第壱八話  餓狼 5





「…そろそろ、時間だね」

 不安げな小蒔の声が、不気味なほど虚ろに響いて消える。次いで訪れたのは、耳鳴りがするほどの静寂。周囲は明るいが、文明の利器蛍光燈はこの寒々しい場所を一層寂しく見せるだけの効果しかない。

 足立区、地下鉄ホーム。最終電車が行ってしまってから数十分。日付もとっくに変わり、駅員も既にいない。朝が来ればまた殺人的な賑わいを見せるであろうこの場所は、今は深い眠りに就いているかのようである。

「ひーちゃん…どうしちゃったのかな…?」

 この場にいるのは、醍醐を先頭に、葵、小蒔だけである。集合時間を過ぎても龍麻は姿を見せず、指定された時間の十分前になって遂に醍醐は三人だけで行く事を決意した。これはかつて醍醐が失踪した時、不動巡りを京一と葵だけで行った時と似ていた。――臨機応変に、考え得る最良の行動を選択しろ――龍麻の言葉を忠実に実行したのである。

「龍麻は根回しをすると言っていたんだ。相手が国家公認の組織となると、それなりの手間も掛かるだろう」

「そうね…。でも、少し様子がおかしかったわ。なんだか…無理に自分を押さえているような…」

「うむ…」

 葵の言葉に、重々しく頷く醍醐。彼らにしても自信はないのだが、相手が拳武館だとほぼ確定した時、龍麻から極めて微細な殺気が放射されたような気がしたのだ。葵は【菩薩眼】という特殊な能力から、醍醐は敵と直接対峙する武道家ゆえの勘で、ある程度の感情の揺らぎを感じ取れる。別れる直前の龍麻はいつもとまったく変わらず、不安や恐れは皆無だった。しかし、敢えて言うならば、本身の日本刀を鞘から少しだけ顔を覗かせた時の、漠然とした緊張感のようなものが感じられたような気がする。

 龍麻が逃げた――これは選択肢に上がる事すらない考えだ。しかし現実に、この場に龍麻がいない事が、様々な不安を煽る。死蝋の時、佐久間の舎弟に特攻を掛けられた時など、龍麻とて決して無敵ではないのだから。

 秒針があと三周すると、指定された時間だ。どうやら龍麻をあてにする事はできないようだ。

「醍醐クン…。ボクたち、負けないよねッ?」

 小蒔の声からは不安も怖れも消えている。普通の女子高生から、【真神愚連隊】長距離支援班長へと切り替えたのだ。

「当然だ。相手が誰だろうと、俺達【真神愚連隊】に負けはない」

 醍醐の宣言がホームを伝っていき、代わりに犬の鳴き声となって返ってきた。

「犬…!?」

「――間違いないよッ。この声は――」

 三人とも、声の主に一斉に思い当たり、思わず大きな声を上げる。するとホームの向こうから一頭のボクサー犬が尻尾を振りながら走ってきた。

「エル!」

 その名を呼ぶと、エルは屈み込んだ小蒔の下に真っ直ぐ飛び込んだ。

「わあッ! エル! 良かったァ!」

 思わず感極まってエルの首を抱き締める小蒔。エルは尻尾を一杯に振って喜ぶ。

「本当に…無事で良かった」

「ああ…」

 醍醐も葵も一時緊張を忘れ、エルの頭を撫でる。エルは嬉しそうに二人の手を嘗めた。

 だが、醍醐はもう一度エルの頭を一撫でした後、鋭い眼光をエルのやって来た方向に向けた。仲間の一人を伴い、黒いコートを纏った細身の男が一人、現れたのである。

「――時間通りだな」

 自分たちを狙っている者が、これほど時間に正確だとは。醍醐は少し意外に思うと共に、その男からある匂いを嗅ぎ付けて闘志を燃え立たせた。

 男からは【気】をまったく感じない。無機物か、死体のように。だが、匂いは分かる。冷たく凍り付いた鎧の中から発せられる獣臭――武道という牙を磨き上げ、それを思う様ふるって来た者の放つ匂いだ。

「アンタたち…!」

「――大丈夫? 藤咲サン」

 亜里沙が意外なほど元気な様子なのでほっとしつつ、小蒔は油断なく周囲に視線を走らせる。姿を現わしているのはその男一人だけだが、油断はできない。鬼道衆忍軍の上忍クラスともなれば気配を断つ事など当たり前のようにやってのけた。全体を見ろというのは龍麻の教えだ。後方支援の小蒔や葵は、特に周囲への警戒を怠らない。

 男が口を開いた。

「そちらも時間通り…。だが、頭数が足りないな。醍醐雄矢、美里葵、桜井小蒔。――緋勇龍麻はどうしたんだい?」

「――ちゃんといるとも。今、ライフルでお前の心臓に狙いを付けているところだ」

 自分たちを知っている者ならば、龍麻がそのような人間である事も知っているだろうと踏んでの、醍醐の脅しであった。並の相手ならそれで竦み上がるだろうが、男は平然たるものだ。やり難い相手だ――醍醐は心中唸らざるを得ない。

「どうでも良い事だが、敢えて聞こう。貴様は何者だ? いや…なぜ貴様ら拳武館が俺達を狙う?」

 いきなり核心を突く醍醐の詰問に、男の表情が微妙に変化した。口の端が少しだけ上がったのである。笑いの形に。

「さすがは緋勇龍麻の仲間。一介の高校生がその名の真の意味を知っているとは、賞賛に値する。だが褒賞は【死】以外に有り得ないけどね」

 キリ…と小蒔が唇を噛む。敵は拳武館…社会悪を制裁する組織だと確定したのである。詳しい経緯はまったく不明だが、鬼道衆と闘い、軍産複合体の陰謀と闘い、この東京を、日本を護った自分たちが、そのような組織に狙われているのだ。気分が良い悪いの問題ではないだろうが、三人にとっては最悪の気分だ。

「――まあ良い。緋勇龍麻は逃げるような男じゃない。君はもう行け」

 醍醐たちから視線を外し、亜里沙を促す。戸惑ったのは亜里沙ばかりではなかった。

「アンタ…どうしても醍醐たちと闘うつもり? アンタ、ホントは…」

「――勘違いは良くないな。標的は君ではなく、彼らだ」

 つまり、員数外である亜里沙を殺すつもりはないという事か? 妙なものだと醍醐は思う。龍麻の所属する世界を垣間見ている醍醐には、暗殺を生業としている者が目撃者を逃がすという図が今一つ納得いかない。

 亜里沙はその程度では済まなかった。

 どうやらこの男は、最初から自分を逃がしてくれるつもりだったようなのだ。その為に見張りを倒し、たまたま亜里沙の脱出とタイミングが重なった為に対峙する事になったが、そこに現れたエルが手当てされていた事、そしてエルがこの男に対して警戒を解いている事から、彼を信じる事にしたのである。現にここに来るまで、彼は亜里沙を拘束しようともしなかったのだ。

 この男は、八剣たちとは根本的に違う。その持つ雰囲気は明らかに裏世界の住人のものだが、その根底に見え隠れする信念というか何というか…そういうものが龍麻にそっくりなのである。

 龍麻とこの男を戦わせてはいけない! 亜里沙は痛切に思った。だが彼女は、龍麻もこの男も出会った瞬間に殺し合いを始めるであろう事も予測していた。この男を説得するのはまず不可能――ならば、百万分の一ほどでも可能性があるのは龍麻の方だ。しかし龍麻は、この場にいない。

 亜里沙はすがるような視線を男に向けたが、彼は黙殺する。亜里沙は諦め、醍醐たちの所に駆け寄った。

「亜里沙!」

「藤咲サン!」

 駆け寄った亜里沙を迎え入れる葵と小蒔。醍醐は彼女たちを庇うように立つ。

「みんな…ごめんよ。こんな迷惑かけちゃって…」

「なに言ってるの、亜里沙。無事ならそれで良いわよ」

 葵と小蒔に肩を叩かれ、亜里沙は必死で込み上げる涙を堪えねばならなかった。しかし、それも小蒔がやや顔を強張らせて【これ】を聞くまでだった。

「藤咲サン…その、京一はどうしたの…?」

「ゴメン…あたしにも良く分からないんだ。現場を見た訳じゃないし…。でも、京一をやったのはあいつじゃない。――お願いだよ。あいつとは闘わないで。あいつは他の外道とは何もかも違う。あたしとエルを助けてくれたのも、あいつなんだよッ」

