第零話閑話 来訪者





 
   ――『狼は生きろ。豚は死ね』――

                ――角川映画、《蘇る金狼》CM予告キャッチコピー







 東京上空、高度三千メートル。一九二五時。



『――乗客の皆様。長らくお待たせいたしました。当機は間もなく、東京羽田空港に着陸いたします』

 機内に機長からのアナウンスが入り、ポン、とチャイムが響いてベルト着用サインが点る。日本航空ボーイング七四七・札幌空港発二五七便は定刻通り、羽田空港への最終アプローチに入った。

「――お客様、ベルトをお締め下さい」

 日本航空二五七便客室乗務員、桂木裕美は、腕を組んで眠っていると思しき若者に声をかけた。

 ピク、と肩を震わせ、ベルトを装着する若者。眠ってはいなかったようだ。

「――お加減はよろしいですか?」

「……」

 一言も喋らず、ただ、軽く頷く。たったそれだけの動作なのに、妙にきりっとしているように見えるのは、彼女の錯覚という訳ではなさそうだった。

 着陸に備え、彼女も自分の席に付く。彼女の位置からだと、その若者の顔を見ることができた。とは言っても若者の目元は長い前髪に遮られて見えない。きりっと通った鼻筋に、むっつりとへの字になっているように見えるが、意志の強さを表しているとも取れる、固く引き締められた口元。搭乗時に空調の風に煽られ、一瞬だけ見えた目は切れ長で、それらのパーツが一体化した時、凄い美形というほどではないが、なかなか…いや、かなりのハンサムだと知れた。

「…気になる?」

「え…ッ!?」

 不意に、先輩に当たるチーフ・パーサーの長野香織が話し掛けてくる。

「その顔じゃ図星ね。――でもあの子、あれで高校生よ」

「こ、高校生ッ!?」

 思わず大声を上げそうになるのを必死で堪える。確かに若そうに見えるが、それでもせいぜい大学生くらいだと思っていた。その大人びた雰囲気からは、とても高校生などとは信じられない。

「あたしも気になって名簿を調べたのよ。まだ十七歳。間違いないわ。――少なくともあたしは、守備範囲外ね」

「そう…ですか…」

 彼女は少し考え込む。長野はそんな彼女を見て「おッ!? 春が来たかな?」などとおどけたが、実のところ、桂木は別の事を考えていた。

 少年の放つ雰囲気。彼女は、それに似た雰囲気を持つ者を知っていた。

 彼女には五つ年上の兄がいる。これが陸上自衛隊隊員で、四年前にレンジャー資格も取ったエリートである。彼女自身は「人殺しの訓練なんて」と彼の入隊に反対したのだが、結局本人の希望通りにさせるのが良いという両親の許しがあり、自衛隊員となってしまったのだ。

 その兄と、彼女は半年前、二年ぶりに再会を果たした。休暇ともなればちょくちょく帰省する兄とそれだけ離れていたのは、自衛隊の海外派兵…PKO活動のためにアフリカに飛んでいた為であった。

 しかし、海外派兵から帰ってきた兄は、以前とは別人のようであった。

 多少、気性が激しいところもある兄ではあったが、ぐれていた訳でもないし、適度に親の手を焼かせる事はあっても、基本的には真面目な兄であった。自衛隊に入隊してからもそれは変わらず、真面目な態度と勤勉ぶりが評価され、やがては自衛隊でもエリートしかなれぬレンジャー試験にもパスした。どの程度本当なのかは知らないが、冬の飛騨山中に裸で放り出されたとか、生きた蛇を歯で解体して食べさせられたとか、そんな壮絶な体験談も笑顔交じりで話す兄であった。

 その兄がアフリカでなにを体験してきたものか。

 相手を睨みつけてもどこか迫力不足だった眼は、飢えている肉食獣のようなぎらぎらした目に変わり、何より雰囲気がぴりぴりと張り詰めていた。あの明るかった兄が妙に塞ぎこみ、アフリカでの事は一言も語ろうとせず、いつも何かに怯えているような、獲物を探しているような、複雑な気配を放っていた。ある時、何の気なしに背後から肩を叩いたら、猛然と振り返って巨大なナイフを突きつけられた。その時の眼は、今でも恐怖の記憶となって残っている。兄はこの日本でも、自分の家の中でもナイフを手放せなかったのだ。枕の下にナイフを入れて眠り、風呂の中にも持ち込んだ。さすがに両親も、彼女自身も兄の奇異な行動が恐怖の対象に変わり始めた、一週間の休暇が終わる最後の夜、兄は正装して家族の前に現れ、こう告げたのだ。



 ――自分は、人を殺しました。



 自衛隊は、究極のところ、それが仕事だ。しかし日本国内において、それが行われる事はなかった。これからも、恐らくないであろう。しかし世界情勢は自衛隊を日本の《軍事力》として捉え、国際貢献を求めてきた。



 《金は出すが、血は流さない》



 そう非難されたのは湾岸戦争の時だったか。

 冗談ではない。彼女はそう考える。誰だって本当は戦争などやりたくないと思っている筈だ。あの戦争がどのような経緯で起こったのか、彼女には判らない。戦争の火種は、決して民間人の目に触れる事はないからだ。しかし世界が足並みを揃えたからといって、その資金を出せと言ったのはアメリカではなかったか? 一独立国家として、日本はその要求を突っぱねる事もできた筈だ。もはやかつての軍事国家ではない、平和憲法を掲げる日本ならば。それなのに《アメリカの子分》と言われて恥じない日本の政治家は、わざわざ税金を値上げしてまで、戦争の資金を提供した。国民の大多数が反対しているにも関わらず、それをあっさりと無視して、国民の血税から戦争資金をかき集めて上納した。

 そうまでして資金を出した国に対して、どんな非難があるというのか? 日本があくまで戦争反対を唱え、資金提供に応じなかったら、あの湾岸戦争はもっと長引いていたかもしれない。兵士達の待遇はもっと悪くなっていたかもしれない。提供した資金が正しく運用されたかさえ疑問であるのに、なぜ《金は出すが血は流さない》などと非難できるのか? 金を出さずに血を流せば気が済むのか? ――そんな事は断じてあるまい。自衛隊を派遣すればアジア諸国が日本を非難し、金だけ出せば資金提供を受けた国に非難される。そして、戦争の当事国からは攻撃を仕掛けている国以上に、《金だけ出した》日本は恨まれる。

 文字通りの八方塞だ。そんな中で、世界は日本にどうしろというのだろう? ――その答えも、実は判っている。



 ――《日本はつべこべ言わずに金を出せ》



 その一言に尽きるだろう。

 そんなあさましい声に耐えられなくなった挙句、日本は平和憲法を捻じ曲げてまで、自衛隊の海外派遣――PKOを実行に移したのだ。無意味な議論に議論を重ねた果てに。

 ――《自衛隊は軍隊ではない。警備に必要最低限の武器しか持って行かない》

 こんな論争は、実際に派遣される側にしてみれば笑い話にもならない。どこからともなく現れるゲリラ。そこかしこに敷設されている地雷。劣悪な環境――そんな中で活動せねばならないというのに、《武器は持って行くな》、《戦うな》と言うのだ。現地の武装勢力にしてみれば、それはカモが葱を背負って来るようなものだ。現実にはそんな事はないのに、《日本は裕福な国》というのが世界における日本のイメージである。たとえ自衛隊と言えど、日本人であれば襲われない保証はない。

