第五話閑話 闇に駆けろ 3





 
 〇二〇〇時、東京、神楽坂、ホテル【ロイヤルヒルズ】最上階、会員制クラブ【シャングリ・ラ】



「――第一中隊は標的を見失い、第二中隊は全滅か。不甲斐ふがいないのお」

 全身を頭からすっぽりと覆う長衣…ローブと呼ばれる衣服を引きずり、足首まで埋まりそうな絨毯じゅうたんの上を歩く老人は、辛辣しんらつこの上ない口調で背後の男に言った。

「――はっ、なにぶんトライアル中なもので、中には練度が低い者も混じっております。しかし、我々の役に立たぬ者をふるいにかけるには良い機会かと」

「…たかが二、三匹のネズミを相手に、ふるいにかけるもなかろう。あの娘を回収すれば向こうからやって来るものを、わざわざ深追いした挙句に全滅とはのお。そのザマで良くSASを超えるなどと吹いたものよ」

「はッ、面目次第もございません。しかし必ずや我々の役に立つ、最強にして究極の部隊を作り上げて御覧に入れます」

 木の幹の如くしわだらけの老人の顔に、ぽっかりと黒い穴が空いた。口を開けて笑ったのである。大人が見てもひきつけを起こしそうな笑いであった。

「最強に、究極か。【物極ものきわまれば即ち返る】という言葉もあるというのに、お前達ときたら、本当にその言葉が好きだのう。子育て一つ満足に出来ん癖に、実のないプライドばかり持ちおって。盗品に名前を書いたところで、自分のものになる訳ではないわ。肉体を造りたいなら薬なぞ打たずに腕立てでもせい。ゴッホだのフェルメールだのばかり買い漁っとらんで、その金で若い才能を育ててみい。どんな映画やアニメを見たのか知らんが、予算は半端、演習場も狭く、装備も貧弱、経験も不足、おまけに国民がケチばかり付けよる自衛隊から、正義の味方気取りでお前達のようなやからに尻尾を振って喜ぶ、誇りも信念もない夢物語の走狗そうくどもを引き抜いたところで、まともな戦闘部隊など作れやせんわ。ましてやそんな輩がSASだのCIAだのを越えるなどとは、どこの中学生の妄想じゃ。まずは国民を馬鹿に仕立てんとする教育基本方針を改め、お前達が食い潰している防衛費を正しく運用し、良い環境と装備を与え、心身共に頑強にして高潔な軍人を育てる事じゃな。そ奴らに言う事を聞かせるためには、お前達自身も拝金はいきん主義や権力至上主義を捨て、国民が誇れるような政治家にならねばならんがな。――いやはや、人の堕落こそ喜びであるわしらにそのような事を言わせるとは、まったく情けない奴らじゃのお」

「はっ…」

 正しく言いたい放題だが、高級そうなスーツに身を固めた男は恐縮して縮こまっているばかりである。――これがかつて国会で暴言を吐き散らし、政治力を駆使して経済界に癒着構造ゆちゃくこうぞうの黒い根を張り巡らせた男だとは、彼を知る者には俄かに信じられまい。――瀬川せがわ竜造りゅうぞう。日本の政財界に棲み付く妖怪の一人である。

「まあ良い。【闇の刃ダークブレイド】を取り逃がしたのはお主の失態じゃが、彼奴の目的がかの娘であるとも判明した。取るに足らぬ蚊トンボに過ぎなかったお主のせがれも、今や絶望と憎悪を振り撒く魔物となりうる素材に仕上がった事じゃし、かねてよりの実験成果はお主のせがれに施してやろう」

「それでは…【あの娘】をお貸し願えるので?」

「本来は別の者がかの娘に供せられる筈じゃったが、なんぞ監視の目が厳しくなったとかで今夜は来られん。しかしながら、かの娘を使う以上、結果は出してもらうぞ。【闇の刃ダークブレイド】の首級しるし、必ず取るのじゃ。――死体@@にな@@ってか@@@らの方@@@が使い@@@易い@@からのお」

「はっ、ははっ!」

 とてつもなく不気味な文句に深く首を垂れた竜造りゅうぞうは、廊下の突き当たりにある部屋に到着すると、ドアボーイを押しのけて手ずから鋼鉄製のドアを開けた。

 とたんに、濃密な香りが襲い掛かってくる。――血と臓物の放つ腐臭と、竜涎香りゅうぜんこうを始めとする様々な香を練り混ぜた媚薬びやくの香りである。数百本の蝋燭ろうそくが灯るホールの中は、立ち上る香の煙でおぼろにかすんでいた。

 しかし、竜造りゅうぞうの目を真っ先に吸い付けたのは、ホールの中央で寝かされている娘であった。

 美しい娘である。亜麻色のストレートロングの髪に赤いリボン。品良く整った目鼻立ちは深窓の令嬢を思わせながら、快活さをもしのばせる、太陽の下であればなお輝くであろう美少女であった。

 しかし今の彼女は、絶対にそぐわぬ状況に置かれていた。

 両眼が閉じられているのは、麻薬と媚薬、そして奇怪な老人の術による強制された眠りの中にいる為であり、その伸びやかな肢体を包むのは彼女には到底似合わぬ屍衣シュラウドであった。屍衣はごく薄いもので、絶対均整――完璧なバランスを誇る裸身を半ば透かせている。そして痛ましい事には、彼女の両手両足には無慈悲な鉄枷が填められて床に繋がれており、奇怪な事には、彼女を中心としてホール全体にも及ぶ魔方陣が描かれている事であった。

 しかし、何よりも彼女にそぐわないと思える事は――

「おお…!」

 竜造りゅうぞうが、熱に浮かされたような声を上げて前に出ようとする。――周囲に立ち込める香を圧する、凄まじい淫気が彼女から発せられているのであった。竜造りゅうぞうの腰は熱くたぎり、口から大量の涎が溢れる。肉欲と食欲と、二重の意味で【美味そう】と感じた竜造りゅうぞうは、瞳孔が収縮し耳が尖り、迫り出してきた犬歯が唇を割った。

「――やめい」

 この老人がいなければ、竜造りゅうぞうは少女に襲い掛かっていたであろう。振り返った竜造りゅうぞうの目は、実に恨めしそうな光を宿らせていた。

「今夜、この娘に供せられる栄誉に預かるのはお主のせがれよ。精も根も魔力も、全てを吸い尽くされて果てるも本望ならば止めはせぬが、肉欲を満たすだけならばせがれの後にするが良い」

 竜造りゅうぞうは娘から目を引き剥がし、頬の辺りを強く擦った。迫り出した犬歯が元に戻り、目も人間のそれになる。そして老人に習い、傍らに並べられた棺に目をやった。

 棺の数は五つ。中から呻き声らしきものが聞こえる棺の蓋が取り除けられると、そこには包帯に包まれた人体…らしきものが入っていた。らしきもの、というのは、手足にあたる部分が胴ごと包帯に巻かれている為で、かろうじて覗いている、歯を全て抜き取られて膨れ上がった口元と、牛のいびきのような呻き声がなければ、俄かに人間だと判断しかねるからである。これが――【闇の刃ダークブレイド】によって嬲り殺しにされた瀬川せがわ竜一りゅういちであった。

 そして老人は、無造作に棺をひっくり返した。当然、竜一りゅういちは床に落ちて更に大きな呻き声を上げた。――舌がないので声にならないのだ。

「【司教ビショップ】! 何をなさる!」

「騒ぐでないわ。――竜一りゅういちや、気分はどうかの?」

 床に落ちた格好のまま、寝返り一つさえ許されない竜一りゅういちに、何という言葉をかけるのか。心底楽しそうな老人〜【司教】の声に、竜一りゅういちの顔を覆う包帯に血が滲んでくる。抉られた両眼から流れる涙は血であった。

「おお、おお。苦しかろうの。悔しかろうの。――ならば、憎め。恨め。お主をそのようにした男は覚えておろう? 【闇の刃ダークブレイド】という男じゃ。あの男を恨み、憎み、呪え。憎しみを怒りに変え、立ち上がってみよ」

 竜一りゅういちの鼓膜は破られていて、【司教】の声は届いていない筈であった。しかし、確かに竜一りゅういちは【司教】の声に反応した。物言えぬ唇が【闇の刃ダークブレイド】という単語を刻む。

「おお、そうじゃ。そやつこそが憎き敵の名よ。そして、そこなる娘は怨めしき敵の想い人。お主の身を染めし憎悪を思うさまぶつけるが良い。――いあ、しゅぶ、にぐらす! 千匹の子を孕みし森の黒山羊に、己の全てを捧げてみい」

 【司教】が声高に唱えた呪文のよって、空気の質が明らかに変貌する。空気に満ちていた香の煙は床に落ちてわだかまり、堪えがた難い腐臭のみが大気に漂う。そして竜一りゅういちは――動かぬ筈の身体を激しくよじりもがいた。

