
第壱拾四話 京洛奇譚 6
『ヌウッ!』
「ッッ!」
強大無比な【気砲】の激突! この至近距離ではどちらも爆発に巻き込まれて消滅すると見え、しかし! 光の鳳凰と獅子は激突寸前で天に向かって駆け上っていった。正確には、激突せぬ絶妙な間合いを保ったまま互いに螺旋を描き、爆風のみ残して天へと誘導されたのであった。差し出された葉団扇と、一竿の旗によって!
「何が…起こったッ!?」
さすがの龍麻も驚愕を露わにし、ジルも唸り声を上げる。それもその筈――この二人の放ったエネルギー波を逸らして見せたのは【神威】でも【ストライダー】でもなかったのであった。
「た、隆サンッ!? 朋子サンまでッ!?」
たった今、この瞬間まで存在を忘れ去られていた男女の名を、小蒔が驚きと共に呼ぶ。この異空間に連れられてきた早々に気絶してしまった二人が、それぞれ【秘拳・鳳凰】と魔光の獅子を激突させぬように誘導して見せたのであった。
「――待ちや、龍々。このお人と戦ったらあかん!」
「――ジル、この者たちと戦ってはなりません」
いや、それは本当に隆であり、朋子であったか?
背中合わせに立つ二人の全身から立ち昇る青白い清浄なオーラ。爆発的に放出されるそれは、しかしとても優しく、暖かい。明らかに龍麻たちと同質の【力】であり、しかも龍麻やジルの奥技を見事に逸らしてのける程に強い。まさかこの二人も【神威】であったのか!?
「この伯爵はんは確かに百五十年ほど昔、わいらの敵として海の向こうからやって来たお人や。もっともそん時には【あの男】も外道ジジイもやっつけた後で、このお人とはわい一人で戦ったんやけどな」
「――誰だ、お前は?」
声こそ隆だが、この口調は先程から頭の中で語りかけて来た【声】のものだ。しかしいきなり百五十年前の話など切り出されても龍麻に解ろう筈もない。奥技を止められた件もあり、龍麻の詰問は風刃の鋭さを持っていた。
「んん〜〜っ、そうか、そうやったなァ。ここにおるんはまだわいのコト知らない龍々やったなァ…。――まァええわ! 龍々、また会えて嬉しいで、ほんまに! ――取り敢えずあの伯爵はんは任しときッ。あのお人には、わいも因縁あるさかいに」
隆が広げた手のひらを龍麻に向ける。すると、先ほど龍麻が拾った天狗の遺物――珠がポケットから飛び出し、彼の手に納まった。それは俄かに強烈な光を放ち――
「百五十年前、【現在】に託したわいの力…今こそ見せるで!」
宣言と共にザアッと風が沸き起こり、隆は木の葉舞う旋風に飲み込まれた。
「――ッッ!?」
「エエエッ!?」
「そんな…隆さんが――!」
竜巻がそよ風と化して霧消した時、そこに立っていたのは隆ではなかった。長身で黒髪の長髪。龍麻に似た風貌で、左眼に眼帯。派手な着物に、一本歯の高下駄。そして、手には羽団扇。
「もんちゃん――参上ォッ!」
派手な着物の男は羽団扇を一振りして見栄を切った。
「も、【もんちゃん】って…確かあのおばあちゃんが言ってた…天狗様!?」
「た、確かに聞いた通りの格好だが…!」
状況も忘れて驚愕する真神の一同。まさかあの老婆から聞いた通りの【天狗】が目の前に現れるなど…! 何も知らねば、どこのお笑い芸人だ? とか思うところである。
「なんやなんやなんや! 冷たいなァ、小鈴はんも醍醐はんも――って、そうやったな。おまはんらは【今】のお人やったな。まあ、そんな事はどうでもええねん! 龍々! いきなりこんな話しても信じられへんやろうけど、伯爵はんはわいらの敵やない。あのお人はごっつい哀しい目に遭って、怨念に囚われてしまっとる。それもこれも、あの外道ジジイのせいや。まずはわいらに任せて、龍々らはあの兄さんを助ける方に集中してや!」
【天狗】という神秘性とは相反する、しかし龍麻を知っていると如実に語る行為〜敬礼をして、【もんちゃん】は朋子と並ぶようにジルと対峙した。
「はっはっはっ! ひっさし振りやなァ、伯爵はんよ! 相変わらずおっそろしい堅物やな! やっぱりワイとは相性悪いで」
『貴様――們天丸! 性懲りもなく現れたか!』
太い眉を吊り上げ、怒りの形相を向けるジル。【もんちゃん】の本名は【們天丸】――記録にあった一五〇年前の戦いの当事者たちだ。
『そうなのか。やはり貴様も【そう】なのか! 拙い【力】でのぼせ上がった神の落し子どもめ! 今度はその魂ごと打ち砕いてくれるわ!』
「へッ、前の時は共倒れやったけどな、今度はそうはいかへんで! ――とは言っても、あんさんは化け物のままであっていいお人やない。目を覚ましや! あんさんは、民を護る誇り高き騎士様なんやで!」
『!?――利いた風な事を抜かすな! 我は逆徒! 黙して語らぬ神に弓引く者よ!』
技を跳ね返された事で冷静さを取り戻したのか、粘塊の海を泳ぐように距離を取るジル。まず倒すべきは百五十年前の因縁の相手という訳か、集約された魔力が炎の輪となってランスを取り巻いた。們天丸の頬に汗が流れ、しかし彼も己の周囲に旋風を巻き起こす。そしてジルと們天丸は、同時に技を発動させた。
『消し飛べ! 們天丸!』
「舐めんなやッ! 【燕嶽岩斬り一扇(】――ッッ!!」
風と炎――いずれ劣らぬ力が激突し、們天丸は空中に飛んで衝撃波を避け、ジルも粘塊の海を滑っていった。激しい爆発は粘塊を波立たせて押し退け、その中に一瞬、金色の輝きが過ぎる。
「あそこか! ――京一! 醍醐!」
「応ッ!」
「任せろっ!」
龍麻の【雪蓮掌】を浴びて粘塊が凍り付き、そこを足場に京一が木刀を振りかぶる。そして鬼道衆との最終決戦を経て新たに習得した技――
「【剣聖・陽炎細雪】ッッ!」
純粋に剣士たる京一が凍気を以って放つ術的剣技! 半月状に広がる凍気の刃が、本来は刃を受け付けぬであろう粘塊を引き裂くそばから凍結させ、さながら氷山を刻むクレバスのごとき切れ目を走らせる。その谷底に、赤い玉のような物体が沈んでいるのを確認し、醍醐はそれには当たらぬよう、氷山と化した粘塊に掌を押し当てた。
「【破岩掌】ッ!」
掌そのものは微動だにせぬまま、放たれる【気】の凄まじさ! 切り分けられた氷山の片割れが微細な氷片となって飛び散り、赤い玉が剥き出しになる。その中に遊泳しているのは胸に槍を突き立てられ、左腕と右足を失い、あろう事か美貌が半分切り取られ、しかし解剖模型の如く脳組織の断面を晒している豹馬であった。そしてそれは一瞬たりとも安定せず、肉体の各部が消えては現れ、現れては消えてを繰り返している。
「別の時間軸に飛ばされているのか。――目を覚ませ! 豹馬!」
豹馬を封じる結界に、生半可な【気】の打撃などでは通用するまいと、龍麻は槍に【秘拳・鳳凰】の狙いを定める。しかし一発放った直後であった為、【気】の収束がわずかに遅れた。その瞬間、們天丸を狙っていたジルの炎塊が、ジル本人の意に依らず急激な弧を描いて龍麻に襲い掛かった。ジル自身の殺気は完全に們天丸のみ狙っていた為に、龍麻の反応が遅れる。――かわせない!
『――ムウッ!?』
驚愕の唸りは誰のものであったか!?
龍麻を直撃する筈だった炎塊が爆発もせず、空中で激しく渦を巻いていた。より正確に言うならば、龍麻の前に一竿の旗が差し出され、炎を防いだのであった。そして、それを手にしているのは――
「と、朋子サンッ!?」
重厚にして絢爛な刺繍を施してある旗を片手で差し出しているのは、何の変哲もない少女であった。豹馬が【好敵手】として認めたジルの炎を、先ほどと同じく涼しい顔で受け止めて見せたのである。そして――
「――ジル。再度申します。お退(きなさい。我らは戦う運命にはないのです」
毅然と言い放ち、それから朋子は龍麻を振り返った。
「皆様も、矛を納めてください。【黒蝿王】の成した結界において、ジルと黒き戦士は表裏為す存在。今のジルを打ち倒すだけでは、黒き戦士を解き放つ事は叶いません。龍斗…いえ、龍麻殿」
「…誰だ、お前は?」
先程の們天丸も、小蒔の名前を異なる名で呼んでいた。朋子を操っている何者かも、自分に誰かの面影を重ねたのだ。しかし――【使徒】の放つ炎を平然と受け止めるとは何者か!?
