第五話閑話 闇に駆けろ 4





 
 龍麻たつまとラヴァのピンチを、飛鳥あすかは決して黙って見ていた訳ではなかった。

 龍麻たつまが分析した通り、【闇の刃ダークブレイド】と恐れられた彼は、噂ほど冷酷非情ではなかった。残虐に見える行為は敵を殺す為に必要な措置に過ぎず、目的の為に手段を選ばないようでいて、無関係の人間を巻き添えにする事はなかったし、助けられる命を見捨てる事もなかった。早百合さゆりをおとりに使った時も、結局途中で助けに行ったのである。

 だが、今の彼はかつてない強敵と戦っているのだ。

「ぐはァッ!」

 これでもう何度目になるのか。飛鳥あすかは石柱に叩き付けられ、血泡を噴いた。

『そらそら! もう一度行くぜェッ!』

 ぐわ、と相馬そうまが口を開き、超高周波が飛鳥あすか目掛けて飛ぶ。飛鳥あすかは横に転がってそれを避けたが、都合八つの目で見切ったその位置を芝倉しばくらの稲妻が打つ。飛鳥あすかの着る戦闘服は耐電仕様ではあったが、先の攻撃で受けた裂け目に電撃が走り、彼の肉体を痺れさせる。そして――動きの止まったところに鞭のごとき斬撃! 飛鳥あすかは容易く吹っ飛ばされ、天井に激突し床でバウンドし…並の人間ならば全身の骨が砕けていようが、彼はそれでも身を起こした。

『ケエッ! ホントに頑丈なヤロウだな、テメエは!』

 口汚く吐き捨てる声の主は、中央に位置する瀬川せがわである。だがその顔は、かつて自分を嬲り殺しにした相手を圧倒しているという、歪んだ歓喜に濡れていた。しかもその相手はこれまでに何人もの組織の幹部を殺してきた、【闇の刃ダークブレイド】と呼ばれる恐怖の代名詞なのである。その彼を一方的に打ちのめし、床に這わせたのがこの自分だ。この男の首を取れば、もはや自分は使い走りの若造ではない、五人分の力を集めた最強の獣人として組織の大幹部に迎え入れられるだろう。こんな脆弱な人間を一匹殺しただけで!

 何人もの獣人を屠ってきたナイフは既になく、もはや気力だけで立ち上がる飛鳥あすか瀬川せがわがズカズカと近寄っていくと、飛鳥あすかは拳を固めて殴りかかった。当然のようにそれはあっさりと受け止められ、逆に胸板を掻っ捌かれて床に叩き伏せられる。今度こそ装甲板が割られ、床に血飛沫が飛び散った。

『最ッ高の気分だぜェェッ! 殺し屋ァァッ!』

 四つの首でげらげらと笑いながら、瀬川せがわは踊るような足取りで飛鳥あすかに近付き、鷲爪でその首を掴んで彼を宙に吊り上げた。――浮かれている。自分の圧倒的な強さに。かつて自分を殺した相手が、余りにもか弱く見える事に。ざっくりと切り込まれた胸板から流れる血は、瀬川せがわにとって【勝利の美酒ビクトリー・ワイン】に他ならなかった。

『まだまだこんなモンじゃ済まさねェぜェェ。俺らはもっともっと切り刻まれたんだからなァァッ!』

 耳まで裂けた口でゲヒャゲヒャ笑いながら、飛鳥あすかの肉体に新たな傷を刻み込む瀬川。両手の刃で撫で斬り、突き、こじり上げる程に鮮血が床に飛び散る。その癖、急所だけは巧妙に外し、少しでも長く飛鳥あすかを苦しませんとする。

 瀬川せがわをここまで変貌させたのは、ひとえに【闇の刃ダークブレイド】への怨みであった。切り刻まれ、押し潰され…それをかつて自分が女性や幼児にやった事など、既に忘却の彼方に埋没している為、自業自得などという考えは彼にはなかった。頭にあるのは【闇の刃ダークブレイド】に対する復讐心のみで、可能な限り苦痛の多いやり方で、残酷に、残虐に切り刻まねば気が済まない。しかしこの男は呻き声一つ上げず、隙を見せようものなら喉笛に喰らい付き兼ねない強烈な殺気を放っている。――気に入らない。

『そういやお前、あの瑞穂みずほちゃんの彼氏だったんだってなァ』

「――ッ!」

 満身を切り刻まれながら、なお冷徹を貫き通していた飛鳥あすかの眼に動揺が現れるのを見て、瀬川せがわは他の首もろとも唾液を溢れさせながらゲラゲラと笑った。

『ケケケ! 確かにありゃあイイ女だったぜェ。ヒヒ爺どもにメチャクチャられまくってる中古品だって聞いてたのによォ、あそこの具合ときたら今思い出してもおっ勃ちやがる。しかも俺らをこんなにも強く生まれ変わらせてくれたんだからなァ。瑞穂みずほ様サマだァ』

「貴様…ッッ!!」

 血泡と共に吐き出される際限なき怒りと憎悪。瀬川せがわはなお愉快そうに笑った。

『ケケケケケッ! そうよ! お前が早百合さゆりちゃんを逃がしてくれたおかげで一番人気の瑞穂みずほちゃんを頂く事が出来たって訳さ! クカカカカカッ! 悔しいか? ええ!? 悔しいだろう? テメエが一度殺した俺らがよォ、テメエの大事な瑞穂みずほちゃんをよってたかって姦りまくったんだぜェ! しかも姦ってる間中、たまんねェ声でテメエの名前を呼んでやがった。テメエをぶち殺したらツラの皮剥いで、テメエのツラでもう一度姦ってやるよォ。――いや、その前にテメエの前で姦ってやるのも悪くねェなあ。どうせお前、まだ瑞穂みずほちゃんに手ェ出してなかったんだろ? ケケケ、俺らは親切だからなァ。めいど冥土のみやげ土産にお前の大事な瑞穂みずほちゃんがよがり狂うところを見せてやるよォ。幸い、すぐそこにいる事だしなァ』

「何…!」

 飛鳥あすかの視線が瀬川せがわの親指の先を追い、紗幕の下りた祭壇に、その下の暗黒に据えられた。

 あの向こうに、瑞穂みずほがいる? 半年前、スキー旅行に行く途上で立ち寄ったドライブインで見た笑顔を最後に、闇の彼方に消えた少女が。どことも知れぬ地下の祭祀場で、自分の目の前で、この世のものとも思えぬ奇怪な怪物に陵辱りょうじょくされ、瞳の光をなくした少女が。

 飛鳥あすかの顔から表情が消えた。

 あの事件の時、自分が血に狂っている隙に、瑞穂みずほはいずこかに連れ去られてしまった。それから半年、復讐鬼と化して戦ってきた。誘拐された女性達が、奇怪な儀式の果てに怪物を生む母体にされているという事は最近になって知った。瑞穂みずほが、その犠牲ぎせいになっている事も。

 だから、戦ってきたのだ。だから、ここまで来たのだ。どんな状態に貶められていたとしても、瑞穂みずほが生きている限り救い出すと。――元の生活には戻れないかも知れない。あの笑顔は戻らないかも知れない。彼女の知らない、そして自分さえも知らなかった、今の自分を恐れるかも知れない。――それでも構わない。生きていてくれさえいれば。

 そして――遂に彼女に手が掛かった。あの向こうに、彼女がいる。飛鳥あすかの無表情には、微かな安堵すら含まれていた。

『感動の再会にゃまだ早いぜ。――まずはハラワタぶちまけろや! 殺し屋ァァッ!!』

 瀬川せがわの鎌が飛鳥あすかの腹に押し当てられる。妖刀のごとき切れ味を誇る鎌は、軽いひと裂きでも飛鳥あすかの内臓を吹き零れさせるだろう。瀬川せがわはべろりと舌なめずりし、刃の腕にぐっと力を込めた。――その時!

「待ちな化物! ――こっちを御覧ごらん!」

 亜里沙ありさ啖呵たんかが血の饗宴きょうえんを切り裂く。瀬川せがわはうるさそうに振り向き、そして陶然とうぜんとなった。相馬そうまも、アブドゥラも、芝倉しばくらも、龍麻たつまとラヴァを襲っている田茂沢たもざわも、同じように亜里沙ありさを見た瞬間に表情を呆けさせた。

 心を閉ざしていた頃とは違い、現在の亜里沙ありさは存在自体に華がある。あおいをユリ、小蒔こまき向日葵ひまわりと称するならば、亜里沙ありさ薔薇バラだ。迂闊に手を出せば、棘で傷付く大輪の花。そして亜里沙ありさは今、その華を最大の武器とすべく、大胆にもドレスを脱ぎ去ったのであった。早熟で、既に大人の女性のラインを備えた肢体を覆うのは、黒い下着の上下とガーターベルト、レースをふんだんに使ったストッキング。男ならば目を奪われずにはいられない、少女にあるまじき妖艶さに、少女のみが持つ健康的な青春の輝きが同居するという奇跡の裸身。一つの完成された美がそこにあった。

 都合十個の目が、ただ一つの美に吸い付けられたその時、瀬川せがわの背後にやや太目のタキシードが飛び出した。

「くたばれ! 化物ォ!!」



 ――ドゴォォンッ! ドゴォォンッ! ドゴォォンッ!



