第壱八話  餓狼 6





「く、クソが…ッ!」

 触れてはならぬものに触れてしまった背教者の恐怖! しかし龍麻は目をぎらつかせて刀を構える八剣の傍らを無造作に通り過ぎた。

 ――くれてやる。

 龍麻は京一にそう告げたのだ。

「さて、こっちもおっ始めようじゃねェか。なァ、八剣?」

 武蔵山を始めとする、拳武館の暗殺者三十一名を一人で相手をすると言う男をまるで気にする様子もない京一に、八剣は歯を剥いた。

「粋がるんじゃねェぜ…負け犬が! ――今度は狸寝入りなんざ通じねェ。そっ首叩き斬ってやらァ!」

「おーおーおー。勇ましいねェ。――無駄口はいいから、さっさとかかって来なって」

 口調はおどけているが、鮮烈なる眼光。京一の木刀は緩やかに、青眼に構えられた。

「邪ッッ!!」

 先手必勝! 剣の間合いなど無視して、八剣は刀を振るう。――【鬼剄】! 

 タン! と京一が地を蹴った。

「――ッッ!!」

 五メートル以上の間合いを瞬時に詰める運足! 刀を振り下ろした姿勢の八剣の喉元に、京一の木刀の切っ先が突き付けられていた。当然、京一を襲う筈だった【鬼剄】は目標を失って大気に散華している。

「試合なら一本だぜ?」

 ズン…ッ! 

「ゲボォッッ!!」

 切っ先が触れた状態から僅かな突きを入れる京一。だが八剣は喉元に凄まじい衝撃を受けて仰け反り、激しく咳き込んだ。――ただの突きではない。言わば剣術における【寸剄】だ。

「ウォーミングアップはなしだぜ。本気で来な」

「グ、グゾオッッ!!」

 二度放つ【鬼剄】! 袈裟懸けと逆袈裟懸けに走った刀から飛ぶ【鬼剄】が、京一の背後から腎臓と首筋を狙ってそれぞれ異なる軌跡を描いて襲い掛かる。

 ヒュッと風を切る京一の木刀。どうせ見えぬものならと、京一は目を軽く閉じていた。手首の動きだけでむしろ緩やかに走る木刀が、タイミングを違えて襲い掛かる【鬼剄】を尽く撃墜してのける。

「ば、馬鹿な! なんで【鬼剄】を撃ち落とせるッ!?」

 僅か五日前、京一は【鬼剄】を撃ち落とすどころか、相殺する事も、命中する瞬間まで感知する事さえできなかったのだ。それが今はどうだ? 八剣が全力で放っている【鬼剄】をいともたやすく撃墜する。

「――タネが判ればどうって事じゃねェさ。そもそもテメエの【鬼剄】は【練り】が足りねェ。だからこそ数を増やして威力を補っているんだろ? その程度じゃとても必殺技なんて言えねェな」

「――黙れッ!!」

 【鬼剄】がかき消されるのに業を煮やし、直接刃を袈裟懸けに振るう八剣! 

 ギャリ――ンッッ…! 

 木と鋼が打ち合い、弾き飛ばされたのは鋼の刃であった。それも、八剣が両手で打ち込んでくるのに対して、京一はただ木刀を片手で払っただけである。

「チィィ――ッッ!!」

 胴打ちに走る白刃! 【気】のこもった刃だ。当たれば胴を分断する。――当たれば。

 ひょいと一歩踏み込み、切っ先を地面に向けて刃を受け止める京一。そして引き攣っている八剣の顔面にパンチを一発お見舞いする。鼻血の糸を引きつつ吹っ飛ぶ八剣。

「ぶがっ…がっ!」

 これは、もはや剣を使うまでもないという事か? 八剣の【鬼剄】そのものは驚嘆の技ではあったが、威力はチンピラが振るう木刀程度。本来の剣術レベルは一般競技者レベルに毛が生えた程度のものでしかなかった。それに対して京一の剣術は幾多の死線を潜り抜けてきた【本物】である。彼らの差は大人と子供以上の隔たりがあった。

「…技に溺れるってのは、正にテメエみてェな事を言うんだろうなァ。ま、俺もあんまり他人の事は言えねェが」

 鼻の頭をコリコリと掻き、京一は薄く笑った。

「己より優れたるものは何人なんぴとと言えど師と仰ぐべし、か。――これでも感謝してるぜ、八剣。テメエのお陰で今までずっと逃げてきたモンと向き合う事ができたしな。だからテメエに、俺の取って置きを見せてやるよ」

 京一の木刀が青白い清浄なオーラに包まれ、やがてそれは太陽のような白色光に変わる。【真神愚連隊】の一同には久しぶりに見る京一の【気】だが、かつてのものよりもより大きく、圧倒的な【気】に思わず目を見張る。

 だが、それは唐突に消えた。

「――ッッ!?」

 肩に担いだ木刀が、瞬間移動したかのように振り下ろされた。だがそこは間合いではない。ただの空振り――

「――グワァッッ!!」

 突然、背後から襲いかかってきた衝撃に八剣は地面に叩き伏せられた。

「グハッ…! ――い、今のは…まさか【鬼剄】…ッッ!?」

「――その【まさか】さ。ただし目一杯加減して打撃に変換したモンだ。本物の【剣掌・鬼剄】は――」

 ヒュッ! と風を切る音は、木刀が振られた後で響いた。その直後! 

 ズガァァァァンンッッ…!! 

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 八剣のすぐ傍で、コンクリートの壁が縦横四メートル…天井にも届くレベルで崩壊する。それほどの破壊を行ったエネルギーを、誰一人として感知できた者はいなかった。

「…これで出力二〇パーセントってところだ。――本物の【鬼剄】を見るのは初めてかい? トッチャンボーヤ」

「ぐ…!」

 かつて自分が放った台詞を返され、八剣は屈辱で顔を真っ赤にする。

「だがそいつは無理もないぜ。俺の師匠も、この技だけは教えちゃくれなかった。【鬼剄】は【陰】に属する殺戮の技。たやすく人を堕落させる魔性の技。――【仏心ぶっしんあらねばこれ使う事あたわじ】――。殺しに酔うような奴に使いこなせる技じゃねェんだよ」