「ちょっと待ちや。その龍々はまだわいらの事は――」
【もんちゃん】が何か言いかけるのを片手で制し、す、と朋子が旗を降ろした。
一体何をしたものか、炎が大地に染み込むように消える。ほんの一時、大地を赤いスパークが走り回ったが、それきりであった。
「重ねて命じます。退くのです、ジル。その怒りと憎しみの心は、あなた自身のものではない筈です。割目して、己自身を見詰め直すのです。勇猛なるブルターニュ領主にしてフランス元帥、ジル・ド・レエ伯爵よ」
凛と言い放つ朋子に気圧されるように、ジルは後ずさりした。――恐怖ではない。朋子が発している、大きく温かい【力】が彼を圧倒しているのであった。
『誰だ…。お前は一体…誰なのだ!?』
「際限なき憎しみからその身を解き放つのです、ジル。そして、思い出すのです。あなたの使命を。あなたの真の望みを。そして――私達の思い描いた、争いなき世界を」
『我の…使命…? 我らが思い描いた世界…? ――フランス元帥、ジル・ド・レエ伯爵としての…使命…!?』
憎悪と憤怒に燃え盛る【陰】のオーラが激しく動揺し、ジルは更に後ずさりする。そして彼は…片手で顔面を押さえ、唸るように声を絞り出した。
『そう…だ…! 我はフランス元帥…! 国を護り…民を護るは我が使命…! 我は…我は…!』
しかし、動揺は束の間、ジルの目が深紅の光芒を放った。絡み付く触手が【陰気】を放ったのである。
『おのれ小娘! 戯言で我を惑わすか! その戯けた口、魂ごと打ち砕いてくれるわ!』
「――ッッ!」
ゴオ、とランスに収束される思念! 龍麻や拳士朗ですら止めようのないタイミングで放たれたそれは、朋子の華奢な身体を呑み込み、更にその向こうにそびえていた岩塊まで消滅せしめた。しかし――
『馬鹿な…! そんな…そんな筈はない! お前は…お前は…!』
誰がジルのこんな声を想像できたか。彼の声は恐怖に震えていた。彼の思念波を受けて朋子は消滅し、しかしそこには、白銀に輝く鎧をまとった、豊かな金髪を風になびかせる女騎士が立っていたのである。
『己の目で見、己の耳で聞きなさい、ジル!』
女騎士は毅然として言った。
『この者たちは、私たちと同じ心と志を持つ者たちです。――思い出しなさい。私たちの戦いの日々を。民の流す涙を止めんと立ち上がった、我が軍団の姿を! そして、打ち破るのです! 神に仇為すもの、我らの宿敵、天地を覆う暗雲、魔王ベルゼブルの下僕を!』
『そう…だ…。我が名は…ジル・ド・レエ…! ブルターニュ領主にして…フランス元帥…! そして…我らの希望の星…の片腕…!』
ジルがカッと目を見開く。全身を覆っていた炎のごとき【陰】の【気】が押しのけられ、代わりに清浄な青白い光がジルの身体を縁取り――彼を粘塊に繋ぎ止めている触手がぶちぶちと千切れ始める。
『いかん! 術が…方陣が破れる…!』
【陰気】が食い下がろうとする中、轟、とジルは呼気を放った。【陰気】が気合一閃、弾き飛ばされる。彼の下半身…醜い肉塊が激しく波打ち、声なき苦悶の絶叫を放った。
『そう…お前はジャンヌ…ジャンヌ・ダルク!』
紛れもない歓喜と共に、ジルは叫んだ。次いで、限りない懐かしさを込めて女騎士を見やる。
『この東の果てに流れ流れてきた訳がようやく解った…。ここには、お前がいたのだな。ラ・ピュセル…ジャンヌ・ダルク…』
ジャンヌ・ダルク…。歴史書を紐解くまでもない、中世ヨーロッパ史に名高い、悲劇の聖女の名である。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル七世をランスの街にて戴冠させ、フランスの勝利に貢献した、【神】の声を聞いた少女。首都パリの奪還を目指すコンピエーヌの戦いで捕虜となり、イングランドの強い介入があった異端審問裁判の果てに火刑に処された悲劇は、今なお多くの人々によって語り継がれている。
そのジャンヌ・ダルクが、なぜこの京都に? 当然と言えば当然の疑問だが、ジル・ド・レエと名乗る【使徒】がここにいて、彼に取り憑いていた【首】の一つがピエール・コーション…ジャンヌ・ダルクの異端審問裁判で代理裁判長を務めた者となれば、ジャンヌ・ダルク本人がいたとしても、少なくとも龍麻には不思議ではなかった。【神】や【霊魂】の存在を認めようと認めまいと、所詮は地球上の出来事なのである。
「良くぞ思い出してくれました、我が盟友、ジル・ド・レエ伯爵。――懐かしき友ジルよ…私の現身は言われなき咎の炎に焼かれようとも、大いなる存在は私を見捨てはしなかった。我が魂は天に招かれ、大いなる【力】を護る英霊として今、ここにある。――ジルよ。人を怨んではなりません。国を守るべき王が国を守らず、神を守るべき教会が神を守らず、民を守るべき神が民を守らずとも、彼らは我らが愛した者たちなのです。あなたが財を狙う者どもによる咎の炎に焼かれる時、民はあなたの為に涙を流した。神の御心は推し量れずとも、あなたの善き行いを民は認め、感謝していたのです。あなたは逆徒などではない、真の神の【使徒】なのです」
『我が名はジル・ド・レエ…。ブルターニュ領主…フランス元帥…。我…神の使徒にして使徒にあらず、信徒にして信徒に非ず…逆徒にして逆徒に非ず…声なき神の声を求め…欲する者…』
ビキン! と鋭い金属音と共に、ジルの腰…肉塊との接合部に亀裂が入った。
『――ムウゥゥゥンッッ!』
咆哮を上げ、身をよじりもがくジル。鎧の剥がれた個所から鮮血が流れ、しかし粘度の高いアメーバ状の塊からジルの腰が引き出されてくる。
『伯爵様! 何をなさる!』
『黙れプレラーティ! このジル・ド・レエに、よくも下らぬ謀の片棒を担がせたものよ! 外道に堕ちし我が身なれど…下僕たる身になど甘んじぬ!』
なお絡み付こうとする触手を引きちぎり、自らも鮮血を振りまきながら粘塊から腕を引き抜き、剣を粘塊に突き立てるジル。ただの刃であればアメーバ状の粘塊には効果など上げられなかったであろうが、今や青白い清浄なオーラを放つ剣は呪わしい汚物のような細胞を焼き潰し、悲鳴を上げさせた。
女騎士が振り返る。
『龍麻殿! ご助力を!』
名指しされた龍麻に、京一らの視線が集中する。
『ジルは我が盟友! そして我らと同じ大地を護る【力】あるもの! その呪われた修羅の宿命を断ち切るべく、あなたのお力をお貸し下さい!』
「――俺の最優先事項は、奴に取り込まれた友を救う事だ」
龍麻は言った。時に冷酷に聞こえる、あの声で。
「貴殿の名は知っている。だが貴殿の盟友は、俺の友と相反する【力】を持つ。貴殿の友を助ける事が俺の友を殺す事になるならば、協力できぬ」
『やはり、龍麻殿。――ご安心を。ジルの【力】は光に由来するもの。かの悪魔はその【力】を利用し黒き戦士を封じております。ジルがあの魔物より抜け出せば、黒き戦士を縛る鎖は【闇】の力のみ。かの戦士は自ら呪いを断ち切りましょう』
『龍々! ワイからも頼む! ピセルはんに手ェ貸してやってくれ!』
ふっと拳士郎に視線を向ける龍麻。拳士郎は即座に頷いた。
「了解した。――どうすれば良い?」
『感謝します。――我が槍、聖ゲオルギウスをもってジルを貫きます。龍麻殿はこの槍を光の【気】で打ち、【陰気】の核を破壊して頂きたい』
「彼は大丈夫なのか?」
『この槍は魔を打ち滅ぼす槍。ジルに邪心あらばたちどころにその命を奪うでしょう。――私は信じます。ジルの――人の心を!』
「良かろう。――京一! 醍醐! アタックフォーメーションB! 雑魚を近付けさせるな!」
「よっしゃ!」
「応ッ!」
言われる前に配置に付いている二人。そこに拳士朗と弥生も加わる。
「ははッ、よくこんな大それた話をあっさり受け入れられるもんだ」
「いちいち疑問を持ってもしょーがないけどねッ。――舞! 唯ちゃん! 背中任せた!」
「はい。任せて」
「は〜い!」
龍麻の組んだ陣形には加わらず、その後方に身を置く舞と唯。――さすがと言うべきか、あの剣技、体術を見る限り、そこが龍麻も望んだ最適のポジションだ。
「行くぞ、ジャンヌ殿」
名前を呼ばれた事で、ふっと表情を和ませるジャンヌ・ダルク。
『はい、龍麻殿。それから、私の事はピセルとお呼び下さい。――昔のように』
「ッッ!?」
ジャンヌ〜ピセルが手をかざすと、龍麻のポケットに淡い光が灯った。【もんちゃん】の時と同じく、紅水晶の珠がひとりでに宙を飛んで彼女の手に納まる。
『この石はあなたより送られた物。私がかつて、あなたと共に闘った証。そして【現在】に託した私の【力】…。詳しい事情は後ほど。今は――ジルをお救い下さい』
【龍斗】と呼びながら、【緋勇龍麻】と共に闘った!? まして天狗の祠に納められていた物が、【緋勇龍麻】が贈った物!? ――疑惑疑念はあるにせよ、龍麻の直感は彼女を敵と認めていない。彼は頷いた。
『ジル! 我が槍をもって、己の魔を打ち滅ぼしなさい!』
『応ッ!』
女騎士〜ピセルがぐん、と槍を持つ手に力を込め――白い光を帯びた槍をジルに向けて放った。
『おのれ! させぬ!』
【偽物】が【使徒】をけしかけ、しかし槍の軌道に辿り着く前に切り裂かれ、打ち砕かれる。
「――邪魔すんじゃねェッ!」
「引っ込んでいろ、卑怯者め!」
京一と醍醐の発剄が【使徒】の群れを押し退け、しかしなおジルの前に群れ集う【使徒】が槍を掴む。そこに拳士朗の拳撃が叩き込まれ、大きく跳ねた槍はジルの手に納まった。彼はそれを逆手に握り、気合い一閃、自らの心臓に突き立てた。
『ムグゥゥゥッッ!』
血の代わりに飛び散る黒いスパーク! さすがに呻くジル。そこに――
「【秘拳・鳳凰】――ッ!」
黄昏の世界を照らし出す鳳凰の光翼! それはジルを貫く槍を直撃し、彼を中心に光の爆発を引き起こした。ジルを縛り付けていた粘塊が一気に千切れ飛び、同時にジルの鎧を覆っていた黒血も剥がれ落ちて吹き飛んだ。最後に残った、脊椎に沿って繋がっている管状の器官は自ら引きちぎり、ピセルと同じ銀色の鎧に身を固めた金髪の堂々たる偉丈夫は地に降り立った。
『おのれ伯爵! 【司教】様を裏切るか!』
『――何をほざくかプレラーティ。あらゆる姦計を用いてでも勝利せねばならぬ戦場であれば、不意討ち、騙し討ち、焼き討ち、挟撃、夜襲…その全てが賞賛されてしかるべきだ。だが…こいつは違う! 気に入らぬ! 獅子は猫一匹殺すにも全力を尽くすと言うが、こいつは、この殺戮は、アリを踏み潰して悦に入る幼児の所業よ。いかに多くの命を抱え、驚天の技を振るおうとも、あくまで己の身一つで戦う戦士に対し、下らぬ策を次々と! 全くもって気に入らぬ!』
『ヌウゥ…! この猪武者風情が! ――むうっ!?』
「ああっ!」
ジルの脱出が叶った刹那、吹き上がる妖気の渦! 赤い珠の中に捕縛された人影が頭部を完全に失い、肉体もろとも消滅したのである。そして粘塊の狂態はぴたりと納まった。それは、認めたくなくとも、明らかに――
『――勝ったぞ! 彼奴の命はもはや我が内に溶けた! 今更貴様らがどう足掻こうとも、彼奴を救う事など叶わぬわ! 滅びよ人間ども! その【力】もろとも、我らが覇権の足しとなれい!』
ギラ、とプレラーティ―の目が光った。その視線の先にいるのは――
「葵さん! 逃げて!」
「――舞さんッ!?」
葵は防御術を展開しようとしたが、タッチの差で間に合わないと察した舞に突き飛ばされ、舞だけが大挙して襲い掛かってきたタコのようなイカのような触手に巻き付かれた。唯が如意棒を叩き付けたが、タコの足一本を奪うのが精一杯で舞が粘塊に攫われる。
「いかん!」
「ちいィィッ!」
龍麻が、京一が追撃しようとしたが、数十数百にも及ぶ【使徒】の群れが波涛となって一同の前に立ち塞がり、その一体一体が量産型【使徒】など軽く凌駕する妖気を発して龍麻や拳士朗さえも足止めし、舞はあっという間にプレラーティの元に引き寄せられた。
『遂に我が手に落ちるか、【触れ得ぬ天使】よ。これで我が研究はさらなる飛躍を――!?』
「――お世話様」
彼女の手の中でくるり、と向きを変える源清麿。その一閃で触手がことごとく断ち切られ、舞は粘塊の海に落ち――なかった。足元を埋め尽くしている触手の群れを足場に、清麿が彼女の背に装填される。
『わざとここまで来たとでも言うかッ!? 無駄な足掻きを。もはや奴を救う事は――!』
そこまで言って愕然としたのは、何もプレラーティばかりではなかった。舞の澄んだ相貌には無上の歓喜か真の絶望か、凄絶なまでに美しい笑みが浮かんでいたのである。そして全身から立ち上る、少女とは思えぬ殺気と闘気…!
