第壱話 転校生 1
およそ地球上の生物にとって、周囲の環境が変化するという事は己の生命に関わる重大事と言える。自分にもっとも適した環境への移動がかなわぬ場合、生命体は周囲の環境に適合しなければ生き残る事は出来ない。それが限りなく不可能に近い事であっても、挑戦しつづけるものの中に、ほんの一握りだけそれに成功するものが出現する。それが《進化》と呼ばれるものだ。生物の《進化》を語る上でもっとも適しているのはキリンであるが、あのキリンの首が長い訳は、《生き延びるべくあがいた上での進化》なのだ。 しかしながら、人間という種に限定した場合、環境の変化とは多くの場合《群れ》のルールという形で現れやすい。人間は姿形のみか、その考え方においても自らと同種でなければ理解する事が出来ないのだ。ある特定の群れに異分子が紛れ込んだ場合、多くはその異分子を排除しようとする働きが生じる。しかしその異分子が強力な力もしくは個性を有する場合、正常細胞を食いつぶす癌細胞のごとく周囲を汚染していくものだ。あるいは、癌細胞の中に投じられた一滴のワクチンと言えるやも知れぬ。 ここに、一人の少年がいる。彼が癌細胞となるかワクチンとなるか、そのときは誰も判らなかった。 そう…誰にも…。 「緋勇龍麻であります」 金髪の美しい女性教師に促された少年は、両手を背に廻し、両足を《休め》の形に開き、胸を張って自己紹介をした。 高校三年生という、時期外れの転校生は、やけに迫力ある声をしていた。高くもなく、低くもないのだが、自然と人を従わせるような豊かな響きである。ただし、短く、簡潔だ。 「それだけ…ですか?」 「はっ、以上であります」 このクラス、東京都立真神学園三年C組担任、マリア・アルカードのフォローにも、緋勇少年は直立不動で簡潔に答えるきりであった。 瞬間、沈黙が教室内を支配したが、一人の勇気ある女生徒が手を上げた。 「えっと…質問いいですか?」 「はっ、肯定です」 少年の言い方にまたも瞬間の沈黙。しかし少女はやっと言葉を搾り出した。 「あの、出身地と生年月日と血液型を教えてください!」 「沖縄出身であります。生年月日は一九八一年八月一日。血液型はA型であります」 偉く大仰しい言い方であるが、返事がすぐにもらえた事で、にわかに教室が騒がしくなった。 あらためて、この風変わりな転校生をチェックする。すらりとした長身だが、大木のごとき存在感。なぜか目元を完全に覆うほど前髪が伸びているが、すっと伸びた鼻梁に意志の強さを現す固く引き締められた唇。まず一般的な基準で《ハンサム》と呼べる容姿である。 「はいはいはーい。前の学校ではなんて呼ばれていたの?」 「はっ、《ひーちゃん》と呼ばれておりました」 「……」 再び、なにやら不穏な沈黙。一八〇センチを超える長身のハンサムが呼ばれるべきあだ名ではない。しかもこの緋勇少年はいたって大真面目に、 「幼少のみぎりに使用されていた呼び名です。特に不都合はありません」 つまり、本人はこの呼び方に何の懸念もないという事だろう。一転して、教室内を黄色い爆笑の渦が吹き荒れた。 「かーわいー!」 「ひーちゃーん!」 メチャクチャ固そうなしゃべり方をする緋勇少年に対する親近感が一気に増したか、男子生徒のやっかみの視線などどこ吹く風で、女生徒たちが次々に手を上げた。 「ねえねえ、兄弟っている?」 「好きな食べものはぁ?」 「好みのタイプは?」 「なんかスポーツやってたの?」 矢継ぎ早どころか、複数同時に入り混じって浴びせられる質問に、しかし緋勇少年は何ら動じなかった。 「兄弟は一人もおりません」 「食事に好みはありませんが、高カロリー、低コレステロールを心がけております」 「タイプは使用しません。文書作成にはマイクロソフト社の文書作成ソフトを使用します」 「特に打ち込んでいるスポーツはありません。個人競技のスポーツならば一通りこなせると自負しております」 てきぱきと、しかも正確に質問者の方を向いて返事をする緋勇少年に、クラスの女子の大半がポウッとなった。一部変な返事もあったものの、いまどきの若者にありがちな軽薄な部分が微塵もなく、明確な意思と信念が見受けられる表情は実に凛々しかった。 この雰囲気は好もしいが、だからといっていつまでも緋勇少年を質問攻めにさせておくわけには行かない。マリアは手を叩いて質問を止めさせた。 