第壱八話  餓狼 3





 真神学園 三−C教室 一二五五時。



「…あれから、もう五日だね…」

「…そうね…」

「京一の奴…一体どうしちゃったんだろう…?」

「…心配ね…」

 既に何十回繰り返された問答であろうか。あの日…エルを探しに出た晩から早くも五日が経っている。

 事態を重く見た龍麻は翌日には情報収集体制を整え、あらゆるニュースソース、インターネット、警察無線の傍受など、【真神愚連隊】本部の情報収集システムをフルに活用して、京一と亜里沙、エルの行方を追っている。しかし、いまだに有力な手がかりはなく、仲間達には苛立ちが募っていた。

「絶対…絶対変だよ!」

 全身をかったるい皮膜に覆われているかのような苛立だしさに、思わず机をバンと叩いてしまう小蒔。教室中の視線が彼女に集中するが、すぐに戻される。これとて、既に何回となく行われた事なのだ。

「…御家族の方では、捜索願いを出そうとしているみたいね…」

 京一にしろ亜里沙にしろ、多少の問題行動はあるものの、だからと言って家族に無断でどこかに行ってしまうような人間ではない。以前の亜里沙なら無断外泊は珍しい事ではなかったらしいが、【真神愚連隊】の一員となってからは両親に心配を掛けるような事はしなくなったという。京一に至っては、特に母親に頭が上がらない。無断外泊などもっての他だ。

「あの二人に限ってとは思うけど…やっぱり何か事件に巻き込まれたんじゃあ…」

「そんな…だって京一と藤咲サンだよ? その辺の奴に、そう簡単に負けたりする筈ないよッ」

 二人が姿を消した墨田区では、先の元大臣暗殺(龍麻はそう見ている)があったばかりである。裏世界の情報網にも何も引っかからないが、他に心当たりがない以上、葵がそんな風に考えてしまうのも無理なかった。

「勿論よ…。でも…。ねぇ…龍麻の方にも新しい情報はないの?」

「残念ながら」

 目元の見えない彼だからそんな風には見えないが、彼は瞑目して静かにラジオの情報に耳を傾けている。見方によっては高尚なクラッシックでも聞いているような風情だが、彼が聞いているのは警察無線だ。

 この五日間、龍麻は無為に過ごしていた訳ではない。日がな一日警察無線に耳を傾け、夜ともなれば裏世界の情報屋を当たり、京一の情報に百万からの賞金を懸けている。自らの身が危うくなるのを承知でCIAやモサドのエージェントとも接触した。しかしいくら裏世界の情報網を駆使しても、やはりこの街でたった二人の人間を見つけ出すのは困難を極め、いまだ有力な情報は得られていない。

 ただし、気になる情報がなかった訳ではない。IFAF筋からは、例の【シグマ】が再び勢力を盛り返しつつあるとの情報を得た。資金源となっていた【鬼道衆】や葦下兄弟を潰され、かなりの打撃を蒙ったかの組織だが、今までのような政界財界人の互助会的様相を捨て、より攻撃的な武装集団…政府直属の暗殺部隊としての形を整えつつあり、その組織に【神威】の影がちらついているというのだ。龍麻たち【真神愚連隊】の事は裏世界では不可侵の存在となったが、【ファイルXYZ】の危険性を正しく認識していない日本政府の手の者ならば、あるいは強力な【神威】である京一にスカウトの手を伸ばすかも知れないというのがIFAFエージェントの見解であった。聞けば既にいくつかの非合法活動もこなしているらしく、その内のいくつかの事件の内容から、IFAFでも危惧を抱いているとの事であった。

「…関係ないな」

 思わず、龍麻の口からそんな呟きが洩れる。そんな子供じみた組織に、あの京一が加わる筈はない。

「龍麻…?」

 ふと気付くと、葵と小蒔が心配そうな顔を向けていた。今の呟きを聞かれたらしい。

「いや、なんでもない。無駄な情報ばかりなのでな」

 再び葵と小蒔がため息を付いた時、教室のドアがガラリと開いた。

「あっ…。醍醐クン…」

 一瞬、京一がやってきたのかと思った小蒔であったが、そこにいたのは彼よりもずっと巨漢の男であった。

「どうしたの? こんな時間に来るなんて…」

「…ああ。ちょっと…な」

 今日、醍醐は朝から姿を見せていなかった。この数日、情報収集の為に龍麻と日替わりで登校時間が遅くなっていたので、それだけなら驚くほどの事ではない。葵と小蒔を不審顔にさせたのは、醍醐の放つ雰囲気であった。妙にピリピリした、自分を無理に押え込んでいるような気配を漂わせている。

 そして彼は、真っ直ぐ龍麻の席までやってきた。

「龍麻。話があるんだが、ちょっと、いいか?」

 親指で上を指差す醍醐。【屋上へ】という意味だ。

「――良かろう」

 無線機のスイッチを切り、龍麻は席を立った。

「済まんな。――桜井、美里、悪いが龍麻は借りていくぞ」

「え!? でも醍醐君。もう時間が――」

 目を白黒させつつ葵が時計を指差すなり、授業開始のチャイムが鳴った。

「構わん。――行こう、龍麻」

「うむ」

 授業どころではない――醍醐の目はそう言っていた。日頃【自分の生活を護るように】と公言している龍麻も、あっさりとエスケープに同意した。











 当然の事ながら、屋上には誰もいなかった。寒風の吹くこの季節、授業をエスケープする生徒もここには来るまい。秘密の話をするにはもってこいの環境であったが、その話は非常に重たいものになりそうであった。

「風が冷たいな…」

 それは彼らにとって、さして重要ではない。龍麻や醍醐のようなタイプの【神威】は無意識に【気】のシールドを纏っている為、寒暖の差にあまり影響されない。醍醐の言葉は、これから口にする事の重大さに、硬直している舌をやわらげる為であった。

「龍麻…まずはこれを見てくれ。――今朝、俺の家の前に置いてあった物だ」

 大きく息を吐き、制服の胸ポケットから封書を取り出す醍醐。その指が微かに震えているのは、決して寒さの為ではない。

「…ふざけた手紙だ…!」

 やっとの事で吐き出したような声。龍麻はそれには応えず、封書から手紙と写真を取り出した。



 『今夜、二五〇〇時。帝釈天の御膝元、刑場地下に設けて待つ。緋勇龍麻、醍醐雄矢、美里葵、桜井小蒔。以上四名で、必ず来られたし。そうすれば、女の無事は保証する』



「…凝ったものを」

 一言、龍麻はそう言った。白い和紙に、筆で書かれた文面。筆ペンでもなければ、墨汁すら使っていない。墨を摺ってしたためられた、挑戦状であった。書道のコンクールにも出せそうな達筆で、和紙の折り方も非常に丁寧だ。差出人の名前はない。

