第六話閑話 武道 1





 
 ――『頭は低く、目は高く、口慎んで心広く、孝を原点として他を益する』



                ――空手道・極真会館総裁 大山おおやま倍達ますたつ











「――ッシャァァッッ!」

「――ッセイィッ!」

 鋭い気合いがアドレナリンの香り濃い空気を震わせ、唸り飛ぶ蹴りと拳が交錯する。ビシィッ! と鋭く肉打つ音。続いて洩れる呼気。一人は前のめりに、もう一人は天を仰ぎ――片方だけが辛うじて踏みとどまる。

「一本! 赤! 真神まがみ!!」

 主審の手が、空手着の帯に重ねて赤のたすきを巻いた選手…真神学園空手部副将に向かって上げられ、試合場の四隅にいる副審も、全員が赤の旗を揚げる。――それを確認してから、真神の副将は膝から崩れ落ちた。

 息詰まるような静寂から一転、どよめくような歓声が上がり、観客の足踏みがここ、武道館を震わせた。

『真神対鎧扇寺がいせんじの副将戦は真神に軍配が上がりました! さすがに鎧扇寺学園選手は悔しそう。長年に渡り接戦を繰り返してきた両校ですが、今年は真神! 主将と副将が欠場するという波乱の中、激戦を制したのは真神でした!』

 試合場そのものは淡々と試合が行われているが、ラジオからは実況中継の音声が流れ、これがプロレス並みに興奮した中継となっている。真神学園応援団の詰める観客席で試合を眺めていた蓬莱寺ほうらいじ京一きょういち醍醐だいご雄矢ゆうやは口をへの字に曲げ、その隣の女子生徒…桜井さくらい小蒔こまき美里みさとあおいも眉をしかめた。

「チッ、まだ試合は終わってねェだろうがよ」

「ああ。ホント、こういうのってムカ付くよなァ」

 ごちる京一の隣で、袋に詰めた槍を抱えた雨紋うもん雷人らいとも同意する。たかが国体――とは言わないが、【スポーツマンシップに則り、正々堂々と】行われている試合に対して、勝敗のみにこだわり過ぎるのはどうかと思う。実際、壮絶な戦いを繰り広げたばかりの両選手は、お互いに血まみれ汗まみれの顔に笑顔を浮かべ、握手の後は親しげに小突きあってそれぞれの席に戻ったのだ。

紫暮しぐれクン…辛いだろうなァ。団体戦負けが決まっちゃってるのに、これから試合だもんね。しかも相手はひーちゃんだし」

「まあねぇ。個人戦じゃ東京代表かも知れないけど、龍麻相手じゃ見てる方としてもちょっと辛いわ」

 小蒔の意見に賛同し、葵の隣に座っている藤咲ふじさき亜里沙ありさも肩をすくめて足を組み換える。ワイルドなレザージャケットとタイトスカート姿の彼女を、前列にいた何人かの男がちらちらと振り返るが、今は無視だ。彼女たちの視線は試合場の一角、真神学園選手団と共に正座している緋勇ひゆう龍麻たつまに据えられている。

 真神学園空手部から龍麻に、助っ人として地区大会に出場して欲しいとの打信があったのは二週間ほど前の事であった。

 凶津まがつ煉児れんじの引き起こした事件で負傷した真神学園空手部主将と副将は、怪我こそ回復したものの、試合に出るには決して良いコンデションではなかった。三年生である主将と副将にとってはこれが最後の試合であるのだが、不安の残る状態で出場しては皆に迷惑を掛ける。そこで主将と副将は個人戦のみエントリーし、団体戦の大将を龍麻に頼み込んだのである。

 龍麻としては、なるべく人目に触れる機会を減らしたかったのだが、あの事件以来、真神と鎧扇寺の空手部に幾度となく呼ばれ、【指導】を頼まれている。そして両校の生徒たちも今まで以上に親密になり、【決勝で会おう】と誓い合っていたのだ。しかし真神の戦力不足は否めず、紫暮ももう一度龍麻と戦いたいと熱望したので、龍麻の出場が決定したのである。

 その後の龍麻の行動は奇抜も良いところであった。

 ライバルである両校が試合でぶつかるというのであれば、当然、龍麻は真神の勝利の為に動くであろう事を、鎧扇寺の生徒たちも承諾していたが、とことん【固い】龍麻は【試合用】の格闘技は無意味と断じ、大会前日まで真神と鎧扇寺の合同稽古を実施したのである。つまり――闘う相手の戦力、戦術、手の内に至るまで互いに知り尽くし、昨夜の豪勢な晩飯と今朝の軽い朝食、この武道館に来る電車まで共にするという状態で大会に臨む事になったのだ。そして龍麻も、どちらかを贔屓ひいきする事は一切なかった。

 その結果が、両校の決勝戦である。共に圧倒的な勝利を納めてきた両校の対決は高校武道史上に残る名勝負だと、早くも賞賛されている。実際、先鋒戦からハイレベルな攻防が展開され、時間一杯戦い合う接戦。そして僅差での勝敗。――観客たちが息を詰めて見守る戦いになったのである。

 だが、最後に勝利を納めたのは、団体戦を欠場せざるを得ない主将と副将の為に奮起していた真神の空手部であった。ポイントは副将戦が終わった段階で一対三。――大将戦を待たずして、真神の団体戦優勝が決定したのである。

 残すところは龍麻対紫暮の大将戦。紫暮は昨日の個人戦で見事に東京代表の座を獲得しているが、しかし龍麻は初の出会いの日、その紫暮に勝っている。しかも【指導】という形で。戦場格闘技のエキスパートと競技者では根本的に異なる〜小蒔はそう言いたいのだ。ところが――

「…そう思うか? 桜井、藤咲」

「エッ!? だって、ひーちゃんだよ? いくら紫暮クンでもひーちゃんが相手じゃ…」

 そこまで言って小蒔は言葉を切った。

 醍醐は腕組みし、今まで以上に真剣な眼差しを試合場に注いでいる。見れば京一も普段の締まりのない顔が、まるで自分が試合に赴くように引き締まっていた。

「二人とも…どうしたのさ?」

「…うるせェなァ。黙って見てろッ」

「なッ、なんだよッ、その言い方ッ!」

 なんだか自分が凄く馬鹿にされたような気がして、小蒔が膨れる。しかしそんな彼女を葵が止めた。

「小蒔、落ち着いて。――見て、選手たちを」

「エッ…!?」

 葵の示す方角を見やる小蒔。すると先程のアナウンスなど大法螺おおぼらそのもの、負けた悔しさなど微塵もなく、これから始まる試合を真剣に見ようとする選手達の姿があった。そして真神の選手達も、勝った嬉しさなど一切見せず、静かに龍麻が呼ばれるのを待っている。いや、双方とも抑え切れぬほどの期待と興奮に目を輝かせている。

 そんな雰囲気に観客席からちらほらと野次が飛んだが、やがてこれから始まるであろう試合の内包する異様な熱気に呑まれたか、会場全体が静まり返った。

 誰もが悟ったのだ。この大将戦が、単なるスポーツの域を越えた闘いとなる事を。

「…お前らも、よーく見ておけよ。ひーちゃんと紫暮の戦いを」

 真神の応援団に混じっている、剣道部部員達に告げる京一。龍麻の事を知っている(勿論秘密の部分は抜かして)剣道部副主将も重々しく頷き、ヒソヒソ話をしている部員達に注意を促した。

「…良い顔をしているな、紫暮。けれんもハッタリもない、闘志に満ちた顔だ。――よほど嬉しいんだな」

 なるほど、自分が呼ばれるのを待つ紫暮の顔は生き生きと輝いている。ようやく小蒔も亜里沙も、紫暮の心境や醍醐たちの態度が理解できた。

 紫暮は、龍麻と闘える事が嬉しいのだ。全力を尽くして闘える相手。その男と、他に何も考えずに戦える事が。――旧校舎における訓練で行っている模擬戦とは一味違う、試合。きちんとルールがあり、防具も付けている、いわゆる【実戦】ではないかも知れないが、腕比べには違いない。

 試合場のメンテナンスが終わり、その中心に立つ主審が二人の名前を呼ぶ。

 赤、真神学園、大将、緋勇龍麻。

 白、鎧扇寺学園、大将、紫暮兵庫ひょうご

 高校空手界にその人ありと唄われる紫暮に、太い声援が送られる。正座して瞑目めいもくしていた紫暮はかっと目を見開き、さながら大山が動くかのように立ち上がった。

 龍麻もまた、猫のようにするりと立つ。その挙措は実に静かだ。そして、彼にはあちこちから高音の声援が送られた。最初の頃は白帯の優男に対する野次や失笑ばかりであったのだが、彼が底知れぬ強さを見せるに連れ、早くも付いたファンである。やはり、と言うべきか、女性ファンが多い。

 だが、どちらの声援も、二人が向かい合うと共に静まった。

 空手の試合は、ボクシングのタイトルマッチとは違う。その始まりは実に簡潔だ。――正面に、礼。互いに、礼。そして――

「――始め!」

 主審の手が振り下ろされた。

「――ッッシャァァッッ!!」

 鋭い気合いを上げ、腋を締めて背筋を伸ばし、後ろ足を僅かに曲げて腰を定め、前足の親指をやや内側に向けて構える紫暮。腰高でありながら安定感のある構え。伝統的な後屈こうくつ立ち。――【顔面なし】の試合なのに、しっかりと固めた拳で首から上を守る、昨日の個人戦では一度しか見せなかった、素の意味で【実戦】の構え。

 対する龍麻は、静かに息を吐きつつ腰を落とし、左拳を緩やかに伸ばし、右拳を腰まで引く。――空手の基本中の基本、右正拳構えを取った。

「やはり、こうなるか」

 醍醐が重々しく肯く。会場にも、溜息がどよめきとなって響いた。

 空手道の【伝説】――【一撃必殺】。空手の最強説を支える神話は、昨今の直接打撃制フルコンタクトの導入により、同レベルに鍛え上げた者同士では事実上不可能として崩れ去った。試合でも蹴り技…特に廻し蹴りが多用されるようになり、構えもキックボクシングのアップライト・スタイルやムエタイ・スタイルが主流となりつつある。そして、いかに直接打撃制とは言え、素拳で素面を殴るという危険性から、【顔面なし】がルールとして定着し、顔面を殴り慣れているボクサーや、元から蹴りを多用するキックボクサー相手には不利と言わざるを得ない。特にムエタイともなると、立ち技最強との呼び声の通り、パンチ、キック、肘、膝、時には頭など、実に多彩なテクニックが用いられ、あらゆる打撃系格闘技を集結して戦う【K―1】では空手勢を常に圧倒している。

 そんな格闘技界の現状にあって、今、この場で向かい合う龍麻と紫暮の構えは、空手最強伝説を再燃させるに相応しいものであった。――二人とも、顔面なし、拳サポーター着用という条件下、これまでの相手を尽く一撃で倒してきたのである。

「動かない…ね」

 【始め】の号令から数十秒が経過したが、どちらもまだ動く様子はない。構えをまったく崩さず、まるで彫像のようだ。

「いや、動いてるぜ。ほんの数ミリづつだけどな。主審もそれが解っているから、何も言わねェのさ」

 京一が指摘し、醍醐と雨紋が肯く。葵や小蒔、亜里沙も、周りの生徒たちも目をらす。――言われてみれば確かに二人とも、最初の立ち位置から僅かづつ移動している。観客たちもそれに気付いたか、声を潜めつつも感嘆の呻きを洩らす。

 実際に戦っている二人には、自分たち以外の全てが見えていなかった。周囲の声も景色もおぼろに霞み、暗黒の中に浮かび上がる、相手の姿だけが見えている。足の指だけを使ってじりじりと間合いを詰め――ふくみ足という技法だ――つつ、自らの制空圏に相手が触れる瞬間を見逃すまいと、彼らは瞬きすらしていなかった。

「もうすぐ紫暮の距離だが…迂闊うかつには仕掛けまい」

「龍麻サン相手じゃ、下手に動いたら一撃だもんなァ」

 手足のリーチならば紫暮の方が長い。パワーも彼の方が上だ。だが龍麻の接近を阻むには、逆にリーチの長さが命取りになる。旋回半径の大きな廻し蹴りやフックは論外。牽制の小技も出すべきではない。武道に言う交差法〜カウンターテクニックが異常発達している龍麻に対しては、あらゆる動きが全て隙になる。これは素手に限らず、京一の木刀や雨紋の槍ですら同じであった。動くのは、相手を倒す一瞬のみだ。

 一方の龍麻も、それほど余裕がある訳ではない。腰に巻かれた白帯が示す通り、彼は空手に関して素人同然だ。この二週間で、紫暮本人から学んだ空手の【型】三つが全てであり、ルール上の制約から軍隊格闘術は勿論、徒手空拳【陽】の技も殆ど使用不可だ。京一たちから見れば、龍麻は両手両足を縛られているに等しい。

 お互い、文字通り一撃に全てを賭け――それだけが相手に勝つ唯一の方法だ。

 しかし――

「カアッ!!」

 いきなり、静から動への転換。紫暮の右正拳が龍麻の壇中だんちゅう目掛けて吹っ飛んでいく。その直後、否、同時に龍麻の足もキャンバスから跳ね上がり、中足ちゅうそくの前蹴りを紫暮の水月すいげつ目掛けて叩き込んでいた。



 ――ドゴォッッッ!!