 必死の懇願。エルもまるで、その男と闘わないでくれと訴えているように醍醐たちを見上げる。醍醐たちも、亜里沙とエルを助けたという言葉に困惑を覚え、改めて男を見た。

「…断っておくが、その女性は標的ではないから殺さないだけだ。だが君たち三人は違う。例えこの場から逃れようと、僕は必ず君たちを殺す」

「――それが拳武館…という事か」

 亜里沙の言葉に心を動かされなかった訳ではないが、敢えて非情に徹しようと、醍醐は拳の骨を鳴らした。

「その拳武館がなぜ俺達を狙うのか――聞いても答えんだろうな。だが俺達【真神愚連隊】をそうやすやすと倒せるなどとは思わぬ事だ」

 一歩、前に進み出る醍醐。小蒔はブレスレットを鳴らして弓を出現させ、葵もトランス状態に入り、放出した【気】で長い黒髪を揺らし始める。もはや止めようもない、戦闘態勢だ。

「【真神愚連隊】近接戦闘班長、醍醐雄矢! 推して参る!」

 ゴオ! と醍醐の巨体から青いオーラが放出され、常識では有り得ない風が男の髪を揺らす。だが、その表情には一切の変化はない。

「――その礼に応えて名乗る。――僕は拳武館暗殺組・壬生紅葉」

 その細身の身体から一瞬だけ放たれた、真神の一同と同種の青いオーラ! だが、爆発にも等しい放出は瞬時に消え去り、不気味なほどに【気】が静まる。――感知できないほどに。

(この男も【神威】か…! しかもこうまで【気】を消してみせるとは…!)

 さすがは【暗殺者】というところか。醍醐はこの壬生という男がこれまで闘ってきた者たちとはタイプがまったく異なる事を悟った。

 ――何が来る!? 

 つい、と壬生が足を踏み出す。ただそれだけで醍醐は戦慄した。彼が歩き出した事に気付くのがゼロコンマのレベルとは言え遅れたのである。

「ぬうッ!」

 咄嗟に醍醐は構えを変える。彼の【本気】の構えである【手四つ】だが、気息と体重配分はあの風見拳士郎から学んだ大氣拳式【這い】のそれだ。全身から吹き出す闘気が炎のような形から均整の取れた円形へと変わり、壬生の歩みが束の間止まる。互いを強敵と認識し、ぴん、と二人の間に透明な殺気の糸が張られ――



 ――ズドドドドドドドドッッ! 



「――ッッ!?」

 時ならぬ爆音が響いてきて、二人の激突は若干の延長を余儀なくされた。

「この――音!?」

 地下鉄の線路、闇が塗り込められたトンネルの奥から響いてくる高周波の唸り。トンネルゆえに反響で音が増幅されているが、間違いない。これは、龍麻の改造バイクの――

 グオンッ! 

 トンネルの奥から光条が闇を切り裂いて出現し、次いで現れた真紅のバイクとライダーが一挙動でホームに飛び上がってきた。車体を横向きにスライドさせ、一番後方にいた亜里沙のすぐ傍で停車する。

「――間に合ったようだな」

 その男は開口一番、そう言った。葵の手元で、時計が二五〇〇時を告げる。

「龍麻!」

「ひーちゃん!」

 最も信頼できる指揮官。【真神愚連隊】はこの男なしでは始まらない。葵も小蒔も思わず彼に駆け寄ったのだが、龍麻がヘルメットを取るとうっと呻いて立ちすくんだ。

「た、龍麻…! それ…!」

 ヘルメットを取った彼の顔には、乾いた血が幾筋も張り付いていた。黒尽くめの為に解り難いが、全身の染みは全て血であろう。彼の全身からは濃密な血臭と共に、硝煙のきつい匂いも漂っていた。

「亜里沙。無事で何よりだ」

「う…うんッ」

 彼の口調には優しさが含まれていたが、その凄まじい姿に圧倒される亜里沙。全身の血が全て返り血である事はすぐに解ったが、では一体、彼はどこで何をしてきたのか? 彼の全身にはいまだ納まらぬ殺気が色濃く漂い、触れただけで切り裂かれそうであった。

「龍麻…! お前、今までどこに…!」

「代われ、醍醐」

 質問には答えず、龍麻は親指で後方に下がれと言った。

「予備知識なしでは、いくらお前でも勝ち目はない」

 あっさりとそんな事を言われ、「む…!」と唸る醍醐。しかし龍麻は彼の脇を通り過ぎ、壬生に声を掛けた。

「――少し久しぶりだな、紅葉」

『――ッッ!?』

 葵たちが絶句し、目を見開く。この場に他の仲間たちがいたとしても、誰もが同じ反応をするだろう。たった今、自分たちを殺すと宣言した男が、龍麻と面識があるとすれば。

 それを肯定するように、壬生も薄い笑みを見せた。

「こんな形で向かい合う事になろうとは思わなかったよ」

「呆けるのはよせ。二ヶ月前から監視を再開していただろう」

「――やはり、気付いていたのかい?」

「当たり前だ」

 そこで少し、壬生の表情が改まる。多分、むっとしたのだろう。

「――まァいい。せっかく来たんだ。少し遊んでいくといい」

「…僕は、君たちを殺しに来たんだけどね」

 龍麻の口元がぐい、と笑いの形に吊り上る。

「のぼせ上がるな。パートタイマー」

「――ッッ!」

 先程の醍醐よりも更に攻撃的な、突風のような龍麻の闘気が壬生に叩き付けられた。

「あんな一山幾らの雑魚ごとき何人食ったところで腹の足しにもならないが、お前は別だ。徒手空拳【陰】の技――楽しませてもらおうか」

 酷く物騒な龍麻の言葉に、しかし醍醐が真っ当な反応をする。

「徒手空拳【陰】だと…? 龍麻…まさかその男は――!?」

 その雰囲気、眼光。顔こそ違うが、こうして黒コートを着て背中でも見せられたら、判別するのは難しい。それ程に、この二人はそっくりであった。身に纏う【気】の質に至るまで。そこから導き出される答は――

「拳武館暗殺組・壬生紅葉。俺と――同門だ」

「……ッッ!」

「付け加えるならば、俺の師は拳武館の校長だ。つまりこの男は、俺の兄弟子という事になる」

 次々と明らかになる新事実に、葵たちは頭が追い付かない。龍麻は元々己の過去を話すタイプではなかったし、葵たちにしても彼の過去を詮索するような真似はしなかった。だがまさか、自分たちの命を狙っている暗殺者が龍麻の同門で、組織のトップが龍麻の師とは! 

「…ちょっと待って。それじゃ龍麻、今回の件は…!」

「…見落としと言うには、度し難いミスだ」

 龍麻は正直に認めた。――龍麻が鳴滝に徒手空拳の手ほどきを受けたのはたった三ヶ月の事で、拳武館の実情には敢えて触れなかった。ただしその指令系統の強固さから推察して、拳武館は鳴滝を頂点とした一枚岩だと思っていたのだ。そして何より、自分の正体を知る鳴滝が暗殺者を送ってくるなど有り得ないとも考えていた。そのため、五日間に及ぶ調査でも拳武館絡みの情報にはノータッチだった。――随分甘くなったと龍麻は思ったものだ。

「まァ、今となってはどうでも良い事だ」

 ポウッ…と龍麻の両手に【気】の輝きが宿る。龍麻は殺る気だ。本当に、敵に廻った者に同門も兄弟弟子もないのだ。

「ちょ、ちょっと待ってよッ! 京一をやったのはそいつじゃないんだよッ!」

 叫ぶ亜里沙に、龍麻が振り返って応えた。

「それがどうした?」

「――ッッ!!」

 龍麻が歯牙にも掛けなかったのは、壬生が京一を殺した殺さないではなく、京一に関する事そのものであった。だがそれは薄情からのものではない。

「奴は奴で忙しい。こちらはこちらで片付ける。――それだけの事だ」

 そうなのだ。この男は京一の生存をいまだに信じて疑わない。唯一現場にいたであろう亜里沙だけが帰ってきた今でも。

「…君らしくないな。現実を見ようとしないなんて。彼は、個別でいるところを拳武に狙われたんだよ」

 酷く冷たいのに、まるでため息のような壬生の言葉。しかし龍麻の冷笑は変わらない。

「だから、どうでも良いと言っている。――口数が多いぞ。狗め」

 今度こそ、壬生が表情を消した。もはや話はここまでという事だ。

「…武道家としては僕が兄弟子。殺しにかけては君の方が上…。――いつまでそう言えるかな?」

 つい、と足の踏み位置を変える壬生。ただそれだけが構え。龍麻と同じ――徒手空拳。

「――結局、お互いそそられていたという訳だ。――良かったな。夢が叶ったぜ」

 からかうような、それでいて凄絶な野獣の笑みが闘争の合図――

「――行くよッ!」

 二人のコートが、同時に翻った。











 龍麻も壬生もまったく構えぬままするすると間合いを詰める。異なるのは運足。龍麻が大地の反作用を最大限利用できる【摺り足】ならば、壬生のそれは爪先で滑るような運足。ボクシングのフットワークよりも、ダンスかバレエのステップに近く、その癖安定感がある。徒手空拳【陰】の運足――【滑空足】。

 いきなり、壬生が跳んだ。

「――!」

 瞬発力の【溜め】を抜きに、もはや【飛翔】と呼んでも差し支えない跳躍! コートが翼のように広がり、たわめられていた脚が繰り出す蹴りは、正しく猛禽の爪! 

