第壱拾七話  魔獣行 後編 1





 東京都豊島区、池袋、サンシャインシティに程近い公園。二三三五時。



「ッキャアァァァァッッ!!」

 かなり控えめになった街の喧騒を、若い女性の叫びが切り裂いて走る。が、次いで響いた鈍い打撃音が叫びを中断させた。

『グルルル…ッ!』

 街灯の及ばぬ闇の中で、獣の唸り声のような声が響く。しかし、足音は二本足のものだ。音からすると、恐らく革靴――。それが悲鳴の絶えた辺りで立ち止まると、今度は布地を引き裂くような音が、次いで何者かがぴちゃぴちゃと舌を鳴らす音が漂ってきた。









「――この辺だったな」

 この地区を巡回パトロール中であった早田澄夫査は、自転車を止めて懐中電灯片手に暗がりの中に足を踏み入れた。

 【工事中】の幌が懐中電灯の光を白く跳ね返す。再開発計画の持ち上がっている廃屋ばかりが続く地区であるのと、大型の建設機械を入れる為に街灯が何本か止められている為、周囲は真の闇に近い。近所の呑み屋も店を閉めているので、夜ともなると人通りは極端に少なくなり、痴漢被害が多発しているパトロール重点地区である。そして今夜は早田巡査がこの地区を担当し、そして悲鳴のようなものを聞きつけたという訳だ。

 服務規定通り、無線で一応派出所に連絡を入れてから闇の中を歩く事数分、何やら腐った水と鉄錆のきつい匂いが空気にこもり始め、懐中電灯の作る光の円の中に、女性のものと思しき衣類の残骸が浮かび上がった。そして、なにものかの唸り声のような音。

「警察だ! そこに誰かいるのか!」

 懐中電灯を左手に持ち替え、右手で警棒を引き抜く。あるカルト集団が起こした事件以来、彼ら一般警官も常時拳銃を携帯しているが、やはり最初は特殊警棒に手が行った。

 光の円が薮の奥へと滑るように移動すると、そこにスカートを穿いた女性らしき二本の足が薮の中に引っ張り込まれるのが見えた。

(痴漢か強盗か!? コイツ――!)

 早田巡査は素早く周囲を見回し、そこが工事用のフェンスに囲まれている一角だと確認すると、鋭く闇の中に呼びかけた。

「警察だ! 誰かいるならおとなしく出て来い!」

 闇からの返事はない。『グルル…』という獣のような唸り声だけである。

(野犬でもいるのか? ――ふざけるな! 野犬が下着を剥ぐか!)

 足元に被害者女性のものと思しい下着を認め、まだ若い早田巡査は警棒をしまって拳銃…ニューナンブM60を抜いた。――これが後に彼の命をぎりぎりのところで救う事になったが、まだ彼はそれを知らない。

「出て来いと言ってるんだ! 早く!」

 懐中電灯を持ったままなので、拳銃をちゃんと両手保持できない。しかし早田はそのまま闇の一角から距離を取るようにフェンス際を進み、犯人が潜んでいると思しきところに光を当てた。

「――ッッ!!」

 【それ】を見た瞬間、早田は絶叫を放っていた。

 闇の中にぼうと浮かび上がったのは、二〇代後半と思しき女性だった。化粧は濃い目だが、なかなかの美人で体つきもグラマーだ。しかし、しかし衣服を剥ぎ取られて半裸を晒すその肉体は、腹の部分を無残に食い破られ、真っ赤な鮮血が湯気を立てていた。そしてそこから不自然に上に伸びた細長いもの…腸が、黒ぶち眼鏡に背広のサラリーマン風の男の口に咥えられていたのである。

『グワウッ!!』

 サラリーマン風が吠えた。口元から胸元にかけて真っ赤に染まっている。女の血だ。そして口の中ではクチャクチャと何かを咀嚼している。――女の腸だ。早田の喉がゲフッと鳴った。次の瞬間、サラリーマン風が飛びかかってきた。

「うわァァァァァッッ!!!」



 BANG! BANG! BANG! BANG! 



 銃声がビル街に木霊する。

『ギャオォォォォウッッ!!』

 外しようもない距離! サラリーマン風の身体を四条の火線が貫く。空に撃てとか、足を撃てとか、そんな服務規定など、未知の恐怖の前には何の効力もなかった。そして実際、三八スペシャル弾を胸と腹に撃ち込まれながら、サラリーマン風はびくともせずに早田巡査に飛びかかり、その喉に食らいついたのである。

 血飛沫が奔騰した。どうと倒れた顔に降りかかる血の熱さ。早田巡査は自分の血がこれほど熱いものだと初めて知った。

(食われる――ッッ!!)

 頚動脈を食い破られ、急速に薄れ行く意識は、自分の肉がサラリーマン風に食われているのを、目を通じて認識していた。粗末な棍棒や石器で肉食獣と闘わなければならなかった原始人の恐怖を、現代日本の警官が体験しているのである。

 だが、太古の原始人と早田巡査が決定的に違ったのは、彼が現代日本の警官であった事だ。ほとんど無意識に、拳銃を握った彼の手が上がる。残る弾丸は、あと一発――

(ッくたばれ――!!)

 そして早田巡査は、引き金を引いた。









 同時刻。サンシャイン通りの裏手。



「うん? なんぞ、あったんか?」

 一人の少年――学生服を着ているから解る――が、比較的近くから響いてきた四発…いや、五発の銃声を耳にして頭上を振り仰いだ。

 ここからでも、ライトアップされたサンシャインビルの威容が見て取れる。威風堂々としながら、どこか硬質で冷たい感じ。少年はすぐに視線を目の前に戻した。

「まあ、とりあえずはあんたらや。――悪ふざけもそこまでにしいや」

 少年の前には、五人の男女がいる。サラリーマン風、ホステスらしい女性、少年と同じく学生服…。およそ無関係そうな人々だが、少年に対しては共通の感情を抱いていた。がちがちと鳴らす歯に、地面に落ちる涎。そして、ぎらついた目。――飢えを。

「あかん。あかんなあ。そないな目で人を見るんわ。せっかく人に生まれてきたっちゅうに、お里が知れるで?」

 からかうような口調は、しかし彼らの飢えを増長させただけのようだ。両手を地面に付き、大きく身体をたわめて身構える。まるで――獣のように。

 それを目にした者は、例外なく太古の記憶、DNAに刻み込まれた先祖の恐怖を呼び起こされる事だろう。しかし少年は不敵に笑い、背中に背負っている布包み――刀らしきもの――に手をかけた。