「はい、みんな、質問終了。転校初日からあまり困らせないでね。…ごめんなさい。みんな転校生が珍しくて仕方ないのよ」 「いえ、問題ありません」 緋勇少年はあくまで礼儀正しい態度を崩さない。それこそ骨の髄までこんな感じなのだろう。 「それじゃ、席は美里さんの隣が空いているわね。彼女は生徒会長とクラス委員長を兼任しているから、いろいろ聞くといいわ」 「はっ、了解しました」 《休め》の姿勢から右…マリアの方を向き直り《気をつけ》の姿勢でピシッと敬礼。それから左…正面を向き直り、背筋を伸ばして歩き出す。歩く姿勢まで筋が通っているようだった。 「ちょっと軍事オタクっぽいけど、カッコいいよね」 「蓬莱寺くんに続いてハンサム一人追加よね。うう、ラッキーだわ」 そんな囁きが交わされる中、緋勇龍麻は指定された席にたどり着き、椅子を引いてぴたりと机に納まった。ただそれだけの動作にも付け焼刃でない品格が滲み出し、女子がああ、とか、はあ、とかため息を洩らした。 だが、緋勇少年は自分に注がれる視線には何の興味も抱かなかったようだ。この時の彼の胸中の声はこうだった。 (所属クラスへの第一次接触完了) と。 休み時間になるとすぐ、隣の女生徒が話し掛けてきた。 「あの、緋勇くん?」 龍麻は読んでいたハードカバーの本…英字の技術書から顔を上げた。 左右に分けた長い黒髪が香る。清楚と言うに相応しい外見。優しげな目元に小さくもすっと筋の通る鼻筋。常に微笑を絶やさぬ唇。まず美少女…否、高嶺の花と言われるレベルの美少女が遠くもなく近くもない適度な距離でたたずんでいた。 「さっきはすぐにホームルームに入ってしまって、挨拶も出来なくてごめんなさい。私、美里葵 美しい外見に違わぬ、落ち着いた物腰の丁寧な言葉遣い。対する龍麻は机から立ち上がり、ピシリと敬礼した。 「恐縮であります。生徒会長殿」 龍麻の口調に嫌味はないのだが、やはりいきなりこんな対応をされては並の人間なら引いてしまうだろう。葵もそうだった。 「そ、そうね。今日は生徒会があるから駄目だけど、明日にでもこの学校の事、いろいろ教えてあげるわ」 「はっ、ありがとうございます」 龍麻はあくまで、直立不動を崩さない。 「あの…同じクラスの生徒なんですから、もう少し砕けた調子でいいですよ」 「砕けた調子…でありますか? 会長殿の命令であればそのように致しますが…」 「命令ではありません。同じクラスの友達としての、お願いです」 「友達としての…」 そう呟くと、龍麻はなにやら思案顔になり、次いでその顔中に脂汗を浮かべた。なにかとてつもない事を命じられた人間のようである。葵はそのただならぬ雰囲気に少し慌てて言った。 「いえ、なんと言うか、普通でいいんですよ」 「…恐縮です。会長殿」 本気でほっとしたように、肩を撫で下ろして龍麻は言った。そもそも《普通》の基準が他人とは異なるようだ。 「あの…できればその《会長殿》という呼び方だけはやめていただけますか?当たり前に、名前で呼んでください」 「ご命令とあれば…」 そう言いかけて、龍麻はやや狼狽しつつ言い直した。 「了解しました、会長殿…いや、美里さん」 そこでようやく、美里も柔らかな笑顔を見せた。 「うふふ。お隣同士仲良くしましょう」 その言葉に、教室のそこかしこから不穏な《気》が立ち上るのを龍麻は感じた。多くは葵に対する嫉妬ややっかみの《気》であったが、とりわけ強烈な敵意が一つ、いくつかの敵意を従えるように龍麻に向けられていた。しかし、強烈とは言ってもレベル的には何ら問題となるものではない。龍麻は黙殺した。 「あーおーいー!」 その不穏な空気を、かき消すというよりはぶち抜くような勢いで、会話の中に一人の少女が割り込んできた。 (む…) なんという快活な《気》か。なるほど、この学園にはこのような人間もいるのだなと、龍麻は一人納得した。彼が元いた明日香学園高校はそれなりに進学校だったので、若いエネルギーを勉強に振り分けねばならず、それほど目立って快活な生徒はいなかったのだ。 「葵もやるね〜。さっそく転校生くんをナンパにかけるとは。お堅い生徒会長殿もようやく男に興味を持ってくれたか〜」 「小蒔ったら、そんなんじゃないわよ」 「へへへ〜、いいからいいから」 何がいいのか、龍麻には理解不能だった。それに、難破にかけるとはどういう事だ?