 間一髪! 顔を横に振って壬生の蹴りをかわす龍麻。だがほとんどタイムラグなしに壬生の反対側の足が襲い掛かってくる。最初の蹴りが槍のような直線を描いたのに対し、こちらは弧を描く。――中国拳法なら鴛鴦脚(えんおうきゃく)という空中二段蹴りだ。そして壬生のそれは、技の初動をまったく感知させない。そして――

 ドガッッ――!! 

 体重を乗せた訳ではない空中からの蹴りが、地面に接地している龍麻を弾き飛ばした。

「――ッッ!!」

 醍醐たちが目を見張る。体術のみで今の龍麻を吹き飛ばすなど、もはや【神威】達でさえ容易ならぬ事なのだ。

 龍麻が構えを作り直す前に、壬生が地を滑って迫る。――音がしない! 空気もほとんど揺らさない! ――正に一陣のつむじ風! 

 ズドオッッ!! 

 恐ろしい音が響いてから初めて、龍麻の水月に壬生の爪先が食い込んだと分かる。――直撃だ。受けたのが龍麻でなければ、腹を突き破られている。

 水月に突き刺さっている蹴り足を掴みに行く龍麻。しかし蹴り込んだ足を軸に身を捻り、跳び後ろ廻し蹴り! 相手に触れた部分を大地として放つ二段蹴りは龍麻の【龍星脚】と似て、しかし格段に荒っぽい。こめかみを狙って来た壬生の踵を、同方向への側転でかわす龍麻。しかし今の龍麻の反応速度をもってしても、こめかみの真上を浅く裂かれる。

 地面への接地が早かった分、体勢を立て直すのは龍麻が先だった。

「シッッ!!」

 常人の目には止まらぬ【掌打】を五連発! だが壬生は恐ろしく柔軟な上半身の動きのみで龍麻の【掌打】をかわした。九角や豹馬のように受けたり死角に回り込んだりしたのではない。攻撃に用いる下半身の動きは最低限に、上半身の動きのみで龍麻の攻撃を避けたのである。確実に避けられぬ分のみ、手技で弾き飛ばす。

 攻撃は強力な足技に任せ、多彩に動かせる手技は防御と【崩し】に使う――それが徒手空拳【陰】。

 自身を地面に叩き付けるように倒した上半身の勢いを蹴りに繋げる壬生! ――【空牙】! こめかみに突き刺さるように放たれた蹴りを辛うじて受ける龍麻。だが次の瞬間、壬生の足首が龍麻の手首を引っ掛けるように動いた。普通ならば有り得ない現象に、龍麻の上半身が傾ぐ。そして――

 引き寄せられた龍麻の水月に再度突き刺さる蹴り! そこを踏み台に、龍麻の腕を引き寄せた足が蹴りに変わって龍麻の顎を蹴り上げる。仰け反る龍麻を追うように、壬生の猛禽の飛翔――【昇龍脚】! 

 ドガッ! ドスッ! ガシッ! ビキッ! 

「――ッ空中で!!」

「――蹴り続けてるゥ!!?」

 それも【龍星脚】の用法――蹴り込んだ足を軸として二段目の蹴りに繋ぎ…それを相手が倒れぬ限り連続させる。もはやそれは人間業では有り得ない。――原理としては中国拳法に言う【粘剄】を足に発生させ、相手にへばりつくようにしているのだが、攻撃の【発剄】を瞬時に【粘剄】に切り替え、しかもバランスを失わぬ三次元認識能力。――蹴り技がどこまで実戦的か疑問視する者も格闘技界には少なくないが、徒手空拳【陰】の足技は手技のごとき多彩さを以ってそんな疑問を正に一蹴する。そして――更に! 

「――龍麻が反撃できないッッ!?」

 古今東西、格闘技に多種あれど、そのほとんどが【対人用】に開発された技術である。そして翼を持たぬ人類が開発した技術には、空中からの敵に対する技は存在しない。

「――ガッッ!!」

 空中から放たれる二十数発目の蹴りが龍麻のガードを弾き飛ばし、彼の顎を蹴り抜いた。大きく傾ぐ龍麻。そこに、着地した壬生がコートを閃かせつつ独楽のように旋回し、全体重を遠心力によって倍増させた廻し蹴りを叩き込んだ。

 ズズンッッッ…!! 

 地下鉄の駅に地響きが走るほどの衝撃! 龍麻はコンクリートの壁をぶち抜き、配管スペースに頭を突っ込む形で仰向けに倒れた。崩れた瓦礫が彼の上半身を覆う。

「龍麻ッッ!!」

「ウソ…ッッ!」

 【あの】龍麻が! 最強の【神威】が! これほどまで一方的に…! 

 バサッとコートを翻し、壬生は「フゥゥ…ッ」と息を吐く。技のパワー、スピード、切れ…全てにおいて龍麻を圧倒した彼だが、決して余裕があった訳ではない。表情には出さぬものの、彼の背には生温い汗が流れていた。

「…次は、君たちの番だよ」

「――それはない」

 残るターゲットに目を向けた壬生は、有り得ぬ方向から響いた声に背筋が凍るのを感じた。

「龍麻…!」

 呻く彼の足元で、小さな瓦礫がつむじ風に乗って宙を舞う。いや、風ではない。これは――闘気…! 

「…なるほど。徒手空拳【陰】。大した威力だ」

 瓦礫の中から吹き上がる青白いオーラ! それはより強く、白い輝きへと変じ、やがて黄金の光へと変わった。

「――だが、これでは俺を殺せない。狗の牙など――俺には届かない」

 瓦礫の山がガラガラと崩れ、その下から、膝から先だけ使って龍麻が起き上がる。まるで重力が狂ったかのような光景に、そして、龍麻にほとんどダメージがない事に誰もが声も出ない。

「これが、拳武館最強と言われた男の実力か」

 龍麻が唇を吊り上げて笑った。

「貧弱なものだな。これが館長への忠義とやらの力か? いや――今は副館長だったな」

「…君が他人の事情に口出しするとはね。僕はただ、今は副館長に従う事があの方への忠義だと判断しただけだよ」

「――だから、お前は狗だと言うのだ」

「――ッッ!!」

 バサッとコートを一叩きする龍麻。それだけで全ての埃が飛び散る。

「お前は誰を相手にしているつもりだ? ――たかが人の肉体を破壊するという行為に、忠義だの、誇りだの、母親の為だのと――その程度の鎖に縛られる軟弱者に、この俺の相手が務まるかッ。――消え失せろッ!」

 一瞬後、龍麻は壬生の目の前にいた。徒手空拳【陰】のお株を奪うかのように、【意】を消し、【気】を消し、【初動】を消し――

「な――ッッ!!」

 放たれたのは威力こそ凄絶無比の――ただの平手打ちであった。

 ドゴォッッ…ンンッッ!! 

