第壱拾六話  魔獣行 前編 2





「ひゃっ! また風が…。暗くなるとさすがにちょっと肌寒いね」

「おなか一杯で体が温まっているから余計にね。舞園さんは大丈夫?」

「はい。大丈夫です」

「うんうん。元気なさやかちゃんだからこそ、みんなにも元気を分けてあげられるんだよねッ」

 小蒔のその一言を聞いた瞬間だけ、さやかの顔が少し固くなったのを、龍麻は見逃さなかった。しかし、今は黙っている。

 【力で悩んでいるなら、相談に乗ってあげたいよね】。

 そう言っていたのは他でもない葵と小蒔である。男どもには話せない事も、女同士でなら話しやすい事もあろう。

「って、霧島クンはどうしたの? なんだかさっきから元気がないけど。…ひーちゃんまで、なにコケてるのさ?」

「…俺は何でもない」

 龍麻のプロファイリングをもってしても、先の読めない者はいる。わざとらしく咳払いした龍麻は霧島に向き直った。

「しかし小蒔の言う通りだ。どうかしたのか霧島?」

 美里が恐かったんじゃねェのか? と小声で言う京一に容赦なく肘鉄を入れる龍麻。もちろん、巻き添えを食わないためである。京一という男は良く言えば大器なのだが、悪く言えば天性の馬鹿である。いくらダメージを与えても瞬時に立ち直り、何度でも馬鹿な事を繰り返しては痛い目を見る。それなのに三歩も歩けば痛い目を見た事など忘れてしまうのだ。それが龍麻の、普段の京一に対する固定観念であった。

 だからこそ、そんな事を霧島が口にした時、龍麻は初めて頭がフリーズした。

「蓬莱寺さん! お願いします! 僕を弟子にしてください!」

「………………!」

 龍麻でさえ頭がフリーズしたのだから、当然のように醍醐も、小蒔も、葵でさえ思考回路がショートしたようだ。

「僕に剣を教えてください! 僕、蓬莱寺さんのように強くなりたいんです!」

「は? はあ!?」

 純真無垢な霧島の眼差しに押され、一歩下がる京一。そりゃそうだろう、と真神の面々は思った。彼の悪名を一つ二つ聞けば、とてもこんな言葉を向ける相手ではないと解るからだ。

「…駄目! ダメダメ! 霧島クン! こんなのが師匠になったら人生捨てちゃうよ!」

「そうだぞ霧島! 師と仰ぐべき者は慎重に選ばねばならん!」

「クッ、テメェら、人をなんだと…!」

 再起動すると同時に、思い切り拳を振り上げて力説する醍醐と小蒔に、京一は歯を剥いてみせた。

 しかし、そんな突拍子もない事を言い出した霧島は、醍醐や小蒔の言葉を聞いている様子はなかった。そう。そんな声は既に彼にとって外野の雑音に過ぎなかったのだ。

「一目見て、凄い人だって解りました! 蓬莱寺さんの一喝で僕たちを囲んでいた男達は全員が振り返ったし…」

「それは、あれだけ喧嘩腰で言われればな…」

 もっともな醍醐のツッコミである。

「それに、あんな人数に囲まれても堂々としてたし…」

「ただ単に自信過剰なだけだと思うけどなあ…」

 さすが弓道。的を射たツッコミである。

「噂で聞いた時から、ぜひ一度会ってみたいと思っていたんです! 新宿にその人ありと言われた神速の木刀使いってどんな人だろうって」

「確かに、自分でそんな事言うのは京一君だけだけど…」

 さりげなくも酷な葵菩薩のツッコミである。

「やっぱり蓬莱寺さんは、僕の理想通りの人でした! 僕、蓬莱寺さんを尊敬してます!」

「「「そ、Sonke――――yeee!!」」」

 自らの理解しがたい言語を耳にしてしまった醍醐、小蒔、葵は、裏返ってカタカナどころか英語まで飛び越え、旧校舎に棲み付く河童の断末魔のような声を揃える。ただでさえさっき龍麻にさやかの前でやり込められ、小蒔にどつかれ、葵に脅されていた京一である。確かに彼自身、自らに向けられた事のない単語の数々だが、こうまでしつこいツッコミを入れられ続けて、京一のこめかみはぴくぴくと痙攣していた。

 何やら不穏な雰囲気にさやかがおろおろして龍麻の陰に隠れる。霧島もなんだか周囲の空気が冷たいので一同を見回し、この場で一番冷静そうな龍麻に向き直った。

「緋勇さん、蓬莱寺さんを尊敬しちゃいけないなんてこと、ありませんよね?」

「………!」

 京一の手元で木刀がギュッと鳴る。彼の放つ雰囲気は既に戦闘中のものであった。もし龍麻が彼をこき下ろすような事があれば、彼は全身全霊で奥技を放つつもりであった。

 果たして、龍麻の反応は? 

 彼は、手を打ち合わせた。パパンが、パン! 

「♪あ、そーれ。だーれが、殺した、クック・ロビ…!」

「【秘剣・朧残月】――ッ!!」

 ツッコミも毒舌もなく、代わりに何やら怪しげな踊りを踊り始めた龍麻に向け、京一の剣掌奥義が放たれんとする。だが、余りに度外れた龍麻の反応に対する怒りが大きすぎ、並の【朧残月】の倍以上のパワーであった。木刀の切っ先の光は爆発にも等しい。龍麻に直撃すれば、当然、さやかも巻き添えを食う! 

 だが、京一の奥義は何の抵抗もなく龍麻とさやかをすり抜け、空に散華した。龍麻の徒手空拳【陽】の奥義、【各務】! しかも対九角戦の時より技のキレが増している。怪しい踊りを踊りながら、至近距離からの京一の奥義をさやかもろともスカさせたのである。

「さやかちゃん!」

 ほとんど悲鳴に近い声を上げたのは霧島のみで、醍醐と小蒔は街中で剣掌奥義をぶっ放した京一に教育的制裁を加える。

「…あの、何なんですか? 今の踊りって…?」

「うむ…我が友人に伝授されたクック・ロビン音頭だ。激しい驚きを表現する時に使う。この踊りにはヨガで言う【浮易ふえき】のポーズが組み込まれ、混乱した心をハレバレとした気分に戻す効果があるのだ」

「はあ…そうなんですか」

 生真面目な顔でそんな馬鹿な説明をされても、さやかには笑えばいいのか呆れればいいのか判らない。しかし霧島はまったく怯まずに龍麻に詰め寄った。どうやら京一の剣掌奥技を、何か特別な技だと思ったらしい。いや、それこそが求めるべきものであると。

「緋勇さんが驚かれるのも判ります! 僕みたいな未熟者が今みたいな凄い技を使える蓬莱寺さんのような方に弟子にしてくれなんておこがましいと、自分でも判っています! でも僕は強くなりたいんです! 今のままじゃ駄目なんです!」

「う、うむ…。確かに京一は信頼できる男だが…」

「そう! そうですよね! 蓬莱寺さんはそれだけ強いんですよね!」

「う…うむう…」

 まるで子犬のように純粋無垢な目で見つめられてうろたえる龍麻。それこそ世界中であらゆるタイプの犯罪者と戦い、この東京をも鬼道衆の手から護った男は、逆にそのような人間の対応に関してまるでマニュアルを持たなかった。ただただ、素直な霧島の直球勝負に圧倒される。

「決して蓬莱寺さんの、皆さんの足手まといにはなりません! どうかよろしくお願いします!」

「…俺がカンボジアでゲリラの武器庫を爆破しに行った時の事だ…」

「はい?」

 この人は何を言い出すのだろう? と不思議な顔をする霧島。

「しかしその武器庫にたどり着くためには敵の敷設した地雷原を通り抜けねばならなかった。その際に現地の案内人が誤って地雷を踏んでしまい、壮絶な爆死を遂げ、ちぎれた手が俺の足に絡まったのだ」

