
第壱八話 餓狼 7
葛飾区。拳武館高校。〇三〇〇時。
一台の黒塗りのベンツが、慌しげに深夜の校内へと滑り込んでいく。見た目にはそれと解らないが、防弾加工にたっぷりと金をかけた分厚いドアが開き、体格の良い中年男性が出てくると、折りからの雷雲に閃いた稲妻に浮かび上がった校舎を見上げた。
外見に変化はない。だがその中では、まさに戦争が繰り広げられたのだ。
「死者は副館長を始め十二名。再起不能は八二名。…暗殺組の六〇パーセントか」
さすがは…と続く言葉を、拳武館館長、鳴滝冬吾は呑み込んだ。ほんの十時間前に【本部襲撃】の一報を受け、出張先のニューヨークからアメリカ空軍機を利用して帰ってきたのである。
副館長によるクーデター計画を鳴滝は知っていた。それが拳武に成り代わろうとする【シグマ】による陰謀である事も。今回、そのような大事な時期に海外へと旅立ったのも、【それ】絡みである。ローマに本部を置くM+M(エムツー)機関のエージェントと接触し、今回の事で日本に手出しをしないよう、釘を刺す為だ。他にもいろいろ作戦があっての事だが、親友の忘れ形見にして直弟子、緋勇龍麻の行動は余りにも早く、過激であった。
既に副館長の死体は取り除かれ、血痕も弾痕も清掃、補修された館長室に入ると、そこには鳴滝直属の配下、壬生紅葉が待っていた。
「お久し振りです。館長」
鳴滝と会う時はいつもそうするように、壬生は直立不動の姿勢をとったまま【尊敬の印】を結んで一礼した。
「かなりの面倒を掛けたようだな、紅葉。――報告書はここに来るまでに読ませてもらった」
「…はい」
「副館長に与した者は全滅。血判状に名を連ねずとも副館長に協力していた人員は分室に集結か。――やはり、彼らは切らねばならぬと思うかね?」
壬生はやや固い表情のまま首肯した。
「まことに申し上げ難いのですが、人材不足に鑑み、ただ戦闘技術にのみ固執しすぎた模様です。彼らには拳武の信念も理念もありません。ただ標的を殺す事に快感を覚える者、金にしか興味のない者と、いささか危険人物が揃いすぎてしまいました。――殆どは緋勇龍麻に殲滅されましたが」
龍麻の名が出た事で、鳴滝は大きく息を吐いた。
「彼らには酷だったかも知れぬな。いかに【暗殺組】の名を冠しようとも、相手は【戦争】のエキスパートだ。【力】を抜きにしても、彼らに勝ち目はなかったろう」
「…館長。その事でご相談が。正直、そのような事態は考えたくないのですが…」
「…解っている。その蓬莱寺京一…龍麻の親友に関することだな」
これも縁か…。鳴滝は目を閉じる。蓬莱寺京一、醍醐雄矢、雨門雷人、織部姉妹、劉弦月…。かつての仲間達に縁のある者がこうまで揃うとは。そして自分の愛弟子、壬生紅葉。
「自分の呼び出しに応じた段階で、元凶と目される【ここ】に襲撃をかけた男です。蓬莱寺京一が無事に生還したからと言って、彼は拳武を許さないでしょう」
「私にも覚悟が必要だな」
たとえ拳武館の全力を尽くしたとしても、今の龍麻を止められるかどうか。彼が東京に来てから半年以上、ぎりぎり気付かれないレベルで監視を行ってきた。その中には鬼道衆というテロリスト集団との戦いや、ネオナチの一派との戦いまでがあった。彼は明日香学園にいた時のように何が起きても無関心という事はなくなり、【力】に関わる事件には率先して出動し、その戦闘技能を思う様使って事件を解決させている。最近では、【気】の奥技でアパッチ戦闘ヘリを撃墜したり、アメリカ軍の大部隊を相手に戦ったりと、いかにも親友の息子らしい真似をしてくれる。
(何から何まで、弦麻に似てきたな…)
さすがに彼は【気】の技で戦闘ヘリを落とすような真似はできなかったが、それに近い事ならアフガンを始めとする各地の戦場で行ってきている。――【東洋のドラゴン】。弦麻はそう呼ばれ、敵味方から恐れられ、また尊敬されたものだ。
「――龍麻の事だ。恐らく、一両日中にはここに来るだろう。その時は決して彼の行動を阻むなと、暗殺組全員に通達しろ。私は一人で、彼と逢うとしよう」
と、鳴滝がそこまで言った時であった。
突然、館長室の扉が爆発音と共に吹き飛んだ。
「なっ――!!」
唐突と言えば余りにも唐突! そしてこの過激極まりないやり口。二人とも、今話題にしていた龍麻が襲ってきたのかとも思ったが、違った。
閃光が一瞬、視界を奪った隙に、黒のコンバット・スーツとマスクを身に付けた数名の兵士が館長室に飛び込んでくる。手にしているのはレーザー・サイト装備のFA−MAS、サイレンサー付きだ。レーザーの赤点が鳴滝と壬生の眉間と心臓に集中する。
「動くな!」
マスクのためにくぐもっているが、鋭い声。鳴滝も壬生も動きを止めた。この拳武館に乗り込み、全ての警報装置を作動させずにここまで乗り込んでくる連中だ。プロ中のプロを相手に、無駄なあがきは得策ではない。
「レッドチーム。目標A及びBを確保。――始末しますか?」
声が殺戮の快感に震えている。しかしどうやら無線機の向こうの声は許可を出さなかったようだ。
二分ほど待つと、マスクを付けていない、戦闘部隊の隊長としてはかなり若い男――おそらく三十を越えていまい――が現れた。
「お久し振りです。鳴滝館長殿」
周囲の者と同じコンバット・スーツに身を固め、短く刈り込んだ髪に鋭く細い目をした男は開口一番、そう言った。
「…久しいな、相川。五年ぶりになるか」
「五年と八ヶ月であります。――ここは私がいた頃と何も変わっていませんね。この部屋も、館長も、拳武館の体質も」
男…相川の口調には皮肉な響きがこもっていた。
