第四話閑話 イリーガル・スチューデント 4





 
(結局…謎ばかりが残ったな)

 既に夜の帳が下りている日比谷公園内で、龍麻はラジオから流れる速報に耳を傾けていた。

 記事を読み上げるアナウンサーの口調こそ落ち着いたものだが、声は少し震えている。速報として報じられている事件はあまりにも人が死に過ぎ、あまりにも異常過ぎたのだ。

 大掛かりな組織的犯行によるスナッフ・ムービー製作現場を摘発。救出された女性は二十八名。発見された白骨死体は二十体あまり。――これだけでも近代希に見る凶悪事件だったのだが、ニュースは事実の一割も伝えていない。明日の朝刊も、真実を記事にする事はないだろう。

 あの後、既に準備を整えていたものか、龍麻が倉庫を後にしたのと入れ替わりに警視庁の機動隊が押し寄せ、倉庫内に突入、誘拐されていた女性たちを救助した。陣頭指揮に当たっているのは、やけに見栄えのするモデルのような女性である。あたかも騎士団に下知する女王のようにてきぱきと指示を飛ばし、完全に現場を仕切っていた。

 恐らく彼女がHIROの依頼人なのだろう。そして彼女は警察のキャリア官僚――それもかなり高位な――だ。これも推察だが、スナッフ・ムービーに関わってしまった者が助けを求めたのは彼女で、事件の背後に巨大な権力の影を見た彼女は、アンダーグラウンドに助力を求めたのだろう。――裏の世界もまた、表の世界が不必要な混乱に陥るのを嫌うのである。そして――表世界の住人が裏の世界に土足で踏み込むのも。

 龍麻も基本的に裏の世界の住人だ。そしてHIROは龍麻の事を誰にも語らなかったらしく、今のところ龍麻の周囲に司法の手は伸びていない。そして龍麻自身も今回の一件を鳴滝に報告し、司法当局への圧力を依頼した。既に別ルートから内偵を始めていた鳴滝はこの一件から龍麻が手を引くのを条件にこれを承諾。これでこの一件は解決――の筈であった。

「――龍麻サン…」

 得意の槍を手に、準備運動を行っていた雨紋が、やや緊張を浮かせた声で龍麻を呼んだ。

「――来たか」

 間もなく日付も変わろうかという深夜の日比谷公園に、凄愴の気が満ちる。暗がりのそこかしこから現れたのは、思い思いの武器を手にした若者たちであった。だらしなく着こなしたのは、太平洋戦争で多くの若者が命を砲弾にしてアメリカ軍に向かって行った時の死に装束…特攻服だ。あとは鉢巻きに、腹に巻いたさらし、頭に入れた剃り込みと、刺青。――絵に描いたような暴走族だ。そしてどの顔にも、龍麻は見覚えがあった。例のビデオに映っていた顔として。

「どうやら、逃げねェで来たらしいな」

 人垣の向こうからリーダー格…あのビデオ屋で遭遇し、龍麻に手錠を掛けた若者が現れる。瀬川竜一。年齢十八歳。暴走族《狂走連合》のリーダーであり、警察官僚OBで与党の大物代議士の父親を持つボンボンだ。――龍麻にとっては、スナッフ・ムービー事件の使い走りである。

 鳴滝を通じて司法当局に手を廻しても、押さえられないのが《子供》の勢力だ。スナッフ・ムービーに関わった《大人》は法で裁かれるだろうが、《子供》は少年法を盾に裁かれる事はない。――渋谷界隈で有名な雨紋を彼らが放っておく事はないと、龍麻は彼らに関しては自己解決を進言していたのである。

「瀬川…! テメエ、殺人ビデオなんてものにまで手を出していたんだってな…! それもあんな小さな子供まで…! 許せねェ!」

 雨紋は、龍麻が辿り着いた先がスナッフ・ムービーである事を知らされている。そして、ニュースよりも詳しく、その内容を断片とは言え知らされている。――事もあろうに、顔見知りがそんな重大犯罪に関わっていたとは。

