
第壱八話 餓狼 2
墨田区、白髭公園 一八一五時。
「ここら辺は、あの時以来、エルの散歩コースになっているのよ」
ふむ、と顎に手をやる龍麻。
「舞子か裏密がいれば良かったな。幽霊から情報が得られるのだが」
葵が昏睡状態に陥った事件の時、舞子はこの周辺にいる幽霊と会話して、龍麻たちを驚かせた事があった。あの時も幽霊の情報から、主犯である嵯峨野と亜里沙の居所を突き止めたのだが、今回もそれがあれば捜索の幅が広がる…と思った龍麻である。しかし残念な事に、舞子は少々やばい方面の急患が入っているとかでどうしても抜けられないらしい。裏密は得意の占いで探すと言い、霊研にこもっている。
「それも一理あるが…前来た時よりはずっと空気が軽いぞ」
「そういやあ…。この前の事件の時には東京中の怨念が集められたんだろ? その時に一緒に解放されたんじゃねェのか?」
なかなか鋭い京一の指摘である。以前はかなり明るい時間帯に来たにもかかわらず、醍醐は幽霊の気配にビクビクしていたのに、日が短くなった為にかなり暗くなっている中、彼に脅えは見られない。
「う〜ん、それはそれで良い事なんだけど…。ねェ藤咲サン。エルがいなくなったのって、いつ頃?」
「ん!? ああ、寝る前に見た時にはちゃんといたから、多分、夜中か明け方頃じゃないかと思うんだけど…」
「…仮にいなくなったのが深夜零時として、もう十八時間か…」
何気なく呟き、醍醐は龍麻を見た。このような時は龍麻の推理能力に頼るのが定着してしまっている。だが、可能性をこうして述べるのも重要だ。
「いくら何でも呑まず食わずで十八時間は辛いだろう。やはり、誰かに無理矢理連れて行かれたのかも知れんな」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 誰が何でエルを攫ったって言うのさッ!?」
「…現時点では一番可能性が高い推理だ」
考えがまとまったか、龍麻が口を開く。
「現場に残っていた血痕がエルのものか人間のものか分かれば、もう少し詳しく推理できるが…。そもそもエルはボクサー犬としては温和で賢い。気に入られて連れて行かれてしまう可能性もゼロではない。だが血痕という事を考えると…」
ここで一旦、龍麻は言葉を切った。一同の注目を集めるのではなく、慎重に言葉を選んでいるようだ。
「亜里沙。昨夜、銃声を聞いたか?」
「え!? ――ああ、昨夜の事件。…そう言えば現場はうちの近くだけど、銃声なんて聞いてないよ。それが何か…」
「昨夜の事件――被害者は刃物で斬殺されたそうだ」
「ええッ!?」
驚いたのは亜里沙だけで、京一たちは「あ…!」と声を上げる。出掛けに聞いた、アン子の話だ。公式発表では流れ弾に当たったとされているが、アン子からの情報では刃物によるものらしいと。家が事件現場に近い亜里沙が銃声を聞いていないという事は、アン子筋の情報を肯定するものになる。
「死体を見ていないから何とも言えんが、銃によるものとは思えない血痕という事になれば、それこそ大量の血痕が残っていたのだろう。と、なれば凶器は小さなナイフなどではあるまい。まず短刀以上…刀が使用された筈だ。そしてよほど無頓着な者でない限り、血糊を付けたまま刀を鞘に納めるような真似はするまい」
「…そりゃそうだ。下手すりゃ血が固まって、抜けなくなるもんな」
「その通り。犯人が被害者を斬殺した後、現場から離れる事を優先したとすれば、エルの失踪もあるいは説明が付く。――血臭を嗅いで吠えぬ犬はいない」
勿論これは推理であり、可能性の一つであるが、それ以上は龍麻も口にはしなかった。自分がその犯人だった場合、血臭を嗅ぎ付けて吠える犬は障害でしかない。わざわざ連れ去る必要もなく、犬も始末するだろう。
「それじゃひょっとして、昨夜の犯人がエルを連れてっちゃったって事もありって事?」