「おお…竜一りゅういち…!」

 目も鼻も耳も利かず、どうして解るのか、竜一りゅういちは地虫のごとく身体をくねらせ、少女に向かって這い進み始めた。その間にも【司教】の呪文は続き、空気がわななき蝋燭ろうそくは激しく燃え盛り、煙が幾つもの渦を巻く。そして魔方陣は、それ自体意思持つもののように脈動し始めた。それに合わせて、物言わぬ四つの棺もガタガタと揺れ始める。まるで中にいるモノが暴れ出したかのように。

「…逢魔おうまときまではまだ間があるでな。もう一つ、趣向を凝らすとしようかの」

 呪文を中断し、【司教】は枯れ枝のような指を少女に向けた。すると術が解けたか薬が切れたか、少女は薄く眼を開いた。

「あ…あ…!」

 少女の目に理知的な意思の光が戻る。しかし、その瞳が最初に映したものは、約五メートルの長旅の果てに包帯が擦り切れて露わになった、切り刻まれ、耳も鼻も削がれ、両眼のあるべき所にぽっかりと穴を開けた、凄惨極まりない竜一りゅういちの顔であった。そして、唾液の糸を引きつつ開かれた膨れ上がった口が、屍衣を押し上げている膨らみにむしゃぶりついてきた時、少女は声も枯れんばかりの泣き声を上げた。















 神楽坂【ロイヤルヒルズ】はホテルと銘打ちながら、一般の客は泊めぬ、選ばれし者だけの保養所であった。特に交通の利便性から、官公庁の要職に関わる者の利用が多い。電子機器に重点を置いたセキュリティ密度は高く、一般人は勿論、物見高いマスコミでさえも、中で何が行われているか窺い知る事はできない。

 そんな所に勤めている警備員の仕事は楽なものであった。ホテルの完成当初はスクープ目当てのマスコミ関係者が押し寄せたものだが、セキュリティを徹底強化し、それでも来る者は逮捕し、会社そのものに圧力をかけ――ある時、フリージャーナリスト五人がふっつりと消息を絶ち、黒い噂がホテルを包むようになってからは実に静かだ。時折、馬鹿な酔客や恐れを知らない若者が肝試しがてら侵入してくるが、そんな時はわざとセキュリティを切り、AX― 一二七試薬によって強化されているドーベルマンをけしかけ、狐狩り紛いの遊びを楽しんだりもした。――悲鳴が上がろうが銃声が聞こえようが、地元警察はここに不干渉を徹底されている為、何でもやりたい放題だった。

 今日は特別なパーティーがあるため、警備は完全武装の攻性部隊と交代し、彼らは無粋なガードマンの制服を脱いで西洋風の衛視えいしに扮装していた。完全に上の者の趣味だが、この格好でいわゆる上流階級の者と接するのは悪い気分ではない。有り余るほどの金を持つ淑女や、現役、新人を問わぬアイドルと接する事ができ、時にはその乱れた姿を見る事や、気に入られればベッドの相手をする事さえあるのだ。

 そして、ずいぶん随分ずいぶん遅くなって訪れた客を見た時、誰がエスコートするかで警備室に若干の嵐が起こった。やけに小柄な老紳士の駆る大型リムジンから最初に降りたのは、組織の幹部でありながら自分達にも女を融通してくれる顔馴染みであったが、彼らの連れてきた客が問題であった。青年実業家然としたタキシードの色男と、正装の似合っていない中年男性は置いといて、その両脇を固めた美女に目を奪われたためである。

 美女など海千山千の上流社会にあっても、その身に相応しい気品をまとうにはそれなりの努力を必要とする。また、上流社会にあり続ける為には、敢えて毒に染まらねばならぬ場合もままある。

 しかしその二人の美女〜美少女は、毒さえも己の養分として絢爛けんらんと咲き誇る華に負けぬ、青春の輝きに満ちた花であった。

「――ようこそ、【ロイヤルヒルズ】へ」

 慇懃無礼いんぎんぶれいに頭を下げたボーイの内、幸運に恵まれた二人が美少女の羽織っていたガウンを受け取る。

「ありがとう」

 こんな場所に訪れるにしては、驚くほど清楚な眼差し。染めていてなお艶やかな長髪と組み合わされた美貌は勝気な印象を与えつつ、しかし柔らかな笑みを向けられれば誰でも微笑み返したくなりそうだ。【高貴なる紫ロイヤルパープル】を基調にしたドレスに包まれた肢体は実に良く発達し、その癖物腰は優雅にして端麗。――と思っていたら、ふと向けられた流し目は震えが来る程に妖艶で、思わずその場へとぬかづき、踏まれてみたいという倒錯的な欲望を刺激された。――いずれどこかの大手プロダクションが発掘した大型新人モデルか、その道の女王…ボーイはそう踏んだ。

「よろしく」

 もう一人の美少女はやや冷たさの伴う声でそう告げ、しかし続いて放たれた怜悧れいりにして蟲惑的こわくてきな眼差しに、ボーイはブルッと震え、頬が紅潮するのを感じた。全体的にスレンダーながら、メリハリのある体型を袖なしチャイナドレスが浮き彫りにし、白のサテン地がしっとりと艶のある褐色の肌を際立たせている。強めのアイラインと赤味の濃いルージュを引いた唇が、雌豹のごとき美貌に妖艶さを与え、たとえ噛み付かれようとも手を触れずにはいられぬ扇情的な雰囲気をもかもし出し、ボーイは思春期の少年の如く緊張に身を固くした。

 しかし残念な事に、ボーイ達は彼女達に付き従う権利を与えられなかった。一同はそれぞれアタッシュケースを持参していたのだが、慣例通りの検査で中身が純金の延べ板だと判り、彼らがそれを運ぶ事は丁重に断られてしまったからであった。

 よって、ボーイ達は頭を下げつつ、横目で美女達の背中を見送る事になった。一行の姿が【シャングリ・ラ】への直通エレベータに消えると、

「か〜っ、また田嶋たじまさん、イイ女を連れて来たなァ」

「まったくだ。――なんでこんな時に限って玄関の警備何だっつーの」

「でも田嶋たじまさん、なんだか緊張してたな。あの若いのとオッサン、そんな大物なのかね?」

「――シッ! 客の素性は詮索せんさく不可だぞ!」

 そんな会話が交わされている玄関をよそに、青年実業家風の若い男性〜緋勇ひゆう龍麻たつまはエレベータの停止ボタンを押した。

「潜入成功。――手筈はA案を続行だ」

 田嶋たじまからアタッシュケースを取り上げ、その中からエンフィールドとウッズマン、パイソンなどを取り出す龍麻たつま。二人の美少女〜亜里沙ありさやラヴァもそれぞれ延べ板の下に潜ませておいた鞭や薬物のビンなどを取り出して身に付けた。

「こんな事をして、ただで済むと思っているのか?」

 露骨に怯えながら言う田嶋たじま。――無理もない。彼の首には龍麻たつまによって爆薬が取り付けられ、組織にとって極めて重要な意味を持つパーティーの襲撃に協力させられているのである。

「自分の心配をする事だ。この作戦が失敗すればどうあってもお前は死ぬ」

 簡潔な言葉が、田嶋たじま心胆しんたん寒からしめる。たかが高校生の脅し――ではない。実際、田嶋たじまと中年男性〜御厨みくりやは、常識と倫理が尻に帆かけて逃げ出す様をつい先程目撃したばかりであった。

 小暮こぐれ奈美なみ御厨みくりやに接触したのは、【闇の刃ダークブレイド】と目される龍麻たつまをおびき出すためであった。田嶋たじまにしても、【闇の刃ダークブレイド】の仲間がナミの顔見知りであった事は嬉しい計算違いで、【闇の刃ダークブレイド】を自ら捕まえれば組織における立場が跳ね上がると、子飼いの学生に重武装させて龍麻たつま捕獲に臨んだのである。

 結果は、現状を見ても解るように、あえなく失敗に終わった。龍麻たつまは最初からナミを信用しておらず、身を潜めていた武装学生に無音殺人サイレントキリングを仕掛けてから会見に臨んだのである。そして龍麻たつまは何とも手頃な道案内兼潜入用の【道具】を手に入れたのであった。

 しかし、龍麻たつまは言ったものだ。【道案内は一人で良い】――知り合いである亜里沙ありさを売ろうとした咎で、彼はナミを射殺しようとしたのであった。辛うじて亜里沙ありさが間に入り、彼女の処遇を亜里沙ありさが受け持つ事となってその場は救われた。しかしその後、田嶋たじまとの責任のなすり合いの果てに彼に刺され、病院送りとなってしまったのである。

