
第壱八話 餓狼 1
最も恐ろしい悪徳は、自ら全てを知っていると信じていることから、
自ら人間を殺す権利を認めるような無知の悪徳をおいて他にはない
アルベール・カミュ 「ペスト」より
東京都新宿区、緋勇龍麻の自宅 二三〇〇時
月が出ていた。
赤い――血の紗幕をかぶせたような色の月である。月のさやけき晩は人も獣も浮かれ騒ぐという。人とも獣とも違う――闇に生きるものどもも。
だが、こんな晩はどうであろうか? 月が赤くて、なんとなく胸騒ぎがする晩は?
「…こんな晩かな? どこかで誰かがろくでもない事を考えているという晩は」
龍麻は読んでいた本を伏せ、窓辺から空を見上げた。
本は、雨紋から借りた、外人部隊パイロットを扱ったコミックであった。その中で傭兵の一人が言っているのだ。
【月が紅くて胸騒ぎのする夜は、どこかで誰かがろくでもない事を考えているのさ。…世の中、全部が】
同時刻、東京都内某所
「…三人とも、揃ったようだな」
陰鬱な声が、汗とアドレナリンの匂いを含ませた空気を震わせる。背広姿の男だ。三十代半ば…もっとも現実的な野望に燃える年頃である。
背広姿の足元で、畳がギシッと軋む。それを見て、背広姿の前にいた青年…少年の一人が眉をひそめた。
そこは、畳を敷き詰めた道場であった。壁に掛けられた【武】と【誠】の文字を見るまでもなく、畳には靴を履いたまま上がるものではない。しかし背広姿はそんな事、まるで気にしていないようであった。
「今回はお前たち三人で【仕事】に当たってもらう。これが、今回のターゲットだ」
シュ! と空気を切り裂いて数枚の写真が畳の上を滑り、三人の少年の前で止まった。不気味な事に、全ての写真が少年たちから見て正位置に、等間隔に並ぶ。そしてそれに写るのは、男が三人、女が二人。制服と校章から、同じ学校の生徒だと分かる。
「うへへへへへっ。次の獲物でごわすかっ」
下品を音声に変えたらこうなるであろう。そんな声を洩らしたのは、少年と言うには語弊がありそうな、剃髪の巨漢であった。超特大の制服でもその巨体を包む事はできず、分厚いだけの胸板と、無様に迫り出した腹が大きくはみ出している。脂肪層に弛みがないため一見すれば力士とも取れるが、力と共に格式を重んじる角界には、このような下品な声を出すものなどいないであろう。
「この制服は…新宿の真神か…」
ふん、と鼻を鳴らしたのは、これまた少年にしては妙に老けた感じのするオールバックの男である。【大人びている】のではなく【老けている】なのは、やけに尖った印象のある目元と、口元に張り付いた残虐そうな笑いの為だ。根っからの暴力好き…そんな表現がぴったり来る。しかもその男は、一振りの刀を携えていた。
「…それで、任務の内容は?」
背広姿に不快感を見せた少年が、感情のこもらぬ声で問う。それを受けて、オールバックの男が付け加えた。
「脅す程度にちょいと痛ぶるくれェでいいのかい? それとも、一生病院で天井見上げさせるのかい?」
シュボッという音がして、背広姿の咥えた煙草に火が点る。そのため、背広姿や三人の顔が闇の中にほのかに浮かび上がる。
「いや、依頼されている内容は抹殺だ。――我らが名に懸けて、確実に息の根を止めろ」
ヒュウ、と口笛が上がる。
「ぐへっ、ぐへへへヘヘッ。楽しくなりそうでごわす」
「ククッ。そいつァツイてる。また血が見られるぜ。――それに内二人は女…それも結構な上玉じゃねェか。――決めた! こっちは俺が貰ったぜ。殺す前にたっぷり楽しませてもらうとするぜ」
オールバックの男が取った写真には、長い黒髪の女生徒が写っている。
「お、おではこっちを貰うでごわすっ。ぐヘヘッ、こんな楽しい仕事は久しぶりでごわすっ」
下卑た笑い声を立てる二人とは対照的に、細身の少年は写真の一枚に視線を落とすや、軽蔑したような声を洩らした。
「下衆が。気楽なものだ…」
声はごく小さなものだったが、そのような人種が自分に対する侮蔑の言葉を聞き逃す筈がなかった。
「何だァ、テメエ。なんか文句でもあるのかァ?」
ただ一言が聞こえたと言うだけで、オールバックの男は刀の鯉口を切る。膨れ上がる殺気の凄まじさ。ただし、人を斬りたくてたまらないといった殺人者の愉悦が殺気を酷く汚している。およそ武道家の放つ殺気とは別物だ。
「別に」
涼しい顔で受け流す少年。再び写真の一枚に視線を落とす。――明らかに隠し撮りと思しき写真の中で、ただ一枚、カメラ目線でポーズを取っている少年の写真に。
「ところで、この仕事を引き受けたのは館長の御意向ですか? ――副館長殿?」
穏やかな口調ながら、小さな刺が含まれる少年の言葉に、副館長と呼ばれた男は口元を歪ませる。
「…貴様らは余計な事は考えずに、ただ、与えられた任務を速やかに遂行すればよい」
「では…もう一つ。この者たちの戦闘技能の情報を頂きたいのですが」
これには、少女の写った写真を眺めてニヤニヤしていた二人も眉根を寄せる。
「…余計な事は考えるなと言った筈だ。――私の言葉はすべて、館長のお言葉と思え」
質問には答えず、逆に有無を言わさぬ口調で恫喝とも取れる言葉を発する副館長。
「御意――」
少年はただ一言、そう言った。
そんな少年を忌々しげに眺め、副館長は少年の見ている写真を靴先で示した。
「今回の任務――特にこの男の抹殺を最優先とする。他の者はどうしようと勝手にするがいい。市民の巻き添えが出ようとも、その男だけは確実に抹殺しろ」
そして副館長は、道場を出て行った。
「へえ。好きにしていいってよ。ますます楽しみが増えたぜ」
「お、おでは、今から楽しみでごわす!」
相変わらず下衆な笑いを振り撒く二人の【仲間】から視線を逸らし、少年は踏みにじられた写真を見た。
長い前髪に目元が隠されていながら、不敵な笑いを浮かべ、撮影者に向かって真っ直ぐに指鉄砲を突き出す男。――これが二五〇倍率の望遠レンズで撮られた写真であるなどと、誰が信じるだろう。
(よもや、君と闘う事になろうとはね…。恐らく君は、僕がこの地上で最も闘いたくない男だよ。――緋勇…龍麻)
真神学園 三−C教室 一五四〇時。
「ふう〜〜〜〜むむむ…」
授業終了のチャイムが鳴り、いつものように【敬礼!】の挨拶が終って一〇分。龍麻は難しい顔で唸りつつ、忙しく電子ペンを走らせていた。
「…ダイヤの値段が上がってきているようだが、輸送に伴う保険料を差し引くと利率はむしろ落ちているな。この程度では建設関連株の下落は抑えられんし、やはり売り時か…」
この時季になると、部活に精を出す者はいない。授業が終ればすぐに家路に付く者がほとんどだ。受験勉強然り、就職活動然り、学校に残っている理由などないのである。しかし我らが真神の少尉殿は、そのどちらとも無縁で、今日も朝から勉強そっちのけで株式情報を分析している。そして今は、良くない材料(情報)の入った東京市場の値動きから、次のニューヨーク市場、ロンドン市場の動きを予測しているのである。