「ぐ…はァッ…!!」

 天井を支える鉄筋コンクリートの柱が半ば崩壊するほどの勢いで叩き付けられ、壬生は血泡を吐いた。それでもさすがは徒手空拳【陰】の使い手。常に纏っている【気】の鎧のお陰でぎりぎりダメージを軽減する。それでも肋骨の何本かにひびが入り、苦鳴が唇を割った。

 ふわ、と線路に飛び降りる龍麻。壬生も辛うじて柱から己の身体を引き剥がす。ただ一発…単純な腕力のみでこのダメージとは。

「…侮ってくれるね…。今の一撃…【気】を込めていれば君が勝っていたかもしれないのに…」

「ほう、死にたかったのか?」

 龍麻は酷薄な笑みを崩さない。

「そうだろうな。貴様のような腑抜けなら、罪の意識とやらに耐え兼ねるのも無理はない。――安心しろ。その軟弱な思想もろとも、この世界から消滅させてやろう。そうすれば、お前が殺すのはあと一人だけで済む」

「…何?」

 半ば死に掛かっていた壬生の目に、刃物のような光が宿る。それを見て龍麻は歯を剥いて笑った。

「良かったな、紅葉。身内の血なら、啜っても罪の意識はあるまい。先に地獄とやらで待っていろ。そこで親子共々仲良く暮らせ」

「――ッッ!!」

 龍麻の【螺旋掌】! 天井を支える鉄筋コンクリートが分子崩壊を起こして消し飛び――しかし壬生はそこにはいなかった。

 彼は、一挙動でホームへと跳び上がっていた。全身から青白いオーラを炎のように燃え立たせながら、今までの無表情が信じられぬほど凄まじい形相で龍麻を睨む。クールな仮面の下に隠されていた本性が、今、剥き出しになったのだ。

「――緋勇龍麻という男を前に、下らぬ厭世観を抱く愚を思い知ったよ」

 壬生はコートを引き裂き、毟り取って投げ捨てた。ダン! と踏み締めた靴の下で、コンクリートにひびが走る。

「だが――もう下らぬ言い訳はいらない。君は――僕が倒す!」

 ゴオッ! と唸りを上げる闘気の突風! 迎え撃ったのは、龍麻の闘気だ。

「――上等」

 ズダンッッ――!!

 爆発音すら立てた踏み込みでコンクリートを砕き散らし、共に間合いに肉迫する龍麻と壬生。先制したのは――壬生! 蹴り技のリーチを最大限に生かし、上段廻し蹴り――【空牙】! 

「!!」

 壬生の蹴りを受けようとした龍麻の【掌打】が蹴り足を突き抜ける。残像!? 軸足からの捻りを足の各関節に思う侭に伝え、【気】と【意】を混ぜ込む変幻自在の連続蹴りと化す――【無影脚】! 虚実を見抜くどころではなく、とっさに上げたガードの上から叩き付けてくる重い蹴りが龍麻に膝を付かせる。次の瞬間、顎めがけて振り上がってくる狼の牙! 

「ハアッッ!」

「――ッッ!」

 瞬時に、体操選手もかくやという柔軟性で仰け反り、壬生の蹴りをかわす龍麻。そのまま彼は牽制の蹴りを放ちつつトンボを切る。だが壬生もさるもの。牽制とは言え当たれば必殺の蹴りを、腰を大きく落とした状態で転身してかわしつつ、下方から突き上げるような凄絶な廻し蹴りへと繋げる。龍麻の胸元が大きく裂け、しかしほとんど態勢を乱す事なく壬生に突っかける。

「ウオオオオオッッ!!」

「オオオォォォォォォッッッ!!」

 瞬時に連続蹴りを放つ壬生に対し、攻撃に転じる龍麻! 放つ技は――【八雲】! ――虚像と実像を見抜けないのならば全て撃ち落とす――いかにも龍麻らしい戦法だ。互いの拳と蹴りの残像が無数に走り、【気】の激突が空気をビリビリと震わせる。拳と脚――打撃の威力では壬生が勝り、【気】の絶対量では龍麻が上回る。

 無論、壬生も彼の性格も戦術も知っている。そして徒手空拳【陰】は、相手に反撃を許さぬ暗殺術。――彼の拳と蹴りが噛み合った瞬間に【粘剄】を使い、宙へと身を躍らせる。空中連続蹴り――【昇龍脚】!! 

(何ッ!)

 空中から放った蹴りが龍麻の残像を貫く。彼もまた跳躍していたのだ。そしてここは地下鉄構内。龍麻は天井に拳を突き入れ、そこを支点に蹴りを放つ。二人の蹴りが交錯し――叩き落とされたのは壬生であった。だが彼は倒立の要領で床への激突を防ぎ、跳ね起きる勢いを利用して着地寸前の龍麻に向けて前空転浴びせ蹴り――【龍落踵りゅうらくしょう】! 龍麻は両腕を交差させて壬生渾身の踵落としを受け止める。だが、余りに凄まじい衝撃の為、龍麻の足元が陥没する。

った!!)

 踵落としに使った蹴り足を基点に、後空転蹴り――【気】を放つサマーソルトキック! その名は――

「【龍神翔りゅうじんしょう】ォッッ!!」

 音速にも達する蹴り足が生んだ衝撃波が【気】を伴う刃となる――京一の【地摺り正眼】を倍化したような斬撃が地下鉄ホームを一〇メートル以上に渡って引き裂いた。

「龍麻ァッ!!」

 もうもうと埃が舞い、壬生も、醍醐たちも龍麻の姿を見失う。だが壬生の【龍落踵】を受けた直後であった彼がこの【龍神翔】を避けられるとは――

「――殺しに懸けては、俺が上だ」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 背後からの声にとっさに後ろ蹴りを跳ね上げる壬生! しかし、彼も遅すぎると感じた。最後に目に映ったのは、龍麻の掌から迸る黄金の【気】の奔流! 

「【螺旋掌】ォッ!!」

 壬生の身体は、人形のように跳ね飛ばされた。











「…僕は…負けた…のか…」

 破壊されたホームに大の字になりながら、壬生は天井を見上げる。言葉に出してはみたものの、勝敗などどうでも良かった。緋勇龍麻…元レッドキャップスと全力を尽くして闘った。――負けたのは悔しいが、妙にさっぱりした気分だ。

 そこで、壬生は気付いた。――【悔しい】!? 決意を固めて暗殺者の道を選んだこの自分が、負けて【悔しい】? 

「――生きてはいるがな」

「…ッッ!」

 まるで心を見透かしたような事を言ってくる、弟弟子。確かに――殺し合いにかけては彼の方が遥かに先輩だ。【悔しい】と感じるという事は、まだ死んでいないという事だ。彼と闘うという事は、【死】を現実のものとして受け止めねばならなかった筈なのに。

「さっさと起きろ。道端に寝る趣味がある訳じゃあるまい?」

 自分で倒したんじゃないか――というツッコミを呑み込む小蒔。龍麻が彼に手を差し伸べたからだ。

「まったく…君という男は…」

 苦痛を堪えながらも、龍麻の手を取って身を起こす壬生。壁に寄りかかり、荒い息を付く。

「僕は君の仲間を…蓬莱寺京一を手に掛けた男の仲間だぞ。――君にとっては、抹殺の対象じゃないのかい?」

「京一が本当に殺されたのならば、顔を見た時に殺している」

 つまり、京一は殺されていないと確信しているからこそ、壬生を殺さなかったという事だ。

「紅葉。自分で見た事、確認した事だけが真実だ」

 龍麻は続けて言った。

「お前ならば京一を、あるいは殺す事も可能かも知れん。だが、お前は奴の死体を見てはいまい。死体を処理したという確実な証拠も握っていまい」

「…参ったな」

 壬生は天を仰いだ。

「そこまで御見通しか。…確かに僕は、彼に手を下してはいない。死体の確認もしていない。色々と手を尽くしてはみたんだけどね。でも…龍麻…」

「京一は生きている」

 壬生の言葉を遮り、龍麻は宣言する。

「奴は闘いの何たるかを知っている。お前を始め、鳴滝氏直属の暗殺者でもやすやすとは殺せん。まして欲に溺れたパートタイマーではな。――お前が気にする事など何一つない。まあ、これでも怒っているのだがな」

「……」

 龍麻は相変わらずの無表情である。醍醐たちはいささか不審そうな顔をしたが、恐らく本心なのだろうと、敢えて突っ込むような真似はしなかった。代わりに醍醐は壬生に、別の事を聞いた。

「…龍麻がそう言うのだから、お前は信用できると思うが、なぜ、俺達が狙われねばならないんだ?」

 壬生の顔が苦渋に歪む。

「残念だけど、僕には答えられない。――拳武館においても暗殺は最終手段だ。完全な抹殺という形を取るのは、法を通して裁かれる事のない、多くの命を貪る悪に対してだけ。――確かに君たちは今まで大それた事をしてきたけど、僕の目には裁かれるべき悪とは映らない。しかし僕は、後戻りできない所まで来てしまっているんだ」