「なあ、本当にうまくいくのか?」

 ギシギシと軋みそうな緊張に耐えかね、御厨みくりやが口を開く。返答は意外なほど早かった。

「手筈通りにやれば良い。――もとより火力不足だ。可能な限り戦闘は控え、久保くぼ早百合さゆり嬢を確保したら即座に撤退する」

 自信に満ちた言動と、その内容が、多くの犯罪者を見てきた御厨みくりやに、龍麻たつまが真性の悪党ではないとの確信を抱かせる。ただ、彼の性格はまったくつかみ所がない。

 例えば、自分の扱いだ。自分で懇願こんがんしておいて言うのもなんだが、警察に圧力が掛けられるとは言え、現職の刑事を【仕事】の現場に同行させる神経は理解に苦しむ。しかもこの格好…上流社会に潜む悪党のパーティーに潜入する為、強引に開けさせたブティックで、しかも二時間以内という条件付で、自分の分のみならず、御厨みくりや藤咲ふじさき亜里沙ありさ、女殺し屋の衣装を仕立てさせたのである。しかも偽装に完璧を期すために、揃えた品はいずれも超高級品。タキシード一着のみでも勤続三十年の御厨みくりやの給料半年分が吹っ飛ぶ代物で、女性陣の身に付ける宝飾品と純金のの延べ板も合わせると、実に三千万円強の金をあっさりとつぎ込んだのだ。言い方は悪いが、誘拐被害者を助け出す――それも友人の頼みで――という行為に、それだけのメリットがあるとは到底思えない。

 他人からの信頼度も半端ではなさそうだ。亜里沙ありさはナミの処遇に関して一言二言のやり取りをしたものの、彼の下した決定には逆らわなかったし、リムジンの運転手を務めた老人は別組織の人間でありながら慇懃いんぎんな態度に徹し、更には夜中に叩き起こされた筈のブティックの支配人や針子たちが、無理難題にも等しい仕事に不平一つ零さず意欲的に取り組んだのである。労いの言葉や多額のチップ以上に、彼らには龍麻たつまに寄せる信頼が感じられた。

 では善人かと言われれば、否と答えざるを得ない。田嶋たじまと共に襲ってきた武装学生は無力化された後、老人の仲間に回収されて行ったのだ。聞けば【人の役に立つ】との事だが、どういう形で【人の役に立つ】のか、彼も充分承知の上だったのである。しかも田嶋たじまの首に爆薬をセットして作戦に協力させるという冷酷さだ。

 悪党には恐ろしくシビアで、【仲間】やそれ以外の人々には【過ぎる】ほどに寛容。まるでテレビ映画のヒーローだが、本人がそんな自分に酔っている素振りは一切ない。まるで悪党を始末するのが彼の義務であり、その為に必要な事をしているに過ぎないかのようだ。

 しかし、いつまでもそんな考えを巡らせている時ではなかった。御厨みくりやの前にSIG・P226と予備弾倉が差し出されたのである。

「――オートだが、使い方は解るな?」

「あ、ああ…」

 戸惑いつつSIGを握る御厨みくりやであったが、龍麻たつまはすぐには手を放さなかった。

「解っているだろうが、自らの意志で俺の指揮下に入った以上、今は刑事である事を忘れろ。誘拐被害者の救出に専念し、目の前で何が起ころうとも決して関知するな。奴らは自身を法の超越者だと信じ、そのように振舞う。――これを使用する時は、殺す時だ」

 龍麻たつまが手を放した途端、ずしりとした重みが御厨みくりやの手を襲う。――単なる重量の問題ではない。自身を護り敵を殺す為の、正に人殺しの道具の重さであった。同じ拳銃でありながら、警官が持つ限り人殺しの道具とはなりえないニューナンブとは確かに違った。

「高性能が売りのSIGだが、装弾不良ジャムの可能性はゼロではない。そして自衛隊仕様ではマガジン・チェンジに若干のロスが生じる。無闇な発砲は避け、常に残弾数に気を配れ」

 御厨みくりやの感傷など微塵も意に介さず言い置き、龍麻たつま亜里沙ありさに向き直った。

「ここは人間の悪意と妄執の吹き溜まりだ。本音を言うならば、今のお前にこの先は見せたくない。――命令無視は許さん。何を見ても決して動揺せず、早百合さゆり嬢の救出を最優先しろ」

「う、ウンッ。了解」

 ドレスの腰に付けた鞭を握り締め、亜里沙ありさは神妙に頷く。――今日だけで相当無理を聞いてもらっているのだ。しかも大金まで使わせて。これ以上の迷惑をかけぬ為にも、命令に絶対服従する覚悟を決めた亜里沙ありさであった。

 そしてエレベータは動き出し、程なく最上階に付いた事を示すチャイムが鳴った。

「…地獄の扉が開いたぞヘルズ・ゲート・オープン

 龍麻たつまの呟きにラヴァははっとしたが、それをかき消すように大音量の音楽と、人々の熱気がエレベータにどっと流れ込んできた。

戦闘開始コンバットオープン。――幸運をグッドラック

 そして龍麻たつまは、悪意渦巻くパーティー会場に足を踏み入れた。















 耳を乱打するハードロックのリズムと、最高級のスーツやタキシード、ドレスをまといながら、これまた最高級の酒をビールの如くラッパ飲みし、下品な笑い声を立て、下手糞へたくそなダンスを披露する【自称】上流階級の選ばれしエリート達。新宿に乱立しつつあるどのホスト・クラブよりも絢爛けんらん豪華ごうかにして悪趣味な内装を施されたパーティー会場は、ゲストが五分、ホストとホステスが三分の割合で埋まっていた。黄昏時たそがれどきの闇に沈んだような照明を、時折レーザー光が鋭く切り裂く。そこに一瞬照らし出されるのは、選ばれし者の立場を共有しつつも、互いに誰か判らぬように施された金銀の仮面である。口元は開いていても、喉にセットされたボイスチェンジャーが声を無機質な合成音に変える徹底ぶり。薄っぺらな仲間意識はあっても、一度ここを離れれば見知らぬ他人となる関係。確かにこれは、虚栄心という秘密のヴェールに包まれたパーティーであった。

 さすがに圧倒される亜里沙ありさに、御厨みくりや。未成年の亜里沙ありさは当然として、御厨みくりやも自分とは無縁の世界にただただ度肝を抜かれる。天井からは見事な焼き色を付けられた牛や豚が幾つもぶら下がって香ばしい臭いを放ち、大理石で仕切られたプールには酒が満たされていた。その間を泳ぐように行き来するのは、古代ギリシャを意識させつつも下着でなければ布切れとしか言えない代物を身にまとうホストにホステスだ。彼もしくは彼女らも仮面で素顔を隠しながら、精一杯の笑みでゲストたちにしなを作り、シャンパングラスや山海の珍味を差し出す傍ら、ソファーと言わず床と言わず、中には酒の池に浸りながら荒淫にふけっている。それはまさしく古代中国、いんの皇帝ちゅう王がものした【酒池肉林】の再現にして、世紀末の景観であった。

「案内しろ。――ゆっくりとだ」

 そんな光景も龍麻たつまの表情を動かすには足りず、彼は田嶋たじまを促し、いかにも客らしくシャンパングラスを片手に歩き出した。金色の仮面に隠された目は客の配分、警備員の位置、障害物の配置などを収集、分析し、目的達成時の脱出ルートを計算していく。思ったより障害物が多く、光の届かぬ箇所が多い。

 そして龍麻たつまは、大ホールの中央に設置されているステージの手前で立ち止まった。

「…あれか?」

 龍麻たつまの隣でシャンパングラスを優雅にもてあそびつつ、ラヴァは僅かに緊張の浮いた声で問う。蝶の仮面の陰から一筋の冷や汗が伝い落ち、艶っぽい褐色の肌には鳥肌が立っていた。――彼女には判ったのだ。ステージに鎮座している神像の異常性が。

 見た目は普遍的なスタイル〜ねじれた角を持つ黒山羊の像であるが、両性具有である点と、自ら生み出した子をまとわり付かせている点が【普通】の悪魔と異なる。神像の前に描かれた魔方陣も、黒魔術の象徴的な印章であるダビデの星…六芒星ではなく、聖印としてよく知られる五芒星が基本となっていた。

 そして【双頭蛇ツインスネーク】の殺し屋ラヴァをして鳥肌を立てさせたのは、魔方陣の突端部と中心にある穴――らしきものであった。白大理石のステージに、そこだけペンキを塗ったかのような穴である。なぜ穴だと判るかと言うと、そこから奇怪に冷たい風が吹いてくるのが感じられるからだ。その癖、乱舞するレーザー光が何度もそこを行き来しているのに、穴の内部はその縁すら覗けないのである。そこに詰まっているのは、光を通さぬ闇であった。