「とは言え、製造業も農業も軒並み下落。買い支えるのも限界が近いか。無能な政府官僚どもめ。ファンドを詐称する腐れ投資屋どもから第一次第二次産業従事者を守らねば、紙屑になった札束を握り締めて餓死するだけだとまだ解らんのか。――うむ。これと…これは売りに出す。買いは…これだな。売りで五〇〇万ドル出て、買いで四一〇万ドル。この九〇万は…増資用にしばらく寝かせておくか。格付け会社の詐欺商法に対抗するには、資金がいくらあっても足りんからな」
およそ高校生にあるまじきハイブロウな独り言を洩らし、ノートパソコンを閉じると、目の前に葵が立っていた。
「機嫌悪そうね、龍麻」
「おお葵。まだ残っていたのか?」
「ええ。生徒会の用事でね。ところで、何がそんなに不機嫌なのかしら?」
「どうという事はない。相変わらず、自分の手では何一つ作れぬ癖に傲慢な連中が暴れているだけだ」
「と、いう事は、また【プリティ・ウーマン】のリチャード・ギア? 改心する前の」
最近は葵も、経済の知識を身に付けて来ている。将来は教師を目指しているので、その辺の知識も必要だと考えているのだ。
「そういう事だ。最近は更にやり口が稚拙且つ露骨でな。有力投資家が結託してファンドを形成し、莫大な資金で株を押さえて現場に出もしない役員を送り込んでは、機密情報を横流しし、技術者を解雇しては海外の企業に斡旋して礼金をせしめ、会社の保有する資材、土地、工場などを売り払い、倒産前に格付け会社と結託して株価格を高騰させる一方で空売りもかけ、最後に役員が高額の退職金を持って逃げるケースが頻発している。多角経営で利益を出している会社も例外ではない。【物言う株主】とやらが【企業価値を高める】と称して利益を出している分野の独立を主張し、利益を上げていない分野の抱える資産その他を売り飛ばすというやり口が横行している。――そんな事を繰り返していれば、いずれ産業そのものが成り立たなくなり、人類そのものが滅亡する。金の亡者どもが宝の山に埋もれて餓死するのは一向に構わんが、その時には既に善良な人々は死滅しているだろう」
「投資とは企業を成長させ、科学や技術を発展させ、人々の生活を豊かにする為に行うものである――という事ね」
「そうだ。しかし遺憾ながら、俺もファンドの形を取って同じ手口を行使せねばそういう連中に対抗できん。真面目な労働者から見れば、俺も連中と同じ穴のムジナなのだ」
ふう、と溜息を付く龍麻。一高校生が世界経済の動きから人類の未来を憂いているという、珍しいを通り越してもはや冗談のような光景だが、葵は微笑した。
「それで、龍麻の心には寒風が吹き荒れているって訳ね。さっき生徒会の用事で体育倉庫に行ってきたんだけど、外もすっかり冬の装いで風が冷たかったわよ」
「――足が剥き出しでは寒いだろうな」
さりげない葵の言葉で、頭に血が昇っている自分を悟った龍麻は話題の切り替えに乗った。そして実際、真神のセーラー服はスカートの丈がかなり短い。一応、ストッキングの着用は許可されているものの、やはり寒いだろう。龍麻にしては珍しく、他人を気遣うような発言ではあったのだが――
「耐寒脂肪がどーとか言ったら、ひーちゃんでも許さないからねッ」
正にそれを口にしようとしていた龍麻は、小蒔の言葉にぐっと詰まる。
「うふふ。龍麻はそんな事言わないわよね。………言ったら寝袋に詰めて吊るすわよ」
たら、と龍麻の頬を流れる汗。言わなくて本当に良かった。
「ところで、【お仕事】が終ったのなら、一緒に帰らない?」
「俺は問題ない」
話が逸れたのでほっとする龍麻。
「うふふ。このところずっとみんなと一緒だから、その方が落ち着くようになっちゃったわ」
「うんうん。まったく、不毛なくらい友情厚いよねッ、ボクたちは」
「うふふ。小蒔ったら」
「エヘヘ。まあ、放課後くらい、気の置けない仲間とのんびり過ごしたいよねッ」
「――ラーメン食いながら…だろ?」
からかうように割り込んできたのは、犬神にレポートの提出を命じられた京一であった。後には醍醐もいる。
「小蒔落とすにゃ努力は要らぬ。ラーメン一杯ありゃあいい…ってか?」
「失礼だなッ! 一杯くらいじゃ手も握らせないねッ!」
「はははッ、そいつは手厳しいな。いくら桜井でも、そこまで食べ物には釣られんか」
ピク、と動く京一の表情。悪巧みの顔である。
「そうだよッ。大体京一は、人のコト馬鹿にし過ぎッ」
「へっへっへー、だったら、二杯じゃどうだ?」
「む…!」
小蒔が少し引く。そこにすかさず龍麻が、
「三杯。チャーシュー追加で」
「むむ…! まだまだ…!」
「四杯。チャーシュー特盛りにゆで卵」
京一の言葉に怯む小蒔。
「五杯。チャーシュー特盛りにギョーザ一皿。カニ玉チャーハンも付けよう」
「ああ…ボクもう駄目…」
へなへなとよろける小蒔。表情がほわ〜っと溶け、妄想モードに突入する。
「「――そういう訳だ、頑張れ、醍醐」」
「――何をだッ!」
両肩に置かれたアホ二人の手を払い除ける醍醐。
「冗談だ、冗談。まあめっきり冷えてきたから、熱いラーメンが旨いって訳だ」
「ふん! 何を今更。俺達は間食と言えば一年中ラーメンだろう」
「――冷やし中華の時期もあったが?」
「季節限定を持ち出すなっ」
などと、ほのぼのしていると言うよりは【たれ】ている会話に、そろそろ飽きが来たのか、第六の声が一同の背後から上がった。
「――まったく、あんたたちは悠長ねえ」
「あら、アン子ちゃん」
いつもと違い、音もなく現れたアン子に驚く葵と小蒔。
「そんなんじゃ、この激動の時代は生き抜けないわよッ――って、あんたたち、どこに逃げようっての!」
葵と小蒔が相手をしている間に、こそこそと戦略的撤退を画策していた男衆が嫌そうに振り返る。
「チッ。あと二メートルが鬼門なんだよな」
「一気に走りぬけるのも無理があるか…」
「うむ。次は窓から逃げよう」
そんな事を言い交わす龍麻たちに、アン子は勝ち誇った笑みを浮かべて見せる。
「あんたたちがこのアン子ちゃんから逃げようなんて百年早いのよ。オーホッホッホッホッ」
「分かった。分かったから、その水角みたいな笑い方は止めろ」
「で、今度はなんだってんだよ? また厄介事か?」
醍醐が突っ込み、京一がごちる。こういうやり取りは全員均等になってきたようだ。
「ふっふっふ。今日は商売よ、商売。ちょっと面白いネタを仕入れたわよ〜。さあ! 次の三つのコースから選ぶのよ! Aコース百円! Bコース千円! Cコース五千円! さあ、張って悪いはオヤジの頭! 張った張った!」
「………第四の選択をしたい気分だ」
「同意」
「更に同意」
「…ボクも」
次々に上がる手。
「なによッ! あんたたち、それでも友達なのッ!?」
「うるせェな。大体そこまで内容に差があるのかよ?」
「むむっ! アン子ちゃんの情報を馬鹿にしてるわねッ。この世で一番大切な情報を得る為にケチるような輩が、よりにもよってこのアン子ちゃんの情報を…!」
ゴゴゴゴ…! とアン子の背後に書き文字が立ち昇ったが、次の京一の一言でそれはガラガラと崩れた。
