
第壱拾四話 京洛奇譚 7
ふと空を見上げると、そこに広がる満天の星空は、見慣れた世界のものであった。空気は澄んでおり、にぎやかな虫の音も平和の調べを奏でている。
「――なんと。【瞬間移動】か。そのような術まで習得しているとは驚くばかりだ」
「週に一度が限度だがね」
ふら、と倒れ掛かる豹馬を舞が支える。愛し合いながらも殺し合う、恐ろしい宿命に挑んでいる二人だが、それは似合いのカップルの光景であった。
「…これで、終わったんだな」
恐怖と驚きと波乱に満ちた、何という戦いであったろうか。この京都の地に、否、世界を股にかけ、時の果てから張り巡らされた周到な罠。幾千幾万にも及ぶ犠牲の上で成り立った策略を打ち破り、しかしそれさえも【ザ・パンサー】響豹馬にとっては【いつもの事】であり、【黒蝿王】にとっては【取るに足らない策の一つ】であったとは。彼らはこの先も、本当に果てるかどうかも判らぬ命が果てるまで、幾度ともなく矛を交えるのだろう。
しかし、一つの区切りが付いた事は確かであろう。そう考えての醍醐の呟きであったのだが…
『まだだ』
太く重い声が異を唱える。
「ああ、その通りだ」
応じる声が一つ。声の主たちは自然に、一同から離れていった。
「豹馬…!? 伯爵!?」
龍麻は二人に声をかけたが、その背が語るものを悟り、それ以上は進まなかった。
そして二人は、それぞれの剣を抜いた。
「さあ――続きだ」
『応』
二人とも、申し合わせたように騎士の礼を交わす。
「ちょ、ちょっと! もう戦いは終わったんでしょ!? なんでキミたちが戦わなきゃいけないのさっ!?」
当然のように、小蒔が抗議の声を上げる。
「夜に二匹の【使徒】が出遭った――これは、必然だ」
『いかにも。――闘争と殺戮は【使徒】の喜び。敵を打ち破るは本懐、強者に食われるは誉れ。目の前に在るは誇り高き【使徒】の王者。血が喜びに打ち震えよるわ』
殺し合いを極めて自然に受け入れ、開始してしまう二人。【人間】の姿のままの立ち合いは実に静かに始まった。
「解らないよ! ボク達皆、力を合わせて戦ったじゃないか! それなのになんで今更戦うのさ! ボク達は仲間じゃないか!」
「仲間だからこそ、家族だからこそ、自分の手で殺してやるのも情と言うものさ。俺達【使徒】には本来ないものだがね」
「でもっ!」
その時、小蒔の両肩を強く押さえる手があった。弥生である。
「もうやめて、小蒔ちゃん。アタシだって解らない。解りたくない。殺す事が救いになるだなんて、思いたくない。でもね…今まで数百年も戦ってきて、これから数百年も数千年も戦い続けなければならないかも知れない男たちが死に場所を見つけたの。最高の好敵手を前に、苦しみや憎しみじゃなく、歓喜を抱いて死ねる場所を。だから…邪魔しないであげて…」
「そんな…っ。そんなの酷いよ…酷すぎるよっ!」
泣き始めた小蒔をぎゅっと抱き締める弥生をちらりと見やり、豹馬は薄く笑って見せた。
「俺達は幸せ者だな、伯爵。俺達の死を、泣いてくれる子がいた」
『俺には過ぎたる誉れよ。されど我が宿に従い、お前を屠る!』
「人たる身には、人たる身で――」
『応ッ! 心行くまで!』
ゴウッ! と風が唸った。
風の唸り、地面の轟き、鋭い金属音――全てが同時に響き、火花を散らして二人が弾け飛んだ。衝撃に痺れる腕と、込み上げる吐き気を堪え、再び切り結ぶ二人。魔剣ノートウィングと【獅子心王の剣】が青と赤の炎を噴いて咬み合い、飛び散る殺気と衝撃波が二人の頬や手足を裂いた。
人の姿をしていても、単なる剣術の戦いに留まらぬ二人を前に、龍麻達も突っ立って眺めている訳にはいかない。葵が防御術を、【ガンボーイ】がシールドを張り巡らした中で二人の戦いを見守る。応援も声援もあろう筈はなく、ただ静かに。剣士たる者は、拳を固く握り締めて。
「凄ェ…。真っ当な剣術だけでもここまで斬り合うなんてよ…!」
