第六話閑話 武道 5
小山芳樹 今は【最強】を目指す仲間と共に、暗い階段を風のようにひた走っている。暗がりは何の障害にもならず、耳元で唸る風は壁や階段の凹凸を的確に捉え、空気にこもる匂いはあらゆる情報を彼に伝えてくる。ここを通り過ぎていった者達の匂い。一人一人異なる匂いは性別や年齢はおろか、体格や風貌、食生活まで伝えてくる。緊張の気配、脅えている感情までも。正に今の彼は、獲物を狙う狩人〜肉食獣であった。 彼は、他人から見れば不幸な生い立ちであった。生まれからして苦難の道〜父親が二十歳、母親が一八歳の、一夏のアバンチュールという奴で出来た子供である。当然、芳樹の親の親〜祖父母は娘の考えなしの行動を酷く怒り、勘当するのしないのの騒ぎになった。たまたま新聞社に勤めていた祖父はその人脈から芳樹の父親〜当時大学生を探し出し、責任をどう取るのかと詰め寄った。相手の両親もまた、息子の不始末を酷く怒り、嘆き、堕胎を禁じる宗教観と世間体がそれなりに定まる形〜母親の高校卒業を待って結婚という形に落ち着いた。いわゆる【学生結婚】、しかも【出来ちゃった婚】という奴である。 世間体はいずれ、本人同士が遊びのつもりで、しかも両親共に遊びたい盛りである。【子供】に【親】になった責任感など望むべくもなく、芳樹は決して両親から愛される事はなかった。彼は常に邪魔者でしかなく、物心付いた時から両親の記憶といえば殴られた事のみであった。小学校に上がってからも、帰りが遅いとなじられ、成績が悪いと罵倒され、虐待に気付いた担任教師が相談に来た時など、三日以上も家から閉め出されて近所のゴミ箱を漁らねばならぬ有様であった。担任はそれなりに動いてくれたが、権力闘争に明け暮れる○○省が授業から【道徳】の時間を削り、情熱も信念も持たぬ教師が【躾け】と【暴力】の境界を見失い、放任主義の親たちの仲良しグループ 転機が訪れたのは、中学二年の時である。彼の中学にプロボクサー上がりの教師が転勤してきて、不良グループの更生にボクシングを教え始めたのであった。今時珍しい青春小僧な教師は実によく働き、不良たちを更生させていった。芳樹もボクシングに打ち込む事で、家庭の不和を一時でも忘れた。自分が認めてもらえるもの、夢中になれるものを持った事で、芳樹の他人を見る目が変わり、暴力の世界からも自然に足が遠のいた。 しかし、【その時】が来た。人生の転機――ボクシングに夢中になり、遅くなって帰ってきた〜部活をやっている生徒には普通の時間である〜芳樹を、両親は二人してなじった。いつものように、竹刀まで引っ張り出して。そして芳樹は――両親を殴り倒した。――実に簡単な事であった。力がない時には、そんな親でも頼らねば生きていけなかったが、力を得た今の自分に親は必要なかった。特別な愛情などなく、むしろ恨みしかない相手を殴るのは快感ですらあった。その日から立場は逆転し、芳樹は家庭内で恐れるものはなくなった。 ――弱い者は生き残れない。そもそも、生きる資格もない。芳樹はそれを、嫌っている両親から学んだ。唯一縋れる確かな力〜ボクシングに徹底的にのめりこみ、大会でも一目置かれる存在となった。そして、強さを求める者ならば【そこ】を目指すという武道校、帝皇学園から勧誘があったのだ。 両親は、その名も知られた武道校ならば息子を更生できると、涙を流して喜んで芳樹を送り出した。実際には、帝皇学園が全寮制なのを良い事に厄介払いできると思ったのだろう。せいせいしたのはこっちだと、芳樹は親元を離れ、帝皇学園と【覇王館】を往復する生活を始めた。行儀見習いのような精神論など一切語らず、力こそが正義であるという【覇王館】の武術は芳樹を夢中にさせた。文字通り、格闘技の本質〜人を破壊する術を学ぶ事一年半、三ヶ月前に一時帰宅した芳樹は、不満の捌け口を芳樹からお互いに移した果てに冷え切った両親に殺されかかり、二人とも返り討ちにした。彼の技はボクシングから神羅覇極流柔術に変わり、殺人のみを追及している技は母親と名乗る女の細首を大根よりも容易くへし折り、父親と名乗る男の肋骨をベニヤ板よりも楽に突き砕いた。 常人であれば、そこで【後悔】の二文字が胸に焼き付けられるのかも知れない。しかし彼は両親を殺した事に対して、ゴキブリを殺した程度の感慨しか持たなかった。そもそも、名前すらまともに覚えていなかった両親だ。愛情なき遊びで生まれ、愛情を一度も向けられなかった彼に、真の意味での両親はいなかったのだ。それ以上に、自分の技が人をこれほど容易く屠れる事に、身震いするほどの感動を覚えた。 もし彼に、親と呼べる存在がいるならば、それは【覇王館】館長、不破の事だ。――彼は恐ろしく強かった。天狗になっていた芳樹を見事に叩きのめした上で、強者たる道を示した。【弱いものに生きる資格はない】〜正に芳樹が悟った事実と彼の教えは合致し、芳樹は不破に心酔した。彼は両親を殺した芳樹を庇い、それを強盗の仕業として片付けた。そもそも武道とは人を殺す技術なれば、弱き者、軟弱なる者を処断する事こそ武道家の本懐であるとして、芳樹は不破の内弟子として迎えられた。彼の下には自分と同じように親を殺した者、試合中の事故で殺人を犯した者、保護監察下にある者など、殺しの経験を持つ者たちが集い、日々殺人技術の習得に勤めていた。いずれ惰弱に塗れたこの日本に、武道家が武道家として生きる世界を実現する革命を起こす戦士として。 そして彼は、不破の期待に応えた。まだ七本槍には及ばずとも、週に一度の【闇稽古】では拉致したヤクザや暴走族を習い覚えた技術で殺した。武器を持ち、殺意を剥き出しにして襲ってくる敵を返り討ちにした時、必ず背筋を快感が駆け抜けた。殺しは美酒であり、麻薬であった。芳樹は仲間たちと共に、不破にあてがわれるまま美酒に酔い痴れ、殺しの経験を積んでいった。 第二の転機は、女の形を取って現れた。芳樹の殺害者数が二桁に届いた時、更なる【力】を求めるならば、その女を抱けと不破が命じたのだ。それも自分一人ではない。女一人に対して自分達は十名である。変な命令ではあったが、与えられたのは普通では手が届かないであろう美少女である。断る理由など微塵も考えず、全員が命令に従った。少女のやけに冷たい肌も気にならなかった。 そして、芳樹は変わった。人間から、人間以上のものに。 【覇王館】の門下生はある飲み物の摂取を義務付けられていたが、その意味を芳樹は己の肉体で知った。五感の鋭敏化に加え、筋力持久力の爆発的な向上、そして、人間以上のものへの変貌。その薬だけではただの肉体増強効果しかなかったが、その少女を抱く事で薬は特別な化学変化を起こす。芳樹はその条件を揃える事ができた。その後も【闇稽古】の都度一人殺し、少女を抱いた。与えられる少女は一人の時も、複数の時もあった。稽古の出来が悪いとお預けを喰らうのだが、芳樹はいつも合格した。そして、より高次元な存在〜七本槍の候補となったのだ。芳樹は――選ばれたエリートであった。 今はその五感を使い、獲物を追っている。一度捕捉すれば、獲物に逃げ場はない。最初こそパニックを起こして逃げ惑う者たちを追ってしまったが、今は【獲物】の匂いが別方向に向かっている事を知り、階段を駆け上っている。――意表を突くとは面白いが、無駄な足掻きだ。上に逃げれば正に袋のネズミ。どこに隠れようとも、匂いまで消す事は出来まい。 (赤頭巾だな) ふと、幼い頃に聞いた御伽噺が思い出される。勿論自分が狼で、獲物は美しくグラマーな赤頭巾だ。そしてこのストーリーに、猟師は存在しない。赤頭巾が喰われておしまいだ。 三階分の無駄足を踏まされ、修練場のあるフロアまで戻って来た時である。突如、中央階段が爆発した。 「――クッ!」 渦を巻いて走る炎を避けて大きく跳び下がる芳樹。仲間たちの反応も見事なもので、一蹴りで五メートル以上跳び下がる。と、同時に電気が消え、残るは非常灯のぼんやりとした明かりだけになった。それとて漂う煙のために酷く頼りないが、それに惑わされるのは【人間】だけだ。 「紫暮兵庫の言った事は本当らしいな。――どんな奴がいるか解らん。最初から得物を解禁しろ。【変身】は各自の判断に任せる」 「応ッ」 仲間たちの声に、得物の立てる音が重なる。ヌンチャク、トンファー、サイ、杖、六尺棒、そして脇差。――戦場にフェアプレーなど存在しない。向こうは恐らく拳銃あたりで武装しているだろうが、【覇王館】の内弟子にそんなものは利かず、こちらは一方的に攻撃できる。どんなえげつない手段でも正当化されるのが戦場だ。 と、その時、芳樹は仲間の反応が一つ足りない事に気が付いた。 「おい、一人足りないぞ。誰だ?」 「うん? そういや俺の後に誰か…誰だっけ?」 芳樹が背後を振り返り、自分達が戻って来た階段を見やった時、曲がり角の陰から杖が倒れて床で硬い音を立てた。常人でも耳障りなそれは、芳樹たちには耳を劈く騒音であり、彼らは例外なくビクッと首をすくめた。 「――何やってんだ、お前。そんな所まで逃げなくたって――」 からかい半分の声をかけて曲がり角に彼が至った時である。黒い胴着の肩が見え、それはいきなり力を失い、ずるりと壁を滑って倒れ掛かってきた。次いで飛び散る、黒い灰。 「ぶわっぷっ! ぷっ! はっ! う、うわわわわっ!」 黒い灰は、その下に骸骨を包んでいた。さすがに肝を潰し、尻餅を付いた芳樹はそれを脇に放り出した。骸骨には淡い炎が走り、焼き尽くされた灰がポップコーンのように飛び散っている。それはかつての【仲間】の残骸に他ならなかった。 「何だこれは!? 一体何なんだ!」 喚く芳樹を血相変えた仲間たちが助け起こす。 「まさか、死んだのか!? どうやったらこんな風になるんだ!?」 「オイ! 何かやべえよ! 一旦戻ろうぜ!」 とにかくこの場は仲間が死んだ事を不破に知らせるべきだ。打撃や斬撃、果ては銃撃でさえ容易には砕けぬ身体がこれほど無残な死に様を晒すなど、敵は一体どんな武器を使っている…!? しかし―― 「――ギャアアァァッッ!」 背後からの風切り音を卓越した聴覚が捉え、振り向き様に杖で飛来物を叩き落とす黒胴着。しかし――飛来物が砕け、飛び散った液体が黒胴着たちの身体に跳ねかかるや、強烈な刺激臭と共に白煙を放った。 「クソ! 酸だ!」 手足にかかった者はまだ幸運であったが、一人が目を焼かれてのた打ちまわる。芳樹は歯軋りして酸を投げた敵を求めた。しかし――これはただのトラップだ。天井に吊ってあったビンが振り子になって襲ってきただけである。敵は近くには―― 「――グワッ!」 全員の目がビンを吊っていた糸に注がれた時である。またしても背後――階段の方から風切り音がして、酸の襲撃を恐れた彼らは後方に跳んだ。――が、一直線に飛んで来た【それ】の正体に気付き、杖を振るった時には既に時遅し。胸を狙っていた金属製の矢は杖で軌道を逸らされ、黒胴着の腹に突き刺さった。 「な、何だ畜生! こんな物でこの俺が…あがが…ギギィィィィィッ!」 これは一体何の冗談か? 矢の先端に括り付けられているのは、瀟洒 「チイッ!」 とっさに矢を引き抜く芳樹。だが既に炭化した肉が付いてきて、仲間の腹部がゴソッと崩れ落ちた。仲間は泡を噴いて酷く痙攣し、そのまま動かなくなった。 「クソ! 追え! 逃がすな!」 訳が解らないが、敵の位置は判った。死体と、死体になりつつある仲間は捨て置き、走り出す芳樹。――仲間とは言うものの、実際には蹴落とすべきライバルだ。【覇王館】には馴れ合いなど存在せず、仲間意識も薄い。――名前すら、気を付けていないとすぐに忘れてしまう程に。 だが【敵】がいる階段に飛び込もうとする直前、芳樹の超感覚が何かを捉えた。芳樹は急制動をかけたが、既に【変身】していた後続の二人は止まれず、彼より一メートルほど突出する。だが――芳樹と同じものを知覚した時には既に遅く、惰性が彼らをあと一歩踏み込ませ、その瞬間、彼らの喉が半ばまで裂けて鮮血が奔騰した。悲鳴も上げられず傷を押さえた彼らは床に倒れ込み――その傷口から淡い炎が広がって彼らを飛び散る灰と変えた。――ワイヤートラップだ! そこで初めて、芳樹達は知った。それこそが、自分達の死に様だと。自分達が死する時は、死体さえ残らないのだと。 だが、驚愕の硬直は、致命的な隙であった。 「がっ!!」 恐怖に立ち尽くした瞬間を逃さず、フォークを鏃 「畜生がッ!」 芳樹が今まで好成績を挙げてきたのは、自分の実力を弁え、相手を観察する目を持っていたからである。しかし彼以外の黒胴着は六人全員が【変身】して、ほぼ同時に射撃地点に向かって踊りかかった。壁と天井を蹴り、クロスボウを再装填しようとする人影を認めるや、常人には受けるもかわすも困難な位置から牛の首をも落とす斬撃に、石灯篭をも砕く打撃! 僅かに遅れて、コンクリートブロックを貫ける刺突! 全てをかわしたとしても、その後には第二の布陣が―― 人影は少しも慌てなかった。 前回り受身でころりと床を転がって斬撃と打撃をかわし――否、構えを作りきれていない後詰の第二陣に襲い掛かり、バグナグ使いに握り込んでいた矢を突き立て、同時にクロスボウを発射! 腎臓を貫かれたのと、目から入って後頭部に抜けた矢で壁に縫い付けられた黒胴着が真っ黒な灰をぶちまける。その時初めて人影が、一瞬だけライトの中に浮かび上がった。 (――女ッ!?) 顔を覆う仮面に、身体にフィットするボディスーツ。そして、その丸みのあるラインと胸元の膨らみが性別を示している。だが、女一人にこれほどの芸当が―― 「ちぇりゃぁぁぁっ!」 身を翻し、真上から踊る斬撃。――覇王館において敗北は死だ。不破館長の内弟子になったからには、常に勝ち続ける事を要求される。相手が女、子供、老人であろうと容赦はしない。そして―― 「ガフッ!」 相手は、ただの女ではなかった。 空中からの斬撃を迎え撃ったのは後回し蹴りであった。それも頭が床に擦るほど上半身を倒すカポエイラ式。それがどれほどの威力であったか、床と平行に弾き飛ばされた紺胴着は階段の手すりに激突して逆くの字になり、脊椎の折れた部分から崩壊して二つにちぎれ落ちた。続く第二、第三撃! 蹴り足が地に付くのに合わせて跳ね上がった上半身からふっと銀色の帯が走るや、トンファー使いの喉が裂けてあっという間に分解する。サイ使いは飛び退こうとした所を足払いされて転倒、背中を床に打ち付ける前に胸板をナイフで貫かれて即死した。 ――判っているのだ。この女は、自分達の能力を判っているから、的確な攻撃で自分達を殺せるのだ。 そして、女は芳樹に視線を向けた。 「ううッ…うわァァァッッ!」 芳樹は手にしていた二丁鎌を女に投げ付けた。さすがにただ投げるだけではなく、一丁は上方から打ち下ろすように、もう一丁は下方から跳ね上がるように投じる。女はするりと身を翻して闇に消え――その隙に芳樹は一目散に修練場に駆けて行った。不破に報告するため――ではなく、我が身の為に逃げた。ほんの一瞬の手合わせ〜実際には一合もしていない〜ではあったが、芳樹は天地ほども離れた実力差を肌で感じていた。――あんな【化け物】に勝てる訳がない! ところが、行く手に湧き上がった気配に、芳樹の足は吸い寄せられるように急停止した。――普段はいけ好かないが、今は天の助け。見知った者の臭いだ。 「――竜崎さ…ッ」 ――シュッ… ふわ、と風が喉を叩いたと思うや否や、いきなりぶれる視界。天地が逆転し、自分が倒れたと知ったのは、天井が視野を占めたからであった。そこに入ってくる、仮面の女。そしてもう一つは、見知った男の臭いを放つ、顔に包帯を巻いた男…。だが、この男は死んだ筈では!? 「…お前が逃がすとはな。侮れん」 抑揚のない男の呟きに女は頷き、視線を芳樹に下ろす。その手に出現したのは、遺体なき死をもたらすナイフ… 小山芳樹は【地上最強】を夢見る青年だった。 夢は、夢のまま終わった。 最初の爆発よりは小さい規模ながら、ドアから噴き出した爆発音と黒煙に、給水タンクの陰からそっと顔を覗かせた風見拳士郎は、【大丈夫】だと合図を送って、背後にいる者たちに身を伏せているように促した。 「とんでもない騒ぎになってやがるな。――それにしても、兵庫よォ。ひーちゃんとここまで示し合わせていたなんてなァ。たまげたぜ」 「指示された通りにやっただけさ。我ながら良くあそこまで出来たと思う。しかし――二度とゴメンだ。お前たちには本気で殺されるかと思ったぞ」 拳士郎と同様に、給水タンクに身を寄せて周囲を警戒しながら、【裏切り者】の紫暮はもう何度目になるのか、冷や汗を拳で拭った。 「ははっ、紫暮ッ。アンタまだ龍麻と付き合って日が浅いもんねッ。でも名演技だったよ」 「これが全部亜里沙のイイ人の演出だったとはねェ。言っちゃなんだけど、メチャクチャ微妙だわ。死んだフリとか爆弾とか、おまけに人を小荷物扱いさせてっ」 「――でしょ? でも付き合ってみると、そういうトコもたまんないのよ」 ヒソヒソとそんな言葉を交わす亜里沙に弥生を見ながら、紫暮は苦笑しつつ改めてこの状況を見直す。自分と拳士郎、亜里沙に弥生、前田に森もいる。更に剣持と、黒ジャージの一人がここに身を潜めた。実際、ここまでは笑ってしまうほど完璧な展開である。 まず、彼らが潜んでいるのは【覇王館】ビルの屋上であった。 