第四話閑話 イリーガル・スチューデント 3





 
 核戦争後も悠々自適に暮らす為の設備――カジノやビリヤード場、映画館などを横目に進む事数分、行く手に見えてきたのはアスレチックルームと思しき、リノリウムの床を持つかなり広いホールであった。

「…ここだな」

 きつい芳香剤の香りが鼻を衝くが、龍麻とHIROの嗅覚を最も刺激する――血臭が混じっている。鉄分をたっぷり含んだ血の匂いは、少々の洗浄では拭い去る事など出来ないのだ。

 HIROが先に立ってホールへと侵入する。床面積はかなり広く、天井も高い。全体のイメージとしては古代ギリシャの共同浴場だ。膝丈ほどのプールがホールの大部分を占め、所々に二人ほど寝そべる事ができる円形の台座と、直径一メートル、高さ四メートルほどの柱が並んでいる。恐らくここにはぬるい湯を張り、その周囲や中央の台座に腰掛けて談笑するのであろう。――本来の使い方では。

「…こいつは酷いな」

 台座の縁四ヶ所に取り付けられた、鉄製の枷。柱に括り付けられている鎖。――台座も床も今は白い表面を見せているが、基本的に錆びないステンレス製の鉄枷や鎖には、遂に洗い落とせなかった血錆がこびり付いていた。

 ここに犠牲者を縛り付け――あとは想像したくもない。プールの縁には、この場と微妙にマッチしないステンレスの机が置かれ、その上に解剖用のメスから大小のナイフ、ノコギリや斧など、ありとあらゆる刃物と鈍器、有刺鉄線の鞭や、果ては電動ドリルやガス・バーナー、生きた毒蛇や毒蜘蛛、神経毒や出血毒のアンプルまで、人を残酷に殺す事を目的にした道具が並べられているのである。

 ふと、目を移すと、白一色の処刑台の向こうに、手枷足枷は存在するものの、趣が決定的に異なるけばけばしいベッドがいくつも置かれている。それとセットで置かれているテーブルには、悪趣味極まりない《大人の玩具》が散乱していた。

 ――ここを使っている連中は真正の悪党だ。一方では残虐な血の儀式を、一方では淫猥な性の饗宴を、同じ空間内で行おうという者が、まともな精神の持ち主である訳がない。

 だが龍麻は、無意識の内にあるものを求めていた。

 このような空間――龍麻はかつて見た事がある。これら殺しや快楽追求の道具こそ付属物に過ぎず、根底にあるものは――

「――おい、どうした?」

 HIROが声を掛けたが、龍麻は黙って部屋を横切り、何かを隠すように掛けられている紗幕を開けた。

「――おいおい、何の冗談だ?」

 呆れたようなHIROの声も道理。そこに置かれていたのは、金糸銀糸で織り込まれたカーペットの敷かれた台座と、そこに鎮座している、ねじれた角を持つ黒ヤギ――の頭部を持つ、悪魔の像だったのである。

「《千匹の子を孕む森の黒山羊》…《シュブ・ニグラス》の像だ。…殺しを快楽追及の手段とする者は、大抵がこのような宗教の形を取る。自分が神の一部だと思い込む事が異常犯罪の第一歩だ」

 龍麻には《神》や《悪魔》という存在を理解できない。なぜ人間が、目にも耳にも捉えられぬ不確かなものに惑わされるのか。しかしそのような考え方をする者たちの心理に付いては知識を詰め込まれている。人は誰かに、なにものかに支えられていないと生きていけないのだ。それが悪人だろうと、悪魔だろうと。

 しかし、龍麻にとってはただの舞台装置でも、ここに集う者たちには違う。悪魔崇拝に付き物の麻薬を服用し、荒淫に耽り、殺戮に酔い、それこそ本物の悪魔の下でサバトに参加している気分になる事だろう。そして――まともな精神も神経も焼け爛れさせていくのだ。

「胸糞悪ィぜ。あの話も満更嘘じゃなかったって事かよ」

「あの話とは?」

「ン――、下らねェ話さ。一部の政治家やら大企業の幹部やらが寄り集まって何か大掛かりな事…日本支配でもやらかそうって事で、仲間を増やす為にこういうのを利用してるって話だ。――政界、財界、大企業…有力者を誘拐してきて麻薬漬けにし、殺しやら酒池肉林やらを体験させてから解放する。頭がまともに戻ったところで、本人出演のビデオが届けられるって寸法だ。――根性無しじゃ逆らえねェ。悪魔崇拝ともなると、宗教を敵に廻す事になるからな。日本国内ならまだしも、海外じゃ《自由の国》を唄ってるアメリカですら相手にされなくなる」

 なるほど。そういう事か。――龍麻の推理が形を成し始めた。

 スイーパーであるHIROは、恐らくそのような形で脅されている人間に雇われた。厳密には、身の破滅を覚悟でこの件を告発した者がいて、犯人グループの中に警察関係者がいると知った司法関係者がHIROを雇ったのだ。――大量誘拐事件もスナッフ・ムービーも、事実をそのまま公表すれば社会の混乱は必至である。この一件は闇から闇へと葬り去る必要があったのだ。

 そしてHIROは動き出し、タイミング良く日比谷公園で妙に傷付けられた白骨死体が発見された事、渋谷界隈で誘拐事件が続発している事から、スナッフ・ムービーとの関連を疑った。依頼の品は金持ちだけに出回るものであったが、ビデオの編集は専門の技術者に任せる筈だから、違法ビデオを扱っている店からその筋を辿れば良い。――推理は的中し、日比谷公園の白骨死体を造った張本人を始末して、HIROはここを割り出したのだ。

 龍麻にしてみれば、そこで日比谷公園の白骨死体の件は終了である。しかし、背後に横たわる陰謀とは? そのような手段で有力者を従わせ、何をさせようと言うのか? ――元対テロ特殊部隊隊員としては気になるところである。

「だが、妙な話はもう一つある」

「?」

「この馬鹿馬鹿しい仕掛けの話さ。さっきの技師が言っていただろう? ――こんな遊びをやっている内に本格的におかしくなる奴がいて、そいつが化け物に変わっちまったって話だ」

「…先程のビデオの件か」

 人が怪物に変わる――その現象ならば、既に何度か目にしている。最近のケースでは、莎草が龍麻の見ている前で、二二口径とは言え拳銃弾を弾き返す怪物に変わったのだ。確かに一般常識の世界では驚天動地の現象だが、一度でも目にしてしまえば、龍麻にとってはありふれた現象の一つでしかない。

