れていない〜を浮かべ、更に辛辣な言葉を継いだ。

「対人用には二二口径で事足りる。――武道を殺人技の追及などとほざき、肉体を鍛え技を磨いて十数年。女を犯し、人を殺し、悪魔にカマを掘らせてまで得た魔獣の肉体――それが人殺しにしか使えぬならば、その価値は二二口径弾一発分、たったの二十円だ。――無駄な時を過ごしたな」

 今でこそ魔獣と化した身ながら、かつては求道者であったものに対して何たる、究極的な暴言にして絶対的な正論! 己が生涯かけて捧げてきた格闘技を、人の命を奪ってまで得た魔獣の肉体を、飴玉一つ買えぬ価値しかないと断じたのだ。

『グヌウッ…ウウオォォォォッッ!』

 自らの存在の完全否定。――他人に対してやるのは良くても、自分に対してやられた時の耐性は日下部にはなかった。そして心根の優しい拳士郎と異なり、龍麻の言葉には一切容赦がない。そして、抗い様のない正論だ。日下部は遂に狂気じみた唸り声を上げて跳び退った。

『貴様らなどに! 貴様らなどに負けてなるものか! 私は地獄を見て、絶対の力を手に入れたのだ! たかが銃を持っているくらいで、この私を見下すなァァッ!』

「…!」

 一切加減などせず放射した凄まじいオーラ! トリガーを引こうとした龍麻であったが、その光の中に、地上と言わず空中と言わず、十人の日下部が出現した。ただし――崩れた顔はそのままだ。地肌を剥き出しに、まばらに髪を残した頭。肉が溶け崩れて歪んだ右半顔に、まともな筈なのに狂気の相が刻まれて一層醜い左半顔。――天使の翼を持つ醜い鬼。それが十以上に分身し、両手に【気】を集中させる。――神羅覇極流絶技【鳳凰天翔・夢幻光翼陣】!

『みんな纏めて消し飛べ! 虫ケラどもォォォッ!』

 遂に弥生もろとも抹殺する事を決意したか、彼女が前に出て両手を広げても日下部は技を止めない。十の翼が大きくはためき、無数の光の羽が空中に舞い散り――

「――馬鹿が」

 【気】が光の羽矢と化す直前、ラヴァが亜里沙たちの前に片腕を差し出し、龍麻が大きく一歩前に踏み出した。そして――

『――ッッ!』

 これぞ緋勇龍麻という男の、徒手空拳【陽】の真骨頂。動きの速い不破相手に使用するのは危険であったが、ナルシズムの塊である日下部にそれ以上の警戒は無用であった。そしてここは屋上――開放空間。本来は不破に使うつもりで練り上げていた【気】に炎のイメージを纏わせて放った奥技【巫炎】。不破の【天破炎龍昇】にも匹敵する炎の壁は日下部の群れを一息に飲み込み、荒れ狂った。

『ギニャァァァァッッ…!』

 断末魔の叫びを上げて消え去る日下部たち。――積み上げた実戦経験の差。作戦でもないのにわざわざ吠えてから逆襲しようなどとは、粗悪な映画や漫画の見過ぎだ。逆上して勝つ事ができるのは、せいぜい子供の喧嘩までである。日下部が一対一あるいは一対多数、あるいは武器を手にした者たちを何人打ち倒し、銃弾飛び交う戦場を経験していたとしても、飛んでくる弾丸にさえ怒りと憎しみ、妄執と狂気がこびり付いている特殊作戦にばかり従事し、生き抜いてきた龍麻に敵う筈もなかったのだ。しかも――

(――この呼吸か)

 己の技の威力を確認すると同時に、ある手応えを覚える龍麻。――相変わらず出力コントロールは成ってないが、不破の【天破炎龍昇】をヒントに、少なくともパワーの放射方向は制御できたのである。その証拠に――炎が消え去った後、そこにたった一人だけ、半身を醜く焼け爛れさせた日下部が転がっていた。

『うあ…が…ば、化物めェ…!』

 瞼を失った眼窩から眼球を零れ落とし、日下部は辛うじて動く手足で地面を引っかいて後ずさりした。しかし龍麻が彼に追い付くには、ランダルに弾丸を詰め直してから三歩歩くだけで良かった。しかし――

