第六話閑話 武道 2





 
 手早く身支度を整えた龍麻と紫暮は、拳士郎に案内され、武道館からさほど離れていない区民スポーツセンターを訪ねた。

 名だたる武道家が【本物】を見せるというならば、京一や醍醐も興味を引かれるだろうと思ったのだが、京一は目当てにしている新体操選手の出場がこれからであるため耳を貸さず、真神鎧扇寺両校の生徒もせめてそれだけは見たいと居残りを申し出た。しかもその選手との握手会に当選できたとかで京一と小蒔の熱狂ぶりが最高潮に達しており、醍醐たちもそんな二人のお守りがあるからと諦めた。ただ一人、醍醐は非常に残念そうであったが。

 それはさて置き、龍麻らがスポーツセンターに着いた時、演舞会に備えて各流派の師範や門人たちはウォーミングアップに余念がなかった。演舞会は各流派の代表者がそれぞれ型演舞、模範演舞、自由組み手などを見せていく普遍的なスタイルである。

 龍麻らが最初に紹介されたのは、【拳道会】という空手の流派であった。直接打撃制の【北辰会館】と似て、しかしその拳足の鍛え方は他の追随を許さず、空手の最強伝説を強力に支える流派である。そして【拳道会】の演舞は、破壊力の強大さ故に対人では行われない。用意されているのは木の板や角材、氷柱や土管である。

 ここでは【顔】なのか、拳士郎が声をかけると、異形の拳を持つ…どころか、全身これ凶器としか表現できぬ男達は龍麻らとにこやかな挨拶を交わし、彼らなりのウォーミングアップ法…用意された板や角材を次々にへし折り、砕き、破壊する様を披露した。――板の厚みは三センチ以上、角材の太さは直径五センチ以上が基礎レベルであると言うから、これはとんでもない破壊力である。突き詰めればタンパク質と脂肪、カルシウムと水分の集合体に過ぎぬ人体が、より硬質な板や棒はおろか、コンクリートすら粉砕するのだ。

「これは…鍛え方が尋常ではないな。凄い破壊力だ」

 邪魔にならぬよう壁際に控え、龍麻も感嘆の呟きを洩らす。すると拳士郎がコソッと口を開いた。

「ああ、まったくだ。俺もあの人たちとだけは喧嘩したくねェ。――でもひーちゃんよ。本当のところ、こういうのはどう思う? 確かに凄ェ破壊力だが、格闘技として考えた場合、どうよ? ブルース・リーも言ってたが、板は反撃しないぜ? 逃げもしねェし動けもしねェ、文句一つ言う事もねェ。無抵抗をいい事に一方的にぶちのめすだけだぜ」

「ふむ…。板の気持ちを代弁すると、「いたたたたた」」

「――しからば棒が折れるのは?」

「――ボウヤだからだ」

「うまいっ。ザブトン一枚」

 唐突な、しかも今一笑えない龍麻の駄洒落に、紫暮の目が点になる。龍麻が時々変なボケをかます事は知っていた紫暮だが、まさか拳士郎が同調するとは。しかも二人は何やら固く握手を交わした。

「別に良いではないか。鍛えた拳足の威力を知りたくとも、現代では無闇に人体で試す訳にもいくまい。確かに命中してこその破壊力ではあるだろうが、まず破壊力ありきから始まり、後に命中精度を上げて行けば良いだけの事だ。百歩譲ってあの破壊力が格闘技術と無関係として、ではあれほど強固に鍛えた拳足の攻略は可能か否か? 常人にはまず無理だ。少々鍛えただけの人間では、あの腕で防御されただけで骨が砕けよう。――破壊力のみを見て強い弱いを語るのは愚の骨頂だが、あれほどの破壊力を確立した者が弱い訳がない。肉体的には勿論、鍛錬の過程を思えば精神的にも非常に強く、高潔だ。目的意識も向上心も低い単なる喧嘩好きでは、あそこまで鍛える事はできまい」

「いやまったく。――さっすがひーちゃん。俺も割と見る目があるってこったな。――いやあ、良くいるんだよ。ああいうのを見て、あれは見世物だとか、そういうのができたって偉い訳じゃねェとか、戦えば俺の方が強いとか実戦的だとか言う奴。語るべき次元が違うって言えば良いのかな? あの人たちは空手を選んで、拳を鍛えに鍛えた果てに、ああいう事もできるようになったっていうだけで、別にモノをぶっ壊したり、人をぶっ殺す事が目的って訳じゃねェんだよな。ただただ空手が好きだから、とんでもねェ鍛錬も苦痛じゃねェんだ」

「うむ。単に人体を破壊し、殺す事が目的ならば、より殺傷能力の高い刃物や銃器を使用すれば良いのだ。究極的な事を言うならば、【道具】を効果的に使う事で発展してきた人類が、改めて己の肉体を武器化する必要などない。しかし生きて行く上で必要のない行為――その積み重ねの果てに、強固な肉体と高潔な精神、優れた技があるならば、敢えて求める価値があろうものだ。それが【文化】であり、【道】――【武道】と言うのであろう。脆弱な人間の肉体をここまで強固に鍛え上げるとは、正に驚嘆と尊敬に値する」

 彼らが鍛錬に使うというサンドバッグを触らせてもらいつつ、しきりに感心する龍麻と紫暮。サンドバッグとは名ばかりで、実際には麻袋に荒砂利を詰め、隙間を砂で埋めたという代物だ。滑らかな部位など微塵もなく、ゴツゴツした岩の固まりそのもの。こんな物に拳を打ち込めば、相当鍛えた空手家の拳でも肉が削がれ、骨が砕けかねない。【拳道会】の面々はこのサンドバッグに拳のみならず、空手で使用するありとあらゆる部位を叩き込んで鍛え上げるのだ。

「まっ、今だからこそ【そう】なんだろうけどな。仲村先生ご自身は、【日本という国を護るんだ】って良く仰ってる。戦前からあった【武専】ってのは、軍の特殊部隊養成にも関わっていたらしいからな。弾丸が尽きて、刀も折れて、それでも戦って、且つ勝たなきゃならないって状況で戦い抜いて勝利し得る――現代じゃファンタジーとしか思えないような武道家を鍛えていた所の出だからな。拳一つで日本を護る――そんな気概の武人だよ、仲村先生は」

「うむ。このような物を叩き続ける精神は、正にそのような気概の持ち主でなければ持ち得まいな。これほどの物に全力で突きを打ち込めば、俺の拳では砕けてしまいそうだ」

 紫暮がそう言った時である、三人の背後に巨大な熱量が膨れ上がった。

「それは、拳が弱いからだ!」

 心底腹に堪える、強烈な一喝! 龍麻も紫暮も戦闘時そのものの動きで背後を振り仰いだ。しかし天を衝くような巨人はおらず、二人が視線を下ろすと、ごく普通の出で立ち…ポロシャツにスラックス姿の小柄な老人が立っていた。

「――仲村先生、驚かさないで下さいよ」

「驚くのは隙があるからだ。――義理で驚かんでもよろしい」

 両手を上げてゆっくりと振り返った拳士郎に鋭い視線を浴びせ、次いで龍麻と紫暮をねめつける老人。表情はなく、目だけが異様なほどの生気を放ち、獲物に挑みかかる直前の猛獣のようだ。――強い。とてつもなく!

「君らが、団体戦の最終試合をした者たちだな」

 紫暮は――龍麻も珍しく慌てて居住まいを正し、それぞれ空手式の礼と、敬礼を送った。

「お、オス! 紫暮兵庫です! よろしくお願いします!」

「緋勇龍麻であります! よろしくお見知り置きを!」

 つい、声を大きくしてしまう紫暮。常と変わらぬようでいて、最上級の礼を示す龍麻。しかし――

「――叩いてみるが良い」

「は?」

「砂袋だ。叩いてみろ」

 困惑し、顔を見合わせる龍麻と紫暮。老人は苛々したように言った。

「拳が砕けるかどうか、砂袋を叩けと言っておるのが判らんか!」

「お、オスッ!」

 先程の発言が老人の怒りを誘ったと悟り、紫暮は慌てて構えを作った。重心をどっしりと下ろし、しっかりと握った拳を腰まで引いた正拳中段突きの基本形。



 ――ゴッ!!