「――可能性の一つに過ぎん。まずは二人編成で別れて捜索。――各自時計合わせ。…三…二…一…よしッ」
少々大袈裟だが、これがないと締まらない。全員の時計を正確に合わせると、次は編成だ。
「龍麻。これから暗くなる一方だし、男女一組に別れた方が良いと思うが…」
「うむ。それではジャンケンで――」
龍麻が珍しくそんな雑な編成をしようとしたところで、ささっと葵が龍麻に、小蒔が醍醐に引っ付いた。
「………」
京一と亜里沙が、やれやれといった風情で肩を竦める。
「これで決まり――だな」
「…再集合時刻は二〇〇〇時。場所はこことする」
『了解!』
全員が声をハモらせ、次いで亜里沙が声を上げる。
「あ! あたし、一旦家に戻って救急箱とエルの餌を持ってくるよッ。怪我をしてるかも知れないし、お腹も空かせてるだろうからさッ」
ぱっと身を翻す亜里沙であったが、その腕を京一が掴んだ。
「二人編成(だろ、藤咲?」
それは作戦通りであるし、彼の純粋な厚意から出た言葉なのだろうが、本人の普段の素行から考えると、そうは取ってもらえなかった。葵と小蒔が即行で編成を決めたからこの組み合わせになったにも関わらずである。
「いくら地元だからって、女の一人歩きはやばいぜェ〜ッ――とまあ、冗談はさて置き、昨夜の事件の事だってあるんだ。用心に越した事はねェだろ? な、ひーちゃん? ――って、なにヒソヒソやってんだよ?」
龍麻は何やらコートの内側から取り出したものを亜里沙に渡し、使い方を説明している。
「――と、これで引き金を引けばOKだ。このカプセルカートリッジには熊でも瞬時に眠らせる強力な催眠ガスが仕込まれている」
「うんうん。なかなか面白そうな代物じゃない」
【対京一用】にクロスマン・ガスピストルを渡される亜里沙。これならばたとえ京一であっても良からぬ事はできまい。
「ひーちゃん! なに妙なもの渡してやがんだッ!」
「あははッ、あんたの日頃の行いがそれだけ信用されてないって事だよ。――じゃ、行こうか」
「チッ、みんなして俺をいじめやがって。こんな品行方正なこの俺をッ」
しかし、立ち直りの速さも天下一品である彼は、
「まあ、そんな訳だ。美里も小蒔も油断するなよ。俺と違ってひーちゃんも醍醐も猫かぶってやがるからな」
「どういう意味だッ!?」
醍醐が真っ赤な顔で食って掛かり、ふと、表情を改めた。京一がぼそっと、こんな事を言ったからだ。
「じゃあな、気を付けろよ」
普段の彼は、絶対にそんな事は言わない。それを言うのは龍麻の役目であって、彼は最前線に立って敵と向かい合うだけ。背後の事は仲間に任せっきりなのだ。
「…珍しいな。お前がそんな事を言うのは」
「ん!? ――たまにゃあ良いだろがッ。実際、物騒な世の中だろ」
「うむ…」
納得したのかしないのか、首を捻る醍醐を残し、京一は「じゃあな」と告げて亜里沙ともども去って行った。
「あらら、ホントに二人で行っちゃったよ。京一ってば、どういう風の吹き回しだろッ!?」
「もう…京一君だって本当はとても優しいから、亜里沙の事が心配だったんでしょう。いつも強気な亜里沙が私たちにこんなに弱いところを見せた事なんてなかったし」
「う〜ん…そうかなァ? なんか、下心がありそうだけど…」
そう言って、男性陣を見やる小蒔。しかし男性陣はどこか妙な雰囲気で、二人が去っていった方を見詰めている。龍麻は目元が見えないから分からないが、醍醐はどこか厳しい視線である。
「だ、醍醐クンッ。いくら京一だって藤咲サンには敵わないから、大丈夫だよッ」
努めて明るく言うと、醍醐ははっとして視線を戻す。
「そ、そうだな。では、俺達もそろそろ動くとするか」
「…肯定だ」
明らかに様子のおかしい二人に、小蒔は不安そうな顔で「大丈夫?」と問う。
「勿論だ。では龍麻。俺と桜井は向こうの通りの方を見てみようと思うが」
「うむ。我々は公園内から捜索範囲を広げるとしよう」
