第五話閑話 闇に駆けろ ２
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人目を避け、路地から路地へと移動する事数分、ようやく周囲の喧騒が遠のいた所で、更に捜索者の意表を突く雑居ビルの屋上に落ち着き、龍麻はこの一件を振り返った。 どうにも解せない事ばかりである。この殺し屋ラヴァは偶然あの場所に居合わせただけのようだが、特殊部隊もどきとライダースーツ…【闇の刃】なる男は始めから久保早百合をターゲットとしていた。更には令状を持たぬ刑事の介入。――この中の誰がキーを握っている事か。 「ところでさ、この人、なんなのよ？」 ラヴァがここまで付いてくるとは思わなかったので、亜里沙が口を尖らせる。――よく見れば小麦色の肌を持つ体育会系美少女――と来れば、龍麻の魅力一つで彼に付いて行く事を決めた亜里沙としては何となく面白くない。そして更に気に入らない点は―― 「――素人がプロの仕事に口を出すものではない」 「誰が素人――って、そりゃそうかも知れないけど！ アンタにそんなコト言われる筋合いはないよッ！」 確かにあの状況下、龍麻やライダースーツの男などと対等にやりあっていた女性であるから、いわゆる【プロ】なのだろうと想像は付くが、だからこそ気に入らない。自分は龍麻の【仲間】なのだ。 「落ち着け、亜里沙。――彼女の名はラヴァ。私立探偵だ。別件で失踪した女性を追っていて、あのマンションに潜入していたとの事だ」 「私立探偵？ ――あたしらとそんなに歳変わらないみたいだけど…そうなの？」 「その通りだ」 示し合わせた訳ではないが、【仲間】にあっさりと嘘を付いた龍麻に、ラヴァも口裏を合わせた。 「しかしあのような連中が出てくるのは予想外だった。――聞けばそちらも同様な事件を追っているとの事。協力して欲しい」 そういう事なら…と渋々頷く亜里沙。他でもない龍麻が言う事なので、即興の嘘をたやすく信じる。気に入らないという思いも、今は封じた。――龍麻の指揮下に入って最初に覚えた事である。 「似たような被害者は数多いだろうが、今考えるべきは、あの連中の事だ。悪党専門の殺し屋とごく普通の刑事。特に武装した連中が解らん。装備類から推して国家組織…特殊部隊の類である事は確かだが、武器の選択も中身も素人同然だ」 「そ、そうなの？」 「プロは無駄な仕事をしない。――顔を見られずに済んだのは幸いだ」 自分はともかく、亜里沙は常に遮蔽物の陰にいたので、武装集団の目には留まっていまい。それよりも問題は… 「――ところで亜里沙。先程の女性はお前の知り合いか？」 え？ と首を傾げ、御厨と共に脱出し、一人でさっさと逃げ去った人物を思い出して困惑した表情になる亜里沙。 「あの人はナミさ…小暮さんって言って、ぐれてたあたしを拾ってくれた人だよ。モデルの仕事もあの人の紹介だったんだけど…ちょっと色々あってさ…。でも、こんな所にいるなんて思いもしなかったよ」 「そうか。もう良い」 亜里沙にとっては恩人ではあるが、あまり触れたくない人物であるらしい。詳しい分析をするまでもなく、遊び人風で、享楽主義者に見えた。そしてあの武装集団と【フリーダム】が協力関係にあった以上、必ず何らかの問題が発生する。場合によっては非常手段を取らねばならぬかも知れない。 「もう一つ。亜里沙。再度確認するが、久保早百合嬢には本当におかしなところはなかったのだな？」 「な、ないよッ！ ――アタシがぐれて家にも寄り付かなかった時、世話してくれたのが早百合さんだったんだ。生活は真面目で質素だし、一生懸命貯金だってしてた。アタシが悪い道を転がり落ちなかったのは早百合さんのおかげなんだよ。悪い男に引っ掛かったとか、やばいモンに手を出したとか、そういう人じゃないんだよッ」 その後、諭されて家に戻る決心をした頃、弟の一件があったと言い、亜里沙はぐいと涙を拭った。打ちひしがれた亜里沙がもう一度早百合に会いに行った時、失踪の知らせが入ったとの事だ。 「うむ。ならば彼女が狙われる原因は失踪中の出来事にあり、全ての謎はそこに集中している。いずれにせよ、先程の一件はあの【闇の刃】とかいう男を狙った罠だった。彼は久保早百合嬢を救出しようとし、あの武装集団はそれを利用して網を張っていた。連中にとっては刑事を含めた我々全員が予定外の闖入者という訳だ」 敢えて【失踪中の出来事】とは言ったものの、あの変貌を見れば彼女が何をされたか想像に難くない。彼女は誘拐され、【獣人化現象】を引き起こす母体として何らかの改造もしくは術を施された。そして恐らく【闇の刃】の仕業により、彼女は監禁場所から逃亡し、亜里沙に助けを求めた。しかしその後、彼女を捜索していた【フリーダム】の面々に捕まり、あのマンションに連れ込まれたのだろう。 そう考えれば、それなりの辻褄が合う。武装集団の目的は早百合の回収と【闇の刃】の抹殺で、【闇の刃】の目的は早百合の救出、そして最終目的はかつて見たビデオに映っていたリボンの少女の救助だ。 スナッフ・ムービー事件を調査していたスイーパーは、獣人に絡むビデオに映っていたリボンの少女を、誘拐された女性の一人だと明言していた。単純に考えるならば【闇の刃】はその関係者という事になる。しかしあの身体能力、恐るべきナイフ捌きに、五・五六ミリＮＡＴＯ弾を完璧に防ぎ切る防弾着。――明らかに最先端の肉体強化処置を受け、最新装備の恩恵を受けているとなると、果たして何者なのか？ （いずれにせよ、手掛かりはこれだけか） 肩に担いだベルトに触れる龍麻。――非常識的なプロセスはこの際無視するとして、このベルトに搭載されたアンプルを投与すると、人が獣に変わるらしい。そこに介入している【闇の刃】が、もう一つの獣人化現象…奇怪な悪魔崇拝儀式に関わる少女の事で逆上した。――共通するキーワードは【獣人】と【誘拐された女性】。異なるようで似ている二つの事件と、共通して介入している男の存在。この糸はどこまでもつれている事か。 「このまま出歩くのは危険だ。一度セーフハウスに身を潜め、再度情報収集を図る。とりあえず新宿に戻るぞ」 そう言って龍麻は率先して歩き出し、しかしドアノブに触れる直前で立ち止まった。 「――亜里沙。中に入れ。ラヴァ、お前もだ」 「え？ なんだって！？」 また唐突に――と思った時には既に、ラヴァに押されて亜里沙はビルの中に連れ込まれていた。 「ちょっと！ 何よアンタ！」 「黙れ。――敵だ」 尾行には注意していた筈であるが、雑居ビルの屋上に凄愴の気が満ちる。龍麻はするりとドアを離れ、水道タンクを背負って周囲を走査した。ちょうどその時、雲の切れ目から差した月光が龍麻を照らし出した。 「！」 気配を一切させず逆落としに降って来る鉤爪をかわせたのは、骨の髄にまで染み付いた戦闘本能の賜物であった。左右後方どこに逃げてもかわせぬ凶爪に、逆に向かっていく事で切っ先を回避したのである。 襲撃の失敗を悟った小柄な影は大きく跳び離れ、しかし跳ね返るように跳躍する。振り返ったばかりの龍麻に向けて空中連続蹴り！ このタイミングでは受けるもかわすも不可能―― 「――ッ！」 絶対の自信を持って放った蹴りがあっさりと空を切った。――龍麻が、何をしても間に合わぬと見抜き、だからこそ全身を脱力してその場に崩れ落ちた為であった。 生死の交錯する一瞬に脱力する――真に死線を潜り抜けた者だけが知る活路だ。さすがに幻惑された影に向けてランダルを突き出す龍麻。――が、影は垂直に跳ね、なんとランダルの銃身に、羽毛ほどの重さも感じさせず爪先立ちになった。その位置からがら空きの顔面に鉤爪を飛ばし――しかし眉間に突き付けられたソードオフの銃口に動きを止めた。 「…俺は【九頭竜】と敵対した覚えはないぞ。――【鉄猿】」 「私の名をご存知か。…いや、あなた様は総帥を知る御方。お見事でございます、緋勇龍麻様」 鉄の爪を収納し、ふわっと地上に降り立つ小柄な影。光を吸い込む漆黒の功夫着に猿の面――龍麻が【九頭竜】総帥李飛鴻と初会見した時、龍麻の腕試しをした【行者門】の使い手である。彼は面を外し、しわだらけの顔とざんばらな白髪を露にすると、両袖を揃えて恭しく礼をした。 「…用向きを聞かせてもらおう」 一連の攻撃に殺意がない事を見抜いた龍麻も軽く敬礼を返す。ただし――裏の住人がわざわざ姿を現したのだ。最低限の警戒は怠らない。 「――あなた様の目的は存じ上げております」 【鉄猿】は重々しく切り出した。 「その上で申し上げます。――【毒揚羽】を我が手に引き渡し、あなた様はもう手をお引きなされい。獣人の跳梁を阻止し、久保早百合なる御仁を保護するべく【九頭竜】が動いておりますれば、必ずやかの御仁を無事に救い申し上げ、家に帰れるように取り計らいましょうぞ」 ――そういう繋がりか。龍麻は一人納得する。 たかが大学の犯罪サークルにまで姿を現している獣人の事を、【九頭竜】が知らぬ筈がない。まして獣人を生み出す薬品が出回っているとなると、アンダーグラウンドの住人は黙っていられないだろう。しかも名指しで、久保早百合の救助依頼がなされたようだ。しかし―― 「…それは拒否する」 すう、と【鉄猿】の顔から表情が消える。その袖口から鉄の爪が飛び出すのはどのタイミングか？ 「【九頭竜】の、そして貴殿の仕事は解った。俺などより確実に久保早百合嬢を保護できるだろう。しかし先程の一件から推測するに、背後に潜む組織は強大で凶悪。救助が叶っても、早百合嬢が元の生活に戻れる保証はない。我々自身も、救助を求められた際の着信記録から、身元を割り出されている可能性が高い。――退くには遅すぎる」 【鉄猿】は静かに龍麻を見つめた。 これも一種の戦いであったろう。龍麻の目元を見る事はできないが、視線は確かに噛み合っている。【暗殺】を生業とする【侠】の組織である【九頭竜】が、【仕事】の障害となりうる外部の人間をどう扱うかは、裏の人間たちならば子供でも解る。ましてここには総帥の命を狙った殺手までいるのだ。 「――確かにその通りですな。久保早百合嬢の救出は我らの【仕事】なれど、その後の事は依頼なくして我らには関わりなき事。――禍根は断っておかねばなりますまい」 少し間を置き、【鉄猿】はそんな事を言った。しかし表情を改め、 「ただし、そこの女は我が総帥の命を狙いし殺手。こればかりは譲れませぬ。緋勇様、どうかその女をお引渡し下され」 もし龍麻が【否】と言うならば、【鉄猿】は総帥の知り合いたる龍麻にも容赦しないであろう。【九頭竜】の結束は李飛鴻が総帥となって以来、かつてないほどに強まっているのだ。 「…俺の仲間が人質に取られている」 「…！」 「解毒剤と引き換えに、俺は【毒揚羽】を七二時間ガードする。それが俺の契約だ」 音もなく伸びる鉤爪。龍麻が敵対する立場を選んだ以上、【鉄猿】に迷いは―― 「それに、彼女は使える」 龍麻が言葉を継ぎ、鉤爪がピクリと跳ねる。 「切り傷一つで獣人を瀕死に追い込んだ。あの技能は役に立つ。――獣人対策には【九頭竜】も難儀していると見たが？」 「…それは、あなた様の関知するところではありませぬ」 「では、総帥に話を通してもらおう」 今度こそ、【鉄猿】の表情が変わった。――確かに総帥自ら出向いて挨拶を交わした間柄ではあるが、【鉄猿】にとって龍麻はあくまで一民間人であり、しかも非合法な裏の顔を持っている者が李と会見するなど、あってはならぬ事なのである。 「ただとは言わぬ。奴らの最新兵装が売り物だ」 龍麻は安生から奪ったベルトを軽く掲げた。バックルの脇にあるスイッチを押すと、付属のケースから青い輝きを放つ液体を詰めたアンプルが迫り出してくる。〜あの獣人化現象を引き起こす薬品のアンプルだ。 「獣人への変貌プロセスは謎だ。しかしこの薬品を解析すればその一端も見えてこよう。貴殿ほどの者が派遣されたのも、実力的に後進の殺手たちを守るための李殿の計らいならば、七二時間は妥当な線だ」 【鉄猿】は沈黙し、探るような目を龍麻に向けた。 【仲間】の為ならば【九頭竜】との敵対も厭わないが、この場で争っても双方共に益はない。ただしラヴァとの契約は七二時間なので、アンプルと引き換えに七二時間だけ手を出すなと龍麻は言っているのである。