「我救助、九天応元雷声普化天尊、我需、無上雷公、威名雷母、雷威振動便滅邪――!」

 少年の身体から青い光が発せられる。口から洩れる呪文は中国語のようだ。周囲の空間に神聖な【気】が張り詰め、集結した五人が脅えるように周囲を見回し、身を縮める。

「【活剄】ッ!!」

 裂帛の気合と共に、少年は刀を一振りした。

「――――ッッ!!」

 刀と彼らを繋ぐものは何もなかった筈だが、何かの波動らしきものが五人を貫き、その場に崩れ落ちさせる。

「――ちと手荒かったかいな? まあ、そのくらいで済んだんや。堪忍な」

 飄々と言い、少年は刀を背に納めて空を振り仰いだ。

「…こんなん繰り返してても埒が開かへん。この街のどこにおるんや。あいつは――」

 その時、ビルの谷間を風が吹き抜け、細い月が顔を出した。

 どこかで、こんな都会では聞く事ができない筈の、獣の遠吠えが響いた。

「――やれやれ。もう一仕事――やな」

 楽しそうな、それでいてどこか疲れたような声で呟き、少年はビル街を歩み去って行った。









 真神学園、三−C教室 〇八〇三時。



「大変よ大変よ〜ッ!!」

 真神の少尉殿、緋勇龍麻をしてピサの斜塔よろしく【引か】せる声が、朝の空気をぶち抜いて現れた。

 いつもと寸分の狂いなく登校する早々、この騒ぎである。龍麻とて年がら年中、騒動の中にいる訳ではないのだ。たまにはこの朝の一時をゆっくりしたいと思う時もある。ゆっくりとこう――経済新聞を読みたい時も。

「――って、なに、まだ龍麻と美里ちゃんしかいない訳?」

 基本的に、【真神愚連隊】の中できちんと朝早く登校するのは龍麻と葵だけである。京一と醍醐はいつもぎりぎりになってから登校してくるし、部活動を引退した小蒔も最近では時間にルーズになっているようだ。

「おはよう、アン子ちゃん。…うふふ。そんなに血相変えて、何かあったの?」

「何がって…何呑気なコト言ってるの美里ちゃん! あれから一週間しかたっていないのに、もう忘れちゃったワケ?」

 しかし当の葵は、人差し指を頬に当てて考え込む。葵に忘れられたら処置なしとばかりに、アン子は龍麻に向き直った。

「ねっ、龍麻なら、何が大変なのか判るわよね?」

「うむ…。パソコンOSウィンドウズの新作が発表されたのは良いのだが、インドネシア情勢の煽りを受けて石油の値段が上がりつつある。輸送ルート上に海賊の被害が頻発して、保険料の値上がりが深刻化しているのだ。このまま行くと再びガソリンその他の値上がりが…おおッ!?」

 突然、龍麻の手から引っこ抜かれる経済新聞。それは鬼の形相になったアン子の手によって引き裂かれ、破られ、灰色の紙ふぶきとなって宙に舞った。

「…まだ読み終わってないのだが」

「アンタねェ〜〜ッッ! 読むならもっと為になる新聞を読みなさい! このような!」

 バン! と叩き付けられるように龍麻の机に置かれたのは、真神新聞の最新号である。特集は運動会。総合優勝は三−Cだ。一糸乱れず行進する様や、直立不動の出番待ち、【見事としか言いようのないチームワーク】と評されながら、そのコメントをした校長自身が半ば呆れていたという辺りに、三−C優勝の立役者が誰か窺える。――しかし、経済新聞に勝るほど【為になる】内容だろうか? 

「あ〜あ、アン子ったら、こんなに散らかして…」

「ちゃんと掃除しておけよなッ」

「やれやれ。どうして朝からそんなに元気なんだ」

 背後からお馴染みの声が掛けられる。どうやら三人とも、今日は珍しく少し早めに登校したようだ。

「なによ、アンタたち、いたの?」

「ううん。今来たトコ」

 自分の机に鞄を置くと、いつものように龍麻の机を中心に集まってくる三人。

「それで、何か解ったってんだろ? さっさと話せよ」

「…龍麻や美里ちゃんですら忘れていた事をアンタが覚えていたっていうのは意外だったけど、なんかムカつくわね、その言い方」

「あははッ。アン子様ァ〜ッ、教えて〜ッ」

 うるうるした目を上目使いにぶりっ子ポーズを取る小蒔。アン子は引く。

「やめなさい! …もう、せっかくの特ダネだってのに、テンション下がるじゃない」

 そろそろ龍麻がボケ始める頃だな、と考えた醍醐が割って入る。

「ほう。さすがだな、遠野。もう何か解ったのか」

 一瞬、龍麻の視線が身体を貫いたような気がして醍醐は青褪めたのだが、それより先にアン子が嬉しそうな声を上げた。

「フッフッフ。任せなさい! 中野に文京、豊島区界隈の事件はばっちり調べを付けたわよッ! もうこれが、久々の超猟奇的事件ッ!」

「「「「「……………………」」」」」

 ハイテンションを取り戻したアン子とは対照的に、龍麻たちの雰囲気が重くなる。

 事件記者を自称するアン子としては、久しぶりの大事件に興奮しているかも知れない。しかし今まで多くの事件に介入してきた龍麻たちは、無残に死んで行った犠牲者たちの姿を何度も見ているだけに、彼女の発言は極めて不穏当なものに思えてしまう。しかしながら花見の一件【村正事件】以外は彼女を事件現場から遠ざけてきたのも龍麻たちであるし、その事を責める筋合いはない。

「アホ。ンなコト嬉しそうに言うんじゃねェ」

 京一のみが口を開き、軽くアン子の頭を小突く。アン子は当然抗議の声を上げようとしたが、一同の雰囲気に自分の方こそ失言だったと気付き、真面目な顔に戻る。

「悪かったわよ。――えーとね。まず事件は皆の読み通り、中野、文京、豊島区界隈で頻発しているわ。特に文京区周辺で多発していた事件の方は、被害者が大型の獣のようなものに襲われたという事で一致しているわ。幸い死者は出ていないけど、揃いも揃って手酷い重傷。おまけに全員が舞園さやかのファンだって言うから、これは皆が倒した帯脇って奴の犯行だと見て良いわね。実際この一週間、文京での事件はぴたりと収まっているし」