この辺りは男女の機微の違いか? それぞれもとの雰囲気を取り戻した龍麻と醍醐に、葵も小蒔も首を傾げながらも付き従って動き出した。
そのため、龍麻が洩らした言葉は、誰の耳にも届かなかった。
「…今夜も、月が紅いな」
「エルーッ! エル――ッ!!」
街灯の明かりもいささか頼りない中を、龍麻と葵はエルの名を呼びながら歩いていた。もっとも、声を張り上げているのはもっぱら葵で、龍麻は大声を出すと極めて威嚇的な声になってしまう為に彼女によって黙れと命令されていた。いくらエルが龍麻にも懐いているといっても、テロリストに投降を呼びかけるような声で呼ばれては出てこないだろう。
「…やっぱりもう、この辺りにはいないのかしら? 亜里沙が一日中探し回ったって言うし…」
「…まだ三〇分ほどだ。弱音を吐くには早いぞ」
「ええ…でも、私たちに見付けられるかしら…?」
既に二度ほど携帯電話に仲間たちから連絡が入っているが、いずれも【捜索中】という事で、エルを発見したというものではなかった。彼らには各々の自宅周辺と、墨田区外を当たってもらっている。雨紋は後輩の手を借り、如月も裏の情報網に手を廻すという入れ込みようだ。何と言っても、エルも【仲間】なのだから。
「案ずるな。エルは生きている。見付けるには我々の足が重要だ」
「うん…。そうね。弱気になってちゃいけないわ。ごめんなさい」
再び並んで歩き出す二人。声を出すのは葵だけだが、龍麻は龍麻で索敵用の【気】を展開し、四方を走査している。今の彼は半径二〇メートル以内の気配なら鼠の移動も捉えられるから、たとえエル可愛さに家の中に連れ込まれていても解る筈だ。
いつしか二人は公園の外れから、住宅街を移動していた。
さすがに住宅街で大声を出す訳にも行かないので、捜索は龍麻頼りである。一応、葵も視線だけは周囲に走らせてみるのだが、こんな時には彼女の【力】は何の役にも立たない。弱気になるなとは言われたものの、周囲はもう真っ暗だし、やはり不安は募る。
一方、龍麻は別の意味で焦燥感を覚えていた。
改めて状況を整理してみると、どう見てもおかしな部分が多いのである。
エルが昨夜の事件の犯人に吠え掛かったのならば、事のついでにエルを始末しても良かった筈だ。あるいは最初から相手にせずとも。――そこに拳武館が関わってくるとなると、話は微妙に複雑化する。昨夜の事件が本当に拳武館によるものならば、証拠の隠滅は完璧に行われる。犯人に吠え掛かった犬を始末すれば、それも当然のように警察への圧力の対象になるから、むしろ行方不明という形を取る為に連れ去る可能性は充分に考えられる。それとて、事件当日に現場の近所から犬が行方不明になったとすれば近所の噂にもなろうから、三日もすれば解放されると思われる。まさか犬に事情を聞く訳にもいかないからだ。
しかし、暗殺という非合法世界に身を置く者たちが、そもそもそんなドジを踏むか? それが龍麻の疑問であった。
龍麻ならば、標的の行動ルート、始末する場所、逃走ルートを事前に把握しておく。特に犬を飼っているところなどは極力避けるようにする。動物は人間が思っている以上に、争いの気配や殺意に敏感だ。鳥の囀り一つ、虫の声一つでも、そこに暗殺者が潜んでいると声高に唱える事がままあるのだ。
そして、暗殺の手口。月が満ちている状態で得物に刃物を選ぶ事自体は間違っていない。月の満ち欠けは人間のバイオリズムに深く関係しており、満月の晩には【月の狂気(】という言葉があるように、血管が拡張している為に刃物による傷でたやすく失血死する。ただし、精神も高揚している為、思わぬ反撃にも備えねばならない。
昨夜の事件の犯人が暗殺者だと仮定した場合、プロにあるまじきミスをいくつも重ねた事になる。警察に圧力が掛けられると言っても、ある程度の限界はあるのだ。犯人は恐らく嬲り殺しの最中に被害者に掴み掛かられ、爪に服の繊維を残された。そして返り血も浴び、抜き身の刀から血を滴らせながら移動している。――どう見てもプロの手際ではない。