「〇三〇〇時まであと三〇〇秒ほどだ。――誘拐された女性たちはどこだ?」

 首筋がピリピリするのは龍麻たつまも同じだが、彼は敢えてそれらを無視し、周囲に視線を巡らせる。だがステージには早百合さゆりは勿論、それらしい女性の姿もない。

「す、ステージの下だ。儀式はもう下のフロアで行われていて、ここの連中は儀式の結果しか見られない。もうすぐあの穴から――ここまで来たら、もう絶対助からないぞ」

「その時はお前も死ぬ。――あの穴がどうした?」

 だが、慌てる必要はなかった。音楽が荒々しいメタル系のロックから、なんとも原始的なトムトムの乱打へと変わったのである。そして、現代人には明らかに乗りの悪い音楽で、周囲の客たちが何とも異様な興奮を示し始めた。

『――この地、この時、この身をもって、良くぞつどった。宵闇よいやみの住人、未来を担う【超人類】よ』

 突如、何もない中空に紫の炎が生じ、若いとも年老いているとも判らぬ声が降ってきた。客たちは一斉に床にひれ伏し、龍麻たつまたちもそれに習って急いで床に伏す。――ターゲットの姿が見えぬ以上、静観する手だ。程なく、【穴】が白くねっとりとした煙を吐き出し始める。

『我らが世は確実に迫り、今宵こよいもまた、新たなる同胞が誕生する。さあ我らが同胞を迎え、称えよう。新しき神の似姿を捨て、荒ぶる神の似姿を得し同胞に血の祝福を! ――いあ! しゅぶ・にぐらす! 千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ!』





 ――いあ! いあ! しゅぶ・にぐらす! くふあやく ぶるぐとむ…



 不気味な呪文の詠唱と共に、何かが【穴】からぬうっと突き出てきた。それがタールのような闇をまとった裸の人間だと認識するよりも早く、空気にむっとするような甘くて苦い異臭と、生々しい女の喘ぎとも獣の唸りとも付かぬ声が満ちた。居並ぶ客たちも顔を上気させ、涎を流し、みるみる狂相を帯びていく。

 程なく、闇が流れ落ち、それが全容を露にしようとする直前、亜里沙ありさは有無を言わせず龍麻たつまに目隠しをされた。

(た、龍麻たつま!?)

(――お前は見るな)

 訳が判らないながらも亜里沙ありさは頷き、龍麻たつまはステージに視線を戻す。年頃の少女に――と言うより、人間が目にしてはならぬ光景がそこに広がっていた。

 人が魔物に変わる――その実例を見ている龍麻たつまにしても、闇を取り払われたモノは常軌じょうきを逸していた。百歩譲っても服とは言えない、宝石を繋ぎ合わせた装飾のみ身に付けた裸の女性に、なにやら得体の知れない――腐敗した臓物のごとく膨れ上がった男が絡み付き、狂おしいリズムに乗って荒淫に耽っている。どちらも唸り、叫び、吠える様はどう贔屓目ひいきめに見ても快楽追及の手段とは思えず、ただひたすらに人間を冒涜ぼうとくし、堕落し、狂気に浸りきった悪魔の交合であった。触手のごとくしなやかな、あるいはごつい木の根のような腕は【獲物】をガッチリと抱え込み、異様に伸びた爪や歯は女性のく脆弱な皮膚を容易く引き裂き、既に白い肌は朱に染まっている。そしてその女性こそ誰あろう、久保くぼ早百合さゆりであった。

(――目標確認ターゲットインサイト

 恩人が犯される様など誰も見たくあるまい。亜里沙ありさの目を閉じさせたのは正解だった。しかも――その周囲には既にコトに及んだ後らしい男たちが息も絶え絶えに転がっている。全員、ひどい痙攣を起こしてのた打ち回り、血を吐き、糞尿を垂れ流し、さながら地獄の責め苦を受ける亡者のごとき惨状だ。しかし――それで生まれ変わる。人間から、怪物に。その顔は苦悶に咽びながら、歓喜と恍惚にも彩られていた。

 ――儀式の主役は女性。男性こそ生贄に等しい

 聖須華セスカのレポートが脳裏をぎる。女性は多種多様なDNAを集めたウイルスの受け皿となり、より強靭きょうじんなウイルスを生み出す母体として変貌を続け、男性はDNA情報を渡す際に新たなウイルスに感染して、より強い突然変異を起こす。――確かに早百合さゆりの身に宿る妖気はこの瞬間も増大し、周囲の男どもよりも遥かに危険であると勘が告げる。だが、仕掛けるのはまだだ。この【儀式】が終わりを告げ、彼女が部屋に戻される時こそ、警備陣の気が最も緩む最大のチャンス――



 ――ズッズウン…ッッ!



 突如、重い爆発音と共にホテル全体が大きく揺れ、客たちは吹っ飛ぶような勢いで横倒しになった。龍麻たつまとて例外ではいられず、紗幕の一つを掴んでバランスを取らねばならなかった。悲鳴や怒号が入り乱れ、スプリンクラーが勢い良く水を噴き出し、高級品ばかりで構成されたパーティーがずぶ濡れの笑劇ファルスに変わる。

 何が起こった!? パニックを起こして右往左往する客たちを貫き、龍麻たつまの目はもうもうと上がる黒煙と炎の出現点を注視した。そこにあったのはアルミ合金と強化ガラスの堆積。プロペラを見て初めてそれと判るほど破壊されたセスナ機であった。壁に空いた大穴を見るまでもなく、セスナ機が激突したものと知れた。

 このタイミングで事故――などとは微塵も考えられない。だが仮に【彼】が乗り込んでいたとしても、これほどの衝撃に耐えられるのか!?

 その答えは、消火器片手にセスナに近付いた警備員が出した。

「――ぎゃぷッッ!!」

 セスナのドアが吹き飛び、警備員を石柱にサンドイッチにする。だがドアの中央部には巨大なククリ・ナイフが刺さり、警備員を串刺しにしていた。槍の穂をずらりと並べたような歯を剥いて絶叫しつつ、しかし警備員はそれ以上どうする事もできず絶命した。

 龍麻たつまはそこに、闇が凝結して一個の人間を生み落とすのを見た。

 詩的な表現を使うならば、闇より生まれたる漆黒の天使か。壁の穴から吹き込む風に翻る黒ケープは、正に翼と見えた。奢り高ぶる人類を、罪深き悪魔の使徒を、その両手の刃にて狩る為に降臨した死の天使。――現実主義者リアリスト龍麻たつまをしてそう思わずにはいられぬほど、幻想的な光景であった。

 しかし、それは紛れもない現実であった。

「【闇の刃ダークブレイド】…【闇の刃ダークブレイド】なのか…?」

「アイツが殺し屋…?」

 広がった翼〜ケープが緩やかに羽ばたきを止め、【闇の刃ダークブレイド】こと結城ゆうき飛鳥あすかが歩き始めると、細波のごとき動揺が恐怖の唸りに変わった。誰もが知り、誰もが知らぬ恐怖。そいつと出会って生き延びた者はいないという、生きた伝説が目の前に…!

 しかし――

「死ねェッ! 【闇の刃ダークブレイド】ォッッ!!」

 静から動への急転直下! 威勢の良い若者が空中を駆け、飛び蹴りを放った。飛燕ひえんのそれを迎え撃つは薄闇をなお黒く塗り潰す闇と、空を引き裂く凶刃きょうじんの一閃! 対火対衝撃ケープをぶつけられた若者は股間から鳩尾まで掻っ捌かれ、黒血をぶちまけつつ床に叩き付けられた。

 たちまち、ホール内はパニックに包まれた。

 難破船のネズミのごと如く逃げ惑うのは、変貌率の低い感染者か? しかし【闇の刃ダークブレイド】の背後に、真紅の色彩を筆頭に五つの影が踊った。振り向き様ナイフを振るう【闇の刃ダークブレイド】! しかし―― 

「ッッ!」

 ぱっと血が飛び、二つの生首が床を吹っ飛んでいく中、赤と白の色彩のみ宙に舞わせ、豊満な肢体が後方にトンボを切って斬撃をかわした。そして――細く糸を引く鮮血を胸の谷間に滑り込ませながら、ポスト何たら姉妹と言われているグラマーモデル姉妹が凄絶な笑いを浮かべて見せる。逃げ出さなかった客たちも、噴き上がった血に触発されたかのように歯を剥いて笑った。

 ――感染者は理性が弱体化し、本能的行動が顕著になる。変貌率の高い者ほど攻撃的になり、飢餓感も強くなる。まして【儀式】の興奮が最高潮に達している時に血など見せては――

「これ、高いのよ、ボウヤ。――しえェいッ!」

 手にこびり付いた血を舐め上げ――酷く官能的な光景――【闇の刃ダークブレイド】に突っかけるモデル姉妹。――モデルも個性が買われる時代になり、彼女たちの売りは一卵性双生児である事に加え、特技が何とテコンドーだ。技術そのものは一般競技者レベルだが、それを補って余りあるパワーとスピードで雨あられと蹴りを繰り出し、同じ外見が生む幻惑も加えて、あの【闇の刃ダークブレイド】を防戦一方に追い込む。

