
第壱八話 餓狼 4
高出力エンジンの響きが、高い塀に囲まれた建物の脇で途絶える。真紅の大型バイクに乗った、黒尽くめのライダーは建物を見上げ、それからヘルメットを取った。
「…さて、どう出るか…」
見かけは尋常な雰囲気をまとった、ありふれたコンクリート造りの建物に視線を走らせる龍麻。門柱にはめ込まれたプレートには【学校法人・拳武館高校】とあった。
葵たちが漠然と感じた不安の元は、これであった。龍麻が敵の本拠地を知っていて、わざわざ敵の思惑通りに動く筈ないのである。【常に敵の予想を裏切れ】。それを忠実に実行する彼が選択したのは、拳武館そのものの壊滅であった。
勿論、人質となっている亜里沙。情報のない京一の身を案じていない訳ではない。しかし暗殺組織という性格上、任務遂行中の実行部隊が本部に連絡を取る事はない。実行部隊を叩くのは後回しにして、本部を先に壊滅させる――いかにも対テロリスト部隊上がりの龍麻らしい発想であった。
龍麻は外部からの来客が必ず寄る場所…事務室に向かった。
「失礼。鳴滝校長に目通り願いたい」
年に合わぬ堂々たる声音に、応対に出た事務員が目を丸くする。そりゃそうである。見掛けはとても学生には見えないが、コートの下に着ているのは間違いなく学生服なのだ。
「…失礼ですが、どういったご用件で?」
「弟子が会いに来たと伝えていただきたい。昔の親友の息子だと」
「…校長は現在、海外出張中なのですが…」
「それでは、こちらに在学している鳴滝館長の一番弟子、壬生紅葉に目通り願いたい」
鳴滝を【館長】と呼んだ事で、平凡な事務員の目が僅かに光る。確かにここ拳武館高校は全国各地に支部道場を持っているが、鳴滝の立場はあくまで【校長】であって、【館長】ではない。少なくとも、表向きは。
「失礼ですが、お名前を聞かせていただけますか? それと、ご用件もお聞かせ願いたいのですが」
空気がにわかに緊張を帯びている。常人には全く判らないだろうが、プロなら判るレベルで。そこに龍麻は、いきなり爆弾を放り込んだ。
「自分は緋勇龍麻。こちらの暗殺組織を私物化して好き勝手絶頂かましている副館長を個人レベルで始末しに来た」
驚くよりも怒るよりも先に、あまりの放言に呆然とする事務員。他の事務員は何事かと龍麻を注目している。その反応から推察すると、龍麻の前にいる事務員以外はこの【拳武館】の裏の顔を知らないようだ。
「…ここではなんです。ゆっくり話のできるところへご案内いたします」
「そうだな。悲鳴も銃声も漏れない所が良い」
恐ろしく物騒な台詞を吐き、龍麻はクックと笑いを噛み殺す。そのため、【何事だ?】とこちらを注目していた事務員達がますます不審顔になる。龍麻の挑発には二通りの意味があった。一つは自分が殺し合いを既に想定している事を伝える意味、もう一つは、事情を知らない事務員が不用意に警察等への連絡をしないように警戒させ、人員を分散させるためであった。
龍麻とて、好き好んで鳴滝を敵に回すつもりはない。しかしいかなる理由があろうとも、【拳武】の名において仕掛けてきた以上、海外出張中だろうがなんだろうが、それなりの責任は取ってもらわねばなるまい――それが【責任者】の努めだ。少なくとも壬生紅葉…鳴滝の一番弟子兼兄弟子に会う事はできるだろう。勿論、事と次第によっては拳武館ごと…も視野に入っている。
事務員は龍麻を普通科棟校舎から連れ出し、武道場さながらの構えになっている別棟へと導いた。
視線だけを巡らせ、周囲の状況を確認する龍麻。巧妙に隠されてはいるが、冷たい電子の目がこちらを見ているのが判る。赤外線、紫外線、ありとあらゆるセンサー類でこちらをチェックしている最中だろう。板張りの渡り廊下にはサーモグラフィーが隠され、特に武器のチェックに余念がない筈だ。
今の龍麻は武器を所持していない。チェックはすんなりと通り、やがて龍麻は仰々しいとさえ言える扉を備えた練武場へと案内された。
「こちらでお待ちください」
「…待て」
そう言って立ち去ろうとする事務員の背に、龍麻は声をかけた。ビクリ、と緊張する事務員。
「――茶菓子は抹茶と羊羹を所望だ」
からかうような口調。勿論、本気で言っている訳ではない。
「…少々お待ちを」
緊張に濡れた声。それが物語るのは、この事務員もグルという事だ。現にこの練武場は出入り口が一つきり、地下にある為に窓もなく、扉を閉めた後には鍵をかける音。試すまでもなく、あらゆる通信装置も電波は飛ぶまい。だが閉じ込められた事などまったく気にせず、龍麻は板張りの道場の中央に歩を進めた。
知らず、口元に笑みが浮かんでくる。凶暴な――獣の笑み。道場の床に、壁に、空気そのものに染み付いた血と汗とアドレナリン――闘争の匂いが彼を触発しているのであった。――以前ならば考えられない現象である。
五分ほどもたったろうか? 道場の扉が左右に大きく開かれた。