 骨と肉が相打つ凄まじい轟き! 紫暮は三メートル、龍麻は五メートル弾け飛び、二人ともそこで踏みとどまった。――共に必殺の一撃を繰り出しつつ、相手の技を防御してのけたのだ。より正確に言うならば、必殺を期して放った技は、相手の技を防御せずにいられなかった為に必殺とはなり得ず、互いに防御し得たのであった。――真に実力伯仲であったが故に起こった、不条理な攻防であった。

『スッゲェェッッ!!』

 今の一瞬だけで、観客たちは闘いに呑まれた。もはや息を詰めて観戦などしていられない。怒鳴り声同然の歓声と、興奮の足踏みが武道館を揺るがした。

 水月に走る痺れに、太い笑みを零す紫暮。

(なんという高揚感だ…! 体中が沸き立つようだ…ッ!)

 空手を学んで僅か二週間。下地があるとは言え、【空手】としての中段前蹴りをこれほどまでに練り上げた龍麻に戦慄しつつ、紫暮は興奮を抑え切れなかった。

 背筋がゾクゾクしている。肌が粟立っている。

 血が沸き立っている。知らず、口元に笑みが零れる。

 ――この男に勝ちたい! 体奥から突き上げるような衝動が紫暮を燃え立たせていた。

 闘いに際しては平常心。【武道】と名の付くものには必ず伝わっている教えである。当然、紫暮も家訓としてこれを学び、空手の技を磨くと共に座禅に取り組み、精神修養に努めてきた。どんな強敵を相手にしても心乱さず、己の全力を出し切り、最も効果的な技を、最も効果的なタイミングで、最速で打ち込む…その為には【勝ちたい】という願望すら邪念だ。――そう、信じてきた。

 だが、今の自分は興奮に身を震わせている。全身の細胞が勝ちたいと叫んでいる。――平常心? ――クソくらえだ。

 一方の龍麻も、壇中に浮き上がる痣を軽く撫で、淡い笑みを口元に刻む。

(…悪くない)

 龍麻にとっての闘いとは単純明解――【敵は殺せ】である。そこにはあらゆる理念も道徳もなく、速やかに敵を殲滅する能力のみが存在する。――素手に限らず、ナイフ、銃、果ては核兵器まで、【敵を殺す】という目的の為に、龍麻は制約を持たない。

 だが、これは【試合】だ。厳格にルールを定め、【相手を倒す】という目的はあるものの、【殺す】為ではない闘い。――否、かつての龍麻にとって、それは闘いではない。

 だが龍麻はこの【試合】を【楽しい】と認識している。――醍醐と戦った時にもそれを感じた。溯れば、【武道】の師鳴滝なるたき冬吾とうごに徒手空拳の手ほどきを受けていた時、彼の一番弟子である壬生みぶ紅葉くれはと戦った時が最初であったか? 【殺し合う】為ではなく、【競い合う】為の闘い。【競い合う】事により互いに【高め合う】闘い。お互いにルールを厳守するからこそ、技術が研ぎ澄まされていく闘い――その楽しさを龍麻は認識し、受け入れているのだ。

 紫暮が構え、会場が沸く。有名な【天地上下】の構え。

 龍麻が構えを解き、会場がどよめく。――【無構え】。

「…あの時と同じだ…!」

 醍醐が呻く。――龍麻が紫暮を【指導】した時の再現。不動の紫暮に対し、龍麻は身体の軸をまったくブレさせぬままに間合いを詰めていく。これには紫暮のファンたちが野次を飛ばしたが、観客に混じっている武道関係者たちは思わず唸っていた。特にゲスト席最前列にいる面々は食い入るような眼差しを龍麻の歩法に寄せている。

 だが急に、紫暮が構えを変えた。

「【前羽まえばね】…!」

 誰かの呻き声がやけに大きく伝わる。

 【前羽】…両の開掌を軽く胸前に掲げる、空手道の守りの型。――自分から積極的に仕掛けていく構えではない。だが、消極的な構えでもない。なぜならば――

「…仕掛けない…な」

 そこは既に紫暮の制空圏内。しかし龍麻は仕掛けなかった。紫暮も太い笑みを浮かべたまま微動だにせず、龍麻の接近を許す。程なく二人の制空権が完全に重なり、どちらの拳足にとっても必殺の間合いとなった。それでも尚、仕掛けない。――不可解にして、恐ろしい光景。醍醐の喉がゴクリと鳴り、京一の手元で木刀がきしんだ。

 そして、紫暮の両手に遮られる形で、龍麻の歩みが止まった。くい、と僅かに上がる、龍麻の視線。――次の瞬間、龍麻の足が跳ね上がった。

「フンッッ!!」

 龍麻の中足が紫暮の腹筋に突き刺さった瞬間、半歩踏み込んだ紫暮の両拳が龍麻の胸板を捉え、彼を吹き飛ばした。――龍麻は五メートル以上飛ばされ…トンボを切って体勢を立て直す。

 主審も副審も、首を横に振る。紫暮の技は龍麻を捉えたが、確実なダメージとはなっていない。【浅い】との判定である。ポイント制ならば一本だが、直接打撃制ではある程度のダメージを与えてこそ一本となるのだ。ただし――判定のポイントは確実に稼いだ。

 驚きを隠せないのは、真神の一同である。

「紫暮クンが…ひーちゃんを吹き飛ばしたよッ!?」

「ああ。今のは危なかった」

 小蒔の驚愕に、醍醐が肯く。

「でもどうやってあそこまで? 私には押しただけにしか見えなかったけど…」

 葵は格闘技に関してはまだ素人だが、彼らの一挙手一投足を見逃してはいなかったらしい。そして彼女の指摘通り、大多数の者は紫暮が単純に龍麻を押した…突き飛ばしただけとしか見えなかった。

「【寸剄すんけい】…という奴だろうな。両手突きを打ち込む瞬間、紫暮の両足が床を蹴っていた。――【震脚しんきゃく】という、中国拳法では良く見られる技法だ。いわゆる発剄はっけいなんだが…驚いたな。振り幅なんかほとんどなかったのに、あれほど威力があるとは」

「発剄って…それじゃ反則じゃないの?」

 小蒔は発剄を、龍麻たちの特別な技だと思っている。確かに彼らの発剄は格闘家にとってさえかなり異質なものだが、醍醐は厳しい顔のまま首を横に振った。

「それは違う。本来の意味における発剄とは、打撃系格闘技全てに共通する奥技と言って良い。技を繰り出す時に筋肉と骨格、間接の動きを完璧に連動させ、ただの打撃以上のパワーを生む技法だ。今紫暮が使った【寸剄】という打ち方は、通常の突き技で全身の間接が二十ヶ所以上作動するところから、肩、肘、手首の動きを差し引いて密着間合いに対応させたものだ。腕の動きが消えるから解り難いが、十七ヶ所以上の間接が連動してパワーを発揮しているから、充分に威力がある。特に紫暮はあの踏み込み〜【震脚しんきゃく】で大地の反作用を利用しているから、あれほどの威力になったんだ」

 マニアックな醍醐の説明に、耳を傾ける真神の一同。しかし小蒔は首を傾げている。

「うう〜〜〜〜ん…。良くわかんない」

「まあ、仕方ないさ。俺とて本の受け売りだし、龍麻に習うまでは発剄一つ打てなかったんだからな。――それにしても、龍麻の技を受け止めつつあれほどの攻撃をする紫暮も凄いが、自分の攻撃の途中なのにその直撃を外す龍麻も凄い」

 技が交錯する一瞬を、果たして何人が捉えられただろうか? そしてその攻防の意味を理解できた者は?

 紫暮は水月すいげつを軽く押さえる。――水月も良く知られる急所だが、紫暮は龍麻の蹴りにパワーが乗りきる前に、両手突きの発動に合わせてわざと受ける事でダメージを軽減した。そして狙い通り、攻撃の瞬間にしか生まれ得ぬ龍麻の隙に、対龍麻用の取って置きの技、両手突きを叩き込んだのだ。

 だが、さすがは実戦型人間の龍麻。万分の一秒にもみたぬ時間の中で、自分の攻撃の失敗と紫暮の攻撃が致命的であると悟った龍麻は瞬時に逃げを打った。それも蹴り込んだ紫暮を踏み台にして。――紫暮の両手突きと、龍麻の足のリーチが僅かな時間を叩き出し、龍麻は致命の一撃を外したのだ。その上、踏み切りの際に紫暮の水月に爪先をねじ込むようにして。

 互いに技を防がれ、受けたダメージはほぼ同等。――仕切り直しだ。

 おお! と会場がどよめいた。二〇キロの体重差をものともせず、龍麻が猛然と仕掛けていったからである。

 互いに小細工が効かぬが故、出た結論がこれか。無数の突きと蹴りを放ち、直撃を外されようともダメージを蓄積させて押し切る、ある意味龍麻らしくない原始的戦法。しかし紫暮も真っ向から応じる。激しく位置が入れ替わり、無数の突きと蹴りが交錯し、互いの肉体にヒットした。

「うわ…!」

 小蒔が声を上げ、葵が蒼白な顔で口元を押さえる。戦いの場からはかなり離れている筈なのに、拳の、蹴りの唸る音は耳元で感じ、拳圧が肌を打つような幻覚まで襲ってくるのだ。しかし――観客は湧きに湧いた。

「スゲェ…! どっちも最低限の防御だけで打ち合ってやがる!」

「二人とも一撃必殺の技を持っているからな。それを防ぐ為にはこれしかないか…!」

 受けに回れば最後――防御の為に手足を使う余裕はない。攻撃そのものと、攻撃に伴う体捌きで直撃を半分ほど減らすだけで精一杯だ。そして――残り半分はまともに食らう。防具付きとは言え、空手着から覗く手足はみるみる痣に覆われて行く。しかし――

「――オイオイ、なんだか…」

「――速くなってるよ…!」

 息も付かせぬ攻防――只でさえそうとしか見せぬのに、その状態から二人とも、連撃の速度が上がって行く。既に一分以上、突きと蹴りの連打を繰り出しているにも関わらず。

(――先に止めた方が――)

(――やられる――)

 共に超高校級の実力者にして、【魔人】。その尋常でない肺活量を駆使して連撃を繰り出しつつ、相手の隙を窺い、消耗を待つ。――武道的呼吸法を用いてなお、肉体的にはとっくに酸欠に達し、もはや精神力だけが二人の連撃を支えていた。相手に致命の一打を加える事より、先に【流れ】を止める事の方が勝敗を決める。

「――ガハッ!!」

 積み上げた実戦経験の差か、紫暮が堪えきれずに息を継いだ瞬間、龍麻の前蹴りが水月を捉えた。

 だが、ただでは喰らわない。紫暮の正拳も龍麻の胸板を捉え、彼をぐらつかせる。その瞬間に紫暮は龍麻に身を預けるように倒れ込み、いわゆるクリンチの状態に持って行った。龍麻もダメージを受けた直後だったのでクリンチを許し、その間隙を縫って深呼吸を一つ、二つ…。

「――破ッ!」

 弾かれるように離れた瞬間、頬を掠める上段蹴り! 紫暮はスウェイバックでかわす。――深呼吸二つ半で、全細胞に戻った活力は七割強――上出来だ。【それ】を教えてくれた男への感謝は、自身の勝利によって表する。

 今度は紫暮が先に仕掛けた。龍麻に対して半身になり、幅跳びのごとく大きな踏み込み。そして――【鴦翼おうよく打ち】!

「――クッ!」

 中国拳法によく見られる、腕を真横に突き出す両手打ち。腕のリーチを最大限に生かしつつ、自身は急所の殆どをカバーできる半身でありながら、狙う個所は龍麻の正中線〜それも一切の左右のブレなし。――さすがの龍麻も得意の交差法を駆使できず、真横にかわすだけで精一杯であった。そして――

「いりゃぁぁぁぁっ!!」

 相手が龍麻である事を考えるならば、無謀極まりない凄絶な廻し蹴り――【弧月蹴こげつしゅう】! 今度は龍麻も踏み込みと連動するダッキングでそれを回避し――

「――ッッ!!」

 廻し蹴りと連動して吹っ飛んでくる後廻し蹴り! 下段から駆け上がってくる蹴りに髪を幾筋か切り飛ばされながらも側転でかわす龍麻。だが着地しようとする足に、回転を止めずに放たれた紫暮の足払い――下段廻し蹴りが襲い掛かる。――まるで竜巻だ。一〇〇キロ以上もある紫暮の身体がフィギュアスケートのように軽やかに旋回する。

「――クッッ!」

 不用意な緊急回避が命取り! 宙に弾かれる龍麻。だがその態勢から突きを紫暮の顔面に――!