 そのような条件下、兄は派遣されて行ったのだ。もはや何のための内戦かも忘れ去られていながら、戦いを止められないアフリカに。

 そして兄は、家族にそれを見せた。胸に大きく刻まれた、十字の傷跡を。



 《救援物資を狙う現地ゲリラに襲われ、非武装に等しい我々は成す術もなく殲滅されました。見せしめとして同僚の死体は切り刻まれて路傍に打ち捨てられ、我々の保護下にあった子供達は全員連れ去られました》



 当然のように、家族の者はそんな事があったなどとは露ほどにも知らなかった。ただ、現地で事故が発生し、負傷者が何人か出たと発表されただけである。まして《UN》と《赤十字マーク》を付けた車両が襲われるなどあってはならない事だし、また、起こり得ないとさえ思っていた。



 《自分も殺されるところを、ゲリラの掃討任務にあたっていた某国特殊部隊が救助してくれました。自分も彼らと行動を共にし、現地ゲリラと戦いました。しかし特殊部隊員も、現地ゲリラも、全員が十五歳以下の少年兵ばかりだったのです。その中で唯一の成人男子である自分は、殆ど何もできませんでした。ですがその戦いの中で、自分は十人に及ぶゲリラの少年兵を殺害。その報酬として釈放され、原隊に復帰いたしました》



 そして、帰ってきたのだ。地獄の戦場から、平和な日本へ。だがそこに横たわっていたのは、不正と不実、欺瞞に塗れた国家があるだけであった。ゲリラの影に怯えながらジャングルをさ迷う中、帰ることを熱望した故郷の哀しい現実。《戦友》たちの死は闇に隠され、《訓練中の事故》というそっけない通知と共に、遺体さえ遺族に届けられる事はなかった。彼自身も他言無用と念を押され、レンジャー部隊の班長としての身分を保証される代わりに、国家に飼い殺しされる事を約束させられた。無論、《他言無用》の中には家族も含まれていたのだが、何か特殊な事情があったらしく、兄は自分を変えた《事件》の一端を家族に伝える事ができたのである。



 《自分はもはやこの家の一員ではいられません。――勝手な言い草でありますが、自分は死んだものとして、お忘れ下さい。――ご迷惑をおかけしました》



 そう言い残し、兄は去っていった。平和な日常から、血と硝煙の世界に。自分を裏切った国家のもとに。

 ――その兄と、その少年は雰囲気が似ているのだと、彼女は思い当たった。

 訓練を受けた者のみが持つ、独特の威圧感のようなもの。少年のそれは兄のものよりはるかに弱いが、それは《そう》なるように少年が気配を押さえているからではないか? これも彼女の勘だが、兄と似ているのは、信じていたものに裏切られた者が持つ雰囲気ではないだろうか?

 答えのない疑問、取り留めのない物思いにかられていた桂木は、タッチダウンの振動に、はっとして自分の仕事を思い出した。

 ボーイング七四七はそのまま羽田空港ターミナルビルへと走る。一時間三十分のフライトに疲れた乗客たちは伸びを打ち、または首をコキコキと鳴らす。まだターミナルビルとの接続作業中にも関わらず、手荷物を取り出して席を立ち出す始末だ。日本人の短気さと規律のなさはこういうところに実によく表れている。

 そして、あの少年は最後まで動かなかった。接続作業が終わり、全ての乗客が機を降りていってからおもむろに立ち上がり、きびきびとした動作で歩き出す。背筋をピンと伸ばし、堂々と胸を張って歩く様は、かつて自衛隊の観閲式で得意げに行進していた兄の姿を髣髴とさせ、桂木はふと笑みを洩らすと同時に目頭が熱くなった。

「――またのお越しをお待ちしています」

 ビジネススマイルを浮かべてそう告げるのにも、かなりの努力が必要だった。その少年が、彼女にある挨拶を残していったからだ。――付け焼き刃ではない、敬礼を。







 込み合っている手荷物受取所で、一つしかない荷物を受け取った緋勇龍麻は、その足で空港内のトイレに入った。

 個室に入り込み、ビジネスバッグを開ける。中に入っているのは教科書が何冊かとペンケース。文房具類である。だがその中から龍麻が取り出したのは、徹底的に分解し、あらゆる偽装を施されたコルト・ウッズマンのパーツ類であった。

 偽装を取り払い、ウッズマンを組み上げるまで三分弱。万年筆型のケースから22LRを取り出し、弾倉に詰める。スペアマガジン二本に22LRを詰めるまで二分である。

 一時的な事にせよ、武装解除は彼にとって苦痛の時間だ。徒手格闘においても優れたものを発揮できる彼だが、それだけで倒せる敵が出てくる事など希だ。逆に言えば、相手の戦闘能力や装備を考慮した上で、常に相手を上回る武装で戦闘に臨む事こそ理想なのだ。待機時でも、護身の備えは可能な限りやっておくべきである。

 しかし武装を整えるまでの五分が、彼には命取りであったらしい。



 ブブブブッ! ブブブブブブブブブッ!!



 押し殺した唸り声のような音が立て続けに響くや、ドアを貫いて380ACP(九ミリ・ショート)がトイレの個室内に叩き込まれた。

『殺ったか?』

『確認する』

 油断なくサイレンサー装備のイングラム・MAC11を構え、中東系の顔立ちをした男たちは小声で話す。

 男の一人がドアを蹴り破ろうと足を上げた瞬間、ドアが内側から開いた。

『――ッッ!!』

 先程よりも更に小さな、ため息のような音と共に男の一人が眉間から小さく血を噴いた。

 ありえない反撃に動揺する一瞬を付き、龍麻は個室の壁から飛び降り――両足を壁に突っ張って宙に逃れていたのだ――ざま、もう一人の銃を持つ手を捻り上げ、本人に向かって発砲させた。肩を撃ち抜かれた男は悲鳴を上げようとしたが、それより先に龍麻の手が男の顎を捉える。

『…どこの手の者だ?』

『……』

 男たちの使用していた言語…アラビア語で聞く龍麻。男は答えない。――当然だ。

『…狙いは俺ではあるまい。黙って行かせるなら、止血してやる』

『クク…ク…。誰のイヌか知らんが…甘いな…!』

 ダークスーツの内側では、白のワイシャツが真っ赤に染まっていく。二二口径…直径五・五六ミリの弾丸とは言え、この至近距離ではかなりの威力がある。傷口はかなり大きく、男の浅黒い顔もみるみる血の気を失って行った。