 ヴェネリM3から飛び出したOOBダブルオーバッグ弾が瀬川せがわの腰を直撃し、芝倉しばくらの首がちぎれ飛ぶ。田茂沢たもざわは分離できてもこちらは神経が繋がっているのか、瀬川せがわ相馬そうまもアブドゥラも絶叫を放った。

 完璧に実行された、御厨みくりやと示し合わせた亜里沙ありさの捨て身の陽動。その瞬間、ホールの二箇所で生と死が逆転した。

 ――ブゥゥンッ!!

『なっ――にィィィッ!?』

 高周波の唸りと共に、鮮血が薄闇に飛び散る。黒い鮮血――瀬川せがわの武器たる腕四本がまとめて切断され、そこから噴き出した血であった。

 がら空きになった瀬川せがわの腹部に、獣のスピードで突進した飛鳥あすかのボディーブローが突き刺さる。――否! 刺さったのは拳ではなかった。飛鳥あすかが拳を真上に突き上げ、振り切ると、瀬川せがわの腹部から胸板までが盛大に黒血を床にぶちまけたのである。

『ッッギャアァァァァァォォォォッッ!!』

 無敵の合成獣人が悲鳴を上げて床を転げ廻る。人間らしさを残す手が必死に噴き出す内臓を押し留めようとするが、全く無駄な行為だった。普通の傷ならば即座に修復される筈なのに、呪われた筋肉細胞が反応しない。見れば、傷の切断面が焼き潰されていた。そして、そんな傷を作った武器は――

『なん…だそりゃ…ッ! アメコミかッ、テメエッッッ!』

 飛鳥あすかの手元で、ブゥゥン! と空気が唸る。薄闇の中で自ら発光する二本の刃〜ハリウッドの一大スペースオペラの生んだ光の剣ライトセーバーごときそれは、飛鳥あすかの手の甲を突き破って生えていたのである。

 【これ】こそが【闇の刃ダークブレイド】の意か。腕に刃を、それも試作研究中とされる高周波ブレードを仕込まれた、言わばサイボーグ。

『この…ヤロウッッッ!!』

 血を吐き散らしつつ、相馬そうまの首がグワッと口を開く。そこから飛び出すのは、あらゆるものを微塵に破壊する超高周波!

『――ッッ!?』



 ――何も起こらない!?



 ぐいと振り向く相馬そうまの首。彼の目が捉えたのは、ドレスを胸元に押し当てている亜里沙ありさと、その隣で両手を広げてこちらを見据えている女性であった。――久保くぼ早百合さゆり。獣人の母とも言うべき存在となった彼女が、その唇から超低周波を放って相馬そうまの超高周波を相殺しているのだと認めた時、彼の視界に閃光が十字クロスを描き、相馬そうまの顔面は十文字に裂けて飛び散った。

「――オオオオォォォォォアァァァァッッ!!」

 咆哮を上げる飛鳥あすか。彼の周囲で無数の閃光が薄闇に残像の尾を引き、細かいブロック状に切り分けられた瀬川せがわの上半身が床に飛び散った。焼き潰された傷口から血の一片も飛ばぬ、しかし確実にして恐ろしくシュールな抹殺劇。人間とは思えぬ悲鳴を上げつつ飛んだ瀬川せがわの生首を飛鳥あすかのブレードが貫き、それさえも更に分断され、とどめとなった。

「――龍麻たつまはッ!?」

 勝利と呼んで良いかも判らぬ凄まじい光景から、無理矢理目を引き剥がす亜里沙ありさ

 もう一方の戦いも、人外の様相ようそうていしていた。

 田茂沢たもざわ亜里沙ありさに見惚れ、拘束が緩んだ瞬間の事である。ラヴァは思い切り身を捻り、龍麻たつまの唇に自らのそれを重ねた。

「――ッッ!?」

 躊躇ためらいもなく差し入れられた舌と共に、龍麻たつまの口の中に血の味が広がる。甘くて苦い、複雑な味わいのそれを、龍麻たつまはラヴァの舌使いによって飲み込まされた。

 こんな時に何を? 田茂沢たもざわはその直後、自分の体内に猛烈な熱を感じて絶叫を放った。

「――私を舐めるな! 【白蛆しろうじ】!」

 ジュ――ッ! と油が焼けるような音を立て、ラヴァに絡み付いた田茂沢たもざわの肉が黒煙を吹く。その中に極めて微細なきらめきが混じり、やがて蒸気の如く噴き上がる光の乱舞と化した。その光の粒が触れる所、毒が効かぬ筈の田茂沢たもざわの肉が枯死していく。

『アヂィェェッ! ギエェェェッ!』

 溜まらず、ズルズルと離れる田茂沢たもざわ。焼け崩れた肉の残滓ざんしを振り切り、ラヴァが身を起こす。チャイナドレスが無残に溶け崩れ、露になった背に、美しい紋様もんようを描く揚羽蝶あげはちょうが羽ばたいていた。――比喩的ひゆてきな表現ではない。刺青いれずみと見えたそれは恐ろしく小さな蝶の群れで、それらが実際に羽ばたき、夢のごとく美しく無残な死を与える燐粉を飛ばしているのであった。

「これが【毒揚羽どくあげは】の――【夢幻蝶むげんちょう】!」

 無残なボロ布しかまとわぬ裸身を晒し、ラヴァは両腕を広げる。すると彼女の背から一斉に蝶が飛び立ち、天使の翼のごとく広がった。それは必死に這い逃げる田茂沢たもざわを押し包み、空気そのものを光の燐粉で埋め尽くし、その呪われた細胞を黒く黒く焼き潰す。鮮烈な美しさと静謐せいひつさを誇る死闘。正に【毒揚羽どくあげは】。美しき死の使い手。

『ぎげ…ぐげえェ…!』

 周囲の空気そのものが毒となった今、田茂沢たもざわに逃げ場はなかった。その呪われた細胞一片すら残さぬ勢いで焼かれ、溶かされていく。吸い込む空気にさえ混じる燐粉は形さえ定かではない肺にも侵入し、流動細胞を駆け巡って不気味な液状細胞を内側から焼き潰しにかかった。もはや絶命は間近と思われた、その時!

『――ウオォォ――――ンッ!』

 肉の塊から飛び出す、タコの足を生やしたような人間の生首! 田茂沢たもざわの生首だ。それは蝶の群れを突き抜け、死なばもろともラヴァに飛び掛った。

「――ッッ!」

 とっさに身構えたラヴァの背後で鈴の音が鳴った。そして――銃声。田茂沢たもざわの眉間に穴が開き、一杯に見開いた目から黒血が飛んだ。そここそ田茂沢たもざわの急所であると知った龍麻たつまは間髪入れず、ダメ押しの【掌底しょうてい発剄はっけい】を一撃! 田茂沢たもざわという存在を原子の塵にまで分解せしめた。

 ラヴァは目を閉じ、僅かに睫毛まつげを震わせた。燐粉が輝きを消し、蝶が彼女の背に戻っていく。――常識ではありえない現象だが、最後の一匹が皮膚の下に潜り込むと、ラヴァの背の蝶は普通の美しい刺青いれずみに戻った。

「――とどめを刺したかったか?」

「いや…構わん。奴は死んだ。今度こそ、確実に」

 自分の事情など、龍麻たつまには関係のない話だ。――約一年前、海上を漂流していた自分を助け、介抱してくれた少女達が、実は臓器のみを買われた者たちだった事など。

「そうか。――おかげで助かった。礼を言う」

 龍麻たつまはこの時、心から言った。

 【白蛆しろうじ】を殺したいだけであれば、ラヴァは即座に蝶の技〜【蟲毒こどく】を使っても良かった。ありとあらゆる毒持つ生物をかめに詰めて地面に埋め、恐るべき生存競争に生き残った生物を利用する毒術の奥技。その効果は絶大で、【花咲かじいさん】を始めとする有名な昔話に何度となく登場するほどポピュラーな邪法である。まして彼女が操る蝶の毒は、生命体に対する最強の毒、活性酸素。彼女の前では【無限の再生力】とやらも児戯でしかなかった。