 一応、【真神愚連隊】の面々としては帯脇の逆襲(最後っ屁とも言う)に備えていたのだが、鳳銘高校での一件から二日後、龍麻が終息宣言を出して帯脇の件は終了した。――完全に妖蛇と化した帯脇を、たまたま遭遇した龍麻と犬神が殲滅したからである。無論、犬神の件はまだ秘密だ。

「もう一つが、池袋を中心に発生している、突発性の精神障害ね」

「あ、それ知ってる。池袋の東口辺りで、道を歩いている人が突然奇声を上げたり、暴れ出したり、手当たり次第に人に襲い掛かったりするっていう事件だよね」

 そこまで言った小蒔が、ちょっと表情に影を落とす。今朝のニュースでは、その最悪の例が報道されていたのだ。

「…夕べの事件では、女性が一人殺され、犯人が射殺されたそうだったな。撃った警官も喉を噛み破られて意識不明の重体だとか」

「突発性の発狂か。陽気のせい…って訳でもねェだろうな」

 醍醐と京一の言葉に、アン子が大きく頷く。

「アタシたちの視点なら、そう見るべきよね。実際、警察も精神科医もこれにはお手上げみたいよ。そしてあたしが一番注目しているのは、発狂状態に陥った人たちの証言なの」

 意味ありげに言葉を切り、アン子は龍麻に視線を向けた。

「その人たちは口を揃えてこう言ってるわ。【身体の奥底からの呼び声に応えた。本能の赴くままに身を任せた】とね」

「本能の赴くまま…か。何かで読んだ事があるが、確かに人間と言うものは突き詰めて行くと何らかの動物霊に辿り着くそうだな」

 このテの話は龍麻か裏密辺りが詳しそうだが、醍醐がそんな事を知っていたという事実にアン子が目を丸くする。

「へえ〜っ、醍醐君が知ってるとは思わなかったわ。そういうのを物活説アニミズムっていうのよ」

「つまり、犯人は――」

 何事か考え始めた龍麻に代わり、葵が分析する。

「人間の本能に働きかける【力】、もしくはその人間の元になっている動物霊を操る【力】があるというところかしら?」

「まァ、そんなトコだろうな」

 京一も同意する。

「今までだって鴉を操るわ、人を石に変えるわ、極め付けは人間を【深きもの】やら【鬼】やらに変えるような奴らがいたんだ。今更そんな奴が出てきたって驚きゃしねェよな」

「うん。それに、人を獣に戻すって言うと、帯脇が最後に言ってた事を思い出すね。――【獣になりたがっているのは俺だけじゃない】――って」

 既に倒した相手のことなど忘却の彼方に消し去っている龍麻だが、小蒔の言葉で少し記憶を掘り起こした。

 獣にする、される――。これはそのような【力】を持つものがやった事かも知れない。しかし帯脇は【なりたがっている】と言った。つまり、自ら望んでそのような考えを持つものもいるという事だ。

「獣になっちゃえば、悩む事も辛い事もみんななくなる。ただひたすらに本能のまま、だもんね…。ねぇ、ひーちゃんはそういうのってどう思う? 案外、ちょっと良いかも…とか思ったりして」

「これ、小蒔。せっかく人間に生まれているのだから、そのような事を言うものではない」

 ごく普通の口調で、龍麻は言った。鬼軍曹でも哲学的発言でもない、いつもの龍麻である。

「人間と獣の決定的な違いは、本能への依存度だ。動物にも豊かな感情があり、遊びの概念も存在するが、人間はより精神活動を高め、派生した理性や感性から【文化】を作り出したのだ。そして人間は農耕や牧畜を覚えて【生存競争】から一歩逸脱し、そのゆとりを使って文化、文明を発展させてきた。そして更に己の精神を磨くためにより高度な芸術や音楽、宗教や武術など、様々な修行法を編み出した。同時に、遊びや漫画、アニメにテレビゲームといった、生きる上では必要なく、純粋に楽しみや暇潰しの文化に至るまで。――目先の現実が辛いからといって、それら全てを捨て去るなど勿体無いぞ」

「……」

「それに、例えば京一が本能の赴くままに行動したらどうなると思う? ――世の女性たちにとっては迷惑千万ではないか?」

 せっかく柔らかい口調の龍麻の話に聞き入っていたのに、この有様である。一同はガクッと腰砕けになった。

「ひーちゃん! 何で俺を引き合いに出すッ!?」

「うむ。見事な比喩だろう?」

「だったら小蒔でも良いじゃねェか! コイツが本能に従ったら、きっと手当たり次第に物を食い散らかすぜッ!」

「京一! それ、失礼だぞッ!」

 ぎゃあぎゃあ言い合いを始める京一と小蒔に、葵も醍醐も苦笑する。この二人にしてもフォローの言葉が見つからないのだ。

「ま、それはさて置き、世の中には辛い現実から逃げたがっている人は多いからね。【敵】――敢えてこう言うわね――は確実に、そういった人間を標的ターゲットにしているはずよ」

 話が戻ったので、京一と小蒔も立ち戻る。

「じゃあ、やっぱり帯脇を蛇に変えたのもそいつの仕業かも知れないよね?」

「まず間違いねェだろうさ。――【あのヤロウ、恨んでやるぞ】。――きっちり【力】を借りてます、と言ったも同然だったからな」

 龍麻の見解では【神威】の【力】も銃のようなものだ。使い方次第で善にも悪にもなる。帯脇はただ強力な【力】を求め、それを手に入れて有頂天になった。その結果、龍麻に殲滅させられたのだ。

「まあ、あたしの情報じゃそのくらいかしらね。後は実際に行ってみるんでしょ?」

「そうだな…。いつもの通りに」

「――っと、その前に、専門家の意見を聞いておいた方が良いんじゃないの? ねえ、龍麻?」

 専門家…裏密の事である。

「肯定だ。――【憑き物】に関しては俺も断片しか知らん」

「断片? …ひょっとして、さっきから考え込んでいるのも【それ】か?」

 毎度毎度の事ながら、この男の雑学の豊富な事。そして壮絶な体験から得た博識な事には頭が下がる――と言うか、空恐ろしい。今回もそうだった。

「実際にそのような【力】を持つ奴がこの東京にいるとなると厄介だ。――アフリカにはそのような術を使う呪術師がかなり残っていてな。ウガンダでは【俺達】も苦戦させられた」

 【俺達】――レッドキャップスの事だ。しかし、苦戦したとは!? 