それさえ過ぎれば――後は知った事ではないとも。 「…解りました」 ずいぶんと時間をかけ、【鉄猿】は頷いた。――それだけで【九頭竜】の切迫ぶりが窺える。彼らの請け負う【仕事】は、派遣された殺手が己の判断で処理するのが基本だ。殺手の中でも屈指の使い手である【鉄猿】が上の判断を仰ぐという事は、【九頭竜】は組織ぐるみで獣人対策に乗り出しているという事になる。 「…あの現象に関わる薬があるならば、それを解析する事こそ急務。――この場は私の独断で【毒揚羽】めは見逃しましょう。しかし【それ】は今、渡していただきたい」 【鉄猿】がしわ深い手を差し出すと、龍麻は躊躇なくアンプルをベルトごと彼の手に乗せた。 「――やはり、変わっていなさる。私が約束を反故にしないという保証がありますかな？」 「貴殿ならば信用できる。――伊達に長生きはしていまい」 実にあっさりと龍麻は言いきり、【鉄猿】の細い目を少しだけ見開かせた。 裏の世界の住人には、基本的に誇りも尊厳もない。したがって、約束を交わした一瞬後に裏切られても、それは騙された奴が悪いのであって、一笑に伏されるのが落ちである。 だが、アンダーグラウンドを生き抜いて来た者は、生き抜いた分だけ、信用が付いてまわる。本人にその気があろうがなかろうが、その生き様が信用と、保険となるのだ。誰も信じないと言う孤高のヒーロー気取りや、世の中を斜めに構えて見るのが格好良いと思っているひねくれ者は、真に生き延びる事は出来ない。やはり最後に長生きできるのは、他人を信頼し、信頼される人間なのである。 「…参りましたな。私の五分の一も生きていない若者が、これほどとは」 【鉄猿】はアンプルを懐に収め、重々しい口調で言った。 「歌舞伎町の裏通りに【紅王華】という料理屋がございます。そこで海老炒飯を注文し、【エビは四つ】と申し出れば、私に話が通ります。――あなた様が来るまでに総帥のお言葉をいただいておきましょう」 「【紅王華】だな？ …王華か。馴染みのある名だ」 最後の一言は独り言であったが、そこで【鉄猿】は意外な事を言った。 「あなた様の行き付けである【王華】は、私の弟子が経営しております」 「――ッ！？」 初めて【鉄猿】が裏表のない、好々爺の笑みをこぼした。 「料理の腕は良いのですが、商才は今一つですかな？ 弟子に代わりまして、毎度ごひいきに。――それでは失礼いたします」 さすがに呆然とする龍麻を尻目に、【鉄猿】はビルのフェンスにふわっと飛び乗り、そのまま夜の街へとダイブしていった。――なるほど、【獣人】が関わる事件に差し向けられるだけの事はある。彼の軽功術ならば、【獣人】の身体能力にも対抗できるという訳だ。 「…今の男は、【九頭竜】の殺手だな」 先にドアを抜けてきたのはラヴァである。素人扱いの亜里沙はまだビルの中だ。 「運が良かったな。彼が別件を抱えていなければ、この場で戦いになるところだった」 「しかし、退けた」 ラヴァは簡潔に、しかし幾ばくかの感嘆を口調に込めた。 「直接的な繋がりはないとの事だが…大物なのだな、レッドキャップス・ナンバーナイン」 つい、と龍麻の顔がラヴァの方を向いた。 「……ッ！」 あるかなきかの風で、龍麻の長い前髪がふわりと揺れる。その奥に光る真紅の光点に射抜かれ、ラヴァの頬に一筋の汗が伝い落ちた。 「俺を番号で呼ぶな。――次は殺す」 「…自分の立場が解っているのか？ たかが番号で呼ばれたくらいで…ッッ！」 ふわ、とラヴァの面頬を、灼け付く程に冷たい殺気が炙った。 「その番号は、【我々】が人間である事を否定する。――人としての名すら持たぬ者がいたとて、何人たりとも【我々】を番号では呼ばせん。【我々】は人間だ」 「…覚えておこう」 凄まじい殺気の照射に、ラヴァは総毛立つ己の身体を抱き締めて頷いた。――【毒師】の称号を与えられていない新人ながら、その力量は【双頭蛇】において十本の指に入ると言われた彼女が、たった一人の少年の殺気に完全に気圧されている。ラヴァの目には龍麻が見上げるほどの巨人に映っていた。 だからこそラヴァは、龍麻が目の前に迫っていた事に気付くのが遅れた。 「――ッッ！」 人質を取っている――それは必ずしも彼女に有利を約束していなかった。完璧なタイミングで放たれた【掌打】が顔面を捉える――直前で止められ、ラヴァはその風圧に視界を塞がれた瞬間、喉に何かが巻き付くのを感じた。 「――クッ！」 素早く身を引くラヴァであったが、その首で小さな電子音が鳴る。――何かがロックされた！？ 「触るな。爆発するぞ」 その一言がラヴァを硬直させる。龍麻は腕時計を示し、続けた。 「お前が毒薬の専門家ならば、俺は爆薬の専門家だ。指令爆破のみならず、俺から百メートル以上離れても爆発する。無論、外そうとしても爆発する。俺の命令を聞かない部下を仕込む為の道具だが、Ｂコンポ二〇グラムにナパームジェリーを混合した俺の自信作だ。十秒で骨まで焼けるが、それでも毒を生成できるか？」 「お前…自分のやっている事が解っているのか？ 私を殺せばあの娘が…」 「自分の為に俺がお前の言いなりになっていると知れば、彼女は俺が止めようとも死を選ぶ。――お前との取引は元より成立するものではなかった」 「ぐ…！」 あの素人の娘が？ ラヴァは疑いの目を龍麻に向けたが、彼の無表情からは何も読み取れない。つまり、信じるも信じないもラヴァの意思一つ――本当という事だ。 「だが、条件次第では取引に応じよう。――俺に手を貸せ」 「なに？」 「俺の目的は先程の女性の救助だ。奴らにはマグナムより、お前の技能が有効だ」 「……」 「危険は伴うが、悪い話ではあるまい。お前が示した条件は果たす。【九頭竜】との交渉、【双頭蛇】の殺手の始末、別途報酬を米ドルで三万ドル付けよう」 悪い話ではない…どころではない。命を握られた者に示すには破格の条件である。しかしうますぎる話には裏があると、ラヴァはますます疑惑の視線を強めた。 「…俺は優秀な技能を買い叩きはせん。そしてお前には、保険がまだ残っている」 保険とは亜里沙の事だ。――亜里沙が死を賭す覚悟を持っていようとも、龍麻にそれを容認する気はなく、したがって亜里沙はラヴァにとって有効な切り札だ。それをいかように使うかはラヴァ次第だと龍麻は言っているのである。 「………解った」 一分近く熟考してから、ラヴァは頷いた。 元々、他に選択肢のない身だ。いかに売り出し中であったとは言え、組織のバックアップなしでアンダーグラウンドを生き抜くには未熟なのである。そして――この男は信用するに足りると感じられる。爆弾を盾に解毒を迫る事もできたのに、彼はそうしなかったのだ。 「――ちょっと、二人だけで何の話をしてるのさッ！」 【敵】とやらはいなくなったらしいのに、自分達だけで話している二人に、亜里沙が噛みつかんばかりの勢いで飛び出してくる。 「今のは、久保早百合嬢を救出に来た者だ」 「――え！？」 唐突にそんな事を言われ、怒気が空回りする亜里沙。 「この街には様々な人間が住む。彼はとある組織の一員だが、どうやら誰かが早百合嬢の救出を依頼したようだ。――もはや俺の出番はないかも知れん」 「ええっ！？ で、でも、誰が…？ 早百合さんはこっちにはあまり知り合いがいないって…」 だからこそ、助けを求められてから即座に行動を起こしたのだ。以前はどうすればいいかも解らず、警察もマスコミも宛てにならなかったが、今ならば龍麻がいるから何とかできると思って。 「…人と人との関わりは、時として恐ろしく複雑だ。本人が知らずとも、アンダーグラウンドに関わりを持つ者が友人にいたのかも知れん」 「……」 そんな人はいない――と言いかけ、亜里沙は口をつぐんだ。今の自分こそ、正に【それ】であったからだ。 「案ずるな。この一件を放り出すつもりはない。ただし――お前は後方支援だ」 「ええっ！？ な、なによそれ！」 後方支援――この場合は待機していろという意味だ。思わず激昂し、龍麻に食って掛かる亜里沙。しかし龍麻はびくともしなかった。 「この一件はただの誘拐事件ではない。強大な権力を背景にした、かなり大掛かりな組織犯罪だ。いくらお前が【力】を持つとは言え、銃弾には対抗できまい。あの【闇の刃】という男相手では、俺でもこのザマだ」 コートをつまんで広げる龍麻。――ＮＡＴＯ規格で言うならばクラス�競譽戰襪寮�能を持つ、ケプラー・アラミド繊維四重編み込みのコートが一撃で切り裂かれ、その下に覗く素肌には細い朱線が走っている。身を捻るのがあとコンマ二秒ほど遅れていたら、内臓まで裂かれていただろう。 「刃物の切り口ではない。恐らくレーザーか超音波メス。――彼の土俵に引き込まれたら俺でも殺される」 口調こそ変えぬものの、龍麻はそれを戦慄と共に理解していた。あの場にラヴァがいなければ、果たして相討ちに持ち込む事さえできたかどうか。パワー、スピード、戦術――能力的には互角でありながら、龍麻が理解し得ぬプラスアルファの要素が【闇の刃】に龍麻以上の戦闘力を与えている。むしろ彼の実力が本物で、目的を見失わない冷徹な人間であった事が、逆に龍麻を救ったとも言える。 「幸い、あの男は俺との正面対決を避けたが、あの武装集団は俺達を【闇の刃】の仲間と思っている。既に奴らは俺達をも抹殺のターゲットとしただろう。そしてお前は先程、俺の命令を二度に渡って無視した」 「そ、それは…ごめんなさい…」 【それ】を指摘された途端、言い訳よりも先に身体が震え出す亜里沙。龍麻に守られていたからこそ感じなかった恐怖が、今更のように襲い掛かってきたのである。そして、自分が足手纏いにしかならなかったと。 ――あたしは無力だ。この男が守ってくれたからここに立っているけど、そうでなければ今頃… いきなり、震える肩に手が置かれた。――龍麻の手である。 「亜里沙。嵯峨野の一件の後、俺が言った事を覚えているか？」 「え？」 それは…忘れもしない。亜里沙にとって、これからの人生の指標だ。 ――罪を償いたいのであれば、命を捨てるような真似はするな 他でもない龍麻にこれを言われて、どれほど救われた事か。――凄絶な体験に裏打ちされた男の人生訓だ。彼は殺しの痛みを知るが故に殺しを嫌い、争いの苦しみを知るが故に争いを嫌い、裏切りの悲惨さを知るが故に人を信じる大切さを知っている。その上で敢えて戦いに身を投じるのは、そこにこそ彼の存在意義があるのと、闘う【力】を有しながら目の前の争いから目を背けるのを由としないためだ。だが、争いの当事者達を不必要に責める事はない。 「覚えているならば良い。だが――もっと肩の力を抜け。自ら傷付かずとも、手に付いた血は洗い流せる」 「――ッ！」 頭ごなしに叱り付けるのではなく、慈悲深い父親のような静かな叱責が心に染みる。――前向きに生きる事を誓いながら、自分でも気付かぬところにまだ自虐的な自責の念を残していた事を気付かされたのだ。それは早百合を助けたい一心に便乗し、結果的に亜里沙は龍麻の邪魔をしてしまったのである。 「最優先事項は、生き残る事だ」 龍麻は続けた。 「自らを犠牲にして助けた誰かは、人の犠牲の上に成り立つ自分の命を悔いる。人間とは本来、そういう生き物だ。昨今の人間はその様な誠実さを忘れつつあるようだが、お前の友人は違うのだろう？ ならば、共に生き残る最良の道を勝ち取るべく努力しろ。その為に、俺も協力を惜しまない。――厄介な連中は俺に任せて、お前は早百合嬢を救う事に全力を尽くせ。早百合嬢は肉体以上に心の救済を必要としている。他人の痛みを思いやれるお前ならば、彼女の力になれる」 「龍麻…」 殊更に口調を強める訳ではないのだが、龍麻の言葉はいつも胸の奥まで暖かく響く。これがあるからこそ、亜里沙も龍麻の言う事だけは素直に聞く事が出来る。この男に【仲間】と呼ばれる事が誇らしい亜里沙であった。 「まずはセーフハウスに行く。俺は街に出るが、お前はそこで彼女と共に情報処理にあたれ」 一瞬、亜里沙もラヴァも嫌そうな顔をしたが、二人ともすぐに表情を打ち消した。 「龍麻…一人で大丈夫なのかい？」 「案ずるな。必要としているのは情報であって、あの連中と戦う事ではない。