第六話閑話 武道 3
東京、千駄ヶ谷、一六五五時。 「…何とも、今日は運が良いな」 本格的に演舞会の準備が始まり、恐れ多くもVIP待遇で控え室を使わせてもらっている龍麻は、汗に塗れた身体をタオルで拭きながらしみじみと言った。 「ああ。俺も空手一筋で来たつもりだったが、やはり武道の世界は奥深いと感じ入ったよ。――随分差を付けられてしまったようだな、ケン」 「な〜に言ってやがる。お前だってなにやら隠し玉を持っていそうな雰囲気だぜ。ひーちゃんなんか、何持ってても不思議じゃねェしな」 拳士郎のニヤニヤ笑いに、紫暮はやや頬を引き攣らせて愛想笑いをする。――彼とは親友だが、龍麻の秘密を明かす訳には行かない。 「まあ良いさ。男子たるもの秘密の一つや二つ持ってて当たり前だ。それに性根の曲がってる奴に、あの先生方が技を見せたがる訳がねェ。――結構大変だったんじゃねェか? あんなに相手させられたんじゃ」 「いや、貴重な体験だ。あれほど深く武道を納めている方々と組手ができるなど、幸運という言葉では足りん」 「はは。渋沢先生じゃねェけど、謙虚なんだな、ひーちゃんは。俺なんかもう逃げ回ってる時期だってあったんだぜ。意外とあの先生方って物騒な茶目っ気があっただろ?」 拳士郎のぼやきに苦笑で応える龍麻と紫暮。龍麻と紫暮が技を直接見せてもらったのは後野だけに留まらなかった。俺も一丁、私も一つ、とばかりに、龍麻たちは次々に達人達と組手もしくは講義を受け、多様にして貴重な日本武道の数々を体験させてもらったのである。 演舞ならば【見せる】為の約束事も必要であろうが、実地で体験させるのにそんな気遣いは無用で、達人達は龍麻らの技量に合わせてかなり深いところ…本来ならば門外不出の【実戦】用法まで見せたのであった。特に最高齢である渋沢翁は齢八〇を越えた身で、蝶のように舞い蜂のように刺すという表現そのままに、実に三十分以上に渡って龍麻たちを翻弄し続けた。その結果、龍麻も紫暮も、彼らをして無数の痣を作る羽目になってしまった。 しかし、得られたもの、学んだものの大きさを考えれば、打ち身の痛みはむしろ勲章だ。単なる格闘技と武道の違い――龍麻はその一端に触れられた事に率直な【喜び】を感じていた。紫暮など、全国大会が控えているというのに拳をボロボロにしてしまっていたが、興奮冷めやらず、しきりに拳を握ったり開いたりする。 「ああ。しかし感激だ。最も基本である正拳突きでさえ、これほど奥深いものであると直接教えてもらったのだからな」 謹厳実直タイプの紫暮には珍しく、その場で構えを作り、彼の思い描く仮想敵に向けて中段正拳突きを繰り出す。掛け値なしに空気が焦げる匂いがして、五メートルは離れているアルミサッシがビリビリと震えた。勿論、仮想敵は【反撃】する間もなく正拳の餌食になっている。 「…その一撃で相手を倒せぬものは突きにあらず――か。やはり【実戦】に身を置いた方の言葉は尊く、重いものだな」 「肯定だ。この貴重な体験を糧に、我々も同じ高みに至れるように鍛錬あるのみだな」 「うむっ」 紫暮が力強く頷き、拳士郎もニヤッと男臭い笑いを見せる。 「ホント、兵庫もひーちゃんも今時珍しい求道者だな。普通、天才タイプってのはいつまでも謙虚じゃいられねェモンなのにな」 「天才か。生まれついての素質も重要であろうが、その素質を生かすのも、努力が報われる方向性を見定めるのも、良い教育や環境、本人の志次第だ。何もかも独立独歩で通せる人間など、この世に存在せん」 「はは、そんな奴がいるのは漫画か映画か、いずれにせよノータリンの妄想の中だけだな。俺も素質にゃ徹底的に恵まれなかったが、今ではそれで良かったと思ってる。おかげで良い先生方にも会えて強くしてもらえたし、良いダチにも恵まれた。武道ってのはホント、良いもんだ」 「うむ。俺もそう思う」 龍麻があっさりとそんな事を口にしたので、紫暮は感心し、笑みを零した。口では武道家ではないと言いつつ、この男は本当に器が大きい。口にはしないものの、紫暮には龍麻が、今日出会った達人達と同じ高さにいるような感想を持っていた。 「心身共に強くなれば、人は誰とでも仲良くなれる――渋沢先生はいつもそう言ってるが、俺も本当だと実感する事が多くなったぜ。――だが気を付けてくれよ。志の低い奴はどこにでもいるし、特に昼間の連中、あいつらは半端モンの癖にプライドだけは一丁前だから、すぐ屈辱だとかイラ付いたとかムカ付いたとか言って突っかかって来やがるからな。――実力の事じゃねェ。ああいう連中をぶちのめすと、後が厄介だって話だ」 「確かに、格闘技を学んでいる者としては、あの堪え性のなさは問題だな。視野も狭く、短慮で、無闇に敵を作り、人を殺してから言い訳を考えるタイプだらけだ。――あの不破という男は、なぜあれほど尊大なのだ? 相当な実力者である事は確かなようだが、鍛錬の過程を思えば、あれほど歪んだ思想を持つとも思えん。むしろ、無理に悪役を演じているかのようにも見受けられる」 拳士郎はちょっと考え、言った。 「実戦経験があるんだとよ。あのオッサン」 「実戦経験?」 紫暮が眉根を寄せる。――【実戦】…。龍麻と付き合うようになってから解った事だが、実際に使用するには驚くほどあやふやな表現だ。 「武者修行とか称して、湾岸戦争に傭兵として参加したんだと。要するに、本物の【戦争】を体験してるって事。やたら【実戦】を口にして、松田先生や渋沢先生にまで暴言を吐くのはそのせいさ。【命懸け】の実戦をこなした事があるのか、一対一の戦いなんぞ生温い喧嘩の延長だ――ってな」 「――なるほど。戦場の片隅を覗いた事で視点が変わったか」 淡々とした口調に変化はない。しかし明らかに彼は不快に思っているようだ。彼は更に言葉を継ぐ。 「軍隊がいて弾丸が飛んでいれば即戦場などと考えるのは、銃アレルギーに侵された日本人特有の浅慮な概念だ。一度でも最前線を、あるいは激戦区を経験した者ならば、そんな事は口が裂けても言わん。もし彼が【本気】でそう言っているならば――返り血が相当甘かったのだろうな。圧倒的優位な環境下で闘っている者が侵され易い【病気】だ」 龍麻は最前線の、それも少人数で作戦を行う特殊部隊の出身である。当時は感情なき兵士であった彼だが、記憶を辿ればよく生き残れたものだと思える戦闘を何度も経験している。作戦を共にした特殊部隊の精鋭の中にさえ、時に発狂者が出るほどのプレッシャーとストレス。己に課せられた任務と、それを果たす義務と責任。――人と人が殺し合っていれば戦争だと考えるのは、チャチな戦争映画の悪影響だ。英雄が殺人鬼の別称に過ぎず、愛も友情も憎悪も愛惜 ただ、それだけならばあの場でかかって来なかったのが少々気にはなる。子供だましと断じつつ、実は龍麻が本物の拳銃を所持していると気付き、あの場での戦いを避けたのではなかろうか? もしそうならば――油断ならぬ男だ。 「――そりゃそうなんだけどよ。昔はあんな感じじゃなかったらしいぜ。先生方がどんな暴言を吐かれても相手にしないのは、今でも【本気】で言っているようには聞こえないからなんだと。それに、一部耳が痛い事もあるしな」 「仮にそうだとしても、平和な法治国家で口にするべき事ではないな。真の【戦場】では戦って死ぬ者よりも、劣悪な環境による病気や精神疾患に侵される者の方が多い。様々な問題を抱えているにせよ、日本は平和だ。ならばその平和、いたずらに乱すべきではない」 戦場を知る男の独白に、紫暮が少し頭の血を下げた時である。拳士郎のポケットから日曜日の夕方におなじみのメロディが流れ出した。 「おっと、ちょいとゴメンよ」 そう言って五歩ばかり離れる拳士郎。そこでふと龍麻も、携帯の電源を切りっぱなしであったことに気付いた。電源を入れると、途端に振動する携帯。それを耳に当てると―― 『『ひーちゃん!!』』 「――!」 耳を劈く騒音の直後、龍麻はイタズラ電話撃退用のブザーを最大音量で報復していた。電話口の向こうで何かが倒れる音が重なる。 「――ひーちゃんゴメン! いきなり大声出しちゃって!」 倒れたのは京一のようだが、どうやら小蒔は仕留めそこなったらしい。 「――もう少し静かに話せんのか。何があった?」 『えとね、えとねっ、暁さんのイベントを待っていたら建物の裏で喧嘩があってミッキー君が怪我してて暁さんと一緒に藤咲さんまで一緒に連れて行かれて…!』 「――葵、そこにいるのか? 代われ」 パニックを起こしている小蒔の話ではさっぱり理解できない。すると向こうでもタイミングを計っていたのか、すぐに葵が電話口に出た。 『あのね、龍麻。もう三〇分ほど前になるけど、新体操選手の暁さんと一緒に亜里沙が誘拐されたの。巻き込まれたらしい女の子二人は軽傷だけど、亜里沙と一緒にいた森君と鎧扇寺の空手部員が一人一緒に連れ去られたわ。車は銀色のバンタイプ二台。ナンバーは隠されてて解らなかったわ。――私達、どうすれば良いかしら? このまま警察に任せるべき?』 「亜里沙が誘拐されただと? 警察は動いたのか?」 『ええ。