どやどやと雪崩れ込んでくる、屈強な男たち。少数だが女子もいる。多くは拳武館の制服を身に付けているが、中には背広にネクタイを締めている者、ライダージャケットに身を固めている者など、様々だ。共通しているのは、龍麻を見つめる鋭い眼光。放たれる殺気、そして――獲物を見付けた肉食獣の歓喜。
「ほう…これはこれは。とんでもない鼠が入り込んで来たものだな」
三十代前半――恐らく教師か、格闘技インストラクターが面白そうな声を上げる。上下は黒のスウェット。首も手足も一様に太い。スウェットの下では筋肉が波打っている。
「この狼の巣窟に真っ向から乗り込んでくる馬鹿が実在するとは思わなかった。それも抹殺のターゲットがのこのこと…拳武館始まって以来の珍事だな、これは」
男がクックと喉を鳴らすと、細波のような笑いが周囲を取り囲む者たちにも広がっていった。
「まあ良かろう。これで労せずして仕事が果たせる。どういう経緯でここを知ったか知らんが、命乞いなど無駄な事だ。怨みがある訳ではないが、ここで死んでもらう」
抹殺のターゲットという単語。そして、この包囲網。どうやら本当に、龍麻を狙っていたのは拳武館だったらしい。
「――壬生紅葉はどうした?」
男の自己陶酔も混じったような脅し文句など、龍麻にとってはどうでも良い事だ。ただ、現時点で鳴滝の一番弟子の姿がない事だけが興味の対象であった。
「…鳴滝の腰巾着に何の用だ? フン…どの道ここで死ぬお前が奴に何の用がある」
余裕ある態度は崩さないが、男は僅かに表情をしかめた。龍麻に脅えが見られない事に気付いたのである。更に次の台詞を聞くと、さすがに表情に怒りが滲んだ。
「――奴はいないのか。少しは楽しめるかと思ったが、失望したな。雑魚ばかり頭数を揃えても、暇つぶしにもならん」
頭数ばかり揃えた雑魚――自分たちの事だ! 居並ぶ者の顔にも怒気が昇った。龍麻に、そして鳴滝に言わせれば、それだけで暗殺者たる資質がない。しかも彼らは、龍麻がものの見事に殺気を消している事にまったく気付かず、単なる優男の強がりと取ってしまったのだ。
「フッ…何を言い出すのかと思えば。貴様のような輩を裁くのになぜ我々が動かねばならぬのか理解に苦しむな。――何をやったか知らんが、これも任務だ。加えて貴重な生きた練習台だ。愉しませてもらおう」
インストラクターの手に黒い鉄が出現する。刃渡り二〇センチほどの剃刀だ。光を反射しないようにマットブラックに染めた暗殺用である。
だが龍麻はそれを無視して、一人納得したように肯いた。
「なるほど。標的が何者であるかも知らぬのか。…紅葉め。ゴミ掃除を押し付けたな」
「――ッッ!!」
とてつもない放言に、急速に高まる殺気! 一人一人が拳武館の暗殺組に所属する一角の暗殺者だ。数こそ三〇に満たないが、その殺気はかつての鬼道衆上忍レベルにも達した。しかし――
「ひ、緋勇…か?」
たった今、標的の事は何も知らされていないと確認したばかりなのに、自分の名が呼ばれた事で龍麻は声のした方に顔を向けた。
その少年は、普通に拳武の制服を着ていた。だが、その顔に龍麻の記憶が蘇る。
「…見た事のある顔だな」
龍麻が言うと、その少年は畏怖のこもった声を絞り出した。
「やっぱり…! な、なぜお前が…!」
彼は半年以上前、明日香学園の事件を調査する為に鳴滝に同行していた一人であった。そしてその時、莎草覚殲滅に向かうという龍麻の実力を測るという名目で、龍麻と手合わせしている。当然、龍麻の正体も、その実力も知っている。すぐに思い出せなかったのは、あの時の龍麻とはまるで印象が違っていたからであった。
「オイ! 何やってるんだ!? お前、コイツの知り合いか?」
「…知り合いどころじゃない! コイツ…いや、この人が標的である筈がない!」
「アアッ!? なに言ってるんだ? ちゃんと命令されただろうがよッ!」
「解っている! だが、この人は館長の直弟子だ!」
少年の言葉が、驚きの波紋となって周囲の者たちへと広がっていく。館長の直弟子という事は、拳武館暗殺組では実行部隊のリーダーにのみ許される栄誉だ。暗殺手段に応じて派遣される刺客は変わってくるものの、計画を立て、作戦を指揮するのは常に館長の直弟子なのである。その座に就く為には心・技・体全てに秀で、戦術的にも優れていなければならない。正に最強レベルの暗殺者と認められた者だけが、鳴滝館長の直弟子となれるのである。
妙な事になってきたな、と龍麻は思った。
事務局でわざわざ【副館長を始末しに来た】と告げたのは、そう言えば副館長派の人間だけが集まると思ったからである。しかし実際は、本当に事情を知らない者が集められているようだ。
「例え今拳武に属さなくても、その意味を知らぬ訳じゃあるまい! 仮にこの人を抹殺せよという依頼が来たとて、この人は…我々ごときが何百かかろうと倒せる相手ではない! そもそも館長がそのような依頼を受ける訳がないんだ! これは…拳武の意思ではない!」
