第壱拾七話  魔獣行 後編 2





 【敵】の能力が判らない以上、移動中に襲われることも考慮に入れて警戒していた龍麻たちであったが、何事もないままに池袋東口に辿り着くに至った。

「池袋か…。そんなに離れてる訳じゃねェのに、来るのは久しぶりだぜ」

「買い物でもなんでも、大抵のものは新宿でも揃うもんね。でも池袋にもおいしいラーメン屋が結構あるんだよね〜」

「おいおい桜井、俺たちは遊びに来た訳じゃないぞ」

「あははッ、ゴメンゴメン」

 そんなのんびりした会話が交わされたのも数分の事、今までやってきたように【事件】に対して意識を集中すると、常人には見えないものも視えてくる。

「こうやって見てる分には、妙なところはねェんだがな…」

「そうね…。とてもあんな事件が起こっているなんて思えないわ」

 その微妙な言い回しには様々な意味が込められている。彼らには感じられるのだ。この街に漂っている異常性が。

「新宿、渋谷、そしてこの池袋…。都内で有数の、人と物の密集する場所だからな。こういう所にはあらゆるものが引き寄せられ、留まってしまうと言うが…。龍麻、お前もやはり、感じるのか?」

「意識すればな。――醍醐、苦手だと思うならば、無視することだ。無視し続ければ、本当に何も感じなくなる。だが今は、闘うために必要だ」

「…そうだな。苦手なものほど敏感に反応すると言うが、それが【敵】を察知するために有効となれば、それほど悪いものでもないか」

 そう言いつつも、醍醐の顔色は悪いし、首筋の辺りをしきりに掻いている。入隊したばかりで龍麻たちの能力を把握し切れていない霧島が堪え切れずに尋ねる。

「皆さん…先程から何の話をしているんですか?」

 醍醐の顔色の悪さに、意地悪い笑みを浮かべた京一が霧島の肩を叩く。

「なあに。お前が判る様になるのはこれからさ。――なあ醍醐、アレがいるってんだろ?」

「アレって…なんなんですか? 京一先輩」

幽霊ゴーストだ」

 京一に喋らせておくと話が進まないので、龍麻が簡潔に言った。

「ゴースト? アレって、幽霊の事なんですか?」

「そういうコト。人の集まる所には、成仏できないアレが人肌を求めて漂ってくるって言うぜェ〜」

 他の者が言えば単なる馬鹿話だが、龍麻たちが言うと恐ろしいほどの説得力がある。霧島はキョロキョロと周囲を見回した。午後の残光はまだそこそこ強く、街は明るい。行き交う人々の顔もはっきりと見えるし、街の喧騒も絶え間ない不協和音を奏でている。

「俺たちは人には見えないものが視える。だからこそこのような闘いに身を投じているのだ。――どうだ? 葵」

「…激しい憎悪を感じる。何か異質な…強大な悪意がこの街の空を覆っているわ」

「方角は?」

「…人が多すぎるせいかしら? 曖昧模糊として判らないわ」

「判った」

 龍麻は空を見上げる。都会特有の、青みの薄い空だ。その中に、彼の眼は渦巻く黒雲のような影が重なって見えていた。

「それで、どうする? 闇雲に探し回っても時間を無駄にしそうだが」

 建設的な意見を述べようにも、所詮は素人考えになる。こういう捜索にかけても龍麻はプロだ。彼に任せる方が確実である。

「事件の性質はテロだ。【敵】も人が最も多い所で待ち構えているだろう」

「人の多い所って言うと…やっぱりサンシャイン通りかしらね」

「よしッ。じゃあまずはサンシャイン通りからだねッ」









 そろそろ会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生たちが群れ始める時間なのか、サンシャイン通りは龍麻の不機嫌ゲージをみるみる高めて行くに充分なほど込み合っていた。

 龍麻は人ごみが嫌いではない。もしそうならコミケなど行けないだろう。彼を不機嫌にしているのは、行き交う人々の余りの無秩序さである。かつて渋谷の街でもそうであったが、どれほど人が多かろうと、それがある程度の秩序をもって動いているのであれば問題ないのだ。しかし個人個人が我侭放題好き勝手に動き回るという状況には我慢ならないのである。

「ひーちゃんが不機嫌になるのも判るぜ。平日だってのに、なんなんだァ、この人の多さは?」

 見れば道行きを急ぐ者たちばかりではない。所々にグループを作ってたむろしているだけの若者やら、手に手にカメラを握り締めて周囲に視線を走らせている女子高生たちもいる。そういう連中がスムーズな道行を妨害しているのも、渋滞している原因であった。

「あんな事件が起こっているっていうのにね。――って言うより、事件が起こっているから余計に人が多いのか。――やだなァ、そういうの」

「確かにそうだな。怖いもの見たさの野次馬と、事件に無関心な人々か。どうして根拠もなく【自分だけは大丈夫】などと考えられるのか…」

 小蒔が声のトーンを落とし、醍醐がやや愚痴っぽく言う。

 自分たちの戦いは、あくまで自分たちの意思で始めた闘いであり、人々を守る義務がある訳でも、守ってくれと頼まれた訳でもない。しかし物事には必ずモチベーションが必要であり、自分たちの戦いによって護られる人々がこれでは、やる気が削がれるというものだ。

「無感動に無関心。寂しいわ。そういうの…」

 呟きつつ、龍麻の顔を見上げる。彼は不機嫌そうなことを除けば、そんな輩以上に人々に無関心に見えた。まるでこの場で爆弾テロが起きたとしても、怪我人の救出よりも犯人を捜しに行くような。しかし…

「目先の事など気にするな。夢の中で誰かが感謝してくれるさ」

「……」

 えらく気障な言い草。しかし、例えパクリの台詞であろうと彼自身の台詞に聞かせてしまうところはさすがだ。

 褒め言葉は、意外なところからかけられた。

「格好良いですね、龍麻さん」

 人ごみに紛れても、周囲から注目を浴びてしまう龍麻。ここでもやはり、遠巻きにしている女性たちの輪があった。しかし龍麻の雰囲気が容易に人を寄せ付けないものに変わっている為、誰一人声をかけられないでいた。今の賞賛は、その輪から抜け出してきた一人の少女が発したものであった。

 京一と霧島の驚くこと。その少女は舞園さやかであった。

「こんにちは。龍麻さん」

 大きなサングラスをずらし、満面の笑みで笑って見せるさやかに、龍麻はちょっと引きつった顔で「うむ」と頷いた。

 見ようによっては無愛想極まる応対だが、さやかの笑みは深くなる。先日【王華】で正式に【真神愚連隊】の入隊セレモニーを行ったのだが、どうやら龍麻は誰に対してもまったく同じような挨拶を交わす事を知り、このちょっと引きつったような顔をするのは自分に対してだけであると気付いたのだ。勿論それは差別でも特別扱いでもないのだが、入隊をお願い(脅迫?)した時のインパクトがしっかりと龍麻に残っているためで、さやかとしてはなんとなく嬉しくなってしまうのである。一方、霧島はそんな彼女の様子に、なんとも難しい表情を浮かべる。さやかが他人にそこまで心を開くのを、霧島でさえ見たことがなかったのである。それは当然、ある危惧を霧島にもたらした。

「サングラス架けたままなんて失礼ですけど、こんにちは、皆さん。…あ、霧島君も一緒だったのね!?」

 そこで初めて、幼馴染の存在に気付くさやか。笑顔を向けられても、自分がその他大勢である事を思い知らされてしまう京一に、今までずっと一緒にいたのにその他大勢の中に組み入れられている事を知って愕然とする霧島。しかし何とか自分を取り戻してさやかに尋ねる。

「さやかちゃん! どうしてここに!? 今日は赤坂のスタジオでレコーディングの筈じゃあ…」

「うん。予定より早く終わったから事務所に戻るところだったんだけど、龍麻さん――皆さんの姿を見かけたものだから車を停めて貰ったの」

 それからさやかはすすっと龍麻に近付き、耳打ちした。

(これって、運命ですよね?)