「あの…緋勇さん?」

「…足に手がまとわりついて、これが本当の【足手まとい】」

「「「「「「……………」」」」」」

 次の瞬間、京一の木刀と醍醐の鉄槌と小蒔のグーパンチと葵のハリセンが龍麻に炸裂する。珍しく全弾ヒットを許した龍麻は地面を五メートルほどヘッドスライディングした。

「アホかお前は! 一般人を混乱させるんじゃねェ!」

「舞園、それから霧島。この男は虚言癖があるものでな。今の話は忘れてくれ」

「そうそう! ひーちゃんってばたまに思いっきりボケ倒す時があるからさッ!」

 誰がどう聞いても、必死で話をごまかしているようにしか聞こえない。鬼道衆との決戦以来、人間的に豊かになった龍麻だが、こういうところは少しも変わっていないのだ。

「…なかなか痛かったぞ」

 ムク、と起き上がる龍麻。あれほど強烈なツッコミを受けて無傷の龍麻を見て、霧島は【この人も凄い人だ】と奇妙に感動してしまった。さやかに至っては、葵のちょっぴり怖い視線も知らぬげに、目をうるうるさせて龍麻を見つめている。

「頭がスッキリした所で(「スッキリしたんかいっ!」 By真神一同」)、霧島。あえて苦言を呈するならば、京一の剣術は実戦剣術であり、スポーツのそれとは根本的に異なる。邪な心根で振るえばたちまち殺人剣となり、他人は勿論、自分自身をも傷付ける諸刃の剣だ。この戦慄の穀潰し、無双の怠け者、馬鹿とアホの私生児、万年二等兵の木刀赤毛ザルである京一も、その一線だけは決して譲らぬ信念と誇り、覚悟を持って剣の道を生きている。京一に師事するという事は、が為に他者の命を奪う事もあれば、敵はおろか本来無関係な人々の理不尽な恨み、憎しみ、悪罵を一身に受ける事もあり、心に誤りあらば仲間にすら命を狙われる苦行の道を歩むという事を意味する。お前はそこで、心曇らせる事無く、剣を究めんとする覚悟はあるか?」

「……ッッ!」

 態度は勿論、言葉の内容も京一を賞賛しているのか馬鹿にしているのか不明だが、霧島には龍麻の言葉がズシリと重くのしかかってきた。京一への師事は部活の延長などではない。上辺だけでは解らぬ蓬莱寺京一という剣士の本質には、並大抵の覚悟では付いて行けないのだと言っているのだ。

「…ありますっ」

 ぴしり、と威儀を正し、霧島は宣言した。

「剣を学び、剣と共に生きる者として、蓬莱寺京一さんに師事したくあります!」

 その目に並々ならぬ決意を見たか、龍麻はふっと雰囲気を緩めた。

「――よかろう。ならば俺が言うべき事は何もない。京一次第だ」

「お、俺ッ!?」

「当然だろう。霧島は、お前に師事したいと言っているのだ。――霧島、今一度、自分の口で頼むが良い」

 龍麻に促され、霧島は最敬礼せんばかりに龍麻に頭を下げてから、京一に向き直った。

「蓬莱寺先輩! どうかよろしくお願いします!」

「えっ…あ…ま、まあ、これといって駄目な理由はねェけどよ…」

「それでは、剣を教えていただけるのですねッ!?」

 霧島は再び、子犬のような純真無垢な目。龍麻でさえ扱いに困ったくらいなので、京一は更に困った。しかし乙女チックに胸前で組み合わされた手(やめろっつの! By京一の心の声)に、並の競技者レベルに留まらない剣ダコが盛り上がっているのを見て決断した。

「ああ、解った。教えてやるよ。――だが、言って置くけどな、俺はこと剣に懸けちゃ手抜きは一切しねェんだ。泣こうが喚こうが、こればっかりは譲らねェ。そのつもりで来いよ」

「はい! ありがとうございます! その…もう一つお願いがあるんですが、京一先輩って呼んでも良いですか? 僕の事は諸羽って呼んでもらって構いませんからっ」

 もはや、恋する乙女もかくやというキラキラうるうるした霧島の目。醍醐、小蒔、葵もちょっと身を引き、さやかも少し難しい顔をする。

「――ああ、分かった分かった。好きなように呼べ。――って、ひーちゃん! この場面で何やってやがる!」

 見れば龍麻は携帯用木魚を取り出し、でたらめなお経まで唱えている。

「た〜った、立った、フラグが立った〜、や〜ね〜や〜ね〜、あらあらや〜ね〜…安心しろ京一。お前がコミケ最終日の西館の住人に捧げられようとも、きちんと菩提を弔ってやろう」

 無情なるかな、真神の少尉殿は京一が新世界に旅立つのを止める気は無いらしい。

「あははっ。ひーちゃんってば響クンに感化され過ぎっ」

「ギャグセンスまで同じだったものね。まあ、意味は分かってないでしょうけど」

 クスクスと笑う小蒔と葵ではあるが、醍醐は苦笑交じりの難しい顔である。少ない貴重な特訓の時間を、なぜか武術よりコントの修行で盛り上がっている龍麻と豹馬を見ていたからだ。

 そんな、一見ほのぼのとした空気を破ったのは、龍麻が独特の緊張感をまとって空を見上げた時であった。

 半年以上も生死を共にした指揮官だ。僅かな手の動き、目配せ(見えないが)、雰囲気だけでも何を望んでいるのか判る。京一と醍醐はさりげなく左右に展開し、葵と小蒔はさやかと霧島を挟むように立つ。

「あの…何か――?」

「しッ、さやかちゃん、霧島クンも、ボクたちから離れないように付いて来て」

「い、一体何が?」

「誰かが私たちを――と言うより、舞園さんを見ているわ。何か酷くどろどろした…悪意を感じる」

 確かに美人ではあるし、天下のアイドルと並んでも少しも迫力負けしない葵だが、一番そのような場面とは縁がなさそうな彼女がそう言った事で、さやかも霧島も緊張した。

 しかし、一分ほどもそうしていただろうか。

「ひーちゃん…」

「――去ったようだ」

 最低限の警戒をしたまま、京一たちがため息をつく。まるで、見えない何かと戦っていたかのようだ。

「ところでさやか殿?」

 急に龍麻に呼ばれ、さやかはドキリと緊張した。それでもその呼び方に少し物申す。

「あ、あの…できれば【殿】は付けないで頂きたいんですけど…。呼び捨てて下さって結構です」

 ムム、と少し葵の眉が寄る。転校間もない龍麻にそう呼ばれた時、葵には言えなかった言葉だ。

「それではさやか。一つ確かめておきたいのだが――」

「テメェ! ひーちゃん! 何でさやかちゃんを呼び捨てにしてんだよ!」

 いきなり割り込んできた京一の高音口撃(誤字にあらず)を、しかし龍麻は無視した。

「中野の帯脇というのは何者だ?」

 その言葉に、さやかも霧島もギクッとして顔を見合わせた。この五人が今まで踏み込まなかった、アイドルのプライベートの領域。しかし龍麻は言葉を継いだ。

「この数ヶ月、我々は常識の外にある数々の事件と遭遇してきた。従って、他人からは異常に見えるような現象もしくは能力も、我々にとっては日常の一部に過ぎん。――今の奴、一瞬だがただならぬ気配を感じた」

「ああ。プレッシャーはそれほどでもなかったが、何かこう…まとわり付くような【気】を感じたな」

 醍醐も首筋の辺りをしきりと撫でながら言う。【白虎】の力に目覚めて以来、彼も【気】に対しては鋭敏になっているのだ。

「【気】って…なんなんですか?」

 いくら世間で風水や気功がブームだからと言って、霧島のような生真面目なタイプがそれを知っている保証はない。そこで葵が説明を駆って出た。

「【気】っていうのは、生命体が本来持っている生命エネルギーの事よ。元気とか病気とか、陽気というのは、生命体が持っている【気】の状態を表す言葉なの。そして【気】は呼吸法や瞑想によって、ある程度自由にコントロールできるわ。今、龍麻や醍醐君が感じたのは、相手が攻撃的な意志を向けた為に発せられたものなの」

