第五話閑話 闇に駆けろ 1





 
 世界が変わる切っ掛けは、いつも極々些細ささいなものだ。

 静かな水面に石を落とせば、その波紋はどこまでも広がっていく。落とした石は小石でも、波紋は意外なほど大きい。そして一旦投げ込まれた小石は、どこまでも沈んでいくより他になく、水面が静寂を取り戻せば、投げ込まれた小石の事など誰も覚えていまい。

 自分は海に投げ込まれた小石だ。社会という海に投げ込まれた小石。その小石が起こした波紋はあまりにも小さく、誰も気付きはしなかった。そのまま自分は、どこまでも深い暗黒へと落ちていくしかない。

 気取った奴ならばこう言うだろう。――それも人生さセ・ラ・ヴィ

 【彼女】にとってもそうだった。

 表通りの華やかさとは切り離された世界。一歩【そこ】に立ち入れば、頽廃たいはい荒廃こうはいと、汚濁おだくに支配された世界が広がっている。細い細い路地で繋がれ、壊れかけの街灯から洩れる黄昏たそがれの光のみの世界。――そこに生きる者には過去も未来もなく、ただ必死に生きねばならない現在のみがある。

 【彼女】はそこの住人だ。【組織】の権力闘争に巻き込まれ、かつての【同僚】の命を奪った時以来、そこが彼女の居場所となった。孤立無援のまま、今日までに差し向けられた刺客は二桁に達する。先程も潜伏場所を襲撃され、二人返り討ちにしたが、目に見えぬ包囲網は確実に狭まり、まもなく夜――闇に蠢くものたちの時間が否応なしにやって来る。

 果たして、今日は死ぬには良い日か? 不眠不休で繰り広げられた連日の死闘は、全身の細胞におりのごとき疲労を蓄積させ、限界が近い事を告げている。しかし息を整え、薬を飲み、気息を充実させるのは、諦めを知らぬ不屈の精神の現れであった。

 最悪の環境だが、静寂だけは心地良い。目を軽く閉じ、路地裏の壁に身を寄せていた彼女であったが、ふと顔を上げるや、ゴミ箱の陰から一瞬だけ顔を覗かせた。

 よろめきつつ歩いているのは、白いワンピースに身を包んだ女性であった。こざっぱりした身なりに純朴な美貌。ただし息は無意味に忙しなく、長い黒髪は乱れに乱れ、疲労のためか目の焦点が宙を泳いでいる。足など素足だ。

 【彼女】の存在には気付かず、しかし脅えたように周囲を見回した女性は、うずたかく積まれたゴミの山に身を寄せた。一応、隠れたつもりらしい。

 ――追われる身か。【彼女】は厄介な事になる前に退散を決めて立ち上がりかけ、素早く電信柱の陰に身を潜めた。

「――チッ、あのアマ、どこ行きやがった?」

 腹の底から不快感を込み上げさせるような声が、ゴミ溜めと化した路地に響き渡る。――少なくとも自分を追っている連中ではない。【彼女】はそれを悟った。

「あんな身体でそう遠くまで行ける訳がねェ。その辺にいる筈だ」

「――かくれんぼはやめて出ておいで、早百合さゆりちゃん。お薬の時間だよぉ」

 ゴミの山が、それと解らぬほど小さく震える。――彼女が早百合さゆりだろう。【彼女】の位置からは早百合さゆりなる女性が目を固く閉じ、耳を塞ぐのが見えた。そうすれば自分が消えると言わんばかりに。この世界から――逃げ出せるとばかりに。しかし――この世界は甘くない。特に、弱いものには。

「…うう…!」

 低い呻き声が女性の唇を割る。全身から脂汗が噴き出し、身体がガタガタと震え始める。彼女を襲っているのは猛烈な寒気と蟻走感ぎそうかん――青白い顔と忙しない呼吸から判っていた事だが、麻薬の禁断症状が出始めたのだ。目の焦点はたちまち失われ、口からは涎が溢れ、身体全体がおこりにかかったかのように震える。――止められない!

 ――まずい事になった、と【彼女】は思った。この女性が見つかれば、自分も確実に見つかる。――たかが街のチンピラごとき始末するのはたやすいが、【敵】に察知されるのはまずい。

 この場を離れるか――壁から背を引き剥がした【彼女】であったが、少しばかり遅すぎた。女性の震えが酷くなり、潜んでいるゴミの山からポリバケツの蓋を滑り落とさせたのだ。

「――いたぞ! こっちだ!」

 ――見つかった!? そんな女性の【恐怖】が伝わってくる。ほんの一〜二秒後に伝わってきたのは【どうでもいい】という諦観ていかん。――奴らは薬を持っている。こんな苦痛に耐えるくらいなら、奴らの言い成りになっている方がマシだ。麻薬の効果が切れ、禁断症状が起こるまでの僅かな正気の時間は、正気であるが故に狂いそうになるが、どうせすぐに麻薬でそんなものを忘れさせられる。――そんな考えが伝わってくる。

 ――気に入らない。まったく、気に入らない。生きようとする意志はないのか? 従うべき必要があるとすれば、それは自分より確実に優れた人間である筈だ。たかがチンピラごときに自分の生殺与奪せいさつよだつを預けて、それで満足か?

 ――解らない。そんな考えも、それを気に入らないと感じる自分自身も。――自分を害しようとするものと戦うのは生物としての本能だ。だから自分はその様に振る舞う。向かって来る者がいれば殺すし、関わりなき者は無視する。――気に入らないと感じる必要はない筈なのだ。

「ケッ、手間ァ掛けさせやがって。さっさと来いよオラァ!」

 女性がゴミの山の中から引きず摺り出される。ろくな抵抗も出来なかったのは麻薬のせいか、それとも、女性が自らそれを望んだせいか?

「オイッ! 手荒な真似するんじゃねェ! 傷付けたら価値が下がるじゃねェか」

 命令口調が強いところを見ると、そいつがリーダー格らしい。ただし、他の連中と見分けがつかない。

「なんだよぉ、お前だって今まで散々オモチャにした挙げ句、裏ビデオでもしっかり儲けたクチじゃん」

「俺らも出演したけどなァ。ヒャハハ」

 口汚い笑い声を上げるチンピラに、しかし女性はすがり付いて行った。

「クスリ…! クスリを…ちょうだい…!」

「あァ!? 逃げ出しておいて、勝手な事言うんじゃねェよ。もう少しそのまま苦しんでな」

 ズボンにしがみ付く女性を払い除けるチンピラ。女性はベチャッと地面に崩れ落ち、そのまま嘔吐おうとした。――ろくな食物も与えられていなかったのか、吐瀉物としゃぶつは白く濁った液体だけである。

 それでもなお、女性はチンピラたちにすがり付きに行く。顔立ちは純朴な感じのする美形なので、より凄惨な光景――美しいゾンビである。そして女性は、服従の姿勢を知っていた。汚れきったワンピースを引き裂き、胸元を露にしたのである。――奇妙な事に、麻薬の乱用は明らかでありながら、肌の艶や肉付きは全く損なわれていなかった。

 当然のように、チンピラどもはだらしなく顔を歪ませた。

「へへへ。最初っからそうしてりゃ良かったのによぉ」

 女性の前で、金魚の形をした容器を振るチンピラ。――本来は出前の寿司に付ける醤油の容器だが、中に詰まっているのは透明な液体――水に解いた麻薬であろう。

「これが欲しいか? え? 早百合さゆりちゃん?」

 震えながら、それでも勢い良く首を縦に振る女性。――もはや理性など望むべくもない、飢えた獣のそれであった。しかし伸ばした手は虚しく空を切る。チンピラが薬を遠ざけたのだ。

「おっと、ただで貰えるなんて思っちゃいけねェよ。――もう逃げ出したりしねェかい?」

 ぶんぶんと首肯しゅこうする女性。目は容器に吸い付いたままだ。

「俺たちの言う事をちゃんと聞くかい? 言い付けが守れるかい?」

 女性はひたすら頷く。チンピラたちはそれを楽しんでいた。――さっさと連れて行けば良いものを、と【彼女】は胸の内で舌打ちする。愚劣な精神の持ち主ほど、他人をおとしめ、服従させる事に喜びを見出すものだ。権力、地位、肩書き、所属組織――身に付けた実質的な【力】にらずそのようなものを与えられた者の、最も手軽な自己陶酔手段である。

「もしまた逃げ出したりしたら今度こそただじゃおかねェぞ。後は…」

 散々服従の誓いをさせ、さすがにネタが尽きたか、チンピラが口ごもった時である。今までただひたすら頷いていた女性に変化が生じた。涙なく泣いているとしか思えない絶望に彩られた目が俄かに危険な光を帯び、汚れた黒髪がなにやらざわざわと揺れ始めたのである。そして――口から低い唸り声…。

「…なにやってるんだ、お前ら」

 女性の漏らした唸り声以上に、新たに現れた男の声にチンピラたちはビクウッと直立不動になった。

「あ、安生あんじょうさん…!」

 品性そのものは大差なくとも、チンピラたちよりは確実に大人。身なりも金に不自由していない者のそれだ。体格もがっしりしていて、夜の街では目を合わせたくないタイプである。

「見付けたらすぐに俺を呼べって言っただろう? そいつをキレさせて、お前らでどうにかできるのか? ――ほら、さっさと薬をやらねェとぶっ殺されるぜ」

 女性の口から洩れる唸り声は低く地を這い、しかしひ弱な存在である事は疑いようもない。それなのにこの男は、チンピラたちが女性に【ぶっ殺される】と言ったのだ。そして――

「おっ、落ち着けよ、早百合さゆりちゃん。ちゃんとやるよ。――そらっ!」

 先程までの威勢はどこへやら、明らかに怯みながら、麻薬の容器を投げるチンピラ。女性の手は鋭くその容器を掴み取るや、蓋を開けるのももどかしく、そのまま容器に齧り付き、喉を鳴らしてそれを呑んだ。その時――

「――ッッ!」

 凄絶な殺気の照射が【彼女】の背筋を刺した。

 思わず振り返り――とんだミスを犯す。その殺気は自分ではなく、チンピラに向けられているものだったのだ。殺気の照射があまりにも強すぎた為に反応してしまい――ゴミの一角を崩してしまった。

「――誰だァ! そこにいるのはァ!」

 チンピラの手が懐に突っ込まれ、安っぽく銀色に光るサバイバルナイフを取り出す。――実用性のかけらもない代物だが、脅しには効果的だろう。

「さっさと出て来いって言ってるんだよぉっ! ぶっ殺すぞコラァッ!」

 ――どうする? ここでこのチンピラどもを片付けるのはたやすいが、【敵】の注意を引くのはまずい。しかも今は、あの殺気の主が見ている。うまくこの場を逃れるには――

 【彼女】はポケットから取り出した香油を一口飲み、電信柱の陰から出た。

「オッ、女ァ!?」

 こんな路地裏のゴミ箱の傍に隠れているのだから、恐らく浮浪者かなにかと思ったに違いない。予想外の【彼女】の出現にチンピラは面食らい、次いでやに下がった笑いを浮かべた。

「運の悪い姉ちゃんだぜ。こんな所にいなきゃ良かったのによォ」

「エラくサイバーパンクなナリだけどよォ、見たとこツラもボディもなかなかじゃねェか」

 相手が一人きり――それも女だと知り、ジロジロと【彼女】の身体に無遠慮な視線を飛ばすチンピラたち。――彼女が身に纏っているのは黒一色のフィットネス・レザーだ。これから暖かい季節に入るというのにハイネックで、手袋まで填めているので肌の露出はないに等しい。しかし身体のラインが浮き彫りになっているので、ショートのアッシュブロンドと一体化した無表情な美貌と合わせてチンピラの目を釘付けにした。

「こいつぁ楽しみが増えたぜ。――殺されたくなけりゃおとなしくしろよ、姉ちゃん」

 ナイフをひらひらさせるチンピラ。だが彼女は無表情に言い放った。

「その人を放せ」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかったチンピラたちは、顔を見合わせてからどっと笑った。

「なんだぁ? 正義の味方気取りかよ、姉ちゃん?」

「今時、他人事に口出しするのは馬鹿だけだぜ?」

 口々に小馬鹿にしたような言葉を吐くチンピラ。彼女は何も言わず、拳を固めて胸前に引き上げた。――ボクシングの構えである。

「なんだぁ? 本気でやろうってのか、お嬢ちゃん?」

「おとなしくしてりゃ可愛がってやるところだったのによぉ。そんなに痛い目見てェかよ」

 最後まで無駄口を聞く事なく、【彼女】は突っかけた。

「――ッ!」

 慌ててナイフを突き出そうとするチンピラにフックを一発。――たったそれだけでチンピラは昏倒こんとうする。傍らの二人も、あくびが出るほど反応が鈍い。ナイフは脅威とはならず、単純なフック二発で片付いてしまう。

 やり過ぎはまずい。殺気の主は【双頭蛇ツインスネーク】とは無関係のようだが、変に正体をかんぐられる訳には行かないのだ。通りすがりの正義の味方気取り――その程度に留めねばならない。

 ――が、残りのチンピラを片付けようとした【彼女】の足が何者かに掴まれた。

「ッッ!」

 あの女性であった。もはや目の前にいるのが誰かも判断できず、【彼女】に掴み掛かったのだ。とっさに女性を振り払った【彼女】であったが、背後から肩口に何かが打ち込まれた。

 振り向いた【彼女】の視界に飛び込んできたのはピストル型の無針注射器。中身は――筋弛緩剤きんしかんざいだ。インテリタイプのもやし系強姦魔が良く使う薬である。【彼女】はそのままばったりと倒れた。 