「――なかなかやるな。それも【司教】の仕込みか」

 つい、と向けられるランダルの銃口。今度こそ、日下部の運命は決まったかに見えたが、龍麻はトリガーを引かなかった。まるで――無駄だと解っているように。

「さっさと治したらどうだ? 俺は騙されん」

 何の話だ? と誰もが思った時である。日下部の顔が憎々しげに歪み――醜い傷が瞬時にして治った。服の焦げ目さえ残っていない。

『なんと恐ろしい男…見抜きましたか』

 すっくと立ち上がる日下部。気力のプレッシャーこそ小さくなったものの、挙措に乱れはない。その謎は――紫暮が解いた。

「そうか。ここにいたのは分身だけか」

 自らも【二重存在】の使い手であるが故に、紫暮は大いに納得した。

 一同に姿を見せていたのは最初から日下部の分身であり、【本体】〜正確な言い方ではない〜はどこか別の所に隠れているのだ。ここにいる日下部をどれほど倒したところで、一人でも安全圏に残っている限り、殺しきる事が出来ず、【本体】の居場所が解らぬ限り、彼は不死身であった。

『それが解るなら、私を殺す事は不可能だとも解る筈。ですが――あなたの【力】は素晴らしい。私と手を組みませんか?』

「……」

『確かに我々は【司教】を頂点とした奴隷かも知れません。ですが下克上は世の常。絶対的上位である筈の不破館長を倒した私が、【覇王館】の頂点にあります。私の【力】とあなたの【力】があれば、【司教】を倒す事も可能です。――何もあなただけとは申しません。あなた方全員、【こちら側】にいらっしゃれば良い。その強さを、若さを、美しさを、永遠のものとする事ができるのですよ。堕落した人類を支配し、輝ける未来を創りましょう! ――私と共に!』

 切羽詰った者の懐柔策とは断じ難い、酷く蟲惑的な、日下部の言葉。しかし紫暮は不機嫌そうに鼻を鳴らし、亜里沙は弥生と一緒に呆れたように肩をすくめ、拳士郎は【おえ】と舌を吐き、ミッキーに前田、剣持と小柳は彼が何を言っているのか理解できず、ラヴァは無表情。そして――

「――殺しが好きな男だな」

『え?』

「テロリストは殲滅する」

『愚か者!』

 ブワ、と翼をはためかせ、日下部は大きく跳び下がった。

『人が下手に出ていれば! ならば望み通り無様な死を迎えなさい!』

 両手に【気】を集中させ、放つ技は懲りもせず神羅覇極流絶技【鳳凰天翔・夢幻光翼陣】。一度や二度防がれようと、事実上の不死身である限り勝つのは日下部だ。それが解っていても無抵抗でいる訳には――

「――ラヴァ」

「――承知」

 正に光の羽矢が放たれようとした瞬間、ラヴァは携帯電話のボタンを押した。その直後、ビル全体を揺るがす震動が立て続けに起こり、窓という窓が炎を吐いて吹き飛んだ。

『な、何を!? ――ッッ!』

 その時、日下部に変化が起こった。何か急に存在感が増したような、夢見るものが目覚めたような…。炎が作り出した彼の影も、今は地面にくっきりと刻まれていた。

「【本体】が破壊されたようだな。やはり【仙道】か」

『――ッッ!』

「お前のような奴と闘うのは初めてではない。無敵を誇るにも、限度を知るべきだったな。初実先生風に言うならば――【ケツの青さは、パンツだけで隠せるものではない】」

 龍麻の特技、プロファイリングを日下部は知らなかった。龍麻が無駄口を叩き、あるいは敵に無駄口を叩かせる時、その裏で恐るべき推理力が働いている事を。――日下部は病弱な身を克服した拳士郎に、その彼を支えた弥生に突っかかり過ぎた。無闇に自分の力を誇り、相手を不必要に傷つけ過ぎた。そして痛みを知らず、倒されれば自在に空中に溶けるその肉体…龍麻が彼の正体を見抜くには充分すぎる材料であり、また、その【本体】が近くにある事を推察するのは余りにも容易かった。後は【仕事】を完遂すべく仕掛けた爆弾を起爆すれば良い。真に【実戦】経験者である不破ならば、侮れぬ敵と認識した龍麻を相手に勝ち誇る愚など犯さなかったろうが、まだ学生に過ぎぬ日下部は正に【ケツの青さ】=【若さ】が出たのだ。

『――ヒィッ!』

 日下部は身を翻し、初めて必死に走り出した。その直後に轟くランダルの咆哮! しかし胸板に風穴を開けられる直前にもう一人の日下部が出現し――

『――グエェッ!』

 新たに生まれた日下部の背中から突如として生えた貫手! 