「龍麻、そろそろ時間になるわ」
「…うむ。一旦、引き揚げねばならんか」
決して闇雲に探している訳ではないのだが、様々な要素が絡み合って捜索を難しくしている。あわよくば醍醐組か京一組がエルを発見している可能性もあり、当初の予定通り、龍麻たちは公園に戻る事にした。
戻りの時間も計算に入れておいたのだが、龍麻と葵は当初よりも早く公園まで戻ってきてしまった。現在一九五〇時。十一月に入った為、夜風は身に凍みる。
「まだ誰も来てないわ。…もう少し、ゆっくり戻ってきた方が良かったかしら?」
「コース上に手がかりはなかった。早めの方針変更が重要だろう」
待つ事一〇分と少し。白い息を吐いている葵に、買ってきた缶コーヒーを渡した時、醍醐と小蒔が戻ってきた。
「済まんな。ちょっと遠くまで行ったものだから遅くなった」
「構わん。だが、収穫はなしか」
「ああ、残念ながらな」
コーヒーを受け取り、礼を言う醍醐。小蒔も「さっぶーッ」と身を震わせながらコーヒーに口を付ける。こういう時、指揮官の計らいが心地良い。
しかし、龍麻が買ってきたコーヒーは二本余っていた。
「あれ? そう言えば、京一と藤咲サンは?」
「…まだ戻っていないわ。約束の時間から十五分過ぎているけど…」
知らず、顔を見合わせる四人。今回は捜索任務だから龍麻も時間にうるさく言わないようだが、日頃から規律にうるさい彼の事である。京一も亜里沙も龍麻の【懲罰】の怖さは知っているから、そうそう約束の時間を忘れたりしない筈だ。
「葵。二人に連絡だ」
「…了解」
葵はポケットから携帯電話を取り出し、まず京一のアドレスを呼び出す。
それを何気なく眺めていた醍醐であったが、ふと、顔に月光が差したので空を見上げた。冷たい夜風に雲が切れたのである。
「…今夜は満月か。何か…嫌な色だな。まるで…血の色のようだ」
「…詩人だな、醍醐」
「…柄じゃないのは解っているさ。だが、なんとなく胸騒ぎがする」
軽く肯き、龍麻は葵を見た。
「どうだ?」
「それが…繋がらないの。京一君は時々充電を忘れる事があるけど、亜里沙まで繋がらないなんて…」
「…珍しいよね。藤咲サンってバッテリー切れは注意してる筈だけど」
亜里沙は【真神愚連隊】の中では最も交友関係が広い。そしてモデルのアルバイトをしている事もあり、携帯電話は必須アイテムだ。当然、日頃からバッテリー切れには気を配っているだろう。
「場合が場合だけに、今日は特別かもしれないがな。現に真神にも直接来たのだし」
醍醐が重々しく言う。先程の【胸騒ぎ】が響いているのだろう。
「もう少し…待ってみよう…」
そんな醍醐に寄り添うように小蒔もベンチに腰掛ける。そして彼女も、何気なく空を見上げた。
「本当に…嫌な色だね。見ていると…気分が悪くなってくるよ」
「……」
それから一時間待ち、龍麻は葵と小蒔をタクシーで先に帰らせた。更に一時間後、醍醐も帰らせる。彼の家には久しぶりに父親が戻っているのだ。そして更に二時間後――
「…確かに、嫌な色だな」
頂点を過ぎ、下り始めた月を見上げ、龍麻は静かに呟いた。
結局、京一と亜里沙はこの日を境に姿を消したのであった。
墨田区、白髭公園から約三キロ離れた廃虚 一九四五時。
「…チョイと遠くまで来過ぎたか。そろそろ約束の時間だな」
「う、うん…」
返事はしたものの、亜里沙は周囲をキョロキョロと見回している。京一が時間を指摘しなければ、ずっとこのままかも知れない。
龍麻たちが気持ち良く手助けしてくれたものの、やはり亜里沙は不安でたまらないのだ。普段の彼女ならばかわいげのない事を言って自分を鼓舞するだろう。しかし今はそれさえもできず、不安を無防備に表情に出している。見ている京一の方が痛々しくなるほどだ。