 そして、写真――これが問題であった。

 そこに写っているのは、赤毛で木刀を持っている少年――蓬莱寺京一。しかしその写真には、赤いバツ印が記されていた。

「午前中一杯、俺の足りない頭で考えた…。やっと出せた推測は…誰かが俺達を狙っている。あの夜、京一は襲われ、藤咲は俺達をおびき出す人質として攫われた。藤咲の無事は一応保証されているが…京一は…」

 そこで醍醐は言葉を切る。拳をギュッと握り、腹にも力を込める。そうしないと、声が出てこないとでも言うように。

「考えられる事は二つしかない。襲われ、敗れた京一は何もかも捨ててどこかへ身を隠した。あるいは――」

 ギリッと醍醐の歯が鳴る。

「あるいは、今でもそいつを付け狙っている」

 龍麻の言葉に、醍醐は唖然として彼を見た。

 常に最悪の事態を想定して動く彼らしからぬ、現実から目を逸らしているとしか思えない第三の答。醍醐は一瞬、龍麻が自分をからかっているのではないかと思ったが、彼はこれまで【死】を冗談のネタにした事はない。

「龍麻…俺は…!」

「醍醐、自分で見た事、確認した事だけが真実だ」

 反論を許さぬ、龍麻の宣言。勿論、醍醐もそうだと思いたい。「あるいは」の先を言いたくはない。だが、しかし…

「俺も…俺もそう思いたい! だが、現に京一は――!」

 思わず激昂し、声を張り上げる醍醐。

 しかし彼は、最後まで言う事ができなかった。給水タンクの陰から鋭い声が飛んできたからだ。

「ウソ!」

 まるで叫弾するような声音。醍醐は動揺して振り返る。

「さ、桜井…! 美里も…!」

 そこに立っている二人の姿に絶句する醍醐。今の彼をして、特に体術に優れている訳ではない二人の接近に気付かぬとは、【真神愚連隊】の直接戦闘員としてはあるまじき失態であった。

「――今ので、お前は死んでいたぞ、醍醐」

 【敵】からの手紙ごときに動揺し、我を失い、気付いてしかるべき気配にも気付かなかった。もしこの二人が刺客であったなら、この瞬間に殺されていると、龍麻は言っているのであった。

「龍麻…!!」

 【敵】の言う事など何一つ信用しない――そんな龍麻の性癖は良く知っているが、事、ここに至っては現実を直視しようとしない者の言い訳にすら聞こえる。醍醐は再び激発し、龍麻の胸座を掴んだ。

「ウソ…だよね? そんなの…ウソ…だよ…!」

 だが、小蒔の声が醍醐を制する。

「…ごめんなさい…。立ち聞きするつもりはなかったの…。でも醍醐君…様子がおかしかったから…」

 つまりそれも、彼が動揺していた証拠という事だ。龍麻だけを呼び出すのに、昼休み終了間際に、授業をエスケープする事も辞さぬ言い方をすれば、不審がるのは当然なのだ。

 醍醐は手を放した。

「俺とした事が…済まない…!」

 唇を噛み、拳を固めて俯く醍醐。よりにもよって、一番知らせたくない者に、最悪の形で最悪の情報を教えてしまった事になる。

「ねえ…ウソだよね…? ウソだと言って…!」

 彼女の小柄な身体が、動揺という言葉では足りぬほどに震えている。顔は蒼白で、歯が小刻みにカチカチ鳴っている。標的を射抜く彼女の目は、この時ばかりは焦点を結んでいなかった。

「桜井…」

 醍醐が口を開きかけた時、小蒔は両耳を手で塞いだ。

「そんなの…そんなのボクは信じない!」

 それ以上は何も聞きたくない。ここにいたくもないと、全身でいやいやをするや、小蒔はぱっと身を翻して走り出した。雷に打たれたかのように硬直する醍醐の視界の中から彼女の小柄な背中は消え、階段を駆け下りる音だけが聞こえ、すぐにそれも消えた。

「醍醐! 追え!」

 それを向けられた醍醐はおろか、葵までが背筋を跳ね上げてしまう龍麻の叱咤! 

「小蒔を護れ! 殺されるぞ!」

 聞きようによっては極めて酷薄な龍麻の言葉。だが辛うじて冷静さを取り戻した醍醐は、その言葉の真意を悟り、小蒔を追って走り出した。

 何者かに命が狙われていると判明した時点で、京一が生きているという龍麻の言葉は理想論かもしれない。だが、何もかもが仮定である内に動揺し、暴走したのでは、それこそ【敵】の思うつぼだ。

(龍麻がそう言うなら、京一は生きている! きっと生きている! 生きているに決まっている!)

 醍醐は胸の内で叫びながら、目尻に光るものを拳で拭い捨てた。

 巨体が踏み鳴らす足音が完全に聞こえなくなったところで、龍麻は振り返り、フェンス越しに新宿の街を見渡した。

 その背中の小ささに、葵は少なからず驚いた。

 龍麻がこの街に来てから、既に半年が過ぎた。逆に言えば、まだやっと半年を過ぎたところである。だがその期間、彼の傍らには常に四人の仲間の姿があった。そして今、その中の一人が欠けている。その事が彼をこれほどに小さく見せるとは…! 