『我々は神に選ばれた戦士だ…。死など…恐れぬ…! お前も逃げられんぞ…まだここには…我々の仲間が…!』

「……」

 ゴボリ、と黒い血の塊を吐き出し、男はがくりと前にのめった。――肩の傷だけでこうはならない。奥歯にでも仕込んであった毒を飲んだのだろう。

 龍麻は少し考え、男たちの死体を個室に放り込み、床に落ちた血痕を洗い流した。

 この数日、身辺に殺し屋の影が迫っていたが、どうやらこの連中は龍麻とは無関係であったらしい。――そもそも和歌山から上京するのにわざわざ航空機を使用したのは、龍麻が拳武館と接触した事でその存在を知った殺し屋の追撃をかわすためだった。オトリ役の拳武館の生徒は新幹線で真っ直ぐに東京に向かったが、龍麻は一旦大阪に出て、一気に北海道の千歳空港まで飛び、そこからトンボ帰りで羽田空港に戻るという強行軍を行ったのである。

 そこまで用心し、完全に尾行をまいた龍麻だが、その先で別の連中と鉢合わせてしまうとは、運が悪いとしか言いようがない。男たちの身元は不明だが、いずれどこかの諜報組織…モサド辺りか。恐らく彼らに敵対する勢力か、日本企業の重役を狙った誘拐か暗殺。そこにたまたま火薬の匂いを僅かながら発散させた龍麻が現れたので、この二人が龍麻を敵と判断、排除に動いたものと思われる。

 巻き込まれると面倒だ。龍麻は《清掃中》の札を出しっぱなしにして素早くトイレを立ち去った。

 しかし、今まさにテロ行為(?)が行われようとしているのを知ったせいか、龍麻の眼には嫌でも《それ》らしい人物が目に付いてしまう。そして彼は、自分の見込み違いを知った。

(これは、VIPの護衛部隊だな。二十二、三人といったところか。外の護衛も含めるとまず五十人以上。関わり合う訳にはいかんな)

 そう思い、龍麻はゆっくりと土産物屋を見ながら出口に近付いていった。なまじ足早に出て行こうとすると、思わぬところでボロが出るからだ。相手もプロだ。周囲の状況は常にチェックしている。徹底的に身体を洗浄、火薬を遠ざけて生活し、ウッズマンにも防臭処置を施したにも関わらず、既に龍麻の雰囲気の一部と化している硝煙を嗅ぎ分ける事ができるほどに。まして今の龍麻は、二人の人間を射殺したばかりだ。プロの鼻には虫の声一つない夜の砂漠でロックコンサートを開いているような有様だろう。

 ところが、プロの目は誤魔化せても、時として意外な人物から声をかけられることもあるのだった。

「あら、先ほどお会いしましたね?」

 それが自分にかけられた声だと知った龍麻はまず驚いた。こんな所で自分を知る人間が他にもいるとは――と考えたところで、声の主が先ほどまで乗っていた飛行機の客席乗務員だと気付く。

「これは、どうも」

 もっとも当り障りのない返事。口調こそやや固かったが、それでも二人のフライト・アテンダントはにっこりと笑って見せた。

「毎度ご利用いただき、ありがとうございます。――どなたかと待ち合わせでいらっしゃいますか?」

「は?」

 《なぜでありますか?》という言葉を飲み込む龍麻。彼には、なぜフライト・アテンダントがこのような質問をしてくるのか全く判らなかった。

(まさか、俺の正体に気付いたのか? それとも最初からか?)

 ならばなぜ、機内で仕留めにかからなかったのか、と、普通ではありえない誤解をする龍麻。表面上は平静を装っていながら、心中ではこの事態を打開するべく数十通りの戦術が組み上げられていく。名札を確認――長野香織、桂木裕美。予想される戦闘能力は――

「――失礼しました。この先のロビーでもどなたかを待っていらっしゃる方がたくさんいらっしゃったので、もしかしたら、と思いまして」

 空港なのだから、出迎えの客が多くてもなんら不思議はない。だが今日の客の殆どは、これから来るであろうVIPの護衛だろう。それも、全員が銃を携帯していると来た。

「――いえ、東京は初めてなもので、何か珍しいものがあればと思いまして」

「まあ、そうでしたか」

 長野はビジネススマイルではなく、破顔一笑する。

「なんとなく雰囲気が似ていたものですから…と、失礼しました。――東京に初めていらっしゃる方には、人形焼がご好評頂いています」

「人形焼…?」

 人形焼…人形…なんとなく不穏な記憶が甦る。



 ――お前らは俺の操り人形に過ぎないんだよ



 その言葉が龍麻に、この東京に来た目的を思い出させる。――自分は観光に来たのではない。戦いに来たのだ。

「あ、これは失礼を。甘いものはお嫌いでいらっしゃいますか?」

 少し、兵士としての威圧感が滲み出たのだろう。長野が慌てて付け加える。

「――いいえ。糖分の摂り過ぎには注意しておりますが、嫌いではありません」

 とっさに話を合わせる龍麻だが、その口調には既に不自然さはない。

 自分はこの東京に闘いに来た。しかしこれから起こるであろう戦いと、自分の闘いは別――そう考えていたからこその油断だ。今までの生活も、見えぬ敵との戦いであった筈だ。これからもそれは変わらない。――それを再認識した時、彼は冷徹な特殊部隊員、レッドキャップス・ナンバー9として培われた自分を甦らせた。そしてその能力の一端、敵地潜入時のノウハウを駆使したのである。

 ここに留まる事は本位ではない。しかし不用意な動きは死を招く。

「――何か推薦できる品があれば教えていただけますか? 挨拶回りもせねばなりませんので」

「――それでしたら、これなんかどうでしょう?」

 桂木裕美は売店の店員から試食用の鳩サブレをもらって龍麻に差し出した。

「これは?」

「鳩サブレです。おいしいですよ」

 サブレというものは知らないが、クッキーなら食べた事がある。皿のサブレをつまみ、口に放り込む龍麻。向かいでは長野が「失礼でしょ!」と桂木を叱っているが、龍麻は気にしない。――口の中に広がった甘味に少し感動していたのだ。

「…うまい」

 呟くと、もう一欠けらを口に運ぶ。口から食物を摂るようになって約一年ほどだが、栄養分のみを重視し、《食事を楽しむ》という行為とは無縁だった彼だ。なんという事のないクッキーが、彼にとっては極上の料理に感じた。

(甘いクッキーというものも美味だな)

 一般常識から照らし合わせれば、少々ずれた感想を持つ龍麻。――先日、さとみが焼いたクッキーを貰ったのだ。そちらも美味だったのだが、なぜか焚美は血相変えて吐き出してしまった。さとみは「失礼ね!」と大層怒って自分もクッキーを口に運び、同じく吹き出してしまったのだ。――そのクッキーはしょっぱかったのである。

 なんという事はない。龍麻の食生活の味気無さを知ったさとみが奮起したのはいいのだが、勢い余って極めてベタ初歩的なミス――砂糖と塩を間違えたのであった。しかし龍麻はそれを《うまい》と感じたので、クッキーはしょっぱいものだと思っていたのだ。

「――これを頂こう。この箱を三個。――実に美味なものを紹介いただき、感謝する」

「やだ…。そんなに改まらないで下さいよォ」

 つい、友達口調になってしまう桂木。隣では長野が額に手を当てている。

 が、その時、そんなほのぼのとした空気を打ち破る凄まじい轟音が沸き起こった。



 ――ドバ! ドバ! ドバ! ドバァンッッ!!