「――ったく、だらしねェ。女一人になにやってやがる」

 その女一人に筋弛緩剤など使ったのは自分だろうに、安生あんじょうは吐き捨てるように言った。

「…まさかこいつが、さっきの殴りこみヤロー…ってこたァねェな」

「――ンなワケねェだろ。あのガタイはどう見たって男だ。こんな女がどうやってナイフだけで大の男五人をぶっ殺すってんだよ?」

「何でも良いじゃねェかよ。余計なトコを見られたんだ。さっさと始末――」

 その時なぜか男達は、申し合わせたかのように【彼女】に視線を這わせた。よく見ればまだ高校生くらいであるが、猫のような冷たい印象が漂う美貌に、少女のラインを残すスレンダーな肢体。しかし…少女から発散されている【何か】が男たちの腹腔ふっこうを熱くした。

「…始末するにゃ惜しいな…」

「…ああ。ついでに拉致ってっちまおうぜ…」

 チンピラたちは目を爛々らんらんとさせ、安生あんじょうを見た。決定を下すのはこの男なのだ。

「…そうだな。――おい、テメエら、いつまで寝てやがる! さっさと車を取ってこい」

 安生あんじょうは昏倒させられた仲間の尻を蹴飛ばし、ぐったりとした女二人を運ばせて路地裏を立ち去った。

 それをビルの屋上から二つの黒い人影が見下ろしていた事には、遂に気付かずに。















「――やっぱりまずいですよ、御厨みくりやさん。僕らは刑事課の人間なんですから」

 薄暗いアパートの一室で、新宿署勤務の刑事、望月俊作もちづきしゅんさくはネクタイを緩めながら年配の刑事…御厨みくりやに話し掛けた。

 部屋は大家と交渉して借りているもので、いわゆる【張り込み】である。既に夜のとばりが降りているが、部屋の明かりを点けず、三脚で固定した望遠鏡をひたすら覗いている御厨みくりやはうるさそうに答えた。

「そんな事を改めて言われるまでもない。だがな、望月もちづき。いくら本庁の連中だからって、俺たちの管内で起こった殺人事件をああも勝手に持って行かれたんじゃ腹の虫が納まらん。奴らが追っているのは要人暗殺事件であって、麻薬ヤクの売人殺しにまで手を廻す余裕はない筈だ。その癖、一連の事件の共通性は無視しやがる。――解っているヤクのルートを張っていれば、必ずこの殺しの犯人も現れる筈だ。――アア? なんだこの、梅シソアンパンってのは?」

 望月もちづきが買ってきた夜食の袋を漁り、御厨みくりやが眉根を寄せる。

「結構いけるんですよ、それ。――御厨みくりやさんの言う事も解りますけど、手口も凶器も同じなら同一犯以外に有り得ませんよ。そもそもどうして合同捜査本部の決定を無視して、生活安全課の縄張りまで荒らして、所轄しょかつの刑事課の僕らが独断で張り込まなきゃいけないんですか? ここに犯人が現れるっていう確かな根拠でもあるんですか?」

「根拠なんかない。いて言うなら――勘だ」

「勘って…そんな…!」

 望月もちづきは絶句した。

「お前も上を目指して勉強しているなら、犯罪心理学の本くらい読んでいるだろう? この勘って奴も、これまでの経験やら集めた情報から推理しているもので、一から十まで当てずっぽうなんて事はないんだそうだ。ま、全部息子の受け売りだがな。――なんだこりゃ、甘いんだか酸っぱいんだか」

「コーヒーも買ってありますよ。御厨みくりやさんの好きなB○OSのブラック。――でも勘だけじゃ、捜査方針に背く理由になりませんよ」

「今のところ、俺の経験がそう囁いているのさ。お前は知らなくても良い事だが、本庁から来た蘭堂らんどう警視――色々と噂が絶えない人物だ。強引な捜査で犯人をでっち上げたり、逮捕暦やら何やらを捏造ねつぞうしたり消去したり、まあ、やりたい放題らしい。そんな人間が――こう言っちゃなんだが――ヤクの売人殺しに興味を持つ事自体、変な事なんだ。断言しても良いが、一連の事件は【必殺仕事人】気取りの殺しじゃない。――瀬川竜一せがわりゅういち所見しょけんは見ただろう?」

 奇妙奇天烈きみょうきてれつなパンにかぶり付いていた望月もちづきの口が止まった。

「…思い出させないで下さい。あんなの、まともな人間のやる事じゃありませんよ」

 かじりかけのパンを無理矢理飲み込み、むせるところをコーヒーで流し込む。――口の中が酷く苦いのは、奇妙奇天烈なパンのせいでもコーヒーのせいでもなかった。

「両手両足を指まで一本残らず砕いた上、目、鼻、耳、舌まで潰されたなんて…。不謹慎な事は解っていますが、死んだ方がマシっていうのは正にアレですよ」

「おまけにタマも根元から切り取られていた。――だが、あの瀬川は一連の事件の中では初の生存者――と言うより、死なないように殺された被害者だ。そんな事をする目的は、今も昔もそれほど変わらない」

「警告あるいは報復の意思表示…」

 御厨みくりやは頷いた。

「瀬川の父親も裏では相当やばい事をやっている。――本庁の連中が【必殺仕事人】かぶれのイカレた奴が犯人だと考えるのも無理はないが、俺にはどうもそれだけとは思えない。相当頭の廻る奴が犯人だってのは間違いないだろうが、猟奇殺人に付き物のイカレた感じがしないんだ。瀬川竜一を殺さず生かさず残していった事には、必ず意味がある。だからこうして奴の遊び仲間を張っている訳だ。――おっと。【大物】のご帰還か…って、なんだありゃ?」

 望遠レンズの向こう――見張っているマンションのドアが開かれる。そこに数人の若者…麻薬の売人として顔と名前が一致しているチンピラが入り乱れ、手錠を掛けられた上にぐったりしている二人の女性を運び込むのが見えた。

「――御厨みくりやさん!」

「待て! 望月もちづき!」

 背広を掴んで監視所…アパートの部屋を出ようとする望月もちづきを止める御厨みくりや

「――なんで止めるんですか!? 今のを見たでしょう!? どう見ても誘拐の現行犯じゃないですか!」

「そんな事は解っている!」

 御厨みくりやの眼光と怒声に、望月もちづきはビクッと肩をすくめた。――望月もちづきもヤクザの幹部クラスを圧倒するほどの刑事だが、この御厨みくりやと比べるとまだヒヨッコだ。

「解っているが、俺たちが張っているのはあいつらを始末している殺し屋の方だ。――今ここで令状フダもなしに飛び込んでみろ。殺し屋にも売人どもにも警戒されて、もと木阿弥もくあみだ」

「でもそれじゃ…!」

 そこで望月もちづきは言葉を切った。御厨みくりやが懐から自分の拳銃を取り出すのを見た為である。

「な、なんで…!」

「何で持ってるかって? いいか、こいつは内緒だぞ。――近頃俺の周囲で盗聴器やらなんやらがやたらと見つかるようになってな、部長に相談したら、恐らく今回の一件がらみだろうから、注意しろって持たせてくれたのさ。できればこっそり、管内にいる売人を張って、あわよくば本庁の連中よりも先に殺し屋を押さえろってな」

 御厨みくりやは銃口を下向きにしてそっとシリンダーを取り出した。――日本警察が使用しているのは基本的にミネベア社製ニューナンブM60だが、御厨みくりやのそれはオリジナルのS&W・M60チーフ・スペシャルである。装弾数は五発。弾丸は三八スペシャルだ。シリンダーに納まっているのは全て実弾である。

「そんな無茶な! 御厨みくりやさんと僕だけでですか!?」

「だから、あわよくばと言っているだろう? コトは本庁の連中だけじゃない。公安まで出張ってきているんだ。この前出たホトケは死体ごと持って行かれて何一つ資料が残っていないそうだ」

「それって…なんか凄くヤバくないですか?」

「ああ、ヤバい。だからこそ後には退けないのさ。市民生活を守る筈の警察が、何か裏でキナ臭い事をやっているんだからな。――本当は俺も尻尾を巻きたいところだ」

 これには望月もちづき激昂げっこうした。

「そんな! 御厨みくりやさんがそんな事を言うなんて!」

「――そう言うな、望月もちづき。警察ってのは正義を守る為にあるんじゃない。ぶっちゃけた話、おかみに楯突く奴をひっとらえるのが仕事だ。そして俺たちは組織の歯車の一つで、あんまりかど立てて正義正義って言ってられないんだよ。――今更それが解ったところで、俺は少し遅すぎたがな」

「……」

 チーフをホルスターに納め、御厨みくりやはトレードマークになっているよれよれの背広を羽織った。

御厨みくりやさん! どうするつもりなんですか!?」

「なあに、外の電話からマンションに連絡するだけさ。女を連れ込むところを見たって通報があったってな。うまくすれば場所を変えて――おっと」

 御厨みくりやは言葉を切り、双眼鏡に飛び付いた。

 視界に飛び込んだ影はロングコートと見えたが、それは一瞬で消え去った。――高さ三メートルからある壁を、その人影はどうやってか跳び越えたのである。

「出たぞ! 今の奴がそうだ!」

「――ちょっと待ってください! 俺も行きます!」

 望月もちづきも背広を引っ掴んで立ち上がったが、御厨みくりやは彼の肩に手を置いて止めた。

「お前は残れ。――相手はヤクの売人と殺し屋だ。警棒一本で何とかなる相手じゃない。お前はそこで見張っててくれ。十分たっても俺が戻らなかったら部長に連絡してくれ。――頼んだぞ」

 顔色を変える望月もちづきに軽く手を振り、御厨みくりやは部屋を出て行った。

 一人取り残された望月もちづきは肩をすくめて溜め息を付いた。

「何だってあの人はああなんだ…。そんなに真剣になったって何の得にもならないのに…。もっと利口に立ち回らないと、本当に早死にしてしまうぞ…」

 もう一度深く溜め息を付き、望月もちづきはポケットから携帯電話を取り出して、ある番号をコールした。

「…もしもし? ――はい、望月もちづきです。御厨みくりやが今、売人の部屋に向かいました。――ええ、殺し屋らしき人物が現れて…はい…はい、了解しました」

 一方的に通話の切れた電話をポケットに突っ込むと、望月もちづきは再び盛大な溜め息を付いた。

 尊敬する先輩刑事を裏切ったつもりはない。だが、もう少し現実を見て欲しいものだ。彼のような古いタイプの刑事は、これからの警察からはどんどん切り捨てられて行くだろう。使い捨てにされて殉職――なんて事にはなってもらいたくない。

 その頃、御厨みくりやもアパートを振り返っていた。

望月もちづき…。お前の芝居は尻尾が見え過ぎる。上に楯突き過ぎると俺みたいになるが、上に媚び過ぎるともっと酷い目に遭う事もあるんだぞ)















 【彼女】が麻薬中毒の少女と共に連れ込まれたのは、白亜の外壁を持つ随分と高級な高層マンションの一室であった。玄関ドアはパスワード認証式で、監視カメラも無数に存在し、ドアを潜ってすぐのところに警備員の詰め所がある。その中には二桁に届く人員が配置されているようだ。

 どこをどう見ても、このチンピラどもには似つかわしくないマンションだが、あからさまにぐったりしている女性二人を連れ込みながら、警備員は誰一人として彼らを咎めようとはしなかった。それどころか安生あんじょうは、警備員たちに尊大な口調で誰も近付けるなと命じる。見た目にそぐわぬ大物という訳だ。

 警備員に先導され、エレベータで最上階まで移動する。部屋のドアもパスワード認証式だ。そこを潜った途端、視界に霞が掛かり、ぷんと甘い香りが鼻をく。――麻薬を混ぜ込んだ香を焚いているのであった。そして既に部屋の中は、若い男女の軽薄な笑い声で埋まっていた。

「――なんだァ? こちとら街を駆けずり回ってたのに、もうおっ始めてやがったのか」

 充分に麻薬が回っているのか、ケラケラと笑いながら「お帰り〜」と告げる若い男女たち。たっぷり三〇畳はあるリビングを埋めている者の多くは大学生だが、何人か雑誌の表紙を飾っている顔も混ざっている。いずれもこのサークルの人気にあやかろうという連中だ。実際、今日は二人ばかりエリート官僚がこのパーティーに参加しており、そういう連中と顔繋ぎをしておく事で、今後の活動に様々な援助や便宜を図らせる事が出来るのだ。そして実際、このサークルには彼ら以上の大物がバックに付いているらしい。

「薄情モンどもが。――おいナミ、田嶋たじまさんはどこだ? 竜も来てねェじゃねェか?」

田嶋たじまさんはさっき出てったわよォ。場所が変わったって、偉い人から呼び出されたみたい。――で、その子は別に迎えを寄越すって」

 サークルの重鎮にして馴染みの女子大生モデル〜ナミの伝言に、顔をしかめる安生あんじょう

「ケッ、またあの連中か。二度手間掛けやがって。――しゃあねェ。迎えが来るまでこっちの部屋には入るんじゃねェぞ。皆にも言っとけ」

「――はぁい。――ねぇ、安生あんじょうサンは遊ばないのぉ? 安生あんじょうサンの獲物、ちゃんと連れて来たわよォ。――田嶋さんが戻ってくる前に姦っちゃえば?」

 ナミがけだるそうにしなだれかかってくる。その隣では、売り出したばかりの新人グラビアアイドル――ナミの後輩がすっかりとろけた目で半裸を晒していたので、安生あんじょうの目はたやすくそちらに吸引された。