大騒ぎになった直後に駆け付けた警官が、すぐにパトカーで追いかけて行ったって』 それならば安心と考え――嫌な予感が脳裏を駆け抜ける。外見も中身も本物の警官であっても、性根が腐っている事例は少なくないのだ。タイミングも良すぎる。 「――ならば、今は待機だ。亜里沙の携帯はこちらで追える。俺に任せておけ」 『えッ…待機って…?』 「お前達は帰宅し、俺の連絡を待て。警察が動いている以上、お前達の介入はまずい。――その二人を頼むぞ、葵、醍醐。場合によっては実力行使も許す」 好きなアイドルがさらわれて頭に血が上っている京一と小蒔は、今は危険な存在だ。葵も醍醐も少し引き攣った声で了解と答える。 「緋勇、何があったというのだ? 藤咲とか、鎧扇寺の空手部員とか…」 龍麻は【ちょっと待て】と手を上げて紫暮を黙らせた。するとそこに、電話を終えた拳士郎が戻って来た。 「――おお、悪ィ悪ィ。ちょいと急な野暮用ができたんで、俺はホテルに戻るわ」 「? ――おお、そうか」 「まっ、お前さん達はゆっくりしてってくれ。――さっきチラッと聞いたんだが、なんと、大氣拳の澤ノ井先生に、K−1のアンディ・フグ選手までいらっしゃるんだと」 「おお。澤ノ井先生と言えば、確か中国拳法の大家に教えを受けたという方だったな。それにアンディ・フグ選手とは…いや、実に楽しみだ」 「ああ。――んじゃ、な」 軽く親指を立て、拳士郎は控え室を出て行った。 無用な言い訳をする必要がなくなったのは幸いだ。龍麻は紫暮に向き直った。 「詳しい事情は不明だが、誘拐事件に亜里沙が巻き込まれたらしい。更にその場に居合わせたミッキーと鎧扇寺の空手選手が一名攫われたそうだ」 「何だと? 誰が、何の目的で?」 気負い込む紫暮の胸板に手を当てる龍麻。 「落ち着け。状況の整理と情報収集が先決だ。お前はまず部員の点呼を取れ」 頷き、早速携帯電話を耳に当てる紫暮を横目に、龍麻は彼から少し距離を取った。そして自分も心当たりの番号をプッシュする。 コール二度目で、相手が出る。 『――はい、御厨 「こちらは不良学生です」 途端に、警視庁新宿署勤務の刑事、御厨の声は小さく潜められ、多少不機嫌な響きを帯びた。 『お前か。何の用だ?』 「三〇分ほど前、武道館の近くで誘拐事件が発生したのをご存知ですか? 警官が即座にパトカーで追跡したとの目撃情報がありますが」 『――何? そんな話は聞いていないぞ。武道館だって?』 「ナンバー不明の銀色のバンタイプ二台にて女子学生二名、男子学生二名が誘拐されたとの事です。狙われたらしい者の身元は、新体操選手の暁某とか」 『ちょっと待て。…――こっちには連絡なしだ。確かなネタか?』 「裏を取るのはこれからですが、信頼できる筋からの情報です」 『全くお前って奴は…! まあ良い。こっちでも当たってみる。――いいか? くれぐれも言っておくが…』 「出過ぎた真似はしません。――何か解ったら追って連絡します」 思った通り、警察は動いていない。龍麻はそう言って電話を切り、更にボタンをプッシュした。コール三度目で、けだるい女の声が響く。 『――はあい』 「タバコは持っていないが、ロッテのチョコレートならばある」 『あら、チョコなら森永よ。――ちょっとご無沙汰ね。何か事件かしら?』 高田馬場に勇名馳せる情報屋、マダム・クレオパトラは親しみ深く言った。 「今から三十分ほど前、武道館で誘拐事件が発生した。被害者は女子学生二名、男子学生二名。メインは暁某という新体操選手らしい。――何か情報はあるか?」 『武道館というと、今日は国体があったわね。すると狙われたのは暁弥生ちゃん…。――ン〜、まだ情報はないわね。でも弥生ちゃん絡みなら、狙ってる奴は多いわよ。函津 「【フリーダム】は壊滅した筈だが?」 『本気で言ってる訳じゃないでしょ? 良いトコのボンボンはもう保釈金払って、まっさらな経歴を買った上で出てきてるわよ。――あら、でも一応保護観察扱いなのね。青少年育成を謳っている全日本古武道振興会っていう所に元【フリーダム】の幹部連中が何人かいるわ』 ピク、と龍麻の頬が跳ねる。全日本古武道振興会…こんな形で関わってこようとは。 「そこの会長…不破弾正に付いて教えてくれ」 『あら、知ってたの? ――不破弾正、年齢四三歳。元は内閣調査室御用達の神羅覇極流合気柔術の師範で、九〇年にフルコンタクト総合武道【覇王館】を設立。九五年には全日本古武道振興会を立ち上げ、そこの理事を務める。日本各地の武道武術の文化を保存し、青少年の育成を行うという理念と活動が認められ、去年、警視庁特別機動隊の指導員の地位を渋沢流合気柔術【養心館】から受け継いでいるわ』 「…推薦したのは、例の蘭堂 『ピンポ〜ン、その通りよ。でも表面上はあくまで会議で決まった事になっているわ。拳銃使用に代わる、強力な逮捕術の導入を図るという名目で、武器術に優れる人材を求む――ってね。――本部道場は吉祥寺にあるけど、行くなら気を付けてね。スクープ欲しさのルポライターやら金をせびりに行ったヤクザが帰って来ないなんていう、ちょっと怖い噂もあるから』 「解った。料金は規定額を振り込んでおく。――引き続き何かあったら知らせて欲しい」 オッケ〜、の後にブチュ、と続き、マダム・クレオパトラの電話は切れた。 これは、まずい事になってきた。【フリーダム】の残党に、あの獣人事件の関係者がこの一件に関わっている可能性がある。どうやら事はただの誘拐ではないらしい。 「――緋勇。確認が取れた。攫われたのはうちの前田と真神の森らしい」 紫暮が緊張を隠せぬ顔で戻ってくる。――旧校舎に巣食う魔物相手でさえさしたる動揺を見せなかった男だが、部員の安否が知れぬとなると冷静ではいられぬようだ。彼はいい男である。 「こちらも行き先の見当は付いたが、まだ情報が足りん。――俺は一旦新宿に戻る」 「俺も行くぞ。うちの部員も攫われたとあっては捨て置けん」 龍麻は紫暮を真っ直ぐに見た。 紫暮もまた、龍麻を真っ直ぐに見返す。――【武】が【暴力】を止める力であると信じる男の目には、僅かな濁りもなかった。常に平静眼。 「良かろう。ただし今回は先の事件とは性質が大幅に異なる。【俺たち】の【敵】は人間を捨てた魔物だ。姿は勿論、思いがけない特殊能力、人間とは異なる思想を持っていると念頭において行動しろ」 「――あの、人を石に変えるというような【力】か。うむッ、解った」 方針が定まれば、後は時間との勝負だ。【達人】たちに嘘が通じるか考えつつ、龍麻は紫暮を伴い、控え室を出た。 しかし、控え室を出た途端、ある意味最悪の相手と鉢合わせてしまった。 「――おや、どこか行くのかね?」 廊下一杯に詰まっているような圧倒的な存在感と、太い声。鉢合わせたのは【北辰会館】館長、松田雄二郎であった。清潔だが、使い込まれた道着を纏っている。襟の合わせ目から覗く筋肉は、高密度の自然石を磨き上げたかのような印象を与えた。――筋肉の物理的耐久限界を、尻に畳針を突き立てた痛みを利用して克服するという、信じ難いトレーニングで培った筋肉だ。 「あ〜、こりゃ惜しい事したな。主催者だからって挨拶回りなんかしなきゃよかった」 龍麻が何事か言おうとする前に言葉を継ぐ雄二郎。頭をボリボリ掻きながら、玩具を買ってもらい損ねた子供のような顔をしている。それは――彼だけが龍麻達に己の技を見せていなかった事を指していた。 「――いえ、小用であります。可能な限り迅速に戻ってまいりますので、この場はご容赦を」 とっさに言い繕う龍麻であったが、ジロリ、と疑うような雄二郎の目に、背筋がゾクリと震えた。 「ん〜、まあ仕方ないか。しかしこの世の中、何が起こるか判らねェモンだ。――どうでェ、一分だけおいらに付き合っちゃくれねェかい?」 この男は何を言い出すのか? 今日集まった【達人】達はそれぞれ個性の塊であったが、その中でも極め付けを一人選ぶとすれば、この松田雄二郎だ。他の者は【武道】と共に積み重ねた【人生】そのものが巨大な人の器を形成しているが、彼だけは更に一味も二味も違い、未だ成長過程、【武道】における青春真っ盛りという印象を受ける。――【喧嘩が好き】と公言して憚 「――では、二分間だけお付き合いいたします」 彼の真意がどうあれ、恐らく【技を見せる】為に来た事は想像に難くない。龍麻は頷いた。 「いやあ、君なら必ずそう言ってくれると思ったよ。――うんうん、良いねェ、はっはっはっ!」 頭を掻き掻き、心底嬉しそうにそっくり返って笑う雄二郎。龍麻は訳が判らず―― 「――ッッ!!」 全く無意識に繰り出した下段十字受けに、ダンプでも激突したかのような衝撃! 少しでも踏み止まろうとしたならば、受けた腕ごと水月をぶち抜かれていた、雄二郎の前蹴りであった。 「龍…ッ!」 紫暮が振り返るより速く、白の閃光が疾る。吹っ飛んだ龍麻を追う雄二郎の踏み込みであった。着地する直前の龍麻に向けて【神の拳 龍麻の左眼がカッと光った。 正拳を右頬に受けた瞬間に鋭く転身して衝撃を逃がし、左肘の廻し打ちで雄二郎の水月を打ち上げる龍麻。