 韻に篭ったような轟音! 拳銃弾とは明らかに異なる銃声がした瞬間、龍麻は二人の腰をひっさらうようにして売店のカウンターに飛び込んだ。

「――な、何ッ!?」

 何事が起こっているのか解らぬ売店の店員を強引に伏せさせた時、龍麻はこの護衛の群れに乗り込んできた襲撃者の姿を捉えた。

「死ねやコラァッ!!」

「Kill! shoot! shoot! shoot!!」

 襲撃者は日本のヤクザ。狙われていたVIPは、中東系の富豪のようであった。間違えようのないイスラム圏の服装に、金銀で飾り立てたベルトや腕輪をごてごてと付けているところから知れる。しかし――地獄まで金を持って行くことはできない。

 初手の一撃でボディーガード四人が頭や腹を撃ち抜かれて射殺されたものの、反撃を開始するボディーガードたち。肩に銃撃を受けた富豪は、一人だけベージュのコートを着ている男に抱えられるようにして必死に走った。

「おンどれ! 逃がすかいッ!!」

 職員専用のドアから飛び出してくる、銃を構えた男たち。揃いの作業着なのは、空港に出入りする運送屋に化けて潜り込んで来た為だ。――普通ならばプロの勘が危険を知らせるところだが、なまじプロの匂いが濃い連中がいたせいで、そいつらの匂いはかき消されてしまっていたのだ。一瞬の対応の遅れがボディーガードたちの運命を決め、ヤクザの鉄砲玉たちはさながら川に落ちた牛を襲うピラニアのごとく、四方八方から富豪に襲い掛かった。

「キャアァァァァァッッ!!」

 流れ弾がショーウインドーを破壊し、長野が、桂木が悲鳴を上げる。龍麻が鳩サブレを買い求めた売店にさえ、運送屋に化けた鉄砲玉が潜り込んでいたのだ。

「じゃかましゃやァッッ! 静かにせんかい!!」

 カウンター越しにボディーガードと撃ち合っていたヤクザが叫び、長野を突き飛ばす。彼女がカウンターにぶつかって気絶するのを尻目に、ヤクザは桂木の胸倉を掴んで引きずり起こした。――盾にするつもりだ!

 その瞬間、龍麻が矢のように動いた。

「うおッッ!?」

 カウンターに片手を付いて飛び越す態勢から、ヤクザの手から粗悪なコルトのコピー銃を蹴り飛ばし、二の蹴りで顎を蹴り抜く。不安定な姿勢からの一撃だが、絶妙な角度で叩き込まれた蹴りはヤクザを昏倒させる。

 しかし、それが悪かった。

「なんじゃァ! ワレェッ!!」

 たった今、仲間を倒されたのを目撃したヤクザが龍麻にも銃撃してきたのである。フィリピンかマニラ辺りで造られたと思しいサブマシンガンが火を噴き、龍麻をカウンターの陰に釘付けにした。ストック肩当てを使用していないのでろくすっぽ狙いも付けられないが、カウンターのベニヤ板を抜いてきた弾丸が更に跳弾して跳ね回る。――富豪のボディーガードは…コートの一人を除いて全員倒されてしまったようだ。その男だけはプロ中のプロらしく、防御を前面のみに集中できる旅行会社のカウンター内に富豪を押し込み、ヤクザの動きを見つつ応戦している。だが、警察が来るまで持ちこたえられるかどうか微妙なところだ。

 何かないものかと周囲を見回す。ここで他人の騒動に巻き込まれて死ぬのは御免蒙るが、目撃者が山ほどいる状況下では銃を使うのは望ましくない。監視カメラもそこら中にある筈なのだ。

 龍麻の目は棚の一点に吸い付いた。

 それを手にした時、ヤクザはサブマシンガンのコッキング・ボルトを引こうと焦っていた。粗悪な銃に粗悪な弾丸を使用した当然の結果――装弾不良ジャムを起こしたのである。手順としてはまず弾倉を抜き、ボルトを引いて薬室内に引っ掛かった弾丸を取り除き、改めて弾倉を装着し、初弾を装填後、発砲する。――それら一連の動作を条件反射で出来るようになるほど、ヤクザには実戦経験がなかった。

「こんガキャァァァッッ!!」

 ただでさえいかつい顔を更に凶悪にひん曲げ、ヤクザが向かって来る。サブマシンガンを捨てた手には、安っぽく銀色に光るトカレフT−33。

ブン! と空気が唸った。

「ブギャッッ!!」

 ひん曲がった顔が更に内側にめり込み、ヤクザが仰け反った。龍麻が投げたのは破壊されずに残っていた山梨のワインであった。酒飲みには申し訳ないが、一キロに届く重量は手首のスナップを利かせた投法も加わり、充分な凶器となり得た。

 もう一本――龍麻は富豪のボディーガードと撃ち合っているヤクザに向けて瓶を投げた。

「グギャッッ!!」

 思いがけない方向からの攻撃に、ヤクザたちの注意が一斉にこちらに向く。その瞬間が彼らにとっての命取りであった。



 ――ガァン! ガァン! ガァン! ガァン!



 ボディーガードのオートが火を噴き、ヤクザが仰け反り吹っ飛ぶ。トリガーガードの前部に弾倉を設けた独特のフォルム――モーゼルM712。ライフル弾と同じ先端がくびれた薬莢ボトルネック・カートリッジを採用した七・六二ミリモーゼル弾を使用する大型拳銃だ。しかし――妙だ。吹っ飛んだ先で、ヤクザが傷口を押さえてのた打ち回ったのである。

 その時、攻撃が止んだ事を確認していたボディーガードがひょいとこちらを向いた。

「……!」

 突き刺さるような視線と、凍り付くような殺気。――自分と同等クラスか、それ以上のプロだ。無造作に…と言うより、伸び放題の髪を形ばかり後ろで結んでいる。顔立ちは十人並みだが、目つきの鋭さは野獣のそれだ。

 モーゼルの銃口がつい、と上がる。龍麻の手も上着の内側に飛び込んだ。しかし――

「――死にくされッ!!」

 せっかく隠れていたというのに、銃撃前に怒鳴るヤクザに向けて発砲するボディーガード。狙いは始めからそちらだったのだ。その時、龍麻ははっきりとボディーガードの手元を見た。

 防弾チョッキを撃ち抜ける銃で、わざと急所を外した!? ――なぜ!?