「その化け物の事を《使徒》とか呼ぶらしいが――驚いてねェな。それとも、呆れてんのか?」

「必ずしも珍しい現象ではない」

 HIROは肩を竦めた。

「本気で言っているとしたら、頭の中身を疑うぜ。――俺は現実主義者でな。この目で見たものだけが真実さ」

「自分もそうだ。――だが、アブドゥラ・ハッシームの殺され方を知っているか?」

「いいや。――死んだ奴に興味はねェ」

「アブドゥラ・ハッシームは、ライフルで頭を撃ち抜かれた後、首を切り落とされ、胸骨を切り開かれて心臓を抉り出されていたそうだ。だが警官が駆け付けた時、彼には生活反応があったらしい」

「――なんだって!?」

 案の定、HIROは面食らったようだった。

 この情報は鳴滝から入手したものである。あまりに異常な事なのでマスコミには伏せたが、《力》絡みかも知れないという事で龍麻に知らされたのだ。もっともアブドゥラ・ハッシームは警官に掴み掛かりはしたが、その直後に完全に死亡したとの事である。

「空港で見掛けた時には特に異常を感じなかったが、その尋常でない耐久力が悪魔崇拝により得られたものならばどうだ?」

「――よせよ。冗談にしたって寒すぎるぜ。悪魔に力を借りて日本支配か? 餓鬼向けの漫画じゃあるまいし」

 これには龍麻も同意する。現代の世界情勢では、仮に誰かが独裁政権を敷こうとしたところで諸外国からの猛反発は必至であるし、国の内外に問題が山積みされていて、少しでも物事を考える脳を持っている人間ならば、日本を支配しようなどとは考えない。もはや力だけで国の有り様を変える事など不可能なのだ。

「しかし、推理の一つに加えておくべきだろう。アブドゥラ・ハッシームに限らず、ビデオに映っていた者たちの殺され方は念が入り過ぎている。――ただの悪魔崇拝ならば精神異常者を生むだけで済むが、《シュブ・ニグラス》を崇めているとなると話は別だ。その《使徒》とやら、《本物》の悪魔かも知れん」

「…どういう事だ?」

 龍麻は答えず、ホールを横切った。このホールより奥は、ただの居住区が連なっているだけだ。しかしそんな所に逃げ込めば袋の鼠であろうから、攻撃を仕掛けてくるとすればこのホールの筈である。

「――おい?」

 片手を上げてHIROを制し、龍麻は壁を見上げた。そこにはいかにも高そうな絵画が飾られていたのだが、龍麻はそれを脇に放り出し、そこに隠されていたスイッチ群を見付け出した。

「何とまあ、ありきたりな仕掛けだな」

「――トラップはない。開けるぞ」

 スイッチの一つを押す龍麻。すると壁の一部がシャッターのように上がっていき、そこに女性…少女たちの悲鳴が重なって響いた。

「――彼女たちが誘拐された連中か?」

「――そのようだ。だが、最近の奴らだな。リストにはない顔ばかりだ」

 まともな神経の持ち主ならば、目を逸らさずにはいられぬ光景。――素通しのガラスの向こうに並んでいたのは、太い鉄のパイプに首輪で繋がれた女性たちであった。下は小学生から、熟年の女性まで。特に多いのは、思い思いの格好をした中高生であった。皆、一様に泣き腫らした目に脅えを込め、龍麻とHIROを見ている。

「――誰…? アンタたち…?」

 女性たちの中で、性格のきつそうな顔立ちのOL風が声を上げた。

「アイツらの仲間じゃないの!? ねえ! それなら助けてよ!」

 その声を皮切りに、他の女性たちも声を上げ始める。どうやら龍麻たちが自分たちを監禁した者たちの仲間ではないと察したらしい。

 しかし――

「ちょ、ちょっと! 助けて! 置いてかないで!」

 理不尽な絶望から救助の希望へと変わった女性たちの表情は、下りてくるシャッターによって再び絶望に彩られた。――龍麻がシャッターを下ろしたのである。よほど防音性能が良いのか、シャッターが完全に下まで下りると、女性たちの泣き声はぴたりと静まった。

「確認は取れた。――次を開ける」

「――シビアだな。助けようとか思わねェのか?」

「後回しだ」

 冷酷にすら聞こえる龍麻の断言に、HIROは肩を竦めるきりであった。否定も肯定もしない。――はっきりしているのは、龍麻もHIROも、誘拐された人々の解放が目的ではないという事だ。余計な仕事はしない――プロの鉄則だ。

 次に開いたシャッターの奥には、世界各国の名だたる酒の並んだ棚と、鍵の掛かった強化ガラスのケースに収められた白い粉の包みがあった。

「酒と麻薬か。定番だな。だが――妙だな」

「肯定だ。これはどう見ても――」

 強化ガラスを指で弾く龍麻。発剄の要領なので、ガラスが粉微塵に砕ける。HIROは口笛を吹いた。

「――ヘロインだ。今時こんなものをどうするつもりなのか」

 ヘロイン…一昔前は最悪の麻薬として広く知られていた麻薬だ。最強の麻薬と言われるモルヒネに、更に強い習慣性を持たせる事で誕生したヘロインは一時期、深刻な社会問題となったものだ。しかし現代では皮肉もここに極まれり――麻薬密売組織そのものがなんと《健康に悪い》という理由で販売を止めてしまったために、急速にすたれてしまった。ケシの栽培で莫大な利益を上げていたタイ、ラオス、中国の国境地帯に広がる、通称《黄金の三角地帯》は今や普通の農場となり、麻薬の主流は南米産のコカイン、マリファナ、大麻、LSDに移り変わっている。キャッチコピーは《煙草より発癌性が低い》だ。

 つまり、現代においてヘロインは商売にならないのである。確かに酩酊感はトップクラスであるし、習慣性も依存性も高いが、肉体への悪影響が大きすぎて廃人になるまでの期間が短い。世界的な不況の中、麻薬商売も薄利多売の時代になり、いかに客足を長く留めるかがポイントになった以上、もはやヘロインは毒薬と同義なのだ。