一気に捲し立て、少年は龍麻に歩み寄った。
「あなたとは闘えない。――彼らには手を出させないから、このまま出ていってくれ。どこに何の間違いがあったのか直ちに調査し、館長に報告する」
当然のように、周囲から抗議の声が上がった。
「貴様! 裏切る気か!」
「これは裏切りではない! これが拳武の意思でない事は調べればすぐに解る! 理に適わぬ暗殺は拳武の仕事ではない!」
少年の叫びが居並ぶ者たちの不満を誘う。だが、それを爆発させないのは、やはり少年がそれなりの実力も人望もあるからだ。しかし龍麻は、この雰囲気を【危険】と感じた。
「俺は、俺の命を狙う者を始末しに来ただけだ」
「あなたがそう言うのならば、そうなのかも知れない。だがせめて一日だけでも時間が欲しい。――勝手な願いである事は承知しているが…」
「残念だが、夜には呼び出しを受けている。君の調査を待つ時間はない。それに、そこの連中は納得するまい。――教えてやったらどうだ? 俺の正体を」
獲物を前にした猟犬がそうであるように、周囲を包囲する者たちの殺気は飽和状態に達している。どうあっても龍麻を生かして帰すつもりはないのだ。その殺意は少年にも向き始めている。
「…あなたの立場の危険性は知っているつもりだ。それをこの場で明かす訳には行かない」
「賢明だな。ならば君に免じて明日まで待つ。だが今夜、俺の前に現れる刺客は殲滅する。その連中に関しては諦めろ」
「…あなたが相手では、やむを得まい。命を狙っておいて、助命を願うなど身勝手極まる話だ。だが、今に関しては感謝する」
いかにも、鳴滝の下で動く暗殺者らしい言葉を吐き、少年は龍麻を促して歩き出した。否、歩き出そうとした。
「…ガハッ!?」
少年の口から血が吹き零れ、驚愕の表情を貼りつかせたまま床に倒れようとする。龍麻が彼を支えた時、大きく斬られていた彼の背中が鮮血を噴き上げた。
「…仲間すら手に掛けるか? 拳武館」
「【裏切りには死を】。それが拳武の掟だ」
冷たく言い放ち、インストラクターが立ち上がる。不機嫌そうなのは、少年の首を切り裂く筈だったのが、目標が動いて背中を切り付ける事になった為だ。少年を即死から救ったのが誰か、言うまでもあるまい。
「貴様が何者であれ、既に抹殺の命は下っているのだ! そしてもはや鳴滝に、この拳武を統べる資格などない! 直弟子だと? それがどうした! これからは我々真に力あるものが、力に相応しいものを手に入れるのだ! 日本の裏社会は我々が支配する。我々――【シグマ】と新生拳武館が!」
(……)
ほぼ確定していた推察ではあったが、やはり明確になると呆れを通り越したため息が出る。それに、何と安っぽい演説か? 龍麻はそう思ったのだが、ここにいる拳武館暗殺組の者にとっては違った。常人には及ばぬ才能を有しながら、それを自らの利益の為に使えぬ不満。誰であっても、人より優れているものがあれば、それを自慢したいだろう。あるいは、それに正当な評価を得たいだろう。しかし、拳武館暗殺組に選ばれて彼らが得たものは、禁欲的な掟と戒律だけであった。最初こそエリート意識を触発されても、危険な任務の割に報酬は極めて少なく、その【仕事】が正当に評価される事もない。…生身の人間であれば、不満を覚えるのは当然の事であった。
龍麻は彼らとは違う。最初から殺戮の為だけに、恐怖も愉悦も、まして栄誉やエリート意識など持たぬ戦闘マシンとして作られている。当然、任務や待遇に不満など感じない。だが、今の龍麻は――
「…餓鬼の理屈だな」
龍麻は笑いながら言った。
「何ィ!?」
ざわ、と空気が動く。この場にいる者は、鳴滝の理念、禁欲的な体制に反抗した者たちがほとんどだ。自分たちの力に相応しいものを求めて何が悪い――そう考えて副館長のクーデターに参加した者たちである。それを龍麻はあっさりと笑い飛ばしたのだ。
「イソップ童話の狼は、空腹を抱えていても自由を選んだ。一方、犬は自由と引き換えの安定した生活を選んだ。――クックック…。武道一筋に打ち込んで来ながら、小銭に目が眩んで就職先を間違えたか。本当に可愛いワン公どもだな」
「なに…!」
龍麻の笑みはますます深くなる。恐るべきは、そんな笑みでさえ思わず魅了されてしまいそうになるところだ。賢人を堕落させるメフィストフェレスの笑みとは、このような笑みかもしれない。
「ではちょっとばかり教育してやろう。【こちら側】の心得というものを。――かかって来い。ルーキーども」
「――嘗めるなッ! 餓鬼がッ!!」
シュッ! と空気を切り裂く音。閃いた剃刀は二本だった。達人の居合いのごときスピードで振るわれた剃刀は、一本は龍麻の頚動脈に、もう一本は腋の下に吸い込まれるように走り――
ズドオッッ!!