「――ッッ!」

 拳に走る激痛が、紫暮の表情を歪ませる。――洒落にもならない砂袋の硬さ! 拳ダコの盛り上がった紫暮の拳に、一発で血が滲む。

「…それが突きか? ――身体で教えなきゃ判らんかァッ!!」

「オッ! オスッ!」

 何で怒鳴られるのか判らぬまま、再度紫暮が砂袋に向かった時である。

「――紫暮」

 龍麻が声をかけた。

 目元が見えぬ、しかし龍麻と視線を交わした紫暮から、気負いや戸惑いが消え去る。ヒュゴッ…と息を吐き、構えを作る紫暮。スタンスを狭くした、むしろ腰高な前屈立ち。拳はごく軽く握る。そして――

「――カァッッ!!」

 静から動への転換。迸る裂帛の気合。次の瞬間、砂袋の麻が張り裂け、ガチガチに固められていた砂利と砂が爆発さながら飛び散った。その衝撃は空気を、建物をもビリビリと震わせた。

 拳を鋭く引いて構えに戻った紫暮は素早く意識を全周囲に展開し――ふと青ざめた。見知った者の気配に加え、巨大な熱量を秘めた鉄の塊のごとき気配。

「できるではないか。――やってもいない内から、できんなどと口にするな!」

「も、申し訳ありません!」

 慌てて居住まいを正し、深々と頭を下げる紫暮。しかし――

「大変よろしい。若いのに良く鍛錬を積んでいる。それほどのものを持っているなら無闇に謙遜するな!」

 雷のごとき怒声に、紫暮は声もない。しかし一瞬後、仁王のごとき怒りの【気】は、嘘のように晴れ渡った。――老人が笑顔を浮かべたのである。

「真に強き者は、同じく強き者を見分ける事が出来るものだ。礼儀正しいのは大いに結構だが、謙遜が癖になってはいかん。それでは拳も技も腐ってしまうからね」

 今度は笑顔のまま一同を見回し、老人は軽く頭を下げた。

「よく来てくれたね。紫暮君に、そちらが緋勇君。――私が仲村英雄です。よろしく」

「お、オス! 紫暮兵庫です! よろしくお願いします!」

「改めまして、緋勇龍麻であります! よろしくお見知り置きを!」

 表情を和らげてなお、礼儀を貫き通す若者に、仲村は笑みを深くして頷いた。

「うむ。まあ、楽にしなさい。君達に来てもらって嬉しいのは私の方なのだからね」

「はっ、光栄であります」

 龍麻の固い筋の入りまくった返事に、しかし仲村は実に嬉しそうに、懐かしそうに目を細めた。――拳道会の総帥、仲村英雄と言えば、戦前、戦中に日本武道を統括していた大日本武徳会の付属機関である武道専門学校(通称、【武専】)にて修行し、極めて厳しく高潔な思想を受け継ぐ稀代の達人だ。弟子に対してもそうだが、自分にも非常に厳しい人柄であると知られている。どうやら龍麻たちは――彼の眼鏡に適ったらしい。

「そう仰るなら、あまり驚かさないでください。並の若いのなら漏らしてますよ」

「それは並でもなんでもない、弱い若者だ。そして君達は強い若者だ。――このくらいせんと実力を見せてくれないと思ったのでね。許しておくれ」

 稀代の達人に頭を下げられ、恐縮しまくってしまう紫暮。いくら叩けと言われたからといって、【拳道会】の面々が己を鍛えるのに使う砂袋を粉砕してしまったのも恐縮に拍車を掛ける。先程挨拶を交わした【拳道会】の面々からのギラギラした視線を感じ、紫暮の背に冷たい汗が滑り落ちた。彼にはまだ、それが【殺気】ではなく【好奇】である事までは読めないのだ。

 しかし、仲村は穏やかに続けた。

「是非ゆっくりしていって欲しい所だが、ごらんの通り少々立て込んでいる。簡単なものしか用意できないが、私の一手もぜひ見ていってくれたまえ」

 弟子の一人を手招き、垂木を何本か持って来させる仲村。まず彼は、それを龍麻らに見せた。――どこにも異常のない、丈夫な材木である。直径は十センチほど。弟子達のウォーミングアップを見た直後とは言え、そんな物をこんな小柄な老人が折るというのだ。龍麻も紫暮も、知らず知らず手に力を込めていた。

「――仲村先生の試割は輪をかけて凄ェぜ。瞬きもしねェ方が良いかもな」

「うむ。――俺もビデオでしか見た事がないからな」

 壁際に控えたのは先程と同じだが、やや身を乗り出すようにして、小柄な老人に食い入るような視線を送る龍麻と紫暮。伝説的達人の技を目の当たりにできる興奮で身体が熱い。

 龍麻たちの緊張をよそに、仲村はぐるんと肩を廻し――それだけが準備運動。そして――



 ――コッ!



「――ッッ!?」

 仲村の手が動いた…と見る間に、破壊音というには、余りにも軽く、しかし鋭い音。垂木はまるで、最初からそうなっていたかのように切断されていた。――【折った】のではない。【切断】したのである。

(――見えなかった!?)

 龍麻の背が粟立つ。――仲村の手が動くのは解ったし、決して目で追えない速度の突きでもなかったのだが、【その瞬間】は完璧に見逃してしまった。拳士郎の言う通り、瞬きもせずに見つめていたというのに!?

 仲村は【見たか?】と言うようにチラリとこちらを見てから、今度は三人の弟子が構えている垂木にひょこひょこと近付いていった。



 ――カッ! ――コッ!



「ッッ!」

 今度は――辛うじて見えた。ただし、見えたからこそ戦慄した。単純な拳のスピードだけならば龍麻や紫暮の方が速いとさえ言える突きが触れた瞬間、角材は木目も節も完全に無視し、チーズを裂いたかのような滑らかな切断面を見せて二つになったのである。

「むう…。やはり俺には何が起こったのか解らん。失礼だとは百も承知だが、まるで手品を見ている気分だ」

 紫暮をしてそう言わしめるほどの技の切れ。――確かに、常人が見ればまずトリックを疑う所であろう。しかし龍麻は、それが断じてトリックではないと看破し、しかも仲村がスリッパを履いている事に今更ながら気付いて彼をして総毛立った。

(【剄】…ではない…! ポイントはスピード…か? 拳足がインパクトの瞬間にのみ加速し対象を破壊…いや、やはり分析不能だ…!)

 これが【技】というものか。仲村の弟子達は、確かに凄まじい破壊力の持ち主であるが、彼らの技は目に映る。確かな形で突きを繰り出し、蹴りを放ち、対象物を破壊する瞬間が解る。それはつまり、物理学の公式に当て嵌める事が可能な技という訳だ。

 しかし仲村の拳足は自然に差し出されるだけで、突きが突きとして成立するのはゼロコンマゼロゼロ…ナノセコンドの瞬間でしかない。そしてその瞬間、破壊された材木から物理学的な分析を行うならば、仲村の拳足は時速千二百キロ…音速で角材に【触れ】、その衝撃波が角材を【切断】した事になる。あらゆる格闘技において重要な足場を、スリッパのままで。

 生物学、人体工学からすれば、こんな現象はありえない。人体が超音速の衝撃波を生むなど。しかし仲村はそれを体現しているのだ。もしそれを人体に応用したならば――正に【真】の【一撃必殺】だ。

 しかし当の仲村は終始穏やかな雰囲気を纏ったまま、サービスのつもりかドアをノックする気安さで氷柱を、コンクリートブロックを粉砕する様も見せた。握った拳が対象物に触れた途端に技となる――真の達人がそこにいた。

「――オイオイ、大丈夫かい?」

 我知らず、指が白くなるほどに固く拳を握っている龍麻。そんな彼を気遣い、拳士郎がミネラルウォーターのボトルを差し出すと、龍麻は礼もそこそこにそれを一息に煽った。――口の中が喉に至るまでカラカラになっていた。

「最初からそんなに気ィ入れてっと保たないぜ。少しリラックスしろよ。――まあ俺も、人の事はあんまり言えねェけどな。少しチビっちまったぜ」

 本気か冗談か、拳士郎の口調から本音は読み取れない。しかし龍麻は、彼の底知れぬ実力を感じ取った。紫暮にはまだ読み取れなかった仲村の【本質】が、彼には感じ取れているのだ。

 そして仲村が全ての対象物を破壊し終えた時、龍麻たちは我知らず拍手していた。

「――どうだったかね? 自分では結構大したものだと思っとるんだが」

「ええ…ただ、驚嘆するばかりであります…」

 まだ喉に言葉がつかえる龍麻。龍麻も常人とはかけ離れた生き様を刻み、恐るべき世界を覗いてきた身だが、それでもなお仲村英雄という男の拳を前に戦慄し、驚嘆し…感動した。そう、感動したのである。かつて――マシンソルジャーであった彼が。

「ははは。そう驚いてばかりいても仕方ないよ。私が一丁木でも切ってみるかと思ったのは、丁度君たちくらいの頃だ。それから三年かかって初めて木を【折る】んじゃなくて【切った】時はね…これがもう、なんっとも言えん! 嬉しくて嬉しくて…」