「…済みません。僕にはちょっと難しくて解りません」

「俺も最初はそうだった。しかし武道をたしなんでいれば、必ず通る道だからいずれ解るさ。それよりも、差し障りがなければその帯脇とやらの事を話してくれないか?」

 帯脇という名に対するさやかと霧島の反応。そして、自分達が感じたプレッシャー。これは【真神愚連隊】にとって無視できない事態であった。

「そうだよッ、ひょっとしたら、ボクたちの出番かもしれないし」

 そう言ってから、小蒔は一同を、龍麻を振り返る。【真神愚連隊】の指揮官殿は、小さく肯いてみせた。

「皆さん…ありがとうございます…」

 不意に浮かんでしまった涙を慌てて拭うさやか。霧島が彼女を案じてその肩に手を置くと、さやかは小さく肯いた。

「それでは、僕が説明させていただきます。帯脇…帯脇斬己たてわききりこは、中野界隈では有名な不良で、さやかちゃんの熱狂的なファンなんです。ただそれだけなら問題ないんですけど、さやかちゃんを自分のものにしようとしつこく狙ってくるんです」

「うわッ、それって、ストーカーってヤツ?」

「サイテーだな。そいつァ」

 さも嫌そうな小蒔のコメントに、京一も同意して悪態を吐く。

「すると、今日のような事が日常的にあるという訳か」

「はい…」

 醍醐もこのようなケースは気分が悪いのか、難しい顔で腕組みをする。

 ストーカーとは本来、追跡技術や調査などを指す言葉なのだが、最近の日本ではいわゆる【付きまとい】等を行い、あるいは暴力的手段に訴える輩の事を指す。欧米では近年、このようなストーカー犯罪と呼ばれる事件が激増し、深刻な社会問題と化しているが、日本ではストーカーの定義が曖昧の上、さやかのようなケースでは「男女間の事だから」を枕詞に、一般人にとっては事実上の最後の砦である筈の警察もまともに取り合ってくれないのが現状だ。そして、最悪の事態を迎えてしまうケースも多い。

「それで霧島がボディーガードか。しかし一人じゃ大変だろう」

「はい…。でも、僕はさやかちゃんの歌が大好きなんです! さやかちゃんを護る為ならこのくらい、どうって事ありません!」

 果たして素直すぎる霧島に、そんなサイコ系犯罪者の相手が務まるだろうか? ふと、そんな事を考えてしまった醍醐であったが、霧島は迷いのない目できっぱりと言いきった。

「だが、ひーちゃんよ」

 恐らく本日初めて、真面目な顔になる京一。

「今のが帯脇って奴の【気】だとしたら、【力】を持っている可能性大だよな。それも相当おかしな【力】をよ」

「肯定だ」

 実際に姿を見た訳でもないのに、視線らしきものを感じただけで受けたプレッシャー。これまでの例からすると、【神威】に目覚めたものは良くも悪くも意志力が強い。それがサイコ系の人間ならば、【力】を悪用するのは目に見えている。

「おかしな【力】…ですか? それって…もしかしてさやかちゃんの歌声が持っているような【力】の事ですか?」

 本当に恐る恐る、というように霧島が切り出す。龍麻たちの反応は、納得の肯きであった。

「やはりな。気付いたのはいつからだ?」

 至極平然と尋ねる龍麻に、さやかの口は自動的に動いていた。

「今年…高校に進学して、本格的に芸能活動を始めてからです。頂いたファンレターの中に、私の歌を聴いて病気が治ったとか、元気が出たという内容のものがたくさんあって、スタッフの方々もそう言う人がたくさんいたので…。それからなんです。自分の歌には不思議な【力】があるって…」

 さやかの声のトーンが落ちたのは、決してそれを誇っていない為であった。ただでさえ芸能界は、言わば弱肉強食の世界である。ファンの前でならば仲が良さそうに見える者同士でも、裏に廻ればライバル意識を剥き出しにし、少しでも相手を出し抜こうと、あるいは足を引っ張ろうとするものなのだ。そしてさやかの持つ【力】は、格好の攻撃材料だった。ある者は気持ち悪いと吐き捨て、ある者は畏怖の眼差しを向けるようになるなど、ファンの強い後押しがなければ、とっくに芸能界を追放されていてもおかしくなかったのである。

 しかし――

「ウンッ、ボクもさやかちゃんの歌を聴いていると元気が湧いてくるしねッ」

「歌によって人が癒される【力】…ロマンチックで、素敵ね」

「うむ。珍しくも良い【力】の発現だな」

「サイコーじゃねェか。やはり俺とさやかちゃんは…」

 皆、口々にさやかを賞賛し、一致団結して京一の言を遮断する。そんな一同の反応に、さやかと霧島は顔を見合わせた。

「皆さん…動じないんですね。こんな【力】を持ってるなんて、私、変じゃないですか?」

「さやか、自分を卑下してはいかん。お前の【力】は実に素晴らしいものなのだ。自信を持って良い」

 本日二度目の、龍麻のアルカイックスマイル! さやかの顔がぽうっと染まった。

「あ、あ、ありがとうございます…! わ、私…もっと驚かれるか、敬遠されるんじゃないかって…!」

 よほど感激してしまったのか、涙目になってしまうさやか。テレビでもグラビアでも、いつも彼女は笑っているので、そんな表情を浮かべた彼女はあまりにも可憐過ぎ、京一が壊れた。これを専門用語で「萌え尽きた」あるいは「萌え氏ぬ」という。

「さやかちゃん。貴方の【力】はとても素晴らしいものなの。悩んだりする事なんて何もないの」

「そうだよッ。ひーちゃんの言う通り、自信を持っていいんだよッ。ボクたちのはどっちかというと攻撃系だしねッ」

 と、そこまで言ったところで小蒔は「あわわわ」と口を塞いだ。しかし時既に遅し。さやかも霧島もそれをしっかりと聞いてしまっていた。

「それって…まさか皆さんにもさやかちゃんのような【力】があるって事なんですか?」

 一同に詰め寄らんばかりの勢いで聞いて来る霧島。葵たちは互いに顔を見合わせ、それから龍麻を見る。やはり龍麻は、軽く頷いた。【話して良し】の合図だ。

「…ええ。今年になってから、私たちも自分の内に不思議な【力】を目覚めさせたの。それは私たちだけじゃないわ」

 同じ【力】に目覚めた者同士、秘密にする事はあるまい。醍醐も葵の言葉を引き継いだ。

「だから舞園も、自分が特殊だとか異常だとか思う必要はないぞ。龍麻も言った事だが、俺たちにとっては当たり前の事なんだ」

「そうなんですか…やっぱり…来て良かった…」

 最後の方は尻すぼまりに消えたので、真神の面々はもとより、霧島にさえ届くことはなかった。

 その霧島は、またもなにやら考え込んでいる。しかしそれに気付くことなく、京一が言葉を継いだ。

「まあ、さっきの小蒔の台詞じゃねェが、もしその帯脇ってのが【力】を持っていて悪さをしようってんなら、俺たちの出番だ。その時は遠慮なく俺たちを頼って良いぜ」

「は、はい! ありがとうございます!」

 【営業用】ではない満面の笑みで応えるさやかに、またしても「はにゃ〜ん」となってしまう京一。そんな京一に真神の一同はやれやれと肩をすくめる。

「それほど肩肘を張らずに、いつでも遊びに来るといい。この界隈で妙な真似はさせん」

 まるで新宿を仕切っている首領ドンであるかのように胸を張る龍麻に、もう一度さやかは満面の笑みを浮かべるのであった。









 西部新宿駅前。新宿駅まで約三〇〇メートル。

 先程の【気配】の一件もあり、油断なくさやかと霧島を護衛しつつ、【真神愚連隊】はここまでやって来た。

 さやかは特に変装している訳ではないので、周囲を埋める群衆の中には彼女に気付く者もいたのだが、コート姿の学生を先頭に行く真神の制服を目にすれば否応なしに「手出し厳禁」のフラグが立つので、誰も彼女を見咎めたりしなかった。そのことに改めてさやかと霧島は龍麻以下、【真神愚連隊】の実力と知名度を思い知るのであった。

 しかし――

「――龍麻」

「――判っている」

 龍麻の指の一振りでさやかを中心に展開する【真神愚連隊】。中央線、山手線をくぐるガード下を通る通路から、急に人の気配が絶えたのである。昼夜を問わず人通りの激しい新宿においてはあり得ない現象であった。

 そして、その男が姿を現した。

「よお、霧島っちゃん」

「帯脇…!」

 前方の通路に立つ男を見据え、この少年のどこに!? と思わせるほどの攻撃的な不快感を示す霧島。

 実際、不快を絵に描いたような男であった。細っこい三白眼はとことん陰気で暗い目つきであり、どこか蟷螂を思わせる細長い顔に、緑色に染めたざんばらなモヒカン。筋肉のかけらもついていないような細い手足であると同時に、蛇のような冷たさと滑りを帯びているような身体。