「龍麻…」

 初めて立ち上がった子供のように、葵は覚束ない足取りで彼に歩み寄った。この雰囲気を放つ時、彼が決してそれを許さぬ事を知りながら、葵は彼のコートをつまむ。これまでの闘いで恐い時、心細い時、いつもこうしたいと願いながら、いつも彼は先手を打ち、「大丈夫だ」と告げてきたのだ。

 しかし今回、龍麻は何も言わなかった。葵の行為がとっさの行動の妨げとなると認識しながら、葵の好きなようにさせる。これまでの彼にはなかった事だ。

「…忘れていたわ…この…私たちの闘いには、常に……が付きまとっている事を…。何度も何度も…龍麻が教えてくれていたのに…今までだって…何度もそんな風になるほどの闘いがあったのに…忘れていた…いいえ…考えないようにしてきたのね…」

 ぎゅっと、コートを掴む葵の手に力がこもった。

「解っている…解っているわ…! 京一君は戻ってくる…必ず戻ってくると解っているわ…! だけど…だけど今だけは…このまま泣かせて…」

 つい、と葵の肩に、龍麻の手が乗った。ロングコートが彼女を包む。こうする事が人に安心感を与えると、形だけではなく真に理解するようになった彼である。葵はそのまま龍麻に身を預け、低い嗚咽を洩らし始めた。

 屋上を吹き抜けていく風は冷たいが、龍麻のコートの中は温かかった。葵が泣いている時間はそれほど長くはなく、落ち着きを取り戻すのにも長大な時間を必要とはしなかった。

「葵」

 彼女が充分に落ち着きを取り戻せたと確認したか、龍麻は口を開いた。

「………なに? 龍麻…」

「…俺は、信頼するには足りんか?」

「――ッッ!!」

 普段と変わらぬ口調で突き付けてくる、とてつもない質問。葵はガバッと顔を上げた。彼の顔との距離は十五センチとない。そのため葵には、自分を見詰める右目の輝きを見る事ができた。恐ろしく澄んだ黒瞳を。

「な…なんでそんな事言うの…ッ!?」

 他人事のように、自分を否定するかのような事を言う彼に、葵は困惑を隠せない。しかし、思い出した事がある。小蒔が攫われた時、醍醐が失踪した時、彼はいつも自分に問いかけていなかったか? 【自分】という存在が何者なのか? と。

 一度踏み出せば、後戻りはできない――龍麻は最初に彼らに告げた筈だった。そして葵たちは今まで彼に付いてきたのだ。無残な闘い、無慈悲な戦争に、「もうたくさんだ」と思った事が何度あったか知れない。だがどれほど辛くとも苦しくとも、龍麻は常に前だけを向いて進んできたのだ。そして葵たちは、彼の付けた道を辿るだけで良かった。

 だが、ここに来て、龍麻は気付き始めている。【自分】という存在の危うさに。

 【力】は強くなっている。確実に。他の【神威】たちの追随を許さぬほどに。

 しかし、彼は弱くなった。それを言う権利がある人間は極めて限られるだろうが、彼は弱くなっていた。肉体的に、ではなく、精神的に。約十年をかけて丹念に作り上げられてきた戦闘マシンは、この半年間に急成長してきた人間部分に圧倒され、本来の性能を完璧に引き出す事ができなくなっている。以前はなかった人間的感情が本来の彼があるべき存在理由、【敵は殲滅】を否定し、反抗を許さぬ程度に痛めつけるようになった。戦闘マシンとしての自分も、完璧なる殺人者としての自分もねじ伏せて。

 彼の【戦場】において、それは致命的な【甘さ】だ。一時見逃した【敵】が更なる毒の牙を剥いて来ないなどと誰が保証できる? 帯脇などはその典型だ。最初の接触時に片付けておけば、霧島が大怪我をする事はなかった。さやかも危険な目には遭わなかった。

 過信してはいないが、龍麻は自分の戦闘力に絶対の自信を持っていた。だが、決して全てが思い通りにならない事も知っている。だからこそ自己鍛練を欠かさず、仲間たちを訓練する。彼の辞書には【これで充分】という言葉はない。

 それでもなお、龍麻の中には【不安要素】が渦巻いている。それは日々、増大しているという感覚があった。響豹馬に示唆され、九角天童が導いた自分の真の【力】。それは制御できるかに見えて、いまだ彼の制御下に入ろうとしない。京都でジル・ド・レエ伯爵を解放した時、復活した九角戦で鳳凰の三倍弾…【秘拳・大鳳】を放った時、そして先日の事件で精神攻撃を仕掛けてきた相手に対し、陰陽二つの【気】から成る太極の鳳凰を放った時、彼の【力】は彼の制御から離れていた。

 龍麻の中では【自分】に対する信頼が揺らぎ始めているのだ。それが仲間たちにも伝播し、彼に対する信頼に僅かな陰りを生じさせている。自分が「大丈夫」と告げても、醍醐も小蒔も、葵さえも、ただその一言では納得させられなかったのだ。

「…俺は、いい加減な事を言っているつもりはない。この手紙を含めたあらゆる情報を分析した上で、京一の生存を確信している。帰って来ないのは、京一には京一の考えがあるからだ。連絡の一つもよこさんのは業腹だが、逆に些細な行動一つが致命的なミスとなり得るのならば、それも容認すべきだろう。――京一はいい加減で怠け者で女好きで大飯食らいで悩みのかけらもない脳天気者の赤毛ザルかも知れんが…」

 そこで龍麻は一旦言葉を切った。葵が、全てを受け入れようと聞いているのを確認して続ける。

「――お前たちの中では、一番俺に近い。強くなる事に極めて貪欲で、生き残る為には手段を選ばん。暴力への渇望、殺戮への衝動と常に戦い、喘ぎながらも前へと進もうとしている男だ。京一を前に突っ込む事しか能のない万年二等兵だと思っているのだとしたら、それは大きな間違いだ」

「………」

 これが、いつも彼をアホだアホだと言い続けている男の言葉か? 

 【信頼】…美しい言葉かもしれないが、所詮は言葉であった。口に出せば美しく聞こえるが、実際には口になど出す必要はないのである。最前線で背中合わせに闘う男たちの絆は、言葉にできるような代物ではないのだ。ましてそれを、女である自分が理解できる筈もない。葵は自分の小ささを思い知らされると同時に、それほど強い絆がある彼らを羨ましく思った。

「この程度の事でいちいち深刻に悩むな。禿げるぞ」

「――ッッ」

 思わず腰砕けになる葵の頭に落とされる手刀。コツン、と当たったそれは少しも痛くないが、ちょっぴり心が痛い一撃だった。

「――これでもう下らん事を考えるのは止めろ。事態は動いた。これで行動の指標ができただろう?」

「……はい」

 叩かれた頭を片手で押さえ、しかし葵は微笑した。先程までの陰鬱な気分が、この小さな頭の痛みの為にとても温かいものに変わっている。無意味に考えを巡らせ、自ら生み出した恐怖に脅える時間は終ったのだ。











 午後の授業終了のチャイムが鳴り響き、生徒たちが退屈な時間からの解放を喜び合う頃、メンバー一名を欠いた【真神愚連隊】メインメンバーは旧校舎の【本部】に集結していた。

