第六話閑話 武道 4
「――降りろ!」 居丈高に命令された上、肩を小突かれた紫暮ではあるが、手錠を掛けられた身で暴れても意味はないのでさっさと車を降りた。まだ目隠しされたままだが、車に乗っていた時間は三〇分足らず。予想だが、都内だ。 「――歩け!」 またも背を小突かれる。――周囲に群れている気配から緊張が感じられたが、紫暮がおとなしくしていると忍び笑いがさざめいた。他人の怪我を見て笑うような態度から、周囲の者の性根も知れる。だが紫暮は彼らが拍子抜けするほどおとなしく、居丈高な誘拐犯に付いて行った。 (――汗臭いな。畳とマット、革の匂い…ジムか道場か) 見かけはおとなしく、しかし嗅覚と聴覚に注意を向ける紫暮。――これも龍麻の教えだ。 エレベータを経由し、かなり高い階まで昇ったと思うと、紫暮を開放的空間の気配が包んだ。そして―― 「――よおッ、兵庫」 「――無駄口を叩くな!」 「うるせェよ、三下」 この傲岸不遜な口調でありながら、どこか反発の気を無くす陽性。目隠しの取られた紫暮の前にいたのは、周り中を武器持つ男たちに取り囲まれながら、胡座をかいてリラックスしきっている風見拳士郎であった。 「なんでェなんでェ、お前まで拉致られたのかァ。――ひでェツラにされちまって、みっともねェなァ」 「部員の命が惜しければ、と言われればな」 「――はあ、やっぱり俺と同じか。まっ、そうでもしなけりゃ、お前の顔に痣を作るなんて真似、この連中に出来る訳ねェ」 紫暮には悲痛な目を向けつつ、それ以外の者には小馬鹿にしたようにケケケと笑う拳士郎に、周囲の青いジャージたちが怒気を昇らせる。しかし、誰も手出ししようとはしなかった。それどころか脅えさえ見られるのは、彼に手を出す恐ろしさを知っているか、あるいは知ったためであろう。 「一体何が始まるんだ?」 そこにいたのは拳士郎だけではなかった。空手着姿の男達が他に六人。しかも、皆紫暮の知っている顔であった。今日の全国大会では準決勝で闘った、蘭山高校空手部員である。そして道場の隅には、紺の胴着姿に見張られる形で数名の中高年と学生服の少年少女がいた。皆、一様に暗い顔をしている。 「一種の賭け試合だと。――あそこにいる皆さんが学校の代表で、これからあそこの怖いお兄さんたち〜【七本槍】なんて子供向け特撮ヒーロー番組の悪役みてェな連中と戦って、負けたら学校ごとよそ様の所有物にされちまうんだとさ」 そこで拳士郎は、盛大にため息を付いた。 「二昔前の劇画漫画かっつーの。そんな茶番を仕掛ける方も受ける方もどうかしてるぜ」 別に声を潜めている訳ではないので、蘭山高校空手部員がいきり立つ。しかしそれを主将の金田が止めた。一九八センチ、一二〇キロの巨体を有する彼は、かの北辰会館の門下生でもある。若年層全国大会ベストテン常連の一人だ。 「…それで、俺やお前がここにいる理由は?」 「さあな。――大方、昼間の一件の逆恨みだろ」 「誤魔化すな。お前の幼馴染――暁弥生が何者かに誘拐されたと聞いた。その犯人がここにいるのだろう。うちの部員は、誘拐現場に居合わせて連れ去られたんだ。なぜ俺まで目を付けられたかは解らん」 拳士郎はちょっと驚いたように目を見開き、再びため息を付いた。 「ま〜た拉致監禁脅迫コンボのヘッドハンティングかよ。まったく、こいつらってば救いようがねェくらいアホ揃いだな。【覇王館】なんてダサい名前は辞めて、ショッ○ーかデス○ロンに改名しろよ。――って事は、ひーちゃんも?」 龍麻の名を聞いた瞬間、紫暮が表情を険しくしたので、拳士郎は不遜な口調を改めた。 「何か――あったのか?」 「う、うむ…それが…な…」 紫暮がこれほど言葉を濁すのは、女性関係の下ネタを振られた時くらいであると知っている拳士郎は、余程の重大事が龍麻の身に起こったのを悟った。しかしそれは紫暮の口から語られる事はなく、誰も咎めなかった二人の会話に、妙に艶っぽい女の声が割り込んだ。 「――何を好き勝手に喋っているのかしら?」 この二人に何も言えなかった青ジャージたちを叱責し、次いで世の中全てを見下しているかのような視線で紫暮と拳士郎をねめつけたのは、真っ赤なルージュがやたらと目を引く女…少女であった。ただしブレザーにプリーツスカート〜高校の制服を纏っているから少女だと解るだけで、黒のボブカットにマッチした化粧の濃い顔立ちは酷く大人びている。背は高くないが出るべき所は出て、動作の一つ一つがやたらと蟲惑的だ。マゾッ気のある男にはたまらなく魅力的であったろう。 しかし、拳士郎はあからさまに嫌な顔をした。 「ふん。二時間ドラマ系悪女のご登場かい? 矢部ちゃんよォ」 女好きであると自他共に認める風見拳士郎でも、さすがに例外はあるらしい。【覇王館】において【七本槍】と呼ばれる精鋭の一人、矢部朱火 「相変わらず締まりのない顔だこと。愛しの弥生ちゃんに相当骨抜きにされたようね」 「お前も相変わらずサドっ気がムンムンしてるねェ。さっさとその道にデビューしたらどうだい?」 「ホホホ、その減らず口も変わらないわね。でもこんな所まで来て、いつまでその態度が続く事か。調子に乗ってると、このお友達みたいになるわよ」 澄んでいてもどこか嫌悪感を誘う笑い声を立て、矢部朱火は親指で背後の男を示した。 「――ッひーちゃん!?」 それは、本当に緋勇龍麻であったか? この季節では目立つ事この上ない彼のトレードマーク、ロングコートがかぶせてあるからこそ龍麻であると判ったが、顔面は勿論、コートの下をほぼ全身、赤いものが滲む包帯で覆い尽くし、左腕を三角巾で吊られ、両足もギプスで固められて、車椅子に乗せられていたのであった。一体どれほどの怪我を負わされたものか、彼の全身は咽返るほど濃い血と消毒液の臭いを纏っていた。 「ちょっとばかりはっちゃけ過ぎたみたいでね、この有様よ。昼間は館長相手に無礼を働いていたようだけど、実際はこんなもの。沢松も鈴奈も、こんな男に虚仮にされるなんて情けないにも程があるわ」 矢部はさもおかしそうに言い、後から続いて入室してきた剣持鈴奈はギリっと唇を噛んだ。しかし拳士郎にはそんな光景は見えていない。達人達さえも唸らせるあの龍麻をどうやって、という疑問が頭の中を駆け巡っていたのである。 その時、拳士郎言うところの茶番の仕掛け人が姿を現した。 「――全員揃ったようだな」 周囲の空間が歪んでいるような錯覚すら覚える、高圧的な闘気。覇王館館長、不破弾正は鋭い視線で周囲を睥睨 その視線は、満身創痍の龍麻にも注がれた。 「貴様は緋勇の小倅か。しかしその傷は――何があったか報告せい」 龍麻の背後から、黒ジャージ姿が進み出た。龍麻を襲った暴漢の一人であるが、手首にテーピングしている。背後の黒ジャージ集団も指や頬にバンソウコウや包帯を巻いていた。 「報告します。緋勇龍麻並びに紫暮兵庫の確保に成功しました」 「それは解っておる。その怪我は何だと聞いている」 「はい。この二人を捕らえる際に抵抗を受け、無傷での確保を断念、独自の判断で車両にて撥ねました。その際に右膝蓋骨、両足首、左手甲部、右親指と人差し指、左肘と顎を骨折し、右眼球を破損し、一時救急病院に収容されたものの、そこから連れ出してきた次第であります。――我々の行動に関して、目撃者はおりません」 ざわ、と空気が震えた。 それが、全身を覆う包帯の理由か。驚いたのは蘭山高校の選手とその関係者だ。意外だったのは、驚いた者の中に剣持がいた事であった。 「ちょっと…そんな事までしたの?」 確かに沢松が昼間、龍麻に恥をかかされ、【覇王館】は面目を潰される形となった訳だが、それでも車で撥ねて、再起不能必至の重傷を負わせたという言葉を聞き咎める剣持。元々この男たちも、今の蘭山高校と同じく【死合い】に負けてから【覇王館】傘下となった身だ。スポーツマン的な甘さはいけ好かないが、そんな残虐さまではなかった筈なのだ。剣持は彼らの【教官】である矢部朱火を嫌そうに眺めた。 しかし【破王館】側で不快感を露わにしたのは彼女だけで、不破は僅かに眉を顰めた後、なんとも怖い笑みを浮かべた。 「よくやった。興には欠けるが、あの緋勇の息子を打ち倒したか。――矢部に感謝するのだな。お前達もこれでようやく半人前になれたという訳だ。褒めてやろう」 「はッ、ありがとうございます」 黒ジャージ姿は深く頭を垂れて引き下がろうとしたが、その袖を剣持が掴んだ。 「待ちなさいよ。あなた、本当にコイツにそんな真似をしたの?」 「…ああ。それがどうした?」 「どうしたって…自分で何言ってるか判ってるの? そりゃああたしだってコイツは気に入らないけど、車で撥ねてこんな重傷を負わせたですって? あなたそれでも武道家なのっ? いくらなんでもやり過ぎよッ」 いかに腕の一本もへし折るつもりでいた【敵】とは言え、彼女にはそこまでする気はなかったのであろう。しかし周囲の反応は冷たかった。一様に【何言ってんだ?】という目を彼女に向ける。 「手段を選ばず連れて来いという命令だった。そのために必要な事をした。それだけだ」 やや吐き捨てるような口調は、彼らにしても本意ではないという事か。しかし剣持がなおも食い下がろうとした時、不破がじろりと彼女を見据えつつ口を開いた。 「何か問題か? 真の実戦においては何を使おうとも勝つ事こそ至上。相手を上回る武具を揃え、隙を突き急所を攻めるは常道よ。そして一度拳を交えたならば、獣となりて敵を打ち滅ぼすのが真の武。――それこそが飛鳥の時代より人を殺す事のみを追求して練り上げられた最強の武術、神羅覇極流合気柔術の求める【武】の境地よ。お前とてそれを実践してきた身であろうに――不服か?」 「い、いいえ! 滅相もありません!」 慌てて首を横に振った剣持であったが、控えの座に戻る際、ちらりと龍麻を見た目には確かに悲痛な色があった。それと、困惑が。敵対したのは事実でも、そこまでする必要があったのかという、ある意味素朴な疑問であった。 そこに、高音で金属質な女の笑いが重なった。 「ホホホ、鈴奈ったら、まだそんな甘い事を考えているようね。武道家たる者、一度敵として向かい合ったならば、完膚なきまでに叩き潰してなお油断などしないものよ。――もっともこの男、もはや気にする必要はないけどね」 優美だが、どこか媚の混じる礼を不破に向け、矢部はするりと龍麻に近付いた。そして――いきなり車椅子を蹴飛ばした。女の蹴りとは思えぬ威力の前に車椅子が倒れ、為す術もなく床に転がる龍麻。蘭山高校の面々から押し殺した悲鳴が上がった。 「むうっ!」 紫暮が立ち上がりかけるが、彼の眼前にも黒ジャージの杖が伸びてくる。そして、低い恫喝。絶対的優位にある者が出す声。 「おとなしくしていろ。仲間の命が惜しければな」 「この…! 卑怯者どもめ…!」 人質がいると何もできない――先の事件で龍麻が言っていた言葉が重くのしかかってくる。冷酷非情になり切れぬ限り、本当に何もできない。また、冷酷になったところで現状を打破できるのか? 自分は、これほど無力なのか!? 「呻き声も上げないとはさすが――とか思う? 生憎、まだ麻酔が効いているから騒がないだけよ。でも気に入らないわ。コイツは右京のオモチャにされるべきだったのに、こんな甘ちゃん相手にやられて、今は痛みを知らずに済んでいるんですもの」 全身骨折で身を起こす事もできない、顎も割れているという相手になんという真似をするのか、矢部は龍麻の頭を靴でゴリゴリと踏みにじった。気に入る気に入らないという問題でも、恋人の敵討ちという訳でもない。矢部は真性のサディストであった。 「――ちょっと! やめなさいよ! そんなの、サムライがする事じゃないわ!」 それに激昂したのは紫暮だけではなかった。居丈高ではあっても心根は優しいのだろう。剣持の怒声が響く。しかし矢部はそんな彼女をせせら笑った。 「あら? あなたまた【七人の侍】気取り? 強気をくじき、弱きを助け、悪にも情けをかけ――それが元で友達がどうなったか忘れたの?」 「――ッッ!」 「牙をなくしても毒蛇は毒蛇。災い為す者に情けは無用よ。身を砕き、心を折り、一切刃向かう事ができなくなったのならば、見せしめとして生かしておいてやるのも一興だけどね。――私の靴をお舐め」 龍麻の顎を爪先で持ち上げる矢部。麻酔が効いていなければ激痛が走っているところであり、場合によっては骨が欠損し、顔そのものが変形する。それが解っていて、彼女は容赦なく龍麻の頬を爪先でこじり上げた。 「さあどうしたの? 今なら痛くないんでしょう? さっさとお舐め。それ以上痛い目に遭いたくなかったら、喜んでお舐め!」 相手が弱者なればこそ、心底嬉しそうにもヒステリックにも聞こえる声で怒鳴り、ぐいと靴を突き付ける矢部。イカれてる…紫暮や拳士郎、蘭山高校の一同が息を詰めて見守る中、龍麻の口が開いた。 「……ッ!」 舐めた…! 矢部の靴を…! およそ人であれば、自分の靴でさえできないであろう行為を強要され、それに従ったのである。矢部は嬉しそうに――凄まじく嫌な哄笑を放った。しかし―― 「おいおい、その程度で安心できるかよ。今はそんなでも、館長に暴言を吐いて沢松に恥をかかせた奴じゃねえか。きっとハラワタ煮え繰り返ってるぜ」 のっぺりした馬面の男――【覇王館】七本槍の一人、【凶拳】竜崎 「――くっせえな、この野郎。鼻が曲がるぜ」 犬のようにひく付かせた鼻をつまむ竜崎。重傷を負わされたばかりの身で消毒液の臭いを罵倒される謂れはない筈だが、竜崎はいきなり龍麻に唾を吐きかけた。 「……」 怒りに歯を噛み鳴らしたのは紫暮だけで、龍麻は身じろぎもしなかった。 「はん。そういや、目が見えねえんだっけか。だがこれなら解るよな」 まだ龍麻に疑わしげな目を向ける竜崎は、ズボンのジッパーに手をかけた。 「ちょっと! 何をするつもりなのッ!?」 見咎めつつもさすがにこれは直視できず、剣持は視線を逸らしながら声を上げる。しかし衆人環視の中、竜崎は気にした様子もなく己のものをつまみ出した。 「こいつも立派な【兵法】さ。少しでも反抗心が残ってりゃこいつは無視できねえ。目の前にいる奴が無防備となりゃ尚更だ。動けなくたって、その気がありゃ否応なしに反応するもんさ」 そして竜崎は、ここが道場であるにも関わらず、小便を龍麻にぶちまけた。 「……ッッ!」 大量のビタミン摂取の影響か、色の濃い尿が龍麻の頭からかけられ、包帯を黄色に染める。あまりに酷い屈辱的行為に蘭山高校の面々が息を呑み、口元を覆う。しかし龍麻は僅かに身じろぎしたのみで、尿をかわそうとさえしなかった。 「あ〜、こりゃ駄目か。ここまで無反応となると、完全にイッちまってるな。――なんてヒドイ奴らだ。ボーリョクはいけないよ、キミタチ」 恐ろしく自分勝手な事を言い、ジッパーを引き上げた竜崎は、とどめとばかりに龍麻を尿溜まりに蹴り転がした。ビチャッと尿を跳ね散らかした龍麻は、どこの傷が痛んだものか身を反り返らせて痙攣する。――正に悪夢の光景であった。剣持も多勢を相手に一歩たりとも怯まなかった彼を見ているだけに、戦慄を禁じ得ない。そこにいるのは不遜な少年格闘家ではなく、もはや日常生活すらままならない廃人であった。 「ホホホッ! 何て良い気分。弱い者が己の分を弁えて額づくのは良い事よね。――良く見ておきなさい。これが真に力ある者に逆らった者の末路よ。この惨めな姿を良く焼き付けておくのね。お前達もすぐにこうなるのだから」 「――貴様らァッッ!」 人一人の人生を奪っておきながら、一体何がそんなに楽しいのか。矢部にしろ竜崎にしろ、その口調には嘲りと蔑みしかなかった。己の身勝手な言い分を通させなかった者を逆恨みし、これほどまでに貶める輩のどこが武道家だ。多勢に頼り、武器に頼り、人質に頼らねばならぬ者のどこが! ――人として、武道家として、紫暮の怒りは頂点に達した。 しかし―― 「落ち着け! 兵庫!」 こういう時、この友人は格段に荒っぽい。紫暮は足払いをかけられ、床に引き倒された。しかしその一瞬後、紫暮の頭のあった空間を黒ジャージの杖が薙いで行く。もし倒されていなければ、龍麻や矢部にばかり目が向いていた紫暮にはかわせなかった。 「あらら。どうしたのかしら? 大声なんか出したりして。向かってくるんじゃないの? ふふん。チンピラ同士の友情って薄いのねえ」 紫暮は歯を噛み鳴らし、しかし友人に報いる為にもぐっと堪える。怒りで我を忘れるな――これは龍麻の教えでもある。今は、動いてはならない。 「矢部。そ奴はくれてやるが、遊びはそこまでにせい。今は先に片付ける些事があるのだ」 人一人の人生を奪っておきながらそれを遊びと言い、今また高校を丸ごと一つ奪う事さえ些事と言い切る男。紫暮は拳を固めて沈黙を護ったが、代わりに不快感丸出しの顔で拳士郎が口を開いた。 「ケッ、相変わらずムチャクチャ言ってやがる。この日本じゃ、こーゆーのは普通に犯罪って言うんだぜ。日本語読めねェのか、オッサン」 この場の最高権力者である不破をオッサン呼ばわりする拳士郎に、紺胴着の一団はおろか、蘭山高校の関係者までもが激昂する。師匠を侮辱された怒りと、余計な事を言って相手を怒らせるなという事だ。 「――もはや屍と化した友でも庇うか、風見拳士郎。その度胸は褒めてやるが、図に乗るな。カビの生えた古伝空手ごとき、潰す事など造作もないのだ。貴様には後でそれをゆっくり教えてやろう」 「ほーほーそうかい。だがこちとら悪党の親玉に教わる事なんか一つもねェ。今までテメエの飼ってるチンピラが一人でも俺に勝てたためしがあったかい? ケッ、俺がここまで付き合ってやったのだって、テメエらが先に弥生を誘拐して脅したからだろーが」 「誘拐とは人聞きが悪いな。我々は脱走者を連れ戻したまで。そして貴様もまた脱走者の一人であり、今は住居不法侵入の犯罪者。それだけが真実だ。自分が制裁される番が来るまでおとなしくしているが良いわ」 「はンッ、素手の相手を車で撥ねるだけの事はあるぜ。ジェット機か戦車が届くまで俺と喧嘩はできねェって訳だ。