 その時の仲村の笑顔の純朴な事。それを見た龍麻は、自分が【感動】を覚えた理由を悟った。

 仲村の、そして【拳道会】の面々がなぜかくも過酷な鍛錬に挑めるのか? それはひとえに、挑み続けた先にある技の凄さを知っているためだ。若き日の仲村が前人未到の境地に挑み、それを達成した時の【感動】。【垂木切り】の達成によって生まれた【感動】は門下生にも、空手を知らぬ者にも【感動】を伝えていくものとなったのだ。そして――いつか必ずその境地に達する事を心に刻み、岩の塊のごとき砂袋に挑む。苦痛を越える【感動】が彼らを支え、精神も肉体も頑強な者たちが育っていくのだ。

(俺は…まだまだだ)

 自分は武道家ではない――日頃から口にしている言葉だが、改めてそれを噛み締める龍麻。彼の技は戦場格闘技――確実なる殺人術だ。あらゆる武器を失おうとも、肉体一つで任務を完遂するために造られた戦闘マシン――それが自分だ。仲村も同じスタートラインから始まり、しかし感情を奪われていた自分とは違い、志高く鍛錬を積んだ果てに驚嘆すべき境地に達し、今は心身共に頑強な者たちを育てる側に廻っている。それが龍麻には新鮮な驚きであり、感動であった。

「――だからね、君達のように才能ある若者がいてくれるのが凄く楽しみだ。君達はこれからももっと伸びる。ぜひとも、私の上まで行ってくれたまえよ」

「はっ、誠心誠意、努力する次第であります!」

 直立不動して敬礼する龍麻と、深く頭を下げて空手式の礼をする紫暮。単なる励ましやリップサービスなどしない達人の言葉は、ずしりと重く心に響いた。

 仲村がにこやかに頷き返した時、ふと龍麻の頬を涼風が叩いた。

「おっ、やってますな」

 若々しく弾んだ声が、仲村の肩越しにかけられる。涼風と感じたのは、声の主が放っている清々しい【気】であった。

「おお、初実先生に、後野先生。ちょっと抜け駆けさせていただきましたよ」

 仲村は軽く身を引き、龍麻と紫暮を老人…と言うには真っ赤なアロハシャツがぴたりと決まった男性と、きちんと背広を纏ったビジネスマン然とした中年男性に引き合わせた。

「緋勇君、紫暮君。こちらは戸隠流とがくしりゅう忍術【武心館】の初実はつみ嘉明よしあき先生。そしてこちらが――」

「――俺のお師匠様。心道流しんとうりゅう空手の後野うしろの拳児けんじ先生だ」

 それぞれ名乗り、頭を下げる龍麻と紫暮。新たな達人二人も子や孫にも等しい若輩二人に揃って頭を下げる。

 流派やスタイルが異なるとは言え、同じ【達人】と呼ばれる人間がこれほどまでに違うものなのか。初実という老人はとにかく派手な外見で、六十代後半と言いつつ生気に満ちて実に若々しい。人好きする笑みが常に浮かんでおり、泣く子も笑い返すであろう暖かさとさわやかさを兼ね備えた雰囲気を纏っている。その癖、龍麻も【?】となるほどに捉えどころがない。

 もう一人、拳士郎の師匠であるという後野拳児。こちらも良く解らない。中肉中背で無駄のない挙措は紛れもなく武道家のそれだが、空手家の特徴とも言える拳ダコがない。背広に隠れているせいもあるだろうが、筋肉の組成が先程の【拳道会】の面々と比べると、かなり見劣りする。

 だが――強い。表面はとても静かなのに、その内には煮えたぎるマグマが溜まっている、活火山のような印象。しかしとても穏やかな雰囲気を纏っているため、その熱気は炭火のように優しく暖かい。

 そして初実は、龍麻と握手を交わすなりこう言った。

「いや〜、武道館では良い試合を見せてもらったね。久し振りに濡れてしまったよ」

「――は?」

「手だよ、手。本当に手に汗握る戦いだったねェ。――おや? 私は別に女じゃないよ? そっちの趣味もまだ試してないし。――はは、武道やってるからってそっちの方に興味なし何て言うのは異常だよ。うん、君達は正常だね」

「は、はあ…」

 龍麻をして面食らう、初実の舌の良く回る事。龍麻がどう応対したものかと悩んでいると、彼は「名刺があったっけ」と言ってポケットを探った。

「これが私の名刺。いろいろ書いてあるけど、名前だけ覚えてくれればそれで良いよね、こんな物は。でも残り一枚しかない。調子に乗って配りすぎちゃったんだよね」

「――では、紫暮君に…」

 龍麻がそう言うが速いか、初実が言葉を継ぐ。

「しょうがない。半分コしようか。苗字の方と名前の方と、どっちが良い?」

「……!?」

 さすがに龍麻と紫暮は顔を見合わせる。すると拳士郎が堪え切れず吹き出した。

「初実センセェ、この二人は超が付くほどクソ真面目なんですから、そうからかわないで下さいよ」

「おや、そうなのかい? 真面目過ぎるのは考えものだよ。武道って、会話の中にも【虚実きょじつ】があるんだから、額面通りに受け取って笑ったり悩んだりしてちゃいけない。一を聞いたら十を悟れるように、広い視野を持たなくちゃ。女の子を口説く時も一緒。アイしてるよって言ったら一緒のお墓に入るまでアイしてあげなくちゃいけない。それなのに最初から半端な気持ちでアイしてるって言うから、長続きしないで別れちゃう。――アンダスタン?」

「は、はあ…」

 龍麻でさえ、そんな返答をするしかない初実の話術。完全に彼のペースに乗せられている。紫暮など目を白黒させるばかりで、返事どころではなかった。

 ただし龍麻は、奇妙な既視感デジャヴを覚えてもいた。この独特の話し方というか、テンポには覚えがある。確かあれはデルタフォースの…

「でも若い内に一杯悩んでおくと良い事があるよ。悩めば悩むほど脳ミソ使うんだから。若い内に脳ミソを鍛えておくと、歳取ってもボケたりしない。――今の若い子はちゃんと悩んだり考えたりしないから、若い内からボケちゃう。勉強をしっかりやらないから、遊びが中途半端になる。遊びが中途半端だとストレスが発散されないから、勉強に身が入らない。そう言って勉強を放り出すと、ストレスが溜まっていないから遊ぶ気力もなくなっちゃう。そうすると暇ができちゃって、じゃあ何かしようかって気にもならなくて、その内考える力もなくなっちゃって、お金が欲しけりゃ人を刺せばいい、女が欲しけりゃ通りがかりの女の子を襲えばいい、一人じゃ怖いけどたくさんいれば――ってなっちゃう。これじゃあ余りにも情けないね」

「――肯定であります」

 これには即答できた龍麻。なるほど――【虚】を掴まされた事により、初実嘉明という人間を【達人】視する姿勢が取り払われ、【実】の部分――真に重要な部分をしっかりと聞く事ができた。【達人】の言葉をそのまま聞いていたのでは、【頭で解っている】状態にはなっても、深く納得する――【腹に落ちる】という境地にまでは達しなかったかも知れない。これが武道における会話に潜む【虚実】かと龍麻は納得――した気分にならぬよう、今のやり取りをありのまま記憶に刻み付けた。

「でも君達は違うね。よく考えて、よく身体を動かして、とても強い。――強いっていうのは良い事だよ。女の子にモテるからね。こちらの、後野先生みたいに」

「――そこで私を出しますか。そっちの方はからきしですから、参考にはなりませんよ」

 口元を覆ったのは確かに苦笑ではあったが、雰囲気は楽しくて仕方がない風情の後野。その笑顔を向けられると、龍麻も――極めて珍しい事だが――笑みを返した。

「はじめまして。【心道流】空手の師範をさせていただいている、後野拳児と申します」

 相手が少年であるにも関わらず、丁寧にお辞儀する後野。当然のように龍麻もすっと姿勢を正し、敬礼した。

「恐縮であります。自分は緋勇龍麻。新宿・真神学園の三年生であります」

 先程は初実に煙に巻かれてしまったが、筋の入りまくった龍麻の態度に、後野はちょっと驚いたように目を見開く。やはり後野も表情が豊かだ。今日出会う【達人】たちは感情を表に出す事を全く気にしていない。人間としての【器】が実に大きいのだ。