 だが、龍麻たつまが【巫炎ふえん】の使用を躊躇ちゅうちょしたように、彼女もまた龍麻たつまがいた為に【蟲毒こどく】の使用を躊躇ためらった。今は味方でも、いつか敵に廻るかも知れない男。そんな男に最大奥義を見せるよりは、田茂沢たもざわもろとも殺してしまう方が、彼女が裏の世界で生き続ける為に最良の選択であった筈だ。しかし彼女は、龍麻に中和剤を飲ませてから奥技を使用したのである。――感謝の印には足りないが、龍麻たつまはタキシードを脱ぎ――ぼろぼろだが、ないよりマシだ――、ラヴァに着せ掛けた。

「――全員、無事か?」

「アタシらは大丈夫だよ。でもあのヒトが…」

 飛鳥あすか瀬川せがわをバラバラにした後で、足を引きずるようにして歩き出していた。彼の目的はまだ果たされていないのだ。

「お前――生体強化戦士バイオニック・ソルジャーだな」

 獣人に迫る運動能力に、コンクリートに叩き付けられ、切り刻まれても平気な耐久力。それが【気】や【術】に属したものでないとなると、答は一つ――人の手によって生体強化処置が施されているという事だ。最初に対峙した時に打ち込んだ拳足の手応えを思い返すに、骨格はチタンに似た軽量高硬度金属、筋肉細胞も分子変換処理と遺伝子強化処置を施されたバイオニック・セルだろう。そして生体電流で作動する高周波ブレード…彼は人の技術が創り上げた超人であったのだ。

 だが、この超人は不完全だ。バイオニック・セルもまた、獣人の細胞と同じく、その稼動に多大のエネルギーを必要とする。まして彼は高周波ブレードを作動させるエネルギーも自ら供給せねばならない。しかも今回は相当な無理が祟ったか、彼の顔や手足には死斑すら浮いていた。

 しかし飛鳥あすかは一顧だにせず歩を進め、龍麻たつまも彼に背を向けた。

「ちょ、ちょっと龍麻たつま!」

 亜里沙ありさが声を上げると、龍麻たつまはふと思い出したように言う。

亜里沙ありさ、よくやってくれた。御厨みくりや刑事も、早百合さゆり殿も。――感謝する」

「そ、そうじゃなくて! あのヒトどうすんのさ!?」

 乱入してきたとは言え、結果的に協力してこんな怪物を倒したのだ。このまま無視するなど、あまりにも非情ではないか?

「――俺の【仕事】ではない」

 龍麻たつまは冷酷に告げた。

「俺が頼まれたのは早百合さゆり嬢の救出だ。それが果たされるまで、別件を抱える訳にはいかん」

 ぐ、と詰まる亜里沙ありさ。――そうなのだ。龍麻たつまはプロだ。一つの作戦行動中に別件を抱える事のリスクを知っている。彼は実生活でも【ついで】という行動を嫌っているのだ。

「それなら――私からお願いします。あの人を助けてください」

「さ、早百合さゆりさん!?」

「あの人が、瑞穂みずほさんの恋人なのですね。私を助けたのもおとりに使うため――なんて思いません。私達は、瑞穂みずほさんがいたからこそ、気が狂いそうになる毎日を耐える事ができました。瑞穂みずほさんが、あの人が助けてくれると信じて、必死に私たちを励ましてくれて…時には私達の代わりにまでなってくれて…。――お願いです。あの人を、瑞穂みずほさんを助けてください。私にできる事なら、なんでもします」

「――俺からも頼むぜ」

 御厨みくりやも話に加わる。

「俺は刑事だ。法を守るのが仕事だ。だから本当ならお前たちを捕まえなきゃならねえ。だがそれ以前に、俺も一人の人間だ。お前たちの事情は良く解らんが、こんな事は人間として許しちゃおけねえ。まだ他にも被害者がいるってんなら――お前をプロと見込んで、頼む」

 その時、早百合さゆり御厨みくりやの胸中に涼風が吹いた。

 ずっと引き締められていた龍麻たつまの口元に、淡い微笑が刻まれたのである。それを浮かばせたのが自分である事を誇れるような笑み。早百合さゆりはこの先の長く辛い闘病生活の中で、御厨みくりやはこの先も続く数々の事件の中で、その笑みを思い出す度に辛さや苦しさを忘れた。それは、そんな笑みだった。

「――良かろう。亜里沙ありさ早百合さゆり殿と組め。御厨みくりや刑事、二人を頼む。ラヴァ、殿しんがりは任せる」

「心得た。――お人よしめ」

 つんと澄ました無表情に戻りながら、しかしラヴァも満更ではないらしい。灰と化した警備員のズボンを失敬し、さっさと身に付ける。それを見て早百合さゆりも彼女に習い、御厨みくりやも慌てて警備員の残骸から弾丸を漁った。そして亜里沙ありさは、盛大にため息を付いた。

(やっぱり…最初っからそのつもりだったんじゃん! ッたくこの男は…!)

 【仲間】に迎えられて日の浅い亜里沙ありさだが、ここでようやく、彼の性格に思い当たった。【ついで】行動を嫌う彼だが、【臨機応変】は彼の得意とするところである。どうせこの男の事だから、こんな事態になる事も想定していただろう。しかし甘えや妥協を許さぬ彼は時に非情とも思える言動で人を突き放し、人に自ら行動する事を促し、人を強くするのだ。

 亜里沙ありさの、ちょっぴりイライラの混じった感傷も知らぬげに、龍麻たつまはずかずかと飛鳥あすかに歩み寄ってその腕を取るや、彼を引きずるように歩き出した。

「何をする…貴様…!」

「怪我人は足手まといだが、これも依頼だ。――これでも飲んでシャンとしろ」

 龍麻たつま飛鳥あすかに差し出したのは、警備員の残骸から奪ってきた獣人用の高濃縮タンパクのアンプルであった。常人には強すぎるが、バイオニック・セルには最適の栄養剤だ。しかし飛鳥あすかはそれを振り払った。

「この程度の傷はいつもの事だ。いらぬ節介をするな」

「――お前の為ではない。一人で戦っている長瀬ながせ瑞穂みずほ嬢の為だ」

「…ッッ!」

 痛い所を突かれて詰まる飛鳥あすかに、龍麻たつまは強引にアンプルを押し付けた。飛鳥あすかは渋々それを受け取る。瑞穂みずほを助ける為には、ここでつまらない意地を張ってはいられない。

 飛鳥あすかが栄養剤を三本まとめて飲み干すのを眺めてから、龍麻たつまは不意に口調を変えてホールの一角に声をかけた。

「――何をグズグズしている? さっさと案内しろ」

「――ヒィッ!」

 龍麻たつま以外、誰もが存在を忘れていたのだが、そこで小さく縮こまっていたのは田嶋たじまであった。首輪の爆弾を恐れて逃げ出す事もできず、更には人間が絶対に勝てる筈のない【超人類】が倒されるところを見てしまったのである。彼の目には、龍麻たつまたちこそ得体の知れぬ怪物に見えていた。

「さ、祭壇の裏に階段が…。でも俺は、この先に行った事は一度もないんだ」

「ならば喜べ。先頭を行かせてやる」

 たった今見せた侠気おとこぎは、打算で生きてきた男にはまったく適用されなかった。龍麻たつまは容赦なく田嶋たじまの首根っこを掴んで立たせ、階段に向かうように言って放り出した。















 一同が暗い廊下を走り抜け、分厚い鉄扉を有する部屋に辿り着いた時、そこは既にもぬけの空であった。ただし内装は酷い荒れようで、蝋燭ろうそくや香炉が散乱し、貴重な魔術具も床に放り出され、小型の台風でも直撃したかのようであった。しかし壁の巨大な爪痕や、焼け焦げた跡を見るに、単に撤収を急いだだけではない、とてつもない力の暴走を感じる。そして飛鳥あすかは、床の散乱物の中から赤いリボンを拾い上げて握り締めた。

瑞穂みずほ…!」

 焦燥に駆られた目を周囲に走らせる飛鳥あすかだが、この部屋は廊下の突き当たりにあり、出入り口も一つしかない。――どこから逃げた?