そうでもしなけりゃテメエら――」 更に毒づく拳士郎を、しかし不破は無視して蘭山高校の校長に視線を向けた。ただでさえ異常な光景を見せられていた校長は、正に蛇に睨まれた蛙と化し、指一本動かせなくなった。 「さて、少々予定外な者たちも加わったが、条件の方は覚えておいででしょうな? 蘭山高校の不良債権処理をうちで引き受ける代わり、経営権を我が【帝皇学園グループ】に委譲する。ただし代表者五名を選出した【死合い】に勝てば、不良債権処理のみ請け負う…。よろしいですな?」 「しょ、承知だっ」 額の汗を拭き吹き、やっと言う校長。足元が哀れなくらい震えている。 要するに、蘭山高校の借金を肩代わりする代わりに経営権を譲れと言っているのだ。ただしこれからやる試合に勝てば、借金だけをチャラにすると。――まともな人間が聞けばアホかと頭を疑うところだが、借金の当事者である校長は矢も盾もたまらずそれに飛び付いたのだ。 「…試合に負ければ帝皇学園の傘下にされるか。――酷い事になりそうだな」 下腹に力を込め、押さえた声で言う紫暮。教育現場のトップがこのような危険思想の持ち主に代わったらどうなるか、その結果には想像力を必要としないであろう。 「ああ。彩雲学園 壁際に引き据えられている龍麻は無反応。いや、僅かに身じろぎした。――紫暮と拳士郎の襲撃を警戒してか、彼の周囲は彼を連れてきた黒ジャージ姿が固めていたが、龍麻は車椅子に戻されていた。居丈高な態度と口調ではあったものの、剣持が彼を助け起こしたのである。 「全くこいつらと来た日にゃあ……仇は取るぜ。任せときな」 争いを好まぬ拳士郎がそれを口にした事に、紫暮が嘆息した時である。蘭山高校の代表選手が呼ばれ、同時に帝皇学園〜【覇王館】の選手たちも姿を現した。その数四名。数が合わないと思ったら、そこに剣持が先鋒として加わって五名になった。そして特に礼をするでもなく、剣持一人を残して四人が身を翻す。蘭山高校側は仲間の剣道部員に必死のエールを送ったが、【覇王館】側は無視だ。勝って当然――そんな雰囲気が漂っている。 「――始め!」 【死合い】と言いつつ、これだけはないと締まらない為か、号令がかかると同時に、肌がひりひりするような殺気が道場に満ちた。 紫暮は厳しい視線を向かい合う二人に向けたが、結果だけは判りきっていた。 剣道部員が面と胴を付けているのに対し、剣持は剣道着のまま。得物はどちらも木刀だから、傍目には剣持の方が圧倒的に不利だ。しかし、先に猛々しく踏み込んだのは剣持であった。 「いええェェいッ!!」 「――ッ!」 いきなり放つ【刺突】! 剣道部員は辛うじて身体を捌いたが、その動きは完全に読まれていた。木刀の切っ先がくるりと翻り、狙った先は――! 「あ、足ィッ!?」 剣道では【反則】の場所〜膝に衝撃を受け、剣道部員はがくりと前にのめった。そして追い討ちの――右袈裟懸け! 左肩口を強かに打ち据えられた剣道部員は木刀を放り出して床に転がった。絞り上げるような悲鳴と、激痛に痙攣する剣道部員。剣持の一撃は防具の上から鎖骨をへし折っていたのであった。 「ひでえ! 反則じゃねェか!」 猛然と立ち上がって抗議した蘭山高校選手団は、しかし剣持が木刀を一振りしただけでその場に硬直した。彼女の剣気に触れたのである。 「やる気なら受けて立つわよ。それに――反則ですって? 笑わせるんじゃないわよ。あんた達、ここに何をしにきているつもり? 今は果し合い、命を賭けた真剣勝負よ! 口先ばかりで死ぬ覚悟もできていない奴はとっとと尻尾巻いて逃げるのね!」 物騒ではあるが、一理あるかも知れない剣持の言葉。しかも龍麻の惨状を見ているだけに説得力は倍増しだ。蘭山高校選手団に重い沈黙が降りる。――自分達が思い描いていた【試合】とは余りにもかけ離れていたせいであった。 しかし、逃げる訳にはいかない。そもそも、逃げられないのだ。 次鋒として出たのは蘭山高校空手部員と、帝皇学園の中国人留学生、元 素拳素面の空手部員がフルコンタクトのセオリー通り、ボクシング式のフットワークから左ジャブを仕掛けた瞬間である。元が一歩踏み込み様、化鳥のごとき気勢を上げてジャブを撃墜した。その瞬間、空手部員の拳が指から中手骨に至るまで砕け散り、骨が肉を突き破って飛び出した。妙に黒ずんだ拳の正体――砂鉄を詰めた袋を叩いて文字通りの鉄拳を作る、中国拳法【鉄砂掌】だ。 先の剣持以上に、これが【死合い】である事を証明したのはそこからであった。 もはや悲鳴を上げるだけの空手部員に対して打ち下ろす掌の一撃。空手部員の左肩が脱臼し、鎖骨がへし折れた。元は空手部員が倒れるのを許さず、その襟を掴んで強引に立たせるや、その膝に足底蹴りを叩き込んだ。スポーツ武道では禁止されている角度からの一撃は僅かに逸れたものの大腿骨が折れ、空手部員は激痛と恐怖に濁った悲鳴を上げてキャンバスに倒れ込んだ。そして―― 「ほわたァ――ッ!」 ガードもクソもない、既に戦闘不能は明らかな相手に、軽く跳ぶ事で全体重を乗せた踵蹴り! 顔面への直撃に鼻血が盛大に吹き上がり、先鋒は血の海に沈んだ。 「――酷い真似を」 七〇年代の日本にブームを巻き起こした偉大なカンフー・スターを模した勝ち名乗りを上げる元と、それに向けられる野卑な声援。それとは好対照に、蘭山高校の一同は恐怖の澱に呑み込まれた。【表】の戦い――スポーツしか知らぬ者が【裏】の戦い――殺し合い、潰し合いを見せられたのである。見届け人として呼ばれた女生徒の中には失禁している者もいた。 「まったくだ。これじゃもう見るだけ無駄だな」 事実、その後の展開は拳士郎の言った通りであった。 続く帝皇学園ムエタイ使いサムワンも、副将のアマレスラー荒畑も、全員が蘭山高校空手部の選手に一合もさせず、圧勝した。明らかな実力差があっても彼らは必ず肉を裂き骨を砕いて選手を血だらけの肉塊に変えた。サムワンは相手選手の鼻骨を膝蹴りで砕き、倒れる相手に駄目押しのハイキックを叩き込んで奥歯を全壊させ、荒畑の相手選手は、一六〇キロのぶちかましを喰らい、顎の骨を叩き割られた上に舌を半ば噛み千切ってしまった。 「こ、これ以上はやめてくれ! こんなのはスポーツじゃない!」 蘭山高校の校長と教頭が青い顔で抗議するが、不破は薄笑いを返しただけである。 「今更何を。もとよりスポーツなどではないと、あれほど念を押した筈。それにこれこそが世界の理、弱肉強食の真の姿よ。力ある者こそが全てを手中にする権利を持ち、力なき者は奪われ、滅ぶのが運命。――この世界に弱者は要らぬ。生き残る価値があるのは、真に強き者だけだ。勝利の為に獣となりきれる者のみが、次の時代を築いていくのだ」 既に敗北が決定していると思われた蘭山高校だが、主将の金田は全身に闘志を纏って立ち上がった。【覇王館】側の主将にして帝皇学園柔拳部の日下部が、自分に勝てば蘭山高校の勝ちにして良いと言ったためだ。余りにも人を馬鹿にした言葉であったが、不破がそれを了承したため、蘭山高校一同は一縷の望みを彼に託した。約二メートルの巨体から繰り出す正拳突きは、三メートル先の蝋燭の炎を消し飛ばし、ゲームセンターに置かれる程度のパンチ力測定器では測れない威力を持つ。――希望の炎は消えていない。 対する帝皇学園の闘技部主将、日下部は身長こそ高いが物静かで線の細いタイプの男であった。厳つく筋肉質な男たちの中では目立つ事この上ない、女性受けする顔立ち。だが帝皇学園においては沢松をも凌駕すると噂されている男なのだ。そして――この男によって再起不能にされた格闘家は数知れないとされる。 頬に一筋、緊張の汗を垂らしながらも、金田は鋭い気合いを上げてアップライトに構えた。直接打撃制ではポピュラーな構えである。 向かい合う日下部は、構えてすらいない。ただ涼しい視線を、ボディビルダーもかくやという筋肉の鎧を纏った金田に注いでいる。 いや、正式な【試合】であれば注意の対象になるであろう行為――口を開いた。 「――醜い筋肉ですね。ガテン系という奴ですか?」 それを聞いた途端、金田の足がキャンバスから跳ね上がった。右回し蹴り! ミドルでも日下部の頭部を刈れる一撃! 「――ッッ!」 綺麗に空気を切る蹴り。次の瞬間、金田はキャンバスの中央から壁際まで吹き飛ばされた。背中を派手に打ち付け、しかし歯を食いしばって耐える。――見事な合気だが、渋沢翁のそれと違って投げた相手に受身を取らせない。 日下部の言は続く。 「ホラ御覧なさい。無駄な筋肉を付けたところで、岩は持ち上げられても技が身に付く訳ではありませんよ」 「――まだまだ!」 自ら頬を張って闘志を取り戻し、金田は再び突っかけた。遠間からワンツーのジャブ、そこから前蹴り。しかしその足が伸びきる前に、日下部が彼の軸足を払い、金田は一回転して再び床に背中から落ちた。 「あなたはキックボクサーですか? 見え透いた牽制にテレフォンパンチ――生兵法は怪我の元ですよ」 「この――クソがッ!」 ここで負ける訳にはいかない! 全身に気合を溜め、跳ね起き様に正拳突きを見舞う金田。 だが日下部はするりと正拳を掻い潜り、金田の水月に縦拳を当てた。 「いィえェやァッ!」 沢松にできるならば、彼より格上の日下部ができるのも道理――【寸剄】だ。金田はまたしても跳ね飛ばされ、自ら吐瀉物を吐き散らした床を舐めた。国体でもベスト8入りする男がまるっきり子供扱いである。 「諦めたらどうです? 突き蹴りの技術も力任せな上、ワルツでもあるまいしピョンピョン飛び跳ねて…あなたごときでは、私には勝てませんよ。そもそもあなたと私では、鍛え方からして違うのです」 そう言うと、沢松は胴着をするりと脱ぎ、上半身を晒した。 「…ッッ!」 こんな状況にも関わらず、何人かの女生徒がため息を付く。 均整の取れた肉体――使い古された言葉だが、この言葉は彼にこそ相応しいと万人が納得できるであろう。見た目こそ細身でありながら、良く発達した筋肉が実に優美なラインを描いて接合され、そこに贅肉の一片たりとて存在を許さぬ肉体の造形美は、まさしくビルドアップの極致と言えた。そこに内包されるパワーは、隆々たる筋肉の持ち主である沢松や荒畑にも匹敵、否、凌駕するであろうと容易に想像できた。 「人間の肉体とは限りなく自然に鍛えてこそ真価を発揮するもの。そこに武道的鍛錬を加えた時、初めて究極の肉体が完成するのです。あなたのように、ダンベルトレーニングで造った巨大なだけの筋肉など贅肉に過ぎません。私のように人生の全てを武道に費やし、初めて完成する高密度な筋繊維の集合体こそ最高の筋肉、正にダイヤモンドと言うべき武道的肉体なのです」 「…ッッ!」 唄うような日下部の言葉に、約一名横を向いて「おえ」と舌を吐いたが、直接対決している金田は勿論、蘭山高校の面々は戦慄と共にそれを受け入れた。否、受け入れざるを得なかった。最先端の科学的トレーニングを取り入れ、食事も生活も格闘技中心に送ってきた彼らをして、日下部の肉体を再現するのは不可能と感じたのである。理屈ではなく、本能で。 「ぐぬうっ!」 だからと言って負けられない! 金田は立会人の方に目を送って気力を奮い起こし、凄絶な前蹴りを放った。それがかわされても、金田は矢継ぎ早に正拳、手刀、横蹴り、バックハンドと、ありとあらゆる技を叩き込む。 「――聞き分けのない。やはり、死なねば役立たず 一発でも当たれば逆転必至の攻撃の中、不気味な言葉をその場に残し、日下部はするりと金田に密着した。再び金田の腹部を捉える縦拳――【寸剄】。水月からかち上げるように放たれたそれは金田の巨体を真上に跳ね上げ、そして―― ――ゴシャッ! もはや白目を剥いて崩れ落ちるしかない金田の【背中】に、日下部の下突きが食い込む。【禁じ手】の腎臓打ち、ボクシングでも反則の【キドニーブロー】。それは極めて理想的なカウンターの形を取り、もっとも弱い骨、胸骨と接合していない浮動肋骨をへし折り、その折れ口を腎臓に叩き込んだ。 「ひっ…!」 蘭山高校の立会人が、男女を問わず息を飲み、何人かは嘔吐し、何人かは失禁する。金田の巨体が倒れ込もうとする度に日下部の突きが彼の肉体に食い込み、倒れさせない。金田の失神を知りながら、彼を生きたサンドバッグとしているのだ。金田の鎖骨が折れ、肋骨が砕け、胃が破れて粘っこい血が口から溢れ出しても日下部は殴打を止めなかった。それどころか、黙っていれば世の女性を惑わすであろう美貌が、実に無邪気な笑いを浮かべていた。人形の手をもぎ、足を折って遊ぶ子供のごとき純朴な笑顔。笑顔だけを見れば万人が魅了され、その行いも合わせ見れば百年の恋も冷めるであろう笑顔であった。 「――やめて!」 突然、蘭山高校の立会人〜と称する人質の中からお下げの少女が飛び出す。――金田が無謀と知りつつ向かっていった理由――彼の妹だ。彼女は嬉々として兄を打ちのめす日下部にしがみ付きに行き、そして―― 「グガッ…アアアァァッ!」 妹の乱入をチャンスと見たのではなく、肉体の反射的な運動であったろう。初めて日下部の胴着を掴んだ金田であったが――残虐にして非道、絶対の禁じ手である二本貫手が意外なほど固い眼球外膜を突き破り、金田の両眼を完全破壊した。絶叫を放って目を押さえる金田の股座に、真下から跳ね上げる金的蹴り一閃、鈍い音と共に彼は垂直に弾け飛んで床に長々と転がる。そして日下部の手は彼の妹の喉に食い込み、片手一本で彼女を宙に吊り上げていた。 「…男の真剣勝負に水を差すとは何たる無粋。兄妹揃って、醜い事この上ない」 さも嫌そうに言い、日下部は少女を床に放り出した。激痛に呻いた少女は、それでも兄の元に行こうとしたが、その足を掴んで引きずり戻す手があった。帝皇学園の格技部員である。一様に下卑た笑いを浮かべ、彼女の華奢な身体に豪腕を巻きつける。 「おっと、日下部様に無礼な真似をするんじゃねェ。――日下部様、この女、貰っちまって良いですか?」 「――さて? 我々の勝利であれば、いかようにでも。――どうでしょうか? 不破館長」 執事のごとき付き人が差し出したタオルで指先の血を拭い、ジャスミン茶に優雅に口を付ける日下部。【禁じ手】を容赦なく振るった悔恨など一片もなく、不破もまた鷹揚に頷いた。 「結果は我が方の完全勝利ですな。よって今日より蘭山高校は我が帝皇学園グループの傘下に入る旨、承知置き頂こう。――さて、あなたの身の振り方も考えねばなりませんな」 不破は真っ青な顔をしている蘭山高校校長の顔を見て凄みのある笑みを浮かべ、帝皇学園〜覇王館の面々も唱和した。そして彼らの内何人か〜明らかに地位が上と見られる面々が、蘭山高校の見届け人である女生徒たちに嫌な視線を浴びせた。 不破は立ち上がり、蘭山高校の生徒達を見渡した。 「本日この場より、お前達は我が帝皇学園の校則に従ってもらう。――我が校において身勝手な行為は一切許されん。教師の指示に反する者は例外なく処罰される。――手本を見せてやろう。サムワン! 元! 荒畑!」 鋭い声で死合いをこなした三人の名を呼び――不破は三人の顔を激しく殴り付けた。サムワンは吹っ飛び、荒畑がその場に蹲り、元だけが辛うじて踏み止まるが、三人ともすぐに威儀を正して直立不動の姿勢を取る。 「なぜ殴られるのか解るな? 敵に情け無用! 勝利こそ全て! 敗北は死! ――見た目の流血如きに私の目は誤魔化されん! なぜ急所を外したか!」 【死合い】が終わってなお続く戦慄。相手が防具付きであった剣持は例外として、敵を完全征圧したのは日下部だけである事を、不破は怒っているのであった。 「時代は【武】を腐らせている。急所どころか顔面すら護れぬ空手家に、取るに足らない暴漢に刺されるプロ格闘家、秘伝と称して馴れ合いの演舞を見せる武道芸人、マスメディアの意向に従うまま下品なパフォーマンスとビッグマウスを繰り返す世界チャンピオン。――我らはそんな時代を粛清すべく、真の【武】を求めているのだ! 貴様らの甘えた思想の先には無様な死しかない! そこに転がる金田の無様な姿を目に焼き付け、とくと知れい!」 「「「――オスッ!」」」 あれほど凄惨な戦いを展開し、それでまだ足りぬとは!? しかも勝利したにも関わらず、僅かに加減したというだけで罰を与えられるとは!? そして――再起不能になり得る急所攻撃を容認するとは!? 蘭山高校の生徒達は完全に萎縮し、女生徒は震えながら抱き合った。しかし、そんな少女達を値踏みするように眺めていた一団が動く。 「それじゃ、さっそく【先輩】の命令に従ってもらおうか。蘭山高校のレベルがどの程度か味見させな。んじゃ――」 日下部の部下が、金田妹の唇を己のそれで塞ごうとした時の事である。彼らの間に一陣の涼風が駆け抜けた。そして―― ――ブチュッ 一瞬の沈黙。その直後―― 「あぢぇェェェェッッ!!」 日下部の部下である大男は金田妹を放り出し、口を押さえて床を転げまわった。 「――口付けとかけて、淹れたてのジャスミン茶と解く。――そのココロはどちらも熱い」 日下部の付き人から掏り取った急須〜大男の口付けの相手〜を手に、のほほんとそんな事を言ってのけたのは風見拳士郎であった。 「て、テメエ! 風見ィ!!」 覇王館の門下生達がギョッとしてその場を飛び退く。――たった一人を相手に全員がそのように反応するのは、ある意味異常な光景であった。 「ケン…!」 親友のとんでもない行動に驚き呆れ、立ち上がりかけた紫暮であったが、拳士郎が手で制したのを見てその場に座り直した。――考えがあるという事だ。 「全くテメエら、人質取られて実力出せない連中相手に悪趣味なモン見せてくれちゃって。――まあ良い。蘭山高校の校長さんよ。百万で俺の腕、買わないか?」 ざわ、とその場にいる誰もが驚き呆れる。この状況で、一体何を言い出すのか、この男は? 「アンタの生徒は見ての通りボロ負け。イカサマ試合にも負けたってワケだ。つまりアンタは破産、生徒たちはこの時代錯誤なオッサンの所でオモチャにされるってオチだろ? そこで俺がこいつらをぶちのめしてやるから、俺の腕を買えと言ってるんだよ」 敵地において、なんと大胆極まる宣言か。