黒ジャージの一人が一同をここに導いたと知れば、誰が驚く事だろう。彼らの襲撃こそ、この作戦の始まりであった。車に撥ねられたと見せ、一度は捕まった龍麻であったが、黒ジャージの態度から訳ありを見抜き、制圧した後に事情を問い質した。そして破格の条件〜彼らとその家族の安全と、一人二十万の報酬で味方になれと提案したのである。最初はこの提案を一笑に付した黒ジャージも、ぽんと差し出された十人分二百万円もの現金と、【告げ口すればタダ取りも出来る】という一言に恐れ入って協力を約束した。龍麻が電話一本で【その筋】の人間を集めた時など、紫暮さえも彼に対して怖気を奮ったものだ。 その後は目の廻るような忙しさ。【装備】を整えた上で、相手を油断させる為の入念なメーキャップ。作戦の運び方と役割分担。建物の構造チェックと逃走経路の確認。――つくづく、龍麻が敵でなくて良かったと思う紫暮であった。 後は、黒ジャージの一芝居に賭けるだけであった。紫暮は彼らがいつ裏切るか気が気ではなかったが、やはり龍麻の度量に触れた事が切っ掛けか、彼らは見事に自分の役目を成し遂げた。パニックを誘発するべく悲鳴を上げたのも、廊下にオイルを撒いて火を放ち、追っ手を遮断したのも彼らである。当然、亜里沙たちを取り押さえたのも作戦の内で、その際に亜里沙たちは後ろ手に武器を渡され、彼らが味方であると知った。――と、来れば、亜里沙が龍麻の指示を待つのは当然で、彼女もまた【仲間】独自の方法でそれを受けたのである。紫暮に突っかかったのも、追跡が必然であると見せる為の演技であり、そうする事で偽装作戦に一枚噛んだのであった。 おかげで紫暮が弥生を連れ去った事、それを亜里沙たちが追った事、黒ジャージが更に彼女たちを追った事、パニックを起こした者たちが逃げ出した事、最後に、龍麻自身は取り残された事など、全てがバラバラに起こったかのように【覇王館】側に見せられ、不破らが自ら動くまでの時間を稼ぎ出せたのである。 しかし紫暮の【二度とゴメンだ】は本音である。あのとんでもない台詞回しは精神的なプレッシャーが大きかったし、はっきり言って亜里沙が苦手な彼は、彼女がこちらの真意を読み取れるか確信が持てなかったのだ。現に打ち込まれたのは避けるだけで精一杯の【本気】の一撃だったし、員数外のミッキーや前田までもが噛み付いてきたのは予想外であった。まさかあの場で誤解を解く訳にもいくまいから一目散に逃げたら、黒ジャージと接触した筈の拳士郎までが、演技とは思えない物凄い勢いで追いかけてくる始末。【本気】で殺されると思った紫暮が事情を話して弥生を下ろしたところ、弥生に問答無用の一発を貰ってダウンしてしまった。もはや絶体絶命かと覚悟を固めたら、追い付いて来た亜里沙がケロっとした顔で「次はどうすんの?」と聞いてきたのである。拳士郎もミッキーも前田も、紫暮の演技をイマイチだったと笑い、弥生がなぜ殴りかかったかと言えば、「お尻触ったでしょ!」と来て、紫暮を大いに脱力させたものだ。 「そんな事情があったなんて…でもよくアンタたち、不破館長に逆らう気になったわね」 まだ混乱の収まらぬ顔をしながら、剣持は黒ジャージ〜小柳治夫に話し掛けた。彼女は状況の変化に付いていけなかったのだが、彼に手を引かれてあの場を逃げ出したのだ。元やサムチャイ、荒畑も同様だが、彼女だけは彼らの【餌】であると解ったためそのまま逃がすのは危険だと、亜里沙が小柳に言っておいたのであった。 「俺たちだってそんなつもりはなかったさ。館長に逆らったらぶっ殺されるってな。だがあいつ――あの人はマジでスゲエ。俺たち全部を守ってやるなんて、最初はとんでもねェハッタリをかますと思ったけど、金は持ってるし怖そうな連中と知り合いだし、銃とか爆弾まで持ってるし…。それこそマジもんのシティハンターかハングマンだぜ、ありゃあ。だけど、そんな人が俺たちみたいな素人に、人質を確実に助ける為には俺たちが頼りだって言ってくれたんだ。その時さ…この辺にズンって来たんだ」 自らの胸を拳で叩き、小柳は興奮を隠せない声でそう言った。危険な賭けと思われた作戦が、こうまでうまく行っているのだ。しかもヒーローものの善玉のような展開。否応なしに興奮してしまう。 「でもあいつ…あの人って…矢部に踏んづけられて、その…竜崎にオシッコまでかけられたのよ? どうしてそこまで我慢できるの!? いくら人質を助ける為だからって…!」 剣持は納得できない。いくら目的があるとは言え、そこまで自分を殺せるものなのか? そうまでする事に、何かメリットがあったのか? 銃や爆弾を持っているというのが本当ならば、そんな真似などしなくても良かったのでは…? 「それは緋勇が、【真】の【武道家】だからだ」 「え?」 紫暮の言葉を、拳士郎が引き継ぐ。 「目的の為には手段を選ばねェ――そういう事だろうよ。武器に物を言わせて力押ししたら必ず人質がヤバい事になっていただろうが、ションベンかけられても刃向かわない怪我人なら最初から警戒されねェだろ? 現に無傷で潜入成功、うまくすりゃ人質の所まで一直線だった筈だ。どうやら俺はひーちゃんの邪魔をしたみてェだな」 「そんな事はない。確かに隠密作戦とは行かなくなったが、すぐに人質の所在が解ったのはケンが連中を挑発したからだし、お前が腕を折らせたから連中は勝ちを意識して更に油断した。――目的を果たす為には自分を貶める事も厭わぬところは、二人ともそっくりだな」 こんな会話が平然と行われている事にまず驚き、剣持は悲痛な眼差しを拳士郎の右腕に向ける。彼の肩はあらぬ方向に捻じ曲がり、見ているだけで痛い。しかし当人は涼しい顔で、紫暮や弥生たちまでが余り気にした風がないのはある意味異常であった。それもまた、【心道流】の秘伝か何かだろうか? 「ま、この位やれば連中のこったから必ず調子こくと思ったんだが、まさかあんなバケモンだったとは思わなかったぜ。――なあ兵庫。お前達って、いつからあんなのと闘っていたんだ?」 「俺は…ごく最近だ。先ごろ常識外れの怪奇事件に巻き込まれ、それを解決した緋勇と共に戦う事を決意した。――藤咲はああいう連中を見た事があるのか?」 「あたしは二度目だよ。恩人があいつらに襲われたのを、龍麻に助けてもらったのさ。今日のは偶然だけど、良かったわ。あの外道ども、弥生まで狙っていたなんてね」 それを聞いて、剣持は亜里沙の腕を掴んだ。 「ねえ! それってどういう事なの!? 竜崎の奴、あたしが【餌】だって…! あたしの友達も連中に捕まってるって…!」 「言葉通りの意味だよ。――あいつらは【使徒】って言って、ウイルスだか何だかで狼男みたいな化け物になってるんだけど、強くなる為にはウイルスを植え付けた女を喰うかヤるかする必要があるのさ。元が若くて健康で、【気】の質が高い女をね。以前は【フリーダム】を使ってきれいどころをピックアップさせてたけど、龍麻の読み通り学校ごと狙い始めたみたいだね。そうすりゃもう家畜と同じ。厳しく躾けて身体を鍛えさせて、自分ら好みの女を作り出せるって寸法さ」 「…!」 「ふざけた話だろ? 女を何だと思ってやがるって。でもそれが奴らさ。あたしの恩人も危うく化け物になり切るところだったし、もっとレベルの高い化け物にされちまった子は今でもどこかで苦しんでる。彼氏が助けに来てくれるって、それだけにしがみ付いて、人の心を失くさないように必死で耐えてる。彼氏の方はその子を助ける為にボロボロになって戦ってる。――あいつらは他人をそんな目に遭わせて、新人類とか超人類とか言ってる腐れ外道さ。正義の味方を気取るつもりはないけど、あたしはあいつらを許さないよ」 それを口にした時の、亜里沙の目の恐ろしい事。――常識では考えられない事だが、それは真実なのだ。自分自身にも思い当たる事があるだけに、沈黙するしかない剣持であった。ましてこれだけの怪異を目の当たりにした今、亜里沙の言葉を疑う余地はなかった。 「ははっ、だとすると、ひーちゃんもとんでもねェ奴って事になるな」 「!?」 「悪い意味じゃねェ。そこまで読んでいたなら、俺たちは勿論、【覇王館】の連中も含めた全員がひーちゃんの手のひらの上で踊ってたって事になるぜ。矢部に踏まれるのも、竜崎がションベンをかける事さえ作戦の内だ」 「え!?」 「重傷を装うだけにしては、やけに消毒薬の臭いがきつかったろ? 野生の獣は自分の嫌う臭いを糞尿で誤魔化したり仲間に警告したりするそうだが、あの【使徒】ってのも同じようなモンなんだろ。刃物と火薬の臭いを誤魔化すのが一つ、ションベンをかけさせて油断を誘うのが一つ、そしてラストは…匂いに敏感な生き物を、同族の匂いで騙す為だ。――武道家じゃねェとはよく言ったもんだぜ。死んだふりまでしてあそこに残ったのは、俺たち全員の脱出を確認するのは勿論だが、ホントの目的は連中を始末する為だろ。確かに、混乱している今なら群集心理で敵も味方もコントロール自在だ。そこに罠を仕掛けときゃ、面白いように引っ掛かるだろうぜ」 【始末】…この場合は【抹殺】に相当する拳士郎の言葉の意味を悟り、戦慄する一同。龍麻にとっての最優先事項は人質の救助であるが、それをより確実なものとするためには【使徒】を殲滅せねばならない。しかしこの戦いにおいて、人質を優先すれば防備を固められるか逃げるかされてしまい、結局人質の安全は得られない。かと言って【使徒】の殲滅を優先すれば、人質が必要以上に危険に晒される。最大のチャンスは、紫暮が招いた混乱の最中、追っ手が事態を理解しない内に動く今、この時しかなかった。その為に彼は敵を味方に引き入れ、自らに可能な限り偽装を施し、この最大のチャンスを窺い、そしてたった一人で殲滅戦に臨んだのである。 「何なのよあの人…。それじゃまるで本物のヒーローじゃない…」 いや、勝利の為に手段を選ばない彼はそれ以上だ。驚きの連続に、剣持はめまいがする想いであった。明確な目的があるからこそ、自分を貶めても平気でいられる男。床に這わされようが、汚物をかけられようが、その程度で傷つくような柔な精神もプライドも持ち合わせていないのだ。そして敵も味方も自在にコントロールし、自ら最も危険な場に身を置き、最も汚い仕事で手を汚す…。 【人】に【侍る】と書いて【サムライ】。ならば他人の為にこそここまで身を砕けるこの男たちこそ【真】の【侍】ではないか。 「本人はそう思っていないさ。あの男は現実を良く弁えていてな。結果的に世のため人の為になる行いでも、その手段が法的には犯罪行為であり、絶対的な正義ではない事を自覚している。しかし事態を収拾する力を持ちながら、手を汚し非難される事を恐れて、これから起こるであろう悲劇から目を逸らすのを由としない。――強い【漢】だ。だからこそ俺は、緋勇に付いて行く事を決めたんだ。――できれば他言無用に頼む」 「そりゃもう、当然ですよ。自分ら、そこまで子供じゃありません」 即答したのはミッキーである。その隣で前田も深く頷いた。 「自分らもひーちゃんさんが只者じゃないってのはなんとなく知ってましたし、そんな恩知らずな真似、できませんよ」 二人とも龍麻の【指導】を受けた身だ。詳しい秘密を語られずとも、彼の身の上が常人と違う事くらい薄々気付いていた。その正体が知れたと言っても、恩義を知る彼らが龍麻を否定するなどあり得なかった。 「――まっ、アタシだって告げ口の趣味はないからね。でもちょっとくらいあの人の事を教えてくれても良いでしょ? ――ヘリコプターをチャーターするのって百万円以上かかるのよ。いくら助けてもらっても、後で払えって言われちゃたまんないわ」 彼女達が屋上を目指したのは、それが理由である。天気の良い日は組み手なども行えるよう、給水タンクや空調機を端に寄せ、人工芝を敷き詰められた屋上は広く開けているので、ヘリの発着には何の問題もない。同時に、自ら袋のネズミになる筈はない、弥生たち人質の救助にそれだけの金をつぎ込める者はいないという常識的発想の裏をかく事にもなった。しかし弥生にしてみれば、やはり緋勇龍麻という男は赤の他人であり、そこまでしてもらう義理などないのである。 「はは、龍麻はそんなミミッちい根性は持ち合わせてないよ。龍麻に取っちゃ、もうこの事件は自分の事件なのさ。――前の事件の時なんか、作戦だからっつってすっごいドレスやら宝石やら買ってくれたんだけど、事件が解決したら報酬代わりに取って置けだってさ。でもその時だって、あたしが先に頼んだ事件だったんだよ? あたしの方が申し訳ないくらいさ」 「う〜〜〜ん…やっぱり微妙よ。剣持さんの言葉じゃないけど、まるっきりヒーローじゃん。ドラマじゃあるまいし、どこにそんな金があるのよ?」 「ああ、それは株をやってるとか言ってたね。ちょっとあたしらじゃ想像できないくらい儲けがあるらしいよ。――うまく行けば玉の輿って感じなんだけど、女に興味がない朴念仁だし、色々と【固い】男だからねえ…」 「女に興味がないって…ね、ね、それって、あっち系ってコト?」 「そこで目ェキラキラさせないでよ。友情厚いけど、あっち方面にはもっと興味がないってば。固いってのは普段の生活やら勉強やらの事で…う〜〜〜ん、確かに微妙っちゃ微妙だわ」 同じ言葉で返された弥生が驚き呆れ、剣持が呆けたような顔をし、ミッキーと前田、小柳が苦笑した時である。突然拳士郎が拳を振り上げた。 「許せん! 明らかに美男子系でありながら女に興味がなくて、腕っ節が強くて、頭が良くて、ついでに金まであるだと!? そんなレディースコミックスの妄想主人公みたいな不公平があっていいものか! 一つくらい欠点があってこそ人間らしいというものではないか!」 「だから、そこまで行っても微妙だって言ってるじゃない。一言で言うなら龍麻って――オタクなのよ」 ガク、とこける拳士郎に紫暮。ついでに剣持。非の打ち所がないかに見えたヒーロー像に、極めて微妙な評価ポイントが与えられた瞬間であった。 「オタクは欠点ではない! 時代の先駆者は常にオタクであったのだ! かのレオナルド・ダヴィンチやエジソン、ニュートンは言うに及ばず、近代日本では本多宗一郎氏も豊田佐吉氏も、ことメカに関しては武道家に劣らぬ気迫と探究心を持っていたのだ! ――って、なんだ、そうか。同志ならば怒る事もないばかりか、彼こそがオタクを覆う暗雲を切り裂き輝かしい未来へと導く救世主足り得るのか。うん、さすが俺が見込んだ男だ!」 ハードなムード一色に染まりかけていた場が一転、空気が和む。紫暮は腰砕けになりかけ、しかしふとある事に気付き、拳士郎に胸の内で感謝した。 緋勇龍麻は【漢】である。それも強い【漢】だ。その能力といいカリスマ性といい、滅多にお目にかかれる男ではない。 しかし、彼自身は賞賛を望んではいない。畏怖を集めたい訳でもない。彼はただ、己の信念に基づいて行動し、自分自身の存在を肯定しているだけなのだ。それが時に法を犯す事にもなると、彼は充分承知している。【正義】を名乗らないのはそのためだ。 龍麻は英雄的存在だと紫暮は思う。しかし、だからこそ、ここで自分達が賞賛を口にし過ぎるのは良くない。英雄を貶めるのは、常に行き過ぎた賞賛なのだ。誉められて悪い気がする人間はいないだろうが、賞賛は必ず尾鰭がつく。それは本人から離れた所で語られるほどに、真実からかけ離れていく。そしていずれは――信仰の対象にまで祭り上げられてしまい、やがて熱狂を通り越した狂信者が生まれる。かの――宮本武蔵のように。 何よりも、彼はここを【戦場】に変えたのだ。歪んだ理想が生んだ妄想的【戦場】ではなく、武道家もクソもない本物の【戦場】に。既に近代兵器の数々が使用され、炎が渦巻いている【戦場】で、武道の技が役に立つか? ――それが妄想レベルである限り、絶対に役立つ事はない。【本物】の【戦場】を知る男を前に、現実と妄想に境を付けなかった者たちは、己の愚かさを悟る暇もなく一方的に殲滅されるだろう。それは当人も口にしている通り【絶対の正義】などではない。 拳士郎はそれが判ったから、あえて場を笑いで誤魔化したのだ。この一件を深く考え過ぎないように。龍麻を――信仰の対象などにさせぬために。彼の行い全て〜殺人を無条件に肯定する事がないように。――龍麻の【仲間】である紫暮や亜里沙は、【正義】を行う者の宿業を知っており、強大な【力】を持つが故の責任も弁えているが、この場にはそれを知らぬ者もいる為、敢えてそう言っておく必要があったのだ。 小柳は単純に笑っただけだったが、剣持には拳士郎の真意が伝わった。【毒をもって毒を制す】――は、有効ではあっても容易く使用してはならない両刃の剣だ。彼が下す正義の鉄槌は、感情が先立つ賞賛によって、いずれ秩序を乱す破壊槌にもなり得る。だからこそ彼は【正義】を名乗らず、死を偽ってまで身を潜め、この恐るべき事件を闇から闇へと葬り去ろうとしているのだ。 だが剣持は同時に、戦いの恐ろしさ、盲信の危険性が身に沁みて解った今だからこそ、この瞬間の自分の感覚を頼りに、今一度彼とその【仲間】たちの行動に【侍】の【道】を見出してみようと考えるに至った。――人を傷付けるよりは、助ける方が気分が良い。【敵】さえも、殺さずに済めばもっと良い。しかし今、そこまで求めるのは不可能だ。だからこそ彼は、一人だけで闘っているのだ。――自分だったら、多分胸が痛くてたまらない。