 この男は、人を不快にさせるために生まれてきた――差別主義者であるはずもない真神の一同をしてそう思わせるほど、この帯脇という男の放つ【気】は不穏なものに満ちていた。

「さやか、相変わらず可愛いじゃねェか…ケケケ…」

 普通に歩くだけでも、獲物に忍び寄る蛇のようないやらしさ。無造作に近付いてくる帯脇に対して、霧島がさやかの前に立ちはだかった。

「しつこいぞ帯脇! さやかちゃんに近付くな!」

 今は龍麻たちが一緒にいるという安心感も手伝い、同時に龍麻たちがいなければこの啖呵さえ切れなかったという悔しさをも意識しながら、霧島は大声を張り上げた。

「ケッケッケ…餓鬼が粋がってナイト気取りかァ? 俺の女にべたべた触りやがると、ぶっ殺しちまうぜぇ」

 早くも生理的嫌悪の限界が来たか、京一が龍麻に目配せする。状況走査を終えた龍麻は小さく頷いた。

「黙って聞いてりゃあ、粋がってるのはテメエの方だろ? 頼もしいお友達を大勢引き連れて余裕ぶっこいてやがるが、ここでこの二人に妙な手出しをしたら、お前ら全員、五体満足で新宿を出られなくなるぜ」

 いつもの馬鹿な口上とは異なる、挑戦的な口調。大物を気取って真神の一同を無視していたつもりの帯脇も、これは無視できない。脅し文句一つにも、格の違いというものが滲み出るのだ。

 「・・・テメエらが真神かよ。赤毛が馬鹿の蓬莱寺、でかいだけの筋肉バカの醍醐、男女の桜井に、生徒会長の美里、それにそっちのコートが軍事オタクの緋勇龍麻・・・だろ?」

 威圧しているつもりなのか、ねちっこい視線を一同に這わせていく帯脇。京一や醍醐はただ静かに、小蒔はつんとした態度で睨み返したが、龍麻だけはあっさりと視線を外し、一同を振り返った。

「迷惑な話だな。こんな取るに足らんゴミクズまでが俺を知っている」

「そいつは仕方ねェな。日頃の行いが悪いんだからよ」

 珍しい、龍麻の軽口にすかさず乗る京一。

「何を言うか。俺は個人レベルで街の浄化に貢献しているだけだ」

「そうかも知れんが、散歩がてらに麻薬組織やら何やらをぶちのめしたりするのはどうかと思うぞ?」

 苦笑しつつ腕組みする醍醐。その口調があまりにも平然としたものだったので小蒔も葵もぷっと小さく吹き出す。さやかと霧島は呆然とするしかなかったが。

「ケケケ…大した余裕じゃねェか。だが調子に乗っていられるのも今の内だぜ。テメエも俺様の抹殺リストに載せてやらぁ」

「ほう、宣戦布告か?」

 龍麻の口調からは、次の行動を予測する事はできなかっただろう。

「良かろう。相手になるぞ」

 そう言うなり、龍麻は帯脇の横面を張った。

「グエッ!」

 龍麻という男を考えるならば、それこそ目一杯手加減した一撃。それでも帯脇の細っこい身体には強烈過ぎ、僅か一メートル吹っ飛ぶ間に五回は回転した。さやかも霧島も、突然の龍麻の暴挙に目を見張る。

「何をボーっとしている? もう始まっているぞ」

 更にもう一発、ただの平手打ちを食らわす龍麻。色めき立った取り巻きが、利き手を上着の内側に滑り込ませる。次の瞬間――

「グエッ!」

「ギャッ!」

 帯脇の取り巻きが取り出した物を見てさやかと霧島が驚く間もなく、短い苦鳴が一斉に上がる。京一が手首の動きだけで木刀の切っ先を取り巻きの腹に突き込み、醍醐が取り巻きの抜き出した手を掴むや、瞬時に捻り上げたのである。一瞬の早業であった。

「龍麻」

 醍醐が、取り巻きから奪った物を龍麻に放る。彼はそちらを見ようともせずそれをキャッチし、顔をしかめた。

「ふん。再生ノーリンコか。二束三文のガラクタだな。二発も撃てば暴発するぞ」

 安っぽい銀色に光る自動拳銃。日本ではコピー元のトカレフという名で通っている、中国製軍用拳銃だ。現在の日本で最も手に入りやすいと言われる、通称【ヤクザ拳銃】。龍麻のようなプロが持つ拳銃とは決定的に異なる、使い捨て目的の中古再生品であった。

 本物の拳銃に驚くのはさやかと霧島ばかりで、真神の一同は細波ほどの動揺も見せない。むしろ恐怖に顔を強張らせたのは、絶対の武器を奪われた帯脇の取り巻きであった。その瞬間まで絶対に銃の存在を気取られるなと帯脇に釘を刺されていたのに、龍麻にはとっくに見抜かれていたのだ。京一にしろ醍醐にしろ、龍麻が珍しく相手を挑発したので、こりゃなんかあるぞときっちり待ち構えていた。この辺りの呼吸は見事と言う他ない。

「ガンがあれば勝てるとでも思ったのか? それは大きな間違いだ。ましてこんな、鉄屑ではな」

 慣れた手つきでノーリンコから弾丸を抜き出し、スライドを引く。その一挙動で撃鉄が折れ、スライドが本体から外れた。大して力を込めたとも見えないのに、プラスチックのオモチャでもこうはいくまいと思えるほどあっさりとフレームがひしゃげ、ノーリンコはばらばらに壊されてしまう。さすがに目を剥く帯脇に、龍麻は鉄屑と化したノーリンコを放り出した。そして帯脇の上着の中に手を突っ込み、やはりそこに隠されていた黒いノーリンコを奪い取る。

「こっちは新品か。それもアメリカ輸出用。こんなものをどこから手に入れた?」

 安全装置セフティを外し(輸出用ノーリンコには安全装置がある)、初弾を装填する龍麻。それを躊躇なく帯脇に突きつける龍麻に、さやかと霧島は彼に関する、信じられないような噂の一つを思い出した。

 ――緋勇龍麻は銃で武装している。呼吸するのと同じくらい当たり前に、人を撃ち殺す――

 この法治国家にあって、それは決してあり得ない筈であった。しかし現実に、銃を握る龍麻の姿には不自然なところがどこにもない。刑事ドラマにゲスト出演した事もあるさやかには、たとえ撮影用のモデルガンであっても、銃とは本来、人間とは相容れない道具のように思えたものだ。その、本物の銃と、この緋勇龍麻は完璧に調和している。――美しいほどに。

「…喋ると思うのかよ。それに、銃は奴らも持っているぜ」

 龍麻が意図的に殺気を放っていない為だろう。帯脇は虚勢を張った。京一と醍醐が首を巡らせて見ると、確かにガード下の通路を塞いでいる連中の手が上着の内側に突っ込まれている。取り巻きはただの部下だが、そちらはどうやら【本職】のお兄さんたち。彼のボディーガードか。

「喋る気はないか。始末する理由が出来たな」

 銃を持ったボディーガードは完璧に無視し、ゴミを捨てる、という程度の気安さで告げる龍麻。指で合図すると、葵も小蒔も耳を塞ぐ。

「さやかちゃんも耳を塞いだ方が良いよ」

 小蒔の台詞に愕然とするさやかと霧島。龍麻が本当に撃つというのか!? そしてそれを、止めないのか!? 

「これが真神の少尉殿のやり方さ。悪党は警察に突き出すよりも、見つけ次第殲滅ッ。五、六人じゃ相手にもならねェ。遊んで欲しけりゃ、戦車でも用意するこった」

「そういう脅しは他所でやるべきだった。――舞園も霧島も目を閉じていろ。飯がまずくなるからな」

 噂と違って一番温厚そうに見えていた醍醐までがそんな事を言い、自分達の視界を遮るように動いたのを見てさやかと霧島の顔から血の気が引いた。

 本気だ! この人たちは平気で人殺しを――!

「ちょっと待…!」

 さやかが声を上げようとしたその時、頭上に中央線の電車が滑り込んできた。

 ――BANG!