しかしいきり立ち、ごうごうと沸き立つ殺気をまるで気にもせず、拳士郎は続けた。 「ぶっちゃけ、俺はアンタらがどうなろうと知ったこっちゃねェ。うちの校長が手助けしてやるって言ったのを蹴ったのもアンタだもんな。だが何の因果か俺はここにいて、これからこいつら全員をぶちのめしてダチの敵を討ち、誘拐されたお転婆娘を取り戻そうってワケなんだが、アンタに上前をはねさせるつもりはねェ。――とりあえずそこの五人を片付けて百万。残りの連中はまあ、歩合制一人千円で良いや。今夜限りの出血大サービスだぜ」 「あなた…自分が何を言っているのか判っているのですか?」 「――人の商売に割り込むんじゃねェ。女に振られて男色に走った軟弱ナルシストが」 「なッ…!」 女好きする美貌が一瞬、鬼のそれになった日下部だが、拳士郎はもう彼の方など見ていない。 「さあ! どうするんだ! くだらねェ投資話に乗って借金塗れになった挙句、学生を人買いに売り飛ばしたクソヤロー呼ばわりされるか、それともたった百万ちょいでとりあえず今の地位に留まるか! ホラホラ、時間ねェぞ! 買うのか買わねェのか、どっちだ!」 やっと唇の火傷に耐えた大男が、物凄い形相で振り返った。その殺気は拳士郎に向いていたが、蘭山高校校長は顔を引き攣らせて叫んだ。 「や、雇う! こいつらをやっつけてくれぇ!」 ぶうん、と唸る拳をひょいとかわし、拳士郎はバランスを崩す大男の首根っこを掴んで取り押さえた。 「交渉成立だな。反故にしやがったらこうなるぜ。――まあ呑め呑め」 「あぢゃごぢゃあぢゃぁぁっ!」 空気を求めて喘ぐ大男の口に――極悪非道――急須から茶を注ぎ込む拳士郎。大男は拳士郎を振り払う事ができず、中空を掻き毟った。そして拳士郎が彼を床に放り出すと、再び床を転げまわった。 「さて、今度はアンタの番だぜ。この条件で俺の喧嘩、買ってもらおうか」 「――何を戯けた事を。キサマごとき小僧一人、それほどの価値などないわ」 「お〜やおやおや、こりゃおかしい。それがみやむーを信奉していらっしゃる自称武道家さんの台詞ですかねェ」 「みやむー…?」 聞き慣れない単語に眉を顰める不破。【覇王館】の面々も顔を見合わせる。 「俺ら武道家の大先輩、お前らも大好きな宮本武蔵を、彩雲学園 その瞬間、拳士郎はぱっと身を捻った。背後から襲ってきた木刀は空を切り、それが切り返される前に拳士郎の手が刀身を握り止める。 「背後からとは卑怯なり〜――って言った所で、お前らは【兵法】とか言い訳するんだよな。そうだろ、鈴奈ちゃん?」 「ええ、そうよ! この無礼者!」 木刀を取り返そうと力を込めながら、剣持は頬を紅潮させて怒鳴った。 「言うに事欠いて、宮本武蔵をそんな呼び方で…絶対に許さないわ!」 「鈴奈ちゃんがそんなに怒ったって、みやむー本人にゃ何の関係もねェじゃん。それともみやむーの悪口を言う奴は手段を選ばずぶっ殺せって、【五輪の書】にでも書いてあったのかい?」 【五輪の書】とはかの剣豪、宮本武蔵が記したとされる一大兵法書である。それは時代を越え、混迷の時代をさまよう日本のビジネスマンに取っても必読書と言われ、今なおベストセラーを誇っている。当然、武道家を志すならば必ず目を通さねばならぬ書だ。 「【五輪の書】にそんな事書いてある訳ないじゃない! あれは真の武道家が説いた真の兵法書。あんたみたいな奴が引き合いに出すものじゃないのよ!」 「――そいつはどうかねェ。あれを読んでると、みやむーって俺にそっくりだなーって思うけどな。もっとも俺は、やる気もねェ奴に勝負だ殺し合いだ言って襲い掛かったり、試合前に着替えている奴をぶん殴ったりしねェけどな」 ギリ、と剣持の歯が鳴る。偉大なる【剣聖】を、こんな男が自分と比較しているのだ。剣持の怒りももっともだと、【覇王館】の門下生も怒りを露わにしている。 「命懸けで臨むべき試合を前に油断している奴を打ち殺して何が悪いの! 兵法者の心得は【常在戦場】。それを忘れた奴が悪いのよ!」 「――それを認めちゃったら、みやむーが救いようのない恥知らずって事になるぜ」 傲岸不遜もここに極まれり。拳士郎は剣聖とさえ呼ばれる伝説の男を、ただ一言で切り捨てた。 「…何ですって?」 剣持の怒りの表情さえ崩れて凍り付くが、拳士郎は全く気にしない。 「試合の会場は整っている。立会人も見物人も揃っている。――これから正式な試合をやろうって時に、隣で対戦者が着替えてたからってチャンスとばかりに打ち殺したって? 普通に犯罪じゃん。卑怯っつーか、せこいっつーか、下衆って言うんだよ、そんな奴は」 「下衆? 下衆ですって!? 真の兵法を知る武芸者を、下衆ですってッ!?」 はっきりと、剣持の形相が怒りに染まる。 「ああ、そうさ。マジでそんな事をやったとしたら、宮本武蔵ってのは救いようのない下衆だぜ。現代風に言うなら、ボクシングのタイトルマッチで挑戦者がチャンピオンを控え室で撃ち殺してボクちゃんチャンピオン〜って言うようなモンじゃねェか。武芸者としての誇りも礼節もねェわ、主催者の顔は潰すわ、観客の期待を裏切るわ、しまいにゃそれが【兵法】だって? ――それがお前らの言う【武道】かい。なるほどねェ、【侍】ってのは無粋で下衆で厚顔無恥の、人間のクズの事を言うたァ知らなかったよ」 覇王館に女剣客ありと言われた剣持鈴菜を捕まえて、この台詞。――紫暮は親友の傍若無人ぶりに天を仰ぎつつ、奇しくも先日、京一や醍醐を交えて【武道家とは何か】と語らった時に、龍麻が宮本武蔵に付いて拳士郎とそっくりな事を言っていたのを思い出した。 ――【宮本武蔵は現代にまで語り継がれる剣術家だ。その著作【五輪の書】は孤高のアウトローが生き抜くための哲学が語られている。だが、今は時代が違う。斬り合い殺し合いが半ば公認され、無法がまかり通った時代ならばそんな生き様も一興だが、現代において【五輪の書】を忠実に実行すれば、単なる我侭のごり押し、犯罪行為に発展する部分もある。相手を出し抜き、ほんの一時勝利に酔っても、その者は二度と信用も信頼も得られぬまま、いずれ破滅を迎える。――若き日には関ヶ原の激戦を経験し、剣一本手に武者修行に明け暮れた武蔵だが、晩年には仏道に深い興味を示していたとも伝え聞く。【五輪の書】が武蔵晩年の執筆ならば、彼自身が若き無頼の日を振り返り、己を見つめ直すための書であったとも考えられるのではないか?】 現代ビジネスマンのバイブルと崇められる【五輪の書】に対し、十代の高校生が説く新説。一見批判的だが、批判ではない。【卑怯な感じがする】と言う醍醐に対して、龍麻は【五輪の書】に刻まれた数々の文句を額面通りに捉えず、そこに秘められた虚実を通して宮本武蔵という剣豪を見ろと説いたのであった。 【自分好み、あるいは嫌っている単語に目が眩んで、宮本武蔵が真に語りたかった事を理解せぬようではいかん。【卑怯】と【無粋】を取り違えるような無頼漢が、時代を超えて語り継がれる筈はない。【五輪の書】はそのまま読めばアウトローのサバイバル術とも言えるが、その正逆を読み解けば協調和合の精神が説かれているのだ。――現代における宮本武蔵像は、史実を元にしつつも第三者が書き上げた物語から生まれている。その第三者は、武道の何たるかを知るまい。対象者の偉大さを伝えようとするあまり、余計な脚色を加える事はよくある事だ。――着替え中の対戦者を打ったという事実はあったかも知れんが、それは隙があると示唆 これを聞いた時、紫暮は思わず唸ったものだ。武道家ではないと言いつつ、しかし世界を陰から護る任務を帯びていたレッドキャップスの一員〜それが彼だ。断片で伝え聞くレッドキャップスは悪名ばかり高いが、いざ緋勇龍麻という男を見ると、その精神性、崇高さ、どれをとっても見事と言う他ない漢だ。そして彼らレッドキャップスはその悪名さえ巧みに利用し、【レッドキャップスが来る】という情報のみで敵軍を無血にて退けた事さえあったという。【戦わずして勝つ】〜それは正に【武道】の求めるところではないか。 拳士郎の言は続く。 「自分好みの単語に酔う前に、ちったァテメエの脳ミソ使え。【五輪の書】ってのは【本物】の武道家にしか読み解けねェ専門書だ。だが言葉の意味を裏読みできねェマニュアル君用に、武蔵はちゃんとヒントをくれてるぜ。――女を抱く時は騎乗位にしていざという時盾にしろって? コイツを本気で信じる奴は底なしのアホかドーテイ君だぜ。相手が幼女かダッチワイフならいざ知らず、成人女性にマウント取られてすぐに動けるかよ。不意打ちが怖ェなら帯刀したままでいられるわ女にしがみ付かれるリスクはねェわの立ちバック最強だろうが。それだって十八禁アニメのエロオヤジじゃねェんだから、イク瞬間には必ず隙ができるぜ。――武蔵が本当に言いたかったのは、命が惜しい喧嘩屋に女を抱く資格はねェって事と、楽しいえっちの最中にそんな事を気にしなくて良いように、他人様の恨みを買うなってこった。もう一つおまけに、男尊女卑の時代だからこそえっちの時くらい女性上位にしてやれっていう、武蔵のフェミニスト精神が現れているのさ。――お前ら面白すぎだぜ。【五輪の書】を読んだからって、お前らが宮本武蔵になれる訳じゃあるめェ」 拳士郎は木刀を捻り、剣持を突き放した。剣持は怒りに全身をわななかせ、木刀を構え直す。――本気だ。剣気が殺気を纏って揺らめいている。 そして不破が、口を開いた。 「…小僧が。良く口が廻るものよ。――その意気や良し。受けて立ってやろう」 「――良いね。最高だ。こういう熱血少年漫画ノリって大事だよな」 どこまでも不遜な拳士郎に対し、【覇王館】の門下生が一斉に杖を構える。――不破が戦うと表明した以上、どんな手段を用いても【敵】を打ち滅ぼすのが【覇王館】のやり方なのだ。しかも怒りに目が眩んでいる剣持の前に、黒鞘の日本刀が差し出され、一瞬の逡巡はあったものの、彼女はそれを手にした。 「空手の荒行にも【百人組手】とやらがあるそうだが、得物に制限を加えず実戦性のみを追求した我が【覇王館】の【闇稽古】、【百人殺】に比べれば所詮児戯に過ぎぬ。貴様の古伝空手が我が流儀に通用するか見せてもらおうか」 不破が指を鳴らすと、門下生達は一斉に構えを解き、その内の一人だけが前に進み出てきた。得物は四尺二寸の杖。見た目はただの棒だが、日本武道では刀と並ぶ代表的な武器だ。 「武器を卑怯とは言うまいな、風見拳士郎。地の利を弁えず、闘争を仕掛けたのは貴様だ。ただし物量をもって押し潰しても面白くない。こちらは一人づつかかるが、確実に息の根を止めねば後から襲う事もある。武器を奪うのも自由だ。せいぜいあがき、この闘争を生き残ってみよ」 【覇王館】の【闇稽古】の門下生百名に加え、その頂点を形成する七本槍のうち四人とその候補生が八人。その内の二人は本身の日本刀を携えて。誰がどう見ても絶体絶命の状況下、拳士郎は人差し指を立て、ツツツ、と舌を鳴らした。 そして、言った。 「――呑気モン」 「――ッッ!」 それは昼間、龍麻が不破に言った言葉であった。 「いつまでくっちゃべってるつもりだよ、オッサン。ぶっ殺して良いならテメーらなんぞ二分で全滅させてらァ。武器がどうの実戦性がどうの、つまらねェ能書きたれる前にさっさとまとめてかかって来いっての。――安心しな。俺は喧嘩も弱い者虐めも嫌いだ。日本国憲法に則って、テメエら素人相手にはちゃんと手加減してやるよ。特に女の子には優しくしてやるぜ。なッ、鈴奈ちゃん?」 ブチ、という音は刀の鯉口が切れた音か、それとも彼女の堪忍袋の緒が切れた音か。すらりと抜き放たれた二尺四寸の白刃が剣持の殺気を受けて眩く光り、他の門下生達も足を踏み鳴らして杖を構え直した。――順番などいらぬと言ったのは拳士郎の方なのだ。 しかし、そうなっては紫暮も黙ってはいられない。 「無手の相手に数十人がかり。おまけに刃物まで。――ケン、助太刀は要るか?」 とりあえず片膝を立てる紫暮。腹腔は怒りで熱いが、頭はクールだ。しかし拳士郎は、予想通り手をひらひらと振った。 「あン? いやいや、心配ご無用ゴム用品。お前が混ざったら――ひいふうみい――と、百十万四千円の儲けが半分になっちまうよ」 「…確かに」 「こんな余興にお前の拳は勿体ねェ。ま、のんびり見物しててくれ。どうせこいつら、ヤバくなったら人質使うしか能がねェ」 うむ、と頷く紫暮。確かに森と前田の安否が知れず、現状では龍麻も人質に取るのは容易い。ここの連中ならばそんな卑怯な手段も【兵法】と言って躊躇う事なく行使するだろう。しかし拳士郎とて、幼馴染を人質に取られている身だ。彼にいかなる策があるのか? 「とは言え、十把一からげに色分けされて変な思想を吹き込まれただけの素人に怪我をさせるのは忍びねェ。適当にぶん殴って目ェ覚まさせてやるさ」 怪我はさせないが、【適当】に殴る――これを聞いて紫暮は座り直した。喧嘩とも弱い者虐めとも無縁なこの男のスタイルに任せる事にしたのである。拳士郎は決して強がりなど言っていない。【今】の紫暮にはそれが解った。 「…一応言っておくが、気を付けろ。相手は真剣と杖を持った多人数だぞ」 「オーケーオーケー。なあ〜に、心配いらねェよ。実は俺にも強力な助っ人が付いているのさ」 この状況で、助っ人? 思いもよらぬ言葉に【覇王館】の一同は周囲を見回したが、無論、それらしい人間は見当たらない。しかし拳士郎はポケットに手を突っ込み、その手をぐっと突き出した。その【上】に【いる】のは―― 「――紹介しよう。通称便所コオロギことカマドウマの中臣鎌足 ………… 一同、しばし絶句。 (寒い…緋勇のギャグ以上に寒い…!) 脱力し、盛大な溜息をつく紫暮。ある意味最大級の酷評である。 しかし、不穏な沈黙も数瞬の事、たちまち怒声と罵声が湧き起こった。味方――蘭山高校の一同からも。 「アホ――ッ! そんなモンが助っ人になるか――ッ!」 「引っ込めボケェ――ッ!!」 学校の未来――ひいては自分たちの未来がかかっているという戦いに際して、このボケっぷり。――当然と言えば当然の罵声に、しかし即座に反論する拳士郎。 「何ィ!? 鎌足クンを馬鹿にするな!」 どこから見ても馬鹿そのものだが、拳士郎は鎌足クンを手にふっと鼻先で笑った。 「――お前たちは鎌足クンをただのバッタか何かと勘違いしているようだが、鎌足クンはそんじょそこらのバッタとは訳が違うのさ!」 ピョン、と拳士郎の掌から跳ね、天井に飛び付く鎌足クン。カマドウマはバッタの中でも特にジャンプ力が強い事で知られているのだ。 「――見よ! この跳躍力! 逆さになっても落ちない超能力! ――凄いぞ! 鎌足クン!」 (アホくさ…!) 拳を振り上げ力説する拳士郎に、蘭山高校の一同を絶望感と脱力感が襲う。例外は、満身創痍の龍麻――彼の体の震えは痛みを堪えているのではなく、笑いを堪えているように見えた。 「もう沢山よ…! こんなアホにこれ以上付き合わされるのは…!」 彼女が【力あるもの】であれば、きっと炎のようなオーラを噴き上げていたに違いない凄まじい殺気。一対多数という図式に不快感を覚えていた彼女も、【真剣勝負】をここまでコケにされてとうとうキレたのであった。 「そのアホ面を叩っ斬るのは――あたし一人で充分よ!」 ダン! と床を一蹴りし、僅か一歩で拳士郎の間合いを奪う剣持! 真っ向から唐竹割りに二尺五寸の白刃が躍る。 だが、拳士郎の姿が掻き消えた。 (何ッ――!?) 一瞬で背後に廻り込まれたと知り、振り向きざまに地摺りの一刀を送る剣持。だが白刃は空気のみを斬った。彼女より確実に長身の拳士郎が低く身を伏せ、刃をかい潜ったのである。そして一瞬とは言え拳士郎を見失った彼女は血相変えて跳び下がり、刀を構え直した。 ずい、と剣持の前に元が進み出る。 「…お前の噂は聞いている。だが――それ以上ふざけていると、死んでも知らんぞ」 すう、と腰を落とし、五指を揃えた手刀を構える元。その手首の曲がりはある生き物〜鎌首をもたげた蛇を連想させた。――中国拳法、【蛇形門】。 「死んでも知らねェだって? はは、チンピラの常套句だな。知らなきゃ教えてやるが、この法治国家でそんな我侭は通らねェぜ。怪我をさせりゃ傷害罪、殺せば殺人罪ってな。武道家気取りで勝手な俺様ルールをほざいてんじゃねェ」 突然、元が突っかけた。常に動線が曲線を描く特殊な歩法。正に――獲物に迫る蛇! そして【蛇形門】の真骨頂は、指先でツボを攻める点穴術。鎌首をたわめた蛇がぐんと伸びて拳士郎の喉元に―― 「――ッッ!」 ふっと消える目標。一六五センチの元に対し、一八七センチの拳士郎が身を伏せて攻撃をかわしたのである。その意を図りかねた元は一瞬で逃げを打ち、拳士郎から距離を取った。 拳士郎がにい、と笑う。一八七センチの巨体を地に付くほどに伏せ、両手を床に付いた奇妙な構えで。 「さあ〜て見せてやろうかね。そちらが【五獣の拳】なら、こちらは俺的最強奥技【五虫の拳】だ!」 「――ッ!?」 ――五虫? ――虫? 五匹の――虫の拳? 果たして突っ込んで良いのかどうかも解らぬ技の名前。元ネタは恐らく中国拳法象形拳の【五獣の拳】であろうが、なぜ【虫】なのか!? 「訳の解らない事を――ッ!!」 再度翻る剣先! しかし拳士郎はその斬撃をたやすくかわす。足だけでなく、両手をも使った特殊な運足。それは正しく―― 「【五虫の拳】、チャバネゴキブリの型!」 なにやら凄く嫌なネーミングの技。しかし、名前のイメージとは裏腹にとてつもないスピードと不規則な動きを描く運足であった。ただのスポーツ剣道ではない剣持の斬撃が尽くかわされ、元の蛇形拳の歩法でも追い切れない! 技を繰り出す初動の段階で、拳士郎の回避行動が始まっている! それは正に、空気の僅かな波動を感知し、スリッパをかわすチャバネゴキブリの動きであった。 「――ッ!」 突然、声も洩らさずサムワンが人垣から飛び出し、ローキックを仕掛ける。――立ち技最強とさえ言われるムエタイのローキックだ。