「ああ。そうしてェが、早百合さゆりちゃんの迎えが来るんじゃ仕方ねぇ。――いつものようにやっといたか?」

「写真もビデオも脅しには良い感じになってるわよォ。絡みがあれば完璧だけどね」

「それならもう帰しとけ。迎えの奴らに目を付けられたくねぇ。――きっちり因果を含めて、しばらくおとなしくさせて置けよ。そうすりゃ来月には本命をゲットできるからよ」

 今夜は【仕事】優先だ。現場を任されている身として、安生あんじょうはグラビアアイドルを無遠慮な視線で舐めるだけで我慢した。――仕事上の便宜を図るように約束すればいくらでも言い成りにできるし、反抗するようなら麻薬で酔わせた隙に写真やらビデオやらを撮っておいて脅迫すれば良い。放送業界のプロデューサーやディレクターらを始めとするメディアの重鎮や、既に売れっ子となった芸能人が新人を食いものにする手口の一つだ。

「来月の本命って…新体操の暁弥生あかつきやよい? ――ったく、程ほどにしておかないとヤバいよ。あの子を狙ってるの、十人や二十人じゃないんだよ? 田嶋サン、怒ってたよ。最近の安生あんじょうサンは一人で良い目を見てるって。――この前の子だって最初に姦っちゃったじゃん」

「なに言ってんだ。ありゃお前が仕込んだネタじゃねェか。そりゃまあ楽しませてもらったが…お前って、何が気に入らなくてあんな普通の子を痛ぶるんだよ?」

「――別にいいじゃん。気に入らなかっただけよ」

「それだけかよ? この早百合さゆりちゃんだって、【仕事】って訳でもねェのにお前が騙して連れてきたんだよな。おかげで今、こんな風になっちまってるんだぜ。少しは悪いとか気の毒とか思わねェのか?」

「――別に」

「――ケッ。気楽そうにしてりゃそれだけで目障りたァ、お前もホントにワルだな。まっ、そのおかげで良い目を見てるのはホントだけどな」

 ナミにヘソを曲げられると、グラビアモデルの卵を食いものに出来なくなる。安生あんじょうは取って付けたようなフォローを入れて彼女を宥めてから、パーティーの客たちの間を縫い、通称【調教部屋】と呼んでいる部屋に入った。

 ――その途端、泣き声と怒声が溢れ出す。既に先客が入っていたのだった。もはやボロキレでしかない服を身体に絡み付かせた、暴行の跡も生々しい少女が二人、天井から鎖で吊るされている。――ここまで来て麻薬を吸う事を拒否したり、乱交パーティーを承諾しない女を【調教】する為の部屋がここであった。しかし、顔が醜く腫れ上がっている少女の一人は、びくびくと身体を痙攣けいれんさせているばかりだ。特に医学的知識がない者でも、命に関わる症状であると解る。

「――オイオイ、またか。やり過ぎんなっていつも言ってるじゃねェか。こっちのはもうくたばっちまうぜ」

「なに言ってるんスか、安生あんじょうサン。こんなの演技に決まってるっスよォ。それにこんなメス犬一匹、生きていたって役立たずっしょ? ここでくたばったって、それがこいつの寿命ってヤツっスよ」

 素肌にレザーの袖なしシャツを着た、いかにもSM好きそうな男は舌を出して笑い、肉塊のごとく吊るされた少女の頬を指で弾いた。するとどうだ? ただのデコピン一発で少女の顎が嫌な音を立て、口一杯に溜まっていた血の塊が、辛うじて残っていた奥歯と共に床に飛び散った。

「よせって言ってるんだ! リサイクルできねェだろうが! ――そいつらは下の部屋にでも閉じ込めて置け。――オイ」

 火が点いたように泣きじゃくるのと、もはや死体と見分けがつかないのと、二人の少女が連れ出されるのを尻目に、部下に顎をしゃくり、少女…早百合さゆりと【彼女】をベッドまで運ばせる。ベッドには拘束用の手枷足枷が付いており、早百合さゆりは両手両足をそれで繋がれた。そして【彼女】は床に転がされる。

「後は――コイツだ」

 安生あんじょうは持参したブリーフケースからアンプル――鎮静剤を取り出し、猛獣にでも使うような巨大な注射器で、早百合さゆりの静脈にそれを打ち込んだ。

「まったく、手間掛けさせやがる。――しっかり見張ってろよ。あの馬鹿の親父に特別ボーナスを請求してからお楽しみタイムだ」

「へ〜い。――今夜で早百合さゆりちゃんとお別れなんてちょっと名残惜しいねェ。俺が童貞卒業したのも早百合さゆりちゃんだったからねェ」

「――もう手ェ出すなよ。今の早百合さゆりちゃんはあの頃とは違うんだ。下手に手ェ出すと干からびるか、【あいつら】みたいになるぜ」

 SM男がブルッと震える。早百合さゆりを見る彼の目から好色そうな色が音を立てて消え去り、代わりに顔を覆ったのは恐怖のひと刷けであった。――抵抗もできない女を殴り殺すような外道でも、怖いものがあるらしい。

「冗談じゃねぇス。俺はこのくらいでいいっスよ。――早百合さゆりちゃんも【あの子】くらいになっちゃったんスか?」

「ああ。ここんとこ人気が上がって、ずいぶん随分使い込まれていたからなァ。竜の親父は【あの子】が欲しかったらしいが、竜には【資格】がねェんだと。で、竜のバディは早百合さゆりちゃんになったって訳だ」

「でも…竜一の奴、ボッコボコにされてたんスよね? あんなんで本当に治るんスか?」

「おうよ。手足だろうとタマだろうと、また生えてくるのさ。竜の奴は元々サイズが足りなかったんだから、かえって良かったんじゃねェか?」

 下品な笑いを洩らし、安生あんじょうは【彼女】に目を向けた。

「おっと。余計なコトを聞いちまったな。こうなったらもうオメーを逃がす訳にはいかねェ。薬が切れたらたっぷり可愛がってやるから、今の内に覚悟決めときな。たまにはオメーみてェな気の強ェ女をるのも楽しいもんだ。運が良けりゃ、生かしといてやるぜ」

「……」

 床に転がされた【彼女】はピクリともしない。当然だ。意識はあっても筋肉に力が入らないので、まともに喋る事も出来ないのだ。もっとも喋れたとて、今の意味不明な会話に加わる事はできまい。安生あんじょうはSM男に視線を戻し、

「コイツ、なんか格闘技やってるみてェだから、しっかり縛っとけ。――味見くらいなら良いが、るのは俺が一番乗りだからな?」

「へいへい。お任せっス。――ふっふ〜ん。味見ならオッケーなんだよな」

 口約束など、所詮形だけに過ぎない。安生あんじょうが部屋を出て行くや否や、SM男は早速【彼女】のレザー・スーツのジッパーを一杯に下ろした。――途端に、咽返むせかえるほどに甘い香が鼻腔を直撃し、本来ならば虐待しながらでなければ反応しない彼の【男】が痛いほどに硬くそそり立つ。褐色の肌は艶っぽく、いかにも彼好みな、女豹のように筋肉質且つしなやかなスポーツ体型。しかもレザー・スーツの下には何も付けていないと来れば、SM男の頭からは味見だけなどという考えは綺麗さっぱり消え失せ、獣じみた本能に任せて【彼女】に覆い被さって行った。縛っておけと言われた事も、既に忘却の彼方だ。彼女の肉体に、大小さまざまな傷跡〜弾痕すら残っていた事さえ見落とした。

 しかし急に目標が掻き消え、SM男は床を思い切り頬張ってしまった。

「――わっぷ! 汚ねェ!」

 室内にも関わらず唾を吐いたSM男は、既に【彼女】が身を起こしているのを知った。驚く間もなく、【彼女】がすっと立ち上がる。

「な、なんだ! て、テメッ…!」

 SM男の声はそこで途切れた。――筋弛緩剤は一体どうしたのか、【彼女】の手が彼の顎を掴んだのである。それも、骨がきしむほどの強さで。

「――血の匂いが濃いな。ここは、どこの誰の家だ?」

 感情に乏しい、少女にしては低い声。だが、SM男の背筋に氷の毛虫が這って行った。喉を掴む手はおろか、声にも薬の効果がまったく見られない。――フリをしていたにしても、呻き声どころか身じろぎ一つしなかったのに!?

「だ、誰のもんって訳じゃねェ…! だ、大学のサークル名義で借りている部屋だ…!」

「…大学?」

 SM男は躊躇ちゅうちょなく大学名を告げ、それを聞いた【彼女】は小さく鼻を鳴らした。

「有名どころだな。それが、勉強もせずにタチの悪い女遊びか? いい気なものだ」

「…いい気になってるのはそっちじゃねェか?」

「…!」

 始めこそ驚きが優先されたのだろうが、SM男は自分の【力】を思い出し、【彼女】の手首を握り返した。【彼女】の手はあっさりと外れる。そうしなければ骨まで砕きそうな握力であった。

「喧嘩を売るのは相手を見てからにしやがれ。調子こいた分、たっぷり可愛がってやるぜ」

 そう言ってSM男は、苦痛に歪む【彼女】の顎を掴んで引き寄せ、噛み付くような勢いでその唇を塞いだ。

「〜〜〜〜〜〜ッ!」

 SM男の身体が震える。抵抗するどころか、躊躇ためらいもなく入ってきた舌の技巧と甘い吐息が脳を瞬時に沸騰させたのだ。とてつもない興奮にSM男は我を忘れて【彼女】を抱き締め、妙に甘い唾液を飲み込み、その肉体をまさぐりに行く。真っ先に求めた弾力に満ちた柔肉は手のひらに熱く焼き付き――否、き付いた。

「――ッッ!!」

 猛烈な熱さに引き剥がした手がシュウシュウと音を立てて白煙を噴き、ボロボロと溶け崩れて行く! 悲鳴を上げ――本人はそのつもりだった――て【彼女】から離れたSM男であったが、唇や顎の肉も同様に溶け崩れ、生赤い腐汁ふじゅうの滴る下顎骨かがくこつが剥き出しになる。その骨もみるみる黒ずみ、人体で最も強固な歯さえも崩れ始めた。表からは見えないが、食道も胃も腸も同じ運命を辿っていた。

「あがッ…ごごッ…ゴボボッ!」

 観客が、その運命を与えた者しかいない事こそ幸い。背骨を限界まで反り返らせ、顔面――既に下半分は骨だ――を掻き毟るSM男の狂態は凄惨そのものであった。内圧が高まって膨れ上がった眼球が半分以上も零れ、破裂した毛細血管から血が溢れ出してくる。口内の血溜りがゴボゴボと耳障りな音を立てているのは、何かを必死で伝え――助けてくれとでも言っているようだが、既に舌は失われているので声になどならなかった。

「…お前にも【寿命】が来たな」

 全ては、【彼女】の汗と唾液に含まれていた強烈無比な出血毒の仕業だ。一定量以上のアドレナリンと反応して体液の殆どが強い毒性を帯びる女――【毒揚羽どくあげは】ラヴァ…それが裏世界に名うての【毒使い】として知られる、【彼女】の名前であった。当然、筋弛緩剤など効く筈もなく、彼女はこのチンピラたちを利用して【安全】にあの場を抜け出したに過ぎなかったのである。

 【寿命】が尽きるまであと二分ほど地獄の苦悶にのた打ち回るSM男をほったらかしにして、ラヴァはレザー・スーツのジッパーを引き上げ、ドアの傍に張り付いた。

 今夜のねぐらにするには、ここの連中は様子が変で、物騒すぎる。さっさと退散する手だ。

 ドアを少しずらし、隣室の様子を窺う。だが、様子がおかしい。先程まで雑多な賑わいに満ちていた部屋が、今は妙に静まり返っている上、緊張感が張り詰めている。

(…もう迎えとやらが来たのか? それにしても、何だ、この重武装は?)

 【毒使い】であるラヴァだからこそ判る、ドアの隙間から流れ込むガン・オイルと火薬の匂い。どうやら迎えとやらは軍人か、それに類するものらしい。しかもこの匂いから推察するに、恐らく自動小銃を持っている。

(……)

 虎の穴を抜け出したと思ったら、今度は狼の巣に入ってしまったらしい。ラヴァは素早くドアから離れ、反対側にある窓に取り付いた。――逃亡を許さぬために、鍵にはこれ見よがしに鎖が巻かれていたが、ラヴァはスーツの胸元から取り出した小さな壜の中身を口に含み、ぷっと吹き付けた。するとたちまち太い鎖が飴のように形を失い、ボロボロと崩れ去る。――薬液との化学反応で強酸性を帯びた唾液の仕業であった。

 窓を開け放つと、夕餉ゆうげの香を運ぶ風がラヴァの短髪を吹き乱した。眼下がんかの灯りの一つ一つで平和な生活が営まれているであろう街の一角で、自分は血と闘争に明け暮れている。束の間、ラヴァの目に感慨かんがいが揺れた。――組織を離れてからは、自分らしくない事ばかり起こる。

 その時、早百合さゆりという少女がラヴァを見て声を上げた。

「助け…て…」

 常人ならば哀れを誘う、その声。しかしラヴァは無視した。――そんな義理は無論ないし、顔を見られたくらいで大騒ぎするような三流とも違う。何より先程、身を潜めていたところを台無しにされたのだ。現に今も――ガチャガチャと手枷足枷を鳴らして注意を引くような真似をしている。

 しかし――ラヴァは指をしゃぶり、腐食毒を拘束具に塗り付けた。みるみる溶け崩れていく鎖を見る早百合さゆりの目に僅かな希望が湧く。そしてラヴァに移った視線には多大な感謝――これまでラヴァには一度たりとも向けられた経験のない光があった。

 別に、感謝されるいわれはない。ここで無視すればもっと暴れて敵の注意を引くと思ったからだ。――ラヴァはそう自分に言い聞かせた。しかし――

「グルル…ウゴォ…!」

 突然、少女が苦しみ始め、全身をガクガクと痙攣けいれんさせ始めた。――始めは麻薬の禁断症状かと思ったのだが、そんな生易しいものではなかった。白くほっそりした手足が、残りの手枷足枷の鎖を軋ませ、繋がっているベッドの鉄パイプを捻じ曲げ始めたのである。――思い起こせば、彼女は大量の鎮静剤を投与されていた筈ではなかったか?