「――連れ出されてからせいぜい二分というところだ」

 血で汚れた絨毯じゅうたんに触れ、龍麻たつまが告げる。そこにはまだ人肌のぬくみが残り、こびり付いた血や体液の残滓ざんしも乾き切ってはいなかった。脱ぎ散らかされた男物のスーツも、スラックスと下着だけがなくなっている。――余程慌てていたらしい。

「ここにも隠し扉があるな。――こっちだ」

 絨毯じゅうたんに残った痕跡が、龍麻たつまを隠し扉へと導く。スライド式の扉は冷凍庫並の厚みがあり、指をかける所すらなかったが、そこはこのメンバーである。ラヴァが腐食毒で指をかける所を作るや、龍麻たつま飛鳥あすかが二人がかりで扉をこじ開けた。

(これがプロって奴なのか? 妙に連携ができてる気がするが…)

「――オッサン! ボーっとしてる場合じゃないだろッ!」

 御厨みくりやの黙考を亜里沙ありさの怒声が破る。隙間ができると同時に飛鳥あすか龍麻たつまも階段を駆け上がって行ったのだ。

「お、おうっ」

 今は刑事であることを忘れろ――それに徹するしかなさそうだ。持ち慣れない散弾銃を抱えているのでもたつきながらも御厨みくりやは階段を駆け上がり、いよいよ屋上に出るところで――

「――伏せろ!」

 扉が開くと同時に、撃ち込まれる弾丸。狭くはないが、広いとも言えない階段を跳弾が跳ね回り、御厨みくりやの足元で砕ける。続いて銀色の円筒が飛び込んできて、たちまち周囲を催涙ガスで白く染めた。

「――ここが最終防衛ラインだ」

 龍麻たつまは一瞬だけドアから顔を覗かせ、敵戦力を確認した。

 【闇の刃ダークブレイド】を倒すために【シグマ】は躍起になっているらしい。こちらの人数だけを考えるならば壮大な出迎え。強烈なサーチライトとヘリの爆音、約三十名の歩兵の立てる靴音。銃の安全装置セフティを外す音もそこかしこで響く。防弾シールドの陰でMINIMI軽機関銃がこちらを睨み、上空ではヒューイ・タイプのヘリが二機、M60E3をこちらに向けて旋回していた。

 それらを貫いた先に、サーチライトに照らされた大型ヘリが際立って見える。開け放たれたドアの前には奇怪な老人〜【司教ビショップ】と、ズボンのみ身に付け、たるんだ腹と胸板を見せている瀬川せがわ竜造りゅうぞう。そして、竜造りゅうぞうに抱かれた、血の滲む屍衣シュラウドまとった少女の姿があった。――長瀬ながせ瑞穂みずほ。【闇の刃ダークブレイド】〜結城ゆうき飛鳥あすかの戦う理由。

「――ようここまで来た」

 この距離で、しかもヘリの爆音の最中で、なぜ声が聞こえる? しかし【司教】の声は確かに、全員の耳にはっきりと届いた。

「その執念や良し。しかしこの娘にはまだ役に立ってもらうのでな。ここは退かせてもらうぞ」

 大型ヘリのローターが回転を始める。飛び立たせてしまったら万事休すだ。飛鳥あすかは飛び出そうとして、しかし龍麻たつまに肩を掴まれた。

「落ち着け! 的になるだけだ!」

「うるさい! 離せ!」

「今お前が死んだら、誰が彼女を助ける! もっと頭を使え!」

「…ッッ!」

 龍麻たつまは銃撃の止んだ一瞬に再度顔を出し、攻略ポイントを探る。敵歩兵三十、戦闘ヘリニ、輸送ヘリ一からなる完璧な布陣。――ここしか出口はなく、周辺二〇メートル圏内に遮蔽物しゃへいぶつはゼロ。正攻法では勝ち目はない。

「私が出ましょうか?」

 おずおずと早百合さゆりが申し出るが、龍麻たつまは首を横に振る。

「駄目だ。――あなたはもう、それを使ってはならん」

 この布陣の前では、早百合さゆりの運動能力も超低周波も、効果を上げる前に射殺される公算が高い。それ以前に、彼女をこれ以上苦しませたくはない。

いささか危険だが…そうも言ってられんな)

 龍麻たつまはFA―MASのマガジンを抜き、薬室チェンバーに送り込まれていた弾丸も取り出し、銃身を握って構えた。――銃剣が付いているので、見ている方が恐ろしい光景である。

「お前達は後から来い。――準備は?」

「――いつでも良い」

 瞬時に龍麻たつまの作戦を理解し、飛鳥あすかが頷く。龍麻たつまはドアの正面に身を晒した。

龍麻たつま!」

 途端に集中する火線! 龍麻たつまはあっさりと身を翻し、そして目的の物が吹っ飛んできた時、FA―MASをバット代わりにしてそれを打ち返した。

 催涙ガス弾がキルゾーンを白く染める。その瞬間、龍麻たつま飛鳥あすかはドアから飛び出した。二〇メートルの間合いを二秒でクリアし、武装集団の中に飛び込む二人。

 血飛沫と絶叫が沸き起こった。

 完璧な包囲陣形は、敵の侵入を許した際に脆い。ましてメインウェポンがFA−MASブルパップ・ライフルでは、太い銃床ストックが災いして銃剣が思うように使えず、接近戦に不利であった。――正に雑草を刈り取る勢いで龍麻たつま飛鳥あすかは敵戦闘員を排除していった。

 しかし、重機関銃の猛射が二人を襲う。味方がいるのも構わず、ヘリから銃撃してきたのである。とっさに防弾シールドの陰に飛び込む二人であったが、七・六二ミリ弾の固め撃ちの前ではこんなボードなど一分と保たない。

 さすがの龍麻たつまも万事休すか? そう思われた時、飛鳥あすかの腰でザーッと音が鳴った。

『屋上がお祭り騒ぎだが、お前がいるのか? ヘリは撃っても良いのかい?』

 無線機から零れ出す、随分ずいぶんと軽薄な声。――そうなのだ。【闇の刃ダークブレイド】にはスナイパーのバックアップがいたのである。

 飛鳥あすかは無線機に向かって怒鳴った。

「飛んでいる奴は落とせ。敵は東南東に集中。――屋上入り口とバートルには絶対に当てるな」

『りょーかい』

 緊張感のかけらもない返事の直後、ヘリの前面ガラスに大穴が空いた。――狙いを付けながら通信していたとしても、完璧すぎるタイミング。パイロットが即死したヘリは大きくバランスを崩し、もう一機のヘリに脇から激突し、あまつさえ東南東…生き残りの歩兵達の中央に突っ込んだのである。

 たった一発の狙撃でこれほどの効果! 龍麻たつまはスナイパーの腕に戦慄を覚えたが、構ってはいられない。バートルの離陸を阻止せんが為、飛鳥あすかと共に猛然と飛び出す。よたよたと銃を構える生き残りの兵士は、龍麻たつまのエンフィールドによって次々に塵と化した。そしてバートルのローターの唸りは、機体を浮上させるには至っていない。これなら間に合う!

「【司教ビショップ】! ここは私が! 邪魔はさせんぞ、こぞ…ッッ!」

 飛鳥あすかの前に立ちはだかろうとした竜造りゅうぞうの眉間に穴が空き、更に三発の弾丸が喉、心臓、水月を貫く。飛鳥あすかは仰け反る竜造りゅうぞうの傍らを走り抜け、ヘリに肉迫した。しかし――

「――ッッ!」

 突然、飛鳥あすかの身体が急停止した。瑞穂みずほまではあと僅か五メートル! しかし見えない圧力のようなものが、必死で足を前に踏み出す飛鳥あすかの身体を押し戻す。彼の足元がひび割れ、コンクリートが砕けると、飛鳥あすかはその反動で吹っ飛ばされた。後に続いた龍麻たつまも同様である。――近づけない!