「変態どもの考えなんざ判る訳がねェ。大方、最初から使い捨てにするつもりの奴に使うんだろうよ」

「…そんな単純なものだろうか? いくら値崩れしているとは言え、この量は異常だ。上水道に混入すれば大規模なケミカルテロも起こせる」

「…随分と飛躍した考えじゃねェか? そんなテロを起こした所で誰が得をする?」

 HIROの言う事ももっともだ。そのようなテロは社会の混乱を招くばかりで、基本的に誰も得をしない。いや、得する者は確実に存在するが、投資の額を考えると現実的ではない。

 しかし、と龍麻は考える。

 唐栖を殺しの世界に引きずり込んだ者は、唐栖をかなり自由に泳がせていた。鴉を操るという能力はかなり異質で、警察沙汰になっても無罪放免は間違いないが、いつ自分たちの事が唐栖の口から洩れるかも分からない。それなのに唐栖は街に放たれ、渋谷で九人の人間を殺した。スナッフ・ムービーとは一切関係ない、ただの快楽殺人。リスクだけが大きく、無意味な殺人。それが――なぜ?

(政治家や企業のトップによる悪魔崇拝。脅迫によって生まれる恐怖の連鎖。唐栖の殺人…。どれ一つとっても社会の混乱を招く事態なのだが…)

 それが大量の麻薬=ケミカルテロという発想に結び付いたのだ。しかしそんな社会の混乱は、確実な利益には結び付かない。それこそ――戦争にでもならぬ限り。

(……?)

 社会の混乱…戦争…。この推理が妙に引っ掛かる龍麻。実質的に国を動かす者たちが悪魔崇拝と麻薬に溺れた先にあるもの。快楽殺人と、《化け物》になる者たち。野放しにされた唐栖。《力》を持ち得た者の権利…。

(……)

 脳裏にちらつく、もう一つの推理。――単純に国を欲しがる為に《力》を求めるのではなく、破壊と混乱…テロ行為を行う為に《力》を求めるとなると話は違ってくるのではなかろうか? 科学的根拠に基づいて活動する警察組織では感知できない、《力》によるテロ行為が目的だとすれば。

 そう考えれば、唐栖の一件も説明が付く。彼は一種の宣伝に利用されたのだ。《力》を持ち得た者が謳歌できる自由を見せる為に。その実例を見た者が、《力》を欲しがるように。

 数年前、地下鉄で毒ガスを撒くという重大事件を起こした某団体にも、有名大学で高等教育を受けた筈の学生が多数混じっていた。いわゆる超常能力はそれだけ人を惹き付けるのである。それが、悪魔崇拝という形で得られるとすれば? 《シュブ・ニグラス》は聖書などで語られる悪魔とは一線を隔す存在だ。司るものは狂気と汚濁、そして生命の死。――強力な麻薬が生む狂気と、残虐な殺戮の儀式、堕落を尽くした性の饗宴が《力》を与えるとしたら? スナッフ・ムービーこそ、人間レベルでの脅迫を行う為の付け足しに過ぎぬとしたら? その《力》を権力者が得たとしたら…?

「――おい、どうした?」

 何かが解りかけていた龍麻は、HIROの声に反応しなかった。その代わり、強烈な殺意の凝集を感じてぱっと頭上を振り仰ぐ。――HIROも同時だ。二人の目に、ビルの三階にも相当するような高さにしつらえられた絞首台から飛び降りる人影が映った。

「チイッ!」

「――ッ!」

 とっさに床に転がって逃れる二人。プロレスで言うフライング・ボディプレスで落下してきたのは、白スーツの護衛の一人、デブの方であった。

 しかしこれは何の真似か? 確かに不意を突かれたが、あの高さから落ちれば本人もただでは済まない。現にデブはぴくりとも動かず――

「――離れろッ!!」

 HIROの叱咤! 無駄口を叩く前に後方にトンボを切る龍麻。一瞬前まで顔のあったところを光条が走り抜ける。確実に避けたと思ったのに、龍麻の防弾コートの襟に鋭い裂け目が走った。しかも――MP5の銃身までが鋭利な切断面を見せて床に落ちたではないか!

「はあ〜い。良く避けましたね」

 首の継ぎ目の見当たらぬデブは、ただでさえ細い目を糸の様にして笑った。どうやら中国人らしい。そして――落下のダメージは皆無であった。

「でもあなた達もう終わり。大人しく切り刻まれなさ〜い」

 巨大なミットのような手の中で光る、何の変哲もない剃刀。しかし刃物は持つ者によって印象が桁外れに変わる。龍麻の目にはその剃刀が日本刀にさえ見えた。



 ――TAN! TAN! TAN!



 この男は危険だ! 一瞬の躊躇もなく、龍麻はその満面の笑みに向けてウッズマンを発砲した。しかし、丸っちい腕が顔前に掲げられるや、22LRがその腕に止められた。――どう見ても生身の腕に!

「チッ!」

 HIROがブローニングをデブに向ける。

 次の瞬間、HIROの背後から空気を焦がすような鋭い回し蹴りが襲いかかった。ダッキングでかわし、身を捻りざまブローニングを発砲するHIRO。しかしそちらに現れた痩せのノッポは蛇のように上体をしならせ、九ミリ弾をかわした。人体で最も動きの少ない腹を狙った次弾も、三メートルという至近距離でかわしてのける。それも、頭と足の位置はそのまま、胴だけが左右にひん曲がったのである。さすがに驚くHIRO。このノッポ――間接がないのか!? するとその思考を呼んだかのように、ノッポは両手を床に付いた姿勢で低く身構えた。その姿はまるでトカゲ――いや、蛇。

 その時、どこかにあるスピーカーから、先程の白スーツ…芝倉の声が聞こえてきた。

『――驚いたかね? 彼らは香港のキム兄弟だよ。腕の良い殺し屋なんだが、向こうの組織でももてあましているというので、我々が引き取ったんだ。――おかげで良い絵が撮れそうだ。頑張ってくれたまえよ』

 何時の間にか、銃だけではなくカメラを構えた連中がキャットウォークに姿を現わしている。やはりここがスナッフ・ムービーの制作現場だったのだ。

 そして香港の金兄弟…龍麻も知らぬ名前ではなかった。香港黒社会の一大勢力《九頭竜カオルン》の殺手シャーチー(殺し屋)であったが、あまりに血を好む残虐性に嫌気が差した組織が放り出し、行方不明になっていた。一部では組織によって抹殺されたとも囁かれていたが、真実はこんなところでスナッフ・ムービーに出演していたらしい。

 だが、この身体能力は何だ!?