共に常軌を逸した技量の持ち主。剣戟を受け止めても衝撃波が肉まで斬り込み、たとえ身をかわしても斬線の延長線上にいようものなら切り裂かれる。武器は手の延長とよく言われるが、この二人は素手で殴り合っているかのように、自在に剣を操っていた。その為にお互いに決定打が出せず、悪戯にダメージを蓄積していく。しかし、不死者同士の戦いでは無意味な千日手に――
突然、豹馬は大きく地を蹴り、ジルから間合いを取った。本来ならば満身創痍でありながら、血塗れの顔も身体も、たちまち傷が塞がっていく。――こればかりは互いにどうにもならない。【使徒】であるが故だ。
そして豹馬は、剣を背に納めた。
『ム…』
戦いの放棄などとは微塵も考えず、油断なく剣を構えるジル。
「楽しいぜ、本当に。だがお互い、こんなチャンバラやる為に【使徒】になった訳じゃあるまい。人たる身での勝負なら、やる事は一つだ」
剣を鞘ごと背中から外し、左手に握る豹馬。まるで間合いを見せるように剣をジルに向けて差し出し、それから左手を腰に引き付けるように構えを作った。足のスタンスは狭く、膝は緩く曲げられ、大きく背を丸める構え。鋭い爪と牙を持つ、猫科の猛獣の戦闘態勢にも似た構えは――
『おお、その構えは…!』
ジルの顔が感嘆と歓喜に綻ぶ。
『ランデベールの剣。片山伯耆流抜刀術。お前も使うか』
「兄貴の真似事だがね。筋は良いって言われてる」
『そうであろうよ。構えた途端に倍にも大きく見えよるわ。お前は本当に素晴らしい。どこまでも楽しませてくれる男よな』
肩を震わせて笑い、【獅子心王の剣】を左手に握り直すジル。
『ならば我も、奥技を尽くそう。この国の剣術に魅せられて以来百五十年。ランデベールを倒す一刀はこれ以外になしと磨いた剣技――お前にこそ捧げよう』
そしてジルは、右手で己の佩剣を抜き放った。
「なっ――二刀流ッ!?」
「そんな…あの構えは…!」
両腕を大きく広げ、剣の切っ先が頭上高く緩やかに切り結ぶその構え。それは胴も脇腹も、およそ肉体の前面ががら空きとなりながら、日本で愛されるある種の鳥に似た、豪壮さと美しさを兼ね備えていた。
『二天一流――【瑞鶴(】』
「――ッッ」
およそ日本人ならば知らぬ者のない、稀代の剣客、宮本武蔵。その創始なる二天一流。始めから徹頭徹尾、一対多数を想定、攻撃は最大の防御を理念とし、二刀を持って縦横無尽に敵を切り捨てる、正に戦場剣術。それをこの、遠くユーラシア大陸の西端、フランス王国ブルターニュ領主たるジル・ド・レエ伯爵が習得していようとは!?
「やべえ…!」
「ええ、ありゃまずいわ…!」
拳士郎も弥生も声が固い。
「まずいって、どういう事なんですか? 暁さんっ!?」
「うん。アタシの知る限りじゃ、伯耆流抜刀術って二刀を想定した技術はないのよ。いいえ、必ずあるだろうけど、それは絶対に門外不出の技の筈。お兄さんの真似事だけのパンサーじゃ…」
「伯爵も相当の使い手だ。【使徒】の時より強そうに見えるぜ。言っちゃ何だが、剣術のみじゃ豹馬が圧倒的に不利だ」
「そんな…!」
絶句する葵と小蒔。ジルの強さもさる事ながら、仲間の事であるのに、冷徹な評価にも。しかも、それは当人も同様なのか、
「…あのさ、やっぱり無難にチャンバラを続けないか?」
『ふふん。構わんぞ。お前が二刀を凌げるならば』
「そこは一つ、大人の度量という奴で青少年にサービスを」
『うむ。若者を鍛えるのは年長者の務めよ』
「やっぱり駄目か。――兄貴には、今後も友達は選べと言っておく。良い友達ばかりで羨ましいよ」
『ありがたき言葉よ。――いざ、尋常に勝負』
この期に及んでの豹馬の軽口にも貫禄たっぷりに応え、ジルは腹の底から気勢を絞り上げた。暴風の如きその圧力! 闘気が真っ向からぶつかり合い、ビリビリと空気を震わせ、土くれが天へと巻き上げられていく。その圧力に抗し切れず、あの豹馬が先に半歩踏み出し、その機を逃さず――
『奥技! 【天地無双】ォッ!!』
「ッッ!!」
機関車の暴走もかくやという踏み込みに、天頂からの真っ向上段と、ゼロコンマのレベルでタイミングをずらした袈裟懸けの二刀!