『かん…ちょォ…!』

 口から湯水のごとく、透明な鮮血を溢れさせつつ日下部が見たものは、全身を短槍で貫かれている不破であった。

『――愚かなり、日下部登喜雄。真に武人ならば、とどめは自ら刺すものよ』

 ぐい、と手が引かれると、透明な液体が大量に吹き零れ、しかしあるべき内蔵は一片とてなく、蝋細工のごとき空洞を晒した。二人の日下部は目も口も一杯に開いた恐怖の相で仰向けに倒れ、彼だけはただの獣人ではなかった証か、正に白蝋のごとき肉体は青白い炎に包まれてゆっくりと溶けていった。血が出ないのも、分身を自在に作り出したのも道理――エクトプラズム。【地獄を見た】〜不破を超えんとして臨んだ苛烈な鍛錬の果てに全身不随になった日下部が、【司教】の教えによって恨みと憎しみ〜【邪気】を【仙道】に言う【陽神】として創り上げた肉体が【それ】であった。そして――眠り続ける【本体】はラヴァに破壊され、龍麻と不破が彼を【同時】に殺した事により、遂に日下部も死を迎えたのであった。

『――緋勇龍麻』

 短い呼気一つで全ての短槍を引き抜き、不破の目が鋭く龍麻を射抜く。龍麻は無言の内に、皆に下がれと合図を送った。――この男、まだ闘える。

『――【司教】の居場所は、わしにも解らん』

 突然、不破がそんな事を言ったので一同は驚愕し、龍麻の頬も跳ねた。

『【彼奴】は常に移動し、留まる事を好まぬ。そもそも【あれ】は人間ではないのだ。わしの見た限り、【彼奴】は食事も睡眠も必要としない。色事も単なる儀式の一環で、行為そのものを楽しんではおらん。血は好んでも、自ら手を下す事はない』

「……」

『お前が相手にしようとしているのは、そういうモノだ。常に影に潜み、人々の欲望を衝き動かし、多くの災厄を振り撒く――正しく悪魔よ。そのようなモノに、何ゆえ戦いを挑む? 緋勇龍麻よ』

「――テロリストは殲滅する」

 龍麻にとっては、それだけで充分であった。超常的な力を持っていようがいまいが、人心を乱し世に混乱をもたらし、多くの命を奪おうとするものは見付け次第殲滅する。それが彼の――

『それだけか?』

 不意に、不破が切り込むように言った。

「それが俺の――」

 ふと、そこで龍麻は言葉に詰まった。

 先程はすぐに出た筈の単語が出てこない。今まで何の疑問も抱かずに使用できていた単語が。しかしこの場にも、自分にも適当でないと思えた時、その単語は紡がれなかった。――平和な時代に生きる【武道家】と【スポーツマン】。平和に馴染めず血と闘争を求める【自称】武道家とルールを破ってでも勝利にのみこだわる【出来損ない】のスポーツマン。彼らがテロリズムに走るならば、それを殲滅するのが自分の任務…ならば自分は何だ? 戦争の為に作られ、戦闘を拒否し、偽りの平和の中で、命令された訳でもないのに闘争に身を投じる、この自分は?

『答えはあるまい。――お前もまた、精神を縛られた奴隷よ。闘争の為に作られ、血と硝煙を糧に生きてきた以上、お前が自身を肯定できるのは闘争のみ。だが今のお前の目的がその娘達の救助であるならば、お前は今、致命的な矛盾を抱えている事になる。殺すか、守るか、確固たる信念を持たずして手を血に染めれば、後は果て無き修羅の道行きよ。守るべき者、愛すべき者をも巻き込み、殺しの為に戦い、戦いの為に殺す悪鬼と成り果てるのみ。――お前は今、その岐路に立っているぞ』

「……」

『だが緋勇龍麻よ。しかと聞け。己を肯定できるものは、やはり己自身しかおらぬ。己が何者であるのか決めるのも、己自身よ。――いずれの信念に従うか決めたならば、かかってくるが良い』

「!?」

 敵にかけるものとは思えない言葉に、極めて珍しい事に龍麻が困惑する。【敵】の言葉など無視する彼が、彼自身が信条にしている言葉を不破が言った事で、その言葉を反芻したのである。ぐい、と唇を吊り上げて笑う不破。

『【司教】を倒す為には、まずわしを倒さねばならぬ。いかに彼奴が用心深いとは言え、手足となって働く奴隷がいなくなれば自ら動くしかなくなる。陰に潜む事で力を振るうものを、白日の下に引きずり出してみるが良い』

 地面をダン! と踏み鳴らし、鮮血を振り撒く不破。――気迫は凄まじくとも、もはやその肉体は出血を止める事さえ出来ない。放置して十分、戦えば五分と保たないだろう。

「…俺は武道家ではない。だが弱い者虐めの趣味もない。――投降しろ。勝負を望むならば、その身体が治ってからでも良かろう」

 何が不破を変心させたのかは解らない。だが彼の言葉にはいくつもの重要な意味が含まれ、今は真実を語っている。龍麻にはそれが解った。そして――殺さねばならぬと頭では解っているのに、身体の方が動かない。いや、今の不破を【敵】と認識する事ができないのは頭の方か? それさえも解らない。いみじくも不破の言った通り――精神と肉体が統一されていない!?