【悪】と戦うという事は、【悪】を諌める事が叶わぬ己の未熟とも戦う事だったのだ。 「とは言え、本当に十五分足らずで何とかできる相手なのか? 助っ人は一人だけなんだろ?」 既にここに身を潜めてから七分が経過している。いかに混乱の極みにあるとは言え、逃げ出した者の中に弥生たちの姿がない事に気付くまでそう時間はかかるまいから、龍麻の合流があろうとなかろうとヘリは作戦開始から十五分後に迎えに来る事になっていた。もしそれ以前に探知された場合は、紫暮と亜里沙が防衛の要となる。屋上への入り口は一つだけなので、そこを破壊すれば充分対抗できるという作戦であった。 「一人とは言っても、あの緋勇が推した女性だ。きっととんでもない実力者なのだろう。――緋勇は言った事を必ずやり遂げる男だ。信用して良い」 「それなら別に良いけどよ、ちょっと騒ぎがでかすぎるぜ。急ぐに越した事はねェだろ?」 遠くから消防車のサイレンと、恐らくは新聞社のヘリの爆音が近付いてくる。これだけ騒ぎが大きくなれば、【覇王館】も無茶はできまいが、自分たちの身も危なくなる。いつの世でも、人の口に戸は立てられないのだ。 「まあまあケンちゃん。ここは一つ亜里沙のイイ人を信用しましょ。とにかく今は――」 突然、弥生は言葉を切り、屋上入り口に鋭い視線を走らせた。既に紫暮と拳士郎は警戒態勢に入り、不用意に立ち上がりかけた剣持と小柳の腕を亜里沙が引っ張って座らせる。 「ちょっと…何!?」 「シッ! 何かいるよッ」 ある程度事情を知っている亜里沙が【誰か】ではなく【何か】と言った事で、全員に緊張が走る。屋上に上がる階段は破壊済みで使用不可。屋上は事実上の孤立地帯だ。そこに今は夜の帳が下り、凄愴の気が満ちている。新聞社のヘリの爆音や消防車のサイレンですら、水底から届いてくるかのようにくぐもっている。 「…亜里沙ちゃん。あの【使徒】って奴らは女が目的だって言ってたよな?」 「うん。まず弥生、それから、この子だろうね」 亜里沙に名指しされ、弥生はトンファーを、剣持も刀を握り締める。 「――て事は、ひーちゃんミスったな。連中は予想以上に鼻が利くらしいぜ。――来るぞ!」 その瞬間、屋上の縁から何かが飛び出し、拳士郎は【そいつ】の飛び蹴りを特殊警棒で受け止めた。合金製の特殊警棒を一撃でひしゃげさせながら更に大きく跳び、【そいつ】は反対側の縁へと引っ込む。 「むう…!」 紫暮も前に進み出る。一瞬、人と見えた【そいつ】だが、ビルの壁面を道具なしで登り、そんな位置から攻撃を加えるなど、明らかに人外の能力者だ。そして繰り出した技は――研ぎ澄まされた武道の技。――強敵だ。 そして【そいつ】は、否、【そいつら】は姿を現した。 「――こんな所にいましたか。意表を突いたつもりでしょうが、我々には通じませんよ。 我々に敵対した者に、明日など来ないのです」 先頭の日下部が、病的に明るい声で言う。まるで昨今の支離滅裂なトレンディードラマの主人公のようであるが、もはや紫暮には彼が人間に見えていなかった。いや、後続の沢松も竜崎も矢部も、その他紺胴着の一団も、人間のフリをした【何か】が喋っている。一皮剥いた下にある素顔は、さぞ邪悪なものであろう事が予想できた。 「ふん。こいつら道場にいた時とは別モンじゃん。ちょっとばかりヤベェかな」 「まだ本性を出し切った訳じゃないけどね。――この先コイツらがどんな風に【変身】してもビビんじゃないよッ」 生存者が助けを求めていると見たか、新聞社のヘリが更に接近し、ドアを開けてカメラを突き出したが、誰もそちらを見ようとしない。日下部らの放つ異様な殺気がそれを許さないのだ。 日下部だけがヘリを見上げた。 「見事な陽動でした。まさかあの下賎の者どもを囮にして、自分たちは屋上に潜むとは。動かした金も半端じゃないようですし、一体誰の仕込みですかね?」 「――それを知る必要はない。そもそもお前たちの頭では理解できまいよ」 「おやおや。謹厳実直と誉れ高い鎧扇寺学園の紫暮兵庫ともあろう人が、そのような言葉を使うのですか? まあ、良いでしょう。どうせ今夜、あなた方の命はここで潰 それを合図に、沢松たちの口から一斉に唸り声が漏れた。 「ちょっとちょっと…。これって何かの冗談?」 亜里沙の警告があったとは言え、思わず発せられた弥生の言葉には誰もが賛同せざるを得まい。 先ほど少しだけ見せた変異――顔こそ竜崎信也の面影を残しながら、肉体だけは明らかに異形のものへと変わって行く。壁面の僅かな凹凸を捉える手足は奇怪に間延びし、しかし強靭さを窺わせる筋肉を黒い剛毛で覆っていく。中でも異常なのは真っ赤に輝く目で、今にも零れ落ちそうなほどに見開かれると、顔の四割ほどを占めたまま固定された。印象が一番似ているのは――メガネザル。ただし肉体は大型のゴリラだ。 沢松が変わったのは、それが元人間であった事など信じられぬ巨大な――狒狒であった。生物的整合性を無視した巨大な牙を有する赤い鼻面に沢松の面影を残し、直立歩行する狒狒 紺胴着の変異は中途半端――全身を毛むくじゃらにしただけであったが、服をまとった猿〜人猿とでも言うべき、酷い人間の戯画化には吐き気が催された。 「はんっ。いよいよ本性現したって訳かい。――いいね、そう来なくちゃ。その方がこっちもマジでやれるってもんさ」 にい、と笑いつつ亜里沙は挑戦的な口調で言ったが、冷静に数を数えるなど落ち着いたものだ。【使徒】はどのような形態であれ、単純な腕力だけでも人間を超える。油断はできないし、しない。 「…全部で一二か。――俺が矢面に立つ。藤咲、皆を守ってくれ」 「ああ!? 随分無茶こくなァ。相手は化け物だぜ?」 ただでさえ数の不利があり、しかも常識外の出来事なのだから当然の言葉だが、亜里沙が拳士郎を遮った。 「良いからアタシらに任せなって。左腕一本じゃいくらアンタでも奴らの相手は無理さ。――弥生、奴らの狙いはアンタなんだから下がってなよ。ヘリが来たら速攻で逃げなッ」 「冗談でしょ。アンタ達だけにあんな連中の相手を押し付けて逃げるなんて、できっこないわよ。ケリ付けるまで付き合うわ」 常人ならば目の前の異常事態にパニックを起こすところなのだろうが、【武道家】である弥生はむしろ闘志を湧かせ、ヒュッと空気を唸らせてトンファーを構えつつニッと笑う。――これがあるから、弥生を【親友】と言える事が亜里沙には嬉しいのだ。剣持と小柳も武器を握り締め、ミッキーと前田も身構える。しかし―― 「嬉しいコト言ってくれるね。でもやっぱり駄目よ。アンタたちは下がってて」 亜里沙は眼前の敵を注視しつつ、背後に向かって言った。 「アタシには武道家の誇りって奴は解らないけど、あんなのをいきなり相手にすんのは無理よ。あいつらは最初からアタシらを殺すつもりでいるけど、アンタたちはそうは行かないし、そんな真似をする必要もない。コイツらは【アタシら】の獲物なんだ。アンタたちが手を汚す事はないんだよっ」 凛として言い切る親友の姿に、弥生はちょっと驚いたように目を見開いたが、すぐに破顔一笑した。 「亜里沙、格好良いッ。――でもまあ、水臭いコト言いなさんな。自分の身ぐらい自分で守るから、亜里沙たちは亜里沙たちで思い切りやってちょーだい」 「弥生…?」 それがどれほど危険な行為か判っているのに、亜里沙は弥生を振り返らずにはいられなかった。 それを迎えたのは弥生の笑顔。元から美しい顔立ちだが、その笑顔がやけに眩しく見える。それはある種の――龍麻のような人間の持つ輝きに似ていた。 「…良いのかい? 顔に傷でも付いたら台無しだよ」 「ありがと、亜里沙。顔面打たせないなんて気取った事は言わないけど、こういう喧嘩は初めてじゃないのよ」 そう言うと、弥生はトンファーのバランスを見るべく振り回した。 わお、と亜里沙が感嘆の声を上げ、目を見張る。紫暮も横目でちらりと弥生を見、納得したように頷いた。――彼女もまた空手道【心道流】の門下だ。しかもその師匠は拳士郎の師匠である後野の師匠、座浪仁吉総師範の妻である。古流空手の極意を現代に残す【心道流】にあって、男性以上に力に頼らぬ空手を駆使する沖縄最強の女流空手家の技を、弥生は受け継いでいるのだ。基本的に打撃技となるトンファーが、まるで刃物のように空気を切り裂き、衝撃波まで生んでいるのが解る。その実力、決して自分達【魔人】に劣るものではない。 「――では暁さん、藤咲と組んでくれ。俺は打って出るから、左翼で守りに徹して欲しい」 しかし弥生は首を横に振る。 「格好良いわよ、紫暮君。でもヤバいのは四匹。あのニヤケヤローはすぐには来ないだろうけど、三匹いっぺんはきついでしょ。あたしらと亜里沙でイヤミ女とその他大勢を引き受けるから、猿どもは紫暮君とケンちゃんに任せるわ。――ホラ! ケンちゃんもきばりなさいよ!」 弥生の可愛らしい御指名に、あからさまに嫌な顔をする拳士郎。 「あのなあ、俺は一応怪我人だぞ。少しくらい労わってくれっつーの」 「だから、全部やれとは言ってないでしょーが。最初から手加減しなけりゃいーのよ」 「――ったく、人使い荒いなァ」 剣持と小柳が目を見張る。この男、本気で片腕のまま戦うつもりなのか!? そしてこの暁弥生は、それを止めるどころか煽るとは!? 「――無茶言うねェ。でもアタシらもいるんだから、無理すんじゃないよ。――そらッ!」 沢松達が完全に【変身】を終えた直後、亜里沙はブローチを毟り取って【七本槍】の足元に投げ付けた。――黄色に輝く玉は【雷神之珠】。単なる爆発物と違い、閃光と共に飛び散った雷が、わざわざ改めて吠えようとした日下部達を襲った。 その瞬間、紫暮が動いた。【二重存在】発動! いきなり二人に分かれた紫暮に一同が驚く中、彼はそれぞれ左右の掌に【気】を集中し―― 「「――破ァッ!!」」 二人にして同一人物である紫暮ならではの【掌底・発剄】の合わせ打ち! 日下部だけは辛うじて横っ飛びしたが、弾道上にいた三体の人猿が吹き飛ぶ。布陣が完全に分断され、攻守の備えなき団子状態が二つできる。 「今よ!」 またしても理解外の出来事だが、先陣を切った亜里沙に触発されて弥生が、僅かに遅れて剣持が飛び出す。 「させるか! ――剣持!」 「――ッッ!」 はっとして目を向けた瞬間、剣持は足をもつれさせて床に転がった。ガツンという重くて硬い音は、石と化した足が立てた音であった。一睨みするだけで、人間を石に!? だが、更に眼力を振るおうとした矢部に、既に間合いを奪った亜里沙の鞭が襲い掛かり、その眼前で炸裂音を響かせた。さすがに矢部が目を瞬かせると、瞬時に剣持の足が元に戻る。 「コイツ! ――ッッ!」 振り返り、眼力を送る矢部。しかし見えたのは亜里沙の背であった。――チャンスがある限り敵味方の情報を集めろ。そこから有効な作戦を組め――龍麻の教えを忠実に実行していた亜里沙は、矢部が視線を合わせない限り能力を発揮できない事を既に見抜いていたのだ。そして女子高生必携のコンパクト越しに、後ろ向きのまま一撃! 必倒の打撃ではなかったものの、顔面を鞭打たれて矢部が怯む。そして―― 「――ッシャアァッ!」 気合充分な美声が一閃、惚れ惚れするほどに伸びやかなフォームで弥生の飛び蹴りが矢部に直撃した。合気を使う暇もなかった矢部は面白いように吹っ飛んで芝生を転がる。それだけの成果に満足せず、弥生は着地と同時に猛然とダッシュした。 顔を上げたクワッと矢部が目を見開く。弥生は左手で視線を遮り、矢部の脚だけ見て間合いを詰めた。狙うはトンファーの一撃。これだけの非道を行ったからには、足の一本くらいは覚悟を――! 「――ッッ!」 矢部がくるりと背を向けた。その直後に吹っ飛んでくる、後回し蹴りならぬフレアコート! その縁に仕込んだ刃が常人では避けようのないタイミングで襲ってくるのを、さすが新体操選手の運動性能。胴を薙ぎに来た刃を前空転でかわす弥生。矢部はその動きを読んでおり、弥生の着地点に向かって跳んだ。両手とコートを広げた跳躍から、猛禽類の蹴爪攻撃のごとき連続蹴り! 爪先に仕込んだ刃が弥生の心臓目掛けて吸い込まれ―― 「――亜里沙!」 驚くほどの柔軟性で豊かな胸を反らし、セーラー服のみ切り裂かせて、逆にサマーソルトキックを矢部に叩き込む弥生。まさに攻防一体のキックを受けた矢部がまたしても吹っ飛び、そこに待ち構えていたのは――! 「お任せ! ――でえいッ!」 充分に溜めを利かせた、超音速の一撃! 抜群のコンビネーションプレイが矢部の顔面を直撃し、つんと澄ました高い鼻が砕ける。――【力あるもの】である亜里沙の一撃を受けてその程度で済ませた事は驚きだが、目蓋をも切り裂かれ魔眼を封じられた矢部は悲鳴を上げつつ身をくねらせてのた打ちまわった。 「――舐めるんじゃないわよ。この化け物ども!」 パン! と足を踏み鳴らし、弥生は挑戦的な口調で怒鳴った。――セーラー服とスカートが切り裂かれて酷い有様だが、美人で大柄なグラマーであることも相まって凄まじい迫力を生んだ。それは野生の闘争本能をもねじ伏せ、獣人どもの目を吸い付けた。 「元が悪ければ、化け物になったってこのザマよ! テレビの見過ぎで頭に黴でも生えちゃったんでしょうけど、人間辞めちゃった悪党に情状酌量の余地なし! ――極刑よ!」 驚くべき事に、自ら獣人に向かっていく弥生。地を駆けると言うより、妖精が風と戯れるかのような運足から、彼女の伸びやかな肢体が優雅に旋回した。 素の意味でケダモノに成り果てた故の性分――裂けたミニスカートから覗く美脚に目が行った人猿に、風の唸りを後に引く弥生の踵が吹っ飛んで行き、足を刈り胴を打ち、顎を叩き割った。空恐ろしいほど強烈な連続後ろ廻し蹴り〜【龍旋脚】。拳士郎のそれが巻き込まれれば吹き飛ぶ竜巻と評するならば、彼女の【龍旋脚】は空を切り裂く旋風か。軸足をめまぐるしく切り替え、身体ごと蹴りを振り出す中国拳法の【旋子 「こっ、このアマ!!」 竜崎が、沢松が吠える。――だがその瞬間を、この男たちが見逃す筈はない。 「――せィィッ!!」 「――ッシャァッ!」 竜崎の顔面が拳士郎の左正拳突きで潰れ、紫暮の横蹴りを腰に喰らった沢松がつんのめって顔面を芝生に打ち付ける。――相手の姿形が変わっても、彼らの格闘スタイルは変わらなかった。彼らは――【武道家】なのだ。 『――ブガアッ!』 沢松が吠えて跳ね起き、二足歩行態勢からの爪攻撃! 当たれば人間の首など吹っ飛ぶそれを【ナイファンチ】でいなし、正拳のつるべ打ちを見舞う紫暮。――と、これは狒狒の分厚い毛皮が打撃力を吸収してしまう。基本的に、分厚い毛皮とたるんだ皮膚を持つ猛獣に【対人用】の格闘技は無力なのだ。 『グオウッ!』 両手を床に付くと同時に、瞬間的に時速五〇キロに達する脚力から繰り出す体当たり! 紫暮は【三才歩】でこれをかわしたが、二五〇キロの肉弾を受けたオブジェが爆発さながら砕け、掛け値なしに地響きが轟いた。――これほどの体重差では、武道も無力か? 「――来い!」 【十三立ち】に構え、怒鳴る紫暮。――無力とか何とか、余計な事を考える必要はない。武器が空手しかないならば、その中でできる事を考えるまでだ。 再び二足歩行に構える沢松。そして――爪攻撃! 脇を締め上半身のうねりを利用するそれは驚くほど速く、巨大な足でしっかりと大地を踏みしめ、しかし軽やかなフットワークをも使う。狒狒の身体で――ボクシング!? 三度フックをかわし、しかし三発目で紫暮の頬が裂けて血の粒が飛ぶ。四発目で沢松は半歩分深く踏み込み、脇を開いたフックを放った。紫暮の首をもぎ取る一撃! 「――ッシャァッ!」 『ッッ!!』 出足の膝関節に弾ける、強烈な打撃! フックを掻い潜って放たれた、上段から下段に駆ける【弧月蹴】! 体重を乗せた瞬間を襲った打撃は狒狒の強靭な足にもダメージを与え、爪のフックが泳ぐ。間髪入れず左正拳回し打ちを毛皮の薄い耳に叩き込む紫暮。拳の生んだ圧力が鼓膜を通して脳を叩き、これは効いた。思わず耳を押さえた沢松の前で、紫暮の巨体が大きく捻れる。――後回し蹴り! 『ブガフッ!!』 技こそ【対人用】だが、それを繰り出すのは【魔人】の一人、紫暮兵庫。二五〇キロの巨体が地上から二メートル以上跳ね上がり、頭から地面に叩き付けられる。しかし――早まったか!? 鋭利な刃物ならばいざ知らず、単純な打撃だけでは狒狒の喉元を打ち抜くことは出来ない。地面に転がった沢松は四本の足で大地を捉え、石柱を砕く体当たりを―― 「――っそれだ」 毛皮を纏ったダンプに真っ向正面、大地にダイブする紫暮――必殺の【華厳踵】! 百キロと二五〇キロが激突し、体重で劣る紫暮は大きく宙を弾き飛ばされた。だが、体重で勝った狒狒とは言え、百キロを越える紫暮の【華厳踵】をカウンターで喰らってはたまらない。赤い鼻面が大きくひしゃげ、血が奔騰する。この肉体を得て以来、初めて味わう激痛に苦悶した沢松は、受身を成功させた紫暮が目の前に立ってもまだ喘いでいた。紫暮は腰を落とし、右正拳構えを取り―― 「――フンッッ!」 息吹を一つ、右拳に【気】を集中し――壇中にゼロ距離からの【掌底・発剄】! 生真面目な性格ゆえに短期間で見事に研ぎ澄まされた【気】は、狒狒の胴を傷付けずに貫き、衝撃を全細胞に行き渡らせる。