難破、何派、軟派…意味不明だ。この生徒会長殿が、俺を船に乗せて遭難させようというのか? とてつもない誤解をしている龍麻に、小蒔と呼ばれた少女は向き直って表情を改めた。 「はじめまして、転校生クン。ボクは桜井小蒔 小柄で細身の体躯ながら、活力に満ち満ちた表情に目の輝き。茶色のショートヘアがいかにもボーイッシュな印象を与える。あらゆる意味で葵とは好対照だが、折り目正しい葵が実に気安い口調で話していることから、二人は親友であるらしい。 「緋勇龍麻であります。主将殿、こちらこそよろしくお見知り置きを」 龍麻の繰り出す固い日本語に、しかし小蒔は腹を抱えて笑った。 「アハハ! 君って面白いね。いつもそういう風にしゃべってるの?」 「自分にとってはこれが普通であります。主将殿」 「う〜ん。ボクとしてはもう少し軽い調子の方が話しやすいんだけどなあ」 つう、と龍麻の頬を汗が一筋流れ落ちる。どうしてここの人間(と言ってもまだ二人目だが)は皆同じ事を要求するのだ。しかし前の学校では同様の要求をされても、さしたる問題ではないと誤った判断を下したため、周囲から孤立してより目立つ事となった。同じ失敗を繰り返す訳にはいかない。 しかし小蒔は、ある意味悲壮な覚悟を決めかねている龍麻の胸中などお構いなしに続けた。 「ね、緋勇くん。キミ、ずばりモテるでしょう?」 「は…? 何が…でありますか?」 持てる? 何を持てると言うのだ? 対象物なしに持てるなどと言われても、自分の筋力には限界がある。公にする訳にはいかないが、龍麻は右腕のみでは一一〇キロ、左腕でも一〇三キロのバーベルを振り回す事ができる。しかし、そんな自分でも対象物が車や戦車となると、当然と言うか、まあ、無理だ。 「やだなあ、もう…って、キミって、まるでそういうコト疎いんだね」 「はっ、恐縮であります」 心なしか、力のない声である。確かに自分は万能ではないが、それをはっきりと指摘されると弱い。そもそも《並》の学校生活そのものが彼にとっては異質な世界なのだ。 「ねえねえ、それじゃ、そっち方面に疎いもの同士ってコトで、葵なんかどう? 好みのタイプじゃない?」 「文書作成にはマイクロソフト社の…」 「やだなあ。二度もボケないでよ。そういうコトじゃなくて、彼女とか恋人とかにしたい女の子じゃないかって聞いてるんだよ」 「こ、恋人?」 再び脂汗を流す龍麻。自然に振舞えるようにするためにはテレビなどを見た方がいいと言われ、焚実やさとみに推薦されたドラマなどを見たものだが、その中における《恋人》の概念は、どうも命のやり取りをする緊張感を楽しむような間柄にしか見えなかった。また、一対一の関係に別の異分子が入ってきた場合、より危険度が増すものでもあるらしい。龍麻が参考にしたアニメーション(!)では、素行不良の少年に対して、なぜか水着を普段着にしている超能力を持った少女が事あるごとに電撃を浴びせ、ごく普通の容姿を持つもう一人の少女は、少年に机(!)を投げつけていたのだ。 なぜ桜井小蒔は自分にこのおとなしそうな生徒会長殿と殺し合いさえ辞さぬ緊張関係を結べなどと!? 自分は桜井小蒔とは誓って初対面である。過去においてもこの日本人の少女と接点をなすような事態にはならなかった筈だ。いやしかし、かつて戦ったものたちの支援者とも考えられる。いかん。これほど身近なところに脅威となる人物が潜んでいたとは―― 「え、鋭意努力する次第であります。主将殿」 この場は話を合わせて切り抜けるしかない。著しい勘違いをしている龍麻はとっさにそう答えた。すると小蒔は破顔一笑する。ごまかせたか!? 「おっ、自信ありげだね。まあ、葵は告白されても全部断っているし、話を聞いてみると理想が高い訳でもないんだけどね。まあ、男に対する免疫ないから大変だろうとは思うけど、玉砕したら骨ぐらいは拾ってあげるからさ、頑張りなよ」 (むむむう…) つまりそれは、葵は見かけ以上に脅威となる人物という事か?それを保証するかのように、葵は顔を真っ赤にして、情報を漏洩した小蒔に対して詰め寄っている。そして生命の危機を感じたのだろう。小蒔は龍麻に「頑張ってね」と告げてその場を逃げ出したのだ。 なんと狡猾で見事な心理誘導作戦か! 《なるべく目立つな》というだけの任務を遂行するために、かえって死地に挑まねばならんとは! 