「ホッホッホ。本当はワタシ、小さな女の子を刻むのが好きなんですけどねえ。男の子でも充分OKですよ」

 ビヤ樽が、その外見からは想像も出来ぬ速度で突進してきた。走ると言うより、弾んでいる!?



 ――シュッ!



 閃く剃刀! 龍麻ですら避けるだけで精一杯のスピードである。筋肉が脂肪の中に埋没している為、初動がまったく読めない。服の上からでも相手の筋肉の動きを読める龍麻の目でも動きを見切れない!

「――クッ!」

 閃く剃刀をかわし、龍麻は更に後方に跳ぶ。――これほど厄介なナイフ術を持つ者を相手にするのは久し振りだ。

「ホッホッホ。アナタ、楽しませてくれる。五度切って、三つだけ」

 龍麻の頬と左肩、そして右腿に浅い裂傷が刻まれている。致命傷には程遠いが、それはデブがわざとそのようにした為だ。丈夫なケプラーをも切り裂く技は中国の剣術。ただでさえ初動を見せぬデブの身体に加え、技そのものも見切り難い軌道を辿ってくる。そして弾丸を止める肉体…いわゆる高分子筋肉やサイボーグの類ではない。中国拳法に伝わる《硬気功》か!? メディアに登場する多くはトリックやハッタリが多いが、失伝しようともそれを継承するに値しない者には伝えぬ秘伝は少なからず存在する。

 龍麻はウッズマンをホルスターに納めた。――効かない武器に固執する事はない。

「――おやおや。どうしました? 若いのにすぐヤケになる――これ、いけない事ですよ?」

 龍麻は答えず、足の踏み位置を変え、手刀を胸前で交差させる古武道の構えを取った。デブの目が笑いの形に細められる。

「ほうほう。それは日本武術の構えね。――でも日本の武術はワタシの国の猿マネ。ワタシには敵いません」

 サディストというものは大抵口数が多い。これから自分がどのような目に遭わされるか想像させ、恐怖を煽る為だ。

 しかし龍麻は表情一つ変えず、虚勢も張らなければ、命乞いもしない。これはサディストにとって一番面白くない対応であった。犠牲者が恐れ、泣き喚き、苦痛に喘ぐ姿を見る事がサディストの愉しみであるからだ。

 デブは懐から小さな瓶を取り出し、中身を剃刀に振り掛けた。

「これが何だか判りますか? ――ニコチンですよ。こうするとね、どんな浅い傷でもニコチンの毒がまわって凄く痛いのですよ。ぐふふ。ワタシはこれで言う事を聞かない悪い女の子を何人も教育してきたんですよ。これでちょっと切るだけで、みんな進んでワタシのXXXをしゃぶるほど良い子になります」

「……」

 聞くに耐えないサディストの戯れ言に、龍麻は無反応。いや――刻み込まれた戦術理論に則り、ほんの少しだけ反応した。胸前に構え、前に突き出した左手の中指を立てたのである。曰く――《FUCK YOU》

「ぐふふ。あなたにも教育が必要ですね」

 デブはもう少し深く切り込もうと剃刀を飛ばした。少々の怒りを覚えても、技に乱れはない。まずはその生意気な中指を――

「――ッッ!?」

 その瞬間、デブは目にした。龍麻の左肩、コートと学生服の切れ目の奥に潜む、殺戮妖精の姿を!

 すっと遠ざかるコート。剃刀が空を切り、次の瞬間、龍麻も仕掛けた。徒手空拳《陽》の奥義、《巫炎》!



 カッ――!!



「――あじゅえェェェェェッッ!!」

 まったく火の気のなかった空間に、突如として巨大な炎が膨れ上がり、デブの巨体を包み込む。弾丸すら止める肉体も炎には通じなかった。

 しかし龍麻も、予想以上の威力に後退せざるを得なかった。純粋な《気》の放射技である《巫炎》や《雪蓮掌》は、打撃を介在させる発剄と違ってコントロールが難しい。牽制や脅し程度ならまだしも、《攻撃》の意思をもって使用するとたちまち暴発するのだ。《気》の過剰放出で生まれた炎はデブを火だるまと変えたばかりか、周囲のベッドや祭壇にも着火し、アルコールやガス・バーナーのタンクにまで誘爆、瞬く間に周囲を炎の海と変えた。

「な、なんだこれはッ!? ――しょ、消火しろッ!!」

 芝倉が喚き散らしたのも道理。本来、ここは核シェルターなのだ。当然、スプリンクラーや火災報知器も設置済みだが、大規模な火災には対処できない。しかし――秘密を守る為にも警察や消防に通報する訳にはいかないのだ。

 突然湧き起こった炎に動揺したのはノッポも同様であった。火だるまになってのた打ち回っているのは自分の相棒…兄弟なのである。ノッポは逆上し、鞭のように…どころか、突如として二メートル以上も伸びる極太の鞭そのものの回し蹴りでHIROを弾き飛ばした。

シャァァァァァァッ!」

 ノッポが吠える。目玉が飛び出すほど目を見開き、舌を吐いて。――その舌先は二つに分かれ、真っ赤な口腔内には上下合わせて四本の牙が覗いた。両足がぐにゃりとカーブを描き、長く床に這う。なんだ、こいつは――!?

 辛うじて受身を取ったHIROは吐息も洩らさずブローニングを発砲する。――が、三発の九ミリ弾は弧を描く手刀に弾き飛ばされた。ノッポの指先には硬質の輝き。指に生えているならば爪であろうが、その形状は牙に近い。そしてその指先から滴り落ちる液体。それは床に触れた途端、猛烈な刺激臭を発してリノリウムを腐食させた。

 相手は人間ではない――現実主義者のHIROも認めざるを得ない。瞬時に頭を切り替えたHIROは特注の二〇連マガジンを装着、機関銃もかくやという連射をノッポに放った。

 稀代のガンスミス、ジョン・M・ブローニングがこの世に残した最後の作品、ブローニング・ハイパワー。九ミリ拳銃として初の二列弾倉ダブルカーラムを採用し、一三プラス一発のファイア・パワーを実現させた軍用銃だ。世に九ミリ拳銃は多けれど、ハイパワーは多弾頭九ミリ拳銃の兄貴分で、堅牢さ、作動の確実性、人間工学を徹底的に追及したグリップ形状――どれをとっても最新自動拳銃に引けを取らず、世界最高の特殊部隊SASでも今なお制式拳銃として君臨している。世界最高のコンバット・オートと賞賛されたチェコスロバキア工廠製CZ75ですら、プロに言わせればハイパワーのコピーに過ぎない。

 銃に過大な不可を与えかねないHIROの速射を、限界までチューンナップしたブローニングが受け止める。異形の怪物へと変貌したノッポもこれにはたまらず、直撃弾を三発から喰らった。だがノッポもさるもの。直撃弾を受けながらも蹴り(?)を放ち、HIROの手からブローニングを弾き飛ばす。万事休すか――!?