「――逃げるぞ」

 勘だが、ここに留まってもろくな事にならない。行きがかり上、龍麻は二人のフライト・アテンダントに声を掛けた。

「エッ!? あのッ! キャッ!」

 抗議の声を上げる間もあらばこそ、桂木は龍麻の小脇に抱えられ、長野は気絶した身を肩に担がれ、風のように空港ロビーを運ばれて行った。ようやく警察の応援が辿り着いたか、銃声と、拡声器でがなり立てる声も聞こえる。しかしそれは、既に遠い場所での出来事であった。

 長いエスカレータを駆け下り、モノレール乗り場まで辿り着いた龍麻は、桂木は床に落とし、気絶している長野はベンチに横たえた。

「もう! 酷いですぅ!」

「――失敬」

 自分より年上の、しかし若い女性を相手にかわいげのない挨拶を送り、龍麻は長野の容体を見る。ぶつけた所に瘤が出来ているが、幸い骨にも脳内にもダメージはないようだ。龍麻は給水器の冷水でハンカチを濡らし、長野の頭に当てた。

「…間もなく救援も来るだろう。それまでこの人は任せる」

「…あなたはどこへ?」

「――勝手な言い草だが、この件とは関わりたくない」

「――そうですね。その方が良いでしょう」

 あっさりとした桂木の言葉に「!?」となる龍麻。普通ならば警察はどうするのか、証言しなくて良いのか、と来る場面なのだ。

「――心配しないで下さい。私、兄が自衛隊員なんです。だから雰囲気が似てるって思いましたけど…何も聞きませんし、あなたの事も誰にも喋りません。それで、良いですか?」

 フライト・アテンダントは毎日のように多くの人間と接触する。それこそ、人間社会に現存する全ての職種と巡り会うだろう。そのような環境で養われた勘は滅多に外れるものではない。――彼女は龍麻に、ある職業の者特有の《危険な匂い》を感じ取ったのだ。

「…俺はそれほど大物ではない。だが、感謝する」

 そう言って龍麻は、あの状況下でもしっかり持ち出してきた鳩サブレの包みを一つ、桂木に差し出した。

「エッ…? 私に?」

「もともとそのつもりだった。――では、失礼する」

 龍麻は敬礼し、足早にその場を立ち去って行った。

桂木も敬礼を返したままその背を見送っていたが、ふと、一人呟いた。

「…名前くらい聞いても良かったかな? ――ううん、やっぱり駄目よね」

特に理由はないが、乗客名簿に記された名前も偽名だろうと、桂木は思った。しかしそれを問い質す気も、彼の事を警察に話す気も起こらなかった。命の恩人…というだけではない。――去って行く背が、あまりにも兄に似ていたからだった。







「…それは、散々な目に遭ったね」

黒塗りのセダンのハンドルを握りつつ、鳴滝は無表情を貫いたまま後部座席に座る龍麻に苦笑してみせた。

「トラブルは覚悟の上でした。しかし、さすがは首都圏。空港内で銃撃戦とは」

「いくらなんでも、そんな事は滅多に起こらんよ。確かに今日のは派手過ぎだが」

 一九八〇年代に激化していた暴力団の抗争が沈静化して以来、散発的な発砲事件は起こっても、銃撃戦など過去のものとなっている現在である。しかし一九九五年に宗教の名を借りた某カルト的団体が地下鉄に毒ガスを撒くという、人類の歴史としても未曾有の大事件を起こしてから、日本の安全神話は坂道を転げ落ちるように崩壊して行った。政治家と役人のモラルは落ちる所まで落ち、事なかれ主義が社会に蔓延する中、政治も、経済も、教育も、全てが腐敗臭を放つようになりつつある。もはや自浄作用に期待する段階はとうに失われているだろうに、誰も立ち上がろうとしない。――消費税の据え置きを公約に再当選を果たした与党が、当選と同時にあっさりと公約を翻した時、民衆は政治に期待するのを止めてしまったのである。いい加減で自堕落な政治の下では、民衆もまた怠惰になっていく。相次ぐ増税や福祉改悪、子供の口喧嘩にも劣る国会――それらは未来への希望を奪い、夢を破壊し、人々を目先の快楽追求のみに走らせる。おかげで街には人殺しをゲーム感覚で楽しむ若者が徘徊し、目の前で殺人が行われても無関心な人々が闊歩している。

 ――と、これが龍麻の現状認識である。

 世界中を見回しても、政治の有り様はどこの国もさほど変わらない。その場その時、その国の現状に対して政治が適しているか否か。ただ、それだけである。「独裁政治は絶対にいかん!」と拳を振り上げて力説する者もいるが、いい加減で自堕落な民主主義も大差ないのである。「俺は自由だ。だから人を殺しても良いんだ」とか、「政治家が賄賂を取って何が悪い」と言い出す者が出るのは、民主主義を謳っている国にしか有り得ない。真の民主主義とは各自が自分と相手の権利を尊重し、自らの責任において自由な意見を交す事であって、特定の誰かが我が侭を押し通す時に《自由》とか《民主主義》を持ち出すべきではない。逆に、民衆の言葉にきちんと耳を傾ける独裁者がいれば、それは中々愉快な治世状態になるだろう。――徳川八代将軍、徳川吉宗が好例だ。

 龍麻は対テロ組織の一員として、テロの起きる要因と人類の歴史に付いて本格的なレクチャーを受けている。無論、それはただの知識の蓄積であり、戦闘員としての完成度を高める為の要素でしかなかった。だが、その知識と照らし合わせると、この日本はテロの温床になりそうな要素がいくつも存在すると同時に、テロなど絶対に起きないような気もしてくる。――地下鉄で毒ガスを撒くという大規模なテロが発生しても、国としての危機管理意識は殆ど高まらず、毒ガスを撒いた犯人に対しても人権がどうの裁判権がどうのと、無意味な論議に花を咲かせる社会に対しては、テロを仕掛ける事こそ無意味だ。と、言うより、テロを仕掛ける事さえ馬鹿馬鹿しい。

 だが龍麻の耳は、ラジオから流れた名前に反応した。





『本日未明、羽田空港ターミナルビルで発砲事件が発生いたしました。死亡者はアラブ首長国連邦共和国のオイルダラー、アブドゥラ・ハッシームさん五六歳。アブドゥラ氏は企業提携で日本を訪れており、残りの日程を北海道で過ごす予定でいました。襲撃はXX会系広域指定暴力団XXXX会の構成員で、十数人がアブドゥラ氏のボディーガードとの銃撃戦で死傷した他、五名ほどが現在も逃走中であります。――政府筋によりますと、早くもアラブ首長国連邦共和国より日本の安全管理に付いて抗議が寄せられていますが、アブドゥラ氏のボディーガードが銃を携帯していた事などを踏まえ、問題は深刻化しそうな気配です。なお、アブドゥラ氏は空港を脱出する際、SPに偽装した車によって連れ去られており、その後に頸部を切断され、心臓をえぐりされるという残虐な手口から、警察ではアブドゥラ氏に恨みを持つ、軍隊経験者か何らかの特殊技能を持つ者の犯行と見て…』





 あれほどの腕の者が付いていてみすみす…と思いかけ、龍麻は口の端を歪めた。

 日本のボディーガードは拳銃の携帯を認められていない。恐らく警察と一悶着あったのだろう。その隙に本物の暗殺者が《仕事》を遂行したという訳だ。

「アブドゥラ・ハッシーム。聞いた名かね?」

「…中近東を縄張りにしている武器商人が彼の裏の顔。主義主張に囚われず、値段の折り合いさえ付けばどの陣営にも武器を売る事から《地獄の商売人ヘルズ・マーチャント》と呼称される。未確認情報ではゲリラやテロ組織の仲介役も務め、兵器の海上輸送も手がけている。しかし…」