不意を突かれた拳士郎にかわす術は――! ――カサカサカサカサッ! 人間の出すものとは到底思えぬ足音を立て、拳士郎の巨体がサムワンの軸足側に回り込んでローキックを掻い潜る。一八七センチもの標的に立ち技最速のローキックが当たらない!? しかも―― 「この――クソが!」 カサカサと不気味な音と共に床を這い回る巨大チャバネゴキブリは、あろう事か五十人がひしめき合う空間に自ら飛び込んでいった。しかし剣持の斬撃が、サムワンのローキックがかわされたように、五十人からの男たちが振るう杖がかすりもしない。荒畑に至っては巨体が災いして追いかける事さえ出来なかった。 「うわっ! 気持ち悪ィ〜〜〜ッ!」 蘭山高校の一同からもそんな声が上がる。しかし一見間抜けな上に気持ち悪い拳士郎の【チャバネゴキブリの型】を、紫暮だけは真面目に観察していた。 (間抜けかも知れんが…凄い。運足のみを用いる防御術か) いかなる速い攻撃も、相手が動いている限り確実なヒットポイントを捉えるのは難しい。あらゆる実戦型の格闘技が運足…ステップワークを奥技としているのはその為だ。しかし人間の身体というのは意外と不便なもので、神経活動の殆どを二足歩行の為に費やし、常にバランスを取り続けるという運動の最中には必ず【間】が存在する。特に【能】や【舞い】の世界では【間は魔物なり】という言葉が継承され、この【間】を限りなく無に近づける事で美しさを具現する。 拳士郎は両手をも運足に使う事によって、この【間】を動作の中に埋没させてしまっているのだ。直立歩行し、道具を使う事で発展してきた人類は、手と足をシンクロさせて動かすには多大な時間と努力を必要とするが、拳士郎はそれを達成し、手足の動きがそれぞれ互いと呼吸をサポートする事で、間断なき有酸素運動を実現しているのだ。――足音がカサカサ鳴るのは武道に言う【摺り足】が極めて理想的な状態…前後左右どこにでも自由に動ける形で接地し、【静】から【動】に転じる瞬間に瞬発力が一点集中して大地が軋みを上げる為だ。 いかに格闘技を高いレベルで習得していようとも、【人間】のレベルに留まる以上、剣持たちが拳士郎に追い付ける道理はなかった。そもそもあらゆる格闘技は【対人用】に組み立てられており、自分より極端に小さなものを攻撃するのは難しいのである。 そしてそれは、当然のようにある事態を引き起こした。 「――ぐわッ!」 「ぎゃっ!」 巨大ゴキブリを叩き潰そうと振り下ろした杖が、目標を失って空振りする度に青いジャージ姿を直撃する。一対一の戦いを演じるには広すぎる空間でも、長柄の武器を持った五十人が動くには狭すぎる空間であった。素早く、しかも変則的に動き回る拳士郎を追おうとすると仲間に激突し、杖を打ち込んでしまい、たちまち同士討ちの山が築かれた。数と武器の有利がそのまま、彼らの不利になってしまったのである。 一分と経たぬ内に青ジャージの半数以上が床に這い、空間に空きができる。そこで選抜された精鋭が動いた。サムワンが猛然と巨大ゴキブリに襲い掛かる。 「【五虫の拳】カマドウマの型。――ちょーッ!」 いきなり、拳士郎の巨体が跳ね上がった。ローキックはおろか、サムワン自身も軽々と跳び越える跳躍力。振り向き様に回転肘打ちを見舞うサムワンであったが、それが空を切った瞬間―― 「なッ…ッ!?」 視界一杯に広がる――拳士郎の拳! 「すッ、寸止めェッ!?」 驚きの声が上がる中、すかさず前蹴りで反撃するサムワン。拳士郎は斜め前方に一歩踏み込み―― 「ッッ!」 またしてもサムワンの顎に触れる直前で止められる拳士郎の肘! ――目測を誤ったのではない。拳士郎は自ら技を寸止めしているのであった。 「――ジャッ!!」 サムワンのローキック! 狙いの拳士郎の足が前蹴りとなってサムワンの水月へ。蹴りを払ってハイキック! 払われた足で踏み込んだ拳士郎の拳がサムワンの顎に。基本のストレート――懐に飛び込まれて【脇陰】の急所に肘! 天を衝く膝蹴り――金的へのショートアッパー! 接近を阻むミドルの回し蹴り――尻餅を付いた姿勢から振り上げた蹴りが金的へ! ローキックからジャブ、ストレートに繋ぐコンビネーション――ストレートを出す前に無防備な脇腹に―― ――ポムッ! 「――ッッ!?」 寸止めを失敗したのか、軽い打撃が脇腹に入る。かまわず膝蹴りに繋げると、それに合わせて打ち下ろされる肘打ち! それもカウンターで入りながら、威力は全くない。少し身体が泳いだだけである。 (――見掛け倒しめ!) 空手とは一撃必殺の筈だ。所詮伝統派の悲しさ。寸止めに慣れてしまい、こちらが総毛立つタイミングで二度も打ち込んだのにノーダメージとは笑わせる。恐怖と戦慄を覚えた自分自身への怒りをも込め、ミドルの回し蹴りを放つサムワン。今度こそ必中の一撃! 「――あわびゅ!?」 突然、サムワンは【背中】に衝撃を受けた。 回し蹴りを掻い潜り、一瞬で背後に廻った拳士郎が裏拳を放ったのであった。先程と同じ、子供のパンチほども効かぬ打撃。しかしその瞬間、サムワンは言い知れぬ衝撃に全身を貫かれ、おかしな声を上げて腰砕けになったのである。 「――カマちゃんキ〜ック!」 掛け声こそ間抜けだが、【本家】のお株を奪う飛び膝蹴りがサムワンの顎を蹴り上げ、厳密には顎先を絶妙な角度で掠め打ち、一発で意識を脳外へ弾き出す。負荷が小さかった為か、驚くべき跳躍力は拳士郎の巨体を天井にまで届かせた。 (殺 一瞬後に落ちてくるであろう拳士郎に向けて、幅跳びのごとき運足で迫る元。人間は空中では回避不可能――! 「――ほあちゃ――ッッ!」 猿叫――南派系中国拳法式の気合いが空気を切り裂く。空手の源流とも言われる豪壮な白鶴拳の中段突き! それは拳士郎の胴を貫き―― ――落ちてこないッッ!? 突きを放った姿勢のまま、元は視線を振り上げた。そして、拳士郎がスプリンクラーを指で挟み、張り付いているのを見た。――脳裏に去来するのは鎌足クンの【模範演舞】。――先程、鎌足クンは天井に張り付いていたではないか! 「必殺! 【嵐螺子】ィ――ッ!!」 空中から襲い掛かる壮絶な――ただのパンチ しかし意外極まる角度と凄まじいパンチの迫力に負けて青ジャージは構える間もなく吹っ飛ぶ――直前でコツンと顎先を弾かれて失神する。――フェイント!? 殴れる時に殴らない拳士郎に怒りの拳が入り乱れ――しかし拳士郎の巨体は軽やかかつ素早く宙へと逃れる。正に巨大なカマドウマ! 人として有り得ぬ機動をする巨大バッタの前に、青ジャージたちは完全に翻弄され、時折走る鋭い突きが一撃するだけでいっそ心地良い眠りに落ちた。 「ぐぬうっ!」 こうまで馬鹿にされるとは!? 元が床を蹴る。一気に間合いを詰め、翻子拳式の猛ラッシュ! いかに拳士郎の運足や跳躍力が異常とは言え、あらゆる角度から叩き込まれる突きと蹴りの乱撃をかわす術はない! (何ィ!?) しかし、必殺の突きが命中したかに見えた瞬間、元の身体が泳いだ。中国拳法のコンビネーションは敵との距離で様々なバリエーションを生む。己の体勢を立て直す動作をそのまま蹴りに、突きに繋ぐ元! それが――全部流された!? 「――クウッ!!」 拳士郎の構えのせいだ。今の彼は首を垂れて肩を丸めて――身体全体を丸めていた。そして打撃がヒットする瞬間に、打撃方向への回転モーションを加える。ただでさえ身体前面より確実に防御力の高い背中の筋肉で打撃を受け、ヒットポイントを捉え難い球面でパワーを巧みに逸らし、バランスを崩すのだ。コンクリートブロックを粉砕できる一撃が子供のパンチにすら堕している! 「【五虫の拳】、ダンゴムシの型〜ッ。――ア〜ンド…」 焦って繰り出された突きをキャッチする拳士郎。その瞬間に手首を捻られ、元の対処が一瞬遅れる。拳士郎を【普通】の空手家だと思っていたミスだ。 「――セガールでござーる!」 拳士郎が手首を更に半捻りした瞬間、元の手首、肘、肩がカコン、と軽い音を立てて外れた。その手法は正しく、関西弁のハリウッドスター! 全く痛みのない関節技に驚く間もなく、無防備な元の脇腹に拳士郎の突きがコツンと刺さる。軽い衝撃はしかし背中まで突き抜け、それが痛みではないと知るより速く、顎先に掌底一閃! なぜか至福の表情で元は崩れ落ちた。 しかし、今は多人数相手。僅かな時間とは言え元に攻撃が集中した隙を突き、荒畑が拳士郎に猛然とタックルを仕掛けた。 「ぐえっ!?」 苦鳴こそ間抜けながら、絶体絶命のピンチ! 拳士郎がいかに高身長とは言え、荒畑との体重差は実に七〇キロ! その荒畑が拳士郎に馬乗りになり、拳を思い切り引いた。 「やった! マウントポジション!」 「そのまま顔面潰してやれェ!」 昨今の異種格闘技戦において【最強】の技術とされるマウントポジション! 打撃系格闘家の真骨頂は立ち技にあらば、一度転がされてしまえば全ての技の威力が減退してしまう。拳士郎になす術は――! 「――くわっっ!」 突然荒畑が悲鳴を上げて仰け反り、パンチが泳いだ。その凄まじい苦痛の表情! 見れば拳士郎の手が彼の脇腹と太腿を掴み、つねっているのであった。 必死の形相で拳士郎の手を振り払い、逃げる荒畑。【無敵】のマウントポジションが、まさかこんな手で破られるとは…! ひょい、とネックスタンプで跳ね起きた拳士郎はツツツと舌を鳴らした。 「必殺五虫の拳、ハサミムシの型。――俺に密着戦は効かねェよ。握力も百キロを超えると、人の皮くらいむしり取れるんだぜ〜」 だが、荒畑の脇腹も太腿も肉をむしられてはいない。拳士郎が手加減したのだ。プライドが傷付いたのは勿論だが、【最強】と信じていた技術があっさり破られた恐怖に突き動かされ、荒畑は拳士郎にパンチを繰り出した。当然のようにこれは簡単に捌かれ――反撃の正拳つるべ打ち! ――と、拳士郎の拳もまた、荒畑の分厚い筋肉の壁に弾かれる。この体重差ではさすがに無理か―― 「ッッ!?」 先の二人と同じく、突然荒畑は膝から崩れた。次の瞬間、宙に舞った拳士郎の両脚が飛ぶ。ドロップキック!? 否、それは打撃技ではなく、荒畑の頭部を両足で挟み込む。そして―― 「ハサミムシィ――スープレックスッ!」 逆立ちのまま胴を捻り、足で荒畑を首投げにする拳士郎。――腕の三倍と言われる脚力ではあるが、一六〇キロの巨体を足で投げる非常識さと、首を極められていた荒畑は受身も取れず、しかしころりと衝撃なく転がされたと思った刹那、拳士郎の足が頚動脈をギュッと締め付け、彼は苦痛の片鱗もなく眠るように倒れ伏した。 凄いのか間抜けなのか良く解らない光景に声を失っていた面々も、束の間の静寂が訪れた事で感嘆の呻きを発する。 ここまでで約一分半。覇王館門下生四五人に加え、不破館長の直弟子として次代の【七本槍】となる候補生の内三人までが倒されたのである。凄惨な死合いの直後だけに、その光景は奇跡を通り越して悪い冗談のようであった。 いや、本質を見るならば、拳士郎の技は驚嘆すべきものばかりである。――人間とは明らかに違う、厳密には血の通わない昆虫(本草学の分類による)類の動きを人間の肉体で具象化したのだ。あまりにもトリッキーなその動きは人間工学的にも有り得ない為、例え技を見た後でも容易に対抗手段など考え付けるものではなかった。しかも彼の技を裏打ちしているのは、五百年以上の時を越えて継がれてきた伝統武道の秘伝。そして極めて単純な――握力。喧嘩も弱い者虐めも嫌いだと公言した通り、鍛え抜かれた彼の技は肉を裂かず骨を砕かず、五十人近い敵を制したのである。 「ふざけるなっ! キサマァァッ!!」 そこまで見抜けない、残りの青ジャージたちが激怒して立ち上がり、拳士郎に襲い掛かった。 「ケッ、やっと悪党らしくなったな。それじゃこっちも――」 ようやくまともにセミ・クラウチに構える拳士郎であったが―― 「必殺――【銀河樽】――ッッ!!」 訳の解らない必殺技名を叫びつつ繰り出された、パワーもスピードも充分に乗ったフック! ただしそれは青ジャージの顎先を掠め、脳を揺さぶる衝撃だけが彼らを打ちのめし、薙ぎ倒した。 「もうひとつおまけだ! ――【銀河お化け】ェ――ッッ!」 またしても意味不明な必殺技名。だが、繰り出されたストレートは正に必殺技と呼ぶに相応しく、顔面への直撃を【外された】青ジャージは渦を巻く衝撃波に顎を叩かれ、蹲るように崩れ落ちた。 本人は馬鹿かも知れないが、【当てない】パンチだけでこの威力。――敵わない…! 「――ケン。先程から叫んでいるそれはなんだ?」 それが、この状況で聞くべき事かどうか? しかし紫暮は本気なのか冗談なのか判らぬ友に聞かずにはいられなかった。 「ああ。懐かしの【リングに○けろ】さ」 「――ッッ!?」 何を理解したものか、紫暮は天を仰いで顔を覆った。 「…【ジェッ○アッ○ー】と【ブー○ラン・ス○エアー】はないのか?」 「しょうがねェだろ。ありゃ和製英語だからな。技にゃ著作権はないかも知れねェが名前にゃあるし、俺の方がもっと凄いぜ〜なんて事を言うつもりもねェ」 「うむ。納得した」 この二人以外、訳が解らぬこの会話。紫暮は友人のクソ度胸に感心するものの、同時に言い知れぬ脱力感を覚えた。 【嵐螺子】…【ハリ○ーンボ○ト】 【銀河樽】…【ギャラ○ティカ・○グナム】 【銀河お化け】…【ギャ○クティカ・ファ○トム】 ――いずれも、必殺技名を叫ぶのを定着させた少年漫画に登場する必殺技である。必殺技名を叫ぶ先駆けとなったデビ○マンとは違い、こちらはただのパンチなのだが、何やら意味不明な名前を付けた途端にいかにも凄そうに聞こえるところが実に漫画らしい。 だが、さすがは親友である。紫暮は拳士郎のふざけ尽くした態度の真意を悟った。彼は【心道流】の門下であると同時に、現代の忍者初実嘉明の弟子でもあるのだ。 「すると今までの技はただの思い付き――嫌味だな?」 「はは、バレたか。――俺ァ性格悪いからよォ、こういう連中を見るとイヤミをやらずにゃいられねェんだわ」 頭を掻く拳士郎。これを見て剣持と日下部は勿論、不破も、矢部も表情が変わった。龍麻さえ身じろぎした。――思い付き? 嫌味? すると今までの技は、全て冗談? 遊び半分の技で、覇王館の精鋭を仕留めたというのか、この男は!? 不意に、拳士郎が真面目な顔つきになる。覇王館の面々をぐるりと見回し、 「俺ァよ、テメエらみたいな【俺様ムテッキー】な奴らが一番ムカ付くんだよ。どんな素質に恵まれたか知らねェが、先人達が食いたいものも食わず、飲みたいものも飲まず、遊ばず、楽しまず、わざわざ痛くて苦しい思いをして…そうやって積み上げてきた技術をパクった上、やる事ァ弱い者苛め。おまけに、そういう自称天才クンに限って先人たちの努力を馬鹿にしやがるし、ちょっとばかり強くなった途端に自分以外は全てクズだってツラひん曲げて粋がりやがる」 吐き捨てるような拳士郎の声に、重みはまったく感じられない。――チンピラの強がりと言っても過言ではなかった。 だが――重い。少なくとも、紫暮はそう感じた。彼は言動も行動も軽いが、決して自分から腕力を振るう事はない。本当は出鱈目に強いのに、それを誇ろうともしない。何より彼は今の戦いで、【心道流空手】は一切使用せず、自滅以外は誰一人怪我をさせていない。 「基本がしっかりできてりゃいくらでも応用が利くんだよ。チンケな才能に胡座かいて、他人サマの技をパクっただけでデカいツラすんなっての。そんな事だからアニメだのゲームだの映画だのを真に受けて、世の中斜めに見るのがカッコイイとか考えて、クールでニヒルで俺様サイキョーと思い込んでいる哀れなヒネ餓鬼になっちまうのさ。しまいにゃスポーツしか知らねェ癖に武道が腐っているだの、俺サマが武術を進化させてやるだの、世界最強だのと言い出して、辞書から引っ張り出した刺激的な漢字を組み合わせた【すうぱあ】で【ぐれいと】な【俺様絶対無敵究極奥技】を妄想するようになるんだよ。――この平和な日本でそれがどれほど馬鹿馬鹿しいか、いい加減気付け。テメーらが法律一つ守れねェアホでも、相手は【武道家】である以前に法律を守ろうとする【常識人】なんだよ」 拳士郎は【イヤミ】と称したが、それこそが先ほどの不破の言葉、【腐った武】に対する痛烈な批判であった。ルールを守る事によって健全な【スポーツ】に昇華した【武道】を、ルールを守る事によって平和を維持している世界において、【暴力】として使用している者への鉄槌だ。法治国家において常識的に法律を守ろうとしている者に対して、始めから法律を無視した非常識的攻撃を加えて何が【武】か。【武】を腐らせているのは、他でもない彼らであると拳士郎は言っているのだ。それは龍麻よりは易しい【正論】であった。 そして拳士郎は指の骨を派手に鳴らして、残る二人、剣持と日下部を見やった。 「さて、残るはお前さんたちだけだぜ。ただしあの連中と違ってお前らは手加減なしな。鈴奈ちゃんはヤッパなんか持ってるし、ナルシーは自分じゃ動かねェ悪党だからな。――へへっ、できれば鈴奈ちゃんとはベッドの上で勝負したいねェ」 この男は口先だけではない――今更ながらにそれを認識し、しかし刀を青眼に構える鈴奈。この男が本当に強いのであれば、否、ならばなおの事、この場で倒さなければならない。どれほど強かろうと、こんなふざけた男を野放しにはできない。 「良いねェ、鈴菜ちゃん。筋も良いし芯も通ってる剣だ。だけどそいつに何を込めてる? 男に舐められたくねェってより、怨みやら憎しみやらの方が強ェみたいだぜ。そんなモンを込めた剣に正義はねェし、歪んだ気持ちのまま人を傷付けるようじゃ、とてもサムライなんて言えないぜ?」 「この…!」 「自分が女の子だって事を思い出せよ、鈴菜ちゃん。女の子が強ェのは良い事さ。だが泣くのを我慢しすぎたせいで、自分の痛みどころか他人の痛みまで無視するようになっちゃいけねェよ。自分が何のために強くなろうとしたのか思い出せ」 キリ、と唇を噛む鈴菜。目の前の現実に埋没して忘れかけていた過去の闇を、拳士郎の言葉は容赦なく照らし出したのだ。 