第壱拾六話  魔獣行 前編 1





 シュッ! …シャッ! …ヒュッ! 

 生っ粋の東京育ちならば、そろそろ肌寒く感じる朝の空気の中で、緋勇龍麻は徒手空拳【陽】の型を演じていた。



 ――真の恐怖はこれから始まる――



 九角の残した言葉が、頭の隅に引っかかっている。新たな闘いの予感。鬼道衆との闘い、九角との決着が、実は始まりであったような。それを思う時、龍麻はなぜか高揚感を覚える。

 ――つくづく因果な性分…そう思わずにはいられない。九角の言った通り、自分は今でもレッドキャップスなのだ。平和は休息期間、次の闘いに備えるインターバルに過ぎない。そして、それでも構わないと考える自分がいる。【自由に生きる】。それは闘いから逃げるという事ではない。闘うのも、逃げるのも、全て自分で決める事だ。鬼道衆との闘いは、龍麻にとって己の内に入力されたプログラムに従っていただけというような部分があった。しかし多くの仲間たちと出会い、触れ合い、共に闘う事で、龍麻の【人間】部分は【プログラム】を越えた。そして蘇った九角との再戦で、戦闘プログラムを解除された。これからの闘いは龍麻にとって、人間としての闘いになるのだ。

 みっちり一時間。あの響豹馬に学んだ【円】の動きを取り入れた型をこなし、たっぷりかいた汗をシャワーで洗い流す。それから野菜サラダメインの朝食を済ませ、装備を再確認。ナイフ、拳銃、ショットガン、予備弾、その他諸々、全て良し。

 最後に、いつものようにコートを羽織った龍麻は、壁に貼られた写真に向かってラフな敬礼をした。

 【レッドキャップス騒乱】直前、【仲間たち】と共に撮った写真である。中央に九角が、その隣に自分がいる。そして、この写真に写っている【仲間】の何人かは、この空の下、どこかで身を潜めて生きているという。

「では、行ってくる」

 それが最近の、彼の日課であった。









 三−C教室、〇八〇〇時

 いつもの登校時間と一分の誤差もなく教室に入った龍麻は、この時間には見慣れない人物が教室にいるのと、その周囲にクラスメートが群れているのを見て少しばかり驚いた。

 向こうも龍麻が来た事を知り、皆で見ていた雑誌を持って龍麻の席までやってくる。

「よっ、ひーちゃん。――へへへッ、これ見ろよッ」

 そう言って、有無を言わさず龍麻の席に雑誌を広げる京一。普段はあまり龍麻の所には来ないクラスメートたちも、今は人だかりである。

「今をときめく舞園さやかちゃんの新写真集! 新曲のCDと合わせた限定プレミアムBOXの予約チケットを手に入れたぜ!」

「ふむ…」

 龍麻は気のない返事である。

「可愛いよなァ…平成の歌姫と名高い、実力派の超美少女ッ! これでもまだ高一なんだぜ!」

「ふむふむ…」

「新曲CDも発売初日にミリオンチャート! 最近盛り上がりに欠ける芸能界に舞い下りた天使! これが舞園さやかちゃんなんだぜェッ!」

「ふーむ。…うむ…。ふーむふむ」

「ふーむ?」

「ふむ。うむ!」

「ふーむふむ!」

「ふーむふむふむ! ふむふーむ!」

「やめんか! お前ら!」

 訳の解らぬ【ふむふむ】言葉による問答に唖然とする男子生徒の輪の外から、醍醐が一喝する。

「まったく…朝から何を騒いでいるんだ、お前たちは」

「なんだよタイショー。お前までひーちゃんの不感症が感染うつったか?」

 バッ! とばかりに醍醐の前に雑誌を広げる京一。高校一年生にしては早熟なラインを誇る舞園さやかの水着姿に、醍醐の顔が赤くなる。

「ほら見ろッ。――ひーちゃん、これが正常な男子高校生の反応だぞ! こんな可愛い子に反応ゼロなんて、お前は本当に地球人かッ!?」

「大袈裟な奴だ」

 コホン、と咳払いを一つして、龍麻はあっさりと切り捨てた。

「俺が話した限り、舞園さやか嬢はごく普通の、素直な良い少女であった。天使だの歌姫だのと、妙な枕詞など必要なかろうが」

『ぬわぬィィッッ!!』

 この言葉に、京一以下、周り中にいる男子生徒の声がハモった。

 そうなのだ。この夏、港区のプールで龍麻は舞園さやかと接近遭遇、イベントを台無しにした木刀の暴漢(笑)を殲滅し、倒壊する舞台からさやかを救ったという経緯がある。一部写真週刊誌にはさやかをお姫様抱っこしている龍麻の写真が掲載されたりもしたが、スモークの為にピントが合わず、龍麻もサングラスをしていた為、正体がばれるには至っていない。さやか自身が龍麻の事を何も喋らなかったのもその要因だ。