「ケッ、おとなしく始末されちまえばいいものを。――たかが餓鬼の十人や二十人ぶっ殺したって、それが何だって言うんだよ。どうせ生きていたってどうしようもねえクズどもじゃねェか。むしろ感謝して欲しいくらいだぜ。そんなクズどもでも、俺様の役に立てて死ねたんだからよォ」

「テメェ…!」

 雨紋の目に怒りの炎が宿る。今までは訳も解らず使っていた雷撃の《力》を、龍麻に習った呼吸法で高めていく。

 瀬川は続けた。

「俺はよォ、雨紋、テメエの事が前から目障りだったんだ」

 瀬川の手が懐に差し込まれる。――取り出されたのはレーザー・サイト装備のSIGザウエルP226――あの傭兵たちが持っていたのと同じ、自衛隊のライセンス生産品であった。龍麻の目が納得の光を湛えたが、誰にも判らない。

「テメエにゃスタンガンもボウガンも効かねェが、さすがにこいつには敵わねェだろ? その正義ぶったツラァ、今日で終いにしてやるぜ!」

「クッ…! テメエって奴は、どこまでも汚ねェ…!」

 拳銃ならば龍麻も持っているが、さすがにそれが自分に向けられると平然と構えてはいられない。素人が持ったところで、動く標的には中々当てられるものではないと龍麻は言っていたが、当てられないように動くのも至難の技だ。まして瀬川の銃にはレーザー・サイトが取り付けられている。龍麻やHIROならば逆にかわし易くなるが、雨紋はそうは行かない。

「何が汚ねェ? 要は勝ちゃあ良いんだろうが。もっともテメエが俺様に勝つ事なんて絶対にできねェんだよ。――ここでテメエをぶち殺したって、ニュースじゃ事故扱いさ。ついでにテメエにゃ、俺様の身代わりもやらせてやるぜ。テメエはヤクの売人で、強姦魔で、人殺しになるんだ」

「何ィ!?」

「この国の人間は馬鹿ばっかりだからよォ。マスコミの言う事が全部本当だなんてすぐ信じちまう。マスコミがテメエをワルだと言えば、それが本当になるんだ」

「…ッッ!!」

 それが瀬川の、自信の理由か。少し前ならいざ知らず、龍麻と知り合ってからの雨紋にはそれが判った。

 日本のような情報が氾濫する社会では、マスコミの影響力は計り知れない。身近な例を挙げるならば、ファッション誌で《今年のトレンド》という謳い文句で紹介されたファッションは、かなりの高確率で流行する。一人二人のタレントがそれを保証すれば、もっと広まる。――特定の個人もしくはごく少数の人間が思い描いた構図の通りに。

 特定の個人が白を黒と言った所で誰も相手にしないが、マスコミの意見イコール多数派の意見という図式が呪詛のように浸透している日本では、マスコミが白を黒と言えば、それがまかり通る可能性があるのだ。そしてマスコミは事態を煽り、他人の揚げ足を取り、センセーショナルな事件を好む傾向を隠しもせず、スクープばかりを追い求める。その果てにあるのは、火のない所に煙を立て、無辜の人間を犯罪者に仕立て上げ、謂れなき差別と冤罪を生む悪意の渦だ。

 瀬川の陰謀で雨紋が犯罪者に仕立て上げられても、雨紋に近しい人間はそれを否定するだろう。だがマスコミからの情報が全てである大衆は雨紋の人となりなど最初から調べようとはしない。極端な話、真実などに興味はないのだ。悪戯電話や脅迫の手紙で悪意をぶつけ、鬱憤を晴らす相手がいれば、それで良いのである。松本の毒ガス事件などは、その典型だ。

「判ったかよ? テメエじゃ俺様にゃ絶対に勝てねェって事がよォ。――テメエにゃ俺様の罪を被ってくたばってもらって、俺様はまっさらな経歴でいずれは政界に打って出るって訳だ。世の中って奴ァ、俺様みてェに《力》のある奴のためにあるんだよ」

 世の矛盾、ここに極まれり。しかし雨紋は、それもまた真実であると納得せざるを得ない。既に日本という国のあり様は現在の、かなりいびつな形で固まってしまっている。これを改革していくのは容易な事ではなく、事なかれ主義が横行する中、権力持たぬ弱者はこれからも踏みにじられていくだろう。