 ズザザッ! と引く龍麻。さやかは彼のそんな反応を見て笑う。

「ところで皆さんは、事件の調査ですか?」

 少し表情を引き締め、小声で聞くさやか。事件そのものはニュースなどで知る事ができるから、龍麻たちがここにいる事を考え合わせれば事件の調査に来たと考えるのは容易である。

「隠す必要もあるまい。肯定だ」

「やっぱり…」

「そういう事だから、さやかちゃんは早く帰った方が良いぜ。この辺はやべェ…って言うか、もう正体ばれかけてるし」

 油断なく周囲に牽制の視線を送りながら、京一が言う。醍醐や小蒔もなるべく周囲の視線からさやかを隠すようにしているが、何しろ龍麻の注目度も並ではないので、さやかに敵意の視線を浴びせる女性が後を断たず、彼女の正体に気付きつつあるようだ。だんだんと周囲に人が集まり始めている。

 しかしさやかはちょっと考え、おもむろに切り出した。

「龍麻さん。私にも何かお手伝いできませんか?」

「心配無用だ」

 弱み(笑)を握られていても、闘いに関することで龍麻は甘い顔をしない。それでも「却下」と告げないあたり、彼の微妙な心境が見て取れる。

「そうだぜさやかちゃん! 俺たちの事なら心配いらねェって!」

「そうだよッ。だからさやかちゃんは安心して、お仕事頑張ってッ」

 さやかの言いたい事は判る。入隊の経緯はどうあれ、彼女も【真神愚連隊】の一人なのだ。明らかに龍麻たちが【事件】に介入しているとなれば、彼女が同行を希望するのも当然の事だ。

 しかし今回の事件、彼らとて一筋縄では行きそうもない。

「でも、私だって仲間ですよね? 皆さんが事件の調査をしているなら、私にも何かお手伝いできることが…」

「さやかちゃん! 本当に危険なんだよ!」

 ここに来るまでに今回の【敵】がどのような能力を持っているか、その推察を聞かされていた霧島がさやかに詰め寄った。

 今回の敵は【憑依師】である可能性が高い。そしてその能力は動物霊を特定の相手に憑かせる事。強い意志を持って臨まねば【魔人】たちでさえ霊に取り憑かれ、敵に操られる可能性がある。そんな危険なところに彼女を連れて行くには――

「霧島君も、危険な事に変わりはないんでしょ? 私だって【真神愚連隊】の一員、中・長距離支援班・魔術戦闘員、舞園さやか。皆さんの闘いに参加すると決めた時から、覚悟はできているわ! ――龍麻さん! 私も連れて行ってください! お願いします!」

 テレビの中では決して見ることのできない顔を龍麻に向けるさやか。芸能界という甘えを許さぬ世界に生きる者の迫力は、武道家に勝るとも劣らなかった。霧島は絶句して何も言えなくなり、京一たちも口が挟めない。彼女は龍麻一人を見て言っている。

 龍麻はサングラスを外した。

 前髪の中から覗く、健在な彼の右目がさやかを映す。恐ろしく澄み切った瞳の中に薄く黄金の光が噴いているのをさやかは見て取った。

「…俺は本職優先だと言ったな。問題は?」

「――ありません。今日の仕事は終わりました」

「…命令は守れるな?」

「――はいッ!」

 さやかもサングラスを外して、真摯な眼差しを龍麻に向ける。その目には今回の件に立ち向かうために絶対必要だと龍麻が断言した、不退転の意思が込められていた。周囲で怒涛のごとく沸き起こった歓声など、既に彼女にとって遠い世界の出来事だ。

「――良かろう。支援班長の下に付け。霧島。お前は支援班の護衛だ。状況に応じ、京一の指揮を仰げ」

 そして龍麻は、サングラスを掛け直した。

「――戦闘開始だロックンロール

「――ッッ!」

 龍麻の言葉に、一同の間に緊張が走る。逸早く、龍麻の示したものに反応したのは京一と葵であった。

 本物の舞園さやかがここにいると知り、十重二十重に輪を作った人垣が、さながら古の海峡のごとく二つに分かれる。周囲の空気が異様な雰囲気を帯び、ざわめきが絶える。

「…龍麻さん」

 さやかが龍麻のそばに寄る。京一と霧島が何か言いたげだったが、その方向から目が離せない。

 果たして、割れた人垣の中から現れたのは、小学生くらいの男の子であった。

「――なんだァ、この餓鬼は?」

 京一が絡むような声を上げるが、隙は微塵も見せていない。これまでの戦いで、相手の姿形に惑わされるという事が死に直結すると骨身に染み付いているからだ。

 そして彼らの予想に違わず、少年は子供らしからぬ不気味な笑顔を浮かべながら言ったものだ。

「けひゃひゃひゃひゃ! とうとう見つけたぞッ! この世に蔓延る、穢れた人間どもッ!」

「――ッッ!!」

「しらばっくれても駄目さッ。お前たちは僕の仲間を何万も殺した。自分たちの都合だけで、何十万もの僕の仲間を殺したんだ! ――ククク! だからもう五人もやっつけてやったよ。でもお前たちの仲間はしぶといな。まだ僕のお腹の中で暴れてるよ」

 突然現れた少年が発する、あらぬ言葉に呆然とする、龍麻を除く一同。龍麻の目は既に全身の超感覚を駆使して周囲を走査している。

「くくくっ! あーはははははははははっ!」

 現れた時と同じく、唐突に踝を返し、少年は高笑いしながら人ごみの中に消えていく。これだけの人間で埋め尽くされた道路を、とても子供とは思えないスピードで。

「ねェ…お腹の中って…それってもしかして、人を食べちゃったって事…!?」

「――小蒔。【敵】の言う事に惑わされるな」

 冷徹無比な龍麻の声が、一同を正気に戻す。そして龍麻はさやかの肩を抱くようにして、一同の先頭に付いた。そして――

「――走れッ!!」

「おッ、応ッ!!」

 このような時は、どんな命令でも龍麻に従うのが正解だ。霧島が僅かに出遅れたものの、一同は弾かれたように走り出した。そして龍麻のコートから転がり落ちる、金属の円筒――



 カッ――――!! 



「ぎゃっ!」

「ぐわっ!!」

 一目散に走る【真神愚連隊】の背後で弾ける、強烈な閃光! 彼らを追って走り出そうとした人々が悲鳴を上げて目を押さえる。それは単に、本物の舞園さやかと知って後を追おうとするファンの行動ではなかった。少年の声を聞いている内に、みるみる正気を失っていった者の、獲物を捕らえんとする行動であった。

「やっぱりこの事件! 一筋縄じゃ行かねェぜ!」

「ああ! そうだな!」

 通りを埋め尽くす群衆全てが発狂したら、彼ら【神威】の力をもってしてもひとたまりもない。非常に不本意ではあるものの、【真神愚連隊】の面々は必死になってその場から逃げ出し…もとい、少年を追って走った。









「クソッ! 見失っちまったぜ! ――それにしても、なんなんだよ、あの餓鬼のスピードはァ!?」

「あれが憑かれている状態なのね? 龍麻」

 龍麻がとっさの判断で使用した閃光手榴弾のおかげで群衆に埋め尽くされたメインストリートを抜け出すことはできたものの、少年の尋常でないスピードの前には彼ら【魔人】の能力をもってしても追いつく事ができなかったのだ。

「肯定だ。――猫並の反射神経と三次元移動能力だ。事態はますます厄介になった」

 少年を見失ったとは言っても、龍麻の足取りに迷いは見られない。今は雑司ヶ谷霊園内を移動している。どれほど素早く移動しようとも、彼は【気】の痕跡を辿ることが可能だ。一度向き合って覚えてしまえば、車や電車などの移動手段を使用されない限り、かなりの高確率で追跡できるのである。

「厄介になったとは、何が?」

「今朝話した【憑き物】の件を覚えているな?」

「ああ。憑いた獣によって能力が変わるという、あれか」

「日本に猛獣はいない。敢えて挙げても北海道の羆くらいだ」

 龍麻はコートの内側からハードボーラーを抜き、青のマークを取り付けた弾倉を赤のマーク付きの物と交換する。青は訓練用ラバーボール・カートリッジ。赤は実弾…45ACPである。

「だが、猫や鼠などの小動物の霊を操るとなると、一気に危険は倍増する。数は無尽蔵。戦闘能力も人間とは比べ物にならん」

「どういう意味だよ? 猫くらいなら、かえって大した事ねェだろ?」

 京一が言うのへ、龍麻は一同の顔を見回す。皆一様に、京一と同意見のようだ。龍麻はふう、とため息を付いた。

「ひーちゃん! だからッ! その馬鹿にしたようなため息はやめろって!」

「…今のって、馬鹿にしていたんですかッ!? そんな…なぜですか!?」

 早くも師弟関係にある事を証明する二人。醍醐たちと言えば、これだけ共に死線を潜り抜けてきたのに…というような目を龍麻に向けている。

「醍醐、空手の大山倍達おおやまますたつ氏を知っているか?」

「当然だ。格闘技を学ぶ者で、大山倍達先生を知らない者などいるものか」

 大山倍達…門下生百万を超えると言われる実戦空手の雄、極真会館の総帥である。

「かつて氏はこう言われた。――人間は、日本刀を持って初めて猫と対等だ――とな」

「ッッ!?」

「また、スポーツハンティングを推奨するある作家はこうも言っている。【獣に対して銃を携帯することは卑怯な行為ではない。むしろ銃を持ってようやく、人は獣と対等になれる】。――俺もこの両氏の意見には賛同する。人間は地球上の全生物の中で最も弱い生命体だ。勝っているものがあるとすれば、時期を選ばない生殖能力くらいなものだろう」