「はい、ご丁寧に。――まあ、少し楽にして下さいな。拳士郎君の友人ならば、私にとっても友人だからね」

 そう言って後野は、龍麻と紫暮に笑いかける。紫暮は一度だけ面識があったので、空手式の礼で深く頭を下げた。

 そこで拳士郎が、脇から口を挟んだ。

「先生、この二人は【本物】ですから、一つ、余所行きじゃない組手を見せてやってくれませんか?」

「組手を? ――おう、拳士郎君がそう言うならね。では、着替えてまいりますので、初実先生がお先にどうぞ」

「お? 私が先で良いのかね」

 にこやかに頷く後野に、初実はちょっと困ったような顔をする。――愛嬌があり、人好きする顔だ。

「さて困った。若い子に技を見せるのは大好きだけど、果たして何を見せたら良いものやら」

「先生の技は無形ですからね。――ナイフ投げなんかどうでしょう? この二人なら凄さが解ると思いますよ」

 拳士郎が言うと、初実は破顔一笑した。

「おやおや、それはいきなり物騒じゃないかな? 第一、無手の技の方が燃えると思うけどね。あ〜、でも仲村先生の次じゃちょっと迫力不足になっちゃうか」

 その言葉に、仲村が肩を震わせて笑う。それは自分の技を誇り初実を馬鹿にしているのではなく、【謙遜を】という意を含んだ笑いであった。この達人たちは、自分の技に自信を持つのは勿論だが、他人の技を正当に評価、尊重している。

 ちょっと考えた後、初実は龍麻に視線を向けた。

「ん〜、じゃあ無手の方は皆さんに任せて、私は一丁ナイフ投げで行ってみようかね。――では緋勇君、ちょっとそのナイフを貸してもらえるかな? その、でっかい方で良いや」

「――ッッ!」

 事も無げに言う初実に、さすがの龍麻も表情が硬くなる。――龍麻の挙措は実に自然で、外見からはその装備を窺う事は出来ない。そして日本の【常識】を考えるならば、高校生がナイフを常備している事など希であり、また、そうでなければならない。それを初実はあっさりと見抜き、しかも龍麻が戦闘用と工作用のナイフをそれぞれ持っている事さえ指摘したのである。

「………どうぞ」

 これほどの相手に、下手な言い訳も小細工も無駄だ。龍麻はそれだけ言って、刃渡り二七〇ミリ、刃厚八ミリに及ぶファイティング・ナイフを初実に差し出した。

「おう、こりゃあ凄い。土佐の剣鉈にチタンのナックルガードを付けたのかね。なるほど、大きさの割に全体重量は軽いし、重心がブレードに乗っててバランスも良い。これなら熊とだって戦えそうだ。逸品だね」

 龍麻が経験を基にして作り上げたカスタム・ナイフの特性を尽く言い当て、初実は巨大なファイティング・ナイフをまるでカッターのように軽々と操り、順手から逆手に、更に順手に戻りつつ、敵を仮想した空間を切り裂いた。その流れるようなフォームと、常に手首の誘導で刃渡りを悟られないようにする技法に、龍麻は目を見張る。そのナイフ捌きは紛れもなく、彼が学んだナイフ術と同系統の技であったのだ。

 そして、次の技がその確信を決定付けた。

「では――ちょっとごめんよ。そこどいて」

 初実が【そこ】と言ったのは、約十メートル先の、手裏剣用の的であった。そして初実の手がふっと消えたかと思うと、次の瞬間にはナイフが的に深々と刺さっていた。

(やはり、この方は…!)

 通常、片刃のナイフは投擲には不向きとされる。多くの手裏剣やスローイング・ナイフが棒状や両刃のダガータイプになっているのは、重量バランスと空気抵抗を考慮した結果、最も適した条件を揃えた結果である。

 しかも龍麻のナイフは元が狩猟用の剣鉈であり、グリップには殴打に使えるナックルガードまで付いている。決して投げて使う物ではなく、投げたところで的に刺さるかどうか? それを初実は軽々と、龍麻よりも確実に的を捉えて見せたのである。――その技術は龍麻に、初実嘉明なる人物の正体を思い出させた。日本国内よりも、むしろ海外のVIP、それも国家元首クラスに絶賛される【忍者】。全世界の軍隊、特殊部隊、警察、SP、ボディーガードに敬意を込めてその名を呼ばれる日本人。――龍麻の使う軍隊格闘術はロシア系武術の技法と名を受け継ぎ、しかしその根本には日本武術があると聞いていた。恐らくこの初実嘉明なる人物の技が、龍麻の軍隊格闘術のルーツだ。

 龍麻が声を失ったのに合わせ、紫暮が口を開く。

「――驚きました。手裏剣でも射程は最大七メートルほどだと聞いていたのに、この距離であんな大きなナイフが的を捉えるとは…」

「いやいや、手裏剣と同じですよ。手で持ってみて、重さとバランスが解れば何でも投げられますよ。あまり大きいものは力がないと投げられないけど、基本的に大きさは関係ないんです。肝心なのは使い方。男の持ちモノと一緒ですよ。ハハハハハハッ」

 またしても下ネタを振られ、紫暮は返答に窮して僅かに眉をしかめたが、初実の次の言葉に鳥肌を立てた。

「それにね、別に無理して刺す必要はないんです。刃でも柄でも、とにかくぶつける事が大事。刺さってもそこで安心しちゃいけない。大当たり〜なんて喜んでいる間に、刺さっているナイフを抜いて逆襲して来るかも知れないしね。刺さろうが刺さるまいが、投げたその足で向かっていかなきゃ。ナイフの一撃を突破口にして、殴るなり蹴るなりして相手の動きを封じないとこっちが殺されちゃう。お祭りの射的じゃないんだからね」

 刃の付いた武器を投げて、刺さらなくても良い、刺さっても終わりじゃない。常に次の事態を想定して動く――こんな言葉は、実戦を知り尽くしていなければ決して出てこない。かつて単なる【競技者】に過ぎなかった紫暮では理解できず、今【実戦】の場に身を置く紫暮ならばこそ判った、震えが来るほどに実戦的な【達人】の戦術理論コンセプトであった。

「だからね、いっぱい勉強してどんな事でも出来るようになっておくのが理想だね。武器は使えない、素手でも駄目っていう時には、おしゃべりだって武器になる。おだてて、すかして、言いくるめればそれも勝ちだから。絵をうまく描くとか、料理とかでも良いね。相手が女だったら、気持ち良い所を攻撃すれば仲良くなれちゃうかも知れない。――自分の得意な流儀で戦うっていうのは、そういう事ですよ」

「は、はあ…」

 虚の世界と実の世界、それがめまぐるしく交錯する様に、龍麻も紫暮も翻弄されるばかりである。しかしナイフ投げ一つで、この初実嘉昭の超実戦性を一端なりと窺い知る事ができた二人であった。――生き延びようとする執念から生まれる、奇想天外な発想力。それこそが現代の【忍者】たる初実嘉昭の原点――あくまで推測――であろう。

 するとそこに、真新しい空手着に着替えた後野が戻ってきた。

「おや、少し早すぎましたか?」

「いえいえ。この子達は頭が良い。ナイフ投げ一つでも、私の言いたい事はきちんと理解してもらえましたよ」

 ニコニコと言う初実に、結局最後まで翻弄される龍麻と紫暮。拳士郎も少し困ったような顔をして笑っているところを見ると、彼も相当やり込められたクチらしい。――いや、あの剣持鈴菜を煙に巻いた手腕から察するに、彼も初実の薫陶くんとうを受けているに違いない。それも、かなり本格的に。

「それでは、私の番でよろしいのですね」

 仲村と初実に一礼し、後野は龍麻たちの前に立った。

「……ッ!」

 向き合った途端、肌を炙られるような熱気を感じる龍麻。後野の穏やかな雰囲気はそのままなので熱気も優しさを含んでいるが、空手着に着替えただけでその熱量が倍増しになっている。しかも――奇妙な感覚。何か…これから【食われて】しまうような。猛々しい炎に焦がされ、焼き尽くされるのではなく、熱くも優しい炭火でこんがりと食べ頃に焼き上げられてしまうような、【恐怖】とは無縁の、しかし【勝てない】という感覚。

 これから闘う訳でもないのに、相対しただけで【死に際の陶酔感】とでも言うべき状態に陥った事に、龍麻は心底戦慄した。

「――どうかしましたか?」

「い、いえ! 失礼しました!」

 慌てて頭を下げる龍麻。紫暮は、龍麻が何に戦慄したのか解らず、僅かに首を傾げた。ただし拳士郎の目は小さく光る。人懐こそうな目の奥で何かが動いたが、それに気付いた者はいなかった。

「それでは先生。――んじゃ、俺の腕前、ちゃんと見ててくれよ」

 仲村と同じく、ぐるんと腕を廻してフロアの中央に後野と共に進む拳士郎。しかし、彼はまだ革ジャンにジーンズという出で立ちだ。これから組手をやる者の服装とは思えず、しかし彼の師匠である後野はまるで気にしていないようだ。後野と拳士郎が組手をやると聞いて、こりゃ見ものだと集まってきた松田や渋沢らも同様である。

「それでは、僭越せんえつながら私が審判をやりましょう。――空手道【心道流】、後野拳児さん。組み手、【心道流】門下、風見拳士郎くん」

 ひょこひょこと出て行った初実に紹介され、集まった【観客】にVサインなどしながら一礼した直後、拳士郎の顔つきが変わった。人好きする柔和な表情が、精悍な拳士のそれに変わる。

「では――始め!」

「――呼ッ!」

 腕を十字受けの形に構え、一瞬の息吹。たったそれだけで革ジャンが、ジーンズが、内包する筋肉の圧力で張り裂けんばかりになる。――が、なるほど。本来固い革やジーンズは格闘技向けではないものだが、彼のそれは非常に柔軟な素材で仕立てられているらしい。見た目と異なり、彼の動きには不自由な部分が一切ない。そして――

(おお…)

 様子見も何もなく、拳士郎は真っ直ぐ後野に向かって歩いていった。特に構えるでもなく運足法を用いるでもなく、ただ最短距離を行き、自分の距離に達した瞬間――

(――ッッ!)