「――舞殿ッ!? 何を――!」
おっとりタイプの外見に似ず、周り中から飛び掛ってきた触手を苦もなくかわし、凄絶な剣撃を三閃! 粘塊が三つに分断され、どっと噴き出した粘液が更に細かい断片となって散る。これにはたまらず、プレラーティーも悲鳴を上げた。
『――ぐわあッ!? 貴様! 我を殺せば奴は完全に…ッ!?』
叫んだ途端、縦に裂ける顔面。プレラーティ―の顔は粘塊に落ち、それぞれが融合の兆候すら見せぬのを知って、二つの口で驚愕の呻き声を放った。この少女の剣技が、呪われた細胞の修復を妨げたのである。
『ま、まさか貴様…! 本気で…!』
「――豹馬君を殺そうとしているのは、あなた達だけじゃないのですよ」
薄い笑みを刻んだ美貌の、なんという美しさ、恐ろしさ。澄んだ目の奥に燃えるような歓喜と奈落の底にあるかのような絶望を見出し、プレラーティはゲル状細胞をざわざわと波打たせた。――総毛立ったのである。
「共に生きると約束しました。幾千幾万もの時を重ねようとも、人たる死を得るまでと。その旅路半ばで敗北したならば、何者かの糧にのみ成り果てるならば、その期を逃さず私が殺してあげるとも。――あなた方は数十数百万年…私は僅かに一年ちょっと…。混沌の海に溶けたならば、旧支配者たちの力を奪われたならば、ただの人となり果てたならば、彼は死ねますわ。意外と早くチャンスが来ましたね」
『〜〜〜〜〜ッッ!』
薄い笑みから、にこりと満面の笑みに。――ブラフではない。本気で舞は、豹馬に止めを刺そうとしている! まだ、助命のチャンスはゼロではないというのに!?
「約束通り、祝言は地獄で挙げましょう。――全ての呪いを夢幻の剣にて断ち切らん。――如月流天覇の太刀【我夢羅千断(】」
その瞬間、龍麻は現実感覚を喪失した。
何が起こったものか、周囲の光景が、仲間達や敵もろとも蜃気楼のように頼りなく霞み、自分自身の存在すらが、強く意識して【見よう】としない限り朧に霞んでしまう。まるで――夢の中にいるように。そしてプレラーティは合わせ鏡の中の虚像のごとく、無限数の虚と実と化した。その持つ命全てを映し出すかのように。
唯一、明確な輪郭と色彩を有している舞が白く発光している清麿を一閃させた。見る者を自らその刃に飛び込ませるかのような優美な太刀筋は、無限数の命を絶つ無限数の刃と化し――
――ガキィンッッッッ!!
「――ッッ!」
無限数の斬撃を止めるは、こちらも無限数の盾! そこから思念障壁が数十枚以上も展開され、舞は跳ね飛ばされた。空中で身を捻り、態勢を立て直して着地する舞であったが、彼女を追った血の波濤が取り囲み、そこから奔った無数の長槍が彼女を雁字搦めに縫い付けた。
「舞ちゃんッ!」
常人なら串刺し必至の攻撃を全てかわしつつも、倍増しの妖気の照射に呻く舞を見て、プレラーティ―が引き攣った笑い声を立てる。
『フ、フ…フハハハハッ! 不死不滅の肉体を持ちながら、死を求めていただとッ!? ならば望みは叶ったではないか! もはや奴は転生する事も叶わぬ魂の塵芥、絶対的な死を迎えた身よ!』
恐怖に顔を引き攣らせたまま哄笑するプレラーティを冷たく見やり、舞は清麿を一閃させて長槍を跳ね除ける。今や【それ】はただの実体ある粘塊にあらず、時空を歪めたその先に無数の…幾千幾万とも知れぬ【使徒】の影を映していた。あまりにも膨大な妖気が集中し、三次元空間構造体を侵食しているのである。そこから零れ出し、ただひたすらに毒々しい血色のアメーバと化して次々に展開されている思念障壁もまたただのバリアーに非ず、恨めしげな亡者の面影を無数に浮かび上がらせていた。その額に刻まれたアンチキリストの象徴〜逆さ十字。異端のものは死してなお赦されぬという烙印であった。
「ケッ、さすが外道ジジイだ。陰険な性格そのまんま、やたら備えが良いと来てやがる。伯爵の代理まで用意してやがったかよ」
「あのバリヤー…全て怨霊の成れの果てのようですね。人でなく、神でもなく、魔でもなく…不完全とは言え、豹馬の攻撃を止め、彼を縛れるのも道理です。属性を剥ぎ取った命そのものを盾に、鎖にしているのですから」
使用者自身が知覚できぬ攻撃にも対処できていたのも道理。龍麻ら【神威】や拳士郎ら【ストライダー】の攻撃を受け止めていたのは、【使徒】の集合体に囚われている怨霊が形を変えたバリヤーだったのだ。彼らはいかなる呪いによってか、全存在エネルギーを障壁と変えられて玉砕的に攻撃を止めていたのである。更に…
「ッッ!」
亡者の群れから立ち上った血が人体…長槍を携えた騎馬を産み落とす。それは全身を焼け爛れさせ、なお肉の焦げる異臭を放つ騎士の一団であった。その焼け焦げた旗、上下で黒と白に分け、中央に赤い十字を刻んだ旗印と、一頭の馬に二人の騎士を乗せた紋章を見たジルが吠えた。
『【テンプル騎士団】…だとッ! 貴様が…! 貴様らがッ! 彼らを陥れ、その魂さえも貶めたのか! 正しく悪魔の所業か…【黒蝿王(】!』
怒髪天を衝くジルの怒り。その特徴的な白の長衣に赤い十字架を背負った騎士団は、彼が生きた時代を遡る事百年、中世ヨーロッパ全土で二百年もの長きにわたって活躍した騎士修道会【テンプル騎士団】に他ならなかった。十三世紀末に資産簒奪を狙ったフランス国王フィリップ四世によって仕組まれたいわれなき冤罪で、その生命財産、地位も名誉も全て奪われ、神に仕える修道士にして騎士たる信仰すら裏切られ、理不尽かつ凄惨な拷問の果てに焼き殺された者たちだ。
敬虔な信仰心の持ち主ほど、その魂の価値が高いという。もし【黒蠅王】が真の悪魔であるならば、【テンプル騎士団】は宝の山であったろう。そして神への忠誠をよりどころに力と技を蓄え、強靭な精神力を養っていた彼らであればこそ、神に裏切られた憎しみは【神威】や【ストライダー】の攻撃を撥ね退けるほど悪辣に発酵したのだ。
正しく絶体絶命。【最弱】と罵られつつも常に【使徒】を食い殺してきた豹馬をも押さえ込む怨霊の群れ。それとて尖兵に過ぎず、その気になれば豹馬自身の能力をも駆使できる妖魔。この状況をいかなる者が打ち破れるのか!? 否、まず不可能だ。しかし――
「…感謝します」
ぽつん、と舞がつぶやくように言った。美しくとも、地の底から這い上がってくるかのような声音で。
「【そう】でなくては。【そう】来なくては。確かにあなた方は豹馬君の力を全て奪ったようですね。彼の抱えていた軍勢を、彼の背負っていた命を。ならば願ってもない好都合。――まとめてかかって来て下さいな。あなた方全てを刀の錆にして、私のもう一つの夢、響豹馬との立ち合いを実現させましょう」
そう宣言する舞のなんと言う美しさ、恐ろしさ。単なる抹殺宣言でない事が恐怖に拍車を駆け、プレラーティは無論、粘塊そのものが後ずさりする。たった一人の少女相手に…とは言えなかった。【黒蝿王】がそうであったように、舞の鍛錬もまた【彼】を殺す為のものであったならば、それが人の身を保ったままで為さねばならぬものであったならば、並の【使徒】では太刀打ちできないのは自明の理だ。現に恐怖をも失っている怨霊が不用意に襲い掛かるや、舞の殺気に触れただけで粉微塵に吹き飛ぶ。
「お、おい! どういう事だよ!? 何で舞ちゃんがあいつ――響を殺すなんて言うんだよッ!? あの野郎さえなんとかすりゃあいつを助けられるかも知れねェのに、お前たちもなんで止めねェッ!?」
京一とて馬鹿ではない。恐ろしく根の深い事情があっての事だと解っている。拳士郎達の顔には苦渋が満ち、噛み締めた唇からは血の筋が伝っているのだ。
「俺達だって、納得なんかしてねェよ。だけどよ…何もできねェ。何もしてやれねェ。豹馬は死ぬのも生きるのも全部【奴ら】の手の中だ。不死身ってだけで、不老不死ってだけで、痛ェって感覚は俺達と変わらねェ。どんなに親しい人間も動物も、敵も味方もバタバタ先に死んでいくのを見送るだけだ。豹馬と同じ時間を過ごせるのは、同じ次元で殺し合う相手だけなんだよ。俺達も豹馬と一緒に戦うって同じ次元に乗り込んださ。だが、そこまでだった。俺達には豹馬を殺せなかった。奴らの【力】を使い尽くした瞬間だけが豹馬を人として死なせる事ができると解っていて、それでもできなかった。舞ちゃんだけがあいつの心臓を貫いて、豹馬に人間として死ねる身体をほんの少し取り戻させたんだ。そんな事を何十回か何百回か――何億回か繰り返せば、いつか殺してやれるってな」
葵たちは一様に声を失い、拳士郎や弥生たちは更に拳を固く握り締めて舞を――二人の対決を見守る。その戦いを見届ける事だけが、自分達にできる精一杯――義務であるかのように。魔である限り不死身不滅の身を――愛するが故に、人として殺すというのか!? 人の心を持ったまま不死身ゆえに、不老不死ゆえに、永遠に続く苦痛を止める為に――!?