「――アホウが」

 コートの内側から飛び出すHIROの右手。握られているのはコルト・パイソン――抜き撃ちと命中精度を重視した三インチモデル、コンバット・パイソンだ。

 しかし――

「ッッ!?」

 火を噴かぬパイソンが空中に漂ったのに気を取られた一瞬後、ノッポの首筋に逆刃の付いたダガーが突き立った。

「グギィィィィッッ!!」

 なまじ柔軟な筋肉と骨格を持ち、弾丸をかわすほどのスピードで動ける事が、逆にノッポの徒となった。弾丸の飛ぶ方向を見切ろうと銃口に意識を集中したために、跳ね起きたHIROが振るったナイフをまともに受けてしまったのである。単純なトリックプレイ。だが、反応が良いものほどフェイントに弱い。そして――



――ドウンッ!



 抜けぬナイフ相手にもがくノッポの頭部は、三五七マグナムを至近距離で受けて上半分が四散し、仰け反り吹っ飛んだ。――だが、残る下顎だけで絶叫を放ち、胴体が激しく手足をばたつかせてのた打ち回る。――なんだこれは!?

「クッ! ――やむを得ん! 撃て! 殺せ!!」

 残っていたダークスーツが左右に散ってサブマシンガンを構える。

 だが、彼らは明らかに遊び過ぎていた。悪魔崇拝の儀式で人を殺しまくっていたとしても、戦闘技能が磨かれる訳ではない。ましてやただの人間では――反応は龍麻やHIROに遠く及ばなかった。

 龍麻の右手が閃き、HIROがブローニングを拾い上げる。――銃声が鳴り響き、ダークスーツがばたばたと倒れて行く。

「まったく、こいつは何の冗談だ!?」

 無策に飛び出してくるダークスーツを撃ち倒しつつHIROが叫ぶ。

「悪魔崇拝の変態どもに化け物じみた殺し屋、手品みてェな技を使う、ガンを振り回す高校生かよ。いつから世の中こんなにおかしくなった!?」

「――知らん」

 呆れているのか楽しんでいるのか解らぬ口調のHIROに対し、龍麻はいつもと同じように答える。炎の中を走る二つの影は正に死神の権化であった。その手が銃火を放つところ、確実に一つかそれ以上の命が失われる。

「クソッ! ――オイお前! 付いて来い!」

 このままではまずい。そう判断した芝倉は一時撤退を決めた。こうなったら息のかかっている機動隊を出動させて始末するしかない。理由も証拠も、後でいくらでもでっち上げれば良いのだ。

 しかし、ダークスーツは付いてこようとはしなかった。

「オイ! 何をして――!?」

 芝倉の声が途切れる前に、ダークスーツはずるりと手すりにもたれて倒れかかった。その首筋にはギラリと光るナイフが生えていた。

「なっ――!?」

 倒れるダークスーツの向こうに、ダークグレーのコートの少年。熱気が視界を閉ざしてからの数十秒でここまでやって来たのか!? ――龍麻が壁を蹴ってここまで駆け登ったなど、芝倉の理解の外であった。

「――チイッ!」

 芝倉の手が懐に飛び込み――そこまでだった。護身用のリボルバーを抜こうとした瞬間、彼の人差し指が宙を飛んだのである。――瞬時に接近した龍麻の振るったナイフの成果だ。

 出血は、芝倉のチーフ・スペシャルが床で耳障りな音を立ててから盛大に始まった。そして――

「ひんぎゃァァァァァッッ!!」

 指を切り落とされたのだから当然と言えば当然なのだが、芝倉は物凄い悲鳴を上げ、大粒の涙を撒き散らしながら泣き喚き始めた。

「DEAD END」

 芝倉の後頭部を、ブローニングの銃口がコツンと小突く。

「さて、色々と吐いてもらうぜ。黒幕は誰か。他の仲間がどのくらいいるのか。――幸いここには道具も揃っているようだしな」

 こちらは階段を駆け上がったHIROが面白そうに告げるが、芝倉は泣き喚くばかりで、その言葉が届いているかどうかさえ定かではなかった。――サディストにありがちな性癖である。他人を痛めつけ、切り刻む事は平気な癖に、自分の痛みには滅法弱い。

「チッ、餓鬼みてェにビービーと。――って、おい!」

 HIROが少し慌てたのは、龍麻がチーフ・スペシャルを拾い、芝倉に向けたからであった。そして――



 ――PAN!



 乾いた銃声が一発。床に這って泣き喚く芝倉の左手に風穴が開いた。芝倉は更に絶叫を放ち――途中で止まった。龍麻が芝倉の顎を、骨が軋むほどの力で掴み上げたからである。

「…自分は時間を無駄にしない主義だ」

 龍麻は冷然と言った。

「彼の質問に答えろ。次は右手を貰う。スリー、ツー、ワン…」

「判った! 喋る!!」

 人を撃つ事に躊躇も恐怖も、愉悦も感じないのはHIROも同じだ。しかし龍麻の行為には彼も少しだけ口の端を歪めた。――あまりにも自然過ぎたのだ。龍麻に、およそ感情の動きというものが見られない事に、HIROは今更ながらに気付いた。

「さ、攫ってきた女どもはこの先の部屋だ。早く連れてどこへでも行け…!」

「そんな事は聞いていない。――黒幕は誰だ?」

「……」

 黙り込んだ芝倉の腿に銃口を据える龍麻。

「ま、待て! 警備室に五人残している! も、もう他の連中にも連絡が行っている頃だ! すぐに機動隊が来るぞ!」

「俺は、黒幕は誰かと聞いている。《司教》なる者ともう一人の正体。そして、このような真似をする目的を。――酒と麻薬、そして悪魔崇拝による殺人は、あのような《怪物》を作り出す為のものか?」