 自嘲気味に笑おうとして、壬生はうっと呻く。肋骨の痛みが響いたのだ。

「…動かないで下さい」

 葵がするりと近付き、壬生の肩に手を添える。小蒔も亜里沙も、壬生の顔色を窺うように見た。どうやら色々と複雑な事情があった事は彼女たちにも分かったのだ。と、なれば何も闘わなくても和解のチャンスがあったろうに、それをぶち壊しにした龍麻に不満を覚えてしまう。

「…僕は敵だよ? そんな事までしてもらう義理はないよ」

「解ってます。でも、亜里沙とエルを助けてくれたから、これでおあいこです」

 【癒しの光】を放射しつつ、葵は聖女の笑みを見せる。

「それに、あなたがまだ敵だと言うならば、龍麻が黙っていないでしょう? もうあなたは敵じゃない。そうですよね?」

「……」

 いまだかつて向けられた事のない視線に、壬生は戸惑う。幼い日の【決意】――あの瞬間から、壬生は裏の世界に生きる事を選んだ。日の当たる世界に背を向け、自らの手を血に染めて悪を裁く道。そこに生きる自分には、こんな温かく優しい視線など向けられる事はないと思っていた。闇に生きる自分に、光に生きるものの優しさはまぶしすぎると。

「紅葉。彼らは、俺の正体を知っても怖れなかったぞ」

「……!」

「…この世界には、そういう人間もいるのだ。自分の見ている世界だけが全てなどと思うな」

 龍麻は元アメリカ軍特殊部隊。そして壬生は、現役の暗殺者。――ともに闇に生き、影に潜むものだ。龍麻はそこから抜け出し、光の世界に潜伏した。それがいつしか、太陽の下を歩いている。壬生は自分が選んだ道だからと、彼は自分とは違うのだと思っていた。否、思い込んでいた。しかし、クールな仮面の下では、どこか彼に嫉妬を覚えていたのかもしれない。それが、この【仕事】の内容に疑問を抱きつつ、思いきって龍麻に知らせる事ができなかった事にも繋がった。一部大臣らが画策し、実現した【オペレーション・シグマ】に同調した副館長派を一掃するために、龍麻に助力を頼む事もできた。だが思わぬ不手際により、龍麻と接触を図る前に京一が同僚の手に掛かったらしいと知ってしまった。一応、確認を取る為に奔走したものの、作戦遂行中の身では情報収集もままならず、五日たって遂に直接接触の覚悟を決めたのである。

 龍麻と敵対したと確定したならば、闘うまで――と。

 だが、龍麻には何もかも見透かされていたのだ。闘う理由も、迷いも。――慎重に慎重を期したつもりだったにも関わらず、龍麻のプロファイリングからは逃れられなかったという事だ。

(とても敵わないな)

 殺しの腕だけではない。武道家としても、今の龍麻の方が上だろう。――壬生はごく自然にそれを受け入れた。敗北を受け入れるという事――それは意外にも、この身を縛るありとあらゆる呪縛からの解放を意味した。

「…ありがとう。もう大丈夫」

 葵に礼を言い、壬生は壁にすがりつつ立ち上がった。

「できる事ならば、もっと早く君たちと会いたかったよ。――君たちはもう、立ち去った方が良い」

 唐突な物言いだが、【真神愚連隊】の面々は龍麻のせいで慣れている。一同を代表して醍醐がやれやれとかぶりを振った。

「どうやらお前は随分と義理堅いようだな。しかし、あれだけの人数を一人で相手にしようと言うのはいささか感心せんぞ」

 醍醐は顎に手をやり、トンネルの奥の暗がりを見据える。そこに沸き上がったのは、いくつもの不穏な【気】を纏っている人影だ。

「…ミスをしたな、紅葉」

「ああ。痛恨のミスだ。事もあろうに、あんな連中に尾行を許すとはね」

「俺としては、手間が省けるがな」

 何の? という問いは、ホームに上がってきた男の笑い声によって遮られた。

「クックック…。ザマァねェなァ。それが拳武館最強の格闘家か?」

 暗がりから現れたのは、黒鞘の日本刀を携えたオールバックの男。そして、小山のように膨れ上がった巨体を見苦しく揺すっている男であった。

「ぐひひっ。拳武館の壬生紅葉も地に落ちたものでごわすな。たかが普通の高校生に返り討ちに遭うとは、恥さらしもいいところでごわす」

 声にさえ脂肪が付いているような笑いに唱和し、彼らの背後からも細波のような笑い声が上がる。人数はざっと三十人ほど。制服は拳武館のものだ。醍醐が思わず「ほう」と唸るほど、剣呑な雰囲気に満ちている。鬼道衆の中忍レベルの実力は有りそうだ。ただし――

「壬生…だったな。ひょっとしてこいつらは俺達【真神愚連隊】の事を何も知らないのか?」

「ああ。何も知らない。命令を下した人間も、何も知らなかったよ」

 苦笑を交え、壬生は即答する。――この【仕事】の話が来た時、それとなくカマを掛けてみたのだが、副館長は「余計な事は考えるな」の一点張りだったのだ。それは、標的の事を知らなかったからに他ならない。もし知っていれば、拳武館の総力をもってしても容易には倒せない相手だと解っていた筈だ。

 だが、醍醐の苦笑を引っ込めさせたのは亜里沙の叫びであった。

「アイツ…! ――アイツだよッ! 京一をやったのはッ!」

 怒りに呼応して、亜里沙の【気】がごおごおと膨れ上がる。京一の倒れたところを直接見てはいない彼女だが、それ以前に京一が深手を負わされるところは見た。例え龍麻が京一の生存を断言し、その言葉を信じると言っても、彼女が一番現実に近いところにいるのだ。

「クックック。あのボーヤには楽しませてもらったぜ。――俺様が蓬莱寺京一を仕留めた、八剣右近様よッ。死ぬまでの短い間、記憶に刻んどけッ」

 万に一つも京一が殺られたなどとは考えない真神の一同だが、八剣は得意そうにそっくり返って笑う。――人殺しをするのがそれほど楽しいのか? 醍醐たちは怒りを感じたのは当然として、むしろ胸中でこの男の行く末に合掌してしまった。

「同じくおでは拳武館の武蔵山太一でごわす。ぐへへ…これで仕事も完了するでごわす」

 龍麻たちの沈黙を恐怖に竦んだとでも思ったのか、八剣も武蔵山も馬鹿みたい(真神愚連隊主観)に笑うだけだ。

「クックック。これぞ一石二鳥ってヤツだぜ。標的は片付く。裏切り者も始末できる。――仕事ってのはこうでなくちゃいけねェよな」

 何も知らないというのは幸福な事だ。壬生はため息混じりに苦笑する。

「その仕事が、館長の下したものじゃないとしてもかい? 君たちや副館長が知らないのも無理はないが、彼――緋勇龍麻は館長の直弟子だ。この仕事は最初から、副館長が私利私欲の為に受けた仕事なんだよ。この件は全て僕が館長に報告する。副館長と運命を共にしたくなければ、ここで引き下がった方が賢明だと思うけどね」

「ああ!? 寝言は寝てから言うもんだぜ、壬生。まァ、テメエはどの道ここで死ぬがな。――裏切り者の壬生ちゃんよォ」

 壬生のありがたい忠告を無視して、刀の鯉口を切る八剣。この男たち、龍麻の事を知らなかったのは仕方ないにせよ、先程の龍麻と壬生の闘いを見ていなかったのだろうか? 