『ヌウウッッ!』
舞の黒髪が激しく揺らめき、白光として認識できる【気】が波紋状に放射され、亡者の盾を蒸発させながら押しのける。彼女の周囲では亡者の悲鳴が幾重にも重なって響いたが、舞はそれを意にも介さなかった。――【それ】しか救いがないから殺す――滅ぼすことが情けとなる――今の彼女にはそんな生易しい言い訳はなかった。死を恐れ死を厭い――その為に響豹馬の持つ不死身の力を欲し、奪い、そんなもので満足していられる塵芥どもを切り捨てるべく、純然たる殺意を以って清麿に手をかける。
しかし、一歩を踏み出そうとした舞の眼前に、グレーのコートが翻った。
「――緋勇さん!?」
「…貴殿と豹馬との間に立ち入る事はせんが、しばし待て、舞殿」
そこに立てば敵もろとも斬り捨てられかねない領域に、龍麻は足を踏み入れた。
「俺には【使徒】の宿命も、貴殿らの苦しみも解らん。【使徒】を喰らって永遠に生き続ける事がどれほど恐ろしく、苦痛に満ちているか、想像すら及ばん。だが俺は彼にも、貴殿にも生きていて欲しいと思う。どんな生命にも、意味があると信じればこそだ」
舞の殺気が乱れた瞬間、襲い来る槍衾! 迎え撃つは龍麻の――【巫炎】! 苦痛に満ちた亡者の絶叫が渦巻き、しかしそれを圧する強さで龍麻は声を張り上げた。
「豹馬! お前なら聞こえる筈だ! ――俺はお前だ! お前から見れば俺も脆弱な、容易く死ねる人間だろうが、俺も同じだ! お前と同じく、俺も死を望まれた! 俺の祖父も! 学者どもも! アメリカ軍も! 敵も味方も! 【俺達】の存在を知る者全てが俺の――【俺達】の死を望んだ! 殺戮の為に生まれたモノは、殺戮の中で死んで行けと! 殺人機械に許されるのは血と糞尿に塗れた無様な死だけであると! そこで俺は心を持たず、仲間の死にも涙せず、生きている限り戦えという【命令】にのみ従って生きてきた! 俺もその通りのザマだったのだ!」
それは京一達にしても、ダゴン事件の折にただ一度しか聞いた事のない、龍麻の慟哭であった。しかし…
「だが俺はここにいる! 緋勇龍麻として! レッドキャップス・ナンバー9として! たとえ世界に愛されなくとも、俺はここで生きている! その前進が素粒子の歩みであろうとも、生きて、生きて生き抜いて、足掻き続け、挑み続ける――人ではないと罵られ、殺戮機械と罵倒されても、せめて人間らしく! この命が意味あるものと信じて! たやすく滅びる有限生命体(の感傷と笑うか? お前は笑うまい! お前がここにいるのは、お前が挑み続けている証だからだ! お前にも、共に戦う【仲間】がいるからだ! ――生きろ(! 人生は良いもんだ(!」
生きろ(――それは既に命なく、怒りと憎悪のみを糧に在り続けているモノに対する痛烈な悪罵となった。亡者が鬼火を放つ目を一斉に龍麻に向け、聳え立つ波頭となって彼に襲い掛かる。しかし身構えた龍麻を飲み込もうとするそれを、輝く白鳥と黄金の獅子が貫き、苦痛に満ちた亡者の絶叫を掻き消した。
「ピセルちゃん!? 伯爵までッ!?」
出鼻を挫かれる形になった京一の前に、白銀の鎧をまとった二人の騎士が進み出る。
「――まさしく、それが人の強さです。死を恐れるのも、苦痛に満ちた生を恐れるのも、人の自然な感情です。死を望まれたあなた方であればこそ、誰よりもその恐怖を知っている。しかしそれは同時に、自分を愛する事の尊さを知っているという事でもあります。――私の現身は炎で焼かれ、死した身にさえも辱めを受け、灰をセーヌ川に打ち捨てられました。しかし私はここにいます。現身をいかに傷付け、辱めようとも、魂を汚す事は己にしかできません。胸を張って、生きてください。そして――」
ピセルの視線が、再び妖々と立ち上がってきた騎馬に向けられる。
「この者たちもまた、いわれなき咎を受けて責め殺された者たち。神を信じる心を踏みにじられ、神を怨み自らを汚すように仕向けられた哀れなる魂。既に彼らは心を持たぬ、神も悪魔も呪う怨みそのもの…。――されど!」
ピセルが再び剣を一閃し、白鳥を象った【気】が亡者を打ち据える。しかし亡者は苦痛の絶叫や身悶えもなく、光の粒子と化して散華した。
「ジルの【力】を利用できなくなり、【混沌】は破れ、今や彼らを縛るものは闇の【力】一色のみ。今こそ彼らの魂が救われる好機です。同時に、あなたの想い人も不滅なればこそ、かの者を倒せば再び甦りましょう。そしていつかは、正しき輪廻の輪に――」
「――そうですね」
すっと背筋を伸ばし、清麿を背に納める舞。
「ありがとうございます、緋勇さん。私とした事が、つい我を忘れてしまいました。【情けは人の為ならず】…彼の好きな言葉です」
同じ顔、同じ笑みでありながら、先程までとは確実に異なる美しさ。その笑みには龍麻ですら惹き込まれそうになり、初顔合わせでドキリとした理由を悟った。その笑みの中に生も死も、愛惜も殺意も覚悟も全て内包している、彼女の人間的迫力に圧倒されたのだ。不死身の存在であるが故に、修羅の世界に生きる男と共に生きた日々が養った、愛すればこそ永遠の旅路を恐れず、死を与える事にさえも躊躇ない心の強さ――【侍魂】に。
「少しだけ思い上がりましょう。私の拙い技でも誰かを救えると。あの人達を救う事が、彼を救う事になると」
舞の黒髪が激しく揺らめき、白光として認識できる【気】が波紋状に放射され、亡者の盾を押しのける。彼女の周囲では亡者の悲鳴が幾重にも重なって響いたが、それは先程とは異なり、慄きと共にある期待と感じられた。舞は清麿の柄から手を放し、左手に弓を出現させる。今まで見えなかった彼女の【気】が矢と…目映く輝く破魔矢と化した。
「願以此功徳(、普及於一切(、我等與衆生(、皆共成仏道(――鋭ッ!」
空気どころか、空間まで貫いたと錯覚させる一矢! ミサイルのごとき光が亡者たちのバリヤーを数十まとめて消滅させつつ奔り、一つに纏まろうとしていた粘塊を大きく引き裂き、一際強大な【陰気】を放つ亡者の盾に弾かれる。
「あの者が【核】ですね」
ただの怨霊では持ち得ない、圧倒的な【陰気】を放ちながら、【使徒】になっていない事こそ異常と思える騎士。その鎧兜は【テンプル騎士団】における最高位の者のみが許される形状を有していた。
『ジャック・ド・モレー総長…! かような姿になっていようとは…!』
全身を焼け爛れさせながら、なお威風堂々たる騎士が剣を抜き放つ。その目は赤く燃える鬼火であり、この世の全てを焼き尽くさずにはいられぬ憎悪に満ち満ちていた。――無理もあるまい。野心に満ちたフランス国王の暴挙に晒されてなお、神によって真実が暴かれる事を信じ続けた者たちに、最後まで奇跡は起こらなかったのだ。死によって苦しみから解放される事を望む【自白】を強要する拷問によって苦しみ抜き、更に六世紀にも渡り、歪められた情報を信じる者たちによって恨みと憎しみ、侮蔑の対象とされてきた騎士団の長なのだ。
そこで龍麻は、この状況では信じがたい事に、笑みを洩らした。
「やはり、我々の勝利だ、プレラーティとやら――」
『!? ――何だと、小僧!』
「簡単な事だ。彼らが最後の手駒だろう? ――人は強い。恨みと憎しみが極まれば、【神】をも縛るほどに。だが人なればこそ、慈愛と義侠を極めれば【悪魔】をも凌ぐ事もある。【人間】を甘く見た事。それが貴様らの敗因だ」
『何をほざくか、小僧! ――かかれ者ども! そ奴の口を引き裂いてやれい!』
「それで良い。さあ、かかって来い」
ずわり、と殺気が龍麻一人に集中する。【テンプル騎士団】の騎馬がいななき、ランスを構えて突進しようとしたその時――
「ッッ!?」
龍麻が、京一が【気】を放とうとするよりも速く、白銀の騎士が彼らの前に躍り出、槍を一閃する。その一薙ぎで怨霊の騎馬は跳ね飛ばされ、自陣の隊列へと追いやられる。
「…時代は違えど、貴殿の同胞だぞ、伯爵?」
つい先ほどまで敵対していた男が、自分達を護る位置に立つ事自体は、龍麻にとっては疑問にはあたらない。人はそれを【裏切り】と呼ぶのだろうが、戦場においては、個人の感情など塵芥のごとく踏みにじられる戦場においては、このような行動を取る者は少なくないのだ。しかし龍麻は、敢えて聞いた。
『ならばこそだ。その恨みを受けるも晴らすも我が使命。そして恩義に報いるは騎士の礼。――彼奴らは我が引き受ける。お前達は、かの戦士の救出に尽くすが良い』
「――俺は【仲間】が死に行くのを許さんぞ。ジル・ド・レエ伯爵」
聞きようにとっては不遜な物言いだが、ジルは龍麻を振り返り、太い笑みを見せた。
『俺は既に、とうの昔に、生きる屍よ。あの者たちと変わらぬ、恨みと憎しみを撒き散らす、無様な敗残兵よ。――ならばこそ、彼奴らは俺が倒す。倒さねばならぬ! それこそが俺の、フランス元帥としての使命! 最後に残った俺の意地! だが俺自身もまた、戦を好む鬼の一人よ。戦場において俺は一本の矢、一発の砲弾で良かった。敵の血を浴び、殺しの美酒に酔い痴れられれば良かった。敵を殺し、俺自身も戦場で果てるならば本望だった。しかし――』
ジルは胸に手を当て、龍麻の背後に立つピセルを見た。
『お前の【力】、お前達の【力】が、捨てた筈の心に火を付けた。この身が震えるほどに熱き想い…かつてオルレアンの乙女に学んだ、人が【人】たる証よ。痛みを知る事で優しさを知り、辛さを知る事で幸福を知る。憎悪を抱く事さえも、慈悲を知る切っ掛けとなり得る。やはり人間とは、良いものだ』
これが、稀代の殺人鬼と称された男の言葉か!? 深みのある声で語られる言葉は一つ一つが重く、熱い。中世の動乱と戦争の時代を駆け、短くとも波乱に満ちた濃い人生を生きた男の言葉だ。
『お前は正しい。憎悪に塗れておればこそ、彼奴らはまだ人間だ。どこまでも愚かで、脆弱で、それが為に美しく愛しい。ならば教えてやろう。【人生は良いもんだ(】と。――ここはお前達の死に場所ではない。大地の【力】を受け継ぎし子らよ、この地を護れ。民を護れ。その身に宿す信念を糧に、己が真に護りたいものを護れ。お前たちの持つ光を、生きとし生けるもの全てに見せてやれ。その為に我は征こう。懐かしき友と肩を並べ、我を【仲間】と呼ぶ者と共に立つ戦場ならば、我は敵陣を切り裂く刃となろう。――付いて来い、ジャンヌ! いつものように付いて来い! お前が、お前たちが地獄に斬り込むと言うならばこのジル・ド・レエ! 辺土(の果てまでも突き進もう!』
そしてジルは槍を天に掲げ、気勢を貼り上げた。
やはり、【使徒】に対するには【使徒】の身で。ジルの下半身が馬のそれになり、先程と同じ鎧をまとったケンタウロスへと変化する。しかし先程と決定的に違うのは、その身に纏う鎧は神々しいばかりの白銀に輝き、青く清浄なオーラを雄々しく噴き出している事だ。龍麻達と同じ【神威】にして、悪しき【使徒】に対する善き【使徒】――