「しかし、それも本日で終わりです。閣僚級協議の結果、拳武館暗殺組は正式に解体することが決定されました。拳武館暗殺組は速やかに武装解除、今後一切の非合法活動に関する権限は剥奪されます」
「――ッ!」
驚愕したのは壬生のみで、鳴滝は薄く笑った。
「閣僚級協議かね? この拳武館という組織が一部政治家達の協議によって解体されると? 冗談にしてはいささかセンスがないようだね」
「あなたの仰る【信念】ほど性質が悪いとは思いませんね。ここにいる時から疑問に思っていましたが――そんなもの、どうでも良いんですよ。この国に役立つものである内は色々と便宜を図ってきましたが、もはやあなた方は必要ないんです。――先の元大臣暗殺。確かに【シグマ】の敵ではありますが、あれは失敗でした。おかげで彼の所属するグループが警戒を強め、彼らを陰で支えるスポンサーの情報が遮断されてしまった。…副館長が勝手に請け負った仕事だなんて言わないで下さいよ。あなたには、組織の長として、副館長の暴走を止める義務があった筈なのですからね」
「…なるほど。一理ある。ただ、君にそれを指摘する権限があるのかどうか知らぬがね」
あくまで口元の笑みを絶やさぬ鳴滝。銃口を前にして怯えていては、国家を支える組織の長は務まらない。
「拳武館の【仕事】は我々【シグマ】が受け継ぎます。――あなたよりはうまくやってのけますよ。利用できる人間は生かし、価値のなくなった人間を始末する。実に簡単な事ですよ。これは言うまでもない事ですが、【拳武の信念】とやらを受け継ぐつもりはありません。繰り返しますが、そんなもの、どうでもいい事ですからね」
「ふむ。そう簡単に行くとも思えんが、それが毒川原副総理の意向という訳かね?」
さりげない、落ち着いた口調で言葉の爆弾を放り込む鳴滝。相川は苦笑した。
「そこまでご存知でしたか。ま、今のあなたが知っていても詮無い事です。あなたは拳武館の独断専行を止める立場にありながらの監督不行き届き。よって――処刑します」
ピ…と鳴滝の眉間に、相川が抜いたUS・SOCOM四五口径に装着されたレーザー・サイトの光点が据えられる。壬生が血相変えて動きかけたが、銃口が容赦なく彼の身体に食い込む。動けない!
「――ああ、彼の事ならご心配なく。彼のような優秀な人材は貴重ですからね。我々の方で有効に使わせていただきますよ。それでは――さよならです。館長」
相川の指にぐ、と力がこもった。
軽い一引きで落ちる撃鉄は、しかし落ちる寸前で止まった。いや、止められた。
「――下らん話だ」
背後から突然かけられた声に、相川以下【シグマ】の精鋭は銃口ごと身体を旋回させた。都合五つのレーザー光に照らされたのは、闇が形を取ったかのような黒コートを纏う少年であった。
「龍麻…!」
「――お久し振りです。鳴滝さん」
自分に向けられた五個の銃口を見事に無視して、龍麻はきりっと敬礼してのけた。
「龍麻…? ――元レッドキャップス隊員、緋勇龍麻か!?」
相川の口からその名が洩れると、他の隊員たちにも動揺の細波が走り抜けた。
相川ら【シグマ】も裏の世界に身を置く以上、その名を知らぬではない。ほんの数ヶ月前、アメリカを始め、各国特殊部隊が【菩薩眼】と呼ばれる特殊能力者を奪うべく局地戦を展開した事は記憶に新しい。その渦中にいた、二人のレッドキャップス隊員の事も。そして生き残ったレッドキャップス隊員が、【ファイルXYZ】を盾に、各国特殊部隊と政府の干渉を退けた事も。加えてこれは恨み骨髄――【シグマ】の資金提供者である葦下兄弟を破滅させた張本人だ。
「これは丁度いい。今回の任務は鳴滝を始末し、拳武館を解体、再編成する事が目的だったのだが、こんな所で次の標的が目の前に現れるとはな」
しかし龍麻は、不機嫌そうに口元を歪めただけであった。――鳴滝に対して。
「鳴滝さん。あなたが俺に「東京へ行け」と言ったのは、ゴミ掃除を押し付ける為だったのですか?」
「そんなつもりは毛頭ない。今回の事は全面的に私のミスだ」
「恐れながら、ミスでは済まされません。自分は危うく仲間を殺されるところでした。監督不行き届きの責任は取っていただきたい」
たった今、相川がそれを理由に鳴滝を処刑しようというところだったのだ。登場の仕方からして相川の話は聞いていただろうに、龍麻はぬけぬけとそんな事を言う。
いや、それは違う。龍麻は最初から、相川たちの存在を無視している。もともとこれは拳武館の内部抗争であり、【シグマ】がその影にいたとしても、龍麻には何の関係もない事なのだ。敢えて興味があるものと言えば――
「それは後回しでも構いませんが、一つお聞きしたい事があります。今回、自分の暗殺を依頼した【妙な色の学生服】を着た男に付いて、何かご存知ではありませんか?」
「妙な学生服…かね?」
顎に手をやり、少し考え込む鳴滝。
「…残念だが、学生服となると私には心当たりがないな。それ以前に、君も敵を作り過ぎだ」
「――不徳の致すところであります」
同じ部屋に五人もの【シグマ】の刺客がいるのに、彼らの事をまったく無視して話を進める二人。彼らにとって命を狙われるのは日常茶飯事であり、今更ガタガタ騒ぐほどのものではないのである。
ただ、無視された方はたまったものでなかった。
「勝手な話し合いはそこまでにしてもらおうか。――妙な邪魔が入りましたが、鳴滝館長、あなたには死んで頂く。そして緋勇龍麻。お前には我々と一緒に来てもらおうか」
初めて、龍麻が相川の方を見た。目元は隠されているから表情は読み取れない。だが、雰囲気は伝わる。曰く――なんだ、この馬鹿は?