「――それに、勝負と言うならば、先程の関節技の時点でお前の勝ちだ」

『…やはり弦麻の息子。血は争えんな。敵に情けをかけるなと、わしも弦麻にはよく言ったものだ。――【試合】ならばそれでも良かろうが、【果たし合い】なればいずれの死を持ってしか勝負を決する事叶わじ。幾度となく弦麻と拳を交え、彼奴を越えんとし、彼奴を失ってより十七年。〜今ここに彼奴の拳と魂を受け継ぎし者と合間見えたならば、もはや決着を付けずにはいられぬ。――解るな? 無双の拳士、緋勇弦麻の息子、緋勇龍麻よ』

 そこまで言った時、不破はげえと喉を鳴らして吐瀉物を吐き散らした。しかし地面にぶちまけられたものは血と肉片のみならず、何か白い塊が無数に蠢いていた。

「何…よ、あれ!」

 ウグッ! と喉を鳴らす亜里沙たち女性陣。紫暮も拳士郎も驚愕の表情を浮かべた。不破が吐き出したのは無数の、それも信じられないくらい巨大な蛆虫であった。それが今正に不破の内臓を食い破り、貪っているのだ。

『…これが【司教】のやり口よ。【本物】の【使徒】は互いに戦い、食い合う宿命にあるが、ウイルスの二次感染者〜【紛い物】のわしは奴隷頭どころか、こやつらを養う宿主に過ぎん。彼奴を裏切り、あるいは宿主として役立たずとなれば、たちどころにこやつらがわしの身体を食い尽くし、わしに成り代わる。――絶対的な【力】を欲した挙句の自業自得ではあっても、この様な無様な死に様など到底容認できるものではないわ。…フッ、情けない話よ。仲間と袂を分かち、誇りを捨て、罪なき娘を犯してまで手に入れた【力】…それを捨てるにも罪なき娘を犠牲にせねばならぬとはな』

 自然に弥生に集まる、一同の視線。

『そうよ。【絶対均整】とは何も肉体的なものに限らん。その身は人と変わらねど、穢れなきその血は【奴ら】にとって最上の供物であると同時に、絶対的な毒ともなる。それを求め、恐れるが故に、この時代に最も【力】の顕現しやすい若者を支配するべく、【奴ら】はあらゆる教育機関に謀略の根を張り巡らせたのだ。そしてその企みは確実に成就しつつある。――日下部が滅び、わしが死んだとあらば、この餌場を失うまいと後釜を送り込んでくる。そ奴は必ず【司教】と繋がっておるだろう』

 もう一度ガッと口の中の血と蛆を吐き捨て、不破は構えを作った。苛烈な鍛錬の跡を刻んでいる肉体の、その皮膚の下ではおぞましい瘤が這い回っている。――そんな身体で戦うというのか? 何の為に? 誰の為に?

 だが、もはや是非もなし。ただし龍麻は、一つだけ付け加えた。

「…長瀬瑞穂はまだ、救えるか?」

 ピク、と跳ねる不破の頬。

『――救える。獣人どもの強化の為、あの娘は化け物になり切る事も、狂う事も許されておらん。【司教】さえ倒せば、人間のままでいられよう』

「…その為にお前が――貴殿が死んだらあの娘は悲しむぞ」

『これはわしの戦いよ。あの娘は、己の幸せだけを見れば良い』

 龍麻は束の間不破を見つめ――ランダルを腿のホルスターに納めた。

「――亜里沙。ヘリを呼べ」

 龍麻は早口で指示した。

「ここはもう保たん。そのまま武道館に向かい、裏の駐車場で刑事とコンタクトを取れ。後は彼がうまくやってくれる。――紫暮」

 名指しされ、少しうろたえる紫暮。しかし――

「ケン、ミッキー、前田、小柳。――彼女たちを守れ」

 そして龍麻は、一同の輪から足を踏み出した。

「ちょ、ちょっと! キミ!」

 弥生が声を上げるが、亜里沙が険しい顔で親友を押し留める。紫暮も、拳士郎もだ。

「――良いから。ここは龍麻に任せるよ」

「ちょっと! 亜里沙!」

「龍麻はあたしらを助けに来たんだ。あたしらがここにいると龍麻は戦えない。あたしらもこの戦い、邪魔しちゃいけないよ」

「――男が死に場所を見つけたんだぜ。応えてやらなきゃ、漢じゃねェ」

「解らなくもないけど、そんなの解りたくないわよ! 死んじゃったら何にもならないのよ! 何か助かる方法があるでしょ! 何か!」

 すると、喚く弥生にすっとラヴァが近寄り、彼女の手からメリケンサックを掏り取った。

「お前があの男に抱かれてやるか? ――手遅れだ」

「――ッッ!」

 ストレートなラヴァの物言いに弥生の顔が怒りに紅潮したが、ヘリのローターが巻き起こす風に頬を叩かれ、タイミングを失う。そしてラヴァは押し問答を断ち切るように怒鳴った。