 予備動作、初動、攻撃意思――その他一切合財がなきに等しい、龍麻ですら放たれてから気付いた居合いのごとき足尖蹴り! 師匠に対するものとは思えない、一切容赦のない前蹴りは、しかしあっさりと空を切る。――が、蹴りをそのままに踏み込み、またしても感知不能の――正拳突き! しかしこれも後野氏はふわりとかわす。

 拳士郎の足元がギャリッ! と音を立てる。これは――!

(【龍旋脚】!)

 後廻し蹴りを切っ掛けに上、中、下段全てに廻し蹴りと足払いを連動させる超高速の連続廻し蹴り。――紫暮のそれはその場での四連撃であったが、拳士郎のそれは止まらない! 百キロはあろう体重を蹴りの回転力で殺し、正に竜巻と化して獲物を追い詰める。その暴風に巻き込まれれば、後に残るのは凄惨な破壊のみだ。

 そんな弟子の連撃を、後野はいとも容易くかわす。暴風に逆らわない柳葉のごとく、むしろ緩やかな挙措で雨あられと繰り出される蹴りをかわしていく。既に数十発にも及ぶ蹴りを繰り出しながらスピードの衰えぬ拳士郎も凄いが、そんな蹴りをかすらせもしない後野も只者ではない。居並ぶゲストの中からも感嘆の声が上がる。

(――共に足捌きと体捌きが完全に連動している。しかしあれは…全て読まれているな。――琉球古伝空手か)

 人間が某かの動作を行う時、必ず存在する無駄な動き。後野の挙措にはそれが全くない。無駄な力みを消し、意識をリラックスさせ、全てを自然に委ねつつ全身をコントロールする…。格闘技に限らず、あらゆる舞踊やダンスにも通じる、人体操作の究極系だ。それを自らの肉体で体現しているからこそ、そして他人のそれも見えるからこそ、後野には攻撃が当たらない。拳士郎の攻撃がいかに速く強力であろうとも、これほどの実力者に狙う個所も軌道も事前に知られていては当たる道理がなかった。

 更に十数発の蹴りをかわした後、後野が初めて拳士郎の蹴りを捌いた。何気なく差し出す、軽い軽い手刀打ち。

「――おぅわッ!」

 【龍旋脚】が弾かれ、自らの勢いで床に吹っ飛ぶ拳士郎。――が、肩から転がって受身を取りつつ、反撃の足払い!

「――クッ!」

 蹴りが蹴りとして成立する前に、後野の底足に止められる拳士郎の足。拳士郎はそこを基点に南米の舞踊格闘技カポエイラ式の逆立ち蹴り! 後野はちょっと驚いたような顔を僅かに傾け――たったそれだけでそれも見事にかわす。

 ぱっと立ち上がる拳士郎。――仕切り直しだ。するとゲストたちから好意的な声援が飛んだ。そして――

(――ダンス!?)

 拳士郎の運足が、ボクシングのステップ以上に速く、リズミカルになる。肩の上下、腕の振り、腰の捻り…そのリズムは極めて早く、テンポはハードロックのそれだ。そして…

「――シュッ!」

 ごく軽い呼気と共に、拳士郎が突っかけた。

 格闘技と言うよりは、正に舞踊のよう。軽い突きと蹴りの連撃が繰り出される。だが軽いとは言え、鋭さは他に類を見ない。さすがの後野も、これを捌くのには両手を使う。ゲストたちの声援もそれにつられて大きくなる。

 そして龍麻は、後野の捌きの技術は勿論、拳士郎の実力にも目を見張った。

(あの攻撃…見た目以上に重い。仲村先生に似た打ち方をしている)

 傍目には腰の入らぬ、手だけの突き。しかし触れた瞬間に力を押し込み、並みの突き以上のパワーを実現している。相当の実力なくして、そして研鑚の時間なくしてできる突きではなかった。若さゆえの体力も加わり、全て攻撃を弾かれつつも後野を追い詰めていく。そして再び――【龍旋脚】! 後野が手刀の廻し受けで弾き飛ばそうとした時、拳士郎の巨体が急に沈んだ。

「――ッッ!」

 高く跳ね上がる、拳士郎の【両足】! 倒立姿勢での【龍旋脚】!? いや、頭頂を軸に高速回転するこれは――ブレイクダンス!?

「ハイライズ――スラッシャーッ!」

 倒立という、攻撃部位を迷う姿勢に加え、猛烈なスピンから繰り出される足刀の切れ味よ。後野の胸元がぱっと裂け、ちぎれ飛んだ布地さえも切り裂かれる。受けようものならば、受けた手の方が切り裂かれる!

「――ッッシャァッ!!」

 後野が初めて下がり、明確に見せた隙――息継ぎの瞬間を狙って拳士郎が跳ぶ。後野の真上から逆落としに走る飛び廻し蹴り! 全身の捻りを最大限に利用する、鞭のようにしなる蹴りが後野の頭頂を捉え――!

「――ッッ!?」

 何が起こった!? スピードも体重も乗り切った、ガードごと相手を叩き潰すような蹴りが、正にその場で力を失い、拳士郎は蹴りを出した姿勢のまま墜落した。しかし彼は身体を支えようともせず床に這い、手で後野の足を払う。これは意外だったか、後野もバランスを崩しかけ、それを立て直す前に拳士郎の正拳が後野の顔面に吸い込まれ――

「――クァッッ!」

 拳が交錯した直後、拳士郎の苦鳴は空中で放たれた。後野の胴着が張り裂ける中、拳士郎がフロアの端まで吹っ飛ばされる。――空手道の伝統的な【型】〜【ナイファンチ】。本来は攻撃を受けると同時に肘打ちを叩き込む技だが、後野は肘打ちの代わりに変形の背負い投げに持っていったのである。しかも何が起こったものか、驚異的な運動神経を誇る拳士郎が受身も取れず背中から落ちる。痛みに耐えて身を起こす拳士郎であったが、そのまま尻餅を付いて足を投げ出し…

「――参りました」

 少しおどけた口調は精一杯の意趣返しか。そのまま拳士郎は大の字に床に転がって大きく息を吐いた。

「――やれやれ。手加減させてくれなくなったね」

 一回着ただけでボロ布になった空手着に渋い顔をしながら、弟子の成長ぶりを見る後野の目は限りなく温かい。沸き起こった拍手もまた、実に温かい響きを持っていた。









「――ちぇっ。ま〜だ先生から一本取るのは無理だな」

 後野が【手加減できなかった】と言っているのに、拳士郎はさっさと龍麻らの所に戻ってきてぼやいた。――やや細身の見た目に反し、信じがたいタフネスである。

「なにを言ってる。――俺はたまげたぞ。たった半年会わない内に、拳足は見えなくなってるし、手数は三倍以上に増えて、突き蹴りの切れ味もとんでもなく向上しているじゃないか」

 龍麻と出会い、【実戦】を知った事で急成長している紫暮にしても、拳士郎の今の実力には驚いたらしい。確かに後野に一撃すら加えられなかったが、龍麻も紫暮もそれを卑下するなどありえなかった。