『亡霊どもよ! 我はブルターニュ領主、フランス元帥、ジル・ド・レエ伯爵なり! 汝らが恨み骨髄に達せしフィリップ四世の末裔、フィリップ七世に仕えた者よ! 恨みの炎に焼かれし汝らが身に騎士の魂の一片が残っておるならば、いざ! このジル・ド・レエと尋常に立ち合えい!』
ダンッ! と大地を蹴り、ジルの巨体が宙に舞った。黄昏の空に銀の尾を引く騎士は全ての【テンプル騎士団】の視線をかき集め、全ての矛先を己に向けさせた。
――ウオォォォォォ…ッッ
『――成すべき事は判っているな、ジャンヌ?』
「ええ。わが愛しき友よ。――龍麻殿! 聖ゲオルギウスをお持ちください! 我らはこれよりあれなる陣を打ち破り、核なる者に至る道を刻みます。あなたは核なる者に聖ゲオルギウスを――」
「――【真神愚連隊(】! 傾注!」
ピセルの言を遮り、龍麻は怒鳴った。ピシリと背筋を正し、次の言葉を待つ京一達。
「【真神愚連隊(】! アタックフォーメーション・トライアングル! 目標! 敵中心! ジャック・ド・モレー総長! 総力を以って、ジル・ド・レエ伯爵を支援せよ!」
『応ッッ!』
龍麻の左右にぱっと散る京一と醍醐、そして後方に並ぶ葵と小蒔。最少人数における殲滅隊形であるが、今はその隙間を埋めるように拳士郎、弥生、唯が就く。後方の守りは貴之とガンボーイだ。
「背中の心配は無用だ! 突き進め! 伯爵!」
『――フハハハハハハッ! 遅れるな、若者達よ!』
束の間の戸惑いの後、戦士ならばこそ伝わるシンパシー。厳つい顔に満面の、彼の人生でも幾度もあるまい笑みを見せ、ジルは聖ゲオルギウスを振り上げた。ジルの【気】に呼応して聖ゲオルギウスが光り輝き、薄暮を切り裂いて亡者の視界を焼く。そして――
『ハイヤァッ!』
背後の護りを疑わぬ故、何の計算も策略もない真っ向勝負! ジルは【テンプル騎士団】の織り成す槍衾に真正面から突進して行った。古代ローマの重装歩兵が刻んだ歴史の如く、そのままであれば騎兵は長槍の餌食になるのみであろうが、最前列の穂先が揃って突き出される寸前――
「跳べ! 伯爵!」
『応ッ!』
年下からの【命令】にも躊躇なく、ジルは地を大きく蹴った。
「――小蒔!」
「行ッけ――ッッ! 奥技【鬼哭飛燕】ッ!」
ジルの真下を駆け抜ける小蒔の最大奥技! 舞に渡された霊弓によって爆発的に増幅された【気】をもって放たれた炎の飛燕は、完璧に布陣された槍襖を貫いて突き進み、その陣形に一筋の斬線を刻んだ。更に――
「【剣掌・旋】ィィ――ッ!」
「ちょ――――ッッ!」
着地したジルの左右を駆け抜ける旋風と【気】の猛打が斬線を更に広げ、ジャック・ド・モレーまで一直線に続く道を作った。騎士対騎士の戦いにおいて、真正面から斬り結べる道。と、なれば――
『覇ァァッッ!』
『ムオォォォッ!』
共にランスを腰溜めにした、中世の騎士道華やかなりし頃の馬上槍試合! 異形の馬術により相対速度二百キロで槍が交錯し、どちらもかわすつもりはなく、ジルは右肩を、ジャックは胸板を背中まで貫かれた。【使徒】の腕さえも吹き飛ばす衝撃波を自ら地に倒れ込む事でいなし、ジャックを宙に掲げるジル。動きを封じられたジャックが獣の唸り声を上げ――
『許されよ総長。これが、戦場なのだ』
『――ッッ!』
標本の虫の如く身を捩りもがくジャックの視界に映ったのは、コートを翻して走り込んできた男の、光り輝く拳。
「【秘拳・鳳凰】!」
膨大な気を放出させるのではなく、槍に伝導させる龍麻。中国拳法ならば浸透剄、空手ならば裏当てと呼ばれる技法は、強力な浄化の炎をジャックの体内で爆発させた。金色の炎は爆散して【テンプル騎士団】の亡者にも燃え移り、周囲を金色の炎の海と変える。そこに――
「【ジハード】!」
黄金色の炎の海を、太陽のごとき白い輝きが包み込む。白光を交えた黄金の炎は更に広く広く、地平線まで届くかのように飛び散り、この異常な空間そのものを光で染め上げた。そして…
『ヌグッ…うう…!』
光の炎に包まれつつ、槍から抜け落ちる偉丈夫。やや頬がこけているが、いかつい顔に精悍な眼差しが印象的な美髯の男〜ジャック・ド・モレーであった。聖ゲオルギウスを介して放たれた【秘拳・鳳凰】の【気】が内側から、葵の【ジハード】の【気】が、見事に彼に取り憑いていた【負】の【気】を消し飛ばし、怨みの血で凝り固まった鎧を彼から引き剥がしたのであった。彼のみならず、【テンプル騎士団】の団員、もはや形も定かではない怨霊に至るまで。【死が訪れない世界】においても、光に包まれた彼らの顔は苦痛を離れ、安堵に満ちた表情を作り得ていた。
『おのれ…オノレェェ…!』
その一方で、浄化の炎を浴びても悶え苦しむしかない者…プレラーティの怨嗟が低く地を這った。巨大な粘塊はいまだ衰えぬ炎に包まれ、恐ろしい腐汁を振り撒きながらフルートの調べをかき鳴らし、触手がぶんぶんと耳障りな風切り音を響かせる。それは明らかな苦悶の様相を呈し、呑み込まれた【使徒】の形状が浮き彫りになり、時に零れ落ちた。そして――赤い宝珠に、消えた筈の人影が再び見え隠れする。その手で、己を貫く槍を掴んで。
「残るはあの槍のみか。――京一!」
「応ッ!」
龍麻は再び【秘拳・鳳凰】の構え。さすがに連発し過ぎた為に龍麻の消耗も激しく、豹馬を捕らえている宝珠を砕いてなお、彼に【気】を届かせるのはきつい。そこで京一の出番なのだが、ほんのちょっぴり不本意な彼に――
「蓬莱寺さん。私の【気】も合わせます」
「おッ、応ッ! ヨロシク、舞ちゃん! ――行くぜ! 【地摺り青眼】ッ!」
「如月流――【松風】!」
ふわり、と舞の放つ圧倒的な【陽気】に包まれ、まるで母親の胸に抱かれた幼子のような絶大な安心感と共に放った京一の斬撃が、宝珠の表面に縦の斬線を、間髪入れず舞の一撃が横の斬線を刻み、十文字の斬線が鳳仙花のように弾けて中身を地上に吹き零れさせた。ノーデンスのトライデントに貫かれている豹馬も地に落ちてガッと血泡を吐き――
『――させるかァッッ! 見るが良い! 彼奴より奪いし我が力を! アルティメット・ビースト・【万魔殿(】!』
「ッッ!!」
妖気の放出が正に爆発となって一同を襲い、龍麻達の前に飛び出して文字通りの盾となったジルを打ちのめす。その一方でズルル! と一気に粘塊が地表に広がり、その表面が激しく泡立つや、そこから真っ黒な【闇】が天空を埋め尽くさんばかりのスケールで吹き上がった。
「――なっ、なんだありゃあッ!」
一気に月が覆い隠され、闇が一同を支配する。しかし視界を失ったのは数秒の事、闇が赤い輝きの粒子を纏い、世界が赤い光に満たされる。そして――その正体を知った京一が、気圧されるように三歩退いた。世に五十歩百歩という言葉があってなお、たった三歩で済ませた事を賞讃するに足る光景がそこに広がっていたのだ。
『まさか! これは…!』
「ははっ、これが全部【奴ら】かよ…!」
焼け爛れた盾を投げ捨てたジルが、拳士郎が初めて震えた声を出す。
先ほど一同を取り囲んだ【使徒】の群れなど比べ物にならぬ、世界そのものを埋め尽くす妖魔妖獣の大軍団。赤い光は全て、妖魔たちの目だ。百万二百万でもまだ足りぬ光が世界を染め上げている。
「こりゃ参ったわ。気合いで何とかなるレベルじゃないわね」
「カウント不能。推定八百万個体以上。こんなの、核が何発あっても無理ですよ」
こんな状況にあっては、呑気過ぎるとさえ言える彩雲学園の面々。しかし、無理もあるまい。彼らは日常的にこのような【敵】と戦っている。このような状況さえも想定内なのだろう。自身の死に対して無頓着なのではなく、そのような運命でも受け入れるだけの心構えが既にできているのだ。
「舞ちゃん! あれはッ!?」
唯が、天に向かってそそり立つ【使徒】の柱を指差す。
「蛇の群れ!? いや、あれは…スキュラ…かッ!?」
【使徒】の柱の基部がぐうっと盛り上がり、この黒と赤の空間では一際目立つ、金髪碧眼、裸形の美女が蛇の群れを従えて立ち上がる。いや、立ち上がるという表現は正しくない。血臭渦巻く空気を淫風で染める美女の下半身は、夥しい蛇の群れで形成されていた。仮にそれを【足】と言うならば、彼女には幾千幾万もの、牙を持った【足】があるのであった。
【彼女】に付き従うように、蛇の群れの中から無数の異形が這い出し、または天空から舞い降りて来る。
空を駆けるもので最も多いのは、龍麻たちの世界でも馴染み深い蝙蝠と見えたが、雲霞のごとく空を埋め尽くしたそれは人間と酷似した肉体を持っていた。その中には光の尾を引く蝶の羽を持つものもいれば、トンボや甲虫類の羽根を持つものもおり、更にギャアギャアとやかましく鳴き交わしている、鳥と人間が奇怪に融合した人面妖鳥(、耳障りな羽音を立てて飛び交う、足が二〇本以上ある蝿なのか虻なのか判別付かぬ昆虫が混ざっていた。時折、小さな彼らを圧するように羽ばたくのは、馬の頭にロバの胴、鴎の羽根を持つ【鳥】であり、蝙蝠の翼を持つ雄牛であった。そして…【それ】は何なのか、宙に浮かぶ腸か胃袋か判らぬ半透明な物体の中で光が飛び交っている、生物と呼ぶのもおぞましい存在が、己の内で人や【使徒】を生きたままグズグズに溶かし崩しながらふわふわと漂っていく。
同時に地にも、血泥を跳ね飛ばして行進する異形のものたち。その先頭を切って地を駆るものは、人類の友として長らく付き合ってきた生物と酷似しているが…
「なっ! なにあれっ! あの犬…顔がないッ!?」
目の良い小蒔が、他の異形よりも確実に強い存在感を示す犬に似た異形を指さして叫ぶ。その犬は目から額にかけての頭部がなく、槍の穂のような牙を生やした顎と、恐ろしく鋭敏な嗅覚を持っているであろう鼻だけが頭部の全てであった。
「無貌の猟犬…ティンダロス・ハウンドだと! 【シャッガイからの昆虫】に【ユゴスよりのもの】、【ナイトゴーント】に先史ポリプ状生物まで…! 【ザ・パンサー】…彼はそんな連中までも取り込んでいたのか…!」
自らが持つ知識の中でも、最も現実からかけ離れている筈の生物たちに、さすがに龍麻の声も固い。仲間達も息を呑むばかりで応じる声はなく、得物を構えていても振るうまでには至らなかった。もはや【使徒】に留まらない、遥かな太古に【実在】した【旧支配者】の放つ迫力に圧倒される。
いや、生まれるものは、何も【怪物】ばかりではなかった。スケールこそ圧倒的に小さく見えるものの、馴染み深いからこそ不気味な、鎧兜に剣を携えた武者に騎士、毛皮を巻き付けただけの服に、石斧を構えた【原人】。特に数が多いのは――ヘルメットに迷彩服、タクティカルベストに自動小銃を抱えた、【UN】マークを付けた兵士達であった。
ジルが歯を剥く。
『あの者達は…! そう…か。なるほど、そうか! 五〇万の生贄を得ながらクトゥルフが目覚めぬ訳だ! あの時! あの愚かな【黒い島作戦】の時! 五〇万の【人間】を、三〇万の【使徒】を喰らったのはクトゥルフに非ず! 全て、あの男が喰らったのか!』
「――ッッ!」