「…落ち着いたか?」

「うん…ゴメンね、ひーちゃん」

「醍醐はどうだ?」

「俺もだ。…済まん」

 龍麻と、飛び出していった二人の会話はこれだけで済んだ。少ない時間ながら、彼らなりに考えるところは多かったのだろう。龍麻が何も言わずとも、彼らは黙って【本部】に付いてきた。

 まずは手紙の検証と、机の上に手紙を広げる。気に入らない内容だが、情報がない現在では唯一の手がかりである。

「いささか暗号めいているが…場所は帝釈天の御膝元…やはり単純に葛飾区柴又帝釈天の事で良いのだろうな」

 醍醐はプロジェクターに映し出された葛飾区の地図を睨むように言う。

「…それ以外ではすぐに思いつくものはないわね。…龍麻、ボケないでね。私、あのシリーズはどうも理解できないの」

 【…生まれは葛飾柴又…】と言いかけていた龍麻は、葵の一言で押し黙る。これは別に【寝袋】が恐かった訳ではなく、五〇作以上もの長シリーズにもなった日本映画の代名詞が、龍麻も葵と同じく理解できなかった為である。戦後の高度成長期における人情喜劇は、やはり物が満ち足りた中で育った若者には遠い世界の出来事のように感じられてしまうものなのだ。

「それじゃあ地下っていうのは…前みたいに下水道だったらやだなァ」

「【刑場地下に設けて】…というのだから、下水道というのはないだろう。サブナートのような地下街はないだろうが、地下道か、ビルとかの地下か…」

 本調子とは言えないが、小蒔も推理に加わり、醍醐も腕を組む。

「…ここに地下鉄があるな」

 サインペンで地図に印を付ける龍麻。隣の足立区だが、そこならば手紙に示された条件にもほぼ合致する。

「そう言えば…でも終電が行ってしまった後はシャッターを下ろすんじゃないかしら?」

 龍麻の指摘に疑問をぶつける葵。

「つまり、そこなら邪魔は入らないという事だ」

 終電が行ってしまった後、封鎖された地下鉄駅構内で何が起ころうと気付く者はいまい。なるほど確かに、裏の取り引きにはもってこいの場所かも知れない。

「二五〇〇時に地下鉄のホームかァ…。それだけでも不気味なのに、刑場って何の事だろう?」

 小蒔の言葉に、醍醐たちも首を傾げる。

 実の所、龍麻が悩んでいるのもこの一文であった。【刑場】…罪人を処刑するところ。それを設けて待つという事は、そこで殺すぞという宣言…? 殺されに来いと? 

 誰かが自分たちを狙っている。それは解るのだが、わざわざ手紙をよこす神経が、龍麻には理解できない。今まで龍麻を狙ってやってきた殺し屋は無数にいるが、いずれも裏の世界では結構名の通った連中だ。暗殺手段も様々で、オーソドックスな狙撃、爆弾、待ち伏せなどバラエティに富んでいるが、【殺すぞ】と挑戦状を送り付けるようなのどかな殺し屋は一人もいなかった。どんな相手にせよ確実に殺す為には、絶対に不意打ちに限るのである。

「刑場…という言葉をわざわざ使ったという事は…それは私たちを何らかの刑に処するって事なのかしら…?」

「あまり考えたい事ではないが…俺達に死刑を宣告したつもりかも知れんな」

 京一は既にこの場にいないのだ。そして自分たちが狙われている可能性と写真のバツ印を見る限り、そう受け取るのが自然かもしれない。

「で、でも! そんなのおかしいよ! だってボクたちなんにも悪いコト…って言うか、処刑されるなんて覚えはないじゃないかッ!」

 その可能性を認めつつも、やはり小蒔が血相変えて声を上げる。醍醐は難しい顔をした。狙われる心当たりはないではないが、処刑…刑罰を受けるという感覚が彼にも解らないのだ。

「歪んだ正義を振りかざす者がいたならば、有り得ない話ではない。俺も何度か狙われている」

 仲間たちには見せたくない【裏】の事情ではあるが、事情が事情である。龍麻はそれを口にした。

 沖縄の米軍嘉手納基地を消滅させた【レッドキャップス騒乱】事件の犯人にして、脱走兵であるレッドキャップス・ナンバー9…この肩書きしか知らぬ者にとって、龍麻は稀代の重犯罪者である。その首に懸かっている賞金も莫大なもので、しかも組織のバックアップのないフリーランスの身となれば、狙われない方が不思議なくらいである。彼が無事なのは、やはり知己となった数多くの【戦友】の存在あってこそだ。東京を、日本を、世界を救ったと言っても過言ではない【友】を、己の欲望のために売るような輩はいなかったのだ。

 しかし、鬼道衆との戦争終結直後、龍麻はとある組織に命を狙われた。その組織は犯罪被害者遺族によって構成された、互いをネットワークのみで結び付けている非営利集団であった。これが厄介な事に、犯罪被害者遺族であるが故の【犯罪】に対する憎しみを共通思想としている為に、人種、国境、職業、思想や宗教さえも飛び越えて結託しており、相当な資金力を有している者がメンバーに加わっている為、実働部隊の装備も錬度も各国特殊部隊に引けを取らぬ有様であったのだ。

 その集団の【チーム】の一つが、桜ヶ丘で静養中の龍麻に牙を剥いたのである。誰かの仇を討つ為でも、賞金を得る為でもなく、ただ【正義】を守る為に、【人殺し】であると同時に【ファイルXYZ】で世界を脅した恐るべき犯罪者を殺すのだと。

 どこの国にも【法律】がある以上、犯罪者を勝手に殺す事は違法な【私刑リンチ】である。しかし【正義】を声高に語る彼らは、自らの違法性など一顧だにせず、龍麻の存在そのものを【悪】と断じた。【お前のような人殺しの外道は、この俺が殺してやる】と、平然と言い放ったのである。

 当然、龍麻にとっては毛色の変わった殺し屋と言うだけなので、いつものように返り討ちにした。しかし彼らは【普通の殺し屋】ならば絶対にやらない無意味な行為〜龍麻にも裏の世界にも無縁な、入院中の妊婦を人質に取ったのである。