突然、インストラクターの黒いスウェットが宙へと跳ね上がった。
いや、その表現は正しくない。インストラクターはまず床に叩き付けられ、バウンドして天井まで跳ね上がったのであった。再び床に落ちた時、インストラクターの首は鎖骨の間に半ばめり込んでいた。
「――ッウソだろッ!?」
「――踵落とし…ッッ!?」
そんな声が上がるところが、彼らも精鋭だという事だろう。超スピードで振るわれた剃刀が到達するよりも速く繰り出された龍麻の踵落としを、見切れずとも見抜いたのだ。
血塗れの少年に止血剤をふりかけ、彼を横たえてから、龍麻は一同に背を向け、扉の前まで至った。
逃げるのか!? その考えの中に僅かな期待がこもったのを、彼らは意識できなかった。だが龍麻は壁に掛かっていた鎖を引きちぎるや、扉の取っ手を雁字搦めに縛り付けてしまったのである。
「心得その壱。退路を絶たれたら死を覚悟。――さあ、遊ぼうか」
ぐい、と口の端を吊り上げた笑顔の狂暴さ! 白く奇麗な歯並みが牙でないのが不思議な笑みであった。しかも、今の彼の体を薄く覆っているのは、紛れもない深紅のオーラであった。
――【陰】に堕ちるか? 緋勇龍麻よ。
「こ、殺せェ!!」
教師風の叫びに応え、六尺棒と短槍と、ロングレンジの武器を持った刺客が突っかけた。六尺棒を、振り下ろす勢いを乗せて手の中を滑らせ、凄絶な突きと変える。【貫き】という技法だ。当たれば胸骨を粉砕し、肺を潰す。そして本来は突き刺す武器である槍を、穂の角で切り裂くように袈裟懸けに切り下ろす。どちらも逃げようのないスピードとタイミングであった。
だが、相手は緋勇龍麻であった。
ひょいと二歩前に出て攻撃を外し、広げた両腕でラリアット一発! たったそれだけで二人の男の首はいともたやすくへし折れ、一回転して床に落ち、そこからが問題であった。即死してしかるべき二人が、首をあらぬ方向に捻じ曲げながらのた打ち回り始めたのである。
「心得その二。現場で頼れるのは己だけ。――全力を尽くせ。俺を少しでも楽しませれば、速やかに死なせてやる。お前たち、全員だ」
『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!』
日本の裏社会にその名も高き拳武館――そこの暗殺者たちを前に、この堂々たる抹殺宣言。ここに至って、ようやく彼らは自分たちの目の前にいる男が、自分たちの想像を遥かに超えた修羅である事に気付いた。
【楽しませれば速やかに殺してやる】――少しでも歯ごたえありと思わせたなら、即死させてやるという意味だ。それは逆に、歯ごたえがない奴は今のように嬲り殺しにするという意味だ。生か死か…ではない。痛くて苦しいのと、そうでないのと、結局は【死】の一文字しかない。しかも彼は――【遊び】と言い切った。
「怯むな! 相手は一人だ!」
刀の鯉口を切る剣道着の生徒。両手にナイフを握ったレザージャケット。バグナグ――インドの爪付きナックルを填めた学生服が襲い掛かる。
ピウン! ――空気が鳴る。
「――ぐふッ!!」
日本刀の凄絶な刺突は、峰を指先で弾かれた事で軌道をずらされ、盟友の脇腹に深々と突き刺さった。間違いを悟る前に、剣道着の喉は龍麻の手によって握り潰される。龍麻はそのまま剣道着の身体を片手で投げ飛ばした。その直撃を食ったバグナグ使いはもんどりうって床に叩き付けられ、衝撃に体を弓なりに反らせたところを、喉に爪先を突き込まれた。脇腹を刺されたレザージャケットは無視――内圧で飛び出してきた腸を泣き喚きながら戻そうと奮闘中で、放っておけば勝手に死ぬ。
「くうッ!!」
拳武の制服を着た女子生徒がスカートを捲り上げ、ガーターベルトに差したスローイング・ダガーを抜く。片手で三本。計六本のダガーが空間を切り裂いた。
龍麻の手が鋭く動く。
次の瞬間、少女は両肩、両手、両足に凄まじい衝撃を受けて吹っ飛び、あろう事か標本のように壁に縫い止められた。
「ひぎィィィィッッ!!」
何が起こったのか少女には理解できない。自分の投げたダガーが全て彼に受け止められ、倍以上の速度で投げ返されたなどと、傍で見ている者さえ理解できなかったのだ。しかもその時、居並ぶ者は龍麻の行為に、実に下らない事に戦慄した。――女をいともたやすく攻撃した事に。
その戦慄は、龍麻にとって好機でしかなかった。
【気】を込めぬ、普通の踏み込み。それでも龍麻のスピードは彼らの倍以上だ。しかも龍麻は正面の刃物を持った男たちではなく、飛び道具を持っている女生徒の中に飛び込んだ。
ローキックと裏拳の連携一閃! とっさに反応できなかった少女たちの両足がまとめてへし折れ、砕けた顎を振り回すように首が真後ろにまで捻じ曲がった。
龍麻が反転する。
「ヒイッ!」
そこにいた少女は短刀を引き抜く暇もなかった。次の瞬間には高く振り上がった龍麻の廻し蹴りがこめかみを直撃し、棒切れの如く飛んで仲間たちを薙ぎ倒した。
「貴様ッ!!」
その中に惚れた女でもいたのだろう。サーベルを持った男が龍麻の背後から切りかかった。
「ッッ!!?」
消え去る標的! 次いで、股間と脳天を直撃する打撃! 上体を伏せてサーベルをかわすと同時に、後ろ蹴りを振り上げた成果だ。金的を潰されたと同時に天井に頭を叩き付けられて男は悶絶する。後にまで目があるのか!? そう思わせるほど龍麻の攻撃は正確無比であった。