 しかし、そんな真相は知らずとも、天下のアイドルと話した事があるという龍麻に、男子生徒の嫉妬が集中したのは無理もない。

「そうか…そうだったよなァ、ひーちゃん…。あの時俺をぶちのめしてさやかちゃんと一人だけお話したんだったよなァ…!」

 スラリ、と愛用の木刀を引き抜く京一に、周りの男子生徒達がズザザッと下がる。龍麻にこき下ろされた京一が彼と勝負するのは毎度の事なので、この辺りは馴れたものである。しかしいつもと異なるのは――

「行け! 蓬莱寺!」

「今日は勝て! 今だけはお前を応援するぞ!」

「緋勇! 銃は使うなよ! ずるいぞそれは!」

 いつもなら賭けが始まる所なのだが、今日に限って男子生徒はほぼ全員が京一に味方する。それに気を良くしたか、京一はまるで特撮ヒーローものの悪役のような笑い声を上げた。

「うわはははははは! 今日で真神の少尉殿も最後だ! 覚悟しろ!」

「…懲りない奴だ。この万年二等兵が」

 平然と毒づく龍麻は、席を立とうともしない。京一は龍麻がアクションを起こす前に攻撃を仕掛けた。

「でりゃあ!」

 かなり本気の、【諸手上段】! しかし、龍麻は避けない! 

「――ッッ!!」

 そのまま龍麻の脳天を直撃するかに見えた木刀が、その寸前で停止した。龍麻は何と、舞園さやかの写真が載っているページを盾にしたのである。さすがはファンクラブ二桁会員。写真と言えども舞園さやかを殴る事はできない。見事な寸止めであった。

「…隙あり」

 ヒュッと風を切る龍麻の爪先がコツン! と京一の脛を打つ。いわゆる弁慶の泣き所。これは、本気で痛い。

「いってェ――ッ!」

 脛を押さえて転がる京一。すると男子生徒の輪の更に外から、女子生徒の歓声が上がる。これは無理もない。何しろこの男どもと来たら、教室内に女子生徒の姿があるにも関わらず、「うちのクラスの女どもは、さやかちゃんと比べたら月とスッポン」、「うちのクラスは動物園」、等の、危険な発言を繰り返していたのである。

 そしてとどめに、一人の女子生徒が京一を踏む。

「グエッ! こ、小蒔! 何しやがる!」

「へっへーんだ! このクラスの女子代表だよッ!」

 小蒔がガッツポーズをすると、女子生徒から拍手と歓声が上がる。

「うふふ、みんな、勝負は良いけど喧嘩は良くないわ」

 まるで某SF超時空スペースオペラアニメーションに登場するゼントラーディー軍とメルトランディー軍(解らない人はしっかりググるべし)のごとく両陣営に分かれたクラスの男女は、葵の一言で現実に立ち戻る事を決めたようだ。彼らもしくは彼女らにとって、やはり舞園さやかは遠い存在なのである。そして舞園さやかは男女を問わず、幅広い年齢層に支持されているので、女子生徒達も彼女をネタに喧嘩する気などさらさらないのであった。

「だけど軽薄な京一にしてはマメだよねェ。そんなにさやかちゃんの事好きだったなんて、知らなかったなァ」

 確かに京一は問題児ではあるが、絶対に女子には手を上げないし、売られた喧嘩は買おうとも、自ら喧嘩を売って歩く真似はしないので、女子の受けは決して悪くない。むしろ、モテる方だ。それなのに特定の彼女がいないのは、とにかく軽薄で女好き(小蒔主観)が災いし、真面目なお付き合いをしようと考えるところまで行かない為である。そんな彼がアイドルに熱を上げて、新曲や写真集の発売やらなんやらをこまめにチェックしているのだから、小蒔としても驚く他はないのだ。

 しかし今回は、京一に支援が入る。

「でも、私もさやかちゃんの歌は好きよ。彼女の歌を聴いてると、何かこう…心がとっても安らぐし」

「まあ、そうだよねッ。うちでも良く聴いてるけど、弟達もさやかちゃんの歌になると騒ぐのを止めて聴いてるし。一番下の弟はさやかちゃんの歌を聴かせながら寝かせるとすぐ寝ちゃうんだ」

「そう! それなんだよ!」

 京一、復活。

「さやかちゃんの歌にはスゲエ力があるんだ。テレビでさやかちゃんの歌を聴いていたら子供の熱が下がったとか、ずっと車椅子の生活をしていた女の子がさやかちゃんの歌を聴いていたら歩けるようになったとか…。そんな話がごろごろしてるんだぜ!」