「――覇ァッッ!!」

 一瞬、空中で硬直した龍麻に向けて、一九〇センチの巨体が大きく捻れて宙に舞う。三連回し蹴りの遠心力をも利用した浴びせ蹴り――【華厳踵けごんしょう】! それは狙い違わず龍麻の肩口を捉え、支えなき空中ゆえに直撃を許した彼をキャンバスでバウンドさせた。そして――龍麻はそのまま立ち上がれなかった。

「――ッ一本ッッ!! ――白ッ! 鎧扇寺ッ!!」

 主審が片手を高く掲げて怒鳴り、副審が全員、白の旗を揚げる。

 息の詰まるような沈黙の数瞬後、武道館全体を震わせる大歓声が上がった。











 龍麻は負けたものの、団体戦の優勝と全国大会への切符は真神が手にした。真神と鎧扇寺の選手たちは互いの健闘を称え合い、全国大会での優勝を誓って握手を交わした。観客たちも双方のチームに惜しみない賞賛と拍手を送り、高校空手道都大会の団体戦は終わりを告げた。――ちなみに昨日行われた個人戦では、東京代表の座こそ逃したものの、真神の空手部主将有村ありむらひろしと副将越生おごせ浩太こうたがそれぞれ四位、五位入賞を果たしている。

 武道館内では既に別種目の競技が始まっているが、この後近所のスポーツセンターで実戦空手の雄【北辰ほくしん会館】と実践合気道の大家【養心館ようしんかん】の合同主催である日本武道の演舞会を見学する予定なので、龍麻たち一同は武道館裏の駐車場で反省会がてら遅めの昼食を摂っていた。なにしろ朝食はゲル状サプリメントのみであったので、すきっ腹に龍麻の特製弁当〜山盛りのおじやが実にうまい。試合さえ終われば気心の知れた武友同士、二校の選手達は車座になって談笑しつつおじやを口にかき込んだ。

 ところが、皆と同じようにおじやを食べつつも、紫暮は皆から少し離れた所にいて、少々気難しい顔であった。

 ちなみに京一らの姿はない。引き続き、空手の後に行われている体操競技を見ているのだ。その後で行われる新体操に、京一と小蒔が大ファンであるという新体操の選手兼京劇女優がエキシビジョンに呼ばれているとかで、観客の大部分は席を立っていなかった。更にその後で国体に引き続き、全国の高等学校生徒会有志による交流イベントがあり、彼女との握手会が催されるとの事で、京一らは入場列のチェックにも余念がなかった。必然的に二人の試合に触れる事はなくなったのだが、それも一つの【勝負】を終えた二人に対する【仲間】としての気遣いであったろう。しかしただ一人残る【仲間】であると同時に、【指揮官】でもある龍麻は、そういう変化を見逃さなかった。

「――どうしたのだ? 来週には全国大会を控えているというのに、浮かぬ顔だな」

「うむ…」

 紫暮は難しい顔を崩さず、少し考えてから切り出した。

「なあ、緋勇――先程の試合の事だが…」

「うむ。見事な連続技であった。まだ衝撃が残っているぞ」

「う、うむ…」

 紫暮の表情はまだ冴えない。

「…どうしたのだ? 団体戦としては負けたかも知れんが、お前の戦いは皆が賞賛している。勝者は胸を張っているべきだ」

「…いや、確かに俺は緋勇に勝ったかも知れない。だが、お前が跳んで【華厳踵】を出した瞬間だ。あの直前――俺の顔面はがら空きだった。あの時お前が突きを打ち込めば倒されていたのは俺の方だった」

「――顔面への拳の攻撃は反則だ」

「そう、その通りだ。俺は…ルールに救われたんだ」

 苦いものを吐き出すように、紫暮は目を伏せた。

「俺とて武道家の端くれだ。日々これ実戦と、肉体と精神を鍛えていたつもりだった。――あの瞬間、お前が拳を止めたのが俺にも判った。だが俺は止められなかった。――いや、ギリギリで止められたであろうに、勝機は今しかないと【華厳踵】を出した。確かに形の上では勝利かも知れんが、あれが実戦なら――」

「…その仮定は無意味だぞ、紫暮」

「…ッ!?」

「お前は実直すぎる。――あれはきちんとルールを取り決めた試合であり、俺もお前もそのルールに従う事を了承して行われた。実戦には実戦の理合りあいがあり、試合には試合の理合がある。――ルールを遵守する事を誓約しながら、そのルールを破って相手を倒すのは単なるだまし討ちだ。それは勝利ではない」

「……」

 龍麻の口からそれを告げられても、まだ紫暮は納得行かないような顔をしている。――彼は純然たる求道者だが、先日、真の意味での実戦を体験した事で、競技者たる自分を見つめ直したのだろう。曰く――実戦とは? 武道とは?

 それを察したか、龍麻は更に言葉を継いだ。彼は決定的な一言を持っていた。

「あれが実戦ならば、俺は最低でもショットガンか三〇口径の自動小銃を用意した上で、昨夜の内にお前の寝込みを襲撃するぞ」

「――ッッ!?」

「お前は間違いなく勝者だ。正式な試合の場でルールに則り、勝利を納めた。それは誇って良い勝利なのだ。もっと胸を張っていろ、紫暮兵庫」

 数瞬、不思議そうな顔で龍麻を見ていた紫暮であったが、ようやく破顔した。

「そうか…そういうものか。――そう言ってもらって、胸のつかえが取れた。今のはルールを定めて技を競い合う【試合】であって、絶対に負けられぬ、生き残らねばならぬ【実戦】ではない。それを混同する必要はないという事か」

 今、この場で行われたのは【試合】なのだ。それは互いに競い合う…高め合う為に闘うものであって、相手を殲滅せんめつ…殺す為の戦いではないという事だ。単なる殺し合いならば手段を選ぶ余裕などない。生き残ろうとするのにルールなどないのが当たり前だ。だが【試合】とは【技術】を競うものであり、【命】を賭けた【生存競争】ではないのだ。定められたルール内で競い合い、優劣を付けたとしても、【次】に備えて腕を磨き、欠点を是正し、また闘う。――それは互いに強くなって行くという事で、良い事の筈だ。それが――スポーツというものだ。

「――そういう事だぜ、兵庫」

 第三の声は、彼らが陣取っている駐車スペースの上から降ってきた。

 よっと言う掛け声と共に、大柄な人影がキャットウォークのフェンスを越えて宙に飛び出した。――周囲の者が驚きの声を上げる。一応、二階部分との高低差は四メートル以上あるのだ。しかしその男はトスッ! と軽い音を立てたのみで、反動軽減に腰を落とす事さえせず身軽にアスファルトに降り立った。

「よおッ、兵庫」

 大柄な少年が片手を上げる。紫暮の顔が無防備に綻んだところを見ると、彼の友人らしい。

「おお、風見かざみ。お前も来ていたのか」

 その少年はにっと笑い、二人の前までやってきた。

 謹厳実直タイプの紫暮の友人にしては、どちらかというと不良っぽいスタイル。短めに刈り込んだ髪をツンツンと尖らせ、オリーブドラブのタンクトップの上は、かなりくたびれた黒革のライダージャケット。下半身は色の抜けたブルージーンズ。ただし首にはちょっと洒落のめした、龍を彫刻した水晶のペンダントをぶら下げていた。

 しかし――

「はは。例によってバイトだ、バイト。――いや〜ッ、スッ…ッゲェ試合だったな。リングサイド十万でも惜しくなかったぜッ」

 喜色満面、人好きする笑顔の大盤振る舞いで紫暮の肩をバンバン叩く少年。そして彼は、龍麻にもにこやかな顔を向けた。

「あ〜っと、確か真神学園の緋勇クンだっけ? お前さんもスッゲェな。負けたって言っても僅差じゃん? 兵庫をあそこまで追い込む奴なんて滅多にいないんだぜ。――俺以外では」

 完全に初対面にも関わらず、えらく馴れ馴れしい男である。しかし龍麻はこの風見という男に悪い印象を持たなかった。造作そのものは厳ついものの、切れ長で少しタレ目がちの甘い顔立ち。その目の輝きが実に生き生きとしており、全身から発散されている生気も陽気に満ち、この男の傍にいれば誰でも気分がウキウキとしてくるだろう。伝法な言葉遣いさえ、親しみが溢れている男だった。――京一にそっくりだ。

「こら風見、いきなり失礼だろう。――済まんな、緋勇。この男は風見かざみ拳士郎けんしろうという。日本でも有数の武道校、私立彩雲さいうん学園の三年で空手をやっている、俺のライバルだ」

 醍醐がいれば「ほう」と唸ったかも知れない。【力】を抜きにしても超高校級の実力者である紫暮が【ライバル】と言い切ったのである。

「うむ。――自分は新宿真神の緋勇龍麻だ。風見拳士郎殿、以後、よろしく頼む」

 踵を揃え、きりっと敬礼する龍麻。――これで何度一般人を戸惑わせたか判らないのだが…。

「ヘヘッ、ヨロシクッ。――ん〜、お前さんなら俺の事ァ【ケン】で構わねェぜ。兵庫にも言ってるんだが、コイツ、妙なところで固くてなァ」

 龍麻の敬礼に対し、二本指のラフな敬礼を返す拳士郎。――珍しい反応だ。敬礼も固い口調もあっさりと受け入れている。まるで――慣れているようだ。

「一応、試合場以外ではそう呼んでいるじゃないか」

「――それが固ェっての。他人行儀なのはリングの中だけで沢山だろうが。なっ?」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる拳士郎。一八〇センチを越える龍麻が、見上げなければ視線が合わない。拳士郎もまた、醍醐や紫暮と同程度、一九〇センチに届く巨漢であった。そして、鍛え上げられた肉体の持ち主だ。横幅や厚みは醍醐や紫暮に及ばないが、打撃系格闘技者特有の絞り上げたような筋肉。彼の肉体は空手家と言うより、スピード重視の拳法家かムエタイ戦士のそれであった。

「肯定だ。――自分は【ひーちゃん】と呼ばれている」

「【ひーちゃん】? へー、お前さんもちゃん付けかァ。俺はカレー屋とかケーキ屋とか、キャラが被って困ったもんだったが…ま、俺の事ァ【ケン】で頼むわ」

 ちょっと遠い目をしながら右手を差し出す拳士郎。どうやら彼にも【ちゃん】付けのあだ名があるらしい。あの紫暮が笑いを必死で噛み殺しているところを見ると、本人はあまり納得していないようだ。彼自身の親しみ深さに加え、奇妙な連帯感をも覚えた龍麻は躊躇なく彼の手を握り返した。嘘偽りない親愛の情を込めた力強い握手であった。

「うむ。――貴殿も、全国大会に出場するのか?」

 珍しく聞き返す龍麻。この都大会が全国大会への出場権を賭けた試合で、且つ最後の予選大会である事は知っている。全国大会出場校は既に出揃っていて、後は東京代表を決めるのみであったのだ。

「ん? ――ああ、ウチは基本的に大会には出ねェよ。そういう決まりなんでね」

「?」

 思案顔になった龍麻に、紫暮が説明する。

「風見――ケンの通う彩雲学園はちょっと特殊な学校でな。日本の伝統文化を継承する若者を育てるというのが理念で、武道や華道、茶道などを学科として取り入れているのだが…武道関連ではどんな試合にも正式出場した事がないんだ」

「…どういう事なのだ?」

 武道を奨励し、しかし公式試合には顔を出さない…。何とも奇妙な学校である。この紫暮が【日本有数の武道校】と言っているのに、試合に出ないとは!?

「――ウチの学校の方針さ。武道は見世物でも喧嘩の道具でもねェってうるせェのなんの。まっ、鎧扇寺みてェに真っ当な武道を教えてるトコとの交流試合ならOKなんだけどな」

「…それは珍しい。良くそれで文句が出ないものだ」

 武道を学ぶ切っ掛けの多くが【強くなりたい】というものだ。そして多くの場合、自分が強くなったと実感する為に【試合】を必要とする。――試割りや演舞だけでは自己満足の域を出ないのが現実である。

「いや、文句は出るぜ。それこそ――山ほど」

 至極あっさりと言う拳士郎。

「ただ、ウチの学校は少々過激でね。教師一人以上か生徒三人以上の見届け人がいれば、いつでもどこでも試合…つーか喧嘩OKっていう、校内ランキング制ってのを取ってる。わざわざ他の学校に行って試合しようなんて奴はいねェよ。それに――」

 拳士郎はちょっと周囲を見回し、声を潜めて言った。

「はっきり言って、国体じゃ制約多すぎて戦いようがねェんだよな、これが。ウチにゃ格闘馬鹿がゴロゴロいるからなァ」

 何故か苦笑いする拳士郎。その脇で何事か納得し、深く肯く紫暮。

「…なんなのだ?」

「うむ…。俺も一度だけ、招かれて彩雲学園に行った事があるのだが…なんとも凄まじい所だった。相撲部とボクシング部が池の中で異種格闘戦をやっているかと思えば、日本拳法部員が弓道部に屋上から狙撃されていたり…もはや漫画だな、あそこまで行くと。それにだなあ…」

 なんとなく照れ臭そうに、紫暮は頭を掻いた。

「先程の技のいくつかはその彩雲学園で教わったものなんだが、何と言うか、上には上がいる事を思い知らされる場所と言うか、俺が最初に【負け】を実感した場所と言うか…」

「…不明瞭な発言だな、紫暮。お前にしては珍しい」

「うむ…何と言うか、さっき使った【龍旋脚りゅうせんきゃく】はケンの技なんだが、両手突き…【双撞掌そうとうしょう】を教えてくれたのは、俺を打ち負かした女子生徒だったんだ」

「何?」

 さすがの龍麻も、一瞬とは言え面食らった。この紫暮が、女子生徒に負けた?