「五分だ。それ以上は保たんぞ」

 ラヴァの手から銀色の帯が二条飛び、後ろも振り返らぬ龍麻の手に収まる。――対獣人用の銀のメリケンサック。人は――武装せねば獣人には勝てない。

 これ以上の長居は寸刻でも邪魔。亜里沙はまだ納得行かない弥生を半ば強引にヘリに押し込み、剣持らにも後を続かせた。紫暮と拳士郎がドアの所に陣取り、ラヴァが副操縦席に納まると、ヘリは即座に上昇を始めた。

『…【敵】の望みを聞き入れるか。器が大きいのか、ただの考えなしか――それともあの娘が言うように、仲間は邪魔であったか?』

 龍麻は無言で構える。殺気や闘気がないのは今までと同じだが、不破はその身奥に漲っている殺意を感じ取った。【武道家】のそれとは明らかに異なる、機械的な殺気。【殺し】が【作業】でしかない、無機質な殺意を。それはあまり歓迎されるものではないが――

『いや、もはや言葉は要らぬな。――神羅覇極流柔術総帥、不破弾正。いざ、参る』

 不破はふっと小さく吐息を洩らした。それが――【息吹】!

「――!」

 無拍子打ち! 龍麻は顔面に衝撃を受けると同時に、鋭く首を振って衝撃を逃がした。そのまま突きをキャッチして関節砕きに移行する龍麻であったが、即座に密着した不破は合気揚げで龍麻の手を外すと同時に下段足刀! バランスを崩された龍麻は否応なしにムエタイ式の足受けをし――【死に体】と化した。そこから合気投げ――のみならず、空中にいる龍麻に向けて【掌底・発剄】!

「グハッ!」

 龍麻はくの字になって吹っ飛び、しかし不破は一瞬たりとも離れず追随し、縦拳の突き、【掌打】、水平手刀打ち、そして――飛び込み様の肘打ちを見舞う。柳生心眼流式の重い当身がガードごと龍麻の急所を打ち抜き、滅多打ちにする。龍麻に反撃の機会は――

「――シィッ!」

 こめかみを裂かれた直後、死角から襲う下段蹴りに向けて【龍星脚】! 一の足で不破の膝を止め、二の足は膝蹴りとして水月に叩き込む。不破の肋骨が異音を立て、しかし【古流】の恐ろしさ! 頬杖を付くような形で構えられていた肘が龍麻の膝に刺さっていた。もしとっさに顎狙いをやめていなければ、膝に致命傷を負ったのは龍麻の方であった。

 弾けるように間合いが離れ、共に膝を付く。だが不破は一息で【気】を練り上げ、その姿勢のまま【掌底・発剄】! 龍麻は避ける態勢にない! ――殺られる!

 その時龍麻は、地面に大の字に寝転び、【気】の砲弾をかわした。

『ッッ!?』

 立ち上がる不破に対し、龍麻は半身のみ起こす。両足を投げ出し、両手は地面に付いたリラックスした姿勢。まさか――諦めたとでも!? 不破は構わずするりと近付き、下段の足刀を――

『グガッ!』

 ゴロリと横になって足刀をかわすと同時に、不破の軸足を刈る龍麻。寝転がった姿勢からの蹴りは決して強くないが、絶妙なタイミングが不破を転倒させる。そこに追撃の踵蹴り! 背中を打たれ、不破は息を詰まらせる。

『――おのれ!』

 跳ね起きた不破は一旦距離を取り、そこから地面まで打ち下ろす踵蹴りを見舞った。これは軸足を狙えず、龍麻は横に転がってかわす。不破の踵蹴りは五度地面をえぐり、地面を転がるだけでは距離を取れない龍麻は――いきなり倒立して、その姿勢から【龍星脚】を放った。一の足は不破の蹴りを弾き、二の足が先程異音を立てた肋骨をえぐる。――これは効いた。不破は跳び下がり、ひびの入った肋骨を押さえる。そして龍麻は再び――べったりと腰を下ろした姿勢…

「――ヒュウッ! こいつァまるで、アリ対猪木だぜ!」

 拳士郎が興奮した声を上げ、紫暮も目を見張る。

 格闘技に携わる者ならば、一度は目にしておくべき世紀の一戦。ボクシング史上最も偉大なヘビー級チャンピオンであるモハメド・アリ対、日本のプロレス界を強力に牽引し、後に最強のプロレスラーと語り継がれる事となったアントニオ猪木の【試合】が、直撃世代である不破の脳裏にも思い起こされる。