「――無茶な奴だ」

 こんな作戦では命が幾つあっても足りない。社会的には身を潜めていたい連中に対して、正面攻撃とは悪くない戦術だが、これほど強引な手段で単身敵地に乗り込み、どんな能力を持っているか解らぬこの会場全ての敵と戦おうなど、無策の極みだ。田嶋たじまのマンションでも感じたが、彼は直情的過ぎる。おかげでこちらの作戦も台無しだ。

「どうするのだ?」

「――作戦をB案に変更。――いて来い」

 こうなった以上、隠密作戦は無理だ。龍麻たつまは三人を率いて、【闇の刃ダークブレイド】に殺到する獣人たちの背後からステージに駆け上がった。

「――ッッ!?」

 獣人たちが風のように接近する気配に気付いた時、龍麻たつまは既に攻撃間合いを奪っていた。

 銀の閃光と化して走るストレート! 銀のメリケンサックを装備した突き一発で警備員の顎は砕け、柱に叩き付けられた。しかし効果はそれだけに留まらず、打撃部位がボコボコと膨れ上がり、爆発さながら腐汁を撒き散らした。――ウイルス感染者の身体能力の秘密は体液にあり、しかし浸透圧や成分その他の関係から銀に対して凄まじいアレルギー症状を呈する。聖須華セスカのレポート通りだ。――この狂気に満ちたパーティーには、化け物と、その候補しかいない。

 ならば、殲滅せんめつするまで。

 早百合さゆりの安全を考慮して龍麻たつまは銃を抜かなかったが、警備員もきょうを損なうという下らない理由と、自らの能力を誇る余り銃を携帯していない。龍麻は古武道の滑るような足捌きとボクシングのテクニックで、早百合さゆりを取り巻く獣人たちに深く切り込んだ。

「――ぐわッ!」

「ぐげっ!」

 【シグマ】の戦闘部隊扮する警備員も大した格闘技術の持ち主だが、このような乱戦の経験が不足している上、光の明滅するステージ上では常人以上の視力があだとなった。一方、龍麻たつまは最初から視覚情報を捨て、相手の息遣い、足捌きを全身で感じ取り、正確なパンチを頬や顎先に浴びせる。たちまち五人の警備員が龍麻に打ち倒され、早百合さゆりの周囲にエアポケットが生じた。

 だが、数の暴力を打ち破るのは容易ではない。早百合さゆりをカバーしつつ三、四人を同時に相手にすると、龍麻たつまとて背に隙ができる。そこに手袋を外したラヴァがカバーに入った。

 ――チッ!

 両手の鉤手こうしゅが真紅と漆黒の残像を引いて空気を裂くや、警備員の剥き出しの腕や顔に細く朱線が走り、直後にその部分が鳳仙花の如く血を奔騰ほんとうさせた。――【毒師】は砒素ひそやキニーネを始めとする一般的な毒のみならず、あらゆる化学反応を殺人術に応用できる科学者でもある。絶え間ない毒功どくこうを積む事により、毒を体内に染み込ませ、金属にも匹敵する硬度を備えた爪で数百種類にも及ぶ毒を一瞬にして調合するのだ。そこに南派少林拳系の功夫カンフーが加わった時、彼女は獣人すら凌ぐ死の担い手と化した。

 いかに常人以上の力を振るおうとも、中身は素人。戦闘のプロが二人も乱入した事で、獣人たちはたちまち総崩れになった。

「クッ!」

 モデル姉妹が唇を噛む。彼女の背後に詰めていた者が、ぽろぽろと逃げ始めたのである。思わずそちらに悪罵を向け、その瞬間に彼女たちの水月と顎先に拳が打ち込まれた。そしてグッと姉妹が怯んだところで――

「――ッッ!!」

 ボッ! と空気が唸り、【闇の刃ダークブレイド】が黒い閃光と化して獣人たちの間を駆け抜けた。

 こちら側に残っていた最後の獣人を仕留めた龍麻たつまは、その殺戮劇に小さく唸った。

 龍麻たつまの目でさえ定かには捉えられぬスピードでナイフが踊り、獣人たちは刃の竜巻に触れるや手足を飛ばされ胴を割られ、確実に絶命する。――スピードは互角だが、そこにナイフを加えると殺傷能力は龍麻たつまを上回っていた。早百合さゆりを守る事が大前提であったとは言え、獣人十体を倒すのに龍麻たつまが要した時間は約九〇秒。【闇の刃ダークブレイド】は同数を真っ向正面から三〇秒足らずで仕留めたのである。

「畜生…舐めんなァァッ!」

 モデル姉妹が顔を歪めて怒鳴り、床を蹴った。姉は猛禽もうきんのごと如き飛翔で、妹は狼の如き疾走で一気に間合いを詰め、空中と地表から鉤爪の同時攻撃――



 ――BRAM! BRAM!



 二発の銃声が薄闇を切り裂いて妹の眉間を貫き、姉の胸に血の花を咲かせる。妹は即死して床を転がり、姉は飛翔の優美さとは裏腹に無様に床に落ち、激しく手足をバタ付かせて【死の舞踏ダンス・マキャブル】を踊る。吠え声を上げる口は大きく横に裂け、迫り出した牙が火花を散らし、テレビではそれなりの評判を取っていた美貌が醜い怪物に変わるのは、二度と見たくない光景であった。しかし――エンフィールドに込められた対獣人用水銀弾は彼女の体内に猛毒を撒き散らし、その美しい肉体をどす黒い腐肉の塊へと変え、それがとどめとなった。

「――!」

 カッと龍麻たつまを見据える【闇の刃ダークブレイド】。龍麻たつまの視線も【闇の刃ダークブレイド】を貫き、ナイフとエンフィールドが交錯する。そして――



 ――BRAM! BRAM! BRAM! BRAM!



「ぐわっ!」

「ぎゃっ!」

 逃げる客たちに揉まれながら飛び出してきた警備員が苦鳴を上げて吹っ飛び、暴発したFA―MASが天井の照明を砕き散らす。その一方でようやく立ち上がった今日の【生贄】は、新たに獲得した能力を発揮する機会もないままに首を切り落とされ、心臓を抉られた。

 再び龍麻たつまと【闇の刃ダークブレイド】の視線が噛み合ったが、すぐにどちらからともなくそれは離れた。味方でなければ敵などという、安直で底の浅い考えなど彼らにはない。目的は異なろうと、共通の敵がいて、互いの存在が利用できるならばそれで良い――恐ろしく物騒でドライな、プロ同士の共感であった。

早百合さゆり嬢確保! 脱出シーケンスに移れ! 援護する!」

「OK! 行くよ、オッサン!」

「お、応ッ!」 

 亜里沙ありさ早百合さゆりに飛び付いて彼女をカーテンで包み、御厨みくりやが彼女を担いでステージから飛び降りた。後は、打ち合わせ通り【鉄猿アイアンモンキー】が制圧しているエレベータに向かって走る。

「お前も行け。俺は時間を稼ぐ」

「――これはどうする?」

 ラヴァの指が首輪を示す。龍麻たつまから離れると爆発する仕掛けだ。

 龍麻たつまは腕時計を彼女に向け、スイッチを押した。するとラヴァと、ずっと忘れ去られていた田嶋たじまの首輪がピ、と音を立てる。

「距離限定を解除した。――そいつも連れて行け。弾除けくらいにはなる」

「心得た」

 指令爆破の機能だけは残しておく龍麻たつまの用心深さに半ば呆れ、半ば感心しつつ、ラヴァは放心している田嶋たじまの首根っこを掴んで走り出した。こんな男でも、刑事である御厨みくりやへのちょっとした報酬なのだ。

 ホールに視線を戻すと、【闇の刃ダークブレイド】は武器をナイフからブーメラン状の武器に変えてホール玄関を見据えており、壊れた扉の向こうから後続の警備員の立てる足音が木霊して来る。どうやら今日のパーティーはよほどの重要人物が参加していたようだ。

「――いたぞ! 撃てェ!」

 勢い良く飛び出してきたのは良いが、これでは的になりに来たも同然だ。真っ先に飛び込んできた警備員は、龍麻たつまの放った弾丸に顔面を砕かれてその場に崩れ落ち、孤を描いて走った【闇の刃ダークブレイド】のブーメランに喉元を掻っ捌かれた。文字通り出鼻を挫かれた後続の警備員はその場に膝を付いて発砲したが、更に深みを増した闇の中に溶け込んだ二人を捉える事はできなかった。

 いや、一つだけ。



 ――チリリリリリリリ…



(馬鹿が! バレバレだぜ!)

 エンフィールドの鈴のが移動していく方向に先回りする警備員。AX― 一二七を投与して獲得した聴力は、それを持っている者の動きさえ捉えてみせた。警備員は充分に待ち構えた姿勢でFA―MASの引き金を――

 ――BRAM!

