第六話閑話 武道 7





 
 広い武道館の空気を、若やいだ大歓声がビリビリと震わせる。伝統的な銅鑼ドラや鐘のBGMに乗って、中国の伝統的衣装を身に纏った彩雲学園京劇部の面々がステージに飛び出し、その中央に、金糸銀糸をふんだんに使った衣装に着替えた男装の麗人〜暁弥生が姿を現すと、観客の歓声は最高潮に達した。弥生は黄金の太極剣を掲げて歓声に応え、観客を沸かせた。その最前列には京一や小蒔、そしてこの公演の立役者となった亜里沙、ミッキー、前田の姿も混じっていた。

「…どうやら問題はないようだな」

「ああ。一時間ほどの遅刻だが、特に文句はなかった。――実行委員会の何人かは連中とグルだったみたいだけどな。刑事同伴だったから凄ェビビってたぜ」

 そう言って拳士郎は笑ったが、龍麻はふむと頷いただけであった。彼は御厨に弥生の保護を頼んだだけで、ここまでのフォローは要請していなかったのだ。拳士郎のバックが動いたのだと容易に知れるが、後で礼を言わねばなるまい。ただ、今はそれよりも――

「何だよ? やっぱりオッサンの事が気にかかるのかい?」

 ごく軽い口調に、彼なりの気遣いが感じられる。龍麻は曖昧に頷いた。

「こういう場にいると、いつも思う。これほど熱狂し、楽しめるものを持っている者たちがいる一方で、なぜ血と闘争を好み、人を殺したがり、死にたがる者がいるのか。――なぜあの男は、それが決して正しいものではないと知りながら【力】を渇望し、多くの命を貪ってまで得たその【力】を捨てんが為に、命賭けで戦いに臨んだのか…。俺には理解できん」

「…悟ったからだろ? テメエの、罪って奴を」

「罪か…。それを決めるのは後世の人間だ。少なくとも、彼が自分の信念に基づいて行動していた事は間違いない。どれほど非難されようとも、その信念を貫き通そうとする覚悟も持っていた。だが――その信念を捨ててしまったら、これまで彼に殺された者たちはどうなる? 無駄死にか?」

「おい、一体何を怒っているんだ?」

「俺には…理解できん」

 唇を噛み締める龍麻。――今日は本当に珍しい事ばかりだ。あの龍麻が笑い、怒り、哀しんでいる。自分自身意識できているかは不明だが、確かに今の彼は憤っていた。間違っているか否か、悩み苦しみつつも前に進んでいた者が、今際の際に己の信念を捨てて死を受け入れたのである。真に己を正しいと信じるならば、いかなる手段を用いてでも生き延びようとするものであろうに。

「そんな事、誰にだって判りゃしないさ。――はっきりしているのは、不破のオッサンは死んだが、オッサンはあれで満足だったって事だ」

 最後の一言は酷く哀惜に満ちて、龍麻の口をつぐませた。その時、拳士郎の目もまた、【戦場】を知る者のみが持つ光を放っていたのである。

「理想を持って生きるのも、信念を貫いて生きるのも、これでなかなか難しい。本人は正義のつもりでも、他のモンまでそう思うとは限らない。ひーちゃんなら解るだろ?」

「…そのつもりだ」

「――だろ? 白黒付けるなんてこたァ、口で言うほど簡単な事じゃねェよ。特に【俺たち】みたいにグレーゾーンにいるモンにとっちゃな。だが自分が正しいと信じなきゃ何一つ出来ねェ。まして今回みたいに絶対に守りたいモンの命が懸かっているとあっちゃ、何が何でも退く訳にゃ行かなかったろ? 結果として俺たちにとっての【悪】は滅びたが、鈴菜ちゃんや小柳クンに取っちゃ、自分が通っていた学校やら道場やらが悪の組織だったって後ろ指差される事にもなっちまってんだ。百パーセント結果オーライって訳にはいかねェよ」

 それを聞いて、剣持が声を上げる。他の【覇王館】関係者や蘭山高校の面々は因果を含められた上で帰宅もしくは警察の事情聴取を受けているが、彼女と小柳だけはここまで付いてきたのだ。