「去年の今頃の事だ。緋勇とはまた違う古武道の遣い手だった。――今思い出しても身震いする。見た目はその…可憐と言うか、見目麗しいと言うか…いや! 決して見惚れてしまったとか、色気に迷ったとか、そういうものではない!」

 何やら顔を赤くして力説する紫暮。京一言うところのむさ苦しさ満点の男子校にありながら、彼もしっかり青春しているらしい。

「ただ、こちらが何をしようとしているのか、全て見透かされてしまう感じだった。突きでも蹴りでも、出した一瞬後に自分がどういう目に遭わされるか判ってしまうんだな。牽制の打撃すら間合いを奪われ、くらいを殺され…実質的に何も出来なかった。最後は、覚悟を決めてかけたラッシュを全て捌かれ、カウンターで【双撞掌】を打ち込まれて吹っ飛ばされてしまった」

 この紫暮が、何も出来ないままに倒された!? 初対面の時でさえ、龍麻と良い勝負をしてのけた男が!?

「【打撃技のみ】というハンデを付けてもらってその有り様だ。――俺も当時は直接打撃制の理合を考えて筋力トレーニングを重視し、キック・スタイルを練習していたのだが、伝統派空手の【型】の中にこそ真髄があると教えられ、単純な筋力に頼らない【技】に重点を置いた練習を始めたのだ。単なる格闘技と武道の違いを教えられたと言ってもいいだろうな」

 つまりその時の経験が、猛者揃いの鎧扇寺学園の中にあってなお抜きん出た実力を誇る要因となったという事だろう。――実戦派と称する空手家の中には時として【型】を軽視する者がいるが、【型】練習は肉体のバランス、重心移動、間接の自由な可動、気息の充実を養うのに最適であり、先人達の貯えた攻防のエッセンスが山ほど詰まっているのだ。元々恵まれた肉体を持つ紫暮も【型】を重要視していなかったが、自分より小柄な女子生徒に負ける事によって、【型】の重要性を再認識したのだろう。そして――これほどまでに強くなったのだ。

「まあ、あの子にゃ俺だって勝てねェんだから仕方ねェ。うちの女子のナンバーワンだからな。ちなみに男連中の間でこっそりやってるミスコンでもトップ争いだ」

「ふむ。女子でもそれほど強い者がいるのか」

 龍麻は性差別主義者ではない。しかし男と女とでは、骨格や筋肉の組成に決定的な違いがある。肉体的な素質に恵まれ、実直な性格である紫暮などは、競技者としても武道家としても大成する器を有していると言って良いだろう。――その彼を下すとは、果たしてどんな少女なのか?

「興味あるかい? ――やめといた方が良いな。長ェこと【鉄の処女アイアン・メイデン】なんて陰口叩かれるほどの男嫌い――っと、失言だ――だったんだが、今は俺の百倍は強ェ彼氏を捕まえて、近付くだけでもお熱いラブラブの仲だぜ。見てるこっちの身にもなって欲しいけどなァ」

「――いや、格闘技の実力に興味があるのだが」

「あ? なんだ、そっちの方か。そうだな…俺と兵庫が二人がかりで、三十秒てば良い方かな。――勿論、俺たちが、だ。もし尻でも――絶対無理だが――触ろうもんなら瞬殺間違いなしだぜ」

「…それは凄い」

 この拳士郎の実力も、並みの高校生…どころか、プロの格闘家と比べてもヒケを取らぬほどのものだと推察できる。空手家の特徴たる拳ダコが存在しないにも関わらず、産毛一つない金属的質感のある拳に加え、何気ない目配せ、歩き方、仕草の一つ一つも実に鷹揚おうようで隙だらけながら、その実無駄の全くない動き。歩き、手を上げ、腰を下ろし…それらの動きが自然すぎて予測不能なのだ。――無意識でそれができるという事は、この男も相当の修羅場を潜り抜けている。それも…むしろ自分に近いような。そんな男が勝てないと断言する…一体どのような少女なのか?

「そうだな…。緋勇ならばさぞ凄い事になりそうだ。間合いの取り方といい、交差法といい、緋勇の技に似ている部分も多かったな」

「ふむ…。是非一度会見したいものだ」

 他でもない紫暮の言う事だ。龍麻はますます興味を引かれた。そもそも龍麻の徒手空拳【陽】は謎が多い武術である。基本的な組み手は徒手空拳【陰】の遣い手鳴滝なるたき冬吾とうごに伝授されたものだが、それ以外の部分…例えば【掌底・発剄】は【陽】の技で、【陰】には存在しない。つまり――習いようがないのである。

 では龍麻はどうやって技を磨いているのか? これが実は、当人にも良く判っていないのだ。鍛練に次ぐ鍛練、そして実戦を繰り返していると、ある日突然、技のイメージが脳裏に浮かび上がってくる。そのイメージ通りに技を振るう事が出来た時、それが一つの【技】として確立するのである。しかもその際、技の名前まで思い浮かぶのだ。

 鳴滝は血筋から技が甦ると言ったが、龍麻はそんな抽象的な概念など信じていなかった。しかし実際に自分の身にこんな事が起きている以上、信じない訳には行かない。

 そんな古武道に似ていると言うのであれば、それは是非見てみたい。そう思ったが、拳士郎は首を捻った。

「う〜ん。そいつは難しいかもなァ。何しろ忙しい身の上だから、俺もここ一ヶ月ほど会ってねェ。今ごろは何処で闘っているやら…」

「?」

「――あ!? いや、何でもねェ。ホレ、交換留学って奴で、世界中を飛び回ってるって事さ。日本武道を世界に知ってもらおうって事でな。あはははは…」

「…ふむ」

 何か誤魔化そうとしているような気もするが、とりあえず肯く龍麻。――他人の事情に土足で踏み込むような真似はしないのが彼である。

「まァ、良いじゃねェか。武道が好きなモン同士、宜しく頼むぜ。――クソ真面目な兵庫のこったからあの勝ち方にブー垂れてるかと思ったが、俺が言おうとしてた事は緋勇――ひーちゃんが全部言ってくれたしな」

「…貴殿も気付いたのか?」

「まあな。――殺し合いなら兵庫は二度ばかり死んでたかも知れねェが、戦いに【もし】はねェ。ルールがあろうがなかろうが、互いに納得づくの勝負なら勝ちは勝ち――はは、ひーちゃん、お前さんは立派な武道家だよ」

「それは買いかぶりすぎだ。自分は武道家ではない」

「いや、俺もケンの言う通りだと思うぞ」

 紫暮も口を開く。

「俺は【試合】と【実戦】を混同してしまったが、お前は不利なのを承知でルールある戦いを受け入れ、反則の一つもなく勝ち上がってきたんだ。――俺はまた一つ学ばせてもらったよ。そういう闘い方が出来るという事は、お前が闘いの【本質】を知っているからだとな。また、それを知っている事こそ【武道家】の条件だと」

「…そういうものか?」

「――そういうものだとも」

 突然、野太い声が割り込んできた。



 パン…パン…パン…



 分厚いミットを打ち合わせているような、太い拍手。龍麻たちは振り返った。

「――良い事言うねェ、君達」

 そこに立っていたのは、センスの良い茶の背広をはちきれんばかりにしている、大きな男であった。

 身長が高いのではない。身長は一七五センチほどだ。龍麻たちの面子を考えれば、一番小さい。

 だが――大きい。

 体重はかなり重いと思われるが、そんな印象を抱かせない。

 とにかく、大きい。

 首が太い。

 胸が厚い。

 肩が太い。

 腕が太い。

 足が太い。

 指が太い。

 ――そして、存在そのものが太い。まるで巨大な――岩。

「これは――お久し振りです。松田館長」

 威儀を正し、空手式の礼をする紫暮。元々礼儀正しい紫暮だが、今の彼が示しているのは最上級の敬意だ。――全世界に門下生百万と言われる実戦空手の大御所、空手道北辰会館館長、松田まつだ雄二郎ゆうじろうその人であった。

「いいねェ〜、キミタチ。実に良い」

 紫暮の礼に大きく肯いて礼を返し、雄二郎は太い笑みを浮かべた。――厳つい顔に、子供のような純朴な笑顔。――老若男女、美醜に関わらず、心からの笑顔とは良いものだ。それを見た者に胸中の憂さを忘れさせ、良い笑みを浮かばせる事が可能である。――雄二郎の笑みは、そんな笑みだった。

 しかし龍麻は彼に、身震いするほどの戦慄を覚えた。――恐怖ではない。その鮮烈なまでの存在感に圧倒されたのだ。

(この男が、松田雄二郎氏か…)

 ――強い。ただその一言に尽きる。その笑顔は紛れもなく本心からのものであろうが、必要とあらば瞬時に鬼の顔にもなるだろう。――龍麻は雄二郎に、腹を満たして昼寝をしている獅子の幻影を見た。

「紫暮君に風見君、そちらは緋勇君だったね。君達の試合は実に良い試合だった。歳甲斐もなく興奮してしまったよ。――私は松田雄二郎。空手道北辰会館の館長を努めている。宜しく」

「――恐縮であります。――松田雄二郎先生の御高名はかねがね聞き及んでおります。自分は緋勇龍麻。新宿・真神学園の三年生であります」

 龍麻は直立不動の敬礼で答える。雄二郎の物言いは人懐こく、年上であるという尊大さは一切ない。自信に満ち溢れ、包容力がある。――礼儀には礼儀で応えるのが龍麻流だ。

「うんうん。――いやぁ、嬉しくなってしまうねえ。君達のような若い世代にあれほどの試合が出来る者が育っているというのは。しかも――」

 そこで雄二郎は声をやや潜め、笑顔を絶やさぬままに言った。

「どうやら君達、本当の【実戦】を知っているようだねえ」

「――ッッ!」

 笑顔のまま、そろりと覗く鬼の気配。紫暮は緊張に身を固くし、龍麻も極めて僅かに足の踏み位置を変える。――敵対している訳でもないのに戦闘態勢を取らせるほどの雄二郎の迫力であった。それも、ほんの少し【その気】になっただけで。

 しかし――

「これこれ、松田さん。若いモンを脅かしちゃあいけないよ」

 雄二郎の身体から滲み出た恐いものが、ふわりと暖かい気配によっていさめられる。

 渋い灰色の和装に身を包んだ新たな登場人物は、枯れ木のようにやせ細った老人であった。

 身長は一五〇センチをやっと越える程度。手も足も肉が落ち、骨と皮ばかりという古典的表現が合致する。しわ深い顔も枯淡こたんの域に達した者のそれだ。

 しかし、それでも強い。――龍麻はその老人からも、ただならぬ気配を感じ取った。

 雄二郎が獅子ならば、こちらは虎か。静謐せいひつさの中に獰猛どうもうさを湛えた気配。――枯れ木のような肉体は、よくよく見れば真に必要な筋肉のみが残り、徹底して無駄を省いた機能美すら感じさせた。

「おや、渋沢さんもですか」

 鬼の気配は跡形もなく消し去り、太い笑みをそのままに雄二郎は言った。――どうやらゲストとして呼ばれていた名だたる武道家たちは、龍麻と紫暮に多大の興味を寄せたらしい。

 渋沢という老人は龍麻と紫暮に柔らかい視線を送り、彼らにぺこりと頭を下げた。

「はじめまして。わしは渋沢しぶさわ剛蔵ごうぞう。柔術をやっとるモンですわ」

「し、渋沢流柔術の総師範…! お、オス! はじめまして!」

 思いがけず日本武道界の頂点に名を連ねる武道家と対面し、紫暮は緊張しまくって頭を下げた。

 渋沢剛蔵――日本柔術界にその人ありと唄われた伝説的な武道家である。よわい八〇を越えてなおその技は精妙かつ神秘的で衰えを知らず、相手を触れずして制してしまうという。――それが決して絵空事でない証拠に、彼は未だに隠居せず、若手三〇人を同時に相手にしたり、警視庁機動隊の猛者を指導したりしている。――生きた伝説の人物だ。