――ガキイッッ!!
爆発さながらの衝撃波を伴った鋭い金属音と共に、互いに位置を入れ替えて吹っ飛ぶ二人。しかし――空中にあったノートウィングを抜き放ち様の飛び込み斬り(! フェンシングの技法に【箭疾歩(】を取り混ぜた、正に瞬間移動のような踏み込みからの突きが、着地前のジルの左肩を貫いた。【震脚】の轟きは龍麻達の面貌まで打ち、内に張り詰めていた妖気が血と共に噴き上がり、ジルはがくりと膝を付いた。
『見事なり! 【ザ・パンサー】!』
吠えるような声で、しかし心底からの賞賛を送るジル。
『なんと恐ろしき奴。わが剣を己が頭蓋を割らせる程に引き付け、致命の一刀をいなすとは…!』
ジルの言葉通り、豹馬の頭頂部から噴き出した血が彼の面貌を朱に染め上げ、ボタボタと地面に滴り落ちる。後数ミリも斬り込まれていれば、衝撃で頭蓋骨が爆ぜ割れていたであろう傷であった。
『だが、なぜ外した? お前ならば我が心の臓を貫けた筈』
「……」
豹馬は無言の内に、ジルの血を滴らせたノートウィングを引き抜いた。――いかに魔剣の与えた傷とは言え、ジルも強力な【使徒】だ。浅手ではないが、致命傷でもない。その傷も必ず癒える。
「戦争なら俺の勝ちだが、勝負では俺の負けさ」
『……ッッ』
人たる身には人たる身で――どこまでもお互いのルールを遵守した二人に、龍麻は思わず唸っていた。
豹馬は【剣術】では勝てなかったのだ。あの瞬間、ジルの【天地無双】に対し、豹馬は剣術にあらぬ技、【双撞掌】を繰り出し、両手に握ったノートウィングで上段の一刀を受け止め、二刀目の威力をも利用した【化剄】でジルをいなしたのである。上段の一ノ太刀を、頭蓋骨に斬り込む程に引き付けられ、止め得なかった二ノ太刀を利用されたジルは即時反撃できず、止めは【箭疾歩(】を使っての飛び込み斬り。――伯耆流抜刀術ではなく、中国拳法とフェンシングの体術を使い尽くした上で、肉を斬らせて骨を断った豹馬の勝利だったのである。しかし…
『相手の一撃を受け止め、然る後に斬るが伯耆流の理合であれば、今の立ち合いもまた、お前の勝利で良かろう。だが、なぜ外した!? これでは我は滅びぬ。いずれまた【使徒】の宿命が、血と殺戮を求めて蠢き出す。それを止められるのはお前だけなのだぞ、【ザ・パンサー】! 我を喰らえ。この血肉、この力、お前の力と成せ! このジル・ド・レエ! お前ほどの者の血肉となるならば本望! 身に余る誉れよ!』
魔剣ノートウィングによって付けられた傷からは未だ出血が続いているが、それとて時間を置けば必ず塞がってしまう。死ねぬ身を滅ぼす――それすら死そのものではないが――には、完全にその肉体を喰らい尽くすしかない。
だが、豹馬は薄く笑った。少し寂しげな、不思議な笑みだった。
「俺はね、伯爵。【使徒】である自分をさほど忌避していないし、諦めてもいないんだ」
豹馬は剣を掲げ、滴り落ちてきたジルの血を一滴、舌で受け止めた。彼の両目が一瞬だけボウ、と赤く輝き、すぐに澄んだ輝きを取り戻す。
「あんたの騎士の心と魂は確かに受け取った。俺にはこれだけで充分さ。あんたは、正しい輪廻の輪に戻るべきだ」
『なんだと…? そんな事が出来るとでも…』
「今の立ち合いで判った。確かに一人では無理だろうさ。だが、二人ならば、後押ししてくれる者がいるならば、天に還れるさ」
すう、と移動する豹馬の視線。それを追ったジルの目に映ったのは、白銀の鎧を身に纏った女騎士であった。
『ジャンヌ…』
「ジル…もう、休みましょう」
ピセル…ジャンヌ・ダルクは言った。