PCPエンジェル・ダストか? それとも…流行はやりの【あれ】か?)

 すぐに逃げ出すべきなのだが、自分でも訳の判らぬ衝動が、その光景から目を離すなと言っている。まるでそれを見る事が【義務】であるかのように、ラヴァはその光景に目を奪われた。

「来る…! 来るゥッ…! あいつら…あいつらが…!」

 髪を振り乱し、勢い良く腕を振った瞬間、手枷を繋いでいた鎖が千切れ飛んだ。――冗談ではない。細目の鎖とは言え百キロ程度の荷重ならば支えるであろうそれを、女の細腕が引き千切ってしまったのである。

「――ぐわうっ! ごるるッ!」

 あどけない顔立ちからは想像も出来ない唸り声を上げ、足枷の鎖を掴む。ピアノでも弾いている方が似合う手が鎖を引き伸ばし――

 監禁部屋の扉が開け放たれたのはその時であった。

 ぐわうっ! と威嚇の唸りを発する早百合さゆり。突然の狂態は正にそいつらに向けたものであったのか? それほどに濃密で、薄汚れた殺気――殺戮を好む者の放つ獣臭だ。

「――動くな!」

 跳ね上がる銃口。ラヴァの身体に絡み付くレーザー・サイトの赤点。しかし、何者だ? 黒い夜間迷彩服やコンバットベルトのSIGはともかく、悪評ひんぷんのフランス製FA―MAS、五・五六ミリNATO弾を使用する自動小銃がメインウェポンだ。そして足元に転がるSM男の死体を認め――

「貴様!」

 仲間を殺された怒りではなく、殺戮の歓喜を込めた殺意が迷彩服の指先に集中し――ラヴァはこの密閉空間では逃げ切れぬのを悟った。――られる!

 凄絶な吠え声ハウリングが轟いたのはその時であった。

「〜〜〜ッッ!!」

 脳髄のうずいを直撃する早百合さゆり咆哮ほうこうが、ラヴァに膝を突かせる。だが、咆哮を浴びせられた者達はもっと酷かった。迷彩服はバタバタとその場に崩れ去り、リビングにいた若者達も頭を押さえ、反吐へどを吐き散らしながらのた打ち回ったのである。そして――

「――ッッ!」

 獣の勢いで跳んだワンピースから弧を描く平手が飛ぶ。たかが女の一撃――とはならなかった。崩れた姿勢とは言え最も強固とされる十字受けでそれを受け止めた瞬間、迷彩服は弾き飛ばされ、ラヴァの傍らを吹っ飛んでいった挙句、ベランダの手摺に叩き付けられた。背骨の砕ける音はいっそ爽快に響く。

「クッ! ――死ねェ!」

 リビングまで後退しつつ銃口を跳ね上げ、早百合さゆりをポイントする迷彩服。レーザー・サイトの光点が早百合さゆりの額に点り、撃鉄が落ちるまでゼロコンマ五秒。――が、それ以上の速度で飛来した何かが迷彩服の喉を貫き、あまつさえ壁に標本のごとく縫い付けた。引き金は遂に引かれず、迷彩服は絶命する。――喉から生えているのは機能性一点張りのダガー・ナイフであった。

 ラヴァと早百合さゆりの目はナイフの投擲手とうてきしゅ、リビングの天窓から降って来た新たな登場人物に向けられる。

 それほど奇抜な格好ではなかった。ブラックレザーのライダースーツにモトクロス用のヘルメット。ただしその両手にはSEALSなどで使用されるコンバットナイフが逆手に握られていた。

(こいつは――!?)

 先程、路地裏で感じた殺気の主か!? しかしそれ以上に、独特なナイフの構えにどこか見覚えがある…そう考えた途端、不意に頭痛に襲われるラヴァ。最近頻発する、原因不明の頭痛。殺手シャーチーとしては致命的な発作。これがあるために彼女は【双頭蛇ツインスネーク】に――

「――【奴】だ! 仕留めろ!」

 獲物を求めて旋回する銃口。今度こそ、FA―MASが火を噴いた。

「――ッッ!」

 速い! 三点射で吐き出される火線はことごとく何もない空間を貫き、宙を飛ぶように突進したライダースーツの手が一閃されると、迷彩服の両腕は銃を握ったまま床に落ちた。迷彩服は血を振り撒きつつ濁った絶叫を放ち、その首も返す刀で振るわれたナイフで宙に舞う。――凄まじい膂力りょりょくと技の冴えである。しかし――

「――!?」

 ラヴァの眉根が寄る。ライダースーツが、首を落とされて絶命必至の迷彩服にナイフを突き立て、心臓と肺をえぐり取って打ち捨てたからである。しかもそのまま数秒待ち、完全に動かぬのを確認すると、壁にはりつけになっている死体にも近付き、そちらにも同様の処置を施した。とどめと言うにはあまりにも残酷で、確実な手段。その様な行為に付き物の異常性癖の気配はなく、淡々と【作業】をこなす。まるで、そうしなければ生き返ってくるとでも言わんばかりだ。

 そして、ライダースーツが振り返った。

 ぐわう! と吠える早百合さゆり。その強烈にして鮮烈な殺気に当てられたためだ。髪を振り乱し、歯を…異様に伸びた犬歯を剥く様は美しい鬼女そのものであったが、しかしライダースーツはナイフを下ろし、「来い」と言うように手を差し出した。早百合さゆりはなおも威嚇の唸りを発したが、襲い掛かる気配はない。

 このライダースーツは早百合さゆりの味方か? しかし自分には関係のない事だ。一刻も早い退散を決めたラヴァはベランダに出ようとして、突然、何者かに行く手を阻まれた。

(――なにっ!)

 ボクサー並の速度で放たれた鈎手こうしゅのフックを、スウェイバックでかわすラヴァであったが、続いて放たれたアッパーは底足ていそくで受けるのが精一杯であった。リビングまで吹っ飛ばされた彼女は、しかし猫族のしなやかさで姿勢を整え、足から着地する。しかし――どういう事だ!? 襲ってきたのは先程早百合さゆりに吹っ飛ばされた迷彩服だ。背骨が折れる音を確かに聞いたのに、なぜ動ける? それ以前に、異様に前屈みな構えは何だ? 拳銃もナイフもあるのに、指を鉤爪のように折り曲げて構えているのは? 奇妙にせわしない、犬のような呼吸音は?

象形拳しょうけいけん? いや、違うか?)

 グルルと喉を鳴らしつつ、身体をたわめる迷彩服。性質たちの悪い冗談のようだが、ラヴァは手袋を外し、黒く染まった手と真紅の爪を露わにして身構えた。――逃げる事は出来ない。背中を見せれば、その瞬間に襲い掛かってくる。殺手シャーチーの本能がそれを告げた。しかし、背後でも聞き慣れた金属音〜拳銃の撃鉄を起こす音が響き、否応なしに意識が分散される。視界の隅にリボルバーの巨大な銃口とグレーのコートを捉えた時、迷彩服が獣そのものの唸り声を上げて跳躍する。万事休すか――

「――伏せろゲッダウン

 ぱっと床に身を投げ出すラヴァ。その頭上を、耳をつんざく銃声が駆け抜け、迷彩服の胸部に大穴を空けつつ弾き飛ばした。――背骨が折れてなお向かってきた迷彩服もこれには溜まらず、どす黒い血を振り撒きつつ床に落ちた。

 振り返るラヴァ、ライダースーツ、早百合さゆり。そこに立っていたのは、若者達とも迷彩服の一団とも異なる、血臭立ち込める空間に相応しい殺気を纏った男であった。季節外れのコートを翻してするりと前に進み出た男は、胸部に風穴を空けながら威嚇の唸りを上げる迷彩服に大型のリボルバー、コルト・パイソン・三五七マグナム〜それも抜き撃ち重視の三インチモデル、【コンバット・パイソン】の銃口を向け、ぎらついた牙が宙へと跳ね上がった瞬間、その頭部を血煙に変えた。

「――予想外の事態だな。事情を説明してもらおう」

 低いが、よく通る声と共に男が振り返り、身構えたラヴァとライダースーツに銃口を向ける。三五七マグナムを片手撃ちしてびくともしない構えには一分の隙もなく、ただでさえ巨大な銃口が大砲に見えるほどの冷えた殺気がほとばしっていた。この男〜驚くべき事に少年〜もプロだ。それも飛び切りの。そして――

(――あの時の!)

 ラヴァの歯がキリッと鳴る。二ヶ月ほど前、【九頭竜ヒュドラ】の総帥、李飛鴻リー・フェイウォンを狙った時に邪魔をした男だ。肉体そのものが毒である自分の特質を一瞬で見抜き、殺さず生かさず、動きを止めるだけの打撃を見舞ってきた男。――闇の世界に身を置くプロとして、ラヴァは激しい敵愾心てきがいしんを沸き立たせた。そして恐らくライダースーツも、コートの少年が只者ではないと悟ったに違いない。銃口を恐れるでもなく、ナイフを構える。しかし――

「――早百合さゆりさん!」

 数十秒遅れて、コートの少年の連れらしい少女がリビングに顔を出すと、早百合さゆりが驚愕の眼差しを少女に向けた。

「あり…さ…?」

 次の瞬間、ライダースーツの手が早百合さゆりを首締めに捉えた。一挙動でコートの少年の狙いは彼に向いたが、その時には既に早百合さゆりの喉にナイフが突き付けられていた。今撃てば、仮にライダースーツを即死させても反動でナイフが彼女の喉をえぐる。――この男は早百合さゆりの味方ではないのか!?

 そんな疑問が走った時、第三の登場人物が姿を現した。いや、正確には――

「――警察だ! 動くな!」

 その声が響いた瞬間である。警察だと叫んで突入した男…御厨みくりや刑事の足元から、銀色の円筒が室内に投げ込まれた。



 ――バシン!!



 薄闇に炸裂する閃光! 御厨みくりや刑事はわっと叫んで身体を床に投げ出す事しか出来なかったが、コートの少年はセーラー服の少女を横抱きにして壁の陰に飛び込み、ライダースーツは早百合さゆりを伴って冷蔵庫の陰に隠れる。そしてラヴァは――コートの少年の後に続くしかなかった。

 次の瞬間、撃ち込まれる弾丸の嵐! 最低三丁以上の銃口が室内に弾丸をばらまき、豪華な家具調度、シャンデリア、テーブル上のグラスや棚を埋め尽くす酒類を容赦なく砕いて若者達に濁った悲鳴を上げさせる。――迷彩服の増援部隊であった。

「…これは一体何事だ?」

 コートの少年――新宿・真神まがみ学園三年生、緋勇龍麻ひゆうたつまは、防弾コートで【仲間】の一人藤咲亜里沙ふじさきありさを弾丸と飛び散る破片から護りつつ、ラヴァの腹部にパイソンを突き付けて問い掛けた。















 話は数時間前にさかのぼ



「…大体の事情は解ったが、俺にどうしろと言うのだ?」

 東京都立真神まがみ学園三年、緋勇龍麻ひゆうたつまは、テーブルの向かい側に坐る、高校生でありながら妖艶な雰囲気を漂わせる少女…藤咲亜里沙ふじさきありさに言った。

「そう…だよね。地元だからっていきなりこんな話を振られても、アンタだって迷惑よね…」

 ここはラーメン屋【王華おうか】。龍麻たつまが行き付けにしているラーメン屋である。この店、味は良いのに客は少ないという、一風変わった店だ。その為、内密な話もそこそこ出来る。

「迷惑とは言わん。お前とて考え抜いた結論だろう。しかし俺も学生の身分だ。過大評価されても困る。――そのモデル仲間…お前の友人が誘拐されたのが事実としても、目的も不明、手がかりもなしでは、俺とて動く指標がない。まして事件の発端が三ヶ月前となると」

「ウン…警察でもそう言われたよ。地方から出てきた若いのが失踪しっそうするなんて日常茶飯事だって…。でも…早百合さゆりさんはそんな人じゃない! 昼いっぱい勉強して、夜はレストランで働いて、モデルもこなして・・・故郷のお袋さんに仕送りだってしてたんだ。そんな早百合さゆりさんが理由もなく失踪なんてする訳ないんだよッ。三ヶ月も音信不通になった後で、【助けて】なんて連絡があったのに知らんふりなんか出来ないよ…!」

 先の事件の際、ふてぶてしいまで迄の態度で向かってきた時と違い、亜里沙ありさは苦渋に満ちた気弱な表情を見せる。――不思議な縁の果てに心の枷を外され、新たな生き方を見付ける事が出来た少女は、龍麻たつまにだけはそんな表情を見せる事をいとわない。彼が自分の想像を超える世界を生き抜いた、そこらにいる大人など霞むほどの大人だと理解したからだ。

「ふむ…」

 無表情は変わらず、龍麻たつまは少し考え込む。

 亜里沙ありさもまた、【力】を持つ者だ。そして先の一件で改心した彼女は、その【力】を誰かの為に役立てたいと、龍麻たつまたちと行動を共にすると決めた。多少ひねくれた態度は見せるものの、情が深い彼女の事だ。友人を真剣に心配している【仲間】を理屈だけで捨て置くのは、龍麻たつまとしても不本意であった。