「そんなに手強いのか? 【憑き物】というものは」

 醍醐は真面目な顔で聞くが、声には薄い笑いがある。解りやすい表現を使うなら、ワクワクしているのだ。彼とて不謹慎だとは思うのだが、強敵の存在を知ると闘志が燃え上がってしまうのだ。

「うむ。何しろ見た目は人間なのでな。そのつもりで相手をしていると幻惑される。術の程度によって個体差が生じるのと、憑かせた動物霊によっても変化が生じるので、どうしてもとっさの対応が遅れるのだ。【俺達】には感情凍結処理が施されていたからまだ良かったが、作戦を共にした傭兵たちは、人間には不可能な機動をする奴らに幻惑された果てに全滅させられた。彼らの持っていた銃が効かなかったのも原因だ」

「銃が…効かない!?」

 龍麻は軽く肯いた。

「ジャングル戦では装備をなるべく軽くする為に小口径の自動小銃が好まれるのだが、アフリカではそのような甘えが通用しない。銃を持った人間より強力で狡猾な猛獣が数多く生息している為だ。そこで俺達は大口径のG3を用意していたのだが、傭兵たちは安物のAR−15、五・五六ミリ自動小銃しか持っていなかった。彼らの銃ではゴリラや豹などの猛獣を倒す事はできん。そして、それらの猛獣に憑かれた人間も耐久性が獣のそれになるのだ。――これを見ろ」

 鞄の中から【普通】のスポーツ新聞を引っ張り出す龍麻。京一は紙面の半分を埋めているさやかの記事に喜びの声を上げたが、醍醐と小蒔が教育的制裁を加える。龍麻が示したのは、【警官と相討ち!? 狼男出現!?】という見出しと、うつ伏せに倒れた犯人の死体写真であった。けしからん話だが、最近ではこのような写真を載せてしまう新聞も増えた。

「この警官は現在も意識不明らしいが、犯人に対して五発撃ち込んでいる。記事によれば致命傷は側頭部…こめかみに撃ち込まれた弾丸だ。他四発は胸と腹に当たっていたという。状況から見て頭の傷は最後に撃ち込まれたと思われる。そして、それでもなお事件現場から五〇メートルは逃走してのけた。それも踏まえて、犯人の背中を見ろ。一発も貫通していない」

「そう…だね。どこにも痕がないや。でも、どういうコト?」

「警官の使用する三八スペシャル弾はラウンドノーズと言って、非常に貫通性能が高い。先のAR−15も同様だが、貫通性能が高いという事は逆に肉体の損傷を最小限に留めるという事だ。貫通性能を高める事で殺傷率を落とし、たとえ戦場でも無闇に死体を損壊しないようにとの配慮だ。所詮、偽善者の戯言だが。――話が逸れたな。とにかくこの警官はそのような弾丸をかなりの至近距離で発砲している。当然、人体に当たれば防弾ベストでも着用していない限り貫通する。だがこの犯人は胸と腹に弾丸を埋め込んだまま警官に逆襲し、その喉を食いちぎった時にこめかみを撃たれた。それでも五〇メートル走るだけの力を残していたという事だ」

 一時にやつきを抑え切れなくなっていた醍醐が、口元を引き締める。さすがに笑っている場合ではない。

「…つまり、憑かれた人間は飛躍的に耐久力…と言うか、身体能力そのものが跳ね上がるという事か」

「…って事は、俺達【神威】に匹敵する可能性があるって事か」

 確かに記事を読んでみると、突発的に発狂した人間を取り押さえるのに十人がかりだの、スタンガンが効かなかっただのの文章が躍っている。龍麻の言う事に間違いない。

「日本に猛獣と呼べるほどのものはいないが、万が一という事もある。事前情報は多いに越した事はない」

「それじゃあ、放課後にでもミサちゃんのところに行きましょう」

 葵がそう言って話を締めくくった時、チャイムが鳴った。

「あっと、それじゃ、あたしは行くわ。それより情報提供料の件、よろしく頼んだわよッ!」

「情報提供料? なんだそれは?」

「なに言ってるの! 舞園さやかに会わせるって話よ!」

 ドアのところで振り返り、怒鳴るアン子。

「それは却下だと――」

「冗談じゃねェ! 誰がお前なんかに――」

 龍麻と京一が声を上げた時には、既にアン子は走り去っていた。

「あちゃあ…アン子ってば、今ので絶対約束した気になってるよ」

「正論では龍麻に叶わないからな。言ったモン勝ちという手で来たか…」

 こうなってしまったら、アン子は是が非でもさやかへの取材を迫ってくるだろう。戦闘に関わる事なら断固拒否する龍麻でも、それ以外となるとだんだんとアン子に主導権を握られつつある。さやかへの取材は断固として決行されてしまうだろう。

「クソ! 冗談じゃねェっての! アン子なんかに会わせたら、俺のさやかちゃんが汚れちまうだろうがッ!」

「…だから、君のじゃないって…」

 ガルルルルッッ! と唸る京一に小蒔がツッコミを入れたところで、マリアが現れた。朝の会議終了であった。









 真神学園屋上、昼休み。一二四〇時。



 天気の良い日、【真神愚連隊】の面々は屋上で昼食を摂る。汚れていると言われる都会の空気だが、やや高い場所を吹き抜ける風は心地良いし、見渡せばビル街にも結構緑が見えるものだ。そしてこの面々が揃っていれば、たとえ退屈な日常のヒトコマであろうとピクニックにでも変わってしまう。

 しかし、龍麻はそこにはいなかった。

 これから昼食という時に、無粋な放送が彼を呼び出したのである。呼び出したのはマリア・アルカード。龍麻の担任だ。――それだけなら何も問題はない。しかし彼女は龍麻たちの【力】を知る人間(?)の一人であり、近頃龍麻が要注意と目している人物である。ひょっとしたら事件関連かと思って同行を申し出た京一であったが、龍麻は一人で呼び出しに応じる事にした。京一たちはまだ彼女を【人間】だと思っているのだ。

(そろそろ危険かも知れんな)

 龍麻は左脇に吊ってある【アナコンダ】にそっと触れた。【対妖魔専用弾】を詰めたストライダー・カスタム。高レベルな魔物をも倒す強力な武器だが、果たして彼女が【本気】になった時、抜く暇があるだろうか? 