「それにだなァ、その【情報】とやらの為に俺達がどんな目に遭ったか知ってるのかッ!? テメエ一人で儲けやがって」
「なにそれ!? どういうコト、アン子!?」
「むむ…余計な事を…!」
アン子が唇を噛み、龍麻たちはげんなりと肩を落とす。
「ああ、そう言えば、この前の真神新聞ではさやかちゃんの特集をやったって言ってたわね」
池袋の一件があった後の週末、新メンバーである劉の戦力確認を兼ねて旧校舎入りした時、オフ時には龍麻に引っ付き虫になったさやかがやって来て、それをどこかから嗅ぎ付けたアン子が突撃取材を懸けたのである。
「確か、増刷に次ぐ増刷で、生徒会室のコピー用紙まで借り出して行ったって聞いたわ。他校からも問い合わせが殺到して、一時学校側の回線までパンク寸前になったとか…。――そう言えば私、まだ読んでないわね」
葵の付け加えた一言で、龍麻たちの顔からサーッと血の気が引く。
学校新聞でアイドルの特集…しかも都立高で…。こんなオイシイ話題を放っておく高校生などいる筈がない。真神新聞始まって以来のカラー刷り。低価格なのに、その内容はかなりさやかのプライベートにまで食い込んでいて、一部写真週刊誌までが動いたという。
しかし、真神新聞空前の大ヒットの裏には、情報に踊らされた者たちの悲劇があったのだ。紙面を埋める写真と、さやかの談話をほぼオリジナルのまま載せた記事の中には、幾度となく某真神の少尉殿を匂わせる人物が登場し、さやかの【運命の人】【白馬の王子様】発言まで飛び出す始末。写真の方にもさやかの周辺に必ず黒コート、赤毛の木刀男、学ランの巨漢の姿が写り込んでいたのである。一応、目隠しはしてあったのだが、当然真神の生徒ならこれが誰なのか一発で判るし、他校の生徒にしても真神の名物男の噂は伝わっているからすぐに察しが付く。お蔭で三人の男衆の下駄箱、ロッカー等には剃刀の入った封筒が入れられるわ、ドコからともなく石が飛んでくるわ、アイドルの追っかけたちの陰険で陰湿な攻撃が加えられたのである(勿論龍麻に攻撃を仕掛けた連中は返り討ちにされている)。これが一週間続き、龍麻たちは「もう少し帯脇を生かしておけば良かった」とか本気で考えてしまった。そして何よりもこれが【仲間】たちにまで流出し、雨紋は悔しがる、紫暮とアランは暴れる、雛乃はキレる、霧島が拗ねる、マリィは大喜び…はいいとして、劉とコスモレンジャーは笑う(?)と、散々な目に遭ったのである。
しかし、この事態に際し緋勇龍麻少尉はキレまくった仲間達全員に緘口令を敷き、葵に対して真神新聞の閲覧、情報の漏洩を行う事を厳しく取り締まる事を宣言した。その時の被害の大きさを予測した一同は極めて不本意ながらも事態の沈静化に奔走し、つい先ごろ、平和な日常(笑)が戻ってきたのである。
「へェェ〜〜、それじゃ相当儲けたよねェ〜。アン子〜〜ッ?」
ちょっぴり意地悪な笑いを浮かべながらアン子ににじり寄る小蒔。熟考五秒でアン子は敗北を受け入れた。
「分かったわよ。今日のところは無料奉仕にしておくわよ。あんたたちを敵に廻したらさやかちゃんに会えなくなるもんね」
「さやかを金儲けのネタにするのも今回限りだ」
龍麻が言うと、京一以下、全員が肯く。【真神愚連隊】は彼女が仕事を離れて羽を伸ばせるほとんど唯一の場所なのである。基本的には【訓練】が目的だが、その後の全員での食事や雑談、女子有志たちによる料理研究やお菓子作りなどを楽しんでいる彼女に、【仕事】を思い出させるような真似はしないというのが一同の暗黙の了解である。
「…それで、一体何があったんだ、遠野?」
金蔓を一つ逃したか…と悔し涙にくれていたアン子は醍醐の言葉で現実に立ち返った。
「ああ、そうね。――昨日の夜、墨田区の路上で発砲事件があったのよ。暴力団同士の抗争だって警察は言ってるんだけど、運悪く、流れ弾に当たって死んじゃった人がいるのよね」
路上での発砲事件…。一同の目が龍麻に向けられたが、もしこの犯人が龍麻だとしたら流れ弾など有り得ないのですぐに視線を戻す。――龍麻が狙いを外す筈はないし、相手に撃たせる前にケリを付けてしまうからだ。
「ぜんぜん面白くないじゃないかッ。それってニュースでもやってたよ」
ニュースソースに流れている情報に、金を払うアホがいるだろうか? いたらそいつは、一度精密検査を受けた方が良い。しかし――龍麻の頬は小さく跳ねた。市場を揺るがせた良くない情報が、それなのだ。
「まあまあ、桜井ちゃん。話は最後まで聞くものよ。――この運の悪い人って、前の建設大臣だったのよ」
「…それが特ダネか? やっぱ、金払うような情報じゃねェな」
やれやれと肩を竦めた京一の頭で、ハリセンが景気良く鳴った。
「いちいち話の腰を折るんじゃないわよッ! ここまでは前説! 本編はこれからよッ!」
「まだ続きがあるのか?」
「へェ…醍醐君ってマゾなのかしら?」
ゴゴゴゴ…! と立ち昇る書き文字。醍醐はぶんぶんと首を横に振った。
「まったくアンタたちと来たら…。で、その前の建設大臣ってのが、これがもう、いわゆる【札付き】って奴なのよ。現役時代から多数の汚職疑惑があって、実際にあちこちの建設会社から賄賂を受け取っていたみたい。で、野党からの突き上げが激しくなって辞職したんだけど、結局は関連企業に天下って随分と幅を利かせていたらしいのよね。当然、権力は維持したままだから、今まで罰せられた事はない…」
ここでアン子は、意味ありげに一同を見回した。
「ここまでは本当に良くある話。だけどそんな人間が深夜の路上に、それも一人で、しかも暴力団が抗争しているような所に行くかしら? あまつさえ、流れ弾に当たって死ぬなんてこと…」
「…遠野。つまりお前は、この事件が一種の暗殺だと言いたいのか?」
「その通り! ――この事件は流れ弾に見せ掛け、実は始めから大臣を狙った暗殺事件なのよ。しかもその手段から察するに、かなり大掛かりな組織の犯行よッ」
熱を帯びてきたアン子の言葉に、しかし一同は否定的だ。
「それって、この日本に暗殺組織があるって事? テレビや漫画じゃあるまいし、アン子らしくないなァ」
「あら、なに言ってるのよ桜井ちゃん。暗殺のない時代なんて人類の歴史上、存在しないといっても過言じゃないのよ。古代の中国も、ローマ帝国も、ルネッサンス期の中世ヨーロッパも、そしてこの日本でも…ね。いつの世にも権力者の陰には暗殺者が潜んでいるわ。この不実と暴力がはびこる世紀末の東京に、謎の暗殺組織が存在したって、何の不思議もないわよ」
「遠野…ひょっとしてそれは願望なのか? そういう組織にいて欲しいという…」
「失礼ねッ! あたしは事実からこれらを推理しているのよッ!」
ハリセンをひらひらさせるアン子に、黙り込む醍醐。しかし夫(笑)の危機に妻(笑)がコソッと助け船を出す。
「でもアン子ォ。昔はともかく、人殺しは犯罪だよ?」
「そりゃそうよ。人殺しは悪い事…幼稚園児でも知っている事ね。尤も最近はどうか分かったもんじゃないけど」
最近は残虐な殺人事件が多い。しかも犯人の低年齢化が進んでいる。命を軽んじる傾向が社会全体に広まっているのはとても哀しい事だ。