 例によってデリカシーのない台詞に女性陣が顔を真っ赤にする。しかし、今の龍麻は酷く哲学的だ。そして、重要なことを言っている。

「走る速度は遅い。五感も鈍い。爪や牙などの武器を持たず、硬い外皮も持たない。筋肉のパワー、瞬発力、衝撃吸収力もたかが知れている。――それを踏まえて、体長一八〇センチ、体重七〇キロの猫もしくは鼠と闘うことを想定してみろ」

「ゲ…!」

 ようやく京一たちも、龍麻の言いたい事が判ったようだ。

「人間に危険な猛獣とは、やはりその大きさにある。二〇〇キロを越える体重を備えたライオン、虎、熊、牛…いずれも、人の手には負えん。大山氏やウィリー・ウィリアムスなど、牛や熊に勝利した格闘家もいるが、それらは特殊な例外と言わねばならん。だが小動物の瞬発性をそのままに大きさのみ拡大したらどうなるか。猫は自分の体長の十倍に及ぶ高さから落下してもその衝撃を受け止める事を可能とする。犬の走る速度は時速五〇キロを越え、鼠の前歯は電線を食いちぎる。蚤でさえ、自分の三〇倍に及ぶ高さを跳ぶ事を可能とする。――厄介と言う意味が解ったか?」

「…それはむしろ、既に能力の知れているライオンよりも、人の大きさを持った猫の方が恐ろしいという事ね」

「肯定だ。――罠と知りつつここまで来たが、ミスを犯したな」

 龍麻はハードボーラーをホルスターに納め、ショットガンを取り出す。レミントン・M1100だが、彼がいつも使っているピストルグリップ・ソードオフではない。一六インチバレルの普及型で、銃床ストックもちゃんと付いている。そしてこちらも一二ゲージのラバーボール・カートリッジを抜き、対大型獣もしくは道路封鎖用に使用される同口径の一発スラッグ弾に詰め替える。

「ミスって…なんだよ?」

 拳銃のみならず、ショットガンまで取り出す龍麻に、やや緊張しながら京一が問う。知らず、醍醐も小蒔も全周囲警戒態勢を取っている。そして、葵は――

「誰か――何かに見られているわ。それもたくさんの、憎悪のこもった目…」

 それが不吉な予言であったかのように、墓石の陰からいくつもの人影が現れた。

「…マジかよ」

「ああ。気配らしきものは感じていたが、これほど大勢隠れていた事に気付かないとは…!」

 さすがに京一も醍醐も緊張を隠せぬ声を出す。彼らの今のレベルならば、息を殺して気配を断っている鬼道衆忍軍にすら不意打ちを許すまい。しかし、その彼らをして、周囲をこうまで取り囲まれた事に気付かなかったのだ。サラリーマン風の若いのと中年と、OL風、中高生の男女、小学生や老人まで、老若男女、職業も問わない人々。それら【普通】の人々が【神威】の超感覚すら欺くほどの隠形術を使用したのである。――獲物を捕らえねば生きていけぬ、野性の隠形術を。

「龍麻さん…!」

「うろたえるな。付け込まれるぞ。決して奴らに、背中を見せるな」

 だが、現れた人影はざっと百人は下らない。龍麻たちは葵とさやかを中心に円陣隊形を組んだ。今までで一番危険な隊形だが、ここではそれしかない。

 ふらふらと中年のサラリーマン風が近付いてくる。曲がったネクタイに、着崩した背広。どこから見てもくたびれたサラリーマンだが、革靴でアスファルトを歩いても音を立てない。

「君たち…死にたいと思った事はあるかい?」

 いきなりの発言に絶句する一同。龍麻も同様だが、驚きの原因は発言の内容ではない。――それなりに意味を持った言葉を発した事に驚いたのである。彼の知る知識では、獣の霊に憑かれたものは言葉を操る事も、人間の使用する道具を扱う事もできない。【本物】の【憑き物】とはそういうものなのだ。あらぬ事を口走ったり、【我は狐なり】などと名乗ったりするのは、人格依存症などの精神病の場合が圧倒的に多い。つまりこれは――新たな症例であった。

「僕はあるよォ…いつもいつも…いつもね…。くくっ…くっ…。課長さえいなければなァ…」

「課長さえいなければ…課長さえいなければ俺だって…。ククク…やっぱりあのヤロウ、食っちまおうかなァ…。あのでっぷりした腹に牙を突き立てて…はらわたを引きずり出して…くくっ…くひゃひゃひゃひゃひゃ」

 背広に同じ社章――同じ人物の事を言っているのだろう。中年男の言葉に、若いのが賛同する。

「こいつら…マジでヤベェ…!」

「京一先輩…こっちからも来ます…!」

 既に京一も霧島も武器を構えているが、そんなものには目もくれず、化粧のきついOL風の女が近付いてくる。

「あららァ…なんて可愛い坊やたちだこと…。私を捨てたあの男よりおいしそう…。ねェ…どこから食べられたい? お腹から? それともお尻の方が良いかしら? ふふふっ、でも私、頭から丸呑みの方が好みなの。ひひひ…ひゃははははは…」

「なァ…僕らは皆、お腹を空かせているんだ。おとなしく、僕らに食べられてくれるよね?」

「今度は僕たちの番だよ。僕たちが…人間を食べる番なんだ!」

 ジュルルル! っと、居並ぶ者たちの口から大量の涎が溢れた。常軌を逸した目と言い、人間性のかけらも感じられない獣じみた構えと言い、極めて危険な存在だという事は五歳の子供でも分かるだろう。しかし――

「こ、こ、これがみんな、憑依された人たちなのッ!? ひーちゃん!」

「そうだ。―― 一二時の方向に攻撃を集中。包囲を突破する」

 ジャコン! とショットガンが鳴った。銃口は停滞なく、真正面のサラリーマン風に向いた。

「ちょっと待てェ! ひーちゃん! 何をするつもりだッ!!?」

「――京一。お前は右翼に付け」

「だから待てって! ひーちゃん! あいつら、ただの人間だろッ!? それ、実弾じゃねェか!!」

 そして一同は、久しぶりに龍麻の【これ】を聞いた。

「――それがどうした? 奴らは【敵】だ」

「待って! 龍麻!」

 正にトリガーが引かれる寸前、葵が両手を広げて龍麻の前に立ちはだかる。

「どけ! 葵!」

 銃口を微塵も揺らさず言い切る龍麻。しかしあろう事か、彼を羽交い締めにする手があった。醍醐だ。

「落ち着け龍麻! お前、どうかしているぞ!」

「ひーちゃん! 落ち着いて!」

 単純な力では、圧倒的に醍醐の方が勝る。龍麻は羽交い締めされながらも叫んだ。

「何度も言わせるな! 奴らは敵だ!」

「龍麻先輩! あの人たちは操られているだけなんでしょう!?」

 暴れる龍麻を押さえようと、京一に霧島まで加わる。いかに龍麻でも【神威】の三人がかりでは身動きできない。

 龍麻の目は、さやかに向けられた。

「さやか! 吹き飛ばせ!」

 突然の命令に、ビクッとするさやか。

「殺らなければ殺られる! 迷うな!」

「は、はいッ! ――uh〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」

 さやかの全身から青白いオーラが発せられ、高圧的な【気】が周囲に満ちていく。そして彼女が術を発動する際に生じるダイレクト・ボイスが響き、虚空に輝く雲が出現した。――既に裏密の指導を受け、彼女は音階を変える事で術の特性を選択する事ができる。コントロールに若干の不安はあるが、破壊力だけなら【先輩】の【神威】たちにも劣らない。