獣の耐久力をもってしてもこれは抗し切れず、牙の間から粘っこい血が糸を引き、遂に沢松はその巨体を床に横たえた。 『テメエらァッ!』 【人間】との一対一で【仲間】を倒され、信じられないといった面持ちで竜崎が吠える。その眼前に迫るは風見拳士郎だ。 『ケェッ! どきやがれ!』 利き腕を使えない拳士郎と、顔面を潰されている竜崎――どちらが有利とも不利とも言えない二人の戦いは、竜崎が本性を現した事で完全に均衡が崩れたかに見えた。彼は筋肉のみか骨格まで、鼻や耳、目玉さえもゴムのようにぐにゃりと変形し、そのしなやかな手刀打ちは、腕全体が打撃部位のためにどう受けようともダメージを受け、その癖こちらの攻撃は筋肉の弾力性が分散吸収してしまう有様だ。それこそは伝説の魔獣【猩々 しかし―― 「甘いぜ!」 ふっと身を沈める拳士郎。――【チャバネゴキブリの型】! 手刀を掻い潜り、正面を向いたまま三本足で後退した拳士郎は、次いで槍のごとく真っ直ぐ突いてきた竜崎のパンチを【ナイファンチ】で捉え、その腕に【ハサミムシの型】〜飛び付き十字固めを仕掛けた。 (この俺に――関節技ァ!?) 【覇王館】でも侮れぬ相手としてマークされていた男が、打撃技以上に【対人用】の技を掛けてきた事に驚く竜崎。彼の肉体にはいわゆる間接は存在せず、筋肉の一部に剛性を持たせて擬似骨格を形成しているに過ぎない。その為彼には既存の格闘常識にとらわれない攻防が可能なのだ。確かに片腕というハンデを背負っている今、関節技は有効であろうが、そのくらいこの男に見抜けぬ筈が―― 『ッッ!?』 飛び付き逆十字は相手を寝技に引き込む技でもある。しかし腕が伸びる竜崎の前では、地面に転がったのは拳士郎だけであった。しかし彼は強靭な握力で竜崎の手首を捉えたまま、物凄い勢いで地面を転がり始めたのである。それはまるで獲物に喰らい付いた鰐のデスロール! いや、正にハサミムシ! 『ぐわわわわわっ!』 よもや今の竜崎にこんな事態があろうとは!? 拳士郎のデスロールは竜崎の腕を雑巾のごとく捻り、あっという間に筋肉の張力限界に至らせ、並の関節技と同じ効果をもたらした。そして砕かれる関節を持たぬ竜崎の場合は、捻れた筋肉がチーズのごとく裂け始め、腕全体が鮮血を噴いた。そして―― 『――ギイィ…ヤアァァァァッッ!!』 これが並の人間ならば、あるいは捩れの方向に転がって逃げる事も出来たかも知れない。しかし長く伸ばした手足が災いして捻れを逃がす事が出来ず、更に拳士郎の回転が速すぎた事もあり、竜崎は遂に腕を肩から捻じ切られてしまった。 「――舐めるんじゃねェよ、化け物。こちとら忍法帖シリーズの大ファンなんだ。そんな半端な技で粋がるんじゃねェ。山田風太郎先生に謝れ!」 実は結構気色悪かったものか、拳士郎は嫌そうな顔を隠しもせず腕を打ち捨て、今度は竜崎の足首を取った。そして今度は―― 「どっせーいっ!!」 本当に彼は空手家なのか? 片手だというのにとんでもない怪力で竜崎にジャイアント・スイングをかます拳士郎。それもただ振り回すのではなく、小鳥が捕らえた虫にするように竜崎をビタンビタンと地面に叩き付ける。【猩々】の柔軟性と瞬発力も単純な暴力を前にいかんともしがたく、竜崎はボロ雑巾の如く床に長々と横たわる事となった。 『く、クソォッ!』 紫暮と拳士郎に同時に睨まれ、残った人猿たちは泡を食ってナイフやスタンガンを抜く。気の弱い者ならばその異様な光景に縮み上がりそうなものだが、弥生は腰に手をやり、胸を張って宣言した。 「はん! ケダモノに成り下がった癖に、またそんな物を持ち出そうっての? 言っとくけど、今のあたしはちょっとばかり切れてるからね。死なない程度にしか加減しないわよ!」 つまり、この期に及んで、まだ加減をしてやろうと言うのだ。【人を超えた】と自負している獣人を相手に。 「弥生。いくらなんでも挑発し過ぎじゃない?」 「――良いじゃない、別に。亜里沙だって、こういう連中相手なら鞭の振るい甲斐もあるでしょ? 女を舐めるとどういう目に遭うか、たっぷり教えてあげましょ」 「――ふふっ、そうね」 パアンッ! と鞭が地面を打ち鳴らしたのが合図。 『畜生ッ! クソアマがァッ!!』 スタンスティックを振り上げ、喚き散らしながら突進してくる人猿。やはり、半端者は半端者だ。せっかく獣の身体能力を得ても、それを生かし切る知恵が働いていない。――生物的に最も脆弱な人類が有するたった一つの武器、【知恵】を捨てて獣になれとは、なんとも笑える思想だ。 「ホントにゲスよね。――イかせてあげるわ」 殺到してくる人猿を前に、亜里沙は一歩踏み出し、手首をしごいた。 空中の炸裂音と同時に、最前列にいた人猿三匹の顔面が内側にめり込んで吹っ飛ぶ。――武器を持つ相手ならばまずは自分の出番だ。弥生達ならばこの程度の相手など脅威ではないが、危険は最小限にせよというのが龍麻の教えだ。接近戦を主とする紫暮たちに背後の守りを任せ、鞭の間合いに入ったものから潰していく。獣の反射神経を持ってしても超音速の打撃を見切る事はできず、鞭打たれた者は一撃で戦意を喪失し、二度と脅威とはなり得なくなる。 ――龍麻に付いて行くと決めて良かった。亜里沙は痛切にそう思う。彼は自分を【正義の味方】などとは思っておらず、仲間たちにも偽善的な制約を強要する事はなかった。そして対テロ部隊であった彼は、テロリストたちの行う吐き気を催すような汚い手の数々をもレクチャーした。自分がその事態に直面した時の対処法に加え、時に自らがその汚い手を使う場合の心構えをも。 その結果、今の亜里沙は理性を保ちつつ闘える。【仲間】を気遣いつつ、自分の能力を最大限に活用できる。以前の自分であれば、こんな下衆どもなどなりふり構わずぶちのめし、半殺しを通り越して再起不能にしているところだ。当然【仲間】を気遣う余裕もなく、信頼も信用も育てられない。――龍麻は亜里沙に、【理性で制御された暴力】の使い方を教えたのだ。 「そらそらそらっ! いくらでもかかって来なッ!!」 威勢良く啖呵を切りながら、頭の芯は冷静…と言うより気分が軽く、リラックスしている。思う様鞭を振るいながら、かつてのようなドス黒い感情が湧き上がってこない。遠慮はしていないが、手加減も忘れていない。――不思議な高揚感。 暴力を振るう事は犯罪だ。今の亜里沙の行為も、広義で捉えるならば犯罪だろう。しかし最初に犯罪に手を染めたのはこの連中であり、それを取り締まるべき警察は動かなかった。そして今、犯罪の渦中にある自分たちは法律の加護を受ける事は出来ない。犯罪とは、【それが行われて初めて】犯罪だ。これから起きようとする、あるいは現在進行中の【犯罪】から身を護ろうとして手を出せば、それこそが【犯罪】と呼ばれる世の理不尽。だが龍麻はそんな理不尽など超越し、仕掛けて来た者に容赦しない。昨今の小悪党がすぐ口にするものとは違う――真の【弱肉強食】を知っているからだ。 【弱肉強食】は野生の真理だ。しかし弱いものとて、ただ一方的に食われてはいない。その持つ能力をフルに活用し、逃げる事も彼らの闘い方なのだ。小悪党が好んで口にする【弱肉強食】など、所詮は弱い者苛めだ。自分より確実に弱い者、法律や世間体といったしがらみに制約された者としか戦えない、最も惨めな連中だ。――本物の【強者】に出くわせば、食われてしまうのは彼らの方なのだ。 「ホラホラどうしたのッ!? それだけ雁首揃えてビビッてんじゃないわよ!」 こちらもまた、楽しそうに啖呵を切る弥生。トンファーが彼女の手の中で華麗に舞い、鞭打たれてなお牙を剥いた人猿に容赦なく止めを叩き込んでいく。それは正に、京劇女優としての彼女の当たり役、中国武侠伝に名高い男装の女剣士、十三妹 「残りはアンタだけよッ。おとなしく道を開けるか、それともアタシたちにぶちのめされるか、覚悟決めなさい!」 ぐい、とトンファーを日下部に向ける弥生。しかし弥生は、自分が無意識に【アタシたち】と言った事を醒めた頭で反芻 対する日下部は、パチ、パチ、とまばらに拍手した。 「素晴らしい。実に素晴らしい技をお持ちですね、皆さん。しかし惜しいかな、所詮は【自称】武道家の哀しさ。詰めが甘いようですね」 「……!?」 余裕のつもり――とは思いつつも、亜里沙は自分達から視線を逸らした日下部を攻撃できなかった。この男――他の連中とは一味違う。自分の攻撃は確実に日下部を倒し得るであろうが、同時に自分も確実に反撃を受ける――そんな矛盾した危機感を覚えるのだ。 「真の武道とは、命を賭けて追求する美。そして一度武道家が向かい合えば、美しき死の舞踏の果てに醜き者の無残なる死をもってのみ勝敗を決するもの。――愚かなる生を止める美徳も知らぬ半端者が、この日下部登喜雄を下せるとお思いか? 身の程を知りなさ――」 日下部がそこまで言った時である。唸りを上げて襲い掛かった黒い棒が彼の顔面を掠め飛び、次の瞬間、避けた位置に吹っ飛んできた蹴りが彼を弾き飛ばした。 「――うるさい! カマ野郎ォッ!」 いきなりトンファーを投げ付け、日下部がそれをかわす事も見越して蹴りを放ったのは弥生であった。しかし――言うだけの事はある。二段構えの不意打ちでも日下部は自ら後方に跳ぶ事で直撃を外していた。鼻が潰れて端正な顔が台無しになったものの、戦闘力が落ちるほどではない。ただし―― 「少女漫画の瞳キラキラ主人公じゃあるまいし、変なポーズと台詞でなに自分に酔ってるのよ! アンタみたいな変態ナルシストは三面鏡に顔突っ込んで【私が一杯ゴッコ】でもやってりゃ良いのよ! 外に出てきてレディコミウイルス撒き散らすな! XXXXヤローッ!」 思わず紫暮が一歩退くほどの弥生の啖呵。そう言えば彼女は、このテの男が大嫌いであった。 「あ、あなた…このバたしの顔に蹴り入れバしたね…! こど美しい顔に蹴りを…!」 「それが――」 蹴りを喰らった事より、蹴りを入れられた箇所こそ問題と言わんばかりの日下部に向かって、再び弥生が跳んだ。上半身を大きく捻って全体重に遠心力をも加えた、旋風脚! 「どうしたァッ!」 今度こそ逃れようもなく、強 ぱっと基本姿勢に戻り、反撃に備えた弥生であったが、日下部が本当に動かないと知ってさすがに眉根を寄せた。 「――おかしいわね? コイツ、こんな簡単に片付くようには見えなかったけど」 日下部の顔は大きく変形し、顎が砕けているのは一目瞭然だ。それでも弥生は、のこのこ確認しに行くような真似はしなかった。そして――過激。手元に残しておいたトンファーを日下部に投げ付けた。 「……」 狙い違わず水月に食い込んだトンファーに、しかし日下部は無反応。どうやら本当に気絶しているらしい。 「…な〜んか疑わしいけど、寝てるなら起こす事もないわね。――迎えも来たようだし、行きましょ」 日下部から視線を外さず、弥生はライトを点滅して合図を送っているヘリを指差す。亜里沙も鞭を構えながら頷き、出番のなかった男連中もそれに従った。ただ一人、剣持だけが【元】仲間に悲痛な視線を送り―― 「可愛い顔をして、乱暴な方ですねえ」 「――ッッ!」 突然背後から響いた声に、弥生は振り返る動作をそのまま肘打ちにしたが、それが空を切ると同時に浮遊感覚が彼女を襲った。――投げられた!? 受身を――! しかし浮遊感覚は途中で止められ、弥生はいつの間にか日下部に背後から抱きすくめられていた。そして、ニタリと笑う日下部。 「――このッ!」 足を真上まで跳ね上げ、爪先を日下部の顔面に叩き込む弥生。新体操と京劇をこなす柔軟性に飛んだ蹴りは、意表を突かれた日下部の顔面を強かに打ち―― (――えッ!?) 紛れもなく爪先が標的を捉えた感触があったというのに、その蹴り足までが抱え込まれ、いささかあられもない格好で片足立ちにされる弥生。最低でも鼻くらいへし折れている筈の男は、しかし傷一つない顔をぐっと弥生の頬に寄せてきた。そして―― 「ほう、さすが絶対均整の肉体の持ち主。素晴らしいラインです。それにストライプ柄の下着とは男泣かせな方ですね」 妙にしっとりした手で太腿からヒップまで撫でられ、弥生の頬がカアッと怒りで紅潮すると同時に、それがあり得ない三本目の手と知って背筋を怖気が走った。後頭部で頭突きを食らわせると、今度こそ確かな手応えと共に拘束が緩む。地面に身を投げ出す勢いで日下部の手を振り払い――中国拳法式の掃腿 「――シッ!」 空手道と新体操で培った身体能力! 伏せた姿勢から一気に伸び上がり、空中で身動きの取れない日下部の顔面に正拳突き! 翼なき人間は空中で身をかわす事は―― ――パァン! 「ッッ!」 肉打つ鋭い響きが走った直後、跳ね飛ばされたのは弥生の方であった。辛うじて受身を取って身構える弥生であったが、日下部の唐突な消失を知った直後、何者かが彼女を背後から羽交い絞め〜腕絡みと首絞めの複合関節技、プロレスで言うチキン・ウィング・フェイス・ロックにしてのけた。そして更に、唯一自由な彼女の右腕をも脇固めに極める手が―― 「「ふふふ、今度は逃がしませんよ」」 「――なんだ!? ヤロウが――二人!?」 弥生をして日下部の魔手から逃れられなかったのも道理。弥生を捕らえているのは、顔も体格も服装も、何から何までそっくりな二人の日下部であった。剣持は息を飲み、ミッキーと前田は激しい敵愾心に歯を剥き出した。 「コイツ――あの時の! ――紫暮ッ、コイツがアタシらを拉致った奴だよ! アンタと同じ【二重存在】を使うんだ!」 「俺と同じ?」 亜里沙と視線を交わし、次いで日下部を見る紫暮。なるほど、柔術の実力者とは言え、【魔人】たる亜里沙を真っ向から捕え得たのはそういう理由か。そうでもなければ、先の事件で仲間の一人、桜井小蒔が誘拐されたのを受け、龍麻に【実戦】格闘術を仕込まれている仲間の女性陣をどうこうできる筈もない。 「「同じとか言われるのは心外ですね」」 抵抗を続ける弥生の腕を容赦なく捻り上げながら、日下部は穏やかな微笑を浮かべながら言った。世の女性の多くを魅了できそうな笑みだが、見るべき者が見れば、それは爬虫類の笑みとでも言うべきものであった。 「「あなた方も並の人間よりはちょっとばかり面白い技をお持ちのようですが、その能力の使い方がまるでなっていらっしゃらない。神も力を与えるべき者を間違えたようですね。下賎の能力者風情がのぼせ上がらないで下さい」」 「ケッ、分裂症の変態がステレオで喋るんじゃねェ。――なにが神様だ。テメエみてェなナルシズムと嫌味で出来ている変態を飼う神様なんてゼウスだけで沢山だっつーの。とっとと弥生を放して俺にぶちのめされろ、スケコマシヤロー」 先ほどは成功した拳士郎の挑発に、しかし今度は乗ってこなかった。それどころか日下部は唇をきゅーっと吊り上げて笑う。その真っ赤な口の中に覗いたのは、一際長く伸びた二本の犬歯…。 「彼女さえ手に入れば失礼するつもりでしたが…スケコマシ…ですか。やはり下賎の者の考えなどその程度。我らの崇高な行いなど到底理解できませんね」 「はァ!? 崇高だァ!? 女のケツを追っかけまわす事がかよ?」 「その救いようのない下品さ。あなたが今まで暁さんを汚さなかったのは運が良かったとしか言いようがありませんね。いや、私に抱かれる事こそ、暁さんの天命であったという事でしょう」 ピキ! と音を立てるような勢いで弥生の額に青筋と蕁麻疹が浮かんだ。 「ざけんな! 誰がアンタみたいなXXX野郎に! ――ひゃうっ!」 ちろり、と弥生の首筋を舐め上げる日下部の舌。それは爬虫類のごとく二股に分かれ、彼女の白い項をくすぐった。 「神に愛されし者が自ら下賎に堕ちる事などないのですよ、暁さん。――あなたは我々超人類の母となるべき、特別な人間。いや、何も有象無象の能力者を増やす為にその美しき身を捧げる必要はありませんね。私の伴侶として、永遠の時の中で人類を支配するとしましょう。ふふ、これほど美しいカップルの支配者は、地球上の歴史においても初めてでしょうね」 その言葉は亜里沙の記憶を直撃し、恩人である久保早百合の、そして事件の最中で垣間見た悲劇の少女を思い起こさせ、彼女の怒りの炎に油をぶちまけた。そして拳士郎は―― 「うぅおおぉええぇぇぇっ。なんだその妄想超新星爆発はッ。話の次元が違いすぎてボケる事もツッコむ事もできんわっ!」 巨体を身悶えさせながら全身を掻き毟る拳士郎。【本気】の蕁麻疹が顔にまで出て、立っている事さえ出来ず地面を転げまわる。普通に殴られるよりこっちの方が彼には効いたらしい。 「そうやっていつまでも地面に這い蹲っていなさい。その方があなたにはお似合い――」 次の瞬間、弥生を捕まえている日下部の顔面が後に吹っ飛んだ。その口に飛び込み、前歯を全壊させたのは、弥生が使っていたトンファーであった。――何の事はない。拳士郎の身悶えは武器を拾うための偽装だったのだ。 間髪入れず、弥生は日下部の足を踏み付け、自由になった右肘を横面に叩き込む。理想的な角度で入ったそれは日下部の顎を外し、意識を脳外に弾き出した。そして弥生は尚絡み付く日下部の手を振り払ったのだが――地面に倒れた日下部が消えるや、彼女の前に無傷の日下部が出現した! 「フンッ!」 かつて龍麻が倒したと言う【二重存在】の遣い手は、二人同時に殺さねばならなかったという。紫暮は飛び出しざま【二重存在】を展開、一人は日下部に向かい、もう一人は弥生のカバーに走る。