「いやいや。そんな他人行儀にせんでもええよ。学んだ技はちごうても、わしら武術家は皆家族みたいなモンじゃから」

 カラカラと笑う渋沢の、何と良い笑顔。――自分に自信を持ち、他人を尊重できる者の笑顔はこれほどまでに美しい。日本武道界の二大巨頭は、実に魅力溢れる人物であった。

「本当は仲村さんや後野さん、佐上さんや竹ノ宮さんらも来たがっていたんじゃが、この後の準備があるもんで、先に帰ってしもうた。じゃが、皆さん大変誉めておったよ。君達の試合は大変素晴らしいモンじゃったとね。勿論、わしも久しぶりに燃えてしまったよ。い〜い試合じゃったぁ」

「――はっ、恐縮です」

 楽にしろと言われても、礼儀の塊の龍麻はやはり直立不動で応える。そしてその敬礼は、心からのものであった。松田雄二郎に渋沢剛蔵――この二人から発散される雰囲気は第一線で叩き上げた将軍にも等しい。自然に敬意を払うべく身体が動いてしまうのだ。

「カッカッカ。だから、そう固くならんでええよ。――強いだけじゃなくて、礼儀もしっかりしとる。松田さんの言葉じゃあないが、嬉しくなってしまうねぇ」

「はっ、ありがとうございます」

 口調までは緩められなかったが、肩の力を抜き、【休め】の姿勢を取る龍麻。彼がそれ以上姿勢を崩す事はないと悟り、渋沢はそのまま言葉を継いだ。

「何よりねぇ、あれほどの試合をした後だというのに、君達は実に仲が良い。試合中の気迫は鬼気迫っとったが、それがお互い、全力を尽くして良いと相手を認めた上での事となると、こりゃあなんとも羨ましい限りじゃて。何せわしらの頃にゃあ、武道家同士が立ち合うと言えばルールなしが当たり前。相手をぶちのめす事にばかり目が行ってしもうて、友情も信頼も育たんかったからのぉ」

 そこで渋沢は、細い目で真っ直ぐ龍麻を見つめた。

「――君なら、解ってくれるじゃろ」

 表情も目の光も穏やかそのもの。どこにも危険な要素はなく、しかし龍麻は彼の目の奥底に、秘められた野獣の牙を見た。強大で獰猛で、しかしそれ故に牙を納めている気高き野獣。龍麻はやや緊張気味に頷いた。

「自分は若輩ゆえ思い上がった物言いになりますが、渋沢先生の仰る事は理解できます。あくまで、漠然とした感覚ではありますが」

「謙虚じゃな〜、君は」

 ちょっぴり目を見開き、次いで顔をくしゃくしゃにして笑う渋沢。――極めて珍しい事に、龍麻も連られるように表情を緩めた。

「いや〜、こんな気持ちの良い若者達に出会えるとは、今日はとても良い日じゃね。とおも一遍に若返った気分じゃよ。――これからも仲良く、この伝統文化を護っていっておくれ。武道は正に、君達のような若者を育てるためにあると、わしゃあ考えとるんじゃよ」

「恐縮です」

 龍麻はぺこりと頭を下げ、次いで差し出された渋沢の手を握った。骨と皮ばかりのしわ深い手は、空恐ろしいほどに鍛え込まれていながら、慈愛に満ちた温みを持っていた。

 しかし――

「――解らん理屈ですな」

 突然、太い声が割り込んできた。

 先程の雄二郎とは違う、粗野な響きを持つ声。それが空気を不快にさせ、紫暮を困惑させる。雄二郎も渋沢も口の端を歪め…挑戦的な野獣の笑みを浮かべた。

 ぞろぞろと、周囲を威圧するようにしてやってくる一団。その先頭に立つのはこれ見よがしな武道着を纏った、異様に目つきの鋭い中年男性で、その周囲に黒いフード付きジャージで統一した若者が五人、白のジャージで統一した若者が十二人。更に外縁には、カメラを持った記者たちが群がっていた。

不破ふわ館長だ…。神羅覇極流しんらはきょくりゅう合気柔術…【覇王館はおうかん】の総帥だぜ…!」

 紫暮を始め、真神、鎧扇寺両校の選手達の表情が険を帯びる。そして長い前髪の陰で、龍麻の眉も小さく跳ねた。先頭の男〜不破という男が自分たちをじろりと一瞥いちべつした時、あからさまな軽蔑や敵意…邪気を向けてきたからである。

「たかが国体ごとき子供のじゃれ合いに、松田先生や渋沢先生がおいでになっているとは意外でしたな。しかし、武道家として感心しませんな。今からでも鍛え直せば多少はマシになるだろう素材に、言うに事欠いて【仲良く】とは」

 【多少はマシ】【素材】という単語に、真神、鎧扇寺両校の選手達が色めき立つ。黒白のジャージ姿が威嚇の気を飛ばして牽制したが、この一ヶ月ほどで急速にレベルアップした彼らの気が反発し、空気がピリピリと緊張を帯び、嫌な雰囲気が漂う。――ジャージ姿が放つものがあからさまな殺気であるのと、武道家にあるまじき濁り方をしているためであった。

「――なにかいかんかね。不破さん?」

 カラカラと笑いながら、渋沢が嫌な雰囲気を払う。しかし彼の笑いは龍麻たちに向けたものとは違っていた。

「仲良き事を誉めて、なにがいけないのかね? この子達は実に良い素質を持ち、良きライバルとして良い試合をした。その上で何の遺恨もなくこうしてお互いを称える事ができる。これは素晴らしい事だと思うがね」

「未熟者同士が互いを称え合う姿など滑稽なだけでしょう。いやはや、稀代きだいの柔術家、渋沢先生の仰るお言葉とは思えませんな。――あなたとて他流試合では幾百もの勝利を納め、その勇名を馳せてきた身ではありませんか。まさかその全てが遺恨なく終わったとは言いますまい?」

「――わしの事などどうでもよかろ?」

 渋沢は笑みを絶やさぬままに言った。何か、怖いものを秘めた笑み。

「今はこの子達と話しておるんじゃよ。まして今日は現代の試合。あの殺伐とした時代とは何もかもが違うておるよ。たとえ本人同士が望もうとも、ルールなき試合は全て喧嘩と見られるのがオチじゃ。そして喧嘩は、犯罪じゃよ」

「これはこれは。渋沢先生ともあろう者が、本人同士の望むまっとうな勝負すら喧嘩と呼ばれるか。そのような無知蒙昧むちもうまいな輩の言う事など、武道家には関係ありませんな」

「無茶言っちゃいかんよ。一口に勝負と言うが、アンタの言っているのは【死合】じゃろ? そいつは喧嘩ですらない、醜い殺し合いじゃよ。この現代に、たかがどつき合いで命まで賭けるなんて、いい年こいた大人がやる事じゃないと思わんのかね?」

 渋沢の言う事は正論である。龍麻も無意識に頷いていた。しかし――この輩は【常識】も【法律】も理解できていないようであった。

「――出たね。武道家を名乗る人間が戦いから逃げる為の言い訳が」

「達人とか何とか言っても、結局は保護されてるんだよなァ」

 わざと聞こえるように言う、記者の声。不破が含み笑いを洩らし、覇王館の門下生が唱和する。法治国家において万人が認める、あるいは認めねばならない正論を、真っ向から否定したのである。

「いやあ、本当にそうだねェ」

 頭を掻き掻き、雄二郎はぬうと前に出た。

「俺も若ェ頃、自分がどんだけ強ェのかって牛をぶん殴ったり、熊をぶん殴ったりしたもんだったけどよォ。あの頃にアンタがいてくれたらなァって思うよ。せめてここが――ロッキーの山ン中だったらねェ」

 笑顔は変わらず、しかし物騒な事を口にする雄二郎。そのサザエの如き拳が、未だズボンのポケットに納まっているのを見た龍麻の眉が寄る。――雄二郎がどんなつもりでいるのか、まるで解らないのだ。

「ほほう。するとロッキー山脈でならば、やると?」

「――いいや、やらねェよ」

 笑みを深くし、雄二郎は居並ぶ者の目を白黒させた。

「なにせ俺は、全世界に門下生百万を抱える北辰会館の館長様だからよォ。これだけ所帯がでかくなっちまったら、テメエの都合だけで喧嘩する訳にもいかねェやな。どんなに楽しい喧嘩でも、それで捕まっちまったら、俺が看板に泥を塗っちまう事になるからよォ」

「おやおや。松田先生まで、武道家としての誇り以上に看板が大事と仰るのですか。型のみに終始する伝統派を離れ、直接打撃制をここまで浸透させた方が言う事とは思えませんな」

「そいつは、アンタの考えさ」

 笑みは絶やさず、しかし頑丈そうな顎を少し前に突き出す雄二郎。人懐こそうな目がやや不破を見下す感じになる。

「元は近所の餓鬼どもに乞われて教え始めたモンとは言え、こっちの方も楽しくなっちまったからねェ。そして空手を教えるからにゃあ、弱い者虐めの道具にされたくねェ。だったら俺も喧嘩は控えにゃなるめェよ。特に――ちょっとばかりムカついたとかキレたとかいう、餓鬼っぽい喧嘩はよォ」

「弱い者虐めとは随分な言い草ですな。武道において弱き事は悪そのもの。だからこそ武道とは命懸けで学ばねばならず、その本質もまた命懸けの戦いの中にこそあるものでしょう。貴方方ならばそれが解っていると思っていましたが、買いかぶりすぎましたかな? 武道家が戦いから逃げるとはなんとも嘆かわしい。老いては麒麟きりんも駄馬に劣ると言いますが、無駄に長生きするものでもないですな。実戦空手やら実践柔術などと名乗りながら、結局スポーツマンに堕してしまうとは」

 武道家に対する、ある意味もっとも屈辱的な言葉。しかし雄二郎も渋沢翁も笑みを絶やさず、眉を吊り上げたのは真神、鎧扇寺の選手だけである。そして――

「今のあなたならば、一分以内に殺せますな」

 法治国家においては、絶対に口にしてはならぬ言葉。雄二郎は笑みを深くしただけで聞き流したが、尋常ならざる雰囲気に集結していた北辰会館門下の若手が、これは聞き捨てならぬと前に飛び出した。

「貴様! 我々の前で館長を侮辱…ッ!」

 恐らく彼は、不破の胸倉を掴みに行ったに違いない。しかし不破の背後からにゅっと伸びた手が、逆に彼の胸倉を掴んだ。いや、胸倉ではない。肋骨の隙間に指を突き込み、胸板そのものを掴んでいる。若い空手家は絞め殺される寸前の鶏のような声を上げた。

「無礼者が。弱ェ奴が吠えるんじゃねェよ」

 ずい、と周囲を圧する巨体が集団を抜け、前に進み出る。紫暮や拳士郎より、更に頭一つ大きい。二〇五センチ、一二〇キロはある。しかも片手で八〇キロクラスの成人男子を掴み上げ、ふらつきもしない。

沢松さわまつ右京うきょうだ…。去年の総合格闘技世界大会の覇者だ…」

 記者たちがそんな囁きをかわすのをじろりと眺め、沢松という男は不破に恭しく礼をした。

「お騒がせしました。すぐに処分いたします」

 不破が鷹揚おうように頷くと、沢松は空手家を放り出した。床にベチャッと落ちた空手家は胸元を掻き毟って痛みに耐え、沢松を睨み付けた.そして――

「――よせ!」

 雄二郎が叫んだが、空手家は怒りに任せて沢松に殴りかかった。だが正拳突きが水月を捉えようかとする直前、彼は凄い勢いで宙を飛び、近くにあったベンチを破壊しつつ地面に叩き付けられた。空手家は海老のように身を仰け反らせ、それでも激痛に耐えて立ち上がり、構えを作る。今の一撃――合気柔術の投げで実力差は痛感した筈だが、意地が彼を支え、動かした。

「――馬鹿が」

 獣のごとき咆哮を上げ、再び挑みかかる空手家。もはや技を使うまでもないと言わんばかりに、沢松は苦笑交じりにその足を払った。空手家は空中で一回転し、またしても背中から落ちる。

 しかし――世界に名だたる北辰会館の空手家。並みの者ならば戦意喪失は免れない所を、気合を振り絞って苦痛に耐え、もう一度立ち上がった。彼が沢松に勝つなど不可能であろう事は誰の目にも明らかなのに、戦いを続けようとする。

 それが、世界チャンピオンの癇に障ったらしい。

 もはや瓦どころかせんべいさえ割れそうもない正拳突きをキャッチし様に捻り折り、さすがに苦鳴を放った空手家のこめかみに――狙い済ました肘打ち一閃! 若き空手家は吹っ飛び、今度こそ壊れた人形のように床に転がった。完全に眼球がひっくり返り、その目じりと耳目、口から粘っこい血が流れ出す。

「その程度の力で粋がるな。――いきなり殴りかかってきた。これは正当防衛ですね」

 全く悪びれることなく、ニヤニヤ笑いながら言う沢松。不破はふんと鼻先で笑いに唱和した。

「困ったものですな。なまじ実戦などとうたうものだから、己の分も弁えぬ未熟者がのぼせ上がる。スポーツマンはスポーツマンらしく、リングの中だけで息巻いていればよろしいのですよ。武道家の生きる戦場に、スポーツマン風情の居場所はない。平和ボケしたスポーツマンの格闘ゴッコなどに、我々を巻き込まないで頂きたい」