「嫌とは言わせんぞ」
鳴滝をポイントしていたレーザー光は龍麻の眉間に向けられた。
「お前は極めて危険な立場にいる。各国政府に対する脅迫もさることながら、違法に武器弾薬を大量保有し、数々の重大犯罪を繰り返している。――拳武の圧力は通用せんぞ。当然、IFAFもだ」
「……」
龍麻の口元が不機嫌そうに歪められる。政府直属の特殊部隊と聞いていたが、明らかに憲法違反の装備に身を固め、非合法活動を行っている最中に他人の行動を違法だと言うとは。
「だが、我々の元に下り、【ファイルXYZ】の秘密を明かすならば、その【力】を有効に使ってやる。今のように殺し屋どもに狙われる生活から抜け出したいだろう? 我々が、お前に居場所を与えてやる」
有無を言わせぬ、尊大な口調。自分達の方が【上】であると言わんばかりに居丈高な態度。もし京一か醍醐あたりがいたら、呆れ果てて天を仰いだかもしれない。龍麻という男に銃口を向け、このような口を利いた者の末路は――
「――鳴滝さん。この連中はどこの馬鹿です?」
彼の眉間と心臓の上で、赤点が動揺を示して揺れる。この距離で五つの銃口に狙われ、なおこのような口を利ける者がいるとは思わなかったのだ。
「本気で聞いている訳ではないだろうが…自衛隊陸幕二部から分離独立した内務特務機関…と言えば聞こえはいいが、要は一部の有力政治家が政治上の横車を押す為に設立した超法規部隊だ。一応、陸幕や内閣調査室より立場は上という事になっている。――その男はここの卒業生で、局中法度を犯して逃亡した後、アフリカで傭兵をしていた時に【シグマ】にスカウトされたようだ。他の者たちも傭兵、諜報員、暗殺などで名を馳せた者が集められていると聞く」
「【これ】で、ですか?」
龍麻は親指で相川を示す。視線を向ける気にもならないらしい。当然、口を利くのも。
当然、思い切り馬鹿にされた相川が頬を引きつらせる。
「口を慎め。貴様が裏世界でどれだけ恐れられていようと、我々の足元にも及ばん。SASもSEALSも、強大なバックアップにあぐらをかいた温室育ちの戦闘部隊に過ぎん」
「――本気で言っているとしたら、その足りない脳の検査を受けるが良い」
眉間に絡みつくレーザー光を鬱陶しそうにしながら、龍麻はにべもなく言った。
「似たような事を言った者は数多い。自意識過剰な組織というものは、どこもボキャブラリーが貧困だな。自らが成功した未来しか思い描けず、己こそが最強だと思い込んでいる」
例の【鬼軍曹】口調になる龍麻。これは、軍隊所属の人間ならばより効果が高く、無視できない。
「口の聞き方に気を付けろ。貴様は非合法手段で手に入れた情報を盾に、各国政府に干渉しているのだ。今は私利私欲に走っていないとは言え、今後害のある存在にならないなどとは言い切れまい。その前に、我々が貴様に保護を与えてやろうと言うのだ。悪い話ではあるまい?」
「――道理も知らずに歳食った餓鬼が、この俺に説教か?」
龍麻の口調が伝法なものになる。
「この世界――殺すのも殺されるのも日常の一部に過ぎん。その中に生きる者が信念や誇りを否定して何とする? 子供の背伸びも大概にしろ」
ふん、と鼻を鳴らす相川。なんとも嫌な顔に見えるのは気のせいではあるまい。
「誇り? 誇りだと? そんなものに、どれほどの価値があると言うのだ?」
「……」
「我々【シグマ】は愛国者なのだよ。我々の全ては一億三千万の日本国民の幸福のためにこそある。民衆を不幸から護る為にはこの命を差し出す事さえ厭わん。その前には拳武の【信念】も、貴様のような機械兵士風情の【誇り】など、取るに足らないものなのだ。貴様達個人が抱くつまらぬ【誇り】とやらの為に、この国をおかしくする訳にはいかんのだよ」
低い呻きが地を這うように流れた。
その出所は、龍麻だ。うつむき加減になったために顔が一層見え難くなり、肩が震えている。一見すれば泣いているようにも見えるのだが――
「ククク…ハハハ…クハハハハハハハハハハッ!」
やはり、と鳴滝と壬生は嘆息する。彼らはこの半年以上、付かず離れずの距離で龍麻を見てきたが、彼の変貌振りはにわかには信じがたいほどのレベルであった。【敵】と認識した者を前にこのようにそっくり返って笑うなど、明日香学園時代の彼には考えられない事である。そして、【レッドキャップス・ナンバー9】としての調査報告書しか知らぬ【シグマ】の面々には、目の前の少年が本当に、アメリカ軍が最強の部隊を目指して開発した兵士の一人かと疑ってしまう光景である。
「くくく…誇りも信念も自尊心(も持たぬ貴様らが、愛国者か。そんな貴様らがSASやSEALSよりも上だと? クハハハハハッ…最高だ。これまで聞いてきた中で最高の冗談だ」
「…何だと?」
この瞬間まで引き金を引かなかった事が奇跡に思えるほどの殺気を放つ相川。かつての彼は今の壬生と同じく拳武館最強と言われた暗殺者だ。ただし暗殺という非合法手段を行使する立場にありながら、【仁義】、【忠義】を掲げる拳武――鳴滝の姿勢には矛盾を感じずにはいられず、労わりはあっても報酬や褒章がない事に遂には反発し、卒業を待たず拳武館を去った。拳武館の鉄の掟、局中法度を犯したのである。その追撃をかわしたのは、やはり裏の世界の住人である。彼はフランスに渡り、外人部隊の入隊届けにサインした。そしてかの地、アフリカに渡り、ゲリラとの戦いの中で思う様、習い覚えた技術を使ったのである。そして【シグマ】にスカウトされた。【シグマ】の実行部隊を率いるにふさわしい能力の持ち主として。――アフリカのジャングルで姿を見せぬゲリラ、劣悪な環境、あらゆる危険な猛獣の中で戦い抜いてきた自分が、国の絶大なバックアップを受けつつ戦う特殊部隊ごときと比較される覚えはない。まして、笑われる覚えなど。
「――図に乗るな。機械仕掛けの働きアリどもが」
笑いを一瞬で消し、龍麻は超低温の声で言い放った。
「――ッ!」
「この地上のどこに、誇りを持たぬ軍人が存在する? 金で雇われた傭兵達も、契約と金が支払われている限り依頼主を裏切らぬという不文律が存在する。――戦う力を持たぬ者を護る為、敢えてこの手を血に染める――【誇り】を持たぬ者にそのような任務など務まらぬ。まして、自分の命も大事にできぬ輩に、他人の命を護る事などできる訳がない。――できそこないのオモチャの兵隊どもが。その下らぬ自己満足と共に生ゴミ処理機に身投げしろ」
今度は唇を吊り上げる、あの悪魔的な――殺人者の笑いを見せる龍麻。本日二度に渡って【これ】を見た壬生は、龍麻の怒りの深さを知った。