 その時ふと、一同はある事に気付く。自然に声も潜まった。

「【力】か…。歌によって人を癒す。あながち、有り得ない話ではないな。【神威】の【力】ならば」

 【神威】…。【神】の【力】。人体に無数に存在する【チャクラ】によって発動する能力…。

「…本当にそうなら、会って話をしてみたいわね」

 歌によって人を癒す――テレビの電波を通じてさえ。同じ【癒し】の【力】を持つ葵としては、思う所が多いだろう。

「それに、そんな人が私たちの仲間になってくれたら、とっても心強いわ」

「うむ…。それを本人がどう捉えているか気になるしな…」

 醍醐の言葉に、少し顔つきが真面目になる一同。

「そうね…。もしそういう【力】があるとしたら、それで悩んでなければ良いのだけれど…」

「ウン…。もし【力】の事で悩んでいるなら、相談に乗ってあげたいよね。【大丈夫だよ】って」

 さやかに【力】があると仮定して、しかし彼女はやはり、遠い世界の人間である。プールの一件は別として、今後、一介の高校生である一同と彼女に接点があるとは思えない。龍麻はそう思ったのだが、そう思わない者が約一名存在していた。

「ふっふっふ…そうか。やっぱ俺とさやかちゃんは結ばれる運命にあるんだな…!」

「…何を根拠に言っている?」

「俺もさやかちゃんも、共に【力】を持つ者同士! 俺と彼女は惹かれ合う運命にあるのだ!」

「…寝言は寝てから言え」

 こういう場合、片方が熱を上げていると、周りの者はどんどん冷静になっていくものだ。しかし既に妄想の世界にどっぷり漬かり込んでしまっていた京一は、龍麻の冷静なツッコミも耳に届いていなかった。

「よしッ! そうと決まりゃ、さやかちゃんに会いに行くかッ!」

 はあ、と盛大にため息を付く醍醐たち。この男の馬鹿さ加減には本当に頭が下がるのだが――

「そうか。行くのだな。よし、京一。男なら行ってこい」

「ッッ!!?」

 突然、龍麻がそんな事を言ったので、醍醐たちの目が点になった。いや、龍麻の言葉が聞こえていたクラスメート全員の目が。

「そうか! ひーちゃん! お前は解ってくれるんだなッ!」

「もちろんだとも、京一。さあ行け! 今こそその時だ!」

「応ッ!」

 誰よりも龍麻にそう言われた事がよほど嬉しかったのか、京一は「わははははは」と高笑いしつつ教室を飛び出して行った。

「………アホめ」

 しみじみと、思いきり冷たい龍麻の呟きで、醍醐たちは我に返った。

「ど、ど、どうするのさッ。京一、どっか行っちゃったよッ」

「大いに興味があるな。舞園さやかの居場所も知らんと、何処に向かったものか」

「た、龍麻…!」

 表情も変えないままに冗談を言う龍麻に、もはや頭を抱えるしかない醍醐。

「でも、もうすぐ授業が始まるわ」

「いくら京一がアホでも、自分の行き先すら知らない事に気付けば戻ってくるだろう。さもなくば、校門で止められるか。――心配するだけ馬鹿馬鹿しい」

 それもそうか、と小蒔が同意し、醍醐も葵もいくら彼でもそこまで馬鹿ではないだろうし――と考え、無駄に心配するのはやめにした。それも麗しい信頼の証であったろうが、しかし! 京一は遂に放課後まで戻ってこなかったのであった。









「はあ…今日はくたびれたぜ…」

「――自業自得だ」

「ひゃっ! 今の風、凄く冷たかったよ。――ひーちゃん、気温まで下げちゃ駄目だって」

「それはこの粗忽者に言え」

 季節の変わり目に吹く冷たい風を龍麻のせいにする小蒔も小蒔なら、それをあえて否定しない龍麻も龍麻だ。この京一、普段からアホだアホだと思っていたが、まさか丸ごと授業をエスケープして、いる筈もない舞園さやかを求めて新宿中(地元限定がポイント)を右往左往上往下往していたのだ。ここまで馬鹿な所を見せ付けられれば、指揮官たる龍麻が怒髪天を衝くのも仕方あるまい。まあ、直接の原因は龍麻が京一をノせた為なのだが。

 そんな訳で、龍麻はすこぶる不機嫌である。そこで今日は全員のラーメン代を京一に奢らせるという提案を小蒔がして、醍醐、葵ともに賛成、龍麻の機嫌を取る事になったのであった。