しかし―― 「ヤバッ! 紫暮ッ!!」 亜里沙の警告は、しかし間に合わなかった。紫暮の目の前で日下部が三人に分裂、否、拳士郎、亜里沙、弥生の前にも無数の日下部が出現したのである。 「――何ッ!?」 「ちいッ!」 とっさに身構えた紫暮、拳士郎であったが、前面の三人に意識をやった瞬間、背後に出現した日下部に羽交い絞めにされる。そして――ボディーブロー! 否、【寸剄】! 『いええェェィィやァッ!』 避けようもない状態から三人分の【寸剄】! 拳士郎は宙に跳ね上げられ、紫暮はそれぞれ壁と石柱を砕き散らした。それがどれほど強烈であったか、紫暮の分身は消えてしまい、信じがたいタフネスを誇る拳士郎も血泡を吐いた。 「ぐぐ…ッ!」 それでも身を起こす紫暮と拳士郎。当然のように、日下部が団体で迫っていった。 「「伝統の技も形無しですね」」 「「二人にしかなれない【二重存在】ごときで粋がらないで下さい」」 ずらりと並んだ同じ顔が、同じ声、同じ口調、同じタイミングで口を開くのは実に不気味な光景であった。しかし攻撃は――まず一人の日下部が貫き手を飛ばす。軽いが――狙いは目! 当然無視する訳にはいかず、顔を振ってかわす紫暮たちであったが、その位置に狙いを定めていた第二第三の日下部の突きが、蹴りがこの上ないタイミングでクリーンヒットした。再び血を吐き、地に伏す二人。 「ジ・エンド…ですね。所詮、そんな拙い力の遣い手が何人かかろうと、私に勝てる道理などないのですよ。――さて、あなたのナイトはごらんの有様です。今日からはこんな役立たずではなく、私があなたをお守りしましょう」 周り中から差し伸べられる、無数の同一人物の手。その輪の中心にいる亜里沙たちにとっては不気味を通り越して、いっそ滑稽ですらあった。 「死んでもゴメンよ。増殖ワラジムシ」 弥生は声のトーンを落として吐き捨てた。その目の光はまったく衰えていないが、この状況をいかなる達人が打開しうるか? 「暁さん。藤咲さんも。――自分らが突っ込みますから、そこから抜けてください」 「剣持さんは暁さんたちのサポートを。え〜と、小柳くん? 殿を頼みます。――後ろを見ないで、真っ直ぐビルの中に駆け込むんです」 ミッキーと前田がそれぞれ十三立ちに構え、防御の輪から踏み出す。その視線の先、約二〇メートル先に階下に通じるドアがあるが、今、この距離は無限にも等しく感じる。 「ちょっと、アンタらマジ? コイツ、ただの変態じゃないんだよッ!?」 「勿論知ってますよ。でも、これは男の意地って奴で」 「借りは返さなきゃならんです。やられっぱなしで、男の子やってられませんよ」 この日下部に挑むのは男の都合――弥生たちを逃がすのはついでに過ぎない。だから、振り返らずに逃げろ――。【普通】の少年とは言え【武道家】である二人の覚悟を見せられ、亜里沙たちは顔を見合わせた。 「ダメよ。そういう格好の付け方。――今時のヒーローはね、もっと欲張りでいーのよ。悪い奴は全部やっつけて、守るべき人は全部守って、自分も生き残って、完全無欠のハッピーエンドを狙わなきゃ」 そんな事を言う弥生に剣持は少し目を見開き――きゅっと唇を噛み締めて刀の鯉口を切った。単に激情に任せて剣を振るうのではなく、一人の剣士として、武道家として剣を振るう――その覚悟を彼女も固めたのである。 それから弥生は「あ〜あ」とわざとらしいため息を付いた。一度は拾ったトンファーを捨て、特殊警棒を両手に握り締める。 「そこまで格好付けられちゃうと、痺れちゃうわよ。――ねえ亜里沙。アタシたち、友達よね?」 「はァ? 何言ってんのさ。もっと上、マブダチよ、マブダチ」 「うん。それでね、ちょっとお願いがあるんだけど」 「…一分だけ目ェ瞑ってて、とか?」 弥生はちょっと驚いたような顔をした後、にっこりと破顔一笑した。 「やっぱ解っちゃった?」 「うん、解る解る。――だからさ、お互い変な遠慮はなしにしよ。リミッタ切ったって、アタシらの友情は変わんないよ」 ふう、とため息を付く弥生。――何の事はない。考えている事は同じ。抱えていた不安も同じだったのだ。【本気】になった自分を見て、嫌われる事こそ恐れていたのだ。 「それじゃ一丁――」 「カマしてやろうじゃん。――皆、用意は良いかい?」 まともに戦えば一人でも危険な日下部が周り中を取り囲んでいるというのに、亜里沙たちは吹っ切れた表情で背中合わせに身構えた。 「これは…まだ愚行を犯すつもりですか? 私に勝てない事はもう解っている筈。一度私の腕に抱かれれば、私を愛する事こそ輝かしい未来であると知れるというのに、無駄な事を」 「はんっ、勝てっこないからおとなしくアンタにヤられろって? 冗談じゃないわよ。レイプから始まる恋なんてレディコミの中にしかありゃしないし、チンピラが女の子を強姦してフツーに生きていられるなんてエロ漫画の中だけよ。アンタみたいなナメクジヤローにヤられるくらいなら、ドタマかち割って死ぬ方を選ぶっての」 「もっとも、その可能性はないね。増殖したって所詮アンタは一人。アタシらが本気を出せばホモ野郎の五匹や十匹、チョロいモンよ」 傍目には、いや、この瞬間肩を並べている剣持達にさえ、単なる強がりにしか聞こえない二人の言葉。だが明らかに先程までとは違う不敵な目が、【それ】をやってのけると語っていた。それを見て、今度こそ日下部の表情がはっきりと変わる。 「――今までは本気ではなかったという事ですか。この私を相手に出し惜しみをしていたと…?」 「あ〜ら、プライドが傷付いちゃった? ――当ったり前じゃない。後先考えず相手をぶっ殺す事しか頭にないアンタたちと一緒にするんじゃないわよ。長い人生、アンタたちみたいな連中の為に棒に振ってたまるもんですか」 「武道家だとか覚悟だとかって、アンタみたいなのが言っても白けるのよ。それだけ分身が出せりゃ、そりゃあ誰だってフクロにできるだろうね。でもそれって、アンタが一人じゃ戦えないチキン野郎だってコトじゃん。――タマ無し野郎がでかい口利いてんじゃないよ!」 日下部の端正な顔が見るも無残に歪む。目が吊り上がり、歯を噛み鳴らし、先ほどまでの余裕の仮面は見事に剥がれ落ち、どす黒い感情がそのまま表情に出た。 「この私を前によくもそこまで…。その程度の実力で私を見下した事、後悔させて上げましょう!」 ズダン! と一斉に床を踏み鳴らす日下部。それに呼応して彼の全身が赤い負のオーラに縁取られる。――赤のオーラは【敵】の証。亜里沙の目が敵愾心に光った。 「はんッ、自分こそ出し惜しみしてたんじゃないのさ。――見て驚け、ボケナス!」 亜里沙も軽く息を吸い込み、一気に【気】を解放する。ねっとりと絡み付くような日下部の【気】を跳ね飛ばす突風と化したのは、亜里沙の全身から立ち昇る青白い清浄なオーラであった。それは五メートルにも達する鞭の先端にまで行き渡り、鞭を生き物のごとく躍らせた。わお、と弥生が感嘆の声を上げる。 「ほんじゃアタシも――本気モード!」 両拳を腰に当て、ヒュゥゥゥッ…と【息吹】を行う弥生。すると――色こそ異なるが亜里沙たちと同じく視覚に訴えるオーラが彼女を縁取り、特殊警棒を某SF映画のライトセーバーのごとく光り輝かせる。――体系こそ異なるが、その実力、決して【魔人】たちに劣るものではない。 「クッ…!」 たった二人の、それもこんな少女がそれほどの力を秘めていた事に、さすがに動揺を隠せない日下部であったが、【それ】こそが自分の望むものだと凶暴な笑いを口元に浮かべた。――天才は、常に全てを掌握できる事になっているのだと。その時―― 「――ちょぉっと待ったァ!」 「ッッ!?」 せっかく入れた気合がしぼむ、緊張感皆無な掛け声。 「はっはっはっはっはっはっ! スカッと参上! スカッと怪傑! 人呼んでさすらいのヒーロー! 怪傑――のうてんき!」 馬鹿丸出しの声に、ダメージを受けた様子は全くない。日下部たちが一斉に声の主を振り返るが、やはりそこには馬鹿丸出しのポーズを決めた男が平然と立っていた。しかもその傍らには、呆れたように天を仰ぐ男まで…。 「暴力で他校を侵略し! 婦女子を誘拐し! あまつさえ分裂して殺人まで行う。――汝の正体見たり。外道照身、霊波光線! この怪傑のうてんきが成敗してくれる!」 言葉の内容はいざ知らず、その声の強さと張り――あり得ない! 日下部の寸剄は表面破壊よりも内部に衝撃を伝える中国拳法内家拳式だ。その三連撃を受けては、鍛え様のない内臓はズタズタになっている筈なのだ。しかしこの現実を前に、日下部は通俗的な事しか言えなかった。 「貴様ら…! なぜ…!?」 「――まだ二、三発しか貰っていないのに、なぜと言われても困るな」 まだアホなポーズを決めている親友の隣で、紫暮が打たれた腹の辺りをさすりながら応える。彼もまたダメージがあるようには見えない。むしろ少し切れた唇の方が痛そうだ。 「そうそう。いやあ、ニヤケ面がこれだけ並ぶと鬱陶しい事この上ないな。ま、実力はそこそこだが、基本的にはトリック重視の小細工派。人殺しも平気となりゃ、こりゃマジで手加減してやる必要ねェな」 「小細工…? 手加減ですって…? 貴様らまでがそんな事を…!」 「ああ、言うさ。――こちとら武道家なんでね、半端モンを相手にするのは大変なんだよ。人殺し大好きの外道なら即刻ぶちのめしてやるが、本気がどうの手加減がどうのと能書きが好きな奴ァ、どの程度ぶん殴りゃ良いのか解り難いったらありゃしねェ。ま、お前に関しちゃ――きっちりぶちのめしてやるから安心しろ」 今度こそ、日下部は顔中を口にして喚いた。 「ふざけるな! この私に手も足も出なかった半端者が大口を! そのザマで何が出来る!」 拳士郎はケケケ、と下品な笑い声を立てると、ブラブラの右手を軽く振って見せた。 「そのザマねェ。コイツがそんなに気になるのかい? ――お前さん程度の奴相手にゃ、手頃なハンデだと思うけどねェ」 そんな事より、と、拳士郎はまるで日下部がもはや敵でないかのように続けた。 「弥生ィ、亜里沙ちゃんもねェ、本気になるのは構わねェが、自称花も恥らう乙女がヤるとかヤらないとかタマ無しとかイ○ポ野郎とか、お下品な言葉使うなよ。青少年の夢が壊れるだろーが」 「な〜に言ってんのよッ。ケンちゃんがこんな下衆野郎に手加減してやるのがいけないんじゃないのッ。それに! 自称って何よ、自称って! ――ははあ、さてはこんな美女たちを前にして目が眩んだな?」 「ははは…。それにあたしゃ、イ○ポ野郎とまでは言ってないよ。そりゃ喉まで出かかったけど、さすがにあたしの口からイ○ポ野郎はマズイでしょ。だから言ってないだろ? イ○ポ野郎なんて」 「――きっちり言ってるじゃん!」 空気が弧を描く閃光に切り裂かれたのは次の瞬間であった。しかし拳士郎は上体を僅かに反らしたのみでそれをかわす。確実にスピードを増した攻撃を、先程よりも余裕をもってかわした事に日下部は気付いたろうか? 「いつまでも下らぬ漫才を! そうやって油断させようという魂胆でしょうが、二度も三度も同じ手は通用しませんよ! 死して後悔なさい!」 「――死ねば後悔などできんぞ」 ずい、と空気を押しのけるようにして前に出たのは紫暮である。思わぬ方向から来た圧力に押されて、日下部たちが二歩ほど下がる。拳士郎も「お?」と声を上げた。 「そんな事も解らんから、お前は武道家になれんのだ。――何なら、俺が遊んでやるぞ?」 「何だと…!」 もはや口調すら崩れ始めた日下部。拳士郎も弥生も驚いたように紫暮を見ているが、亜里沙だけはにっと笑った。 「オイオイ兵庫。お前ってそういうキャラじゃねェだろ」 「今はそういうキャラだ。今の俺にとってこいつは見過ごせん【敵】だが、それ以上に武道家の端くれとして、こういう武道を虚仮にする奴は許せんのでな。――半分ほど貰うぞ」 力を誇示するタイプではない紫暮には珍しく、拳の骨をバキバキと鳴らす。親友の変わりっぷりに、拳士郎は口笛を吹いて感嘆した。 「おーおー、兵庫ォ、か〜っこ良い〜ッ。――やったれやったれ。半分なんてケチなこたァ言わねェ。あのニヤケ面、全部纏めてぶっ潰してやれ」 「何言ってんのよッ。――ちょっと紫暮君。ホントはこいつら全部一人でやるとか考えてるでしょ? そんなの危ないわよ」 いつの世でも多勢に無勢は永遠の真理だ。そして紫暮はまだ、日下部を【殺す】気になっていない。【覚悟】を固めているようには見えない。言葉こそ濁したが、弥生は【それで勝てるのか】と問いかけたのだが… 「問題ない。――お前達は下がっててくれ。前田、森、彼女達は任せるぞ」 「それって格好付け過ぎよ。――男の子ってすぐそれなんだから。悪いけど、一人で戦わせるなんて真似、させないわよ」 「全部俺に向かってくる筈はないさ。そちらに向かった分は任せる。だが――お前達の闘いぶりは俺にはちょっと刺激が強すぎるんだ」 「へ…?」 謹厳実直の紫暮の口から出た意外すぎる言葉に、弥生の目が点になる。亜里沙もちょっと驚き、次いでニヤニヤ笑ってしまう。 「アンタの口からそんな言葉が出るとはねぇ。京一あたりに毒されてない?」 「否定はせんよ。俺も男だからな。――俺は媚びるだけの女は苦手だが、強い女性は尊敬する。男女差別とか言わず、男は女を護るものだと、俺にも格好付けさせてくれ」 今まで自分に距離を置いていた紫暮の意外な言葉に、今度は亜里沙の目も点になったが、紫暮は顔を上げて前に進み出た。その顔には特に緊張感はなく、平静眼を保っている。 「…舐めてくれますね。まさか本気で私に挑もうとは…! それもたった一人で…!」 「――そう。フェアに一対一 そして紫暮は静かな吐息から、緩やかに構えを作った。脚を肩幅に開き、両腕をクロスさせつつ胸を反らす独特の【型】。これは―― (【三戦 紫暮が取った【型】は、近代空手道〜特に直接打撃制を導入している空手道場では、もはや立ち方を教える為にしか使われていないとされる【三戦】であった。どっしりと安定した構えではあるが、フットワークに難があり左右からの攻撃には対処できないとされ、廃れつつある守りの【型】である。それをこの局面で、無数の分身を作れる日下部相手に使ったのだ。 (――いや、奴には【二重存在】がある。私が仕掛けるタイミングを見計らって分身を出し、カウンターを取るつもりか) 紫暮の構えを見て頭に上っていた血が下がり、余裕を取り戻す日下部。生死を分ける実戦の場で基本技に立ち返ったところで何の意味があるものか。ハッタリにしても、悲しいくらいに効果が薄い。 (こんな雑魚に時間はかけられん。急がないと【奴】が来る。それよりも暁を先に――) 「――来んのか?」 「ッッ!!」 突然、紫暮が移動した。五〇を越す目で見ていたにも関わらず、あまりに自然すぎる移動は日下部にさえそれと悟らせなかった。正拳突きが疾ったと知ったのも、一人が顔面を潰されて吹っ飛んだからであった。 紫暮はすぐに基本姿勢に戻る。龍麻と闘った時のような高揚感は皆無で、落ち着いたものだ。挙措にも呼吸にも乱れは全くない。 それが日下部の癪に障った。今の一撃を見ても、今まで紫暮が手加減していた事が判る。神羅覇極流柔術の実力を見せ付け、【超人類】としての分身の技も見せた。その上でこの男は尚手加減していたのだ。それは――自分を見下していたからに他ならない。 「――おのれ!」 怒りに満ちても技に乱れはない。先ほどの必勝パターン、四人同時攻撃を仕掛ける日下部。――同時に四方の敵を倒せるならば策は無用などという妄想は、虚構の世界でしか通用しない。合気道などの演舞に見られる多人数取りも【お約束】あっての事だ。今や顔面すら守れぬ空手ごときが、そして二人にしかなれない【二重存在】ごときがこの布陣を破れる筈がない! その程度の【力】で、この私を見下させはしない! 前面に位置する者が目潰しをかけ、それを避けた紫暮に後方左右から組み付く日下部。両手両足を押さえて滅多打ちにするつもりだ。紫暮はなぜか【二重存在】を出さず、あっさりと捕まり―― 『――ぐわッッ!!』 がっちりと捕まえた獲物が、手の中で爆発した。 紫暮に組み付いていた日下部たちの手の皮が、猛烈な摩擦熱で焼け焦げて飛び散り、【普通】に繰り出した正拳突きが、正面にいた日下部の顔面を砕く。そして――怯んだところに後回し蹴り! ガードする暇もないまま三人の日下部が壊れた人形となって吹っ飛んだ上、分身たちに激突した。 「――むうッ!」 残る日下部達に動揺が走る。紫暮は再び【三戦】の基本姿勢。しかも目は半眼にし、日下部をまともに見てさえいない。 「――舐めるな、空手屋ァッ!」 ダン! と芝生を踏みちぎり、正面の日下部が突っかける。僅かにタイミングをずらし、背後、右、左からも。反応が鈍ければ発剄を打ち込み、打って来れば合気で返す。この波状攻撃ならば―― す、と紫暮は基本姿勢を崩さぬまま前に出た。 「ぶごっ!」 胸前に構えていただけの紫暮の拳に激突する日下部。間合いの変化が自然すぎて対応できなかったのだ。残る三人の日下部も反射的に半歩分の間合いのずれを突き技で補おうとする。紫暮は振り返り、それがそのまま突きをかわす動作となり、何気なく差し出したような底足が日下部の膝を打つ。決して強くない打撃は、固定された瞬間の膝には重い一撃となり、日下部のバランスを崩す。