「あなたはもう充分に戦いました。友も、恨む相手も消え失せて数百年。恨む相手を人そのものに変え、この世を呪い続けるのはとても悲しい事です。大地の力を受け継ぎし者の導きに従い、輪廻の輪に戻りましょう。そしていつか、きっと…」
『しかし、我は許されざる逆徒。そして我も、許しは請わぬ――』
「あんたがそう言っても、許してしまえるお人よしがここにいるさ」
豹馬がひょいと親指で示した先には、龍麻と葵が立っていた。
「どうだ、緋勇龍麻。お前は伯爵を許せるか?」
「…なぜ俺にそのような事を聞く? そもそも俺に、伯爵を裁く権利などない」
「そんなもの、この地上の誰も持ってないさ。だがお前は、もう少し自分の力の本質を知るべきだな。お前の力は破壊にも再生にも使える原初の力。神も悪魔も、人も魔も、お前が願えば救われるさ。一度や二度、そのような【力】を使った事があるだろう?」
龍麻ははっとして葵を振り返った。葵も少し息を呑み、しかし小さく頷く。
「「【黄龍菩薩陣】…」」
龍麻の脳裏に、九角天童の最期が甦る。
確かに、破壊的な威力はなきに等しいながら、人も魔も、自身が持つ憎しみや恨み、魔性を全て解き放ち、天へと還らせる奥技である。この技を受けたものは例外なく【魔】を打ち払われ、感謝しつつ去った。しかし…
「俺達に出来るだろうか? 伯爵は、俺がかつて送った者に匹敵する【力】を有している。そしてその時は、俺の仲間が総がかりで挑んだ」
「自信がないとでも言うのか? 謙虚だな。君はまだ、限界まで【力】を振り絞ってはいないだろう?」
「ッ!? いや、しかし、あれは――」
この響豹馬は知っているのだ。自分の【力】〜V−MAXの事を。今日の戦いでも、ギリギリまで使うまいと決めていた、一つ間違えば仲間すら危険に晒す【力】を。
「恐れる事はないさ。【力】そのものは中立、要は使い方だ。特に君の【力】は想いを乗せて具象化する。破壊のみにあらぬ、善き【力】である事を信じる事さ。それでも不安なら――全員で、送ってやれば良い」
そして豹馬は、すっとその場から身を引いた。【全員】に彼は含まれていない。彼は――【使徒】だからだ。
「――うむ。伯爵、貴殿の行いには確かに悪しき場面もあったかも知れん。だが自分は貴殿に敬意を表する。そして自分の【力】で貴殿が救えるならば、この【力】を行使したいと思う。よろしいか?」
『…お前は、俺を許すと言うのか? 多くの命を貪って来た俺を…』
「自分は、それを責める立場にない。自分もまた若輩の身であるが、国家の名の下、大義名分を後ろ盾に多くの命を屠って来た。だが今、己の意志で生きる身にあっては、救える者を救わず、救えるべき機会から目を逸らす愚か者になりたくはない。同時に、誰かを救えるほどに強くなりたい。それは、貴殿も同じ筈。そして貴殿の命もまた、もはや貴殿一人の命ではない」
僅かな沈黙の時が龍麻とジルの間に流れ――ジルは太い笑みを見せた。
『我が救われれば、我が血肉と化した者たちも救われるか。――今日はなんと良き日なのか。時の果てに、お前たちのような素晴らしき戦士たちと出会えようとは』
それからジルは騎士の礼をし、龍麻に向かって膝を付き、頭を垂れた。
『我の闘争を止め得る戦士たちよ。このジル・ド・レエ、汝らの導きに従い、天へと還ろう。我を、導いてくれ』
「うむ。――葵」
「はい。私の力、あなたに預けます」
力強く頷き、龍麻は京一達をも振り返った。
「――京一、醍醐、小蒔。お前たちも力を貸してくれ」
「よっしゃ」
「応、任せろ」
「ウンッ、ボクも手伝うよッ」
通常の【方陣技】とは異なり、手を繋ぐ真神の五人。直接【気】を同調させて技を発動しようとする彼らであったが、その輪に混ざる者が――