「うむ。――日本のヤクザが関わる要素はない。少なくとも今まではね」

 今まではなかった。今なら――あるという事だ。少し、龍麻の眉が寄る。だが鳴滝からは判らない。

「二年ほど前、各国の軍隊が大幅な組織改変を行って以来、日本に入国する武器商人の数が急速に増えている。勿論、表向きは企業提携や会合などの目的でね。しかし、数が尋常ではない。内閣調査室や陸幕も背後関係の洗い出しを行っているが、今のところ手応えなしだ。何やら陰謀が巡らされている感触はあるのだが、全体像が見えてこない」

「…自分にも何か関わりが?」

「それは…何とも言えんな。君の付添人アテンダントの任をあっさり委譲したところを見ると、あの組織も一連の事件に関連性を見出せていないようだ」

 あの組織、というところで龍麻の、今度は口元が引き攣るように動く。これは鳴滝にも見えた。

「やはり…不満かね? 軍役には付かせぬという約束を違えられたのは」

「これは軍役ではありません」

 やや固い口調で言う龍麻。

「しかし、自分の力が求められ、要請に応じたのは自分の意志であります。お気遣いなさらぬよう願います」

「うむ…」

 一応肯いてはみるものの、胸中では慙愧の念に耐えない鳴滝。

 確かに今、龍麻の持つ《力》が求められている。悪戯に犠牲を増やす訳には行かず、情報収集に汲々としていた拳武館を差し置き、《魔人》を殲滅してしまった龍麻の《力》が。しかし彼を保護していた盟友は、若き日の鳴滝とその仲間たち全てが考えたように、龍麻に《普通》の生活をさせる事に身を砕いていた。誰よりも龍麻の《力》を必要としていた男が、遂に戦いを強要する事はなかったのである。そして彼は、逝った。《人類を守る》という闘いに赴き、帰らぬ人となったのだ。

 だが、鳴滝は龍麻の前に姿を現わし、《この世ならぬもの》の存在を伝えてしまった。対テロリスト部隊として活動していた龍麻が、《敵》の存在を感知したら闘わずにいられぬ殺戮妖精がそれを無視できる筈もないのに。龍麻は「要請に応じた」と言っているが、実際には戦いを強要したに等しい。

(俺を恨んでいるだろうな…。弦麻も…マックスも…)

 これから東京を襲うであろう異変は、常人には解決しがたい。政治力も警察権力も無意味だ。龍麻のような、そしてこれから《覚醒》を迎えるであろう《魔人》たちの《力》が必要なのだ。――納得できない。できないが、するしかないのだ。たとえ、先に逝ってしまった盟友たちの願いを裏切っても。

 鳴滝はバックミラー越しに龍麻の様子を窺う。

 相変わらず、長い前髪が邪魔をして表情を窺う事は出来ない。視力のない左眼の刀傷を隠すという理由もあるが、鳴滝にはそれが、他者との関わりを断つ為のブラインドにも見えた。

(…らしくないな)

 なまじ龍麻の雰囲気が弦麻に似ているので、感傷的になっているのだろうと鳴滝は胸中で苦笑した。――こんな事ではいかん。この緋勇龍麻はこの東京に戦いに来たのだ。それを陰から支える自分が弱気になっていては、彼には迷惑だろう。

 そんな鳴滝の胸中を知ってか知らずか、龍麻はシートに身を沈め、眠っているかのようであった。

 だが、眠りというイメージから呼び起こされる平穏と、彼は無縁であった。どう見ても今の彼は、凶暴な肉食獣が体を休めているようにしか見えないのだから。







 東京、新宿区西新宿某所のマンション。二二〇〇時。



「…そのまま通り過ぎて――そこで停めて下さい」

 渋滞に引っ掛かって遅れたものの、間もなく龍麻の新居に辿り着くというところで、龍麻が唐突に口を開いた。――彼が眠っているものと思った鳴滝は少し慌てつつ、しかし指示通りに新居の前を素通りし、角を曲がったところで車を道路の脇に寄せて停車させる。

「…どうかしたのかね?」

 そこはこれから龍麻が住むというマンションを臨める空き地であった。鳴滝が用意したマンションはバブル時代に高級マンションとして建設され、長らく買い手が付かなかったものを拳武館が丸ごと買い上げて改装したもので、平凡な外見ではあるが、セキュリティに付いては折り紙付きだ。周囲にも高い建物はなく、新宿のビル群からは死角になっているので狙撃の心配はない。

「…あの角の部屋が自分の部屋になるところですね」

 最上階…八階には他の住人が入っておらず、どの部屋も真っ暗だ。しかしその内の一つには住人がいる事を示す、洗濯物や生活雑貨が見える。

「そうだ。何か気になる事でも?」

「自分の指示通りにしたのですね?」

「ああ。君の住んでいた部屋を完全に再現した」

 そこで龍麻は、奇妙なことを言い出した。

「では、自分は窓から入ります」

「なに?」

「自分に破れる様なセキュリティならば、最初から必要ありません。チェックさせていただきます」

「一応、最高レベルのセキュリティを整えたつもりだが…いや、自分の目で確かめるのが君の流儀だったな。では、私は玄関から入らせていただこう」

「了解です」

 龍麻は車外に出て、セダンがマンションの地下駐車場に滑り込むのを確認してから行動を開始した。

 マンションを囲んでいる塀は約二メートル二〇センチ。余り威圧的にならぬよう、監視カメラは見事に偽装されている。他に赤外線センサーと感圧センサーが設置されているのを龍麻は確認した。

 直接忍び込むのは愚の骨頂。龍麻は隣のマンションに侵入した。そちらには拳武館のマンションほどのセキュリティは備わっていない。外壁に配されたタイルに指を掛け、クモかヤモリのように垂直の壁をするすると這い登り、あっさりと屋上に達する。この手のタイルや彫刻は外観を良くするデザインのつもりだろうが、フリークライミングの経験がある空き巣にとっては階段が用意されているにも等しい。

 素早く屋上を走査し、猫のように音を立てず移動する龍麻。給水塔に影のように忍び寄り、そして――

「――ッッ!?」

 そこに立っていた男は、自分の身に何が起こったのか理解する暇もなかった。

 地味なグレーの背広を着た男の背後を取った龍麻は、その口を押さえざま、一瞬にして男の首を捻り折った。声も立てず、男は即死する。龍麻は男を給水塔の陰に引っ張り込み、背広の内側を探って、そこに隠されていた銃と予備弾倉を奪い取った。

 龍麻の目がやや細まる。無論、他人からは判らない。

 銃はサイレンサー付きのアメリカン・ルガーMk1。弾丸は二二口径だが、更に火薬量を控えた弱装弾らしい。サイレンサーによる消音効果を高めつつ、弾丸の威力をぎりぎり損なわないレベルに火薬量を調節する――暗殺のプロの手口だ。