「――ッッ!!」

 視界一杯に広がる、六角形の銃身オクタゴン・バレル。人間を遥かに超える動体視力は、そこから小指の先ほどもない銀の粒が飛び出し、己の頭蓋ずがいに突き刺さる所までを鮮明に捉えた。こればかりは脆弱な脳組織を引っ掻き回され、同時に強力な劇物を撒き散らされる中、警備員は鈴の音によって【その位置】に誘い込まれた事を知った。

 グワウッ! と唸り、慌てて移動しようとした残りの警備員であったが、しっかりと待ち構えていた分反応が遅れ、次々に銃口のみ顔を覗かせたエンフィールドの餌食となった。

「畜生ォッ!」

 怒りの咆哮を上げて発砲する警備員。フルオートで吐き出される弾丸を避けて龍麻たつまは石柱を回り込む。そして――鈴の音。

(――こっちか!)

 フェイントだ! 警備員はとっさに追うのを止め、石柱の反対側に回り込もうとした。しかし、普通に振り返った龍麻たつまの前に脇腹を晒す羽目になり、防弾ベストの脇の下――装甲板の隙間に弾丸を浴びる。――すぐに引っ込んだ龍麻たつまを追った後続の警備員は、またもや待ち構えていた銃口の前に飛び込んでしまい、あえない最期を遂げた。

「――止まれ! 無闇に追うな!」

 たかが鈴の音一つでこうまで幻惑されてしまうとは!? 警備員たちは自身の肉体に絶対の自信を持っていたが故に、戦慄を隠し切れなかった。――龍麻にしても、位置が知られる事を逆に利用しようと至極単純に考えただけなのだが、敵が面白いように引っ掛かる事に驚きすら覚えていた。なまじ相手の位置を見抜くほど聴覚が鋭いのと、自らの身体能力を過信するあまり警戒心が足りないのだ。

 しかし、落ち着いて攻めれば身体能力に勝る警備員〜獣人が有利。弾を詰め替える暇を与えまいと、獣人は臭いを頼りに龍麻たつまに突っかけた。

「グッ!!」

 苦鳴が闇を破り、鈴の音がよろよろと移動して行く。獣人たちの耳には手傷を負った獲物の足音がはっきりと解った。残る獣人は一斉に飛び掛り、臭いと衣擦れの音が教える肉体の輪郭から、首と言わず腹と言わず、鉤爪で引き裂いた。熱い血潮が飛び散り、ちぎれた肉片が床を打つ中、鈴の音は断末魔の泣き声のごとく哀しげに鳴り響き――

「――待て! こいつは――!」

 引きちぎり、誇らしげに高く掲げた首には、前に迫り出した鼻と剛毛が付いていた。間違いを悟った時は既に遅く、脊椎せきついが絶望の響きを立て、内臓が絶叫を放って爆裂した。血管を廻り網膜にまで至った暗黒が視野を塞ぐ寸前、前時代的なメリケンサックと無骨なナイフを備えた若者二人が仲間達全てを打ち倒し、切り刻むのが見えた。

「――ヒイィッ!」

 二人の殺戮者から最も離れていた獣人が一人、銃も何も放り出して逃げた。【闇の刃ダークブレイド】はナイフを投擲とうてき姿勢に構えたが、獣人の身体が柱の陰に入ったためにタイミングを失う。

 龍麻たつまは肉塊と化した獣人からエンフィールドのナイフを抜き、バレルラッチを押して排莢、自動的に飛び出した薬莢カートが床に落ちる前に新たな弾丸を装填、銃身バレルを元に戻す。最後の獣人は既にドアを飛び出し、長く伸びた廊下を跳ね飛ぶようにひた走っていたが、あと十メートル〜コンマ三秒で角を曲がれるという所で、38S&W水銀弾にぼんの窪を撃ち砕かれて即死した。

「――制圧クリアー

 龍麻たつまの呟きに、珍しく満足げな響きが混じる。中折れ式ブレイクオープンという機構上、マグナム系の弾丸は使用不能だが、弾丸の再装填リロードが思った以上に早く行えるエンフィールドに感心したのだ。鈴やナイフの効能も、敵が攻撃的であればあるほど発揮される。――なるほど。この銃の持ち主は懐古趣味だけではない、相当の策士のようだ。

 血糊を床にぶちまける音が、龍麻たつまの意識を【闇の刃ダークブレイド】に向けさせる。【闇の刃ダークブレイド】こと結城ゆうき飛鳥あすかに挑んだ獣人も、その全てが首と言わず手足と言わず落とされ、絶命していた。手口としては荒っぽいが、確実だ。少々の再生力程度では失った手足を生やす事は出来まいし、とどめを刺すのは後でも良いのだ。

「――見事だ。ナイフだけでこれだけの敵を殲滅せんめつか」

 返事は期待していない。龍麻たつまげんは、感嘆から出た独り言であった。しかし、返事はあった。

「――所詮、無知と妄想の産物だ」

 龍麻たつまは少しだけ目を見開き、次いで小さく頷いた。

 潤沢じゅんたくな資金と過酷な訓練――これらは確かに強い軍隊を作る重要な要素ファクターだが、それが全てではない。何かと重要視される実戦経験にしても、装備や人員のレベルが低い相手との戦いは無価値に等しい。生と死の交錯するぎりぎりのラインで切磋琢磨せっさたくまし、せいを拾い続けた者だけが本当に強い兵士となるのだ。

 特に、この武装集団は私兵的色合いが濃い。そして懐刀としての価値を求めるならば機密保持を完璧にせねばならず、完璧な機密保持に努めれば、資金の運用、物資の流れ、演習場、実戦経験において不備が生じ、結果として強くはなれない。――故に【世界最強の秘密部隊】など、映画と漫画…空想と妄想の世界にしか存在しないのだ。――ならば、アメリカという超大国が主導で、有り余る資金と研究材料を投じ、敢えて多くの特殊部隊と交流させる事によって生まれたレッドキャップス〜龍麻たつまと、ナイフのみで互角に渡り合う【闇の刃ダークブレイド】〜結城ゆうき飛鳥あすかとは何者か?

「あの女性はお前らに任せる。だが、決して奴らの手に渡すな」

「――それが俺の【仕事】だ」

 飛鳥あすかはナイフを鞘に戻し、龍麻たつまもエンフィールドをベルトに挟んだ。――共通の敵はいても、進む道は違う。どちらからともなく背を向けた二人であったが、突然沸き起こった爆発音が二人の目を吸い付けた。

「――ぐぬうッ!!」

 絶え間ない緊張が刑事の勘を研ぎ澄ましたか、御厨みくりやは一度は乗ったエレベータから亜里沙ありさ早百合さゆりともども飛び出した。無茶な動きをしたために腰を打ってしまった彼だが、そんなものは痛い内に入らなかった。彼らが飛び出した直後、エレベータはゴーッと唸りを立てて落下していったのである。降り損ねていたら今頃ぺしゃんこだ。

「――【鉄猿アイアンモンキー】。状況を知らせろ」

 携帯電話に仕込んだ超短波通信機で、エレベータを確保している筈の【鉄猿アイアンモンキー】を呼び出す。だが、真っ先に龍麻たつまの耳を打ったのは酷いノイズであった。

『――ZAZA! 敵…増援…エレベ…奪還…勇様! 早…逃げ………!』

 途切れ途切れの単語を拾い出しただけでも状況が知れる。【闇の刃ダークブレイド】が派手に乱入したせいで、龍麻たつまの予定より早く敵の増援が到着してしまったのであった。

 だが、戦場では予定通りに事が運ぶ事など皆無と言って良い。龍麻たつまはすぐに次の行動を計算した。

「――屋上に向かう。付いて来い」

 警備員の持っていたFA―MASとヴェネリM3を拾い上げる龍麻たつま。フランス政府と企業の癒着で生まれた出来損ないのブルパップ・ライフルに、未だ作動不良ジャムを克服し切ったとは言えない慣性利用のオートマチック・ショットガン。それでも、ないよりマシだ。

「屋上って…逃げ場がなくなるぞ?」

 そんな疑問を唱えたのは御厨みくりやだけで、亜里沙ありさもラヴァもすぐに頷く。

「敵の増援は上からも来る。ヘリを奪う」

 龍麻たつまは実にあっさり言い、御厨みくりやに目を剥かせる。しかし、その直後――

「そこを離れろ!」

「――え!?」

 龍麻たつまの怒鳴り声に反応しつつ、先程打った腰がズキリと痛んでその場に硬直した御厨みくりやを、エレベータ抗から飛び出してきた人影の蹴りが直撃した。御厨みくりやは面白いように弾け飛び、床を一〇メートル以上滑る。龍麻たつまのFA―MASが吠えたが、人影はなんと、力点なき空中で身をよじり、全自動射撃フルオートで放たれる弾丸をかわして足から着地した。

 人影がにいっと笑う。凶暴な獣そのものの笑い。しかもその顔は――

「――瀬川せがわ竜一りゅういち!?」

 龍麻たつまの脳裏に、既に抹消対象であった男のプロフィールが甦る。渋谷のスナッフ・ムービー事件の関係者として。

 だが、そいつは本当に瀬川せがわであったか?