「でも、間違いがあったならそれを認めて、正すのも必要です」

「そう考えられるから、鈴菜ちゃんは良い子なんだよ。でもね、世間って奴はいつだって薄情で根性悪だ。マスコミっていうくそったれフィルターを通した情報だけで人を責め、蔑む事が出来るのさ。たとえ些細な過ちだとしても、それを反省している人間に、利害関係もねェ、責任もねェ、特に関係もねェって連中が群れをなして悪意をぶつけるんだよ。しかも自分が正義だと思い込んでるからどんな残酷な事も平気で言っちまうし、そんな口を利いた責任も取らねェ。相手が本物の悪党なら黙っちまう癖に、反撃を恐れなくて良い基本善人が相手となると嵩にかかって清く正しく自殺しろと責め立てるのさ。――こういう風潮風評に面と向かうには、権力だろうと暴力だろうと構わねェ、自分自身を守るためのとんでもねェ力が必要さ。それと――勇気って奴がね」

 拳士郎はそこで一旦言葉を切った。龍麻が自分の言葉を深く反芻しているのを感じたからである。

「ちぃっと話が逸れたが、多分オッサンも似たようなモンだったんじゃねェかな。あれほどの技を身に付けた人間が、テメエのプライドを踏みにじってまで化け物の身体を手に入れたんだ。自分でも間違っていると判っていながら、そうしなきゃならない事情があったんだろうな。――勿論、その為に大勢の人間を殺したのは事実だし、どんな大義名分掲げてたって許される事じゃねェ。だけどよ、やっぱり間違ってるって悟って、一度は手に入れた力を捨てようとした。ところがその手段もロクなモンじゃねェって悩んだんだろ。もしオッサンが自分の事しか考えてなかったなら、弥生を拉致ってすぐに姦っちまってただろうよ。ところが自分で手ェ出すどころか、ヒデェ扱いをした部下を叱り飛ばす始末。ひーちゃんの【あれ】を見た時の怒りようも、むしろ弥生を守るって意識の方が強かった感じがあったぜ。ひーちゃんもそれが解ったから、タイマンを申し出たんだろ?」

「え…?」

 紫暮が、剣持がはっとして龍麻を見る。あれは巧妙な策略ではなかったのか? 現に弥生は対獣人用の銀製武器を渡されていたではないか。

「こいつは俺の勝手な推察さ。――ひーちゃんはオッサンを殺すつもりだったが、最優先事項は弥生を守る事にあった。だからまずオッサンにタイマンを申し出た。ああいう言い方をすればオッサンが必ず勝負を受けて、弥生から目を逸らせると踏んでな。だが同時にオッサンがそんな殊勝な男じゃねェって警戒心もあったんで、保険として弥生に武器を渡しておいたんだろう。だがそれだって相当無理してる。弥生を守る為、オッサンを殺す為、どっちにも有効な武器だったからな。最終的に弥生を守るという大義名分で武器を手放した訳だが、自分自身を納得させるのは大変だったんじゃないかい? オッサンにもその辺を見抜かれたよな」

「……」

 龍麻は黙っていたが、紫暮は胸の内で思わず唸っていた。今日、一介の高校生武道家として臨んだ【試合】。あれが【実戦】であるなら、龍麻は武器を使うと言っていたではないか。【試合】ならばいざ知らず、【殺し合い】において明らかに格下の自分に対し、銃で武装した上で寝込みを襲うと。

 龍麻はそういう男なのだ。目的の為には手段を選ばず、最優先事項をより確実に達成するべく訓練された兵器。――かつてそうであった彼であるが故に、己の内に矛盾を抱えて戦う羽目になったのだ。犠牲を厭わず不破を殲滅できれば問題なかったのだが、最優先事項が亜里沙と弥生の救助にあり、その達成条件に不破の抹殺が加わっていた為に非常に困難な作戦となった。そして不破も、たやすく攻略できるような敵ではなかった。殺すか、守るか、彼をして明確にできぬまま戦った為に、窮地に陥ったのである。それこそが不破の言った【精神の奴隷】、【致命的な矛盾】の意だ。今回の勝利も、日下部があのタイミングで裏切ったが故に得られた、言わば偶然の産物なのだ。