「まあ…な。俺だって負けてられねェよ。兵庫もひーちゃんも、あれだけが実力とは思えねェしな」

 ニヤ、と笑う拳士郎に、少し引き攣った笑みを返す紫暮。どうやら拳士郎は、龍麻と紫暮の【力】に勘付いているようだ。

「で、どうよ、ひーちゃん。こういう空手は少し珍しいんじゃないかい?」

「――うむ。自分は空手と言うとやはり突き蹴り中心の打撃系格闘技というイメージがあったが、関節技や投げ技もあるのだな。それも力に頼らない、柔術に似て非なる技が」

 拳士郎は笑みを深くし、指を鳴らした。

「さっすがひーちゃん。見るべきところを見てるよな〜」

 拳士郎に合わせ、周囲に居並ぶ【達人】達もうんうんと頷く。

「空手が打撃技オンリーに見えるのは、仲村先生や俺の功罪かな。特に俺はこれで喧嘩ばかりしてたからねェ。加持原先生原作の漫画でも【一撃必殺】ってェ言葉を定着させちまったし。おかげで俺らは、拳一つで必殺の一撃ってェ奴を形にせざるを得なかったとも言えるね」

 何か思うところがあるのか、しみじみと言う松田。彼をモデルにした空手漫画は、彼の前半生に若干の脚色を加えたものだ。そして空手に限らず、格闘技に手を染めている者は一度ならず目を通す有名な作品である。

「加えて、私たちの空手は、琉球から渡ってきた際に貴重な技の多くを失ってしまった空手とも言えるからね。今でこそ【型】の重要性が再認識されているが、失ったものを取り戻すのは並大抵の事ではない。それは、新しいものを作り出すほどの労力を必要とする」

 松田の言葉を仲村が引き継ぐ。――同じ【空手道】でありながら、流派どころか別種の格闘技に見えるほどの違い。時代の流れの中で、根を同じくしながらも別方向に伸びてきた枝葉が今、それぞれの色合いを持つ花を咲かせたのだ。

「――若輩の身でこのような事を申し上げるのは大変恐縮ではありますが、先生方の身に付けられた技は、それぞれ優れた特徴と個性を帯び、これからも発展していくであろう事が容易に想像できます。それはとても素晴らしい事だと思います。自分は先生方の技に…感動いたしました」

 少ない語彙を駆使して、何とか自分の【感動】を伝えようとする龍麻。他の若者がこんな事を言えば言語道断の思い上がりだが、【達人】達は龍麻の誠意をきちんと読み取ってそれぞれ笑みを零した。

「うんうん。俺らだって、武道を始めたばかりの頃は、上級者の技はそれこそ手品か魔術のように見えたもんさ。それが自分でもできるようになったからって、その時の感動が消える訳じゃあない。――しかし緋勇君。君は後野先生の技に疑問というか、訳が解らないとか思っていないかね?」

「――ッ! いえ…それは…」

 図星を刺され、うろたえる龍麻に、しかし居並ぶ【達人】達は笑みを深くした。

「カカカ、礼儀正しいのは結構やけど、水臭い事は言わんでええよ。君らは【本物】を見るに値する。遠慮のう疑問をぶつけてくれてええよ。――ねえ、皆さん」

 頷く【達人】達の真意を悟り、恐縮してしまう龍麻。彼らは、龍麻達が演舞を見るために訪れたのではなく、自分達が【本物】を見せたいが為に龍麻達を【招待】したというスタンスを取っているのだ。

 龍麻は紫暮と顔を見合わせ、腹を決めた。思い切って、胸中の疑念をぶつけてみる。

「それでは…恐れながら、拳士郎君の蹴りを封じた技に付いてお聞かせ願えますか? 自分には何が起こったのか全く理解できませんでした」

「ケン…拳士郎君も、あれは本気の打ち込みでした。彼の実力もある程度弁えていますが、とてもあのような現象が起こるとは思えません」

 そうは言ってみたものの、実の所龍麻も紫暮も、あまり良い返事を期待していなかった。演舞会とは言うものの、どの流派も基本的な組み手だけを見せるのが普通である。そして演舞には【見せる】為の約束事がある事は否めない。それ故に神妙の域に達した達人の技さえ胡散臭くなってしまい、いざ【実戦】でそれを証明して見せろと言っても、危険であるという理由から【実戦】を受ける事はまずあり得ない。それが記者たちの嘲笑――【達人は保護されている】に繋がるのだ。

 だが龍麻は【実戦】を知る男だ。どれほど胡散臭く思われようと、他愛のない功名心や興味本位の好奇心ごときに応じてはならぬ、秘密に守られるべき門外不出の秘伝の価値を知っている。逆に言うならば、情報公開の世だと言っても、一般人がそれを知ったところで無用の長物でしかなく、ましてや志が低い者に秘伝を悪用される事があってはならないのである。

 しかし、後野はあっさりと口を開いた。

「私はあれを、【ゼロの力】と呼んでいます」

「【ゼロの力】?」

 思わず鸚鵡返しする紫暮。龍麻はやや身を乗り出し、耳に全神経を集中する。

「はい。人が行動を起こす時に必ず発生する力を、反発させる事なく適切に受けると、肉体は本人の意思とは無関係に力を失ってしまうのですよ」

「――柔術などで使用される【合気】のようなものなのでしょうか? しかしその技術をもってしても、既に放たれている力を霧消させる事が可能とは思えません」

 龍麻の使用する軍隊格闘術も、古今東西の格闘技をミックスして組み上げられたものだ。特に相手が武器を持っている事を大前提とする接近戦技術は、突き蹴りよりも極め技、固め技、投げ技を重視する。当然、その元になっているのは日本の柔術や合気道、中国拳法の禽拿(チンナ・関節技)で、龍麻も柔術的戦闘法を知っている。人体破壊の効率性を考えると、必然的にそうなるのである。しかし、だからこそ後野の【ゼロの力】が理解できない。【合気】を使用して相手を無力化できても、既に放たれた突き蹴りのパワーそのものを消し去るなど…。

 果たして、後野の返答は?

「では一つ、実際にやってみましょう。【百聞は一見にしかず、百聞は一触にしかず】というのが私の考えです。――実は私も、【これ】をうまく説明できないのですよ。また、言葉にしてしまっては意味を失ってしまうとも考えています。肝心なのは、自分の身体で体験する事だと思いますよ」

「それは…願ってもない事です。――よろしくお願いします」

 龍麻は直立不動の姿勢を取り、願ってもない機会に恵まれた幸運と、快く応じてくれた達人にありったけの敬意を込めて敬礼した。











 まず龍麻が皆の輪の中心に進み出、紫暮と拳士郎がその背後に立つ。そして後野はまず、テーブルを用意した。

「これが一番解りやすいんですよ」

 そう言って後野は片手を差し出す。そう、彼が提示したのは腕相撲であった。

 しかし龍麻は、真剣な面持ちでテーブルに付く。たかが腕相撲ごときなどと考えてはいない。彼の放つ雰囲気は、実戦に臨む時のそれであった。

 後野の、柔らかく暖かい手と組み、拳士郎の合図で開始。龍麻は腕に力を込め――



 ――パタン



「――ッッ!?」

 龍麻ほどの者が、己の手の甲がテーブルに付いてから、自分の負けに気付いた。――不意を突かれた!? いや、違う。断じて。

「――もう一度やりましょうか?」

「…お願いします」

 頷くのがやっとの龍麻。背筋を氷の毛虫が這っている。そして――



 ――パタン



「――クッ!」

 またもあっけなく負ける龍麻。後野はニコニコと笑っている。

「…恐縮ですが、今一度お願いします」

「良いですよ。何度でもお付き合いしましょう」



 ――パタン、パタン、パタン



 それからの数分は龍麻にとって未体験の宝庫であった。

 今度こそ、と臨みつつ、しかしあっさりと負けてしまう自分。なぜ勝てないのか、どうして力が入らないのか、龍麻でさえ分析ができない。意思は間違いなく腕に力を込めよと伝達しているのに、力が発生する以前に雲散霧消してしまうような感覚。腕だけを動かすスイッチがあるならば、それを切られてしまっているとでも言うべきか? 後野の手がテーブルに付く一センチ手前からスタートして、それをあっさりと反転させられた時は龍麻をして心底震えた。まるで腕のコントロールを奪われてしまっているかのようだ。

「これが、【ゼロの力】ですよ」

 挑戦する事ニ十数回目にして、ようやく紫暮と交代する気になった龍麻に、後野はにこやかに言った。

 龍麻とて、ただ闇雲に挑戦した訳ではない。挑む毎に力むタイミングを変え、脱力し、力の方向を変え、更には始めの合図がかかる前に仕掛け、あるいは合図の瞬間に自らが負ける方向に力を入れさえした。そんな龍麻の創意工夫には、後野も内心で舌を巻いていたほどである。

 だが――勝てない。どのような戦術を駆使しても、それは激流に垂らした一滴のインクのごとく、勝ち目などありはしなかった。錯覚や心理的トリックではない真の【技】を、後野は腕相撲一つで見せたのであった。

「――参りました」

 さすがに龍麻のやられっぷりを見ていた分、紫暮が降参するのは早かった。それでも十回は挑んだあたり、紫暮も立派に武道家の端くれであった。神秘の技――言葉にすると陳腐だが、真の【技】に触れられた興奮が彼の身体を熱くしていた。