充分な情報と装備を整えた上で一気に殲滅し、早百合嬢を救出する」 あの武装集団…【闇の刃】が【シグマ】と呼んでいた組織は規模こそ大きかろうが、現場の人間があのレベルでは人材に恵まれてはいまい。権力に酔い、あるいは胡座をかく連中などそんなものだ。常に自分中心でしか物事を考えられないため、自分の思い描く結果以外の事態には対処できず、すぐ保身に走る。そして仲間内でさえ貸し借りと損得でしか人間関係を樹立できず、信頼関係は非常に薄い。そういう連中の相手を幾度となくこなしてきた龍麻は、実行部隊が情報収集班と連携を図る事はまずないと、自分の勘に確信すら持っていた。 「この一件は今夜中にケリを付ける。その後の根回しなども俺に任せておけ」 「…うん、了解」 先程生命の危険に晒されながら、それを忘れるほどに信頼感溢れる龍麻の言葉に、亜里沙は眩しいような想いを覚えつつ敬礼した。 二一五〇時、新宿区、警視庁新宿署、署長室。 「…謹慎ですか」 それはまた随分寛大な事で、と、御厨刑事は大きなデスクに両肘を付いている男を見ながら思った。 目の前にいるのは新宿署の署長だ。長年の気苦労の成果か頭には白い領域が多いが、五十年配の厳つい顔には威厳も貫禄も見事に備わり、若手を圧する雰囲気を放っている。今日も雑務に追われて徹夜確定だろうに、眼光には疲れや諦観は一切ない。職務に忠実で仕事熱心な、理想の警察官がそこにいた。 「…解っているとは思うが、最近の君の行動は目に余る。私は公安との合同捜査に協力しろとは言ったが、生活安全課の縄張りを侵した上、ガス爆発まで引き起こせなどとは言っていない」 「ガス爆発ですか。――現場にいた私の報告とこの銃創の理由を聞く前に、敢えてそうおっしゃるのですか？」 かのマンションを脱出した御厨は、肩の治療もそこそこに部長に呼び出され、一連の出来事を口頭で報告している最中に署長の呼び出しを受けたのである。どんな優秀な刑事が現場に行ったとしても、これほど短時間で御厨以上の情報を得られる筈がない。 「――御厨君、君のこれまでの功績は高く評価している。だが、今回の独断専行はもはや警察という組織そのものの足並みを崩す行為だ。――同期の桜と言えど、私は新宿署長として君に謹慎を命じる」 「…了解しました」 本来、縦割り構造の警察では、部下の失態は常に直接上司を介して処分が言い渡される。それを無視して一足飛びに署長に話が行った時には今度こそクビかと思ったのだが、どうやらもう少し飼い殺しにするつもりらしいと御厨は思った。――署長が、ではない。署長を顎で使う連中が、だ。 署長が口にした【同期の桜】。それは本当の事だ。御厨は現場に留まる事を選択し、彼は上を目指した。そして進む道は違ったとは言え、志は同じであった。 ――警察は市民を守るもの 警察内部で妙な動きがある事に気付いて以来、御厨は身辺に気を配っている。机と椅子に仕掛けられていた盗聴機には気付いたが、そのまま何食わぬ顔で日々を過ごしている。――署長も口ではああ言いながら、御厨には目で伝えていた。【気を付けろ】と。この謹慎処分は、署長なりの心遣いであるのだ。 （もう少し…決定的な証拠でもありゃ良いんだがな） どこの誰が糸を引いているのか解らなければ、対処のしようもない。実際、御厨は何かと事件から遠ざけられているのに、未だにクビにされる気配がなかった。御厨がフリーになった時の危険性を憂慮しているのか、それとも歯牙にも掛けていないのか、それすら解らない状態である。 （さしあたってはあの坊主か） あのナイフ使いこそが、一連の連続殺人事件の犯人であろう。しかし解ったのは【闇の刃】というふざけた通り名だけで、どこの誰なのか見当も付かない。しかしもう一人、あの場に居合わせたウッズマンの少年。見た目はともかく、彼もまたプロの雰囲気を纏っていた。あの少年を逮捕できれば、どの線から【闇の刃】に辿り着いたのか明らかにする事も出来よう。 謹慎中とは言え、署内を動くのは自由だ。御厨は生活安全課や少年課を廻って資料をかき集め――る必要はなかった。誰もが薄々、街の裏側で話題になっている少年の事を知っていたのである。 特に鑑識からは興味深い話を聞く事が出来た。 「――プロの手口ですよ」 今時珍しい、コルト・ウッズマンの線から当たってみると、これが見事に的を射た。日本の組織特有の秘密主義が邪魔していたのだが、第四課、通称マル暴の方に、二二口径弾による殺人が数多く発生しているというのだ。しかもその死体と来たら揃いも揃って身元不明、裏ではそれなりに名の通った殺し屋であるという。その検分に当たった鑑識は興奮気味に語った。 「被害者は大抵、脳か心臓を撃ち抜かれています。共に骨の薄い部分や肋骨の隙間を貫くように、必ず二発づつ撃ち込まれているんですよ。最初の一発でまず即死は免れませんが、この射手は必殺を期してますね。しかも線条痕から推して、極めて短銃身のピストルから発射されているとなれば、これはもうとんでもない腕前ですよ」 線条痕とは、言わば銃の指紋である。一部の散弾銃を除き、銃には銃身内に弾丸を回転させ弾道を安定させる仕組み…ライフリングを刻まれている。これが弾丸に微細な引っ掻き傷を付け、銃の特定に一役買うのである。 「色々と検証した結果、銃身二インチの二二口径自動拳銃。これで最大射程二五メートルの標的をヒットできるようです。――今まで噂にも聞いた事がありませんね。こんな腕の持ち主は」 つまり、とてつもない腕の持ち主でありながら、新参者でもあるという事だ。それを知って御厨は内心ほくそえんだ。その少年を押さえればいくつもの事件が解決できると同時に、アンダーグラウンドの動きも知る事が出来る。それほどの腕前をアンダーグラウンドが放っておく筈がないからだ。 ――と、勇んでウッズマンの少年の素性を調べ、様々な記録やあの特徴的なスタイルから【緋勇龍麻】という名を導き出した時、【それ】が来た。 ――緋勇龍麻に関わる全ての調査を即刻停止し、資料は全て破棄せよ 上等な和紙に墨文字でしたためられた【それ】は、御厨自身が全く気付かぬまま、彼が着た切り雀にしている背広のポケットに忍び入っていたのである。 さすがの御厨もこれには顔色をなくした。彼も警察の一員として、その意味を知らぬではなかったのだ。警察のみか、政界や財界の裏で、常に冷たい目を光らせ、牙を磨いている獣。その瞬間までは、都市伝説の一つとさえ思っていた組織。――【それ】は警告であった。――命が惜しければ、彼に関わるな。彼に近付くな。忘れるならば、今まで通り生きられる―― 刑事としての職務を取るか、個人として命を惜しむか、御厨は二者択一を迫られたのである。このまま職務を優先させるには大量の幸運と命のスペアが必要で、退いてしまえば刑事としての誇りが死ぬ。文字通り、御厨はそこで手詰まりになってしまったのである。 「――あの、刑事さん？」 背後からそんな声が掛けられたのは、少し頭を冷やそうと、行き付けのコンビニに向かう途上の事であった。それが神の配慮か悪魔の誘惑か、この時の御厨に判断が付こう筈もなかった。 闇が一層の深みを増し、風俗店の早番と遅番の入れ替わりが行われる二二〇〇時、龍麻の携帯電話が振動した。 「――龍麻だ」 『――向かいのビルにいる』 それだけを告げ、電話は一方的に切れた。 龍麻は表情一つ変えず携帯電話をポケットに放り込み、道路を横断して、今は改装中の為立ち入り禁止になっているオフィスビルへと入り込んだ。 屋上まで吹き抜けになっているホールの中央まで進んだ龍麻であったが、待ち人はいなかった。そこに並んでいるのは、何やら舌を噛みそうな名の芸術家がものした彫刻だけである。タイトルは【終末】。大きな砂時計の中にビルや車、航空機などがごちゃ混ぜになって詰まっているオブジェだ。文明社会の終わりは近いという暗示らしい。 「…理解できんな。砂以外の物を入れた時点で、砂時計ではあるまい」 そう呟いた直後、龍麻は左裏拳を放った。 「――シッ！」 「――ムンッ！」 オブジェの陰から吹っ飛んできた蹴りと龍麻の裏拳が噛み合い、ギン！ と厚い鉄板をハンマーで殴ったかのような音が響く。――【気】の激突音だ。互いに一メートルづつ弾け飛び、そこで緊張を解く。 「まだ息が洩れる。――手間を掛けるな、紅葉」 「まったくだ。君の持ち込む話はいつも重大事だ」 古武道において龍麻の兄弟子に当たる壬生紅葉は、例によって音も立てず、空気も揺らさずに姿を現した。――不意打ちを仕掛けた事を詫びるつもりもないようだ。そして珍しく龍麻も、別の事に目を向けた。 「…良い靴だな。狙われないか？」 壬生は革靴でも足音を立てない。だが、今日は近未来的なデザインのスニーカーを履いている。靴底にエア・クッションを入れる事で接地衝撃を緩和し、跳躍力を増幅する事に成功したバスケット・シューズだ。この靴はたちまち大ヒット商品となり、市井の靴屋は勿論、大手のデパートに至るまで品薄の状態が続いている。人によってはわざわざアメリカまで買いに行くという入れ込みようだ。ただし、その大ヒットが【狩り】と称する犯罪を誘発し、深刻な社会問題となっている。――この日本で履物の盗難が流行ったのは大戦末期と戦後間もない頃だけだったというのに。 サングラスを外し、壬生は苦笑する。――彼には珍しい事だ。 「――しょっちゅうさ」 「殺してはいまいな？」 「僕が手を下す程の連中じゃない。――そうした方が良い連中ばかりだけど」 「同感だ。――よく手に入れたな」 「館長に頂いた。この【ニケの靴】は審判の神の加護が付いている。跳躍力、打撃力、グリップ力共に確実にアップしている」 「……ニケ？」 「ああ。それがなにか？」 「……」 「……」 「……【ナイキ】ではないのか？」 「……」 「……」 「……【ニケの靴】だ」 「……」 「……」 「……エア・マックス。九八年、マイケル・ジョーダン・プレミアムモデル」 「……」 「……どう見ても【ＮＩＫＥ】だが？」 「……」 「……」 「……それで、頼まれていた件だが」 「…聞かせてもらおう」 共に無表情だが、壬生の声が一オクターブほど低くなったのを悟った龍麻は身の危険を感じて話題の切り替えに乗った。 「君から受け取ったアンプルは何かのウイルスが混入された麻薬と、強力な栄養剤との事だが、解析にはもう少し時間がかかる。――まず刑事だが、名は御厨。階級は巡査長。新宿署に勤務している、ごく平凡な刑事だ。彼に関してはこちらで対処しておいたから、この程度で良いだろう」 壬生は鞄からファイルを取り出し、龍麻に差し出した。一ページ目には、あのリボンの少女の写真が龍麻の描いた似顔絵と共に貼ってある。身分証明書の写真なので笑顔ではないが、はっとするほどの存在感は健在だ。 「その少女の名は長瀬瑞穂。ＸＸ学園二年〜便宜上三年生扱い。昨年一二月二七日にＸＸ学園主催のスキー教室に赴き、その途上で同級生二十数名と共にバスごと行方不明になった。以来長らく消息が途絶えていたが、ようやく出た証拠が――」 「――スナッフ・ムービー事件」 「その通り。そして、先日解放された被害者の中に長瀬瑞穂はいなかったものの、生存の可能性は高いと思われる」 「…？」 「順を追って話そう。君の情報を基に長瀬瑞穂と田嶋保良の接点を調査した所、ＸＸ高校にスキー教室の企画提供を行った者が、田嶋保良が代表を務めるＷ大イベントサークル【フリーダム】の広報担当であると判明した。そしてほぼ同時期、大量誘拐の発生したイベント等の企画を提供した者は、何らかの形で必ず【フリーダム】に関わっている事が明らかになった」 龍麻の口元が僅かに歪む。――極めて非道な事件の尖兵を務めているのが、日本有数の大学に通う大学生とは…。 「君が先日片付けた瀬川竜一もその一員だ。もっとも彼はあの後拳武の手から奪われ、再起不能にされたけどね。その時残されていた署名が【闇の刃】だ」 「拳武が標的を奪われただと？」 ここで、壬生は口ごもった。――珍しく、口元が引き攣っている。嫌悪の表情だ。 「これは聞いたら忘れてくれ。――その件に関して拳武館の内務調査を行ったところ、【フリーダム】に対して潜入捜査を行っていた者が何人か懐柔されていた事が判明した。