これらを一挙動で行った結果、雄二郎が空中で弧を描いて床に叩き付けられ――否、百キロを越える巨体が猫よりも身軽に床に降り立つ。そこに龍麻の、右直突き! 一切手加減なしの――殺す為の一撃! 「――ッッ!?」 雄二郎の顔面を貫く筈だった拳が、彼の眼前で止まっていた。龍麻が止めたのでも、雄二郎が見切った分だけ下がったのでもない。リーチの読み違えなどなかった龍麻の拳が届かなかったのだ! しかも雄二郎は――龍麻の拳にキスなどして見せた。 間髪入れず、左の前蹴り! たとえ下がろうとも水月を貫くつもりで――! 「!!」 ――当たらない!? 雄二郎は数ミリたりとも下がっていないのに! どんな魔術もトリックも関係ない。龍麻は前蹴りを踏み込みに変え、雄二郎を確実に捉え得る距離から下段の廻し蹴りを――! 「――ガッ!!」 既に還暦を迎えていながら、なんと言う運動能力! 龍麻の下段蹴りを跳躍でかわし――たのではなく、完璧にタイミングを合わせて飛び廻し蹴り! 意識とは無関係に上げたガードは何の意味もなく、龍麻の脳髄を衝撃が駆け抜け、目の奥に火花が散った。為す術もなく壁に叩き付けられた龍麻は、しかし前髪の奥に真紅の輝きを零れさせつつ猛然と立ち上がり―― 「――ここまでだ」 龍麻の眼前に、分厚い手のひらが広げられた。 「――許したまえよ、緋勇君。こうでもせんと、君の本当の実力が見られないと思ったのでね」 「……」 たかが手のひら一枚。それを前に龍麻は動かなかった。否、動けなかったのが正しい。――恐怖ではない。殺気が一切なく、熱く巨大な存在感が、こちらの攻撃意思を真っ向から受け止め、呑み込み、包んでいる。幼子が力いっぱいぶつかっていくのを受け止める、父親のように。 龍麻の目から、血色の輝きが失せていくのを見て、雄二郎は手のひらを下ろした。 「――良かった。拳を納めてくれて。本気の君――と言うより、君の中にいる奴と闘り合ったら、おいらでも殺られていたかも知れないねえ」 「…試したのですか、自分を?」 「怒らせちまったんなら謝る。この通りね。――しかし緋勇君。君も自分の中にいるのが相当ヤバイ奴だと解っているようだね」 「……!」 「だが――安心した。君の修行が、【そいつ】を繋ぎ止めておくものだと解ってね。――俺らは皆ここに泊まる。用事が済んだら戻って来なさい。アルコールは抜きだが、一杯やろうや」 コップを傾ける仕草と共にニカッ、と笑う雄二郎。たった今、殺し合いのような闘いを演じたというのに、龍麻も引き込まれて笑みを浮かべていた。自分でも意識しない笑み。 龍麻は威儀を正し、痺れの残る腕で敬礼した。 「了解しました。可及的速やかに戻ってまいります」 では――と続けようとした龍麻に、雄二郎は人差し指を立てた。 「積もる話は後にして、一つだけ先に教えておこう。――昼間の不破って男だが、ありゃあ昔、君の親父さんとつるんでいた事があるんだよ」 「――!?」 「似たような若ェ連中と一緒になって、あっちこっちの道場を訪ねて回ってた。時には道場破りめいた事にもなったらしいが、俺の所に来た時は凄ェ仲の良い連中だと思ったよ。それがどこであんな風になっちまったもんだか…。まあ、どこかで出会ったら気を付ける事だね」 再びニヤリと笑う雄二郎。しかしどこか怖い笑み。どうやら彼は、龍麻がどこに行くのかすっかりお見通しらしい。 「ご忠告、感謝いたします。では――失礼します」 何がなんだか解らないながら、とりあえず危機は去ったらしいと息を付く紫暮を連れ、龍麻は足早にその場を立ち去った。 それと入れ替わりに、渋沢や仲村など、【達人】達がぞろぞろと連れ立って現れた。 「――どうやら、わしらの思った通りだったようじゃね。挑んだのが松田さんでなけりゃ今頃どうなっていた事か」 「松田さんの【無拍子打ち】まで受けましたか。しかし、己の内にいる獣には、きちんと鎖をかけているようですな、彼は」 渋沢の言を、仲村が受ける。【達人】達は今の出来事を全て承知の上だったのだ。 「ずっと彼は【学ぶ姿勢】を通していましたから。今のでさえ、果たして本気であったかどうか。【意】を消せる松田館長だからこそ止められましたが、拳に殺気が宿っていたならば、彼は相手を殺すまで止まらなかったでしょう」 「しかもその時には、素手じゃないですな。ナイフ、拳銃、散弾銃、ライフル…コートの裏地にはプラスチック爆弾まで。いやはや、果たしてどれが飛び出したやら」 後野が言い、初実が継ぐと、【達人】達は揃って頷いた。喜んでいるのか、哀しんでいるのか、微妙な表情で。――彼らは【武道家】なのだ。 「しかし、あの子は頭が良い。理性的で、志も高い。確かに法律的には問題ありじゃが、あの武器が向けられる相手は極めて限られているじゃろうね」 「是非、そう願いたいものですな」 雄二郎はゆっくりと振り返った。 「……!」 居並ぶ【達人】達も絶句する。龍麻の攻撃を全て捌いたかに見えた雄二郎であったが、彼のあぐらをかいたような鼻から血が一筋糸を引いたのであった。そして自然石から削り出したような腹筋に、青黒く走る巨大な痣。龍麻の突きも前蹴りも、それを放った本人でさえ気付かぬレベルで届いていたのであった。 「あの歳で、これほどの技量。惜しむらくは、技が確立され過ぎている事だな。まだまだ伸びるだろうに、レベルに合う相手がいないのと、【中の奴】がしゃしゃり出るせいで伸び悩んでいる。何より、自分の拳に信頼を置いてねェのはいかんなァ。こりゃあ一度、あの固まった状態をぶち壊さんとならんかねえ」 ククク、と含み笑いを洩らした雄二郎は、しかしニヤニヤ笑いを押さえきれなくなり、なんとも怖い笑顔になった。獲物を見つけた、肉食獣の笑み――否、命を賭して戦うべき好敵手を見出した、闘士の笑みであった。 「松田さん、アンタあの子に喧嘩を売るつもりじゃあないだろうね」 「当然じゃないですか。――ほら。おいら、震えてるぜ。――哭いて喜んでるんだぜ、こいつら。あんな凄ェ奴に出会えて、嬉しい嬉しいって」 驚くのと呆れるのと、羨望の溜息が洩れる中、武者震いする筋肉を愛しげに撫でつつ心底楽しそうな雄二郎の哄笑が空気を震わせた。 東京、武道館、一六二〇時。 「やっほーっ。だーれだ?」 大行列ができつつある武道館の駐車場を一望できるベンチで、一人紅茶を啜っていた藤咲亜里沙は、背後からいきなり目隠しされた。 「やっ、弥生 「へっへ〜っ、隙だらけよ、亜里沙」 ぱっと明るくなった視界の中で、栗色のポニーテールが大きく揺れる。一六八センチの亜里沙をやや見下ろすように、大輪のひまわりを思わせる美貌が笑っていた。 「ひっさしぶり〜っ。元気にしてた?」 「勿論よ。アンタも元気そうじゃない。すっかり人気が出ちゃって、バテてるんじゃないかってちょっと心配してたんだけどね」 「へっへ〜っ。それはお互い様よ。何か一段と大人っぽくなっちゃって。――さてはおぬし、彼氏でも出来たな?」 やや猫目がちな目が悪戯っぽく細められ、肘で亜里沙の脇腹をちょんちょんと小突く少女。【彼氏】という単語に亜里沙の頬がちょっと赤くなり、次いで【フッ】と悟ったような苦笑とため息が自然に洩れた。 「あら、なんなのよ、そのため息は?」 「彼氏…ねェ…う〜〜ん…あの男相手だとメチャクチャ微妙だわ。――って、そんな事はこっちに置いといて、今や天下のアイドル暁弥生ちゃんがわざわざ会いに来てくれるとは嬉しいね」 この少女――亜里沙とモデル仲間である暁弥生の地元は千葉である。厳密には、房総半島沖合いに建設された海上都市 「な〜に言ってんのよ。そこはアタシと亜里沙の仲じゃない。こういうイベントに呼ばれるようになったからって、アタシらの友情は変わんないわよ。――握手会だなんて照れ臭いけど、まあ最前列で見てって頂戴な。で、これが終わったら、皆で騒ぎましょ。友達がちょっと洒落っ気のあるレストランをリザーブしてくれてるのよ」 「わお、そりゃ良い話ね。その友達って、いつもの幼馴染? そう言や、姿が見えないね? まさか、逃げられちゃった?」 さっきのお返しとばかりにちょっとからかってみた亜里沙であったが、弥生はあっさりと破顔一笑してのけた。 「あははははっ! あんな便利な家来を逃がす筈ないじゃない。ちょっと色っぽく迫ればイチコロよ、イチコロ。まっ、今日は師匠に御呼ばれしてるのよ。――たまには放し飼いにしてやらなきゃね」 「おやおや、そんな事言っちゃって。アタシみたいな一人モンから見れば、アンタ随分恵まれてるんだよ? ちょいとマッチョだけど、フェミニストで気配り上手な良い男じゃないのさ。そりゃあ少しはスケベかも知れないけど、そこらにいるちゃらちゃらした奴らとは別モンじゃない。もっと大事にしてやんなきゃ駄目だよ」 すると弥生は、きょとんとした顔をして亜里沙の顔を覗き込んだ。ついでに、亜里沙の額に手のひらを当てる。 「ん〜〜? 熱はないようね。亜里沙…なにか変なものでも食べた?」 「な、なんで?」 「だってェ…以前ならそんな事言わなかったでしょ? 