「あ…あの…」 その、葵が話し掛けてきたことで、龍麻は全身全霊で警戒態勢を作った。そう。この《恋人関係》というのは、先制攻撃は物理的手段に訴える事は出来ず、また、反撃をかわすことは許されないのだ。まずは互いに宣戦布告をし、要求を読み上げて討議を行う。その条件が気に入らない場合に武力衝突となる訳だが、その攻撃のタイミングを、龍麻は全く知らない。圧倒的に不利であった。 「小蒔が変なこと言って、ほ、本当にごめんなさい」 本当に動揺しているのか、これ以上はないくらい凄まじい誤解をしている(単なる馬鹿とも言える)龍麻を残し、葵は逃げるように走り去った。誰が見ても、小蒔にからかわれて恥ずかしい葵が逃げ出したようにしか見えないのだが、この男は、 (うむむ。このタイミングで戦うのはさすがに不利と見たか。次はまず絡め手で来ると思われる。用心せねば) などと考えているのであった。 しかし、そんな馬鹿な考えを中断させるように、今度は男の声が龍麻の背に投げかけられた。 「あ〜あ、あんなに顔真っ赤にしちゃって、カワイイねェ」 闘いに不利と見るや即座に戦略的撤退をできる策士をかわいいと言えるとは、どうやらこの男も相当できるらしい、と、既に誤解のコンボ状態にある龍麻は改めて話し掛けてきた男を見た。 (これは、なかなかのものだ) 髪を赤く染め、制服をだらしなく着ていても、その持つ野性的な雰囲気というか生気というか、そのようなものが見た目の軽薄さを一蹴して余りある男だ。手に細長い袋を持っているが、僅かに湾曲しているところからしてまず木刀であろうと思われる。とりあえず、敵意は感じられない。ニヤニヤと笑っているため多少崩れているものの、引き締めればどこか中性的な顔立ちの、なかなかのハンサムである。切れ長のやや吊り目がちの目は、人懐こそうな光を湛えて龍麻を映している。 「よおっ、転校生。俺は蓬莱寺京一 「緋勇龍麻であります。…あなたも部長殿でありますか」 「おいおい、俺たち同じ歳だろ? 固ッ苦しいのはなしにしようぜ。蓬莱寺、でも、京一、でも呼び捨ててくれて構わないぜ」 「う、うむ。了解した」 出会うたび出会うたび言葉遣いを注意され、さすがにこの先の生活に不安を覚えた龍麻であったが、どうやらこの蓬莱寺は男だけにフランクな付き合いで構わないと、素の意味で言っているのだと理解できた。龍麻自身は慣れているので堅苦しいという事はないのだが、どうやらこの男には焚実と接した時のような付き合い方でも構わないようだ。 「あ、そうそう…」 直立不動の姿勢から僅かに力を抜いた龍麻に笑顔を見せながら、蓬莱寺は意味ありげに声を潜めた。 「あんまり目立った真似はしない方が身のためだぜ。学園の聖女を崇拝している奴はいくらでもいるってことだ。特にこのクラスには頭に血が上りやすい奴が多いしな」 「学園の聖女というのは、美里葵嬢の事か?」 なぜか恐る恐る、龍麻は聞いてみた。 「ん? ああ、まあ平和な生活を送りたけりゃ、それなりの処世術が必要ってことさ」 「――なるほど。彼女は新興宗教の教祖的立場にあって、その崇拝者の中には危険人物も多いという事だな。貴重な助言だ。感謝する」 これは強敵だ。宗教的教義を根幹とするテロリストほど危険な相手はいない。イスラム過激派や排他的キリスト教団NCなどは、《神のため》に死ぬ事こそ最上としている始末だ。やはり学校内と言えども武装せねば危険かと、あまり目立たずしかし強力な装備を頭の中で選定し始めた龍麻の前で、ガタガタッという音が響いた。 「どうした蓬莱寺? 足元には気を付けた方がいいぞ」 「あのな! お前、今なんつった? 美里が新興宗教の教祖ォ〜ッ!?」 「違うのか? しかし今、学園の聖女と…」 いたって大真面目に言う龍麻に、蓬莱寺はへろへろと脱力した。 「あのなあ、お前。いちいち他人の言葉をまともに受け取ってどうすんだよ。学園の聖女ってのはあくまで美里を評する言葉であって、そのものって訳じゃねえんだぜ」 「そ、そうなのか? すると崇拝者というのは…」 「身の程知らずにも美里に勝手に惚れている奴らの事だよ。全く、自分の顔を鏡で見直せってんだ」 ただでさえ注目を浴びている龍麻に、クラス一の問題児である蓬莱寺が話し掛けているのである。それこそクラス中の目が向けられている中で、蓬莱寺は不容易に過ぎたかもしれない。