 どっと沸き起こる笑い。覇王館の門下生のみならず、記者たちも笑う。雄二郎や渋沢翁の表情が変わらないのは見事と言うしかないが、真神と鎧扇寺の選手や北辰会館の空手家からは怒りの気が立ち昇った。

 雄二郎や渋沢翁がいたとしても、もはや一触即発か? 誰もがそう思った時、意外な所から声が上がった。

「――解らん理屈だ」

 大きくはないが、良く通るその一言が、場を静まり返らせた。先程の不破と全く同じ台詞――龍麻である。紫暮は驚いたように、いつの間にか皆の輪を離れ、倒れた空手家を介抱している龍麻を見た。

「スポーツの何がいかんのだ? 法を遵守しているだけの者に対して失礼な物言い。加えて、競技者全てを愚弄するかのような言動。――撤回を要求する」

「なに?」

 ずわり、と今度は覇王館の門下生から殺気が立ち昇る。だが、龍麻は気にもしない。

「この男性が先に手を出した事は間違いない。だが先程からの貴殿らの言動がこの事態を招いたのも事実。格闘技を学び、武道家を名乗ったとて、この日本において私闘は犯罪だ。法を遵守する事は日本国民としての義務であり、それを誹謗中傷される謂れはない」

「――ふん。一度武術に手を染めたならば、命を賭して闘ってこそ真の武道家よ。凡人どもが己の身を護る為に作った法など、武道家には関係ない。――どうだ? 貴様が望むならばこの私が直々に鍛え直してやっても良いぞ。牙を抜かれた腑抜けどもの中ではその素質を腐らせるだけだ」

「自分は間に合っている」

 龍麻がそう答えた瞬間、再び突き刺さるような殺気が彼に照射された。――言うまでもなく、覇王館の面々が放つ殺気である。堪え性のない連中だ、と龍麻はやや呆れた。

「間に合っている、か。若輩の身でよくものぼせ上がったものよ。――さすがは【緋勇】の血よな」

「――!?」

 龍麻の眉が僅かに寄る。――龍麻自身はこの不破とは何の接点も持たない。その上でわざわざ【緋勇】という名を使うという事は――

「私の目はごまかせん。【緋勇】の名を持ち、空手にあらぬ名もなき徒手空拳とあらば、自ずと答えは出る。キサマ、あの緋勇弦麻げんまの息子であろう」

「……」

「蛙の子は蛙とはよく言ったものよ。――キサマの父親もまた、才能に胡坐をかいてのぼせ上がった男だった。しかしながら、救いようのない無頼の徒とて、戦いに於ける兵法者の心得は持っていたのでな。多少の見所はあったと言っておこう。だが、最期は無様なものよ。どこの馬の骨とも知れぬ輩の手にかかって野垂れ死にしたわ」

 故人の息子の前で随分な言い草である。しかし龍麻にはまるで実感のない話であった。龍麻は父弦麻に付いては鳴滝冬吾から聞いた情報しか持たず、写真嫌いだったとかで龍麻は未だ、父親の顔さえ知らないのだ。

「――不破の。そこまでにしときなさいな」

 渋沢翁の顔から笑みが消え去った。

「俺らを挑発するのは勝手だがねェ、言葉は選んでほしいもんだなァ、オイ」

 笑みを残しつつも、ずい、と前に進み出る雄二郎。

 緋勇弦麻の名が何を呼んだものか、この二人が同時に出ては、不遜極まりない不破も表情を改めた。足の踏み位置を変え、視野を広げ、そして――背後に控えている者たちも戦闘態勢を取る。

「――自分は、父親の顔も知らん」

 龍麻の静かな声が、一触即発の空気を切り裂いた。

「どのような意図があっての挑発か知らんが、貴殿の言い分も含めて無意味だ。また、自分はここに試合をする為に来たのであって、殺し合いに来たのではない。そして法に背き、いたずらに他人を傷付ける事を推奨する貴殿の思想には賛同できん。武道は己を高める為にあるという、こちらの両氏の意見にこそ賛同する」

「それが気合も根性も足りぬスポーツマンの限界だと言っておるのだ。ルールに守られている試合などに何百勝したとて、強さとは何の関係もありはせぬ。現に貴様はルールに縛られ、絶対の勝機をふいにしたではないか。戦場で生き抜くためには、反則であろうとなかろうと勝利こそが全てだ」

 龍麻はそれには応えず、空手家の頭骨を軽く掌で打った。コツ! と音がして、頭骨の接合部が矯正され、空手家がうっすらと目を開ける。それを見て沢松が目を剥いた。

「ここは戦場ではない。世界でも類を見ない、法治国家日本の首都だ。格闘技の有段者であるこの男性の行為は確かに短慮たんりょで犯罪行為と取られてもやむを得んが、同じく有段者による急所への打撃は正当防衛の範疇はんちゅうを超える。既に無力化されていた者のこめかみに肘を打ち込むなど正気の沙汰ではない」

「戯けた事を。【常在戦場】こそ武道家の心得。武道家同士が向かい合えば命のやり取りなど必然よ。――その男は弱い自分を弁えず吠えかかってきた。だから沢松は打った。それで死ぬようならば、要するに弱かったという事だ」

「――子供の屁理屈だ」

 不破の、ある一点においては正当かも知れぬ言葉を、龍麻は一言、ただ一言で斬り捨てた。しかし、それを発した瞬間である。白ジャージの一団がざっと広がり、そして――

「――無礼者!」

 龍麻の首筋、腋の下、膝裏に飛ぶ十本の六尺棒! 空手家を介抱していた龍麻が何でたまろう。抵抗など微塵も許されぬまま龍麻は固められ、地面に膝を突かされた。拳士郎はそれを見て動きかけたが、紫暮がそれを止める。

「やはり【緋勇】の名を持つ者。小僧風情が生意気な口を利くものよ。私の言う事が屁理屈とはどういう事だ?」

 しかし、それには応えず、龍麻は首を巡らせた。――記者たちの方へ。

「警察を呼べ」

「ッッ!?」

 この場の誰もが呆気に取られるような事を、龍麻はあっさりと口にした。

「社会のルールも守れぬ無頼漢が一人殺しかけ、今度は俺を殺そうとしているぞ。法治国家である日本国民としての義務を果たせ。――どうした? ジャーナリストとしての立場とやらを主張して殺人現場をスクープしたとて、ピュリッツァーもエミーも狙えんぞ。せいぜい三流週刊誌のゴシップ記事として、街頭で読み捨てられるだけだ」

「――貴様…!」

 この瞬間まで厳つい仮面を付けていた不破が怒りを露にした時である。突如、場の一角から笑い声が上がった。

「あははははははははっ! こいつは傑作だ!」

「カッカッカッカッカッ!」

「ふはははははっ! あはははははっ!」

 さもおかしそうに笑っているのは拳士郎、松田館長、渋沢剛蔵である。紫暮は訳が解らず、友と、尊敬する達人たちを見比べる。

「…何がおかしい?」

 押し殺したような不破の声に最初に答えたのは、涙すら浮かべて爆笑している拳士郎であった。

「ははは…これが笑わずに…クククッ…いられるかっての…ぶははっ! そうだよなァ。早く警察呼ばないとぶっ殺されちゃうよなァ」

「カッカッカッカッカ! どうしたね? 早く警察を呼んであげなさい」

「クックック。それとも私らが、この連中をぶちのめしても良いのかね? 前途ある若者を救う為のやむを得ない行為だったと証言してくれるのかね? キミたち?」

 腹を抱えて笑っている松田雄二郎に渋沢剛蔵。そして拳士郎。しかし、ただ笑っているだけに見える三人に対して殺気を立ち昇らせながら、覇王館の門下生達は何も出来なかった。――彼らの放った雰囲気の変化がそうさせたのである。

 殺気ではない。鬼気でも。敢えて言うならば、鞘に納まっていた日本刀を抜き出した時の、独特の緊張感。彼らが、その気になったのだ。先の空手家をすぐに介抱できなかったのは、その瞬間に不破が襲い掛かってくる事を予見していた為だが、今ならば【前途ある若者を救う】という【大義名文】も立つ。――龍麻は自ら敵の術中に嵌まる事で、法的に【正当防衛】が認められる状況を作り出したのであった。

 そして龍麻も、口を開いた。

「――勧告する。五秒以内に凶器を納めるならばこの一件は不問としよう。幸い、現時点で死者は出ていない。だがあくまで無法を通すならば暴漢として取り押さえ、警察に引き渡す。――お前達全員だ。勿論、【お前】にも殺人教唆さつじんきょうさ、凶器準備集合罪、暴行傷害、名誉毀損等の罪がある」

 龍麻が名指しで視線を向けたのは不破本人であった。たとえ武器を突き付けられ、身動き一つ叶わずとも、礼儀を守らぬ者に尽くす礼はない――これも龍麻流だ。

「貴様…!」

 ゴウ! と吹き付けられてくる不破の殺気。だが、龍麻は――

「…五秒だ。これより自分は日本国憲法に則り、自己の生命財産を守るべく自己防衛行動を取る。そして裁判においては、これを正当防衛であると主張する。――先生方には証言をしていただきたい」

 龍麻は雄二郎と渋沢に会釈を送り、次の瞬間、【普通】に立ち上がった。

「おぅわっ!!」

 突然、ビターンッと漫画的擬音を立てて地面にへばり付く覇王館の門下生達。苦痛の呻き声を上げたのは、地面にぶつけて噴いた鼻血に気付いてからであった。

「!? ッ!? ッッ!?」

 一体何が起こったものか、呻き声を噛み殺して立ち上がろうとする覇王館の門下生達は、しかし誰も動けなかった。身を起こそうとしても腕に力が入らず、腰が抜けたかのように立ち上がれない!

「ほう! なんて凄い力じゃろ! わしの【合気】でもこうまでうまく行くか判らんよ。カカカ」

 しわ深い顔をクシャクシャにして笑う渋沢の楽しそうな事。――わざとらしく言葉を濁した事こそ、全身を固められた状態で、体格も間合いも違う十人に対して仕掛けられた龍麻の【合気】に対する最上級の賞賛であった。

「…こんな連中が、お前自慢のエリートか」

 陸に上げられた魚のような人体の輪から抜け出し、空手家を彼の仲間に委ねる龍麻。表情からは読み取れないが、どうやら龍麻は怒っているらしい。彼は基本的に、他人を卑下するような言葉を使わないのだ。

「口先だけのモンキーばかりだ。いや、ぶんも弁えず、自ら騒動を起こす点に於いて、貴様らはモンキーにも劣る。社会のルール一つ守れぬならば、さっさと大好きな戦場とやらに行くが良い。もっとも【本物】の【戦場】に、温水育ちのゾウリムシ風情の居場所はないぞ。――平和ボケしたチンピラの格闘ゴッコに、我々を巻き込むな!」

 こんな所で飛び出した、龍麻名物【鬼軍曹モード】! 実戦古武道の急新鋭、覇王館の総帥に対するこれ以上はないであろう侮蔑の言葉に、うわお、と拳士郎が洩らし、松田雄二郎も渋沢剛蔵も笑みを深くする。――立場上、誰もが言い難かった事を、龍麻はあっさりと口にしてのけたのだ。

「調子に乗るなよ、小僧…」

 まるで倍にも大きくなったかのように見える、不破の殺気。彼の後方にいる筈の記者たちもプレッシャーに耐え兼ね、後ずさりする。

「それほどの大口が叩けるならば、地獄を見る覚悟も出来ておろうな? その意気が本物か否か、見せてもらおうか」

 拳士郎がコソッと「こりゃ、殺る気だぞ」と呟く。松田雄二郎も渋沢剛蔵も、それと悟らせず取っていた戦闘態勢を、防御から攻撃のそれへと変えようとする。その中でただ一人、紫暮は溜息を付き、拳士郎や居並ぶ達人をも困惑させた。紫暮の溜息は、失望の溜息だったのだ。

 そして龍麻は――彼にしては極めて珍しい事――無駄口を叩いた。

「――呑気者め」

「ッッ!!」

 今度こそ、不破の顔が凶相に塗れる。――言葉に含まれる痛烈無比な侮蔑に気が付いたのだ。それが紫暮の溜息の意味だと知り、拳士郎が口笛を吹く。

 龍麻はこう言っている。ここは【戦場】ではなかったのかと。もうとっくに【始まっている】のではなかったのかと。今更【宣戦布告】するのかと。そして――ここが【真】に【戦場】ならば、【望み通り】既に殺していると。

 そして龍麻は同時に、誰もがその意味を知っているが、日本においては信じられぬ構えを取った。――左手で上着を軽く押さえ、右手を懐に突っ込んだのである。それは――銃を抜く構えであった。