『わいも混ぜてくれ。伯爵はんとピセルはんの為に、役に立つでえ』
「――それなら、アタシらも手伝えるわね」
「こういうのは混ざっておくのが吉だよな」
「うん。ボクたちだって、誰かを助ける方が良いもんね」
「僕は記録を取らせてもらうよ。【使徒】が救われるという事は、【人】と【使徒】の未来に対するエポックメイキングとなり得るからね」
常人にあらぬ【力】を持つ【神威】と、妖魔を討つ【力】を持つ【ストライダー】、そして自然の精気の落とし子である【天狗】が円陣を織り成す。その中心に膝を付くジルの傍らに、白銀の鎧を纏った女騎士〜ピセルが立った。各自が配置に付いただけでも、気の相乗効果によって周囲の空気が浄化されていく。
「よろしくお願いいたします。皆様方」
「うむ。ジル・ド・レエ伯爵。ピセル殿。自分は不信心者ゆえ、祈りの言葉も知らん。だが、貴殿らの魂が救われる事を切に願う。――アクセス、ナンバー9!」
【仲間】たちの【気】と同調しながら、【ナンバー9】を発動させる龍麻。ただし意識を【緋勇龍麻】に留め、潜在能力のみを開放させる。龍麻の目が赤く輝き――
――【No9.Loading 【V−MAX】mode】
――【You have control。 Tatuma Hiyu】
――【I wish you Luck】
爆発的に吹き上がるオーラ! 火山の噴火の如き【力】の発現は、しかし仲間たちの【気】に支えられ、龍麻の意識下に置かれる。死も破壊も再生も――全て龍麻の思うがままに。そして――
「【破邪顕正・黄龍菩薩陣】!」
龍麻の気勢と共に、一同が形作る円陣が眩い光に包まれた。
『オオ…ッ!』
天にまで届く光の柱の中で、黄金の炎に包まれたジルは、感動に震える声を上げた。
『我が内にある悪しきものが光となって消え行く…! なんと心地良き事か。お前たちの気のなんと温かき事か。これが、これこそが、真の【力】か』
手にしていたプレラーティの首が溶けるように燃え尽き、穏やかな表情を浮かべた彼が光に包まれて天に昇っていく。彼に続き、宗教殉難者達の魂も、また…
ジルはぐるりと一同を見回し、一人一人の顔を目に焼き付け、最後に、舞に支えられて立つ豹馬を見た。
『お前たちのおかげで、俺は逝く事が出来る。だが、お前はいつまで生きるのだ。お前はいつまで、戦い続けねばならぬのだろうか』
穏やかな、友に語りかける口調に、豹馬は薄く笑った。
「判らないな。俺の引き摺っている鎖は重くてね。もう少し軽くしないと飛べやしない」
『……』
「でもね、さっきは良い夢を見たよ。――可愛いお婆ちゃんになったこの子の隣に、意地悪そうな爺さんになった俺がいた。周り中に子供と孫がたくさんいてね、どの顔も笑っていたよ」
『おお、そうか』
ジルは顔をくしゃくしゃにして満面の笑みを作った。厳つくとも、最高に良い笑顔だった。
『他を救いし力持つ者には、悪意の牙が突き立てられるもの。されど、汝らの未来に祝福あれ。そして、偉大なるイングランド王リチャード一世と、高潔なる【テンプル騎士団】の魂を受け継ぎしこの剣にかけて誓おう。汝らの未来に立ちはだかる宿敵あらば、我は必ずや馳せ参じ、汝らの助けとなろう!』
ジルの掲げた獅子心王の剣が強く光り輝く。その光の中にジャック・ド・モレーの、【テンプル騎士団】の面々の幻影が揺らめいた。どの顔も、笑みに満ちていた。
「心強いよ、伯爵。――また逢おう」
『また逢おう。時の果てに出会えし、若き友たちよ』