龍麻は元マシンソルジャー、レッドキャップス・ナンバー9である。【国の為】に戦う事を【プログラム】された機械兵士だ。アメリカの国益の為にテロリストとの無慈悲な戦いに身を投じ、必要ならば赤子さえも殺し、【死ね】という命令にも一切躊躇することなく従う事を求められた部隊だ。言わば【シグマ】の先輩に当たる。感情を排除された龍麻らレッドキャップス隊員には【プログラム】こそが全てであり、そこには【誇り】も【信念】もなかった。与えられた任務を確実にこなす…【アメリカの国益を護る】――ただそれだけの為に。そしてそれをあまりに忠実に実行したが故に【飼い主】の悪行さえも嗅ぎ付けてしまい、レッドキャップスは自らを作り出した者たちによって抹殺される事になったのだ。
だからこそ、龍麻らレッドキャップスは求めた。自分達の存在意義を。答えは、かつて彼らが作戦を共にした特殊部隊が握っていた。それが――【誇り】だった。
――誇りを失くしたら、死んだも同然さ
――絶対に譲れねェもんがある。生き方ってのはそういうもんだ。理屈じゃねェんだ。
当時の自分達には理解できなかった言葉。今ならおぼろげながらに理解できる言葉。そして今の自分が、もっとも大切にしている言葉。
相川はそれを真っ向から否定した。龍麻のみならず、世界各国の軍人を、特殊部隊を。肩を並べる事はないかも知れない。明日には敵になるかも知れない。だが――同じ道を歩んでいる戦士たちを否定したのだ。【誇りなど無用】と。相川は龍麻の逆鱗に触れたのだ。
「それが貴様の答えという訳か、緋勇龍麻…」
「答えなどではない。――説明はせんぞ。どうせお前たちの頭では理解できん」
「死――」
相川のSOCOMの、【シグマ】隊員のFA―MASの引き金が引かれ――
「――ね!」
その言葉と共に、ボトリ! と床に何かが落ちた。
「な――ッ!?」
それはかなりの重量がある筈であったが、館長室に敷き詰められた絨毯のために鈍い音しか立てなかった。だが、その正体を見極めるには、理性と恐怖、両方の凍結が必要であった。
「心得その六。獲物を前に舌なめずりするな。――やっと、自分たちが死んでいる事に気付いたか?」
「――ッッギャアアアァァァァッッ!!」
床に落ちたのはSOCOMとFA−MAS。ただし、その付属物は相川の右手首から先と、【シグマ】隊員の両腕であった。冷酷な龍麻の言葉が呼び水となり、傷口から血飛沫が奔騰する。
「うぐぐぐうゥゥッッ! 貴様〜〜〜〜ッッ!!」
残った左手でSOCOMを拾い上げようとする相川! しかし、映画やドラマでありがちな一場面…龍麻の足が拳銃ごと相川の足を踏みにじる。
「そのザマでよくもSASを引き合いに出したものだ。――予算は半端、訓練場も持たず、大した実戦経験もない貴様らが、どこの特殊部隊と肩を並べられるつもりだった? SASは勿論、デルタもSEALSもGIGNも、常に実戦の場に身を置き続けている。そして貴様らのような甘い考えの持ち主など一人もいない。――この場で俺を囲んだのが彼らの内の誰かならば、とっくに俺は死んでいた。クク、一大臣の働きアリ風情がのぼせ上がり過ぎたな」
グシャリ! という鈍い音と共に、相川の手とSOCOMが踏み砕かれた。下は絨毯なのだから――という理屈は龍麻には関係ない。発剄である。
「一体どうやって…!?」
【獲物を前に舌なめずり】と言うなら、今の龍麻も同じに見えたが、そうではなかったのか。龍麻はとっくに――恐らくこの部屋に姿を見せた瞬間に、どのような方法を駆使してか、【シグマ】隊員の腕を切断していた。彼らの命は既に、龍麻の手の内にあったのだ。
しかし――
「――ククク。舐めるなよ、小僧ッ!」
血を振り撒きつつ、相川が立ち上がる。暗闇の中に走った二筋の赤光は、瞳が縦にくびれた目が放っていた。
「……」
グルルッ! と唸りを放つ相川を、龍麻は面白くもなさそうに見上げる。身長一九〇センチが一回り大きく二一〇センチに、体重一〇〇キロが一三〇キロに。そして顔は、鼻面が長く伸びた獣のそれとなっていた。失われた腕も、滴り落ちる血がみるみる固まり、剛毛の生えた腕へと変化する。
人間から獣へ――否、魔獣への変貌。闇に生きるもの――【使徒】。
「――狗か。確かに、誇りなどいらんな」
クスっと笑いを漏らす龍麻。【シグマ】隊員が全て立ち上がり、牙をガチガチ鳴らしても、彼の態度は変わらなかった。――当然だ。【使徒】と呼称される姿をしていても、【本物】ではなかったからである。
『強がりはよせ、クソガキが。この不死身の肉体に、貴様の拙い手品など通じんぞ!』
「そうか?」
またも、わざとらしく龍麻は小首を傾げた。急所――頚動脈を晒して見せたのである。やってみろと言わんばかりに。相川以下、【シグマ】隊員は同時に一歩踏み出し――
――グシュンッ!
『――ッッグギャアアアァァァァッッ!!』
たった一歩。その移動距離がこれほどの破壊を生むとは!? 剛毛に覆われた強靭な腕が、足が、移動した距離だけ斬線を刻み、黒い血が振り撒かれる。堪らず倒れると、切り込まれた手足は完全に分断され、しかも今度は傷口が再生しない!? 酷い臭いを放つ、魔獣の命の源が止め処なく噴き出し、またしても【シグマ】隊員は血の海の中で転げまわった。
『きき、貴様ッ! どうやって…ッッ!』
「真似は出来ぬと諦めていた、とある暗殺稼業の長の技だが、多芸多才な友人に教わる幸運に恵まれたのだ。彼の兄と言うのが【兄より優れた弟など存在しねェ!】というのが口癖の、【使徒】であっても【人間技】に興味が尽きない趣味に生きる男で、世界各地を回って覚えた技やら術やらを教えてくれるのだそうだ。実に羨ましい限りだが、使いこなすだけのセンスが俺にはないな」
そんな世間話のような説明に、しかし相川の顔が恐怖に歪む。慄きと共に口から出た呟きは…【ザ・パンサー】…
「…そうか。李飛鴻の【霞刃】を…!」
いつの間にそんな技を習得したのかと思いつつ、龍麻ならやりかねないと壬生は一人納得する。何しろ、初見の【鬼剄】すら再現して見せた男だ。いくら【使徒】と言えども、これは相手が悪過ぎた。
「バラバラになっても死ねぬ身だろうが、死を作ったものの名も知らず、死を弄ぶチンピラども。――貴様らにも見せてやろう。死者の見る夢を――」
じわり、と彼の全身から滲み出す真紅のオーラ! それが輝くと同時に、部屋の照明が急激に暗くなった。いや、光量自体は落ちていないのだが、闇の密度が増したのである。
『な、何だこれはッ!?』
予備知識はあったのだろうが、いざ龍麻を前にし、その超常的な【力】を見せ付けられた事で動揺する【シグマ】隊員。この瞬間、彼らは全身の痛みを忘れた。
「龍麻…お前は【陰】の【気】を…!」
龍麻が初めて見せる【陰】のオーラ。銃口を突きつけられても動じなかった鳴滝の顔が緊張に強張った。
――オォォォォォォォォォォォォン…
――ヒャァァァァァァァァァ…
暗がりの中に、得体の知れぬものの声が遠くもなく近くもなく響き渡る。理由もなく背筋がゾクゾクし、全身の毛が頭髪に至るまで逆立つ。何かが――何かがこの暗がりの中にひしめき合っている!?