 そいつの理屈はこうだ。――【犯罪者をかくまっている病院にいるならば、カムフラージュに協力している犯罪者だ】

 つまりこの場合、人質を取るという行為は卑怯でもなければ悪でもないのだと。【正義を護る為の正当な行為】なのだから何も恥じ入る事はないと、彼らは言い切ったのである。

 龍麻はそれを危険と判断した。理不尽な犯罪により被害者遺族となったからと言って、犯罪者全てを殺す権利が発生する訳ではない。直接関わった犯罪者相手ならば【復讐】や【報復】という考えも湧くであろうが、それを【犯罪】そのものにまで拡大解釈したならば、それはテロリストと同義になる。犯罪者本人のみか、その家族、親類、友人は言うに及ばず、地域、民族、国家…果ては自分の主義主張に【否】と唱える者や、【疑問】を口にしただけの者まで、究極的にはそれらの血を引くまだ生まれていない者にまで【敵】の概念を拡大し、不毛にして理不尽な果てしなく連なる恨みと憎しみの連鎖を自ら生み出す、制御不能の殺戮集団に成り下がるのだ。その事件の結末は――推して知るべしだ。

 だが、問題は残る

 仮に今回の相手がその一味だとした場合、わざわざ京一たちを巻き込む理由が分からない。過去二回の襲撃で龍麻のやり方は身に沁みて解っている筈だ。周囲にいる者を先に始末していく事で恐怖を与えるという戦術は、龍麻相手には逆効果を通り越して自分たちの死刑執行令状にサインするようなものである。ならばむしろ龍麻とその仲間が授業を受けている時に、三−Cの教室に地対地ミサイルでも撃ち込む方が手っ取り早く確実だ。無辜の人間が何人死のうが、【彼らの尊い犠牲によって、巨悪は滅びた】か【巨悪を滅ぼすのに、多少の犠牲はやむを得ない】、あるいは【同じクラスの人間ならば仲間に違いない。そうに決まっている】と、暗い悦びに顔を歪ませてゲラゲラ笑いながら胸を張る事だろう。

 尤も、そのような手段を行使しないように、龍麻自身が彼らに強烈な釘を刺したのも事実だが…。

「そんな事があったんだ…。でも歪んだ正義感って…。ねェ、ボクも凄く馬鹿な考えだと思うけど、ひょっとしてボクたちを狙ってるのって、アン子が言ってた暗殺集団かな?」

 これにはさすがに醍醐も葵も苦笑を洩らした。

「…さすがにそれはないと思うぞ。遠野の言う事を信じる訳ではないが、その暗殺集団が本当にあるとして、俺達が狙われる理由がない。そもそも国家の方が黙っていないだろう? 龍麻」

「肯定だ」

 言いたい事は醍醐が言ってしまったので、龍麻は肯いただけに留まった。

 鬼道衆との最終決戦以来、龍麻の周囲からは国家レベルでの監視が遠のいている。例の【ファイルXYZ】の件が効いているのと、その中心人物であった【ザ・パンサー】本人とも知り合った為だ。京都での闘いの後(あの温泉騒動の後だ)、IFAF評議会の派遣した部隊が龍麻たちを拘束しようとした時、響豹馬は「彼らは俺の友人だ」という一言だけで退けた。その瞬間から、龍麻はIFAFそのものと言うよりも、【ザ・パンサーの友人】という絶対不可侵の立場に立ったのである。彼には申し訳ないが、自称【正義の味方】集団に対する釘も、彼の名も出しての事だ。

 【ファイルXYZ】の公開と【ザ・パンサー】と敵対する可能性を考慮すれば、国家としては手を引かざるを得ない。自称【正義の味方】集団も、そのトップを国家間交渉の場に引きずり出して手を引かせた。龍麻のもとに殺し屋が退きも切らないのはやむを得ないとして、仲間たちに被害が及ばないのはそれが理由であった。勿論水面下ではそれと悟られないように暗闘が行われているだろうが、可能な限り龍麻を刺激しないように、【神威】を狙う国家そのものが【神威】たちを陰ながら護るという皮肉な結果になっているのだ。

 それを誰かが無視した。――考えられない事態ではないが、その辺りの情報が流れてこないのは、よほど組織が大きいか小さいか、あるいは徹底した秘密主義の為に裏世界の情報にも疎い組織の仕業とも考えられる。さもなくば、二束三文の金で殺しを請け負う三流以下の殺し屋だ。

(……)

 一瞬、龍麻の脳裏に【シグマ】という単語が浮かんだが、彼はそれを打ち消した。いくら平和ボケした日本であろうとも、戦闘部隊の維持コストは莫大なものだ。葦下兄弟並のスポンサーなど滅多にいるものではない。

「何にしても情報が足りん。この手紙だけが手がかりだ。姿を現わした相手を拘束し、その背後にいる者を突き止めて殲滅する」

 大雑把だが、本当にそれしか方法がないようだ。こんな素人じみた(あくまで龍麻主観)挑戦状を送り付けてくる殺し屋など、心当たりがないのだから仕方ない。

「情報か…。こういう時はいつも遠野の出番だったが…そういえば遠野はどうしたんだ? この数日姿が見えんが…」

「さあ…? そう言えば最近、放課後になるとすぐに帰っちゃうみたいだよね」

「…この三日くらい、特にそうよね?」

 普段はトラブル発生と共にここにやって来そうなものだが。まあ、来たら来たで京一の欠席理由に付いて問い質される恐れもあるのだが。

「まあ、調べものをするには時間も足りない事だしな。それにこちらも名指しで狙われている以上、遠野を巻き込む訳にも行かんか」

「肯定だ。――だが、我々が準備するには充分な時間だ。各自家族に連絡を取り、夜間外出に備えろ。可能なら、二二三〇時まで仮眠を取って気息を充実させておく事。集合場所はここに二四〇〇時。現地への移動はタクシーを使用するものとする」

 そう言って龍麻は、コンピュータの電源を落とした。











 一度解散してから集合という話なので、一同は【真神愚連隊】本部を後にした。

「二三〇〇時まで仮眠かァ…。眠れるかな…」

「気功の要領で息を整えながら横になるだけで良い。それと、ラーメンでも食べてからなら眠りやすくなるだろう。栄養も蓄えられる」

「えー、食べてすぐ寝ると牛になるんだよ」

「何…? それは不許可だ。やはりこちらの方が…」

「龍麻。そこで猫じゃらしを出すのは止めて。それ以前に、どうして【牛】のところで私を見たのかしら?」

「…別に深い意味はないだろう。…そうだな、龍麻?」

「…肯定だ」

 校門を潜りぬけるまでに、そんな緊張感皆無の会話を交す一同。傍から見れば何を馬鹿な事を…と思うだろうが、彼らを良く知る者が見れば、そこに違和感を覚えるだろう。

 足りないのだ。何かが。たった一人、その男が欠けただけで。良くも悪くも、【真神愚連隊】というグループをポジティブに引っ張っていく男がいないだけで、これほどまでに雰囲気が変わるものだろうか? ――それほど、蓬莱寺京一という男が【真神愚連隊】において占める割合は大きいのであった。