 スウ、と青眼に構えられる木刀。何のけれんもはったりもない、最も基本的な構え。

「――来な、八剣」

「――ッッ死にくされッ! クソがァァッッ!!」

 白刃をまっすぐに向け、放った技は――刺突! 京一の木刀が切っ先を跳ね上げて眼前に迫る死の刃を弾き――

「――面」

 一陣の風がその一言を残して駆け抜けた直後、八剣は頭頂に凄まじくも清々しい衝撃を受けてホームに沈んだ。











 八剣を無視してさらに前へと進み出た龍麻の前に立ちはだかったのは、一八〇センチに届く龍麻でも見上げるほどの巨漢、武蔵山であった。身長二〇五センチ、体重二〇〇キロ。だが、決して肥満体ではない。敢えて言うなら、大相撲の力士に言うアンコ形に近い。

「ぐひひッ、お前がおでの相手になろうと言うでごわすか。いい度胸しているでごわすねえ」

 自信過剰も無知から来ているとしか思えない台詞であったが、醍醐は「ほう」と唸った。丸々と太った武蔵山の身体がふわっと一メートルほども浮き上がったのである。ドスン! という地響きがびりびりとホームを震わせる。ウォーミングアップかパフォーマンスか、恐らく両方だろう。

「龍麻! その男は柔道と相撲が基本だが、【気】を操る技も心得ている!」

 壬生が警告を発する。だが、龍麻は聞いているのかいないのか、面白くもなさそうに武蔵山を見ているだけだ。

「ぐひひッ、余裕でごわすねえ。――すぐに、潰れるでごわすよ!」

 野球のミットよりもなお巨大な武蔵山の張り手! 遅い――が、【気】をまとわせ、当たれば一撃必殺だ。

 当然のように入り身になり、打って下さいと言わんばかりの武蔵山の太鼓腹に【掌打】の一撃! 

「――ッッ!?」

 龍麻の掌を中心に大きく陥没する太鼓腹! それはまるで極めて軟質なゴムのように龍麻の【掌打】を手首まで埋めてしまったのである。

「――ふんっ!!」

 肥満体特有の鈍い気合。だがボン! と膨らんだ太鼓腹に龍麻は跳ね飛ばされてしまった。――衝撃を受け止める柔軟な筋肉の塊が武蔵山の武器か!? 龍麻は跳ね飛ばされた位置からロングレンジの【掌底・発剄】を――! 

「ッッ!?」

 強力な魔物さえ原子に分解する【気】の衝撃! だが【気】の波動は武蔵山の巨体を波紋状に広がり、そのまま雲散霧消する。【掌底・発剄】が素通りした!? いや、【気】の波動は武蔵山の体表面を流れただけで、そのまま大地に伝って消えてしまったのだ。

「ぐひひッ。驚いたでごわすか? おでの身体はゴムより柔軟で【気】を良く通すでごわす。どんな打撃でも吸収し、【気】も素通りさせるでごわすよ。おではこの身体で何人もの発剄使いを潰してきたでごわすよ!」

「ッッ!」

 このような敵は決して初めてではないが、【神威】の能力外でこのような技を使う人間は初めてだ。さすがに驚いた龍麻に向け、初手の一撃とは比べ物にならぬスピードの張り手! 辛うじて腕を上げた龍麻であったが、ガードごと跳ね飛ばされ、ホームの壁に叩きつけられた。そこに武蔵山の――ショルダータックル! しかも武蔵山の肉体は鉄のように硬く変化している! 

 ドゴォォォォォォォォン…!! 

 見かけに反して俊敏な武蔵山は、龍麻が態勢を立て直す間も与えずショルダータックルを直撃させ、地響きを立てる勢いで壁との間に彼をサンドイッチにした。

「クッ! ――龍麻!」

 舌打ちして壬生が前に出ようとするが、それを押し留める、肩に置かれた手。

「大丈夫だ。龍麻はあの程度の相手に負けはしない」

「し、しかし…」

「大丈夫だって。なにせ、ひーちゃんだもん。…むしろ相手の方が気の毒だよね」

 壁に半ばめり込むような勢いで叩きつけられた龍麻を目の当たりにして、緊張感のかけらもない小蒔である。その隣では、葵も少し苦笑を交えて笑っていた。

「龍麻…京一君が無事に帰ってきてよほど安心したのね。油断はしていないけど、余裕が見えているわ」

 でも、と葵は少し表情を硬くした。

「でも、龍麻の中では怒りが渦巻いている。酷く危ない感じ…。何か…とんでもない事が起こりそう…」

「ああ、俺にも判る」

 醍醐も同意して顎に手をやる。

「先日の事件以来、龍麻は笑う事が多くなった。哀しんだり、怒ったりする事も。それは良いが、同時に無駄口や減らず口も増えて、敵を前に【遊び】まで見せるようになっている。――何か起こるとすれば、この後だ。美里、桜井、警戒だけは充分にな。龍麻もそれを望んでいる」

「ええ、そうね」

「ウン…判ってる」

 警戒? 警戒と言ったのか、彼らは? 

 壬生は混乱する。鳴滝の命令で今までの彼らの戦いを陰で見張り、事後処理を手がけていた壬生である。彼らの絆の強さも当然のように知っている。だが、彼らは今、龍麻に対して警戒すると言っているのだ。それも、龍麻の望みであると。

「――どうしたでごわす? 威勢が良いのは最初だけでごわすか?」

 勝ち誇ったような武蔵山の声が、壬生を前方の光景に注視させた。

 ガラガラと音を立て、龍麻は壁から身体を引き剥がした。壬生が驚愕する。あれほどの勢いで張り手を食らったにも関わらず、やはり大した怪我はしていない…!? 

 そして、彼は言った。

「…お前はどのように片付けられたい?」

「ぐひ?」

「ただの丸焼きでは芸がない。ローストでもたたきでも、好みの形に仕上げてやるぞ」

 ぐい、と吊り上がる龍麻の口元。龍麻は戦いに際して、相手を挑発し隙を誘う以外で、このような笑いを見せる事はなかった筈だ。

「ぐひっ、ぐひひひひひひっ。――気に入らないでごわす。その態度、その余裕。お前もおでの事を豚だとか思っているでごわすね?」

「――失礼な事を言うな。豚は牛や鶏と並ぶ偉大な生き物だ。彼らのお蔭で我々は食生活に潤いと喜びを得ることができると、常に感謝せねばならない。貴様のような脂肪ダルマごときと比べられるものか」

「…おでは豚より下でごわすか。言ってくれるでごわすねえ。――死ぬでごわすッ!」

 ブン! と空気を唸らせる武蔵山の張り手! 龍麻はその場を一歩も動かずにそれを受け止めた。が、次の瞬間、その腕を豪腕に掴まれる。

「馬鹿め!」

「――お前がな」

 掴んだ腕を引っこ抜く勢いで龍麻をホームに叩き付けようとした武蔵山であったが、その右腕が突如として色を失い、一気に肩口まで霜に覆われて凍り付いた。

「なッ、なんでごわすかッ!? これは!!」

 徒手空拳【陽】の奥義、【雪蓮掌】。副館長がもう少し龍麻のことを良く調べていれば、彼に触れるのも触れられるのも危険だと警告できただろうか? 