彼らが瀬川を逃がそうとし、その途上で【闇の刃】に襲われたとの事だ。――嘆かわしい限りだ。たかが集団強姦サークル如きに拳武の者が篭絡されていたとはね」 「禁欲的な体質が仇となったか。――続きを」 「うむ。彼らを追及したところ、最初に【フリーダム】を通して招かれたサバトに参加したのが二ヶ月前、その後も定期的にサバトに参加していた事が判明した。その時の模様はスパイ・カメラで撮影されていたため、彼らの所持品から映像を押収し、画像解析を行ったところ、長瀬瑞穂、久保早百合を含む七名の誘拐被害者が確認できた。そして都合三回に渡り同じ顔ぶれが揃い、次回の予定も立っているという供述から、彼女達の生存はほぼ確実と見る」 「…危険だな。彼女と関係を持ったという事は、そいつらも獣人になる可能性がある」 再び口を閉ざす壬生。少し考え込んでから、彼は苦いものを吐き出すように言った。 「…確かに、早急に対処すべき深刻な問題だよ。もっとも、ビデオに出ていた六名の内五名は三日前、独房で自ら頚骨をへし折って自決しているけどね」 「……」 「残るは一名だけど、正体不明だ。極秘で画像解析のデータと全校生徒の体格を付き合わせてみたが、合致する者はいなかった」 「…教師や、他の職員は調べたのか？」 「――！？」 「この事件の黒幕は、あらゆる階層に仲間〜配下を作る事を目的にしている。疑わしい者を調べるのではなく、関係者全てを調べろ。拳武の結束はその程度では揺らぐまい。――当然、チャンスは解っているな？」 「ああ。――今夜だ」 龍麻の表情が変わる。 「君からの情報で事態が一気に加速したんだ。十時間ほど前、瀬川竜一が入院先で再び何者かに襲撃され、その際に行方不明になった見舞い客こそ、サバトの参加者の一人であり、今君が捜している久保早百合だ。その筋からの情報で、今夜がサバトの開催日だと判明した」 「……！」 もつれていた糸が、これで大分ほぐれた。 大量誘拐事件に始まるスナッフ・ムービー事件、果ては社会的有力者を獣人に変えるという計画には、田嶋保良率いるＷ大サークル【フリーダム】が関わっていた。獣人を生み出すプロセスには若い女性が必要不可欠であり、イベントサークルを主催する大学生という立場は、各地の女性達を物色し、大量誘拐を行う実働班として最適であったに違いない。そのターゲットにされた女性の内、獣人製造の条件に合致した者は影に潜む組織の手に長く留め置かれ、それ以外の女性達はスナッフ・ムービーや人身売買の犠牲になったのだ。 【闇の刃】もその事に気付いたのだろう。今まではビデオに映っていた獣人候補を惨殺するに留まっていたが、獣人製造のプロセスを知り、組織と深い関わりがある上、親が社会的有力者でもある瀬川竜一を襲った。身体機能を徹底的に破壊された瀬川を救う手段があるとすれば、それは完全な獣人化に他ならず、その為に長瀬瑞穂か、彼女と同等の能力を持つ女性が派遣される事を見越して、病院で網を張っていたのだ。 その狙いは半分ほど的中し、彼は再び瀬川を襲撃した。派遣されてきた女性こそ長瀬瑞穂ではなかったが、脱走させた久保早百合をマークしていれば、いずれ彼女に辿り着く。そのため彼は久保早百合が連れ込まれた田嶋のマンションをも襲撃したのだ。――武装集団の介入すら、予定通りだった筈である。手違いは龍麻らの乱入であった。 だが、【闇の刃】自身は何者なのか？ その意を悟ったか、壬生は二枚の写真を龍麻に示した。盲人用の黒メガネを掛けている少年は初見だが、もう一枚はあの【闇の刃】だ。目鼻立ちがくっきりと整った、それでいて人の良さがうかが窺えるお坊ちゃん系ハンサム。印象通りの性格ならばさぞ人気があるだろう。しかし… 「君の描いた似顔絵と情報を元にピックアップした人物と、その関係者だ。名は結城飛鳥。黒眼鏡は速水一輝という。共にＸＸ高校の生徒で、長瀬瑞穂とは同級生。結城飛鳥に関しては、長瀬瑞穂の親も認める有名な恋仲だったらしい」 「…情報の確度は？」 「レベル五。――敢えて言うが、完璧だ。学業スポーツ共に平均値。結城飛鳥はフィッシングクラブに、もう一人の速水一輝は盲目ながらチェス同好会に所属している。両親は共に海外出張中で、二人とも寮生活者。寮長のゴミ出しを手伝う好青年で、友人も男女問わずそれなりに多い。性格は穏やかで問題を起こした事もなし。どこから見ても、普通の高校生だ」 「……」 拳武の調査部も、諜報機関としてはトップクラスの能力を有する。龍麻のようにバックアップが強大であればさすがにてこずるが、それでも捏造されたものの持つ違和感を引き出すことは可能だ。だが調査書を見る限り、彼らには怪しい要素が感じられない。 「君の言葉を疑うつもりはないが、もしこの男が君の見た男と同一人物であれば、君と同等レベル以上の機密に守られている事になる」 「加えて、本人の偽装能力も規格外か」 壬生は肯いた。 龍麻でさえも、【闇の刃】と写真の結城飛鳥を結び付ける事が出来ない。骨相は間違いなく同一人物である事を告げているのだが、目の光が余りにも違いすぎるのだ。氷の炎のような【闇の刃】に対し、結城飛鳥は写真からでさえ、坊ちゃん育ちの穏やかな雰囲気が伝わってくる。――これほどの急変はあり得ない。この姿が偽装であるとすれば、龍麻をして戦慄するほどの偽装術だ。情報戦のプロならば親兄弟でも騙し通せるほどの偽装術を身に付けていてもおかしくないが、手応えからして【闇の刃】は前線で戦うタイプである。その彼が普通科高校に通い、友人を作り、恋人を作り、その両親にさえ認められていながら、結城飛鳥という仮面を引き剥がされぬほどの実力を持っているというのか。 「正体はともかく、彼らが失踪する状況に付いてはある程度情報を得た。昨年一二月二七日、誘拐事件の発生当日夜に、スキー教室が行われる筈だったＸＸ高原のホテルに結城飛鳥宛てのメッセージが届き、外出した彼はそのまま失踪した。翌二八日早朝、速水一輝も失踪している事が判明し、誘拐事件と関係ありと見られたが、それきり行方が途絶えた。だが…」 壬生は新聞記事のコピーを取り出した。死亡者数が尋常ではないのに、妙に扱いが小さい記事である。 「ＸＸ高原に程近い山荘で、地元の山野辺という名士が屋敷の居住者他と共に斬殺されるという事件が発生した。死亡者総数三二名。――その現場で発見されたＸＸ高校の男子制服に、結城飛鳥の名が記されていた」 「……」 「山野辺は【苦留流教団】という自己啓発・潜在能力開発系の宗教団体の幹部だった。だがその実情はこの世の終末を語る悪魔崇拝主義者集団だ。でもこの国では【宗教の自由】が保障されているから、悪魔崇拝と言えど犯罪性が立証されない限り規制されない。だがこの一件で【苦留流教団】の活動が発覚し、その余りの異常性から極秘の内に司法の手が各地支部にも及んだ。そしてこれも極秘だが、全ての死体が頭部をライフルで破壊された後、五体を切り刻まれ、心臓を抉られ、火を放たれていたという」 「アブドゥラ・ハッシームの時と…一連の事件と同じ手口か」 「同様の手口としては、これが最初の事件だ。君の情報で、一連の事件の犯人がこの二人…少なくとも結城飛鳥であると確定された訳だ」 「うむ…」 長瀬瑞穂の恋人が、尋常でない戦闘能力を有する男であった事は、組織にとって大きな誤算であったに違いない。大方、歪んだ欲望を満足させる要素の一つとして結城飛鳥を呼び付けたのだろうが、逆に彼の怒りを買い、山野辺某の一族は返り討ちにされた。だがその時点で長瀬瑞穂の救出は叶わず、結城飛鳥は組織に関わる者を殺しつつ情報を集め、彼女を救い出そうとしている。 対峙した時の違和感はその為だ。見境ないようでいて、彼の殺しには一定の法則があり、冷静、冷徹、冷酷さの中に、必死の想い…執念があったのである。一見な手口も、そうせねば殺せない相手だからだ。――龍麻に対して牙を剥いたのは事態の悪化を危惧したためで、龍麻が【できる】人間だと知ると素早く身を引いた。長瀬瑞穂救出を達成する為にはまず生き残る――自分の戦いを充分に心得ていたのだ。 「…珍しいな。君がそれほど気に懸けるとは。――心当たりでもあるのかい？」 ふと、顔を上げる龍麻。無表情は相変わらずだが、壬生は少し眉をひそめる。 「…気に障ったのなら謝る」 「いや…」 龍麻はゆっくりと頭を振った。それも彼には珍しい行為だ。 「手応えは似ているが、【彼】には感情が存在しない。別人だ」 あの驚異的なナイフ術も、ロシアのとある地方ではポピュラーな技だ。似てはいても、違う。――昔の【仲間】とは。 それよりも、と龍麻は続けた。 「この男の敵対勢力…あの武装集団に関してはどうだ？」 「そちらは調査中だ。ただ、自衛隊内部に国益優先の非正規部隊の新設を唱える声が聞かれる。実際、空挺やレンジャーの優秀な者が引き抜きされているようだ。【シグマ】、【オメガ】、【イプシロン】と名が挙がっているが、この内のどれかだと思う」 うむ、と肯く龍麻。――【闇の刃】の言った名があったからである。 「【シグマ】に付いて解っている事を聞かせてくれ」 「――まだ大した情報はないね。【オメガ】、【イプシロン】は既にいくつかの海外活動をこなしている戦闘部隊だが、どうやら【シグマ】とは特定の部隊名ではなく、組織あるいは思想の名のようだ。関係者は自らを【会員】と称しているが、その規模を把握していない。基本的にどこの誰が【会員】なのか知らないという有り様だ。ただし政界、財界、警察その他各官僚を中心に、着実に【会員】数は増えている。――現代日本版のフリーメーソンだ」 フリーメーソンとは、中世ヨーロッパ、ルネサンス期に貴族、平民を問わず広まった一種のカルト的思想者集団の事である。もともとは職人の組合から発生したものであるが、殆どの国が国王制を敷く中、庶民の結束が自分の地位を脅かす事を怖れた為政者達は、特に犯罪性がある訳でもないこれを弾圧した。その結果、組織の枠組みは闇に潜み、どこか秘密結社的様相を呈したのである。そして彼らは国家の闇に、自分たちの法を敷いた、言わばアンダーグラウンドを展開し、いつしか国家の枠組みすら超えてヨーロッパ全土に浸透して行ったのである。 ここで壬生が敢えてフリーメーソンを引き合いに出したのは、数多あるフリーメーソンの中に政治色の強い団体が存在した事に起因する。 フリーメーソンで名高い【薔薇十字会】は、魔術や錬金術を考察・研究する学者集団であったが、【黒の手紙結社】という組織は貴族や聖職者に会員を数多く求め、これを怖れて弾圧に走ったローマ国王に対し、結社の存続を認めなければヨーロッパ全土に対してペスト菌を蔓延させるという脅迫を行っている。――中世ヨーロッパ版の細菌テロという訳だ。 この【シグマ】も、性格が【黒の手紙結社】に似ている。ＨＩＲＯに聞いた所によると、勧誘の手段は圧力と脅迫だ。悪魔崇拝に形を借りた乱交と殺戮劇に一度でも参加した者は否応無しに組織の一員となり、他の【会員】がどこの誰かも解らぬ為に裏切る事も逃げる事も出来ない。そしてその中に――獣人が産まれる。人間を越えた、怪物が。 ＨＩＲＯの言う【餓鬼向けの漫画】。――どうやら【シグマ】とは、それを本気で具現しようとしているらしい。その犠牲となったのが久保早百合であり、長瀬瑞穂であり、誘拐された女性達と、その家族という訳だ。そして、結城飛鳥も。しかし…目的は何なのか？ 「僕が提供できる情報はこのくらいだ」 壬生はサングラスを掛け直した。 「サバトが開かれるのは【逢魔が刻】〜真夜中過ぎから午前三時くらいまで。現在はサバトの開催地を特定するべく、瀬川親子や【フリーダム】の幹部その他に監視を付けている。場所が解ったら君にも伝えるが…この一件には人知の及ばぬ現象が介在しているとは言え、館長が君に託しているケースとは微妙に異なる。そして、【敵】は強大だ。館長としては――僕自身もそうだが――君に手を引いてもらいたいと願っている」 「奴等は既に俺の敵だ」 知ってしまったからには、目を逸らせない。関わったからには、引き下がらない。――恥知らずな犯罪者がのぼせ上がった挙げ句、化け物になる事を望み、多くの人々を苦しめているのだ。本質的には対テロ部隊のままである彼が、そんな連中を見逃す筈はない。 