 ガード下の喧騒に紛れてくぐもった銃声と、確かに走った閃光。帯脇が壁にもたれた格好で崩れ落ちる。そして次の瞬間、通路の前と後ろに向けて龍麻の両手が閃いた。右手はノーリンコ。左手はM1100オートマチックショットガン。今度は殺気も開放したので、【本職】も銃把を握り締めながら、それ以上は指一本すら動かせなくなる。

 ――今動けば殺られる! 【本職】なればこそそれが判った。ガードとしての役割もクソもない。龍麻に姿を見せてしまった時点で、彼らの敗北は決定していたのだ。

「死ぬか? ここで」

 血相変えて首を横に振る【本職】。ただでさえ拳銃と散弾銃では始めから勝負にならないが、彼らを凍りつかせたのはそんな理屈ではない。本能に訴えかける恐怖が彼らに硬直を命じたのだ。ずいぶんと苦労しながら両手をゆっくりと上げ、何も持っていないことを必死にアピールする。龍麻は銃口をつい、と上げ、次の瞬間、彼の手から銃が消えた。抜くところは勿論、納めるところも見えない。恐るべき早業である。

「行くわよ。さやかちゃん、霧島くん」

 葵の優しい声音に――今はその方が恐ろしいが――のろのろと歩き出すさやかに霧島。既に銃を納めて先頭を行く龍麻に対し、【本職】も、野次馬も道を開けた。

「…奴の保護者に言っておけ。今後この二人に妙な手出しをしたら、一族郎党、ことごとく殲滅するとな」

 帯脇本人ではなく、【保護者】と強調する龍麻。たかが高校生の脅し文句――などとは一瞬たりとも思わず、【本職】は顔中に脂汗を浮かべながら必死に首肯した。

 それきり、誰も付いてくることなく、再び【真神愚連隊】とプラス二名は雑踏に紛れた。

「…済まんな、二人とも」

 それはいつもの龍麻であったが、ビクウッ! と緊張してしまうさやかと霧島。それを見て、京一が苦笑する。

「ひーちゃん、脅かし過ぎ。――さやかちゃん、霧島も、そんなに緊張するなって。あれはハッタリだよ、ハッタリ」

「きょ、京一先輩…!」

 ニヤッと笑う京一に、まず霧島が立ち直った。

「ハッタリって…それじゃ、帯脇は殺していないんですね? そうなんですね!?」

「いくらなんでも、こんな真っ昼間の街中でそんな事はしないさ。銃声で鼓膜を叩いて気絶させただけだ。凄い衝撃だから本人は死んだと思っただろうがな」

 醍醐の言葉に、小蒔がちょっとだけ苦笑も交えて笑う。

「こういう言い方はしたくないけど、ああいう場合は仕方ないよ。銃を持っただけで強くなったつもりでいるような連中は、本気で死ぬような目に遭わないと反省もできないし」

「行為自体はいけない事だけど、今後の事を考えると、あれで良かったと信じましょう。あの人の目は、他人を恨んだり妬んだりする心で満ちていたわ。そういう人は、猫撫で声では止められないもの」

 誰一人、龍麻の行動を否定する者はいなかった。そして霧島も、落ち着いた頭で考えてみると、それしかなかったという気がしてきた。芸能界にいる人間は多かれ少なかれ、似たような体験をしている。そして大物になればなるほど、裏社会との関係もまた深くならざるを得ず、同時にそのような手合いが芸能人を裏から護ってもいる。さやかはまだそこまで芸能界の毒に染まってはおらず、【裏】の守りはなきに等しい。だからこそ帯脇のような輩を遠ざける事ができなかったのだ。まして帯脇は父親が代議士で、ヤクザとの癒着も囁かれている。警察を宛てにできないのは、そういう事情もあったのだ。

「死の恐怖、痛み、苦しみを知らぬ者ほど、たやすく死を口にする。チャンスをくれてやるのは一度だけだ。次はない。――従って、それほど怯える必要はないぞ、さやか」

 霧島は既に緊張を解いているのに、さやかは一言も口を利かない。さすがに刺激が強すぎたのかと、珍しくフォローを入れた龍麻であったが、さやかはボーっとして、彼の言葉を聞いている様子はなかった。

 ムム!? と眉根を寄せたのは、京一、葵、小蒔の三人である。龍麻を前にした女性がこのような表情をする場面は、これまで数え切れないほど見ている。特に、龍麻の【本質】に触れると、【こう】なってしまう者が多い。

 そして何より、さやかは【二度目】である。彼の目の事も、不思議な【力】を持っている事も知っていた。自分の【力】に気付き、悩んでいた時に思い当たったのが、港区のプールでの鮮烈な出会いであった。実は今日、この新宿に来たのも、風の噂で【緋勇龍麻】なる人物は新宿にいると聞き付け、不思議な技を使い、信頼感溢れる人物と見た龍麻ならば、この【力】の事を相談できるのではないか? という考えがあったからなのだ。そんな極めて勝率の低い賭けに、さやかは勝ってしまった。この出会いに偶然以上の、乙女チックな運命を感じてしまったとして、誰がさやかを責められるだろうか? 

 いや、少なくとも一人はいた。

「どうしたのだ。ショックで熱が出てしまったか?」

 天下のアイドルの額に、無造作に手を当てる龍麻。そこでやっとさやかは我に返り、次の瞬間に真っ赤に頬を染める。それも恥ずかしそうに、嬉しそうに。

「でええええりゃあああぁぁぁぁっっっ!!!」

 今度こそ、背後から襲いかかる京一の【剣掌・発剄】! しかし――

「ムッ!? 【スパイ○ーネット】!」

 龍麻の左腕のブレスレットから飛び出す捕獲用ネット! 技を妨害され、思い切りコケてしまう情けない京一であった。

 だが、一瞬とは言え龍麻に我を忘れさせたのは、いっそ見事であるかもしれない。【仲間】以外の前で【これ】を使ってしまうとは…! 

「す、【スパイ○ーネット】って…も、もしかして、緋勇さんがあの【怪傑ひょっとこ仮面】…じゃなくて、【スパイ○ーマン】…!」

「むう…知られてしまったか…」

 これぞ、真神の少尉殿のもう一つの【顔】。人呼んで(自分で言っているだけだが)さすらいのヒーロー、スパイ○ーマンである。(ちなみに【怪傑ひょっとこ仮面】は世を忍ぶ仮の姿であると本人は主張している)

「そ、それじゃあの時…この前の【新幹線爆破テロ】の時に私を助けてくれたのも…あ、あれも龍麻さんだったんですかッ!?」

 修学旅行帰りの新幹線に核爆弾が仕掛けられた、真神始まって以来の大事件は、乗客数二千名足らずという条件で行われた為、【スパイ○ーマン】の正体に迫ろうとする者は多い。龍麻は少し黙り込み、【ひょっとして口封じ!?】とか京一たちを緊張させたが、やがて言った。

「…他言無用に頼む」

「「はい! 勿論ですッ!!」」

 【力】の事も含め、【秘密】を共有する仲間として認められた事が嬉しく、さやかと霧島は口をそろえて元気良く言った。

 やがて新宿駅東口に着くと、入り口の所でマネージャーらしい女性が手を振っているのが見えた。

「それでは皆さん、今日はどうもありがとうございました!」

 殆ど最敬礼せんばかりの勢いで頭を下げる霧島。

「こんなに楽しかったのは久し振りです。あの、また遊びに来てもいいですか?」

 葵と小蒔からさりげなく視線を外し、期待に満ちた顔で龍麻に問うさやか。小蒔は「おや?」という顔をしたが、葵は微笑の中にもちょっぴり硬いものが浮かんでいる。

「そう畏まらずとも良い。いつでも歓迎するぞ」

「…はい!」

 まだ龍麻の本性を知らぬが故、さやかは喜色満面に頭を下げる。

「それから、霧島。俺の連絡先を教えておこう」

 その時真神の一同は「む…!?」と思った。龍麻が霧島に伝えた電話番号は、【【真神愚連隊】本部】…旧校舎に設置した【基地】の番号だったのだ。【仲間】たちにしか伝えていないはずの番号を。