「ウォーミングアップはこのくらいにして、もう少し突っ込んだところをやってみましょうか」

 後野はそう言ってテーブルを片付け、まず龍麻を手招いた。

「好きなように打ってください。軽くでも、本気でも良いですよ」

「――了解しました」

 龍麻は危険ではないかと提言しかけ、しかし後野の目を見て言葉を飲み込んだ。

 かつて龍麻を――レッドキャップスを鍛えた教官達。各国の特殊部隊。最前線で戦い、血と硝煙に塗れ、自らも血を流し、泥の中でのた打ち回り…そんな戦場を知る兵士と共通の、更に透明な迫力が後野拳児という【人間】の全身から発散されている。そして何よりも龍麻に【恐ろしい】と思わせたのは、気高き野性の猛獣と同じ目であった。【人間】…【兵士】が人を殺す時、その目には殺意がある。殺気もある。怒り、憎しみ、哀しみ、その他諸々、ありとあらゆる感情が目に現れる。だが、この時の後野の目は猛獣のそれ…龍麻を【餌】としか見ていない目であったのだ。最前線で鍛え上げられた龍麻すら、戦う対象として見ていない、目。龍麻にとっても未体験の【恐怖】であった。

 いきなり、龍麻は右の【狐拳こけん】を飛ばした。手首を内側に曲げ、五指を柄杓ひしゃく状に揃えて固めた拳を振り上げる技法。実戦での使い勝手も良く、予備動作も小さいために不意打ちには最適の技だ。そして龍麻の技は目に映らぬほどに速く――手加減などしなかった。

「――ッッ!」

 いきなり龍麻の視界が反転した。

 龍麻をして予想外。不意打ちの狐拳とは言え、かわされるか、キャッチされるか、カウンターを取られるか…対応は決して多くはない筈だ。それが、いきなり投げられたのである。それでも戦闘本能が意思より速く身を捻らせ、足から着地に行く龍麻。しかし足が地に付くと同時に膝が力を失い、龍麻はうつ伏せに転がされた。そして――

(――なんだ!? 動けん!)

 右腕が伸ばされた状態で逆関節に極められ、しかしそれだけならば龍麻は関節を外してでも反撃に行く。それを許さなかったのは、やはり龍麻の右腕を掴んでいる後野の片手一本であった。痛みは全くないものの、軽く握られているだけで身体の全機能が停止…殺されている!?

 二十秒ほど足掻いてみるものの、全く動けないと悟った龍麻は力を入れようとする意思を捨てた。すると後野の手が離れ、瞬時に身体が全機能を回復する。

「――どうです? 動けなかったでしょう」

 後野は手を差し出し、呆然と自分の手を眺めやる龍麻を立ち上がらせた。

「もう一度、今度は手順を分解してみましょうか」

「…お願いいたします」

 促され、今度は右構えから最速の【掌打】を放つ龍麻。一切遠慮などしない一撃が、内側から円を描いた後野の平拳で弾かれると同時にキャッチされる。基本中の基本の【型】、【三戦サンチン】の【虎口とらぐち】。そして――また来た。腕から力が消え去る【ゼロの力】。

「ここでは経穴けいけつも利用しています」

 後野の手は龍麻の手首にあるツボを柔らかく捉えていた。ここまでは合気柔術とほぼ同じである。

「これを【ゼロの力】で崩すと…」

 後野が軽く手を外側に捻ると、龍麻は腕のみか膝まで力を失い、コロンと床に転がされた。その時には既に手首、肘、肩の間接が後野の片手で極められ――否、完璧に決まっているようには感じないのに、動けない。しかも、僅かに力を加えた瞬間に腕を丸ごと砕かれそうな感覚。合気道や合気柔術とはまた違った術理。

「このような感じになります。今は投げましたが、突きならば相手の方から当たりに来させるようにもできます。――手品みたいでしょう? でも人間の動きというものを深く理解していくと、非常に理に叶った事なんですよ。人は呼吸の頭――吸気と呼気の入れ替わる瞬間を押さえられると、動く事ができなくなってしまうんです」

 やはり後野が手を放した途端、龍麻の身体が軽くなる。

「むう…。やはり自分には理解が及びません。自分の身体に何が起こっているものか…それすらも解りません」

「頭で考えても、こればかりは説明できませんよ。私も【型】を習得したら、自然にできるようになったのです。――全ては【型】ですよ。【型】を繰り返し練習して、きちんとした【型】を習得したならば、約束組み手の中で自分に合った【技】を磨き、また【型】に戻る。私のところではこれを【フィードバックシステム】と呼んでいます」

「【フィードバックシステム】? 古流空手にしてはまた斬新な言葉ですね」

 姿勢を正して、龍麻は率直な感想を述べる。後野はにっこりと笑った。

「私らにとって、【型】は先人達が長年かけて培ってきた貴重な技術であり、全ての技の基本ですからね。これは変わらなくて良い。しかし時代は変わり、人も言葉も変わる。【型】そのものは変わらなくても、それを伝える言葉は解り易いのが一番でしょう」

「なるほど。それはよく解りました」

 【型】を漫然と行うのではなく、動作の意味を考えつつ、自分に合った技を生み、それを【型】と整合させていく…即ち人体工学とスポーツ生理学、心理学の融合だ。【古流】という言葉に龍麻がどれほど惑わされた事か、最新のスポーツ生理学がようやく形にした理論を、既に古流空手が成し遂げていたのであった。そしてこれは――真似できない。どれほど素質に恵まれた天才であろうとも再現不可能な、努力と研鑽にかけた時間がものを言う技だ。

「はい。――君は本当にお父さんによく似ていますね。下手な説明を受けるよりも、身体で体験する方が手っ取り早く理解できる…。今の私があるのも、君のお父さんとの約束組み手があったからですよ」

「後野先生も、自分の父をご存知でありますか」

「はい。――いやあ、私はあまり素質に恵まれていなかったのですが、彼は凄く熱心でしてね。約束組み手は彼が納得するまで付き合わされたものです。休日などではそう…二十時間くらい」

「……」

 それは迷惑ではないのか? 龍麻が黙り込んだのを見て、後野はそっと微笑んだ。

「実に楽しい時間でしたよ。彼との組み手は、一度こなすごとに自分が変わっていくのが解るんです。同じパターンをなぞっても、どこかに必ず新たな工夫が加えられている。それが面白くて面白くて。いつの間にやら私も成長させていただきましたよ」

 それが実に良い思い出であるか示すように、後野の目は子供のように純朴な輝きを放っていた。

 しかし、と後野は付け加える。

「残念な事に、楽しい時間というものは短いものです。彼が道場にいたのは半年ほどの事でした。当時の私は大学を出たての新米エンジニアでしたから、練習はいつも夜でした。ところが仕事が終わってから道場に行くと、いつもいる筈の彼の姿がない。師匠の座浪ざなみ先生にはただ一言「出て行った」と聞かされ、彼の肉筆による退会届と、先生の覚えとなる破門状を見せられ、途方にくれました。私には彼が出て行く理由の心当たりがなく、せめて一言くらいあっても良かったじゃないかと」

「…身勝手な性格であった…そういう事でしょうか?」

「ええ、身勝手ですよ。――懇意こんいにしていた喧嘩士――ヤクザが拳銃で撃ち殺されたと聞いて、座浪先生や私たちに迷惑が掛からないように自ら破門になり、私にすら一言もなく一人で敵討ちに行ってしまったなんて」

「……」

「そんな顔をしなくても良いですよ。君のお父さんは――たいそう暴れはしましたけど、結局誰一人傷付けず争いを納めてしまいました。ヤクザたちも――こう言ってはなんですが、腕っ節に自信もあれば、プライドもある。それをバッタバッタと薙ぎ倒して、しかも怪我もさせないとくれば、おとこ矜持きょうじがくすぐられると言うものです。彼の力に感服した双方の組長は彼の意を汲んで抗争をやめる事を誓い、喧嘩士を撃ち殺した男に詫びを入れさせました。と、普通ならその犯人は指を詰めるとか、そういう詫びの入れ方をするのでしょうが、彼はそれを止めたそうです。「親から貰った身体を大事にしろ」と言って。そして双方の面子を立てるために、彼はどこかに旅立ってしまったのですよ」

 龍麻は訳が解らないといった顔…口元を歪めた。

 龍麻は対テロ部隊出身である。テロに対する報復攻撃が、必ずしも平和に繋がらず、新たなテロを生む要因になってしまう事も知っている。だが、報復をしなければテロリストは無法な要求を限りなく増大させてくるのだ。テロに対しては一歩たりとも引いてはならず、その為には殲滅戦を主眼に置かねばならない。つまり――テロリストはその思想もろとも徹底的に叩き潰さねばならぬのだ。たとえ相手が女、子供、老人であろうとも。