 現代でもなお賛否両論あるこの戦い。ヘビー級ボクサーでありながらパワーのみならずフライ級の華麗なフットワークを持ち、【蝶のように舞い、蜂のように刺す】と評された、尋常ならざるテクニシャンのアリに対し、プロレスラーの猪木は自らリングに寝そべり、寝技に誘ったのである。立って勝負したいアリと寝て勝負したい猪木――両対極にある二人の戦いは終始膠着状態にあり、アリが【立って来い】と怒鳴り、挑発に乗らずアリの動きに合わせて猪木が身体の向きを変えるのみで、お互いぶつかる場面を作らぬまま遂に引き分けとなったのである。

 これを無様な結果と罵るのは簡単である。しかし当人達には、それこそが【真剣勝負】であった。アリは己のパンチとフットワークに自信があり、寝転がった猪木でも倒せると確信していた。同時に猪木も、因縁深い某空手団体で学んだ【寝たまま出せる蹴り】に全てを賭けていた。互いに一撃必殺の技を持つ故に、【興行】的【試合】としてはおおむね失敗と言える地味なものとなってしまったのである。あれが実はアリと猪木のマッチメイクの段階で発生した両者の確執の為、限りなく殺し合いに近い戦いであったなどと知る者は少ない。もしアリが攻撃を仕掛けていれば、ちょうど今の龍麻と不破のような戦いになり、双方共に命を落とす事はなくとも、競技者として致命的な傷を負っていたのではないかと言われている。

 龍麻も醍醐からこの試合のビデオを借りて視聴しているが、意識して出した訳ではなかった。今日の昼下がり、初実嘉明から聞いた戦国武将斉藤道三の若きエピソードの影響が大きい。天下取りの野望に燃える者としては不覚この上ないが、斉藤道三は酒に酔って帰る夜道で三人の暗殺者に襲われた。その時道三はどうせ酔いで定まらぬ足場ならと大地に寝転がって刀を構えた。すると暗闇に紛れていた暗殺者が満天の星空の中に影法師となって浮かび上がり、三人を同時に視野に納められる。そして何より、こんな状態の相手と戦った事のない暗殺者が斬撃を乱し、道三は彼らの脛を払うように切り付け、とうとう追い払ってしまったのである。

 連戦に次ぐ連戦で、龍麻とて疲労しているのだ。そして今迎えているのは最強の敵。――【武道】において遥か上を行く不破に対し、いっそ休み休み戦ってしまえという、初実嘉明の奇想天外な発想力を真似たのであった。

 しかし、不破には――

 轟、と不破の両手に【炎気】が膨れ上がる。――【神羅覇極流絶技・魔炎双龍牙】! 点を狙って外されるならば、面を捉える火炎術! 寝転がっている龍麻に成す術は――

 バン! と地面が鳴った。

『ッッ!』

 両手で地面に【発剄】を叩き込んだ龍麻の身体がミサイルのごとく地面から射出され、炎の壁を突っ切り、不破の足元に頭から突っ込む。そして――強力な【気】を放った直後の硬直中の不破に【龍星脚】! これ以上はないタイミングで決まった二段蹴りは不破を大きく弾き飛ばした。しかし――そこで止まらない! 先程の不破のお株を奪い、不破が空中にいる間に【龍旋脚】で追撃! 不破の腕を、膝を、顎を蹴り抜く。そしてがら空きになった胴に――



 ――ザキィッッ!



『ッグアァッ!』

 磐石の大地を踏みしめ、大地の【気】の加護ある限り、並みの打撃ならば起重機の一撃にさえ耐え、【気】を込めた打撃でも容易に通らぬ肉体が、大地から切り離された状態で襲った飛び後回し蹴り〜【クーシャンクー】で胸骨を粉砕される。大きく仰け反った不破は、この瞬間まで練りに練った【気】が龍麻の右拳に集束し、大きく引かれるのを見た。そこに被って見える空手界の二大巨頭、松田雄二郎と仲村英雄の幻影――!

『ムウッ!!』

 不破は飛び退こうとし、その直前に龍麻の踏み込みが彼の足甲を踏み抜く。――渋沢流! 不破の全身が、たかが足を踏まれただけで崩れ、そこに狙い澄ました――【達人】には及ばずとも指先程度はかけた一撃! 正拳中段突き!



 ――ゴシャァッッ!



 ガード不可能に加え、理想的なカウンターをも取った凄絶な一撃! 龍麻の正拳は砕いたばかりの不破の壇中に深々と食い込み、全パワーを不破の体内で炸裂させた。足を踏まれている為に不破は吹き飛ばず、その場に崩れ落ちるところで、完全抹殺主義者の駄目押し――龍麻のボディーブロー! 鍛え抜かれた腹筋を貫いて、接触を開放点とした【気】が今や蛆の巣窟と化した臓物を波紋の如く駆け抜けた。

(――見事…!)