「利いた風な事を言うな! お前のようないい加減で我がままな奴が世の中をおかしくしてるんだ!」 鈴菜は遂に鯉口を切り、あろう事か刀の鞘を投げ捨てた。――侍を名乗るならばしてはいけない行為であった。鞘とは命の還る所。その鞘を捨てるのは、死の覚悟を固めた時のみなのである。 「確かにね。このイカレた時代にようこそ。――だからこそ本当に強くならなけりゃならねェんだろうが。映画だの漫画だのに感化された半端モンのままじゃいつかヒデェ目に遭うぜ。――口で言って解らなけりゃ、しっぽりと身体で教えてやるぜェ〜」 重く哲学的な雰囲気から急転直下、再びスケベ小僧に変わる拳士郎。額に青筋を浮かばせた鈴菜はもっとも得意とする高上刀〜【一の太刀】に構える。相手の頭蓋骨を真っ向から砕く、塚原ト伝 「それじゃ駄目だね。真剣を使ってるなら狙うのは首 「――ッッ!」 その言葉に、鈴菜が己の持つ武器の性能を思い出した瞬間、すう、と拳士郎が前に出た。反射的に出る【一の太刀】! しかし一瞬の逡巡が技を乱れさせる。そして――それがかわされた瞬間、拳士郎の手から何かが飛んだ。 「ひっ――!」 彼女の鼻先に飛び付いたのは、拳士郎の助っ人こと中臣鎌足クン! 鈴菜は悲鳴こそ押さえたものの、慌てて振り払った弾みでかえって悪い事態〜鎌足クンが胴着の中に落ち込んでしまい、全身を駆け巡った嫌悪感が彼女を硬直させた。 「隙ありッ! ――【ハエトリグモ】の型〜ッ!」 卑怯もここに極まれり、拳士郎は峯不○子に襲い掛かるル○ン三世よろしく鈴菜に飛び掛った。鈴菜はあっさりと床に引き倒され、反撃しようと思った時には既にバックを取られた上、両腕を蟹バサミでホールドされてしまった。そして―― 「続けて恐怖の【悪代官ごっこ】――ッ!」 よく解らない技名を叫び、拳士郎はあろう事か鈴菜の胴着をかき開いた。 「き…ッ!」 大きくはだけられた胴着から、スポーツブラに包まれた胸元が零れ出す。それでも鈴菜は悲鳴を噛み殺して必死に身をよじりもがき、蟹バサミから逃れようとした。そして拳士郎はと言えば―― 「ふぉっふぉっふぉっ――ッ! 良いではないかっ、良いではないか〜ッ!」 台詞は馬鹿丸出し、行動は強姦魔そのもの。拳士郎は器用に身体を捻って鈴菜の抵抗をいなしつつ、とうとう胴着を引き下ろしてしまった。鈴菜は真っ赤になって暴れたが、強靭な蟹バサミの前に反撃はおろか胸元を隠す事さえ出来ない。 「こ、この卑怯者! 正々堂々と闘えッ!」 「はァ!? たった一人相手に武器あり人数あり人質ありの自称武道家さんがどの口でそんな事言いやがるんだぁ? 卑怯も武の内だってんなら、これだって立派な兵法だろがっ! ――降参してごめんなさいって言えばこれ以上はずかしー目に遭わせるのは勘弁してやっても良いぜ〜。どうする?」 「だ、誰が降参なんかするか!」 「ほーほっほっ! 強情張るならそれはそれで大歓迎! ――ふぉっふぉっふぉっ、北○神拳奥義! 【ぬらりひょんの舞】〜ッ!」 その直後に展開した光景は、彼の性癖と技の意味を知っている紫暮のみ顔を手で覆って天を仰いだが、不破を始めとする【覇王館】の一同も、蘭山高校の一同も口をあんぐりと開けて呆然となった。 「あひゃひゃ! はひゃひゃはっ! はっ! ひゃめ…ひゃめろ! ひゃめろぉぉっ! このひぇんひゃい!」 もはやどっちが悪党か判ったものではない。抵抗の余地をなくした鈴菜に世の女性には噴飯もののくすぐり攻撃をする拳士郎。気丈な鈴菜でも、単なる苦痛を与えるものとは違う技の前には泣き笑いするしかなかった。どこまでが本気なのか冗談なのか、まるで判断が付かない。 「にょほほほほっ! 世の男性諸氏の誰がこのおいしいシチュを見逃すものか〜ッ! そう〜れ、指圧のココロは母心〜ッ、押せば命の泉湧く〜ッ!」 「ひゃあぁぁっっ!」 まるで十八禁アニメの触手ウネウネの怪物のように、世の女性諸氏を敵に回す事は必至であろうセクハラ技を受け、歯を食いしばっている鈴菜の目尻から本気の涙が零れ落ちた。こんなもっとも軽蔑すべきタイプの男に、力でも技でも全く敵わないばかりか、殺されるならまだしもただのオモチャ扱いされる。それだけでも二重の屈辱なのに、こんな真似をされているというのに身体から力が抜け、全身が火照り、それを【気持ち良い】と感じてしまった自分に戦慄した。自分が目指す【侍】に、そんな事があってはならないのに! これ以上の辱めを受けるくらいなら…! 押し寄せる屈辱と快楽のせめぎ合いの果てに、鈴菜は舌を噛もうとした。恥に塗れて生きるより、矜持を守って死を選ぶ。それが侍の―― 「――ウグッ!?」 舌に鋭い痛みが走る一瞬前に、口の中に硬いものが突っ込まれる。――拳士郎の指だ。拳ダコもないのにどれほど鍛え込んでいるというのか、文字通り歯が立たない。 「はい残念。――死ぬ覚悟があったって、そんな簡単に死ねると思ってるのかよ? ここが【本物】の【戦場】なら猿轡かまされて、殺しにトチ狂った兵隊どもが何百とお前を姦りまくるところだぜ。鈴奈ちゃんほどのグラマー可愛い子ちゃんなら、お願いしたって殺しちゃもらえねェどころか、死体になったって姦る奴がいるだろうよ」 「…ッッ!」 「【戦争】って奴ァ、テメエ一人が死んで終わりじゃねェんだ。ダチだろうが家族だろうが、負けた方は全て奪われ犯されぶっ殺され…それが全部容認されちまうトチ狂った世界なんだぜ。【武道】って奴ァそんな世界でテメエ一人生き残る為だけじゃねェ、そんな世界を作らねェためにこそあるんだよ。武道家気取りで喧嘩を売り買いするアホやら正義の味方気取りで他人を再起不能になるまでぶちのめす苛めっ子やらが、偉そうに【武道】だの【戦場】だの【侍】だのって語ってんじゃねェッ!」 死ぬ自由すら奪われた…それ以上に、いかがわしいセクハラに興じている筈の男が語る言葉が、重く剣持の胸に突き刺さった。 自分は今まで何をしてきた? 【武道】や【侍】に憧れ、自分に厳しく、ひたすら技を磨いた日々。それ故に軽薄な者が許せず、口先だけの兵法者ではないと信じられる不破に師事してからは、より深い武道に浸り、実戦の厳しさを知り、時に【悪】と判断した者を打ちのめしてきた。それが正しいと信じてきたのだ。 それが、全く通じない。軽薄でスケベな、鈴菜が最も嫌う人種の男が、実力的に彼女を凌駕し、いかがわしい事をしながらも鋭く胸に切り込んでくる事まで言う。しかも尊敬する【武道家】の言葉以上に、生々しい重みと真実味がある。鈴菜は困惑し、混乱した。 「――これ以上強情張るならマジであんな事やらこんな事やら十八禁エロゲの刑にするぞ。何をされても文句が言えねェ、死ぬ事すらままならねェ――そいつを身体で教えてやるぜ。喧嘩を終わらせる権利なんてものがあると信じてるお前らに文句はねェよなァ? 誰がどー見たって俺が勝者で、鈴奈ちゃんが【敗者】なんだからよ!」 「――ッッ!」 恐らく拳士郎は、この瞬間まで【それ】を言うつもりはなかったのだろう。しかし鈴菜が思いの外強情を張ったため、彼は遂にそれを口にした。鈴奈は強いショックを受けて硬直し、次いでガクガクと全身を震わせた。そして――口がパクパクと動き―― 「はい! ごめんなさいはッ!?」 「ううっ…うえっ…ふえっ…ご、ごえんなさい…ごめんなさいッ…!」 気丈な仮面が遂に割れ、鈴奈は大粒の涙をボロボロと零れさせながら謝った。――演技でも作戦でもない、本気の涙だ。心が折れなければ負けではない、屈辱を感じている内は負けていない――そんな言葉は所詮、負け犬の遠吠えであった。何をされても文句一つ言えず、死ぬ事すらままならない状態にされて、それのどこが負けてないと言えるのか。生かすも殺すも【勝者】の意思一つで決定されてしまう身のどこが。――しかしそれ以上に、【負け】を認めた事によって、今までの自分の行いが【間違っていた】事を悟った恐怖と悔恨、懺悔の想いが流させた涙であった。 彼女とて、【覇王館】の教えがどこか肌に馴染めない事を実感していたのだ。それでもかつてどこかで聞いた【力なき正義は無力】という言葉を胸に秘め、【正義】を貫ける【力】を求めた。【悪】を倒すという名目で剣を振るわせてくれる【覇王館】は、正に最適であったのだ。 だがこの男、鈴奈にとっての最たる【悪】であるこの男は、過剰な自信と不遜さに満ちながら、五十人以上の敵と戦い、誰一人大した怪我をさせる事なく制圧してしまった。真剣を持った自分に素手で応じ、圧倒してしまった。トリックを使った事さえ、自分を傷付けないようにする為の配慮だ。――情けではない。痛みを伴う事なくここまで圧倒されたからこそ、その言葉が耳に届いたのである。一方的な【正義】とは、ただの暴力に過ぎないのだと。 「――チェッ、もう少し意地張ってくれれば【葛飾北斎 名残惜しそうな口調が【本音】を含む所に彼の性格が窺えるが、【女の子には優しく】という言葉通り、拳士郎は剣持の胴着を戻してから解放した。彼女は泣きながらも、彼ならそうするであろう事が分かった為、拳士郎に向ける目に怒りや憎しみを込める事はできなかった。それどころか、自分を黒く塗り固めていた殻を割られ、初めて自由を知ったかのような清々しい解放感が、感謝の念すら起こさせる。そして――これが一番解らない。先ほどまでのいかがわしい行為の余韻――身体中に電流のごとき快感が未だ走り、知らず知らず表情が蕩けてしまうのだが、その一方で体奥から自分の知らない力が湧きあがって来るのであった。 「まあしゃーない。女の子を泣かしたらそれだけで負けみてェなモンだ。――鈴菜ちゃん相手なら負けても俺的にはオッケーさ」 そう言ってあっさりと立ち上がる拳士郎。刀は彼女の手の届く位置にあり、今切りかかれば確実に切れるというのに、彼女を警戒する様子は皆無である。その鷹揚さに戸惑う剣持に、拳士郎は片目を瞑って見せる。 「もう良いだろ? この世に【極めた】人間なんてどこにもいやしねェんだ。武道家って奴ァいつでも修行中、死ぬまで発展途上だから競い合って高めるんじゃねェか。その楽しさを、お前らなら解る筈だぜ」 「え…?」 それが剣持だけでなく、自分達にも向けられていると知り、目を覚ましたばかりのサムワンや元、荒畑が困惑する。彼らもまた、己の身体に何かが起こっているのを感じ、その原因たる拳士郎の言葉に耳を傾けていた。 「他人を傷付けるのは楽しいか? 相手を血だるまにするのが快感か? ――お前らはそうじゃねェだろ。身体の方は随分歪んでいたが、弱い者虐めを嫌だと思えるようならお前らはまだ正常さ。【そいつ】はサービスだよ」 「……!」 剣持たちがはっとして己の手足を見る中、拳士郎は不破と日下部を振り返った。不破は無表情ではあったが、目が怒りの炎を噴き、日下部はクールな仮面が綻び、口元が歯軋りに引き攣っていた。 「さて、アンタご自慢の精鋭は皆仲良く反省会だ。契約じゃそこのナルシーでラストだが、まァ遠慮はいらねェ。まだやりてェ奴らは全員束になってかかって来な。弥生はその後でゆっくり探すとするぜ」 ずい、と動きかけた日下部であったが、それを制したのは不破自身であった。 「――確かに口だけではないようだな。しかし知略なくして勝利はありえぬ。貴様はまだ、己の不利を悟っておらぬようだな」 彼が手を振ると、矢部がニヤリと笑ってリモコンのスイッチを入れた。天井から下がっている講義用のテレビに、どこかの部屋の様子が映し出される。そしてその中には、天井から吊るされている暁弥生と藤咲亜里沙の姿があった。 「ケッ、いよいよ人質のご登場かい。――っにしてもまあ、趣味丸出し。アンタとはうまい酒が飲めそうだ」 「…強がりなどやめい。もとよりあの娘は我が帝皇学園から脱走した身。懲罰を与えねば他の者にも示しが付かんからあの有様よ。私が一声かければどうなるか解るだろう? 今すぐ非礼を詫びて再教育を受けるか、それとも半年ほどベッドの上で暮らしてからにするか好きな方を選ぶが良い」 「――ああ、そうかいそうかい。しゃーねェなァ」 憤然とした表情でその場に座り込む拳士郎。そしてなぜか肩肌脱ぎ―― 「――初めてなんだから優しくしてね」 「――ッッ!」 唐突に身体をくねらせながらそんな事をのたまう拳士郎。さすがに剣持の目が点になり、蘭山高校の一同は脱力してコケた。日下部や矢部ら【覇王館】の面々ですら、腰砕けになるのを堪えねばならなかった。しかし不破のこめかみに今度こそ青筋が浮かぶと、彼は歯を剥いて凶暴な笑いを見せた。 「どうしたオッサン? 人質取ってまで俺のケツが欲しかったなんて照れるじゃねェか。いや〜、さすが地上最強の柔術。これぞ【衆道一直線】なんちゃって」 「貴様…あくまで私に逆らうと…」 「しつけェーんだよ、オッサン! こちとらテメーみてェな脳内妄想野郎のなんちゃって格闘技になんざハナッから用はねェッ! 武道家だ!? 命を賭けろだ!? ダイヤモンドの筋肉だ!? ンなコトを真顔で言えるたァ、まったく大した厚顔無恥変態ロリコンナルシストだよ、お前らは」 その瞬間、誰もが予想しなかった事態が起こった。 度重なる不破への暴言ではあったが、それでも尚彼だけは動くまいと誰もが思っていた男〜日下部が猛然と踏み込み、拳士郎に掌打を繰り出したのである。とっさに拳士郎は【ナイファンチ】で掌打を受け流そうとして―― 「――ッッ!」 パンッと肉打つ音が響き、派手に宙を舞ったのは拳士郎であった。 「ガハァッ!」 相当な実力者であった元たちを下した拳士郎でさえ、子供に見えるほどの力量差。拳士郎は受身さえ取れずキャンバスに叩き付けられた。 「ほう。凄い馬力ですね。――さすが【ケンシロウ】」 再び、日下部の顔に再び薄笑いの仮面が貼り付く。神羅覇極流合気柔術の基本にして奥技、【合気】である。世の合気道の多くがその真髄を見せる事を良しとせず、世間から【まやかし】扱いされている【合気】を、日下部は実戦の中で使用したのであった。そして相手の力を利用して捌く技は、相手の力が大きいほどに威力を増すのだ。 「――ケッ!」 ぱっと跳ね置き、今度は拳士郎自ら仕掛けた。しかし――紫暮はまずいと感じた。運足も拳の握りも彼にしては雑だ。減らず口を叩きながら、実は怒りに我を忘れている!? 「――ガッッ!」 常人であれば避けられないであろう横蹴りが、次の瞬間には蹴りを放った本人を壁に叩き付けた。軽い地響きすら招いた拳士郎は、さすがに片膝を付く。 「おやおや。技が雑になりましたね。今のは【合気】すら使っていませんよ。そんな事でヒーローになれるのですか? ――【ケンちゃん】?」 ギリリ! と拳士郎の歯が鳴る。泣く子も笑い返すであろう朗らかな顔を怒りに染め、拳士郎は立ち上がって身構えた。対する日下部は余裕の表情で、特に構えなどしない。あくまで攻撃を誘い、合気柔術の基本であるカウンター〜【後の先】を取るつもりだ。怒りに我を忘れた拳士郎など、良い獲物でしかない。そして―― 「なぜ怒るのですか? 今でも使われている可愛い愛称じゃありませんか。――ああ、そう言えばあなたをそう呼ぶのは幼馴染の暁弥生だけでしたっけ。羨ましい限りですねえ。今やトップアイドルである彼女にそう呼んでもらえるばかりか、絶対にあなたから離れる事がないとは」 「テメエ…!」 「知っていますよ。生まれつきの悪性貧血で、小学校すら卒業できずに生涯を終えるであろう身体だったのに、そんな身体を与えた親が【ケンシロウ】なんてふざけた名前まで付けたおかげで、ヒーローになるだなんて叶えようもない夢を見てしまったと。その結果あの幼馴染〜暁弥生がM事件の模倣犯に襲われた時、格好良く庇って逆に切り刻まれて、名前の通りに胸に七つの傷まで付けて貰ったんでしたよね。ええ、さすがに誇らしいでしょうとも。何の因果かあなたは生き延び、今では古臭い伝統空手の継承者候補。無駄な努力を積み重ねて、ヒーローになったつもりでいらっしゃる。しかもその傷がある限り、暁弥生はあなたへの負い目に縛られ続けると。ふふ、あの器量にあのスタイルとくればさぞかし良い味でしょうね。独り占めせず、こちらにも廻して下さいな」 外面は良くとも中身は邪悪〜その見本が繰り出す生々しい侮蔑の羅列に、拳士郎の表情がはっきりと怒りに染まった。――当然だ。己の出自をこうまで罵倒されて黙っているとしたら、それは人間ではない。 「挑発に乗るな! ――ケン!」 紫暮が叫んだが、時既に遅し! 拳士郎は猛然とダッシュし、日下部に右正拳突きを放った。後野と戦った時の華麗さなどない、怒りに染まった一撃! ――ズダン! それは合気柔術家にとっては格好の餌食。拳士郎の突きは鮮やかにキャッチされ、次の瞬間彼は宙に舞っていた。しかも日下部は彼を投げ飛ばす際に身を捻り、その効果は恐ろしい音と共にあらぬ方向に捻じ曲がった拳士郎の肩が証明した。 「〜〜〜ッッ!!」 砕かれた肩から床に落ちた拳士郎は歯を食いしばって悲鳴を噛み殺し、日下部を睨みつけたが、所詮、それだけであった。空手は全身が凶器と言われるが、やはり威力を発揮するには全身の機能を一致させる必要がある。自力で立ち上がったのはさすがだが、それは自らサンドバッグになるのと同義であった。 しかし―― 「――アホくさ」 拳士郎はニヤリと笑い、左手で中指を立てた。――無理しているのは一目瞭然なのだが、不遜な態度は少しも揺らいでいない。 「どんなオーバーな妄想奥技を使うのかと思ったら、どこから見てもフツーの技だったから受け損なったじゃねェか。それに腕一本奪ったくらいでなに浸ってやがんだ? 戦いの最中にいちいちそんな格好付けてたらキリがねェぜ。とっとと【俺様絶対無敵究極奥技】を出してみな。この俺がカッコ良く跳ね返してやるからよ」 今度こそ、日下部の表情が変わった。 利き腕を奪われ、もはや打たれるのを待つだけの男が、まだ減らず口を叩く。それは日下部のプライドに障った。自分の一撃は至高の一撃であり、敵はその一撃で肉体も戦意も砕かれねばならない。もとより彼に敵などなく、前に立つ者は彼に打ちのめされる栄誉を与えられた木偶人形だ。