 そこで龍麻は、ぽつんと言った。

「…《フランダースの犬》を知っているか?」

場違いと言えば、あまりにも場違いな質問。雨紋も瀬川も、他のチンピラたちも「!?」となった。

 龍麻は静かに続けた。低いが良く通る声は、居並ぶ者の耳に染み入るように響いた。

「あの主人公は典型的な敗北主義者だ。お前達のような輩の前に屈し、挙げ句にあらぬ言いがかりを付けられ、惨めで孤独な死を迎えた。いつの時代も金と権力を握った者の論理はまかり通り、清貧に生きる者は踏みにじられるか。――泣けるな」

 そして龍麻は、雨紋の肩をぽんと叩いた。

「お前の優しさはとても貴重なものだ。従ってこの場は、俺に任せろ」

「龍麻サン…!?」

 彼がたった一人で事件を解決すると宣言した時と同じく、訳もなく背筋が震える。殺気も何も感じないが、人間らしい温かみも、ない。まるで、機械と話しているような――

「ケッ、こんな優男が《任せろ》だァ? どこの馬の骨か知らねェが、寝言は寝てから言いやがれ。何が《フランダースの犬》だ。そんな餓鬼向けのアニメなんざ――ッッ!?」

 ズン! と身体に堪える衝撃。音は殆どなく、周囲への影響も小さかった筈だが、本人には重く堪える衝撃であった。――手首が二二口径弾に貫かれ、SIGが地面に落ちたのである。

「ひぎ…ッッッ!!」

 網膜に映った光景を脳が理解し、それが声となって飛び出す前に、龍麻の貫き手が瀬川の喉を一突きしていた。――完全に背を向けた状態からウッズマンを抜き撃ちにして手首を貫通後、喉を突いて悲鳴を封じるまで一秒弱。その場にいた者は誰一人反応できなかった。

「龍麻サ…ッッ!」

 いきなりの蛮行に雨紋がやっと声を上げようとした時には、周囲に群がる若者たちが唸り声を上げて龍麻に突進していた。否、しようとしていた。総勢二十名あまりの人雪崩に対して、龍麻はその時既に手の中にあったスイッチを押すだけで良かった。



 ――バシンッ!!



 龍麻と雨紋を中心に、放射状に広がる爆発! 計算され尽くした爆発は二十人からの少年たちの下半身を直撃して血煙を上げさせ、瞬時に全滅してのけた。

 クレイモア対人地雷――数百個のベアリングを火薬の爆発力で敵に飛ばす指向性対人地雷。――龍麻は瀬川が傭兵を引き連れてくる事を予測し、そんな物まで用意していたのであった。

 だが、いかに予測していたとは言え、ただの少年たちにそんなものを使う神経は――

「火薬は減らしてある。殺しはしないが、見逃すつもりもない」

 身の毛もよだつような苦鳴と泣き声が響く中、龍麻はSIGを拾い上げた。瀬川が血を噴く手首を押さえて睨み付けるが、無論、龍麻はそんな事は意に介さず、SIGのスライドを引いて初弾の装填を確認する。――勘が告げた通り、既に初弾は薬室に納まっていた。

「だが、お前だけは別だ」

 SIGの銃口は、目を零れんばかりに見開いた瀬川の顔面に向けられた。

「お、おい、待てよ。まさかマジで殺るつもりじゃねェよな? なっ?」

 先程までとは打って変わって、卑屈な瀬川の声。だが龍麻の手はSIGの撃鉄を起こした。――SIGはダブルアクションを採用しているので、そのままトリガーを引いても発砲できる。その上で撃鉄を起こしたのは、より精密な射撃――確実なる抹殺――を望んだためだ。

「ま、待てよ。俺は未成年なんだぜ? いつもの事なんだよ。何かの間違いなんだよ。ちょっとヤクをやってて、ラリってんだよ。べ、弁護士呼んでくれよ。なっ? 精神鑑定すれば解るって。お、俺の親父はもともと警察のお偉いさんなんだよ。俺がそんな事する筈ないんだよ」

 利己主義に塗れた、必死の抗弁。当然、龍麻は耳を貸さない。

「…《フランダースの犬》は名作だ。この世の腐り具合を見事に表している。しかし、俺は敗北主義者でもなければ、お人よしでもない。――あの主人公とて、売られた喧嘩を買う気概があれば、違う結末を迎えられただろうに」