「でもそのおかげで、オッサンは最高の戦いが出来たんだと思うぜ。あんなバケモンとしてじゃなく、テメエの身体に培った技を思う存分使ってな。――ひーちゃんの真意はどうあれ、武道家としての戦いができた事でオッサンは救われたんだよ。こいつも推測だが、オッサンは自分の死期っつーか、化け物になりきっちまう日が近いのを感じていたんだろうな。渋沢先生たちに露骨な喧嘩を売ったのも、先生達なら自分を止められるって、敢えて化け物になる事で高めた技を伝えられるって考えたんだろう。――ところがそこにひーちゃんが現れた。【武道】の本質に迫れるような若い才能がな。おかげで全力で戦いたいって願いも叶ったし、自分の技を託す事も出来た。あれはあれで――武人らしい最期だったと思うぜ。自らを【悪】に浸して【正義】を行った武人、不破弾正――詭弁でも何でも、そう信じてやらなきゃ、死んだ連中も浮かばれねェよ。いや、ひーちゃんがオッサンの想いと技を受け継いでやれれば、誰一人無駄死になんてこたァねェと思うぜ」

 龍麻は無表情のまま、左腕の刺青に触れる。それは龍麻の最も大きな誇りにして、最も大きな傷。理想も信念も栄光もなく、ただひたすら【敵】を殲滅する事を求められ、世界の危機とも言える事態を幾度も解決しながら、誰に感謝される事もなく滅び去った部隊の紋章。――彼が何を考えているのか、その表情から読み取る事はできなかったが、何故か紫暮にはその姿が、酷く孤独に見えた。

 その時ふらりと、まだ仮面を付けたままのラヴァが彼の傍らに現れ、何事か耳打ちした。そして龍麻は今一度きらびやかなステージを一瞥し、それに背を向けた。

「緋勇ッ!? どこへ?」

「ここは任せる」

 龍麻は言った。

「活動拠点の一つが失われた以上、少なくとも今夜、暁嬢に差し迫った危険はあるまい。だが【覇王館】の関連施設にまだ獣人が残っていて、その始末に俺の手を借りたいそうだ」

 いつもと変わらぬ表情に口調。しかしどこか疲れたような雰囲気。

「ひーちゃん…?」

「…俺は武道家ではない。武道家の心も、俺には解らん。彼がどんな想いを持っていたとしても、俺はそれに応えてはやれん。――精神の奴隷か。彼の言う通りかも知れん」

 龍麻の視線の先にはラヴァと、完全武装した【九頭竜】の殺手達がいる。【九頭竜】は今夜中に【覇王館】関連施設を襲撃し、拠点機能を完全破壊するつもりなのだ。闘争が龍麻の存在意義ならば、そここそが龍麻の居場所であり、【ここ】には――

「そうかも知れねェ。だけどひーちゃんは今日、何人も救ったじゃねェか。人助けを隠れ蓑に戦いに酔っている訳でも、殺しが好きな訳でもねェ。たとえ使命感やら何やらに縛られているとしても、それで救われている人間がいるのは確かさ。それは、誇っても良い事だと俺は思うぜ」

「…所詮、殺しは殺しだ。誇るべき事ではない」

 拳士郎は困ったように頭を掻き、紫暮を見た。友の言いたい事が解り、紫暮は軽く頷く。曰く――龍麻はこういう男なのだと。

「――んじゃ、急ぎのところ悪いが、コイツはちょいと覚えておくと良いぜ。ブルース・リーが残した言葉にこんなのがあるんだ。【友よ、水となれ】」

「…?」

「水ってのはコップに入れればコップの形に、皿に入れれば皿の形になるだろ? 臨機応変に、その場その時に良い対応をしろって意味らしいぜ。臨機応変――海兵隊の訓示にもあるよな?」