「……!」

 再び黙り込む芝倉。龍麻は余分な動きを見せず、いきなり発砲した。芝倉の太腿が血を噴く。弾丸は骨で止まったので、早急な処置をせねば一生障害を背負う事になる。

「ひぎィィィッッ! い〜ッ! い〜ッ! 言えない! 言えば殺され…! いや…!」

 その直後、芝倉は、龍麻とHIRO、この二人をして背筋に冷たいものを感じるような事を口にした。

「――食われる…ッ!」

 銃弾を撃ち込まれる激痛をもってしても覆せぬ恐怖の色。芝倉は白目を剥き、泡を吹いて失神した。銃弾を撃ち込まれたショックではなく、黒幕の名の与えた恐怖による失神であった。蹴飛ばしても――動かない。

「さっきと同じかよ。――どう思う? こいつの言った事」

「スナッフ・ムービーと屍食(カリバニズム)の組み合わせは珍しくないが、この男の脅え方は異常だ。やはり、あの怪物化する現象と関わりがあるのだろう。しかしこの有様では、時間を掛けて尋問する他あるまい。恐らく、他の人員も逃げてしまった事だろう」

「最初の依頼じゃ、コイツを始末すれば終わりだったってのにな。やれやれ、面倒臭ェこったぜ」

 芝倉の手足に手錠を填めてから、HIROは携帯電話を取り出し、途中の廊下に貼り付けておいた中継器を通してアンテナが立ったのを確認すると、どこかにメールを打ち始めた。

 相手は彼の依頼人だろう。どうやら芝倉の身柄を依頼人に委譲するらしい。――やはり、HIROの依頼人は司法関係者であるようだ。

「誘拐された被害者が何か知っているかも知れん。そちらを当たってみてはどうか?」

「――それこそ刑事の仕事じゃねェのか? ――好きにしな」

 様々な推理が頭の中を巡っているので、このままでは気分が悪い。ふむと頷き、龍麻は誘拐された女性達の監禁されているシャッターを開いた。

 またも沸き起こる悲鳴と泣き声。さすがに先程の衝撃が残っているのか、龍麻を見る目は絶望ばかりが濃い。

「――只今より諸君らを全員解放する」

 龍麻が口調を変えぬので、女性達は言葉の意味を理解するのに数秒以上の時間を必要とした。

「ただし危険を避けるため、勝手な行動は厳禁とする。司法関係者が迎えに来るまで各自私語は控え、指示に従って待機するように。――以上だ」

 そして龍麻は、女性達を戒めている手械と首輪を一括管理している機械のレバーを倒した。カチリ、と音を立てて外れた手械と首輪を呆然と眺めていた女性達であったが――

「――オイッ! 馬鹿!」

 HIROが怒鳴る間も有らばこそ――

『イヤァァァァ――ッッ!!』

 解放への希望が絶望にとって変わった数刻後に、再び訪れた救助の手が、彼女達の精神の箍を外してしまったのだろう。女性達は龍麻を突き飛ばすような勢いで出口に殺到した。

「おおッ!?」

「チイィッ!」

 とっさに壁に張り付いて事なきを得た龍麻とHIRO。しかし、床に放り出されていた芝倉はそうは行かなかった。降って湧いたような解放の歓喜に、もはや逃げる事しか眼中になくなった女性達は、血に塗れて呻いている芝倉を単なる障害物としか認識せず、ざっと十五、六人の足が彼の身体を踏み越えていった。

「この馬鹿が! 話を聞くだけなら繋いだままにしときゃ良かったんだ!」

「面目ない。――しかし、なんという規律のなさだ。救助者の指示を聞けねば待つのは死だというのに」

 龍麻はレッドキャップス時代にテロリストの殲滅戦に伴う人質の救助作戦を二度経験している。一度目はフロリダにバカンスに来ていた観光客グループ、二度目はカナダの女子校の生徒であった。そのどちらも二〇時間から三〇時間の緊張状態を強いられ、更に食料はおろか水さえ満足に与えられない状況にありながら、龍麻らレッドキャップスの誘導にきちんと従って行動し、それ以上の被害者を出さずに済んだのである。

 それなのに、この連中と来たら――

「平和ボケした日本人にそんな理屈が通るか! 手間を増やしやがって」

 さすがに炎が広がっている所は避け、ホールの出口に殺到した女性達であったが、そこは既に芝倉の手によって鍵が掛けられていた。当然、人の力で叩いたくらいではびくともしない。すると今度は、それこそ親の仇でも見るような顔で女達は龍麻とHIROに詰め寄っていった。

「アンタたち、助けに来たんでしょう! さっさとドアを開けなさいよ!」

「他の警官はどこよ!? サボってるんじゃないでしょうねッ!?」

「さっさとなんとかしなさいよ! それが公僕の務めでしょッ!?」

 救助に来た=味方という意識がいびつに歪んで増大したか、いったん口火を切った女達の罵詈雑言は留まる所を知らなかった。とても救助された側の人間とは思えない口調で罵り、唾を飛ばし、喚き散らす。――このような場に誘拐されるくらいだからそれなりに容姿の整った者ばかりなので、それこそ男性諸氏には理想が音を立てて崩れ去る光景であった。

「チッ、これだからうるせえ女は嫌いだ」

「同意だ。――なんという身勝手さだ。これでは規律も恥もあったものではない。やはり女とは理解しがたい生物だ」

「――そこまで言うことはねェと思うが…」

 どれほど怖い顔で迫ろうが、そこは元特殊部隊の龍麻に、現役のスイーパーであるHIROの事だ。三〇人からの女性が詰め寄った所で、猫の唸り声ほどの迫力も感じなかった。現に一人の女がHIROの胸倉を掴んだ時、彼がくれた一瞥で女達は一斉に黙り込んだのである。――ひと睨みと言うにも当たらない一瞥に滲んでいた殺気で。

 その時である。女性達の壁の一角で鋭い悲鳴が上がった。

 周りの者を巻き込んで尻餅をつく女性達。その中心に立ち上がっているのは…血だるまになった芝倉だ。

 立ち上がった!? 太腿に銃創を負い、肋骨も何本かへし折れてしまっている男が!?