『殺せぬは道理! 倒せぬは必然! あの男は一体幾つの命を持っている? 一体どれほどの命を喰らってきた? 人も【使徒】も、【奴ら】さえも、あの男の前ではただの餌か! 恐ろしい奴! 化け物を喰らう化け物とは! しかし! そうでなくては叶うまい。あの男が喰らってやらねば彼らはクトゥルフの贄となり、この世は地獄と化していた。何と非情な運命(よ! 人類を、この星に住む生命を護る戦士たるには、それほどまでの宿業を負わねばならんのか!』
『それももはや、先程までの話よ』
先程までとは格が違う【使徒】の軍団に、プレラーティは己に酔ったように言った。
『彼奴の力は全て我が物に。古き王は死に、我こそがこやつらの新たなる王よ! しかし恨み骨髄に達っせし宿敵【ザ・パンサー】! たとえ骸と言えども切り刻まずにはおれぬわ!』
「クッ!」
豹馬は一同の頭上高く、シャボン玉の如き虹彩を放つバリヤーに包まれ、空中を遊泳していた。それは槍自身が形成する【思念障壁】であり、その妖気は光速にも届きそうな速度で螺旋を描くように彼を取り巻き、【秘拳・鳳凰】でさえも弾き飛ばすであろう強さを持っていた。仮にその障壁を破るほどのエネルギーを照射したならば、豹馬も消滅してしまう。
『フハハハハッ! 全ては無駄な足掻きだったな! 人などいくら救ったところで何の足しにもならぬ! 愚かな人間どもよ! 絶望を抱いて死んで行け! ――かかれ者ども! 新鮮な血肉を喰らうが良い!』
――ゲッゲッゲッゲッゲ…
一斉に沸き起こった不協和音〜【使徒】の笑い声は、ただそれだけで【神威】たちの精神を押し潰し――はしなかった。あまりの絶望、あまりの恐怖に神経が麻痺したのか? 龍麻をしてそう思うほどに、彼は落ち着き払っていた。
その彼の前に、一頭の巨大な犬が舞い降りた。無貌の猟犬、ティンダロス・ハウンド。狙った獲物を次元の果てまでも追い詰めて食い殺す、地獄の猟犬。そいつがグワッと喉を膨らませ――
「ッッ!?」
吐き出されるのは火か水か、あるいは未知のエネルギーか。しかし殺気を読んでこそ反応する龍麻の前に吐き出されたのは、ステンレスシルバーの輝きを放つ鉄の塊であった。
「――豹馬の銃!?」
ふっと振り返るティンダロス・ハウンド。その身が跳躍する為にたわまされ…その首が僅かに振り返って、恐らくは龍麻を【見た】。
「――そうか!」
「ひーちゃんッ!?」
アナコンダを拾い上げ、ティンダロス・ハウンドに飛び乗る龍麻。するとティンダロス・ハウンドは彼を背にしたまま跳躍し、恐るべき速度で妖魔の群れの中を走り出した。
『ッッ!? 馬鹿な! 貴様! 何をしておるかァッ!』
いきなり造反したティンダロス・ハウンドに驚愕しながらも【使徒】を差し向けようとするプレラーティ。しかし――【使徒】は一体たりともティンダロス・ハウンドを阻まず、逆に自ら折り重なって天空へと挑む階段を形成した。そして――豹馬の真正面――【思念障壁】の作る渦の最外縁で、無数の目玉とつる草のような触手に包まれた巨大な鞠のような【使徒】に龍麻が降り立ち、片足を引いて射撃姿勢を整えると、無数の触手が彼の足と胴に絡み付いた。明らかに、彼を支える為に。
『【使徒】が従うだと!? ま、まさか奴こそが原初の…! おのれ! させぬ――ッッ!?』
アメーバ状の手で印を組んだプレラーティーであったが、下方から跳ね上がったものに【ペチッ】と叩かれる。音こそ軽いが、スキュラの尾の一撃だ。プレラーティはあっさりと粘塊から引きちぎられ、地面にベチャッと張り付いた。
――ドゴォンッ! ドゴォンッ! ドゴォンッ! ドゴォンッッ!
ストライダー・カスタムはアランの持つ霊銃と同じだ。発剄を放つ感覚でアナコンダのトリガーを引く龍麻。アナコンダは龍麻の【気】を受けて黄金色に燃え上がり、龍麻でさえ両腕を跳ね上げられる反動と共に吐き出された弾丸も、黄金の光弾となって槍に肉迫した。二発目までは【思念障壁】が弾丸を受け止めたものの、三発目が乱れたエネルギー流を縫って【思念障壁】を突き破り、四発目が槍の石突を直撃してタリスマンを破壊する。シャボン玉が弾けるように槍を護る【思念障壁】が消え去り、そして――
「目を覚ませ。豹馬」
これまで培ってきた知識、知恵、直感を総動員した精密射撃に込めた、【秘拳・鳳凰】! 夢か現か、弾丸大に凝縮された鳳凰が直撃した槍は完全に豹馬を貫き、血の糸を引いて地面に突き立った。豹馬もまた、人形のように落下し――たちまち無数の【使徒】が寄り集まって、彼を受け止めるクッションとなった。
『…なぜだ…なぜッ! なぜ貴様ら【使徒】がそ奴を! 【人間】などを助けるッ!』
アメーバ状の肉体を人間型に変体させながら喚くプレラーティであったが、【使徒】の群れはゲッゲッゲ…と笑うだけであった。先程と同じ、怖気を誘わない音調で。
「あなたにとって最悪の事態が起こったという事です。魔術師さん」
舞が静かに種明かしをする。
「根本的な勘違いですわ。あなた方は【彼ら】の力を豹馬君が奪ったと思っていたのでしょうが、実際には違っているのです。そしてあなたは豹馬君を封じる事で彼らの力をも得たと思い、この場において【彼ら】を全開放しました。しかし豹馬君がそうであるように、あなたにも【彼ら】に対する支配権はないのですよ」
『なん…だと…! ――何を馬鹿な! それではこやつら全て! 自由意志で【ザ・パンサー】に付き従っているとでも言うのかッ!?』
舞はニコリと微笑んだ。先程とは違う、おっとりとした微笑である。
「とんでもありません。みんな、大切なお友達ですわ」
舞が手を振って微笑するのに合わせ、【使徒】がくにゃくにゃした、あるいは武器そのものの手を振り返して、空気を笑いの響きで満たす。――怖気を感じさせないのも道理。その笑いには邪気がなかったのである。俄かには信じがたい事に、見るからにおぞましい異形の者たちは、しかしその身が放つ妖気さえもが朗らかな雰囲気を内包し、恐怖や嫌悪を感じさせなかったのであった。
『あ、あり得んッ! 旧支配者たちの! 古き偉大なるものの呪いを受けているからこその【使徒】が自由意志で人間の味方をするなど! そんな【使徒】がいる筈は…ッッ!』
そこでプレラーティは言葉を切り、わなわなと唇を震わせた。
「――いらっしゃいますよね? 長き【奴ら】との闘争の中でも極めて異端なあの方――【嵐に乗りて歩むもの】ランデベール・ロワール…豹馬君のお兄さんが。【神】の力を具現しながら呪いを受けていない、自由なる【使徒】が」
『し、しかし! 奴は不確実性の生んだ一因子に過ぎぬ筈! 一千億分の一の確立で生まれた、ただ一体のみの異端である筈! これほどの数が揃うなど絶対に…!』
「目の前にある事象をただ否定のみするのは、科学者たる者の正しい姿勢とは言えませんね」
超絶な能力を振るって戦うストライダー達の中にあって、唯一その知恵と頭脳を武器に戦う男、小早川貴之が前に進み出る。
「僕は現実主義者です。霊魂や怨霊、あるいは神や悪魔、仏と呼ばれる存在も、現代では解明に至らぬ高次エネルギーによって形成される存在であると認識しています。その力の発現を善と呼び悪と呼び、あるいはその力を貸与される代償を【呪い】と称するのも、極めて人間的な損得勘定による身勝手な評価と言えるでしょう。――【使徒】の能力も住宅や車のローンと同じですよ。既に物は手の内にあるものの、代金は払い続ける。支払いを完遂するまでは完全に自分の物とは言えないながら、それを使う事は出来る、と。豹馬は【使徒】を倒し喰らう事でその能力を獲得してきましたが、その【使徒】の持つ【呪い】も受ける事になった。彼らの能力と共にそのローンも受け継ぐ事になったのですよ。【使徒】に成る者は良くも悪くも精神が強い。他人よりも多く悩み、苦しみ、そして【使徒】に成り果てる。成って、果てるのです。そんな彼らが、ローンを全額肩代わりしてくれたお人よしを馬鹿な奴と笑いますかね? 互いに全力を尽くして戦い、自らに勝利したものをもっと苦しめなどと蔑みますかね? 僕に言わせると、人間の中にこそ、そういう事を平気で言ってしまえる【化け物】が多いと思いますよ。それを悪魔の差し金だなんて言う人もいるでしょうが、それこそただの逃げ口上です」
それが真実ならば…と龍麻は思う。ジルも言っていたが、豹馬はどれほどの宿業を背負わされているのか? 人としての肉体を失い、死すら許されず、無限の時をただ殺戮と戦いに費やし、相手は呪いから解放されても、自分は決して救われる事のない修羅の道行き。解放、救済、死を求めれば求める程に、無限の闇に落ちていく宿命とは。
『全てを救え――それが彼奴の宿命か。――ならばプレラーティよ。貴様もまた、救われる道筋を得たな。彼奴を倒さんと無数の怨霊をけしかけた事で、彼らの救済に手を貸す功徳を積んだ。これ以上の悪行を為したとて、素直に地獄には行けぬぞ。今一度、人の道に立ち帰れ。貴様の智の探求もまた、民の為であった筈。その志を思い起こせ。それは、敗北ではないぞ』
『伯爵…様…!』
一度は見限った主人の名に敬称を付けたのは、自らの敗北を知った為か、それともジルの言うように己のかつての志を思い出した故か。しかし――
『ヌグッ! グオォォォォォォッッ!』
突如としてプレラーティが絶叫を放ち、大きく仰け反ってその胸板をかきむしった。ゼリー状の物質が飛び散る中、その胸板にぽっかりと穴が空き、濃い闇の詰まった奥から声が響く。
『やはり、失敗であったか。命冥加な事よな、【ザ・パンサー】』
「ええ。またあなたの負けですわね、【黒蝿王】」
す、と背の清麿に手をかける舞。
「不完全なればこそ人は強い。そこに目を付けたのは評価できますが、やはり人を甘く見過ぎましたわね。富も権力も知識も夢も、所詮、それだけで人を縛り切る事は出来ません。あなた方の言う通り、人の欲望って限りありませんもの。それこそ悪魔の一匹や二匹破産させたくらいでは、到底満足しませんわ」
『恐ろしい娘よ。【使徒】にすらあらぬ【人】ごときが、わしらすら餌呼ばわりか。良い良い。また一つ、彼奴の謎が解き明かされた事こそ大きな成果。即ち、実験は成功よ。いずれまた、次の策で遊んでもらおう。――わしも、ただでは終わらぬが』
その言葉に不吉なものを感じた瞬間、龍麻はパイソンを抜き撃ちして【黒蝿王】の眉間を撃ち抜いた。しかし【黒蝿王】は下半分の顔だけで笑い、プレラーティの中に引っ込んだ。
『ウウッ…グググッ! グアァァ――ッッ!』
プレラーティが悲鳴を上げて大きく仰け反るや、その胸が張り裂け、赤黒い筋肉が爆発さながら飛び出してきた。
「ッッ!? ――ウオオッ!」
「キャアァァッ!」
突如として生じた猛烈な突風〜妖気の爆発に吹き飛ばされる一同。間一髪、【使徒】たちが繰り出した触手が龍麻達を受け止めるクッションとなって事なきを得たものの、数千万もの【使徒】がお互いを繋ぎ合わせてなお押し退けられる妖気の突風が一同に叩き付けられ、息もろくに出来ない。そして――貧相な魔術師の肉体を消し飛ばして出現したものは…!