「――ケチな事は言わん。フルコースで味わえ」

 ヒュッ! と空気を唸らせる【掌打】。何を-――!? そう思うよりも早く、武蔵山の顔面が、胸板が、太鼓腹が音もなく斬線を刻んだ。皮下脂肪の厚さのために内臓までは届いていないが、吹き出る血飛沫に武蔵山が濁った悲鳴を上げる。一瞬で皮膚を鉄並みに硬化させたのに、それを真っ向から切り裂かれたのだ! 

「これは――風角の【カマイタチ】!?」

「それに――【鬼剄】の応用」

 かつて見た技と、今見たばかりの技のコラボレーション。龍麻の尋常でない格闘センスがここでも出た。【秘拳・鳳凰】は勿論、彼はとてつもない技を幾つも持っている。見たばかりの技でさえ再現し、アレンジまで加えることさえ可能なのだ。

 そして、龍麻の両掌に現れる炎――【巫炎】! 

「――好みはウェルダンか?」

 轟! と膨れ上がった炎が武蔵山の巨体を一息に包み込んだ。

「あぢゃァァァァァァァァッッ!!」

 超高温の炎に剥き出しの皮膚を炙られ、制服が燃え上がる。文字通りの火達磨になりながら、武蔵山は必死に転げまわって炎を消す。制服を引きちぎり、壁に、床に体を擦り付け、やっと火が消えたころには、武蔵山の巨体を見るも無残な火傷が覆っていた。

 だが、龍麻は――

「ふん。バツ点を入れても焼き加減が甘いな。ミディアムレアと言うところか」

「――ガアアッッ!!」

 恐ろしくブラックな事を言い放つ龍麻に、ドズン! と地を蹴り、自重二〇〇キロを乗せた大相撲のぶちかまし! だが龍麻は――その場を一歩も動かずにそれを顔面で受けた。トン単位に及ぶ打撃を急停止させられ、さすがに顔が引き攣る武蔵山。

 龍麻の手がむしろゆっくりと拳を固める。

 ドゴオッッッ!! 

 龍麻の強烈無比なボディーアッパー! 拳の纏う衝撃波が武蔵山の巨体を宙へと打ち上げる。だが、それで終わりではない! 

「余分な脂肪は、そぎ落とすか」

 続けざまに叩き込まれる神速の連撃! 【八雲】! 無数の拳の残像が空中の武蔵山に叩き込まれ、彼を地上へと落とさない。大地と繋がっていれば発剄のエネルギーは流せただろうが、どことも接地していない今の武蔵山は一撃ごとに打ち込まれる発剄をまともに受け、あろう事かそれぞれの波動が乱反射し、その部分が爆発した。とどめに龍麻が放った飛び後回し蹴りで拳武館の刺客たちの群れへと叩き込まれる武蔵山。地震国日本において、耐震構造に手抜きなどあろう筈もない地下鉄構内が地響きを立てる。質量にして僅か二〇〇キロの物体に、そこまでの加速を与えた蹴りの威力は推して知るべしだ。

「ゴホッ…おえェェェェッッ!」

 武蔵山は零れ落ちそうなほど目を見開きながら、吐瀉物をホームに吐き散らした。氷漬けにされ、切り刻まれ、炎で焼かれ、とどめには逃れようのない空中で発剄の連打を食らったのである。肋骨が粉砕され、常人ならばとっくに死んでいてしかるべきだが、【神威】の一員たる武蔵山はそれほど簡単に楽にはなれなかった。 

「――さあ、どうした? 寝るには早いぞ。かかって来い」

 重心を失った達磨のようにのたうつ武蔵山にかけられる、からかうような声。それに続いた言葉は、武蔵山を始めとする拳武館の刺客を蒼白にさせた。

「まだ手がある。足も、口も。――人間には二一五本の骨がある。俺が折ったのはたった七、八本だ。どうと言う事はあるまい?」

 ひゅうひゅうと喘鳴を洩らしつつ、武蔵山は恐怖の眼差しを龍麻に向ける。ようやく彼の鈍い頭でも、目の前にいる男が、自分ごときが手の出せる相手ではないと気付いたのである。

「お前達も遠慮は要らない。武器を取れ。銃を抜け。毒でも良い。ガスでも良い。――まだまだ夜はこれからだ。お楽しみもこれからだ。さあ! 早くかかって来い! 俺を殺してみせろ! ――C’mon、C’mon! C’mon!! C’monッッ!!」

 その辺のチンピラとは格段に異なる戦闘集団を相手に、なんという挑発。なんという暴言。――だが、龍麻は心底楽しそうに笑っていた。この戦いを、殺戮を楽しんでいる!? 

「――シィィッ!!」

 挑発に乗り、刺客の一人が鎖分銅を投げる。それを難なくかわす龍麻。

「きえええええッッ!!」

 気勢を発して放たれたのは、分銅の反対側に付けられていた鎌であった。――鎖鎌。さほど広くない地下鉄構内だが、障害物も少ない。遠心力で振り回される鎌が姿を捉えられなくなるほどにスピードを上げる。常人では――見切れない! 