「…肯定だ」

 拳士郎が何を言いたいのか解らず、しかし龍麻は足を止めていた。紫暮や剣持たちも黙って聞いている。

「ひーちゃんはヒーローを目指すべきだと思うぜ。確かに今までのひーちゃんは特殊部隊の兵隊で、ぶっちゃけ殺し屋だったかも知れねェ。今日のひーちゃんの戦いっぷりを見ても、義務とか使命とか、まあそういったものに縛られてる感はあったさ。だが今のひーちゃんは戦いの痛みも、払うべき代償のでかさも知っているし、何よりも損得抜きで可能な限り多くを救おうとしただろ? たとえそれが自分の存在意義の証明だったとしても、そのおかげで救われた人間がいるって事実はでかいぜ。他の誰がやったって、鈴菜ちゃんや小柳君の仲間、蘭山高校の連中まで助けられたかどうか。少なくとも俺じゃ弥生一人、ギリギリで亜里沙ちゃんまでが限界だったよ。あの連中に取っちゃ、少なくともミッキー君や前田君に取っちゃ、ひーちゃんは既にヒーローなんだぜ? それを迷惑だなんて考えないでくれよ」

「……」

「何が正しくて何が間違っているか、今の俺たちに解る訳がねェ。だったら信念でも誇りでもがっちり抱えて、自分自身が理想とするヒーローに自分がなる事さ。テメエの口に責任を持たねェアホを警戒して、いつまでも【隠密同心】や【必殺仕事人】じゃいけねェよ。【仮面ライダー】とか【スパイダーマン】みてェな、大人の屁理屈なんかすっ飛ばして、それを見た子供が正義を学べるような、【そこ】にいる事を望まれるような、そんなヒーローにな」

「…貴殿らのようにか?」

 不意に龍麻がそんな事を言ったので紫暮はぎょっとし、拳士郎は僅かに目を見開いてからニヤリと笑った。陽気の塊である彼の顔に、深みのある【男】の表情が過ぎる。

「ああいう存在を【妖物スクリーマー】と呼称する人間は限られている。本来ならば俺の出る幕ではなかったようだ。むしろ、俺がいたからこそ貴殿も暁殿も実力を見せまいとして苦戦したな。――俺も消去デリートするか?」

「はは、冗談と諸星ダンはウルトラセブンまでにしときなさいよ。――俺らはそこまで上等じゃねェが、一応平和主義なんだ。俺に命をくれた空手を、命を奪うために使いたくはねェし、出来りゃ誰とだって仲良くなる方が良い。――ずっとダチでいようぜ、俺たち」

 その時剣持は、ずっと引き締められていた龍麻の口元に、淡い笑みが浮かぶのを見た。

 歓喜なのか安堵なのか、彼の心情を窺い知る事までは叶わない。しかし剣持の目にはその笑みが眩しく、美しく見え、その後の長い人生を経ても色褪せない記憶となって刻み込まれた。それは、そんな笑みだった。

「…ヒーローか。俺にはまだ理解できんが、覚えておこう」

 しかし、拳士郎は首を横に振った。人差し指を立て、チッチッチと舌を鳴らす。

「そうじゃねェんだ。――【考えるなDont think感じ取れFeel】」

 こんな場面で飛び出した、あまりにも有名な言葉。今の龍麻に向けるには、実に相応しい言葉であった。龍麻の口元に、今度は苦笑が漏れた。

「…なるほど。【月を見せる指】…か」

 自分が得た感覚を頼りにして技を磨く。悩んだら先人達の知恵、【型】に戻る――心道流の根幹たる理念。理屈で考えるのではなく、培った肉体そのもので感じ取る事。――人々に月を見せたければ、黙って月を指差せば良い。皆、同じなのだ。武道家が【武】を示すのも、ヒーローが【正義】を見せるのも。

 そして龍麻は、ラヴァの手から飛んだショットガンを受け止めた。彼にとってこの戦いは、まだ終わっていないのだ。しかし龍麻は、自分の中で何かが確実に変わったのを感じた。今は影に隠れていても、まだ武道家の心は解らずとも、いつかは――