「そんな馬鹿な…! 豹馬の【ディアボロス】…ッッ!?」
【それ】がプレラーティに与えられた最後の【力】なのか、貧相な魔術師の肉体は跡形もなく消し飛び、異形の筋骨隆々、赤黒い魔獣が姿を現す。その姿は正しく豹馬の【ディアボロス】! その身が放つ妖気、魔力、気配までが豹馬そのものであった。
『彼奴め! プレラーティを魔物に!』
「恐るべきしつこさだ。――下がれ! 伯爵!」
龍麻が怒鳴る暇も有らばこそ、プレラーティの翼が僅かに開かれ、その瞬間――
『――グオオッッ!』
何かがプレラーティの背で光った――そう見えた瞬間、ジルの左腕が弾け飛ぶ。腕の組織が全て裏返しになるこの現象はヨグ・ソトースの――!
『ヌグウッッ!!』
一切の気配なく、【そこ】の未来に仕掛けられている爆弾。そんな物をかわし得る者などいよう筈もなく、両腕と右足を失って吹き飛ばされるジル。
『ジル!』
『来るな! ジャンヌ!』
満身に闘志を滾らせ、三本の足で立ち上がったジルは、傷付いた身でなおプレラーティを威嚇するように後足で地面を蹴った。
『哀れなりプレラーティ。知の探求の為に無限の命を欲して悪魔に魂を売り、その類稀な知識と才能を利用されてしまったか。お前ほどの者ならば、我の無様な運命を見抜けたであろうに』
数百年もの間【黒蝿王】に忠誠を尽くしてきたであろうプレラーティをこうもあっさりと見限るとは。ジルの声は【黒蝿王】への怒りと、もはや変えられてしまった家臣に対する哀れみに震えていた。
『――もはや我が声に応える事もできぬか。ならば是非もなし。お前の命と魂は我が背負ってやろう!』
気勢を上げ、ランスを構えたジルであったが、しかしプレラーティは唐突に視線を外した。その先にいたのは葵と小蒔、そして貴之――
「いかん!」
「キャアァッ!」
正にその瞬間、葵がいた空間の空気が裏返った。厳密には何が起こったか不明だが、【もんちゃん】が葉団扇で葵たちをひっ攫うのが一瞬でも遅れていたら、そこには葵という名の肉塊が転がっていたところであった。
しかし、葵たちが狙われた事で、龍麻達の注意が削がれたのも無理はない。プレラーティは一同の方を向いたまま、尻尾から豹馬に向けて妖気を放った。
「舞ちゃん!」
「くっ!」
清麿の一閃が妖気の塊を分断し――それぞれが左右後方から舞に襲い掛かり、彼女の足元で爆発する。さすがの彼女も爆風に身を叩かれて硬直し、そこに本命の妖気弾! 豹馬の能力〜全てを見切る【アルゴスの目】。自分が身をかわせば、無防備な豹馬に直撃すると言う瞬間――!
『――グガアァッ!』
「――伯爵!」
あろう事か、間一髪で豹馬と舞の盾となり、しかし上半身のみ残して吹き飛ぶジル。――いかに【使徒】と言えど、即死級のダメージだ。豹馬たちをも朱に染めた血飛沫は、再生の兆候を見せる事なく大地に血溜りを作った。そして――今度こそ逃げようのない、プラズマアローの雨!
――ガキィンッッ!
「なっ…!」
瀕死のジルが身を起こし、左手に出現させた盾でプラズマアローを弾き飛ばす。否、盾を掲げているのはジルにあらず、彼を支えるように半ば溶け込んでいる美髭の偉丈夫、ジャック・ド・モレー総長であった。そして――
『――ウオオォォォッ!』
気勢を絞り上げ、ジルが立ち上がる。見れば光と変化した怨霊〜【テンプル騎士団】の面々、魔女狩りと異端審問で殺された者たちがジルに殺到、融合し、彼の肉体を再構築していくのだ。
――彼らにも判ったのだ。自分たちの真の敵が誰なのか。神に仕える騎士として、神を信奉する信徒として、己の魂をジルの血肉と化してでも倒さねばならぬ、神の宿敵が。
『ヌウォォォォォッッッ!』
ジャック・ド・モレーの佩剣〜十字軍遠征を共にしたイングランド王、【獅子王】リチャード一世より賜ったとされる【獅子心王の剣】を抜き放ち、プレラーティに突進するジル。プレラーティは翼を広げ、その表面に浮き出た無数の目で彼の動きを見切ろうとし――
「今だ!」
「応ッ!」
『はいなっ!』
龍麻と醍醐が足元の土くれを蹴り上げ、門天丸が葉団扇の突風でそれらを散弾の一斉射撃と変える。無論、石つぶてだけでプレラーティは滅びないが、彼の集中をかき乱すには充分過ぎた。【戦争】であるとの認識が一切の手加減を排除し、ジルの剣がプレラーティの胸板を深々と貫き、更にジルは彼を頭上高く掲げた。
「【剣掌奥技・円空旋】――ッッ!」
「ちょ――――ッッ!」
「【疾風撃ち】――ッ!」
絶対にかわしようのない態勢で受ける、【神威】と【ストライダー】の奥技! プレラーティの首が飛び、翼が吹き飛ばされ、胴が矢襖になる。しかし――
「クッ! 効かねェのかッ!?」
噴き出した血がゴムのような張力で首を胴へと引き戻し、あるいはたちまち硬化して新たな翼となる。ジルの剣が貫いた部分からさえも出血が止まり、プレラーティは重力の束縛から離れて剣から抜け出そうとしていた。
『――黒き戦士を目覚めさせよ! こやつ、かの戦士の力を盗み取っておる!』
吠えるように叫び、ジルは小山となってそびえる空母の残骸に向かって突進し、プレラーティを壁に縫い付けた。しかしプレラーティの全身から生じた獣の首が蛇のように伸び、ジルの手足に噛み付く。のみならず、獣の首がジルの手足に溶け込み、白銀の鎧を黒く染めつつある。
再び【魔】に堕とすつもりか。ジル・ド・レエ伯爵を。
「豹馬を!?」
「見て! パンサー君! 影が抜かれてる!」
見れば、元々色の薄かった豹馬の影が完全に失われ、プレラーティの影は他の者たちよりも黒々と地に落ちている。本体は翼を生やしていても、影は人の…豹馬のそれであった。
「これは【影写し】!? 豹馬君! 起きて!」
舞が豹馬を揺するが、彼は一向に目覚める気配がない。その表情は穏やかそのもので、母親に抱かれる幼子のようであった。
「どうしたのよ!? 舞、何でパンサーは起きないの!?」
「判らない。でも、意識を夢に囚われているのかも」
「さっき消えた時の続きってワケ? ええい! それなら目の覚めるチューでもしてやんなさい! ンなモンどうせ、えっちぃ刺激一つで目ェ覚ますモンよ!」
「え!? そんな。でも…」
「こんな時にもじもじカマトトぶるなっつの! それならアタシがやってやるわ!」
「だ、駄目です! そんなの許しません!」
と、さすがにそんな場合ではないだろうと、妙に頭の中が落ち着いてしまった龍麻がたしなめようとした時、スキュラがするりと豹馬に近付き、その頬を両手でそっと包んだ。
『パンサー。起きなさい』
「え!? ちょっと…レイバーさんッ!?」
『まったくもう、可愛い寝顔しちゃって。しょうのないコ』
スキュラ〜レイバーというのが彼女の名らしい〜は目元涼しげに嫣然と微笑み、そっと顔を近付け――
――ゴチンッッ!
「ッッッッ!」
「ッッッッ!?」
聞くからに痛そうな音を立てた頭突きによって、豹馬は涙目になってのた打ち回り、目を覚ました。
「痛い…! 何て事するんだ、姉さん…!」
『Shout up! お友達のピンチにアンタが呑気に寝てるからよ!』
ピシリと鞭打つように言い放つ、凛々しき美女。豹馬程の男がビクッと肩をすくめる。シスコンというのは本当のようだ。
「…そんなこと言ったって、何がどうなってるんだ?」
『あいつがアンタの力を盗み取ったのよ。アンタの影を抜いてね』
「――俺はあんなに不細工じゃないぞ」
一歩を踏み出した豹馬であったが、途端によろめいた。レイバーに支えられていなければ風にさらわれてしまう程、彼も消耗していたのである。しかし…
『そうね。あんなヤツ、さっさと片付けてらっしゃい』
両手でそっと顔を包みつつも、しかし首がグキリと鳴る乱暴さで豹馬の顔を上向かせ、レイバーは豹馬の唇を自らのそれで塞いだ。
「あ…!」
舞の眉間にちょっとだけしわが寄り――
メリメリと音を立てて、豹馬の背から蝙蝠の翼が生えてくる。人肌は黒い金属質な筋肉と変わり、豊かな金髪が獣の鬣へと変化する。――アルティメット・ビースト。【使徒】への変異。魔力の増大に合わせ、彼の足元には【使徒】としての影が色濃く刻まれていく。
レイバーと唇を重ねたまま、豹馬は両手を広げた。
その手を取るように絡み付く触手に、異形の爪。彼の【友】はそれぞれが手を繋ぎ合わせ、自ら形を失い、溶け合い――幾千幾万とも知れぬ【使徒】たち全ての【力】が豹馬一人に集約される。
「これほどの【力】が彼一人に…! 本人は最弱であろうとも、これほど多くの友に護られているならば彼こそが…」
「――最強ではないさ。殺ししか能がなくてね」
ポン、と音を立てて唇が離れた後、口元を拭いた事でレイバーに拳骨を喰らった豹馬が言った。拳骨の主は、既に彼に融合している。
――シュゥゥゥゥゥッ!
【使徒】としての姿に【使徒】の影を落とす豹馬と、【使徒】の姿を持ちながら響豹馬という【人間】の影を落とすプレラーティが対峙する。影以外は寸分違わぬ、鏡に映った実像と虚像のようだ。恐らくはその能力も。そこに違いを求めるならば、プレラーティに半ば飲み込まれている【光】の【使徒】、ジルの存在だ。真に実力伯仲であれば、ジルを盾にも矛にもできるプレラーティの方が有利に――
「だから、手を貸してくれるかい、龍麻? 君は光、俺は闇だ」
あっさりと助力を願い出る豹馬に、龍麻も即座に頷く。
「――いいとも。――【真神愚連隊(】。アタックフォーメーションB。ピセル殿、伯爵を頼む」
詳しい打ち合わせなど無用の、戦士同士のシンパシー。人と魔が共通の【敵】に向かって並び立ち、龍麻と豹馬は同時に【気】を収束させた。プレラーティは怒りの咆哮を上げて魔力を開放させ、そして――
「【秘拳・鳳凰】――ッッ!」
「【魔拳・天龍】――ッッ!」
拳として同質、属性として正反対の気弾! 黄金の鳳凰と漆黒の龍が互いに螺旋を描いて飛び、ジルを直撃した。膨大なエネルギーの爆発の最中、ジルとプレラーティーの肉体が弾け飛び、双方とも瞬時に再生を始め――
「【剣掌・旋】ィィ――ッ!」
「【破岩掌】ォォッ!」
「行け! 【火龍】ッ!」
プレラーティに寄り集まる黒い光を弾き飛ばす京一達。そしてピセルがジルの手を引いて離脱した瞬間――
「弥生ッ!」
「OKッ! ――宝貝(、【霧露乾坤網(】! 破ァァァァッッ!!」
弥生の両掌の間に生まれる空間の歪み! それを中心に据えてプレラーティに照準を合わせる拳士郎。そして――両拳による絶技、【百歩神拳】!