「…あまり根を詰めるなよ。こうして俺達だって来てるんだ。エルは無事だって、ひーちゃんも言ってたろ?」
「う、うん…」
相変わらず、亜里沙は生返事である。
「ひーちゃんは下手な憶測や慰めなんか言わねェ。あいつが無事だって言ったら、本当に無事だぜ。今回の事だって色々分析した上で言ってるんだ」
「うん…。解ってるよ、京一。頼りにしてる」
やっと、亜里沙は京一を振り返った。
「そうそう。困った時はお互い様だ。いくらでも頼って良いんだぜ。――そこの廃ビルでこの辺は最後か。じゃ、そこだけ覗いて戻ろうぜ」
「そうだね…。ああ、そうしよう」
以前、龍麻が廃ビル一軒を倒壊させてもほとんど騒ぎにならなかった通り、この辺りは再開発の波から取り残されているゴースト・タウンだ。それを一軒一軒覗いていた京一たちだが、一応このビルで最後である。
「あン!? ここはまだ誰か住んでるのかよ」
一見すると五階建ての廃ビルで、三階目までが廃墟同然だが、四階と五階にはいくつかの表札がある。ゴミの集積所にも、分別の気遣いなど一切していないゴミ袋がちらほら置かれていた。
「まあ、ここまで来たんだ。ちょっと覗いていくか」
そこに足を踏み入れた時、京一は奇妙な違和感を覚えた。
「!?」
廃虚にありがちな、すえたような匂いと黴臭さ。ここにもそれがあったが、他のビルと違い、ここには何か別の匂いが混じっている。勿論それは、今の京一だからこそ感じ取れるものであったが。
「…どうしたんだい?」
「いや…なんでもねェ」
上からチェックしようという事で、三階部分の入り口を閉ざしている羽目板を押す京一。するとこれはあっけなく開いた。次いで匂いも変わる。廃虚独特の、剥き出しのコンクリートが放つ匂いの中に、芳香剤の香りが混じっている。それは上の階から漏れてくる匂いではなく、明らかにここの環境を整えようとしている意図が感じられた。
(浮浪者でもいやがるのか? それにしちゃあ、空気が変だ)
ゴミの分別もしない住人が、よその階にまで芳香剤を置くか? 一応用心に、木刀を袋から出す。奇妙な焦燥感はそれだけでぴたりと収まった。どんな状況であれ、剣士は剣と共に生き、剣と共に死ぬ。その相棒を手にした時、心が澄み渡らねば剣士など名乗れない。
だが、この空気は何だ? 妙に…張り詰めている。
その時かすかに、犬の鳴き声が聞こえた。
「京一! 今の、聞いたッ!?」
「ああ! 確かに犬の鳴き声だった」
「エルッ! エル――ッ!!」
暗がりに亜里沙の声が木霊する。すると、応えがあった。嬉しそうな犬の鳴き声が奥の方から響いてきたのだ。
「あっちだ! 行こうぜ!」
動くものは何もかも片付けられ、虚ろなホールのようになった部屋の柱に、見慣れたボクサー犬の姿が見えた時、亜里沙は思わず涙を溢れさせた。
「エルッ! 無事だったんだね!」
『キュウゥ〜〜ン』
こちらも再会の喜びに震えているのか、エルは愛くるしい声を出す。亜里沙の手に鼻面を擦り付けつつ、京一にも嬉しそうに尻尾を振りつつ吠えて見せる。
「おお、おお、良かったな、エル。――って、お前、怪我してんじゃねェか!?」
「ほ、ホントだ! そんなに深くないみたいだけど…クソッ! 誰がこんなコトしたってんだいッ!」
血は既に固まっているが、エルは傷付いた後ろ足を庇っていて痛々しい。こんな何もないところに繋がれていて、どうやら丸一昼夜呑まず食わずだったようだ。亜里沙がビーフジャーキーとペットボトルの水を差し出すと、さも嬉しそうに尻尾を振ってがつがつとそれらを食べた。
「まあ何にせよ良かったぜ。エルが見つかって」
「うん…。ありがとう、京一」
「ヘヘッ。それじゃ皆のところに――ッ!!」
その瞬間、京一は前方に身を投げ出した。
柔道で言うなら前回り受け身を取り、膝を突いた姿勢のまま木刀の斜めに構える。先手必勝の彼には滅多にない、守りの型。しかし――誰もいない!?