「そこに連絡を入れれば、必ず俺に繋がるようになっている」

「はい! ご丁寧に、ありがとうございます!」

 一応ボディーガードのつもりでいる霧島ではあるが、妙な対抗意識を燃やすよりも先に龍麻以下、【真神愚連隊】の面々に心酔してしまい、彼らといつでも連絡が取れるという事に深い安心を得たようであった。

「うむ。では、気をつけて帰るように」

「「はい!」」

 さやかと霧島はもう一度声を揃え、一同に頭を下げてから、マネージャーのもとへと歩き出した。途中、何度も振り返り、手を振りながら。

「…行っちゃったね。でも本当に、芸能人って大変なんだなァ」

「ああ、よく判ったぜ。ところで、ひぃぃぃちゃぁぁぁん…!」

 思わず醍醐が一歩下がるほどおどろおどろしい声を上げて、京一が龍麻に詰め寄った。

「お前、女性不感症の癖に、みょ〜〜〜にさやかちゃんに親しげだったなァ…」

「え!? エッ!? そうだった!?」

 なぜか京一に同調する小蒔。彼女の視点では、さやかの方が龍麻に興味…と言うより、はっきり好意を寄せているように見えたのだ。

「俺は常日頃、礼儀正しい者には礼儀を尽くす。何も変わりはない」

 それよりも、と言葉を続けた時、龍麻の雰囲気は【真神愚連隊】の指揮官へと変わっていた。

「本日たった今から各自臨戦態勢。不意の襲撃に備えろ」

「なんだって!?」

 またいつもの唐突な命令か、と思った京一たちであったが、先週の九角戦の事もあり、龍麻の次の言葉を待つ。

「帯脇の親は権力の走狗だ。そして裏社会との癒着も相当深いと見た。そちらの方は俺が話を付けてくるが、なんと言っても餓鬼のやる事だ。思わぬ行動を取らぬとも限らん。そして奴自身、【力】の持ち主だ」

「なん…だと…?」

 醍醐が声を絞り出す。京一、小蒔、葵でさえ表情を強張らせた。

「気付かなかったのも無理はない。奴の【力】は【神威】とも【使徒】とも異なる。だが、かなり強力な事は間違いない」

「そんな事を…どうして黙っていたんだ?」

「あの場で言ったところでどうにもならん。始末するにも、人目がありすぎた」

 龍麻は自分に向けられた銃口は確実に潰す。殺しはしないまでも、再起不能なまでに。だが今回はタイミングが悪かったのだ。あの場でそのような暴挙に出れば、現場にいたさやかや霧島にも害が及ぶ。派手に立ち回ったのは、そうすればドラマのロケか何かだと勘違いされるとの計算もあったからだが、単に帯脇を片付けるだけでは、低俗な芸能誌がこぞってさやかの交友関係を書き立てるだろう。

「俺としては、帯脇が挑発に乗ることを期待する。それ以前に、奴が【力】を悪用しているのであれば暗殺も辞さん。しかし、その能力も実力も未知数だ。情報が必要だ」

「情報…と、なると、やっぱりアイツか」

 後のことを考えるなら天野の方が頼りになるのだが、彼女も仕事を持つ社会人だ。あまりこちらの都合で情報提供させる訳には行かない。

「少なくともさやかと霧島は、今日一日程度は安全だ。帯脇が親に泣き付いたとしてもな。しかし、明日以降はわからん」

「するとやはり、私達の出番なのね?」

「肯定だ。休暇終了インターバルコンプリート。【真神愚連隊ラフネックス】、臨戦態勢で待機だ」









 ――翌日。一五三〇時。



 既に三−Cにおいて定着してしまった「敬礼!」の号令が響いて十数秒後、どたどたと廊下を走る音が凄い勢いでこちらに向かってきた。

「ちょっとちょっとちょっとちょっとォォォォォッッッ!!」

 火事か地震か泥棒かというような騒ぎと共に、真神一の守銭奴…もとい新聞部部長の遠野杏子が現れた時、京一はそそくさとカバンに教科書を詰め込み、醍醐はダンベルトレーニングを始め、葵は編物を引っ張り出し、小蒔は【都内食べ歩きマップ】に視線を落とした。そして龍麻は、窓枠にかけたロープを今まさに伝い降りんとリペリングす、というところである。ちなみにここは三階。一般人なら致死率八〇パーセント以上の高さである。

 しかしながら、脱出寸前に龍麻はアン子によって襟首を掴まれてしまった。

「逃げようたってそうは行かないわよ、龍麻! 昨日、舞園さやかと一緒に歩いていたっていうのは本当なのッ!?」

『ぬわぬィィィッッ!!』

 盛大なる驚愕語の嵐に、ガタガタッと椅子が引かれる音が重なる。次いで教室中の視線が龍麻一人に集中砲火を浴びせた。

「あはは…いつにも増してチョッぱやの登場だね、アン子」

 【あの】龍麻が逃げ切れなかったという事実に、驚き半分、呆れ半分の小蒔である。

「さあ! どうなのッ!? きりきり白状しなさいッ!」

「解った、解ったからとりあえず落ち着け、遠野。龍麻が落っこちるだろう?」

 醍醐がフォローするが、時既に遅し――! ロープのフックが外れた。

「あぁぁぁぁ〜〜〜〜ッ!」

 甘い声と共に窓の下に消える龍麻。クラスメート達が驚き――

「〜〜〜〜ぁぁぁぁぁぁぁあッ」

 ひょこ、と窓枠から顔を出す龍麻。しかし、教室中を冷たい風が吹いている。

「……………龍麻。いいからさっさと教室に入りなさい」

「…了解した」

 もう、見事なくらい滑った龍麻に、葵の冷たい命令が下る。このギャグは東京都東村山市が生んだ偉大なる芸人、志村けん(敬称略)自身がやるからこそ面白いのだが、他人がやると白けるだけだという高難度なギャグなのだ。龍麻が挑戦するなど以ての外(力説)である。

 それは蹴飛ばすように脇に置いておき、京一がぼやいた。

「チッ、アン子の耳が早いのはいつもの事だが、もう少し状況を考えろよ。ンな事、でかい声で言うなよなッ」

「何よッ! そんなおいしいネタをあたしに隠しておく方が悪いんじゃない!」

 何か無茶苦茶言っているようだが、これがアン子流なのだから仕方ない。

「とにかく事件よ! ネタよッ! 血が騒ぐのよッ! 早くネタを頂戴ィィィッッ!!」

 ガラスを引っかくようなアン子の高音に、龍麻たちはピサの斜塔状態になる。

「…何かの禁断症状みてェだな」

「う〜ん、恐るベシ」

 一応、アン子が口撃(誤字にあらず)対象にしているのは龍麻なので、京一と小蒔はそんな事を言う。正論で闘えば一〇〇パーセント龍麻の勝ちだろうが、この状態のアン子には彼でさえも勝てない。戦闘だろうが議論だろうが殆ど無敗の龍麻がやり込められるのを見るのは、彼らのひそかな楽しみでもあった。

「…暇なのだな、アン子」

「そうよッ! 暇よ! 暇なのよッ! 事件に呼ばれるあたしが暇なのよ〜ッ!」

 事件が呼んでいる、ではなく、呼ばれるというところがアン子らしい。龍麻たちにしてみれば、アン子自ら厄介な事件に首を突っ込んでいるように見えるのだが。

「鬼道衆の一件が綺麗さっぱり片付いちゃって、教師の不倫とかPTA会長の予算横領くらいじゃちっとも盛り上がらないのよォ〜ッ。何かこう、うんと凶悪でうんと強烈な新たな脅威でも現れないと、この欲求不満は解消されないわッ。龍麻だってそんなのが出てきたら腕が鳴るでしょッ!?」

 龍麻は無言で腕を振った。

 カランカランカラン…! 