倒れるのを堪えようとした日下部は分身と接触し、そちらの日下部もよろけさせてしまう。 後は簡単であった。気合いも洩らさず放った正拳突きが日下部の顎を二つ分打ち抜き、砕けた歯と共に意識を飛ばす。踏み込んだ足を軸にして振り返ると、既に遅れてやってきた日下部が突きを繰り出す瞬間であった。紫暮が半身になりつつ基本姿勢に戻ると、それは極めて理想的な受けとなり、日下部は突きの勢いを止められず顔面から地面に突っ込んだ上、そちらから向かって来ていた分身に激突してしまった。半歩踏み込んで弓歩 「――やっるぅ」 弥生が感心して指を鳴らす。 素人が見ればどこかおかしい、紫暮の多人数取りである。無数の日下部が殺意に満ちて攻撃を繰り出しているのに、紫暮の攻撃のみクリーンヒットする不条理。紫暮の動きは達人の演舞のごとく流麗であるのに対し、無数の日下部は自分の技さえ忘れたかのように蕪雑で無様。しかも紫暮の攻撃に自らぶつかっていくかのようなお粗末さ。それはまるで【お約束】に演出された【模範演舞】であった。 だが、拳士郎達や弥生には判る。空手を知らない亜里沙にも、紫暮がこの乱戦の中で理に適った動きをしている事が判る。空手の伝統的な【型】――【ナイファンチ】、【征遠鎮 紫暮が動く度、技を振るう度に、屋上にひしめいていた日下部がその数を減少させていく。ざっと百人ほどはいた筈だが、倒れた者が次々に消え、一分過ぎには約半分〜五〇人を割っていた。一撃一殺ではなく、巻き添えやミスを誘う事により一撃で三人から五人を倒しているので、紫暮は消耗もしていない。倒した者は消えてしまうので、立ち位置すら変える必要がなかった。 「――ふざけるな! なぜ当たらないッ! どんなトリックを使っているッ!」 その数が遂に二十人まで減った時、とうとう日下部は顔中を口にして喚いた。数の上では圧倒的有利なのに、焦りと屈辱、そして恐怖が思う様露呈し、端正な顔は二度と見たくないほどに歪んでいる。対する紫暮は変わらず【三戦】の構えのまま、静謐な表情を保っていた。真の――【平常心】。 「トリックなんかじゃねェ。これこそ【武】って奴さ」 紫暮の活躍が我が事のように嬉しく、拳士郎は浮かれた声で言った。 「な〜にが人を殺す為だけに極められた究極武道だよ。なにが自然に鍛え上げたダイヤモンドの筋肉だよ。たかが人殺しの技術なんか千年も二千年もかけて研究するほどのモンかい? たかが十数年しか生きてねェ奴に、そんな大層な筋肉が出来るかい? この平和な日本で人殺しを極めてどうする? 都会の真ン中で何をどうすれば【自然】に鍛えられる? それ以前に、人間にとって【自然な状態】って何よ? ――どいつもこいつも答えられる訳ねェよなァ」 「…ッッ!」 「そもそも格闘技って奴ァ、アンナチュラルの極致だ。爪も牙も角も持たねェ最弱生物が、同じ最弱生物相手に喧嘩する為にわざわざ作ったモンなんだよ。その気になりゃ釘一本でも核兵器でも人を殺せるってのに、そんなモノをやってる事自体不自然だろうが。自然だ不自然だって、言葉のニュアンスだけで良い悪いを決め付けるんじゃねェ。無農薬野菜だってちゃんと洗わなきゃ寄生虫に大当たりして健康に悪ィし、エコロジーの為に使えって言われてる再生紙だって漂白にゃ塩素を使うから環境に悪ィんだよ」 言葉は軽いが、内容は相当重い。剣持も小柳も、拳士郎がただの軽薄男ではないと知った今、彼の言葉に真剣に耳を傾ける。 「テメエはなんて呼ばれた? 天才か? 努力家か? 別にどっちでも良いけどよォ、物事にゃ【上達】と【下達】ってのがあるんだよ。こう打たれたらこう捌くってェ必勝パターンを覚えるか、さもなきゃ技に著作権はねェとか言って、どこかの誰かの技をパクって無敵を誇っていたんだろうが、そんなのは【武術】としちゃ下の下、ゲッゲゲーのゲーだ。武道の技にもしっかり著作権があってな、技を受け継ぐ資格がない奴は使っちゃならねェ事になってんだ。そっくり真似できるってだけじゃまだ【下達】、ただのパクリさ。盗品に無意味に刺激的な名前を付けて特許まで取ったって、劣化コピーに金メッキした偽ブランドがオリジナルを超えられるもんかい。名作をパクるだけの原作レイプ野郎が」 「き、貴様…!」 「時代が【武】を腐らせているんじゃねェ。テメエみてェに平和にどっぷり漬かった頭の弱ェ喧嘩好きが、スポーツマン相手に武術を悪用するから腐ってるって言われちまうんだよ。――子供だましの変な技使って弱い者虐めしか出来ねェイチビリ野郎が【本物】に勝てるか! 小学生からやり直せ!」 「ググッ…!」 己の出自に加え、身に付けた技まで否定され、しかも紫暮が使っている空手が秘伝や秘技ではなく、入門書に連続写真入りで載っているほどポピュラーな技であるという、反論しようもない現実が、日下部を肉体的にも精神的にも打ちのめし、己の技への信仰を揺らがせた。今まで一度も負けた事のない自分を、雑魚と断じていた男が圧倒し、生まれた時から死んでいたも同然の男までが馬鹿にしている。この屈辱、断じて受け入れる訳には行かない! しかし――この現実をどうすれば良い!? (――あの女さえ手に入れれば、こんな奴ら――) ザッ、と地面を踏み鳴らし、日下部は前に出た。――全員で!? 「ッッ!」 紫暮に向かったのは四人。だが残り十六人は、全てが弥生に向かっていった。――この期に及んで、まだ弥生に執着を!? 「――見え見えなんだよ! レディコミ野郎!」 亜里沙の手が一閃された直後、最前列にいた日下部たちの顔面がぱっと鮮血を撒き散らした。――超音速の鞭に、亜里沙の【気】が発生させた茨の棘が恐るべき彩りを添える必殺技、【ローズウィップ】。それは日下部の整った顔をただ一撃ですだれ状に切り裂いて見せ、日下部たちは悲鳴を上げて地面を転げまわった。 「いえェェイッ!」 左側面から回り込んできた日下部に対して、剣持の胴薙ぎの一撃! ――今までの剣持の斬撃ならば取られたかも知れなかったが、彼女は胴よりも更に下、膝の上を切っ先で掠めるように斬った。【剣道】では使用されず、刃があるからこそ使える斬撃。真に【実戦】であったからこそ思い付いた、剣持初の【実験】剣術に、二人の日下部が腿を切り裂かれて地面にダイブする。 しかし、残る三人は素手。特に、ミッキーと前田は初戦で日下部に負け―― 「借りは返すぜ――」 【実戦用】の前屈立ちで日下部を迎え撃つミッキー。彼は目の前の日下部に、数週間前に自分を襲った男、凶津煉児の面影をダブらせた。 【試合】ならば、フェアに闘う事こそ重要。相手を倒す目的はあっても、殺す目的はない。礼で始まり、ルールの中で全力を尽くして戦い、また礼で終わる。それが試合だ。ミッキーもそれで良いと思っていた。彼は武道家と言うより、スポーツマンであった。 だが、今は実戦の場。フェアプレーもスポーツマンシップも関係ない、殺し合いの現場。そしてあの事件では文字通り死の一歩手前…両腕と下半身を石に変えられてしまった。空手だけでは勝てない、実戦の恐ろしさを、じわじわと迫り来る死の恐怖と共に理解した。助かった後、空手をやめようと真剣に考えた事もあった。 その彼に、実戦の中にこそ武道の本質があり、武術とは勇気を養い恐怖に立ち向かう力でもあると教えたのが龍麻であった。同時に、空手に対する考え方は間違っていないとも言われた。身に付けた技は平和な時にはスポーツとして大いに楽しみ、異常事態時には武道たるのが望ましいとも。 そして、今こそ【武道家】であるべき瞬間。敵は明らかに自分より強い男が三人前――恐怖に立ち向かうべき瞬間だ。そして今は――命を賭けても守りたい人がいる。ミッキーは右拳にありったけの力を込めた。そして、先頭の日下部が今まで通りの必勝パターン〜目潰しを放とうとした瞬間―― 「――ッしゃあァァァッッ!」 【後の先】狙いの日下部に対してはあまりに無謀。後回し蹴りと見せかけたバックハンドブロー! 肘から先に送ったとは言え、すでに彼の間合いを見切っている日下部は容易くスウェイバックし―― ――ガコォッ! 「なっ!?」 顎を打ち抜かれ、吹っ飛ぶ一人目の日下部。あり得ぬ事態に驚く間こそ命取り、二人目の日下部に飛ぶ中足の前蹴り! 水月を深々と貫かれ、くの字になって崩れ落ちる二人目の日下部。だが三人目の日下部がミッキーに密着し、得意の【寸剄】を―― 「――でェイッ!」 ミッキーが鋭く身をよじる。日下部の掌底が外れ、【寸剄】が不発した直後、実に奇妙な事が起こった。身をよじった時の勢いで繰り出したミッキーの右フックが、まるで鞭のように日下部の身体を一周し、顔面に掌底が炸裂したのである。まったく予期しえぬ打撃に怯んだ三人目の日下部は、ミッキーの膝蹴りを受けて崩れ落ちた。 「馬鹿…な…! なぜ…!?」 【それ】に気付き、先頭を切った日下部の目が驚きに見開かれる。ミッキーの右肩が変形し、右腕がブランと垂れ下がっていた。なんとミッキーは自ら肩間接を外し、拳一つ分以上の間合いを稼いで日下部を幻惑したのであった。 「お前らみてェには行かないがねェ、切り札ってのは最後まで取っておくもんさ!」 本当は凄く痛いのを凶暴な笑いでごまかし、唸る左足刀! 先頭の日下部の顎が砕けて吹っ飛ぶ。 「うおっ…しゃァァァァァァァッッ!!」 分身とは言え、七本槍随一の実力者を三人纏めて倒し、ミッキーは腹の底から勝利の雄叫びを上げた。そして――脱臼癖をむしろ特技にしてしまえと言った龍麻に感謝した。 (――やったぜ、ひーちゃん!) その想いを共有できる男はもう一人いた。 「退け! 雑魚が!」 空気を裂いて襲ってきた手刀を前腕で弾き飛ばし、前田はするりと立ち位置を変えた。彼が対峙するもう一人の日下部が放った足払いが空振りに終わる。 一対一でも実力差があるのに、彼もまた二対一で、素手同士だ。傍目には圧倒的不利である。しかし防戦一方に務める彼には、龍麻の【指導】を思い返す程度の余裕すらあった。 初めて彼の【指導】を受けた時、前田の課題は二つであった。無駄なフェイントの封印、命中精度の向上。その後の【指導】でも、前田は命中精度の向上に全力を傾けた。それも通常の空手にはない、移動物体に対する修練。その効果は―― 「シュッ」 防戦一方から突然、ジャブを繰り出す前田。スピードは申し分ないが、正直すぎる一撃は簡単に日下部に捉えられ、脇固めからの関節砕きに―― 「うごおッッ!」 肘が固められる直前に大きく踏み込み、腰に溜めたままの拳を日下部の脇腹に打ち込む前田。固定された拳に全体重のベクトルが集中し、【ダイヤモンドの肉体】とやらの肋骨が二本纏めてへし折れた。 倒れこむ方は無視し、もう一人の日下部に向き直る前田。密着されるのを嫌い、牽制のリードパンチ! それがキャッチされた瞬間―― ――コツン! 「〜〜〜〜ッッ!」 日下部の脛に食い込む、前田の踵。必殺の一撃ではないが、絶妙なタイミングと打撃部位が日下部に呻き声を上げさせる。そして――狙い済ましたストレート! パワーを落とさぬままスピード、そして命中精度を高めた正拳突きは、日下部の顎を綺麗に外してのけた。端正な顔が実に滑稽なものに変わり――大本命の左正拳中段突き! 歯を食いしばれない状態で突きを貰った日下部はひとたまりもなく沈んだ。 【基本的な事だが、命中精度の向上は、急所への攻撃を容易にする。その時にこそフェイントを生かし、最も効果的な一撃を与えるのだ】 野球に喩えるならば、【打たせて取る】ピッチング。どんな達人でも、攻撃と防御を同時に行う事は難しい――龍麻の言葉が脳裏に響き、それを自分が具現できた事に小躍りしたい前田であった。 「ワァ〜オッ。みんなやるじゃない」 【ヤバい奴】相手に圧勝する一同を、手を叩いて喜ぶ弥生。その彼女にも日下部は向かって行く。その数三人。否――六人。 「しつこい人って、や〜ねッ」 少女一人に背後と両脇から三人がかりで組み付きに行く日下部と、あっさり組み付かせる弥生。しかし弥生が動いた次の瞬間、日下部は三人とも腰砕けになって地面に顔面から突っ込んだ。――【合気】ではない。基本の【型】〜【ナイファンチ】の構えを作っただけで大の男三人分の力を受け流し、崩し、投げ落としたのである。これこそ正しく古伝空手【心道流】、【ゼロの力】。何が起こったのか理解できず蹈鞴 「イイエェェェヤァァァァッ!」 「――シュッ」 肩を狙って来た【寸剄】に対し、入り身の下突きで応じる弥生。必殺にあらぬ日下部の【寸剄】は不発に終わり、軽く繰り出された弥生の下突きが日下部の脇腹にトスッと当たる。その瞬間―― 「――ぐぼおッッ!」 体格的に劣る女性の、それも軽くぶつかった程度の突きで、日下部がくの字になって吹っ飛ぶ。それがどれほど強烈であったか、日下部は地に落ちるのを待たず空中分解してしまった。 「――馬鹿な! 【寸剄】だとッ!?」 「当たり♪」 にこっと笑う弥生の腕が鞭のように振り出され、その【孤拳】を顎先に受けた瞬間、そちらの日下部も風車の如く弾け飛んで給水タンクに激突した。それも――【寸剄】だ。さすがに六人目の日下部は驚愕の眼差しを弥生に向けながら、大きく跳び下がる。 「な、なぜ一介の女子高生ごときが【寸剄】をッ!?」 「あらら、またそれ? 【発剄】なんて、きちんと練習すれば誰でも打てるようになれるし、どこからだって打てるのよ。それにアンタたちって、一発打つたんびにギャーギャーワーワーうるさいっつーの! 【爆発呼吸】なんて実戦で使うモンじゃないでしょーが!」 「ッッ!?」 日下部の顔が【本気】で困惑したのを受け、弥生ははあっと溜息を付いた。 「うわっ。その顔ってマジで知らないって事? ブルース・リーだって実戦じゃ「アチャー」なんて言わなかったのよッ」 ますます困惑の度を深める日下部に、剣持と小柳は驚きを隠せなかった。【覇王館】を裏切った身とは言え、彼女達にとって日下部は一目置くべき達人と認識していたのだ。それが、こんな醜態を… 「無駄だぜ、弥生。こいつらマジで、自分が一人前だと思い込んでやがるんだ」 「何…!?」 「【爆発呼吸】ってのは、呼吸法の基礎を身体に覚え込ませる為にわざと声をでかく張り上げてるのさ。形が整ったら、威力を落とさずに気合も動作も小さく、鋭くしていくもんなんだが、不破のオッサンにとっちゃ、お前らはまだまだ基礎も出来上がっていないヒヨッ子なんだろうよ。――格闘技に限った事じゃねェ。どんなものでも重厚長大に始まり、それから短小包茎に移行するモンだ。自称天才クンって奴ァすぐにそれっぽい形に仕上がるから、本質を理解する前に【知った】つもりになっちまう。マニュアル世代の悲しい性って奴さ」 くい、と親指で首を掻っ切る仕草をする拳士郎。本人は格好良いつもりなのだろうが、しかし周囲の反応は冷たい。 「ケンちゃん…【短小軽薄】でしょ」 「あン!?」 「【重厚長大】! 【短小軽薄】! ――下品な事言ってるんじゃないのッ!」 「…………ああっ!? …あはは、いや、コイツがあんまりチンケな事を連発するもんだからきっとそうだと思ってつい…」 バリリッ! と物凄い歯軋りが弥生を振り向かせる。その時既に日下部は両の鉤手を構えて宙に舞っていた。神羅覇極流柔術・拳の一法・天鷹双刃殺! 天より来襲する鷹の爪に、獲物はただ引き裂かれるのみ―― 「――ほいっ」 もはや是非もなし。必殺の気迫を込めて放った日下部の奥義を、軽く跳んだ弥生の後回し蹴り〜ローリングソバットが迎え撃つ。沢松と対峙した時とは逆――交差する鉤手を貫いた弥生の蹴りがヒットした瞬間、地面に叩き落されたのは日下部の方であった。見た目こそ近代技ながら、その実体は古伝の【型】――クーシャンク−。そこに内包される、物理的常識を覆す【ゼロの力】。現代科学ではいまだ理解の及ばぬパワーの発露に、人型の猛禽はなす術もなく地に這った。 「ざ〜んねん。見た目だけカッコ良くても駄目なのよ。技も、顔もね」 パチッ、とウインク一つ送ると、既に胸骨が粉砕されていた日下部は波に洗われた砂像のように崩れ去った。 「顔良いかァ、コイツ?」 「あら妬いてるの? 見た目だけなら割と良い方よ。中身最悪だけどね」 ふうん、と呑気に頷く拳士郎に、怒りの形相も露に襲い掛かる日下部。右腕の使えない彼を相手に三人がかりで、【合気】や琉球空手の秘伝を使われぬように手足の関節を極め、その不遜な顔面に突きを――否、目突きを――! スポッ! 『〜〜〜ッッ!』 絶対にかわされぬよう、鼻を挟み込む形で繰り出された三本貫手が空を切り、また、絶対の自信を持って放った貫手をかわした拳士郎の姿に、日下部は血相変えて飛び下がった。彼の腕を取っている日下部も、まるで怪物でも見るかのような視線を拳士郎に注ぐ。 「見〜〜た〜〜な〜〜ッ」 『う、うわあッ!』 たくましい肩の間、鎖骨の辺りからぎょろりと睨む拳士郎の目に、日下部は腰を抜かさんばかりに飛び下がった。コキコキッという軽い音が響くと、胸骨の間に引っ込められていた頭が伸びてきて常態に復す。――この男、身動きが叶わぬ状況を、首を胴体に引っ込める事で日下部の貫手をかわしたのであった。これは――まるで―― 「秘技【すっぽん形拳】。――はあ〜、すっぽんすっぽん」 亜里沙や剣持たちがあんぐりと口を開けて呆然とする中、おかしな構えで頭を胴に出し入れする拳士郎。