「――!? まさか、コイツも!?」

 そこまで言った時、芝倉が唸り声一発、手錠を引きちぎった。

「――ッッ!!」

 手刀が走る。だがこの芝倉、肉体的には平凡そのもの――にも関わらず、腕の一振りが巻き起こした風圧の凄まじさに、近くにいた女性達が弾き飛ばされた。

「ッッ!!」

 余計な口を開く前に、ブローニングが、ウッズマンが芝倉を捉える。



 ――BANG! BANG! BANG!

 ――TAN! TAN! TAN!



 異常を感じた刹那、二人の脳裏を抹殺の意思のみが占めた。九ミリ軍用弾と22LRが芝倉の眉間、喉、心臓を捉え――

「…マジか?」

 芝倉は倒れなかった。眉間と喉は血を噴いているものの、皮膚表面からの出血のみだ。心臓の位置には服の焼け焦げがあるが、それだけである。

「こいつも、さっきの同類か?」

「――恐らく」

 龍麻がそう言った途端、先程の返礼か、芝倉が龍麻に襲い掛かった。

 鉤爪状に指を折り曲げた鉤手をかわす事自体は難しくなかった筈だが、状況が最悪だった。芝倉の凄まじい形相を目にした刹那、女性達が悲鳴を上げて龍麻に、HIROにしがみ付いたのである。その瞬間が正に命取り! とっさに《気》の防御を固めたものの、龍麻は手刀の直撃を受け、石柱に叩き付けられた。

「――緋勇ッ!」

 HIROがパイソンを抜く。が、次の瞬間、その腕にまで女がしがみ付く。しかもパイソンを奪おうとまで。――立て続けの異常事態にパニックを起こし、自己防衛のための武器を闇雲に求めた結果であった。

「――オオオオッッ!!」

 柱に十発ほども叩き付けられただろうか? 龍麻は体内に溜めた《気》のみで密着状態からの発剄を打ち込み、ひるんだ芝倉を持ち前の膂力に物を言わせて投げ飛ばした。しかし芝倉は一度だけ床に叩き付けられ、すぐに跳ね起きた。

「――グオウッ!!」

「チイッ! ――どけェッ!!」

 先程まで泣き喚いていた男と同一人物とは思えない、獣じみた顔。大きく開いた口に、異様に発達した犬歯を見た瞬間、HIROは絡み付く女を弾き飛ばし、パイソンを両手保持で発砲した。



 ――ドウンッ! ドウンッ! ドウンッ! ドウンッ!



 三五七マグナムの威力! 眉間と心臓に二発づつ直撃弾を浴び、芝倉が吹っ飛ぶ。しかし――

「グルル…ッ! ガ…ルルル…ッッ!」

「――ッッ!!」

 カリフォルニア・ハイウェイパトロールが《対人用》としては強力すぎると称した三五七マグナム弾を四発も急所に受けながら、芝倉は立ち上がってきた。――獣並み…否、大型猛獣をも凌ぐ耐久力である。何やら剛毛の覗く胸元はいざ知らず、前頭部など爆ぜ割れて脳がはみ出しているのに、まだ向かって来ようというのである。――さすがにHIROも目を剥いた。

 ――やむを得ん! 龍麻は両掌に《炎気》を発した。――三五七マグナムの直撃に耐える魔物相手に手加減などしていられない。デブと同じく《巫炎》で一気に始末しようと――!

「ッッ!!」

 だが、その瞬間に視界に飛び込んできたもの。それは恐怖に引き攣り、逃げるに逃げられずにいる女性達の姿であった。

 今《巫炎》を使うと確実に十人以上の女達が巻き添えを食う! ゼロコンマに満たぬ躊躇を見逃さず、既に直立歩行を捨てて両腕を床に付いている芝倉が、両手両足の力を一点集中して驚くべき跳躍を見せる。犬族や猫族の獣がもっとも得意とする跳躍攻撃。これを受け止める術は人間にはない。龍麻はそのためらいが致命的であることを悟った。

 芝倉の鉤爪が己の顔をもぎ取ろうかという瞬間、龍麻の全身は戦闘マシンと化した。

 全てがスローモーションのように見える世界で、女達にしがみ付かれた下半身はそのまま、上半身のみが捻られ、芝倉の牙から首筋への致命的な一撃を外す。そして右手は中空に差し伸べられ、そこにコンバット・パイソンが飛び込んできた。

「――受け取れ!!」

 HIROの声が現実時間の回帰となった時、龍麻は床に押し倒されながらもコンバット・パイソンの銃口を芝倉のこめかみに押し当て、トリガーを引いていた。

 一発の銃声が長く長く尾を引く。もとより眉間に二発のマグナム弾を食らっていた芝倉の頭部は、こめかみへのゼロ距離射撃で上半分が正に四散し、血と肉片が龍麻の顔に飛び散った。――人間ならば確実に死んでいるが、芝倉はあろう事か大きく仰け反り、失った頭部を押さえるかのような動きをする。――頭部を失ってまで動けるのか、こいつは!?



 ――神経系を集中攻撃



 跳ね起き様、龍麻は芝倉の太陽神経叢に前蹴りを叩き込み、更に二の足でマグナム弾の射入口から爪先を捻り込んで心臓を潰した。――《龍星脚》。それでも必殺の確信を得られなかった龍麻は鞭のように振り出す掌打で経穴…喉、壇中、命門、脇陰の急所を打ち――その異様な手応えに、技を《掌底・発剄》に切り替え、最大出力で打ち込んだ。――反撃の余地を与えぬ連続攻撃に芝倉は吹き飛び、壁に叩き付けられたところで――



 ――ドバッ! ドバッ! ドバッ! ドバンッ!!