今までにないボケをかます龍麻のために、それとなく注意を促すつもりで、かえって《頭に血の上りやすい連中》の反感を増長させてしまう結果になってしまったのだ。 「気を付けろよ」 一応そう言ってみたものの、京一は自分の言葉がひどく頼りないものだと自覚していた。この転校生をそれとなくフォローした方がいいとも。 昼休みに入り、ゲル状の栄養サプリメントのみの昼食を飲み干した龍麻は、校内の探索をするべく席を立ち上がりかけた。丁度その時、背後から声をかけられ、振り返る。 「あの…緋勇くん」 「何でありますか? 会長殿。いや、美里さん」 話し掛けてきたのは葵である。いまだ超絶の誤解をしたままの龍麻は平静を装いながら、内心焦りまくっていた。実のところ校内を探索し、人気のないところで装備品を点検するつもりだったので、それを事前に察知されたのかと思っているのだ。 「あの、さっきは小蒔が変な事言っちゃって…ごめんなさい」 「い…いえ。問題ありません」 「転校早々、嫌な思いをさせちゃったかと思って…本当にごめんなさい」 心底申し訳なさそうに誤る葵に、さすがに龍麻もいささか様子が変だぞと、考える余裕が出てきた。 世間一般のことにはとことん疎い龍麻だが、人間観察においてはその能力はずば抜けている。傭兵、武器商人、スパイ。戦場では相手の洞察力に優れなければ生き残れないのだ。そして多くの場合、龍麻は直感的に相手がどのような人間か見抜いてきた。だが今回に限り、どうも周囲の情報に惑わされていないだろうか? そんな事を考えていた龍麻は、葵が丁寧にその場を辞した事も、彼女が立ち去ったのを見計らって背後から野蛮な声がかけられた事も気付かなかった。 (彼女に対する認識を改める必要があるか。いや、やはり情報は自分で確認せねば) 「オイ! 呼んでんだろうが!」 柄の悪い声が大きくなり、教室に残っていた者がギョッとしたが、なにやらぶつぶつと呟きながら黙考しつつ、龍麻は目の前に立った男をただの障害物として脇をすり抜けた。完全に目に映っていない。 「テメエ…!」 同じ無視するにも程度というものがあろう。露骨に無視するならば、まだ救われる。そこには相手の存在を判っているという大前提があるからだ。だが今の龍麻には、その男は机や椅子と同じ単なる障害物であって、その場所になければ存在しないも同然のものであった。男は明確に脅しをかけているのに、龍麻はそれに気付かなかったのだ。 「緋勇――!」 こうまで存在を蔑ろにされたのは初めてであろう男は、背後からでも構わず一発殴りかかろうとしたのだが、木刀片手に教室に戻ってきた男が龍麻に声をかけたので、ケッと舌打ちして立ち去った。 「ナンだ、佐久間のヤロー」 「おお蓬莱寺、なぜここに?」 沈思黙考していた龍麻は、突然目の前に京一が現れたので少し驚いた。 「何故って、ここは俺の教室でもあるんだぜ。それよりお前、佐久間のヤローに何か言われたのか?」 「佐久間…? 誰だそれは?」 「誰って…今お前に因縁を付けていただろうが」 「因縁…。仏教思想などで用いられる運命論の方程式の事か。特に俺は坊主に説法を受けた記憶はないが…」 「…判った判った。もういい」 龍麻の並外れたボケっぷりに、京一は説明するのをあきらめた。少なくとも龍麻は佐久間に対して脅威を感じるどころか、存在に気付きもしなかったのだ。一応、新宿でも五本の指に入る強さだぜと言ってみたのだが、「ふむ」と気のない返事が返ってきただけであった。 「それより、なんだ。この学校の事は判らないところだらけだろ。付いてきな。俺が校内を案内してやるよ」 「それはありがたい。感謝する」 丁度自分もそうするところだった。案内役がいるといないとでは、やはりいてくれた方がありがたい。 三−Cの教室が三階にあることから、三階から順に案内してもらう事になった。 「実は、この図書室には秘密があるんだ。知りたいか?」 そう言われれば、知りたくなるのが人情というものであろう。龍麻は頷いた。図書室に隠された武器弾薬庫があるとか、生徒に薬物投与を施して超人化したりする実験室があるとか、そういう情報はぜひとも、たとえ噂レベルのものであっても収集しておく必要がある。しかし―― 「…それだけか?」 「それだけって…、まあ、それだけなんだけどよ」 「高いところにある本を取るため、台に上った女子生徒の下着が見える――その事に何の秘密があるというのだ?」 