 にい、と刺客が笑った。鎖鎌の間合いはゼロから鎖の長さ一杯――五メートルまで自在にコントロールできる。

 電光のごときスピードで鎌が龍麻を襲った。

「――ッッ!!」

 次の瞬間、刺客の肩口に鎌が突き立った。

「ッッぎゃああァァァッッ!!」

 鎌を投げた本人がその犠牲になる――その原理は単純だが、実行するのは龍麻でなければ無理だ。遠心力を利用した武器はその先端部が音速にも達する。龍麻は鎌が行き過ぎた瞬間に猛ダッシュし、刺客と鎌を繋ぐ鎖の中間部を掴み止めたのだ。当然、鎌はそこを支点にして周回し、使用者本人に襲い掛かったのである。

「――遅い。――鈍い。――所詮、餓鬼の遊びか。これでは、国家公認の暗殺集団には程遠い」

 悲鳴を上げ続ける刺客の首に龍麻の手がかかる。瞬き一つ後に、刺客の首はあらぬ方向に捻じ曲がった。龍麻が手を離すと刺客はその場に崩れ落ち、声にならぬ唸りを上げながら手足をばたつかせた。

 ――殺さない。簡単には。拳武の刺客たちにもそれが判った。この男は、自分達を殺すつもりはない。死は苦痛からの解放を意味する。だからこそ、最大限の苦しみを与えるためにも、殺さない。

「ば、化け物だ…!」

 暗殺という、この世でもっとも現実を弁えねばならぬ世界に身を置く者たちをして、そんな言葉が洩れた。

「――良く言われる。だが、それと対峙したお前達は何者だ? 自称暗殺者諸君?」

 龍麻が歩き始めた。

 たった一人。その歩みに、拳武の刺客は気圧され、後ずさりした。――龍麻は前に進む。敵を殺すために。敵に殺されるために。だが、彼の賭けるカードは強すぎ、彼ら拳武の暗殺者達が自らの全存在を賭けたカードは余りにも弱かった。

「――クッ!」

 集団の後方に控えていた数人が、ぱっと身を翻した。――【敵を前にして逃げるべからず】――拳武館の局中法度にある掟だが、今の龍麻は、そんなものを度外視して余りある恐怖の権化であった。――後で味方に殺されようとも、今この場で龍麻の手にかかるよりはマシ――辛うじてその程度の思考力を残せた者は、一目散にその場から逃げ出した。否、逃げ出そうとした。

「――!」

 一瞬――そんな表現も遠くコートから抜き出される銀色の大型自動拳銃――AMTハードボーラー! 次の瞬間、落雷の直撃に匹敵する轟音がその場にいる者全ての鼓膜をぶっ叩いた。

「グガァッッ!!」

「ぎひィィッ!!」

 45ACPの衝撃に、肩の肉を持って行かれてもんどりうつ逃亡者! 

「…なぜ逃げる? …【そう】なのか、貴様らも【そう】なのか? 殺し屋気取りの半端ものどもめ」

 龍麻は、ハードボーラーをホルスターに納めた。

「…ッ!?」

 壬生にはその意味が解らない。そもそも、そんな物を持っていたならば、なぜ即座に使わなかったのか? 彼の戦闘思想ならば、武蔵山と素手で殴りあう事すら悪徳である筈だ。

「…お前たち相手に、コイツは無用だな」

 龍麻がそう言った事で、醍醐がブルッと身を震わせる。

「…敵とは言え、気の毒に…」

「ひーちゃん…完ッ璧に怒ってる…!」

 醍醐と小蒔は難しい顔をして、葵も我が身を抱きしめて震える。

「…どういう事だい?」

「お前も知っているんじゃないか? 龍麻は元対テロリスト部隊だ。敵を速やかに殲滅するのが任務で、今もその思想に変わりはない。だが、そんなあいつが銃を使わないという事は、相手を即時殲滅するつもりがなくなったという事だ」

「つまり…嬲り殺しにするってコト。ボク…たとえ京一の事があっても、こんなひーちゃんは見たくなかったよ…」

「以前の龍麻なら、戦いに怒りや憎しみを交える事はなかったけど…。今は凄く怒って、哀しんで、憎しみに身を浸してる。それを殺人者の仮面で押し留めているわ」

 今までに何度も見てきた、龍麻の恐ろしい部分。――自分に対して【過ぎる】ほどに厳しい男の闇の領域。龍麻は自分の痛みは平然と無視してのけるが、他人のそれには意外と弱い。【プログラム】に保護された精神は頑強だが、【人間】たる部分は幼い子供のように脆い。幼い頃より虐待され、戦う事だけを教え込まれ、殺人者としての人格と殺人機械としてのプログラムを植え付けられ、ある日突然、野に放された殺戮妖精。自らの存在意義と【プログラム】と、殺人者としての人格がせめぎ合い、危険極まりない綱渡りをしている彼。その前に出てきた【自分の主義主張のためならば他人の犠牲をいとわないテロリスト】には殲滅の二文字しか与えない彼だが、【人を傷つけるのは好きだが、自分が傷付くのは嫌い】というタイプの敵には酷く残酷になる。特に――欠けていた心を埋められた今は。喜怒哀楽を取り戻し、しかしそれらが子供のように未熟な彼が、もてあます怒りや憎しみを抑える為に選んだ仮面が【殺人者】としての顔、今の龍麻の顔であった。

 ――二分後、三十名の刺客たちは尽く、未来を失っていた。

 多くを語る必要はない。彼らは龍麻を怒らせた。龍麻は彼らに襲い掛かり、その両手両足を完膚なきまでに破壊した上、脊椎に微妙な障害を与えて全身不随にしたのである。この瞬間から、彼らは何も見えず、何も聞こえず、手足も動かせないながら苦痛だけが延々と続く暗黒の中で生きねばならない。――自殺する事さえ叶わず。死を望む意思表示さえする事もできずに。

「――ひーちゃんよォ、ちょいとやり過ぎ」

 この時ほど、京一がいてくれることがありがたかった事はない。木刀を担ぐいつものポーズで、京一は龍麻の行為をたしなめた。

「…単にぶちのめすだけでは気が済まなかったのでな」

 ちょっとばかり言い訳がましい事を言う龍麻に、葵たちもほっとして表情を和らげる。その恐怖と困惑とが晴れ、しかし様々な思いが交錯する空間に、地を這う呻き声が混じった。

「こんな…こんな事がある訳ねェ…! この俺様が…負けるなど…!」

 八剣であった。運が良いのか悪いのか、京一に倒されたショックが強すぎて、彼は龍麻の破壊劇に加えられる事はなかったのだ。

「や…八剣さん…! 助け…助けて…! このままじゃ…殺されるでごわす…!」

 全身の火傷と肋骨粉砕、内臓へのダメージが深刻だが、手足がほぼ健在な武蔵山も、僅かなりと気絶していたために災禍に見舞われてはいなかった。しかし無事(?)なのは今だけだ。龍麻への恐怖が優先し、二〇〇キロの肉塊が必死に身をよじりもがいて這っていく様は凄惨を通り越していっそ滑稽であった。

「――八剣、武蔵山。仮にも【拳武】を名乗る者ならば、往生際くらいは見極めるんだね。金に目が眩んで、手出ししてはならぬ人間に手出しをしたんだ。もはや君たちに残された道はないよ」