「しかしながら、当面の目的は久保早百合嬢の救出だ。もとより、正面切って戦える相手でもあるまい」 「…その通りだね」 彼はどんなに強大な相手でも怯まないが、無謀な戦いを挑む事もない。――気を廻し過ぎた自分に苦笑し、壬生は龍麻に背を向けた。 「…グッドラック」 「――サンクス。――グッドラック」 龍麻もラフな敬礼を返し、壬生とは逆方向に歩を進めた。 次に訪ねるべきは、歌舞伎町であった。 二二三〇時、新宿、歌舞伎町某所地下 「う〜〜〜〜〜〜ん…」 ビーカーやフラスコ、その他ありとあらゆる化学実験器具、果ては鎧のような服やロボットじみた機械群までが密集している空間で、白衣姿の少女がコンピュータのモニターの前で唸っていた。 「またなんつーヤバいものを創ってくれたのよ。こんなモノがそこらの中高生に出回ったら、あっという間に日本は滅びちゃうぞ」 電子ペンを鼻の頭に乗せ、面白くもなさそうに頬杖を突く。明るい茶髪をツーテールに結び、白衣の下はＴシャツにカッティングズボンのオーバーオール――見た目も仕種も中学生くらいにしか見えないが、小さな丸眼鏡の陰になっている大きな瞳は、深い知性と人生の辛酸を舐めてきた者特有の深みがある。 「――入りますよ、聖須華。私を呼び出したという事は、もう何か解ったのですか？」 ドアのきしむ音もなく、白の功夫着を纏った青年が入室してくる。下手に歩こうものならたちまち何をひっくり返すか解らぬほど乱雑に散らかった空間を、【九頭竜】総帥、李飛鴻は空気すら揺らさずに進み、少女…聖須華の傍らに立った。 「ん〜〜〜、これ見て、これ」 李の方を見ようともせず、電子ペンでモニターの一角を指差す聖須華。映像は電子顕微鏡で拡大した液体である。そしてその中に、蛇のような回虫のような、紐状の物質が漂っている。 「…何かのウイルスですか？」 「うん。――白おじいちゃんが持ってきた薬の中に、コイツが混入されてるの。薬の主成分は高純度のヘロインだけど、ボクの見立てだと、コイツはレトロウイルスの一種で、生物の体内に入り込むとＤＮＡを撹乱させて、遺伝子レベルから肉体を変貌させる効果を持ってるよ」 「変貌…ですか？」 「そっ。ぶっちゃけ、怪物を創り出すウイルス。悪名高きＡＸ― 一二七の正体は、コイツが吐き出す酵素だったってコトだね」 聖須華は髪を揺らし、椅子ごと振り向いた。片膝を抱え、膝小僧に顎を乗せる。【九頭竜】総帥を前にしてあるまじき態度だが、聖須華も李も気にしない。 「我々が総力を挙げて潰した筈のＡＸ― 一二七…。今度はその元凶が出回り、我々に挑んでいる…そういう事ですか」 聖須華は肯き、つんと不機嫌そうに唇を尖らせた。 「やっぱ、【狂人】とかいう奴を仕留め損なったのが失敗だったみたいだね。ホントに、ドコのどいつがあのバカに援助してこんなものをばら撒いているんだか。――しかもこれ、今度は学生をターゲットに出回っているんでしょ？ それって本ッ気でヤバいよ。今の子供達ってメディアのせいでパープリンになってるから、麻薬だろうがなんだろうが遊び半分で手ェ出すからね。そして一回でも手ェ出したら…」 「…高純度ヘロインのもたらす習慣性が、定期的なウイルス摂取に繋がるという事ですか」 「ん〜、半分だけ正解。普通、これだけ純度の高いヘロインなんか打ったら廃人まで一直線だよ。ところがこのウイルスはβエンドルフィンの分泌量をコントロールして、ヘロインの副作用を極限まで減らしてる。――つまり、爆発的アップ系であるウイルスの毒性を緩和する為に、ダウン系麻薬のトップレベルにあるヘロインを使ってるって事だね」 麻薬には大別して三種類ある。アップ系は覚醒剤、シャブ、コカインに代表されるアンフェタミン系麻薬があり、分子構造が脳内物質であるアドレナリンやノル・アドレナリンと似ている為、摂取すると脳内で興奮物質として作用する。これにより五感の鋭敏化、集中力や持久力の向上、行動力や性欲の増大が症状として現れるが、これらは生体に無理をさせている状態である為、薬が切れると同時に激しい疲労と倦怠感に襲われる。この苦痛から逃れる為に再度薬を摂取することにより、更なる依存と中毒症状を引き起こし、慢性中毒となると幻覚や幻聴、蟻走感を発症する。甚だしい場合は酷い強迫観念と被害妄想に襲われ、無意識下の抑制を離れた肉体で暴れ廻る。 これと対極にあるダウン系麻薬はケシより抽出されるアヘン、モルヒネ、ヘロインといったアルカロイド系麻薬が代表的だ。特にモルヒネは強力な鎮痛剤として医療の現場で重要視されている。症状としては神経活動を緩慢にする事で鎮痛効果を現し、精神的に心地良い倦怠感や陶酔感、白昼夢などを引き起こす。ただしアップ系麻薬よりも依存性が高く、中毒症状が早く現れやすいなどの特徴を持ち、一度依存症に陥ってしまうと精神的苦痛のみか痙攣、吐き気、頭痛などの肉体的苦痛が発症し、末期ともなると錯乱や失神、痙攣を繰り返し、衰弱死する。 最後の一つが、アップ系ともダウン系とも分類しがたい幻覚効果をもたらす麻薬である。この代表格がＬＳＤ（リゼルグ酸ジエチルアミド）という、自然界には存在しない合成ドラッグで、二五マイクログラム（百万分の二五グラム）という少量で効果を発揮し、幻覚による陶酔感や強迫観念をもたらし、時に自傷や破壊を引き起こす。甚だしい場合は、周囲の人間が自分を殺そうとしているという妄想に駆られ、肉体的限界を超えて暴れまわる。同種の幻覚剤にはＤＭＴ（ジメチルトリプタミン）、メスカリン、マジックマッシュルームなどがあるが、特に近年急速に流行り始めたマジックマッシュルームは成分が不明確で非常に危険とされ、幻覚作用の他にも吐き気や嘔吐をもたらすものが多く、嘔吐物による窒息を招く事も珍しくない。 だが、今回発見された麻薬の特性は―― 「ウイルスの出す毒素でハイになった状態では事実上のスーパーマンだけど、人間の脆弱な肉体がそれに耐えられる時間は短いから、ダウン系麻薬で自壊を抑制する。するとウイルスは繁殖の母体を守るためにＤＮＡを書き換え、ダメージを受けた筋肉組織や神経系統を中心に異常な発育を促すワケ。体内のウイルスの数が増えれば増えるほど活動時間が増えて、外見も化け物じみてくる筈だよ」 聖須華はそこで一旦言葉を切り、モニターの映像を切り替えた。 「ただしデメリットも大きいね。このベルトに高濃縮タンパクのアンプルが搭載されているのを見ても判るように、強化された肉体はその活動の為に莫大なエネルギーを必要とするの。五〇パーセント程度の変貌で約一万五千キロカロリー。成人男子が一日に必要とするエネルギーが約三千キロカロリーだから、ざっと五倍のエネルギーを消費するよ。ただでさえ前頭葉と右脳…理性や知性に関わる部位に対する影響が大きいのに、常に飢えと渇きが襲うってコト」 「慢性的飢餓状態にある、理性なき大食漢ですか」 「それに、ゼウスや光源氏も真っ青の性欲だね」 幼い顔立ちに反して、さらっと口にする聖須華。 「コイツってば、ウイルスでありながら実態は遺伝子治療用の多重弱毒化ＨＩＶに近いよ。普通のウイルスはＤＮＡかＲＮＡのどちらかを持っていて、寄生した生物の細胞にこれを注入して自分のコピーを生産しつつ生体を食い潰していくんだけど、コイツは脳幹や各所神経節に陣取って宿主に自分の所有するＤＮＡを投与し、生体構造を強化して生存率とエネルギー摂取率を上げるという一種の共生関係を結んでるの。そのせいか繁殖方法も変わっててね、コピーを生産するためには母体となる生物の受精卵が必要で、必ず活動型ウイルスと休眠型ウイルスが生産されるの。活動型はそのまま宿主の体細胞各所に影響を与えるけど、休眠型は次の繁殖機会まで自己をタンパク質の殻に閉じ込め、その機会が得られなければ約一ヶ月後にカプセルが融解し、活動を開始するんだよ」 「良く解りませんが、つまり症状が悪化するのは一ヶ月周期という事ですか。しかし光源氏とは何です？」 「ん〜、どこから説明したらいいものやら。このウイルスをきっかけに怪物になるプロセスは雄型と雌型の二通りあって、雌族は受精卵由来の培養細胞ことＥＳ細胞に、自分が持ち、あるいは新たに感染したウイルスが備えたＤＮＡを与える事によって、細胞の形質変化と繁殖を同時に行うの。その際に本来胎児になるべき胚は死滅してしまってウイルスの栄養源にされてしまい、変質した細胞は抗原提示細胞の情報から変貌の行われていない部位に自己のＤＮＡをインプットして…」 「――済みませんが、聖須華。もう少し解りやすい説明をお願いします」 「う〜っ、ここが肝心なトコなのに〜ッ。――ぶっちゃけ、感染方法はエイズとかＨＩＶと同じで、女はＥＳ細胞をいじられて変貌し、男はウイルスの持つＤＮＡを注入されて突然変異するってコト。で、このウイルスは拡散するほどに新たなＤＮＡを取り込んで急速に変貌する事が出来るから、多種多様な性質を獲得するために積極的に拡散しようとするの。ところがコイツ自体の感染力はバイオハザード・レベル二――インフルエンザと同レベルしかなくて、感染経路が経口、粘膜感染に限定されてるから、宿主の前頭葉と右脳に手を加えて理性や知性を弱体化させ、更にエンドルフィン分泌量を操作して性的快楽を本来の数倍から数十倍に跳ね上げ、拡散と繁殖の機会を増やすんだよ。その結果、見た目さえ良ければ神も悪魔も男も女も動物も怪物も総攻めの恐妻家ゼウスや、女性同人作家の大先輩こと紫式部の生み出した、マザコンでロリコンで厚顔無恥で近親相姦大好きな絶倫鬼畜軟弱男の光源氏が大量生産されるってワケ」 「私は科学に疎いのですが…要するに肉体の強化のみならず、性的にも無節操になるという事で理解して良いのですね？」 「そーゆーコト。――もう一つ、極め付けの特性があるんだけど、聞きたい？」 「ええ。是非」 「このウイルスって、人だけじゃなく、哺乳類と一部の鳥類に感染するんだけど、当然のようにそのＤＮＡも取り込んでいるから、繁殖時に利用されるＥＳ細胞にそのＤＮＡを注入して、異種生物同士を融合させるなんて事もできちゃうんだよね。…これって、まんま狼男とか吸血鬼の伝説みたいじゃない？」 「……」 さすがに李は黙り込む。極めて科学的、医学的な話から、一挙に伝奇的な話に変わったのでは無理もない。 「あ〜！ 馬鹿にしてる。――これだって立派な科学の話だし、現在直面している事態に一番近い推察だと思うよ？ ウイルスを効率良く脳幹や神経節に届けるためには血管への直接投与が確実だし、保菌者側はビタミンやミネラルを豊富に含む血液を飲む事がカロリー確保の良い手段になるんだから。そもそも生物の進化に不可欠ともいえる突然変異はウイルスがもたらしたという説が有力になってきているし、全能性を失っていないＥＳ細胞に別種生物の胚細胞を移植する事によって、複数の遺伝子的性質の異なる細胞群で構成されるキメラが生まれる事は、既に証明されているんだよ。――ま、比較検証は不可能だけど、世界各地に残る獣人伝説は、このウイルスと同種の奴が引き起こした可能性が高いね。そして余りに強靭な生命力が自殺遺伝子の発動を促して、本来ありえないＹＹ型染色体を持つ超オスが発生してしまい、子孫が雄型しか生まれないという、種としての衰退期を迎えてしまったと考えられるよ。案外あの【狂人】って奴こそＹＹ型染色体の持ち主であると同時に、獣人化ウイルスの宿主なのかも。そして遺伝子治療技術を使って人類の女性を獣人の雌族に変えて、自分たちの繁栄を取り戻そうとしているのかも知れないね」 「…なるほど。【儀式】と呼ばれるパーティーにおいて、男性の顔触れは多彩なのに、女性の顔触れに変化が少ないのは、それで説明できますね。真に重要なのは女性の方で、男性は単なる遺伝子の収集係にも等しいと。――しかし解りませんね？ あなたの推理を支持した場合、それを推進もしくは援助する者にどんなメリットがあるのでしょうね」 ポーズだけでも、首を捻ってみせる李。【九頭竜】は薬に関わる商売には一切手を出していないが、麻薬商売の仕組みは良く心得ている。――今や麻薬商売の主役はコカインやマリファナ、大麻であり、深刻な身体障害を引き起こすモルヒネやヘロインは商売にならない。