 葵がこの場にいれば、それは絶対に違うと断固否定しただろうが、彼のそれはただの単語の羅列に過ぎなかった。言葉の意味は理解しているが、その本質は何も知らないのだ。そしてそれこそが龍麻に――レッドキャップスに求められた事であった。愛も友情も、恐怖も憎悪も感じる事なく、金や権力にも左右されず、時には自分の命さえ顧みず、ただ敵を殲滅するマシンソルジャー。

 それを知っている――徹底的に認識不足でも――雨紋は、それでもなお割って入った。

「た、龍麻サン! まさか本当に殺すつもりじゃ…!」

「――そのつもりだ」

 血相を変える雨紋に対して、龍麻は至極当然と言うように、更に抑揚をなくした声で答える。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! そりゃ、こいつはとんでもねェ事をしたかも知れねェが、ここで殺しちまったら、龍麻サンまでただの人殺しになっちまうじゃねェか!」

「――その通りだ」

「龍麻サン!!」

「――生かしておけば、こいつはまたやる」

 龍麻は冷然と言い切った。

「人が人を殺す――これは本来、あってはならぬ行為だ。この一線を越えるには必ず理由が要る。金の為、思想の為、国の為――だが、どんな理由を付けようとも人殺しは人殺しだ。締め上げた気管の蠕動、ナイフが肉を貫く感触、弾丸が肉体に食い込む手応え――それらは必ず手に、耳に、目に残る。それが人間の精神に与える影響は計り知れない。ベトナムで、湾岸で、アフガンで、中東で、南米で、どれほど多くの兵士が精神を病み、エアマットで覆われた隔離室の中で苦しんでいる事か。しかし――」

 龍麻は銃口で瀬川を示した。

「こいつは、否、こいつらは、自らの愉悦の為だけに人を殺せる。自分より確実に弱い女性や子供ならば、なお喜んで殺す。身を切り刻まれる苦しみに喘ぐ犠牲者を見て笑い、生への執着に泣き噎ぶ者を嘲る。――そんな手合いに出来る事は一つ。次の犠牲者が出る前に、処分する事だけだ」

「ッッ!!」

 その身を常に実戦の場――戦場に置き続けてきた男の言葉。平穏な世界ではあまりにも異質な、しかし究極的な論理であった。

 殺人事件が発生して、多くの場面で問題となる人権問題。他人の人権を無視し、その生命を奪った者は法の加護を受け、殺された者は正しく死人に口なしとばかりにありとあらゆるプライバシーが暴露される。そして被害者の家族が何を言おうと、最終的には第三者である司法の判断で罰が決定される。――遺族が仇を討つ事は、それこそが犯罪なのだ。

 それが法律の限界だ。法は、犯罪発生以前に被害者を護ってはくれない。そもそも犯罪とは法を逸脱した行為であるのに、それを行った者を法が護ると言う事自体、矛盾しているのである。

 そして龍麻は、無法地帯の究極形…戦場に生きた男だ。殺そうが壊そうが奪おうが犯そうが、全てが自由な世界。だがそこには、殺す自由と殺される危険が同レベルで存在している。自分の身を護るものは法ではなく、あくまで自分自身だ。そこで誰かを殺せば誰かに命を狙われ、誰かを救えば誰かに救われる可能性がある世界。戦場とは、アンダーグラウンドとは、暴力と陰謀が渦巻きながら、信用や信頼が真に生きている世界でもあるのだ。そしてそんな世界に生きている龍麻にとって、いざとなれば法と権力が味方に付き、罪をなかった事に出来るなどと言う瀬川は、救いようのない甘ったれだ。

「だけど…だけど龍麻サン…! それだけは…それだけはやっちゃいけねェような気がする…! うまく…言えねェけど…!」

 雨紋の声に力はない。――彼が相手にしていたのは所詮、矮小な暴力でしかなかった。命に関わるような場面など唐栖の一件があるまでは無縁だったし、彼の目には闇の奥に潜む事件など見えなかったのである。

 しかし今、目の前にいるのは、親の権力を嵩に着て殺人を繰り返してきた快楽殺人犯だ。しかも殺人行為をビデオに納めて金を儲けようなどという究極的な外道。――情けをかける事さえ罪に思える。

 しかし、それではいけないのではなかろうかと雨紋は考える。目には目を…という考え方では、人も獣も同じではないのか? 人間には、人間らしい解決策があるのではなかろうか?