 彼女もまた、そんな違和感を覚えた一人であった。

「こんにちは。――あら? 今日は一人足りないみたいね」

「あ、天野さん…」

 無意味な会話を取り止めもなく続けていた一同は、龍麻以外、天野に気付かなかった。この面子が【真神愚連隊】の中心にいて、その強さも心得ている天野は、彼らがどこか無防備にしていたのを見て不思議そうな顔をする。

「京一は本日、休みを取っています」

 敬礼しながら、龍麻。彼だけはいつもと変わりないので、少しほっとした天野である。

「そうそうッ、あの馬鹿、食べ過ぎでお腹壊しちゃったって…。ホントしょうがないヤツだからッ」

「そう…。大した事なければ良いけど…」

 少し慌てた調子の小蒔に、やはり天野の表情が僅かに動く。現役のジャーナリストである彼女を誤魔化すには小蒔では荷が重いだろう。しかし天野は、それを追求することなく聞きたい事があると質問を向けてきた。

「今日ここに来たのは他でもないの。あなた達なら知ってると思うんだけど…アン子ちゃん、最近、何してるの?」

「アン子ちゃん…ですか? そう言えばこの二、三日、私たちも会ってないんです。なんだか凄く忙しそうに走り回ってて…」

「…そうなの。あなた達にまで内緒なのね。…考えてみれば、龍麻君が知ってたら止めて当然でしょうし…」

 いかにも困った…というよりは思いきり呆れたかのように天野は嘆息した。彼女にしては珍しい表情である。

「天野さん。遠野が何か?」

 アン子が自分たちに内緒で何か調べている…。何か不吉な予感を覚えた醍醐は聞かずにはいられなかった。

「それがね…三日前に、私の事務所まで来たのよ。その内容というのが…とにかく手を引くように言い聞かせたんだけど、なんだか彼女、鬼気迫る感じで…。私、もう、気を失うかと思ったわ」

 再び、大きなため息を一つ。天野が手を引くように説得する…何か不穏だ。

「天野さん。まさかとは思うんですが…遠野が知りたがっているというのは、東京の暗殺集団の事じゃないですか?」

「なッ…! やっぱり知ってるの!?」

 急に勢い込んだ天野にたじろぐ醍醐。

「いや。先日の大臣が殺された事件で、遠野がそんな事を言っていたものですから。ですが…そんなに大変な事なんですか?」

 この瞬間、醍醐は屋台で指輪を当ててみせた時並みに、幸運だったのかもしれない。

「勿論よッ! ジャーナリストを名乗る者で、その存在と絶対の禁忌を知らない者はいないわよッ!」

 普段冷静な彼女らしからぬ、熱のこもった声に、醍醐、小蒔、葵まで引く。

「じゃ、じゃあホントにいるんだ…! でも、皆知ってるって事は…公然の秘密って事…!?」

「絶対の禁忌って…響さんとか【ファイルXYZ】みたいに?」

 思わぬところで暗殺集団の存在を肯定され、思わず聞いてしまう葵たち。龍麻は黙っている。天野がどの組織の事を言っているのか解らないからだ。

 しかし天野は、つい自分が喋り過ぎたと悟って慌てて口をつぐんだ。なにぶん、東京の存亡から世界の命運に関わるような闘いに僅かでも関わった者として、【真神愚連隊】とは親密な彼女だ。それが彼女の口を滑らせたのだが…。

「…悪いけど、いくらあなた達でも、これだけは言えないわ。いいえ、関わっては駄目よ。世の中には知らない方が良い事もあるの。――龍麻君なら、私の言いたい事が解ってもらえるわよね?」

「肯定です」

 あっさりと、龍麻は首肯する。龍麻がそう言えば、後の者も聞く。それで天野はほっとしたのだが――

「しかしながら、自分も天野殿にお聞きしたい。この東京に我々を狙う身のほど知らずがいるようなのですが、心当たりがありますか?」

「え…?」

「自分もこの東京を勢力下に置いている組織を三つばかり知っていますが、自分は彼らと敵対関係にはありません。ですが新興勢力となると、まだ自分の情報に含まれていないかもしれませんので」

「ちょっと待って…。狙われてるって、龍麻君たちが?」

 重要な事だろうと何だろうと、口調を変えないのが龍麻流である。天野は龍麻の言葉を反芻した上で問い返した。

「どうやらそのようです。手口は幼稚なのですが」

 それは、元対テロ特殊部隊の彼ならば【そう】取れるだろう。

 龍麻はひょいと手紙を差し出す。天野はむしろ慌てて手紙を受け取り、すぐに顔色を変えた。

「和紙に墨文字…! 噂には聞いていたけど…本当に拳武館が…!」

「拳武館ですか。それはないと思ったのだが…」

 余りにあっさりと紡がれた言葉だったので、それは天野でさえ理解するのに数瞬を要した。

「もうちょっと待って…。なんで龍麻君があの組織の事を知っているの!?」

「天野殿…。貴方まで彼らと同レベルですか?」

 次の瞬間、醍醐と葵と小蒔が叫んだ。

『危ない天野さん!』

「え…ッ!?」

 とっさに手を伸ばし、天野の頭の上に落ちてきたアルミ小鉢を受け止める醍醐。龍麻が「むう…」と唸る。

「なに…? それ…?」

 突然空中から出現したアルミ小鉢に絶句する天野。とりあえず醍醐たちは、引き攣った笑いで誤魔化した。

「ははは…気になさらないで下さい。――って、龍麻、お前、やはり何か知っているのか!?」

「龍麻…!」

「ひょっとしてひーちゃん、心当たりがあるのに黙ってたのッ!?」

 もしそうならば、いくら龍麻でも許せない。三人は凄い剣幕で龍麻に迫っていったのだが、龍麻は涼しい顔で言ったものだ。

「心当たりならば腐るほどある。だが、俺の知る範囲では、こんなのどかな手段を取るような輩は知らんのだ。ましてお前達に手を出した場合、俺の報復がどのようなものか、二流以下の連中でも知っている」

「……」

 そう言われては、戦慄と共に黙るしかない醍醐たちである。龍麻は滅多に【人間同士】の暗闘を仲間の目に触れさせる事はない。【力】絡みの事件以外で、彼がどれだけ手を血で汚しているか、京一たちでさえ知らないのである。

