第零話 龍の刻 4





 
 龍麻は真っ直ぐ廃屋には向かわなかった。

 鳴滝に言ったように、自分は武道家ではない。勝つ為にはどんな汚い手段でも用いるし、それを実行するだけの強靭な精神力もある。

 この数日、自分は人間だったと思う。《奴ら》に捨てられた時、仲間たちと目指した、泣きも笑いもする、人間。人間社会への侵入は果たしたが、真の意味で人間とは言えなかった。あの二人との接触が、自分を人間に近づけた。

 ――助けなければならない

 任務だから、ではない。一個の人間として。あの二人を救うためならば、今一度人間を捨てても構わない。

 マンションに戻った龍麻は、家具と呼べるものは粗末なパイプベッドとテーブルくらいしかない殺風景な部屋を横切り、押入れを空けた。押入れの中にも僅かな衣類と本が数冊あるきりで、がらんとしている。そして龍麻は天井板を外し、天井裏に隠されていたスーツケースを取り出した。

 ほこりを払い、テーブルの上に置いても、龍麻はすぐにスーツケースを開けようとはしなかった。

 ふと、壁のカレンダーに目をやる。

「十ヶ月か。長かったのか、短かったのか…。」

 珍しく神妙に呟き、彼はダイヤル錠を解除し、ケースを開けた。

 ぷん、と鼻を衝く特殊オイルの匂い。それを目にした時、前髪の間から僅かに覗く目が、凶暴な獣の光を放った。

 油紙の包みを一つ取り上げ、慎重に包装を解く。まるで、自分の殻をも破るように。そして、青く光る鉄の塊が姿を現した。

 十ヶ月前、ある想いとともに封印した品だった。《人間として生きる》ために、その約束を交わした友の事と共に。だがたっぷりと油を注されていた青い凶器は、再び外気に晒されて、龍麻にこう語りかけてきた。

《戻ってきたな。よろしく頼むぜ》

 龍麻は手が油まみれになるのも構わず、それを握り締めた。

 現代ではあまり見られなくなった、芸術的な角度がシャープなラインを描くグリップ。美しいチェッカリングを刻んだ胡桃材には、素晴らしい曲線を持ったサムレストが付いている。そして本体に刻み込まれた、馬のマーキング。アメリカの三大ガン・メーカーの一つ、コルト社が世に送り出した二二口径ピストルの傑作、コルト・ウッズマンであった。

 銃には持ち主の思想、性格が現れるという。だとすれば、その持ち主である龍麻は徹底した《実戦人間》だ。原型は銃身長四インチのスポーツ・タイプだが、銃身を半分…二インチまで切り詰め、照星も照門も外してある。射程距離を犠牲にして銃身を切り詰めるのは、コンマ一秒でも速く銃を抜くためであり、角のあるサイト類はとっさの場合、服などに引っかかる恐れがあるからだ。拳銃を近接戦闘用と割り切った者だけが行える改造カスタムである。

 冷たい鉄と、手に完全に馴染むグリップとの一体感に浸るのはそこまでで、龍麻は素早くウッズマンの分解、整備に取り掛かった。

 余分なオイルをふき取り、パーツの状態をチェックしつつ組み立て直すまで、僅か二分。いかに構造が単純で、パーツ数の少ないウッズマンと言えど、相当やり込んでいなければ不可能なスピードと正確さであった。

 次に、予備も含めて五本分の弾倉に22LR(ロングライフル)弾を詰める。

 実戦の現場では九ミリや四五口径が全盛であるが、それは二二口径LRが劣っているということでは決してない。音がかなり小さく、サイレンサーを使用すればほぼ完璧な無音化が可能であり、携行弾数においても直径五・五六ミリというサイズなら五〇発入り五×一〇列のケースが掌に納まってしまう。これが三八口径(九ミリ)や四五口径(一二ミリ)ともなれば、ケースも重量も一挙に八倍強になるのだ。

 弾倉マガジン一本に付き一〇発。計五〇発を詰め終え、内一本を本体に差し込み、遊底スライドを引いて薬室チェンバー弾丸ブリット装填ロードする。そこで一旦弾倉を抜き、弾丸を一発追加して再び戻す。コンバット・ローディングという技法である。この状態で遊底を固定すると同時に引き金トリガーを解放する安全装置セフティをかけておけば、撃鉄ハンマー内蔵型のウッズマンならまず暴発の危険はない。発砲時には親指で安全装置を外すだけで良い。