そしてジルは光に包まれ、ピセルに手を引かれるまま天へと昇り始めた。数百年来の恨み、憎しみ、それら全てを忘れ、天へと還る道を得た、全ての魂を率いて。
「………」
【獅子心王の剣】を手に、夢から醒めたようにたたずむ朋子をその場に残し、光の柱が消え去っても、しばらくは誰も何も言わなかった。
既に大百足の残骸も崩壊し、激闘の後は更地に刻まれた大穴や、枯死した樹木でしか確認する事ができない。既に禍々しい妖気も消え去り、辺りには清澄な闇が下りている。戦いの終結は確実だが、多くの魂が救われたと確信できる荘重な空気を乱すのは憚られたのである。
単に自然破壊を妨害している天狗の正体を確かめに来ただけなのに、ヤクザが出てきてさあ一悶着――というところで、殆どこの世の命運にも関わるような怪物との戦闘である。龍麻たちには直接関係なかったとは言え、彼らにしてみれば対九角戦以来の全力戦闘であった。
しかし、この空気をかき乱す声が一つ――
『やあやあやあっ、えろうすんまへんなァ。ピセルはんと伯爵はんに加えて、わいの故郷まで救ってくれておおきに』
荘重な空気を壊し、更に【天狗】という言葉の持つ神秘性のかけらもないその口調。確かに人外の存在なのだが、無限数の【使徒】が味方であった直後だけに、彼に対しても親しみを感じてしまう真神の一同であった。【ザ・パンサー】一行にしても同様である。
「一つ聞きたいのだが…」
『ン? なんや、龍々?』
「…なぜお前は、そのようなエセ関西弁なのだ?」
ドドドッとコケる真神の一同。これには拳士郎と貴之、弥生も同調した。
「ひ、ひーちゃん…もっと他に聞く事はあるだろうがッ!」
言い知れぬ脱力感に打ちひしがれ、木刀にすがりながらやっと文句を言う京一。しかし当の【もんちゃん】はと言えば――
『くう〜〜〜〜〜〜っ。やっぱり龍々や! ボケをよく心得取るわッ。もうこんなんなって一五〇年ほどになるやねんけんど、本当に龍々に会えるなんて、わい、めっちゃ嬉しいわッ!』
「…俺を知っているのか? 先程のピセル殿も俺を知っていたが」
そう。そっちの方こそ肝心な筈だ。真神の一同は何とか気を取り直し、彼の言葉に注意を向けた。
『せやなあ…。あまり時間はないさかい。説明しとる暇はあらんけんど、わいらは間違いなくあんさんと会ってるんやで。もっともあんさんは、これから会うんやろうけどな』
「…これからって…何? それにキミ、さっきボクの事を【小鈴】って呼んでたけど…」
小蒔が恐る恐る口を挟むと、醍醐も声を上げた。
「それに、俺たちのことも知っているような口ぶりだった。どういう事だ?」
『なんやなんや! そんなに凄まんといてや。わいの知ってるんは、あんさんらのご先祖やろうな。桜井はんに、醍醐はん。美里はんに、蓬莱寺。――どや、当たっとるやろ?』
名前ではなく苗字を当てられ、驚きを隠せぬ一同。しかし約一名が声を荒らげる。
「ちょっと待てコラァ! 何で俺だけ呼び捨てなんだよッ!」
『はははっ、こりゃ済まんこって。何しろ京梧はんとはちとウマが合わんかったさかい。しかし血筋っちゅうのは凄いなァ。ほんま、そっくりやで』
からからと笑う【もんちゃん】に、一同は互いに顔を見合わせるばかりだ。
「先祖の事はいい。お前は俺の何を知っている。お前たちと共に戦ったとは、いつの事なのだ」
すると【もんちゃん】は急に生真面目な顔になった。
『なあ、龍々。人は生まれながらに【宿星】っちゅうもんを背負っとる。しかしそれは他人が口を出すもんやのうて、自分で見付け出すもんなんや。わいがそれを言ってしまうと、龍々はそれに縛られてまう。ほんまはもっと龍々と話しかったやろうけど、ピセルはんもなんも言わんかったやろ? 龍々を縛る訳にはいかんからや』