「――弱いな」
ぼそっと龍麻は呟く。不機嫌そうに。
まだ周囲には十五人ほど残っている。だが、一人として動けない。龍麻の足元では、太股を短刀で貫かれて呻いている少女がいた。あとの者は腕を、足を折られて失神している。首の折れ方は奇麗なもので、それがかえって即死しない理由になっているのだが、手足は恐らく二度とまともには戻るまい。
「これが新生拳武館とやらの実力か? 暇つぶしにもならんぞ」
そして龍麻は、彼を知る者にとって信じられぬ事をした。必死で床を掻いて逃げようとする少女の足を貫く短刀に足を掛け、ぐい、と体重を預けたのである。
「心得その三。敵は殺せ。確実に」
「ひぎぎィィィ…いいイヤァァァァッッ!!」
ズブリ、と短刀が柄まで少女の太股に食い込み、床板まで貫いて少女を縫い止める。少女が恐怖に濁った泣き声を上げたが、自ら語った心得を自ら破った龍麻は薄笑いすら浮かべている。今の龍麻を京一たちが見れば、彼ら【神威】たちでさえ彼を倒そうとするのではないだろうか? 赤い【陰】のオーラを纏いながら、残虐な笑いを浮かべる龍麻。それは人殺しで金を儲けようなどという殺人集団さえ怖じ気付かせた。
少女が痛みよりも恐怖のあまり失神すると、龍麻は留めとばかりに少女の首を踏み折った。それが最悪の気付けとなり、少女の口から血と唾と表現不可能な悲鳴が搾り出される。男たちよりもむしろ女たちにこれほどの残虐行為を行う理由は――
「嫌ァァァァァッッ!!」
男子生徒の間に紛れていた少女がパニックを起こし、硫酸の入った瓶を手当たり次第に龍麻に投げ付けた。
「うおッ!!」
「ギャアアッ!!」
理性で制御されているのならばともかく、パニックを起こしている今では狙いなど付けていない。硫酸の瓶は仲間たちに当たって砕け、無傷だった戦力に重傷を負わせてしまった。それでもなお暴れる彼女の顔面に教師風の拳が叩き込まれ、首をへし折られる。
――どれほど訓練を積もうとも、根本的な闘争本能の部分において男女には決定的な違いがある。昨今では女性兵士も増えてきているが、それでも絶対数が少ないのは、ぎりぎりの極限状態に耐え抜く精神力が、男のそれと比べて弱いからだ。女性には出産という重大な仕事がある為に、肉体感覚においては男性より優れているが、元々闘争的な資質を持つ男性の肉体、精神には到底及ばないのだ。【女テロリストを先に撃て】――龍麻は全世界のカウンターテロ組織に共通する合い言葉を忠実に実行したに過ぎない。
「心得その四。――雑魚に時間をかけるな」
ふっと、龍麻の身体が霞んだ。
次の瞬間、教師風の顔面が陥没し、砕かれた歯を撒き散らしながら吹っ飛んだ。
「――ッッ!!」
何かを考える前に、とにかく目の前に出現した男に向かってパンチを繰り出す生徒。だが龍麻が片手を閃かせたと見る間に、彼の前腕がへし折れ、骨の折れ口が肉から飛び出した。悲鳴を上げる間もなく骨盤ごと金的を砕かれ、生徒は天井に突き刺さる。
拳武館暗殺組――残った刺客たちの攻撃は尽く自殺行為となった。
接近戦を得手とする柔道家が龍麻のコートを掴んで背負い投げを放とうとしたが、わざとコートを掴ませた龍麻は鉄の塊のごとく微動だにせず、逆に柔道家の帯を掴んで垂直に床に叩き付けて頚椎をへし折る。アマレスラーがタックルをかけてくると、龍麻は彼の無防備な背中に鉤手を叩き付け、指で肉を突き破り、脊椎を砕いた。空手家が壁を蹴って三角飛び蹴り。テコンドー使いが飛び後ろ廻し蹴りを仕掛けると、龍麻は両者の蹴り足を空中でキャッチし、二人を棒切れの如く振り回し、周囲にいる者を叩きのめした。武器を持っていようがいまいが、どれほど体術に優れようが関係なかった。【神威】の身体能力は単純な力だけでもたやすく刺客を凌駕し、龍麻は【気】の技も、軍隊格闘術すらも使う必要がなかった。圧倒的な腕力の暴風――それが今の龍麻だった。
時計の秒針が一周する間に十三人が壊れた人形のように床に転がり、龍麻は【武器】代わりにして血染めのボロ雑巾と化した二つの人体を放り出した。
「ひあっ…ひぐっ…えぐっ…!」
この道場内で蠢くものが、龍麻以外にあと一つ。いや、一人。
たった一人、辛うじて暴力の嵐から逃れていたのは、どこか亜里沙にも似た少女だった。勝ち気そうな美貌にグラビアアイドル並みのスタイル。これで性格が良ければ人気者になれたろうが、これでも拳武館暗殺組の一人だ。人殺しの愉悦を知り、それで金を儲けようと野望を抱いた一人。龍麻にとっては、単なる獲物の一人に過ぎなかった。
「ヒイッ!」
長い爪が割れるのも構わず、必死に扉を閉ざす鎖と格闘していた彼女であったが、背後でミシリと響いた足音に、これ以上はない恐怖の相を浮かべて振り返った。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
薄暗がりに浮かび上がる、黒コートの男の凄まじい禍々しさ。男の服装が黒尽くめでなかったなら、その全身は血色に染まっていただろう。白い頬にも返り血が貼り付き、細く糸を引いている。そして何よりも、薄暗がりだからこそ解る、彼の全身を覆う深紅のオーラ。長い前髪の間から覗く、深紅の光点…。正に、悪夢から抜け出した恐怖そのものであった。
「助け…助けて…殺さないで…!」