幸運をグッドラック。――戦友フレンド

 拳士郎が小粋に二本指で敬礼を送り、龍麻は背を向けたまま、しかし親指を立てて返した。











 武道館が若者たちの熱気で華やいだ晩に起こった事件は、新聞の誌面をささやかに切り取ったのみであった。

 熱狂的な一部ファンによる暁弥生の誘拐は未遂に終わり、イベント終了間際ゆえに握手会は流れてしまったが、彼女のレセプションは無事に行われ、学生達は大いに盛り上がった。

 それとは対照的に、警察は目の廻るような忙しさであった。警視庁機動隊と縁が深い【覇王館】とその系列病院が二箇所、そして私立帝皇学園が過激派の手で襲撃され、【覇王館】館長不破弾正とその内弟子二十名以上が行方不明になるなど、都内全域にパトカーのサイレンが鳴り響く事となった。翌日、警視庁公安部から赴いてきた神城警視は、暁弥生誘拐事件が一連の事件に関わりありという見解を述べ、彼女を重要参考人として逮捕すべきと主張したが、誘拐事件の応援に来ていた新宿署の御厨刑事が、情報提供タレコミ通り、武道館内に監禁されていた暁弥生を発見、保護した経緯があり、彼女の潔白を証言した。それでもなお食い下がった神城警視であったが、警視庁警備部より訪れた美貌の女警視に何事か忠告されて引き下がり、弥生は無事に彩雲市に帰っていった。

 一晩かけて不破の管理していた組織の拠点を潰していた、騒動の真の中心人物緋勇龍麻は、演舞会と慰労会をすっぽかす事になってしまったが、名だたる【達人】たちは彼の事情を知ってか知らずか、誰一人咎める事はなかった。そして【達人】たちと再会を約して別れ――風見拳士郎も彩雲市へと帰っていった。【またすぐ会えるさ】という言葉の前に、別れの挨拶は無用であった。

 そして緋勇龍麻は日常に復帰し、真神学園空手部を率いて鎧扇寺学園空手部を訪れ、全国大会に向けた【指導】と共に自らも【修行】に勤しむ日々を送った。そして――

「――いよいよ決勝戦だ。お前達の日頃の鍛錬が実を結んだ一戦だ。己自身の為、仲間の為、真神の為、お前達が乗り越えてきた全ての対戦者達の為に、各員奮闘し、勝利を掴め!」

『オオオォォッスッ!!』

 会場の隅に集合した真神学園空手部選手団に、白帯の【大将】殿の訓示が飛ぶ。――さすがは全国大会。龍麻は極端な例外として、出場校のレベルは非常に高く、副将の森美喜雄を始め真神の選手団に無傷の者は一人としていない。しかしなお意気盛ん、闘志には些かの揺るぎもなく、その癖自然と頬が緩んできてしまうほどの高揚感。心底試合を楽しみ、明るく活気に満ちている選手達を、観客達も興味深げに、あるいは感心しきりに眺めていた。彼らと戦い、敗れた各校の選手達も、他所とは雰囲気が違う真神学園空手部から何かを感じ取れたのか、代わる代わる激励に訪れた。それは正に渋沢翁を始め【達人】たちが唱えた、【武を通じて和合する】姿であった。

 そして、応援に馳せ参じた、全日本高校空手道個人戦王者となった紫暮兵庫率いる鎧扇学園の面々と共に、入念なウォームアップを済ませた選手団が間もなく呼ばれようかという時、真新しい空色のミニスカートが印象的なセーラー服姿の少女がそこに訪れた。

「決勝戦進出おめでとうございます。――やっぱり皆さん、楽しそうですね」

「おお、貴殿は確か、剣持鈴菜殿」

 先日の迫力はなんだったのか? しかしきりっとした敬礼をされ、さすがにうろたえる剣持。尋常ではない彼の経歴を垣間見たとは言え、慣れるにはまだ遠い。それでも何とか、ぎこちない笑みを浮かばせる事はできた。