 せめてこれくらいは【拳武館】の人間としてのけじめだろう。壬生が冷然と告げる。

「い、いやだっ! おで…おでは死にたくない! ――そ、そうだッ! おで…おでは騙されていただけでごわす! 悪いのは全部副館長と八剣さんで、おではただ命令に従っただけで…!」

 今更何を言ったところで、見苦しい言い訳でしかない。仮にそれが事実だったとしても、副館長のクーデターに参加した罪が消える訳でなし、それ以前に、龍麻は既に副館長派を全滅させてしまっているのだ。せめて潔く自決しろと壬生は言いたかったのであるが…。

「うるせェッ! 黙れッ!」

 武蔵山が自分に罪を着せようとした事で、遂に精神の箍が完璧に外れたのだろう。八剣は自分の刀に飛びつき、身動きの叶わぬ武蔵山に一刀を振り抜いた。

「や…やつる…ぎ…!」

 それが武蔵山の、最後の吐息となった。彼の首にもう一つの口が生ずるや、そこから勢い良く鮮血がほとばしった。

「八剣! 貴様、なんて事を…!」

 女性陣が悲鳴を上げ、醍醐が怒りの咆哮を発する。もはや確かめるまでもない。武蔵山は即死であった。――首の半ばまで切り込まれて生きていたら、それは人ではない。

「うるせェ…うるせェ! どいつもこいつも…くだらねェ! ――この俺が! この八剣右近様が負けるなんて、そんな事がある訳ねェだろ! ――クク…ククク…ハーハッハッハッハッハッ!」

 部下は全て発狂し、武蔵山が死に、拳武館副館長派の最後の一人になったというのに、まだそんな事を言う八剣。龍麻は無言でハードボーラーに手をかけたが、京一が彼の前に手を差し出して止めた。

「…哀れだな、八剣。――己の負けを認められねェ奴には上も先もありゃしねェんだぜ。テメエがあくまでそんなモンにしがみつくってんなら、俺がこの場で引導を渡してやる。――どうだ?」

 ぐい、と突きつける木刀の迫力。だが、八剣は陰鬱に笑った。

「クク…クククッ…。テメエら…何もわかっちゃいねェな」

 絶体絶命は必至の八剣の態度に「!?」となったのは壬生だけで、真神の一同は「またか」と言わんばかりに顔を見合わせた。

「――テメエらは何の為に剣を…拳を振るう? 護る為か? それとも――倒す為か? …そうじゃねェだろう? 己自身の強さを確かめるためじゃねェのか? なァ、壬生ちゃんよォ…」

「……」

「テメエももともと、俺と同じ側の人間だろうが。それに蓬莱寺京一、醍醐雄矢、そしてテメエ――緋勇龍麻、お前らもみんなそうだ。――お前ら全員、俺と同じ穴のムジナだろうが!」

 八剣の言葉に表情を険しくしたのは、やはり壬生だけである。真神の一同は、何を言われたのか理解できないというようにきょとんとしていた。しかし――

「…なに言ってるんだ? コイツ?」

「判らんな…。今のは日本語か?」

「意味ありげなコト言ってるけど…中身スカスカだよね?」

「…失礼な人」

「はっ、笑わせてくれるねッ」

 同じ側の人間――そう言われた事に対する、これが真神の一同の返答であった。金のため、欲のために人殺しを楽しむ殺人狂と同じ…到底、彼らが理解できる言葉ではなかった。

「ククク…そう言っていられるのも今の内だぜ。…もうすぐこのくだらねェ世界は終わる。――あの男が俺に言ったのさ。もうすぐこの世は、修羅が生きるにふさわしい常世の煉獄に変わる…とな。ククク…最高じゃねェか。まったく、この俺様にゃあお似合いの世界だぜ。――そうは思わねェか?」

「馬鹿か、お前?」

 精一杯の毒を込めた八剣の言葉を、ただ一言で切り捨てる龍麻。

「まあ良かろう。お前にそんな世迷言を吹き込んだのはどこの誰だ?」

「ククククク…俺様は選ばれたんだぜ? 新しい時代って奴によ。テメエらの中の【修羅】が目覚める日を…――ッッ!」

 質問に答えず、気でも触れたかのように笑いつづける八剣の言を断ち切る軽い銃声。八剣の右足首が鮮血を噴いた。

「いィィィいッッでえ〜〜〜ッッ!! ――て、テメエ! このやろ…ッッ!」

 TAN! 

 それこそ獣のような形相で噛み付き、刀を振るおうとする八剣。だが、続け様の銃声が左足首をも撃ち抜く。

「――ッッぎゃあァァァァァァァッッ!」

 もはや龍麻が使用する銃の中では最小レベルになってしまった、彼の愛銃コルト・ウッズマン。だが、最弱と言っても過言ではない22LRも、ごく普通の人間に対しては十分すぎるほどの効果を発揮した。

「…お前への質問は、実はどうでも良いのだ」

 口元を笑いの形に吊り上げ、龍麻は冷然と言った。

「だが俺は、お前の口から聞きたい。――他人に命を握られている気分はどうだ? 無様に命乞いしても聞き入れられずに嬲り殺しにされる気分は? 今まで自分がやってきた事だ。たまには自分がやられる側に廻るのも良かろう。それから、強がりは動きながらした方が良い。狙いが逸れて急所に当たるかも知れんが、あっさり死なれると俺が悔しい」

「〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 コイツは本気だ! ――今更にして、ようやく八剣はそれを悟った。

 副館長に与し、指示された標的を、獲物を与えられた猟犬のごとく殺すだけだった八剣は、獲物の持つ牙の事を知ろうともしなかった。特に今回の【仕事】では拳武館最強の暗殺者と言われた壬生がそれを口にしたのに、それを気にも掛けていなかったのだ。

 【修羅】が目覚める? ――冗談ではない。龍麻はとっくに【修羅】だったのだ。いや、【修羅】をも食らう【羅刹】。本物の殺戮妖精…! 