「別に秘密って程のもんじゃねえけどよ…お前、やっぱり固いな。一人似たような奴を知ってるけどよ、お前はそいつ以上だぜ。清らかな少女の清純な下着が見えるということに、お前は何のロマンも感じないのか?」 「女性との性交渉に及ぶ際には、最終的に邪魔になるだけのものだろう? 確かに性本能を刺激する効果は望めるらしいが、その気のない女性の下着が見えたとて、それになんの意味がある?」 「わ――ッ! そんな事、こんな所ででかい声で言うんじゃねえ!」 いつの間にか、龍麻のボケのフォローに回ってしまっている京一であった。 しかし、龍麻のとんでもない発言に狼狽していた京一は、階段から上がってきたばかりの女生徒に気付かず、思い切り激突してしまった。 「おっと、わ、悪ィ…!」 「痛った――ッッ! もう、どこに目ェ付けてんのよッ!」 反射的に謝った京一に感心する間もなく、女生徒の凄い剣幕が襲い掛かってきた。 「ゲゲッ! アン子!」 「きょ、京一ィ――ッ!?」 互いに顔を合わせた瞬間、大声で相手の名を呼ぶ。 「ひ、緋勇! 俺ちょっと急用を思い出した! また後でな!」 バヒュン! と漫画的擬音を立てて一目散に逃げ去る京一。そのスピードには龍麻も驚いた。 「あっ! 京一! 逃げるのッ!? この卑怯者――ッッ!!」 尻餅を付いたまま拳を振り上げる《アン子》なる少女。髪は美里葵と同じ黒髪のストレート、いまどき珍しい黒縁眼鏡の奥に一重の瞳を生き生きと輝かせている。一見して勝気で好奇心の塊であるような印象を与える少女だった。 「全くアイツは…珠のお肌に傷でもついたら訴えてやるから。…って、アンタ誰…じゃなかった。君、確かC組に来た転校生ッ!?」 「…肯定であります」 突然、まるで食い入るように自分を見つめてくる少女に、龍麻は僅かにたじろいだ。今までこれほど露骨な好奇の目を向けられた事はなかったのだ。口調に固さがこもったのは、それが原因であった。 「あっ、ゴメンね。――あたし、三−Bの遠野杏子 「……」 つまり、龍麻がもっとも苦手とする人種という事だ。別に彼女自身が悪い訳ではないが、龍麻は警戒せざるをえない。この学園に来た目的が目的だけに、彼女のような存在は非常に危険なのである。 現にアン子の目は、獲物を見つけた猫のように爛々と輝いている。こういう目は以前にも見た。あれは二年程前だったか。あの時、当局の許可もないままに《突撃取材》とやらを敢行したジャーナリストは、我々の機密条項に触れ―― 「――こんな所で会ったのも何かの縁だし、放課後にでも取材させてッ。ね、いいでしょ?」 「…その申し出は拒否します」 龍麻は一番無難(龍麻主観)な返事をした。 「アラ、ひょっとして、自分の事を聞かれるのは苦手なタイプ? ん――、何か気分を害しちゃったみたいだから、これ上げるッ」 アン子の差し出したのはA3サイズの紙であった。なにやら生徒同士が乱闘している写真と、その説明らしきものがびっしりと書き込まれている。 「…これは?」 「新聞部 「了解した。感謝する」 学校新聞レベルであってもマスコミの影響力は侮りがたいと思われたので、とりあえず愛想良く(あくまで龍麻主観)しておく龍麻。マスコミは敵に廻してはならないという、情報戦のエキスパートの教えである。 「うーん、なんだか固いのねえ。――って、やばッ! あたし、センセーに呼び出されてるんだっけ。じゃあね、緋勇君。また今度、取材させてねッ」 「取材は断ると――」 龍麻に皆まで言わせず、アン子は現れた時と同様、ドタ足で階段を駆け下りていった。 「――やれやれ、やっと行ったか…」 ため息と共に、逃げ去った筈の京一が姿を現した。 「蓬莱寺、急用は片付いたのか?」 「ん――!? まあ、そんなトコだ。次行くぜ、次」 そう言いながら、京一は龍麻の性格を今ひとつ掴みかねている。妙に、いや、並外れて固い奴だという事はわかるが、軽口を真に受けたり、ストレートな物言いをしたり、今まで京一が出会ってきたどんなタイプの人間とも違っている。京一が姿を消したのも、《急用》があったからだと、本気で信じているようなのだ。 (変わった奴だな。面白ェけど) それが京一の、彼に対する第一印象であった。 二階に下りると、再び京一が声を潜めた。 