「こんにちは、緋勇さんに――紫暮さん。――個人戦優勝おめでとうございます。紫暮さん」

「うむ。ありがとう」

 一時は敵であったとは言え、共に【死線】を潜り抜けた仲だ。紫暮は太い笑みを浮かべて大きく頷き、剣持も屈託なく笑みを見せた。

「お忙しいところをお邪魔してすみません。でも皆さんの姿を見たらいてもたってもいられなくなって。――昨日の事ですが、音信不通になっていた私の友達が無事に保護されて、彩雲市のサナトリウムに入ると連絡を受けたんです。…緋勇さんたちのおかげですね?」

「――さて?」

 龍麻は答をはぐらかせたが、剣持は微笑を深くした。初めて出会った時と違い、その顔のどこにも険はない。――これが彼女本来の姿なのだろう。

「あの事件も過激派の仕業という事で落ち着いて、帝皇学園も【覇王館】も穏便に【拳武館】という学校法人に吸収合併されました。不破館長の名誉も守られて、私たちも何のペナルティもなく…。いくら感謝しても足りません」

「その方が都合が良いと、誰かが考えたかも知れん。不破弾上氏は警視庁機動隊の指導も行った偉大な武道家である事は周知の事実だ。その死を悼みこそすれ、誹謗中傷する理由はあるまい。――貴殿はこれからどうするのだ?」

 剣持もまた、【使徒】の母体として狙われた身である。【拳武館】傘下となれば今すぐ危険という事はないだろうが、用心に越した事はない。ただ、この制服から察するに――

「ええ、彩雲学園に転校します。あの後暁さんから誘われたのもあるんですが…実は不破館長の顧問弁護士さんから、館長直筆の彩雲学園への推薦状を頂いたんです。私だけじゃなく、他にも何人も…。館長は、いずれこうなる事を予想していたんじゃないでしょうか?」

「恐らくな」

 やはり――【武道家】。自分が死してなお、弟子達の身の振り方にも気を配っていたという事か。やはり彼は、死ぬべき者ではなかった。もし【敵】として出会う事がなければ――まったくこの世はままならないものだ。

「書状には、【見識を広め、より深く武を納めなさい】とありました。――今まで私、剣道や格闘技をスポーツとして楽しんでいる人たちに、自分勝手な正義や価値観を押し付けて傷付けてきました。今までの私にけじめを付けて、一から修行し直します。そしていつか、【武士道】を示せる本物の【侍】を目指します」

「そうか。――戦いの恐ろしさ、あさましさを知った貴殿だ。必ずや想いを成就できるであろう。貴殿の健闘と健康を祈る」

「はいっ」

 きりっと威儀を正して敬礼する龍麻に、こちらも敬礼で応える剣持。紫暮も太い笑みを浮かべ、大きく頷いた。

 それから剣持は神妙な顔をして龍麻を見た。

「あの…聞いて良いでしょうか? 緋勇さんはこれからどうなさるのでしょうか? 本当なら、こういう試合に出るのも危険なのでしょう?」

「――判らん」

 即答である。――考えた上での答ではない。既に用意されていた言葉であった。

「俺は今まで、生き残る為に戦ってきた。仲間達の想い――【せめて、人間らしく】。しかし俺は――その想いを受け止め切れていなかった。【俺達】が人らしくある為には、不破氏の言ったように、観念的ではない確固たる信念が必要だ。プログラムでも命令でもない、己自身で抱える信念が。――俺自身が行く道は未だ見えぬが、幸い俺には【武道】がある。これを求め、高めていく事によって、俺にも道が見えるだろう。この【スポーツ】としての試合もまた、俺にとっては貴重な経験であり、糧となる筈だ。いつか、光の下を歩く為に」

 僅かに目を見開き、急激に高まった胸の動悸を抑える剣持。――これが緋勇龍麻という男か。幼少より兵士として育てられ、感情さえ奪われていたと聞く。しかしそれ故に、深く自分を見詰め直し、正しい道を模索できる男。【敵】であった者の言葉さえ真摯に受け止め得る男。剣持は彼に、真の【漢】を見た。