 結局、大阪と札幌を経由した陽動も無駄に終ったという訳だ。尾行を途中でまいても、最終的な目的地が知られていては何の意味もない。

 ルガーポケットに突っ込み、龍麻は屋上の縁に立った。その足元には、電線に紛れて渡された黒い一本のロープ。――龍麻が侵入者の存在を感知したのは、自ら指示した部屋の内装もさることながら、これまで二本で繋がっていた電線がここだけ三本に増えた事に気付いたからである。あとは――勘だ。

 隣のマンションまでは一〇メートル前後。二点間を繋ぐロープを渡るのは軍隊では基礎技術でしかないが、この距離ならばただの綱渡りで事足りる。一〇メートルのロープを渡るのに、龍麻は二秒と必要としなかった。その後は隣のマンションの時と同様、タイルに指を掛けて登る。――龍麻にはたやすい作業だ。殺し屋にとっても。

 侵入者がいる事を証明するように、屋上のセキュリティは全て沈黙させられていた。いや、正常に動いているのだが、欺瞞信号を出されて、警報を発する事ができないようになっているのだ。

 屋上の縁から顔だけ出し、これから住む事になる部屋のベランダを見る。さすがにそちらのセキュリティは密度が濃い。侵入するとなれば、バスルームの窓だ。そちらにも赤外線警報装置が装備されているが、沈黙していた。――ある一点を除いては。

 龍麻はウッズマンを抜き、サイレンサーのセット状態を再確認した。安全装置は既に外してある。あとは、タイミングだ。

 ふと、部屋の中にいる人間達が一斉にドアの方を向いた。鳴滝がやって来たのである。その瞬間――



 ――シュンッ!



 窓の僅かな隙間から、押し殺したような音を立ててウッズマンが22LRを吐き出す。ドアに先詰めライフルを向けた、ダークグレーのコートを着た男の首筋に吸い込まれた弾丸は頚椎を破損した所で運動エネルギーを殺されて停止、男を即死させる。



 ――シュシュンッ! ――シュシュンッ!



 侵入者達の銃口が旋回するよりも早く、残る二つの人影に向けて龍麻のウッズマンが二度づつため息を洩らす。対テロリスト戦のCQB(近接戦闘)におけるCQS(近接射撃)の基本中の基本《ダブル・タップ》。男たちはその手にある強力な火器にものを言わせる間もなく、眉間と喉に開いた小さな穴から少量の血を飛ばし、絶命した。

「――制圧クリアー

 小さく呟き、龍麻はこれから自分の家となる部屋にするりと侵入した。

 玄関を固めていた人数からして、他の部屋に敵がいる気遣いはない。それでもざっと各部屋をウッズマン片手に見て回る。バスルーム、キッチン、リビング、寝室…。全てチェックすると、改めて龍麻は呟いた。

「…悪くない」

 その時、ガチャリと音がして、玄関のドアが閉まった。鳴滝が部屋に入ってきたのである。心なしか、渋い顔だ。

「…職業柄、殺人現場を見た事も少なくないが、これほど静かで確実なのを見たのは幾度もない。――いつ気付いたのかね?」

 その間にも龍麻はウッズマンに弾丸を補充し、床に転がった死体をバスルームに運び、フローリングの床とテーブルに飛んだ血を雑巾で拭き取っている。――流されたばかりの血は容易く拭き取れ、流水ですすぐと雑巾に付着した血糊も洗い流された。

「外で余分な電線を見た時に。――飲み物でもいかがです?」

 たった今、四人の人間を殺しておきながら、龍麻は気にした様子もなく鳴滝に椅子を勧めた。それも、血を拭き取ったばかりの椅子である。

「いや、結構。――しかし、それだけでは侵入者があったと確信は持てまい。セキュリティも正常に作動していた。結局は破られていた訳だが」

 龍麻は冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出しながら、部屋の隅を指差した。暗殺者達が、そして龍麻が侵入するのに使ったバスルームの窓である。窓枠には沈黙した赤外線警報装置。その下には洗濯物が落ちていた。

「新しい警報装置が開発されれば、翌日には解除装置が作られる。――自分の指示通りにしておいてくれたおかげで侵入者の存在を知る事ができました」

「君の指示か…。奇妙な内容だとは思ったが、良ければその意味を教えてもらえないかね?」

「――残念ながら」

 龍麻は首を横に振った。――鳴滝を信用していない訳ではない。だが、生き残りの技術をぺらぺら喋るようではプロとしてやっていけない。

「――そうだな。余計な事を聞いた。許してくれたまえ」

「――恐縮です」

 龍麻はちら、と床に落ちた洗濯物を見やるが、鳴滝はその視線を見る事は出来ない。

 外出時に窓の前に洗濯物を干すのは、龍麻流のちょっとした警戒装置である。窓から侵入しようとする者がいた場合、ちょうど顔の正面に来るようにトランクスやら靴下やらを干しておくのだ。すると大抵の人間はそれを《汚い》と感じて無意識に払いのけ、洗濯物を落とす。――外から見て洗濯物がなくなっていたら、誰かが侵入したという事になる寸法だ。

 無論、龍麻のような感情制御処置を受けた者ならば、そんなトラップに引っ掛かる事はない。だが多くの殺し屋は、電子的なセキュリティを無力化した直後であればそこまで気は回らない。古典的だが、ハイテクを駆使するよりも確実――否、ハイテクを囮にローテクが生きるのだ。

「――しかし、いきなり撃つというのはどうかね? もし、ただの空き巣だとしたら?」

「ただの空き巣や強盗が、銃にサイレンサーを付ける必要はありません。それに、この装備――」

 龍麻はテーブルの上に並べた、暗殺者達が持っていた銃の一つを手に取った。前後を切り詰めたダブルバレルの散弾銃である。開閉レバーを押して銃を二つ折りにすると、赤いプラスチックのカートリッジが滑り出てきた。鳥撃ち用の12ゲージ・バックショット(通常散弾)である。

「ゲリラやテロリストが好んで使う、完全近接戦闘用ソードオフ。三メートル以内ならば一発で五人からの人間を殺傷できます。発砲を許す前に射殺するのは常識だ。そしてこちらは――」

 龍麻はもう一丁の長物に手をやる。長物と言っても、そちらも銃身と銃床が極限まで切る詰められた、西部劇に登場するようなレバー・アクション・ライフルである。ウィンチェスターM1892。ただし、径の大きなレバーは特注品だ。その名は、今は亡きスティーブ・マックイーン扮する、《拳銃無宿》の主人公ジョッシュ・ランダルにあやかり、ランダル・カスタムと呼称される。最新のフル・オートマチック・ライフルに比べれば性能は大分落ちるだろうが、肝心なのは使用法だ。

 龍麻はレバーを操作し、弾丸を取り出した。

「三〇−〇六カートリッジの鉄鋼弾。ドア越しに撃たれなかったのは幸運でした」

「…確かに」

 鳴滝は頷くしかない。実際には暗殺者がそれを発砲するよりも早く、龍麻が暗殺者を仕留めたのだ。逆に言えば、龍麻が撃たなければ、この場で絶命していたのは鳴滝の方かも知れなかったのだ。いかに防弾プレートで補強してあるとは言え、所詮はマンションのドアだ。銀行の金庫や核シェルターのようには行かない。