「――この階には二年生のクラスと生物室がある訳だが、生物室にはちょっと変わった話があるんだ。聞きてェか?」 「うむ。――その前に、あの行列は何だ?」 龍麻が指差したのは、廊下の壁際で長蛇の列を為す女生徒たちである。かなり声を押さえているが、黄色い声で言い交わすのは相性がどうとか、誰それの誕生日を知っているかなど、いかにもこの年頃の少女らしい話題である。 「ああ、ありゃ、霊研の《占いコーナー》さ」 「《占いコーナー》? この学園にはそのような部署があるのか」 「なんか誤解があるような気がするが…隣のB組に裏密 なんならお前も占ってもらうか? と京一は言ってみたが、龍麻は首を横に振った。 「必要ない。目下のところ、何も問題はない」 「…まあな。俺も何で女が占い好きなのか理解できねェよ」 「それは簡単だ。自分にとって都合が良い事を信じるためだ」 ストレートな龍麻の発言が聞こえたものか、周囲の空気がざわっと動いた。 (わ――ッ! そんな事、こんな所で言うんじゃねェ!) 図星を刺された女生徒たちの、漲る敵意の凄い事。この男、ちょっと油断するととんでもない事を口走る。京一は龍麻の首根っこを捕まえ、階段の踊り場まで引っ張っていった。 「緋勇…お前、命知らずな発言をするなよ…」 「…自分は一般論を述べただけだが?」 「それがいけねェって言ってんだよッ。もう少し周囲の状況を考えてものを言えッ。ンなコト裏密に聞かれた日にゃ、呪われちまうぞッ」 「ふむ…了解した。――ところで蓬莱寺、お前が背負っている少女は何だ?」 「あン? 別に誰も背負ってなんか――って、うわあああああッッ!!」 その少女を見た途端、京一は血相変えてその場を飛び退き、事もあろうに龍麻の背後に隠れた。 「うふふふふふふふふ〜、誰が呪うの〜きょう〜い〜ちく〜ん」 (ほう…これはまた…) なんという不穏な《気》だろう。今時どこで売っているのかと聞きたくなるような壜底丸型眼鏡におかっぱ頭、手にはなぜか、布を継ぎ接ぎして作られた、目にはボタン、口を縫い込まれている人形を持っている。そして何よりも、ニヤ〜っと化け猫が笑っているかのような不気味な笑い。その少女の怪しさ大爆発っぷりに、龍麻も足の踏み位置を組み換えてしまったほどであった。つまり――戦闘態勢である。 「う、裏密ッ!? 確かお前、部屋で占いをやってる筈じゃ…!?」 「うふふふふ〜。ミサちゃんって呼んで〜。誰かが〜呼んでるような気がしたから〜抜け出してきたの〜」 《抜け出してきた》と彼女は言うが、確か部屋の扉は女生徒で埋まっていた筈だ。それにこんな階段で、誰かが近付けばすぐに判る筈である。そもそも、彼女を《背負って》いた京一が気付かぬ訳がない。 しかし、その点を指摘 「あ〜、この人もしかして〜今日C組に来た転校生〜?」 壜底眼鏡の奥から見つめられた途端、体温が二度下がったのを感じる龍麻。しかし、敵意がある訳ではない。 「うふふふふふ〜。あたし〜魔界の愛の伝道師〜ミサちゃんです〜。どうぞよろしく〜」 特に何か仕掛けがあるようには見えないのだが、人形の手がピコピコと動く。どうやら握手を求めているようだ。しかし―― 「丁寧な自己紹介、痛み入る。自分は緋勇龍麻であります」 この怪しさ満点の少女に対しても、龍麻の態度は変わらない。直立不動で敬礼する。握手はしなかったものの、なぜか裏密は上機嫌だった。 「うふふふふふ〜ミサちゃんうれし〜。これは〜因果律 龍麻は何かの予言めいた裏密の言葉に興味を引かれたが、何のことやらさっぱり判らぬ京一が割り込んだ。 「あはははは、裏密、それじゃまた後でなッ」 「どこ行くの〜?」 「い、いや、もう昼休みも終わりが近いからなッ。あと職員室を案内しなけりゃならねェんだよッ」 本当にそれだけなら五分もあれば事足りるのだが、それがさも重要な事のように告げると、一応裏密は頷いて見せた。 「ふ〜ん。――そうだ〜今度二人で〜霊研に遊びに来て〜」 「れ、霊研にかッ!?」 大げさにうろたえる京一。龍麻にはその理由が判らない。 「そうよ〜。じゃ〜ね〜」 再びニヤ〜っと笑って京一を硬直させた裏密は、そのままするすると階段を昇って姿を消した。 「…次だ! 次行くぞ! 緋勇ッ!」 「その前に、あの裏密という少女だが、今、浮いているように見えたのだが…」 錯覚ではなかろうから、それは凄い事だと龍麻は考えていた。