 しかし、京一がへこたれているのは懐具合であって、本人は少しも堪えていなかった。

「おッ! そこの路地から女の子の悲鳴を捕捉!」

 京一が気付いたという事は、龍麻も気付いていたという事である。しかし事が【女】絡みとなると、行動は京一の方が遥かに早い。

「まったくあいつは…いつまでたっても進歩のない奴だ」

 相変わらず不機嫌なまましみじみとごちた龍麻であるが、やはり放っておく訳には行かないので走り出している。

「揉め事があると首を突っ込まずにいられないんだからさッ。でも女の子の悲鳴じゃほっとけないよね!」

「この新宿で揉め事を起こすとは、まだ命知らずがいるようだな」

「うふふ…。退屈しないわね」

 約一名、取りようによっては非常に恐い言葉を発した者がいるが、やはり【新宿真神の五人】は地元の事件に無関心ではいられない。結局全員が、悲鳴が聞こえた路地に飛び込む事になった。

「テメェら、この新宿で何やってやがんだ!」

 勢いの良い京一の啖呵が響いてから数秒後、龍麻たち四人も彼に追い付く。相手は、それこそ絵に描いたような不良が五人である。ただし、見覚えのない制服の上、龍麻たち真神の制服にも反応しないところからするとよそ者のようだ。

「何だァ、テメェらは!?」

 月並みというのも馬鹿馬鹿しくなるほど使い古された台詞に、京一は待ってましたとばかりに木刀を突き出して見栄を切った。

「聞きてェか? それなら目ェひん剥いて、耳かっぽじって良く聞きやがれ!」

 龍麻たちのため息をBGMに、京一は木刀でヒュッと空を切った。ただそれだけなのだが、常人とは違う証拠に、五人の不良と、彼らに絡まれているカップルは、脳髄に清水の流れるがごとき刺激を感じたのである。

「新宿一…もとい日本一の良い男、神速の木刀使い、蓬莱寺京一とは俺の事だッ!」

 歌舞伎ならここで【ダダン!】と合いの手が入るところだろう。しかしそこで入ったのはやはり龍麻たちのため息であった。

 しかし、不良たちの反応は真っ当なものであったと言える。

「蓬莱寺…まさか新宿真神の…?」

「へえ、知ってるなら話が早いぜ」

 木刀を肩に担ぎ、不良たちを威嚇するようにずいと前に出る京一。そして醍醐が、絡まれていたカップルを守るように進み出た。

「この界隈でトラブルは困るな。同じく、俺も真神の醍醐という者だが、この名で引き取ってもらえれば良いのだが?」

 言葉そのものは穏便な事を言っているようだが,はっきり言ってやくざ屋さんの脅しに近い。その巨体から醸し出す迫力は本職よりも凄いものがある。現に修羅場の数は確実に本職より上だ。

「真神の蓬莱寺に醍醐…! するとそこのコートは…!」

 ザザザーッと、五人の顔から血の気が滝のように引いていく音が聞こえたような気がした。

「お…オイ、退くぞ」

「そ、そうだな。真神が出て来ってんなら、帯脇さんに報告しねえと」

 正しく蛇に睨まれたカエルに近い状態にありながら、それでも五人組は虚勢を張り続けたままじりじりと後退する。近頃珍しい反応であった。この界隈の不良たちは龍麻たちが三人組、もしくは五人組で行動していると、遠くから見つけた者はさっさと逃げ出し、いきなり出くわしてしまった者は硬直してしまうのだ。

「何だよ、やらねェのか?」

 いかにも拍子抜け、というように京一が五人組を挑発したが、爪の先ほど驚いた事に、五メートルから離れたところで彼らはにやりと笑って見せた。

「真神の緋勇に蓬莱寺、それに醍醐か。中野さぎもり校の帯脇さんを敵に廻した事を後悔させてやるぜ」

「――ッッ!」

 この台詞に呆気に取られたのは一瞬の事、その直後、京一、醍醐、小蒔は堪え切れずに腹を抱えて笑い出した。葵までが、口元に手をやって吹き出している。

 意外と言えば意外すぎる反応に、不良たちは鼻白んで叫んだ。

「そ、そうやって笑っていられるのも今の内だけだぜ! 覚えてやがれ!」

 ほとんど無防備に笑い転げている一同をその場に残し、不良たちは逃げるように走り去っていった。

「ヒーッ、ヒーッ、【敵に廻した事を後悔させてやる】だってよッ」

「今時【覚えてやがれ!】だって」

「なんと言うか、微笑ましくなるな」

「うふふ。もう、みんな笑いすぎよ」

 完全にツボにヒットしたか、笑いの納まらない一同を尻目に、龍麻はあっけに取られているカップルに歩み寄った。

「災難だったな。見たところ怪我はないようだが、大丈夫か?」

 新宿で龍麻たちを知らぬ者はいない。はっきり言って、東京都内の高校で彼らの名をまったく知らぬ者など数えるほどしかいないだろう。できれば潜伏していたい(何を今更)龍麻には迷惑な話だが、このカップルも良くも悪くも龍麻の噂を耳に入れているのだろう。見たところ下級生だが、ネコッ毛で童顔の少年が少女を庇うようにしている。