人を殺すという事のみを純粋に追求してきた究極の格闘技【神羅覇極流合気柔術】の敵になるという事は、つまりそういう事なのだ。 「よく口が廻りますね。神羅覇極流合気柔術の奥技を尽くすほどの相手ですか? 私の基本技一つで無様に這い蹲るあなたが」 「――それそれ。その口調だよ。我こそ正義、我こそ最強、他人が従うのは当然と考えているエリート気取りの典型的なしゃべり方さ。あー、はいはい、よく解りますよ。武道家の家に生まれて素質にもちょー恵まれていたのに、親御さんが喧嘩嫌いの人格者だったおかげで逆に虐められ続けたお優しい天才クンが、他人をぶっ殺す努力に努力を重ねて、ものの見事に他人を見下す事しかできねェクソ野郎に成長できましたってか。いや〜、まったくめでてェな」 「……」 その時、紫暮の面頬を風が叩いた。頬を撫でる涼風ではなく、頬を炙る熱風が。 (これは、俺たちと同じ!? ――いや、違うか?) 舌戦は拳士郎の勝利か? 日下部の全身を高圧的な【気】が覆い、淡い燐光として目に映るほどになった。それは炎のごとく揺らめくと、日下部の背から大きく羽ばたく翼となった。――天使の翼。柄にもなく、紫暮はそんな感想を持った。 「それほどまでに死にたいならば、見せてあげましょう。神羅覇極流合気柔術の真髄をその身に刻み、喜んで死になさい!」 ずい、と一歩踏み出す日下部。拳士郎も歯を剥いて身構える。しかし日下部の背後から笑い声が上がった。 「ほほほっ、【覇王館】筆頭の日下部ともあろう者が、そんな小物相手に何をムキになっているの。もっと冷静になりなさいな」 少女にあるまじき妖艶さに、B級映画系悪女の眼差しを加えた女、矢部は、拳士郎はおろか日下部にまで侮蔑の視線を浴びせた。 「つまらない挑発に乗って汗臭く真っ向勝負でもするつもり? ――くだらない。せっかくの人質を何だと思っているの。そいつみたいなお調子者タイプは、本人よりも親しい者を痛めつける方が効果的よ。――沢松。暁を可愛がっておやり」 「…ッッ!」 矢部の言い草には、拳士郎よりも剣持の方が驚いた。不破は【脱走した生徒】と言っていたのに、矢部はあっさり【人質】と言ってのけたのだ。しかも、痛めつけろとまで。 モニターの中に、レスラータイツ姿の超大男が現れる。 【覇王館】で最も有名な男、総合格闘技世界大会の覇者――沢松右京である。だが、それは本当に沢松であったか? いかに無頼の性格とは言え、その強さには定評も人気もあった彼だ。ルックスも決して悪い訳ではない。 それが、今ではどうだ? 目は野獣のごとき光を湛えて爛々と輝き、表情にも凶暴な笑いがこびり付いている。元から筋肉質であった彼だが、今やそれは倍にも膨れ上がったかのように筋骨隆々。ただし明らかに人類としての整合性を欠き、襟元をびっしりと覆っているゴワゴワの胸毛とあいまって、ケダモノじみた印象を与えている。少女達を眺めやった途端、目が生々しい情欲の火を吹いた事もそれに拍車をかけた。 ――あれは危険だ! そう思っても紫暮にはどうする事もできなかった。龍麻も拳士郎も負傷し、動けるのは自分だけだが、モニター内の光景がどこで行われているのか見当も付かないのである。 気ばかり焦る中、沢松はずかずかと弥生に近付いていく。一旦止まり、もう一人の少女〜亜里沙に目を向け、少し値踏みするような気配を見せた彼であったが、矢部の【命令】に従い、弥生の前に立った。 「――矢部。暁には手を出すなと言った筈だが」 「心得ています。せっかく手に入れた極上の【餌】ですもの。役立たずにしてしまうようなヘマはいたしませんわ。とは言えあの娘が一筋縄で行くような娘でない事は館長もご存知の筈。勝手とは思いましたが、最も効果的な調教の用意をしておいた次第ですわ。――さて風見拳士郎。これから自分の女が辱められる気分はどう? 悔しかったら吠えて御覧なさいな」 「…テメエら…弥生に手ェ出したらただじゃ済まねェぜ…」 押し殺した声の拳士郎。モニターを見たくないのか、顔がうつむき、肩が震えている。 「ホホホッ。随分古臭い台詞を。あの生意気な女も、丸裸にされたらどんな声で鳴くのか楽しみだわ。――沢松。暁をひん剥いてしまいなさい!」 のそりと動いた沢松の背がモニターを覆い、その陰で布地の裂ける音が長く響いた。無責任に上がる口笛と歓声。しかし沢松がそこを動かないので、見えるのは彼の背だけである。 しかしそれに異を唱える声が上がった。 「駄目よ! やめさせて!」 拳士郎を押しのけるように怒鳴ったのは剣持である。これには覇王館の一同が面食らったような顔を作った。 「何を言ってるのよ、鈴菜。こいつらは敵なのよ? あなただってたった今辱められたばかりでしょうが。それとも、可愛がられて情が移ったのかしら?」 「そ、そういう問題じゃないわ! あなた沢松に何したの!? あんなの、どう見てもまともじゃないわ! 人質とか薬とか、おまけにこんな真似まで…! いくら兵法と言っても限度があるわ!」 侍は卑怯な手段とは相容れない――それが剣持の信条だ。だからこそ他人に厳しい彼女だが、自分自身にも厳しく接してきた。だが同時に不破率いる【覇王館】にスカウトされ、戦いの何たるかを知って、卑怯と思える手段も【兵法】として容認してきた。【悪】を倒すためには必要なのだと自分に言い聞かせてきた。――だが、これは絶対に違う。彼女の求める【侍】ではない! 「そう…あなた【兵法】を否定するのね。しょせんあなたは、侍を気取ったただの剣道バカという事ね」 「――ッッ!」 矢部は冷たい目で剣持を見据えただけで、沢松を止めるつもりはないようだ。日下部も、不破も、残る七本槍の精鋭も、剣持に見知らぬ他人を見る目を向けている。そして――偽りなき殺気。剣持は自分が完全に【覇王館】から見限られたのを悟った。 「【覇王館】の則に曰く。【師の教えに逆らいし者は断ずべし】。――覚悟は出来ているわね? その女を捕らえなさい!」 これだけの人間が一体どこに潜んでいたものか、壁の隠し扉から紺色の〜館長の直弟子を示す胴着を纏った一団が姿を現す。そして彼らは一片の躊躇いもなく、鈴奈に六尺棒を向けた。――この【覇王館】において上の者の命令は絶対なのだ。倒す相手が同門であるとか格上であるとかは関係ない。それは幹部候補生たる剣持でも例外ではなかった。 それが剣持に、一つの決断をさせた。ここは――ここには彼女の求める【道】はない。 「――風見拳士郎! あそこは隣の部屋よッ!」 拳士郎に怒鳴った途端、打ち下ろされてくる六尺棒! 剣持は床に転がって六尺棒をかわしつつ包囲を抜け、壁にあるレバーに飛び付いた。彼女の予想外の行動に焦る矢部を尻目にレバーが倒されると、シャッター式の仕切りがゆっくりと上がり始め、モニター内の音声と耳に届く音声が一致した。この修練場はレバー一つで大ホールにも個室にも早変わりする仕組みで、不破は最初から切り札を近くに用意していたのであった。 「クッ! 早く捕らえなさい!」 矢部が唸るように叫び、紺胴着が剣持に襲い掛かった時である。剣持は打ち下ろされてくる六尺棒をやけにスローモーに感じながら、手の中に飛び込んできたものを横薙ぎに一閃した。 「ぐわっ!」 「ギャッ!」 何百何千と繰り返し練習した抜き打ちが、剣持自身信じられぬほどの切れとパワーを発揮して前列の紺胴着の胴を薙ぎ、完璧な包囲網を切り崩す。そこに畳み掛けられる、耳を劈く踏み込みの音――【震脚】! 剣持に刀の鞘を投げ渡した小柄なジャージ姿のタックルが、紺胴着の一団を五人以上纏めて弾き飛ばした。 「き、貴様! 元!」 矢部の声に被り、紺胴着の悲鳴と打撃音。サムワンと荒畑が紺胴着に襲い掛かったのであった。立ち技最強とも言われるムエタイのキックが六尺棒を掻い潜って紺胴着を捉え、荒畑の豪腕が紺胴着を三人纏めて締め落とす。 「サムワンッ、荒畑ッ…! お前たちまで裏切るつもり?」 頬を引き攣らせて、矢部。三人とも自分の行為にまだ困惑気味だが、全身にみなぎらせた闘志は本物だ。その目ははっきりと、矢部たちとの決別を覚悟していた。 「…裏切る違う。間違ってるのお前達。コッチの――カザミの方が正しい思う」 「こ、こいつ、つ、強い。と、とっても。でもこ、こいつとた、戦うの、お、面白かった。だ、だけど館長の格闘技、い、痛くて、く、苦しいだけ」 元は胸に付けられていた【覇王館】のワッペンを外し、床に放った。 「【勝利こそ全て】――それに間違いはないだろうが、この男は圧倒的不利な状況を強いられながらも俺たちを打ち破り、しかも怪我一つさせないほど洗練された技を持つ。それに、打たれた筈なのに無性に身体の調子が良い。まるで身体中に力が漲るようだ。――日本の古武道には人を打って治療するという【手乞い】という技があるそうだな」 え? と拳士郎を見る剣持。当の拳士郎はそ知らぬ顔をしているが、【図星】と顔に書いてある。紫暮も感心したような顔をしているところを見ると、拳士郎の技を知っていたのだろう。 「戦いにおけるランダムな動きの中で要治療箇所を見抜き、穴所に効果的な刺激を与えて骨格の矯正や経絡の調整を行うと聞く。――武道とは殺す為殺されぬ為の技なれば、それを師父より聞かされた時はなんと惰弱な技と思っていたが…今、その使い手に出会えた事を天に感謝している。殺人技の追及の果てに、人を生かす技があるとは。そしてこれほどのものを見せられては、もはやここの教えには付いていけん。――いや、はっきり言おう。鍛えた己の五体に拠らず、こんな姑息で卑怯な手段を駆使しなければ勝てない者たちに、学ぶ事など何一つない!」 先ほどまでとは違う、凛とした眼差しではっきりと言い放つ元。拳士郎と戦った事で何が彼らをそこまで変心させたのかと、日下部たちは怒りと共に困惑していた。人を殺す技を学んでいた者が、なぜ人を治す技などを賞賛せねばならない? 拳士郎に一方的に倒された事でおかしくなった? いや、所詮、その程度の連中であったと自らを納得させる。戦いの非情さを知らぬ未熟者め――と。 「ほほ、よくもまあ大口を叩く事。――粋がるのは勝手だけど、もう少し相手を見て物を言うべきだったわね。――お前たち、その連中を始末なさい。鈴奈は極力傷付けないように。後でいくらでも使い道があるから」 のろのろと起き上がった青ジャージ姿は、互いに困惑気味の顔を見合わせる。いくら命令とは言え、相手は幹部候補生だ。そして彼らは紺胴着と違って、不破の直接指導はおろか、初伝の免状すら貰っていない練習生である。実力差は明らかだ。 「何をしているの? 何も一人でかかれとは言わないわ。皆で打ちかかり、打ち倒しなさい。そうする事で初めてお前たちも【覇王館】の門下生たる資格を得るのよ。――ファイトが沸かないなら、一つサービスよ。首尾良くその連中を始末したならば、後で鈴奈を抱かせてやるわ」 「ッッ!」 顔を真っ赤にした鈴奈と、食虫花のような笑みを浮かべる矢部を見比べ、青ジャージ姿はそれぞれ杖や六尺棒を手に取った。そして――矢部たちに向かって身構えた。 「――テメエら…マジか?」 唸るような竜崎の声。青ジャージ姿の何人かは怯みつつも、腹に力を入れて怒鳴った。 「本気だ! ――もううんざりだ! 毎日毎日苦しいだけの練習をさせられて、お前たちの練習台にされて…! 何が強くしてやるだ! 何が地上最強だ! それに…元先輩を殴れって? 剣持先輩を抱かせてやるだって? 人を何だと思ってるんだ! バカにするな!」 不破らにしても、こんな事態は予想していなかったに違いない。たった一人の脆弱な少年空手家が切っ掛けで、自分の門下が反逆するなど。しかし――剣持たちにはこれが自然な事と感じられていた。純粋に強さに憧れていた頃の初心を、拳士郎の振るう【本物】の技が感動と共に思い出させたのである。 「ケッ、根性なしどもが」 切り出した口調こそ静かであったが、次の瞬間、竜崎は猛々しく床を踏み鳴らした。 「やっと棒切れを振り回せるようになった餓鬼どもが、チンピラの口車に乗せられやがって。雑魚が何百集まったところで、この俺をどうにかできると思ったか? ――アアッ!?」 あからさまに人を見下す視線と、自分に勝てる者はいないという絶対の自負。それはこれほどまでに醜く見えるのか。剣持は改めて、自分の想いが間違っていない事を悟った。 「自分以外は全てクズ…か。本当にその通りね。――最低よ! アンタたちはっ!」 剣持は刃なき一刀――その方が自分にはしっくりと来る――を構え、ふっと息を吐いた。目を半眼にして、全感覚器を解放する。相手の動きを目で捉えるのではなく、全身で捉える技法。――するとどうだ? 元が言った通り身体中に力が漲り、今まで【道具】の域を出なかった剣との一体感が精神を高揚させる。 あのいかがわしい行為に意味があったなど信じがたいが、自分の身に起こっている事を否定しても仕方ない。拳士郎の拳を受けた者全てに同じ現象が起こっているのだ。いつの間にか歪まされ、捻じ曲げられていた精神と肉体を、文字通り拳士郎が叩き直したのであった。しかもそれが正しい矯正であった事を示すように、剣先から迸る剣気はこれまでに倍する迫力と鮮烈さで、紺胴着の一団に拮抗したのである。その時―― 「――グエェッ!」 何か切っ掛けがあれば一触即発の状況下、闘争開始の合図とはなりえなかった苦鳴が空気を震わせた。潰れた蛙のような声。その陰惨にして悲劇的な響きが、その場にいる者全ての目を引き付けた。 「――沢松!?」 沢松の肩が動き、しかし彼は膝から崩れ落ちた。そのまま前のめりに、縛られている少女の胸に突っ伏そうとした所で、その顔面を靴底が押さえる。常人以上の大男を支えてびくともしない美脚の持ち主は、暁弥生に他ならなかった。 「乙女の柔肌に気安く触るんじゃないわよっ。この変態ゴリラっ」 思わず拍手したくなる、陽性溢れる威勢の良い啖呵。弥生が足を弾き出すと、二〇五センチ、一六〇キロの巨体は内股で股間を押さえた世にも情けない姿で倒れた。思わず呆気に取られた剣持たちは、突然沸き起こった爆笑にも度肝を抜かれた。 「ぬはははっ! ば〜かめいっ! だから言ったじゃねェか。ただじゃ済まねェってよ!」 爆笑の主は拳士郎である。――誰が知ろう。彼がうつむいて肩を震わせていたのが、実は笑いを堪える為であったとは。そこまで言われれば、剣持はもとより、日下部にも矢部にも理解できた。人質の存在を無視するかのような拳士郎の挑発は、彼女に不埒な手を出させるためだったのだと。 この男の実力ならば、単に目の前の敵を打ち倒すだけでも良かった筈だ。しかし己の行動に疑問を持っている者たちまで倒すのは彼の信条に反するので、誤った道を進んでいる精神と肉体を矯正する【手乞い】を駆使し、怪我をさせる事なく倒した。【覇王館】自慢の幹部候補生がそんな目に遭わされれば、悪党が好む【目には目を】的な発想から、必ず弥生に手を出す。だがそれは、おとなしく捕まっている筈のない弥生にチャンスを与える事となり、彼女が騒ぎを起こせばその所在も知れる。――腕一本捨てた事さえ、不破らを勝ち誇らせ、この結果を導き出す布石であったという、拳士郎の恐るべき作戦勝ちであった。 ところが拳士郎の【手乞い】は思いがけず、【覇王館】の方針に疑問を持っている剣持達を裏切らせるという、こちらに有利な流れまで導き出した。求道者としてまだ純粋な剣持たちは、【兵法】として教えられている行為のあさましさをまざまざと見せられ、それと決別する決意を固めたのである。 拳士郎がそこまで計算していたかどうかは知らず、たとえ彼の思惑通りだったとしても不快ではない――剣持は飛び出し、彼女たちに向かおうとしていた紺胴着の前に立ちはだかった。その脇に元、サムワン、荒畑も続く。 「大丈夫? 早くここから逃げて!」 「誰か知らないけど、サンキュッ! ――って、ケンちゃん! こんな所でなにやってるのよッ!?」 「なにやってるじゃねェだろッ! 助けに来たに決まってるじゃねェか」 「だったらもっと早く来なさいよねッ! こちとらもう少しで貞操の危機だったんだから! ――って、この子もここの子って事は…ケンちゃん! この子に変なコトしたんじゃないでしょうねッ!?」 「弥生! 今はそれどころじゃないってば! ――って、紫暮ッ!? アンタもなんでこんな所に!? それにそのコートって…まさか龍麻!?」 顔が隠れていても、この季節に合わないグレーのコートを見間違える筈はない。しかも――俄かには信じられぬ包帯塗れに、酷い臭い。亜里沙は激昂して恐らくは犯人〜一番偉そうにしているヤツと踏んで不破を睨み付けた。しかしその場に残っていた龍麻と紫暮を、紺胴着の一団が取り囲む。――不破が腕の一振りで命じたのだ。 「なるほどな、風見拳士郎。分を弁えぬ挑発は、わざと暁に手を出させ、人質そのものを暴れさせる策であったという訳か。剣持の裏切りは予想外であったようだがな」 「ヘッヘッヘ。アンタがもっと悪党ぶりを発揮してくれりゃ、もっと早く片付いていたんだがねェ」 「その意気やよし。だがそれだけで我が【覇王館】に勝ったなどと思うな。お前が倒した者たちはせいぜい中伝レベルの半人前よ。右腕を失い、足手まといを抱えてここを生きて出られるか?」 「まだそんな事言ってやがる。――遊びは終わりだぜ、オッサン。暴行傷害のみならず、誘拐監禁致傷となりゃ揉み消すのは難しい。この際俺たち全員、黙って出て行かせた方が特だと思うけどね」 「…戯けた事を。地の利は我らにある。誰一人出さなければ良い事よ。だがその減らず口は不快極まる。貴様はただでは済まさんぞ」 「なんだそりゃ? たかが格闘技ごときで人殺しでもしようってワケ? ――そりゃアンタ、B級映画の見過ぎだぜ」 「武道家同志が向かい合えば、命のやり取りなど必然よ。まして貴様は武道を侮辱した。半端な技に溺れ、武道の誇りを傷付けた。――貴様も武道家ならば、覚悟を決めるのだな」 【覚悟】のフレーズに力がこもっているのを感じたか、拳士郎の表情が変わった。後野との組手で見せた、精悍な拳士の顔に。 