「――雨紋、お前は本当に良い男だな」

 不意に、龍麻はそんな事を言った。しかも口元には例の笑み。

「この街に多く住むであろう善良な人々が、お前のような行動力をも備えれば、もっと住み良い街が出来るだろう。ならば俺も、それに期待するとしよう」

「そ、それじゃ龍麻サン…!」

 必殺の銃口は上げられ、撃鉄が戻された。殺さない――龍麻という男を考えるに、これ以上の意思表示はなかった。この殺戮妖精が犯罪者の抹殺を止めたのである。

「ただし、預けるべき機関は警察ではないが、良いな?」

「あ、ああ」

 考えるべき事は無数にあった筈だが、雨紋はとりあえず龍麻が説得に応じてくれた嬉しさで、曖昧に頷いただけであった。そもそも龍麻にどんなバックがいたところで、それが自分の想像の域を越えているであろう事は容易く理解できる。それ以上踏み込む必要はなかった。

 龍麻は携帯電話を取り出し、拳武館に瀬川らの回収を依頼した。ほんの小物には違いないが、瀬川が自衛隊制式のSIGを所持していた事は見逃せない。拳銃の入手ルートや瀬川の父親による証拠隠滅など、調べる事は多かろう。そしてそれは、龍麻の仕事ではない。

「――すぐに迎えが来る。我々はここまでだ。引き揚げるぞ」

「お、OK。龍麻サン」

 雨紋がそれに気付かなかったのは、やはり考えるべき事が多すぎて注意が散漫になっていたからに違いない。

「――舐めんじゃねェェッ! クソヤロォォォッッ!!」

 瀬川が左手で抜いた二丁目の銃――そちらもSIGであった――が、雨紋がはっと振り向くよりも早く二度火を噴き、空薬莢が街灯の明かりにきらめいて飛んだ。

「ひぎぃぃぃゃぁぁぁぁぁっっ!」

 絶叫が闇夜を圧する。しかし、それは雨紋の声ではなかった。

「た、龍麻サンッ!?」

 骨まで砕けた瀬川の両肩と両膝が激しく血を噴く。――九ミリ軍用弾のパワーだ。龍麻は瀬川が銃を抜いた瞬間に、雨紋の手足の隙間から彼を銃撃してのけたのである。

「――向けられた銃口は確実に潰す。それが――《俺達》の礼儀だ」

 今度こそ反撃手段を失った瀬川を冷たく見下ろし、龍麻はもう一丁のSIGを拾い上げた。そちらも自衛隊の制式仕様で、武器流出の深刻さを物語っている。この事件は、まだ終わりではない。

 だが、龍麻は平然と先程の言葉を繰り返した。

「我々はここまでだ。引き揚げるぞ」

「あ、ああ」

 雨紋は額にびっしりと汗を浮かべ、曖昧に肯くだけで精一杯であった。

 やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえ、龍麻は雨紋を伴ってその場を離れた。雨紋は勿論だが、自分もあまり拳武館関係者と顔を会わせるべきではないからである。瀬川以下、二十名の若者は数台の救急車に乗せられ、速やかに運ばれていった。

 それを遠くから見送り、龍麻は肩で風を切った。

 そして、傍らの雨紋に言った。

「雨紋。今の俺に恐怖を感じるか?」

「え…!?」

 いきなりの質問に戸惑う雨紋。実際、雨紋は恐怖を感じていた。一度は助命されながら、なお向かってきて返り討ちに遭ったのは、完全に瀬川の自業自得である。しかしあの瞬間、龍麻は瀬川を射殺する事も、急所を外す事も出来た。それなのに彼は四発も撃ち込み、瀬川の四肢を砕いた。恐らく瀬川は一生、障害を背負って生きる事になる。龍麻は――わざとそうした。殺しはしない――だが、許しもしない。殺された者の苦しみを知れ――と。