 しかし、首都圏における行方不明者は年間数百人に及ぶ。そのどれもが理由もなく、ある日突然消滅してしまうものだ。このテの事件に対しては警察も張り紙や家出人捜索の伝言版を提供するくらいしか捜査手段がなく、失踪者が見つかる確率は非常に低い。いくら連絡があってから六時間足らずとは言え、発信場所が特定できなくては、捜索範囲を絞る事も出来ない。

「・・・解った。心当たりを廻ってみよう」

 警察がまともに動かないとなれば、一般市民レベルではどうする事も出来ない。マスコミに訴えるにしても、果たしてどれだけ真剣に取り合ってもらえる事か。――と、なると後はアンダーグラウンドの領域である。

「ホントッ!? あ…でもアタシ…大した礼も出来ないけど…」

「――ここの勘定を持て。では、行くぞ」

 つい、と席を立ち、コートをまと龍麻たつま亜里沙ありさも慌てて立ち上がった。

「ちょ、ちょっと! ホントにそんなので良いのッ!?」

「人捜しは俺の守備範囲外だ。大した事が出来る訳ではないからな。だが、その道のプロを見付ける事は出来る」

 その時龍麻たつまのポケットから、一冊のコミックが滑り落ちた。龍麻たつまはそれを拾うと、【王華おうか】の主人に、京一が来たら渡して欲しいと頼んだ。

「た、龍麻たつま…アンタ、【ドラ○もん】なんか読むの!?」

 彼の経歴からは想像も付かない所持品に目を白黒させる亜里沙ありさ。しかし龍麻たつまは平然と言う。

「【夢】のある作品だと言って京一きょういちが薦めて来たものだ。しかし――俺には理解できん。使いようによっては世界をも滅ぼしかねないネコ型最終兵器リーサルウェポンに、卑屈で自堕落ですぐ他人に頼り、自ら鍛えようともせず便利な道具とやらに頼り、己の力でもあるまいにたやすく増長する日和見ひよりみ主義の主人公。特に気に入らんのは【他人のものは俺のもの】と公言してはばからず、暴力で何もかも押し通す餓鬼だ。強い者に媚びへつらい、小ずるく立ち回るス○夫に、奇麗事しか言わないし○か、全てに恵まれていながら何もしない出○杉。そして、子供達に無関心な親に教師――虚構きょこうの世界とは言え、夢や希望を語るには人格的に問題のあるキャラクターばかりだ。場合によっては年少者に深刻なトラウマを与えかねん。既に現代日本国民には、その性格においてこれらのキャラクターに分類できてしまう者が増殖しつつあるな。例えば公約無視で消費税を増税し、住専問題で税金を勝手に浪費する政界人はジャイ○ンとス○夫で、それに対して陰口を叩く事しかできない国民はの○太の劣化コピーと言ったところか」

「……」

 なんで子供向けの漫画にそこまで突っ込んだ考察を…亜里沙ありさは頭を抱えた。彼女にしてみればそれはただの漫画で、思想だの教育だのとは関係ないものだ。確かに高校生にもなって読むものでもないだろうが、様々な【未来の道具】に夢を描くくらい良いじゃないかと思う。

 しかし、龍麻たつまは続けた。

「一度脳内で情景を再構築する活字より、目から得られるビジュアルイメージの方が記憶に残り易い。したがって、情報入力に最適な状態にある子供の脳には、マイナス要素を含む映像は極力見せぬ方が良いのだ。膨大な映像情報は想像力の欠如けつじょを招き、暴力的な情報の多量視聴は感情の凍結を招く。――昨今のモラルの低下や犯罪の低年齢化は、自称社会心理学の専門家とやらが言うように、一部のテレビゲームやコミックだけが招いたものではない。教育混迷の最中さなか、真に望まずして親になってしまった者と、真に望まれず生まれてしまった子に対し、低俗で愚劣なバラエティ番組や暴力的且つ頽廃的たいはいてきなドラマを垂れ流すメディアそのものに原因があるのだ。そのような環境で育ち、判断能力を持つ事ができなかった若者は、マスコミの捏造ねつぞう情報を真に受け、流行という言葉に踊り、短絡的な暴力をふるい、刹那的せつなてきな快楽に身を浸す。そして新たに祝福されぬ子が生まれ、理性なき者が限りなく増殖する」

 亜里沙ありさは何も言えない。そもそも、そんな事を考える機会はなかったのだ。ただ、彼が非常に重要な事を言っている事は理解できる。

 彼――緋勇龍麻は無法地帯の究極形〜【戦場】を知っている。【未来】を夢見る事を許されず、明日の命さえも解らぬ者たちの姿を。そして彼自身、自分の意志や感情さえ持たぬ戦闘マシンとして育てられていたのだ。その為、彼には【普通】の子供時代は存在しない。ひたすら生き残る為だけに、否、【任務を果たす】為だけに戦闘技能を叩き込まれた、血と硝煙に塗れた日々があるだけだ。

 だからこそ、彼には理解できない。【自由】という言葉を曲解し、規律や理性はおろか、生きる目的すら持たぬ者たちの考え方が。

 亜里沙ありさと知り合う切っ掛けとなった【苛め】にしてもそうである。報復をまったく恐れる事なく、集団で行う理不尽な暴力行為。――龍麻たつまの生きてきた世界では通用しない考え方だ。国家とテロリストの間で繰り広げられる報復合戦の中で生きてきた彼には、ただ力が強い、数が多いと言うだけで、リスクを考えず一方的な暴力を振るえる者たちが存在するなど信じられなかった。究極的なところ、亜里沙ありさ嵯峨野さがや麗司れいじが許されたのは、理不尽な暴力に対する報復そのものは彼にとって当たり前の事であり、同時に彼らがその痛みに悩み、苦しんでいたからであった。

 だが彼は、単に理解できないと切り捨てるのではなく、容認はせずとも理解するべく考察する。世に氾濫するメディア、マスコミ、果ては子供向けの漫画からさえも。

「同じコミックやアニメーションならば、俺は【サザ○さん】を推奨する。あれは日本における平和な家庭の原風景げんふうけいだ。【ま○が日本昔話】も良い。親しみやすい物語の中に数々の教訓や戒めが織り込まれた良作だ。――少なくとも、お前の友人は安い考えの持ち主ではないのだろう? まずはその辺りから探るとしよう」

「う、ウンッ」

 そして龍麻たつま亜里沙ありさは、久保くぼ早百合さゆりが最後に目撃されたという高田馬場に向かった。















 山手線と西武新宿線、地下鉄東西線の連絡駅である高田馬場駅は、本格的な帰宅ラッシュを迎える前から雑多な賑わいを見せていた。西武新宿線で一駅、JR山手線で二駅先に東京一と言っても過言ではない歓楽街、新宿歌舞伎町が控えているので余り目立たないが、BIGBOXを始めとして、デパートやパチンコ屋など、商店街の密度はそれなりに濃い。

「ねえ、切羽詰ってこんなこと頼んじゃったけどさ、どうやって早百合さゆりさんを捜すんだい? 高田馬場で行方不明になったって言っても、ここにいるとは限らないわよね?」

「無論だ。誘拐事件の多くは、犯行現場から離れた所に監禁場所を置く。まして三ヶ月前ともなると、この高田馬場にいる可能性は限りなく低い。――だが、まずは足跡そくせきを辿らねば何も始まらない」

 高田馬場BIGBOX前には小さな広場があり、鳩の群れが餌をつついている。龍麻たつまはそこのベンチに腰掛けた。

「…ここで何するのさ?」

「足跡を辿るにもコツがある。――待つ事だ」

「?」

 足元に群れる鳩を眺めつつ、ただベンチに腰掛けている事五分。何人かの浮浪者が彼らを胡散臭うさんくさそうに眺めつつ通り過ぎ、中年サラリーマンが足を組んでいる亜里沙ありさの脚線を横目で盗み見て行く。中には亜里沙ありさの胸元や腰の辺りを無遠慮に眺めて行く若いのもいた。――あおいあたりなら顔をしかめようが、そういう連中の視線に嫌悪感を覚えるどころか、逆に「金取るよ」くらい言いかねないタフな亜里沙ありさだ。しかし龍麻たつまの行動の真意が理解できないので、少々不安でもある。

 果たして、変化があったのはベンチに坐ってから十分後の事であった。

「――お兄さん、煙草持ってる?」

 いきなりそんな事を言ってきたのは、若い――と言っても龍麻たつまたちよりは確実に年上の女性であった。かなりきつい化粧に、けだるげな表情。人目を引く事を目的にした派手な衣装――いわゆる水商売系の女性である。身に付けている指輪やネックレスも全てイミテーションだ。

「ちょっと、なんだよアンタ――」

 当然のように絡んだ亜里沙ありさであったが――

「――煙草は持っていない。ロッテのチョコレートならばある」

「あらら、チョコなら森永よ。――渋谷のゲンさんの紹介だから気張って来たけど、キミ、まだ高校生じゃないの?」

「――用件は先程伝えた通りだ。マダム・クレオパトラ」

 龍麻たつまがそんな事を言い出したので、亜里沙ありさは目を丸くする。女…マダム・クレオパトラの方は――艶然と笑った。こればかりは年の功――亜里沙ありさでも敵わない色気がある。

「オーケイ、ビジネスライクに行こうってワケね。他ならぬゲンさんの紹介だし、何でもオネーサンに聞いてちょうだい」

 龍麻たつま亜里沙ありさから預かった早百合さゆりの写真を彼女に差し出した。

「再度確認する。――XX短大の学生だ。アルバイトにウェイトレスとファッションモデルをやっている。三ヶ月前になるが、W大学の合同コンパとやらに出席し、帰宅する途中で行方不明になった。コンパ終了後、帰宅する旨を知人に連絡している事から、自発的な失踪の可能性は低い。そして約七時間前、先ほど伝えた携帯に救助を求める連絡が入った。本人確認のみできている」

「うんうん。三ヶ月前ってところがネックだったけどね。う〜ん…そうねえ…」

 写真を眺めながら、顎に手をやる女。

「――素材の良い子ね。肌の色艶も良いし、化粧映えもしそう。お酒も煙草もやらないタイプのようね。――どう?」

 龍麻たつま亜里沙ありさに向き直る。二人の会話に呆気に取られていた亜里沙ありさは慌てて肯いた。

「う、うんッ。酒も煙草も縁がないし、その…色々と節約もしてたから」

「うんうん、わかるわぁ。――でも、それだと嫌な事を教える事になるかも。――W大学の合同コンパって言ってたけど、それって十中八九、あそこの【フリーダム】ってサークルの主催よ。ほんでもって、悪餓鬼どもの巣窟そうくつ。――恐らくこの子、そいつらに拉致られてるわね」

 けだるい感じの抜けなかった女の顔…目元だけがすう、と暗い輝きを帯びる。アンダーグラウンドに生きる者特有の、闇を知る者の目だ。

「その筋じゃ有名な話よ。あちこちの大学や高校に合同コンパやら何やらを持ちかけて、目を付けた女の子を酔い潰れさせてから集団で乱暴するの。――被害に遭った子はまず警察に届けないし、事実上の野放し状態。そのサークルのリーダーは良いトコのお坊ちゃんで、お金にはまったく困ってないから、わざと落第を繰り返して大学に居座り続けているわ。そうやって獲物を探しては、悪さをしているのよ」

「【フリーダム】…どこかで聞いた名だ。しかし、なぜ警察に届けない?」

 龍麻たつまが口を開くと、女は眉をしかめた。

「当然じゃない。乱暴された時に写真やらビデオやらを撮られて脅迫されてるんだから。それ以前に、男に乱暴された女の気持ちは解らないわよ。――そんな話がちょっとでも広がってみなさいな。世間の人間なんて残酷なものよ。人とすれ違う度にあいつは傷物だとか好き者だとか陰口を叩かれるのよ。酷いのになると、もうヤられてんだから俺にもヤらせろなんて事を言う外道もいるわ。――警察も一緒よ。調書ちょうしょを取るとか言って、やれどんな風にヤられただの、何回ヤられただのって、そんな事を言う連中が増えたわ。しかも犯罪として立証できても犯人は二年と服役する事なく出所してきて、逆恨みで狙われても警察は護っちゃくれない。マスコミだってネタとしては扱っても根本的解決なんかそっちのけ。人の気持ちなんか考えもせずにあちこち突っついておしまい。男にとっては一時的な欲望の捌け口でも、女にとっては一生残る心の傷よ。――それでも相談できて?」

「…納得した」

 やや気負い込んだ女の言葉に気圧けおされた訳ではないが、とりあえず頷く龍麻たつま。しかし、こればかりは同性でなければ理解できない領域だろう。ただ一言、警察なり知人なりに相談する事が出来れば…と考えるのは、所詮第三者の考え方だ。仮に相談でき、事件が解決したとしても、被害者本人は事件の影を一生引きって行かねばならない。そして多くの場合、加害者は二年足らずで社会に出て来る。その時、被害者が逆恨みの犠牲になる事も良くある事だ。

 厳格な宗教が政治に関わっている国ならばともかく、日本やアメリカなどは男女間の犯罪に対する法整備が進んでいない。そして社会全体のモラルが低下の一途を辿る中、婦女暴行、誘拐監禁、ストーカー犯罪の件数はうなぎ上りになっている。――目の前の犯罪に対処するべく法整備を行おうとすると、やれ自由がどうのプライバシーがどうのと、実質的に無関係な人間達の取って付けたような反論が生じる。その陰でどれほどの人間が泣き寝入りを余儀なくされ、現在も泣かされ続けている事か。