空中浮遊 「気にすんな! それより次だ!」 それこそその場から逃げるように、京一は龍麻を階下へと引きずっていった。 「一階にゃ、順当なところで一年のクラスと保健室、そして購買部と職員室がある。まあ、職員室はあんまり来たいところじゃねェが、ちょっとマリアセンセに会って行こうぜ」 会うも会わないも、自分の担任なのだからいくらでも顔を合わせるだろうと龍麻が言うと、京一はチッチッチ、と舌を鳴らした。 「ああいう美人は見るだけでも目の保養になるんだよッ。俺たちゃラッキーだぜ。以前は冴えないおっさんが英語を担当してたんだが、三ヶ月前にとうとう定年を迎えて、代わりにヨーロッパのナントカいう国から来たんだってよ。けどなァ、さすがに美人だから生徒どころか同僚の教師まで狙ってる連中がいるらしいぜ。――俺なんか、外人だからってんで挨拶代わりにキスしようとしたら、思いっきり脛蹴っ飛ばされちまった。ま、お前も気を付けるこった――って、まさかお前も、マリアセンセーを狙ってるクチじゃねェだろうな?」 「否定だ」 龍麻は即答する。そして、珍しく付け加えた。 「外人にとってキスは挨拶だが、親密な者同士に限られる。お前の行為は強制猥褻だ。射殺されなかった事を幸運に思うがいい。――女性達は強 「…射殺って、お前…。それに、基地って何だよ…?」 つい、口を滑らせてしまい、顔中を脂汗で埋める龍麻。しかしその件を京一が追求する事はなかった。職員室のドアが、内側から開いたのである。 「…何だ蓬莱寺。お前にしてはずいぶん殊勝な事だな。職員室に自主的に足を運ぶとは」 「ゲッ…犬神…!」 京一の顔が引きつる。アン子や裏密に対するものと似た、より強い忌避感である。 一見すると、そろそろ中年に達しようかという、しょぼくれた男性である。よれよれの青いシャツに、だらしなく締めたセンス皆無のネクタイ、没個性の塊である白衣、とどめは、ろくに櫛も入れていないボサボサの髪に、いつ剃ったのか判らない無精髭だ。とある黒いスーツにソフト帽のガンマンのように、ひん曲がったシケモクをくわえている。どこから見ても、教師には見えない。 しかし龍麻は、その教師から《何か》を感じた。 (……) はっきりとは判らない。敢えて言うなら、勘である。教師らしくない人相風体はもとより、気配もまるで尋常、タバコを咥えたまま器用に喋る仕草にも、何ら不自然なところはない。 しかし――と、龍麻の頭の片隅で、警鐘めいたものが微かに鳴っている。それが何なのか形を為す前に、犬神という教師は龍麻に視線を向けた。 「君か。マリア先生のクラスに転入してきた生徒は」 「肯定であります。自分は緋勇龍麻であります。以後、よろしくご指導の程をお願いいたします」 同級生達に向けるものよりもはるかに折り目正しい、龍麻の敬礼。しかし犬神は面白くもなさそうに鼻を鳴らしただけであった。 「…緋勇か。俺は三−Bの担任をしている犬神だ。まあ、生物の授業で顔を合わせることもあるだろうから、しっかりと勉強する事だ」 「はっ、恐縮です」 そう言いつつも、龍麻の胸中には疑問符が掠める。人間の洞察力に優れている龍麻が、彼に関しては何も判らないのだ。どこをどうつついてもしょぼくれた教師なのだが、どうにもつかみ所がなく、それでいて威圧感をひしひしと感じる。彼の視線を浴びている龍麻は、自分がいる場所が東京の高校などではなく、東南アジアか南米のジャングルの中にいるのではないかと錯覚しているほどだ。茂みの奥から肉食獣に狙われているような、ひんやりとした気配を彼から感じる。 「マリア先生なら留守だ。学生の本分は勉強だぞ。少なくとも、こいつは見習うな」 龍麻の胸中は知らず、犬神はごく普通の教師らしい事を言ってその場を去った。 「やれやれ、相変わらず陰気な奴だぜ」 「怒らせると怖そうだな。首でも食いちぎられそうだ」 何気なく言ってみただけの龍麻だったが、得体の知れない戦慄を感じて一度だけ身震いした。自分にもまだこんな感情が残っていると知って、驚いた龍麻である。 そこで、昼休み終了を継げるチャイムが鳴った。 「ああ、気分悪い。早いところ戻ろうぜ、緋勇」 「肯定だ」 この学園はやはり変わっている、と、自分の事は棚に上げて考えた龍麻であった。 第壱話 転校生 1 完 目次に戻る 前(龍の刻 4)に戻る 次(転校生 2)に進む コンテンツに戻る |