「でも、正義、大義の名のもとに行われる暗殺は、果たして悪と言えるのかしら? 例えば、新選組とか」
「確かに…当時の尊王派の人たちから見れば暗殺組織だけど…。幕府側から見れば治安維持の為の組織という事になる…。そういう事ね、アン子ちゃん」
さすがは美里ちゃん! とアン子は喜んだのだが…。
「どっちにしたって、俺達一介の高校生にゃ関係ねェ話じゃねェかよ。大体、そんな組織がこの日本にいたらお目にかかりたいもんだぜ」
「そうだよ。やっぱり、現実的じゃないよね」
「うむ。いくらなんでもなあ…」
京一の呆れ声を皮切りに、口々に上がる否定的な声。アン子の額に青筋が浮かぶ。
「だ・か・ら! 話は最後まで聞けって言うのよ!! ――あたしが知り合いの鑑識からこっそり教えてもらったところによると、現場に残された血痕は、とても銃弾なんかで作れるもんじゃないらしいのよっ。敢えて言うなら鋭利な刃物でバッサリやって、のた打ち回る被害者を切り刻んだ時の血痕。そして!」
皆が黙っている事を確認して、アン子は最大の切り札を出した。
「被害者の爪の間から回収された繊維を調べてみると、これがどうやら、学生服に使われる生地らしいのよッ!」
まさしく切り札。一同の顔色が変わり、龍麻の頬も再び小さく跳ねる。
「まさか…高校生が暗殺を…?」
「それじゃもしかして…【神威】が関わっている可能性も…」
ようやくそこに辿り着いたかと、アン子は胸を張った。考えてみれば、彼女が龍麻たちのところに持ち込む情報は、必ずと言って良いくらい【神威】が関わっている。ちょっと考えれば分かりそうなものだったのだ。
「勿論、この件に付いては一切発表されていないわ。しかも公式発表では流れ弾…不幸な事故だと言い張っている…。これらから推察されるのは、警察の上の方とこの暗殺組織は繋がっているという事よ。それで気になる事件を当たってみると、どうやら殺されているのはみんな社会的な大物…って言うか、権力やら財力やらを盾に、裏で悪どい事をしている連中ばかりなのよ」
「ふええ…それじゃまるで、時代劇に出て来る【必殺仕事人】みたいじゃん」
小蒔はやっと関心を示したが、反対に葵の表情が沈む。
「でもそれは…やっぱり間違っていると思うわ。どんなに悪い人にも、生きる権利はあるんだもの。死よりも…生きて罪を償うべきじゃないかしら? ――ねえ、龍麻はどう思う?」
そこで一同の目は、一言も発言しなかった龍麻に向けられた。
「……………………アホ」
「うおッ!!」
とっさに頭を庇う京一たち! しかし、何も落ちてこない!?
「黙って聞いていれば好き勝手な事を…。俺が誰だか忘れたのか?」
あ…! と、今更ながらに思い出す一同。
緋勇龍麻。元アメリカ軍対特殊テロ実験部隊レッドキャップス・ナンバー9。【政府】が作り上げた、カウンターテロリズムを行う暗殺要員…。目の前には既に、生きた証拠がいるではないか。
「…バカめ」
コン! カン! カポン! パカン! グワンッ…!!
思わず無防備になった五人の頭の上に落ちてくるアルミボウルと…一斗缶。
「…フェイント成功…」
「痛ゥ――ッ! ――って、ひーちゃん! なんで俺だけ一斗缶なんだよッ!」
もはやそっちの方が問題なのか? 京一が涙目になりながら文句を垂れる。
「――お前が一番アホだからだ」
その直後、京一を襲う金だらい! 京一は教室の床に沈んだ。
「暗殺、処刑、粛清――言葉は多々あれど、その是非を考察したければ人類の歴史を紐解け。出る答えは単純だ。殺されたくなければ、殺さなければ良い。殺した奴は、殺されねばならない。ただ、それだけの事だ」
簡潔な、しかしそれを実地に行ってきた者の恐ろしく説得力のある言葉。犯罪を裁くという事は、正に【これ】に尽きるのではなかろうか? 昨今の裁判では犯罪者の【人権】が異常なまでに保護されているが、殺された被害者の【人権】はないも同然だ。更に最近では【死刑廃止】を唱える者も多いが、そもそもそれはケースバイケースで考えるべき事であって、本来なら事件の当事者でない者がとやかく言える事ではない筈なのだ。
例えば、幼い子供を残虐な手口で百人殺した=百人分の【人権】と【生きる権利】を奪った犯罪者がいたとして、それでも犯罪者にだけは【生きる権利】があるのか?
逆に、目の前でか弱い子供が百人も殺される現場を見た善意の人が、その犯人を殺した=【生きる権利】を奪ったらそれは犯罪だろうか?
そして、極めて危険な兵器…例えば核兵器や細菌兵器を即使用可能な状態にまで用意したテロリストを、テロ発生以前(ここがポイント)に抹殺するのは犯罪だろうか?
――これらの問題には、答など存在しない。十人に聞けば、十通りの答が返ってくる。だが、奇麗事が狂人の戯言と紙一重の世界で生きてきた龍麻に言わせれば、正に【殺されたくなければ、殺されるような真似をしない事】なのだ。
既に龍麻は、多くの犯罪者の血で手を汚している。自分の命を狙う者は確実に、そして彼の【射程距離】で行われた犯罪の芽は【彼独自の判断】で摘まれている。多くは警察の手に委ねるが、一発殴って終わりにする事もあれば、再起不能にする事も、それこそ闇から闇へと葬り去ってしまう場合もある。その判断基準は常に社会的影響にあり、その時々によって対応は変わる。――悪質な苛めに対する報復の果てに、知らず知らず人を殺すに至った嵯峨野は【過失】として許し、さやかへの横恋慕の果てに多数の人間を傷付けながら、法では裁きようもない帯脇を抹殺した件などは判り易い例だ。そして龍麻自身、自分もいつか【そう】される事を覚悟している。彼には今日と同じ明日が来るとは限らないのだ。たった今、この瞬間さえも。
「…まあ、そんな答えの出ない事を論じるのはまた今度ね。とりあえずあたしの情報はここまでよ。――さて、この後は…」
場の空気がこれでもかとばかりに重くなったのを察して、アン子は話題を変えるように努めておどけて言った。
「何だ、用事でもあるのか?」
それならそれで、妙な話題を振らなければいいだろうに…と渋い顔の醍醐。だが、アン子の返事はそんな彼の顔を驚愕に歪ませた。
「もっちろん――調査よッ」
「な、何ィッ!?」
これには京一も血相を変える。
「ま、まさか! その暗殺集団を取材しようなんて言うんじゃないだろうねッ!?」
「やめろ遠野! いくらなんでも危険すぎるぞ!」
「アン子ちゃん…だめよ! そんな事!」
無謀と言うか無知と言うか、龍麻が当初危惧していたように、素人はとんでもない事を考えるものだ。醍醐たちのすっぱい警告を、アン子は意にも介さない。
「平気平気。あたしの読み通りなら、彼らは社会悪に対抗する善の組織だもの。秘密さえ厳守すれば、快く応じてくれる筈よ」
「でも…アン子ちゃん…!」
「大丈夫! 情報が得られたらあんたたちにも話してあげるから」
それじゃ、と行きかけるアン子を、低い声が止めた。
「…やめておけ、アン子」
「龍麻…」
姿形は変わらず、急に存在感だけが大きくなったと錯覚させる龍麻の【気】。名物、【鬼軍曹】モードだ。