背中は開かぬ扉に押し付けられ、下がれる筈もないのに、少女は必死で後ずさりした。とっくに腰は抜け、失禁もしていたが、根源的な恐怖は時として動かぬ筈の肉体も動かすのだ。
「殺さないで…。なんでも…何でもしますから…! あたしを好きにしてもいいから…殺さないで…!」
それは恐らく、女だけに許される命乞い。少女はブラウスの前を引き裂き、男ならまず視線が釘付けにされるであろう白い膨らみを晒した。
「…人殺しは楽しめても、自分は死にたくないか」
龍麻は皮肉な笑いを浮かべた。女体への関心など微塵もないところは、以前とほとんど変わらない。
「副館長はどこだ?」
少女の目に、微かな希望が湧く。
「た、多分…館長室に…! お願い…助けて…!!」
しかし、希望は叶えられそうもなかった。龍麻の右手に、赤い【気】の輝きが集中し始めたからだ。拳武館にも【気】の技を使う者がいるから、少女もその恐ろしさを知っている。龍麻は、右手を振り上げた。
「ヒイィィッッ!!」
少女は悲鳴を上げ、頭を抱えた。この世でもっとも無駄な行為だった。
大音響と共に扉が吹き飛ぶ。龍麻の【掌底・発剄】だ。元より扉を壊すつもりで、彼は【気】を練ったのである。
「…た、助けて…くれるの…?」
【気】の技が自分を襲わなかった事にほっとする少女。
「――まあ良かろう。サービスだ」
ぱっと少女の顔に助かったという生気が蘇る。しかし龍麻の口元に、極め付けに邪悪な笑みが浮かんだのを見て、少女の顔は安堵の表情のまま凍り付いた。
「何でもすると言ったな?」
全身の肌がゾワワ! と総毛立つ。そんな声だった。
「ならば――見ろ。俺の周囲の――闇を」
「!? ――うっ! …あ…あ…!」
【それ】を見た時、少女の目がこれ以上はないほどに見開かれ、舌が喉に貼り付いた。
激痛に呻き声を上げていた者――意識を失っていなかった者も、【それ】を見た瞬間、痛みを忘れた。更なる恐怖の為に痛覚が麻痺したのである。
「心得その五。――悪魔はいつも呼んでいる。地獄は楽しい所だと」
静かな声の響いた数秒後――
「い、いいい――嫌ァァァァァァ――――――ッッッ!!」
龍麻の周囲の闇――そこに何を見たものか、魂切るような少女の悲鳴が拳武館校舎を駆け抜けた。
悲鳴の余韻が消えきらぬ内に、龍麻は道場を出た。
「うふふ…ひはは…ひゃはははは…!」
道場内では、無傷の少女が床にぺたんと座り込み、剥き出しの胸を隠そうともせずにケラケラと笑っていた。――彼女だけではない。その時、意識を保っていた者は、四肢を砕かれ、首の骨が折れていながらも笑っていた。涎を垂れ流しにした、痴呆の表情。――狂気に支配された者の顔であった。
十数人の正気を指一本動かさずに奪い取りながら、龍麻の足取りは浮かれている者のそれであった。
その両手からは、いまだ納まらぬ【陰気】が霧のように噴き零れている。そして、視線も獲物を狙う獣のままであった。
「――これではまだ、食い足りないな」
しかし、呟いた口元にみるみる愉悦が浮かぶ。前方の廊下に、バラバラと人影が飛び出してきたのだ。手にしているのはFA−MASに、ショットガンか。
館長室に辿り着くまで、まだまだ楽しめそうだった。
ガン! と金属のドアが派手な音を立てる。それと同時にドアの前に積み上げたロッカーやらスチール机やらがみしみしと音を立てたのを見て、ドアから最も離れた壁際で、こちらもロッカーや食器棚やらを積み上げたバリケードの中で居心地悪そうにしていた男たちは「またか」と露骨に嫌な顔をした。
「――いつまであたしを閉じ込めておくつもりなのさッ! さっさとここから出せってのよッ!」
再び、ドアを蹴る音。二百キロに届くであろうバリケードがズズッと動くのを見て、男たちは渋々腰を上げ、まるで頭を出したら撃たれると言わんばかりに用心しつつ、ロッカーを盾として中腰で押し運び、ドアの前に積み上げた。
「そこの下っ端! 京一とエルはどうしたのよッ!」
食事を入れる為だけに空けられた小さな穴から、勝ち気を絵に描いたような美貌が鋭く男たちを睨む。ドアの向こうに閉じ込められているのは藤咲亜里沙だった。
「うるせェな! 静かにしてねェと飯抜くぞ!」
まるでくつろごうとするところを見計らうように、亜里沙はこうしてドアを蹴り、喚き散らす。見張り役の男たちはいい加減、ウンザリしていた。
「いい加減に諦めやがれ! どっちもとっくに八剣さんの手に掛かってあの世行きに決まってんだろうが!」
「下手すりゃ両方腹の中だろうぜ! テメエも八剣さんが戻ってきたら終わりだ! 覚悟しておきな!」
男にしてはヒステリックな声で、それもロッカーの陰から喚き返す二人組。しかし返ってきたのは冷笑だった。
「ふん。使いっ走り風情がでかい口を叩くんじゃないよ。今度こそカマにしてやるから、悔しかったらかかってきてみなッ」
「こ…この…ッ!」
怒りで顔を真っ赤にして一人が立ち上がる。
「おい! よせ! 立つな!」
もう一人が仲間を止めようとして袖を引く。が、それよりも早く、食事の差し入れ口から蛇のようなものが立ち上がった男に襲い掛かった。蛇と見えたのは一本のロープ。それは空中を泳ぐように奔り、その首に絡み付いた。
「グエエッ!!」
物凄い勢いでロープを引っ張られ、ドアに顔面を叩き付けられる最初の男!