「――これが、貴様らが足を踏み入れた世界だ」
龍麻は静かに告げた。
「ここは狭間の世界。この世とあの世の境界線。死を嘆き、苦しみ、生者を呪う、怨霊どもの巣窟だ」
すう、と龍麻が顔を上げる。濃い影に塗り込められた顔の、その左眼の位置に点る、真紅の光点。
「国民の為だと抜かしたな。――かつて【それ】を口にした者どもと親交を深めるがいい。そいつらに――殺された者たちとも」
そして龍麻は、コートの裾を翼のように広げた。その中に赤くちろちろと燃える炎…いや、鬼火。その表面には、全て人の顔が浮き出ていた。――彼ら【シグマ】が直接的、あるいは間接的に手にかけてきた者たちの顔を!
『ぎゃああァァァァァァッッ!』
『ひいィィィィィィィィッッ!』
闇を圧して、五人の特殊部隊が上げる悲鳴が木霊し、あたかも闇の中に吸い込まれるように消え去っていった。
程なく、天井の明かりが元の光を取り戻す。その下に、惨憺たる光景が広がっていた。両腕を落とされ、自らの血で作り出した血の海で、けらけらと笑いながら、あるいはあられもない泣き声を上げながらのた打ち回る【シグマ】隊員。既に死に行く身であるというのに、その死を迎える直前、魂まで汚されてしまったのである。――先の事件以来、強力な霊媒体質になっている、龍麻が実体化させた怨霊によって。
「――軍人は、愛する祖国と国民の為にその身を奉じる事を使命とする」
龍麻は言った。――誰にともなく。
「その為には時には傷付き、時には人を殺す。およそ国民であれば、人を殺してヘラヘラ笑う糞餓鬼も、頭のいかれた麻薬中毒者さえも分け隔てなく、命懸けで守らねばならん。その責務と業を背負うが故に、【誇り】を持たねばならん。自らの行為に責任を持たず、自らに従僕する者のみを【国民】と称して殺人に興じ、人の身すら捨てるなど笑止千万。地獄とやらで達者に暮らせ」
鳴滝も壬生も、何も言えない。犬神の言葉ではないが、人間は限りなく弱い生き物だ。だからこそ身を寄せ合い、集団を作る。だが集団を作れば、争いが起きる。自分の感情のままに行動する事を理性で押さえ、それを美徳と言う者もいるが、その一方で正義を唱え、人を殺す。――どこを向いても矛盾だらけ。それが人間の世界だ。その中で生き抜こうとするならば、その矛盾に負けぬ精神が、一歩を踏み出すための【信念】が必要なのだ。
「…勝手…な事…を…」
低く低く、しわがれた声が響いた。
相川であった。だが、この一分に満たぬ時間の中でなんという変わり様か? 【変身】すら解け、精悍にして精力的だった男の容貌は、頬がこけ、しわだらけの老人のそれとなり、頭髪は真っ白になっていた。
「貴様…とて…ただ…の…人殺し…だ。我々と…何が…」
「黙れ、狗」
最後に毒を吐こうとする相川を、たった一言で切り捨てる龍麻。
「俺の前に立ちはだかった段階で、貴様らの敗北は決定していた。下らぬ陰謀ごっこだけで満足していれば良かったものを、つけ上がりあがりおって。――もっとも、俺が手を下すまでもなかったようだが」
「何?」
聞いたのは鳴滝である。相川の目にも、僅かな不審が見える。
「俺がここに来るまでに、【シグマ】の隊員は全員殺されていた。――拳武の手の者がやったのではないのか? この数ヶ月、【シグマ】の飼い主は【サバト】…いや、若い娘相手の乱痴気騒ぎを繰り返していたのだろう?」
それはスイーパーのHIROから得た情報の中にあった事だ。彼が南雲警視から依頼を受けていた女子高生大量誘拐事件〜【未来のために優秀な遺伝子を残す】為と称する、日本各地から狩り集めた女子高生相手の乱交パーティーは現在も規模を縮小して続いており、【エリート】と呼ばれる【シグマ】実行部隊もこれに参加していたとの事だ。【未来のため】、【国民のため】と称して。――こういう輩こそ、拳武が始末すべき人間の筈なのだが…。
「いや…その筋の依頼はないし、暗殺組の実働員は殆ど出払っている。もしいたとしても、これだけの装備を備えた者と戦える者は…本当に君がやったのではないのか?」
「……」
龍麻の視線が破壊されたドアの方を向く。
ここに来るまでに確認した【シグマ】の隊員は三二名。その尽くがナイフで心臓を、喉をえぐられていた。自称とは言え二人編成で動いている戦争のプロを相手に、ナイフのみでサイレント・キリングを敢行。銃を一発も撃たせることなく、三二名を始末してのけたのか? それも鳴滝や壬生、相川は勿論、【シグマ】突入の三分後に校舎内に侵入した龍麻にすら気付かせずに…。
「…【シグマ】の飼い主、毒川原副総理も一時間ほど前に心臓発作で死んだそうだ」
地下鉄構内での戦いから一時間とたたぬ内に集めた【シグマ】の情報。その中に【それ】があった。最初はただの病気と踏んだが、この事実と照らし合わせると、それこそが暗殺では…?