「それで、その女性の居場所は見当が付くだろうか?」

「さすがにそこまでは無理ね。――大抵の子は写真とビデオの脅迫だけで負けちゃうし、抵抗すれば暴力の出番。どっちも行く末は風俗かAVだけど…三ヶ月も連絡がないなんて事は数えるほどしかないわ」

 つまり、数えるほどには【ある】という事だ。

「そのようなケースではどうなっている?」

「それは解らないわ。消えてそれっきり。――少し前なら、ろくでもないビデオの犠牲になった可能性もあったけど」

 渋谷のスナッフ・ムービーの件は、少なくとも表面上は片付いている。早百合さゆりの失踪はW大学のコンパ後と明確なので、不意に消えて手がかりなしというかの事件とは性質が微妙に異なる。それに本人からの救助要請もあった。急げばまだ助命のチャンスはある。

「ならば、手は一つしかあるまい。――そのサークルのリーダーとやらを締め上げる」

 龍麻たつまの思考は単純明解だ。犯罪は、テロは根元を潰す。それも徹底的に。――思想背景や政治的思惑を現場に持ち込んだところで混乱するだけだ。

「本気でやる気? そいつの父親って結構大物よ。サークル関係者の中にも政治家とか官僚を親に持つ連中が多いわ。むしろそういう連中を積極的に集めているからね」

「――ならばこそだ。権力という幻想の力をかさに他人の生命財産を踏みにじって恥じぬ連中など、文明社会の汚物に過ぎん。必要とあらば、まとめて始末する」

 そう龍麻たつまが宣言した時、亜里沙ありさは背筋を氷塊が滑り降りるのを感じた。――今更ながらに龍麻たつまの経歴が思い出されて、この男に相談したのは間違いではなかったのかという考えが浮かんでくる。対テロリスト部隊上がりの高校生――そんな荒唐無稽こうとうむけいな存在が目の前の男なのである。

「…ゲンさんの言った通りね。近頃の若いのは骨なしばかりだと思ってたけど、キミはそんな連中とは全然違うわ。――今ならまだ大学にいる筈よ。そして今日は土曜日。連中が下衆な遊びをやる日よ。名前は――田嶋保良たじまやすよし。住所は東新宿XXXX」

「了解した。――引き続き、何かあれば頼む」

 差し出した田嶋の顔写真の代わりに、板チョコを受け取る女。その下には折り畳んだ数枚の一万円札が挟まれている。

気風きっぷも良いわね。――ね、今度はお店の方に来てね」

「…自分は未成年だ」

「野暮なコト言わないの。う〜んとサービスしちゃうから」

「法は守るものだ。無事に卒業してから、寄らせて貰う」

 最初から最後まで無表情を崩さなかった龍麻たつまに、女は苦笑して肩を竦めた。

「ホント、クールよねぇ。――ま、良いわ。これからも贔屓ひいきにしてね」

 そう言うと女は一万円札を胸元に差し込み、ボディコン・スーツに包まれた尻を振りながら歩み去って行った。

「ちょっと龍麻たつま…。今のひと、なんなのよ…?」

「うむ。この先にあるバーのマダムだ。この界隈で知らぬ事はないという情報屋でもある」

「じょ、情報屋? とてもそんな風には見えなかったけど…」

「人を見かけで判断しない事だ。盛り場には多くの情報が集まる。そして彼ほどの顔役ともなると情報を武器にアンダーグラウンドでも重宝される」

「そ、そうなんだ…」

 そこで亜里沙ありさは、重要な事に気付いた。

「ん――!? 今、【彼】って言ったけど…?」

「肯定だ」

「そ、それじゃ今の人…男ォ!?」

 愕然と雑踏を見やる亜里沙ありさ。しかし先程の女性…もとい男性は既に姿が見えない。――あれほど化粧映えした美人が、実は男とは…!

「それほど重要な事か? 重ねて言うが、人を見掛けで判断するな。今でこそバーのマダムだが、元は通産省のエリート官僚だ。持ち前の正義感ゆえに不正と不実の波に耐え切れず自殺までしかけたそうだが、【女】として生きる道を見出し、今ではそういう役人どもを手玉に取る毎日だ。――彼に逆らって破滅した者は多い」

「……!」

「行くぞ」

 絶句する亜里沙ありさに、龍麻たつまは移動を促した。







 そして現在。

 龍麻たつま亜里沙ありさが田嶋保良の部屋に押し入ったのは、早百合さゆりの咆哮が聞こえた九〇秒ほど後の事であった。そして恐るべき速やかさで進行した殺戮劇の場で、【毒使い】ことラヴァとライダースーツに出くわしたのである。そこにかつて見た獣人がいた事と、その場に刑事が飛び込んでくる事、妙な戦闘部隊の手で閃光手榴弾スタングレネードが放り込まれる事までは龍麻たつまをして予想外の出来事であった。各自が引いてきた点と線が、正にこの場で交差したのである。

「…これは一体何事だ?」

 龍麻たつまは油断なくラヴァの腹部にパイソンを突き付けつつ聞いた。――とは言え、返事は期待していない。彼女を殺せば、その断末魔の毒で自分もられる。彼女を殺す訳には行かない以上、これは脅しにならないのだ。

「私には関係ない。ここの住人に拉致されただけだ」

 ラヴァはあっさりと事実を語った。別に隠すような事でもないし、悪戯に龍麻たつまを怒らせる必要もない。

「連中は何者だ?」

「知らん。――あの娘を連れ出しにきたようだが、向こうの男が阻止した」

 視線で示した先にいるのは、早百合さゆりを拘束しているライダースーツ。――拘束と言っても、手を握っているだけだ。早百合さゆり亜里沙ありさを見つつも、その手を振り払おうとはしていない。

「救助者にしては、乱暴な手際だな」

 ライダースーツの視線を感じ、龍麻たつまが呟く。ゴーグル越しの視線には焼け付くように強烈な殺気が詰まっていた。そして――銃撃が止んだ。

「――ッッ!」

 耳を始めとする五感が静寂に切り替わろうとする瞬間、弾丸並の速度でナイフが飛んできた。首だけ傾けてナイフを回避した龍麻たつまであったが、頬に細い朱線が走る。その時既にライダースーツは空中にあり、両足をたわめた蹴りの姿勢にあった。――しかし龍麻たつまの反応速度ならばパイソンを――!



 ――ガシュッ!



「――ッッ!」

 最初からそれが狙いだったのか、ライダースーツの二段蹴りがパイソンを弾き飛ばし、左腕をも外向きに弾いて、龍麻たつまの身体の前面をがら空きにしてのけた。そこに本命の――踊るような弧を描くナイフの一撃! 狙いは――頚動脈!



 ――ガチン!



「ッッ!」

 鋭い音と共にナイフが止まる。ライダースーツの動きがゼロコンマのレベルで停滞し、その瞬間に龍麻たつまの上段足刀がライダースーツの胸板を捉える。――が、なんとライダースーツは龍麻たつまが文字通り歯で食い止めたナイフを支点に身体をねじり、蹴りのインパクトを軽減してのけた。離れる間合い。龍麻たつまはライダースーツが空中にいる間にウッズマンを抜き撃ちにした。狙いは――顔の真中!



 ――ババシュッ! バシュッ!



「――ッッ!」

 必殺を期して放った弾丸は、素早く顔を庇ったライダースーツの腕に着弾し、ポロリと床に落ちた。そのまま身を翻して遮蔽物しゃへいぶつの陰に飛び込むライダースーツ。――思い切りの良い奴だ。無理に攻撃を続けようとしない。そして――



 ――ブブブブッ! ブブブッ!



 室内の人間が動いている事を知った襲撃者たちの第二射! 龍麻たつまはパイソンを拾いざま後方に跳んで銃撃をかわしたが、早百合さゆりを守るべくリビングを横切ったライダースーツはまともに銃撃を浴びた。だが驚くべき事にブラックレザー…と良く似た布地の表面は僅かに焦げたのみで、潰れた弾丸は尽く床に零れ落ちた。

(この距離でNATO弾を弾くか)

 龍麻たつまの目に感嘆が浮かぶ。いかに小口径…ウッズマンと同じ五・五六ミリとは言え、こちらはライフル弾である。弾速も火薬量も拳銃弾とは桁違いな上、弾頭部が完全被甲フルメタルジャケット・スピアポイント…鋭く尖っているため、この近距離では龍麻たつまが着用しているケプラーとアラミド繊維の複合素材からなる防弾コートでも角度によっては貫かれる。そんな弾丸を全て弾き、且つ間接の動きを損なわないとは、信じがたいほど高性能の防弾着だ。だが、そんなものを用意できるとは何者だ!?

 だが、今は考えるべき時ではない。銃撃が止み、くぐもった怒鳴り声が響く。

「【闇の刃ダークブレイド】! 貴様らは完全に包囲されている! 武器を捨てて投降しろ! おとなしく出てくれば命だけは助けてやる!」

 問答無用でアサルトライフルの猛射を浴びせた後で、命は助ける!? ――なんとも悪質な冗談だ。状況も非常にまずい。襲撃者の上げた名はライダースーツの通り名のようだが、どうやら龍麻たつまたちをライダースーツの仲間だと思っているらしい。

龍麻たつまッ。何がどうなってんのよッ!?」

「――頭を上げるな」

 最初の銃撃以来、龍麻たつまに庇われっぱなしの亜里沙ありさには、状況が全く判らない。そして龍麻たつまにしても、これは理解しかねる状況だ。最優先事項はここからいかにして撤退するか――

 状況が判らぬまま、それを考えるべき者は、もう一人いた。

「――やめろ! 撃つな! 俺は刑事だ!」

 ソファーの陰にへばりついたまま、御厨みくりやが警察手帳を振った。スポッター・ライトの光点が手帳の金文字を反射し、その直後、手帳は紙ふぶきとなって飛び散った。――警察関係者と知らせて尚、撃たれたのである。御厨みくりやは息を詰まらせて身を潜めているしかなかった。

 少しでも警察という組織を知る者ならば、警官や刑事殺しがどれほど危険な事か解っている。警察機構の大家族的色合いは、時に身内の犯罪を隠蔽いんぺいしようとする体質もあるものの、基本的には法の番人たる職務に付く者たちの強固な連帯感である。さすがにアメリカのような【警官殺しは死刑】という明確さはないものの、身内を殺した犯人に対する追求は熾烈しれつを極め、解りやすく言うならば仇討ちに臨むのだ。

 この武装集団はそれを知らないか、知っていてもそれを無視している。いや、それを無視できる環境下にあるのだ。

「――厄介な」

 正に前門の虎、後門の狼だ。戦闘慣れしていない亜里沙ありさを連れている今、この場を切り抜けるのは非常に困難だ。

 しかし――

「オイオイ、部屋ン中でそんなモンをぶっ放すなよな。ここは俺に任せてくださいよ」

 手をひらひらさせて言ったのは安生あんじょうであった。目の前で凄惨な殺人現場を目撃したというのに、声にはどこか恍惚とした響きがある。流された血を見る彼の目は不気味に潤んでいた。そして――迷彩服の一団は彼に道を空けたのである。

「――!?」

 安生あんじょうはジャケットを脱ぎシャツのボタンも外し、特撮ヒーローが付けているようなごついベルトを露にする。それがズボンを留めているのではなく、素肌に直接取り付けられているのを見た龍麻たつまは、訳もなく背筋が冷えるのを感じた。首筋がピリピリするのは危険信号だ。――あれを使わせてはいけない。しかしここでは射線が――

 そして安生あんじょうは、ベルトのバックルに付けられたスイッチを押した。

「グルルッ…グワオゥゥゥゥッッ!!」

 突然、室内の空気が一変し、獣のごとき唸りが響き渡った。

 髪が逆立ち血管が浮き出し、全身が痙攣し――それでも安生あんじょうの顔には至福の笑いが浮かんでいた。まるで心筋梗塞しんきんこうそくでも起こしたかのような狂態なのだが、周囲にいた若者はそれを止めようともせず、むしろ憧れめいた顔でただ距離を取る。

 一体何が起こった? そう考える前に龍麻たつまの手はパイソンから、前後を切り詰めた大口径ライフル銃〜ランダル・カスタムに持ち替えていた。



 ――二二口径じゃ、十発撃ち込んでも反撃されるぜ



 ある男の言葉が甦る。そう、この現象は記憶に新しい。これは――

『ゲハッハッハッ! ザイッゴーノギブンダゼェ…!』

 喉の鳴る音と混ざって不明瞭になった声が、血と硝煙に満ちた空気を震わせる。――瞬きを三つする間に、安生あんじょうの筋肉が異常に隆起し、針金のごとき体毛が逆立つ。顔の造作そのものはあまり変わらなかったが、左右に広がった口の中ではやけに丈夫そうな歯がガチガチと鳴った。

 以前に見た獣人化現象とは異なる。だが――間違いない。たかが不良大学生の犯罪サークルにまで、こんな怪物が!? しかも――

「いいぞ安生あんじょうサン! やっちまえェェッ!」

「殺し屋なんかぶっ殺せ!」

 正に【怪物】と化そうという安生あんじょうに対し、異様な狂気を纏った声援が飛ぶ。迷彩服の一団もまた、手を出そうとしない。――この連中は獣人化現象を当たり前のものとして受け入れ、そして自分達を狙う殺し屋の事も知っている。全てはこの【闇の刃ダークブレイド】を狙う罠であったのか!?