 ビアンキ製のヒップホルスターにウッズマンを納め、上着を羽織った状態で、龍麻は姿見の前に立った。外見上はまったく問題はない。

 次の瞬間、上着を跳ね上げて、ウッズマンを抜き撃ちに構える。右手がスタートしてから〇・三秒。抜き撃ち専用にカスタマイズされたウッズマンとは言え、抜いた位置を考えるとプロの世界でも驚異的なタイムだ。

 十ヶ月のブランクが腕に影響を与えていないことを確認し終わると、龍麻は想定される使用状況に合わせてナイフ他、二点ほど追加装備を取り出し、身に付けた。やはり、外見ではそんな物騒な凶器を携帯しているようには見えなかった。

 全ての準備を整え、アタッシュケースを閉じようとした時、油紙の包みがバランスを失って転げ落ち、中身を滑り出させた。それを目にした龍麻の目が、初めて感慨に耽る。

 それも、コルト・ウッズマンであった。ただし龍麻が携行を決めた物と微妙に異なり、マガジン・レリーズがグリップ下部に付いているサード・ジェネレーション。太い銃身ブルバレル長は僅かに一・五インチ。グリップにはサムレストが刻まれておらず、セフティは指をかけやすい大型の特注品に変えてある。それが、いざという時左手で使用できるようにしたものだと知っている者は、この世にはもはや龍麻しか残っていない。

 龍麻は油紙を元通りに畳み、アタッシュケースを閉じた。

「…戦闘開始だコンバットオープン

 呟く龍麻の目が、爛! と光った。

 帰って来たのだ。戦場に。十ヶ月間、緋勇龍麻と名乗っていた少年の全身から、高校生にはあり得ない殺気が立ち上った。





 外には月明かりが満ちていた。

 吐く息は白く、凍てつく空気は剥き出しの皮膚を鋭く刺すが、夜の散歩には最高の演出であった。

 その中を、龍麻はゆっくりと歩いた。物好きな夜の散策ではなく、戦いに赴くために。

 鳴滝に教えられた廃屋はすぐに見つかった。元々は中規模な工場があったところで、周囲に民家はない。再開発予定区ではあるものの、工事用フェンスを張り巡らせたのみでほったらかしにされているので、明日香学園の不良たちにとっては格好の溜まり場となっている。そして今は、莎草がそこに君臨しているのだった。

 龍麻は時計を確認した。さとみが攫われてから既に三時間が経過している。これ以上さとみと連絡が取れないとなれば、さとみの両親が騒ぎ出すだろう。飢えた男どもに攫われたさとみに何かあるには充分過ぎる時間だからだ。

 もっともその点について、龍麻は考えない事にしていた。非情ではあるが、最悪、生きてさえいれば良いと。それに無意味な希望的観測だが、莎草の性格を考えれば、まだ無事である可能性も捨てきれない。あの偏執狂は自分を恐れさせ、服従させる事に異常な執念を燃やしている。さとみを強姦するのはたやすいだろうが、莎草はそれだけでは満足するまい。

 いずれにせよ、やるなら早いほうが良い。学校側が、警察が動く前に決着を付けるつもりだった。

 周囲に人目がないのを確かめ、龍麻は廃屋へと侵入した。

(見張りはなし。…いや、一人か)

 放逐された機材の陰から陰へ、龍麻は猫のように静かに、素早く移動した。月明かりの届かぬ建物内では、その姿を捉える事など不可能である。龍麻はたやすく、見張りと思しき男に背後から接近し、口を手で押さえざま、機材の陰に引きずり込んだ。

「うぐぐ!」

「声を立てるな」

 ナイフを首筋に突きつけ、龍麻は低い声で恫喝する。しかし相手は、激しく身をよじりもがいた。必死で何かを訴えている。

 そこで龍麻は、ようやく間違いに気付いた。

「…焚実か?」

「その声は、緋勇!」

「大声を立てるな。ここで何をしている」

 言ってから、何を馬鹿な事を聞いていると反省する。焚実はさとみを助けに来たのだろう。――自分とは違って。

「こ、この先にさとみがいるらしいんだ。だから助けないと――ッッ!」

 その時、突然強烈な光が二人を照らし出した。

「ッッ!」

「うおッ!」

 とっさに目を半眼にして視覚を護る龍麻。光源の正体はバイクのヘッドライトだった。

「やっぱり来やがった。本当にしつこい奴らだぜ」

 へっへっへ、と下品な笑いを洩らしながら、莎草に忠誠を誓ったA組の生徒たちがまろび出てくる。先程殺されかけた生徒も一緒だ。しかし、どの目にももはや人間らしい、理性の光は残っていない。恐怖が精神を押しつぶし、生きた人形と化してしまったのだ。それも、狂った人形に。