 しかし龍麻の父、弦麻は敵討ち…報復に行った先で、誰一人傷付けず場を納めたという。何のためにわざわざそんな事をするのか? そもそも、そんな事が可能なのか? しかし弦麻はそれをやってのけたというのだ。

「力を衝突させない――それが【心道流】です」

 無表情ながら、なお龍麻が怪訝けげんな様子なので、後野は付け加えた。

「力に対し力で応ずれば、そこには衝突と反発が発生します。力が強ければ強いほど、その衝突は大きくなるでしょう。骨肉が砕け、凄惨な事になるのは間違いありません。これが集団ともなれば、その破壊は何人に広がる事か。君のお父さんは力を衝突させない【ゼロの力】の理念をもって、争いを納めたのですよ」

「……」

「それが、日本武道の求めるものなのじゃよ」

 まだ納得いかない様子の龍麻に、彼の心中を鋭く見抜いた【達人】達はそれぞれ目で語り合い、最終的に口を開いたのは渋沢であった。

「若い内は強くなろうという気持ちが強いもんじゃ。それはそれで良いんやけど、それで腕っ節の強そうな奴に喧嘩を吹っかけて廻ったらどうなるじゃろ? いらない恨みを買ったり、警察の厄介になったり、あまり良い事はないと思わんかね?」

「仰る通りです」

「うん。そもそも武道は、道具を使う事で発展してきた人間が、では武器がなくなったらどうしようという事で編み出されたもんじゃ。わしらの柔術も元は剣術をくしたモンが、剣術の理合を己の体一つで生かすところから始まっとる。そして剣は触れれば切れるが、拳は加減が利く。一撃で人を殺す力を持っていても、それを加減する事ができるのじゃよ。つまり――殺さずに済む。恨み合い、憎しみ合い、いがみ合う、殺し合いの技が、相手を許し、正し、和合する技となる――【活人剣】の誕生じゃ」

「…はい…」

「素手で人を殺せるという事は、【武道】の究極目標ではないのじゃよ。むしろそんなものにこだわっているようでは。救いのない修羅の道行きじゃ。殺すだけなら己の拳をじっくり鍛えるより、ペストルでも何でも用意した方が早い。相手がペストルを持ったら、こっちは戦車でもミサイルでも持ったらええ。――それで世界に何が起きたか解るじゃろ?」

 龍麻は頷く。人を殺すという一点を追求するならば、武器の使用こそ人類には自然な事だ。しかし当然のように相手もその対抗手段を取る事になり、こちらも相手に勝る兵器を用意せねばならない。それが――軍拡競争だ。今でこそ東西冷戦は一応の決着が付いたものの、国際社会において優位に立つべく繰り広げられる軍拡競争は、未だ水面下で燻り続けている。特に第三国の【核】保有に対する熱望ぶりは、もはや信仰の粋にさえ達している有様だ。

「強くなりたいと、男の子は誰でも一度は考えるもんじゃ。しかし相手をぶちのめせれば満足か? 自分より弱い者を見下せれば満足か? 弱い者全てを自分に従わせればそれで満足か? 自分の我侭を押し通し、それを許さぬ者はぶちのめし、気に入らない奴は皆殺しにして、気に入った奴にはいい顔をし…それは、強さと言えるじゃろうか? 弦麻――君のお父さんは、強さを求める事に貪欲ではあったが、喧嘩上等の暴力自慢ではなかったんじゃよ。そりゃあ男じゃから、強い奴と闘ってみたいという欲求はある。じゃがどうせやるならせいせいとした良い闘いにしたい。遺恨を生み、不和の種を蒔くような喧嘩はするもんじゃない――そういう男じゃったよ。じゃから、ヤクザどもの喧嘩に口を出した時も、どんな武器を出されようとも己は素手のみを貫き通し、彼らの不和の種を潰し、自らがその土地を出て行くという事で彼らの面子をも立ててやった。その結果、彼らは自らの矮小さを恥じ、つまらん諍いや暴力を振るう事はなくなった。一人の男が【武】を見せる事で、暴力のあさましさを教え、争いを収めたのじゃ。これこそ、真の【武】の姿ではないかな?」

「…恐れながら、自分には良く理解できません…。先生方の言わんとしている事は解らなくもないのですが…」

 珍しく難しい顔をして、龍麻。――誰一人傷付かずに争いが収まるならばそれに越した事はない。しかしその為には、争っている当事者同士にも話し合いの余地を認めるだけの度量が必要だ。最初から己の主義主張だけを唱え、相手の言う事など聞く耳持たず、一方的な我侭を押し通そうとする輩に、果たしてそんな方法が通じるか? 龍麻の答は否だ。己こそ最強、己こそ絶対正義と考える連中が、他を尊重する事などありえない。これは何も国家や組織間に限らず、個人レベルから教室内の仲良しグループ、市町村やスポーツ団体、果ては宗教や思想など、考えを異にする二つのグループが存在すれば必ず生じる現象なのである。その中で【自己主張】の強いタカ派の人間が己の主義主張を【正義】の名のもとに強く押し出す時、【戦争】となるのだ。そして、一度始まってしまえば、恨みと憎しみの連鎖が生まれ、己の体力、財力、資源がある限り報復合戦を繰り返す。――【戦争】は、始まる前に止めねばならぬのだ。

「君の悩みも良く解る」

 渋沢は龍麻の心中を見透かしたかのように言った。

「人と人が争う。これは人の宿業じゃよ。妬み、嫉み、憎しみといった感情がある限り、人は争いを捨てられんじゃろうね。しかし、じゃからと言って諦める事はない。人間には学問があり、わしらの前には武道がある。人間性を高め、皆が仲良くなるための方法は、先人達が様々な形で残してくれている。わしらはそれを受け継ぎ、より高め、次代に引き継がせて行く事こそ使命じゃろう。――合気道を【実戦】〜他との争いに使用するのはわしで最後にしたい。これからの合気道は本来あるべき姿〜人との【和合】を目指すべきだと、わしは考えておるんじゃよ。それは何も、合気道に限った事じゃないね」

 それは…解らなくもない。格闘技を学んでいる者全てが暴力的かと言えば、即座に【否】と答えられる。要は志の問題であり、こればかりは本人が足掻き、傷付きながらも自分で見付けねばなるまい。

 醍醐を連れてくるべきだった、と龍麻。彼はかつて暴力の徒であったが、闘いの中で己の間違いに気付き始め、それが何であるのか答えが出ぬままに凶津と戦い、彼と決裂した。しかし龍山や京一と出会い、龍麻と出会い、僅かなりと人間的成長を遂げてから臨んだ凶津との再戦では、少なくとも凶津の頑なな心を開かせる事ができたのである。――彼が目指す【真の武道家】とは、そういうものなのかも知れない。

 しかし対テロリズム…常に敵を【殲滅】する事を求められてきた龍麻は…。

「一つ…ぜひとも伺いたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 龍麻は漠然としか纏まっていない考えに、慎重に言葉を選びながら切り出した。

「ええよ。わしらに答えられる事だったらね」

「…先生方の考える、武道の究極的理想形とはどのようなものなのでしょうか?」

 唐突な、ある意味龍麻らしくない質問に紫暮は目を白黒させる。しかし居並ぶ達人たちはそっと微笑んだ。肩を震わせて笑ったのは松田雄二郎と初実嘉明である。

「う〜ん、そいつはなかなか難しい質問だが、渋沢さんならすぐに答えられるね」

「――なんじゃい、ワシにそんな小難しい事を言えっちゅうのか?」

「ははは、何せこのメンバーの中では、渋沢先生が一番先輩でいらっしゃいますからねえ。私が口にしても説得力に欠けますからなあ」

 ニコニコと笑いながら言う初実であったが、龍麻はその言葉を額面通りに受け取らなかった。彼の言葉には常に相反する二面性〜虚実が含まれている事は既に解っている。ユーモアたっぷりに話す初実がこの場で何か言っても説得力に欠ける…それはその通りだろうが、裏を返せば、龍麻の質問は一言二言で説明…どころか、言葉に表した途端に意味を失うほど深く難解であるという事であった。

「んん〜っ、それじゃ、わしの考えでよければ、披露しようかの」

「…よろしくお願いします」

 龍麻は頭を下げ、渋沢の顔を注視した。紫暮も固唾を飲み、拳士郎もやや緊張して渋沢の言葉を待つ。

 そして、渋沢は穏やかな声で言った。

「それはね、自分を殺しに来た相手と、友達になる事だよ」











   第六話閑話 武道 2    



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