「一度しか言わない。取材はやめろ。――死ぬぞ」
「ちょ、ちょっと…だ、大丈夫だって…!」
「たった今、俺達にも話すと言ったお前が、何を根拠に言っている?」
龍麻の声が鋭さを増す。
「お前は今まで、俺の何を見てきた? 世界が秘密でできている事くらい、お前なら判っていると思っていたがな。今まで何十回、命拾いしているか、教えられなければ分からないか?」
「だ、だって彼らは…」
「【正義の組織】か? つまりそれは、世界の半分を敵に回しているという事だ」
相手が引いたら押す。――武道にも話術にも通じるテクニックだ。龍麻は容赦なく畳み掛けた。
「裏の世界では有名な話でも、決して表の世界には流れない情報…そんなものは腐るほどある。お前がその組織に接触すれば、裏世界の住民が黙っていない。秘密厳守? 本当にそれが可能か、モサド式の拷問でも試してやろうか?」
「……ッッ!」
ズルリ、と抜き出される大型のファイティング・ナイフ。かつてそれを使って行われた【歯医者】を知っている京一、醍醐、葵の顔が派手に引き攣る。しかし彼はくるりと刃を返し、ナイフを鞘に収めた。
「好例がある。IFAF第三機動海兵中隊【シュミット飛竜隊】隊がカナダのダム占拠事件を解決して引き上げる際、スクープ欲しさのジャーナリストの潜入を許してしまった。だがIFAF当局は機密保持を完璧に実行する事ができなかった。そのジャーナリストが自らの身に危険が及んだ時に備え、北米全土にその映像をライブ中継する準備を整えていたためだ。そのため【飛竜隊(】隊員の内三人の顔が二秒前後放送電波に流れてしまった。――どうなったと思う?」
龍麻は全員の顔を見回したが、誰も答える事ができなかった。これまで共に死線を潜り抜けてきたといっても、彼のいた世界を理解するにはまだ遠いのである。
「…その放送を行ったジャーナリストとカメラマンは、放送直後にIFAF当局よりも先にテロリストに拉致され、一週間後に動物園のトラの檻で骨盤と足首が発見された。肛門にねじ込まれていた電極と焼け焦げた糞便、既に壊死していた足首を虎が食い残して、極一部でも遺体が残ったのは僥倖だな。そしてほぼ同時期、ワシントン、ロサンゼルス、アリゾナのごく普通の家庭で極めて残虐な殺人事件が発生している。上は九十歳、下は一歳の赤子まで、七世帯二四名がチェーンソーで細切れにされて殺された上、丸二日に渡って行われた殺害行為の映像はマスコミ各社にばら撒かれた。その前日には軍事、公安、各政府機関に、某有名レストランの試供品だというブイヤベースがギフトセットとして届けられていてな。その映像を見てブイヤベースの材料を知った者たちの悲劇たるや、某有名バーガー・チェーンのキャラクターを見ただけで吐き気を催すほどのPTSDを患ったそうだ。その殺された上に料理までされた家族とは言うまでもなく、放送電波に顔が流れた【飛竜隊(】隊員の家族だ」
「――ッッ!!」
時折明かされる、龍麻の壮絶な体験談。世界の裏側で行われる、過酷かつ陰惨極まりない現実の物語。
「その後も、拷問したジャーナリストから得たであろう情報を基に【飛竜隊(】の関係者が、借家の大家、新聞配達人、買い物をした時のレジ係に至るまで次々と襲われた。同時にIFAF当局も報復措置として、本来は国際条約で禁止されている実行犯の即時射殺や拷問、資金提供者の暗殺などを行った。――情報戦とは、対テロ戦とはそういうものだ。少しでも疑わしいものは徹底的に排除する代償が、少しでも正体を知られたが最期、家族親類友人に至るまで、僅かでも関わりのある者に甚大且つ凶悪な危害が加えられる。各国政府と裏取引が成立している俺だが、自宅、学校に限らず連日殺し屋が押しかけて来ているぞ。多くは賞金目当て、数を頼みの三流以下だが、それだけにお前たちを利用しようとする馬鹿が後を絶たん。その為不幸にも始末屋が過労で倒れてしまったのだが、一方で臓器の供給不足が緩和され、世界的規模で無辜の人間をバラして売っていた極悪臓器業者が大赤字を出して衰退したから良しとするか」
「……」
「特ダネに飢えているならば、先週とある筋からの依頼で【始末】した重犯罪者でも紹介してやろう。他人の命は自分を愉しませる為にしか存在せぬと断じ、これと決めた獲物に家族がいた場合、獲物をまず家族の前で強姦し、次いで獲物の前で家族を生きたまま解体し、獲物の恐怖と絶望に引き攣った顔を干し首にしてコレクションしていた、犯罪者どもの間でも嫌われ尽くしていたサイコキラーだ。【表】で判明した分だけで累計四二人の大人と二十人の子供を殺害した罪で三度起訴され、親の権力に尻尾を振るお優しい人権派と称する弁護士と、声の大きな自称人道主義団体と、多重人格症だから責任能力なしと証言した精神科医のおかげで全て無罪になった上、ぎりぎり未成年だという事でマスコミが揃って情報を隠すに至った、割と大物だ」
「……ッッ!」
「しかし、図に乗って【裏】の関係者を殺していたのが運の尽きだ。名ばかりの保護監察中に堂々と逃げ出してくれたおかげで、捕らえるのは簡単だった。本来ならそこで始末し、俺としては最高に簡単だった【仕事】になる筈だったのだが、依頼者たちの意向もあり、しばらく生かしておく事になったから、まだ頭と耳くらいは残っている筈だ。人を殺しても裁かれる事のない特権階級だと思い込んでいた自分が、他人に命を握られ、自殺する事も叶わず、培養液カプセルの中で千人以上の恨みと憎しみを一身に受けて、絶対に死なないように拷問され続ける現在の心境をインタビューしてみろ。少なくとも、三色昼寝付き冷暖房完備の刑務所で優雅に暮らしている犯罪者どもよりは面白い話が聞けるだろう。ああ、先に言っておくが、くれぐれも奴に言いくるめられるなよ。整形にたっぷりと金をかけた、雑誌のモデルを勤めた容姿に結婚詐欺師の口車を持ち、粗悪なトレンディードラマに慣らされた脳の持ち主相手には、泣き落としにも脅しにも催眠暗示的な効果を発揮する話術を駆使する、恐ろしく凶悪な奴だ。――俺は奴が脳細胞の一片になろうとも油断できんと即時完全抹殺を進言したのだが、依頼者である被害者遺族たちの恨みは凄まじく、どうあっても簡単に死なせたくないとの事だったので、逃亡その他一切の行動を封じる為にと両手両足を砕くだけで妥協した。ところが危惧した通り、舌先三寸で熟練の殺し屋たちを懐柔して俺を襲わせ、両手両足を奪った今でさえ、拷問を加える被害者遺族をも隙あらば抱き込み、脱出しようと画策し、これまでに三度も遺族同士を争わせている程の奴だ。ついでに被害者遺族にも聞いてみろ。奴が生きて罪を償うとしたら、どれほどの事をしたら許せるのか。更に知り合いに死刑廃止論者がいたら是非とも一緒に連れて行け。奴があと何人殺したら死刑に同意できるのか俺も知りたい。もっとも、被害者が百人いようが千人いようが、たとえ自分の家族親類友人であろうが、その事自体は問題ではないのだと、既に毒ガス事件の時に言っていたからな。彼ら愛の伝道者どもは、一人の哀れな犯罪者を救う為ならば、善良な一般市民は百万人でも一億人でも喜んで命を差し出すのが当然であり、それを否定し悲しむなど神の愛に逆らうこの世で最悪の罪であると喚くだけだろうがな」