「は、はい! あの、えと、た、助けていただいてありがとうございました!」

「何だよ…ヒーッ、噂に…ビビッてるのか? ヒッヒッ、別に取って食ったりは…しねえ…ってえええええッ!?」

 笑い転げていた京一の顔が、少女の顔を見た途端に固まった。

「何? どうしたの、京一」

 しかし京一はショックのあまり口をぱくぱくさせ、少女を指差す。

「さ、さ、さ、さ…!」

 その指先を遮るように、ついと龍麻が少女の顔を覗き込んだ。カールした亜麻色の髪をカチューシャで留め、目元涼しげながらおっとりムードも漂う美貌には見覚えがある。今朝、写真の中で微笑んでいた顔だ。

「ああ、君は舞園さやか嬢。久しぶりだ…と言っても、君は覚えていないかもしれないが」

「いいえ! その、お久しぶりです! 緋勇龍麻さん!」

 この返答に驚かない者はいないだろう。かつて芝プールで龍麻が今をときめく大アイドル舞園さやかと接近遭遇し、言葉を交し、壊れた舞台から彼女を救い出す際に彼女をお姫様抱っこした事があったなどと。しかもそれをさやか自身が覚えているなど、唯一その現場を目撃した醍醐でさえ我が耳を疑うほどだった。

「元気そうで何よりだ。活躍ぶりは聞き及んでいる」

「はい! ありがとうございます!」

 今をときめくアイドルとタメ口で話す指揮官に、やっと小蒔が切り出す。

「ひーちゃん…さやかちゃんを知ってるの?」

「ん? うむ。以前、プールでな」

 その後を継ぐように、さやかが身を乗り出した。

「危ないところをこちらの緋勇さんに助けていただいたんです」

 それからいきなり不躾だったと、さやかは慌てて身を引いた。

「わ、私、文京区鳳銘高校一年の舞園さやかです。よろしくお願いします!」

 バラエティ番組ではなく、アイドルが素でこれほど慌てるところなど滅多に見られるものではなかろう。京一が――壊れた。

「うおおおおおおおォォォォッッ! 本物のさやかちゃ…!」

 魂からの雄叫びを上げようとする京一に、龍麻の容赦ない【掌底・発剄】が飛ぶ。出力の微妙なコントロールにより、打撃は京一の運動神経のみを麻痺させ、彼は世にも情けない顔のまま固まった。少年の方は驚いたが、さやかは龍麻が京一を沈めるのを見るのは二度目であるので驚かない。