「「「「………………」」」」

 教室内を吹きすさぶ寒風。舞園さやかの一件には多いに興味があるものの、さすがにこれ以上は耐え切れぬと、クラスメート達はそそくさと帰宅の途に付いた。

「ああ! もう! なによなによなによッ! 龍麻も事件のない平和な世の中が一番なんて言うんじゃないでしょうねッ!?」

「肯定だ。――視野を広げろ。事件がない日などないのだぞ」

 ギャグさえ飛ばそうと思わなければ、龍麻の言葉には説得力がある。近頃戦闘時と平穏時のギャップが激しくなってきた彼である。

「と、取り合えずだな、遠野。そんなに暇なら、文京、中野界隈で妙な事が起こっていないか調べてくれないか」

 これ以上龍麻の寒いギャグを聞かされる前に、と、醍醐が話題を本来の方向に持って行く。しかし理由はそれだけではない。龍麻が本筋から外れてギャグを飛ばし続ける時は、彼の卓越した推理能力や戦闘能力を使用した時、あるいはそれらが必要とされる場面が想定される時だ。どういう精神構造なのかいまだに理解しかねるが、そうやって精神的均衡を保っているのだから仕方ない。アン子の相手くらいは代わってやるべきだろう。

「文京に、中野ね。――ふっふっふ。来たわ来たわ! この感じッ! 事件の匂いよッ! いいわッ、早速調べるから――ハイッ!」

 なぜか差し出される、アン子の手。

「あらアン子ちゃん、生命線と運命線が凄くしっかりしているのね。――まあ大変! 金運線が切れてるわっ」

「――フフフ、美里ちゃんも鋭い切り返しをするようになったわね。――って、そうじゃなくてッ、事件の調査料!」

「お前は〜ッ! わざわざ暇潰しのネタをくれてやったんだッ! そのくらいで我慢しろッ!」

 アン子の相変わらずの守銭奴ッぷりに、京一が声を荒らげる。

「何キレてんのよ、みっともないわね。――解ったわよ。その代わり、絶対に舞園さやかを紹介してよねッ!」

「却――」

 間髪入れず龍麻が「却下」と告げようとする前に、アン子はステップも軽やかに教室を飛び出していった。

「アイツ…踊りながら出て行ったな」

「うん…よっぽど暇だったんだね」

「うむ。まるで【ウエストサイド物語】のようだ」

 最後のはやはり、ボケの続いている龍麻の台詞である。ちなみに【ウエストサイド物語】は先日見たばかりの彼だが、ミュージカルというものを知らぬ彼は「なぜ彼らは踊りながら逃げる?」とか、「アメリカ人は踊りながら喧嘩をするのか?」としきりに首を捻っていたものだ。

「まあ、アン子はああやって事件を追っている時が一番生き生きしているし、あれでいいのかな。ひーちゃんもそう思うでしょ?」

「…実は彼女も【神威】の一人かも知れんな。事件を察知し、情報のありかを探り出し、自分は決して傷付かぬというような【力】があるかも知れん」

「あはは! 言えてる」

 ひとしきり笑った一同は、教室に部外者がいなくなったところで少し表情を改めた。

「ところで、俺たちはどうするよ? 臨戦態勢で待機っつったって、帯脇が挑発に乗るとは限らねェだろ。ひーちゃんが目一杯脅したしよ」

「うむ。あれだけやられて刃向かう気になるほど根性があるようにも見えなかったが。――それに、もう何か手を打ってあるのだろう?」

 やはり龍麻の事だから…と、京一たちは龍麻に注目する。敵対している相手が判っていて、この男が何もしない訳がないのだ。

「肯定だ。しかし根性はないが、代わりに陰険な手段を使う事を躊躇わない奴だ。――どこかで見た事がある奴だと思ったが、以前、港区のプールで奴を見たのを思い出した。あの時舞台を破壊したのも帯脇だろう」

 そう言えば…と、醍醐も記憶を探る。

「言われてみれば、確かにそうだな。俺はてっきり京一が暴れたせいだと思っていたが、それならあんな壊れ方はしない。――しかしあの場には舞園もいたのだぞ? まさか舞園まで巻き添えにするつもりだった訳か?」

「狙いはさやかではなく、他の誰か…多分、霧島だったのだろう。幸い京一が暴れた事で計画が狂い、誰も傷付かずに終わったのだ。――いずれにせよ、危険人物に変わりはない」

 そんな事があったんだ…と深く頷く葵と小蒔。しかし約一名、余計な事を思い出した男がいた。

「そうか…そうだったよなァ…あの時俺をぶちのめした後で、さやかちゃんを抱っこしたんだったよなァ…」

 昨日と全く同じシチュエーションに、同じ台詞回し。木刀をすらりと引き抜く京一。すわ、昨日の再現か!? しかし――

 ♪プッププピポパポ・ピッポ・パッ

「――俺だ」

 日曜日の夕方にお馴染みのメロディにガクッとコケる京一。龍麻の携帯の着信音であるが、なんとこれは【緊急コール】なのだ。「なぜに笑○!?」とは全員が突っ込んだのだが、次に設定したのが【サザ○さん】だったのでやはり全員が「戻せ!」と言う羽目になった。

「――了解。すぐにそちらに向かう」

 携帯の通話を切った時、龍麻の雰囲気は戦闘時のそれに変わっていた。

「霧島が何者かに襲われた。桜ヶ丘に向かう」

「な、何ィ!?」

「嘘…ッ!」

 まさか昨日の今日で…! さすがに驚く京一たち。

「ヤクザには手を廻しておいたが、奴は無視したらしい。――【真神愚連隊】、出撃する!」









 途中まで迎えに出ていた舞子から事情を聞きながら、【真神愚連隊】が桜ヶ丘に辿り着いたのは十五分後の事であった。

 【とにかく凄い怪我】という事だが、涙目で語る舞子の言葉から単語を抜き出して分析すると、どうやら霧島は大型獣にでも襲われたような裂傷を全身に刻まれていたらしい。桜ヶ丘に収容された時には殆ど虫の息で、うわごとでさやかと京一の名を呼んでいたのと、握り締めた携帯電話に【真神愚連隊】本部の連絡番号が出ていた事から、龍麻に緊急連絡を入れたとの事だった。そして霧島を桜ヶ丘へと運んできたのは、大陸系の顔立ちで、目元に刀傷があり、袋に入れた剣のようなものを背負っていたという。しかも、学生服であったらしい。

「…なんとなく知っているような気がするんだけど、誰かしら?」

「…俺もなんとなく覚えがあるような…?」

 京一と葵がそんな事を口にするが、龍麻は手を振って黙らせた。

「龍麻、どうした?」

 桜ヶ丘のロビーに足を踏み入れるなり、龍麻は【散開】のサインを出す。考える前に身体が動き、京一たちは戦闘態勢を整えて柱の陰に身を潜めた。

「…何かいる。…かなり危険な奴が」

 低く呟き、M1100を抜く龍麻。初めてここを訪れた時にも似たような事があったが、今は京一たちにも異常な雰囲気が感じ取れた。

「…やべェ…な。何か知らんが、やべェ…!」

「ああ…。今まで感じた事のないプレッシャーだ。桜井、美里、高見沢も、俺たちの後にいろよ」

 その時、廊下の奥の方で破砕音が響いた。

「何か…来るわ!」

 葵が声を上げた瞬間、【何か】が廊下一杯に広がった。

「お前達ッ! 早く逃げるんだよ!!」

「――ッッ!!」

 岩山の怒声に、雷のような銃声が重なった。

 廊下一杯になって迫ってきたのは巨大な蛇――龍麻にはそう【視えた】。弾丸は【それ】を素通りし、そして――

「ひーちゃん!!」

 【気】を感じ取れる者たち――この場では全員がそうだが、彼らの目には、龍麻が巨大な蛇の口の中に呑み込まれる光景が映った。しかし――

『我の…我の邪魔をするものはァッ…! ――ウ、ウツワ…!? ウウ…ウ、ウツウツウツウウウツワァァァァァァッッ――ッッ!!』

 頭の中に響く【声】が苦鳴と変わった瞬間、大蛇の幻影が内側から張り裂け、大蛇の腹を引き裂いて龍麻が姿を現した。大蛇の幻影は根幹となる【気】を引き裂かれたため、瞬時に消滅する。まるで龍麻に吸収されてしまったかのように。

「な、何だ今のはッ!?」

「龍麻ッ! 大丈夫…?」

 仲間達が声をかけるが、龍麻は無言で、金色の【気】の残滓を留める自分の手を見つめた。龍麻のV−MAX。彼の中に封印されていた、不可思議な【力】。

(少しはコントロールできるか…)