「――言わんこっちゃねェッ!!」
もう一人が大振りのナイフを抜き、ロープにブレードを叩き付ける。――が、切れない! ロープには【気】が満ち、その耐久性を飛躍的に向上させているのだ。
「チイッ!」
両手でナイフを握り、【気】を込めて一閃! 発剄と言われるレベルには達していなかったものの、素材そのものの弱さのお陰でロープが切断される。首に食い込んだロープを引き剥がし、最初の男は今にも死にそうな喘ぎ声を上げた。
「グゾッ…! 嘗めやがって…!」
首に恐ろしい痣を残しつつ、それでも男はすごすごと引き下がらざるを得なかった。
彼女は【仕事】の目撃者である。当然の事ながら、目撃者を始末する事も副館長派の者には命令されていた。しかし今回の件で一人、館長派の人間が実行部隊に編入された為に話がややこしくなり、彼女を生かしておく事になった。八剣は単純に後のお楽しみと請け合い、次の標的の始末に向かったが、相手が隙を見せない為にずるずると日延べしてしまっている。彼女を人質に最優先ターゲットを呼び出す計画は、手紙を送り付けに行ったメンバーが、標的の家で尽く事故(本当はトラップなのだが)に遭い、ようやく今朝、別の標的の家に送り付けたところである。
そして見張り役の二人はこの五日間、ストレスが溜まる一方であった。
何しろ人質は不良っぽいが顔もスタイルも抜群の美女である。勝手に手を出すと八剣が怒り狂って何をしでかすか解らないが、味見くらいなら良かろうとちょっかいを出しに行ったその直後に、その時五人いた見張りの内二人までが股間を蹴り上げられて病院送りとなった。そして次に部屋に入った時には、既に亜里沙は自分を縛っていたロープを切断しており、それを武器に逆襲してきたのだ。その時にも一人が足を砕かれ、やはり病院送りとなった。
それからが残った二人には散々であった。何しろ亜里沙が自由を取り戻しているので、もはや部屋に入る事もできない。懲らしめる為に食事を抜きにしたら、ドアを蹴り破るような騒ぎになり、実際に蹴り破られそうになったので急遽バリケードを作る羽目になった。しかしドアを、壁を蹴る音は止まないので、誰かに気付かれる事を怖れた彼らは食事を出さざるを得なくなったのである。あとはもう――女王様の言い成りである。大人しくして欲しければ――と、雑誌を買って来いだのラジオを聞かせろだの、食い物がまずいから出前を取れだのと我が侭放題。拒否すればビルを揺るがしかねないような騒ぎをおっぱじめるので、渋々と言うか泣く泣くと言うか、とにかく二人は彼女の言う事を聞かざるを得なくなってしまったのである。
「…大人しくなっちゃったわね」
亜里沙はおまけとばかりにドアをガンと蹴り、粗末なベッドに腰掛けた。
(京一…エル…)
静かにしている時は、彼女も不安を隠しきれなくなる。
あの日、龍麻たちを呼ぶべく走った亜里沙であったが、廃ビルを飛び出したと同時に、目の前に京一の木刀が落ちてきた事に衝撃を受けた。
馬鹿でアホで女好きで――しかし、龍麻に次ぐ実力者の京一が、よもや一対一の、それも剣同士の闘いで敗れるなど有り得ない。――そうは思っていたものの、あの得体の知れない技、【鬼剄】。あの技の前に、京一が成す術もなく翻弄されていた。そしてその後どうなったのか、まるで解らない。とっさに思い浮かんでしまったのは、京一の敗北。そのため、亜里沙は廃ビルの中に戻ろうとしてしまった。その途端、気配も何もさせぬままに水月に衝撃が走り、昏倒してしまったのである。
あれ以来、丸五日。そろそろ我慢の限界であった。京一もエルも、きっと無事だと信じている。信じてはいるが、こうして何もせずにいる事の方が苦痛だ。
(そろそろ、行動開始時かな?)
どうやらこの廃ビルは隠れ家として使われているらしい。元は何かの事務所らしく、窓もないコンクリート剥き出しの殺風景な部屋だが、一部水道も電気も生きている事も分かった。外の見張りが言い成りになったのは最大の収穫だ。あれやこれやと脅迫しては、暖かい毛布とマットレスを仕入れ、食事もぞんざいな菓子パンなどではなく、体力の付く焼き肉弁当やら何やらを持ってこさせた。一度など、特上の寿司を持ってこさせたのだ。
敵に囚われた時は体力の維持に努める――旧校舎での実戦訓練以外に、龍麻とアランによる戦術講座を受けていた事が見事に役立った。そして様々な要求の中に、自分にとって有利になる物をいくつも紛れ込ませる事にも成功していた。
(よし! やるか!)