 ――ラ・ラ……ラ・ラ………。



「駄目! さやかちゃん!!」

 さやかに跳びつき、彼女の口を押さえる小蒔。術が完成する直前に妨害された為、空中に生じていた輝きがかき消すように飛び散る。

「さやかちゃん! 解ってるのッ!? 相手は人間なんだよッ!!?」

 さやかは抗議しようとしたが、口を押さえられていてはモゴモゴ言うだけだ。彼女の【力】は【声】を媒介にするので、口を閉じられていると【力】を使えないのだ。

 かつてない危険な【敵】を相手に、予想もし得なかった仲間たちの反抗。考え得る最大の危険であった。そこで龍麻が取った行動は――



 ――ノル・アドレナリン、アルファライン超過により戦闘機動許可発令――



「ッ馬鹿な!? 龍麻――!!」

 醍醐の腕の中で、龍麻の【気】が爆発的に膨れ上がる。――それはナンバー9ではなかった。いきなりV―MAXである。その証拠に、彼の背から翼の如き黄金のオーラが立ち昇る。

「龍麻さん! だめです!」

 良く通る声が、龍麻のV―MAX発動に異を唱えた。さやかが小蒔の手を振り解いたのである。

「ここは私が! ――Ahhhhh〜〜〜〜〜ッッ!」

「さっ、さやかちゃん!」

 小蒔が彼女の口を塞ぎ直そうとするよりも早く、さやかの術が完成した。妨害があると見越してもっとも素早くかけられる術を選択したのである。



 ――ル・ル……ラ・ラ……



「ムオォォ…」

「シュフゥゥゥ…」

 すぐそこまで迫っていたサラリーマン風とOL風が急に腰砕けになって地面に倒れ込むや、獣の唸り声のような高鼾をかいて眠り始める。

「離して下さい!」

 小蒔を振りほどき、更に術を発動するさやか。



 ――ル・ル……ラ・ラ……! 



 更に数人が昏倒する。しかし、【眠り】の術は効果範囲が狭く、一度にせいぜい三人くらいにしか効かない。

 だが、チャンスである事は間違いない。

「クッ! さやかちゃん! 頑張ってくれ!」

 どうあっても一般人を傷つける訳には行かない以上、さやかを頼るしかない。京一はそう叫び、龍麻に代わって指示を出した。

「とりあえず囲みを突破して逃げようぜ! 相手にしてたらきりがねェ!」

「そう思うなら下ろせ!」

 龍麻が怒鳴るが、醍醐は力を緩めない。

「だめだ! 今のお前はどうかしている! ここは俺たちで何とかするから、ちょっと落ち着け!」

 葵が全員に防御術をかけ、唯一戦闘できるさやかを先頭に走り出そうとした瞬間であった。

「みんな! 早くこっちへ!」

 それは聞き慣れた声。見慣れたジャケットにカメラバッグを下げた女性。

「エリちゃん!」

「ここは彼らの憩いの場所なの! 私が安全な場所まで案内するわ! 早く!」

 渡りに船とはこの事だ。その女性は天野絵梨であった。

「助かったぜ! 行くぜ、みんな!」

 さやかの手を握り――役得だとか思っている――走り出す京一に、すかさず付いて走り出した霧島が問う。

「あの人ッ、誰なんですか?」

「ああ!? エリちゃんつって、俺たちにいろいろ教えてくれる女神様さッ!」

「そうですか! 助かりましたね!」

 天野のいる一角には、なぜか【憑き物】の姿がない。

「ホントだよッ! 一般人を傷つける訳には行かないしさッ! 天野さんに感謝だねッ!」

 葵も小蒔を走り出し、最後に龍麻を抱えたまま醍醐が続く。

「やめろお前達! 付いていくな!」

「何を言ってるんだ! お前だって、人殺しをせずに済むならその方が良いだろッ!!」

「――クッッ!」

 この状態では何もできないばかりか、何を言っても彼らは聞く耳を持っていない。龍麻は唇を噛んだ。

「龍麻さん…!」

 そんな彼の様子に、さやかだけが気付く。しかし京一に腕を取られているので、何もできないまま走り続けるしかなかった。









「はあはあ…ここ、ドコ?」

 誰に聞かずとも、近くの塀にプレートが填められている。そこには【南池袋公園】とあった。

 一〇分に満たないとは言え、【憑き物】の追撃をかわすために全力疾走を余儀なくされた一同は、天野の「もう大丈夫」と言う言葉を聞くなり、そばにあったベンチにへたり込むように腰掛けた。

「よ、よかったァ…! これ以上は…ボク…だめ…」

「わ、私も…もう、足がもつれて…!」

 次から次へと現れる【憑き物】から逃げるためにグネグネと曲がりくねって走ったせいもあり、運動神経にかけては【力】を抜きにしても自信がある彼らでも、この全力疾走はきつかった。京一は地面にべったりと腰を下ろし、両手を地に付いているし、龍麻を担いできた醍醐も肩で息をしている。霧島も同様だ。例外中の例外は、醍醐に担がれていた龍麻だけである。

「どうだ、龍麻…少しは…冷静になったか…?」

「……」

 龍麻は応えず、皆と同じように、いや、術を行使した分疲労の激しいさやかに近付いていった。

「――大丈夫か?」

「…は、はい…大丈夫…です…」

「…無理はするな。落ち着いて息を整えろ。それと――これを飲め。疲労回復には良く効く」

 通常時の龍麻がフェミニストなのは良く知られている事だが、同じように息を切らせている葵や小蒔には目もくれない。やはりさっきの事を怒っていると見える。

 葵がちょっと眉をひそめ、小蒔が少しムッとしたので、やはりこのような場面に重宝する男が口を挟んだ。

「なんでェなんでェ。一人だけ涼しい顔しやがってよォ。さやかちゃん、油断しない方が良いぜ。なんたってひーちゃんは【無差別キス魔】だからよ」

「え!? そうなんですかッ!?」

 血相変える霧島。さやかが既に【事故】に遭っている事を知らず、それをネタにさやかが龍麻を【脅迫】した事も知らぬので、さすがに狼狽する。

「もうッ! 京一ってば何言ってんだよ! ――って、ちょっと! ひーちゃん!!?」

 小蒔が裏返った声を上げたのは、京一が言ったが如く、龍麻がさやかの頬に顔を寄せたからであった。二人の顔が重なり、さやかが真っ赤になって狼狽する。

「ちょっと…龍麻ッ!?」

「テメエ! ひーちゃん! 俺のさやかちゃんに何しやがるゥッッ!!」

 たった今まで肩で息をしていたくせに、目にした光景が衝撃的すぎてキレた京一! ガルルルルルッ! と唸りながら木刀を振り上げ――

 つい、と龍麻が振り向いた。

「――ッッ!!」

 いつもなら、京一の木刀を龍麻が軽くかわし、教育的制裁をガツンと一発食らわすところである。しかし、今回は決定的に違った。京一が木刀を正に紙一重で寸止めしたのである。龍麻が――避ける素振りを見せなかったからだ。

(なッ、なんで避けねェ――!?)

 キレているとは言え、京一の斬撃である。龍麻とて直撃を受ければただでは済まない。勿論京一はたとえ全力で打ち込んだとしても、龍麻ならなんとでもしてしまうという考えがあるから平気で打ち込む。いずれ【本気】の勝負となると解らないが。それなのに今日の彼は今に限り、まともに一撃を食らうつもりでいたかのように、反射的な筋肉の緊張さえ見せなかったのだ。京一でなければ、木刀を止める事などできなかったであろう。

「…俺が信じられなくなったのならば、いつでも抜けて良い」

「なッ――!?」

 ここしばらく聞く事のなかった、龍麻の放言。それはまるで、港区の事件の時に戻ったかのようだった。

「龍麻! 俺達は別に、そんなつもりでは――!」

「ひーちゃん!」

「龍麻…!」

 次々に上がる非難を肩で断ち切り、龍麻は携帯電話を取り出した。しかしスイッチを入れても反応がない。どうやら今の騒動で壊れてしまったらしい。今までも随分酷使していたから、さすがにガタが来ていたのだろう。

 龍麻を中心に一枚岩だと思っていた面々が何やら言い合いを始めるのを、霧島はおろおろしながら見ている。この程度のやり取りはしょっちゅうなのだが、【戦闘に関わる時】に龍麻がこのような発言をした時の危険性を、霧島はまだ知らなかった。