「ついでにもう一つ。捕虜への拷問はジュネーブ条約で禁止されているが、こと傭兵には適用されない。――その程度の事も知らぬお前は所詮、温室ブロイラー育ちの殺人狂。戦場で生き抜く事など叶わんさ。――さっさと依頼人の情報を吐き出せ。情報次第ではコスト削減も考えるが、記録への挑戦も実験的価値がある。最低でも七〇発は耐えてもらいたいものだな」

 龍麻にしては珍しい、精神的に訴えかける脅し文句。そこには色々な計算があった。鬼道衆の一件のように、今回の黒幕も組織なのか個人なのか、目的はどこにあるのか、今のところ手がかりはない。静養中の九角も、いまだに【それ】を口にするつもりはないようなのだ。

 極めて危険な【敵】――それだけは判っている。九角を復活させ、池袋の事件で大量の怨霊をけしかけたのもそいつの仕業だろう。そして今回も、【神威】を有する拳武館を通じて龍麻を狙ってきた。そう…標的は自分、緋勇龍麻一人だ。だからこそ、龍麻は焦っている。鬼道衆との戦いの時、九角は途中まで龍麻の存在を知らなかった。だが今回の敵は、最初から龍麻を標的としているらしい。それなのにこの回りくどいやり方。それが龍麻を苛つかせている。

 だが、この期に及んで八剣は虚勢を張った。それが、自分の死刑宣告になるとも知らずに。

「――なにが記録だ…ふざけやがって!」

 八剣の手が制服のポケットに伸び、そこから携帯電話を取り出した。

「へへっ…へっ…。壬生よォ…お袋の命が惜しかったら、そいつを殺せ!」

「なに…!」

 京一たちの視線が一斉に壬生へと向けられる。そう言えば龍麻も壬生が【母親のため】に戦っていると言っていた。まさか壬生は、母親を人質に取られて――!? 

「迷う暇なんかねェよなァ、壬生ゥ。お袋のために人を殺して金を稼ぐ事を選んだテメエだァ。今更誰を殺そうと一緒だよなァ?」

 これでもかとばかりに毒を込めた言葉。これが八剣の切り札だったのだ。壬生の【館長への忠義】は本物だが、副館長に従わざるをえなかったのは、壬生の唯一のウィークポイントである母親の事を副館長派に知られてしまったからであった。副館長が実権を握るために障害となる壬生を敢えて傘下に入れていたのは、母親さえ押さえておけば拳武館最強の実力者を自在に操れるという打算があったからなのだ。

「さあ! さっさとそいつらを殺せ! このボタンを押すだけでテメエのお袋はぶっ殺されるんだぜ! テメエは母親さえ助かればそれでいいんだろうが!」

「テメエ! どこまでも汚ねェ…!」

 京一がキレかかるが、八剣は携帯電話をさっと京一に向ける。腸が煮え繰り返るような怒りを覚えながら、京一は止まらざるを得なかった。――肝心なところで、またしても詰めの甘い事をしてしまったのである。

 だが、壬生は――

「断る!」

 決然と言い放つ。その迫力に、脅している立場の八剣も一瞬圧倒された。

「僕は心ならずも館長の義に背いてしまった。これ以上、僕は僕自身のためにも、義に背く事はできない!」

 きっぱりと言い放つ壬生。しかし、固く握り締められた拳からは血が流れていた。言葉を発する必要がなければ、唇を噛み破っていた事だろう。拳武館館長に対する忠義と、母親のためという自分自身の事情。それを秤に掛けさせられる苦痛。その苦しみはいかばかりか…。

「…そうかい…。テメエはお袋がどうなっても良いって言うんだな…」

 およそ人間が作りうるもっとも醜い顔。八剣はそれを作った。二度と見たくないご面相だった。

「――だったら、望み通りにしてやるよォォォォッ!」

「――ッ!」

 止めねば! 誰もがそう思ったに違いないが、京一の斬撃も小蒔の弓も間に合わない! 八剣は携帯電話のスイッチを押した。

 プルルルルルルル…

 壬生の母親に死を告げる電子音が鳴る。壬生は初めて表情を歪め、唇を噛み締めた。しかし――

『はあい。桜ヶ丘中央病院ですぅ〜』

 応える筈のないコールに応えがあった事に驚いたのは、八剣だけではなかった。この間延びした声! しかも【桜ヶ丘】! 

「ッッ誰だぁッ! テメエはァァッッ!?」

 顔のディティールをこれでもかとばかりに歪ませ、送話口に怒鳴る八剣。しかし電話の向こうから、桜ヶ丘中央病院に勤務している【真神愚連隊】衛生兵、高見沢舞子は間延びしていながらも怒ったような口調で言い返してきた。

『ああ〜ッ、あなたがダーリンの言っていた悪い人だね〜ッ。病気の患者さんを人質にするなんて〜なんて酷いことするの〜ッ。そういう人は【めッ!】だよォ』

「…ッッ!!」

 最大の切り札を失った事を宣言する、なんとも緊張感を削がれる声。京一達はへなへなと腰砕けになるのを必死で堪えねばならず、壬生はあまりの展開についていけず呆然としていた。

「…【めッ!】だそうだ。八剣」

 あらゆる事態を読んで行動する、真神の少尉殿が口を開いた。

「最期の最期で躓いたな。その外道っぷりに敬意を表し、記録に挑戦と行こうか」

 つい、と自分に向けられた青い凶器に、八剣は滝のような脂汗を流した。今度こそ、本当に今度こそ、決して逃れられぬ【死】を自覚したのである。

「ま、待て! わ、解った…! 【鬼剄】はあいつから教わったんだが、そこまで庇う義理はねェ! あいつの名はや…――ッッ!!」

 もはや恥も外聞もなく、顔中を口にして喚いた時、突然八剣の身体がビクン! と跳ね上がった。

「ひいッ…ぎィィィィィィッッ!!」

 それが彼自身の意思によるものでない証拠に、ブリッジするように大きく仰け反った八剣は目と言わず鼻と言わず鮮血を噴き、空中をかきむしる手も全ての爪が弾け飛んで血を振りまいた。そしてゴボリ! モゴリ! という異様な音が彼の体内から響き――

「――見るな!」

 龍麻がコートを跳ね上げ、葵、小蒔、亜里沙の視界を覆った瞬間、八剣の肉体は【内側】から炸裂した。

「うおおッ!!」

「クッ――なにがッ!?」

 一同の身体中にへばりつく鮮血と肉片! 京一も醍醐も血相を変えてそれを引き剥がした。龍麻と壬生だけは表情を変えなかったが、八剣を殺した現象の正体に思い当たって慄然としている。

「ど、どうしたのさッ!? 八剣――どうなっちゃったのッ!?」

 葵ら女性陣が【この瞬間】を目にしなかったのは幸いであった。ホームの床と言わず天井と言わずぶちまけられた鮮血と微細な肉片――それだけでは元が人間であったなどとは到底信じられないものが、八剣のなれの果てであった。