この男、間接をどのようにしてか操り、頭を胴に出し入れできるらしい。 「そんなに驚くこたァーない。古伝空手にゃ筋肉やら骨格やらを操作する奥技がいくつもあってな。今のはタマを身体ン中に隠す【コツカケ】って奴の応用さ。――わざわざ化け物になんかならなくたって、武道にゃこういう面白技がちゃんとあるんだぜ?」 『ぐぬうっ!』 首が引っ込むくらいで何を――日下部は五指を揃えた貫手を放った。首だの手足だのが引っ込もうが、胴ごと破壊してしまえば――! 『んごおっ!』 貫手が届く遥か手前で、横殴りの衝撃に顎を外される日下部。残りの日下部が見たものは、拳士郎の右腕が瞬間的に伸び、自分自身の顎を外す光景であった。そして―― 「しゃきーん、ってね」 首の間接を自由に出来る者が、むざむざ肩を外されるものか。拳士郎は異常の消えた右手で、目を丸くしている剣持にVサインまでして見せた。 『馬鹿な…! 確かに砕いた筈…!』 「ざ〜んねん。ミッキー君の技と同じで、砕かれる前に外しておいたのさ。関節技ってのは確かに実戦的でおっかねェが、材木は折れてもタコの足は折れないぜ。自称天才の割に、頭固いねェ」 『ぐぐ…!』 日下部は屈辱に身を焼き――しかし敵わない。この場にいる誰一人として、もはや日下部に屈する者はいない。どれほど認めたくない事であっても、現実は残酷であった。 「こんな馬鹿な事があってたまるものか…! この私こそ真の武人、絶対無敵の境地に至る盟主たる筈だ。貴様らごとき半端武道家に負ける筈がない!」 「ケッ、これだけやられてま〜だそんな事言ってやがる。子、三日見ざればなんとやらって言葉もあるが、【本気】の【武道家】は一日どころか数時間、闘いながらの一分一秒でだって成長するんだぜ。【最強】だの【究極】だのって語った瞬間、そいつの成長は終わりなんだよ。――少なくとも、ちょっとした技で満足した時にテメエの成長は止まってる。ここで終わりだぜ」 残る分身は五人〜既に紫暮たちに数で負け、技においても圧倒されている日下部だ。このまま激突すれば、彼は間違いなく地に伏す事になろう。すると… 「…【奴】を始末する時までは使うまいと思っていたが…」 地の底からでも響いてくるかのような声で呟き、日下部は一同から距離を取って分身を全て消した。紫暮は静かに彼を見つめるのみだが、拳士郎らは互いに目配せする。厄介な事に、この自意識過剰な男は素質に恵まれているので、いくつ切り札を隠していても不思議はない。 「そうも言ってられませんね。――あなた方には最大限の死の栄誉を授けましょう! この日下部登喜雄の最大奥義! 喜んで受けなさい!」 日下部の身体から爆発的にオーラが噴出――否、本当に爆発した。 「――!」 紫暮は大きく飛び下がり、拳士郎たちも少女三人を背に庇う。爆発は限定的ながら屋上の一角を吹き飛ばし、給水タンクもぶち抜いて崩壊させた。もうもうとほこりが舞い、一方で水が波涛となって荒れ狂い、不意打ちを避けて紫暮は更に飛び下がった。そして―― 「ッッ!」 強烈な殺気が【空中】から叩き付けられ、一同は顔を顰めて頭上を振り仰いだ。 そこに、日下部がいた。正確には、日下部に似た異形のものが。 『ふはははははっ、驚いたか人間ども! この美しき肉体こそ我が本性! 至高の美を放つ天使! 神を目にした幸福を抱いて死ぬが良い!』 日下部を包む炎のような血色のオーラ。それは背から大きく翻る翼と化し、彼を魔空に舞う堕天使に変えていた。その羽ばたきの度に強い【陰気】を纏った風が叩き付けられ、紫暮ら一同を打ちのめす。 「ケッ、いよいよイカレてやがる。【忍法帖】の次は【フラッシュ・ゴードン】かよ。クイーンでもかけてりゃ最高だな」 相変わらずの減らず口を叩く拳士郎であったが、今度ばかりは緊張が浮く。弥生にしてもそうだ。日下部が空中にいるという事は――こちらには攻撃手段がないのだ。 無論、それこそが日下部の狙いであった。自らは返り血すら浴びる事なく、あくまで一方的に――それが彼のスタイルだ。 『どこまでも減らず口を! もはやお前達ごとき奴ばらに、我が手を汚す事などない。五千度に達する我が炎術、神の怒りを受けなさい!』 絶対に独り善がりの無意味なポーズ〜両手を大きく広げて翼を広げ、膨れ上がるオーラを翼全体に行き渡らせる日下部。それは赤く輝く羽の一つ一つと化して両掌に集束し―― 『――【神羅覇極流絶技【魔炎双龍牙】!!』 「――!」 日下部の翼が大きく羽ばたくや、翼の巻き起こした二条の竜巻に乗って紅蓮の炎が一同に襲い掛かり、そこに巻き込んだもの全てを砕き散らし、吹き飛ばした。――人間にはそこそこ広くても、広がり飛ぶ炎の前にこの屋上は狭すぎた。逃げ場など一切ない。 『フハハハハハッ! 骨も残さず燃え尽きたか人間ども! そうとも! 新しき時代を告げる神の前に、人間などゴミ屑にも等しい! そして私こそが次代の盟主、盟王なのだ!』 空中で翼まで震わせ、高らかに笑う日下部。もはや端正な顔には欲望と優越感のみの醜い表情が刻まれているばかりであった。 しかし―― 「いよッ、大統領ッ。ついでにハムレットでもやってくれよ。――大丈夫かァ、兵庫?」 呑気な声に、日下部の顔が派手に引き攣った。そして声が、もう一つ―― 「ああ。少し熱かったがな。――無事か、藤咲?」 「ははっ、ちょっとビビったけどね。助かったよ」 「――で! いつまで触ってんのよッ!」 【本性】を現したという日下部の最大奥義を受けて、四者四様、ダメージのかけらもない声を掛け合う。いや、一列に並んだミッキーに前田、剣持も小柳も無傷だ。警察の装甲車でも鉄屑に変えてしまえると自負している技が、たかが高校生の少年少女に通用しなかったのである。正確には、彼らの前に立つ二人の大男に。 『馬鹿な! 貴様らッ…なぜ…!』 拳士郎は眉を八の字にした弥生につねられていない方の手で人差し指を振り、チッチッチと舌を鳴らした。 「な〜にが最大奥義だよ。格闘漫画読み倒してる俺に【ダブルハリケーン】やら【ハイパーイカロスウィング】みてェな少年漫画系必殺技が通じるかっつーの。しかもこの期に及んでま〜だ女のケツに未練があるか。――ざけんじゃねェ! 俺がこのケツの傍にいる為にどれだけの犠牲を払ってると思ってんだ! このケツは俺のケツだ!」 「誰のケツが誰のものよ! それ以前に、マイナーなネタをダブルで持ち出すな!」 弥生の強烈な肘鉄を腹に貰い、グエッと呻く拳士郎。――演技ではない。彼らは本当にダメージを受けていないのだ。しかし、一体どうやって!? 「まァ、ちょっとはビックリしたぜ。【波○拳】くらいならいざ知らず、本当にそんな変な技を使う奴がいるとは思わなかったし。――アンタ、大道芸で食っていけるぜ」 驚嘆してしかるべき奇跡の技を――大道芸!? 確かに拳士郎はそう言い切った。日下部の額に青筋が浮かび、怒りと恥辱で顔が醜く歪む。 「――で、次は何を見せてくれるんだ? 【烈○拳】か? 【覇王○吼拳】か? なんなら、【スペ○ウム光線】でも【ん○ゃ砲】でも良いぜ? ちなみに【ん○ゃ砲】が最強だ。格闘漫画の常識では、必殺技名が短い方が勝つんだぜ〜」 『貴様…!!』 「あン? なに怒ってんだよ? ひょっとして必殺技を破られたのが悔しいとか、そう思ってるワケ? ――馬鹿馬鹿しい。【気】を飛ばすとか手から火が出るとか、格ゲーじゃ珍しくもねェだろうが。もっとも【廻し受け】がきっちりできりゃ、どれも大道芸だけどな」 拳士郎の声には、日下部の変形も技に対する恐怖も感嘆もない。それどころか、取るに足らないとでも思っているようだ。実際、予備知識なしの状態で打ち出された日下部の奥技を、彼の言葉を信じるならば基本技で防いでのけたのだから。 『私の技を大道芸などと…! 許しませんよ!』 「その喋り方も乙女座のシャ○様みたいで笑えるぜ。――どうでも良いけどよォ、たかが人間一人殺すのに、お前らの技って無駄だらけなんだよ。全身の骨を砕くとか腸を引きずり出すとか、挙句に五千度の炎だァ? ――いちいち胸糞悪ィんだよ。オーバーキルな技を使って、人様のミンチやら焦げ肉やら作って喜んでる奴が武道家気取るんじゃねェや。自称天才の死体愛好家 するりとジャンバーを脱ぎ捨て、拳士郎は空手の基本中の基本、正拳中段突きに構えた。腰をしっかりと落とし、大地に根を下ろした巨木のような構え。フットワークに難が云々――など、無視して余りあるほどの完璧と言って良い構え。 「一撃だ」 彼は、人差し指を立てた。 「派手好きなお前さんに、ヒーローの基本技って奴を教えてやるよ」 ――教えてやる? この日下部登喜雄に? 神の子に!? ガキン! と鳴る日下部の歯。地べたを這いまわる虫に等しい人類が、そうまでこの自分を馬鹿にするというのか!? 彼は怒りに顔を歪め、しかし拳士郎の不遜なまでの自信は一刷毛の恐怖を招き、いかなる武器や飛び技をもってしても届かぬ距離で燃え立たせた。 『――神羅覇極流絶技【鳳凰天翔・夢幻光翼陣】!』 大きく羽ばたいた翼から光の羽が――数百数千に及ぶ光の矢となって一同に降り注ぐ。――空を駆けるものに対する技は、【格闘技】には存在しない! 【魔炎双龍牙】を防いだ男たちとて、この全周囲攻撃ならば――! 「甘いんだよッ! ――【トルネードウィップ】ゥッ!」 【格闘技】にはなくとも【武器術】には対空攻撃が普通に存在する。亜里沙の【力】を受けた鞭が超音速の渦を巻く竜巻と化して、光の矢を孕む烈風を弾き飛ばす。最も鞭の勢いが弱い渦の中心をも円を描かせる事で絶対的な防御壁と化し、果たして日下部の最大奥技は遂に一矢たりとて一同に届かず、その全てを弾き飛ばされた。 『――こんな…バカなッ!!』 二度に渡って奥技を無効にされ、さすがに驚愕を露にした日下部に―― 「ちょ―――――――ッ!!」 誰が見ても無駄と思える、拳士郎の正拳突き! だが紛れもなくそこから生じた拳圧が日下部の翼を木っ端微塵に打ち抜き、宣言通り彼を地上に叩き落した。 「おおッ、【百歩神拳】…ッ!」 紫暮の目が驚きと感嘆に見開かれる。 先程紫暮が使った【発剄】とは明らかに異なる術理。【気】を打ち出す技ならば、ある程度間合いが離れていればかわす事も可能なのだが、今の拳士郎の技は単なる飛び道具の範疇に留まらなかった。強いて言うならば拳と打撃点を繋ぐ空気そのものが伝導体となり、限りなくゼロに近いタイムラグで【力】を伝えたのだ。――間合いなき拳。正に神業。 「はっはっは。とくいとくい。――やっぱりヒーローってのは、このくらい出来て当たり前だよなァ」 腕を組んでそっくり返り〜【得意の構え】で笑う拳士郎。しかし口調は軽いが、その痛烈な批判の棘が日下部に突き刺さる。 日下部が馬鹿にした拳士郎の幼き日の夢〜ヒーローになりたい。――生まれつき死の病に侵されていた彼だからこそ生じた強烈な願望と情熱は、心道流空手の鍛錬のみならず、中国は崇山少林寺に伝わる【井拳功】〜【百歩神拳】を完成させる為に最低三年以上行わねばならぬ、井戸を前にしての反復練習〜一見無駄に見える練習を達成させる原動力となったのだ。基礎練習すらままならぬ貧弱な肉体は、師の教えを忠実に守るだけで精一杯であった故に、結果としてより早く【武】の本質に近付く事が出来たのであった。 対して日下部は素質に恵まれてはいても、復讐心や破壊欲を原動力とした為に、科学的で合理的な練習と人体破壊に効果的な技のみを求め、【武】の本質に手をかけるどころか、可能性に満ちた人としての身さえ捨ててしまったのだ。 『ぐぐ…! まだ…負けた訳ではない!』 ぐん! と伸びる日下部の翼! ――寸分違わぬ分身と己を入れ替えて再生させたのだ。再び彼は空へと飛び上がり――その足首に蛇が喰らい付いて彼の飛翔を妨げた。 「アンタ! しつこいんだよ!」 藤咲の鞭だ。体重の軽い彼女一人ならば持って行かれたかも知れないが、二人に増えた紫暮が鞭を掴んでいる今、彼まで吊り上げる揚力は日下部にはなかった。 『ぐぬうッ!!』 反動を吸収できない状態でも【魔炎双龍牙】ならば撃てる! 亜里沙たちを焼き尽くすべく日下部の両掌が炎を宿した時である。 「へいナルシー! こっちだぜ!」 【カマドウマの型】でいっそ楽しげに突っ込んでくる拳士郎に狙いを変える日下部。その瞬間―― 「――のうてんフラーッシュッ!」 拳士郎の胸元から発せられる強力な光! 【百歩神拳】をも使いこなせる男がこんな小細工――セキュリティ・フラッシュライトを浴びせたのであった。辛うじて視覚は守ったものの、精神集中が途切れて炎がかき乱される。間合いを奪われ、せめて相討ちに――再び炎を放とうとした時、拳士郎の背から水色の影が飛び出した。彼を踏み台にして、弥生が跳んだのであった。 『ああっ!』 その一瞬、日下部は我を忘れた。格闘技と言うには余りにも美しい弥生の飛翔に。極めて理想的なフォームから繰り出される蹴りが確実に自分を砕くものと知ってなお、否、知ったからこそ弥生の蹴撃を【受けてみたい】と感じた。彼女の【本気】〜【本物】の武道の真髄に触れている技は、正にその瞬間、日下部を魂ごと魅了したのであった。 「破ッ!」 姿こそ優美でも、技は必殺! 槍のごとく真っ直ぐ蹴り出した左爪先が日下部の壇中を深々と抉り、間髪入れず右爪先が極めて僅かな弧を描いて日下部のこめかみに突き刺さる。正しく猛禽の爪――中国拳法、鴛鴦脚! (ああ…!) ただでさえ美しい蹴りなのに、【剄】とは一味違う生の【力】が体内二箇所で弾け、日下部はその清々しい衝撃に思うさま酔った。天駆ける天使が美しき地上の妖精に堕とされる。古の堕天使がそうであったように、全ては美しさの為に。翼をもがれた天使は地上に堕ちて新たなる命に―― 「のうてんき〜っくッ!」 『ぶがぎゃっ!』 技を喰らう事が幸福とさえ思える真の【武術】に触れられたという日下部の陶酔感は、間抜け極まりない掛け声と共に放たれたドロップキックによってぶち壊された。こちらも掛け声こそ間抜けながら、必殺の威力! 見るも珍妙な形に顔を潰された日下部は、跳ね石のごとく床に頭を打ち腰を打ちつつゴロゴロと屋上の隅まで転がっていき、車に轢かれた蛙のごとくベチャッと地面に張り付いた。そして今度こそ、完全に動かなくなった。 「正義は勝〜つッ! ――ってかこのヤロウ、最後に凄ェ気色悪い顔しやがって。精神的にカウンターを喰らったぞ」 真の技に触れられた感動から湧き出た至福の笑みは、拳士郎にとってはそのように見えたらしい。 「さあ? アタシの美しさに見惚れたんでしょ」 「いや、チラリズムの勝利だな」 「だ・か・ら! イヤらしい言い方するんじゃないわよ! もうっ、人を露出狂みたいに!」 「そうは言うがな、弥生。見せパンであろうとなかろうと、脳内補正で男は性欲をもてあます。確かにコイツは外道だが、趣味だけは良かったと見える」 「そーゆーのをセクハラって言うのよッ。こんなの見て興奮するなんて、男ってやっぱり馬鹿ばっかりよね」 スカートをつまんでひらひらさせながら軽蔑したように言う弥生。本人は下着ごときちょっとくらい見られても平気だと割り切っての行動なのだが、それでも実際にチラチラ見えてしまう縞パンは、この場にいる男どもには刺激が強い。――男って哀しい。 「ええい! 何を言うか! 煩悩なき男など男にあらず! たとえいつの時代、どんな状況であれ、チラリズムの前には性欲をもてあます。――そうだな兵庫ッ」 「…そこで俺を持ち出すな。――暁、その辺にしてくれんか?」 真っ赤な顔でそっぽを向き、鼻まで押さえている紫暮。――さすがに部員が小学生並ならば、その主将も折り紙付きだ。背が高いので下着までは見えていない筈だが、弥生の太腿を見ただけでこの有様である。 「そら見た事か。この謹厳実直質実剛健身体健康純情可憐な兵庫でもこの有様だッ。活発な中に醸し出されるさわやかなるエロスにこそ反応してしまうのが男の性ッ。そのような挑発行為で男の純情を弄んではなら〜んッ!」 拳を振り上げ訳の解らん事を力説する拳士郎であったが、次の瞬間には弥生のワイルドパンチを受けて吹っ飛んでいった。拳士郎の主張に思わず頷いていたミッキーと前田も、これを見てさすがに硬直し、一つ悟った。――女って怖い。だが――それがイイ! 「純情可憐ってトコが無茶苦茶引っ掛かるけど、いつまでも馬鹿言ってんじゃないわよッ! ――紫暮君もそっちのキミ達も、たかが女の子のパンツくらいで興奮するんじゃないの!」 「――っにしても、今時珍しいよ、紫暮。そりゃあ見せて回るモンでもないけど、鼻血出すほどのモンでもないよ」 「…すまん」 拳士郎言う所の謹厳実直以下略の紫暮としては、見せパンであろうとなかろうと刺激が強いのは確かなので、首の後を叩きつつ本気で頭を下げる。亜里沙と弥生は顔を見合わせて苦笑した。 「もうッ、そんなしおらしくしなくて良いから。――そんなコトより、早く亜里沙のイイ人も来てくれないかしらね。待ちくたびれちゃったわよ」 「もう、そんなんじゃないってば」 それを油断と謗る者はいるだろうか? 軽口を叩きあってなお最低限の警戒を怠らない亜里沙たちと違い、日下部を倒した事でほっとした剣持たちの背後から、いきなり殺気の爆発が襲い掛かった。ミッキーと前田は訳が判らずともとにかく横っ飛びしたが、剣持と小柳がその場に凍り付く。