麻薬の密売ですら薄利多売になり、客を長く留める為に躍起にならざるを得ない状況で、客を廃人どころか怪物に変えてしまう薬にどんなメリットがあるか？ そんなものは密売人にしてみれば毒薬…いや、もっと性質が悪いだろう。 「さあ…生物兵器としての利用かケミカルテロみたいなものが考えられるけど、わざわざ人を怪物にするっていうのがどうもねェ…。犯人が本物の怪物なら、そういうのもアリだろうけど、貪欲さでは他生物の追随を許さない人類が、地上の覇権を揺るがすような生物をわざわざ創るってのも変だし…」 ふむと李は肯いたが、話がそこまで行くと乗り気ではないようだ。【九頭竜】は【侠】の組織ではあるが、その実体は黒社会に君臨する中華系マフィアであり、麻薬と人身売買以外の犯罪には深く関わっている。特に暗殺業となると、その名は世界レベルで通用するのだ。つまり――正義の味方などではないのである。巨悪の存在に気付いたからといって、それに対して動く理由はない。それが牙を剥いてくるとなると別だが、いささか現実離れが過ぎる。 「あ、面倒臭いとか考えてるでショ？」 李の顔を覗き込みながら、聖須華。 「ま、実際面倒な事になっちゃってるよね。誘拐事件の解決を依頼されたら、そっちにもＡＸ投与者が関係していて、そこに【ボウヤ】と、警察と、フリーになった殺し屋と、正体不明のナイフ使いと、そいつを追っている【シグマ】…。これだけ盛りだくさんに関わってきちゃったらもう何がなんだか…。恐らく久保何とかって人も変貌率の高い保菌者だろうけど…で、今はあの【シグマ】とかいう組織に連れ戻されちゃったんだっけ」 「そうです。【シグマ】は彼女の回収に虎の子の戦闘部隊を二個中隊ほど投入したようですが、【闇の刃】のみならず、【彼】や【毒揚羽】までが敵に廻ったのは予想外だったでしょう。そして虎の子と言えど、実体は小規模なゲリラ活動程度の実戦経験しかない兵士達。【本物】には通じません」 「【ボウヤ】の実力ならそうだろうけど、その【毒揚羽】って子はそんなに凄いの？」 「【毒揚羽】の師父は【双頭蛇】の先代盟主、【毒皇】範春成。齢百六十にして世界最高の毒師でした。その彼が二十年ぶりに弟子を取り、あろう事か隠居したのが約一年前。――【毒師】の称号を得ていないとて、あの時の手合わせが本気だったとは到底思えませんね。噂の蝶の刺青を見ていませんし」 「ふ〜ん。でも【双頭蛇】は欲ボケに代替わりして今やグッチャグチャ――どこもかしこも同じってコトか。どうして人間ってこうも権力とかお金に弱いのカナ？ 他にもっと良いものだってあるだろうに…」 そこで李は、聖須華の顔が微妙に不機嫌になった事に気が付いた。 「…どうかしましたか、聖須華？」 「ん〜〜〜、別にィ」 そうは言いつつも、電子ペンを廻しながら頬杖を付く聖須華の視線はチラチラと李に向けられる。李は苦笑を口の端に乗せた。 「…聞いて欲しくてたまらないような顔をしてますよ。期待に応えますから、あなたの推理を聞かせてください」 「ん〜、ホントは確証のない事なんか言いたくないんだけどね。――【闇の刃】がやったとされる事件の被害者って、社会的には大物って言われる連中が多いでショ？ で、そういう連中が必ずと言って良いくらいスナッフ・ムービー事件に絡んでいると。――ここまではまあ、ありそうな話だよね。でもスナッフ・ムービー事件が実は獣人ウイルスの繁殖儀式で、その関係者を付け狙う【闇の刃】を倒すために【シグマ】が出てきた上、そいつらにまでＡＸが投与されていたって事は…」 ぴく、と李の頬が引き攣る。聖須華の言いたい事が理解できたためである。 「ちょっとお待ち下さい。聖須華、あなたはこのウイルスが、国家によってばら撒かれているとでも言いたいのですか？」 「…飛躍した考えだっていうのは認めるよ。でもね…」 聖須華は少し目を伏せ、椅子の上で両膝を抱え込んだ。なんとなく哀しんでいるような、拗ねているような表情。喜怒哀楽のはっきりしている彼女らしからぬ、微妙な表情である。 「【人間】ってそういう生き物でショ？」 李でなければ後ずさりしたかも知れない、陰鬱な響き。――裏の世界を、世界の暗部を見るという事はそういう事なのだ。見たくないから見ない。聞きたくないから聞かない。知っていても言わない。――それが通用するのは平和な表世界だけで、裏の世界では汚いもの、醜いものほど知らねば生きていけないのだ。 「社会的な大物ばかり殺す【闇の刃】…その手口の残虐さは単なる復讐心や猟奇趣味の産物じゃなくて、そのくらいやらなきゃ殺せないウイルス感染者だったから…。そして今回、【闇の刃】を狙って国家組織【シグマ】登場。その戦闘員がＡＸ投与者だったとなれば、答は一つしかないよ」 「…事件の背後にいる何者かは、国家の中枢にいる人物もしくは組織。そして既に特定の有力者をより高度な獣人に変えて暗躍しているという事ですね」 なぜ聖須華が不機嫌になり、なおかつ曖昧な推理を披露したのか、李はすぐに得心がいった。 「…力を持った者が次に求めるものは更に巨大な力。金や権力もまた然り。そして究極の目標は、それらを永遠に保持し続ける事。たとえ怪物になろうとも、ですか」 「自称エリートの持つ虚栄心こそ怪物だよ。自分から怪物になりたがる奴なんてそうはいないと思うけど、連中の乱交パーティーに参加して感染したが最期、なし崩し的に連中の【仲間】になるって寸法。――組織を拡大する為の戦術として、これほど確実な手段もないだろうね。そして手っ取り早くＤＮＡを集めるために、無気力、無思考、無感動、刹那的な快楽主義――要するにノータリンの若者にもウイルスをばら撒いているんだね。そしていずれは人類に成り代わって日本を――世界を支配する。――やんなっちゃうよね。まるっきり特撮ヒーローの悪役じゃん」 「そんな連中でも、現実に行使できる力がある以上、犠牲になるのは常に温和で真面目、特に罪も力もなき人々…という事ですか。――確かに見過ごせる事態ではありませんね。特に、【あなた】は」 僅かではあったが、聖須華を見る李の視線が温度を下げる。聖須華はつまらなそうにつんとそっぽを向き、足をぶらぶらさせた。――仕草そのものは子供のそれだが、彼女の苛立ちを招いたものは国家的陰謀の臭いだ。つまり、高い教養と深い知恵なくしては有り得ぬ事である。 「…まあ、良いでしょう。我々とて、この獣人騒動には迷惑を蒙っています。平穏であればこそ成り立つ商売もまた数多い。悪戯に混乱を招かれるのは迷惑千万です。依頼も継続している事ですし、少し――動いてみましょう」 「さっすがぁ。やっぱり飛鴻は話が解るねッ」 李にぴょんと抱き付き、猫のように頬擦りする聖須華。こればかりは子供っぽいとは言えない胸の膨らみを押し付けてくる彼女を、しかし李はそっと押しのけた。 「そういう事はおやめなさい。元気なのは結構ですが、はしたないと思われますよ」 「へへーんだ。ホントは嬉しいんでショ？」 「否定はしませんよ。しかし私は一応、熟女好みとでも言っておきましょうか」 ムム…と聖須華が可愛らしく眉間にしわを寄せ、しかしどこか釈然としないような表情を作った時、李のポケットが微かに振動した。 「――私だ。……解りました。そのまま奥へと通してください。くれぐれも粗相のないように」 携帯電話をポケットに納め、李はまだ難しい顔をしている聖須華に言った。 「この一件に関して、私以上に適任な【彼】が来たようですよ」 眠らない街、新宿でもっとも活気のある地区、歌舞伎町。――学生がうろつくには不適切――あと一時間で日付が変わるという時分、龍麻は小さな雑居ビルの地下にある中華料理店を訪れた。 中国が世界に誇る文化は数あれど、誰もが簡単に接し、且つ歴史の偉大さを認識できるのは【料理】であろう。厚い樫のドアを潜った途端、胃壁を直撃する香辛料と油の香りが襲い掛かってくる。――さすがの龍麻もこれには空腹を覚えた。 しかし同時に、店内の空気が龍麻の神経を尖らせた。 常人には感知できぬレベルで、空気に緊張が見られる。深夜にも関わらず八割方埋まった店内は活気に満ち、人々の笑い声が響いているが、どこか前線基地の食堂を思わせる雰囲気が漂っているのだ。 龍麻は構わず歩を進め、まるで世界から切り離されたように空いているテーブルに付いた。――上手い事に、店の入り口と裏口、厨房とトイレを同時に見渡せる場所だ。 しかし、そのテーブルに付いた途端、にわかに緊張感が増した。 「――？」 目に見える光景に変化はない。だが、誰かがじっとこちらを見ている。そんな感覚がありありと感じられる。どうやらここは、坐る席にも何かあるらしい。 ウェイトレスがテーブルに近寄る。このような店には似合わぬ――否、このような店だからこそ光り輝く、艶光りする黒髪を三つ編みにして頭の両脇に纏め上げた、化粧を抜きにしてさえ目を惹き付けずにはおかぬ美女だ。赤い生地に金糸銀糸で鳳凰を刺繍した袖なしのチャイナ服は胸元が大きく盛り上がっており、スリットが腰のくびれ辺りまで切れ上がっているので、一歩進むごとに真っ白な太腿が大胆に覗く。それでいて決して下品には堕さぬのは、どこまでも優雅な立ち居振舞いと生来持っている気品の賜物であろう。 「ご注文をドウゾ」 少しなまりのある、高く澄んだ声。龍麻は合い言葉を告げた。 「海老炒飯と烏龍茶を。――エビは四つ頼む」 ウェイトレスは目をぱちくりさせる。――化粧のために解らなかったが、龍麻とさほど歳は変わらないようだ。 「――二つで充分ですヨ」 「――！？ いや、四つだ」 「二つで充分ですヨ」 しなやかな指を二本立て、小さな子を宥めているかのようなウェイトレス。龍麻をして、からかわれているような気分になった。 「構わん。四つで頼む」 「解って下さいヨ」 ウェイトレスは困ったような顔をして、しかしそれ以上は主張せず引き下がった。 何か釈然としない気分に浸っていると、先程のウェイトレスと共に、白衣を纏った大男が姿を現した。 「――！」 あの時の巨漢だ。【鉄猿】と同じく、龍麻の腕試しに選ばれた殺手。硬気功と形意拳の達人だ。名は――【小剛】。 「特製海老炒飯のお客様〜、私が本日の調理を勤めます林と申します〜。こちらへどぞ〜」 太い腕がのっそりと動き、藤の衝立てで仕切られたテーブルを示す。――そちらはお得意さん用の、いわゆるボックス席であった。 それがここのルールならば、従うまでだ。龍麻は席を立ち、ウェイトレスと巨漢に付き従った。 途中、ボックス席の一つを通り過ぎた時、龍麻の背筋をひやりとした気配が打った。しかし、敢えて無視する。向こうもまた、こちらに気付きながらも振り返る愚を犯さなかった為だ。 （今のは…） ガラスの反射越しにチラリと確認すると、ボックス席には一人の男がいた。この季節にはそぐわないベージュのコートを身に纏い、伸び放題の髪を無造作に結んでいる日本人。――間違いない。羽田の銃撃戦の渦中にいたボディーガードだ。どうやらここにはその道のプロが集まるらしい。彼のいるテーブルには、エビの尻尾が四本残された皿。この男もまた、仕事か情報を仕入れに来たらしい。そして龍麻の目は前髪に、男の目はサングラスに隠されながら、二人の視線はガラス越しに噛み合った。 しかしそれ以上は何事もなく龍麻は奥へと進み、先客の付いているテーブルへと至った。 「ようこそいらっしゃいました」 そこは礼儀の文化を持つ中国人。【九頭竜】総帥、李飛鴻は席を立って龍麻を出迎えた。 「あなたがいるとは思わなかった。――お久し振りであります」 龍麻も直立不動で敬礼を返す。――礼儀を守る者には礼を尽くす。相手が誰であろうとも、それが龍麻流だ。 そして李も、自分より若輩の龍麻に礼を欠かさなかった。 「どうぞお掛けください。――またお会いできて、光栄の至りです」 「同感です。――食事を楽しみに来ただけならばなお良かったのですが」 龍麻がここに来たのは、あくまで裏の情報を知るためである。それは李も重々承知であり、彼は深く頷いてから、ウェイトレスと巨漢に下がるよう命じた。 「あなたが白爺に託した薬は、大変興味深いものでしたよ。――分析表をご覧になりますか？」 「肯定です。