 そこでとりあえず、霧島は最も無難な形で場を納めようと口を挟んだ。

「そ、それにしても、天野さんって足早いですねッ。僕なんてまだ息が切れてるのに」

「――そう言やあそうだな。あれだけ走ったのに息一つ切れてねェなんて、スゲェぜ、エリちゃん」

 どうせこの場で何を言っても龍麻は応えまい。――それが解っているので、京一は霧島の言に乗った。

「うふふ。ルポライターは身体が資本でしょ? だから鍛えているのよ」

 そう言って天野は薄く笑った。どこか、人を小馬鹿にするように。

「緋勇君は疲れていないわよね? 醍醐君におんぶされていたんだから」

「……」

 龍麻は天野をちらりと見ただけで、沈黙を守り通していた。いつも前髪で目元が見えないところに持ってきて、今日はサングラスをしている。そして彼の真意を表情から読み取る事は不可能に近い。

「ところで、エリちゃんよ。この池袋にいたって事は、エリちゃんもこの事件を調査していたんだな。――さっきのアレが【憑き物】なのかよ?」

「いいえ、違うわ」

 京一に向き直り、天野は詠うように言った。

「あれこそ、人間が真に心の奥底で望んでいた姿なのよ」

「…どういう事ですか?」

「もはや人類という種に、生き延びる術はないの」

 次第に声が熱を帯び、天野の目に陶酔したような霞がかかる。

「現代の文明は、既に滅びの足音を聞いているわ。そして来るべき混沌の未来では、獣の性を持つものしか生きられない。人間と違い、生きるという唯一絶対の崇高な目的の為に殺し、奪い、喰らい合う…。それこそが新たなる王国に生きる資格。それこそが人間の本能。それこそが――人間の本性。役にも立たぬ文化という虚飾など捨て、人間は、素に帰るべきなのよ…」

 今までの、ジャーナリストとして真実の追究に使命感を燃やしてきた天野とは思えない、酷く退廃に満ちた言葉に、一同は遅まきながら異変と異常に気付いた。そして、龍麻がサングラスの奥から、彼女を睨んでいる事にも。

「そんなの――そんなの変だよッ。天野さんらしくないよッ」

 小蒔には気配や殺気を感知する能力はあるが、そこから相手の情報…そこに込められた【意志】などの情報を読み取る事はできない。それは龍麻や【菩薩眼】たる葵にのみ可能な技であり、かろうじて京一がそれに指を掛けている程度だ。そして醍醐も、天野の様子がいつもと違うという事しか解らない。

「そうかしら? 私は悟ったのよ。真実をね。――あなた達も、真実が知りたければ付いてくると良いわ」

 躍るように身を翻すや、天野はすたすたと歩き始める。龍麻たちが付いてくるのは解り切っていると言わんばかりに。

 そして龍麻は、誰にも声をかけず天野に付いて歩き出した。

 そんな彼の様子に戸惑いを覚えつつも、京一たちもその後ろに付いていく。その中でただ一人、さやかだけは戸惑いと、何か悲壮な決意を固めたような目を龍麻に向けていた。









 うきうきしているような、今にもスキップでもしかねないような天野に付いていく事五分少々。いつのまにか周囲は街の喧騒を遠くに聞く、荒れ果て、枯れススキやねこじゃらしで草ぼうぼう、薄ら寒い風の吹く廃虚の一角に辿り着いていた。先日、この廃虚の外れで二人の命が失われ、一人が瀕死の重傷を負ったのだが、本来ならば現場検証が続いていてしかるべき場所にも、人の姿は見えなかった。

 【神威】でなくとも解るのだ。ここは、自分たちがいるべき場所ではないと。

 その中で、天野は浮かれている。こここそ自分の居場所だと言うように。

 ここまで来れば、いくらなんでも異常に気付く。声を上げたのは京一であった。

「エリちゃん。いい加減に教えてくれよ。こんな所に俺達を連れてきて、どうするつもりだ?」

「ふふふ…ククク…ひゃはは…ハーハッハッハッハッハッ!」

 おかしくてたまらないといったような天野の笑い声は、途中から別の、悪意をたっぷり含ませた男の声に変わっていた。しかも天野の全身から、薄く赤いオーラが立ち上っている。もはや見慣れた【陰】の【神威】だ。

「ようこそッ、獣の巣窟へ! ――ククク、馬鹿なヤツラだぜ。こんなチンケな罠に引っ掛かるたあな」

「あ、天野サンッ!? な、なに言ってるのさッ!?」

「ああ!? クククッ、まぁ〜だ解らねェのかよォ。あのサイコ野郎、こんな馬鹿どもに負けたってェのか? 使えないねェヤツ」

 聞き覚えのない男の声で耳障りな笑い声を立てる天野。京一たちの脳裏に今回の事件の特性、犯人の能力、危険性などがフラッシュバックし――

「まさか…お前が憑依師かッ!?」

 ようやく事態を認識し、ずいと前に進み出る醍醐。全身の筋肉がメリメリと音を立てて盛り上がり、青いオーラを吹く。大抵の敵はこれで恐れを抱く――筈だったが、天野を操っている者は余裕の表情だ。――当然である。本人はここにはおらず、天野の身体を乗っ取って喋っているだけだからだ。

「そんな事を聞いてどうするんだァ? 今すぐ食われて死ぬしかねェお前らがよォ。――まあせいぜい、余計な事に首を突っ込んだ己の馬鹿さ加減を悔やむこった」

「――罠に掛かったのは貴様の方だ」

 勝ち誇ったような笑いを遮る、凍り付くような声。実際、天野の舌は凍り付いてしまったかのように押し黙った。

「虚勢を張るにも姿すら見せられぬ臆病者のテロリスト。その不細工な顔もろとも赤毛の禿頭をぶち抜いてやるから、良く磨いて待っていろ。ついでにセンスのかけらもない、そのくたびれた服も替えておけ。お前のような骨皮筋衛門は、寝小便に黄ばんだパンツ一丁でたくさんだ」

 出た! 龍麻の特技! プロファイリングから引き出される、聞くに耐えない悪口雑言。これをやられると、相手は驚くのと恥ずかしいのと激怒とで、まず間違いなくぶちキレる。

「俺は禿じゃねえッ! 寝小便なんぞもしてねェ! テメエ…ぶっ殺されてェのか!!」

「心配するな。貴様にはもう、明日は来ない」

「――ッッ殺せ!!」

 【敵】も、絶対的な自信があるから、このように勝ち誇って見せたのだろう。だがそれを真っ向から切り捨てられたばかりか、会った事もない筈の男に自分の秘密を次々と言い当てられる恐怖と恥辱はいかばかりか。まったく見たくない事に、天野は顔中を口にして喚いた。

 それに呼応して、廃虚からぞろぞろと人影が現れてくる。

「うわ! こんなに一杯…!」

「さ、さっきより多いですよッ! う、後ろにも!」

 廃虚とは言え、妙に開けた場所に誘い込んだ理由が【これ】である。猫や鼠などは、基本的に夜に活動する獣である。恐らく廃虚の暗がりは格好のねぐらであろう。そして龍麻たちは、完全に包囲される形である。先程の墓地の時より障害物が少なく、攻め手に良く守り手に不利な条件が揃っている。

「チッ! こうなったらやるしかねェ! ビビるんじゃねェぞ、諸羽ァ!」

「は、はいッ! 京一先輩!」

 木刀を、そして西洋剣を抜く師弟。小蒔の手にも弓が出現し、醍醐も拳を鳴らす。

「相手は一般人だッ! やり過ぎるなよ! ――龍麻、お前も…――ッッ!!?」

 龍麻の手から何か液体が飛び、自分たちの周囲を囲むように円を描く。何を――!? と思った瞬間、龍麻は怒鳴った。

「さやか!!」

「Ah〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 龍麻の叫びと同時に、さやかが術を発動する。彼女の【気】が高圧的に膨れ上がった瞬間、金縛りに遭ったのは、何と京一たちであった。

「な、何するんだッ! さやかちゃん!?」

 京一以下、誰もが目を疑う。さやかが自分たちの前に立ちはだかるように、京一たちを金縛りにしたのである。完全に不意打ちだったので、レベル的に彼女を凌駕する真神の四人も彼女の術に捕らえられてしまった。

「――龍麻さん」

「良くやった、さやか。――気を抜くな。一瞬でも気を抜けば、そいつらは術を跳ねのけるぞ」

「――はいッ」

 さやかの返事に驚愕する京一たち。龍麻が彼女にやらせたのか!? だが、なぜ!? 