「お前がここで暴れると言うのであれば、俺は実力を以ってお前を制圧する」

 さすがにこれは記者たちの失笑を買った。高校生が実戦総合武術の総帥を相手に、【銃を持っているぞ】と脅しているのである。そんな子供だましに誰が引っ掛かるかと、笑わずにはいられなかったのだ。雄二郎や渋沢翁とて、困惑を隠せなかった。【それ】が【本物】であり、必要ならば龍麻が躊躇いなくそれを使用すると知っている紫暮以外は。

 殺気に満ちた目で龍麻を睨んでいた不破は、しかし溜息を付き、殺気を消した。

「――フン。多少はできる奴かと思ったが、失望したわ。下らぬ思想に汚染されているばかりか、その様な子供だましまで。――所詮、緋勇の血か。侍には程遠い」

 完全なる誤解――無理もないが――だが、これで押さえが利くのだから、不破もそこそこの人物であったという事だろう。彼は心底呆れ果てたように言い、龍麻に背を向けた。

 だが、当然のように異を唱える者がいた。

「――お待ち下さい。館長」

 不破が殺気を消しても、弟子はそうではない。怒りで頬を引き攣らせているのは沢松であった。

「館長のおっしゃる通り、こいつらはどうしようもないクズですが、クズならばこそ館長に、そして覇王館に対する無礼の数々は見過ごせません。――許可を下されば、自分が処理いたします」

「あたしも同意見です」

 沢松の声に続いたのは、紺のブレザーを纏った少女だ。セミロングの髪に、きりっと整った目鼻立ち――可愛いと言われるよりは凛々しいと言われるタイプだ。そして、女にしては背が高い。一七五センチはある。

「こんな口先だけ【実戦】を唱える連中なんて、武道を汚すだけですわ。おまけに武道家を名乗りながら仲良く馴れ合って。――バッカみたい」

 顔立ちもスタイルも良いのに、性格はきつそうだ。その口調は単なる皮肉を言っているのではなく、本当に【そう】思っている者のそれだ。他人を見下すのに慣れている節がある。ただし、それがただの空威張りに堕さぬのは、隙のない挙措と少女にあるまじき周囲を威圧する雰囲気のためであった。隣に並ぶ沢松と比べてもヒケを取らない迫力がある。

剣持けんもち鈴奈すずなだぜ…。帝校の女剣客だ…」

 記者のヒソヒソ話が龍麻の記憶に触れる。――珍しく京一が剣道部に顔を出し、異例にも女子部の指導を恐ろしく真剣にやっていた時に出た名であった。

 それだけならば龍麻の記憶に残る事はない。だが常に女女とうるさい京一が、彼女の話題を口にする時に不快そうな表情を隠しもしなかったのだ。それを問うと、彼は言ったものだ。



【あんな女は御免だぜ。ナンパしてたらいきなり襲い掛かって来やがってよ。木刀で本気の打ち込みをかましやがる。交流試合でもサムライは覚悟がどーとか言って、格下相手に一切手加減なしだ。――ウチの女子部員が激減したのはあの女のせいだぜ】



 聞けばその交流試合一回で、真神の女子剣道部員三十名のうち半分が怪我を負わされ、中には手首や鎖骨を折られた者までいた。そのため皆すっかり脅えてしまい、翌日には二十五名が退部届を提出する事態になったのだという。

 どうやらその張本人が、この少女らしい。なるほど、確かに顔と性格は一致しないようだ。

「アンタもアンタよ。どこの馬の骨か知らないけれど、館長に向かって随分と無礼な口をきくじゃない。おまけにそんな子供だましまで。――他の連中に邪魔はさせないから、あたしの剣に斬られてみる?」

 つい、と袋に入ったままの剣…木刀が突き出される。その切っ先から迸る剣気――京一並の迫力がある。ただし、【普段】の京一並だ。そして龍麻は、【鬼軍曹モード】が解けていなかった。

「――のぼせあがるな! 小便臭い餓鬼どもが!」

 突き付けられた木刀をも吹き飛ばしかねない勢いで、龍麻は一喝した。

「誰が貴様らごときに口からクソを垂れる事を許可したか! 餓鬼は餓鬼らしく隅に引っ込んでいろ! 無駄に肥えた穀潰しどもが!」

「――ッッ!!」

 たかが高校生の一喝――この場の誰もがそんな事は考えもしなかった。松田館長も渋沢翁もさも感心したように口をOの字にし、拳士郎は「ワァ〜オ」とおどけつつも感嘆した。――常人には想像も付かぬ、高校生にして元軍人、それも最前線で戦ってきた特殊部隊隊員。それが彼だ。いかに相手が格闘技を学んでいるとは言え、【戦場】を生き抜いて来た男の一喝はやはり違った。白ジャージの一団は明らかに圧倒され、地面を引っかいて後ずさりした。

「…随分と調子こいてくれるじゃねェか…!」

 額に青筋を幾つも浮かせて、沢松。しかし龍麻はもはや彼らに目もくれない。――無理もないと紫暮は思った。真神学園【旧校舎】なる場所での【訓練】を一度でも受けた者ならば解る。沢松にしろ剣持にしろ、彼にとっては、本当にただの子供にしか見えぬのだ。

「いいぜ、遊んでやる。お前のような半端者如き、俺一人で充分だ。――こっちを向け!」

 気勢を上げ、地面を踏み鳴らす沢松。記者達が慌てて距離を取ってカメラを構えるが、龍麻は不破を静かに眺めているだけ――睨み付けてさえいない。沢松の存在は空気同然であり、不破ですら戦う相手として見ていない。

 それは、沢松の癇に障った。たかが高校生の大会で、それも決勝で敗北した者が、世界チャンピオンである自分を無視するなど!

「死ぬぜ…テメエ…!」

 つい、と足を踏み出す沢松。そして、唸り飛ぶパンチ! 龍麻はそちらを見ないままパンチをかわす。それが可能なほど、沢松が手を抜いた為だ。しかし――

「いィィィ、えやァァァッ!」

 外れパンチが傍らのワゴン車を捉えた刹那、甲高い気合が沢松の口から迸った。――直後、ワゴン車のボンネットがひしゃげ、駆け抜けた衝撃が窓という窓を砕き散らした。とんでもない【試割】に、真神と鎧扇寺の選手、北辰会館の門下生が声にならないどよめきを漏らす。

「【寸剄すんけい】だ。沢松選手の得意技だ」

 記者の一人が頼まれた訳でもないのに解説する。いわゆる【何でもありバーリ・トゥード】スタイルの総合格闘技で、彼はこの技で常に対戦者を圧倒してきたのだ。

 そして、もう一つ。

 ワゴン車から転げ出してきた消火器を爪先で跳ね上げ、沢松はそれを片手で掴んだ。



 ――グシュンッ!



 コーラの缶のごとくひしゃげる消火器! 強化アルミ合金の裂け目から消化剤が零れ落ち、そこに指の跡をくっきりと刻み込んだ消火器が落ちた。再び上がるどよめき。

「…握りかめで鍛えた握力だ。沢松選手の握力は普通の握力計じゃ測定できないんだぜ」

 独り言にしては大きな声で言う記者。――わざと聞こえるように言っているのだ。恐れを煽る為と、雄二郎らに対するアピールの為に。

 そして、沢松も口を開いた。

「今更逃げようなんて思うなよ。俺は売られた喧嘩は買う、買った以上は徹底的にやる。それが武道家ってモンだからな。だがテメエは俺の獲物を横取りしやがった。喧嘩を終わらせる権利は勝者である俺にあるってのにな。この落とし前は高く付くぜ!」

 そこでようやく、龍麻は沢松をちらりと見た。あくまで、ちらり、と。

「器物破損。――躾は飼い主の責任だ。車のオーナーに謝罪し、修繕費を弁償しろ」

 場違いと言えば場違い、当然と言えば当然の言葉である。己の力を誇示する為だけに沢松が行った破壊劇は、龍麻にとってはその程度の事でしかなかった。しかし――

「さすがは緋勇弦麻の息子。恐れを隠す為の減らず口か。沢松も若輩ゆえ手を焼いているが、侮辱を許すのは【武】とは言えぬ。その減らず口が若さゆえの過ちであると身体で知るが良かろう。――本気になれば、命だけは助かるかも知れんぞ」

 随分と勝手な言い草の上に、止める気すらないらしい。それは、沢松への許可と同義であった。

 そして、龍麻は言葉を継いだ。

「弱い者虐めの趣味はない」

「――貴様ッ!」

 世界チャンピオンに対する、およそ考え得る最大級の侮蔑。沢松は龍麻に後から殴りかかった。

 しかしそれは、緋勇龍麻という男を知らぬが故の大失態。龍麻には殺意に対するマインドセットが施されている。殺意を持って仕掛ければ、そこに待つものは――

「――ッッ!」

 龍麻が振り返る。――それだけで沢松の突きは空を切り、龍麻は彼の目の前にいた。

「――アキャァァァッ!」

 純粋な空手ならば近過ぎる距離! しかし沢松はこの巨体をして元々ムエタイ・スタイルであり、神羅覇極流柔術においても接近戦はお手の物だ。龍麻が何か仕掛ける前に必殺の肘打ちをこめかみに――!

(――消えッ…!?)

 目標の消失! 肘は空を切った。回転を止めずにバックハンドブロー! これもスウェイバックした龍麻の鼻先数センチ先を掠めるのみに留まる。

「――ッアトォォッッ!」

 中段蹴りでも龍麻の顔面を狙えるほどの前蹴りがぐんと伸び――

「ッッ!」

 龍麻がひょいと前に一歩出る。――たったそれだけ。しかし確実に獲物を捉える筈だった蹴りを外され、沢松はバランスを崩して派手に尻餅を付く。龍麻はまだ【何もしていない】というのに、総合格闘世界チャンピオンがあっさりと自滅したのである。

「――何が喧嘩を終わらせる権利だ。下らぬ漫画を読む暇があったら勉強しろ」

 しかし、【それ】は突然起こった。

「――ッ!」

「――ッッシャアァァッ!!」

 世界チャンピオンとの一騎打ちという状況下、誰がこんな事態を予測し得たか? 壁際に張り付いていた覇王館の門下生がいきなり龍麻に襲い掛かり、彼を二人がかりで羽交い絞めにしたのである。次の瞬間、跳ね起きた沢松のパンチが唸り飛び、ゴシャッという鈍い音と共に血飛沫が飛んだ。――紫暮や拳士郎、居並ぶ達人達も止めようがないタイミングであった。

「――卑怯なッ!」

 いきり立ったのは北辰会館の門下生である。――名だたる達人達の手前、覇王館門下の度重なる挑発に耐えていた彼らも、いきなり伏兵を使った沢松の蛮行に一瞬で激昂した。しかし――

「卑怯ですって? 笑わせるんじゃないわ。勝負とは鯉口を切ってから始まるものではない。覚悟を決めた時から始まるものよ。武道家たるもの、周囲の状況も見極めて闘うのが当たり前でしょ。その程度の兵法も知らないで良く一人前の口を利いていたものね。――今度喧嘩を売る時は、相手を良く見る事ね。もっとも、次があればだけど」

 心底楽しそうに笑う剣持。――全く悪びれていない。一人で充分…一対一と明言しておきながら、周囲の者が突然襲いかかってきたとなると、果たしてどのような達人が対処できるものか。事前の打ち合わせがあった訳ではないにせよ、それを卑怯と呼ばぬとは…。

「――まったくだな。喧嘩を売った相手が悪過ぎた」

 口を開いたのは、何と龍麻の味方である筈の紫暮であった。これにはさすがに剣持の眉が寄る。見れば拳士郎も、松田雄二郎も、渋沢剛蔵も、そして真神と鎧扇寺…高校生の空手家すら同意するように肯いているではないか!?