「どうやら俺以外にも【シグマ】を狙っている者がいるらしいな。それも相当の腕前。――放って置いてもケリは付いたという事か」
「馬鹿なコトを…抜かすなァッ!」
これで終わり…何もかもが。死の間際に、これでもかとばかりに過酷な現実を突きつけられた相川。その恐怖と絶望は、【全員を道連れ】という結論を弾き出した。【シグマ】隊員が作戦遂行時に例外なく持たされる自決用の爆薬。そのスイッチを――!
一瞬以上の時間を必要とせず向けられた掌からの【気】が相川の腕を消し飛ばそうとした時である。
ババン! ドパンッッ!!
突如、鳴滝の背後で閃光が弾けるや、相川の腕が、股座が、一瞬遅れて頭が吹き飛んだ。
(――狙撃ッ!?)
とっさに床に身を投げ出し、一回転して窓の脇に張り付く龍麻。鳴滝も壬生も既に床に伏せている。
龍麻は素早く状況を分析する。使用された弾丸はフレシェット弾。ACRよりも大口径の銃を使用している。衝撃波の広がり具合から見て三発は撃ち込んでいるが、窓の弾痕は一つきりだ。
(鳴滝氏を狙ったものではない。――と、なると…。)
さっと身を乗り出し、窓に姿を晒す龍麻。真っ暗な夜空は、しかし大きく視界が開けていて、ここを狙撃できるようなポイントは存在しない。そもそも裏世界で名の通った拳武館の館長室である。狙撃を許さぬように五キロ先までビルなどの高い建物は存在せず、窓も厚さ五〇ミリの防弾ガラスだ。五〇口径ライフルや対戦車ロケット砲でも容易には撃ち抜けぬ代物である。
だが龍麻の【魔人】的超感覚は、三キロ先でホバリングしているヘリコプターの存在を感知した。
(この距離でヘリの機上から狙撃してこの正確さ…。――彼か!?)
どれほど高性能のヘリであっても、空中で絶対静止する事はできない。まして龍麻の超感覚すら欺く三キロという超遠距離。狙撃用のフレシェット弾と言えども大気の影響を受けずにはいられぬ距離だ。それをピンポイントで三発撃ち込み、更に防弾ガラスに開いた穴から人体の腕、頭部、股座に正確に命中させるなど、もはや悪夢のような腕前である。そんな事が出来る人間の心当たりは――
次の瞬間、龍麻はぱっと伏せた。
「――脅し…いや、挨拶か」
五秒待っても、弾丸は飛んでこない。狙撃手はどうやら、殺気だけを放ったようだ。
まさにその瞬間、拳武館から三キロ離れたヘリの機上で、こんな会話が交わされていた。
『BANG! ――ヒュウッ! 殺気だけで避けやがったぜ、あいつ』
『――いつまでも遊んでいるな。ターゲットはどうした?』
『俺が標的を外す訳ねェだろ? ドタマに一発。ヤロウのタマも吹き飛ばしてやったぜ。腕の方は、ま、あいつへのプレゼントだ。――けどよォ、俺が殺(っちまって良かったのか? あのクソヤロウ、彼女を――』
『お前が殺ったのなら、それでいい。――あいつの事情は、俺たちの知った事じゃない』
『でもよォ、一応、【隊長】の仇だぜ?』
『互いに納得づくの戦争だ。俺たちが口を出す事じゃない。――〇三二〇時、任務終了。帰投する』
『…りょーかい』
狙撃手の【少年】は狙撃用長銃身をセットしたゲパルトM3・カスタムを抱え上げ、ヘッドギアを取った。
明るい茶色の長髪がヘリの起こした乱気流に舞い、人懐こそうな顔を叩く。髪を押さえた少年の左肩には、蛮刀を背負った残虐そうな妖精の紋章が刻まれ、その下には小さく【No11】とあった。
ヘリの座席に付いた少年は、操縦桿を握るこれも【少年】に声をかけた。
『――あン? お嬢様が次の獲物の情報持ってお待ちかねだとよ。――ちゃんとシャワーを浴びとけよ。三十人前じゃ、さすがに匂うぜ』
『三十二人だ。――返り血は浴びていないが、そうする』
ぐい、と操縦桿を倒す【少年】。彼の左腕にも、同じ妖精の紋章が刻まれていた。その下の数字は、【No04】。
ヘリが遠ざかるのを感じ取り、龍麻はため息を付いてアナコンダを下ろした。
「――去ったか。見逃してくれたらしいな」
いつの間にか、龍麻は左腕の紋章を押さえている。完全武装の兵士三十二名をナイフ一本で裂き殺し、三キロの長距離狙撃を可能とする人物。――決して、心当たりがない訳ではない。
――半数は生き残ったぜ。
九角の言葉が甦る。思えばこれまでにも、それと匂わせるような事件はあったのだ。羽田空港然り、夏コミ然り、新幹線爆破テロ然り…。
はっきりと確認できる訳ではない。だが、それが【彼ら】の仕業であるなら、【仲間】たちは今も健在らしい。我知らず、龍麻はエンブレムを押さえる手に力を込めながら、口元には笑みを刻んでいた。
「…龍麻、今のは…?」
龍麻の笑いが理解できず、そして狙撃手が鳴滝を狙ったものではないと知り、壬生が声をかけてきた。
「【シグマ】と敵対していた者である事は間違いないな。――この世は謎だらけだ。何もかも解ったつもりでいる奴らは大馬鹿だな。世界はこれほど面白いというのに」
何もかも解ったつもり、世界を理解したつもり、なんでも思い通りになるつもりになった奴ほど、性質の悪いものはない。そういう連中はたいてい、【国民のため】、【正義のため】と称して戦争を起こしてきた。所詮この世は弱肉強食。国家もテロリストも、力なきものを押さえ付ければ同じ穴のムジナ。少なくとも今日、その内の一匹は始末できたようだ。
「紅葉。生存者の確認を頼む。恐らく【シグマ】の人員は誰一人残っていまいが、気を付けて行け」
【シグマ】がここまでたやすく侵入できた事からして、セキュリティシステムは全て死んでいる筈だ。鳴滝は壬生にそう命じた。
「はい。しかし…」
壬生の視線は龍麻に向けられる。しかし鳴滝は【大丈夫だ】と言うように静かに首を横に振った。
「…解りました。では、行って参ります」
【尊敬の印】を結んで一礼し、壬生は館長室を辞した。
それを横目で見送り、龍麻は椅子に深く腰掛けた鳴滝に視線を戻した。
「…奴をいつまでああしておくつもりですか?」
「ああ…とは?」