「…考えてみれば、龍麻君の存在自体が秘密の塊だものね。むしろ、あの組織を知らない事の方が不自然だわ」

「肯定です。…しかしながら、天野殿が【それ】を見て拳武だと思うのならば、そうなのでしょう。怖れながら、何か情報をお持ちでしたら教えていただきたいのですが」

 天野は一流どころのジャーナリストだ。この呼び出し状一枚から拳武館だと推論する事も、あるいは可能かもしれない。だが龍麻は釈然としないものを感じる。拳武館のやり方を知っている何者かの模倣かもしれないし、何よりも【あの】鳴滝が自分に喧嘩を売ってくるとは思えないのだ。

「いいの? あなたはともかく、葵ちゃん達にも相当の覚悟が必要よ」

「拳武が組織として敵対するつもりなら、殲滅するまでです」

 事も無げに言い放つ龍麻に、恐怖の一刷毛を感じる天野。彼女は見たのだ。【それ】を告げた時、確かに龍麻の口の端が笑いの形に歪むのを。

「それに、既に狙われている身です。ここで退いて逃げられるものでもありません」

「…解ったわ。私も詳しい事を知っている訳じゃないけど、全て教えるわ。――葛飾区にある私立拳武館高校。スポーツ、武術の推進高として全国に名高い高校よ。そして、日本の裏社会を陰から支配する最強の暗殺組織。決して私利私欲では動かず、仁義と忠義の名の下に、社会の悪を裁く…それが拳武館」

 高校が、暗殺組織…。いかにも小説的盲点に、葵たちは驚きを隠せない。

「それじゃあホントに、【仕事人】みたいな組織なんだ…」

「…確かに、そう見えるかも知れないわね。けれど、私たちジャーナリストの立場から言えば、彼らは許しがたい存在だわ」

「え!? どうして…!?」

 今日は天野の珍しい表情を良く見る日だ。彼女の顔はこれ以上ないほど、嫌悪と苦渋に歪んでいた。

「確かに、暗殺の対象は悪人に限定されているわ。そうしなければ、たくさんの人が不幸になるとも…でも、例えそうだとしても、彼らの【仕事】に関する報道はしてはならない。――その時だけは誰もが真実を隠蔽し、捏造した記事を発表するの。…実際、それが我慢ならず拳武館の実態に迫ろうとして、記者生命を奪われた人もいるわ」

 真実の報道…それを使命とし、理想とする天野にしてみれば、確かにこれは面白くないだろう。確かに真実を報道すれば色々と不都合も生じるだろうが、やはり真実を隠すという行為に理性や理屈よりも感情が先に立つのは当然の事だ。

「すると…その拳武館という組織は、国家公認の組織という事なのですか?」

 葵も醍醐も顔色が悪い。いくら対象が悪人とは言え、司法制度が整っている国家の公認で暗殺を行う組織が存在しているというのは…。

「そうよ。でもその立場は対等で、例え警視庁や防衛庁からの依頼でも、理に適わなければ突っぱねると聞くわ。勿論、内閣調査室や総理大臣の依頼でもね」

 それは龍麻も心得ている。だからこそ、【心当たり】から外れていたのだ。龍麻の所属していたレッドキャップスも、カウンターテロ以外に【アメリカの国益の為】にテロ組織や異常犯罪者集団などに積極的なテロルを仕掛ける暗殺組織だ。任務を選定するのはアメリカ国防総省で、この指令系統は絶対である。ところが拳武館は、事実上の最高権力者からの【命令】をも拒絶するだけの組織力があるのだ。

「でも…それじゃおかしいよ。確かに鬼道衆との決戦で多国籍軍を敵に廻しちゃった事もあったけど、あの件はもう片付いた筈でしょ? 今になってボクたちを暗殺だなんて…」

「そうよね…。【私たち】に組織的な危害が加えられたら、【ファイルXYZ】を公開すると言ってあるのだから」

 国家公認の組織だからと言っても、国際問題に関わるほどの度量はない。龍麻たちに手を出す事は各国諜報機関にとって禁忌事項となった筈だ。もしそれを日本政府【公認】組織が破った場合、事は日本だけの問題ではなくなる。

「ひょっとすると…あの噂が関係しているのかも。――龍麻君、拳武館の事をどれだけ知っているのか知らないけど、あの組織内で不穏な動きがある事は承知している?」

 少なからず、龍麻は驚いた。

「いえ、初耳です」

 これは本当である。歴史の陰で政府を裏から支えている組織はいくつかあるが、拳武館は間違いなく日本という国を構成する柱の一本であり、鳴滝がそのトップだ。その内部に不穏な動きなどあってはならない事なのである。

「そうなの…。記者仲間の間でも信憑性が問われている話なんだけど、拳武館で内部分裂と言うか、これまでの体制に対する対抗勢力が育ちつつあるみたい。――考えてみれば、むしろこれは当然の帰結かもしれないわ。強大な【力】を持ちながら、少ない報酬と厳しい戒律によって支えられてきた禁欲的ストイックな体制。【力】を持った者は増長する――これは龍麻君の言葉だったわね。噂では副館長が対抗勢力の中心人物で、何かと多忙な現館長の留守中に、報酬の額優先で拳武の理念に反する仕事を勝手に請け負っているらしいわ。そんな真似をするようになったのも、かなり有力な後ろ盾が付いたから。例の、三文字の組織ね」

 意図的に単語名を伏せた天野に納得の肯きを見せ、龍麻は天を仰いだ。心底呆れ返ったようだ。三文字の組織…【シグマ】だ。確かに拳武ならば、若くして非合法活動に手を染める人材を望める。後は、現状に不満を持つ者を探して仕事を斡旋すれば、手駒と資金を同時に手に入れられるという寸法だ。

「つまり、そのような技能を欲する権力と手を結び、金次第でなんでもするという事か。自分たちが禁欲的な館長に成り代わり、暗殺者たちを操る事で莫大な富と権力を得ようという魂胆か」

 醍醐にも不愉快な気分が伝染したらしい。彼は非常に難しい顔をしていた。従来の拳武館は、龍麻と同じく人々の生活を護る為に敢えて泥を被る組織だったと思われる。それが欲望に駆られ、富と権力に溺れようなどとは…。