世の中の男は皆下僕! ――ってのがアタシらの信条でしょ?」 「エッ!? ああ、まあね。――あはは…。こっちも色々あったのよ。世の男どもも捨てたモンじゃないって言うか、ちょっとばかり見る目ができたと言うか…まあ良いじゃない! そんな事はさッ!」 確かに、この親友に言われるまでは気付かなかった。男とは常に威張り散らし、暴力で何でも押し通そうとし、その癖、自分より強い者には卑屈に縮こまる…そういうものだと思っていた自分が、いつの間にかそんな事を言えるようになっていたなどと。 しかし弥生は、ふっと微笑して見せた。 「亜里沙、可愛くなったね」 「なっ!? いきなりなに言ってんだい!」 「あらぁ? 変な意味じゃないわよぉ。――可愛いって言うのが嫌なら…そうねえ、前よりぐっと女らしくなったって感じかな? 勿論、良い意味だからね」 「なに言ってんのよぉ。そんな事ある訳ないじゃん」 苦笑いしつつ手をひらひらさせる亜里沙であったが、頬が紅潮するのを押さえられない。今までそんな事を感じた事は一度もなかったと断言できるが、今は無性に照れ臭い。 そんな亜里沙をニコニコしながら眺めた弥生は、はっと気付いて時計を見た。エキシビジョンと交流会の間隙を縫って抜け出してきたものだから、準備の都合上、もう戻らねばならない。 「おっと、やばいやばい。そろそろ化けないとね。――コブ付きだけど、今夜は徹底的に愉しみましょ」 「はははっ。全くアンタって図太いわよねェ。さっきの新体操でも大勢のカメラ小僧に狙われてたってのに、大したモンよ。アタシの知り合いのヤローどもなんか鼻の下伸ばしちゃって、まあ見ちゃいられなかったコト。今回も下僕候補大量ゲットは確実ね」 「ふふっ、ありがと、亜里沙。――それじゃ、中に入りましょ」 「オッケ〜」 弥生と連れ立って歩き始めながら、胸の内に湧く暖かいものをそっと包むように押さえる亜里沙。少し疎遠になっていた時間が二人の関係に溝を作る事はなかったと確信が持て、嬉しさがこみ上げる。しかし――急速に顔を険しくした。 「――ようようようっ。とうとう会えたね、暁弥生ちゃあん」 親友との再会で良い気分でいるのをぶち壊しにする、やに下がった声。どんな少女でもこんな声だけは掛けられたくないであろう見本が数名、二人の前に立ちはだかった。 「――またあんたたちなの? もう付きまとうなと言った筈よ」 亜里沙と話していた時とは正反対の、高圧的で刺々しい口調。そんな口調でも声は澄んでいて良く通り、加えて彼女が大柄でグラマーな事もあり、実に見事な迫力を生んだ。――今日は新体操選手として来た彼女だが、武術なしでは務まらぬ京劇女優の名は伊達ではない。 実際、五人の内三人までが一歩後ずさりしたが、辛うじて下がるのを堪えた先頭の男が口を開いた。 「そんなに情なくしなくたって良いじゃないか。僕らは皆君の大ファンなんだよ? だからこうして君が来るのを今か今かと待っていたんじゃないか。――ね、もう一度考え直して、イベントが終わったら僕らのパーティーに参加してよ。ね?」 「考え直すつもりなんかこれっぽっちもないわよ。さっさと消えなさい。そもそもあんたたち、あたしのいる百メートル圏内に入るなって裁判所に言われてる筈よね? この場にいるだけでも犯罪になるって事、解ってんの?」 五対二で半ば取り囲まれながら、弥生の声には少しも脅えが見られない。さすが我が親友と感心しつつ、なにやら不穏当な単語の連続が気になり、亜里沙も口を出した。 「弥生、こいつらなんなのさ?」 鞭を取り出すのは一挙動で事足りる。亜里沙はリラックスして弥生と並んだ。距離が近いのが難点だが、そこは龍麻仕込みの護身術の出番だろう。 「ああ、いーのよいーのよ。こんな連中、アンタが気にするほどの事ないって。――ホラホラ、行きましょ。さっさと行かないと遅刻しちゃうわ」 そこは気心の知れた者同士。弥生はさっさと亜里沙の背を押してその場からの離脱を図る。亜里沙もあっさりとそれに従った。 しかし男達は、そんな二人の前に廻り込んで道を塞いだ。 「そんな事言わないでさァ。――今日のパーティーの主賓は君だって、もう皆に宣言しちゃったんだよ。特に今日は偉いお客さんが何人も来るし、絶対得するって。君が来てくれないと僕のメンツは丸潰れだよ。助けると思って、ねッ?」 「アンタの面子が潰れようがどうしようが、あたしの知ったこっちゃないわよ。アンタへの義理なんかこれっぽっちもないし、大体そんな宣言をしたのはアンタの勝手でしょーが。せいぜいコメツキバッタみたいに頭下げて回る事ね」 しっしっ、と手をひらひらされ、男達の顔に一瞬、何とも醜い素顔が覗いたが、何とか作り笑いを維持した上で、説得の矛先を亜里沙に向けた。 「ねェキミ。キミも弥生ちゃんのお友達? だったらさァ、キミからも何か言ってやっておくれよ。なんならキミも――いや、是非キミにも僕らのパーティーに出席して欲しいな。――いや、ホントに変なパーティーじゃないよ。信じて欲しいな」 「――アンタら、鏡見たことあんの?」 弥生以上に辛辣な言葉を、亜里沙は最初から言い放った。 「この場で信じられるのはダチの言葉だけだと思うけどね。アンタらみたいにへらへらニヤけている連中のどこを信じろってのさ。それに――なんだい、そのふやけたツラにだらしない格好は? そんな雑誌の切り抜きみたいなのが格好良いとマジで信じている訳? はんッ、アタシらの理想はアンタらに比べりゃ雲の上のもっと上なんだよ。顔洗って他を当たんな」 「……ッッ!」 大の男五人を相手に、極めて挑発的なこの啖呵 少し前までの亜里沙にしてみれば、こういう連中は格好のカモである。からかって放り出すのもよし、散々貢がせてからポイ捨てするもよし。たまに逆ギレ野郎がいても返り討ちにしてやったものだ。 だが今、こういう連中が本当に下らなく見える。顔にへばりついている笑いは限りなく軽薄で、思想も口調もファッションも、全てメディアや雑誌の受け売り。集団に属さねば声を上げる事もできず、集団を我が力と勘違いしている、実 自分は随分変わった。――今にして亜里沙はそれを実感した。思想も視点も、明らかに以前の自分とは異なる。付き合う人間が変わっただけでこれほどの変化があるとは、今の自分には新鮮な驚きだ。そして新たな友人――仲間達は、本当に強い者たちばかりだ。それぞれ個性の塊なのに、しっかりと裏打ちされた自信と誇りを持ち、常に切磋琢磨して自分を高める事を忘れず、筋の通った自分の考えを持ちつつも、他人の意見にも耳を傾け、良い部分は積極的に受け入れる柔軟性をも持ち合わせている。――凄い事だ。そして自分もまた、彼らによってその様に成長させてもらっているのだと、素直に受け止める事ができた亜里沙であった。 「……いくらなんでも、それは言い過ぎじゃないかい?」 十数秒以上かかってからようやく口を開いた男達は、殺気すら漂わせて亜里沙を睨んだ。――が、逆に睨み返されると慌てて目を伏せ、口を尖らせた。 「本当の事を言うと、今日の交流会だって、君の為に僕らが色々と骨を折って企画したんだよ? 僕らの仲間には政界に出たOBとか、有名どころの芸能人やモデルだっている。そういう人たちの顔まで潰す気かい? 僕らを敵に廻すと、後でどうなっても知らないぞ」 「――はんっ。泣き落としの次は脅しって訳? そんなの、自分一人じゃ何もできないカス野郎だって認めたようなモンじゃない。親玉が逮捕されたってのに、さすが【フリーダム】ね。低脳大学生の腐れ縁はいまだに健在ってワケだ。――って、どうしたのよ?」 ヤクザのような脅し文句に対して放たれた弥生の啖呵は、亜里沙の全身から膨れ上がった怒気によってかき消された。 「弥生…! コイツら…【フリーダム】なのかい…!」 それは、亜里沙の恩人、久保 その時である。男たちの一人が急に声を上げた。 「――オイッ! コイツ、あの時安生サンのマンションにいた…!」 「――あの殺し屋の仲間かッ!?」 次の瞬間、亜里沙は正面にいた大学生の股座を思い切り蹴り上げた。 「んごおっ!」 男は股座を押さえてうずくまり、しかし防具でも付けていたものか、悶絶する事なく亜里沙を凄まじい目付きで睨みつけた。同時に他の男たちも特殊警棒を抜き放つ。それも、五万ボルトの電気ショックを与えるショックバトンであった。 「――構う事ァねえッ! 二人とも捕まえろッ!」 「おとなしく付いて来りゃ良かったものをよォ。ただで済むと思うなよ!」 口汚く罵る男たちであったが、その足元でパアン! と激しい音が響くや、慌てて一歩下がる。亜里沙の鞭の一撃であった。 「残党風情がでかい口叩くんじゃないよ! アンタらのやり口には、こちとら頭に来てんだからね!」 五人組の挙動を見る一方で、周囲にも視線を走らせる亜里沙。【常に全体を見ろ】は龍麻の教えだが、まさにその通りであった。少し離れた所に駐車していたバンからも、元【フリーダム】の一味が飛び出して来たのだ。 「――ちょっとちょっと、アンタこの連中とトラブってたの?」 「話せば長いのよ。