 そして最後に、悠然と莎草自身が姿を現した。

 先程よりもずっと濃密な、邪悪な気配が増している。鳴滝の言う《魔人》の意味が、今なら判る気がした。《たかがヒトごとき》。それを口にした時点で、莎草は人間を捨てたのだ。

「わざわざ死にに来るとは、馬鹿な奴らだ…」

「莎草!お前ッ、さとみをどうした!」

 掌で目をかばいつつ焚実が叫ぶ。すると莎草は悠然と人差し指を廃屋の奥に向けた。

「ッッ!? さとみ――ッッ!?」

 それは、奇妙な光景であった。恐らく意識を失っているのだろうが、両膝を地面に付いているさとみの両腕は、何も見えないのに上から吊られているように高く上げられているのである。

「莎草! お前ッ、さとみに何をした!!」

「……」

 今にも飛び掛らんばかりの焚実に、しかし莎草は皮肉な笑いを浮かべるだけであった。

「莎草ッッ!」

 ライトの光を遮りつつ、焚実が莎草に詰め寄る。まさにその時、莎草の全身から血色の輝きが湧き出した。赤く揺らめく、炎のようなオーラ。酷く禍々しい。

 そして、比嘉がそこで動きを止める。

「クッ…! 身体が…動かない…!」

「…学ばない奴だ。目障りなんだよ…比嘉。」

 これに関しては、龍麻も同意見だ。焚実は直情的に過ぎる。そこが彼の良いところでもあるのだが、このような状況では死期を早めるだけだ。

 じり、と龍麻が動くが、それを目ざとく見つけた莎草が釘を刺す。

「緋勇とかいったか…動かないほうが良いぜ。ちょっとでも動いたら、こいつもそこの女もどうなるか判ってんだろうな?」

「……」

 龍麻の沈黙を肯定と取ったか、莎草は耳障りな声で笑い声を上げた。

「いくら足掻いたところで、お前らは俺には敵わない。平凡な人であるお前らが、俺に勝つ事などできない」

「何だと…?」

 答えたのは焚実である。龍麻はそもそも、莎草の言う事など耳に入っていない。

「比嘉。お前は《運命の糸》の存在を信じるか?」

「運命の…糸?」

「そうだ。よく《運命の糸で結ばれている》とか言うだろ? 人の出会いや恋は、全てそういう魂から伸びたその糸によって運命付けられている――というようにな」

「……?」

 焚実は訳が判らず沈黙した。だが、自己陶酔の演説を続ける莎草は気にもしていない。

「だが、こう考えた事はないか?《運命の糸》は人と人とを結び付けているのではなく、我々の魂から伸びるその糸は神の元へ繋がり、その御手によって操られているのではないか――とな。くくくッ…。神が気まぐれに操ったその糸によって人は動かされている。まるで操り人形のように」

「俺たちの一生が神に操られているだって?馬鹿馬鹿しい。そんなの妄想だ」

 吐き捨てるように言う焚実に、莎草はやれやれとかぶりを振る。

「クククッ…。平凡なお前らには、一生、知る事のない世界かもしれないな」

「なんだと…」

「…ここに転校してくる前の事さ。俺はある日、不思議な力が宿るのを感じた。――向こうじゃ珍しくもない話がきっかけさ。ゲーセンで下らない奴らに絡まれた時、そいつらが向こうに行けばいいって念じたのさ。するとどうだ? 一人は道路に顔を突っ込んで自滅、もう一人は車道まで飛び出していってダンプに突っ込んだ。クククッ。皆呆然としてたぜ。誰が見たってそいつらが勝手にやったようにしか見えなかったんだからな。だが俺には見えたのさ。そいつらの、更に周りにいた連中の身体から、天に向かって伸びる細い糸がな。その日を境に、俺は思うがままに、他人を操れるようになったのさ」