「京一…!?」
亜里沙には何が起こったのか解らない。彼女には京一が突然飛び出したようにしか見えなかったのだ。
(何だ今のはッ!? 確かにぶっ殺されそうな気配がしたが…!)
声を出す事さえ隙になると言わんばかりに、京一は前方の闇を見据えた。彼とて伊達に【真神愚連隊】の切り込み隊長をやっている訳ではない。確かに今、何かが自分を襲ったのを彼は感じた。敢えて言うなら、日本刀が振り下ろされてきたような強烈な殺意だ。
「…藤咲。エルを連れてここを出ろ…!」
「な、なによ突然…! どうしたってのさッ」
「いいから早く!」
こんな京一の剣幕を、亜里沙は見た事がない。まさかと思いつつももう一度彼の顔を見やる。そこにこびりついているのは大量の脂汗と、凄まじい緊張であった。
「わ、解ったよ…!」
こんな状態の京一に逆らえる筈はない。亜里沙は手早くエルを繋いである鎖を解いた。その時である。
「へえ、俺の気配が解るとは、少しは楽しめそうだな」
闇を切り取り、それが人の形を成したかのように、一人の男が暗がりから姿を現わした。
今の殺意はこいつが放ったものだ――京一は直感的に悟った。
「なんだ、テメエ…!」
油断なく立ち上がり、男を見据える京一。
えらく老けているように見えるが、軽く引っ掛けているのは濃紺の学生服である。削げた頬と細い三白眼に加え、ポマードで塗り固めたオールバックの為、余計に老けて見えるのだ。しかし男をただの老け面の学生と呼ぶにはあまりにもそぐわないものを手にしていた。――黒鞘の日本刀である。
「俺様の晩飯をどこの馬鹿がかっぱらいに来たと思ったら、こいつはとんだ幸運だぜ。カモが葱背負って来やがった」
「晩飯…? ――エルの事かいッ!?」
男の不穏当極まりない言葉に亜里沙が逆上する。今日一日中、仲間たちの手を借りてまで探したエルが、晩飯…? 亜里沙にとっては家族同然…家族そのもののエルを…!
「フン…。その犬っコロ、事もあろうに俺様に吠え掛かりやがってなあ。お陰で仕事が台無しになるところだったぜ。食っちまおうかと思って引っ張ってくれば、とんだ獲物が釣れたって訳だ」
「…そうかい。テメエが昨夜の殺しの犯人かよ」
京一の木刀が白く輝き始める。それを見て男はにやりと笑った。
「ほう。テメエも剣掌使いかよ」
「…ッッ!?」
この男…【剣掌】を知っている!? 現代のスポーツ剣道の世界では絶対に見ることができず、古流の形を残す剣術にのみ細々と伝えられるそれを…。この男、何者だ!?
「あの澄ましヅラが気にする訳だ。――まあ良い。蓬莱寺京一、まずはテメエを片付けるとするか」
「…テメエ、なぜ俺の名を…」
「答える義理はねェなァ。どうせすぐにおっ死ぬんだ」
ユラッ! と赤く揺らめくオーラが男の全身を覆う。だが、それはこれまで対峙した【陰気】をまとう者とは何かが異なっていた。血のような赤…否、どす黒い紅のオーラである。
「――なんだ!? この【気】は…!」
【陰気】は生命に対する【負】のエネルギーだ。それを発する者の周囲では気温が下がり、気力が萎え、活力を失う。だがこの男の放つ【陰気】は、京一の皮膚を容赦なく超低温の炎で炙った。
男が刀を抜いた。
折りしも雲が切れ、赤い月が姿を現す。破れた窓から月光が差し込み、白刃を夢のごとく闇に浮かび上がらせた。――本身だ。芸術レベルまで達した殺戮兵器の冷たい殺気が結晶している。
(…コイツ…ッッ!)