 一同をひょいと一瞥し、ふんと鼻を鳴らした瀬川せがわは、次の瞬間、姿をかき消した。

「!!」

 次に現れたのはラヴァの真横であった。振り返り様に爪を振るった彼女であったが、瀬川せがわが身を沈めると同時に足払いをかけて来たために大きく飛び退く。その身が空中にある間に含み針を――その瞬間、三メートル以上の間合いを飛んできた何かがラヴァの脇腹を直撃した。

「――ラヴァ!」

 亜里沙ありさが叫ぶ。その背後に瀬川せがわが現れ――

「ッッ!」

 ドンと突き飛ばされ、それでも受身を取って態勢を立て直した亜里沙ありさは、自分を庇った龍麻たつまの拳が空を切ったのを見て驚いた。瀬川せがわは風車のごとくトンボを切り、香港ホンコン映画ムービーのヒーローじみた無意味なポーズで身構えてニヤリと笑った。

『ゲッゲッゲ。やるじゃねえか、【闇の刃ダークブレイド】よォ』

 だらりと長い舌を伸ばし、非人間的なその笑い。――真神まがみ学園【旧校舎】で【怪物】を初めて見た時と同じ戦慄に、亜里沙ありさの肌が粟立った。

『んん〜っ!? 良く見りゃお前、あの時の雨紋うもんのダチじゃねぇか。ゲッゲ、こいつァ良い。二人まとめてリベンジしてやらァッ!』

 瀬川せがわの高笑いを五・五六ミリ高速弾が引き裂く。瀬川せがわは笑いながら横に転がり、トンボを切り、龍麻たつまの銃撃を嘲笑った。初代FA―MAS最大の欠点――ごついキャリングハンドルが邪魔して、ポイント射撃ですら狙いが今ひとつ定まらないのだ。射撃中の弾道修正も追い付かない!

 三〇連マガジンが空になった瞬間、瀬川せがわ龍麻たつまに肉迫した。

 左右からクワガタの顎のごとく挟み込んでくる鉤爪! 否、それは既に人の手ではなく、緩やかに湾曲する鎌と化していた。瀬川せがわの左腕をFA―MASのストックで、右腕を左底足ていそくで受け止め様に放つ右踵蹴り! ――【龍星脚りゅうせいきゃく】!



 ――ガチン!



「――ッッ!」

 次の瞬間、龍麻たつまは右足を軸に振り回され、宙に投げ飛ばされた。天井から下がる紗幕三枚を引きちぎり、四枚目で勢いを殺して着地したものの、右足のバランスに異常が生じている。瀬川せがわはなんと【龍星脚りゅうせいきゃく】を歯で受け止め、革靴の踵を噛み千切りつつ首の筋肉だけで龍麻たつまを投げ飛ばしたのであった。

 飛鳥あすかが突っかける。

 暴風のごとく繰り出されるナイフの連撃を、両手の鎌で捌く瀬川せがわ。獣の反射神経で操る武器そのものと化した両腕は、洗練されたナイフ術を凌駕りょうがしていた。一撃ごとに飛鳥あすかの腕には痺れが走り、瀬川せがわは獣人のパワーとスタミナで押し切りに掛かかる。そして、遂に飛鳥あすかが力負けし、彼の膝が崩れた時――

「――クッ!」

 飛鳥あすかの呻きとガキン! という金属質な音が重なる。――力負けしたと見えたのは、実際は飛鳥あすか瀬川せがわの圧力をうまく受け流した為だったのだが、がら空きになった瀬川せがわの喉を狙った一撃が二四時間以内に二度目――歯で食い止められた。

『オヒイ』(惜しい)

「――ッッ!」

 鎌に抱え込まれ、逃げ場のない飛鳥あすかの脇腹に、瀬川せがわの鎌が食い込んだ。だが同時に瀬川せがわも背中をラヴァにひと掻きされ、仰け反った弾みで飛鳥あすかを逃がしてしまう。壁際まで後退し、膝を突いた飛鳥あすかであったが、防弾スーツのチタン外板が辛うじて致命傷を防いでいた。

『クソッ…! このアマァッ…!』

 瀬川せがわの裂けた背中がみるみる黒ずんでいくのを見ながら、ラヴァはしかし緊張の消えぬ面持ちで跳び下がって身構えた。泡立つ傷口から糜爛びらんした皮膚が噴き零れ、内臓に達したであろう毒が真っ黒な血となって口から吐き出されながら、瀬川せがわの痙攣が徐々に治まっていく。一度は顔中の血管が黒く染まったというのに、それが元の色を取り戻していく様に、ラヴァは我が目を疑った。

『グフッ…グヘッ…グヘヘヘヘヘヘッ!』

 がっと黒血を吐き捨てるや、瀬川せがわはラヴァに突進して鎌を振るった。髪の毛を数条切り飛ばされながらもラヴァは身を捻って鎌をかい潜り、上段の後ろ回し蹴りを瀬川せがわ延髄えんずいに叩き込む。頚骨けいこつが砕ける確かな手応え。瀬川せがわは前のめりに倒れ――

(――なにッ!?)

 突然、引き戻されようとしたラヴァの足首を何かが掴んだ。

「クッ!!」

 掴まれた瞬間、ラヴァはそこを支点に下半身を跳ね上げ、再度瀬川せがわの延髄に蹴りをくれた。頚骨が既に折れている事を示すように瀬川せがわの頭が弾み、しかしその蹴り足さえも何かが掴む。ラヴァは逆さ吊りの体勢から鍛えた腹筋に物を言わせて上半身を振り上げ、毒爪の貫手を瀬川せがわの背中に突き入れた。しかしゴムのようなスポンジのような異様な感触と共に貫手が手首まで埋まり、そのまま抜けなくなった。

(何だ――これはッ!?)

 そんな事を気にするような彼女ではないが、女性としてはあられもない格好のまま身動きが取れなくなるラヴァ。そして逆さまになった彼女の視界に、瀬川せがわの背中に浮き上がってくる異様なものが映った。

「チッ! この野郎ォ!」

 服装に合わぬ悪罵と共に、亜里沙ありさの鞭が音の壁を破って瀬川せがわに叩き込まれた。ラヴァを捕まえていてはさすがにかわせず、腕を上げて防御する。――腕? ならばラヴァの足を掴んでいるのは!?

「――亜里沙ありさ!」

 龍麻たつまの怒鳴り声。とっさに体を低くすると、彼女の頭上を銀弾が吹っ飛んでいき、瀬川せがわの喉と肩を貫いた。みるみる広がる硝酸銀の前に、ラヴァの拘束も解け、彼女はトンボを切って後退する。――が、龍麻たつまに負けず劣らず無表情なその顔に、今は嫌悪と恐怖の一刷毛がへばり付いていた。なぜならば…

『酷い事するのぉ』

 瀬川せがわの声とは異なる、野太く間延びした声。ラヴァが初めて少女らしい仕草〜口元に手をやって吐き気を堪えた。声は、瀬川の背一面に浮き出た腫れ物が発したものだったのだ。それは瀬川せがわの背をぶくぶくと波打たせて侵食された部分を床に切り捨て、自身は膨れ上がり、更に先程ラヴァの足首を掴んだもの〜短い手も生やし、何重にもだぶついた肉の塊と化した。しかも肉のだぶつき具合が巨大な顔を形成するという醜悪さである。

 そして、その顔は――

田茂沢たもざわ以蔵いぞう…!?」

 ギリ、と歯軋りして唸ったのは飛鳥あすかである。そしてその名は龍麻たつまの記憶にも引っかかった。表沙汰になり難い外国人の密入国者や不法就労者を、自らが【臓器工場】と呼んだ解体施設に攫って来ては、使える臓器を採り尽くすまで生かしつつ保存するという、近世まれに見る凶悪犯罪を起こした男である。その自力で動くこともままならない二五〇キロに届く超肥満体と犯罪の内容から【白蛆しろうじ】とあだ名された彼は、しかし摘発直前に工場に放火して証拠隠滅、事もあろうに証拠不十分で無罪を勝ち取った。その後、世間から隔絶された別荘に引きこもっている際に、【闇の刃ダークブレイド】の襲撃を受け、死んだ筈であった。

 同時に、ラヴァは――

『また君に逢えるなんて嬉しいねェ。君の体質は凄く興味をそそられたのに、【毒皇どくおう】様に横取りされちゃって、もう諦めていたんじゃよ。でも今の君は組織を裏切った身なれば、今度こそわしのものにして良い筈じゃなァ』