 ともあれ、今は学校の昼休みだ。無茶はするまい。そう考え、龍麻は職員室のドアをノックした。









「緋勇龍麻、入ります」

 例によって上目遣いで職員室に入る龍麻。そしてマリアとの会見の時はいつもそうであったように、職員室にはマリア以外、誰もいなかった。

「フフフ、待ってたわ。サァ、その辺に座って」

「失礼いたします」

 妙に蟲惑的なマリアの笑いにも、鉄面皮を崩さず龍麻は椅子に座った。ぴしりと背筋を伸ばし、一分の隙も見せない。いや、むしろ前より硬い態度だった。

 年がら年中硬い態度を取り続けられているマリアであるから、その変化も悟ったのだろう。いきなりこう切り出してきた。

「緋勇君。何か…私に隠してない?」

「まことに遺憾ながら、自分のスリーサイズ及び、舞園さやかの携帯電話番号はお教えする訳には参りません」

 態度こそチタン合金だが、返答はコンニャクであった。つまり、つかみ所がない。最近になって身に付けた腹芸である。

 一瞬、マリアは目を白黒させたが、すぐにふうっとため息を付いて見せる。それは龍麻の態度にだけではなく、自分を落ち着かせる為でもあったようだ。

「先週も、文京区の高校で騒ぎを起こしたでしょう? ワタシの耳には、ちゃんと入ってくるのよ」

「お言葉ですが、自分は身に覚えがありません」

 龍麻は真っ向からそらっとぼけた。マリアがストレートな質問をぶつけてくるなら、それに応じるまでだ。どうやらマリアは、何事か決心してこんな時間に龍麻を呼び出したらしい。

 鳳銘高校の一件は単純に【騒ぎ】と言うには過激も良いところだ。実に百人以上の不良が重傷を負い、銃創を負った者も数多い。一生まともな身体でなくなった者も。――マリアが一教師としてこれを知ったとすれば、当然、世間は【戦争】並みの騒ぎがあった事を知っている筈だ。しかし事件そのものは闇に葬られ、新聞にもニュースにも龍麻たちの事は一言も洩れていない。その上でなお【知っている】とすれば、それは【裏】の世界に通じているか、マリア自身が【人外】である証拠となる。あそこには【まともな】人間は一人もいなかったのだから。

「先生には…言えないコト?」

「質問の意味が不明瞭です」

 あくまで龍麻は呆ける。彼女は【まだ】敵ではない。龍麻には自分から好き好んで敵を作る趣味はない。今まで彼の命を救ってきた【直感】は【まだ彼女に触れるな】と言っていた。しかし今日の彼女は退くつもりがないようだった。

「緋勇君…アナタは一体何をしているの? それがワタシには解らないから、余計に不安になるのよ。何をしているのか、何をしようとしているのか、ワタシにも話してちょうだい」

「…ローゼンクロイツでの一件は感謝しております」

「……!」

 ほんの少し、龍麻は危険に踏み込んだ。ローゼンクロイツでの一件――学園を爆破し、ヘリを撃墜し、学長のジル・ローゼスを殺した一件だ。そして龍麻はマリアの目の前でジルのボディーガードを射殺し、MGでヘリを撃墜してパイロットも射殺している。だがそれを、マリアは警察関係者には洩らしていないのだ。これは、犯人隠蔽、殺人幇助に該当する。

「龍麻クン」

 ややあって、マリアは彼の名を呼んだ。ため息混じりに。

「ワタシはね、心からアナタの身を案じているのよ。アナタの身体が傷付くかも知れないと考えると、私は気が気じゃないの」

 それは、普通の男女間で交されれば、熱烈な愛の言葉になったかも知れない。だが龍麻は元マシンソルジャーであり、対テロリスト戦のスペシャリストだ。そしてマリアは――人外の存在。

 龍麻は、もう一歩踏み込む覚悟を決めた。それが火薬庫でマッチを擦るような行為だと解っていても、マリアに生じた疑惑は今後の自分の、ひいては仲間の命に関わるものになるかも知れない。

「怖れながら、先生が案じているのは自分の肉体ですか?」

「――ッッ!!」

 案の定、マリアは酷く動揺した。思わず洩らした言葉の中に、極めて重要な意味を含めてしまった事に気付いたのである。龍麻の特技――プロファイリングを、マリアは知らなかったのだ。

「――自分は鳳銘高校で、三十名からの若者と銃撃戦を行い、百名に及ぶ若者に重傷を負わせました」

 息付く暇も与えず、龍麻は静かに畳み掛ける。これも闘いであった。それも、命懸けの。

「彼らは二度と日の目を見る事なく、望まずとも他人の役に立ってこの世から消え去るでしょう。――この事実を知る事で、先生には警察への通報義務が生じました。これを無視すれば先生は自分の共犯者となります。現代日本の法律に照らし合わせれば、自分がやってきた事は全て犯罪行為とされるでしょう。それがたとえ、取るに足らない【人間】の作った法律でも。――先生は、どうなさいます?」

「……」

 マリアの目が、じわりと危険な光を帯びる。

 龍麻はそれを認識していたが、彼女と視線を合わせようとはしなかった。彼女の目を見れば引き込まれる。今の彼には【それ】が解っていた。あとは、タイミングだけである。どちらが先に、戦端の火蓋を切るか。

「龍麻クン。ワタシは――」

 その時、ガラリと職員室のドアが開いた。マリアの視線が外れ、そちらに向けられる。龍麻も同様だ。

「なんだ、緋勇。お前、また何かやらかしたのか?」

「――お恥ずかしい限りです」

 この会見中、一度もマリアには向けなかった柔和な声で応じる龍麻。思った通り、首筋がチリッと痛む。マリアの怒気だ。

「犬神先生…昼食はもうお済みですの?」

「え? ええ。俺は昔から早食いで有名でしてね。特に昼にはたっぷり昼寝をするのが習慣なもので」

 昼寝なら、職員室よりも彼の【棲み家】である理科準備室の方が最適だろう。犬神の腹芸に感心してしまう龍麻である。彼の目には、二人の間に飛び散る火花が見えていた。とはいえ、マリアが一方的に敵意を飛ばしているだけで、犬神はのらりくらりとそれをかわしているようだ。