背筋を氷の蛇に這われ、京一の肌が粟立つ。――恐怖、だろうか? 本身の日本刀は勿論脅威であるが、それ以上に男の眼、口元の笑い、全身を取り巻く雰囲気…。それら全てが京一の癇に障った。目の前の男が倒すべき…否、全身全霊で倒し切らねばならぬ怨敵であるかのように。
――何が来る!?
男は、その場で刀を横薙ぎに払った。
次の瞬間、京一の背後から強烈な衝撃が襲いかかった。
「――ッぐはァッッ!!」
まったく予期しない死角からの攻撃! 京一はまともにそれを食らい、剥き出しのコンクリートに叩きつけられた。
「ッ京一!!」
亜里沙が叫ぶ。彼女も京一もとっさに背後を振り返ったが、もとよりそこには誰もいなかった。
「――なんだ、今のは…ッ!?」
そんな二人の反応を見て、男は刀を肩にかけ、面白そうに笑った。
「【鬼剄】を見るのは初めてかい? ボーヤ」
「【鬼剄】…だと!?」
男は肩に乗せた状態から刀を振った。腰の捻りも体重も乗らない、軽い軽い、腕だけの動き。たとえ本身の刀でも、人を斬るには足りぬ一撃…。しかし――
「ぐわッ! がはァッ!!」
今度は立て続けに二回、またしても死角から衝撃波が襲ってきた。【気】によるガードを固めようにも、攻撃の来る瞬間がまったく判らない。
「馬鹿な…! 【気】が読めねェ…!」
あらゆる攻撃を行う時、人は必ず肉体的な初動の他に、【気】が動いている。特に中国拳法などでは【気】を読む訓練を重要視し、例えば太極拳の推手…二人一組による練習法では片手の甲同士を触れ合わせ、相手の筋肉の動き、目の動きなどから相手の攻撃を受け流す事から始め、最終的には目隠しをしたまま、相手と接触しない状態で相手の動きを読むという段階まで目指す。これを可能とすれば、相手の動きは全てアクションを起こす前に読み取る事ができ、攻めるも守るも自由自在、果ては引き金を引くアクションの前に行動を起こす事で弾丸の射線をも見切ることが可能だ。――龍麻のように。
しかし目の前にいる男は、そのアクションを悟らせなかった。いや、アクションそのものは読めるのだが、そこから派生する攻撃…【気】による斬撃がまったく読めないのである。京一の脳裏には、修学旅行先で出会った、ヘアバンドの似合う少女の面影が浮かんでいた。
(コイツは…マジでヤベェ…! )
裂けた脇腹から熱い血が噴き出してくる。気配さえまったく悟らせぬというのに、【気】のガードすら打ち破る攻撃が来るのだ。しかもこの傷――かなり深い。
「どうした? 威勢が良いのは口だけかァ?」
「――嘗めるんじゃねェッ! ――【地摺り正眼】ッ!!」
地を裂いて走る【気】の刃! だが――男はひょいと身をかわしてみせた。
――そこまでは読み通りだ。本命は次の攻撃!