研究者の個人的見解も是非聞かせていただきたい」 李は静かに頷き、ＡＸ― 一二七の分析表と聖須華のレポートを差し出した。それらにざっと目を通し――速読で記憶に刻み込んだ龍麻は、への字口の角度をやや鋭角にした。――考え事をしている時の、それも不機嫌な時の顔である。 「――差し支えなければ、あなたの意見も聞かせていただきたいですね」 「推測や憶測の段階でものを言うべきではありません。ですが、この件は極めて深刻な事態に陥っているようです。まず――この一件の背後にいる者たちは、高い社会的地位を有していると考えられます」 龍麻の特技、プロファイリング。些細な事象から次々に真実を導き出す彼は、勝手な推測や憶測を何より嫌う。軍人は可能な限りの情報を集め、より確度の高い事実を基に戦術を組み立てるものだ。その精神を受け継ぐ彼は、確度の高い事しか言わない。 「我々も同様の結論に至りました。しかし、このＡＸ根絶に長らく勤しんできた我々でさえ、黒幕の正体には未だ手が掛かっておりません。今回の一件で私設部隊の存在が明らかになった訳ですが、かえって敵の強大さを知ったというところです」 「解ります。しかし、最前線に立つ兵士の質から推して、小規模ではないでしょうが、大規模なものでもないでしょう。手足として街のチンピラを使用している事がそれを証明しています。組織としてはともかく、自分一人が立ち回る隙は充分にあるでしょう」 「…まだ介入なさるつもりですか？」 「それが仲間の願いです。そして自分も、理不尽に踏み潰されようとしている者を見捨てる訳には参りません」 「…恐らく敵は強大で凶悪。それでも立ち向かうのですか？ この一件、あなたの命を賭けるだけの価値があると感じますか？ あなたには何のメリットもないかに思われますが」 龍麻はつい、と顔を上げた。 「【価値】という概念を使いたくはありませんが、【ある】と感じます。また、敢えて損得で量るならば、自ら望んで介入した以上、メリットはあります。たとえ、自己満足と言われようと」 ふ、と笑みを口元に刻む李。 彼の過去を知る者がこれを聞いたら、一体どう思うだろうか？ 途方もない訓練の果てに感情を奪われ、機械として育てられてきた者が、【自己満足】という言葉を口にしたのである。【自己満足】…即ち、【わがまま】を。 勿論、龍麻にもそれが解っている。自分が、その持つ能力をフル活用した時の弊害がどれほど大きいかを。単なる行方不明人の捜索でなくなった以上、確実に何人かが鬼籍に入る事も。一人を救う為に何人か、何十人かの命を奪う――それを是とするか非とするかは、後の歴史でしか語られない。 いや、もう一人。 龍麻は一人の少女の顔を思い浮かべる。スナッフ・ムービー事件以来、頭の片隅に引っかかっていた少女、長瀬瑞穂。――数々の証拠が、既に彼女が獣人を生む母体として変貌させられている事を語っているが、龍麻はビデオに映っていた彼女の虚ろな目の奥に、一筋の光を見出していた。精神が崩壊するギリギリのラインで、何かが彼女を押し留めていた。最後の一線を越えて狂うまいと、人間としての生を捨てまいと、必死で戦っていた。そしてあの絶望的状況で彼女を支えているものがなんであるのか、龍麻はずっと気にかけていたのである。 龍麻にはまだ、人を愛するという感覚が解らない。漠然とした感覚はあるものの、とても理解には及ばない。しかしそれが時として強力無比な武器と化す事を、龍麻は【体験】で知っている。純朴で脆弱な民間人が、殺戮のみを叩き込まれた完璧な兵士を殺す事さえ可能としてしまうのを。 長瀬瑞穂を支えているものが結城飛鳥への思慕の情ならば、結城飛鳥を駆り立てるのも彼女への愛情だろう。――極めて単純な帰結である。互いに向ける愛情のみを支えに一人は絶望以外にない苦しみに耐え、もう一人は殺戮に身を浸している。狂ってしまえば、見捨ててしまえば楽になるのに、二人とも安易な道を選ばなかったのだ。どうしようもなく単純で、救いようもなく愚かで、しかし、凄惨なまでに美しい。――そう、彼女が安寧なる絶望に身を委ねていない事を感じ取り、機会あらば助けられないものかと、龍麻は意識しないままに考えていたのであった。 「しかし、そちらの【仕事】を妨害するつもりは毛頭ありません。久保早百合嬢を救うのは誰の手でもよろしい。自分は、彼女に関する禍根を断つ事に集中しましょう。希望的観測ですが、あと何人か、救われるかも知れません。その為にも、自分と協力者の行動に制限を与えないで頂きたい」 「――良いでしょう。この李飛鴻の名において、【九頭竜】はあなたに協力するとしましょう」 「――感謝します」 龍麻は立ち上がって敬礼したが、李は優雅に手を組んで着席を促した。そして… 「ですが、私からも一つお願いがあります」 「…お願い？」 龍麻は僅かに警戒を滲ませる。――アンダーグラウンドに君臨する男が口にする【お願い】。それはとてつもなく重要な事に違いない。 しかし――李は表情を緩めた。裏表なく、穏やかに。 「三十分ほどお待ちいただければ、【フリーダム】を始めとする、獣人に関わりある者の動向が判明します。その間――夕食などご一緒にいかがですか？」 長い前髪の陰で龍麻の目が僅かに見開かれ、それから微妙に口元が引き攣った。まだ形にならない苦笑であった。 「そういう事でしたら、喜んで」 敵地では飲食物を摂らない――アンダーグラウンドの常識だが、龍麻にとって李は敵ではなく、ここも敵地ではない。李の厚意を躊躇なく受けた龍麻に、李はそっと微笑した。 「ありがとうございます。こういう身の上ですと誰かと会食する事など希でして。――玉蘭。私にも彼と同じものを。それから――エビは四つです」 「かしこまりました〜」 壁の花と化していたウェイトレス〜玉蘭は深々と頭を下げてから厨房に消え、すぐに大皿を載せた盆を持って戻ってきた。 どうにも早過ぎると思ったら、盆からは中華料理屋には似つかわしくない香りが漂っていた。――火薬とガン・オイル…サイズからして、拳銃の匂いだ。それに気付いた龍麻を見て、李の微笑が深くなる。 「お納めになって下さい。役に立つと思いますよ」 「…失礼する」 李の勧めに従い、龍麻は盆に掛けられた布を取り除け、僅かに目を細めた。 「…エンフィールドＮｏ２Ｍｋ１…骨董品だ」 盆に乗っていたのは、弾丸こそ純銀弾頭であったが、拳銃の方は回転式拳銃の発展期に産まれた中折れ型回転式拳銃であった。 最初期のリボルバーはコルトＳＡＡを始め、装薬システムがシングルアクションのみである。西部開拓が行われた頃は【決闘】が法律で認められていた為、ガンスリンガーは早撃ちの技術のみを磨いていれば良く、弾丸の再装填をそれほど気に掛ける必要はなかった。 しかし時代は進み、リボルバーはトラブルが少なく強力な弾丸を使えるというメリットの反面、弾丸の再装填に時間がかかるというデメリットが浮き彫りにされるようになった。現代において主流となっている、輪胴を横に出すスタイルでも、小口径多弾頭の自動拳銃が台頭している今、このデメリットを克服できてはいない。 このエンフィールドは、自動拳銃など机上の空論の段階でしかなかった頃に、軍用拳銃として産まれた銃である。――戦争は決闘とは違い、弾丸の再装填に時間がかかっては命に関わる。そこで当時としては画期的な、銃身と輪胴を一体化させ、撃発システムを有するグリップパーツと分離する事で、六発同時に弾丸を再装填できる中折れシステムがリボルバーの新時代を築いたのであった。 しかし、現代においては… 「その点に付いてはご容赦を。我が【九頭竜】は獣人対策として銀弾を使用していますが、ご存知の通り銀弾は何かと不便です。――その銃はウイルスを検証した学者の私物で、あなたからの情報を基に取り急ぎ試作した対獣人専用弾です。弾殻強化で貫通力を高め、内部に硝酸銀を中心に幾つかの特殊成分を混ぜているとの事です」 伝説によれば、獣人は銀弾に弱いとされる。しかし銀は弾頭とするには高価な上、金属としては軟質なため、貫通力にもマン・ストッピング・パワーにも欠ける。昔ならばいざ知らず、現代では防弾ベストを一枚着られたら、簡単に止められてしまう。 この弾丸は銀弾の欠点を克服するべく、弾頭部に真鍮のカバーをかけて貫通性能を高め、弾頭内部をくりぬいた所に水銀を詰めている。――いわゆる、ベルサイユ条約で禁止されている恐怖の弾丸、水銀弾の強化版だ。対獣人用として、これほど効果的な弾丸もないだろう。 「その学者は、自分の事を？」 「勿論、知っています。そして、この事件に憤りを覚えている一人。あなたならばと、この銃を託されました」 「…このカスタマイズには何の意味が？ 特に、これは解らない」 左右兼用仕様になっているバレルラッチを押し、エジェクターロッドの滑りや排莢の具合を見る龍麻の手元で、絶えずチリチリ鳴る物がある。実用主義の龍麻としては釈然としない装飾――そのエンフィールドには銃身の下に折畳み式のナイフが装着され、グリップには何と鈴が付いていた。ナイフは純銀製であるが、そもそも拳銃は格闘戦用の武器ではないし、仮に百歩譲ってナイフは良しとしても、鈴は論外だ。相手に位置を知らせる事に何のメリットがあるというのか？ 「確かに。本人によれば【趣味】との事ですが――」 李はそこで、裏世界の住人に相応しい、冷徹な眼差しを龍麻に送った。 「その銃を使い続けて、【彼女】はまだ生きています」 「……！」 つまりそれが学者――【彼女】とやらの戦闘思想なのだろう。一見実用性皆無なこの銃に、龍麻ですら気付かぬ実用性が隠されているという事か。しかも【使い続けて】と来た。どうやら【彼女】とやらは、ただの学者ではないらしい。 「…了解しました。有り難く使わせていただきます」 ナイフを畳み、龍麻はエンフィールドと予備弾をポケットに納めた。すると 李は元の雰囲気に戻り、少しおどけて肩を竦めた。 「そう言ってもらえて幸いです。何事も自分で検証しなければ気が済まないのが【彼女】の性分でして、試作弾は今のところ３８Ｓ＆Ｗしかありません。ですから――これは私個人からの贈り物です。あなたにはこちらの方が役に立つかも知れません」 そう言って李が取り出したのは、鋼鉄製のメリケンサックであった。勿論、聖印を刻んだ突起部には純銀が使われている。龍麻は少しほっとしたような表情を作った。 「これは有り難いものですが、高いものではありませんか？」 「どうかお気になさらず。我が【九頭竜】としても、あなたがこの一件で動いてくれるのは好都合でして。――あなたとは末永くお付き合い願いたいですからね」 裏社会を知る者には驚くべき事だが、李は本心も露わにした。龍麻の行動は【九頭竜】の利益になる。それも事実だが――彼は個人としても【九頭竜】の長としても、龍麻との敵対を望んでいないのだ。もし、その時が来ても、【九頭竜】の勝利は動かないだろうが、李はそれだけ龍麻を高く評価しているのであった。 「では、こちらも有り難く。――感謝します」 龍麻が頭を下げると、今度こそ本物の料理を乗せた盆が届けられた。どうやら林は龍麻と李の会見が終わるタイミングを見越していたようだ。格闘技術のみならず、料理人としても一流だ。 そして蓋が取り除けられ、食欲をそそる油の香がぱっと広がった時、龍麻は暫し絶句してから深く頷いた。 「…なるほど。確かに二つで充分だ」 顔を上げた龍麻に、玉蘭がにっこりと笑顔を見せる。海老炒飯というからには、具として剥きエビがいくつか入っているのだろうと推測していた龍麻であったが、これは予想外であった。こんもりと盛られた炒飯の上に、見事に蒸し上げたエビが四本。ただし一本一本が成熟した伊勢海老だったのである。 「この世界はスタミナなしには務まりませんよ。そして私の国では、大食漢は尊敬されます。――我が【紅王華】自慢の一品、堪能してください」 「承知いたしました」 龍麻は食事に時間を割かないタイプだが、情報が揃うまでの時間を充分に費やして巨大海老炒飯に挑み、レンゲ半分ほど飯粒を残して（中華料理の儀礼だ）完食してのけた。 眠らない街と称される新宿だが、夜通し営業している店の比率は半々といったところだ。龍麻が【紅王華】を出た〇〇一〇時ともなると、街行く人影もさすがにまばらになり始める。 