――コイツらはアタシが引き受けるから、アンタは早く建物の中に入りなッ。コイツら相手じゃ、警察は役に立たないからねッ!」 ぱぱぱ、とまくし立て、弥生を守るように前に出た亜里沙であったが、しかし弥生は彼女と背中合わせに身構えた。 「弥生!」 「――そういうのはなしよ、亜里沙」 一分の隙もない猫足立ちに構え、弥生は挑戦的な口調で言った。 「アンタの事情は知らないけど、一人で逃げろってのはいただけないわね。それに警察が無力だって言うなら、どこに逃げても同じじゃない。そういう時は――」 ポニーテールが残像の糸を引き、一瞬後、奇声を上げて特殊警棒を振り上げた男が吹っ飛んだ。弥生の技、掌底の直突きをまともに浴びたのである。 「――向かってくる奴を片端からぶっ潰す――よっ!」 くい、と亜里沙の口元が笑みを刻む。そうだった。この少女はそういう娘だった。 「よっしゃ! 囲みを破って行列の中に突っ込むよ! そっち半分は任せた!」 「――OK!」 この場を切り抜け、後は龍麻に連絡すればどうにでも始末は付く。むしろ派手に暴れてしまった方が、より安全だ。 「――ていっ!」 背は完全に弥生に任せ、警棒を振り上げた暴漢に向かって爪先蹴りの一撃! 男達は急所を守るファウルカップやレガースを服の下に仕込んでいたが、亜里沙のライダーブーツは鉄芯入りだ。防具そのものが向こう脛に食い込んだ男は痛みのあまりぴょんと飛び上がり、おかしな姿勢で地面に叩き付けられた。 亜里沙はそのまま斜め前方に足を滑らせる。――三才歩 一方の弥生はと言えば、同時に四人もの男達を相手にしている。彼女が格闘技経験者である事は広く知られているから、そちらに人数を割いたのだ。しかし、彼らは甘すぎた。 四方を囲まれた状態にあっても弥生は少しも慌てず、一人の男の手首を小手返しに捉え、そいつを巧みに盾にしつつ戦う。――京劇女優として知られる彼女の技は中国拳法だが、ベースにあるのは空手道【心道流】だ。突き蹴りの技法に加え、極め技や固め技をも合わせ持つ琉球古伝空手は、多くの女流空手家を排出した事でも知られている。男達が防具を身に付けている事を悟った彼女は、軽くとも素早い突きを手掛かりに、美脚を閃かせて男達の向こう脛や膝を蹴り払い、地面に投げ倒す。せっかくの防具も自身の体重×加速度の生む衝撃を吸収しきれず、男たちは断末魔の虫のように悶絶し、痙攣した。 しかし、数の不利は否めない。しかも助っ人連中はボクシングでもやっているらしい。拳の構えもフットワークも道に入っている。ただし腕に自信がある為か、防具を付けている様子はない。 すると弥生は軽く握った拳をアップライトに構えた。彼女本来の技とは異なるが、ぴたりとサマになっている打撃主体の構え。――同じ土俵でやり合うつもりか!? 男達が間合いを詰めてきた瞬間、弥生は長い足を真っ直ぐに地面から跳ね上げた。 ボクサー相手には蹴り――喧嘩の常道だが、軌道が高くなるハイキックでは簡単にスウェーでかわされる。近代格闘技の世界では、フットワークこそがボクシングを最強格闘技とする鍵であると言っているのだ。 ――が、ボクサーは蹴りをかわした位置でなぜか硬直し、次の瞬間に重く鋭い衝撃を頭頂部に受け、意識を暗闇へと弾き飛ばされた。――変形の掛け蹴り〜踵落しだ。 「――馬鹿がッ!」 そんな大技を真正面から喰らった理由を知らず、仲間を罵った空手家が前蹴りを飛ばす。――が、バレリーナのような優雅な旋回でそれをかわした弥生の足が振り上がる。――後回し蹴り。最近の実戦空手ではポピュラーな技であるが―― 「おっ!?」 戦う事が格闘家の本能であると言うならば、この場合は男の本能が勝ってしまったのだろう。ふわっとなびいたミニスカートの陰に覗く、白とブルーのストライプ。そこにゼロコンマのレベルで目が行った瞬間、弥生の踵が男のこめかみを直撃して、男の意識を脳から叩き出した。 そこでようやく男達にも弥生の作戦が解ったのだが、解った所でどうしようもなかった。キックが繰り出される度に彼女のミニスカートが揺れ、それこそ全国レベルで若者を男女問わず魅了した脚線が大きく露出するのだ。早い話が色仕掛けだが、精神修養の足りない輩がそれを無視する事は不可能に近く、次々に弥生の大技を喰らって悶絶する男たちの山が出来た。 「ふん。スッケベ野郎どもが」 そう言って弥生が手を払ったのは、闘争が始まって一分足らずの事であった。囲みを破って逃げるどころか、たった二人で十人からの大学生を昏倒させてしまったのである。残るは車の運転手と、その助手だけだ。 「――相変わらず惚れ惚れする喧嘩っぷりだねェ。やっぱりアンタは最強だわ」 「はは、ありがと。――男なんて馬鹿ばっかりよ。ちょっとパンツが見えたくらいです〜ぐ隙だらけになるんだもんね。チョロいモンよ」 「そこまで割り切れるアンタが凄いと思うけどね、アタシは」 「喧嘩の最中に恥ずかしがってなんかいられないじゃん? 別にパンモロしてる訳じゃないしね」 「あはっ、ヤローにゃチラの方が効くさね。おまけに縞パンと来たらイチコロよ」 顔を見合わせ、二人ともプッと吹き出す。 「でもこれじゃ化粧の時間がなくなるわ。あの二人を片付けたらさっさとトンズラしましょ。――ホラ! タマ付いてるならさっさと覚悟決めて出てきなさい!」 すると、バンのハンドルを握っている男はそのまま、助手席の男が驚いた事に単身でバンを降りた。単に保身のみを考えるならば車に篭っていても、そのまま逃げても良い筈なのに? しかし、背こそ高いが線の細いモデル体型、ブランド物のシャツにスラックスがぴたりと決まり、唯一不似合いな目出し帽という、特に強そうにも見えないそいつを見た時、亜里沙の肌が粟立った。――この感覚、真神の【旧校舎】で出会う【魔物】と似ている。それも、かなり強い奴に。 「弥生! 逃げるよ!」 「え!? ちょ、ちょっと!」 いきなり転身した亜里沙に手を引かれ、面食らう弥生。しかし亜里沙は構わずざわめきに向かって走った。 「アイツはヤバイ! この場合は逃げるが勝ちよ!」 相手の力量を見極めるまでは距離を取れ――龍麻の教えである。そして周囲の状況を常にチェックし、無理は厳禁とも教えられた。これは逃げるのではなく、戦術的撤退という奴だ。 角を曲がればそこは観客の群れる駐車場という所で、疾駆する亜里沙の脇から声がかかった。 「――あれ、藤咲さん。なにしてんの?」 声をかけてきた男の制服に、急ブレーキをかける亜里沙。その男は龍麻を通じての顔見知り〜真神学園空手部の森美喜雄で、連れは鎧扇寺学園の中堅前田 「おおっと、ミッキー! 良い所に! ――龍麻どこよッ!? 京一はッ!? 醍醐はッ!?」 「エッ? ひーちゃんなら先に演舞会に行っちゃったぜ。蓬莱寺とかは俺らと一緒に列のずっと前の方にいるけど――って、そ、そっちの人って、暁弥生さんッ!?」 森も前田も同時に声を張り上げ、慌てて声を小さくする。真神も鎧扇寺も変な所でミーハー揃いで、それが良きライバル関係を続けている理由なのだが、迂闊に騒いで他人に迷惑をかけないようにも心掛けているのが良いところだ。 「ああ、アタシのマブダチさ! で、今はヤバイ連中に追われてんのよ! せめて京一らの所まで案内しな!」 「お、オス! 自分らでお守りします!」 何がどうなっているのか解らないながら、ミッキーこと森が先導し、前田が殿に付く。このあたりの呼吸はさすが龍麻仕込みだが、数歩と行かぬ内に、彼らの前方に先程の男が現れた。――先回りされた!? 「――何だ、貴様!」 ジュースを手放してぱっと身構えるミッキー。普段なら絶対にやらない事だが、【何か変だ】と感じた瞬間、彼は先制の突きを繰り出していた。アップライトからのジャブ。そこからストレート、前蹴りと繋げるのが、彼得意のコンビネーションだ。 だが、ジャブが伸びきる前にミッキーの身体は宙に跳んだ。 「――うおッ!」 身体を丸め、地面に叩き付けられる衝撃を和らげるミッキー。――龍麻の教えを受けていなければ今ので大怪我をしていた。 「こいつ! 柔術かッ!」 跳ね起き、再び構えるミッキーだが、後方に向かって怒鳴った。 「早く行って! コイツ、マトモじゃねえ!」 (今の投げ――コイツ、マジで俺を殺す気でいやがった…!) 彼とて真神学園空手部の選抜選手で、団体戦では副将を務めた男。何より、龍麻の薫陶を熱心に受けた男だ。しかも先の事件で自身が石にされるという怪異に遭遇した事もあり、直感で目の前の男が【ヤバイ奴】と解ったからこそ受身が間に合ったが、並の【競技者】では頭頂からアスファルトに投げ落とされていた。コイツは――本気で危険だ。 「――解った! ヤバくなったら逃げなよ!」 並の人間では敵わない――そう思いつつも、亜里沙はそう言わざるを得なかった。この連中の狙いが弥生だとしたら、真の目的は【あれ】しかない。親友をそんな事に使われてたまるものか! 「雑魚が吠えるものではありません。見苦しいですよ」 目出し帽が間抜けだが、声そのものは澄んでいるし、そのナルシズム的な響きから造作も良い方なのだろう。