「一体…なんだったんだ? 龍麻、八剣に何が起こったんだ?」

「【鬼剄】…」

 頬にへばりついた肉片を拭い取り、龍麻はぽつり、と呟くように言った。

「なんだって!? 一体どこから…?」

「どこから…という問題じゃないね。今の強力な【陰気】は間違いなく八剣の体内から生じていた。という事は…」

 壬生の言葉を受け、龍麻がその先を述べる。

「既にこの男は【鬼剄】を受けていたという事だ。体内に撃ち込まれた【殺念】が、自分の正体を明かそうとした瞬間に爆発するように」

「………!」

 それがどれほど恐ろしく、また困難な事か理解し、一同は絶句した。

 結局、敵の黒幕はその正体の片鱗も見せぬまま、底知れぬ戦闘力を思い知らされたに留まった。他にも八剣のようにその黒幕に師事した者はいるかも知れないが、その連中から情報を得る事は無理だろう。

 だが、見えぬ敵など恐れぬ龍麻はあっさりと言った。

「今は考えるべき時ではあるまい。速やかにこの場を離れるぞ」











「…やれやれ。大変な騒ぎだったぜ」

 一連の騒ぎの渦中で、人を一番心配させた張本人が抜けぬけとそんな事を言ってのけたので、龍麻はその男の背中に蹴りを入れた。

「――って、なにすんだ、ひーちゃん! 洗ったばかりだってのにッ!」

 五日も行方不明になった事など忘れ果てたかのように、京一はいつものように龍麻に噛み付いた。

 場所は駅から一キロほど離れた公園である。今日も学校のある一同はすぐにも帰らねばならなかったのだが、壬生はともかく、龍麻たちは全身の返り血を洗う必要があった。幸い二四時間営業のコインランドリーを壬生に案内してもらい、形だけでも血を洗い落とした三人である。

「――そんな事よりも、京一!」

 グワシ! と京一の首に絡みつく豪腕!

  「一体、今までどこで何をしていた!? 俺たちがどれだけ心配したと思っている!? それをまあ、まったくいつもと変わらぬノリでふざけおって!」

「イテテ! イテ! 痛ェっつってんだろがッ!!」

 今度こそ首の骨でも折りかねない勢いの醍醐の豪腕を振りほどく京一。

「ッたく、馬鹿力出しやがって! ――この俺がそう簡単に死ぬ訳ねェだろうが。まさかみんな、俺が死んだなんて思ってたんじゃねェだろうな?」

 口元に笑いを浮かべながら一同を見回す京一。しかしそんな彼を見る視線は氷点下の冷たさである。京一の笑いは引きつり、背筋を氷塊が滑り降りる。

「な、なあ、ひーちゃん? まさか…ひーちゃんまで、俺が死んだと思ってたなんて事はねェよな? なッ?」

 それはない。龍麻は最初から、京一の生存を信じて疑わなかった。それこそ一瞬たりとも、彼の生存を否定する言動は行わなかったのだ。

「もうッ! 帰ってくるなり調子の良いコト言い過ぎだぞッ!」

「龍麻は一度もそんなコト言わなかったけど…」

 心配はしてたわよ、と続く言葉を飲み込む葵。恐らく龍麻は否定するだろうが、これは葵だけに解った事だ。龍麻は京一の生存を疑わなかったが、危害は加えたであろう拳武館に対して激しい怒りを抱いていた。待ち合わせの時間までに拳武館本部を壊滅させ、残る副館長派の刺客を破滅させるほどに。表情には出さず、今回の龍麻は怒りに燃えていたのだ。――仲間に危害が加えられた事に対して。

 しかし龍麻は無言で手を後に組み、胸を張って真っ直ぐ彼を見た。

 その意味を理解した京一ははっとして彼を見、次いで心底嬉しそうな笑みを口元に乗せた。木刀を左手に下げ、龍麻と同じように胸を張って敬礼する。

「蓬莱寺京一、帰還したぜ」

「…お帰りウェルカムバック

 龍麻も敬礼を返す。ただこれだけの行為に万感の思いがこもっていると知れるのは、【真神愚連隊】のメンバーだけであろう。そして、壬生もそれを理解した。

「龍麻。僕はそろそろ行くよ。駅の方は勿論だが、他にも色々と片付けなければならない事がある。――蓬莱寺君が無事で本当に良かった」

 何気ないが心からの言葉。そして、別れの挨拶。――壬生には、龍麻たちは眩し過ぎた。

「――紅葉」

「龍麻。僕はこういう生き方しかできないし、変えるつもりもない。君たちと同じように、僕にも護りたいものがある。そのためには金が必要なんだ。人殺ししか能のない僕は、この道以外に生きる道を知らない」

「……」

「…龍麻。君は僕を愚かだと思うかい?」

「――馬鹿が」

 多分、龍麻ならばそう言うだろうと思っていた京一たちも、あまりに冷たいその言い様に鼻白んだ。こういう時、龍麻ははっきりとものを言いすぎる。

 意外とそうでもなかった。

「紅葉。お前はその道を進むと自分で決めた。そしてお前は、俺が何を言おうとその道を進むつもりだ。――無意味な質問をするな。俺はお前と同じ人間だ」

 社会悪を抹殺する拳武館の暗殺者――壬生紅葉。テロリストを殲滅するレッドキャップス隊員――緋勇龍麻。所属する組織も主旨も違えど、その想いは同じだ。

「だが紅葉。光も闇も同じところから生まれた。どちらを選ぶかは自由だが、それだけが全てなどと思うな」

 龍麻はそうやって、光の世界に生きる事を選び取り、勝ち取ろうとしている。自分も彼と同じ――そう言われた事で壬生は心が揺らぐのを感じたが…

「…いや。やはり僕には、光の世界は眩し過ぎるよ」

 僅かに口元に笑みを浮かべ、壬生は首を横に振った。そして、一同に背を向ける。

 こんな時、いつも口出ししてきた小蒔だが、今回は壬生の背負っているものの大きさが身に染みて、何も言い出せなかった。京一も、醍醐もそうだった。ただ一人、亜里沙だけがやっと、歩き始めた壬生の背に向かって言った。