「きっと…きっと見つかりますよね。人としての道が」

「見つけるとも。今の俺は、一人ではないからな」

 他の者が言えば気障にしかならぬ言葉が、ズンと胸の奥にまで響く。剣持は再び高鳴る動悸を鎮めるのに、深呼吸を三回も必要とした。

「やっぱり、緋勇さんて凄く真面目な方なんですね。――安心しました」

 そして剣持は、預かり物があると言ってカバンから封筒を取り出した。

「これ、暁さんから皆さんにお礼だそうです。今日は撮影で缶詰にされちゃうから応援に行けなくてごめんなさいと言ってました。私としては試合後の方が良いかと思ったんですけど、その…絶対気合が入るからって…」

 宛名付きの封筒は四人前。あとは真神と鎧扇寺の空手部員宛に紙包みが何点か。宛名のあったミッキーと前田は、憧れのアイドルからのお礼というので喜色満面で封筒を開け、中を覗き込んだ途端――固まった。

「? どうしたのだ、二人とも」

「こっ、こっ、こっ、こっ…!」

 問う紫暮であったが、二人とも顔を真っ赤にしてうろたえるばかりで言葉にならない。他の部員達はそれぞれ自分の分を開け、「おっ」とか「あっ」とか歓声を上げているのに、この二人の反応だけが異常であった。そこで紫暮が自分の分を開け――こちらも固まった。

「何をやっているのだ、お前達は」

 彼らの反応が理解できず、自分の分を開封する龍麻。剣持の目が僅かに鋭さを帯び――

「…………」

 短い礼と激励が述べられているキスマーク付きのカードは良いとして、同封されていた直筆サイン入りの生写真が問題だ。写真の中で愛くるしく投げキッスをしているのは当然のように弥生であったが、他の部員達が写真集用らしい水着姿であったのに対し、宛名付きの封書に入っていたのは彼女の制服姿。しかしお尻をこちらに向けてスカートをつまみ、あの時と同じ白とブルーのストライプ柄を僅かに覗かせている小悪魔的悩殺ポーズだったのである。ただし龍麻の分だけは――これはこれで頗る可愛いが――アカンベをしていた。

「ふむ…。やはり嫌われたか?」

「――まあ、緋勇さんの事だからそんな反応だとは思いましたけど」

 紫暮はともかく、ミッキーたちの反応を見れば、弥生の気遣いが功を奏したと良く解る。しかし彼らとは異なり、龍麻の表情は一切動かず、ポーズだけのアカンベを【嫌われた】と捉えたのだ。剣持が唇を尖らせたのは、礼とは言っても弥生の行為を同性としてあまり容認したくなかったのと、ある意味捨て身の礼にこれほど無反応なのも、これまた同性としてやや腹に据えかねたからである。しかし…剣持はふっと口元を緩め、苦笑した。

「まあ、女性関係にだらしないよりはずっと良いですけどね。――最近のヒーローってそんなのばかりですもの。変にクールぶったりニヒルを気取ったり、人を人とも思わなかったり卑怯者だったり…。力こそ正義、どんな手段を使っても生き残れれば正義、って風潮が強くなり過ぎたんですよね」

「責任の大半はメディアにある。軽薄と享楽を推奨し、義務を果たさずして福祉を得る事ばかり求め、対案もなしに政治を批判し、真面目な人間を罵倒し、誠実である事を否定する。そして何より、狭隘にしていびつに歪んだ思想や価値観を一方的に垂れ流しにされても、視聴者側には反対意見を唱える機会はなきに等しい。筋は通らず、道理は捻じ曲げられ、モラルは地に堕ち、結果ばかりを求められ、論ずる事も全てが空論か結果論となり――諦観が世を支配する。強くなる為の努力が女々しいと断じられ、物事に対する情熱を古臭いと否定されるならば、ヒーロー像が突然変異的な強さを持つクールを気取ったニヒリストになるのは自明の理だ」

「…はい」

「だからこそ不破氏は敢えて精神論を封印し、好まれやすい派手な大技を手掛かりとした肉体鍛錬の中に求道精神を培わせようとしたのだろう。時間はかかるが、希望はある。貴殿がそうであるように、己を振り返る強さを得れば、人はいつでも正しい道に立ち返る事が出来るものだ。地球における最弱生物であるが故に人間は協力し合い、知恵を武器に戦い、向上する事に喜びを見出し、武道を始め様々な文化芸術宗教を生み、連綿と伝えてきた。一時的に享楽と怠惰、暴力が世を席捲しようとも、人々は必ず向上と協調の喜びを取り戻す。――貴殿は、その手本になれば良い」