しかし、性格は邪悪。いや、極めて邪悪だ。 「――そうかい!」 【競技用】のアップライトを【実戦用】の後屈立ちに構え直し、しかしいきなり後回し蹴り! 柔術系の人間にはあまり縁がない大技だけに読みにくい――と見せかけ、蹴り足を踏み込みに変えて跳び込みながらの正拳突き! これは予想外か、目出し帽は受けを中断して下がった。そこに大本命の前蹴りを叩き込もうとして―― 「――ぐはあッ!」 亜里沙と弥生が数メートルと進まない内に、ミッキーが苦鳴を発して地面に伏した。 「い、今の何ッ!?」 たまたま通りかかったらしい少女たちが血相変えて叫ぶ。そしてミッキーは何をされたものか、彼の両袖は根元から破れ、両肩があらぬ方向に捻じ曲がっていた。 「ちいっ!」 驚愕と困惑は一瞬の事、前田が突っかける。ミッキーにとどめを刺そうという目出し帽に向けて飛び蹴り! 瞬発力をギリギリまで使い切った理想的なフォームに加え、相手はかわす姿勢にない。――仕留めた! 「――ッッ!」 目標の消失! かわされたと驚愕する前に、着地と同時にバックハンドの手刀水平打ち! 勘は正しく、背後に迫っていた目出し帽がぱっと身を低くする。――計算通り! 本命の前蹴りが目出し帽の顔面に吸い込まれ―― 「――うおッ!」 手刀を繰り出した左腕がいきなり引かれ、前蹴りが空を切る。前田は地面に引き倒され、それでも腕に足を絡めに来る相手を見た。――ミッキーが倒された時も錯覚にあらず、もう一人いたのだ! しかも―― (――双子ッ!?) 顔は判らなくとも、背格好がまるでそっくり、技に入る姿勢も、呼吸に至るまで瓜二つ。だが――構っている暇はない。脇固めに来る目出し帽の肩に拳を叩き込もうとする前田。――が、右手首を凶悪な力に噛み付かれた。 (――三人目ッ!?) なんと、そちらにいたのも目出し帽と全く同じ容姿であった。さすがに驚きを消しきれなかった前田の両腕が二人の目出し帽によって脇固めに極められ――直後、真正面にいた三人目の目出し帽の当身を水月に受けて倒れ伏す。そしてその後頭部に向け、目出し帽の足が振り上がり―― 「――この野郎ォ!」 この二人に一分とて稼がせず、しかも確実にとどめを刺そうという目出し帽に、遂に亜里沙は【力】を込めて鞭を振るった。――【スネークウィップ】! 亜里沙の意思のままに宙を走った鞭は正に毒蛇と化して目出し帽を三人まとめて縛り上げた。 「亜里沙!」 「行きな! 人を呼ぶんだよ!」 一瞬の躊躇を見せた弥生だが、すぐに振り返って駆け出す。だが、数メートルも走らぬ内に、前方に立ち塞がる人影。――目出し帽だ! またしても同じ背格好!? 「――破ッ!」 短い気勢と共に繰り出される縦拳。その瞬間、目出し帽が左右に分かれた! 「――ッッ!」 陰に隠れていた訳ではない。目の前にいた男が正に分裂したのである。 (――二重存在 亜里沙の脳裏にそんな単語が閃く。しかし、それは本当に二重存在か? 最近【仲間】になった紫暮は二人に分身する、神秘学に言われる【二重存在】を駆使する。だが、この目出し帽は一体いくつの分身を駆使できるというのか!? 「――この!」 弥生はそんな相手の能力を知ってか知らずか、とっさに片方の目出し帽に狙いを定めて突きを繰り出した。しかしそれが目出し帽の顎を打ち抜く寸前、突然彼女の身体が宙に舞う。――合気道…合気柔術だ。 だが、弥生の身体能力も半端ではない。彼女は猫のように身体を半回転させるや、革靴の踵を目出し帽の後頭部に叩き込んでいた。この捨て身技の前にはさすがに打ち伏す目出し帽。もう一人にも足払いを繰り出そうとして―― 「――はッ!?」 いきなり背後から組み付かれる弥生。――また増えたのだ。その直後に踵蹴りを背後の目出し帽の脛に打ち付けた弥生であったが、正面から飛び込んできた目出し帽の突きが水月に食い込み、彼女はグッと呻いて倒れ伏した。 「――弥生ィ!」 手首の返し一つでこちらの目出し帽三人を地面に叩き付け、弥生を連れ去ろうとする目出し帽に向かって走る亜里沙。超音速の鞭が踊り――目出し帽を素通りした!? 否、虚空に溶けたのだ。 「なっ――!?」 その直後、左右に二人の目出し帽が出現し、亜里沙は両腕の自由を奪われた。そして、虚空からポロっと出現した三人目が亜里沙の顎先を鋭く打ち抜いた。 (――龍麻…!) 意識を失う寸前、龍麻の名を呼んだ彼女であったが、都合の良い奇跡など起こる筈もなく、亜里沙はぐったりと倒れ伏した。それを見ていた少女達が甲高い悲鳴を上げたが、たちまち目出し帽の群れが少女達をその場に昏倒させ、弥生たち四人と自らの仲間全てをバンに押し込めてしまう。そしてバンは爆音を立てて武道館から走り去った。 幸いと言えたのは、帰りの遅いミッキー達を探しに来た小蒔が、亜里沙と弥生が正にバンに連れ込まれる瞬間を見て、大騒ぎを始めた事であった。 新宿、歌舞伎町、一七二〇時 「――ここで待て」 新宿まで戻ってきた龍麻は、その足で真っ直ぐ歌舞伎町に向かい、紫暮をファーストフードショップで待たせ、自らはネオンの海に沈んでいる半地下の中華料理店に赴いた。 重い樫のドアを抜け、八分ほど埋まった店の中を進むと、既に馴染みとなったウェイトレス〜玉蘭 「――海老炒飯 「…かしこまりました。――ご入用のものは?」 「獣人事件のその後を知りたい。全日本古武道振興会という組織が新たな獣人の温床となっている可能性があり、自分の友人がそこに連れ込まれたらしい。可能ならば対獣人用の弾丸も買いたい」 「――しばらくお待ちください」 会話の内容にそぐわぬ笑みを浮かべて玉蘭は去り、入れ替わるようにやってきたのは、刃物のような鋭い視線を持つ【紅王華】の新人ウェイトレス、ラヴァであった。 「――今日は、おかしな仕込みはなしだ」 今日は【仕事】で来たのだと釘を刺す龍麻。――どうもラヴァは龍麻を未だ恨んでいるようで、龍麻がここで食事をする度に飲み物と言わず料理と言わず、唐辛子や蜂蜜を仕込むという性質 「…相変わらず厄介事に首を突っ込んでいるのか?」 「今回は違う。――亜里沙が誘拐された」 「何!?」 ラヴァの顔つきが僅かに強張る。――例の一件以来、彼女は亜里沙と会っていないが、彼女の少々特殊な性癖から言うと亜里沙は【好み】らしく、今でも時々亜里沙の様子を尋ねたりしてくるのだ。 「名指しで狙われた訳ではないが、【敵】が獣人である可能性は高い」 「――それが解っていて、キサマはなぜここにいる!」 「情報と装備。この二つなくして獣人とは戦えん。それに【獲物】がかち合っていないとも限らんからな。俺の最優先事項は亜里沙の救出だが、獣人絡みではそこで終わらない」 「……」 【九頭竜】はアンダーグラウンドの秩序を乱す獣人と対決姿勢を取っている。しかし共通の【敵】がいるとは言え、目的が異なるならば、お互いの立場を明確にしておかねばならない。――【敵】の本拠地を知ってなお、龍麻が【寄り道】をしたのは、亜里沙たちの生命と未来を守る上で不可欠な、裏世界の仁義を守るためであった。 そこに、両手に盆を載せた玉蘭が戻って来た。 「ラヴァ、皿洗いに戻るね。――こちら、お求めの品」 一瞬、嫌そうな顔をするラヴァであったが、意外と素直に厨房へと戻って行った。 「李様からの言付け。――最近、銀の弾丸が効かない獣人が現れて【九頭竜】も手一杯。特に【銀狼】と呼ばれる獣人が殺手 「了解した。情報だけで良い」 玉蘭は盆をテーブルに置き、メニューを龍麻に差し出した。二つ折りのメニューの内側には、不破の顔写真他、【覇王館】や全日本古武道振興会の重鎮のプロフィールなどがびっしりと並んでいる。 「…なるほど。【九頭竜】も既にこの連中をマーク済みか。見事な手並みだ」 保護観察処分になっている元【フリーダム】には、龍麻が制圧した連中も混じっている。とっくに始末されたものと思っていたが、李は彼らを餌にしてもっと大物を釣り上げていたという事だ。合理的な彼らしい。 しかし、【九頭竜】の力をもってしても、獣人の掃討作戦はうまく行っていないようだ。――当然だ。この事件の陰には国家権力の影がちらついている上、横の繋がりが仲間内でさえ曖昧にされている。今のところ【巣】を見つけたらそこを叩くしか術がなく、また、獣人と戦いうる人材も不足しているのだ。そして龍麻が見つけた【巣】は、まだ手が付けられていない。 銀弾が仕入れられないとすると、正面突破という訳にはいかないようだが、それならやり方を変えるまでだ。龍麻は情報を丸暗記してから、メニューを玉蘭に返した。そして、珍しく付け加えた。 「彼女が皿洗いに移ったのは、何かやらかしたからか?」 透明感溢れる氷を浮かせている烏龍茶を、爆弾でも調べているかのように眺めやる龍麻。【熱い海老】〜銃撃戦が予想されると告げたので、炒飯は来ない。それを見て玉蘭が笑う。 「それ、全部私が淹れて持ってきた。悪戯してない保証する。――この前、お尻触ったお客さんの歯をへし折ったから皿洗いになったね。でもあの子良い子。良く働くし、気も利く。