「……ッッ」
一同絶句するのみで、誰一人として口を挟めない。その為、龍麻の放言も止まらなかった。
「そいつだけでは面白くなさそうだからもう一人、【怨みは倍返し】をポリシーに復讐代行業を名乗る殺し屋も紹介してやろう。こいつもいわゆるサイコキラーの一人なのだが、麻薬に対するカウンタードラッグの知識が貴重なので、その殺人淫楽症を制御する為に殺し屋をやらせているちょっと変り種だ。当然、この手の殺し屋は仕事がないのが通例だったのだが、何のかんのと屁理屈をこねた果てに法律上の無罪を勝ち取るようなケースが増加したのと、餓鬼と精神異常者には殺人許可証が発行されているような、銃を購入し弾丸を込め標的に狙いを定めて引き金を引き、飛び出した弾丸が人を殺したとしても、銃で人が死ぬ事を認識していなかったと言えば無罪を主張できるような昨今の奇怪な世相風潮を反映してか、やたらと繁盛している。普通の殺し屋には縁がない【倍返し】というフレーズと、依頼人を現場に立ち合わせるというスタイルも受けが良い理由の一つだな。ただ殺すだけでは飽き足らぬという依頼人の心情を反映しているという訳だ」
そこで龍麻の口調が皮肉なものに変わったのを、京一達は見逃さなかった。葵や小蒔は思わず耳を押さえようとしたのだが、【真神愚連隊】の一員として、その手は動かなかった。
「彼の作法では、まずターゲットに土下座させて命乞いをさせるのだが、これで許せるくらいならば殺し屋など雇う筈はない。当然、依頼人がこの時点で止めた試しはない。そしていよいよ、依頼者かその被害者が受けた仕打ちをターゲットに施すのだが、それだけでは【倍返し】にはならんのでな。そこで彼のサイコキラーたる所以(、ターゲットのみならず、その家族や親類縁者に至るまで同じ目に遭わせるのをモットーにしているのだ」
「ゲッ…!」
「既婚者ならばまず配偶者、未成年者ならばその両親あたりだな。特別コースの【十倍返し】となれば、兄弟や祖父母、親類、それでも足りなければ会社の同僚や単なる遊び仲間に至るまでその対象となる。メインターゲットに恐怖と怨みの深さを思い知らせる為に、まずはそのように集められた者から嬲り殺しにしていく訳だな。一人の殺人に対する【倍返し】ならば二人、【十倍返し】ならば十人。理屈には合っている」
「ちょ、ちょっと龍麻…」
必死で声を絞り出した葵だが、龍麻は聞き逃したようだ。
「さすがにその事を知ると、依頼人側にも依頼を取り消そうとする者が出るのだが、そもそも殺し屋を雇うという事は、そういう事なのだ。殺し屋と契約を交わした瞬間から、殺し屋の殺意は依頼人の殺意、殺し屋が放った弾丸は依頼人が放った弾丸だ。契約後に殺し屋がいかなる殺戮を展開したとしても、それは全て依頼人の意思なのだ。彼のやり口が気に入らないと取り消しを求めても、違約金は依頼した金額の千倍が相場で、怨みある相手を助ける為にそれだけの金を払える者はいない。それに、彼に言わせると、ターゲット一人の死で怨みが消せない奴は、必ずその親類縁者その他に怨みの対象を拡大させるそうだ。どうせターゲットの親類縁者も依頼人に殺意を向けるであろうし、それを事前に片付けているばかりか、ターゲットの遺族から受ける怨みや憎しみをも止めているのだから、むしろ感謝されて当然だろうとな」
「…………」
「その実情が知られてなお、彼は繁盛している。先日会った時には施設を拡張中だと言っていたから、本人も若干暇だろう。それにこちらなら話術に長けた犯罪者はいないから、安心してインタビューできるぞ。まあ、大多数はひたすら一思いに殺してくれと喚くだけだろうが、百人以上いるから二、三人はまともに話の出来る奴もいるだろう。怨みを向けられた本人は勿論、その巻き添えを食う破目になった者と、安易な【倍返し】という考えが複数の人間を殺す事になったと自責を感じる者、それならばいっそ【百倍返し】でどいつもこいつも殺せと喚く者と、ネタには事欠くまい」
さすがに足が震え、机につかまって身体を支えるアン子。しかし龍麻は黙らなかった。座った姿勢のままだが、詰め寄っていくかのように言葉を紡ぐ。
「そう言えば最近捕まえた、十代半ばで管理売春を行っていた不良少女グループを仕切っていた少女などは手頃だな。自分が不幸な生い立ちだからと他人を不幸にする権利を持っていると言わんばかりに、幸せそうな少女を物色して手下どもに強姦させては、家族ぐるみで百人以上も地獄と精神病院に突っ込ませた外道なのだが、自殺に追い込んだ事も廃人とした事も殺人罪にはならず、やはり未成年という事で収監は三ヶ月足らずだった。だが今では、手下どもはアニサキスを始めとする危険な寄生虫入りの食事を与え続けられて食事の度に七転八倒。それらが人体に与える影響の実験台とされ、本人は特別に顎口虫という寄生虫を植え付けられ、総鏡張りの部屋に丸裸で収容されている。この寄生虫は鼻や耳から脳に潜り込まない限り命に別状はないのだが、全身の皮膚の下で百匹以上のそいつらが蠢く様はなかなか壮観なおぞましさで、俺もちょっと退いた。鏡で自分の全身を確認できる本人ならば尚更だろう。脳をやられて死ぬか狂い死にするかでトトカルチョをやっているとの事だったが、人の生死を賭けの対象にする趣味はないので断った。もし賭けに参加するなら、舌を噛み切って自殺する方に賭ける事を勧める。何しろその少女は、父親がごくありふれた痴情のもつれから人を殺してしまい、自ら出頭し法の下で正当な裁判にかけられて正式に刑が下されて服役中という身なのだが、なぜか本人は同級生の男どもやその父兄どもに【殺人犯の娘である】事を理由に半年に渡って輪姦され続け、学校も地域社会もその事実から目を逸らし口をつぐむ中、しかし狂いもせず自殺もせずに復讐を誓ったという傑物だ。正式に裁かれた犯罪者の関係者を強姦し、婦女暴行のみならず憲法で保障された基本的人権と生存権、並びに逮捕権も裁判権もない筈の一般市民の身でありながら刑法で禁止されているリンチを行い、それを正義などと称した腐れ外道どもを破滅させるだけならば――敢えて言うが問題はなかったのだがな。いずれにせよ、そんな屈辱と恐怖の日々の中でも闘争心を捨てていない、その強靭な精神だけは賞賛に値する。いずれ、他人に殺されるよりも、自分の命は自分だけのものとして自決するだろう。殺し屋も、その少女に関しては特に自殺防止処置を施していないそうだ。無辜の市民を殺したとは言え、切っ掛けが無辜の市民であるべきだった筈の連中から受けた理不尽な仕打ちから始まった社会への復讐にある事を考慮した、それが彼なりの情状酌量だ」
「やめて! もうやめて!」
遂に耳を押さえ、金切り声を上げるアン子。
「分かった! 分かったわよッ! 取材はやめるから、もう勘弁してッ!」
「そうか? 滅多にないチャンスだと思ったのだがな」