「惜しいのお。まことに惜しい。それほどの力に、その執念。あるいはお主こそが、わしが求める素材かも知れぬな」

 何とも陰鬱な笑いを浮かべ、老人は傍らの瑞穂みずほを抱きすくめた。

「グ…ッッ!」

 ギリリ! と飛鳥あすかの歯が軋みを上げる。

 殊更に見せ付けるように、老人は瑞穂みずほの顎を上向かせ、その可憐な唇を青黒い舌で割った。異様に長い、爬虫類のように先分かれした舌は、瑞穂みずほの口腔を嬲りつつ喉の奥まで突き入れられ、彼女に苦悶の声を上げさせる。更に老人はその骨張った手で、屍衣シュラウドを押し上げている胸の膨らみを揉み始めた。

「悔しかろう? 辛かろう? もっと憎め。わしを恨め。絶望に身を浸し、憎悪に身を焦がすが良い。さすればお主も――クカカカカカカッ」

 ローターの唸りが高まり、ヘリが遂に地上を離れる。奇怪なシールドは未だ消えず、歯軋りする飛鳥あすかの口からは血が流れ出した。

「――瑞穂みずほォッ!」

 文字通り血を吐く飛鳥あすかの叫び。その時、虚ろだった瑞穂みずほの目が飛鳥あすかに焦点を結んだ。

「――ッッ!」

 美しい顔がみるみる悲哀と恐怖に覆われ、溢れた涙が風に散る。声にこそならなかったが、彼女の唇は確かに飛鳥あすかの名を刻んだ。

「――外道め!」

 彼女が正気に戻ったのは【司教ビショップ】の仕業だ。あと僅かで手が届かぬ別離を演出する為に。――珍しく怒りも露わにエンフィールドを発砲する龍麻たつまであったが、シールドは弾丸をも空中に縫い止める。【司教ビショップ】には届かない。

「カカカカカッ。それしきの力では足りぬ。届かぬ。――もっとわしを恨め。もっと憎め。はかなき希望は絶望への道標みちしるべ。この娘を追って屍山血河しざんけっかで足掻くが良い」

 とても人間とは思えない――人間ではないのかも知れないが――邪悪の発露。飛鳥あすかの怒りが強ければ強いほど、瑞穂みずほの悲しみが深ければ深いほど、【司教ビショップ】の高笑いはますます邪悪に、蟲惑的こわくてきになっていく。まるで飛鳥あすかを――挑発する事が目的であるかのようだ。

 だが、余裕は常に油断を呼ぶ。

「今だ! 亜里沙ありさ!」

「OK! 喰らいな!」

 ヘリの残骸やら黒煙やらを目晦ましにバートルの裏側に走り込んだフォークリフト――ハンドルを握るのは御厨みくりやだ――から、亜里沙ありさは鞭をバートルの後部ローターに向けて放ち、ローターに絡むと同時に手を放した。無論、大出力を誇るバートルのローターならば皮の鞭ごとき容易く引きちぎる。しかし鞭のグリップにはラヴァの調合した薬のビンが括り付けられており、ビンが砕けると同時に腐食毒がローターのシャフトを融解させ、更に早百合さゆりの超低周波が破壊を促進した。

「うひゃあッ!」

 シャフトがへし折れ、吹っ飛んできたプロペラが亜里沙ありさたちの頭上を掠める。バートルは尻餅を突き、屋上の床を引っかきつつ派手なスピンを始め、龍麻たちも否応なしに距離を取った。だが、これでもはやバートルは使えない。【司教ビショップ】の顔が初めて怒りに歪んだ。

「ザマァ見ろッ! 女を舐めんじゃないよッ!」

 世の女性を代表して悪罵を【司教】に叩き付ける亜里沙ありさ。中指まで立てたのは下品だが、女性をここまで貶める外道相手にやり過ぎとは言うまい。

 回転を緩めたバートルに向け、龍麻たつま飛鳥あすかが走る。

 しかし突然、彼らの足元が盛り上がり、天井を突き破って巨大なアメーバのようなものが飛び出した。間一髪で飛び下がる彼らの足元を、アメーバの先端に付いていた鉤爪が深々と抉り取る。

『マダ…勝負ハツイデネェェェッッ!!』

 アメーバの後方に付いてきた、四本並んだ首! 瀬川せがわ相馬そうま芝倉しばくら、アブドゥラの首だ。それは巨大なナメクジのような軟体で、それぞれの肉を蠕動ぜんどうさせて這い進み、背中一面にぶんぶん唸る触手を生やした、なんともおぞましい形状を帯びていた。

「こいつ…まだ…!」

「アブドゥラの能力か。しつこい奴だ」

 五本の首の内、アブドゥラだけが何ら特殊能力を見せていなかった。これがその答えだろう。本体が絶命した時、独立した再生能力で復活させるのがアブドゥラの役目だったのだ。

 そして、そいつの向こうでは――

龍麻たつまァッッ!」

 亜里沙ありさが叫ぶ。――信じられぬ事に、バートルが浮き上がっていた。ローターは停止寸前だというのに、音もなく、風もなく。バートルの中には瑞穂みずほを押さえ付けながら片手で印を組み、呪文を唱える【司教ビショップ】の姿があった。

「――逃がすか!」

 ラヴァがバートルに跳び付いたが、先程飛鳥あすかを吹っ飛ばした圧力障壁が彼女を襲う。だが、二秒だけ圧力に耐えた彼女は何と爪を飛ばし、圧力障壁を作り出していた【司教ビショップ】の護符タリスマンを破壊してのけた。圧力障壁が消え、落下する彼女の真下には――

「――ぐあっ!!」

 下方から伸びた無数の触手――彼女が落ちたのは瀬川せがわたちの背中であった。瞬時に巻き付いた触手は、万力よりも凄まじい力で彼女を締め付け、右腕と左足を容易くへし折った。そこで――獲物が女と知った瀬川せがわたちの力が緩む。

 瑞穂みずほが連れ去られそうになっていても、その光景も無視できぬ飛鳥あすかが飛び出そうとした時、龍麻たつまが彼を押しのけて前に出た。

「ラヴァ!!」

「――ッッ」

 ラヴァの目に映ったのは、時計を掴んだ龍麻たつまの姿。――首輪の起爆装置だ。

 ――良いとも。使え。これで私の戦いも終わる。なぜか、悪い気分ではない。――ラヴァはその想いを、握った拳と立てた親指に託した。しかし――

「――息を止めろ!」

「ッッ!?」

 バシン! と爆発する首輪。しかし膨れ上がったのは炎ではなく、何か茶色の粉であった。それを吸い込んだ瀬川せがわたちが一斉に咳き込み、くしゃみをし、その巨体をよじりもがいた。

 その瞬間、飛鳥あすかが先に飛び出した。

 身をよじる瀬川せがわたちの傍らを走り抜ける際に、ラヴァの戒めを切断する飛鳥あすか。落下するラヴァを受け止めるのは龍麻たつまの役目だ。そして飛鳥あすかはそのままバートルに向かって走り、龍麻たつまは振り返って瀬川せがわたちと対峙した。

「――こっちだ。化け物」

 龍麻たつまの右手が淡い光を帯び、左眼にはルビーのごとき輝きが宿る。そして彼はラヴァを抱えたまま、敵ならば頭に来ずにはいられぬ言葉を発した。

今度は手加減なし@@@@@@@@だ」

『〜〜〜〜〜ッッ!!』

 脆弱な人類に対する怪物…超生物の怒り! 巨大な鉤爪と稲妻、超高周波が同時に矮小わいしょうな人類に襲い掛かり、しかし龍麻たつまの姿はそこから掻き消えた。超生物に挑んだのは人類ではなく、【魔人まじん】であったのだ。

「――【巫炎ふえん】ッ!!」

 開放空間なればこそ、正に手加減なし! 白み始めた天を焦がす巨大な火柱が瀬川せがわをそっくり包み込み、その呪われた細胞を焼き尽くさんと荒れ狂った。コントロールできないのは出力に関してだけなので、巻き添えさえ出なければ龍麻たつま躊躇ちゅうちょする理由はなく、瀬川せがわは先ほどてこずったのが嘘のように、キノコ状に膨れ上がった爆炎の中に消え去った。

 しかし、最後の障害は瀬川せがわではなく、バートルがいる、飛鳥あすかの身体能力をもってしても届かぬ高度であった。僅か十メートルが、垂直方向である限り無限の隔たりと化している。

「カカカカッ、わしの【作品】をよくぞ打ち倒したものよ。これはちと分が悪い。その悲壮なる表情を手土産に、この場は退かせてもらおうかの」

 そしてバートルは、滑るような水平移動に移った。その先に広がるのは、ただただ無限の空。――逃げられる!

「――させるかッ! 降りろ姉ちゃん達!」

 御厨みくりや亜里沙ありさたちが飛び降りるや、バートルの滑っていく方向に向かってアクセルを踏み込んだ。その意を悟った飛鳥あすかが疾走を始め、御厨みくりやは走りながらリフトをいっぱいに上に上げる。そしてフォークリフトがフェンスに激突し、バートルが屋上の縁から一歩踏み出した時――飛鳥あすかはフォークリフトを踏み台に、散りばめた地上の星を眼下にする虚空へと飛び出した。そして――

 ――ガシュッ!!