「壬生が…裏切り者?」

「なんでそーなるの?」

 仕事が正式な依頼によるものでないならば、壬生の言う事が正当な筈である。それなのにこの男はまったく聞く耳を持たぬようだ。

「ぐひひっ。あんたは八剣さんの部下を倒し、作戦の為の人質を勝手に解放した上、作戦を独断専行したばかりか、仕事を放棄して標的を逃そうとしたでごわす」

「拳武館の鉄の掟は、誰よりも知っている筈だよなァ。――局中法度を犯した者は、これ、最優先をもって制裁を与えん。いいねェ、【制裁】。――即ち、【死】だ」

 醍醐や小蒔の疑問にわざわざ答える辺り、自信過剰ぶりが窺える。どうやら龍麻が黙っているのは、この際だから洗いざらい情報を吐き出させてから始末(!)しようと考えているからだと解る。

「それってつまり、あたしを逃がしたからだよね? アンタ、どうしてそこまでやんのさ?」

 彼ら一同の会話から、壬生がどうやら暗殺組織の一員である事を理解した亜里沙であるが、ならばなぜ彼は自分を助けたのだろうと、疑問に思うのは当然であった。【標的ではない】とは言ったものの、事件の目撃者を野放しにするような暗殺者など世界中どこを見渡しても存在するまい。当然、彼らの【仕事】を目撃した時点で、自動的に亜里沙も抹殺対象にされた筈だ。それを無視してまで自分を解放する理由はない。

「それに、私たちの事も。――龍麻の兄弟弟子であればこそ、あなたがそこまでする必要がない事は解るでしょう?」

 龍麻が鳴滝の弟子であり、壬生と兄弟弟子の間柄であるという事を聞き流していた八剣と武蔵山は、色々と含みのある葵の言葉の真意を悟る事はできなかった。――もし悟れていたら、誰よりもまず葵を狙ったかもしれない。

 葵はこう言ったのだ。亜里沙を助けた後は静観していれば良かったと。そうすれば八剣たちが勝手に自分たちを襲い、返り討ちに遭うだけだと。

「…例えどんな理由があろうとも、僕の信念に反する形で一人の命を失ってしまった。君たちがどう思おうと、これは僕のミスだ。その償いはしなくてはならないからね」

 葵の治癒術のお陰で壬生の回復度は八〇パーセントといったところだ。だがそんな状態でも、壬生の身体からは凄絶な殺気が迸る。彼もまた、常に自分を死線に置いてきたものなのだと知れた。

「それが君のけじめなんだね…。でも、ボクたちは退かないよ」

「売られた喧嘩を全部買う訳ではないが、理不尽な死を振りまく者は殲滅する。それが俺達【真神愚連隊】なのだからな」

 バキバキと拳の骨を鳴らす醍醐。久しぶりの不快感に好戦的になっている。この連中相手なら手加減などする必要もない。

「おーおーおー。勇ましいこったぜ。まァ、最初から一人も逃がすつもりはねェけどよ。男どもはさっさと片付けてお楽しみタイムにいかせてもらうぜ」

「ぐひひひひっ。拳武館最強と言われた壬生を殺れば、おでらの株も上がるでごわす。ぐひっ、ぐひひひひひっ」

 スラリ、と白刃が引き抜かれ、巨大な芋虫のような手が揉み合わされる。

「君たち…これが最後だ。あくまで館長の義に背き、この緋勇龍麻を相手にしようと言うのかい?」

「…ケッ、仁義だ忠義だ…まったくくだらねェッ。そんなモンが腹の足しになるかッ!? 俺様はなァ、血が見られりゃそれでいいのよ! 小便ちびって泣き叫び、命乞いする奴らを嬲り殺すのは最高の娯楽だぜ! その点を副館長は良く分かってるぜ。あの陰気臭ェ髭オヤジより待遇も金払いも良いからよォ」

 髭オヤジ…鳴滝の事だろう。壬生はむっとしたようだが、龍麻は小さく吹き出す。これにはさすがに壬生も非難の視線を龍麻に向けた。

「誰だって、くだらねェモンに縛られて生きるよりは、楽しい方が良いに決まってる。好きなだけ人をぶっ殺して金まで貰えるんだ。こんな楽しい事ァねェよ」

 コイツは真正の殺人狂だ。しかも恐怖というものを味わった事がない。今まで闘って来た者の中でもトップレベルの外道だ。順位を付けるなら、ジル・ローゼスの次くらいである。

「変なの。――それじゃ壬生クンを潰す為の口実作りの為に、わざわざボクたちを標的に仕立て上げたってコト? その副館長ってヤツが?」

 このあと小蒔は「バッカじゃないの?」と続けようとしたのだが、意外な否定の文句が八剣から上がった。

「そいつァ違うぜ。確かに目障りな壬生を潰すにゃ良い機会だったが、テメエらを始末する為に馬鹿高い金を払った奴がいる事は確かさ」

「――なんだって?」

 思わず声を上げたのは壬生である。彼はこの件が副館長の陰謀だとばかり思っていたのだ。龍麻の【表】の暴れっぷりは有名だから、それを副館長が利用する事は考えられた。しかし龍麻の【裏】を知っている者ならば、まず彼を殺そうとするなど考えられない。あらゆる国家、組織、個人を問わず、彼の死亡と共に公開される【ファイルXYZ】の危険性を認識していれば、逆に彼を保護する方に廻る筈なのだ。たとえそれが【シグマ】であっても。

 意外と言えば意外な事実に、龍麻と壬生は顔を合わせる。一方、壬生がこの事実を知らなかった事で優越感でも覚えたか、武蔵山が後を続ける。

「依頼の最優先事項は緋勇龍麻の抹殺でごわす。――なんでも、確実に死んだと世間に知らしめろという事でごわす。おでも驚いたでごわすよ。身体をバラバラに切り刻んで、首を切り落とせなんて。一体何を考えているでごわすかねえ、あの妙な色の学生服を着た男は――」

「武蔵山! 依頼人の秘密厳守は絶対だろうが!!」

 秘密をべらべらと喋る武蔵山を一喝する八剣。僅かとは言え、狙い通りに情報が入った。ただ、龍麻の殺害方法も奇妙だが、依頼人が学生服を着ていたというのは…? いかに欲に目が眩んだ副館長でも、拳武館の一員である以上、代理人を通しての依頼は受け付けない筈だ。

「――【シグマ】の依頼ではないか。それは良いとして、人材不足か?」

 また一つ謎が深まったが、とりあえず黙殺する龍麻。そろそろ泥を吐かせ切ったようなので、始末を付ける気になったのだ。

「面目ない。近頃はこんなのしかいないんだよ」

「組織が大きくなれば、必ず発生する事態だ。――ミカン箱の中には必ず一つや二つ腐ったミカンが紛れていると、金八先生も言っている」

「…それを言ったのは教頭先生だよ」

 あああ…と脱力する醍醐たち。――壬生が龍麻の兄弟子である事はよっく解った。敵を前にして、相手の攻撃を誘う為に見せる余裕。龍麻と同類だ。

「ケッ、余裕ぶっこきやがって、気に入らねェヤロウだぜ。まずは緋勇龍麻! テメエから死にな! 蓬莱寺京一を始末した、俺様の【鬼剄】でよッ!」

「【鬼剄】…?」

 八剣の身体から滲む出る、どす黒いオーラ。これまで見てきた【陰】に堕ちた者の中でも、これほど禍々しい奴は鬼道五人衆くらいのものではなかったか。信念も何もなく、ひたすら血を見る事に愉悦を感じてきた男のオーラだ。汚くて当たり前かも知れない。だが――強力だ。

 八剣が、間合いでもないのに刀を振った。京一と違って【気】は感じない。だが…

「――いけない!」

 【神威】たちでさえ感知できない八剣の【鬼剄】! 反応できたのはその一端でも知っている壬生だけであった。目にも止まらぬ、【気】でも察知できぬ超スピードのハイキック! 空中で炸裂音が響き、打ち消し合った【気】が火花のような光輝を散らす。

「ケェッ! ――壬生ゥ、今のがテメエの【気】かよ…」

 感知不能の【鬼剄】を相殺された事で、八剣が不満そうに鼻を鳴らす。だが壬生は八剣に鋭い視線を向けつつ、龍麻に言った。

「――わざと受けて性質を見切ろうと言うのだろうが、危険だ。発剄で相殺する事は可能だが、【鬼剄】にはただの発剄にはない謎が――」

 ザシュ…! 