両手を挙げて全面降伏の意を示したアン子に、そんな事を言ってのける龍麻こそ恐るべし。――賢明な判断である。取材をやめると言わなければ、更にリアルでおぞましい世界を延々と語られる事になるだろう。そんな事件さえも淡々と語れる男の知る闇は、底知れぬほど深い。
「世の中には、触れただけで爆発するものもある。そういうものには近付くな。――さて、当初の予定通り、ラーメン屋に寄ってから帰るとしよう」
龍麻が号令をかけると、動かずにはいられない京一たち。アン子も、龍麻が【裏】を見せてまで自分を止めた事はなかったので、さすがにこれは諦めなきゃね、と弱々しく苦笑した。
「…なあ、ひーちゃん。一応確認しておきたいんだが…」
正門前まで移動し、周囲に誰もいないのを確かめてから、京一は前を歩く龍麻に話しかけた。
「アン子の言っていた暗殺組織ってのは、現実にあるのか?」
「…そんなもの、知ってどうする?」
「立ち入り禁止の札を越えるつもりはねェよ。ただ、【正義の組織】ってなると、いつどこで蹴躓くか分からねェだろ」
龍麻は肩を竦めた。呆れ半分、感心半分である。――アン子と異なり、京一は【正義を行えば、世界の半分を怒らせる】という言葉の意味を良く解っている。自分があずかり知らぬ所から、命を狙われる可能性を認識しているのだ。
「【好奇心は猫を殺す】ということわざの通りだ。――忘れろ。身を慎んでいる限り、触っただけならば何も起こらないし、蹴飛ばしても容易には爆発せん。一度気にし始めたら、周りにいる全ての人間が暗殺者に見えるようになるぞ」
「…りょーかい。もう、聞かねェよ」
――つまり、ある、という事で、これまで通り、自分達をそこに介入させるつもりはないという事だ。
龍麻は色々と事件に介入してはいるが、基本的には身を潜めていたいと願う者の一人だ。しかし現状はそれを許さず、不本意ながら色々と目立つ事が多くなってしまった。龍麻はそれを逆手に取り、【仲間】たちへの被害を最小限に押さえている。京一達自身も既に見知った、恐らくはアンダーグラウンドに属する者達も多いが、彼らとの間に引かれた線を守る限り、彼らは敵に回らない。ならば自分たちがその均衡を壊す事などできないし、してはならない。
だが龍麻自身、アン子の持ち込んだ情報には色々と考えるべき事が多かった。
実は、アン子の持ってきた情報は龍麻にとっても驚くべき事だったのだ。
昨夜の事件…法で裁けぬ者を暗殺した者…。やった犯人は知らずとも、それを行った組織の名は龍麻には分かっていた。
(拳武か…。しかしあそこが、そんな出来の悪い【仕事】をするか?)
ここ東京には【九頭竜】を始め、暗殺を生業とする組織または個人が多々存在する。当然、社会悪の制裁を名目にした組織も少なくない。龍麻自身もそのような組織に何度か標的にされ、その愚鈍にして歪(な正義感に辟易した事がある。
しかし、【学生服】というキーワードで導き出される名は、今のところ龍麻の【師匠】であり後見人でもある鳴滝率いる、拳武館一つだけだ。そして実際、既に遠い過去の事件に思われるが、明日香学園での一件で、龍麻は彼らの仕事ぶりを目にしている。さすがに【人の命運を見る】能力を有する莎草本人には手を出せなかったが、並の人間相手ならばいわゆる【腕利き】の暗殺者が揃っているところだ。高校生が暗殺者の筈はない――平和な日本ならではの常識の盲点が、彼ら拳武館を秘密の暗殺組織たらしめているのだ。
しかし、今回の一件が拳武の仕事だとすると、龍麻には疑念だらけである。
多くの場合、拳武の【仕事】はスキャンダルによる社会的抹殺や意図的に病気にするなどの手段を行使し、最終手段である【暗殺】を実行する時も、不幸な偶発的事故や病死に見せ掛けるやり方が普通である。その方が死者と遺族の名誉が不必要に損なわれる事もなく、疑いを持つ者も少なくなる為、秘密も護りやすい。
それが、ここに来て刃物で斬殺するという手口。更には現場に証拠を残すかつてない失態。そして相手は、賄賂を取りまくっていたにせよ、日本の建設業界を牽引してきた、人望もあり【仕事】もできる【親方】タイプで、深刻な社会不安を招き多数の生命財産を脅かすような、【拳武】の標的となる条件を持たぬ人物。――警察の上の方はともかく、現場で働く刑事たちは巨大権力の影に苛立ちを募らせている事だろう。病気や事故死ならば自分達の出る幕などほとんどなく、気にするまでもないのだが、明らかな殺人事件を、露骨に事実を捻じ曲げて報道されるという現実。この世の虚実に無情を感じる者は多い。それが近年の警察の腐敗を促進している土壌なのだが…。
これが本当に拳武の【仕事】であるならば、拳武館内部で何かが起きているという事だろう。龍麻は拳武館の館長、鳴滝冬吾に「東京へ行け」と言われてここに来た。そして数々の事件を解決し、鬼道衆の陰謀をも防いでみせた。軍産複合体による、日本軍事国家化計画も。――しかし、龍麻の身柄を保護しているのは基本的にIFAFであり、鳴滝は個人としても拳武館としても、直接龍麻と接触を持とうとはしなかった。鳴滝に徒手空拳の手ほどきを受けたのは転校前の三ヶ月間のみで、拳武館の記録に龍麻の名前は残されていない。鳴滝以外に龍麻を知っているのは、組み手の相手を務めた鳴滝の直弟子である壬生紅葉と、龍麻の実力を試す為に選ばれた五人だけである。それは龍麻と拳武館双方の秘密を厳守する為に当然の処置であった。
――嫌な感じだ。龍麻はそう思う。裏世界の情報網にも、拳武館の実情はあまり知られていない。それほど徹底した秘密主義を貫いている組織の情報が、事もあろうにアン子を通じて自分の耳に入ってきたのである。しかもアン子は【知り合いの鑑識】と言っていた。現状に不満があるにせよ、警察関係者がまったくの部外者、それも高校生にそんな重大な機密事項を喋るだろうか?
情報の少なさが致命的だ。龍麻の思考はまとまらなかった。
「…どうしたの? ひーちゃん、早くラーメン屋に行こうよ」
「ん? …うむ」
またなにか考えている…。一同はそう思って静観していたのだが、空腹に耐えられなくなった小蒔が龍麻に声をかけた。
「考えるのはいつでもできるでしょ? それにボク、お腹ぺこぺこで思考力が…」
「ったく、本当に小蒔は色気より食い気だな。たまには食い物から離れてみちゃどうだ?」
あんな話の後で…という言葉は飲み込んだものの、最初に小蒔がラーメン何杯で落ちるか試したくせに、さりげなく意地悪な木刀男である。
「なんだよォ。ボクは別に色気なんか………あった方が、良いのかな?」
急にしおらしくなり、龍麻と醍醐を見る小蒔。ちなみに京一は無視である。
「俺にその質問はナンセンスだ」
まったくもってその通りであろう。この鉄壁の朴念仁に女性の色気に付いて論じろと言うのは、ゴジラに政治経済を語らせるようなものである。
「う〜む。俺は今の桜井のままが一番良いと思うぞ」
おおッ!? と、龍麻、京一、葵が胸の内で手を打つ。この醍醐が照れもせずにこんな事を言ってのけたとは…!