「緋勇君。もう戻っても良いわよ。また今度、ゆっくり話をしましょう」

 確かに、犬神が出てきてはこれ以上無理だろう。龍麻は立ち上がり、敬礼した。今までのやり取りを考えると挑発しているようだが、【一応】教師なのだから礼儀は尽くす。

「緋勇龍麻。戻ります」

 くるりと踝を返し、マリアから顔が見えなくなったところで苦笑を洩らす。これでも彼なりの感謝の印だ。意味は「助かりました」だ。

「おや、邪魔してしまいましたか。これは、失礼」

 殊更にマリアの怒りを煽るように、呆けて謝ってみせる犬神。こんな腹芸を見せるのは、龍麻を監視しているのはマリアだけではないと知らせているのだろう。そして龍麻と犬神の間には、何らかの同盟があるとも匂わせているのだ。

「いいえ。お気になさらないで下さい。それじゃあ、またね。緋勇クン」

 一礼し、職員室を辞した途端、龍麻は固く握り締めていた手を解き、揉み解した。

 ああいう腹の探り合いは苦手ではないが、マリアの底知れぬ雰囲気には正直言って肝が冷えた。今のタイミングで闘っていたら、どうなっていたか解らない。

「時機尚早だな。俺も、マリア先生も…」

 ポツリ、と呟き、龍麻は歩き出した。勿論、昼食を摂りに屋上に向かったのである。









 放課後になって、龍麻たち四人と一個の物体は計画通り霊研へと向かった。(ちなみに一個の物体とは【蓬莱寺京一】という個体名を持っている。授業を全て睡眠時間にあて、教科書を涎で波打たせていた彼の上にかなだらいが降ってきた為である)

「う〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜〜〜〜〜」

「……」

 とりあえずノックしようと龍麻が手を上げた途端、ドアは音もなく開き、文字通り一寸先も見えない暗黒が彼ら一同を出迎える。怪しい笑い声はその闇の向こうから聞こえてきた。

「…入るぞ。裏密」

「う〜ん。気を付けて〜」

 恐れ気もなく闇の中に足を踏み入れる龍麻。が、次の瞬間、【天井】に向かって【落下】する感覚に襲われ、猫のように身を捻り、コートを翻して【天井】に着地する。

「さすがね〜。ひーちゃ〜ん」

「…学校の中でこのような術を使ってはいかん。危険――」

「どわァァッ!!?」

 ボトボトと【天井】に降ってくる京一と醍醐。

「――だと言う暇も与えんな。とりあえず戻せ」

「らじゃ〜。ひーちゃ〜ん」

 恐る恐る闇の中に顔を突っ込み、部屋の中を見やる葵と小蒔の前で、天井から逆さまに降りてきた裏密と龍麻、そして部室の備品がくるりとターンして正常な重力場に身を落ち着ける。しかし京一と醍醐はその感覚に付いていけず、またしても落っこちた。幸い裏密が重力コントロールを利かせていた為、トランポリンの上に落ちるようなもので済んだのだが。

「うふふふふ〜。ようこそオカルト研へ〜。待ってたわ〜、ひーちゃ〜んに、京一く〜ん」

「な、何で俺達だけ名指しなんだよッ!」

 反重力場の餌食にされた事よりも、そっちの方が気になるらしい。京一がうろたえて裏返った声を上げる。

「それはキミたちが気に入られているからじゃないの? ――それよりミサちゃん。聞きたい事があるんだけど…」

 今日のもちょっと驚いただけで、あとは何事もなかったように話を進める小蒔。人間の最大の強さは【慣れ】であろう。

「うふふふふふ〜。我が元に集いし知恵の精霊キュリオテーテスの恩恵により〜、汝が望む知識の全てを〜、声なき声ナーダにより授けよう〜」

 例によって魔術用語を交えながら言う裏密。いつもならばここで龍麻たちが質問するのだが、珍しく今回は裏密の方から話し掛けてきた。

「でもその前に〜、あたし〜も聞きたい事があるの〜」

「な、なんだよッ。俺のスリーサイズなら秘密だからなッ」

 どこかで何かが、ガーンと鳴った。

「もうッ。京一ってば、そんなもの知ってどうするってのさッ。――ホラ、ひーちゃんまで青褪めてるしッ」

 小蒔が呆れて突っ込むが、龍麻に関しては弱冠の誤解がある。京一と同レベル…その事が龍麻を青褪めさせたのだが、とりあえずそれはどうでも良い事であった。

「うふふ〜。それはもう知ってるからいいの〜」

「な、何ィ!?」

「お前はッ、すこしッ、黙ってッ、ろッ!」

 このままでは少しも話が進まない。問答無用で京一にチョークスリーパーをかます醍醐であった。

「私たちに聞きたい事って、何なの? ミサちゃん」

 息も付けない京一が救助を求めているが、もはや誰も気にしていない。葵も同様だ。

「うふふふ〜。アン子ちゃ〜んからも話は聞いてるけど〜、みんな〜八俣大蛇やまたのおろちを見たって本当なの〜?」

「…あれがそうとは言い切れないけど、確かに見たし、自分でも言っていたわ。首は一つだったし、手も生えていたけど…」

「うん。それで、さやかちゃんの事を櫛名田比売命くしなだひめのみことだって言ったんだよね。そして霧島クンの事も須佐乃男命すさのおのみことだって」

 裏密は何やら考え込んだようだ。時折にや〜っと笑ったりするのだが、これでも情報を整理している顔なのだろう。

 やがて考えもまとまったか、裏密が口を開いた。

「う〜ん、それは〜憑依現象かもしれないね〜」

「憑依現象? 予想とはちょっと違ったな」

 醍醐がそう言うと、今までのやり取りをどういう手段でか聞いていたらしい事を裏密は言ってきた。

「もちろん〜、人間の素も無関係ではないわ〜。おそらく〜帯脇って人の素は蛇だったから〜、大蛇の霊を憑かせることが〜できたのね〜。そして〜帯脇って人の強い【念】が〜さやかちゃ〜んを櫛名田比売命と〜錯覚させたのかも〜。あるいは〜、本当にさやかちゃ〜んや霧島く〜んが〜、櫛名田比売命や須佐乃男命の転生〜って事もあるかも〜」