「――うるさい! 死ね! 【白蛆しろうじ】!」

 ラヴァは叫び様、吹き針を放った。それをあっさりと眉間に受けながら、田茂沢たもざわ――らしきものはゲヒゲヒと笑う。毒針は腐食した肉もろとも床に雫となって落ち、凹んだ部分は新たな肉が盛り上がってたちまち傷が消える。当然、そうなる事を予期していたラヴァは、しかし普段の冷静さもなく田茂沢たもざわに襲い掛かった。

 敵が何であれ、障害は排除する。龍麻たつまも滑るように前に出た。銀弾が効かぬならば直接打撃〜徒手空拳【陽】の奥義で仕留める! 【闇の刃ダークブレイド】〜飛鳥あすかも両手のナイフを胸前にかざし、一気に間合いを詰めた。――誰からともなく、同一円周上から渦巻きのごとき同時加重攻撃を仕掛ける。

『――ゴォアアアァァ―――ッッ!!』

 肉体を支配するのは瀬川せがわなのか、首がひん曲がったまま身体ごと鎌を振って三人を迎え撃とうとする。しかしラヴァは床に身を投げ出す前回り受身で、龍麻たつま飛鳥あすかは宙に跳んで刃を回避し、三人同時に攻撃を叩き込んだ。ラヴァの爪は田茂沢たもざわの両眼に、龍麻たつまの拳は瀬川せがわの心臓の真上に、飛鳥あすかのナイフは瀬川せがわの喉にそれぞれ食い込み、その異様な手応えに三人とも総毛立った。

「――下がれッ!」

 心臓と喉元、二つの傷口から飛び出す、イカともタコとも付かぬ無数の触腕! 即座に逃げを打った龍麻たつまは間一髪でそれらを振り切ったが、その場で迎え撃った飛鳥あすかは十数本に及ぶ蝕腕を切断したものの、その隙を突かれて瀬川せがわの両腋から飛び出した【何か】に両腕を掴まれ、そのまま後頭部を石柱に叩き付けられた。そしてラヴァも貫手を抜く事ができないまま、ぶよぶよと波打つ肉に飲み込まれていく。ラヴァは身をよじりもがき、足をかけて腕を抜こうと試みたが、その足もずぶりと肉にめり込み、あまつさえ触手状に変化した田茂沢たもざわの肉に全身を絡め取られた。タールかブロブのごとき肉は柔弱でありながら驚くべき張力と粘度を備え、全身で彼女を飲み込みにかかった。

「――クッ!」

 一度は跳び下がった龍麻たつまだが、両掌に【気】を溜めて瀬川せがわの真上に跳ぶ。二人に影響が出ない位置から最大出力で【掌底しょうてい発剄はっけい】を放とうと――

「――ぐはッ!!」

 突如、龍麻たつまは何もない空中で弾き飛ばされた。

 彼ほどの者が受身も取れず、床に激突する。龍麻たつまの全身は硬直、あるいは痙攣し、彼の意思に応えなかったのだ。それでもやっと首だけを傾けて瀬川せがわを見ると、両肩口とラヴァの股座から伸びる蛇…人間の頭を持つ大蛇どもと目が合った。

「なんだと…!」

 どの顔も、龍麻たつまが知っている顔だ。しかもその内の一つは、龍麻たつま自身が三五七マグナムを撃ち込み、肉体の方も九ミリ炸裂弾でミンチにされ、確実に抹殺した男の顔であった。

芝倉しばくら…! ――相馬そうま有朋ありとも…アブドゥラ・ハッシーム!?」

 龍麻たつまの呻きを受け、五つの顔が一斉に笑った。

 これほどおぞましい物体を、果たして生物と呼ぶべきか? 瀬川せがわを中心に据えるならば、その両肩から相馬そうま有朋ありともとアブドゥラ・ハッシームの首がろくろ首のごとく伸び、背中に田茂沢たもざわの顔が張り付き、尻尾らしきものの先に芝倉しばくらの首が繋がっている。腕は正規の位置にあるものの他、背面向きに二本、上面向きに二本の計六本が存在する。そしてそれぞれ、刃状になったものと、鷲の爪状のもの、普通の人間のものと、形状による役割分担ができていた。――惨殺された筈の者たちの細胞を繋ぎ合わせて無理矢理生かしている五頭六臂ごとうろっぴの妖獣…キメラがそこにいた。

 ぐわ、と芝倉しばくらが口を開く。

「〜〜〜ッッ!」

 痺れの残る足をどやし付け、跳ね起きる龍麻たつま。彼のいた所を稲妻が打ち、火花を散らした。パワーは約三万ボルトと踏んだが、十分に驚異的だ。こんな非常識な相手に対しては、さすがの彼でもすぐに対抗策を出す訳には行かない。茫然自失の亜里沙ありさと、彼女が庇っている早百合さゆりを抱え、なす術もなく後退する。

龍麻たつま! 何なのよ、あれッ!?」

「解らん! だが――!」

 床を蹴り、身を低くして走る龍麻たつま。その直後、盾にしていた柱が顆粒状に崩れ去った。指向性の超高周波で対象物を分解する音波兵器――相馬そうまの口が放ったものであった。

「奴を倒さねば脱出できん。――早百合さゆり嬢は任せる」

「解った。気を付けてよッ!」

 亜里沙ありさをその場に残し、ぱっと飛び出す龍麻たつま芝倉しばくら相馬そうまの口が稲妻と超高周波を放ち、床や柱を破壊する中、龍麻たつまは障害物の中を駆け抜けながらパイソンを抜き撃ちした。

「――カハッ!」

「――グッ!」

 ラヴァの口元を覆っていたゲル状物質がマグナムの猛打を浴びて千切れ飛び、飛鳥あすかを貫こうとしていた刃が砕ける。瀬川せがわ、アブドゥラ、田茂沢たもざわの目も龍麻たつま一人に集中し、その瞬間に飛鳥あすかは渾身の力を振るって鷲爪を振り切った。瀬川せがわ相馬そうまの首がそちらを追い、芝倉しばくらとアブドゥラが龍麻たつまに向く。龍麻たつま芝倉しばくらを銃撃しつつ、近距離から【掌底しょうてい発剄はっけい】を打ち込もうと――

「!」

 瀬川せがわ田茂沢たもざわの接合点に打ち込まれんとした龍麻たつまの掌の前に、ラヴァの体が割り込んだ。――正確に言うならば、瀬川せがわ飛鳥あすかを追って体ごと振り返ったため、田茂沢たもざわの顔が龍麻たつまの前に来たのである。技を無理矢理寸止めした龍麻たつまは一瞬の硬直を余儀なくされ――そこに田茂沢たもざわが、だぶついた肉を投網のように広げて踊りかかってきた。

「――ウグッ!」

 龍麻たつまらしくない読み違え――と言うより、今回の相手が非常識すぎたのだ。独立した巨大なナメクジ――ルーカスの映画に出てくる異星人のような姿に変化した田茂沢たもざわは、鈍重そうな外見とは裏腹にザワザワと軟質な腹部を波打たせて龍麻たつまのスピードを凌駕りょうがし、ラヴァもろとも押し潰した。既に四〇〇キロに届く重量をまともに受け、龍麻たつまの骨格が悲鳴を上げる。

「――クッ!」

 瞬時に反撃手段を計算し、辛うじて右拳のみ自由を取り戻す龍麻たつま。しかし――ラヴァが龍麻たつまに重なるような形で押し潰されている。龍麻たつま一人ならばいざ知らず、未だコントロール不能の【巫炎ふえん】や【雪蓮掌せつれんしょう】を使えば彼女の巻き添えは必至で、彼女が死ねば断末魔の毒でこのフロアにいる者は誰一人生き残れなくなる。【双頭蛇ツインスネーク】の刺客が今まで彼女を殺せずにいたのも、正にそれが原因なのだ。

『ぐふふ。わしの身体は無限の再生力を持っておる。銃もナイフも毒もわしには効かん。どこかが傷付けば、その部分が更に強く、大きくなるだけよ。――さあ、二人仲良くわしの一部となるが良い』

 巨大な田茂沢たもざわの顔が笑み崩れ――この場合は本当に崩れて、龍麻たつまとラヴァの顔にとろとろとゲル状の肉が零れ落ちた。剥き出しの皮膚に触れた時の、極めて微細な沁みるような痛み。――かつて田茂沢たもざわ以蔵いぞうと呼ばれた男は、いまや巨大なバクテリアファージと化し、内に取り込んだ有機物をじわじわと溶かして栄養分とするのだ。龍麻たつまにしても未経験の、文字通りの絶体絶命。

『全て、わしと一つになる。悩みも苦しみもない、完全なる世界。それこそがわしの望む新世界よ』

 先に取り込まれていた分、龍麻たつまより早く皮膚を焼く痛みが増す。ラヴァはギリッと歯軋りした。















第五話閑話 闇に駆けろ 3    



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