 腕から伸ばしたブレードを機体に突き立て、龍麻たつまらが叩き出したチャンスにしがみ付く飛鳥あすか。更にナイフを突き立ててドアをよじ登り、ガラス越しに愛する者の姿を捉える。

瑞穂みずほ!」

「――飛鳥あすか君!」

 二人を隔てるものは、もはや厚さ五ミリのジェラルミンのみ。飛鳥あすかの手から飛び出した刃が高周波の輝きを放ち、ガラスを突き破った。そして――飛鳥あすか瑞穂みずほの手が触れ合った。

『――クフアヤク・ブルグトム・アイ・アイ…』

「――ッッ!!」

 【司教】の口から紡ぎ出された奇怪な呪文が完成した瞬間、飛鳥あすかはドアごと吹っ飛ばされて虚空に放り出された。次いで猛烈な突風がヘリをさらい、セクシャルな唇のごとき裂け目を刻んだヘリの中からは彼の名を呼ぶ瑞穂みずほの絶叫が響いた。それが生んだ衝撃波は周囲のビルのガラスを全壊せしめ、一部のビルの壁面にひびを入らせたが、ヘリはそのまま突風に乗って闇夜の中を去って行った。

「…逃げられたか。――惜しかった」

 屋上の縁に身を寄せる飛鳥あすかに、龍麻たつまは感情を込めぬ声で言った。――飛鳥あすかが吹っ飛ばされた時、ワイヤーを射出して救出したのが彼である。

「…瑞穂みずほは生きている。それが確認できただけでも幸いだ」

「彼女が殺される事はない。――追うのだな?」

「勿論だ」

 力強い即答。あと少しで助けられたとか、チャンスを逃したとか、その様なマイナス思考は一切見られない。彼女が生きている限り追い、助け出す。その想いにはいささかの揺ぎも無い。龍麻たつまはそれを――【羨ましい】と感じた。

「あの方角ならば向かう先は横田基地か入間基地。――必要ならば手を貸すが?」

「――無用だ。今回はたまたま利害が一致したが、次は敵同士かも知れん」

 大儀そうに立ち上がる飛鳥あすか亜里沙ありさ早百合さゆりは彼に手を貸そうとしたが、彼はそっと首を横に振った。

「俺の事は良い。そっちの二人を早く病院へ連れて行ってやれ」

 御厨みくりやは軽いムチ打ちで済んだが、ラヴァは右上腕部と左大腿部、肋骨二本を骨折に加え打撲多数という、【裏】のレベルでも重傷である。

「つい熱くなってな。割に合わん真似をした」

「――済まん」

「情けない顔をするな。私も少し、男を見直した。――ッッ!」

 龍麻たつまに骨折部分を矯正され、ラヴァは呻き声を噛み殺す。――飛鳥あすかと比べると、龍麻たつまは本当に女性の扱いがなっていない。おまけに――

「気を楽にしろ。――お前たちももう少し寄れ」

 怪訝そうに全員〜飛鳥あすかもだ〜が寄ってきた所で、小さなポーチに納まった粉を宙に撒く龍麻たつま

 亜里沙ありさはそれ――七色に輝く粉を見た事がある。あの【旧校舎】で【実戦訓練】のために地下深く降りた時にだ。――【妖精の粉】。かなり深い傷さえも跡形もなく治す事のできる、不思議な妙薬であった。

 現代科学では再現不能な妙薬は、御厨みくりやのムチ打ちはおろか、ラヴァの骨折も、飛鳥あすかのバイオニック・セルの機能不全すらも癒し、一同を常態に復した。

「…便利な物を。礼を言わねばならんな」

「欲しければ、北区にある店で扱っている」

 淡々と言う口調の中に、亜里沙ありさ龍麻たつまなりの気遣いを見た。共闘は成り行きだったにせよ、彼は世話になった人間には礼を尽くし、報酬もケチらない。そして彼もまた、長瀬ながせ瑞穂みずほを救助できなかった事を少し悔いているのだ。

「さあ行け。一日も早く、長瀬ながせ瑞穂みずほ嬢が救助される事を祈る。――幸運を祈るグッドラック

「…ありがとうサンクス

 そして飛鳥あすかは、ホテルの縁から飛び降りた。

 驚く亜里沙ありさたちの目に、猫のように空中で姿勢を整え、パラシュートを開く飛鳥あすかが映る。彼がホテルの駐車場に降り立つと、狙撃銃の銃身バレルを幌の上に突き出したジープが駆け付けて来た。運転席には、盲人用の黒眼鏡をかけた茶髪の男〜速水はやみ一輝かずきがいる。そのまま後も見ずに乗り込んだ飛鳥あすかに代わり、一輝かずきはジープを急発進させつつも二本指で敬礼――飛鳥あすかのパラシュートに気付かず、彼を救った龍麻たつまに対する礼だろう――して見せた。そして彼らを乗せたジープもまた、まだ闇に沈む街の中を去って行った。

「……グッドラック」

 既に姿の見えなくなった、たった一人の少女の為に戦う男たちに向かって、龍麻たつまは最大の敬意を込めて敬礼した。

 しかし、男同士はそれで良くても、女としては釈然としない。確かに助けたいし、幸せになっても欲しいが、この女の扱いがなってない朴念仁ぼくねんじんが気にかける長瀬ながせ瑞穂みずほに、亜里沙ありさはちょっとした嫉妬を抱いた。【見直した】男に龍麻たつまも含んでいたラヴァも、先の一件を思い出して目を細める。

 そして、ラヴァは言った。手には首輪の残骸…。

「――聞かせてもらおうか…。【これ】には何が入っていた?」

「うん? ――主成分はとある常緑つる植物の実をすり潰した粉で、古代ローマ時代には同量の銀と等価と言われ、大航海時代に於いてヨーロッパ列強の東方進出と植民地争奪戦争を引き起こす原動力になったという…」

 無表情ながら、なんとなくばつが悪そうに回りくどいことを言う龍麻たつまに、御厨みくりやが呆れて言った。

「要するに、コショーかよっ!?」

「――簡単に言えばそうだ」

「難しく言ったっておんなじじゃない!」

 亜里沙ありさはまあ、龍麻たつまの常識知らずを知っているから呆れただけで済んだが、御厨みくりやは頭を抱えた。――この男、緋勇ひゆう龍麻たつまは、銃や格闘技の技術、戦術、情報収集力、人脈に至るまで、確かに一流のプロと太鼓判を押していい男だ――と思ったのに、このギャップは何なのだ? これでは、信用するに足りる人間だと認めた自分が馬鹿みたいだ。

 御厨みくりやよりもっと酷いのが、ラヴァであった。

「…すると、何か? 私は胡椒入りの首輪で脅され、協力を強要され、こんな所にまで出張ってきた挙句の果てに命がけの戦いをやらされた上、下らん恥をかかされたという訳か?」

「いや…途中で間違いに気付いたのだが、諺に言うだろう? ――【知らぬがほっとけ】」

「――ここ、殺すッ! 殺してやる!」

 なぜか偉そうに胸を張って言う龍麻たつまに、ラヴァは初めて歳相応な表情――顔を真っ赤にして突っかかっていった。首輪が爆弾であると本気で信じ込まされた迫力を有しながら、実は首輪を間違えていたというボケッぷり。こちらは本気で死を覚悟したというのに、ほとんど一発ギャグのネタ扱いされたとあれば、そりゃあ誰だって怒るだろう。【毒皇どくおう】最後の弟子であり、次代の【毒皇】と言われ恐れられてきた彼女は、そこまでコケにされた事はなかったのだ。殺手シャーチーである彼女を知る者には、そして彼女自身も信じられぬ事に、彼女は悔しさと恥ずかしさのあまり涙ぐんでさえいた。――自分でも意識しない涙であった。

 そして龍麻たつまは、本気ではあっても殺意が激しく揺らいでいるラヴァの手をあっさりと掴み止めた。

「お互い様だと言っておこう。俺もお前のハッタリに騙された。――だが、お前は期待以上に働いてくれた。次は俺が約束を果たす。――信用しろ」

「クッ…!」

 この距離だからこそ、前髪の間に見える龍麻たつまの目。――その驚くほど澄み切った目にラヴァは圧倒され、何も言えなくなってしまった。殺しのプロには、このような目をした者はいない。皆、暗く濁るか、どろどろした炎に彩られているものだ。だが、この男の目は血と硝煙を山ほど映して来たと解るのに、一点の曇りもない。ラヴァにはそれが恐ろしくもあり、羨ましくもあり、更に不思議な事に、奇妙な懐かしさを覚えた。

 そして龍麻たつまは、威儀いぎを正して宣言した。

「現時刻をもって、この作戦を終了とする。――撤収するぞ」

 その十五分後、度重なる通報に重い腰を上げた地元警察と、本庁から出向いてきた美貌の女警視がホテルへと乗り込んだが、悪党どもの墓標と化したホテルには風が吹き抜けるばかりで、怪しいものは何一つ発見できなかった。