「呑気もの――と二度言う必要はねェな。そいつは宣戦布告か? それともマイクアピール? 【正気】の【本気】で俺を殺すつもりなのかい? ――ここ、重要な所だぜ」 「多少の見所はあると思ったが、その性根を叩き直すのは面倒だ。――裏切り者ともども、ここで死ぬが良い、風見拳士郎」 パン、パン、パン、と、拳士郎は膝を叩いて拍手した。喜色満面――でありながら、どこか怖いものを秘めた笑み。 「アンタもいいキャラしてるけどねェ、スッゲェ迷惑なんだよ。アンタみてェに【俺様】思想をぶちまける奴ァよォ。――まッ、実刑でも二年足らずだろうが、臭い飯ってやつを食ってくるが良いぜ」 得意げに革ジャンの前を広げてにいと笑う拳士郎に対し、日下部や矢部が眉を顰める。彼の襟から伸びるコードの先には、超小型の無線機があった。拳士郎は始めから、外部と連絡を取り続けていたのである。当然、今までの会話は全て録音済みであろう。 「誘拐監禁致傷に殺人教唆は重罪だぜ。それにこれだけはっきりした証拠がありゃ、どんな腹黒弁護士だって苦労は必至だ。はっきり言ってアンタの負けだよ。警察に踏み込まれる前に俺たちを解放しないと体裁悪いぜ」 一見のんびりとしていながら、ここまで用意周到なのか、この男は!? 紺胴着らの表情が変わり、しかし不破以下、七本槍の顔がなんとも嫌な笑いを作った。 「付け上がるな、小僧。――所詮、女子供の考えそうな事よ。その程度の子供だましで我が【覇王館】を潰せると思うか?」 「あらら、国家権力を子供だましと来たか。あんたやっぱり、生まれる時代を間違えたよ」 「減らず口はそこまでだ。――これを機会とし、我が【覇王館】に相応しくない人材は全て切り捨てるものとする。――やれ、我が精鋭よ」 この期に及んでまだ部下に? しかしそれが拳士郎の頭に奇妙な警鐘を鳴らす。不破の言葉が引き金となり、七本槍の、そして紺胴着の一団の中で何かが変わった。 ずい、と前に出たのは矢部であった。 「御意――剣持鈴菜、サムワン、元、荒畑、その場を動くな」 「――ッッ!?」 何が起こった!? 剣持たちは身構えようとして、その姿勢のまま指一本動かせなくなった。呼吸も出来るし、目も口も動くが、手足が全く言う事を聞かない。 「ちょっと、どうしたのよッ!?」 急に硬直した剣持に弥生が近付こうとした時である。彼女たちの背後に、巨大な影が立ち上がった。 「――ヤバッ! 弥生!!」 多くを語るまでもなく、亜里沙と弥生は二人同時に床を蹴り、空気を抉り取るようなベアハッグから身をかわした。その直後、腕を振った衝撃波が面頬を叩く。一瞬でも遅れていたら抱き潰されるパワーであった。 「――何よコイツ。ヤクでもキメてんの?」 デトロイト・スタイルに構えつつ緊張の浮いた声で、弥生。彼女ならずとも、今の沢松を見た者はそう思うであろう。目も唇も吊り上がり、不気味なほど尖った歯が覗く口から涎を垂れ流し、しかし至福の笑いを浮かべる沢松。異様なほどの生気に満ちた目には恍惚と欲情が渦巻き、その全身は今にも爆発してしまいそうな力を内包して打ち震えていた。明らかに異常である。 「コイツ…マジでヤバそうね」 弥生の言葉が終わらぬ内に、沢松が床を蹴って驚くべき跳躍を見せた。亜里沙と弥生は左右に横っ飛びしてそれをかわし――その直後、支えなき空中で方向転換した沢松の鉤手が弥生に向かって伸びた。三次元力学を無視した動きにセーラー服のスカーフが引き裂かれ、それが床に落ちるより早く沢松の第二撃! 弥生はこれも側転してかわしたが―― 『イィエエェェヤァ――ッ!』 腹に響くほど空気を震わせる野太い爆発呼吸――【寸剄】! 手加減なしの一撃に壁板が爆発さながら吹き飛び、その下の鉄筋コンクリートにすら破砕孔が穿たれ、瓦礫が派手に飛び散った。その威力――まともに喰らえば人体など千切れ飛ぶ。そして―― 『つ〜かまえた』 吹き飛んできた砂塵に視界を奪われた弥生に組み付く沢松。彼女の胴よりも太い豪腕によるさば折りに一瞬で肋骨がきしみ、弥生は苦鳴を放った。 「弥生ィ!」 とっさに拾った手械の鎖を振るう亜里沙。リーチなどなきに等しいが、遠心力に亜里沙の【力】も加わった一撃が沢松の後頭部を直撃する。だが、ガンと重い音を立てながら、沢松は普通に振り返り、追撃の鎖を、なんと歯で受け止めた。 「――コイツ!」 動きを止めた亜里沙に、凄絶な裏拳が飛ぶ。それは次の瞬間、床に押し倒された亜里沙の頭上を吹っ飛んでいった。砂塵に包まれると同時に身体の自由を取り戻した剣持が亜里沙に飛び付き、彼女を救ったのである。そして剣持は刀〜真剣を取った。 「沢松! その子を放せ!」 もはや是非もなし。剣持は怒鳴り、刀の切っ先を沢松に向けた。――他校の女子生徒を誘拐、監禁し、こんな暴力を振るう者が正義である筈がない。 「駄目だよアンタ! 逃げるんだよッ!」 亜里沙が叫ぶが、沢松の視線が自分を貫いた瞬間、とてつもない怖気が全身を走った彼女は、恐怖ゆえに全身全霊で沢松に突きかかって行った。本身の日本刀で、狙いは喉元! 殺さなければ殺されるという恐怖が生んだ一撃! 「――ウグッ!!」 カーンという、金属が触れ合う甲高い音! ――何が起こったものか、刀が沢松の喉に弾かれたのである。両腕に走った痺れに剣持が硬直した瞬間、沢松の凄絶なパンチが彼女を襲う。しかしその直前、腕の自由を取り戻した弥生の掌打が沢松の耳を直撃し、パンチが泳いだ。その隙に豪腕を振りほどいた弥生は、軽く跳躍してからの飛び後回し蹴り――ローリングソバットを一閃! 沢松の水月に足首が埋まるほど蹴りが食い込み――強烈な腹圧が弥生を弾き飛ばし、その背後にいた剣持までも吹き飛ばした。彼女達はなす術もなく床に転がり――素早く飛び掛った黒ジャージが彼女達の腕を捩じ上げて取り押さえた。 「――弥生!」 振り返る拳士郎であったが、なぜか視界に日下部が入っていた。確かに拳士郎の正面にいた筈の男が、一瞬で彼の背後に移動したのである。 「どこに行こうと? あなたの相手は私ですよ」 「――チッ」 舌打ちして左拳を上げる拳士郎。しかし構えができる前に、目の前に出現した日下部が突きを放っていた。 (なっ――!?) とっさに上体を傾がせた拳士郎の頬から血の粒が飛ぶ。続いて放たれた前蹴りを入り身になって受け、反撃の中段突き! その瞬間、日下部が消えた。そしてタイムラグなしに背後から――それも上空から、砕かれている肩に衝撃! 「――グハァッ!!」 細身でも九〇キロオーバーの巨体が大きく弾き飛ばされ、床につんのめって倒れた。激痛に息を詰まらせながらも頭上を振り仰いだ拳士郎の視界に、何一つ支えのない虚空に浮いている日下部が映る。――さすがに驚愕する拳士郎に、空中から襲い掛かる蹴り! 直撃を受けた彼は弾き飛ばされて床を転がり、その直後に四方から襲い掛かる杖! 彼は黒ジャージによって手足の関節を極められ、動けなくなった。 「カザミ!」 「おっと。お前は俺と遊んでもらおうか」 拳士郎に駆け寄ろうとするサムワンに、竜崎が声をかける。サムワンは素早く身構えたが、竜崎との距離は五メートル以上。しかし竜崎はその場でボクシングの構えを取り、一歩だけ踏み込んでジャブを放った。 それが、急に伸びた。 「――ッッ!」 届く筈がない――絶対の常識がサムワンの反応を鈍らせた。五メートルもの間合いを制したのはゴムのごとく伸びた竜崎の腕であった。しかも鞭のごとく振り出した拳のスピード! 風切り音が、サムワンが吹っ飛んでから通り過ぎていく。更にもう一撃を加えるべく竜崎が軽く跳躍し――胴廻し回転蹴り! やはりいきなり伸びた竜崎の足がサムワンに襲い掛かり――必死で身を捻ったサムワンのいたキャンバスに亀裂を走らせた。さすがに恐怖の走った青ジャージ姿に、今度は裏拳の一撃! 四メートルを越える極太の鞭が青ジャージ姿に襲いかかり―― 「――ぐわっ!」 サムワンと青ジャージたちを庇って凶悪な一撃を受け止め、荒畑が苦鳴を放つ。最も強固な十字受けをも貫いた衝撃は、荒畑のタフネスをもってしても抗えず、彼はその場に膝を付いて激しく嘔吐した。 「――クッ!」 「元!」 竜崎に殴りかかろうとした元だが、突然声をかけられた事で思わずそちらに向く。するとまたしても足が床に吸い付いて離れなくなった。先ほどと同じく矢部の目が光り、元を凝視しているのであった。そして――動けない元に竜崎のジャブが伸び、彼は折れた歯を撒き散らしながら倒れた。 「な、何なんだ? お前たちは一体…何なんだァ!」 二分に満たぬ攻防が明らかにした彼我の戦力差。いや、それを果たして普通の戦力差と言って良いものか? 明らかに人間技ではない、異形の技。それを目の当たりにした青ジャージ姿の顔は紙の色をしていた。握った杖が小刻みに震え、もはやそれが脅威ではないと誰もが理解できる。【覇王館】を裏切ったのは軽率であったと後悔しても、もはや取り返しが付かなかった。 「始めた途端にゲームオーバーだな、オイ」 動きの止まった一団に、竜崎が馬鹿にしたように舌を出した。 「格闘技って奴ァ、神に選ばれた者だけの領域なんだ。警察なんぞ宛てにするテメエらカスごときが武道家だ? 侍だ? アホ臭ェ。獣になり切れねえ奴らにゃ、奴隷の身分がお似合いさ」 竜崎がゲッゲッゲ、と人間とは思えない笑い声を立てると、紺胴着たちもまた喉をグルルと鳴らして笑いに唱和した。どの目も破壊欲と【食欲】に満ちた異様な光を放ち、青ジャージたちは狼の群れに囲まれた羊の恐怖を知った。ずい、と竜崎が一歩前に出ると、青ジャージの一団は散歩以上も下がって仲間たちと肩がぶつかる。これほど傲慢な相手でも、実力に加えて理解不能な力の裏付けがあっては抗い様がなかった。青ジャージの戦意喪失を知った竜崎は、床に膝を付かされた剣持の前に立った。 「お前も変なタイミングで逆らってくれたもんだぜ。まあ調教も良い感じに進んでいるからどうってこたあねェが。後は繋いでおいたって良いモンに仕上がるからよ」 「何よそれ…! どういう意味よッ!」 「はは、もともとお前は、俺たちの餌としてスカウトされたのさ。今の女どもと来たら化粧がどうのダイエットがどうの、煙草も酒もがんがん呑って、身体中に毒を溜め込んでやがるからな。その点、お前は女としての可愛げはねえが、ツラとボディだけは一丁前だし、酒とも煙草とも縁がねえ健康体と来てる。剣道をやらせてりゃ、馬鹿な男にいつの間にか姦られるって心配もねェ。――そう言や、お前のダチもなかなかのモンだったなァ。頭がイカレちまっても充分役に立ってるぜ」 「ダチ…? 麻美の事!?」 「ああ、そんな名前だったっけな。――安心しな。毒のねェ女は貴重だから、今でも大事に可愛がってやってるぜ」 「お前が…麻美を…!? だって…麻美は病院に…」 衝撃的過ぎて、理解が追い付かない事実。彼女の親友、新山麻美は半年前にナンパを装った暴漢に輪姦されて以来、ずっと入院生活を送っている。そして剣持は親友の仇を誓い、夜の街に繰り出しては犯人探しに奔走し、暴れ回ったのだ。帝学園グループに加わった母校も彼女の行動を知りつつも停学や退学にはせず、それどころか帝学園本校への編入を勧められ、【覇王館】にすらスカウトされた。【正義】と【実戦】という言葉で行動を肯定され、彼女は剣の腕を磨き、戦ってきたのだ。 それが全部、嘘だった? 目の前にいる男が犯人? そして自分は、彼らの望む【餌】とやらに仕立て上げられていた? 「病院だから都合が良いんじゃねェか。その気になりゃ家族だってシャットアウトできるとくらァ。――気付くのが遅ェんだよ。イイ女がいりゃ姦るのが男の礼儀ってモンだろうが。ましてテメエら奴隷に何を遠慮する事が――」 ふと、竜崎の言が止まった。 何者かが彼の肩を叩いたのである。良い気分で喋っていた竜崎はその事実に気付くのに二秒もの時間を必要とした。 「――あ!?」 誰が――と振り返った直後、竜崎の顔面が内側にめり込み、彼は物凄い勢いで壁に叩き付けられた。 「て、テメエは――!」 吹っ飛んだ竜崎を見てから初めて、それをやった張本人に気付いた沢松が何事か口を開きかけるが、人影の足がふっと消え、その爪先が沢松の膝〜膝蓋骨の隙間を貫く。一六〇キロの巨体がぴょんと跳ねる様はむしろ滑稽であった。そして――隙だらけの沢松に直撃する、惚れ惚れするようなフォームの上段回し蹴り! 沢松の巨体が側転しながら吹っ飛んだ。 ヒュッと息を吐き、正拳構えに戻るジャージ姿の巨漢。その男の名は―― 「き、貴様! 紫暮兵庫ッ!!」 その場の視線を一身に集め、膨大な敵意の照射を受けながら、紫暮はむしろ穏やかな眼差しで不破らをねめつけた。唸り声を上げ、歯を噛み鳴らし、目をギラギラさせるものたち。人の姿をしていながら、どこか人と異なる者たちを。 「手加減したつもりはないが――なるほど。【俺たち】の【敵】か」 今の紫暮だからこそ感じられる、肌が鑢がけされるような感覚。真神学園【旧校舎】に潜む【魔物】が発する気配だ。そして何より、人間を【人】として見ていない目――これこそが自分の【敵】だ。紫暮の全身に闘志が満ち、拳に淡い輝きが宿る。 「――ケン。この辺りで良かろう」 紫暮は不破らに険しい視線を据えながら言った。 「お前の思惑通り、人質の届く場所に捉えた。心ある者に自らを省みさせ、人の道に立ち返らせた。修羅のあさましさを知った彼らが道に迷う事は二度とあるまい。しかし――」 つい、と顎で不破らを示す紫暮。実直な彼らしくない仕草だが、もはや彼にとって、不破らはそのような扱いをすべき【モノ】に過ぎない。 「【武道】の精神で救えるのは心ある人間だけだ。我欲に塗れて外道に堕ち、人である事さえ捨てた輩に、お前の心は届かない。後は俺に任せておけ」 「兵庫…?」 見慣れている友のなんと雄大な事。素質にも肉体にも師にも恵まれ、生真面目な性格からいずれ武道家として勇名を馳せるであろう男であったが、今この場においてさえ【達人】と賞賛される者たちにも劣らぬ迫力を身に纏っていた。【覇王館】の面々に至っては、たった今まで誇りを汚され、友を罵倒されても動けない腰抜けだと思っていただけに、その変化に戸惑うばかりである。今や味方であろう青ジャージの一団までもが、その鮮烈な迫力に押されて一歩下がった。矢部と竜崎は驚愕の視線を紫暮に向け、不破と日下部も眉を顰める。 「立派なものだな、紫暮兵庫。たとえ国体ごときでも、勝利とは人を変えるものだ。しかし――お前は、状況が見えておらんようだな」 不破が指をぱちんと鳴らすと、紺胴着の一部が動き、重傷の龍麻に杖を突き付けた。 「……」 「格好を付けるのも良いが、もう少し思慮深くなるべきだったな。所詮一人身では、できる事に限界があるのだ。護るべきものなどというくだらぬものを抱えていては、まず勝利など覚束んぞ」 負けそうになれば人質を使う――拳士郎も言っていた事だ。だからこそ彼はひたすら【覇王館】の面々をからかう事で、逆に人質を使い難くしていたのだが… 「このヤロウ…やりやがったな!」 血の溢れる鼻をフガフガ言わせながら身を起こした竜崎は、折れた前歯をぶっと吐き捨てた。そして――構えを解いた紫暮にずかずかと近付いていき、その顔面に突きを―― 「――ブガッッ!」 構えを解いたのはこの為か。す、と一歩踏み込み、カウンターの左正拳をがら空きの竜崎の鼻に叩き込む紫暮。気持ち良いほどに決まったカウンターは歯だけでは済まさず、鼻骨を折って文字通り鼻をひん曲げた。竜崎は鼻を押さえてひっくり返り、近頃味わっていなかった激痛に苦悶する。そこに―― 「――ッッ!」 竜崎の顔面にかかる影! 紫暮だ。彼の右足が僅かに後方に引かれ―― 「ウオオッ!」 紫暮の左足がギュッとキャンバスを踏み鳴らした時、竜崎は全力で床を蹴ってトンボを切り、直後に吹っ飛んできた下段蹴りをかわした。それでもなお風圧でジャージを裂かれたのは、紫暮が【本気】で蹴りを放った為だと知れた。――まさかこの男が人質を無視し、倒れている相手に攻撃を!? 「――ッテメエ! ダチがどうなっても良いのか!」 辛うじて蹴りをかわしたとは言え、他の競技者とは異なる【本気】の一撃に、竜崎の語尾が震える。殺意を放っていなくとも、今の紫暮が自分の顔面を砕くつもりであった事を悟ったのである。しかも―― 「お前ら馬鹿か?」 およそ紫暮兵庫という男を知る者ならば、俄かには信じ難い事を彼は口にした。 「お前らごときチンピラに怪我を負わされたのも、人質にされているのも緋勇の責任だ。なぜ俺が殴られてやる必要がある? 寝言は寝てからほざけ」 その不遜さ、傲慢さはどうだ? 明らかにいつもと異なる紫暮に、ざわ、と空気がわなないた。その筆頭は拳士郎であり弥生であり、最初に口を開いたのは【仲間】である藤咲亜里沙であった。 「紫暮! なんて奴だい! アンタは!」 黒ジャージに捕まっていながら、亜里沙は必死の形相で叫ぶ。――当然だ。龍麻は彼女にとって恩も義理も、それ以上のものもある男なのだ。それを【新参者】にけなされては黙っていられない。 「ふん。貴様、少しは解っておるようだな。心の折れた敗者など唾棄すべき存在。情けなどかける必要はない。だが――それが解っていながらまだ弱者の味方をするか? 言うに事欠いて、任せておけなどとは思い上がりもいいところよ。挑まれれば応じるのが武道家なれば、お前ごときの空手がこの【覇王館】に通じるか試してみるが良い」 「――この俺に、ママゴトに付き合えと言うのか?」 どこまでも人を見下すような声音の不破に対し、紫暮は更に高みからきつい言葉を発した。 「貴様らがやっているのは【武道】でも【兵法】でもない。ただのチンピラヤクザの喧嘩だ。ならばこそ卑怯でも姑息でもまあ許そう。くだらん【俺様ルール】の強要も目を瞑ろう。だが、手品紛いの技で思い上がり、揃いも揃って女狂い――まったく、これがその名も高き【覇王館】の実態とは、期待外れもいい所だ。――緋勇がやられるのも無理ないな」 「何ィ…?」 