「そう言えばあの時の霧島クンも自分でスサノオだって…。う〜ん、複雑だね…」

 裏密の説明に、小蒔は少し頭がこんがらがったようだ。そこで裏密は別の話に変えた。

「ねぇ〜、ひーちゃ〜んは、【憑き物】って知ってる〜?」

「肯定だ。いわゆる【狐憑き】などの現象だな。最近では精神病理学の見地から解明されつつあると言われているが、真実は未だに闇の中だ」

「さすがね〜、ひーちゃ〜ん」

 龍麻を除く一同には、なぜ【憑き物】とやらが出てきたのか理解できない。

「みんなの〜知りたい豊島区の事件は〜、もしかしたら〜【憑き物】のせいかも知れないわ〜」

「…つまりお前は、こう言いたいのだな? 帯脇に大蛇を憑依させた――即ち憑き物を自在に操れるものがいて、そいつが豊島区を中心に、人々に獣の霊を取り憑かせているのだと」

 そう考えれば、鳳銘高校の教員や生徒の異常も説明できる。そしてあの場にいた、無数の動物霊の事も。もう少し注意していれば、黒幕もあの場にいたのかも知れない。

「多分ね〜。帯脇って人に〜本来扱いにくい大蛇の霊を憑かせた手際からすると〜、人間の素を見抜き〜それに相応しい霊を憑かせる事ができたという〜太古に滅びた憑依師かもね〜」

 さすがにそこまでストレートな名前は、龍麻の知識の範疇にもなかったようだ。しかし一人だけ声を上げた者がいる。古典が得意な葵だった。

「憑依師って、何かで聞いた事があるわ。うろ覚えだけど、平安時代に活躍…と言うか、暗躍した呪術師よね?」

「うふふふふふふ〜、さすが美里ちゃん〜。憑依師は〜陰陽道や呪禁道じゅごんどうから派生した邪法で〜、常に己の周りに獣の霊を漂わせ〜、好きな時〜好きな場所〜へと飛ばせると言うわ〜。犯人は恐らく〜、憑依師の系譜を継ぐ者よ〜。そして〜豊島区に渦巻く強大な怨念を〜その糧にしているのね〜」

 豊島区に渦巻く怨念。あまり聞き覚えがないが、どういう事なのだろうか? その辺りを聞こうと龍麻が口を挟もうとした時、失神寸前だった京一がやっと脱出に成功した。

「プハッ! 醍醐! 俺を殺す気かッ! ――とにかく、なんだ。豊島のどこかに隠れている憑依師って奴を探し出してぶちのめせば良いって事だろ? そうと決まりゃ、後は行ってみるだけだぜ。どうせそいつは、こっちの事を待ち構えているだろうしよ」

「うむ。そうだな。帯脇を通じて、俺達の事を知っている可能性は充分にある。そうだな? 龍麻」

「肯定だ。充分に装備を整えて出撃する。今回は、少数で当たらねばならんようだからな」

 龍麻の言葉に「?」となる一同。確かに今までも龍麻を中心にこのメンバーで事件を調査し、戦闘開始前にメンバーを召集するのがパターンであった。しかし龍麻が最初から【少数で】と言った事はない。【一人で】なら何回もあるが。

「今回の一件――敵がその憑依師だと仮定した場合、動物霊を憑かせるという戦闘法が厄介だ。俺たちの中で誰か一人でも操られた場合、止めるために手加減などできんからな」

 顔を見合わせる一同。確かに日頃一緒に戦ったり、仲間内で模擬戦闘をやっているから、仲間たちの強さはよく心得ている。その仲間と本気で戦うことになったら…どう考えても怖い考えになってしまう。

「うふふ〜、強い意志を持っていれば〜、取り憑かれにくくなるわ〜。ひーちゃ〜んたちなら大丈夫よ〜」

「有り難い言葉だけどよォ、お前に言われると有り難味が薄れるんだよなァ」

 京一がしかめっ面をしながら言うのへ、小蒔がゴツンと一発食らわす。

「こらッ! 心配してくれてるミサちゃんに失礼だろッ!」

「うふふふふ〜、でも〜憑依師と戦う時は〜気を付けてね〜。強い意志を持っていても〜感情を高ぶらせると〜霊の侵入を容易にするわ〜。死にたくなければ平常心〜。んふふふふふふふふふふふふふ〜」

 それは極めて重要な忠告であった筈なのだが、最後の裏密の笑いに京一と醍醐が派手に引いてしまい、早々に話の腰を折ってしまった。

「そ、それならそうと、早いところ池袋に向かうとしようぜッ」

「そ、そうだなッ。余り時間を無駄にする訳にもいかんしッ」

 二人揃って「もういいだろッ」っとばかりに、鬱陶しいことこの上ない【捨てられた子犬のような目】を向けるので、龍麻はため息を付いて、裏密にラフな敬礼を向けた。

「貴重な助言を感謝する」

「うふふふ〜。いいのよ〜。でも〜ひーちゃ〜んは、特に気を付けてね〜」

「…どういう事だ?」

 今日に限って、名指しの忠告である。その真意を聞こうとした龍麻であったが、やはり京一がその間に割って入った。

「ひーちゃんや俺らに限って早々やばいことになんかならねェだろッ。――さあさあ! 早く行こうぜッ!」

 そして醍醐ともども龍麻の背を押し、霊研から出て行ってしまったのであった。

 そんな三人を見ながら、葵と小蒔は肩をすくめる。

「それじゃミサちゃん、色々とありがとう」

「うふふふ〜、頑張ってね〜」

「ミサちゃんも行かない? ミサちゃんが一緒に行ってくれると心強いなァ」

「う〜ん〜、ごめんね〜。今凄く重要なところなの〜」

 普段なら、このような怪奇現象絡みの事件なら興味津々で付いて来るところだろう。しかし【憑き物】の一件以上に重要な事に、裏密は取り組んでいるらしい。

「そっか…それじゃ、行ってくるねッ」

 やや残念そうに、葵と小蒔も霊研を後にした。裏密の、どことなく心配そう(?)な視線を背に受けながら。









 龍麻が「装備を整える」と言って旧校舎にある【真神愚連隊本部】へと姿を消し、京一たちが校門のところで待っていると、近頃定番の声が一同にかけられた。

「京一先輩! 皆さんも、こんにちは!」

「よおっ、諸羽。――って、今日は訓練休みだって言わなかったっけか?」

 あの【大蛇】との実戦を経験した日より一週間、霧島に猛特訓を施した京一である。その苛烈さは【二代目鬼軍曹】とも称され、訓練内容の余りの過酷さに雨門や織部姉妹などは心配したものだが、こっそりと【死んだ方がマシ】と泣きべそをかいていた弱い霧島は訓練四日目には姿を消し、遂に一週間目の昨日、京一自らが【特別訓練終了】を告げたのである。次回からは龍麻の指揮下で、皆と同じく旧校舎の探索に加わるとして。それは、霧島が一端いっぱしの戦力として認められたという事であった。