「はいっ。――緋勇さんも」

 そう言われ、龍麻は――

「いや、俺は――」

「いいえ、ぜひお手本にさせて下さい。――子供っぽいと思われるかも知れませんけど、私ってまだまだヒーローへの憧れってあるんですよ。ですから――現実に【悪】は滅びるものだって、【悪】でさえ改心させられるものだって教えてくれた緋勇さんたちは、私にとって本物のヒーローなんです。是非光の下に――私にも見える所にいてくださいね」

「……」

 そこでようやく我を取り戻した紫暮が、太い笑みを浮かべて彼の肩を叩いた。

「自分でヒーローだと名乗るものではないさ。俺たちは正義と信じて行動し、その結果として何人か救う事が出来た。決して謝礼目的ではなかったが、こうして感謝されて悪い気分にはならんだろう? 【考えるな、感じ取れ】――今感じているこの気分こそ重要なのではないかと俺は思う。それに――暁は笑っているだろう? 彼女は怒ってなどいない。ただ、男ならちょっとくらい反応してみろと言いたいのだろうな」

「ふむ…」

 さすがに照れ臭いのか、苦虫を噛み潰したような顔を赤くしている紫暮に、納得したのかしないのか曖昧に頷き、改めて写真を眺めやる龍麻。写真の中の彼女は確かにアカンベをしていたが――なるほど、口元は笑っていた。そして深く澄んだ目は、人間なら、男なら、ちょっとくらい助平なのが自然。機械のままでいちゃ駄目――とでも言いたげであった。

「…だからと言って、そんなにまじまじと見るな、緋勇。あくまで程ほどに、という意味だ。俺としてもお前が――あんな感じになるのはちょっと耐えられん」

 紫暮の指差す先にいるのは、弥生の【信奉者】から殆ど【下僕】と化したミッキーの姿。――確かに彼はスポーツマンタイプだが、空手道に身を置く男が喜色満面でアイドルの生写真に頬擦りする様はさすがに不気味だ。

「…微笑ましいではないか。確かに手玉に取られているようにも見えるが、それを不快と感じさせないのは正に、暁嬢がそれだけ魅力溢れる女性だからだ。そして彼女もまた【心道流】の門下、己の力と技、そして魅力を弁え、それを活用する賢さも持ち合わせている。ただの激励以上に、今のミッキーたちは奮起しているだろう。――全員、準備は良いか」

「応ッ! ――ひーちゃん! オレ、一生暁さんに付いて行くよ!」

 目をうるうるさせ〜かなり鬱陶しい〜己の拳に誓うミッキー。声をかけたのは自分の癖に、龍麻は三分の一歩ほど下がった。

「う、うむ。己をアピールする良い機会だ。ルール遵守を忘れず、存分に力を振るうが良い」

『オォォォォッッス!』

 足を踏み鳴らして唱和する選手団に、今度こそ一歩下がる龍麻。写真一枚でこれほど奮起する彼らに、呆れるべきなのか驚くべきなのか判らず――それこそが自分が克服すべき点だと深く噛み締めた。

 その時、会場の準備が整い、真神選手団が呼び出された。

「――それでは剣持殿、大変結構な物を頂き感謝する、家宝にさせて頂くと、暁殿によろしく伝えてくれ」

「か、家宝って…ッ」

 重厚な雰囲気から一転、とてつもないボケをかます龍麻に剣持はコケたが、その背中の雄大さには見惚れずにはいられなかった。そして、入場口に彼率いる選手団が姿を現した途端、沸き起こる歓声と声援。これまでの彼には無縁であった世界。これからの彼が生きようとする世界――

 龍麻は轟然と顔を上げ、ゆっくりと歩き始めた。

 光ある世界に向かって――







 第六話閑話 【武道】    完





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