火を噴くような不破の視線から、あろう事か紫暮は顔を逸らし、龍麻を親指で示した。 「素人が口先だけで死ぬの生きるの、殺すの殺さないの、戦場がどうのと――緋勇が分別ある男であった事に感謝しろ。ここが日本であった事も運が良かった。とりわけ、貴様ら自身が完全無欠の半端者であった事が、貴様らの命を救った。――だが緋勇龍麻という男に対し、くだらぬ喧嘩を売ったツケは高く付くぞ。命が惜しい者は、早々に逃げる事だな」 ぐるりと周囲を見回し、拳士郎達のみならず、剣持たちや青に黒のジャージ姿、その他諸々に向かって言う紫暮。実直さの滲み出す声音には嘘や誇張が感じられず、しかし、何を言っているのか理解できる者はいなかった。この状況で、どんな危険があるというのか? 「ケンも言った事だが、【戦争】は誰か一人が死んで終わる事はない。お前達は素人でありながら、緋勇に重傷を負わせた。いきさつはどうあれ、お前達は緋勇の【戦場】に土足で踏み込んだのだ。【敵】にせよ【味方】にせよ、緋勇の命を奪うには今こそ絶好の機会。そして俺を含めた、この場にいる全ての者が彼らにとって邪魔者となれば、このビルを爆撃するかミサイルを撃ち込むか、あるいは両方実行されても不思議とは思わんな。ここを本物の【戦場】に変えられた時、お前達ごときの【兵法】が通じるか? ――死ぬならお前達だけで死ね。他人を巻き込むな」 大言壮語をしない実直な空手家――それが紫暮兵庫の風評である。【覇王館】の面々はもとより、蘭山高校の関係者も目を白黒させた。 「ケッ、何が戦場だよ。漫画の読み過ぎだぜ、テメエ」 メリッと音を立てて曲がった鼻を戻し、竜崎が毒づく。彼には紫暮の風評など関係ない。したがって彼の言葉など聞く耳持たなかった。それに、話が飛躍しすぎだ。そんな大それた話などあり得ない。彼がそう口にした事で、誰もが頷く。――【常識】的対応だ。 「そうだ。この日本でそんな事はありっこない――その考えこそ、貴様らが半端者である証拠なのだ。法律一つ守れぬ貴様らでも、その身は常に日本国の保護下に置かれているのを忘れるな。貴様らが多くの武道家を潰し得たのも、法律が貴様らに味方をしたからだ。人殺しをしない、してはならないという大前提の下に動いている者を、始めから殺すつもりで挑めば勝って当たり前だ。しかし、何の制約もなしに殺しのみを目的にしている者が敵に回った時、貴様らに何が出来る? ――もはや後戻りは出来んぞ。戦いは自分一人で済むものではない。己の売ったつまらぬ喧嘩が、家族、親類、友人に至るまで巻き込む重大な闘争の引き金になった事を後悔するが良い」 そして紫暮は、彼を知る者には信じられない表情を作った。口の端を歪め、笑ったのである。――馬鹿にするように。 「今更遅いがな」 「やかましい! 誰がそんなバカ話を信じるか!」 竜崎は顔中を口にして喚いた。 「それによォ、ヤー公だろうが警察だろうが、俺らに勝てるわきゃねェんだよ! そんな連中、バラバラにして玄関にでも飾ってやるぜ!」 ぐわ、と竜崎が牙を剥いた。 目がぐるんと反転し、人間のものとは思えぬ唸り声が上がる。ばね仕掛けのように跳ね起きた竜崎は胸元を掻き毟り、スウェットを打ち捨てた。露わになった胸板は鍛えられた者特有の筋肉を浮き彫りにし――何という事だ! 砕かれた鼻が再生しつつ長く伸び、肉体がみるみる黒い剛毛に覆われていくではないか! ――【使徒】。悪魔との契約の証。 「嘆かわしい。【武道家】を名乗りながら、そんなものが自信の源か」 あくまで冷静に言い、紫暮が身構える。試合で見せた十三立ち――実戦の構え。 「――ならば見せてやろう。戦場に生きるという事が、どのようなものか」 ゴオ、と紫暮の全身から殺気が膨れ上がった。 先ほどの剣持など比べものにならぬ高圧的な殺気。それも研ぎ澄まされた刃のごとき鋭い殺気だ。全てのものを破壊せずには置かぬ不破の殺気と違い、見ているだけの者には何の害もなく、しかしそれを向けられた者には触れなば切れん殺気。その鮮烈さに竜崎はおろか、矢部や日下部、沢松までが一歩もしくは二歩下がった。 しかし―― 「――ッッ!?」 いきなり、紫暮が背を見せる。その視線の先にいるのは――龍麻。やはり彼を助けるか!? 黒ジャージたちには充分に迎え撃つ準備が出来ており、たとえ――惚れ惚れするようなフォームの飛び蹴りをもってしても―― 「――アアッ!?」 ガシャアッ! と耳障りな音を立ててバラバラに飛び散る鉄とカーボンとゴムの集合体――車椅子と、コートを纏った包帯塗れの少年。龍麻がズルリと崩れ落ちた時、彼の後頭部が激突した壁には鮮血と肉片の花が咲いていた。――ミスではない。紫暮は最初から龍麻を狙って飛び蹴りをかけたのであった。そして―― 「緋勇よ。いずれ地獄で逢おう。――さあ! 次は誰の番だ!」 余りの暴挙に誰もが目を見張る中、紫暮は不遜極まりない態度――両手で不破たちを手招いた。人質の生命を考慮する限り不利を抱え込むのが世の常だが、その人質を無視できるならば、普通に闘うよりもたやすく敵を殲滅できる。カウンターテロリズムの世界では最後に考えるべき――基本の一手だ。 「友をその手にかけるか…! 貴様それでも武道…!」 不破が何か言いかけた瞬間、紫暮は猛然とダッシュした。 「ッシャァァッ!!」 武器を構えていても、それを振るう意思が手足に届くまで一秒以上もかけてしまった紺胴着が吹っ飛ぶ。そいつが床で跳ねる前に巨体が大きく捻られ――飛び廻し蹴り! 事態の急変に追い付かなかった紺胴着二人がそれぞれ顎と鎖骨を砕かれて弾け飛んだ。 「無駄口が過ぎるぞ。呑気者が」 本日三度目の、【呑気者】。バン! と床を踏み鳴らし、紫暮は凶暴な笑いで周囲を威嚇した。 「お前達の切り札はなくなったのだ。のんびり能書きなんぞ垂れている場合か、半端者のチンピラがッ! ――消え失せい!」 雷のごとき一喝に誰もが一瞬怯み、その時既に紫暮は駆け出していた。またしても人質の方へ!? そして再び――飛び足刀! 「ウオオッ!」 弥生を取り押さえていた黒ジャージが床に身を投げ出して飛び足刀をかわす。着地の瞬間を狙った紺胴着は、むしろそれこそが誘いであった紫暮の正拳突きを浴びて吹っ飛んだ。そして―― 「え!? 何ッ!? ――キャアッ!!」 突風のごとく駆ける紫暮に腰をひっさらわれ、弥生が悲鳴を上げた。いかに彼女が強かろうと、地に足が付いてこその格闘技。あれよあれよという間に肩に担がれた彼女に抵抗の余地はなかった。 「お前たちの目的がこの暁だったとはな。良い趣味だと褒めてやるが、貴様らごときにくれてやるのはもったいない。――俺が貰う」 「な、何ィ!?」 この言葉に最も衝撃を受けたのは拳士郎であった。むしろ、紫暮が龍麻を殺した事に一番ショックを受け、虚脱していたのを、二重のショックが我に返らせたほどだ。 「兵庫! 気でも狂ったのかッ!?」 「至って正常だとも。だがここは既に【戦場】だ。何をしても許されるトチ狂った世界だ。お前は良い友人であったが、ここではその甘さが俺にとっても命取りになる。――安心しろ。お前の分まで楽しんでやるさ」 先に弥生を誘拐した【覇王館】の面々ですら驚きを隠せない放言。拳士郎の表情が再び虚脱し、それが怒りに転換されるまで随分と時間がかかった。 しかし、瞬時に怒りを爆発させた者がいた。 「紫暮ッ! この裏切り者ォ!!」 黒ジャージを振り払い、鞭に飛び付いた亜里沙の怒りの一撃! ぱっと飛び退いた紫暮の足元でキャンバス地が張り裂け、その下のリノリウムにすら亀裂が走った。【魔人】の一人、藤咲亜里沙の、これが本気であった。しかし―― 「ふん! 無駄な事を! 俺を殺したければ、暁ごと殺ってみろ!」 ギリッと唇を噛む亜里沙。紫暮は肩に担いだ弥生を前面に押し出し、盾にしている。いかに亜里沙の鞭でも、紫暮ほどの者をピンポイントで狙うのは困難だ。いや、どこをどう打っても弥生にも攻撃が当たってしまう。 「主将ォ! アンタって人はァッ!」 「アンタそれでも武道家かァッ!」 前田とミッキーが咆えるが、こちらは意にも介さない。――彼らは【普通】の空手家なのだ。真の【実戦】用法を学んで急速にレベルアップした彼らであるが、ミッキーの飛び蹴りも前田のコンビネーションも、肩に人間一人を乗せた紫暮に容易くかわされてしまう。 「そうとも。緋勇も言っていただろう? 平和な時代には平和な生き方があり、【戦場】には【戦場】に相応しい生き方があるとな。――【本物】の【戦場】にプライドも理想もあるものか! 糞を喰らってでも、生き延びた奴こそ【正義】なのだ!」 くわっと威嚇的に笑い、紫暮は身を翻した。フロアを一気に駆け抜け、ドアを蹴破る。そしてさっさと――この場を逃げ出した。 「あの野郎…! 逃げやがったッ!?」 これが、高校武道会に名を知られた紫暮兵庫の本性か? 散々得体の知れぬ大言壮語をした挙句、そして、【この場は任せろ】とまで言っておきながら、彼は龍麻を殺し、親友も仲間も見捨て、娘一人さらって逃げ出したのである。 「逃がすか! ぶっ殺してやるッ! ――おどき!!」 「畜生! 裏切り者ォッ!」 罵声を上げながら亜里沙が走り出し、同じくミッキーと前田がその後を追う。美しい鬼女の形相と振り回される鞭に圧倒され、反射的に道を開けてしまう黒ジャージであったが、それは正しい判断であった。殊勝にもその行く手に立ちはだかった紺胴着の一人は、超音速の一撃の前に顎を砕かれて吹っ飛ぶ。そして彼女たちがドアを抜けた時――もう一つの怒りの咆哮が上がった。 「兵庫ォォォォォォッ!」 信頼していた者に裏切られた怒りがどれほど深いものか。拳士郎は肩の負傷をものともせず黒ジャージたちを弾き飛ばし、駆け出した。 「ッッ! ――追え! 逃がすな!」 予想外の事態の連続に混乱していた不破も、拳士郎の咆哮が遠ざかってようやく我に返った。せっかく捕らえた暁弥生を横取りされる訳には行かない。不破が怒鳴り、それに応えて紺胴着が気勢を上げた。その時―― ――ズズゥゥゥンッ! 「――な、何だッ!?」 武道で鍛えている筈の者たちでさえ、一瞬宙に浮くほどの震動。カーテンを貫く稲光の直後、鈍い爆発音と共に【覇王館】ビル全体が大きく揺れた。次いでカーテンの向こう側を炎の塊が登っていき、非常ベルがけたたましく鳴り始めた。 「何事だ! 一体!」 カーテンをむしる勢いで開ける不破。都会に残された緑の中にあり、いつもは優しい闇に覆われている筈のビルは、直下で赤々と燃える炎に照らされていた。そこで燃えているのは一台の大型トラックである。 いや、もう一台。それもタンクローリーだ。――【兵法】に従い、【敵】が真っ直ぐに進んで来られぬようにした誘導路は何の役にも立たず、鉄柵も生垣も薙ぎ倒しながら突っ込んでくる! 「――ッッ!!」 とっさに身を伏せる不破。――激突! ――爆発! ――炎上! タンクは空のようであったが、それでも大型タンクローリーのガソリンタンクの爆発はキノコ雲状の炎塊を生み、猛烈な熱気と衝撃波でビル壁面を舐めた。震動が再びビルを揺すり、窓ガラスが全て砕け散る。そして―― 「か、火事だ!」 このような時、通俗的な事しか言えないのが現実だが、誰かがそう叫んだのが運の尽きであった。 「うわわわわっ!」 「ひゃあぁぁぁっ!」 立て続けに起こった異常事態の最中に上がった悲鳴がパニックを誘発した。なまじドアが開け放しになっていたため、一人が逃げれば後は雪崩式であった。武術的に鍛えられていない蘭山高校の面々が入り乱れてドアに殺到すると、【覇王館】を裏切った直後の青ジャージにもパニックが伝染して、誰もが転がるように走り出した。――自分達の常識を遥かに超えた超現実の前には、武道家も一般人もなかった。恐怖に突き動かされた、ただの人がいるだけであった。 「クッ! 止めろ! 誰も逃がすな!」 逃げる者の中に、人波に押される剣持の姿を捉えた不破は大声で怒鳴ったが、即座に動いた日下部らにしても、パニックを起こした暴徒の前には役立たずであった。不用意に近付いた紺胴着など何人かまとめて人波に押し潰されてしまい、結局不破も日下部達も、暴徒の群れが行き過ぎるのまで指を咥えて見ているしかなかった。 「ぬうう〜ッ、どこまでも愚かな奴らよ。――行け! 決して奴らを逃がすな! 暁弥生の捕獲を邪魔する者は殺しても構わん!」 「御意――」 何者かがトラックを突っ込ませてきたという事実には驚かされたものの、かつてない戦いの予感に闘争心が触発されたか、口元に押さえ切れぬ笑みを浮かべ、日下部が真っ先にドアを抜けた。沢松、竜崎、矢部も素早くその後を追う。――どの顔も歓喜に満ちていた。狩場が炎に包まれていようとも、習い覚えた技術を存分に使えるという歓喜、超人的能力で敵を圧倒して押し潰すという愉悦は止められない。正に魔物の歓喜であった。 トラックの特攻〜まるで一昔前のヤクザのやり口だ〜は二台で止まったが、火の手が上がって火災報知器がやかましい。不破は警備室に連絡を取り、しかしどこの誰が、何人で攻めて来たのかも皆目判らぬという状況にギリッと歯を噛み鳴らした。――紫暮の戯言が真実だと知ったところで、今更遅い。 ならば考えるべきは次の一手だ。彼はビルの封鎖を命じる一方で、懇意にしている神城警視に連絡を取るように命じた。既に消防署にも連絡が行った事を確認して憤然とする不破ではあったが、それは同時に殺し屋への牽制にもなる。どこの組織がこれほど荒っぽい真似をしたのか知らないが、いたずらに騒動を大きくするのは素人のやり口だ。警察にも防衛庁にもコネを持つ自分の敵ではない。むしろ問題なのはマスコミへの対応だ。原因は何であれ、これほどの事件ともなれば対外的にも何かと問題が生じ、物見高いマスコミが飽きるまで記者会見にも応じねばならず、裏の活動も控えねばなるまい。だが――紫暮兵庫に風見拳士郎。あの小僧たちだけは殺さずには置かない。背後関係を洗い出した上でじっくりと責め殺してくれる。 しかし今は、暁弥生の確保が先だ。こんな状況では日下部たちだけに任せておけぬと、遅ればせながらドアを抜けようとして、不破はフロアを見回した。そこには呻き声を上げる人体がいくつも転がっている。拳士郎にやられた者、暴徒に踏み付けられた者などで、共通して重症であるが、そんな事は不破にとってさしたる問題ではなかった。 「貴様ら! いつまで這いつくばっておるか! さっさと奴らを追えィッ!」 常人ならば【そんな無茶な】と言うところであろう。だが倒れている者たちの中で、紺胴着たちは違った。血を流し、手足が折れている者までいると言うのに、彼らは不破の声がかかると同時に全員が起き上がろうと身悶えを始めたのである。そして――獣の唸り声。 二〇秒を経ずして、全ての紺胴着が立ち上がり、歯を噛み鳴らして低い唸り声を響かせると、不破は凶悪な笑いを顔に刻んだ。どこの組織が挑んできたのか知らないが、手塩にかけて育てた武道家を更に強く【変異】させた戦闘集団に勝てる者はいない。 己の剣〜水心子秀正の小太刀を手に颯爽とドアを抜ける不破。その時ふとフロアの一角に目をやると、黒コートを纏った包帯だらけ、汚物塗れの死体が目に入った。――あの男の血を引く者ならばもう少し【やる】であろうと思ったが、いかに不意を打たれたとは言えこれほどの怪我を負い、【親友】であるかに見えた紫暮がこんな暴挙に出るとは思わなかった。【戦場】では傷付いた者を見捨てるのは良くある事とは言え…。 「――ふん。親子共々、甘かったという事か」 そうは言いつつも、不破は一介の高校生である紫暮が龍麻を殺した事に率直な驚きを覚えていた。本物の戦場云々を口にしたとは言え、【戦場】で見捨てねばならぬ戦友に対する情け〜【仲間】の手で殺してやる〜を義心に厚いと評判の紫暮兵庫が実行したのである。これではまるで、彼らこそが―― (いや、所詮は今時の若造。そこまでの考えなどありはしない、侍には程遠き者よ) 紫暮は龍麻に止めを刺した後、あろう事か弥生をさらって逃げ出したのだ。謹厳実直など所詮上辺だけの事。表面上は友人面をしていながら、実は暁弥生を奪う機会を窺っていたのだろう。――昨今の若者に、自分の命を顧みぬほどの義侠心などありえない。友情も愛情も形だけのもの。皆、自分さえ良ければ良いのだ。目先の事で一喜一憂し、ちょっとおだてるとすぐのぼせ上がり、弱い者を見ればすぐ天狗になる。――若者とはまことに愚かなものだ。だからこそ自分はこの惰弱な世に喝を入れようというのに、見せ掛けの平和に酔う者たちは口先だけで自由だの権利だのと唱え、しかし自らは一切動かずに日々享楽にふける。――嘆かわしい。 頭を振った不破は、カーテンを引きちぎって龍麻の死体にかぶせた後、今や狼の群れと化した自慢の【兵士】を引き連れてドアを抜けた。火災報知器と連動して防火シャッターが下りているものの、火災はビルの外壁だけなので中央階段は健在だ。ところがパニックを起こした者の哀しさ、逃亡者たちは状況判断能力を失い、かえって火災現場に近い非常階段に向かってしまったらしい。そちらは既に火と煙が充満し、その後を追うのは得策ではないと、日下部らは反対側の非常階段に向かったようだ。 「あやつらも、まだまだだな」 ならば、と不破は防火シャッターの非常扉を抜け、最も安全な近道になる中央階段を駆け下り始めたが、半階分ほど降りてふと立ち止まる。 「――ッ!?」 何か、不穏な空気がこの空間を支配している。肉食獣の縄張りに足を踏み入れてしまったような、独特の緊張感。それが不破の脳裏に警鐘を鳴らす。この一連の出来事――何かがおかしい。どこかが狂っている。事態の急変が過激すぎて失念している事実がどこかにある。不破は脳裏に今まで見た光景を再現し―― 「――ッッ!!」 戦慄が背筋を突っ走り、不破が猛然と振り返った時である。 階下階上からいくつもの閃光が走り、大音響と共に膨れ上がった炎が階段ホールを駆け昇り、逃げ場のない不破と紺胴着を爆風で吹き飛ばした。 第六話閑話 武道 4 目次に戻る 前に戻る 次に進む コンテンツに戻る |