「良く言ったぞ醍醐。女性の色気を論じる事はできんが、【萌え】に付いては日々研究している。――小蒔、これをやろう」
コートの内側からひょいと取り出した物を小蒔の頭に填める龍麻。だからなんでそんなものを…と京一たちが脱力する。
「……なに? ……これ?」
それは、大きな猫の耳が付いたカチューシャであった。更に龍麻は、クリップの付いた猫の尻尾も取り出して小蒔のスカートに取り付けた。猫娘完成である。
「これとセットで装着する事により【萌え】の要素が大幅にプラスされるのだ」
「「…………」」
またしても訳の解らんオタク哲学を…と、京一がそろりと木刀を袋から取り出し、葵が鞄の中から寝袋(!)を取り出そうと(葵の鞄は亜空間に通じているのだ)した時である。
「か、か、かわいいな。桜井…」
「にゃ〜んっ!」
誉められて嬉しそうに醍醐に飛び付いていく小蒔。顔を真っ赤にした醍醐の胸板に、正に猫そのものとなって全身で頬擦りする小蒔の姿に、思わず【教育的制裁】を忘れる京一と葵であった。
「た、龍麻…! これって…!」
「うむ。先日の事件で発見した【萌え】要素をこのまま埋もれさせるには惜しいと思い、裏密の協力のもとネコミミに【呪詛】を施させたのだ。――大成功だな」
先日の事件…それは京一、醍醐、小蒔が【憑き物】にされてしまった時の事だろう。あの一件から数日間、龍麻は彼らの前で猫じゃらしを振っていたのだが、当然、彼らが反応する筈もなく、妙に残念そうにしていたのだ。それがしばらく大人しくしていたと思ったら、裏ではこのような事を…。
「うむ。改良を重ねれば他の者にも――おおッ!?」
京一の木刀を後頭部に受け、地面に張り付く龍麻。
「テメエは! 相変わらず訳わからねェことしやがって!」
「うふふふふふふふふふふふ。お仕置きよ、龍麻」
と、まあ、当事者以外には訳の解らぬほのぼのとした光景を展開していた一同であるが、そこに見知った者の声がかけられ、それがこんな時間には珍しい人物だったので現実に立ち戻った。
「龍麻! ――って、何でこんな所で寝てるのさ?」
「…順を追って説明すると、小蒔があの有り様。犯人はひーちゃん。でもって教育的制裁。――こんなところだ…って、ンなコトはどうでもいいな。お前こそ、どうしたんだよ?」
【訓練】以外で新宿に現れるのは珍しい人物、藤咲亜里沙の視線がネコミミの小蒔、コブを作った龍麻、木刀を持った京一と寝袋を持った葵を見て、妙に納得したような表情を作る。しかしそれは、訳の解らない状況に唖然とした一瞬の事で、今の彼女は酷く追い詰められたように弱々しい。それは決して【真神愚連隊】の女王様の姿ではなかった。おまけに…。
「亜里沙…どうしたの? 目が真っ赤よ…!?」
まるで泣き腫らしたかのような目。そして今日の彼女は化粧すらしていなかった。いつも濃い目の化粧で妖艶にフェロモンを振りまく彼女はおらず、意外(失礼だが)なほど清楚な素顔を晒している。そしていつもの倣岸不遜な雰囲気はまったくなかった。
「あ…葵…」
辛うじて息は整えたものの、亜里沙は自分の肩に手を置いた葵の名を呼ぶのがやっとで、後は何かを言おうとしながら、声に出せないでいるようだ。
「どうしたんだよ? 黙ってるなんてお前らしくもねェ。…マジに聞くから、落ち着いて話してみろよ」
頭を寝袋に埋めたまま転がっている龍麻は無視して、顔つきを真面目にする京一。醍醐も小蒔のネコミミを取って彼女を元に戻す。本当は一番頼りになる男が救いようのない状態だが、後の四人の真摯な態度に、亜里沙は重い口を開いた。
「エル…エルが…あたしのエルがいなくなっちゃったんだよ…」
『エエッ!?』
エル…亜里沙の愛犬であるボクサー犬の名だ。自殺してしまった彼女の弟の担任が、苛めの猛火に晒されていた彼女の弟の心の支えとなるようにと贈った犬である。亜里沙を始め、藤咲家にとっては正に家族の一員だ。そして龍麻たちにとっては、墨田の事件の時に亜里沙の頑なな心を開かせ、共に闘う事を決意させた立役者でもある。今では亜里沙が旧校舎入りする時に必ず付いてくるので、【真神愚連隊】にとってはメフィストと並ぶマスコットとして可愛がられている。――先日の事件では龍麻の危機を察して亜里沙や【神威】たちを池袋に導いたりもしている。
「そんな…。エルは賢い子だけど、普段は繋いであるんでしょう?」
「うん…。だから妙なんだよ。今朝、いつも通りにエルにご飯を上げようと小屋に行ってみたら…鎖ごといなくなって、辺りには血の跡があって…」
「ち、血の跡って…!?」
小蒔が血相を変え、真神の一同もさっと緊張する。龍麻も、何事もなかったかのように立ち上がった。
「…それで、まだ見つかっていないのだな?」
「うん…。一日中探し回ったんだけど見つからなくて…もう、どうしていいかわかんなくなって…! ひょっとしたらここに来たのかもと思ったんだけど…」
今までずっと押さえに押さえていたのだろう。亜里沙の声が震え出す。
「あたし…あたしにとってエルは家族同然なんだよ…ッ! ずっと…弟みたいに可愛がって…!」
「――分かってる。だから、ここに来たんだろ?」
こういう雰囲気を払拭するのに重宝する男が、亜里沙の肩をぽんと叩く。
「俺達にとっても、エルは大事な【仲間】だぜ。――心配すんな。俺達の答は一つしかねェよ」
「そうだよッ。皆で一緒に探せばすぐに見つかるよッ」
「勿論私も行くわ。だから亜里沙、いつものようにきりっとして」
「多分、行き違いになっているだけだ。俺達も一緒に行けば、すぐに見つかるだろう。――なあ、龍麻」
その龍麻は、既に携帯電話のボタンを押している。
「――肯定だ。人手を増やせば捜索範囲も広がる。……龍麻だ。エルが行方不明になっている。手すきの者は捜索に加われ。――首尾良く発見した者には褒賞も与える」
ごく簡潔な命令。参加は自由意志だが、エルがいなくなったと知れば、皆捜索に乗り出すだろう。大事な【仲間】の為に労力を惜しむような輩は、【真神愚連隊】には存在しない。
「ごめん…みんなに…迷惑かけて…」
「何を言うか。お前はいつものように激を飛ばせば良いのだ。――【さあお前たち、行っておいで!】」
「【あらほらさっさ】――ってな。――ほれ、そろそろ【萌え】を振りまくのは止めとけ。やっぱりお前は高らかに笑って、憎まれ口を叩く方が格好いいんだからよ」
龍麻の軽口にすかさず乗る京一。こいつらってば本当に…と亜里沙は思いかけ、それはひた隠しにして言い放った。
「あんたたちって…本当にどうしようもないくらいのお人好し揃いね。まったくこっちは呆れるばかりだよっ」
「それほど誉められると照れる」
「――誉めてないよッ。馬鹿にしてるんだよッ」
「へっへー、当たり前の事を言われても堪えねェな」
そんなやり取りを、醍醐も葵も小蒔も微笑ましげに眺める。亜里沙にいつもの調子が戻ってきている。やはり彼女はこうでなくてはいけない。
「さて、亜里沙。お馬鹿二人に構うのはそのくらいにして、エルを探しに行きましょう。早く見付けてあげないとエルも心細いでしょうし」
「――そうだね。それじゃ皆、付いてきて」
来た時とは打って変わり、背筋を伸ばして颯爽と歩き出す亜里沙。どうやら完璧に本来の自分を取り戻したらしい。【自分らしく】。それがあの事件以来、亜里沙を支えてきた誓いだ。それを取り戻せば、亜里沙に恐いものはない。
【ご苦労様】。
葵は龍麻と京一を振り返り、手指でサインした。
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