とっさに亜里沙が小柳の、弥生が剣持の手を引いたが、殺気の主は真っ直ぐ弥生に飛びかかり、剣持を庇った分逃げ遅れた彼女の腰をひっさらって宙に飛んだ。衝撃波が後から襲ってくるそのスピード! 急激にかかったGが弥生の意識をブラックアウトさせる。 「――弥生!」 やっと紫暮と拳士郎が振り返った時、彼女は屋上の中央まで連れ去られていた。 『――動くな。ネズミども』 腐汁が滴り落ちそうなほど怨嗟に満ちた声。だが、それも当然であるかも知れない。焼け焦げた胴着が【破王館】最高師範を示す紫色を残していなければ、それが誰であるのか親ですら判るまい。毛髪が全て焼け落ち、生赤い肉と黒く焦げた皮膚をまだらに貼り付けた頭皮。目蓋が失われ、今にも零れ落ちそうな両眼。そして鼻から左頬肉がこそげ落とされ、無闇に白く尖った歯並が剥き出しになっている。それが――階段に仕掛けられていたトラップに引っ掛かった、不破の末路であった。しかし… 『よくもここまで暴れたものよな。混乱に乗じたとは言え我が内弟子ども、七本槍をも打ち倒したか。少々、貴様等を甘く見ていたようだ』 事、ここに至ってまだ相手を見下す口調が改まらぬ不破。しかし、それも当然か? 常人ならば死んでいてもおかしくない怪我は、この瞬間にも炭化した皮膚が剥がれ落ち、その下に健康的なピンクの筋肉を盛り上がらせ、髪の毛すら再生しつつあった。弥生を拘束している骨だけの腕に、びくびくと蠢く筋繊維が絡み付き、復元されていく様は余りにもおぞましく、彼らをして吐き気を催させる。手下が手下なら、コイツ自身も――それも相当な能力者だ。亜里沙はかつて遭遇した、凶悪犯五人からなる合成魔獣をも凌ぐプレッシャーを感じた。 「不破館長…あなたは一体、何者なんですか…! そんな怪物だったなんて…!」 自分のミスで弥生が捕まってしまったと歯噛みしながら挑んだ剣持であったが、じろり、とできかけの瞼の下にある眼球に睨まれると、頬を引き攣らせて一歩下がった。あまりに異質な恐怖。その目が自分を捉えた直後、剥き出しの顎から涎が糸を引いた事も恐怖を煽る。 『怪物などではない。この肉体こそ、我ら武術家が到達すべき境地よ』 「そ、そんな事…! どう見たって怪物じゃないですか! そ、その子も食べる気なんですか!」 『――だから何だ?』 余計な事を知っていると言わんばかりに、不破の声が更に高圧的な響きを帯びる。黒々とした毛を生やした手で弥生の喉を掴んで仰向かせ、その白い首筋を、不破は奇怪に長い舌でねっとりと舐め上げた。それがどれほどおぞましかったか、弥生が意識を取り戻して身をよじる。 『弱肉強食こそこの世の真理よ。――いかに武術を極めたとて、それは所詮【対人用】の技術。脆弱な人間の肉体に留まる限り、真の【武】足り得ぬ。この地球上に現存するあらゆる生物を超越し、神の領域に至る者こそ真の武人! その頂点を極め、この惰弱なる世界に鉄槌を下す権利を得る者こそ真の【覇王】よ! その偉業の前には女なぞ腐肉の固まり同然。武人の戯れと慰みにしかならぬ堕落した生き物よ。武人に奉仕させてもらえる事、武人の種をもらえるだけでも感謝するのだな』 「…ッッ!」 身勝手と言うにも程がある、究極的男尊女卑の妄想を前に、剣持の顔が紙の色になる。一時期でも、本気で心酔し、目標としていた【武人】が、これほどまでに歪んだ思想の持ち主であったとは…! 「ヒッデェ言い草。――オッサン。アンタそれ本気で言ってるのかよ」 言葉こそ軽口だが、腹腔に怒りを滾らせ、拳士郎が皆を庇うように前に出た。 親しい者には解る。彼が、激怒している事が。弥生がその毒牙にかかろうとしている事は勿論、不破がその人外の【力】を溜め込む為、歪んだ思想の下に踏みにじってきた女性の、そしてその力を試す為に殺された者たちの数を思えばこその激怒であった。 「喧嘩好きが武道家を名乗ろうが、どっかの技をパクろうが、それが人間に留まっての事ならまあ良いさ。だがアンタのはやらせだのドーピングだのよりタチ悪ィぜ。そんなみっともねェ姿を晒すために、今まで何人殺してきた! アンタだって伝統を受け継いできた武道家だろうが!」 『ふん。人間らしくあれ、か。――くだらんな。拙い技を溜め込み、それを受け継いだけで強くなったと思い込んでいる愚か者どもが好みそうな言葉よ。凡人百年の修行も、天賦の才の前には塵芥同然。技も、時代も、変革期に現れる天才こそが具現するものなのだ。脆弱な人の肉体に固執する凡人どもに、来るべき新時代を統べる資格はない! 支配者面してこの地上に君臨する人類を喰らうものこそ、真の超越者よ! そのわしが、今まで喰ってきた肉の数など覚えておると思うか?』 ギリ、と拳士郎の歯が鳴る。紫暮の拳もまた、ギシギシと軋んだ。この男は、自分が殺して来た者たちの事など意にも介していない。そもそも、人としてすら扱っていない。 「【そう】なのか? ――アンタも【そう】なのか? 漫画だの映画だのに影響受けて変な超人願望持った、誇大妄想の殺人狂がよ!」 ダン! と地面を抉り、拳士郎が疾った。一瞬で間合いを詰め、弥生を押さえている右腕側の死角から必殺の左正拳突き! 「ッッ!」 ガシイッ! と骨打つ響きで空気を震わせ、止められる拳士郎の正拳! 止めているのは――不破の指一本!? 『妄想ではない。これこそ現実よ!』 ぶわ、と熱気を伴う不破の気が膨れ上がり―― 『フンッ!!』 「グハァッッ!」 気勢と言うには余りにも小さな――しかし生み出されたエネルギーは強烈無比。不破が指一本弾いて放射したエネルギーは拳士郎を弾き飛ばし、その余波だけで紫暮や亜里沙たちをも叩き伏せた。 「ケンちゃん! 亜里沙! ――このッ…よくもッ!」 捻られる手首の痛みも何のその、弥生は右手を不破から振りほどき、肘の廻し打ちをその顔面に叩き込んだ。――が、鉄の塊を叩いたような感触に、腕全体が痺れる。不破の顔面は鋼鉄で出来ているのか!? 『相変わらずお転婆な事だな、暁弥生よ。だが、わしは甘くはないぞ』 「くッ…あああァァァッ!」 目的が弥生に有らばこそ、日下部達も彼女だけは傷付けまいとしていた。しかし不破とて目的は同じであろうに、彼は弥生の胸倉を掴んで容赦ない平手打ちをかまし、怯んだ所に腹部への打撃〜臍下丹田に【寸剄】を放った。それが生んだ効果は――気丈な彼女をして放った涙混じりの悲鳴が証明した。 (あ、熱い! 熱いィ!) まるで体内に溶けた鉄でも流し込まれたかのような猛烈な熱さ! 弥生が一呼吸する度にそれは燃え盛り、内臓を焼き焦がすような熱を全身にちりばめる。耐えられない! 『熱かろう。それは熱を操る我が神羅覇極流柔術の奥伝、古くは平清盛暗殺にも用いられた技よ。たとえ水に浸かり、氷に身を閉ざそうとも、その熱はわしにしか消せぬ。聞き分け良くなるように少し苦しんでおれ』 不破が手を放しても、寸剄すら使いこなす弥生がなす術もなく地面に転がって苦悶する。武道を通じて痛みには強い筈の彼女だが、体内に生じた熱〜厳密には熱に似たエネルギーとなると話は別であった。嗜虐嗜好とは無縁に思えた不破だが、美しい顔を歪めて全身で身悶えする弥生の姿を見て、奇怪に獣じみた笑いが浮かんだ。 「非道な! 許さん!」 血の混じった唾を吐き捨て、紫暮は右に走った。僅かに遅れて、拳士郎も再び左から挑みかかる。互いに気心の知れた者同士、二人は左右同時に攻撃を仕掛けた。触れるのも触れられるのも危険ならば――! 「ッシャァァッ!」 「ちょ―――――ッ!」 どんな達人でも無視だけは叶わぬ【掌底・発剄】と【百歩神拳】! この同時攻撃に不破は―― 『フンッ…ハアァッ!』 先程の気の放射技――それを真下に向けて放つ不破。当然、衝撃波は地面に叩き付けられ、次の瞬間、瀑布の如く広がり飛んだ! 「ウオォッッ!」 「グヌウッッ!」 共に十字受けを間に合わせた紫暮も拳士郎も、踏ん張った足で十メートル以上もの斬線を地面に刻む。二人の放った【気弾】をも飲み込むとてつもない気の奔流。しかもこの技、【気】の放出に独特の癖がある。これは―― (緋勇の――【円空破】!?) 練り上げた【気】を真下に叩き付けて全方位に放射する攻防一体の発剄、【円空破】。この不破――明らかに龍麻の技を研究済みだ。そして気のキャパシティは龍麻や醍醐にすら優っている。これでは近寄る事さえ出来ない。 『どうした紫暮兵庫。それに、風見拳士郎。ここまで来れぬのか? ――貴様らが見たものこそ、非情の血によりて練り上げし我が闘気。人を殺した事もないスポーツマンである貴様らの憤怒の気など、そよ風ほどにも感じぬわ』 闇を圧し、声高く笑う不破。――先程の日下部以上に醜い、歪み切った笑いだ。人間を、否、生命体として自然な状態を捨ててまで他を見下す事がそれほどまでに楽しいのか? 獣が闘うのは生きる為、子孫を残す為だ。だが、目の前にいる【獣】は、食う為でもなく、子孫を残す為でもなく、ただひたすら自己満足の為だけに命を奪い、生命の尊厳を踏みにじる―― 「結構な事だな――」 血の混じった唾を吐き、紫暮はジャージを脱ぎ捨てた。そして、いつも肌身離さず持ち歩いている黒帯を締める。戦いに臨む時の――彼の正装。 「だが、貴様は間違っている。人の命を踏みにじり、この世に仇なしている。ならばこの紫暮兵庫! 今初めて、修羅となりて貴様を打ち滅ぼす!」 ザッ、と地面を踏み鳴らし、前屈立ちに構える紫暮。速攻重視の攻撃型の構え。 『ほう。力量差を知ってなお足掻くか。だが――気合いや覚悟だけで力が増すならば、この世に武術など存在せぬわ。【柔よく剛を制す、剛よく柔を断つ】――つまり力量が上の者には、何をやっても無駄だという事だ』 「長講釈ありがとよ――」 拳士郎もまた、立ち上がる。額が割れ、血の糸が鼻筋を伝い、地面に滴り落ちたが、不敵な笑いは口元から消えていない。 「俺らを捕まえてスポーツマンたァ、最高の褒め言葉だぜ。人殺し大好き人間に否定されたら、そいつは善人だって事だからなァ」 拳士郎も革ジャンバーを脱ぎ捨て、紫暮と並んで右拳をぐっと前に突き出した。 「俺は喧嘩が嫌いだ。弱い者虐めはもっと嫌いだ。それがたとえ、テメエらみてェなクズでもな。だが――人殺しが大好きな上に、女を痛め付ける奴ァ許せねェ! ぶっ潰すぜ! ――兵庫!」 「応ッ!」 コォォォォォォォォォ…ッ! 二人の口から、裂帛の呼気が迸る。 可能な限り穏便に、少なくとも【殺し】をせずに済ませようとしていた二人が本気になった、突風のごとき闘気の照射! 真の姿を見せた紫暮の全身が青白い炎のごときオーラに包まれ、拳士郎もまた、後光のごとく清浄な白い燐光を纏う。紫暮たちとは異なる、純粋に武術のみを昇華させて放つオーラ! それはお互いに交じり合い、相乗効果を起こし、不破の放つ妖気とぶつかるや空中で炸裂音を響かせた。 「鎧扇寺学園空手部主将、紫暮兵庫! 参る!」 「空手道【心道流】門下、風見拳士郎。――推参!」 じろり、と不破の目が二人を眺めやる。その目はまだ二人を格下の者と捉えながら、僅かな驚きと感嘆を交えていた。 『ほほう。貴様らのオーラがよく見える。――どうやら貴様らも選ばれし者であったようだな。だが、それは始まりに過ぎぬ。貴様らが【力】を振るうに相応しいか、その力量、見せてもらおうか』 ゴオ、と不破もまた、爆発的に妖気を解放した。 紫暮と拳士郎の【気】が盾となった事こそ幸い。二人の【気】を合わせたものよりなお巨大に立ち昇る血色のオーラが触れるところ、コンクリートも鉄筋も芝生も、全てが黒く腐り果てて崩れ去っていく。強烈無比な【負】のエネルギーを前に、無機物ですら【正】のエネルギーを破壊されて【死】に至ったのである。 そしてそれは、単なる虚仮脅しではなかった。 「ヒッ、ヒイッ! 何だよ――これはァッ!」 「――ッッ!」 小柳が悲鳴を上げ、ミッキー、前田、剣持が息を呑む。そして亜里沙は――かつて見た光景に怒りを触発されて歯軋りした。 沢松が、竜崎が、矢部が――この場で伏す【覇王館】の面々にどす黒いオーラが降り注ぎ、その身を更に禍々しく染め上げていく。沢松は爪が生物的整合性を無視して六〇センチもの長さに伸び、剛毛が更に伸びて分厚い鎧と化した。竜崎は口元の牙と上半身が異常発達し過ぎて二足歩行を捨てざるを得ず、しかし地を掻く爪が発達し、俊敏性が爆発的に向上する。矢部に至っては、紺のブレザーにプリーツスカート、ボブカットもそのままなのに、それなりの美貌であった顔は細かい鱗に覆われていき、金色の瞳が縦に細い爬虫類のそれへと変わっていった。スカートの下から伸びた尻尾が地面を打ち、瞬きをすると目蓋が下から閉じる様は悪い冗談のようだ。変身してなお【雑魚】扱いされていた人猿どもも、竜崎と同じく巨大な牙と爪を取り戻す先祖帰りを起こしていった。 『フフフ。我が闘気は弱きものを服従させ、支配する事も出来る。――止めを刺せぬ甘さこそが命取りよ。わしの【力】を与えしこやつら、貴様らに倒せるか?』 グワウッ! という咆哮を合図に、全ての変貌が終わった。 異質さ、プレッシャーの強さでは、やはり沢松らが圧倒的に上だが、それよりも【雑魚】扱いできた人猿どものレベルアップこそ最大の脅威。先程までの沢松、竜崎クラスが団体でいるようなものであるばかりか、見事に統率された動きで一同を包囲する。 「フン…! 思った通りだぜ。臆病モン」 「やはり、自分では闘わんか。どこまでも姑息な奴…!」 予想済みの事態ゆえ、即座に背中合わせに構える紫暮と拳士郎。――【兵法】を標榜する者は、必ず相手の裏をかこうとする。相手の力量に合わせて、武道に言う【後の先】を実行すれば、倒せない敵はない。解りやすく言うなら――ジャンケンの後出しに負けなしだ。 「藤咲――お前達は下がれ」 「紫暮! 弥生はッ!?」 「心配すんな亜里沙ちゃん。策はある」 前線に立ち、一同の盾になるポジションを取る紫暮と拳士郎。だがこちらの力量を測る為、人猿どもは無為に突入せず、包囲網をじりじりと狭めて来る。穴だらけの防御線を守るには下がる他なく、紫暮たち一同は屋上の隅に追い詰められた。 「こ、こいつら、マジで俺らを殺す気かよ…!?」 小柳が震えた声で言うのへ、亜里沙が厳しい視線を敵に投げかけながら応じる。 「違うね。ただ殺すんじゃなくて、嬲り殺しにするつもりさ」 気丈に言い放つ亜里沙であったが、今度ばかりは彼女にも余裕がない。肌で感じるプレッシャーの増大は、自分達だけでは手に余る事を如実に語っていた。 『その通りだ、小娘。貴様もただの人間どもとは異なるようだが、わしは貴様のような小娘は好かんのだ。せいぜいこやつ等の慰み者として引き裂かれるが良い』 「はんっ、武道家が聞いて呆れるねッ。誘拐はするわ人質は取るわケダモノにはなるわ、おまけに雑魚扱いのアタシらでも団体様でお相手かい? 犬なんかより鶏に化けた方がお似合いだよッ、時代錯誤のエロ親父が!」 『無駄な挑発などやめい。先程はうまく騙してくれたが、所詮は素人の浅知恵。今更どんな策を弄したとて、窮鼠に狼は倒せぬ』 不破が右手を上げると、人猿の包囲網が更に狭まる。お互いに二歩踏み込めば拳が届く距離。その時紫暮と拳士郎が目配せしあったのだが、しかし、亜里沙が―― 「何が狼だよ。どーせアンタも、【司教】とかいうクソジジイがいなきゃ何も出来ないんだろッ。あんなポン引きジジイに媚売って地上最強なんてほざいてんだから、アンタ、そーとーおめでたいよッ」 あの獣人事件に関わりがあるならば、当然あの正体不明の老人の事も知っている筈だ。そう考えての亜里沙の挑発であったが、それは恐ろしいほどの効果を生んだ。ただでさえ毛むくじゃらになりつつあった不破の顔が、正に本物の狼の如く鼻面が伸び、ずらりと並ぶ牙を剥く――ここまでならば亜里沙も見た事があるが、不破の場合は黒々とした毛が、まるでそれ自体が光っているかのような銀色に変色していったのである。 『――なぜお前のような小娘が【司教】を知っている?』 「はんっ。本人に聞けば良いじゃないのさ。自慢の合体オバケをぶっ殺されて、泣きながら逃げ出したって教えてくれるかもよ」 今度こそ、亜里沙から余裕が完全に消えた。今まで見た獣人よりも遥かに強いプレッシャーを放つ不破が、全身の毛を逆立てて怒りを露わにしたのである。黒と銀のコントラストが生み出す表情の恐ろしさは勿論、今から食い殺される様が想像できる殺気。単なる殺意に留まらない野獣の殺気に亜里沙は気圧された。そしてこんな時にはやはり―― (龍麻ァ…早く来てよ…!) そりゃあ、たった一人でここの獣人を全部片付けるつもりでいるのだろうから、手一杯なのは解る。しかしこんなピンチには颯爽と現れて護って貰いたい――そんな亜里沙の女心を否定する者はそうはいまい。 果たして神は、女心が理解できるか? 不破の憤怒の気を受け、肉体ばかりか精神まで怪物と化した者たちが一斉に牙を剥いた時、紫暮と拳士郎もまた己の気を更に開放した。闘気と妖気がぶつかり、火花を散らし、空気が渦巻く。紫暮の拳に淡い輝きが集束し、風見の背筋が尋常でない盛り上がりを見せ、もはや一触即発という時―― 「〜〜〜ッッ!?」 妖気に満ちた屋上を、異様な臭気の塊が吹き抜けた。 第六話閑話 武道 5 目次に戻る 前に戻る 次に進む コンテンツに戻る |