「他人を…操る? それじゃ自分で目を刺したって言うあの子も――」

「そうさ! 俺がやった! ――人間は、皆、神によって操られている人形に過ぎない。俺はその神の《力》を手に入れたのさ。いや、神そのものになったのさ!」

 ビクン! といきなり焚実の両腕が跳ね上がり、彼自身の首に食い込んだ。

「う、腕が勝手に…!」

「くくくッ…見えるぞ…お前の魂から伸びている《運命の糸》が――」

「馬鹿…な…!」

「《運命》を逆に読むと《命運》。クククッ、まさに、俺は人の《命運》を握っている事になる。お前は自分で自分を殺すんだ…比嘉。俺に楯突いた事を悔やむんだな。――そらそら、締まるぞ…」

「ぐ…が…!」

 焚実の顔がみるみる真っ赤に、次いで青紫に変色する。それを楽しそうに見ている莎草は、龍麻に視線を向けた。

「こいつを始末したら、次は緋勇、お前の番だぜ。」

 その芝居がかった台詞。自分の言葉に酔ったような莎草に対し、龍麻はくすっと笑いを洩らした。場合によっては大声で嘲笑されるより、プライドを傷付ける笑いだった。

「てめえ! なにがおかしい!」

「本当にサル並の記憶力だな。お前ごときでは俺には勝てないと言っただろう? お前の惨めな敗北は、俺を敵に廻した時点で既に決定していた」

「なッ…何だとォ!」

「口では殺すのなんのと言っておきながら、自ら手を下せぬ臆病さ。自らを誇るあまり、最大最後のチャンスさえ棒に振る馬鹿さ加減。…そろそろ茶番劇は終りにしろ、餓鬼」

「くッ! テメエ! テメエから先にぶっ殺してやる! 俺の力でテメエを操って――」

 最後まで言わせず、龍麻は手にしていたものを、アンダースローで莎草の足元に放った。

 思わず、そちらに気を取られる莎草。銀色の円筒は床で二回跳ね、次の瞬間、強烈な閃光を発して爆発した。

「ギャッッ!!」

 眩いを通り越す、白い閃光。龍麻が投げたのは、対テロ組織で使用される閃光手榴弾スタングレネードだった。強烈な音と光で視覚と聴覚を破壊し、複数のテロリストを同時に無力化する非殺傷兵器である。

 そこに、シュン! と鋭く空気の洩れる音が重なる。

 一瞬の間を置いて、今度はバイクのガソリンタンクが爆発、炎上した。龍麻がサイレンサーを装備したウッズマンを発砲したのである。爆発の炎が瞬時に不良たちを、そして莎草を巻き込む。一二五CCのバイクだからタンク容量はたかが知れていたが、それでも不良たちを火達磨にするには充分であった。運良く被害の少なかった莎草を除き、不良たちは悲鳴を上げつつ地面を転げまわり、幸いにも火は消えたものの重度の火傷に体を痙攣させる。

「目が! 俺の目がァ!」

「言った筈だ。お前の敗北は決定していたと」

 龍麻は莎草に近付き、一片の容赦もなくその髪を掴み上げた。

「貴様の敗因は、相手の戦力もわきまえず、自分の力を誇りすぎ秘密をしゃべりすぎたところにある。そしてその力の欠点は、相手を見なければ使えぬ事だ。従って目を潰せば、お前は二度と力を使えん」

「〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 チャキッとナイフが音を立てた。焚美は知った。龍麻が本気だという事を!

「お前もやった事だ。自分がやられるのも覚悟の上だな?」

 そして龍麻は、ためらいもなくナイフを走らせ、莎草の両眼を真一文字に切り裂いた。

「ギャアアアアアァァァッッ!!!」

 鮮血が奔騰し、莎草は両眼を押さえて地面を転げ回った。

 途端に、焚美が行動の自由を取り戻して地面に膝を付き、激しく咳き込む。さとみも見えぬ支えを失ってくたりと地面に倒れた。

「ひ、緋勇…お前…!?」

 莎草が異常な《力》をひけらかした以上に、焚美は龍麻が閃光弾を使用したばかりか、拳銃まで発砲し、あまつさえ容赦なく莎草の両眼を切り裂いた事に驚きを禁じえなかった。

 そこに立っているのは、ほんの数日前に知り合った少々変わった友人ではない。何か得体の知れない、莎草以上に危険な何かだった。鳴滝のような大人が手も足も出せないと言っていた莎草を、こうもあっさりと撃退してしまったのである。