 ブローニングから吐き出された火線が着弾と同時に爆発を起こし、芝倉の五体をバラバラに打ち砕いてミンチへと変えた。

「――なんなんだ、こいつ…ッ!?」

 気死した女たちを振り切り、取って置きの炸裂弾を詰めたブローニングを油断なく構えたHIROが、今度こそ動かなくなった芝倉…の残骸を見て呻くように言う。

 バラバラに吹き飛ばしてしまったものの、残った下顎は前に迫り出し、手足は黒い剛毛によって覆われ、正に犬族のそれのように変形しているのが見て取れる。どう見ても人間の体毛とは思えないほどに太く、針金のような硬度を持っている毛が防弾チョッキのような効果をもたらし、マグナム弾の衝撃を半分以下に押さえたのだろう。しかも良く目を凝らせば、龍麻が撃ち抜いた手や腿の傷さえ消えている事が判る。

 人が獣に変わり、強靭な肉体と驚異的な運動能力を得る――生物学的にも物理学的にも有り得ない現象だが、この現象と同じ伝説は世界中に転がっている。理屈はともかく、目の前の事実をありのまま受け止めた時に浮かぶ名は――狼男。

「推測だが…スナッフ・ムービーの製作こそ遊びに過ぎず、真の目的はこのような怪物を作り出す事にあったのだろう。誘拐された女性達は怪物の母体として利用され、その資質のない者は殺されたのだ。自ら変貌する事を望む者はそのまま、意に添わぬ者には麻薬を使用し、秘密を知る者には保険として、怪物化させた。裏切り者は己に植え付けられた怪物に食われ、取って代わられる」

 さすがにここに来て今までのダメージと疲労が一挙に襲ってきたか、壁にもたれて科学的常識を無視した事を語る龍麻を、HIROは奇妙な目つきで眺める。――やはりこの少年は少し頭がおかしい…などと考えているようだ。現に、

「――ほう。するとここはさしずめ、ショッカーの秘密基地って事かよ。――馬鹿馬鹿しい。お前、こんな奴を他でも見たのかよ?」

「……」

 目の前の現実には身体が対応しても、精神的には疑問符をたっぷりと付けたHIROの口調に、龍麻は沈黙する。だがこの場合は、沈黙がなによりも雄弁に肯定を語っていた。

「お前――何者だ?」

 今度こそ、HIROは聞いた。ブローニングの銃口は下向きだが、龍麻の突き蹴りは届かず、弾丸ならば外しようのない距離。――彼ならば龍麻が動いた瞬間に弾丸を三発は撃ち込めるだろう。

「――緋勇龍麻だ」

「それは聞いた。――だが、俺が聞きたいのはそんな事じゃねェ。南米やアフガン辺りならお前くらいの少年兵なんか珍しくもないが、こんな化け物に関わっているとなると話は別だぜ。あの手品みてェなのも、こいつら用の技だか術なんだろ。――お前は、なんなんだ?」

 確かに共闘した仲だが、それは一時的なものだ。HIROの殺気は本物であった。

 暫しの沈黙の後、龍麻は口を開いた。――勘だが、この男にならば話しても問題ないと判断したのである。

「…自分はかつて、テロリストやこういう連中を始末する部隊に所属していた。そして今は、その経歴を買われてこの東京に来た。――左腕だ」

 動けば撃たれる。それが判っているからこそ、龍麻は口頭でそれを告げた。その意を察したHIROは、コートの裂け目を覗き込み――納得したように口元を歪めた。目には、驚きと感嘆を込めて。

「…全滅したと聞いていたがな。――会えて光栄だぜ。レッドキャップス・ナンバー9」

「…自分を番号で呼ぶな」

 絶対的に不利なのは承知であろうに、すう、と殺気を纏った龍麻に、HIROはヒュッと口笛を吹き、ブローニングをホルスターに納めた。

「OK。――まったくこの世は面白ェ。何が起こっても不思議じゃねェと来てる」

 不敵に笑い、コートの襟を正すHIRO。どうやら龍麻を信用したようだ。

「まあいい。とりあえず俺の仕事はここまでだ。化け物の相手なんざ冗談じゃねェ。引き揚げるとするぜ」

 ちら、と毛むくじゃらの肉塊が完全に動かぬのを確認し、HIROは龍麻に左手――利き手を差し出した。

 プロが利き手を差し出す――全幅の信頼の証だ。その手を握った途端、龍麻はもう立ち上がっていた。空恐ろしくなるほどの力強さと、手のひらの柔らかさ。本物のガンスリンガーの手だ。龍麻は束の間、自分を鍛え上げた教官たちを思い出した。

「この人々はどうするのだ?」

 女性達は、一連のショックから立ち直れていない者ばかりだ。

「なあに、もうすぐ依頼人が来るさ。――お前はその前にフケな。好きで首を突っ込んだ厄介事じゃあるまい」

「…肯定だ」

 とりあえずHIROの言う通り、現時点で自分に出来る事はここまでだ。実行犯の一部は始末したが、警察内部にまで食い込んでいる権力者も少なくないだろう。司法関係者でもなく、基本的に後ろ盾を持たない自分が介入すべきではない。それに、こういう一件こそ《拳武館》が扱う事件だ。莎草や唐栖の振るった《力》とは異なる以上、自分は静観すべきだろう。

「――そんなツラするな。俺の依頼人はこういうのをぶっ潰すのが趣味みたいなもんでな。この件に関わった悪党どもに明日はねェ。化け物の方は――ま、何とかするさ」

「――信用して良いのだな?」

「俺が信用しろと言って、お前はそれを信じるか?」

「否定だ」

「また即答かよ。可愛くねェ餓鬼だ。――まァ、良いけどよ」

 行け、と言うように手を振るHIRO。いかにも裏の住人らしい冷淡さであるが、龍麻はこの男に悪い印象を持っていなかった。

(信用するに足りるか)

 こと戦闘に関わる分野で、龍麻の勘は滅多に外れる事はない。龍麻は借りっ放しでいたパイソンをHIROに差し出した。すると…

「――報酬代わりだ。持って行きな」

 あっさりと、HIROはそう言った。

「あんな連中を相手にしているそうだが、はっきり言ってお前の技は実戦的じゃねェ。もう少しマシになるまでそいつを使え。あんな化け物相手に二二口径じゃ十発ぶち込んでも反撃される。――充分判った筈だぜ」

「…肯定だ。ありがたく頂いておく」

 HIROの指摘はもっともだ。徒手空拳《陽》の技を使い始めてまだ半年とたたぬ現在、《巫炎》や《雪蓮掌》など、使いこなせていない技もある。今後もあのような敵を相手にするならば、ウッズマンでは非力すぎるだろう。しかも――相当使い込んでいるパイソンを譲ると言っているのだ。プロの厚意は素直に受けるべきである。

「弾丸が欲しければ、北区にいい店がある。訪ねてみると良いぜ」

「了解した。――感謝する」

 龍麻は踵を揃えて敬礼し、彼らより一足先に狂気の館を後にした。

 これが龍麻と、アンダーグラウンドのスイーパー、HIROとの最初の出会いであった。









 第四話外伝 イリーガル・スチューデント 3 







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