 あまりの事に何と言って良いのか解らぬ一同を尻目に、龍麻は振り撒いた液体に火を付けた。どう見ても少量の液体は、しかし一メートル以上の炎の壁を生む。飛びかかろうとしていた【憑き物】たちは突然現れた炎の壁に、血相変えて飛び退いた。やはり野生動物、炎を恐れずとも、警戒はする。

「ナパームジェリーだ。三〇分は保つ。いくら【憑き物】でも、炎の危険性は知っているだろう」

 そして龍麻は、地面を一蹴りで炎の壁を飛び越えた。

 ここまでやれば、龍麻の行動は嫌でも解る。龍麻は――

「テメエ! 龍麻! 一人で闘うつもりかッ!!」

「そんな! どうして…!」

 さっきの事を怒っている…などという事は絶対に龍麻には有り得ない。彼はそんな度量の小さな人間ではない。龍麻がこのような態度を取るのは、全て仲間の為だ。だが一体、何が龍麻にこのような行動を取らせた!? 

「クッ! 舞園! 術を解け! 龍麻一人では無理だ!!」

 醍醐が一喝するが、さやかは耳を貸さない。目を固く閉じ、必死に術を維持する。

「五分で片付ける。それまでは保たせてくれ」

「は…はい…!」

 龍麻はさやかにしか声を掛けない。京一たちの言葉など聞き流し――いや、最初から耳に届いていない。

 堪え切れず、葵が叫ぶ。

「龍麻! 私たちの何がいけなかったの! なぜあなたが一人で闘わなければならないの! ――答えて! 龍麻ッッ!!」

『シャギャオオォォッッ!!』

 葵の叫びに【憑き物】の唸りが重なる。そして、轟音が。



 ドゴォォォォォォンッッ!! 



 ハードボーラーが炎を吐き出し、サラリーマン風が吹っ飛ぶ。【牛殺し】――45ACPのパワーだ。世界の半分以上の軍隊が制式拳銃に九ミリ弾を採用するようになった現代、テロリストや麻薬組織など凶悪犯罪者に対抗する特殊部隊員の間では、作動の信頼が置けるリボルバーや、当たれば吹っ飛ぶ四五口径が再び脚光を浴びている。それ程に、アメリカの象徴とも言える弾丸は頼り甲斐のあるタフ・ガイなのだ。

 それが、効かぬとは!? 

「ムオォォ…ッ!」

 怒りの唸りを発しつつ、サラリーマン風が起き上がる。衝撃で背広とシャツが裂けているが、その下の貧弱な肉体にはちょっとした痣が浮かんでいるだけで、ほとんどダメージを受けていなかった。――冗談ではない。猛牛の突進を止める45ACPを受けて、ほとんどダメージを受けていないなど! 

「そんな…馬鹿な!」

 一同は驚愕に目を見開いたが、龍麻は予測していたものか、細波ほどの動揺も見せなかった。

 【憑き物】の正体は現代科学では解明されていない。だからこそ龍麻は、実地でそれを分析していくしかなかった。帯脇との闘い、憑かれた少年との遭遇――この二つからでも、彼は無類の分析力を発揮し、今回の敵の能力を弾き出していたのだ。その結果、45ACPですらあまり効果はないという結論に至っていたのである。

 ハンティングでは獲物の大きさに合わせて弾丸の大きさも変える。カモなどの鳥類には通常散弾バッグショットを、イノシシや熊には一発スラッグ弾を、そして地球上で最大の動物、象には四六〇ウェザビー・マグナムというように。そして当然、龍麻はかつての経験から対猛獣用の弾丸を用意していたのだが、【憑き物】の元になっているのが小動物であった事が彼の計算に狂いを生じさせた。

 地球上のあらゆる生物は、現在の形になるまでに数百万年の時を重ねてきた。一個の生命体として生き、環境に適応し、経験という情報を溜め込み、死ぬ前にその多くの情報を捨て去り、自らの模倣子を残す。模倣子は先代より受け継いだ情報の一部を受け取り、自らも情報を溜め込み、情報の取捨選択に加えてDNAに刻まれた膨大なゲノムに極めて僅かな書き換えを行い、より環境に合わせた生物に進化する。つまり猛獣は、猛獣になるべく進化してきたのであり、小動物は、小動物になるべく進化してきた。そして虎と猫が闘えば、必ず虎が勝つ。

 しかし、【霊】というエネルギー状態を【存在するもの】として捉え、それが【種】の異なる生命体に干渉したらどうなるのか? その生命体を我が物とし、自らのエネルギー状態をその生命体に合わせたとしたら? ――体長二メートル、三〇〇キロの虎と、体長二メートル、三〇〇キロに巨大化させた猫が闘ったら? 結果は、恐らく猫が勝つ。虎はその巨体故に、その巨体に相応しい強大な力を持っているが、猫はその体の小ささ故に、木に登る、衝撃の緩和、急激な方向転換、狭いところを潜り抜ける柔軟性等の身体能力が優れている。勿論、生体を直接拡大すれば重力の束縛を受ける事は必至だから能力の制限は確実だが、物理法則を超越した【霊体】という特性を最大限に生かしたとしたら? 体長四〇センチを一七〇センチに、体重五キロを六〇キロに、重力の束縛抜きで拡大したら? 



 ドゴォン! ドゴォン! ドゴォン! ドゴォンッ!! 



 ハードボーラーが立て続けに火線を吐き出す。サラリーマン風が、OL風が、街のチンピラが吹っ飛び、すぐに起き上がってきた。【牛殺し】がほとんど効果を上げない! 龍麻の目は弾丸が彼らの【肉体】に触れる寸前で【何か】に命中するのを捉えていた。――恐らくは【霊体】の外皮。人間大に巨大化した猫の毛皮だ。体毛の密度も皮の柔軟性も小動物の方が勝る。そのまま巨大化すれば45ACPも効かぬのは道理――

「龍麻! 銃は効かな――ッッ!!?」

 京一は叫び、次いで愕然と醍醐たちと視線を見合わせた。

 龍麻は始めから警告していた筈だ。【銃は効かない】と。かつて【憑き物】と戦った時は、かのレッドキャップスですら苦戦を強いられたと。【見た目は人間】に幻惑され、獣を撃ち倒すほどの弾丸を持ち合わせていなかった傭兵たちは全滅したと。【憑き物】の能力は【神威】にも匹敵すると。

 今回の敵は、それだけ危険だったのだ。だからこそ龍麻は大口径の銃ばかり揃えていた。人のごった返すサンシャインストリート通りで閃光弾を使用するという無茶もやった。見た目に騙される事なく、【敵】に銃を向けた。

 それなのに――自分たちは何をやった? 今まで彼らを率いて、どんな窮地をも潜り抜けてきた信頼すべき指揮官を、【正気じゃない】などと思って邪魔したのである。戦う為に作られたマシンソルジャーの、それを忌避しつつも己の一部として受け入れ、常に正しい選択を下してきた龍麻の判断を【間違っている】と断じてしまったのだ。

 連勝は指揮官の判断を鈍らせる。兵士もまた、敵を過小評価し始める。それが、地獄への一本道だと気付く事もできない。鬼道衆との戦いが終り、京都で巨大な妖魔を退け、復活した九角と五人衆を龍麻が一人で片付けるほどに強くなっていると知り、そして先日の帯脇をそこそこ楽に殲滅してのけた事で、【憑き物】の脅威を過小評価してしまっていたのである。

 龍麻が挑む戦場では、指揮官の命令に従えぬ者は即座に死を迎える。そして今回、彼の下した命令に即座に従ったのはさやか一人であった。龍麻は自分の銃がほとんど効かない事を知りつつ、それでもなお【手加減】を口にした醍醐たちをさやかに命じて金縛りにさせたのである。もし相手を【一般人】などと思って手加減した攻撃などを加えていたら、その瞬間に京一たちはられていただろう。



 ――俺は殺せる。一瞬の躊躇も、一片の後悔もなく、奴らを殲滅できる。それは俺が向こう側の人間であり、俺の存在理由であるからだ。――



 今更ながらに、あの時の言葉が思い出される。今回のケースは【深きもの】と戦った時と非常に似ているのだ。だが京一たちは見た目に騙され、戦う事を躊躇したのである。鬼道衆という強大な敵を倒し、取り戻した平和にどっぷり漬かったのと、自分たちが強くなった事への【過信】が、この事態を引き起こした。そして龍麻は口よりもまず行動…彼らを死なせない為にさっさと一人で戦う事を選択したのである。

 だが龍麻には、京一たちにも考えが及ばぬ理由があった。

 いかに平和に慣れてしまったとは言え、ただそれだけなら京一たちが命令に反抗する事はない。鬼道衆との闘いでテロリズムの恐ろしさをたっぷりと味わった彼らだ。佐久間の一件があった時には、同級生が自爆攻撃まで仕掛けてきたのだから。

 龍麻はその原因が自分にある事を感じていた。彼ら自身は否定するだろうが、龍麻が自分の中にある得体の知れない力…V−MAXを制御し切れていない事が彼らに不安を与えている。その事が彼らの信頼に一点の染みを打ち込み、真に危険な場面で命令に反抗させたのだ。

 失った信頼を取り戻す為には、自分自身が足掻くしかない。弱い自分を乗り越え、更なる高みを目指さなければならない。九角に、五人衆に一人で挑んだのも、強くあらねばならない事を自覚した為だ。そして九角も、V−MAXを制御しなければならない事を龍麻に教えた。明日の為に、今日を戦い、強くならねばならない。今の限界を越え、もっと強く――。より強固な、自分自身を得る為に――。そして再び――【仲間】の【信頼】を勝ち取る為に。

『ミギャオォォォォッッッ!!』

 猫の【憑き物】と蛇の【憑き物】が上と下から飛びかかってくる。【神威】に匹敵するそのスピード! 弾丸を詰め直す暇はない。

『――ッッ!!』

 猫の爪と蛇の牙が唸り、それが黒コートの幻影を貫く。徒手空拳、【陽】の奥義、【各務かがみ】! 