「――ッッ!?」

 突如、壬生の脇腹が裂け、彼は地面に膝を突いた。コンクリートに滴り落ちる、決して少なくない――血。

「――読み切れなかったと言うのか…! 龍麻、怪我は…!?」

「…余計な事を。僅かな怪我が戦場では命取りになる。それを知るお前がこのような真似をするなど…!」

 龍麻の声には静かな怒りがこもっている。彼も良く他人を庇うが、それで怪我をした事はあまりない。誰かを庇う事でその人物が傷付けば、他の誰かが危険になる――戦闘部隊においては【勝手に】誰かを庇う事は美徳でも何でもないのである。

「クックック。図に乗ってたのはテメエの方だったなァ。テメエの言う通り、俺様の【鬼剄】はただの発剄じゃねェんだぜェ」

「クッ…!」

 脇腹を押さえ、壬生は立ち上がる。致命傷という程ではないが、深手には間違いない。出血量もかなりのものだ。

「この技…! 京一も…これにやられたんだ…!」

 その時の戦慄が蘇り、我が身を抱き締める亜里沙。

「み、壬生クンッ!」

「無茶よ! 下がって!」

 小蒔と葵が叫ぶが、壬生は聞く耳を持たない。

「僕はたとえ、この命に代えても君たちを護らなければならない…! それが僕の…あの方への忠義だ!」

「――なに馬鹿言ってんだいッ! そんなコトするなんて…アンタ! 京一並の馬鹿だよッ!」

 京一も、今の壬生と同じような事をして、生死不明の身になったのだ。同じ光景を見せられる亜里沙にとってはたまったものではない。彼女の威勢の良い声は、それが無理をしている証となる震えが含まれていた。

「ふっ…この僕と比較できる馬鹿か…。僕も、会ってみたかったよ。その…馬鹿に…」

「ケッケッケエッ! どいつもこいつも、良い子ちゃんぶりやがって! そんなに会いたきゃ、超特急で会わせてやるぜ! ――地獄でなッ!!」

 ホームに唾を吐き散らし、再び【鬼剄】の構えを取る八剣。壬生は歯を食いしばって身構えたが、突然、その襟首を鷲掴みにされた上、凄い勢いで後方に投げ飛ばされた。

「な――!?」

「――っと、無茶するな、龍麻」

 怪我人だというのに容赦なく放り投げられた壬生を受け止め、苦笑する醍醐。龍麻が傍にいる時に、今の壬生のような態度を取るのは厳禁なのだ。

「…お前が死んだら、母親はどうなる? 少しは頭を使え。――馬鹿が」

 カポン! と壬生の頭に落ちてくるアルミ小鉢。さすがに壬生も、八剣たちもこれには唖然とする。

「――それにしても、京一も成長せんな。こんな大道芸人のトッチャンボーヤに手こずったのか」

「――誰の事を言ってやがんだァ? テメエ!」

 くい、と唇の端を吊り上げて笑う龍麻。以前は様にならなかった悪役風の笑いだが、今の彼がやると凄まじい侮蔑を含んだ笑いとなった。無論、これは敵にしか向けられない。

「俺の目の前にいる、高校生の身でありながらポマードで固めたオールバックにしている、時代遅れな上に老け面の男の事だ。つまり――お前の事だ」

「……!!」

 蓬莱寺京一を倒し、たった今、目の前で壬生を倒した自分に向けられる、痛烈な嘲笑。緋勇龍麻は大道芸だと言ったのだ。必殺の【鬼剄】を。

「テメエ…死にてェのか?」

「ほう? 先程は俺を殺すとはほざいていたようだったが、自分の言った事も覚えていないのか。まァ、あの無能者の部下ならば納得できる」

 久しぶりの、龍麻の毒舌。醍醐たちは苦笑しながらも、龍麻の狙いがどこにあるのか少々気になった。龍麻が相手を嘲るのは、状況分析等を行う為の時間稼ぎだ。あるいは相手の逆上を誘う為。しかし今回は、特にそんな真似をする必要があるとも思えなかったのである。

「そうかい…! そんなに死にたきゃァ…望み通りにしてやるぜッ!!」

 ブン! と振るわれる刀! 感知不能の【鬼剄】! 龍麻は――避けない!? 

 ザンッ! バスンッ! 

 その場を一歩も動かなかった龍麻のコートの背が大きく切り裂かれ、あるいは弾ける。――どう考えても有り得ない現象であった。【気】による斬撃が死角から襲いかかってくるなど…。それも、相手に感知させず…! 

「どうだ!? 俺様の【鬼剄】の味はァ!? ――小便ちびって泣き喚いてもいいぜ! ガタガタ震えて命乞いするのも悪くねェ! 何なら神様にお祈りでもしてみるか? ここで無様にぶっ殺されても、天国に行けるかも知れ――」

「――貧弱」

 たった一言――それだけで龍麻は八剣の長広舌を斬り捨てた。

「なんだと…テメエ!」

 自分の必殺技を、こうまで馬鹿にされた事はない。八剣は凶相を真っ赤にして怒鳴る。だが、次の一言が彼の背筋に冷水を浴びせた。

「【殺念】だな、これは」

「――ッッ!」

「…殺意を極限まで高め、武器を媒介に思念をもって敵を斬る。思念によって生み出される刃を【気】で探知する事は不可能。――技そのものは驚嘆に値するな」

「な、何でテメエがそこまで知ってやがるッ!?」

 額に脂汗を浮かべ、八剣は怒鳴った。本来奥技とは、見せた相手を必ず殺し、その秘密を守るものである。どのような技であっても、相手に知られてしまえば対抗策を練られてしまう。逆に、どれほどの達人であっても初見の技にいきなり対抗するのは不可能だ。

「だが――【彼女】には到底及ばんな。この程度の実力でのぼせ上がり、京一を殺しただと? 冗談は顔だけにしておけ」

 【彼女】…あの如月舞の事だろう。京都の山中で龍麻が響豹馬にレクチャーを受けていた時、彼女も一緒にいたのだ。

「て、て、テメエ…ッッ!」

「【所詮は間合いに踏み込めない、女子供の護身技です】――か。【彼女】ならば謙遜だが、なるほど。半端者の技ではそうとしか見えん」

 これには八剣のみならず、壬生や亜里沙までが唖然としていたが、【彼女】を知る醍醐たちは妙に納得してしまう。【彼女】たちが相手にしているのはこの世に存在してはならないもの〜間合いに踏み込むどころか存在を感じる事さえ危険なモノたちだ。それと対峙する為の技をたかが「ヒト」ごときに使っているとあれば、臆病者の謗りも当然であろう。

「俺様の【鬼剄】が女の技だと…? ――上等だ! その生意気な口ごとミンチにしてやらァ!!」

 先程よりも大きく燃え盛るどす黒いオーラ! 八剣は奇声を張り上げながら白刃を振るった。【遊び】をやめ、一撃必殺を期した斬撃! 龍麻は――またしても避けない! 

「――龍麻ッ!!」

 壬生が叫んだ直後、龍麻は【鬼剄】の爆発に呑み込まれた。

 地下鉄構内の空気がびりびりと震え、爆発音がトンネルを反響していく。もうもうと上がる砂塵に、一同は顔を覆う。しかし――

「ば、馬鹿なッ! そんな…馬鹿なァ!」

 砂塵が吹き払われ、そこに傷一つない龍麻が現れた時、八剣は初めて表情に脅えを走らせた。

 認めない! 認められない! 自分が――恐怖を感じたなど! しかし、自分の放ち得る最大級の【鬼剄】を、この男は身動き一つせずに防いでしまったのだ。

 いや――それは違った。

 龍麻は、自らの傍らに突き立つ一振りの木刀に視線を落とした。――木の剣が、コンクリートにひびも入れずに突き立っているのである。

「…違う! 今のはテメエの【気】じゃねェ…! 今のはまさか…【鬼剄】か…!?」

 【鬼剄】を完全に相殺し得るのは、同質の【鬼剄】のみである。だが、目の前にいる男は一瞬たりとも【鬼剄】の元になる殺意を放出しなかった。では…一体誰が!? 