【九頭竜】筋の情報から推察するに、【シグマ】なる武装集団がどこで目を光らせていてもおかしくないが、むしろ自ら動く方が事態の進展を加速する。そう考えつつ歩き出すと、早速携帯電話が振動した。 「――誰だ？」 『ア・タ・シ。タバコはあるかしら？』 「煙草は持っていない。ロッテのチョコレートならばある」 『チョコなら森永よ。――気になるネタを仕入れたんで伝えとくわ。例の久保早百合って娘だけど、これまでに三回も捜索願が出されて、その全てが書類上では解決済みになってるの。単純に握り潰されたんじゃないってところがポイントね。――続きは？』 「聞かせてもらおう」 『オーケイ。この件を解決済みにしたのは警視庁の蘭堂警視正。若手のエリート官僚の中じゃトップを争う出世頭よ。当然、敵も多いし、危ない噂も多数。最近、警視庁内部に妙なカルト的集団が生まれているって噂があるんだけど、この男の名前も挙がっているわ。そしてこのところ蘭堂警視正が出入りしているのが神楽坂の【シャングリ・ラ】〜【ロイヤルヒルズ】っていうホテルの最上階にある会員制の超高級クラブ。そこで今夜、何か秘密のパーティーが開かれるらしいんだけど、例の【フリーダム】の幹部やら、弱小警備会社の車やら、サイレンを鳴らさない救急車やらが何度も出入りしたりして、なにやらキナ臭いわよ。――行くなら気を付けてね』 「救急車は何台だ？」 『――二台。一台は都内のＸＸＸ病院だけど、もう一台は筑波の国立ＹＹＹ病院ね。しかもＹＹＹ病院のは、装甲車の護衛付きよ』 「了解した。――料金は規定額を口座に振り込んでおく」 別れの挨拶の後に【ブチュッ】という音がして、情報屋マダム・クレオパトラからの電話は切れた。 これで、龍麻の推理の一つがとりあえず裏付けられ、行動の指針も出来た。ＸＸＸ病院と言えば、瀬川が入院していた病院だ。そしてＹＹＹ病院とは、問題を起こした政治家がほとぼりを冷ますのに使用する、知る人ぞ知る保養施設。――向こうでもなにやら大物が動き出したらしい。 亜里沙に頼まれたのは早百合の救助だが、この騒動の裏には、警察を含めた国家機関が一枚噛んでいる。たとえ首尾良く久保早百合を救助したとしても、それだけでは終わらない。根本的解決を図らねば、今後も似たような事件が続くであろう。――と、なれば、やはりパーティー…ウイルスの交換会を攻めるべきだ。久保早百合を始めとする誘拐被害者を救出し、この件に関わる悪党を殲滅できれば理想的だ。 方針は定まったが、考えるまでもなく【シャングリ・ラ】を警備しているのはあの武装集団だ。そして中には獣人もいる。――いかにも戦力不足だが、龍麻は【仲間】を呼ぶのはやめにした。この件には【人間】の悪意が複雑に絡まり過ぎていて、実戦経験が少なく、精神的にも未熟な彼らに見せるのはあまりにも酷だからだ。 援軍はラヴァ一人で良かろう――龍麻がそう決め、携帯電話を手に取った時、正にその携帯が振動した。番号は亜里沙だ。 「――龍麻だ」 『あ、龍麻！？ 今連絡が入ったんだけど、早百合さんの事でナミさんが至急会いたいって。今は刑事と一緒にいるって言ってるんだけど…』 「…時間と場所は？」 『新宿駅のガード下で待ってるって。――アタシも行って良いかい？』 「…良いだろう。すぐに出て来い。――その前に【彼女】と換われ」 『――なんだ？』 「――特別手当てを百万付ける。その娘を守れ」 『……解った』 電話を切ると、龍麻は足早にＪＲ新宿駅方面に向かって歩き出した。 〇〇一五時、京王プラザホテル、三Ｘ階、デラックスダブルルーム。 藤咲亜里沙は、無口な自称女私立探偵と二人きりの部屋で、なんとも居心地の悪い気分を味わっていた。 【力あるもの】である事を除けば普通の高校生である亜里沙には、一泊十万近くするというこの部屋は豪華すぎたのである。好きに使えと言われ、最初こそ状況も忘れてバスルームやベッド、家具調度にはしゃぎ、ウェイター付きのルームサービスに舌鼓を打った彼女であったが、熱が冷めると分不相応という言葉がのしかかってくる。 加えて、同室の女性がなんとも扱いにくい。他ならぬ龍麻が同行を認めたのだからと、最初は色々と話し掛けたのだが、もとより世界観が違いすぎる為にネタはすぐに尽きてしまい、更に彼女が自分の事を【普通】の少女としか捉えていないと知るに至って、話し掛けづらくなってしまったのである。多少なりと打ち解けられるチャンスと思えた食事も、彼女は赤ワイン以外には手を付けなかったのであった。そして今は、着の身着のままの格好でベッドに横たわり、目を閉じている。 一方、ラヴァにとっても今夜は異例な事ばかりであった。かつての敵と脅し合った果てに共闘する事になり、しかし扱き使われるでもなく、更には【普通】に生きている、同じ世代の少女と接するなど。 「…ラヴァってさ、アンタの名前？」 「…仕事用の名だ。本名を使える商売ではない」 「そっか…そうだよね。でも、意味とかあるの？」 「あだ名だ。【恋人】から来ている」 「【恋人】？ なんともストレートで良いね」 「…私は男が嫌いでな。無碍に扱った男達が僻みと嘲りを込めてそう呼んだのが始まりだ。――最低のセンスだ」 「ア〜、ゴメン。アタシ、馬鹿だから気配りって奴が苦手なんだ」 「…自分を卑下する事はない」 「アハッ。――龍麻にもよく言われるよ」 「…あの男か。相当なプロと見たが、彼は何者だ？」 「ん〜、アタシにも良く解らないのさ。元アメリカ軍で、上のモンに裏切られて、脱走兵扱いで…アタシなんかじゃ想像もできない苦労人さ」 「元アメリカ軍…。あの男は日本人ではないのか？」 「だからね、その辺の事情がすっごくハードでさ。六つくらいの時に実の爺さんに虐待されて、殺されそうになって逃げていった先でアメリカ軍に拾われたとか何とか。時々すっごくボケたコト言うけど、アイツの場合、アタシらが普通に知ってるような事を知らないかららしいんだよね」 「……」 亜里沙の話に何を感じたのか、それきりラヴァは何事か考え込んでおり、そのただならぬ様子に亜里沙も沈黙していたら、いきなり「寝る」と言い出し――現在に至る。 そもそも、龍麻がこの女性を対等に扱う事に、亜里沙はちょっとした嫉妬を抱いていた。裏世界では名の知られた私立探偵だという事だが、同性から見てもその颯爽とした姿は格好良いと思うし、龍麻にも通じる危険な香が妖しくこちらを惹き付ける。その実力を垣間見た亜里沙の目は、今ではどこか憧れめいて彼女を映していた。 「…何を見ている？」 初めてラヴァの方から声をかけてきたのは、沈黙が降りてから一時間後の事であった。眠っていた訳ではなかったらしい。 「いやッ、別に、なんでもないさ。――そうだ、何か飲むかい？」 「――結構だ。私は赤ワインしかと摂らん」 「はあ？ さっきあんなに飲んだじゃん。ひょっとしてアンタ、呑んべ？ アルコールは脳細胞を破壊するよ」 そう口にしてから、自分が酷く馬鹿な事を言っていると気付く亜里沙。見た目はどうあれ、この娘はアンダーグラウンドにも通じる人間だ。【表】の常識では計れない。――龍麻のように。 「…可愛いな、お前」 「な、何馬鹿言ってんのさ…って…！」 顔を赤くした亜里沙が瞬きをした直後、ラヴァは目の前にいた。空気も揺らさず亜里沙の下まで移動したのである。そして目には、どこか妖しい光。 「私にとって、待つことは苦痛ではない。だが退屈だと言うなら、私がなんとかしてやろう」 つい、と伸びた手が、亜里沙の顎を引いた。 「なななな、なにをっ！？」 「男は嫌いだ。権力、金、女――男の行動原理は常に欲望と共にある。俗で、下らぬ生き物だ。私は女の方が良い。特に、お前のようなタイプは好みだ」 「ちょ、ちょっとタンマ…！ ――って、ひゃあっ！」 とんでもない台詞にうろたえた亜里沙は、軽く押されただけでベッドに転がり、ラヴァに組み敷かれてしまった。ラヴァの顔がぐっと近付くと、彼女の甘い体臭が鼻孔に忍び入ってくる。めまいがするような酔い心地。 （え〜っ！ え〜ッ！ エ〜ッ！ エエ〜ッ！） 「…恐れるな。女同士の営みは、欲望を吐き出すしか能のない男のそれを越える」 （う、嘘ォッ！？） 亜里沙の両足の間に、ラヴァの膝が割って入る。首筋にふうっと息を吹きかけられると、亜里沙の全身にゾクリと電流が走り抜けた。 （ひえええっ！ まじマジマじマジィッ！？） 想像だにしなかった事態にパニックを起こした亜里沙には、普段の気丈さなどどこにもなく、文字通りラヴァにされるがままになってしまった。ラヴァは目を細め、亜里沙の唇を奪おうと顔を寄せた。 ――プルル、プルル、プルル… 「――！」 軽やかな電子音が、亜里沙に現実感覚を取り戻させる。すると身体にかかっていた重みがすっと遠のき、ラヴァは元の無表情に戻ってベッドに座り直した。亜里沙もぴょんと跳ね起きる。 （あ〜びっくりしたビックリしたマジビックリしたッ！ 危うくアブない世界に行っちゃうトコだった！） まさかこのラヴァがそんな趣味の持ち主だったとは！？ しかも思いがけず気持ち良いとか思ってしまった自分に驚くと共に、電話が鳴らなかったらどうなっていた事かと妖しい戦慄を覚えた亜里沙であった。 胸の動悸を押さえ、携帯電話を取る。相手の番号は…なんと早百合からのものであった。 「――もしもし！ 早百合さんッ！？」 『亜里沙…。私よ。解る？』 「――ナミさん！？」 どうしてナミが早百合の電話を？ しかも彼女は、刑事と一緒にあそこを脱出した筈ではなかったか？ 『今から会えない？ さっきの刑事さんと一緒にいるんだけど、警察も危ないから逃げてるの。亜里沙と一緒にいた男の子に会わせて。早百合を助けて欲しいのよ』 「早百合さんを？ どこにいるか知ってるの？」 『ええ。あいつらの行く所は解るわ。――もうあんな奴らとは手を切りたいのよ。助けて、亜里沙』 「ちょっと待って。そういうのはあいつに聞いてからじゃないと…。どこに行けば良いの？」 『新宿駅のガード下にいるわ。ヴィクトリアの前よ』 「解った。――待ってて。すぐに行くから！」 亜里沙がそう言うと、電話は向こうから切れた。続いて龍麻の番号をコールしていると、ラヴァが話し掛けてきた。 「…誰からだ？」 「え？ ああ、あのマンションで刑事と一緒に逃げた人だよ。警察も危ないって、逃げてきたみたいなんだ」 「――罠だ。相手にしない方が良い」 「罠って…あの人はそこまでワルじゃないよ。まあ、龍麻がなんて言うかだけど」 すぐに龍麻と電話が繋がり、ナミの言葉を伝えると、すぐに出ろと言う指示が来た。ラヴァと電話を換わり、亜里沙は少しほっとして装備を再確認する。鞭、高見沢舞子特製の応急キット、携帯電話とカロリーメイト、のど飴で通常装備は万全だ。 更に亜里沙は、龍麻の指示通り、クローゼットの中から今回の特殊装備を取り出した。 上着こそ何の変哲もない黒革のジャンバーとスラックスだが、一見豪華な下着…防弾仕様のボディスーツが目玉である。かのエリザベス女王が着用して話題となった防弾ブラジャーの発展型で、多少の重量はあっても着用感はなかなか良好、距離二〇メートルからの三五七マグナム弾を止める性能を有し、デザインも某一流ブランドに発注した為、各国の女性ＶＩＰの間でひそかなブームとなっている品だ。――和弓が武器の小蒔が防具代わりにさらしを使っている（意味ないだろうと言って殴られた者が約一名）事を知り、試験的に取り寄せた内の一着である。 これで多少は気が楽になると着替え始める亜里沙であったが、同室の女性の趣味を思い出して恐る恐る振り返った。 「…了解した」 何事か龍麻の指示を受け、頷くラヴァ。無表情は変わらず、真剣さが滲み出たのを感じて、亜里沙は彼女が龍麻にどんな指示を受けたのか気になった。それを聞くと、 「お前と離れるな、との事だ。――私は無論、そのつもりだが」 下着姿の亜里沙を上から下まで撫でるような視線を送るラヴァ。亜里沙はボディスーツごと我が身を抱き締めてぶるっと震えたが、龍麻と合流すればおかしな事はされまいと自分を奮い起こし、あたふたと着替えを終えた。 第五話閑話 闇に駆けろ ２ 目次に戻る 前に戻る 次に進む コンテンツに戻る |