「壬生…その…エルの事、ありがとう」

「…それは君が判断してくれと言った筈だよ。――それじゃ」

 ロングコートの裾を翻し――本当に龍麻そっくりだ――壬生は深夜の闇の中へと去っていった。

 ややあって、醍醐が口を開く。

「…損な生き方だな」

「ああ。だが…否定できねェよな。あいつにも、それだけの事をしてでも護りたいものがあるんだからよ」

 病気の母親のために敢えて暗殺という非合法の世界に身を置く高校生の暗殺者…。いささか散文的に思えるのは日本人の感覚からであって、世界を見回せば、そのような世界に身を置く少年は多いのだ。家族のために銃を取り、兄弟のために人を殺して僅かばかりの金を得る少年兵は。

「…奴には奴の事情がある。そして俺たちには、奴の事情に立ち入る権利はない。――さあ、帰るぞ。今から帰っても数時間の睡眠は取れる筈だ」

「――そうだねッ。京一の懲罰は放課後という事で…」

 まるでこれからラーメンを食べに行く時のような、楽しそうな顔を見せる小蒔に京一が噛み付く。

「ちょっと待て! 何で改めて懲罰なんだよッ!?」

 フォローを入れるのは夫(笑)の役目。醍醐がフォローを入れる。

「――当たり前だろう? 今回の事でどれだけ俺たちに迷惑を掛けたと思っているんだ。みんな、この五日もの間気が気じゃなかったんだぞ」

「だからァ、俺は簡単にはくたばらねェって――」

「――特にマリィなどはお前が心配でろくに眠れなかったらしい」

 醍醐もツッコミが鋭くなった。マリィの名を出されて、京一はぐっと詰まる。

「わ、解ったよ。悪かった…」

 がっくりと肩を落とす親友の肩に、苦笑しつつ醍醐は手を置く。

「まァ、その後で祝賀会をやってやる。――いつかのおみくじが当たったな。お前は敗北を糧に、何倍も強くなって帰ってきた。俺はその事が嬉しいよ」

「――エヘへッ、お帰りッ、京一」

「お帰りなさい、京一君」

 口々に言われ、渋い顔が照れ臭い顔に早変わりする京一。相変わらず解り易い男だ。

「いや、その…ただいま。――って、そこ! なにヒソヒソやってんだよッ!?」

 見ればそちらでは龍麻が亜里沙になにやら渡して説明している。

「――という訳で、従来の物より格段に強力だ。九本全てを個別に操り切るのは至難の技だが、今の亜里沙ならば使いこなせる筈だ」

「ふんふん。なんだかSMチックな形だけど、強そうね」

 以前にも見たような光景。しかも今回龍麻が亜里沙に渡しているのは、先端が枝分かれしているところがなんとも妖しい雰囲気をかもし出す鞭である。それを手にした亜里沙はまさに【女王様】。

「ひーちゃん! なに妙なモノ渡してやがんだッ!?」

「アラ、そんなこと言っていいの、京一?」

 軽く鞭を振る亜里沙。九本に枝分かれしている先端部が地面を打つと、たったそれだけで火花が飛び散る。

「龍麻がねェ、アンタの懲罰の主役はあたしだって言ってくれたんだけど?」

「な、なにッ!?」

 うわお! と小蒔が両手を口元に当てながらなんとも嬉しそうな顔をする。驚くべきは、葵までが同じように妖しい期待に目を輝かせていた事だ。醍醐が派手に退く。

「ちょ、ちょっと待てひーちゃん! そんな事、たとえお前が許しても倫理委員会が許さねェぞ!」

「ふむ…。俺もそう思うのだが、天の彼方から何者かが俺に告げるのだ。【そういうサービスを激しくキボン】と」

「何のサービスだよそりゃあッ!? 妙な電波受けてんじゃねェ!」

 たった五日。それでも懐かしいとさえ思えるアホ二人の漫才。そしてどつかれる役回りも変わりなかった。

「――自分の立場ってモノをわかってないのかしらねェ、京一…?」

 ウフフ…と笑いながら京一に近付く亜里沙。落ち着いて考えてみれば、今回の一件で一番辛い思いをしたのは彼女だったのだ。一介の(?)少女の身でありながら正体不明の男たちに五日も監禁され、愛犬も友人も生死不明。自分の命さえどうなるかわからぬ環境で、たった一人耐えねばならなかったのだ。全てとは言わないが、原因の一端はやはり京一にあるだろう。

「ちょ、ちょっと待て藤咲! お、落ち着いて話し合おうじゃないかッ!」

「藤咲…? 藤咲ッつったの、アンタ?」

「ま、待った! い、いや! お待ちください! 藤咲様ッ!」

「ウフフ…解ってきたようね…」

 たら〜りと京一の頬を伝う脂汗! このとき彼は、葵に迫られた時の龍麻の気持ちが理解できた。絶対に逃げられないという恐怖を! 

「ウフフ…オーホホホホホホホッ!」

「ひえええええッッ!」

 この瞬間、真神の一同の中では【女王様】と【下僕】の図が出来上がった。この十数時間後には、【真神愚連隊】一同の固定概念となり、京一はこれからしばらく先、この件でからかわれる事になる。

「亜里沙。楽しみはもう少しとって置け。早く帰らんと、睡眠時間がなくなるぞ。――醍醐、タクシー代だ」

 自分はバイクで来たので、財布から取り出した数枚の一万円札を醍醐に渡し、エンジンを始動する龍麻。

「う〜ん。そうね。睡眠不足はお肌の大敵だわ」

 ニヤリ、と笑い、京一を怯えさせてから鞭を納める亜里沙。どうやら鞭を【味見】する事だけは避けられたようだが、京一の顔は暗かった。

「やれやれ。変な趣味に目覚めんと良いがな」

「エヘヘッ。それは藤咲さん次第だねッ」

「それはそれで面白そうだけど…。うふふ…」

 やはり、葵の言葉に顔が引きつる龍麻に醍醐であった。

 それを無理やり断ち切るように、龍麻はヘルメットを被って言った。

「それでは俺は行く。お前達も寄り道などせぬように」

 そして龍麻は、彼の改造バイク特有の高周波を響かせつつ、夜の闇へと走り去っていった。

 それを見送る京一達は、ふと、違和感を覚えた。

 何か、足りないような気がする。先刻まで足りなかった頭数は、今はきちんと揃っているのに。

 それに最初に気付いたのは小蒔であった。

「…そう言えばひーちゃん。【撤収】のコール、出さなかったね…?」

 この言葉に全員がはっとして龍麻が走り去って行った方向を見たが、当然の事ながら彼の姿は完全に見えなくなっていた。

 夜の闇だけが濃い。今夜も月は――血の色であった。











  目次に戻る    前に戻る    次に進む  コンテンツに戻る