 答は…闇が発した。

「…【鬼剄】。…純粋なる殺意より成す陰の発剄…」

「――ッッ!」

 八剣たちの現れたトンネルの奥から響いてくる声。忘れる筈もない、そして、最も聞きたかった男の声。

 カツーン…コツーン…

 革靴がコンクリートを叩く音に合わせ、八剣の後方に控えていた人垣が、あたかも古の海峡の如く二つに割れていく。足音はその中を悠々と進んできた。

「だ、誰でごわすか!? 姿を見せるでごわす!」

「――そこのデブ。テメエはお呼びじゃねェよ。黙ってな」

 笑いを含みつつ、風刃のごとき鋭い声。拳武館の生徒に遮られて姿は見えないが、確かに武蔵山は圧倒された。――声の持つ響きに。

「八剣…。テメエの【鬼剄】は凝集した殺意を腰の捻りに蓄剄し、順停止法から円転合速法へと繋ぎ、一度に数発以上、回転によるカーブをかけて相手の死角へと放つ技だ」

「だ、誰だ!? どうしてそこまで…!」

 完璧な技の解説に、八剣が視線を背後に向け、次の瞬間、硬直した。彼はそこに、いる筈のない人間を認めたのだ。

「――舞ちゃんの【思念斬りサイコブレード】にそっくりだったから面食らっちまったが、落ち着いて良く見ればちょいとした目晦まし。すっかり騙されちまったぜ。――まァ、いい勉強にはなったけどよォ」

 八剣と武蔵山が視界を遮っているので、真神の一同からは声の主の姿を見る事はできない。しかし――

「この声…本当なのね…!」

「ああ…本当だ…!」

「ウン…この馬鹿っぽい声は…!」

「アイツしかいないよ…!」

 感極まる仲間たちの声を聞きながら、龍麻は傍らに立つ木刀を引き抜いた。

「――真打登場だ」

 ブン! と空気を唸らせ、木刀を投げる龍麻。八剣と武蔵山はうおっと飛び退き、木刀は真正面に立つ男の手の中に納まる。木刀の切っ先が躍るように袈裟懸け、逆袈裟懸けに走り、最後に自らがある場所――男の肩に掛けられる。そして男は、お得意のポーズでにやりと笑った。

「――蓬莱寺京一、見参!」

 夢ではない。彼は、確かにそこにいた。

「京一!」

「京一君!」

「京一ッ!」

「京一ィッ!」

 左右と背後に群れを成している敵意と驚愕の視線を見事に無視して、蓬莱寺京一は【仲間】の元に歩み寄った。

「――ヘヘッ、遅くなって悪ィな」

 たった五日見なかった顔。五日もの間見なかった顔。その男は、ちょっと用事をこなしてきた、という風情で帰ってきた。

「君が…蓬莱寺京一…?」

「ああ、そうさ。――なんだか知らねェが、俺のいねェ間に、俺の大事なモンを護ってくれたのはお前みてェだな。――ありがとよ」

 拳武館に狙われ…本当に生きていた!? 壬生にはその事実が信じられない。だがこの男は、壬生には眩しくも優しい笑いを見せた。つられる様に、壬生も思わず笑みを返してしまう。

「で? なんだなんだァ? お前ら、【お帰り】の一言くらいあったって良いじゃねェかよ。泣きたくなるほど嬉しいのは解るけどよ。――おおッ!?」

 いきなり京一の首に巻き付く豪腕! 

「お前という男は…!」

 ギシギシギシッ! と、京一の首が何とも恐ろしい音を立てた。

「この…お調子者――ッ! 一度死んだら…戻ってくるなァ!」

 ドスン! と京一の腹を直撃する、小蒔渾身のボディーブロー! 京一がグエッと呻く。

「どれだけ…どれだけ心配したと思ってんのさッ!」

 小蒔に続いて亜里沙もグーパンチの連打! 身動きのできない京一はサンドバッグ状態だ。

「うふふ…うふふふふふふふふ。こんなに心配させて…簀巻きと寝袋と…どっちが良いかしら…?」

 目尻に涙を浮かべながらも、大迫力の葵菩薩! 手には油性サインペンまで握っている。

「ひ、ひーちゃん! 助け…お助け…! し、死ぬ死ぬ…死ぬってマジでッ!」

 しかし、龍麻は――

「………(溜めてる)………(まだ溜めてる)………(まだまだ溜めてる)………(エネルギー充填率四〇〇パーセント!)………アホ」

「――ッウオオッッ!!」



 グワラララララララランンッッッ……!! 



 かつてないほど必死に逃げた京一がその瞬間までいた場所に落ちてきたのは、古式ゆかしい巨大な鉄釜(しかも岩石入り!)であった。 

「………チッ」

「ひーちゃん! マジだなッ!? 今、マジで俺を殺す気だったなッッッ!?」

 凄く残念そうな舌打ちをする龍麻に、京一が噛み付く。彼らの日常を知らぬ壬生はポカンと口を開け、ただただ唖然とするばかりであった。なぜ彼らは蓬莱寺京一が拳武館に狙われてなお生還した事を喜ぶどころか、とどめを刺すような真似ばかりするのだろう…? 

 だが、そんなほのぼの(??)とした再会に水を差す無粋な声が上がった。

「て、てめ…テメエ! テメエがなんで生きてやがる!!」

 そこでようやく、今が戦闘中である事を思い出したかのような【真神愚連隊】の面々。

「ケッ、バーカ。仮にもテメェ、暗殺者を名乗ってる癖に、とどめを刺さねェなんて間抜けも良いところじゃねェか。ま、テメエが大馬鹿ヤロウだったお陰で、俺はここにいるんだけどよ」

 ヘッヘッヘ、と不敵に笑う京一。八剣にとっても、夢でも幻でもない、それは本物の京一の笑いであった。

「フッ、それが本当なら、君の方こそ任務遂行の掟に反した事になるな、八剣」

 相手を小馬鹿にする京一の笑いに唱和する壬生。だが、八剣は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「ふざけるんじゃねェ! テメェは俺様の【鬼剄】を食らって死んだんだ! 心臓だって止まってたじゃねェか!」

 え!? と眉を寄せる、龍麻以外の【真神愚連隊】一同と壬生。

「ケッ、俺を誰だと思ってやがる。【真神愚連隊】切り込み隊長、蓬莱寺京一様だぜ!」

 そんなの理由になってない…と小蒔が突っ込もうとしたのだが、龍麻が笑っているのを見て、真神の一同は全てを悟った。

「特訓の成果が出たようだな。――決着は付いたか?」

 ニヤ、と笑う京一のその表情。無意味なくらいの自信の塊が、今は凄く頼もしい。

「今から見せてやるさ。――驚くなよ、少尉殿」

「つまらなかったら懲罰だ」

 事も無げに言い放ち、龍麻はすっと前に出た。

「京一、そこの健康茶はくれてやる。俺は向こうの脂肪ダルマとその他大勢をもらう。醍醐は怪我人と観客の護衛その他を頼む。以上だ」

「健康茶ァ!? ――ああ、ウコンね。ハハッ、コリャいいや!」

 この状況下で洒落のめすか緋勇龍麻。しかしいつもは突っ込むか白けるかする京一が吹き出す。

「ク…クソォ…! テメェら、調子に乗りやがって! 一人も生かしちゃ帰さねェ…この俺が皆殺しにしてやるぜ!」

「ぐひひッ、皆殺し皆殺しィィッ! おでらの邪魔をする奴は許さんでごわすよォッ!」

 張り詰めていた殺気をわっと華やいだ空気に変えてしまう京一の笑いは、八剣と武蔵山にも闘志を取り戻させる切っ掛けを作ったようだ。ここまで馬鹿にし続けられ、八剣はキレて顔中を口にして喚く。

「テメエらは拳武館を敵に廻したんだ! いくらテメエらが足掻こうが、世界中のどこにも逃げ場所なんかねェ! 覚悟しやがれッ!」

 ここで龍麻は妙な事をした。懐から取り出した小冊子と八剣たちを交互に眺め、納得したように頷いたのである。

「…ふむ。頭数はぴったりだな」

 無造作に小冊子を投げ捨てる龍麻。それに視線を向けた壬生と八剣が目を見張る。

「そ、それは…! 俺達の血判状…!」

「龍麻…君がどうしてそれを…? ――まさか!」

 それは拳武館副館長派が【シグマ】と結託した時に作成した名簿。八剣にとってそれはトップ・シークレットであり、壬生にとっては副館長派一掃のためにぜひとも必要なものであった。それを龍麻が持っている事。闘う前から龍麻が返り血で全身を染めていた事。それから推察される答に、ようやく壬生は思い当たった。壬生だけでなく、醍醐たちも。

「まさか君は…一人で拳武館を…!」

「殲滅した。――唯の一人も残さずに」

 龍麻は、どのような敵を倒しても、それに含みを持たせる事はない。常に簡潔に、事実だけを述べる。それだけにより真実の重みがのしかかってくる。

「な、なに抜かしてやが…!」

 そんな事がある筈ないと、八剣は噛み付こうとしたのだろう。しかし声はあっさりと遮られた。龍麻が、笑ったのである。この上ない、邪悪そのものの顔で! 

「残っているのは貴様らだけだ。――Hell’s gate open. Welcome to the war.」

 龍麻の宣言が、闇を圧して響いた。いや、闇そのものが歓喜でもするように震えたのだ。頼りない蛍光燈の光を嘲笑うかのように。











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