 ズドォォン!! 



 龍麻に【無駄】という言葉はない。素早くマガジンを交換し、目の前の敵に一発。吹き飛ぶサラリーマン風の【猫憑き】。だが衝撃に怯みつつ、体勢を立て直そうとする。ここまでは先程と同じだ。



 ドゴォッッ! ドゴォッッ! ドゴォッッ! ドゴォッッ! ドゴォォンッッ!! 



 他の【憑き物】には目もくれず、ただ一体にのみ集中砲火を浴びせる龍麻。その度に【猫憑き】は吹っ飛び、廃虚の壁に叩き付けられた。そこでとどめの一発! 廃虚の壁を突き破り、遂に昏倒した。

 薬室チェンバーに一発残し、しかしハードボーラーをホルスターに戻す龍麻。四五口径では手間が掛かり過ぎる。龍麻はショットガンを抜いた。

 足元から襲い掛かってきたOL風の【蛇憑き】を底足蹴りで踏み付け、躍り掛かってきた【猫憑き】に一発。一二ゲージ・スラッグ弾をどてっ腹に食らい、くの字になって吹っ飛ぶ中年サラリーマン。これはさすがに効いた。もう一発撃ち込むと、中年サラリーマンは吹っ飛んだ先で動かなくなった。

 一体倒すのに一二ゲージ・スラッグを二発――とんでもない耐久力だ。

 しかし――倒せない訳ではない。

 コートを翻し、身体ごと【蛇憑き】の首筋に爪先をねじ込む。生身の人間相手ならば頚椎がへし折れているが、OL風は手足をビクン! と痙攣させて昏倒しただけであった。それでも動きは止まるから、とにかく強い衝撃を与えて【憑き物】の肉体を気絶させてしまう事だ。

 背後から忍び寄っていた【猫憑き】を振り向きもせず銃床ストックで殴り飛ばし、正面からの奴に二発撃ち込む。吹っ飛ぶ【猫憑き】二体の煽りを受け、後続がたたらを踏んだところに飛び込む龍麻。ショットガンを左手に、右手に【気】を集中――

「【螺旋掌】ッ!」

 霊的な存在ならばこそ、【気】による攻撃は有効だった。龍麻の正面一〇メートル圏内にいた【憑き物】が派手に吹き飛ぶ。だがここで、龍麻は気にしないものの、京一たちには目を覆うような現象が発生する。――龍麻の【螺旋掌】を浴びた【憑き物】の全身から血を噴き上げたのである。

 龍麻たちの操る【陽】の【気】は生命の活力となるが、強すぎれば肉体を損なうだけのパワーをも秘めている。龍麻の【螺旋掌】を受ける事によって【憑き物】は確実にダメージを受けたが、人間の肉体の方は【気】の過負荷に耐え切れず血を噴いたのだ。しかもその状態でも、肉体が動く限り立ち上がってくる。――動きを止める為には純粋な物理的ダメージが有効ではあるが、気絶から冷めるのも早い。だからと言って霊体に有効な【気】の攻撃は、生体にまでダメージが行く…。なんともやり難い【敵】であった。

「駄目だ! 止まらねェ!」

「クッ! 龍麻ッ!!」

 京一たちが唇を噛む間もあらばこそ――

 ベキィッ!!」

 生木がへし折れるような恐ろしい音。龍麻のローキックがチンピラ風の両足をへし折った。

 行動不能にするだけで良いのであれば、それでも構わない訳だ。だが単に操られているだけの一般人にそこまでできるのは、やはり龍麻ゆえ。京一たちでは、たとえそれが有効だとしても一瞬迷う。そして、その迷いが致命的になる。

 ――龍麻ですら、そうであった。

『ガァァァァァァッッ!!』

ただでさえ身体が小さいのに、地面に両手を付いている為に更に低くなって襲い掛かってくる、恐らくは【鼠憑き】の少年! 恐ろしい形相で牙を剥きながらも、しかしレッドキャップス・ナンバー14に似た顔立ちの少年に、龍麻の蹴りから僅かに鋭さが失われた。次の瞬間、少年は人間には不可能なスピードで方向転換し、龍麻の背後に廻り込み、彼の脹脛ふくらはぎに噛み付いた。

「ッッ!!」

 ショットガンのストックで少年を殴り飛ばす龍麻。だが少年は直撃を受ける寸前に飛び退き、ダメージを最小限に留めた。ぐわ、と笑いの形に口が吊り上ると、人間のものではない二本の歯が覗いた。それと、血が。――龍麻の血だ。

 それに気を取られている暇はない。真上から逆落としに降ってくる殺気! 龍麻はショットガンの銃口を上に向け――

『ゲオッッ!!』

 聞くに耐えない悪声と共に、若いサラリーマン風の口から生赤い鞭が飛んだ。――考えたくもないが、舌だ。それがショットガンに貼り付き、もぎ取っていく。三キロからあるショットガンを左右に広がった蝦蟇口で咥えつつ、そいつはゲロゲロと笑った。蛙…いや、【蝦蟇憑き】か!? 

 龍麻の手からショットガンが失われたのを見て、他の連中が一斉に襲い掛かってきた。集団戦のノウハウも統制も取れていない、獣の闘争本能のみに衝き動かされた攻撃。性質が悪い事おびただしい。

「【円空破】ッッ!」

 全包囲に放射される【気】の奔流! 何体かの【憑き物】が弾き飛ばされ、残りの何体かは素早く飛び退いた。そして――

『ビャッッ!』

 【蝦蟇憑き】から飛ぶ舌! それは龍麻の腕に張り付き、彼をその場に縫い止める。その瞬間、廃墟の屋根から一斉に跳びかかる【猫憑き】の群れ! 

「龍麻ァッッ!!」

「ひーちゃんッッ!!」

 サラリーマンとOLと、ありとあらゆる職業の【一般人】の群れに飲み込まれる龍麻。血飛沫が奔騰し、ちぎれたコートの断片が舞う。

「龍麻さんッ!!」

 さやかが叫んだその瞬間――

 轟ッッ!! 

『ギャオオオォォ――ッッ!!』

 爆発的に膨れ上がる真紅の炎! 一〇体からの【憑き物】がまとめて弾け飛び、地面に叩きつけられたところで、身体に燃え移った炎を消そうと悲鳴を上げて転げまわった。

 両手に炎をまといつつ、龍麻が立ち上がる。【巫炎】だ。――動物は不必要に炎を恐れる事はないが、それが能動的に自分に向けられるとなると別だ。残った【憑き物】もはっきりと怯えを見せた。今の一瞬で一〇体以上の【憑き物】を倒したのもそれに拍車をかけた。

 しかし、【憑き物】をまとめて倒し、残った者に怯えを刻み込むために龍麻が払った代償は大きい。両腕両足が噛み破られ、胸板をかきむしられ、辛うじて頚動脈を外れているが喉にもかなり深い裂傷が走る。サングラスが砕け、頬にも一筋の傷――満身創痍と言って良い。先の九角プラス五人衆との一戦でさえ、これほどのダメージは負わなかった。それが皮肉にも、小動物の霊に取り憑かれているとは言え一般人の群れに重傷を負わされたのである。そしてまだ、【憑き物】は大量に残っている。炎によって与えた脅えも、彼の身体から溢れる温かい血の匂いによってかき消される。