 小型のポータブルテレビの中で、怒りの表情も露わな女性リポーターが喚き散らしている。テロップに流れるのは【鬼畜】や【強姦サークル】などのセンセーショナルな言葉で、画面内ではジャンバーなどで顔を隠した学生達が、次々にパトカーに押し込められていく様が映っていた。

「…結局、ケリは付かず終いか」

 アッシュブロンドの短髪を潮風になぶらせつつ、ラヴァは呟くように言った。足元には小さなアタッシュケース。――旅姿だ。

「残念ながら、な。主犯の田嶋たじま保良やすよしが発狂したのは計算違いだったが、亜里沙ありさの説得が効いて小暮こぐれ奈美が証言し、事件を立件できたのは幸いだ。これで少なくとも下っ端の動きを封じる事ができる。久保くぼ早百合さゆり嬢も母親ともども環境調和実験都市【彩雲さいうんシティ】のサナトリウムに移送され、正式に入居許可が下りた。あの海上都市ならば、悪党どもも手が出せまい」

「後は、【裏】の問題か」

「【フリーダム】が裏で権力者と繋がっていると証明するには時間も手間も掛かる。【司教ビショップ】のヘリは富士の上空で反応消失、【闇の刃ダークブレイド】も地下に潜った。ホテルでの一件は完全になかった事にされ、あの時死んだ著名人も巧妙に偽装工作が施された。御厨みくりや刑事では――【表】では、その辺りが限界だ。その代わり、【九頭竜ヒュドラ】が本格的に獣人を掃討に掛かった。しばらくは著名人の死亡記事が相次ぐだろう。――不毛だが、やらない訳にはいかん」

「そうだな…」

 龍麻たつまは岸壁の柵に手をやり、沖合いに停泊するタンカーに視線を据えた。

「潜伏先は中東ミドルイーストか。ベストではないが、妥当な線だろう。そこから先は聞かないでおく。――俺との契約もここまでだな」

「…不思議なものだ。私は男が嫌いだが、今は少し、名残惜しい気もする」

別離わかれとは常にそういうものらしい。――達者でな」

「ああ、さらばだ。――亜里沙ありさによろしくな。今更だが、騙して悪かったと」

「…彼女の認識では、お前は今でも私立探偵だ。今からでもそうなれば、騙した事にはならん」

「…私は闇の住人だ。【表】では生きられん」

 少しだけ寂しそうに言い、ラヴァは龍麻たつまに背を向け、クルーザーに乗り込もうと身を屈めた。その時――



 ――BRAM!



「うぐッ!」

 背中に焼け火箸ひばしを突っ込まれたような激痛! 必死で振り返ったラヴァの目に、硝煙をくゆらせるエンフィールドを手にした龍麻たつまが映った。

「な…ぜ…!?」

「…この三日、考えていた。お前を安全に始末する方法を」

 たった今、ラヴァに【生きろ】と言った男は、氷の仮面を貼り付けていた。

「答えは簡単だった。殺すと同時に身体ごと密閉すれば、蝶は出てこられない。――そのクルーザーには速乾性のコンクリートが積んである。俺には【双頭蛇ツインスネーク】の総帥のような美学とやらはないのでな。確実な手段のみ選ぶ」

「キサマ…!」

「危険視されている身でありながら、油断したな。俺は最初から、お前を殺すつもりだった」

 ラヴァが歯軋りし、爪を振り上げた瞬間、エンフィールドの五連射がラヴァの胸〜心臓の真上に血の花を咲かせた。ラヴァはそのまま岸壁から足を踏み外し、積んであったコンテナに落下して灰色の飛沫を上げた。

「制圧完了。――もう出てきても良いぞ」

 龍麻たつまはエンフィールドをホルスターに納め、近くの茂みに向かって声をかけた。するとそこから、宇宙服のような対化学戦闘装備に身を固めた三人の男が姿を現した。

「…見事な腕だ。あの【毒揚羽どくあげは】をこうも容易く始末するとは。さすがはレッドキャップス…」

「――世辞はいらん。賞金を貰おうか」

 言葉を遮られ、少しムッとした中国人…【双頭蛇ツインスネーク】の見届け人は、しかし銀色のアタッシュケースを龍麻たつまに差し出した。

「きっちり五百万ある。確認するか?」

「結構。信用商売の一つも出来んほど、【双頭蛇ツインスネーク】は小さな組織ではあるまい」

「よろしい。ではこちらも、【毒揚羽どくあげは】の死体を引き取る」

「良いだろう。だが、コンクリートが固まるまで少し間がある。――見てこよう」

 龍麻たつまはふわりとクルーザーに降り立ち、コンテナの中を覗き込んだ。そして、言った。

「こちらの仕事は完璧だ。毒も完全に封じ込められている。だが――貴様らの仕事は最低だな。――火薬の匂いくらい消しておけ!」

 龍麻たつまは振り向きざまアタッシュケースを男たちに投じ、パイソンを発砲した。マグナムがジュラルミンを貫くと同時に、ケースが閃光を発して爆発する。飛び散る炎を避けて男たちが逃げ惑うのを尻目に、龍麻たつまはクルーザーのエンジンを始動させて離岸した。舵を沖に向け、エンジンを一杯に吹かす。

『――殺せ! 殺せ!』

 茂みの中で息を潜めていた殺手シャーチーたちが一斉に飛び出してくる。――龍麻たつまがラヴァを殺しそこねた時の為に、【双頭蛇ツインスネーク】は十人の特攻要員を送り込んでいたのだ。そしてその装備は…

「――ッッ!」

 殺手シャーチーたちの構えた武器を見て、龍麻たつまはクルーザーの操縦席から船倉へと飛び込んだ。その直後、三本のRPG〜ロシア製対戦車ロケットランチャーが火を吹き、速度の上がりきっていないクルーザーにずんぐりむっくりした弾頭を叩き込んだ。

 腹に堪える爆発音に、天高く膨れ上がる火球。デートスポットとして名高い山下公園の空気はたちまち悲鳴と喧騒に包まれた。

『やったか? やったな?』

 クルーザーはバラバラに吹き飛び、紅蓮の炎に包まれている。誰であろうとこの状態から逃げおおせるものがいるとは思えなかった。たとえ――伝説のレッドキャップス隊員でも。

『――これは、何たる無法な。侠の字も知らぬか、【双頭蛇ツインスネーク】よ』

 愕然と振り返った【双頭蛇ツインスネーク】の殺手シャーチーたちの前にいたのは、小柄な白髪頭の老人であった。しかし、その仮面と、鉄の爪が彼らに老人の正体を悟らせた。

『貴様! 【鉄猿アイアンモンキー】!』

 反射的に銃を抜く者、青龍刀を抜く者がいたが、【鉄猿アイアンモンキー】がふっと姿を消し、また現れると、その者たちは尽く首筋から鮮血を噴いて絶命した。

『――慌てずとも良い。【毒揚羽どくあげは】を首尾良く倒したる者に与える筈だった賞金。始めより反故にするつもりだったと世に知れれば、もはや【双頭蛇ツインスネーク】に信はなし。我が手を下さずとも滅びる運命さだめよ』

『クッ! 殺せ! 奴を殺せ!』

 残りの殺手シャーチーたちも慌てて銃を構えたが、再び旋風と化した【鉄猿アイアンモンキー】が、しかしあっさりと背を見せて逃走したので、発砲機会を失ってしまった。

 裏社会における信用の失墜は、組織そのものの存亡に関わる。取り残された殺手シャーチーたちの顔には、絶望ばかりが覆っていた。















 ――【本日未明、神奈川県横浜市、山下公園付近の桟橋で銃撃戦があり、繋留されていたクルーザーが爆発する事件が発生しました。警察の発表によりますと、横浜界隈を拠点とする麻薬密売組織同士の抗争と見られ、現在、逃走中の容疑者の行方を追っております。なお、爆破されたクルーザーの中からは男性一名、女性一名の遺体が発見されており、二人の遺体の肩に軍隊経験者を示す刺青があった事から、警視庁では身元の確認を急いでおります…】