 今度は空中高く吹っ飛びながら、不破は至福の笑みを浮かべた。

(一度見ただけの技をこれほどまでに…! ――恐るべきは緋勇龍麻よ…!)

 龍麻と紫暮の戦いを見た時、不破には龍麻が空手に関して素人である事が判った。徒手空拳の組み手も弦麻のそれとは隔たりがあり、銃まで所持しているなど、本当に緋勇弦麻の息子かと我が目を疑ったものだ。

 しかし、この才は紛れもなく弦麻の血筋。【技】をよく観察し、理合いから呼吸まで盗んでのける。最初は拙くとも、技を掛ける毎により強く、正しい形を整え、自分流のアレンジを加えて新たな連携技を組み上げて見せる。――演舞会に赴いた数時間で【達人】たちの技を、そして今、戦いながら自分の技を盗んで見せたのだ。正に天賦の才。

(だが――ならばこそ!)

 くるり、と空中で猫のように一回転し、不破は足から着地した。片膝を付き、血塊と共に蛆の死骸を吐き出した不破であったが、その目の輝きは消えていなかった。龍麻の攻撃をこれほど浴び――まだ戦えるのか!?

『見事だ、緋勇龍麻。その力、正に緋勇の血筋よ』

「……」

『だが、お前の錬気法は弦麻の――徒手空拳【陽】のそれではない。お前の師は冬吾…徒手空拳【陰】の鳴滝冬吾か。いかに表裏の拳とは言え、【気】の用法、拳の質は大きく異なる。それではお前の拳は、成らぬ』

 轟! と不破の全身が高圧的な【気】に包まれる。だがこのオーラの色は――自分たちと同じ!? 

『だがその力、恐るべし。ならばこそこの不破弾正、今こそ一人の男として、拳士として、全霊を以ってお前に挑む。――見切れるか! お前の父と共に研鑽を重ね、十七年かけて練り上げし、我が最大奥技を!』

 胸前で交差するように置かれる両の開掌。空手の【息吹】と似て非なる錬気法。龍麻が鳴滝より伝えられた錬気法は、【気】を重視する多くの格闘技と同様に、足芯より大地の【気】を吸い上げて己の力と成す。だが今の不破は大地の【気】のみならず、頭頂より大気の【気】をも取り込んでいた。本来交わる事のない天地二つの【気】は互いに存在を主張しつつも、螺旋を描く不破の両掌に導かれて融合、高圧縮され、超小型の太陽のごとくコロナを発する。それはみるみる超高熱の証――真紅から青へ、そして白い日輪の輝きと化した。【陽】を超えた【光】の【気】! それが龍麻の視野を塗り潰し――

『――【神羅覇極流奥技・餓龍獄炎吼】ォッ!!』

 こんな事が起こり得るのか!? 【気】によって発生した白炎がある種の獣――龍の形を帯びる。それは不破の両掌が突き出された瞬間、牙を剥いて龍麻に襲い掛かった。その熱量! 前後左右上方に逃げ場なし! 食われれば――骨も残さず消滅する!

「〜〜〜〜〜ッッ!」

 その瞬間――来た! 戦いの最中であっても脳裏にフラッシュする技のイメージ! ナノセコンドレベルで血が沸き立ち、【気】が足裏から天頂へと突き抜けた。何万ダースも反復した動きの中に秘められていた奥技が、明確な形となって現れる。左足先から始まる全身の捻りに、不破と同様に頭頂から、そして足芯から取り込んだ天地の【気】が緊密な弧を描きつつ駆け抜け、鋭く旋回させた両掌より、正確な螺旋クロソイドを描いて拡散しつつ放たれる。その技の名は――

「――【螺旋掌】ォッ!」

 生命原理を形に表したもの――螺旋。この瞬間に目覚めた龍麻の奥技は体内を駆け巡る【気】を円の連環運動から外方向へと限りなく増大する円周運動に変えて放つ拡散型発剄! だが強大にして圧倒的な【光気】を放つ龍にどれほどの効果が――

「緋勇!」

「龍麻ァァッ!」

 ビルの屋上が爆発炎上し、キノコ雲状に膨れ上がる紅蓮の炎。衝撃波にグラグラと揺れるヘリの中で、紫暮たちの絶叫が響いた。龍麻の【螺旋掌】では光龍を逸らす事すら出来ず、彼が炎に飲み込まれる様が見えたのだ。しかし――渦巻く炎がその勢いを弱めた時――

『――ッッ!』

 炎を突き破って飛び出す龍麻。そしてその拳に宿る光輝。――猛然と襲い掛かった龍麻の拳は、両腕を広げた不破の胸板に吸い込まれ――

「ッッ!」

 【螺旋掌】と同じく、脳裏に走るイメージ! だがその光景は――自分を囲んで微笑んでいる男達の顔、顔、顔…。その中には目の前の男も――!