 瀬川が奪った《命》の重み。龍麻が奪った《一生》の重み。その量りようもない重さが雨紋を恐怖させた。

 しかし、雨紋の恐怖はそれだけではなかった。大量殺人犯を前に、何も出来なかった自分自身に恐怖した。そして、自分の偽善的態度こそが、龍麻に引き金を引かせてしまった事に。

「――恐怖を感じるならば、お前は正常だ。どんな悪党も殺せば終わり――この極めて簡潔な解答をお前は出さなかった。お前ならば、《死》に見込まれる事はない」

「…俺サマは…そんな上等な人間じゃねェよ…。いや…もっと弱いかも知れねェ」

 龍麻はうな垂れる雨紋に向き直った。

「俺とて同じだ。――俺が今日、初めて恐怖を感じたと言ったら、お前は笑うか?」

「え…?」

 龍麻が恐怖を? そんな事、雨紋には信じられなかった。勿論、今の彼がかつての冷徹な殺戮機械ではないと解っているが、それでもなお、龍麻に恐怖を与える存在があるなど考えられなかったのである。

「戦場では、誰もが生き残る事に必死だ。生死に関する哲学など、考えている余裕はない。そして僅かなインターバルに悩み、苦しみ、ある者は神にすがる。ある者は狂気に身を浸す。それらの根底には、人殺しなどしたくないという意志が横たわっているものと俺は思う。しかし――」

 龍麻の機械的な口調に、人間臭い戸惑いが混じる。

「この街は平和だ。それなのになぜ、人々は死を求めるのか。圧倒的優位な状況で人を殺す事を楽しみ、自らは決して傷付かず、死を振りまく。虚構の世界でも死と暴力は満ち溢れ、人々はそれらを見て楽しみ、鬱積を晴らす。残虐な殺人を犯した者が捕まっても、死刑にしろと喚く者と、死刑はいかんと叫ぶ者が出る。――誰一人として、《死》の意味を知っているとは思えん。俺は、それが恐ろしい」

「……」

 もともと龍麻も、答えなど求めていなかったに違いない。

「この一件でお前に危険が及ぶ事はもはやない。家に帰れ。余り遅くなっては家族に心配をかけるぞ」

「あ、ああ。龍麻サンも…気を付けて…」

 つい、とラフな敬礼を一つ残し、龍麻は夜の闇を圧してなお明るい街の雑踏の中に消えていった。

 その背中が見えなくなっても、雨紋はしばらくその場にただ立ち尽くしていた。









「くそ…! あのヤロウ…!」

 取り付けられた酸素マスクの中で、瀬川竜一は口汚なく呻いた。

 麻酔が効いている為、傷の痛みはあまり感じられない。その代わり、自分の両手両足を奪った龍麻と、一緒にいた雨紋に対する憎悪が際限なく込み上げ、瀬川の顔を醜く歪ませていた。

 助けられたなどとは思わない。あるものは憎悪と屈辱だけだ。この怨み、必ず倍返しにしなければ気が済まない。切り刻み、火で炙り、薬で焼き――今まで大勢の少女や子供にやってきた事を全て叩き込んでやる。――瀬川は己に誓った。

「――おい! 病院はまだかよッ!? 言っておくが、俺の親父は代議士だぞ。モタモタしてやがると、テメエらの首を飛ばすぞ!」

 いつもと同じ、居丈高な口調。あんな目に遭ったばかりで、もうこんな声が出せる自分が誇らしい。しかし、返ってきた返事は――

「――っせェヤロウだな」

 底抜けに明るく、軽い口調で運転席の男が言った。そして――

「当然だ。この男は状況が理解できていない」

 瀬川の傍らにいる救急隊員が応じる。こちらは、酷く機械的な冷めた口調。ヘルメットとマスクの隙間から覗く眼は刃物よりも鋭く、冷え切っていた。しかもその手の中にあるのは、同じ刃物でも医療用のメスではなく、牛でも解体できそうな大型のボウイ・ナイフであった。

 それだけ見れば、いくら鈍い人間でも分かる。この男は救急隊員ではない。

「な、なんだテメエら!? まさか…拳武か!?」

「まっ、車はそうだな。テメエごと、ちょいと無断拝借した」

 拳武館の名を知る者にとっては、恐るべき告白。拳武館の車を無断拝借? ――それは、あの拳武館を敵に廻したという事ではないのか?