「――手間をかけたな。紅葉くれは

「構わないよ。警察と新聞はいつもの事だからね」

「結構。――【毒揚羽どくあげは】の件について、鳴滝なるたき氏はなんと?」

「あの技能は惜しかったが、こちらも微妙な時期だったから、君の判断が正しいだろうとの事だ。僕も館長の意見に賛同する。――最後の一人、未だに判明しない」

「当分尻尾を出すまい。くれぐれも用心する事だ。――食事でもどうだ?」

 この男にしては珍しい誘いに、しかし壬生みぶは首を横に振った。

「【あそこ】へかい? やめてくれ。僕は君ほどの度胸はない」

「そうか? あそこはうまい炒飯チャーハンを出す。足を運ぶ価値はある」

「…君のそういう所には本当に驚かされる。だが、やはり遠慮しておくよ。――では、また」

「ああ。またな」

 壬生みぶが新宿駅構内に消えるのに対し、龍麻たつまは歌舞伎町へと歩を進めた。およそ学生がうろつく時間ではないが、今は私服で、大人びた顔立ちは高校生には見えない。誰かに見咎められる心配はなかった。――この男を除いては。

「――よお、不良学生。今夜は、どこの悪党を始末しに行くんだい?」

 口にくわえたシケモクに、ヨレヨレにくたびれた背広。声をかけてきたのは御厨みくりや刑事であった。

「何の話か判りかねますね、刑事さん」

「とぼけるんじゃねえよ。正義の味方」

 御厨みくりやは肩をすくめ、声を潜めた。

「これでも俺は首を賭けていたんだぜ? それがどうだ。単独行動も定時連絡無視も一切お咎めなしで、始末書の一枚も書いてねえ。それどころか、ウチの事件ヤマにちょっかいかけてた本庁のお偉いさんまでお帰りになる始末だ。どう見ても空の彼方の誰かさんが手を出したとしか思えねえよな?」

「さて?」

 龍麻たつまはいつもの無表情――いや、雰囲気だけは面白そうにしている。御厨みくりやは苦笑し、もう一度肩をすくめた。

「まッ、良いさ。俺は俺のやり方を通せって事なんだろうしな。――だが覚えておけよ。もしお前が私利私欲で何かやらかした時は、俺が必ず手錠ワッパを填めてやるからな」

「楽しみにしておきましょう」

 その時、御厨みくりやの内ポケットで携帯が震動した。それに応えると、彼の目はたちまち刑事の鋭さを備える。

「――このちょい先で殺しだ。どこかのホストが客の女に刺されたらしい。――ったく、少しはどこかの誰かを見習って、純愛って訳にゃ行かないかねえ」

「自分には判りかねます。では――背中に気を付けて」

 龍麻たつまが一礼すると、御厨みくりやはまた苦笑を浮かべ、片手を一つ上げて喧騒の中を去っていった。

 目的の店に入ると、相変わらずほぼ満席状態。今日も【紅王華ホンワンカー】は繁盛していた。

「いらっしゃいませ〜」

 この店を訪ねるのは二度目だが、目ざとく龍麻たつまを見つけた赤いチャイナドレスのウェイトレス〜玉蘭ユイランが小走りに寄って来て、龍麻たつまをボックス席に招き入れた。早くもVIP扱いらしい。

海老炒飯えびチャーハンと烏龍茶を。エビは――二つで充分だ」

「かしこまりました〜」

 にっこりと笑って奥に引っ込む玉蘭ユイラン。今日は普通に客として来ただけなので、程なく料理が届けられた。ただし料理を運んできたのは玉蘭ユイランではなく、水色のチャイナドレスをまとった美女である。

「――お待たせいたしました」

 ぎこちない口調に、動かない表情。皿の置き方も形になっておらず、この仕事に付いて日が浅いのは明白だ。――健康的な褐色の肌にアッシュブロンドの髪。そのウェイトレスは、かつて裏世界を賑わせた【毒揚羽どくあげは】と呼ばれた女殺し屋に良く似ていた。

「…何か?」

 レンゲに手を伸ばしても、ウェイトレスは去ろうとしない。それどころか冷たい目で龍麻たつまを見据えている。

「とぼけるな、緋勇ひゆう龍麻たつま

 ウェイトレスは【毒揚羽どくあげは】と呼ばれた頃の声を出した。

「誰のせいで私がこんな所にいると思っている。よりにもよってかつての敵、【九頭竜ヒュドラ】の直轄地だぞ」

「待遇に不満があるのか?」

「…住み込みで自給千二百円だ。待遇に不満がある訳ではない」

「それは結構。――その格好も魅力的だ」

 少し頬を赤くして、ムッとした表情を作るウェイトレス。この男のペースに乗せられてはまずいと、一つ息を付く。

「【九頭竜ヒュドラ】との裏取引が成立していたのなら、なぜ黙っていた?」

「…敵を欺くにはまず味方から。――戦術の基本だ。【双頭蛇ツインスネーク】も馬鹿ではあるまいし、俺もこの一件で有名になり過ぎた。死んで見せねばな」

「その理屈は解る。だが、一言くらいあっても問題はなかった筈だ」

 何しろ心構えのない状態で、いきなり背中を撃たれたのだ。エンフィールドに込められていたのは本物の血を詰めたカプセルとスタン・ブリッド…いわゆるパラライザーであったが、五千ボルトの電流を流すそれを六発も撃ち込まれた彼女はひとたまりもなく気絶し、ゲル状に加工した生理食塩水のタンクに突っ込まれたのである。――何も知らぬ彼女は、共に戦った三日間で寄せるに至った信頼を裏切られ、死を意識したのであった。

「【毒揚羽どくあげは】はレッドキャップスに殺され、レッドキャップスも【双頭蛇ツインスネーク】に始末された。――これは裏世界の周知の事実だ」

「……」

「そして俺は単なる、夜遊び好きの不良学生だ。お前は【紅王華ホンワンカー】の新人ウェイトレス。――狙われる理由はない」

 アンダーグラウンドにおける情報網は侮れない。しかしそこは情報戦の恐ろしさ。一度流れた死亡情報は容易には覆らないものなのだ。まして有名な【毒揚羽どくあげは】とレッドキャップスを殺したのがその名も高き【双頭蛇ツインスネーク】となれば、それは確定された事実となり、これに疑問を差し挟み、あるいは【死んだとされている者】を狙う事は【双頭蛇ツインスネーク】の顔に泥を塗る敵対行為とみなされる。仮に彼らが生きていたとしても、【双頭蛇ツインスネーク】は【組織】としてこれを狙う事はできない。それは自分たちの【仕事】の失敗を喧伝する事になるからだ。そして今や別人として振舞っている【毒揚羽どくあげは】とレッドキャップスが【九頭竜ヒュドラ】の客分として扱われているとなると、損得勘定に長けたアンダーグラウンドの住人が彼らに手を出す事はない。――全て、龍麻たつまの計算通りであった。

「いずれにせよ、かつて【毒揚羽どくあげは】と呼ばれた者に依頼された仕事は果たした。――そう言えば、名前を聞いていなかったな」

「……変えてはいない」

「うん?」

「私の名はラヴァだ」

「…納得していないと聞いたが?」

「…お前に名を呼ばれた時、悪い気がしなかった。だから、無理に変えるつもりはない」

 さすがに照れ臭いのか、彼女はそっぽを向く。龍麻たつまが「良い名だ」と言うと、彼女は頬を染めて唇を尖らせた。

「うるさい。――さっさと食べて帰れ。冷めるぞ」

 怒ったように言い、ラヴァは龍麻たつまに背を向けた。苦笑を漏らし、改めてレンゲを口元に運んだ龍麻たつまであったが――

「――!?」

 やけにしょっぱい。ガリッと鳴ったのは塩の塊であった。リンが調理を失敗したのだろうかと、龍麻たつまは烏龍茶をあおった。

「ッッッ!」

 龍麻たつまはコップを取り落とし、口元を押さえた。彼ほどの者が苦悶の表情も露に、大量の汗を滲ませ、拳をぶるぶると震わせた。

「――どうかなさいましたか、お客様?」

 ラヴァが空々しい声で言う。その目には殺し屋特有の冷たい風が吹いていた。

「…何を入れた?」

「大した我慢強さだが、油断したお前が悪い。――流行りのハバネロにハラペーニョだ」

「キサマ…!」

「――杏仁豆腐でもどうだ? 十杯以上頼むならすぐ持って来てやる」

「…持って来い。――今すぐ!」

「かしこまりました〜」

 火を吹きそうな辛さに堪えかね、遂に舌を吐いた龍麻たつまを面白そうに見やり、【元】毒師は軽やかに身を翻した。

 確かに油断した。涙まで出てきて霞む視界に、両手の盆一杯に杏仁豆腐を載せ、にっこりと笑うラヴァが映った。

 そう言えば、彼女の笑顔を見るのは、それが初めてであった。







 第五話外伝 【闇に駆けろ】 了













 第五話閑話 闇に駆けろ 4    



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