 そして安生あんじょうは【変身】を終えた。

 基本形は人間と酷似しつつも、骨格と筋肉の発達が著しく、足よりも長い腕は一振りで人間を叩き潰せそうだ。角張った顎は獲物の骨まで噛み砕くのに適し、手指も獲物を引き裂くのに都合よく爪が角質化して指に溶け込んでいた。そして、ぎょろりと剥いた目は龍麻たつまと【闇の刃ダークブレイド】に獣の殺意を、亜里沙ありさを始め女性陣に生々しい獣欲を向けた。

 その姿に相応しい名は、伝説にいわく――【食人鬼オーガ】。

『オンナバイガシトイデヤルガ…オドゴバヌッコロシャラァァァッッ!!』

 異常発達した足の爪でカーペットを引き裂き、その巨体からは想像も出来ぬ優美な飛翔で【闇の刃ダークブレイド】に肉迫する安生あんじょう。触れただけでも肉をもぎ取りそうな手指が魚取りの名人の如く空間を掬い取り――



 ――ザンッッ!



『ギャオォォォォォォッッ!!』

 相手が魔獣ならば、こちらはなんと呼ぶべきか? 消滅現象を起こすほどの速度で移動した【闇の刃ダークブレイド】のナイフが一閃されるや、剛毛に覆われた脇腹が血を噴き、居間の中央に叩き付けられた食人鬼は内臓を吹き零れさせながらのた打ち回った。

「…ッッ!」

 さすがに驚きを隠せない龍麻たつま。――龍麻たつまがアンダーグラウンドのスイーパーと共に同種の奴と戦った時には、三五七マグナムと九ミリ炸裂弾をありったけ撃ち込まねばならなかったが、この男はナイフのみで安生あんじょう〜食人鬼に痛打を浴びせたのである。

 だが、【闇の刃ダークブレイド】は油断なく食人鬼から間合いを取った。――内臓が飛び出すような深手を負わせても、それが致命傷ではないと解っているのだ。現に――

『グガァァァッッ!!』

 零れた内臓を無理やり腹の中に押し込み〜出鱈目だ〜咆える食人鬼。その手が例のベルトをまさぐるや、緑のLEDの明滅に合わせてたちまち傷口が塞がり、筋肉はより大きく膨れ、妖気が爆発的に膨れ上がった。

『ゴノデイド…キクガヨォォッ!』

「――ッ!」

 ボッ! と空気を唸らせ、ダッシュした食人鬼は、しかしいきなり方向転換し、冷蔵庫の陰で震えている早百合さゆりに襲い掛かった。

 早百合さゆりには先刻のパワーも迫力もない。岩石のごとき食人鬼のパンチが彼女の頭部を粉砕するかに見えた瞬間、ゼロコンマのレベルで黒髪が横に流れ、壁に天井まで届く大穴が空いた。そして――外見に見合わぬ狡猾こうかつさ! その破壊劇がフェイントであった事を示すかのように、セットで放たれたストレート・パンチが早百合さゆりを間一髪で救った【闇の刃ダークブレイド】に襲い掛かった。

 思い切り身を捻り、パンチの直撃こそ回避した【闇の刃ダークブレイド】であったが、かすめたパンチの衝撃波にヘルメットを割られ、早百合さゆりもろともリビングの中央に弾き飛ばされる。露になった【闇の刃ダークブレイド】の素顔は、やや浅黒い柔和なハンサム。ただしその眼光は刃物のように鋭く、氷点下の輝きを持っていた。しかも――龍麻たつまとさほど変わらぬ少年だ。

『――ジネヤァッ!』

 唸り飛ぶ鉤爪。迎え撃とうとする【闇の刃ダークブレイド】であったが、運悪く迷彩服に捕まった早百合さゆりに目が行った分、対応が遅れた。――られる!



 ――ズドォンッ!



 横合いから放たれた轟音が生死の瞬間を切り裂いた。

 【羊の足メアーズレッグ】のあだ名の通り、龍麻たつまの腕を真上近くまで跳ね上げた三〇―〇六の巨弾が、食人鬼の肩口を捉えて彼をきりきり舞いさせる。爪は【闇の刃ダークブレイド】の頬に細い朱線を刻んだきりで、自らは肩の肉を大きくえぐられ、さすがの食人鬼も濁った絶叫を放った。

 黄金色の空薬莢エンプティケースが吐き出されるのももどかしく、ランダルの六角形銃身オクタゴンバレルが次の獲物を求める。

「――グヘェッ!」

 耳をつんざくランダルの咆哮に、早百合さゆりを連れ去ろうとしていた迷彩服の一人が吹っ飛んだ。――するとどうだ? 他の連中は早百合さゆりを放り出し、銃撃中の者までがわっと身を伏せてしまった。さすがの龍麻たつまもその無様さの前に一瞬の虚脱を余儀なくされ――それが悪かった。

『ゴルルルルルッッ!』

「――龍麻たつまッッ!」

 軍用七・六二ミリNATO弾よりも更に強力な三〇―〇六弾の直撃を受けておきながら、何という耐久力! 空中から踊りかかってきた肉弾はぎりぎりで回避したものの、態勢の崩れた龍麻たつまに向かって食人鬼のバックハンドブローが飛ぶ。食人鬼の咆哮と亜里沙ありさの叫びが重なり、龍麻たつまを捉えようとした爪と鞭が交錯した。一瞬の拮抗は龍麻たつまを逃がすに充分な時間を叩き出したが、亜里沙ありさは鞭を放す事もできず、大きくつんのめって食人鬼の足元に転がった。

「クッ!」

 叩き付けられようとする鉤爪にランダルを振り向ける龍麻たつま。しかし――射線が亜里沙ありさと重なっている。――撃てない!



 ――チッ!



 突然、食人鬼の頬に小さな痛みが走り、亜里沙ありさを直撃する筈だった鉤爪は床に突き立つ。食人鬼は振り向くよりも先に鉤爪を横薙ぎに払ったが、トンボを切ったしなやかな影を捉えるには至らなかった。――食人鬼に無謀とも思える攻撃を仕掛けたのはラヴァであった。しかし彼女が与えた傷は、赤ん坊すら殺せぬほど細く――

『――ッグエェェェェッッ!』

 髪の毛一筋ほどの傷――ラヴァにはそれだけで充分であった。切り傷を中心に顔面がぼこぼこと膨れ上がり、その頂点から糜爛びらんした皮膚が噴き零れる。ライフル弾の直撃に耐えた食人鬼もこれには溜まらず、絶叫と反吐を吐き散らしつつリビングで転げまわった。これには学生達はおろか、迷彩服にも衝撃が走った。

「――あの女を逃がすな!」

 レーザー光がラヴァと亜里沙ありさに集中し、しかし龍麻たつまが一発撃ち込むと全員の銃撃がむ。――龍麻たつまは敵の対応の悪さに苛立ちすら覚えたが、その隙にラヴァは亜里沙ありさの手を取り、調教部屋へと飛び込んだ。ラヴァの意図は不明だが、亜里沙ありさは助かった。それを良しとして龍麻たつまも後を追う。そして彼がドアを潜り抜けた直後――

「――銃を捨てろ」

「――ナイフを下ろせ」

 喉元に触れる、凍り付いた殺気の感触。しかし同時に龍麻たつまのランダルもナイフの持ち主に向いていた。――互いに助けを頼んだつもりも、頼まれたつもりもない。ナイフの持ち主は【闇の刃ダークブレイド】であった。

「――お前、何者だ?」

 まず口を開いたのは【闇の刃ダークブレイド】であった。

「――聞きたくば、自分から名乗れ」

 続いて龍麻たつま。――銃とナイフ――どちらが有利とも不利とも言えず、この二人の実力から推して相討ちは必至という状況で、その声には抑揚も動揺もない。そして、相手の質問も、亜里沙ありさやラヴァの存在も考慮しなかった。驚くべき事に、連れ去られた早百合さゆりの事も、迷彩服の一団の事すら忘れ去った。――意識しようにも、できなかったのである。

「――【拳武けんぶ】か? 余計な真似を」

「――最近話題のナイフ使いか」

「…今手を引けば見逃してやる」

「…なぜ久保くぼ早百合さゆり嬢を狙う?」

「…【シグマ】は俺の獲物だ」

「…真の目的は、リボンの少女か?」

 殺意に揺ぎ無く、しかし先に口を閉ざしたのは【闇の刃ダークブレイド】の方であった。龍麻たつまの特技、プロファイリングは初対面の相手でもいかんなく発揮されたのだ。ナイフと惨殺死体、そして獣人というキーワードから。

相馬有朋そうまありとも田茂沢以蔵たもざわいぞう、アブドゥラ・ハッシーム――彼らを殺したのはお前だな」

 ラヴァは小さく眉をひそめる。――龍麻たつまが挙げた名は【表】では勿論だが、【裏】でも騒がれている殺人事件の被害者だ。田茂沢以蔵は【双頭蛇ツインスネーク】の資金源である臓器売買に深く関わっていたし、相馬有朋は人身売買における得意先、アブドゥラ・ハッシームに至っては日本の裏世界に流れる武器の三割を押さえていた重鎮である。言わば三人とも、裏世界の利益獲得になくてはならない人物だったのだ。当然、そんなVIPを殺した犯人には莫大な賞金が懸けられている。

 そしてこの三人は、いずれもとある少女と共にスナッフ・ムービーに姿を残していた面々だ。案の定、じわりと【闇の刃ダークブレイド】の目が危険な光を帯び、アドレナリンが分泌される様が手に取るように解った。あの少女に関する事は【闇の刃ダークブレイド】にとって絶対の禁忌であるらしい。

「――見たのか、【あれ】を?」

 トーンを落とした声。怒りの発露を抑えているのが良く判る。――この思考パターンは読みやすいが、時に予測を上回る動きを考慮せねばならない。龍麻たつまは注意深く口を開いた。――そのつもりだった。

「――見た」

 次の瞬間、とっさに首を捻った龍麻たつまの喉が浅く裂けた。――身体を絶妙な角度で捻る事によってランダルの銃口を逸らすと同時に、ナイフを滑らせて来たのである。しかし龍麻たつまもまた、【闇の刃ダークブレイド】とまったく同じ体捌きを用いてナイフの軌道を逸らし、致命の一撃を無力化してのけた。

(この男――!)

(――スペツナズ!?)

 束の間、離れる間合い。だが二人の間に、ドアをぶち抜く勢いで飛んできた黒い塊が叩き付けられた。見ればそれは首も手足もねじくれ曲がった迷彩服と、背中に軽傷を負った御厨みくりやであった。そして、僅かに遅れて部屋の中に飛び込んできた女子大生の胴に、黒く巨大な腕が絡み付いた。

 弾丸やナイフには耐えられても、毒ともなるとそうは行かなかったらしい。戸口に立ったのは、【毒揚羽】ラヴァの毒におぞましくも確実なダメージを受けた食人鬼のなれの果てであった。たくましく隆起していた筋肉は所々がしなびて黒ずみ、ワイヤーのごとき剛毛も頼りなく抜け落ちている。特にラヴァに傷つけられた左半顔は倍にも膨れ上がり、およそ人間の作り得ない凶相は今にも腐汁ふじゅうと化して滴り落ちそうだ。ベルトに付いている何らかの機械も、今の彼をどうにかする訳には行かなかったらしい。そして――肉体よりも先に精神の方がやられてしまったのか、リビングは迷彩服と若者たちの血で染まり、今また女子大生の首筋に齧り付こうと大口を開けた。

 本来ならば目の前の敵に集中せねばならぬ状況で、しかし龍麻たつまの銃口は躊躇ちゅうちょなく食人鬼をポイントした。



 ――ズドオッ! ズドオッ! ズドォォンッッ!!



 ランダルの名に相応しい、腰だめのクイックシュート! 食人鬼の鼻から上が消し飛び、左腕が付け根からもぎ取られ、脇腹から内臓が吹き零れる。しかし乾いた粘土のごとき変貌を遂げた食人鬼の肉体はたやすく破壊される反面、衝撃で吹き飛ばす事ができなかった。しかも脳を失ってなお絶命せず、運の悪い女子大生に再度齧り付こうとする。

 ――これしかない!