 しかし恐怖に満ちた焚美の視線を気にする事なく、龍麻は携帯電話を取り出し、拳武館支部の番号をプッシュした。

「――任務完了ミッションコンプリート。莎草以下数名の回収と、救急車の手配願います」

 一方的にそう言うと、龍麻は携帯電話をポケットに突っ込んだ。

「緋勇――」

「何も聞くな」

 焚美の言を遮り、龍麻は鋭い口調で言った。

「今日を境に、俺も莎草も姿を消す。お前は何も知らないままでいろ。それがお前にとって、さとみにとって最良の道だ」

 自分の正体を知る事。それを誰かに話す事は、普通人である焚美やさとみにとっては死を意味する。考えてみれば、潜入工作技術に優れている訳でもない自分がよく今日まで正体を悟られずにいられたものだ。この一件がなければ、あるいはそのままでいられたかもしれない――と考え、龍麻は頭を振ってその考えを振り払った。この場で焚美とさとみが死んだとしても、莎草が残る。そして莎草は必ず自分に突っかかってきただろう。結局、早いか遅いかの違いだけで、正体がばれる日は来ていたのであろう。

「緋勇」

「さとみを護ってやれ、比嘉焚美」

 らしくもない台詞だと自分でも判っているが、龍麻はそう口にした。そのくらいしか思いつかない自分が、なぜか腹立だしかった。

 しかし、突然、龍麻の背後に巨大な《気》が膨れ上がった。

「ッッ!!」

 思い切り地面を蹴り、横っ飛びする龍麻。一瞬前に彼がいたところに、鋭い裂け目が走った。古いとは言え、コンクリートの床に!

「さ…の…くさ…!?」

 焚美が恐怖に濁った声を上げる。

 果たして、《それ》は本当に莎草であったか?

 痩せ型の肉体は今や青い筋肉の塊となり、バンダナを巻いていた頭からは全て毛髪が抜け落ち、代わりに二本の角が生えていた。爪と来たらまるで虎のごとき鋭さ。《鬼》――比嘉はそんな言葉を連想した。

「シャギャアアアッッ!!」

 《鬼》が吠えた。

 その場で《鬼》が手を振った。龍麻は何か強烈な殺気が頭上から降って来るのを感じ、後方にトンボを切る。

 旋盤がザン!と音を立てて切り裂かれる。鉄骨も、ドラム缶もあっさりと二つになった。目に見えぬほど細い――糸のようなものの存在を龍麻は感じた。

(ワイヤーソーか、それに類する物か!?)

 龍麻は二転、三転し、目に見えぬ刃をかわす。そして空中でウッズマンを抜き放った。

 バシュ!バシュ!バシュ!バシュッ!

 ジャンプしてから着地までの僅か二秒の間に《鬼》の眉間と心臓に二発づつ22LRが叩き込まれる。だが、《普通》の人間相手ならば有効な弾丸も、大型猛獣並の筋肉を備えた《鬼》には通用しなかった。僅かに筋肉の表面に食い込んだ弾丸は、《鬼》が軽く力をこめただけで体外に排出されてしまった。眉間に至っては、弾き返されてしまったのである。

 さすがに驚く龍麻。その瞬間、糸の一本が彼の肩口を捉えた。

「緋勇ッ!」

 龍麻の左肩口がぱっと血を噴く。彼の制服がワイシャツまで裂け、彼の左半身が剥き出しになった。そこに焚美は、龍麻の左肩に刻まれた刺青を見てしまった。

「クッ!!」

 地面に片膝を突きながらも、全弾を《鬼》の顔面に集中させる龍麻。目と口を狙ったのは流石と言う外ないが、《鬼》もそれは承知の上だった、太い腕を眼前に掲げ、致命弾を受け止める。そして、刃を放った。寸前でかわす龍麻であったが、彼の脇にあった鉄の柱が斬られ、頭上から鉄骨が滑り落ちて彼を叩きのめした。

「龍麻ァッ!!」

 何とか身を起こす龍麻。しかし今ので肋骨が折れてしまった。猛烈な吐き気が龍麻を襲う。そしてウッズマンは、五メートルも向こうに吹っ飛んでいた。

「グルルルルルッッ!」

 龍麻が生きている事を知り、目に残虐な光をたたえて迫り来る《鬼》。

(まずい…!)