壬生が自ら望んで歩む、暗殺者の道。それに異を唱えるような龍麻の態度に、鳴滝はほんの少し目を見開く。龍麻は、本人が選択した道ならば、それがどれほど過酷に見えようとも、その道を選んだ本人の意思を尊重する。たとえそれが、自分と敵対する道であっても。
「今回の一件で、拳武館はほぼゼロからの再編成を余儀なくされている。紅葉は優秀だ。これからの拳武のためにも、彼のような人材が必要だ」
「肯定です。しかし、奴一人では些か荷が重いのでは?」
龍麻の視線は鳴滝から、部屋の壁に飾られた【仁義】と書かれた掛け軸へと注がれた。
「仁義礼智忠信孝悌――美しい言葉だが、言葉はやはり言葉。誇りや信念を持たねば人は生きて行けんが、それだけでは腹が満たされないのも事実。今回の一件で思い知ったのではありませんか?」
「うむ…君の言わんとする事はわかるが、拳武の理念は…」
「鳴滝さん。あなたまで【シグマ】の連中と同レベルですか?」
礼儀にうるさい筈の龍麻が、鳴滝の言を遮る。
「信念や誇りで人を縛るだけならば、拳武も【シグマ】も同じです。金をもらうのは単なる殺人者とならぬ為のけじめ。報酬によって殺す相手を左右されぬのは単なる殺し屋に堕さぬ為。しかし、過酷な任務をこなす【個人】を尊重できぬ組織に未来などありません。他人にできぬ事をこなした者には、相応の報酬を与えるべきです。特に紅葉は、病気の母親のために金が必要。その事がなければ、奴は奴自身の誇りにかけて副館長に刃向かったでしょう。狼も人に飼われれば牙を失う。奴は理想と現実の板ばさみで牙が磨耗している。遠からず、拳武でも使いものにならなくなるでしょう」
「…手厳しいな。どうしろと言うのかね?」
「簡単な事です。彼にアルバイトの許可を」
意外な人物の口から飛び出した意外な単語に、鳴滝はきょとん、とした。恐らくこの拳武館で、鳴滝のこんな表情を見た者はいないだろう。
「紅葉の技能をこのまま腐らせるのは惜しい。彼は誇りをもって臨める自分の戦いをする必要がある。――自分のところならば、そのような場を提供できると思われます。彼にとっては正当な報酬が得られ、彼の技能向上は拳武にとっても悪い話ではない。――そうではありませんか?」
鳴滝は、やや眩しそうな顔で龍麻を見つめた。
情報の断片を追って龍麻を見つけ出したのがほぼ一年前。その間に、人はこれほど変わるものか? 三ヶ月間、徒手空拳の手ほどきをしていた鳴滝だが、その頃の龍麻は無駄口を叩かず、訓練時と平常時の区別など皆無であったと言って良かった。辛うじて態度を軟化させるのは、比嘉焚実か青葉さとみが同席する時くらいであった。正直なところ、彼を【あの】真神学園に転入させる事に不安を覚えたものである。
それがどうだ? 彼にはこの東京で何をするべきなのか、特に話したりはしなかった。【宿星の導き】などという説明をすれば、彼が反発する事は予想できたからだ。しかし彼はいつの間にか、運命や宿命などという言葉など笑い飛ばすかのように自ら戦いの道を選び取り、今日に至る。いつしか仲間は増え、リーダーとして立派に責務をこなし、しかし現状に決して満足せずに更なる高みを目指す。鳴滝は今の自分、そして過去の自分と照らし合わせても頭が下がる想いだった。
(さすがは弦麻と迦代さんの…いや、これがまさに緋勇龍麻という人間の資質か)
ただ、血の繋がりだけで、今の龍麻と父親を重ねるのは無礼だ。目の前にいるのは緋勇龍麻であって、緋勇弦麻ではない。
「…君のところに、紅葉をよこせと言うのかね?」
「飼い犬に興味はありません」
命令ではなく、義務でもなく、あくまで自分の意思で――龍麻がこれまで集まった仲間達に最初に告げた言葉だ。それを鳴滝に告げたのは、壬生紅葉という男を鎖に繋いでいるのが鳴滝だからである。
「…解った。紅葉の意思を尊重しよう」
壬生紅葉を中心に据えれば、拳武の再編は比較的早くなるかも知れない。腕は達つし、後輩からの信頼も厚い。しかし、長い目で見るならば壬生をこの飼い殺しのような状態に置くことは得策ではない。それは、鳴滝も薄々感じていた事であった。
「――紅葉に関してはそれで良いでしょう。しかし、鳴滝さん。あなたの分が済んでおりません」
「…!?」
「自分に対する殺しの依頼があった事は事実ですが、私利私欲のためにそれを受けるような人物を副館長に据えていた責任。この罪は購って頂かねばなりません」
先程より冷たさを増した龍麻の口調。――敵になった者は完全殲滅。それが龍麻の――レッドキャップスのスタイル――
「…君がここに来た時点で覚悟を決めたつもりだったが…いざとなると怖いものだな」
「…自分は【仲間】を失う事の方が恐ろしいと思い知らされました。そしてあなたは、それを既に知っていた筈ですね」
龍麻がコートのポケットから取り出したのは、一振りの剃刀。最初にここを襲撃した時、暗殺者の一人から取り上げた物であった。つまり、龍麻本来の持ち物ではない。この剃刀から、龍麻を割り出す事はできない。
「――動かない方がよろしいと申し上げます。それも、自業自得というものですが」
そして龍麻は、剃刀を手に鳴滝にゆっくりと近付いて行った。
鳴滝の頬に、汗が一筋流れ落ちた。
「ハアッ! ハアッ! ハアッ! ――僕とした事が…なんてドジを!」
壬生紅葉は鮮血で滑る足元に注意しながら、必死で館長室を目指して走っていた。
校舎内は【シグマ】隊員の死体が散らばり、血の海と化していた。その一方で、セキュリティ・センターにいた拳武の職員は、ガスで眠らされて拘束されていただけに留まっていた。【シグマ】が拳武に成り代わろうとするならば、手足となって働く大量の人材も必要な訳で、事情を弁えている職員たちが容易く殺される筈はなかったのである。
しかしなぜ、それを壬生に確認させたのか? それは自分を、館長室から遠ざけるためだったのだ。【龍麻とは一人で逢う】――鳴滝はそう言っていた。【覚悟が必要】とも。思いがけず龍麻が割と友好的な態度を取ったので、壬生はすっかり騙されてしまったのだ。