 正体不明の輩の前で手の内を晒すのは本意ではないが、龍麻たつまの左手が【気】を凝縮し、それを放つまでゼロコンマ五秒! しかし僅かの差で間に合わない! その時、空気を切り裂いて走った何かが食人鬼の胸板を捉え、あまつさえ壁に串刺しにしてのけた。

「〜〜〜〜ッ」

 胸を貫く巨大な蛮刀〜【闇の刃ダークブレイド】の投げた大型ククリ・ナイフによって壁に縫い止められた食人鬼は、標本にされたばかりの虫のように狂おしく手足をばた付かせた。まるで出来の悪いB級ホラー映画のような光景。脳を失ってはさすがに知性的な行動は不可能なのか、ナイフを抜こうとする努力を見せる事なく、遂に動きを止めた。

 しかし龍麻たつまは、それらを最後まで確認できなかった。今度ばかりは致命的な隙。【闇の刃ダークブレイド】のナイフが龍麻たつま延髄えんずいに切っ先を触れさせていたからである。

「――その甘さでよく生きてこられたな。この一件、素人アマチュアの手には負えん」

「――激情に任せて戦う者を玄人プロとは言わん」

 周囲の気温が一気に下がった。

 二人から滲み出る殺気が空気を凍り付かせたのである。相手の実力を知ったが故に明確な敵対を避けようとした二人だが、事ここに至って遂に抹殺の意思を固めたのだ。傍目には【闇の刃ダークブレイド】が有利だが、この二人はそんな事を露ほども考えていない。先に動き――否、殺気を乱れさせた方がられる。

「や、やめろお前ら…!」

 ぶつかり合う殺気の凄まじさに、叩き上げの刑事である御厨みくりやですら声がかすれる。亜里沙ありさも硬直してしまい、なし崩し的に部屋に入る事になった女子大生も気絶寸前である。もはやこの二人の死闘を止める事は誰にもできぬと思われた時――

「――そこまでにしてもらおう」

 感情のこもらぬ少女の声が、無視できぬ響きを持って二人の男を打った。そして少女の黒い爪は、【闇の刃ダークブレイド】の首筋にのみ突き付けられていた。

「女…何の真似だ?」

「見ての通りだ。私はそちらの男に付く。――ナイフを下ろせ」

 ピク、と動く【闇の刃ダークブレイド】のナイフ。ラヴァの爪が彼の髪に触れ、小さな煙を上げた。

「私はここから脱出したいだけだ。お前たちの事情に興味はないが、ここで争われては迷惑だ。お前たちとてあの女性が目的ならば、急がねば見失うぞ」

「…そうだな」

 正論である。驚くほどあっさり、【闇の刃ダークブレイド】はナイフを落とした。

 次の瞬間に起こった事は、当事者たちにさえ定かではなかった。

 確かにナイフは床に向かって落ちたが、【闇の刃ダークブレイド】の手に強烈な殺意と攻撃力の出現を感じ、龍麻たつまとラヴァは床を蹴ってその場を飛び退いた。しかし――龍麻たつまの防弾コートもラヴァのレザー・スーツもすだれ状に切り裂かれる。そして――

「――伏せろッ!」

 追撃せずその場に立ち止まった【闇の刃ダークブレイド】の身体を掠め、飛来してくる高速移動物体。――狙撃だ! 龍麻たつまは棒立ちの亜里沙ありさを庇って伏せ、ラヴァは側空転して壁際に身を隠し、そして【闇の刃ダークブレイド】は――

「――!」

 あの運動能力を持つが故の、常識外れの行動。【闇の刃ダークブレイド】はあろう事かベランダから虚空へと飛び出した。

 無謀だとは思わない。全て計算づくなのだ。それを証明するかのように、支援攻撃は銃器を持つ龍麻たつまのみ狙い、彼を部屋の中に釘付けにした。狙撃ポイントは約八〇〇メートル先のビルの屋上。――良い腕だ。そして一分ほどの膠着こうちゃくの後…

「…去ったな」

 壁に張り付きながら、ラヴァが呟く。眼下の芝生には迷彩服の死体が転がるばかりで、【闇の刃ダークブレイド】は既にその姿を消している。それに合わせてスナイパーの気配も絶えた。さすがに襲撃慣れしている。

「奴の方が一枚上手うわてか。――脱出するぞ」

「――龍麻たつま! 早百合さゆりさんはッ!?」

「連中の手に落ちた。だが――すぐに取り戻す」

 きっぱりと言い切る龍麻たつま。確かにバックは大きそうだが、実力的に難ありの連中だ。早百合さゆりを取り戻すチャンスは十分にある。あの【闇の刃ダークブレイド】が先行しても、早百合さゆりに危害を加える事はあるまい。

 だが、今は脱出が先決だ。リビングの方でヒステリックな怒号が上がり、御厨みくりやが閉めたドアが耳障りな金属音を立てる。迷彩服の増援がやってきたのだ。

「――先に行け。今ならば危険はない」

 ベランダに設置された脱出チューブを作動させ、龍麻たつまはラヴァに言った。――中庭に転がる死体は八。俄かには信じがたいが、自動小銃を持った者が八人もいて、火器を所持しないたった一人を阻止できなかったのだ。あくまで龍麻たつまの主観だが、練度が低すぎる。

「――私は後で構わん。連れを先に行かせろ」

「!?」

「急がねばドアが破られるぞ。素人を庇いながら戦える相手ではない」

「――何が狙いだ?」

 龍麻たつまの問いにラヴァは答えず、ただ顎をしゃくってドアを示した。先程よりも大きな金属音と共にドアが大きく歪む。スラッグ弾の咆哮だが、正気か!?

亜里沙ありさ、先に行け」

「う、ウンッ。――アンタは!?」

「すぐに行く。周辺の警戒を怠るな。――行け」

「了解! って、ちょっとタンマ! ――アンタらが先に行きな!」

 亜里沙ありさが声をかけたのは、御厨みくりやと女子大生である。御厨みくりやは疑惑の、女子大生は困惑の眼差しを亜里沙ありさに向けたが、亜里沙ありさの怒声に尻を叩かれた。

「何グズグズしてんのさッ! さっさと逃げないとぶっ殺されるよッ!」

 亜里沙ありさの立場を考えるならば、明らかに命令違反である。龍麻たつまの命令は絶対だ。彼の発する命令に逆らうのは命に関わる。だが――この場だけは、龍麻たつま亜里沙ありさを咎めなかった。【自分の【力】を誰かのために】――それが亜里沙ありさの想いだからだ。

 立場その他一切合財含めて言いたい事があるものの、この場はこの少年たちに従う他ない。龍麻たつまが動かない〜自分を殺す気がない〜のを見つつ、御厨みくりやはチューブへと飛び込んだ。

 続いて女子大生がチューブの入り口に立ち――しかし亜里沙ありさを見やる。

「アンタ…亜里沙ありさ?」

「……」

 スカーフで顔を隠している程度では、知り合いの目まではごまかせまい。亜里沙ありさは少し困ったような顔をしたが、脇から声がかかる。

「――さっさと行け。死にたいか?」

 酷薄無比なその言葉に、女子大生の顔が一瞬怒りに染まり、しかしラヴァの視線から逃げるようにチューブへと飛び込んだ。

「ちょっとアンタ! そんな言い方はないだろッ!?」

「……」

 思わず激昂げっこうし、ラヴァに詰め寄って行った亜里沙ありさであったが、背後から肩を掴まれて止められた。

「お前も急げ。――来るぞ」

「――ちっ、しょうがないね!」

 一刻を争う状況なのだが、亜里沙ありさは自分のスカーフを取り、ラヴァに突き付けた。

「…なんだ?」

「――なんだじゃないだろ! アンタが何者か知らないけど、女がいつまでもそんな格好してんじゃないよ! ――龍麻たつまはあっち向け! こっち見るな!」

 ラヴァは気にもしていなかったが、レザー・スーツの裂け目から左胸が完全に覗いてしまっている。同性としてこれは放っておけず、亜里沙ありさはぱぱぱとまくし立て、ラヴァの体の向きを変え、スカーフを彼女の胸元に結び付けた。

「さッ、これで少しはマシになったよ」

 ポン、とラヴァの肩を叩く亜里沙ありさ。素人故にプロの殺気に気付かぬ彼女に毒気を抜かれたか、ラヴァはぎこちなく「ありがとう」と口にした。【双頭蛇ツインスネーク】の殺手シャーチーにこんな声を出させる――実は亜里沙ありさ、とんでもない大物かも知れない。

「…もういいか?」

 ドアを見据えつつ、龍麻たつま。三つある鍵の内二つまでが破壊され、残るは一つ。良くも保って二分だ。そこでようやく亜里沙ありさは、自分が貴重な時間を無駄遣いしている事に気付いて青くなった。

「し、下で待ってりゃ良いんだね? ――じゃ、早く来てよっ」

 龍麻たつまの肩を叩き、亜里沙ありさはチューブに身を躍らせる。――戦闘中はあらゆる事に気を配れと言ってあるのだが、やはりまだ警戒心や状況判断に欠けるようだ。しかし、素人同然の亜里沙ありさをここまで連れてきたのは自分の責任だ。咎めるのは時期尚早――などと考えている自分に気付いて、龍麻たつまは口元を歪めてドアに視線を戻した。

 ドアは大きく歪んでいるが、まだスラッグ弾の咆哮が続いている。――金属のドアを破るのに、手間がかかり跳弾の危険もある銃撃など論外だ。こういう場合は少量のプラスチック爆弾で鍵や蝶番を破壊するのがセオリーである。――動きそのものは悪くないのに、どうにも素人臭く脅威が感じられないのだ。【獣人化現象】に関わっているにしては、錬度が低すぎる。

「経験不足――権力の飼い犬か」

 【国家の飼い犬】とはテロリストや反体制主義者が警察や軍隊を指してよく使う言葉だが、龍麻たつまの言う【権力の飼い犬】は微妙に異なり、独立主権国家に必ず存在する、国家権力を背中に貼り付けて乱暴狼藉を働く輩の事を指す。――例えばアメリカのFBIやCIAは、警察や軍隊から優秀な者をスカウトして構成されるエリート機関だが、その中には時々、自分の職務を離れて非合法な活動犯罪に手を染めてしまう者が出る。これは、技能こそ優秀だが、信念やこころざしが低い者が強力な武力や権力を持たされた時に発生する現象であり、本来は国家や国民を守るために与えられるべき権力を私利私欲のために使い、あまつさえ国民の生命財産を奪って恥じない。――権力という幻想の力を自分自身の力と勘違いしてしまうのだ。

 この武装集団には、特殊部隊にとって最も必要な信念や誇りが微塵も感じられない。非正規活動も余儀なくされる特殊部隊だからこそ、【命】の大切さを宗教家以上に知らねばならぬのに、それが全くない。――極めて危険だ。そういう連中は自らを【正義の使者】と信じて疑わず、自分の行為全てを【絶対の正義】と誰はばかる事はない。無抵抗の人間を射殺し、赤ん坊の首を切り落としても、【国家の為】、【国民の為】の正当な行為だと笑いながら言ってのける。一部の人間にとって都合が良い【正義】に酔ってしまうのだ。

 ――厄介な連中だ。背後関係を洗い出し、必要とあらば殲滅せんめつするしかない。

 だが、ものには順序がある。龍麻たつま安生あんじょうの死体に目を留めた。

 早百合さゆりは奪われ、【闇の刃ダークブレイド】に関する情報はない。手掛かりがあるとすれば、この獣人以外になさそうだ。龍麻たつま安生あんじょうの死体から【変身】を促すベルトを外した。

 それを見ている目がある。ラヴァだ。

「――なぜ逃げない?」

「もちろん逃げるとも。だが、お前をプロと見込んで提案がある。――私を七二時間、ガードしてもらいたい」

「何?」

 この切迫した状況で、何という大胆な提案をするのか? しかしラヴァの口調も視線も、からかう調子はない。

「先程俺に手を貸したのはその為か。だが、割に合わない取引だ」

「お前の立場ならばそうだろう。だが――あの娘の命が惜しければ、この取引を受けろ」

「――ッ!」

 あの娘――亜里沙ありさの事だ!

「お前は仲間意識が強い。卑下ひげはしないが、それが弱みだ。――あの娘には遅効性の毒を注入した。八〇時間後に心機能が停止する。解毒できるのは私だけだ」

「貴様…!」

「私とてお前を敵に回す危険性は認識している。だから――ただとは言わん。成功報酬もお前とあの娘にえんで三百万づつ払おう」

 その問いの間にもスラッグの銃撃が続き、遂に最後の鍵が破壊された。ドアが蹴り開けられ、飛び込んできたのは複数の手榴弾――

「――良かろう」

 龍麻たつまの返答は空中で発せられた。脱出チューブすら使う余裕がないと悟り、ラヴァの腰をひっさらって虚空へと飛び出したのだ。

「――忘れるな。約束をたがえれば、俺はお前を殺す」

「解っている」

 地表寸前で得意のワイヤーを射出し、地上に降り立った時、【調教部屋】は大音響と共に爆発した。周辺の住宅から次々に声が上がり、俄かにざわめきが闇を圧する。

「無茶をする」

 銃にはサイレンサー、閃光弾は無音響無煙タイプ。――とりあえず隠密作戦のつもりでいたらしいが、最後は手っ取り早い証拠隠滅の為に爆破と来てはもはや悲劇…否、喜劇コメディである。

「長居は無用だ。移動するぞ」

 亜里沙ありさは肯いたが、突然龍麻たつまがウッズマンを抜いたので驚きに目を見開いた。彼の視線の先には、M60を両手で握り締めた御厨みくりやがいた。女子大生の姿はない。

「――何の真似だ?」

 一瞬にして出現した銃口に気圧けおされかけた御厨みくりやは、しかし下腹に力を込めて言った。

「それはこっちの台詞だ。銃を捨てろ」

「――いいだろう」

 驚くほどあっさり――先程の【闇の刃ダークブレイド】と同じだ――ウッズマンが地上に向かって落ちる。虚を突かれた御厨みくりやの目は思わずそれを追い――

「ッッ!!」

 龍麻たつまから目を離した瞬間、M60を握った手が捻られ、柔道三段、合気道三段の御厨みくりやが何もできずに芝生に転がされ、拳銃を奪われた。二メートルの間合いが龍麻たつまにはゼロに等しいなど、御厨みくりやには理解の外であったに違いない。ついでに、自分が反応速度の実験台に使われたなどと。

「――死にたくなければ、今夜の事は忘れろ。あの連中は国家機関だ」

 M60を五メートルほど先に投げ捨て、龍麻たつま御厨みくりやの手を放した。御厨みくりやは拳銃に飛び付き、振り返ったが、二人の少女の姿は既になく、翼のように広がったコートが塀の向こうに消えるところであった。

 塀の高さは三メートルを越える。追跡は不可能だ。

「――舐められたもんだな。殺す価値もないって事かよ」

 吐き捨てるように言うや、御厨みくりやは拳銃を懐に納め、なるべく暗がりを選んでその場から逃げ去った。









 第五話閑話 闇に駆けろ1    



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