「どうやらお前ら、とんでもねェ地雷を踏んだみてェだぜ。――次なんかねェよ」

 訳が解らぬといった風情の剣持に、拳士郎は顎をしゃくってみせた。――為す術もなく顔面にパンチを食らった筈の龍麻の方へ。

「――!? 沢松ッ!?」

 巨木の如くそびえる背に剣持が声を掛けた直後の事である。沢松の巨体が膝から崩れ落ち、同時に、龍麻を捕まえていた二人の覇王館門下生もその場にばったりと倒れ伏した。

「なっ!? 貴様! 何をしたッ!?」

 前年度総合格闘技世界大会の覇者――沢松右京が攻撃を仕掛けて、しかし倒れたのは彼自身…沢松を知る者にとっては俄かには信じがたい――無様な光景であった。沢松は完全に白目を剥き、口から泡を噴いて悶絶している。両手で押さえた股座からは血と尿のきつい臭いが立ち昇っていた。

「オイオイ嬢ちゃん。言いがかりは良くねェな」

 ずい、と一歩前に出、雄二郎は沢松をしげしげと眺めた。

「何とも間の悪い【事故】だったが、防具のおかげで潰れちゃいねェな。――良かったな、ボウヤ。オカマにならずに済んだようだぜェ。――って、聞こえる訳もねェか」

「カカカ。運の悪い事もあるモンじゃのぉ。――緋勇君は、何もしてないのにねえ」

 楽しそうに言う松田雄二郎、そして渋沢剛蔵の笑顔の恐ろしい事。剣持を筆頭に、覇王館の門下生と記者たちは我知らず一歩後ずさりした。

 雄二郎が、そして渋沢が今の一件を【事故】と言ったのは、傍目には龍麻自身が拳を振るった訳ではなかったからであった。龍麻は伏兵に両腕を取られた瞬間、沢松のフックが届く前に【合気】を仕掛け、伏兵の態勢を崩して攻撃をかわしただけである。しかしその結果、沢松のフックが直撃した伏兵は玉突きのごとく仲間と頭部激突、煽りを食った伏兵が勢い良くひっくり返るのに合わせ、跳ね上がった足が沢松の股間を強打したのであった。

 確かに【事故】だ。運が悪かったとしか言いようがない。――龍麻がそのように誘導したと知るのは、雄二郎や渋沢などの達人クラスか、龍麻の格闘スタイルを知っている者だけだ。社会的、法律的には誰も信じまい。――当の沢松さえ。

「ここは狭い。下手なダンスは他所でやれ」

 今のは【事故】――それを暗に言いつつ、龍麻は何事もなかったかのように服装を整えた。

「人を傷付ける事しか能がない輩が、気合だの根性だの、武道家の誇りだのと。自分好みの台詞に酔う前に、自らの行いを反省しろ。――これが最後の警告だ。そいつらを連れて消え失せろ。ここにチンピラの居場所はない」

 ふわ、と剣持の、覇王館の門下生の面貌を風が打った。

 龍麻の殺気だ。それも、わざと解るように放ったものだ。――龍麻は感情を剥き出しにする事がないため、戦いに際しても明確な殺気を放つ事が殆どない。【戦場】に生きてきた彼にとって【殺し】とは任務に過ぎず、食事と同じレベルでそれを実行するように訓練されてきたので、【殺し】という行為に特別な感情を持っていなかったのだ。――少なくとも、クーデターを起こす直前までは。

 今の彼は違う。冷徹な思考、時に冷酷な論理を展開しながらも、彼には感情が存在する。――だからこそ、己の力量を誇る為に他人を傷付けるという行為を【武道家】や【実戦】などという枕詞で美化し、卑怯な手段ですら【兵法】などと言い訳する輩に不快感を覚えている。それが、彼の殺気の正体であった。

「――随分言いたい事を言ってくれるじゃない」

 剣持がすうと目を細くし、袋から取り出した木刀を青眼に構えた。――本気だ。迸る剣気がそれを告げている。沢松が倒された事は、彼女に動揺を与えてはいなかった。しかも――彼女から覇王館の一派が離れる。それは正々堂々の戦いなどではなく、彼女の剣技が相当猛々しいものであるためと知れた。

「常在戦場が侍の心得。どんなトリックを使ったのか知らないけど、敵を前に一瞬でも油断した沢松が悪いのよ。でもあたしは違うわ。腕の一本や二本で済むなんて考えない事ね」

 少女にあるまじき殺気と脅し文句。そして、気の弱い者ならば竦み上がってしまいそうな眼光。しかしその直後、剣持の不敵な顔が強張った。

 龍麻が、恐らく視線を彼女に向けたのである。――目元が見えないだけに、剣持が感知したのは自分を貫いている視線の圧力のみであったが、それでも肌が粟立った。

(何…コイツ…!?)

 恐怖を感じている訳ではない。しかし龍麻の視線を感じた途端、指一本動かせなくなり、気持ちも奇妙に落ち着いてしまっている。このままでは良いように攻撃を浴びてしまうというのに、むしろそうされる事を望んでいる自分がいると知って、剣持はブルッと震えた。それは恐怖や畏怖ではなく――

 それが、急に消えた。視線の圧力が消え、彼の存在感が常態に戻る。

「――ッ!?」

 チャンス! 木刀を握る手が反応し、しかし唐突に、あらぬところにふわりと風を感じる剣持。そこは女性には無視できぬ場所で、剣持は思わず振り返った。すると…

「――ほほう。ピンクのフリル付き。しかもクマさんのバックプリント。――鈴菜ちゃんてば意外と可愛らしいパンツ穿いてるねェ」

「なっ――!?」

 この緊迫した状況下、剣持の背後にヤンキー座りして、彼女のスカートをめくっていたのは風見拳士郎であった。

「こ、このっ!」

 一瞬で激昂し、木刀を横薙ぎに払う剣持。常人の目には映らないスピードの打ち込みは、しかしあっさりと空気を切った。拳士郎が体操選手並みの柔軟さで仰け反り、木刀を素通りさせたのである。

「うひょぉっ! あぶねェあぶねェ。――いやあ、鈴奈ちゃんが相手なら、この喧嘩、俺が買った! 勿論俺が勝ったらホテルに直行! ねっぷりたっぷりあんな事とかこんな事とかするって方向で」

「この――色魔が!」

 真っ向上段――北辰一刀流の一の太刀! その踏み込みの速さは、女の身でありながら京一にも迫るものであった。ただし――【普段】の京一だ。そして相手は――紫暮が【ライバル】と言い切った男。

 一度放たれれば防ぎようがないと言われる一の太刀が、半歩横に動いた拳士郎の胸板すれすれを掠めていく。だが、拳士郎がそう動く事も読んでいたものか、剣持は振り下ろした木刀をそのまま刺突に繋げて放った。狙いは――喉元! 殺意を込めた一撃!

(――引っ込んでな。あいつ、お前を殺す気だぞ)

「――ッ!」

 彼女にだけ聞こえるように囁く拳士郎。剣持の突きは拳士郎の革ジャンの襟のみ掠め、逆に彼女の水月には拳士郎の拳が軽く触れていた。

(俺は止めるが、あいつは違う。――死ぬぜ)

 寸止めによる勝利という考え方は覇王館にはない。しかし【死】という単語が、まるで初めて聞いたかのように重く襲い掛かり、剣持の背筋にぞくりと冷水が走った。あの瞬間に覚えた、奇怪な陶酔感。あれはひょっとして――

 しかし拳士郎は唐突に、かなりいやらしい笑いを浮かべるや、剣持の胸にぽよんとタッチした。

「なッ――!」

 女性には打撃以上に効果的なこの一撃(?)。剣持は顔を真っ赤にして大きく跳び下がった。

「ああああ〜っ、深遠なるかな女体の神秘。――【北○神拳】奥技【女子赤面把じょしせきめんは】。女子スリーサイズ鑑定特Aクラスである俺の見立て通り、今の感触は確実に七五のCカップにしてサイズアップ寸前の八九センチ! あ〜、この手が嬉しい。――さあさあ、まだやるってんならレッツカモン。俺のテクとマグナムで極楽にご招待!」

 【かなりいやらしい】から【凄くいやらしい】笑いに変え、これまたなんともいやらしく手をニギニギさせた上に下品にも腰をカクカク揺する拳士郎。紫暮は「これさえなければ…」と頭を抱え、鈴奈はやや怯みつつも木刀を八双に構え――

「――やめい、剣持」

 不破の声が鈴奈の注意を彼に向けさせた。一瞬で鈴奈の顔が白く――紙の色になる。そして頬には、一筋の冷や汗…。

「興が削がれた。ここに武道家は一人としていない。帰るぞ」

「――は、はいっ」

 不破の命令は絶対なのか、鈴奈は拳士郎をひと睨みしつつも木刀を納め、ジャージ姿の一団に戻った。

「沢松! いつまで這いつくばっておるか! 貴様らも早く立てい! 帰ったら貴様らはわし直々に気合を入れ直してやる! 覚悟せい!」

 不破が倒れている門下生を一喝し、沢松達がのろのろと立ち上がって歩き始めると、記者たちも何とも嫌な視線で龍麻たちを一瞥し、ふんと鼻を鳴らして立ち去った。

 不破の一派が完全にいなくなったところで、一触即発の状況を見事(?)に煙にまいた拳士郎がやれやれと肩を竦めた。

「あ〜あ、やだねェ。可愛い子なのにあんなに性格歪まされちゃって。これだから格闘馬鹿…っつーより、ありゃ普通にキXXXだな。脳味噌まで筋肉の腕力馬鹿ってのは、何やっても許されるつもりでいやがる」

「これこれ、拳士郎君や。そんな汚い言葉を使ってはいけないよ」

「そうは言いますけど、渋沢センセェ、道理の通らないキXXXを堂々とキXXXって言わせなくなったから、あんなのがのさばるようになったって思いません? …ケッ、【実戦】だの【死合い】だのって、テメエだけは死なないつもりでいる武道家気取りが何を偉そうに…」

 渋沢翁に対しては朗らかな拳士郎の口調が、最後の独り言のところで酷く陰鬱なものになる。その時龍麻は、拳士郎の口調に怨念めいた翳を感じて少し眉を顰めた。

 【死なないつもり】…これは、自分の【死】を受け入れる覚悟が出来ていないという意味だ。つまり、【死】を意識して闘いに臨んでいない――自分より確実に弱い相手としか闘っていないという事だ。

 はっきり言って、この平和な国で、自らの【死】を覚悟しつつ生きている者がいるだろうか? 答えは――否だ。断じて否である。一国家として山のような問題を抱えてはいるものの、衣、食、住、全てにおいて、最低限の人間らしい生活を保証すると、日本国憲法は謳っている。そしてそれは概ね、誤りではない。――どこかから銃弾が飛来する事は希であるし、白昼堂々、強盗に襲われる事も滅多にない。言いがかりを付けられて逮捕される事も少ないし、遊び半分に殺される事も殆どない。――少なくとも、今は。

 そんな平和の中に埋没しているからこそ口にする【死】。それがどれほど陰惨なものか知らぬが故に【死】に魅せられ、暴力に酔い、平和を乱し、他人を傷付ける。争いを避ける者を臆病者と謗り、暴力を振るいつつ自己正当化だけは一人前――そんな連中が増えているのは非常に哀しい事だが、では、それを知るこの男は――

「まあ良いか。俺様サイキョ―野郎のEDなんざ世の中に大した害はねェし。ああいう手合いは勝手にヤー公あたりに喧嘩を売って、さっさとくたばってくれりゃいいんだよな」

「これ! おやめなさい!」

 陰鬱な響きを消し去る軽い軽い悪罵。渋沢翁の手刀が拳士郎の頭を打ち、彼は大げさに頭を抱える。――勿論演技だ。渋沢翁も本気では打っていない。

「まあ、拳士郎君の言う事も解らんではないが。――どうじゃろう? 忙しくないようであれば、わしらの演舞会に来てみないかね?」

「演舞会? この先のスポーツセンターで行われるイベントの事でありますか?」

 問い返す龍麻。――拳士郎が代わって彼に説明する。

「そう、それそれ。いつもは渋沢センセェの所でやってるんだけど、今年はまァいろいろあったんで、こっちの方でやる事になったんだ。あちこちから空手やら拳法やら、凄ェ人たちが集まる事になってるから見応えあるぜ〜。俺の先生も出席するんで、組手の相手に俺も呼ばれたのさ」

「おお、それは実に興味深い。勿論、我々一同、ぜひとも観覧いたしたく、お待ち申し上げていた次第であります」

 改めて渋沢翁に向き直って言うと、彼は破顔一笑した。勿論、良い方の笑みである。

「カッカッカ。なんて嬉しい言葉じゃろ。君達のような若者に来てもらえればみんな張り切るじゃろうて。まして、あの【緋勇】の息子に会えるとなるとね」

「…先生方は、自分の父親の事をご存知なのでしょうか?」

 これに答えたのは雄二郎である。彼は昔を懐かしむような笑みを浮かべた。

「おう。勿論だとも。――いやあ、あの時代に、あんな気持ちの良い喧嘩ができるとは思わなかったぜ」

「喧嘩ですか」

「おう。喧嘩だよう。それもたあいのねェ、真っ当な奴をねえ」

 それを伝える事が楽しくて仕方ないような、雄二郎の笑顔は純朴な子供そのものだ。喧嘩とは言いつつも、本人はそれが楽しくて仕方なかったらしい。だが、どのように?

「これこれ、松田さん。緋勇君が困っているじゃないですか。――まあ、君の父上には色々と良い思い出を作ってもらったんじゃよ。どうかね? もし時間が空いているなら、今からでも来てみんかね」

「今から? 確か演舞会は夕方からの筈。部外者がお邪魔しては迷惑では?」

「カッカッカ。部外者などとは水臭い。――実を言うとねェ、わしらも武道を知らぬモンを前に演舞するのは些か飽きとるんじゃよ。素人さんにも【判る】ように【つくり】のある演舞をしていると、知ったかぶりがしゃしゃり出てきてインチキ呼ばわりするからねェ。まあわしらもそんな手合いに【本物】を見せてやる義理はないんじゃが、君達のような若者にはぜひ【本物】を見てもらいたいのじゃよ」

 龍麻は少し考え、頷いた。

「――了解しました。お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」







   第六話閑話 武道 1    



目次に戻る    次に進む  コンテンツに戻る