『――甘いな。止めを刺しきるまで拳は止めるものではない』

 眼前で寸止めされた龍麻の拳を、不敵な口調で断じる不破。しかし不破の全身は薄い煙を噴き、崩壊しつつあった。しかもそれは――【闇】に属する肉体で【陽】の気を放った事の反動であった。

 だが不破は、この上ない歓喜と至福の笑みを浮かべた。

『意地っ張りの弦麻ならば、我が奥技も真っ向から受け止めようとしただろうが、お前はうまくかわしたな。――それで良い』

 前後左右上方――全てに逃げ場がない状態で、龍麻は唯一逃げられる方向〜【螺旋掌】で足元の天井を打ち抜き、真下に脱出したのであった。

 そして今、全身に無機質な殺気を纏いながら、龍麻は不破の言葉に耳を傾けていた。とどめはもはや必要ない。龍麻の打撃は勿論、弱った身で【気】を全力放射した影響もあり 彼の肉体は毛根に至るまで血を噴き、滅び始めている。そして何より――彼の今の技は、徒手空拳【陽】に連なる技であったのだ。

「お前が――貴殿が手加減したからだ。最後の一撃――なぜ逃げる隙を与えた?」

 これほどの高威力を誇る技ならば、たとえ半分の出力でも、絶体絶命の一瞬に覚醒した奥技【螺旋掌】ごと龍麻を呑み込む事が出来ただろう。確かに真下〜炎の海に自ら飛び込むという発想は意外だったかも知れないが、わざわざ最大出力まで引っ張る必要はなかった筈だ。それはまるで――

『――母親似だな、お前は』

「!?」

『人の行動をまず善意で解釈するか。それが私の限界だったとは考えんのだな。――武人を育てんとした私が無頼の徒を増やしただけなのに対し、親の顔すら知らず戦場を駆けながら、よくぞそこまで真っ直ぐ育ったものよ。良き師、良き友に恵まれるのも弦麻の――正にお前の資質か。――天地相済より成る【陽】の錬気法、盗めたか?』

「……」

 龍麻は沈黙し…僅かに顎を引いた。やはりこの男は、龍麻に呼吸法を見せる為に…

 その時不破の腹が裂け、奇怪な蟲が頭を出して耳障りな鳴き声を上げた。それは蝿とも蜂とも見えながら、しかし足は一六本を数え、地球上の昆虫類とは著しく異なっていた。ただしそいつの頭部は半ば溶け崩れ、白煙を噴いている。不破はその頭をがっきと掴んだ。

『フンッ、我が体内に甦りし陽の【気】に耐え切れず這い出してきおったか、黒蝿王ベルゼブルの息子め。しかしもう手遅れよ。この不破弾正、もはや成すべき事は成した。ならば地獄への道行き、貴様が案内せい』

 足元を揺るがす振動がビルを大きく震わせる。屋上の一部が崩落し、炎が夜空を焦がした。――ラヴァが仕掛けた爆弾が最後の仕上げに取り掛かったのだ。

『――行け。緋勇龍麻。お前の道行きは修羅の道行きとなろうが、弦麻より受け継ぎし義の拳と迦代さんより受け継ぎし仁の心がお前を支えよう。――戦え。己の【宿】に打ち勝て。【力】は既に、お前の内にある』

 そして不破は立ち上がり、一歩。また一歩と後ずさりする。その背後には火山のごとき灼熱地獄が口を開けていた。

「不破弾正…!」

『ふっ…私とて武人の端くれ。無様な屍は晒せぬ。若き龍を飛び立たせた今、手負いの餓狼は消え去るのみよ。――雄々しく生きろ、緋勇龍麻よ! この世で最も愚かで! 最も脆弱で! しかし最も誇り高き、人間として!』

 そして不破は仰向けに倒れるように、火中に身を投じた。

(弦麻よ…。お前との勝負…。俺の完敗だな…)

 破壊口の縁に駆け寄った龍麻は、激しく膨れ上がる紅蓮の炎が視界を遮る寸前、不破が親指を立てるのを目撃した。――【幸運を祈るアイ・ウィッシュ・ユー・ラック】。その瞬間の彼は魔獣・不破弾正ではなく、武人・不破弾正であった。

「緋勇!」

 束の間、炎を見つめた龍麻を、紫暮の声が現実に立ち返らせる。龍麻は肩で風を切り、ヘリに飛び乗った。ローターの唸りも高らかにヘリが急速上昇した時、不破の墓標となった【覇王館】ビルは轟音と共に崩壊していった。













   第六話閑話 武道 6    



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