 《鬼》の腕が振り上がる。龍麻も反射的に腕でガードしようと試みる。頭上より襲い掛かる死の刃!龍麻の両腕が裂けて血を噴いたが、切断されはしなかった。その意外な光景に、《鬼》も、龍麻自身も驚いた。

 その時、龍麻の頭の中で何者かが囁いた。



 ――目覚めよ――



(なんだ…!?)



 ――目覚めよ――



 目の前にフラッシュバックするのは、大きな男の背中。雄大で、力強く、信頼感溢れる男の背中――



(緋勇弦麻――俺の…父親…!?)



《龍麻よォ…。強く生きな…。俺はお前を護ってやれねェが、お前には俺の全てが伝えてあるんだ…》



「シャギャアアアッッ!!」

 《鬼》が吠えた。地面を蹴り、空中から刃を叩き付けようとする。

 龍麻の中で、何か熱い塊がゴオ!と音を立てて奔騰した。

 自然に腰が落とされ、右拳が弓を引き絞るかのように大きく引かれる。身に付けた戦闘技術とは明らかに異なる技法。だが龍麻は、一度も使った事のない《技》の使い方が判った。そして、それしか《鬼》を倒せない事も。

「破ァァァッッ!!」

 左足先から始まる回転を腰の捻りに乗せ、その中を駆け抜けるエネルギーが螺旋を描きつつ腕を通り、掌から放出されるイメージで《掌打》を放つ。だが、それは《掌打》ではなかった。本来イメージとしてしか捉えられないエネルギーが、眩い輝きとなって撃ち出されたのだ。それは《鬼》の胴体をぶち抜き、反対側にまで抜ける風穴を作った。《鬼》はその勢いのままに吹っ飛ぶ。

(――何だ、今のは!?)

 そのような技を放った事が、龍麻には信じられない。しかしそれに拘泥する暇はなかった。《鬼》が立ち上がったのだ。

(もう一度できるか!?)

 今の構えをなぞるように、もう一度腰を落とす龍麻。しかし、《鬼》の身体が大きくぐらついた。

「か…身体が…身体が溶ける…いやだ…死にたくない…! 死にたくないよォォォォォッッ…!!」

 その現象をなんと説明すればいいのだろう。《鬼》と化した莎草の身体が血色の霧を噴出したかと思うと、その筋肉も骨格も、みるみる霧となって溶けていってしまったのだ。崩壊は極めて速やかに行われ、僅か十数秒の間に、莎草覚と名乗っていた生命体は、その全てを痕跡一つ残さず消滅させてしまった。

 しばらく、沈黙が辺りを支配した。

「な…何が…一体何がどうなっているんだ…?」

「…判らん」

 重い空気に耐え兼ね、焚美が声を絞り出す。だが龍麻も、やっとそれしか言えなかった。

 思い当たるのは、鳴滝に聞いた陽と陰の理。《陰に魅入られた者は異形のものと化す》。

 その時、床の上でさとみが小さく呻き声を上げた。

「さとみ!」

「う…ん…。比嘉君…緋勇君も…」

「ああ。緋勇が助けに来てくれたんだ」

 さとみは頭を振って起き上がろうとするが、自力では叶わず焚美に支えてもらってやっと上半身を起こした。

「莎草君は…?」

「あ、ああ…。――緋勇、俺にはもう、何がなんだか判らないよ。莎草はどうなったんだ? お前は何をしたんだ?」

 龍麻は僅かに沈黙し、やがて口を開いた。

「俺にも判らん」

「そ、そうか…」

 さとみには、なぜ焚実が龍麻に対して恐れているような態度を取るのか理解できない。しかしそこはさすがに焚実らしかった。彼はこう言ったのだ。

「緋勇。お前も怪我をしている。さとみと一緒に病院に行こう」

 龍麻はしばし逡巡した。

 自分の目的は果たした。莎草は殲滅し、さとみも焚実も救助できた。後は自分が消えればいい。そう思っていたのだ。

 焚実は自分の正体を見た。今は知らずとも、いずれ知る事になる。その時自分が近くにいれば、まず焚実もさとみも抹殺のターゲットにされる。自分はここで消えるべきなのだ――