「本当はあの場で撃ち殺してやるつもりだったんだが、状況がちょいと変わってなあ。――どこの馬の骨か知らねェが、こんな悪党一匹をわざわざ見逃すとは、アマチュアも良いところだぜ。俺のライフルなら身体ごと消し飛ばしてやるのにな」

 運転手のとんでもない言葉に視線をねじ向けると、ベッド脇のラックに掛けられている、巨大としか表現できないライフルが目に入った。鉄パイプのような銃身に、VHSのビデオテープ並みの弾倉。五〇口径ライフルだ。

 巨大なライフルと、ナイフ。この二つの組み合わせが、瀬川にある記憶を呼び起こさせた。――戦慄と共に。

「ま、まさか…まさかテメエら…あのビデオに関わった連中を殺しまくっているっていう殺し屋…?」

「ビデオは見た」

 ナイフの男の一言が、全てを肯定した。

「選ばれた娘たちをどこに運んだか言え。そうすれば嬲り殺しはやめてやる」

 男の手の中で、手入れの行き届いたナイフがギラリと光った。それは絶対的な死の宣告。

「た、た、助けてくれェェェェッ!」

 高速道路をひた走る救急車の中からそんな悲鳴が聞こえたが、無論、どこの誰も気付く筈はなかった。









 翌日、緋勇龍麻はいつもと寸分違わぬ時間に登校した。

 手にした新聞には、昨日のスナッフ・ムービー事件の記事が躍っている。しかし龍麻にとっては既に過去の出来事であり、巧みに情報操作され、捏造された記事など、始めから興味はなかった。興味があるのは経済の動き、株式欄だけである。

「さて、どう動いたか…」

 昨日の事件の為に、ニューヨークとロンドンの動きは把握していない。今のところ目立つ買い物はないが、一瞬の油断が足元をすくう、ここも《戦場》だ。

 だが、この時間には珍しい陽気な声が、龍麻の顔を上げさせた。

「よおっ、ひーちゃん」

 いつものように木刀を肩に掛け、京一が現れた。その後ろには、やはりこの時間には珍しい醍醐と小蒔がいる。そして龍麻の隣の席に、葵も現れた。

「…お前たち、何を企んでいる?」

 この面子が龍麻の席に集まるのは、もはやこの教室では珍しい光景ではなくなりつつある。だが、龍麻を除く全員が、何か腹に一物ありそうな顔をしていた。

「いや、別に何かを企んでいる訳じゃないぞ、龍麻」

「そうそうっ。変な事じゃないよねー」

「うふふ。でもちょっと企んでいるかも」

 さすがの龍麻が怪訝な表情を浮かべると、彼らは一斉に隠していたものを龍麻の机に並べた。

 京一は、《ドラ○もん》。

 醍醐は、《シートン動物記・灰色熊のワーブ》。

 小蒔は、《小公女セーラ》。

 葵は、《走れメロス》。

 が、約一名の持ってきた作品が他の三人をコケさせた。

「京一ィ、何で《ドラ○もん》なのさっ」

「う、うるせェな! 感動するだろッ!? 夢があって良いじゃねェか!」

「しかし京一、小学生じゃあるまいし…」

 京一、醍醐、小蒔がギャアギャアおっ始めるのを横目に、

「…なんなのだ、一体?」

「ええ。龍麻に読んでもらいたい物語を持ち寄ってみたんだけど…」

 やや笑顔の固い葵。《緋勇龍麻普通の青少年化計画》の第一弾である《フランダースの犬》は見事に玉砕したが、波状攻撃あるのみという京一の意見を取り入れ、龍麻でも感動しそうな物語を用意してみた訳である。

 これから経済の動きを見ようという時に机に広げられた書物を一瞥し、龍麻は珍しく苦笑した。

(平和な街には、平和な者が良く似合う)

 龍麻のそれは確かに苦笑ではあったが、それはそれで、良い笑顔だった。









 第四話外伝 イリーガル・スチューデント 4 完 







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