あと二十メートルほどで館長室――という所で、壬生は声をかけられた。
「――狭い日本、そんなに急いでどこに行く?」
「龍麻…!」
真面目な顔をして、かなり古いフレーズを口にする龍麻に、壬生は少々脱力した。もし緊急事態という意識がなければ、それこそへなへなと脱力しただろう。それくらい、龍麻の声には緊張感がなかった。
しかし龍麻は壬生の緊張をよそに、言葉を継いだ。
「――今日の午後、真神の会議室で株式投資の基本ノウハウを講義する予定がある」
「…は?」
「――暇ならばお前も来い。一万円からできる株式投資を教えてやる。無論、参加費は無料だ。生活費の足しと、小遣い稼ぎにはなる。どこに出しても問題ない、立派な収入だ。税務署への申告は必須になるが」
「――ちょっと待ってくれ。株式投資の講義って…君が?」
「そうだ」
とんでもない事を即答する龍麻。高校生の暗殺者という、とんでもない男もこれには度肝を抜かれる。
「い、一体誰がそんな講義を聞きに…?」
「真神の教師陣、近所のラーメン屋のご主人、某骨董屋の若主人などだ」
やはり即答する龍麻。壬生は、話に付いていけない。呆然としている間に、龍麻は壬生に背を向けて歩き出している。
「い、いや! そんな事より、君はまさか館長を…!」
辛うじて食い下がった壬生であったが、一瞬見えた龍麻の眼光に射すくめられ、身動きができなくなった。
「――〇三三〇時。任務は完了した」
その返事は、闇が発したかのようであった。
「――ッ館長!」
龍麻の足音が完全に聞こえなくなってから、やっと壬生は足が動くようになり、館長室へと駆け込んだ。そこにはまだ相川ら【シグマ】隊員の死体がそのまま転がり、そして鳴滝は――
「――紅葉…か?」
「館長! ご無事で!?」
館長室はなぜか照明が落とされ、僅かな街の明かりを切り取っている窓の前に、鳴滝は壬生に背を向けて立っていた。そして壬生が近付いても、振り向こうとしない。
「館長…?」
鳴滝まで二メートル。それ以上近付かぬのが拳武館でのルールだ。見たところ異常は見受けられないし、怪我をしている様子もないのだが、何かがおかしい。いつもの鳴滝の放つ雰囲気ではない。
鳴滝がゆっくりと振り向いた。
闇に塗り込められ、その顔は見えない。だがその瞬間、激しい稲光が館長室を照らし出し、鳴滝の顔を白々と浮かび上がらせた。
「――――――――ッッ!!」
壬生はこれまでの人生の中で最大クラスの衝撃を受け、絶句した。しかし同時に、心の中ではまさに絶叫していた。
(さ、さ、さ、さっぱりしてる――――――――ッッ!!)
――そうなのだ。あの鳴滝のトレードマークであったあの髭が、綺麗さっぱりなくなっている。口髭も、顎鬚もだ。鳴滝を鳴滝たらしめていた髭が、根こそぎ綺麗に剃り取られていたのである。――ダンディズムの根幹たる髭の抹消――これが龍麻の制裁であった。
「…そんなに変かね?」
ああ、このような声を日本随一の暗殺集団の長が出すとは!? 鳴滝の声には照れ臭さが含まれていた。
「い、いエ! 良くお似合いデス!」
さらに、拳武館暗殺組ナンバーワンの暗殺者がこのような声を上げるとは!?
実際、鳴滝とて顔の造作は【いい男】の部類に入る。ダンディズムは失われたかも知れないが、これはこれで一挙に十歳は若返って見えるのだ。このままスーツ姿で街を歩き回れば、かなりの高確率で女性たちを振り向かせるに違いない。
「…笑いたければ笑っても良いぞ?」
「い、いえ! 滅相もございません!」
直立不動、気合の入りまくった態度で答える壬生。しかし、その顔は必死で笑いを堪えているために引きつっている。
「龍麻がな、必要な時、お前の助力を願いたいそうだ。もちろん、受けるかどうかはお前の自由意志だが」
「龍麻が? し、しかし拳武の掟では――」
鳴滝は壬生に背を向け、窓の方を向いた。――別に重厚さの演出ではない。真面目な話をしようとしているのに、壬生が自分の顔を真正面から見られないためだ。
「――拳武とて、掟が全てではない。自分にとって真に大切なものを知った時、人は己を縛っている鎖を振りほどかねばならん。【仁】とは優しさ。【義】とは義侠心。この二つが心にある者に、拳武の掟など不要のものなのだよ。――戦いなさい、紅葉。自分自身のために」
「館長…。それでは僕の立場はどのような事に…?」
「――これは、お前の自由意志だと言った筈だよ。拳武に在籍したまま緋勇龍麻に協力するのも、一向に構わない」
いつしか壬生は、拳を硬く握り締めていた。かつて幼い日、母の為にこの道を選んだ時と同じように。しかし今は、自分自身の戦いを始められるという、歓喜と興奮に。
「僕は…拳武館暗殺組、壬生紅葉です」
一語一語、はっきりと区切るように、壬生はそれを口にした。
「しかしながら、【真神愚連隊】、緋勇龍麻に協力したい所存であります」
「――よろしい」
鳴滝は深く頷いた。
「許可する。――ただ、この後始末が付くまではなるべくこちらを優先してくれたまえ。以上、下がってよし」
「はい」
【尊敬の印】を結んで一礼し、館長室を辞す壬生。しかし十数秒後、ドアが破壊されているために、不謹慎なのは承知の上だろうが、廊下の果てで壬生が声を上げて笑っているのがかすかに聞こえ、鳴滝は嘆息して空を仰ぎ見た。
「弦麻よ…お前は俺を恨んでいるのだろうな。しかし…しかし俺は、勝手に先立ったお前を恨むぞ…。龍麻は…要らぬところまでお前にそっくりだ…」
窓ガラスに映る自分の顔に鳴滝は苦笑し、つるつるになった顎に手をやった。ふと空を見上げると、腹を抱えて爆笑しているかつての親友の姿が見えたような気がして、彼は再び憮然とした表情になった。
ただ、胸の内は温かいもので満たされていた。
第壱拾八話 餓狼 完
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