「ふむ。ところで君は?」

 京一を固まらせた事など忘れたように、龍麻は少年に向き直った。目元の見えない龍麻ではあるが、その視線を感じたのか少年はぴょんと跳ねるように背筋を伸ばす。

「ぼ、僕は同じく文京区鳳銘高校一年、霧島諸羽といいます! 危ないところを助けていただき、ありがとうございました!」

「うむ。無事で何よりだ」

 霧島少年の実直な挨拶に、龍麻も威儀を正して敬礼する。ただしその敬礼は、士官が部下に対して行うややラフなもので、霧島少年をそれ以上緊張させなかった。

「新宿真神の緋勇龍麻だ。各自、名乗れ」

 天下のアイドルとその連れを相手にまったく態度を変えない龍麻に空恐ろしいものを感じながらも、真神の仲間たちが順番に名乗っていった。

「さっきも言ったが、俺は醍醐雄矢だ」

「ボク、桜井小蒔。皆と同級だよ」

「私は、美里葵と言います。よろしくお願いしますね」

「はい。ご丁寧に、ありがとうございます!」

 どことなく龍麻と似た筋の入りまくった霧島少年に、小蒔たちは思わず笑みをこぼす。

「さわやかだなあ」

「うむ。近頃見ない礼儀正しさだな」

 一同がそんな事を言っていると、固められた上に忘れ去られていた男がやっと声を上げた。

「さ、さやかちゃん! 俺は真神一の良い男、神速の木刀使いほうらいじきょ…!」

 そこまで言った所で、再び龍麻の手刀が京一の頭にヒットする。

「こいつの事は気にするな。ただの馬鹿だ」

 しかし京一は、今度は執念で気絶を免れる。

「テメェ、俺にも喋らせろ…!」

「む!? しぶといな」

 さながらゾンビのごとく立ち上がり、さやかに迫っていこうとする京一を、今度は小蒔が押し留める。小蒔必殺の右グーパンチ。しかもボディーアッパーである。

「ここに留まっていてもあの木刀ゾンビに襲われる。どこか目的地があるならばそこまで送ろう。先ほどの連中がまだ近くにいないとも限らんしな」

「あ、はい。でも…」

「…何か問題でも?」

「あの、私たち、今日はオフなので少し息抜きしようと思って…。その…ちょっと食事できるところを探していただけなんです」

 ふむ。と龍麻は顎に手をやった。

「我々もラーメン屋に向かうところなのだが、君たちも行ってみるか?」

「え!? いいんですか?」

「味は保証するぞ。コレステロールその他に不安があっても、それを度外視するほどだ。かく言う俺も、既に全メニューを制覇している」

「それは…ぜひ連れていってください!」

 現役アイドルにそのような事を言わせる龍麻こそ恐るべし。醍醐たちは周囲の者を惹き付けて止まない龍麻の吸引力を改めて再認識した。そして霧島少年も、噂と実物がまったく異なる事を認め、彼らに対する警戒心を完全に解いたのだった。









 行き付けのラーメン屋、【王華】に至るまでに、女性陣はすっかり意気同合して楽しくお喋りを交していた。京一はその輪の中には入れない事に歯噛みしていたのだが、ともあれば暴走しそうになる彼に対して龍麻と醍醐が目を光らせているので、しばらくはおとなしくしていた。しかしそれも、全員が注文を済ませ、ラーメンを食べ始まるまでだった。

「さやかちゃんがラーメン食ってる…」

「…何か問題か?」

 また京一が馬鹿なことを言っている…と呆れ顔を作る一同を代表し、龍麻が口を開く。

「だってさやかちゃんが…」

「それが問題かと聞いている」

「だってさやかちゃんが俺たちと同じラーメンを…」

「何も問題はない」

「だって…」

 つい、と龍麻の手が京一の首筋に伸びる。

「何も、問題は、ない」

 ことさら口調は強めず、ただ一語一語はっきりと区切る龍麻。しかし、京一は首に食い込む激痛のあまり悶絶すらできない。例によって表情一つ変えないが、どうやら龍麻はかなり怒っているらしい。傍目には、何が起こっているのか分からぬ有り様だが。

「にゃにも…もんにゃいひゃ…にゃひ…」

「肯定だ。――二人とも、味はどうだ?」

「はい。おいしいです!」

 異口同音に答えるさやかと霧島に、龍麻もふっと笑みを浮かべる。出た! 男も女も魅了する、龍麻のアルカイックスマイル。

「それは良かった。この馬鹿は気にするな。後で拷問しておく」

 それも龍麻なりの冗談だと思ったのだろう。さやかと霧島は素直に笑いをこぼした。つられて笑った葵たちであるが、醍醐と小蒔だけは少し笑顔が引き攣っている。龍麻は冗談を言っている訳ではないからだ。――【普通じゃない】…。芸能人とマシンソルジャーではだいぶ趣が異なるだろうし、京一は単にさやかを偶像化して見ているだけだが、元マシンソルジャーで人殺しであるという自分を真っ先に受け入れた男がそんな事を言ったので、珍しく頭に来たのだ。

 しかし――

「皆さん、とっても仲がよろしいんですね。羨ましいです」

「仲が良い…。なるほど、そのように見えるか」

「はい?」

「うむ。彼らは転校生であった自分に友好的に接してくれた者たちだ。それ以来、いろいろありながらも友好的関係を続け、自分も彼らを信頼している。力強い仲間だ。その彼らと仲が良いと言われる事は喜ばしい」

「……」

 さやかの何気ない賞賛が思いがけず龍麻の心情を引き出した事に、真神の四人も少なからず驚いた。龍麻は滅多な事で…どころか、そんな事は絶対口にしない男であった。彼は口よりも行動で、態度で示す男だ。それは時として酷く冷酷にも見えるのだが、それが彼なりの信頼の証であったりする事が良くある。だから龍麻と初対面の者は彼を誤解しやすいのだが、そんな彼から本音を引き出してみせたのは、やはりアイドルとして多くの人間と接してきたさやかの資質であろう。

 そして思い出されるのは、修学旅行先で出会ったあの六人組。龍麻、京一、醍醐を三人まとめてあしらえるほどの男を中心に集まった、自分たちとは微妙に異なる【力】を有する者たち。彼らを繋いでいるのは互いに対する全幅の信頼であった。全員が好き勝手に闘いながら、それが互いを守る事にも通じ、命を預けあっているという、極めて強い絆。不死身の肉体を持つが故に永劫の戦いを宿命付けられているリーダーは言っていた。「彼らがいるから、安心して気絶できる」と。そして未来永劫、彼と共にある事を決意している少女は言っていた。「守られているより、肩を並べていたいです」と。