「はいっ。今日は桜ヶ丘に行ってきましたので、次回からの訓練の前に一言ご挨拶をと思いまして」

 初めて会った時と変わらぬ彼――霧島諸羽の態度に、葵たちも笑顔をこぼす。

「うふふ。相変わらず、元気一杯ね」

「はい! おかげさまで、院長先生からももう通院で良いと言われました」

 そして霧島は、キョロキョロと周囲を見回した。

「あれ? ところで、龍麻さんはご一緒じゃないんですか?」

 【真神愚連隊】のリーダーの姿が見えぬ事に、今更ながらに気付く霧島。挨拶に来たとは言うものの、相変わらず京一が彼の視点の中心にいるのだろう。

「ううん。ひーちゃんなら今、装備を整えてるトコ」

 【馬鹿】と声を上げずに【うっかり小蒔】の口を塞ごうとした京一と醍醐であったが、しっかりと霧島はそれを聞いてしまっている。

「装備を整えるって…またどこかに行かれるんですか?」

「いや、なに。ちょいと野暮用でな」

 京一が言葉を濁したのは、何も秘密にしようと思ったからではない。既に【仲間】なのだから。しかし霧島の性格からして、また事件に介入しに行くと知れば絶対に付いてきたがるだろう。彼が龍麻指揮下の訓練を経験済みであり、敵が憑依師でなければ同行を許可もしようが、現在のところは不安要素が多いのである。

「? なにカッコつけてるのさ。話したって別に良いじゃない。――ボクたちね、これから豊島区で起きてる事件の調査をしに行くんだよ」

 あちゃあ、と天を仰ぐ京一と醍醐。

「それってもしかして、人が突然発狂するっていう事件の事ですか? するとあれも…【力】絡みなんですか?」

 【真神愚連隊】が出撃するのは、【力】を悪用する者が現れたと想定される場面だ。霧島もニュースなどで事件の事は知っているだろうが、そこに【力】が介在しているかどうかまでは龍麻たち本人にしても判らないのである。

「そういう可能性も捨てきれないって事だよ。ひょっとすると、あの帯脇に【力】を貸した奴が犯人かも知れないんだ」

 もはやお手上げといった京一と醍醐。こんな言い方をした場合、霧島の台詞は解り切っている。

「それなら――僕も一緒に連れて行ってください!」

「エエッ!?」

 情報をペラペラ喋っておきながら、今更ながらに驚く小蒔。葵も同様である。ここら辺に、男と女の思考形態の違いが現れている。

「帯脇に関係することなら、僕にも関係あります! そいつが何者であれ、帯脇をあんな姿にして、さやかちゃんを傷付けるような真似をしたのなら、僕は絶対許せません!」

「でも…危険よ。霧島君も、実戦経験は先日の事件だけなのでしょう?」

 これが京一と醍醐の変なパントマイムの原因だったと悟り、少し後悔する葵である。しかし【後悔先に立たず】は永遠の真理だ。

「それはそうですが…決して皆さんの邪魔にならないよう、一生懸命頑張ります!」

「そ、そうは言っても、決めるのは龍麻だから…」

「――なにを誰が決めると言うのだ?」

 突然、背後から響いた我らが少尉殿の声に、飛び上がらんばかりに驚く葵と小蒔。

「た、龍麻ッ!」

「ひ、ひーちゃん!」

 人の多い場所に出かける時にはもはや定番となった彼のサングラスが、葵と小蒔の顔を映し出す。

「良く考えもせずに作戦をペラペラと…。――霧島、葵の言う通り、危険だぞ」

 サングラスを掛けた事で威嚇的な顔つきになっている上、ちょっと怒っているらしい龍麻に見据えられ、霧島がビク! と直立不動になる。

「しょ、承知しています! お願いです! 龍麻先輩! 僕も…一緒に連れて行ってください!」

 結局のところ、誰を参加させるかは全て龍麻の胸先三寸だ。いかに京一のお墨付きが出たと言っても、龍麻自身の眼鏡に適うか判らぬ霧島を、何が起こるか判らぬ戦闘に参加させる筈はない――そう思っていた京一たちは、龍麻の意外な言葉を聞いた。

「――命令は守れるな?」

「はい!」

「うむ。――京一、本部に行って、霧島に合う剣を見繕ってやれ」

「お、おい…」

「多少時間をかけても構わん。一番良いものを持たせてやれ」

 龍麻が【こう】と決めたら、滅多に意見は翻さない。そしてその判断は様々な分析の上で下される為、間違っていた事はほとんどない。京一は口元を緩めて頷いた。

「了解。――諸羽、俺と来い。いくらなんでも、丸腰じゃ連れて行けねェ」

「は、はい! 京一先輩!」

 龍麻に最敬礼し、霧島は京一と共に学園内に消える。

「――龍麻。霧島で大丈夫か?」

 二人の姿が見えなくなってから醍醐が尋ねたが、龍麻は軽く頷いた。

「今回のミッションに必要なのは戦闘力よりも不退転の意思だ。その点において霧島は適任だと判断する。そして京一の特訓を受けていた身だ。後は経験を積むのみだ」

「なるほど。そういうものだな」

 確かに、深夜に至る猛訓練を積む二人の為に夜食を作ってやっていたのは龍麻自身だ。訓練内容に口は挟まずとも、ずっと見守っていたのだろう。そして実際、霧島は見違えるほど逞しくなっている。

 待つ事十分ほどで、早くも自分に合う剣を見つけ出したらしい霧島を連れて京一が校門まで戻ってくる。その剣を見た龍麻は口の端に僅かな驚きと笑みを刻み、そしていつもの一言。

「【真神愚連隊ラフネックス】、出撃する」









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