 しかし、龍麻の口は自然に動いていた。

「わかった。行こう」

 拳武館への連絡は済ませてある。そして龍麻自身、既に拳武館という組織の真の姿を知っていた。ここに不良どもを残していったとしても、後は拳武館の方で始末してくれるだろう。

 焚実はさとみに手を貸し、廃屋を出て行く。龍麻もそれに続いて廃屋を出て行った。そして一度だけ、廃屋の入り口付近の闇に向かって敬礼する。それきり、彼は後ろを振り返る事なく歩き去った。

 彼らの姿が完全に見えなくなってから、闇が口を開いた。

「どうやら…どうやら倒せたようだな。少し荒療治ではあったが、功を奏したようだ。――あの少年も土に還ったか。どうやら、人としての精神が陰に侵され過ぎると、あのような姿に成り果ててしまうのか。そして《鬼》となってしまえば、死してその肉体を現世に留める事は叶わない。――《力》を悪用した報いだ。黄泉路の果てで悔やむがいい」

 闇を切り取って姿を現したのは、実はずっと気配を消して龍麻を尾行つけていた鳴滝であった。いざとなれば彼も、今は枯れ果てた《力》を使って彼を助けるつもりだったのだ。

 「弦麻よ…今ごろ雲の上で俺を恨んでいるのだろうな。だが、今また東京にはお前の《力》が必要なのだ。お前の血筋を受け継ぐ者の《力》が――。お前の息子なら、我々の期待に立派に応えてくれる。アメリカ軍を敵に廻して生き残ったのだ。《力》に目覚めれば、きっと我々の遣り残した仕事も――いや、言うまい。全て、あの子が決める事だ。」





 その事件は、数名の生徒失踪事件として新聞紙上をにぎわせたが、数日を経ずして誰の噂にも上らなくなった。政治的には拳武館が、そして生徒たちの噂話には、日々の生活という忙しさが、答えのない疑問を忘れさせたのだ。

 そして、龍麻は――

「本当…なんだな。うん…疑問なんかないよ」

 焚実はそう言って、薄く笑った。身体のどこにも異常がなくなった事が確認され、さとみが退院した次の日の事である。

「お前たちは恐ろしくないのか? この俺が」

「怖くないと言えば嘘になるけど…。なんと言うか…俺たち、友達だろ?」

「そうよ、龍麻君」

 さとみはにっこりと、極上の笑みを龍麻に送った。

「元軍人…アメリカ陸軍特殊実験部隊レッドキャップス…か。でも、関係ないわよ。今の君は、緋勇龍麻君。そうでしょ?」

「……ああ」

 そう口にするまで、随分時間がかかった。焚実もさとみも微笑する。

「この事は一生の秘密にするわ。龍麻君の事は、龍麻君にしか喋らないわよ」

「ああ。俺もそうさ」

 そこで二人は、そこに美しいものを見た。

 比嘉とさとみ。この二人の人生の中で、かつてそれを浮かばせた事が誇りに思えるような、龍麻の笑みであった。

「ありがとう」

 龍麻は初めて、この言葉を使用した。彼にとって、焚実とさとみが、真の意味での《友》であった。心を込めた言葉。彼らは、それを送るに相応しい。

 しかし――

「それで…龍麻君。…転校するって、本当なの?」

 それを聞くにはかなり勇気を必要としただろう。さとみも焚実も項垂れている。

「三ヵ月後だ。東京の、新宿に行く」

「本当…だったんだ」

 さとみの声が沈む。

「鳴滝氏の道場で古武道を習っている。俺の《力》を制御するためだ。向こうには莎草のような《力》を悪用する者がまだいるらしい」

「そうか…。そうだな…。そんな連中から皆を護れるのは、お前しかいないもんな。――寂しくなるな」

「何を言っている。所詮は国内だ。会いたい時はいつでも会える」

 龍麻の言葉に、さとみも比嘉もぱっと顔を輝かせる。そうなのだ。確かに離れ離れになるが、それは一生の別れを意味するのではない。

「うん! そうだよね!」

「東京行ったら招待してくれよな! 遊びに行くから!」

「ああ。約束する」





 この三ヵ月後、龍麻は東京に旅立つ事になる。東京、新宿、真神学園へ――





 第零話 龍の刻 4      完



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