ぽんと膝を打ち、亜里沙は立ち上がった。
ラジオを付けてボリュームを上げる。これは時間感覚を失わない為に役立ったが、作業の音を消す為にも使える。
ラジオを理由に持ってこさせた延長コードを、寝込みを襲われないように縛っていたドアのノブから外し、ソケットを靴の踵で踏み潰して破壊する。次に、差し入れだけさせておいて一口も飲まずに取っておいたコーラをドアの前にぶちまけた。二リットルペットボトル二本分でドアの前は水浸しになる。そして残る一本はガシャガシャと振って炭酸を爆発寸前にまで揮発させ、ドアの前に設置した机の上に置いた。そしてその脇には、特上寿司に付いていた竹の箸を置く。
「…とりあえずこっちはこんなもんか。さて、次は…」
読み終わった雑誌を破き、紙屑の束を作っていく。ファッション誌に使われているカラーの上質紙は適当にまとめて捻り、週間漫画雑誌に使われているザラ紙は軽くクシャクシャにしたものと、千切って細かくしたものに分ける。そして細かくした紙のところに、部屋の隅に溜まっていた綿ゴミを盛り付けた。
「…旨く行ってちょうだいよ…!」
紙屑と綿ゴミを正面に、亜里沙は部屋に落ちていたガラスの破片をコンクリートの床に激しく擦り付け始めた。
彼女とて非力な訳ではないし、何しろ【魔人】の一人である。たちまちガラスは摩擦熱で高温になってきた。そこに綿ゴミを落とし、息を吹きかける。すると、それは小さな炎となった。
「わ! ホントにできた…!」
それはサバイバル技術の重要な一つ、火の起こし方の一例である。戦場でなくとも、山などで遭難した時、何かと重要になるのが食料と火だ。何事も知っておいて損はないと、あまり一般的ではないが役に立つ技術を龍麻は仲間たちに伝授しているのだ。それがこんなところで役に立っている。
綿ゴミからの火種をちぎった紙に移し、そして徐々に火を大きくしていく。たき火の焚き付けの技術だ。紙を捻っておけば、燃え尽きるまでの時間を長くする事ができる。
「さて…これからが本番…」
亜里沙は、食料の差し入れ口の前に積み上げた紙束に火を付けた。いざと言う時の為に、毛布を水浸しにしておく事も忘れない。――カラー印刷した紙からもうもうと煙が上がり始める。そしておもむろに、ラジオのスイッチを切って叫んだ。
「火事よ!」
叫んでから、素早く毛布を口元に当てる。すると煙が出ているのを知った為だろう。見張りが慌て出す気配がした。
「ブハッ! な、何で火事なんかになるんだ!」
「ラジオがショートしたのよ! 安物なんか買ってくるからこの有り様じゃない! さっさとドアを開けな! あたしが死んだら上のモンに怒られるんだろッ!」
案の定、見張りが喚く。
「ふ、ふざけるな! テメエを出したら暴れるに決まってるだろうが!」
その台詞を待っていた亜里沙は、急にしおらしい声を出す。
「わ、解ったよ…! あたしだって死にたくないんだ! ホラ、武器は捨てるから早く助けてよッ!」
彼らを散々悩ませたロープを隙間から出す。そして、とどめの言葉を発した。
「――助けてくれたら、あたしを好きにしていいからさッ! お願いだよッ!」
これと同じ台詞が、さほど変わらぬ時間に龍麻に対して放たれた事など、当然ながら亜里沙が知る由もない。だが二人の見張りは龍麻のような非情さも冷酷さも備えず、警戒心も一般人よりは上という程度だった。火事だという事よりも何よりも、たった今まで女王の如く振る舞っていた少女が急に低姿勢になって媚びてきたので、頭の中にピンクの膜がかかってしまい、二人は我先にバリケードを取っ払い始めた。
男を問答無用で魅了する――藤咲亜里沙の必殺技、【悩殺ダイナマイト】である。
(龍麻もこのくらい簡単だと良いのになー…って、それじゃファイトが湧かないのよねェ)
そんな事を考えている内に、バリケードが取り壊され、ドアが音を立てて開かれた。二人の見張りが殺到する。その途端――!
「BYE」
亜里沙は用意しておいた竹の箸を破裂寸前のペットボトルに突き刺した。
「ブワップ!!」
勢い良く吹き出したコーラが二人を直撃する。だが、それだけでは何のダメージにもならない。そこで亜里沙はもう片方の手に握っていた、電線が剥き出しの延長コードを床に落とす。すると…
「ギャッッ!!」
「グワッッ!!」
これも龍麻に与えられた雑学。コーラは非常に優れた伝導体である。家庭用電源だから即死するほどのパワーはないが、それでもかなり強烈なショックに二人の見張りは身体を跳ね上げた。そして床に転がったところを顔面に、女王様の靴底を戴く。
「ふふん。ちょっとしたサービスのつもりだったけど、気絶してちゃしょうがないわね。――じゃあね」
ものの見事に部屋から脱出する亜里沙。取り上げられた鞭と、龍麻に渡されたガスピストルもすぐそこの部屋に置かれていた。鞭はともかく、ガスピストルは玩具だと思われたらしい。
八剣によって三つに分断されてしまったので鞭は使えない。亜里沙はガスピストルを構えて階段を駆け降りた。一階まで降り、広いオフィス跡を駆け抜ければそこが出口だ。
と、そこで亜里沙の足が止まった。
「な、なによ…これ…!」
足元に散らばっているのは、見張りと同じ制服を着た学生がざっと十人。一見すれば死体の山だが、いずれも目立った傷一つ、苦痛の片鱗も見せず気絶しているだけである。
とにかく外に出なければ――そう思って走り出そうとした亜里沙の背後に、人の気配が膨れ上がった。
「――ッッ!!」
振り返り様、ガスピストルを向ける亜里沙。しかし、一瞬にしてガスピストルは蹴り上げられ、次の瞬間に亜里沙は両腕をまとめて掴まれ、背中をコンクリートの柱に押し付けられていた。
(コイツ…強い…!)
攻撃の瞬間にさえ、その男からは殺気を感じなかった。先程の気配は自分を振り向かせる為に放ったものだ。するとこの男が、最初に自分を捕えた奴…そう思った時、男と目が合った。細身の身体だが、美しく怜悧な顔立ちの男だ。そして何より、その眼光。刃物のように研ぎ澄まされたそれは、龍麻にそっくりであった。
「…暴れないと約束してくれるなら、解放してあげるよ」
声は冷たく澄んでいるが、丁寧な言葉遣いである。とてもこんな連中の仲間とは思えない。だがこいつも、京一を殺したかもしれない奴の仲間だ。現に、床に倒れている連中と同じ制服を身にまとっている。
「だ、誰がアンタたちなんかに…!」
そう言いかけた亜里沙の耳に、犬の鳴き声が聞こえた。
亜里沙の目が、驚きに見開かれた。
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