 龍麻たち五人の絆も決して弱くはない。だが、自分の命を仲間に預け、仲間の命を自分が預かるというレベルに達している彼らを、龍麻は【羨ましい】と感じたのであった。指揮官として仲間の命を【預かって】いる龍麻であるが、仲間に自分の命を【預ける】ところまで信頼できているだろうか? 未だに自分は彼らの事を頭の片隅で一段低く見ていないだろうか? そんな疑問を覚えて自問自答するほどに人間性を取り戻した龍麻を、さやかはさらりと導いたのであった。

「信頼できる仲間、そして友がいるというのは素晴らしい事だ。君にとっては霧島君がそうかな?」

 龍麻以外の者がこんな事を言ったら、あるいはアイドルのプライベートに土足で踏み込むような興味本位の質問となったろう。事実、さやかにしろ霧島にしろ、そのような質問を度々浴びせられている。特にスキャンダル専門三流芸能誌ともなると、さやかや霧島は言うに及ばず、学校の同級生にまで下衆な質問を浴びせ、脅し、すかし、尾行や盗聴までする始末だ。さやかのように、全国の老若男女を問わず愛されているアイドルでも、それ故に堕とし、汚し、嘲弄しようとする勢力が存在するのが、芸能という世界なのだ。

 しかし龍麻のそれに下世話な意図は皆無である。龍麻たちを羨ましいと言う彼女に対して、「君も同じだ」と言っているのだ。

「えっと…僕はさやかちゃんの…ボディーガードのようなものです」

「ふむ。常に誰かが傍にいるというのは良い事だが、武道家ともなれば尚更心強いな」

「え!? どうして…」

 解ったんですか? という言葉を霧島は飲み込んだ。真神の四人が一斉に自分を見たからである。自分が童顔である事を気にしている霧島は、自分が武道を学んでいるなどと言えば当然そういう反応がある事を予想していたのだが、この真神の面々の目は【やはり】という納得の目だったのだ。

「目配せ、歩運びその他を見れば解る。我々がしゃしゃり出ていかずとも、君ならばいかようにも処理できただろう。…西洋剣術だな」

「あ、当たりです…。で、でもどうしてそこまで…?」

「ひーちゃん、初対面の人間を混乱させんなよ。こいつの特技はプロフェッショナルでな。それこそ持ち物一つからでも人間分析が出来ちまうんだよ」

 龍麻がそれとなく話題を変えた事に気付いた京一が、これまたさりげなくフォローする。何しろ相手は現役アイドル。いくら警戒を解いているとは言っても、初対面の人間にアイドルのプライベートをぺらぺら喋る訳には行かぬだろう霧島を気遣ってのことである。

「京一、それを言うならプロファイリングだろッ」

「何だよ、どっちだって似たようなもんじゃねェかよ」

「ぜんぜん違うだろう、京一」

 二人がかりでやり込められている京一を尻目に、龍麻は言葉を継いだ。

「あの馬鹿は放っておくとして、守るべきものがあり、守らんとする信念があるのは良い事だ。勇気はそこから湧いてくる。さぞ、頼りになっている事だろう」

「はい、もちろんです。霧島君とは幼馴染ですし、この仕事に就いてからもずっと守ってもらってます」

 うむ、と口元に笑みを浮かべて肯いた後、龍麻は不意に京一を振り返った。

「そういう訳だ、京一。既にさやか嬢には守るべき騎士が付いている。お前のような軽薄煩悩男の出る幕ではない」

「なッ、何ィィ――ッ!」

 さらっと酷い事を言われ、京一が今度ばかりはキレた。それこそ高嶺の花どころか手の届かないテレビの向こう側のアイドルと差し向かいでラーメンを食べているという夢のごとき幸福の中で、思い切り虚仮にされたのである。これはさすがに龍麻の言う事といえど激昂するのは当然であった。

「今のは聞き捨てならねェぞ! ひーちゃん! 誰が軽薄煩悩男だ! 誰が!?」

「お前以外に誰がいる」

 龍麻の口調は思い切り冷たい。多分、まだ怒っているのだろう。

「俺の転校早々、図書室の秘密がどうのと言っていたのは誰だ? 常日頃から勉強よりオネーチャンたちと遊んでいたいと言っているのは? あろう事か担任の女性教諭に対して手取り足取り腰取り教えを乞おうなどとは? 挙げ句に酔った勢いに任せて暁弥生嬢に裸で抱き付いて行ったのは…むぐぐ! なにをする!?」