 最後に龍麻が取ったのは、布を巻きつけた大きなサイレンサーを取り付けた、無骨一辺倒の短機関銃であった。――空港のトイレで襲ってきたボディーガードが持っていたものと同じイングラム・MAC11。特殊部隊などで重宝されるSMGだ。九ミリ・ショート弾を一分で三〇〇〇発ばら撒く能力を持つ小さな猛獣である。ちなみに弾倉は携帯性無視の五〇連装だ。

「これだけの装備を持つ者に、警告は無用です。それにこの男たちもプロならば、こうなる事も覚悟の上でしょう」

 あまり認めたくない事ではあるが、鳴滝は頷かざるを得ない。射程はなくとも広範囲に《面》を捉える散弾銃に、鉄板を貫く鉄鋼弾を詰めたライフル、そして多数の弾丸をばらまく事を目的とした短機関銃。そんな連中に一人で勝つ方法は、不意打ちの先制攻撃以外に有り得ない。――覚悟についても同様だ。暗殺者は標的を確実に始末するのは勿論、自分が確実に生き残る手段をも考慮に入れている。だが、自分の《死》の可能性をゼロにはできない事も承知の上だ。だから――負ければ死ぬ。本物の暗殺者は死んでも依頼人の名を吐かない。それが解っているから、龍麻は殺す。仕事に失敗した暗殺者が生きて行けるほど、裏の世界は甘くないのだ。とある世界のように、逆ギレして喚き散らしたり、小汚い頭を下げたり、秘書に責任をなすり付けて逃れるなど不可能だ。

「しかし、暗殺者の存在を知りながらなぜ黙っていたのかね? ――私はまだ、信用されていないという事かな?」

「――自分を狙う輩は、気まぐれな犯罪者や暴力だけが取り柄の人間ではありません」

 鳴滝の言葉を否定も肯定もせず、龍麻は言った。

「目的の為には手段を選ばず、どれほどの巻き添えを出そうとも犯罪者としての負い目など微塵も感じぬ者たちです。そして自分は、そのような輩と戦う為に創られました。それを弁えている者を三人も同時に相手にしては生存率が極端に下がります。――ドアに集中した瞬間を狙いたかったもので」

「……」

 つまり龍麻は、暗殺者が待ち構えているのを承知で鳴滝を囮にしたという訳だ。さすがの鳴滝も返答に詰まる。あらゆる意味で《並》ではない事は承知しているが、こうまで冷徹に、合理的に人を殺し、他人を利用できるとは。

「怖れながら、鳴滝氏が殺される可能性は最初から考慮していませんでした。現にドアの正面には立たなかった。違いますか?」

「――部屋の前まで来た時にようやく私も気付いたよ。気配を殺していても、ガン・オイルの匂いまでは消せん」

「彼らも気付かれたと思ったからこそ、ドアに全神経を集中させた。――おかげで助かりました」

 そう言って龍麻は頭を下げたが、鳴滝はやはり釈然としない。例え自分を囮にしなくても、龍麻ならばどうとでもしてしまったような気がする。あるいは自分こそ、龍麻に試されていたのかも知れない。

「まあ良い。これからはもう少しセキュリティを強化しよう。君はあくまで、一学生としてこの東京に来たのだからな」

「助かります。――ついでといっては何ですが、死体処理屋に心当たりは?」

「それは、私の方で手を打とう。――三分ほどで来る」

 《一学生》を無意識に否定するような言葉を吐いた龍麻は肯き、バスルームへと入った。

 死体特有の匂いはない。――人間は死ぬと括約筋が緩んで糞尿を垂れ流すものだが、この男たちは裏の世界では名の通ったプロであった事だろう。誰一人、そんな無様な姿を晒している者はいなかった。銃撃戦が予想される場合、腹の中身はぎりぎりまで空にしておくのが基本だ。そうすれば内臓に弾丸を食らっても、ほんの僅かでも生存率が増す。火薬量の多いマグナムやライフル弾ならばともかく、小口径の拳銃弾を腹に食らったくらいでは人間は即死しない。だが胃や腸に食物が残っていた場合、それが感染症や腹膜炎を起こし、死亡率を跳ね上げるのだ。

 そんな事が当たり前の世界に生きてきた龍麻は、それを凄い事などとは少しも考えず、ウィンチェスターの男のコートに手をかけた。

「…何をするつもりかね?」

 龍麻が引っ張り出した物を見て、さすがに鳴滝の眉が寄る。三〇−〇六カートリッジを並べた弾帯とバックアップ用のコルト・ディテクティブ三八口径を取り出したのはともかく、その財布の中身にまで手を付けたのを見たからである。

「殺し屋は半端な道具を持たない。役に立つ物は活用します。――何か、問題でも?」

「…いや。しかし、どこの手の者か調べる必要もあるのでな」

「時間の無駄です」

 平然と言ってのけ、三人分の財布の中身をテーブルにぶちまける龍麻。財布の中身は現金だけで二十万ほど入っていたが、それ以外はカードも名刺もレシートの切れ端一つない。財布そのものもそこらの露店で買えるようなビニール製だ。更に龍麻はウィンチェスターの男のコートも脱がせる。仕立てからするとバーバリーあたりとも思えるが、はっきりしない。――ラベルも裏地も全て剥がされ、改造が施されている為だ。

「シャツも靴も、下着に至るまでこうでしょう」

「……」

 そこまで徹底して身分を隠蔽されては、身元の確認など不可能だ。指紋や歯形から割り出すにしても時間がかかる上、最終的に得られる情報も皆無であろう。納得の合図に、鳴滝は黙り込んだ。そんな彼を尻目に、龍麻はたった今まで死体が身に付けていたガンベルトを装着し、コートに袖を通す。肩幅や袖の長さ、そしてライフルの隠蔽度などを鏡で簡単に確認し、そして――

「…悪くない」

 と、言った。しかしライフルの長さは気に入らないものか、ペンで銃身と銃床に印を付ける。――自分用にカスタマイズする為だ。

 そんな龍麻の姿に、鳴滝は僅かばかりの畏怖を感じる。この歳にして自分と同等か、それ以上の修羅の世界を見てきた少年。本当にこの少年を《あの》真神に入れるべきだろうか?

 何回となく、否、何十回となく繰り返した自問自答であるが、答は最初から出ていた。この少年は、緋勇龍麻は、自らの意思でここに戦いに来たのだ。既にとき刻は動き始め、宿命の輪が廻り始めている。もはや、それを止める事は叶わない。

「…明日から学校だ」

 鳴滝がそう口にしたのは、彼の部下が殺し屋の死体を運び出して数分後の事であった。

「以前話したように、我々は闇に潜んでこそ真価を発揮する。我々との接触及びサポートは最小限に留め、基本的に互いへの干渉はしない。――いずれ何かがこの東京で起こるだろうが、我々はそれぞれ、己の成すべき事を成す。――それで良いのだな?」

「肯定であります」

 殺し屋のコートを纏ったまま、龍麻は踵を揃えて敬礼した。

 結局彼は、壁に掛けられた真新しい真神の制服に、最後まで興味を示さなかった。







 第零話閑話 来訪者    完



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