 ――肉体損傷率三〇パーセント。右腕神経接続破断。

 ――戦闘機動率二〇パーセントダウン。攻撃力二五パーセントダウン。

 ――戦闘可能時間四二〇秒。



 龍麻の左手が閃いた。

 亜空間から取り出されたのはM72グレネード・ランチャー! それを【憑き物】の群れに向かって構える。正に引き金が引かれようとしたその瞬間――

「【剣掌・旋】――ッッ!!」

 裂帛の気合と共に廃虚を駆け抜けていく竜巻! 何が起こったのか一瞬判断に迷った【憑き物】はたちまち竜巻に呑み込まれ、空中に巻き上げられて壁といわず地面といわず叩き付けられる。

「ひーちゃん! 後は任せろよッ!! ――そら! もう一丁――ッ!!」

 京一が先陣を切って駆け出し、再び【剣掌・旋】を放つ。またも10体ほどの【憑き物】がそれに巻き込まれ、吹き飛ばされた。

「済まん! 龍麻! ――またしてもお前にばかり嫌な役を押し付けてしまった…」

 それだけ言うと、醍醐も京一の背後を守るべく駆け出し、広範囲に【気】を照射する【円空破】と【破岩掌】を立て続けに放った。

 最初からその気でいれば、どうにでもなったのである。いかに【憑き物】が【神威】に近い身体能力を持つとは言え、接敵させずロングレンジから【気】を浴びせれば、生体にダメージが行く事は確かだが、昏倒させる事ができる。

 京一と醍醐が攻勢に廻った為、【憑き物】の群れが後退する。その隙に残る四名は龍麻に駆け寄った。

「クッ! こっちに来るな! ――ハアッ!!」

 こちらにまだ残っていた【猫憑き】の爪を剣で払いのけ、転身しつつ刀身で叩きのめす霧島。刃でないとは言え、【気】を込めた攻撃である。初老の域に達したサラリーマン風は勢い良く弾け飛んで動かなくなった。

「ひーちゃん、ゴメン! ボクたち、また甘ったれてた!」

 小蒔が龍麻の前まで走り出、京一と醍醐の背後に迫る【憑き物】に向けて【火龍】を放つ。【憑き物】の足元で爆発した炎が燃え移り、【憑き物】は悲鳴を上げて転げまわる。やはり動物に炎は有効だ。だが、憑かれている人間は大火傷を負ってしまう。

 その光景に葵は一瞬、目を閉じるが、きっと【敵】を見詰め直す。

 るかられるか――そのような闘いには、あらゆる感情は無力なのだ。躊躇した方が殺される。どれだけ立派な理想を唱えようが、死ねばそこで終わりだ。目の前の【敵】が誰かに操られていようがいまいが、【敵】は自分たちを殺しに来ている。戦うのを拒否するのは、「どうぞ殺してください」と言っているようなものなのだ。

「…こんなに単純な、大切な事も忘れていたなんて…。ごめんなさい、龍麻」

 彼が返事をしようがしまいが構わず、葵は龍麻に治療術をかけ始めた。

 龍麻は顔を上げ、今にも泣きそうな顔をしているさやかを見た。

「…まだ三分だぞ」

「…ごめんなさい…ごめんなさい…!」

 さやかの目から涙が溢れる。

 レベル的にはまだ低いが、彼女の潜在能力は中々のものである。磨けば、裏密と並んで【術】系戦闘の要となれるだろう。現段階とて、京一たちをぎりぎり五分は押え込める筈であった。しかしそれを三分で解いたのは、やはり龍麻が絶体絶命の窮地に陥った為だった。

 龍麻は泣きじゃくるさやかの頭をコツンと叩いた。軽い軽い一撃。少しも痛くないが、今のさやかには心が痛い一撃だった。

「――命令に背いた罰だ。――俺も、信頼されるにはまだ足りんな」

「龍麻…! そんな…!」

 悪いのは命令に逆らった自分たちの方なのに、龍麻はこういう時、必ず自分に責任があるかのように言う。さやかも霧島も、【何もそこまで…】と思いつつも、それこそが指揮官たる者の責任の取り方である事を痛感した。

 龍麻はコートを翻し、戦場に立ち戻った。

「龍麻! もう少し待って!」

 彼の右腕のダメージは酷く、傷は塞いだものの神経までは再生されていない。動かない右腕で【憑き物】を相手にするのは危険極まりない。

 幸い、その心配は杞憂に終りそうであった。【甘さ】を捨てた京一と醍醐、そして小蒔の三人の為に【憑き物】はほぼ掃討され、残るは天野一人になっていたのである。

「…これで全部か。くそ! こんな真似をさせおって! …ッッ!?」

 そうせねば自分たちが殺されていたと解っていても、周囲に累々と転がっている人々の惨状は醍醐に怒りの言葉を吐き出させるに充分であった。彼はそのまま天野…正確には彼女に取り憑いているものを睨み付け、そのまま動きを止めた。

「ああ!? 何やってんだよ醍醐! ――そーかそーか。エリちゃんに憑いている奴は俺にくれるって訳だな。早速ぶちのめしてや……ッ!?」

 木刀を正眼に構え、しかし彼もそのまま動きを止めた。

「二人とも、なにやってんのさッ! ――コラ! さっさと降参して天野さんから出てい…け……ッ!?」

 やはり小蒔も、天野を直視した瞬間に動きを止める。矢も地面に落ちた。

 何らかの術か!? 龍麻の手が【アナコンダ】を抜く。

 それも効かないと思っているのか、天野は耳障りな声で面白そうに笑った。

「クックック、まさか本当にマジチャカを振り回す奴がいるとは思わなかったぜ。だがよォ、テメエらはこれで終わりだぜ」

「…なんだと! どういう意味だ!」

 頭を一つ振り、正気に戻った醍醐が怒鳴る。だが、【神威】の殺気を浴びながら、天野は怯むどころかますます笑い声を大きくする。まるでそれは、勝利者の笑いであった。

「テメエ! 何がおかしい!」

 こちらも我に返った京一が木刀を突き付ける。天野は笑いながら、謎めいた事を言った。

「テメエらはもう逃げられねェぜ。――ククク、ようこそ、おれの王国へ。ひひひ…ひゃははっ…ひゃはははははははっ!!」

「あっ――!」

 葵が声を上げる。彼女には視えたのだ。何か酷く禍々しいものが、天野の身体から抜け出るのを。その途端、天野はふっと意識を途切れさせ、糸が切れたように地面に倒れていった。

「エリちゃん!」

「天野サン!」

 そのままだと後頭部を打つという寸前、京一が彼女を受け止め、皆が彼女のもとに走り寄った。

「ひでえ…美里!」

 これがあの天野だろうか? 顔色は土気色、頬は削げ落ち、見るからに酷く消耗している。辺りを見回せば、今まで戦っていた人々も骨と皮ばかりに痩せこけ、酷い有り様だ。霊に憑かれると酷く衰弱する事はホラー映画などでもお馴染みだが、どうやら本当にそうらしい。

「…何とか大丈夫そう。本格的に治療するのは後にして、今はここから離れましょう。さっきの銃声でそろそろ人が集まり始めるわ。――そうでしょ?」

 葵はそう言って龍麻を見た。

「…可及的速やかにここを離れる。――行くぞ」

 いつものように、龍麻は命令を下す。冷めた声だが、先程の命令無視は気にしていないようだ。

「よし、急ごう。天野サンは俺が担ぐ。龍麻は…京一、お前に任せる」

 龍麻の治療はほぼ終っているが、手酷くやられた為にまだ完全ではない。しかし龍麻はこうも言った。

「無用だ。京一は周囲を警戒しつつ先導しろ。小蒔、サポートしろ」

「う、ウン!」

「――解った。諸羽! ひーちゃんを頼む!」

「は、はい!」

 龍麻がベストな状態でない以上、それが無難なところだろう。龍麻は霧島とさやかに肩を借りる形で走り出した。

 慌ただしく廃虚を後にする中、さやかはふと、龍麻が厳しい目で前方を睨んでいるのを知った。

「…龍麻さん?」

 彼の視線の先には、京一、醍醐、小蒔の背中があった。龍麻は明らかに、薄い殺気を込めた目で彼らを睨んでいたのである。

「さやかちゃん! 急ぐよ!」

「う、うん!」

 龍麻の態度に気付いたのは、さやか一人だけのようだ。葵は小走りしながら龍麻に治療術をかけているし、霧島も先導する京一たちに付いていく事に集中している。そして前を行く三人は、自分にそのような視線が向いている事を知りようもない。

 まだ何か悪い事が起こりそう…さやかはそう感じずにはいられなかった。









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