「…なるほど。それならば納得できる」

 ややあって、龍麻が口を開いた。拳武の実体を一端でも明かすのは本意ではないが、既に仲間たちも巻き込まれているのだ。

「どういう事なの? 二つに分裂したのが確かとして、どちらが私たちを狙っているか分かったの?」

「最初から決まっている。俺に喧嘩を売るほど、あそこの館長は間抜けではない。仮に彼が俺を狙うとしたら、自衛隊から戦車師団を出させるさ」

 それは、葵たちには激しく同意できる事である。ただ、【普通】の戦車師団を出して龍麻を倒せるだろうか…? とか、かなり失礼な事も考えてしまうのだが。

「彼…? 龍麻君…拳武館の館長を知っているの?」

 龍麻ならば有り得ない話ではない。天野は心中気負い込んだが、葵の疑問がそれを押し留めた。

「すると、誰かが大金を払って私たちの暗殺を依頼したっていう事になるわ。一体誰がそんな事を? …少なくとも【ファイルXYZ】の事を知っている人じゃないでしょ?」

 葵の着眼点は極めて重要だ。世界が存続してこそ儲け口のある軍産複合体ならば、今更龍麻を暗殺するのは都合が悪い。世界が疑心暗鬼から崩壊したら、商売相手がいなくなってしまうのだ。 

「…さもなくば、世界がどうなろうと知った事ではない奴か、真性の大馬鹿か…。まだ情報が足りんな」

 今、龍麻たちを殺すメリットがないとすれば、暗殺する理由もない訳で、そうなると訳が解らなくなってくる。龍麻が将来脅威になると判断したにしても、その生死が世界の運命に関わってくるとなると、とりあえず静観するのがベストだろう。また、それを狙って龍麻も【ファイルXYZ】を切り札にしたのだ。

「そうね…私の方でも少し調べてみるわ。拳武館を密かに追っている記者は東京にいくらでもいるし、私も人脈にはちょっと自信ありよ。あなた達の為になるなら、多少の無理も平気よ」

「それは拒否します」

 ありがたいと言えば涙が出るほどありがたい天野の申し出であったが、龍麻はきっぱりと拒否した。

「龍麻君?」

「そこまで情報がいただければ十分です。天野殿はこの件から手を引いてください。――こういう事は、専門家に任せておいてください。誰も何も知らぬまま、事件は解決します」

「でも…!」

「裏の世界にもルールはあります。醜い獣同士の食い合いに表の人間が介入する余地はありません。それとも――俺の存在も許せませんか?」

「そ、そんな事は…………ないわ…」

 思わず声を大きくする天野。――その顔には不用意な事を言った事への後悔が滲んでいた。悪を裁き、報道を捻じ曲げる拳武館と、カウンターテロを主眼としながら積極的にテロ組織を殲滅するために作られたレッドキャップス…。どちらが正しく、どちらが間違っているとは決して言えない組織。人を殺す事を悪だと定義したならば、多くの死を振りまく者を殺す事も悪となる。ならば先に人を殺し【悪】を為した者を、誰が如何様にして裁くと言うのか? 【毒をもって毒を制す】――それを否定したら、人はどうやって誰かを、自分を守るというのだろう? 

「今のところ、人類は【真実】を、他人を傷つける為の口実にしかできません」

 龍麻は静かに言った。

「しかし、いずれ【真実】を自らのより良い成長の材料とする日も来るでしょう。――その時まで、我々のような存在は必要です」

 それが話の終わりを告げる合図のように、龍麻は敬礼した。

「事件は今夜中に片付きます。それまでは天野殿も身辺に注意してください」

「………解ったわ。龍麻君がそう言うのならね」

 それを口にするまでに若干の時間を必要としたのは、ジャーナリストである天野ならば仕方のない事であったろう。しかし、この世には本当に、知らぬ方が幸せという事実がいくつもあるのだ。この緋勇龍麻、元レッドキャップスの少年が関わってきた事件は、その全てがこの世の常識を軽く覆す爆弾のようなものだ。彼が関わる事件は、世に知らせるべきではない――天野は自分にそう言い聞かせた。

「感謝します。…よろしければ、ラーメンなど御一緒にいかがですか?」

 それも彼なりの感謝の表現だろう。しかし天野は首を横に振った。

「んー、ゴメンね。今日はちょっと先約があるのよ」

 これはプライベートな話題なので、天野も言葉遣いを柔らかくする。先約で真神に用があるとすれば、マリアとでも約束しているのだろう。

「そうですか。それではお気を付けて」

「…あなた達もね。――必ず、また会いましょう」

 天野はぐっと親指を立てる。グッドラック。再会の誓いだ。

 彼女の後ろ姿を見送り、龍麻たちは校門を出た。

「…天野さん、大丈夫かしら?」

「心配あるまい。天野殿もプロだ。引き際は弁えている。それよりも、我々は今夜が正念場だ」

 龍麻の言葉に、知らず、顔つきが真剣になる。

 呼び出しを受けたのは龍麻たち四名。亜里沙の安全を最優先に考えるならば、他の仲間たちに連絡を取る訳には行かない。拳武館の組織力は、やはり並ではないのだ。

「そうだな。今夜の件は俺達だけで何とかせねばならない。だが、四人揃っていればきっと何とかなる。――こういう台詞は俺向きではないのだがな」

「ホントなら五人揃っていれば、なんだけど…。――なんて弱気になってたら駄目だよねっ。景気付けのラーメン、早く食べに行こッ!」

 今、それを悩んだところで仕方ない。英気を養い、今夜の闘いに備える為に自分たちを奮い立たせた醍醐たちである。

 その一方で、龍麻は腕時計を見た。

「…どうしたの、龍麻?」

 一人、付いてこない龍麻に気付き、心配そうに彼の顔を覗き込む葵。

「うむ…。お前たちはラーメン屋に行け。俺は今夜の装備を整える。ついでに、心当たりに根回しをしておく」

「根回し?」

「そうだ。政府公認の組織とは言っても、必ずウィークポイントがあるものだ。――大きな組織を相手にする時には必要な処置だ。任せておけ」

 どこか不思議そうな顔の醍醐たちのその場に残し、龍麻はコートを翻しつつ自宅方面へと去っていった。

「何か…変だね、ひーちゃん」

「うむ…。相手が拳武館だと判ってから、少し様子がおかしいな。拳武館の館長とは知り合いのようだが…それ絡みか?」

「…大丈夫でしょう。龍麻なら。…万全な状態で事に当たるのはいつもの事だし」

 そう言って、葵はふと覚えた違和感を否定する。大丈夫…だとは思うが、奇妙な不安を頭の片隅で覚えている。それは、醍醐も同様だった。

「今夜は…長い夜になりそうだな…」











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