「【剣掌奥技・円――空――旋】――ッッ!」
奥技を見せ技に相手の体勢を崩し、更なる奥技で確実に仕留める二段攻撃! これまでこのコンビネーションでどれほどの強敵を倒してきた事か。しかし――
「――何ィ!?」
【地摺り正眼】をかわしたままの、絶対に力のこもらぬ姿勢から男は抜き身の刀を振り下ろす。京一の放った【円空旋】はそのエネルギーを真っ二つに断ち切られ、男の背後の壁を砕くのみに終った。
「クックック。なかなか大した威力だが、バレバレなんだよ!」
シュッ――またしても虚空を裂く日本刀。
「チイッ!」
とっさに背後を振り返り、木刀を縦に構える京一! 木刀に鋭い衝撃が走り、しかしもう一つの衝撃波が京一の裂けた脇腹に正確に吸い込まれた。――京一がそう動く事を予測しての二段攻撃だ。
血飛沫が飛び散り、京一が膝を突く。木刀を支えに辛うじて転倒するのだけは免れたが、それだけだ。
「京一! ――ヤロウ、よくも――!」
亜里沙の手から鞭が伸び、空中で蛇のようにのたうったのだが――
「ケッ、バーカ」
男の軽い斬撃。次の瞬間、鞭が三つに分断される。亜里沙はその瞬間を捉える事すらできなかった。そして――
「でェいッ!!」
亜里沙の死角から襲う【何か】を京一が打ち落とす。見えた訳でも感じた訳でもない。強いて言うなら、攻撃が来るとすれば【そこ】だろうという直感――当てずっぽうだ。
「――京一!」
使い物にならなくなった鞭を捨て、亜里沙が駆け寄ろうとするが――
「来るんじゃねェ! 藤咲!」
口から血を吐き散らしながら京一は絶叫した。
「お前じゃコイツにゃ敵わねェ! 逃げろォ!!」
「で、でもッ…!!」
膝をガクガクと揺らしながらも立ち上がる京一。脇腹から流れた血が埃まみれの床に染みを作っていく。決して浅手ではない。
「いいから早く行け…! ――行けってんだ!!」
男は薄ら笑いを浮かべながら向かってくる。今亜里沙がここにいても、邪魔になるだけであった。
「――解った。皆を呼んでくるから、それまで死ぬんじゃないよッ!」
威勢良く言い放ち、しかし振り返った時には唇を噛み、涙を堪えつつ走り出す亜里沙。自分にこれほど無力感を覚えた事など、彼女のこれまでの人生には片手の指ほどもなかった。
「フンッ! 逃げられると思ってんのかよッ」
やっと立っているだけの京一を無視して、出口に走る亜里沙に狙いを定める男。だが刀を振る直前、脇腹を朱に染めた男が割って入る。
「――女のケツを追っかけるのは後にしな。テメエの相手は――この俺だ!」
乱れる息を必死に整えながら、木刀を正眼に構える。無理矢理ではあっても、気息を整える事によって精神が研ぎ澄まされていく。木の刃は己の肉体の一部となり、否、自分を刃そのものとする。
「――!」
京一の木刀に白い光輝が膨れ上がった。――【秘剣・朧残月】!
「ハッタリかますんじゃねェ! ――【鬼剄】!!」
朧に霞む光輝の中を突っ込んでいった京一に、見えぬ刃が四方八方から襲い掛かった。――そう来るであろう事は予測済み! ならば相手の思惑を上回るスピードで踏み込み、起死回生の一撃を――!
【武士道とは死ぬ事と見つけたり。修羅道とは倒す事と見つけたり。――お前はどっちだ、京一?】
『ばっ、馬鹿師匠! こんな時に出てくるんじゃねェッッ!』
ゼロコンマゼロゼロ――生死を分かつ凝縮時間に割り込む師匠の面影。そして振り上げた木刀の先にいる、唇の端を吊り上げて笑う、自分自身の姿――!
「――ぐがァァッ!!」
全身に斬線を刻まれ、血煙を上げて京一は床を転がった。彼の愛刀は空中へとすっぽ抜け、窓から外へとすっ飛んでいった。
「チッ、下ろしたてだってのによォ」
男は制服の胸元に手をやった。そこには鋭い裂け目が走り、その下の皮膚には極細の朱線が走っている。それが京一の奥技、【朧残月】の唯一の成果であった。
「まァ、なかなか楽しませてもらったぜ。そろそろおネンネしな、ボーヤ。――って、なんでェ。もうくたばっちまったのかよ」
仰向けに倒れた京一の目は既に光を湛えてはおらず、脇腹の出血も止まっていた。
「狸寝入り――って訳でもねェか。心臓も止まってやがら」
心停止…それは即ち、死! この男に、【真神愚連隊(】切り込み隊長(、蓬莱寺京一に、それがこうもあっさりと訪れるとは…!
しかし、男は京一を殺した事に、何の感慨もないようであった。
「さあて…あの女はどうしたろうな?」
人一人を屠りながら、血の一滴も付く事のなかった刃を納めた男は、あ〜あとあくびを一つして、その場を立ち去った。
月は、まるで京一の血を受けたかのように真っ赤に染まっていた。
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