「シュ――ト!!!」
【百歩神拳】の膨大な【気】が、弥生の【霧露乾坤網】によって生じさせた超高気圧のレンズによって一気に熱量を増大、高圧縮する事で生じた超高温のプラズマ球が再生途中のプレラーティに叩き付けられた。ドブ泥の如き粘液が瞬時に蒸発し、貧相な魔術師の肉体が地面に落下する。そこに走り込む、小柄な影。一文字唯。
「――出すよッ! 舞ちゃん!! ――【孔雀明王・朱輝翼天凱破(】――ッッ!!」
唯の両手から広がった炎のオーラが黄金の輝きをちりばめながら翼のように広がり、プレラーティの壇中に叩き込まれる。それはプレラーティーの体表のみか、体内にまで波紋状に炎を広げ、彼の肉体を輝かせた。この世の毒蛇や毒虫を駆逐するという破邪の力を持つ仏母大孔雀明王の【力】。その【力】で肉体を満たされた時、彼女の言う【出す】とは!?
突如、黒い袋のようなものがプレラーティの背を押し破って膨れ上がり、破裂したそれから【何か】が飛び出してきた。
「――何あれッッ!!?」
「小蒔さん!!」
【それ】を目にした瞬間、小蒔の精神は一瞬とは言え狂気に満たされた。決して人が見てはならぬもの。【それ】がこの世のものとして固着する前にナノセコンドの間だけ見せた本来の姿を、小蒔の目は映してしまったのだった。しかしそれが彼女の脳を狂気で焼く前に、舞の叱咤が彼女を常態に復した。
「臨ッ!」
舞の破魔矢が、毒々しい血の色をした…二メートルほどの卵に細い手足を付けたようなものを射抜く。その表面には福笑いのようなでたらめさで人間の目鼻がついており、それぞれが苦悶の形に歪み、目からは粘つく血涙が溢れていた。
『ギイッッ!!』
そいつは地面に叩き落されながらも、意外な速さで取り憑ける媒体…生物を求めた。その視線の先にいたのは――ヤクザ達。
『――そうはさせへんで!』
【もんちゃん】が羽団扇を振る。瞬時に発生した竜巻が猛烈な勢いで石つぶてを撒き散らし、ハンプティ・ダンプティもどきを風の檻に閉じ込める。その隙に【ガンボーイ】が非戦闘員のカバーに走り込み、電磁フェンスを展開してハンプティ・ダンプティもどきを阻んだ。
「ヨッシャアァ! とどめだぜ!!」
勇んで京一が木刀を振り上げたが、なぜか京一の木刀はそいつを素通りした。【気】が生じさせた刃も獲物を捉えぬままに空中に散華する。
「な、何だァ!?」
訳の判らない現象に、敵を目の前に京一があっけに取られる。見ればハンプティ・ダンプティもどきは一瞬ごとに輪郭を鮮明に、あるいは不鮮明にしている。どうやらこの次元のものとして安定する為のエネルギーが枯渇し、その存在を失いつつあるのだ。それは同時に、そいつの逃亡を意味していた。
「それでは倒せません。――私にお任せください」
清麿を居合の形に構え、前に進み出る舞。京一としては面白くないが、彼女の剣技には興味もあるし、何よりも舞のような美少女の頼みでは断れない。
そして、舞は奇妙な事をした。彼女のトレードマークとも言えるようなヘアバンドを外したのである。その瞬間、彼女から鮮烈な【気】が迸った。
「あ、あれは――ッ!?」
「さ、【サハスララ・チャクラ】ッッ!?」
ヘアバンドを取り去った瞬間から、舞の頭頂部に出現した恒星の輝き。それは聖人のみが輝かせる事ができるという【サハスララ・チャクラ】に他ならなかった。龍麻、京一、醍醐も三人で【気】を合わせる事によって【サハスララ・チャクラ】を発動させる事ができるが、彼らのそれは一種の強制発動である。したがって発動は一日に一回が限度だ。しかし彼女はその【サハスララ・チャクラ】を常に発動させ続けているらしい。あのヘアバンドは、彼女のチャクラを制御するものであったのか? 現に発動したのは【サハスララ・チャクラ】だけではなく、眉間から喉、身体の正中線に沿って存在する全てのチャクラが発動し、輝いている。
「今まででさえ、力をセーブしていたというのか、彼女は…!」
「最大の目標が目標だけに、な。――ヤツの本体は別次元に移動しつつあるが、今の舞ちゃんならそいつも斬れるぜ」
拳士郎も弥生も自分の武器を油断なく構えながら、手出しはしない。【使徒】と化している豹馬も。別次元に存在するものに対しては、彼らの技ですら届かないのだ。
舞の全身がチャクラの輝きに包まれ、長い黒髪がふわふわと揺らめく。その幻想的な美しさに誰もが言葉を失い、彼女を見つめた。
「――この世の全て、我が夢のごとくなり――我が天刃、阿修羅のごとく千の魔を断つ!! ――如月流天覇の太刀・【真・我夢羅千断】――ッッ!!」
その瞬間に起こった事を、なんと形容すればいいのだろうか?
清麿を構えた舞を中心に空間が変質し、全ての光景が朧に霞み、ぐるぐると渦巻く色彩の集合体と化し、【見よう】と意識した部分さえもが水底から見た風景のように頼りなく、少しでも集中を途切れさせればたちまち無意味な色彩の海に溶けてしまう。まるで――夢の中にいるように。しかし唯一、ハンプティ・ダンプティもどきは輪郭を猛烈にブレさせながらも強力な存在感を放ち――その中に一つだけ、無数の柔毛を生やした巨大な蛆を映し出した。
天を駆けるは天使か妖精か、優美な太刀の一閃。袈裟懸けの一刀は獲物に触れる瞬間にのみ無限数の斬撃と化し、全てのハンプティ・ダンプティもどきが、パズルのピースをぶちまけるようにバラバラに飛び散り、最後に残った蛆が縦に裂けた。
【それ】が何を引き起こしたのか、龍麻たちには理解が及ばない。しかし現実感が急激に戻って来た時、ハンプティ・ダンプティもどきは口からゴボリと紫色の血を吐き、現実的な質感を有するものとして実体化した。
「豹馬君!」
翼をはためかせ、豹馬が彼女の傍らに舞い降りる。一瞬、深紅のオーラを大きく輝かせた彼の翼が折り畳まれ、角が長い金髪へと変わり、彼は元の人間の姿を取り戻す。だが彼の全身はまだ炎のようなオーラを放ち、真っ赤に輝く瞳のない目がハンプティ・ダンプティもどきを映し出す。
そして豹馬は、牙がぞろりと並ぶ口を笑いの形に開いた。
『Let`s rock Baby』
真っ向上段から振り下ろされる魔剣の一撃! それはハンプティ・ダンプティもどきの頭頂から胴体を半ばまで切り込み、豹馬はその紫の返り血を全身に浴びた。人の耳には音声として捉えられぬ異次元の魔物が上げる悲鳴が波動となって放射され、ガンボーイの電磁障壁に火花を上げさせる。龍麻たちが、そしてヤクザたちが無事だったのは、舞がその波動に対する盾になったからであった。
『見事なり、ザ・パンサー。今日のところはお主の勝利を認めよう。――止めを刺すが良い』
『――俺としても、そうしたいんだがね』
豹馬の美貌が急速に、凶悪、凶暴を尽くした美しさを帯びる。唇が耳まで裂け上がり、その中に牙がぞろりと並んでいても、彼は美しかった。美しい悪魔がいるならば、今の彼が正にそれであった。そして――
『まさか…貴様…!』
『姉さんの言い付けだ。好き嫌いはダメだとさ』
グワ、と豹馬の口が開き――
「ヒッ…!」
【それ】を見た真神の一同は、龍麻も含めて絶句した。
『グギャァァァァッッ!!』
魔物の絶叫に、肉が引き裂かれ、血の跳ねる音が重なる。
「あの化け物を・・・喰ってる・・・!」
確かに、それが【使徒】の宿命だ。しかし今、全身に真っ赤なオーラをたぎらせながら、紫の返り血に身を染めつつハンプティ・ダンプティもどきに喰らい付き、肉を噛み裂き、喰らっているのは、あろう事か響豹馬本人なのである。なまじ美形なだけに、目を覆わずにはいられぬ凄惨な光景。剣で切り裂いた傷口を更に手で引き裂き、顔ごと突っ込んで内臓を食いちぎり、血を啜り上げる。肋骨の付け根からも真っ黒な蛇のような触手が伸び、牙がびっしりと生えた【口】を思う様振るって血肉を噛み千切り、飲み込む。魔物の姿であった時より確実に陰惨かつ凄惨な――正に悪魔の食事であった。そして――
「これまでは外道ジジイの手下なんか喰わなかったんだがな…!」
【好き嫌いはダメ】…それが狙いか、豹馬の全身が黒く細かい毛に覆われ、背には透明な翼膜を持つ四枚羽が伸びてくる。気力が萎える、耳障りな羽音と悪臭。【それ】こそが【黒蝿王】の本性なのであろう。
「【使徒】を喰らって己の能力とし、その本性を知る。しかし同時に、こちらの能力を悟られる危険を孕む…。今回は、禁を破りましたね」
「次なる闘争…いや、全ては勝利の為に…」
凄まじい【食事】の果てにハンプティ・ダンプティもどきが無残に喰い散らかされ、完全に絶命すると、豹馬は蝿とも蜂ともつかぬ羽に耳障りな羽音を立てさせながら、背骨が折れそうなほどそっくり返って哄笑した。この世の邪悪を一身に集めたかのような、狂気に満ち満ちた笑い声。彼の剣に象嵌された紅玉も一層の輝きを放ち、地面に飛び散ったハンプティ・ダンプティもどきの残骸をも血色の霧と化して吸い込んでいった。まるで魔物の一片、血の一滴すら残さず平らげるかのように。
そして豹馬は、ガクリと膝を付いた。今の凄まじい食事が嘘であるかのように、彼は剣にすがり、肩で荒い息を付く。その息が整うほどに羽は萎れ黒い凶毛は抜け落ち、さらさらと風に乗って流れていった。
「【塵は塵に――灰は灰に――】」
舞が口ずさんだ一節が、魔物との戦争の終わりを告げた。同時に空を埋め尽くす輝きがぐるぐると渦を巻き、無意味な色彩の集合体と化す。どこからともなく途方もないスケールの地鳴りが沸き起こり、空気が振動し、酷い耳鳴りが一同を襲った。
「結界が崩れ始めたようですね。皆さん! 集まってください!」
ガンボーイの下に全員を呼び集める舞。ヤクザ達は気死している者ばかりなのであっさりと指示に従い、プレラーティの首を抱いたジルだけがためらったものの、ピセルに手を引かれて皆のもとに集う。
「総員、集結を確認」
「OKだ。舞ちゃん」
ぐるりと一同と周囲を見回し、誰一人欠けていない事を確認する龍麻と拳士郎。
「皆さん、しっかり手を繋いでください。――豹馬君、お願いします」
「今の俺は疲れてる。失敗するかも知れないぜ」
「大丈夫ですわ。――失敗したらレイバー姉さまに折檻してもらいます」
にこり、と満面の、とても素敵な怖い笑みを向けられ、豹馬は冷や汗混じりに【力】を解放した。瞬間、白い光が一同を押し包み、崩壊しつつある狂気の空間から、一同の姿は消え失せた。
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