 そして、大蛇の残した言葉――【器】。

「緋勇…やはりお前は…」

「――霧島は無事ですか?」

 何か言いかける岩山に、機先を制して問い返す龍麻。今はまだ、仲間達に不安材料を与える訳には行かない。そして岩山も、龍麻の真意を汲み取った。

「どうやら全員無事のようだね。――安心しな。あの少年の命は取り留めた。後は意識が回復するのを待つばかりだが、まあ二、三日はかかるだろうね」

 一同にほっとした空気が広がる。小蒔などは「よかったぁ〜」とその場にへたり込んだ。

「…さすがだぜ、たか子センセー…」

 いつもなら龍麻か醍醐の背後に隠れている京一も、この時ばかりは感謝の言葉が自然に口から滑り出した。なんと言っても霧島は彼の一番弟子である。

「ふん、ようやく判ったようだね。まあいい。お前達、こっちに来な」

 岩山に招かれるまま、龍麻たちは治療室に入った。とは言ってもそこは門外不出という霊的治療を行う場所なので、霧島との面会は叶わない。今は清浄な【気】を満たした結界内で眠らせてあるという。

「さっきの奴は、あの少年に取り憑いていた思念だ。肉体的には巨大な牙の跡を残し、その傷口から何ら医学的根拠を残さず心身を蝕む、呪詛とも呼べる毒を発する。――まず尋常な相手じゃないね。心当たりはあるかい?」

「肯定です」

 龍麻が即答する。京一も、木刀を指が白くなるほど握り締めた。

「クソッ! 帯脇のヤロウ、ただじゃおかねェ!」

「ふむ。まあ待ちな、京一。それからお前達も。時に緋勇、八俣大蛇やまたのおろち伝説は知っているかい?」

「日本神話における八本の首を持つ大蛇。出雲の神である須佐乃男命すさのおのみことに倒される。それ以上は割愛します」

 岩山は大きく頷いた。

「うむ。本来蛇とは霊力の強い生き物だ。寿命を持たず、年を経るごとにより大きく、霊力もまた強くなる。そして妖怪化したものを【うわばみ】、【神】の領域に至ったものを【オロチ】と呼ぶ。――あの少年の傷に残された【気】から推察するに、どうやら相手は【オロチ】クラス。全身八箇所の噛み傷という点からの強引な推理だが、【八俣大蛇】に縁がありそうだよ」

 龍麻も頷く。実は昨日の帰り際に、犬神経由で裏密の占いを聞いたのである。曰く――【八ツ首の大蛇が見える】。――それとこの事件を結びつける事は容易だ。だが、日本神話に登場した八俣大蛇そのものなのか、その【力】だけなのかは、まだ判らない。もし八俣大蛇そのものなら、またしても世界の危機だ。

「すると…霧島クンを襲ったのが帯脇だとしたら、帯脇がヤマタノオロチって事…だよね?」

「【神威】でない事は確かだ。しかし相手が八俣大蛇であるなら、対策の立てようもある。――いかに巨大であろうと生物的弱点はなかなか克服できんし、神話の中にも答えが含まれているものだ」

 そう言う龍麻の頭の中には、既に対帯脇戦の戦術が組みあがっているかのようであった。

「奴が何だろうと関係ないぜ! 帯脇はぶちのめす! それでいいよな、ひーちゃん!」

「うむ。お前に任せる――と言いたいが…」

 龍麻が不意に立ち上がったので、全員がその背を目で追う。すると龍麻の手が触れる前にドアが開き、包帯だらけの霧島が倒れ込んできた。

「――ッお前は!?」

「霧島くん!」

「お、お主! まだ毒素が抜けきっておらんのに!」

 しかし霧島は龍麻の服にしがみつき、必死に顔を上げた。

「行かなくちゃ…! 僕が行かなくちゃ…さやかちゃんが…!」

「落ち着け、霧島。さやかがどうした?」

 龍麻の声は酷く冷徹だ。熱に浮かされている霧島が、能動的な単語を紡ぎ上げる。

「帯脇がさやかちゃんを狙って…僕は学校に逃げろって…! 僕…僕にも【力】があれば…!」

「心配するな。我々がさやかを救助する。――小蒔。動ける者に通達。集合場所は文京区鳳銘高校。第一級戦闘装備。二〇分で来いと言え」

「イエッサー!」と叫んで携帯電話が使用可能なロビーへと走る小蒔。

「緋勇先輩…僕も…僕も連れて行ってください…!」

「却下だ。――院長先生、お願いします」

 断ち切るような即答。冷酷なようだが、龍麻の判断は絶対的に正しい。今の霧島は立っている事さえできないのだ。

「うむ。さあ、後はこいつらに任せてお前は病室に戻…」

「緋勇先輩!」

 まさか、こんな少年があの岩山を押しのけるとは!? もはや体を支えていられないほどの重傷でありながら、彼の眼光はぎらぎらと鋭い。医者の立場からも止めなくてはならない岩山が、彼の気迫に押される形になっている。

「却下だ。お前は連れて行けん」

 こうなったら、龍麻が意見を翻す事などありえない。岩山を押しのける気迫も、龍麻に対しては全く効果がなかった。どんなに必死になろうと、気迫は目元の見えない龍麻に吸い込まれてしまう。

「僕は…僕はさやかちゃんと約束したんです…! 必ず護るって…! だから僕は…死んでもさやかちゃんを護りたいんです…! 僕にも…僕にも【力】があれば…!」

「――その考えが、お前を連れて行けぬ理由だ」

 龍麻の声に冷酷さだけでなく、鬼気までがこもった。

「今考えるべき最優先事項トップコマンドはさやかの救出だ。しかしお前は愚にも付かぬ押し問答で貴重な時間を浪費している。その上さやかを救出する為ならば自分は死んでも構わぬなどと言う。――そのようなぬるい頭の持ち主など、戦場に連れて行ける訳がなかろう。下らぬ自己満足の果てにくたばるのはお前の勝手だが、足手まといは迷惑だ。そしてお前が死ねば、残されたさやかはこの先一生自分を責め続ける事になる。その程度の事も理解しようとせずに戦いに行こうなどと、まして死に行くために【力】を求めるなど言語道断。――餓鬼は餓鬼らしく、おとなしく引っ込んでいろ」

「ひ…緋勇さん…!」

 相手が誰であれ決して逆らえぬ、龍麻の絶対宣言。今の龍麻は、霧島が当初思い描いた印象を遥かに凌駕していた。昨日のガード下の一件で、龍麻の凄まじさを知ったつもりでいた霧島は、とてつもなく危険な肉食獣に見据えられたかのように凍り付くしかなかった。

「お前の最優先事項は、身体を治す事だ」

 龍麻は続けて言った。

「それが聞けぬというのであれば、俺がこの場でお前を殺す。命に関わる場面で作戦の邪魔をされては叶わんからな。――理解したか?」

 龍麻の殺気と鬼気をまともに受けていては、霧島は頷く事さえやっとであった。しかし――

「返事は?」

「ッッハイ…ッ!」

 絞め殺される寸前のような声を絞り出す霧島。恐怖と悔恨と、哀惜が入り混じる目には、涙が一杯に溜まっていた。堪らず視線を【師匠】と仰ぐ男に向けたが、目が合った彼はふい、と顔を背けた。

 そして、龍麻は肩で風を切った。霧島の感情など知った事ではないと言わんばかりに。

「――【真神愚連隊ラフネックス】、出撃する」

 いつもの宣言をして、龍麻が部屋を立ち去ると同時に、緊張の糸がぷっつりと切れた霧島が倒れ込む。相手が重傷であろうとなかろうと、龍麻の鬼気は一切容赦しなかったのだ。

「――全く、無茶をする子だねェ」

 しみじみとした岩山の言葉は、誰を指すのか。

「センセー、俺たちゃ行くけどよ、こいつの事、頼んだぜ。――俺の、一番弟子だからよ」

「誰に口利いてんだい? 任せときな。こんな可愛い坊やをむざむざ死なせたりするものか」

 少し怖い気もするが、他ならぬ岩山の言う事だ。霧島は大丈夫だ、

 京一、醍醐、葵はそれぞれ岩山に一礼して、辛い命令を出さざるをえなかった指揮官の後を追って走り出した。









  第壱拾六話  魔獣行(前編)2  完







  目次に戻る  前に戻る  次に進む  コンテンツに戻る