 いきなり、背後から醍醐に口を塞がれる龍麻。

「ひーちゃん! 京一をこき下ろすのは他のところでやりなよ。さやかちゃんの前で、下品だろッ」

「いや、下品と言うには当たらんぞ。京一の行為は強制猥褻だが、行為そのものは人間の自然な営みの一つであり…ムググ!」

 それ以上は一言も喋らせまいと、醍醐の馬鹿でかい手が龍麻の顔面を覆う。

「ナイスだ醍醐! そのまま押さえていろ! 今日こそこの鬼軍曹(下がってるじゃん)に目にもの見せてやる!」

 と、威勢良く言った京一の腹部に、小蒔のボディーブローが再び食い込み、哀れ京一は床に沈んだ。

「まったく。腕は達つのにどうしてこうも馬鹿なんだか…」

「済まんな、舞園、霧島。この二人の発言は忘れてくれ」

「え!? は、はい…」

 龍麻も京一も、強烈なボケ役もこなせば、痛烈なツッコミ役もこなす。それを常識人である醍醐が納めるというのが、平和な時間での彼らの有り様であった。新宿にその人ありと言われる強者達の意外にコミカルな掛け合いに、さやかも霧島も思わず笑いをこぼす。

「小蒔、醍醐君。そのくらいにしてあげないと、二人とも駄目になってしまうわ」

 見れば龍麻はいつのまにかチョークに入れられて舌を吐いているし、京一もぴくりとも動かない。

「え、え!? 大丈夫ですか!?」

 傍から見れば冗談事ではない様子なのに、醍醐や小蒔はおろか、葵ですら少しも慌てない。

「大丈夫よ、舞園さん。二人とも桜ヶ丘に放り込めばすぐ元気になるから」

 と、菩薩様の台詞が終らぬ内に、恐らくは根性で目覚めたであろう龍麻と京一を見て、さやかも霧島も醍醐たちにつられるように爆笑してしまった。

「クソ…お前ら覚えてろよ…」

「お前たち、全員再訓練に――」

 意識を取り戻してもまだ喘ぎつつ文句を言う二人であったが、なぜかにこにこと菩薩笑いを浮かべている葵が近付いてきたので、本能的に二歩ほど下がった。

「その前に、舞園さんや霧島君の前で下品な事を言った罰をあなたたちが受けなくてはね。額に【肉】と頬に【うずまき】とどっちが良いかしら? うふふふふふふふふ」

 油性サインペンを弄びつつ迫ってくる菩薩の笑みの前で、真神の魔人ナンバー1とナンバー2は蛇に睨まれたカエルのごとく硬直し、顔中に脂汗を一杯に浮かべた。――思い出深き修学旅行、戦慄の夜這い事件以来、良く見られるようになった光景である。

「あの、醍醐さん? ひょっとして、美里さんって緋勇さんや蓬莱寺さんより強いんですか?」

「ん? う、うむ。まあ、強さというのもいろいろな概念がある事だし、ある意味においては美里が最強だろうな」

 全く毒気のない霧島の疑問に思わず本音を洩らしてしまう醍醐。しかし、葵の眼だけが【キラーン!】と醍醐を見据える。

「うふふふふふふふ。何か言ったかしら、醍醐君?」

「い、イヤ! 俺は誓ってオカしな事ハ言ってイナイ!」

 思わず直立不動になってしまう醍醐に、さやかと霧島が目を丸くする。まさか【新宿真神の醍醐】までがこんな美少女一人を相手におかしな声を上げて硬直するなんて…。

「エヘヘ、さやかちゃんも霧島クンもそんなに驚く事ないって。ウチの男どもって、普通でいる時は子供ばっかりなんだよね」

「そ、そうなんですか!?」

 良くも悪くも、いやむしろ恐いという噂の方が強い緋勇龍麻とその仲間たちの意外すぎる姿に、霧島は本日二度目の、目から鱗が落ちる気がした。

「でも、何なんですか? 額に【肉】とか頬に【うずまき】って…」

 その時霧島は、しん、と背筋が冷えるのを感じた。

 くるーり、とばかりに葵が霧島に向き直ったのだ。その微笑のなんと優しく美しい事か。しかし…しかし霧島は全身が凍り付くのを感じた。

「うふふふふふふふ。霧島クン。世の中には知らない方が良い事があるのよ。それとも…寝袋に入りたい?」

「い…いえ…!」

 葵ににーっこりと笑いかけられ、霧島は完全に萎縮して返事をした。

(い、意味は判らないけど…凄く怖い…!!)

 なぜ龍麻たちが葵に逆らえないのか、少しだけ…とは言わず、完璧に理解した霧島であった。









  第壱拾六話  魔獣行(前編) 1  了







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