でもまだ、あまり笑わない」 「ふむ」 「でも、あなた来た時は良く笑う。自分でも気付いてないけど、楽しそう。――あなた良い人。あの子の悪戯、知ってて付き合ってる」 「…それはない。裏をかかれているだけだ。彼女がその気であればとっくに殺 「でもあなた、我慢して悪戯されたゴハン食べる。――あの子、今でも男の人駄目。ここでも平気なのは李 「……」 あのラヴァが、可愛い…? 少し想像してみるが、三秒で止めた。――想像不能だ。 「もうラヴァ、あなた殺す気ないね。あなた、それが解っているけど気付いてないから悪戯引っ掛かる。殺意のない相手には、あなた本気にならない。それはラヴァも同じ」 なんとも奇妙な言い回しに、龍麻は僅かに首を傾げる。確かにラヴァがその気になっていれば、龍麻の【勘】も正常に働くかも知れない。しかし、殺人的料理を食わされるのも大差ないのでは…? 「あの子もう、ただの殺手違う。だから――もうちょっと我慢して欲しい。あの子近い内、悪戯しなくなる」 「…是非そう願いたいものだ」 そこで話は終わりと言うように、龍麻は烏龍茶を干した。――悪戯がないのは結構だが、これから命懸けの戦いというのもいただけないものだと考えつつ、龍麻は席を立った。 【紅王華】を出た途端、凄愴の気が龍麻の全身に絡み付く。――見た目は普段と何も変わらぬ、休日を前に賑わいを増した歌舞伎町だが、賑わいの陰では獣の血を宿そうとする者たちが暗躍している。社会のあらゆる階層に潜み、息づく彼らの目は、この【九頭竜】の前線基地にも絶え間なく注がれているのだ。幾つかの目が背中に張り付くのが判った龍麻だが、構わず歩き出し、紫暮を待たせているファーストフード店に向かった。しかし、五〇メートルと離れていないそこに至る前に、ふと、【勘】が危険を告げる。――最も弱い【気配】から、最も小さな【脅威】が分離する。 「――!」 予備動作ゼロで加速する龍麻。その後頭部を掠めて走った鉄矢が、粗悪なイラストの描かれた立て看板を貫いた。続く第二射、第三射! 龍麻は路地に飛び込んでクロスボウによる狙撃をかわしたが、突然、駐車していたバンが急発進し、彼を撥ね飛ばした。 さすがに地面に転がった龍麻に、数名の男達が殺到する。 「――オイ! やり過ぎじゃないか!?」 「手段を選ばず連行しろという命令だ。――あの沢松を手玉に取った男だぞ。仕方ない」 そんな会話を早口で交わし、男達は龍麻を地面から引き起こしてバンに押し込み、素早くその場を立ち去った。 たまたまゴミ出しに来て、その一部始終を見ていたチャイナドレスの少女は、小さく鼻を鳴らして店内に身を翻した。 「う…く…!」 頭の芯が痺れているような重い酩酊感 おかしな術を使う目出し帽に一発喰らってからの記憶がすっぽりと抜け落ちているが、長い鎖の付いた手枷を掛けられ、天井近くにあるバーにフックで吊るされているとなれば、どうやら自分が捕まったらしい事は解る。それも、かなり趣味の悪い奴にだ。 部屋の作りは、アスレチックジムと言った所か。光源は常夜灯のみだが、床に色分けされたカーペットが敷き詰められ、壁に大きな鏡が貼られている事が見て取れる。自分たちが吊るされているのも、元はサンドバッグを吊るす為のものらしい。窓はなく、扉も一つだけ。全体的に殺風景だ。 「――目ェ、覚めた? 気分はどう?」 少し離れた所で同じような格好をさせられている弥生が聞いてくる。――声は落ち着いたもので、怯えはまったくない。とりあえずいかがわしい真似をされた様子はなく、服装にも変化はなしだ。 「最悪よ。おまけになに、このSMごっこは?」 「救いようのない変態集団のやる事だからね。あたしらに解る訳ないじゃん」 あっけらかんとした弥生の返答。――余裕があり過ぎだ。確かに女にしては図太い神経の持ち主だが、この状況では不自然ですらある。 「ねえ弥生。アンタひょっとして、こうなる事を予想してた?」 「ん〜、イベントに呼ばれた時から怪しいとは思ってたけど、ここまで荒っぽい手段に出てくるとは思わなかったわ。スケベオヤジの執念って怖いわねェ」 「はあ? 何それ?」 「その筋じゃ有名な話よ。スポーツでも何でも、大会と名の付くもので上位に食い込むと、必ず帝皇 「うわッ、それ何て【ス○番刑事2】!?」 「あははっ。どっちかと言うと【男組】(古ッ!)かしらね。まっ、そういう古い頭で動いているのが今の帝皇学園学長兼、【覇王館】館長って訳。で、あたしも勧誘されて以来、ずっと突っぱねてたのよ。てゆーか、一度強引に連れて行かれたんだけど、専攻試験とか何とかの担当がとんだエロ親父揃いだし、いつの間にか転校が成立した事になっていて、か弱い美少女を拉致監禁脅迫するし。もうふざけんなって大喧嘩して脱走したのよ」 か弱いかどうかはともかくさすが我が親友と感心する一方で、それは運が良かったと、亜里沙はほっと息を付いた。もしここが【フリーダム】と、ひいてはあの【獣人】と関わりがあるならば、そのタイミングで拉致されなかったのは幸いだ。そして今の自分には、緋勇龍麻を筆頭に頼りになる【仲間】がいる。 「――って訳で、警戒はしてたんだけど、ちょっとドジっちゃったわ。でもどうやら、亜里沙もあいつらと何かあったみたいね。殺し屋とか何とかって?」 さすがにこれには首を横に振る亜里沙。もしそうなら、こんな無様な姿を晒しはしない。 「話せば長い事ながら、今日のは偶然よ。一つはっきりしてるのは、相手が根っからの悪党だってコト。――どうする?」 二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。かつての時のように。 「ここは一丁――」 「――手ェ組みますか」 そうと決まれば話は早い――が、まずこの鎖が厄介だ。何をするにも、吊るされている状態から脱する事である。 すると弥生は「ほッ」と掛け声を上げ、懸垂の要領で上体を持ち上げてから両足を真上に跳ね上げ、足首で手枷の鎖を絡め取った。そこを支点に今度は腹筋の要領で上体を持ち上げ、鎖に生じた弛みを掴む。――新体操選手兼京劇女優の驚異的な身体能力。ハリウッド映画よろしく、そのまま天井のバーまで攀じ登ってフックを外そうというのである。しかし―― 「おっ…!」 「あっ…!」 床上から上がる、小さな驚きの声。そこに転がされているのはミッキーと前田であった。亜里沙たちとはまた違った酷い扱い――軽傷の前田は配線工事用の結束線でイモ虫のごとくきつく縛られ、外れた両肩をそのままにされているミッキーは足枷で壁に繋がれている。――が、この男どもと来たら… 「コラ! 目ェ閉じてろ! さもないと後でしばくよ!」 「いや、その、あはは…」 さすがは格闘系クラブに属し、龍麻の薫陶を受けている男たちだけあって図太いと言うべきか。自分たちの酷い有様など何のその、床に転がされている身なれば、目を開けばそこには憧れのアイドル暁弥生と人気急上昇中の高校生モデル藤咲亜里沙の艶姿。膝上十数センチのミニスカートの内側が、その気がなくとも見えてしまうのだ。アダルトな黒で決めた亜里沙は【女王様】然とした服装と雰囲気が色気よりも格好良さを醸し出すが、鎖を登攀中の弥生はセーラー服のスカートがなびいて淡いブルーと白のストライプが丸見え状態。その健康美溢れる白い太腿と、可愛らしい布切れ一枚で包まれた魅惑のラインから目を逸らすなど、身体健康にして思春期真っ盛りの男子高校生には無理な相談であった。しかし… 「あははじゃないよ! そういう油断のせいでこんな事になったんだろッ。それなのに何スケベ根性出してんだい! この役た…ッ!」 そこまでは言ってはならぬ事だととっさに亜里沙は言葉を切ったが、語られなかった単語を悟るのは実に容易で、シュンと項垂れるミッキーと前田。確かに力量も解らない相手だったのに、弥生の前だからと無意識の内に格好を付け、結局何も出来なかった自分が情けない。その上、明らかにいかがわしい目的で彼女達を誘拐した連中と同レベルの真似を…。 「――まあまあ、亜里沙。そのくらいにしてあげなよ」 「でも、弥生ィ…!」 「スケベじゃない男の子なんていないでしょ。むしろこんな状況でそんな余裕があるなんて頼もしいじゃない。――コラ男の子ッ。シケた顔してないで、そんなに見たければ見たって良いわよ」 「えッ…?」 憧れのアイドルからまさかそんな言葉がかけられようとは!? からかわれているのか嫌味を言われているのか判断がつかず、さすがに目を白黒させるミッキーに前田。 「キミ達を巻き込んだのはあたしだし、その怪我だって名誉の負傷だもんね。このくらいサービスしてあげるから、しっかり目に焼き付けときなさい。――もうッ、キミ達運が良いわよ。他の奴なら奥歯までへし折ってやる所だからねッ」 物騒な脅し文句とは裏腹に愛らしく「イ〜っ」とやってウインクし、登攀を再開する弥生。これは男にとって喜ぶべきか恥じるべきか? しかし答えを出す前に弥生のウインクにノックアウトされたミッキーと前田は、本当に殊更隠そうとせず鎖を登る彼女に感動と憧憬の眼差しを送り――その艶姿を拝観した。 (――強いなァ、弥生は) 馬鹿正直に弥生に見惚れる男二人に呆れつつも、迂闊にも彼らを責めるような事を口走った亜里沙としては、この親友の度量には頭が下がる想いであった。 気が強くて姉御肌の弥生とて年頃の女の子。やむを得ない事態とは言え、決して恥ずかしくない訳ではないのだ。ところが青春真っ盛りの男の助平心を叱るよりも、逆に自分達を守ろうとした気概を褒めて【サービス】と言い切ってしまえるところに、彼女の器の大きさが解る。結果のみにこだわらず他人の厚意にはまず感謝、相手を立てて蔑まず、常にプラス思考――それが自然にできる娘なのである。 ミッキーや前田にも、そんな弥生の気概や器の大きさが充分に伝わったのだが、しかし女ッ気のない格闘系クラブで過ごしてきた彼らは女性に対する免疫に乏しく、弥生は余りにも魅力的過ぎた。彼女の意を汲んで目を逸らす――などという努力は二秒で放棄、結局はありがたいお言葉に思い切り甘え、甘酸っぱい想いを胸一杯に抱えながら彼女の健康的な艶姿に視線を釘付けにしてしまった。鎖を登りつめた時、弥生はちょっと振り返ったのだが、彼らと来たら喜色満面、目はハート、しまいには「へへ〜ッ」と拝み始めそうな有様である。ちょっと計算違いしたかと、弥生は「ハア…ッ」と深い溜息を付いた。 「もうっ、男の子ってホンっトに馬鹿でスケベなんだからッ。――ホラ! 喜べ男の子!」 フックを外す最後の関門。彼女は「べえ!」とアカンベを野郎どもに送り度胸一発、両足を頭上のバーに絡めた。当然、スカートは一杯に捲れてしまい、魅惑の縞パンが背筋まで見える丸出し状態。これにはミッキーも前田も空手家のプライドなどどこへやら、まるで小学生のようにひゃあと歓声を上げた。むうと唸って眉間にしわを寄せた弥生だが、この連中ならば実害なしと割り切って蝶螺子を外す作業に集中し、とうとう手枷をバーから取り外した。 「よっしゃ。脱出成功」 更に弥生は器用にバーを伝い、亜里沙の戒めの所までやってきた。しかし今の亜里沙も半ば爪先立ち状態で、鎖がぴんと張っている。蝶螺子を外しただけでは彼女を下ろせない。 「マッズイなァ。――亜里沙、そこからジャンプできる?」 「え!? う〜、ちょっと無理」 陸上部の亜里沙とて、踵が地に付いていなければろくにジャンプなど出来ない。そして弥生には亜里沙を吊り上げてなおフックを外すほどの筋力などない。 「――でしょうね。となると、このバーごと下ろさなきゃ。多分壁の滑車がそうなんだろうけど…鍵掛かってるね」 滑車に取り付けられているハンドルには、これ見よがしに鎖が巻かれて南京錠が下ろされている。道具もない今、お手上げだ。すると… 「あの〜、ちょっと良いッスか?」 とりあえず別の手を考えようと、弥生が飛び降りようとした時である。何とも低姿勢にミッキーが声を上げた。 「コラ! まだ見足りないってのかいッ!」 「そりゃあ本音を言えばもっと見ていたいっスけど…いやいやいや! そうじゃなくて、今度こそ役に立ちますから勘弁してください。――な、哲やん」 「オス。ここで根性見せんと、男が廃るってもんです。もう足手纏いにはなりませんから、是非扱き使ってください」 軽傷とは言えがんじがらめの前田に、両腕が使えないミッキーまでが身を起こしたので亜里沙も弥生も少し慌てた。 「ちょ、ちょっと! 別に怒ってないから無理しなくて良いよ!」 「はあ。でもそんなありがたいものを拝ませてもらって気合入れないようじゃ、男の子やってられませんよ。――男一匹! 愛の為に死ぬもまた可! ――逝きまーすッ!!」 そう言うとミッキーは右手で拳を作り、腕を真っ直ぐに伸ばしてそれを床に当てた。そして気合一閃――腕に勢い良く全体重を掛けた。すると――ゴキッと凄い音がしてミッキーの右腕が元に戻った。「くう〜ッ!」と唸るミッキー。 「うわ…!」 思わず息を呑む亜里沙に、感心したように頷く弥生。ミッキーは左腕も同様に元通りにして、大きく息を吐いた。額に冷や汗が光る。 「自分、肩に脱臼癖があるんですよ。外れやすいけど、戻しやすいんです」 「でもそれって、凄く痛いんでしょ?」 「まあ、ちょっとは…。――でも俺らだってひーちゃん仕込みッスからね。このくらいの痛みなんか屁でもありませんよ」 龍麻の真の姿は知らずとも、ミッキーも前田も龍麻に心酔している。自分に厳しい男の生き様は、志ある者たちの琴線に触れずにはおかないのだ。その侠気に惚れられる男たちだからこそ、弥生の心遣いにも応えられる。 「んじゃ、ミッキー。ポケットにライフツール…は取られちまったか。――ベルトのバックルにプッシュダガーがあるから、ロープ切ってくれ」 全身がんじがらめなのに肩を器用に操って床を這いずり、ミッキーの所までやって来る前田。前田は空手家ではあるが、趣味はミリタリーである。おかげで彼は鎧扇寺では紫暮に次いで龍麻と仲が良いのだ。 「うわ、そんなん隠し持ってたのか。マジ違法じゃん」 「固いコト言うな。ひーちゃんさんからの貰いモンだ」 日本では、両刃のダガーナイフはサイズに関わらず違法である。理由は、突く事しかできないダガーは、人を傷つける為にしか使えないとされている為だ。 「それに、道具を凶器にするのは人間の意志だって、ひーちゃんさんも言ってるじゃん」 「そうだな。――じっとしててくれ」 ベルトのバックルに隠されたプッシュダガーを抜き、前田の戒めを切断するミッキー。元々この【道具】は、正にこのような状況で使用するものなのだ。 自由を取り戻した前田は、チアノーゼ気味の手足を摩るのもそこそこにまず亜里沙の下に向かい、彼女に背を向けてしゃがんだ。 「それじゃ藤咲さん。俺に乗っちゃってください。――上見ませんから」 「――そう? 悪いわね」 ライダーブーツでは少々気が引けたものの、構わないと言われて亜里沙は前田の背に乗った。彼が中腰に立ち上がると鎖に充分な余裕が生まれ、弥生はすぐさま螺子を外し、亜里沙の戒めを解放する。 「サンキュ、助かったよ。――悪かったね、キツい事言って」 前田の背に付いた靴跡を叩き落としながら、亜里沙。【下僕】という言葉が好きな亜里沙だが、こういう男には誠意で応える事を覚えた彼女である。 「いや、ホントの事ですし。あんなザマ晒しておきながら、まっこと済みませんです」 「こればっかりは男のサガって奴なんで。もうイヌと呼んじゃって下さい」 謹厳実直質実剛健なのと超硬派軍人気質の男たちの下で修行する、基本的には真面目な青少年の正直な謝罪に、弥生は【しょうがないなぁ】と肩をすくめて苦笑した。 「良いわよ、もう。別に減るモンじゃないし。――それより、早くこんな所からおさらばしましょ」 そうは言ってみたものの、当然のようにドアには鍵がかかっている。ここがどこなのかも判っていない今、バカ正直に出て行ってはまた捕まるだけであろう。 「武器は…この鎖くらいだね。敵はヤバい奴だし、無理は禁物か…」 「なに、前回と一緒で良いでしょ。こんな美少女二人を吊るしておくなんて変態趣味を持ってる連中だもん。ど〜せ偉い奴から順番になんて考えているんだろうけど、だったらなおの事今の内に悪戯しようとかやらしい写真撮っとこうなんて奴が来るわよ。理性の出来が違うだけで、男の中身なんて皆同じなんだから」 「うわ、言いきっちゃったね。――ちょっとアンタら、男代表で何か言ってやったら?」 しかし、腕を組んで大いに頷く野郎が二人。 「いやあ、返す言葉がないっスよ。自分らが悪の立場ならもうやらずにおくものかってトコですし。あ〜、でも自分らにそんな度胸ないっスね」 「自分ら、女ッ気のない青春送ってますからね。免疫は無いわ妄想は暴走するわ、酷いモンですよ。でも実際のトコ、自分らはまだまだパンチラ程度で喜ぶ餓鬼ですけどね」 そんな事をあっさり言い切ってしまうミッキーと前田に、亜里沙ももはや苦笑するしかない。――龍麻と関わった者は皆こうだ。自分自身に偽らず、本音で語る事を不必要に恐れなくなるのだ。そして――強くなる。肉体的にも、精神的にも。 「この正直者どもがッ。――んじゃ、いわゆるフェイント・オペレーションって奴で行こうか。スケベ野郎が来やがったら即反撃。人質とって一目散――ってね。大人数で来る事はないでしょ」 「大雑把だけど、それがベターよね。それじゃコイツは戻しておこうか」 手枷の鎖を投げ、バーに引っかける亜里沙と弥生。あとは鎖を握っておけばそれらしく見える。ミッキーも前田も、それぞれロープやら足枷やらを使って偽装し、床に寝転がったのだが…。 「――もうサービスしないからね。こっち向いたら後で酷いわよ〜」 「はは、その時はさっきの分も取り立てるんだね」 「ひええ、そいつは勘弁してくださいよォ」 ミッキーがおどけて肩をすくめた時、前田が「シィ!」と人差し指を口に当てた。 扉がガチャガチャと音を立てる。――早速、事態が動くらしい。四人は肯き合い、まだ気絶しているふりを敢行した。 第六話閑話 武道 3 目次に戻る 前に戻る 次に進む コンテンツに戻る |