「……」
『けんど、こうして龍々とまた会えて、わいはめっちゃ嬉しいで。龍々が、そっちのお人らとこの山を護ってくれたお蔭で、わいも少しは【力】が戻るやろ。龍々が【あの男】と決着つけよる日には、わいもまた【力】を貸したるで。それまでは堪忍な』
悪戯っぽく笑いながら片手拝みをする【もんちゃん】に、龍麻はそれ以上問い詰める事はできなかった。それに彼自身、【時間がない】と言うのだ。
『なあ、おたくら。やっぱりこの山を壊したいんか?」
不意に水を向けられ、動揺したのは若頭だ。手下のチンピラたちは腰を抜かしている者、いまだ気死している者と様々だが、彼だけは話を聞いていたのだ。
「そいつは俺が決めることじゃない。だが、そうなるかもな」
その言い草に【もんちゃん】は激昂するかと思われたのだが、彼はふっと天を仰いだだけであった。
『そやなあ…。それが人間の業っちゅうもんや。自分の欲の為には他人を踏み潰し、自然を壊し、獣たちを虐げてもなんとも思わへん。千年待っても変わらんかったもんが、百年やそこらで変わるとも思えへんけど、今身体を借りとるこの若者みたいな考えができるもんもいるみたいやし、あんさんも根っからの悪党とは思われへん。どや? わいの【力】を見たら、もう一度だけ考えてくれへんやろか?』
「…なんだ、それは?」
ふわ、と空中に飛び上がる【もんちゃん】。その身体から、見慣れた青白い清浄なオーラが吹き上がる。
そして【もんちゃん】は、空中で優雅な【舞い】を舞い始めた。
両手を大きく広げ、派手な着物を閃かせる舞いの勇壮さ。それに連れて彼の【気】は増大し、真神の一同と、豹馬を除く拳士郎たち、そして――【力】とは無縁である筈の若頭やチンピラ達の【気】とも共鳴し始めた。居合わせる者たちの放つオーラが最高潮に達するや、大地から金色の粒が舞い上がり始め、【それ】が起こった。
「――見て! 草が…草が生えてくるッ!!」
「こ、これは…まさか!!」
破壊され、ならされ、起重機と靴底で固められた傷付いた大地に、今、緑が芽吹き始めた。それはぐんぐんと成長し、枯れ、種を残し、また成長し――それを何度となく繰り返して、遂に傷付いた更地を緑で埋め尽くした。その中には草だけでなく、細く伸びる若木が萌え、天に向かって挑んでいる。妖魔の咆哮で枯れ果てた樹木も今では青々と生の凱歌を謳い上げ、この季節にのみ許される衣をまとっている。――まさに奇跡。しかも――
「な、何だ…これは…幻覚…か?」
自らも光を放ち、熱に浮かされたように呟く若頭の目に映ったのは、遠い昔、そのような草原を走りまわった、幼い日の記憶であった。太陽の光を満身に浴び、草の匂いに身を浸し、泥だらけになりながら遊んだ日々。虫と戯れ、動物を追いかけ、木陰で休んだ、誰にでもある子供の頃の記憶。それが触発され、彼の目に、いや、彼らの目に見えているのであった。
「な…なんだよこれ…」
今はすっかりひねくれ、落ちぶれたかに見えるチンピラたちの目にも、その光景が見えているのだろう。彼らの中には、涙を流している者さえいた。世の中の汚いものなど微塵も知らず、無邪気に遊んでいられた日々。どこでどう間違えたのか、純真であった幼い日々を否定するかのような今の自分。それが過去の自分と向かい合い、己の惨めさと卑小さに恥じ入ってしまい、同時に、懐かしさで胸がいっぱいになってしまったのだ。
人間ならば、誰もが心の奥底に持っている、懐かしさと愛しさを掻き立てられる記憶。その名は――故郷。いつの日か、帰るべき場所。一同は奇跡が生んだ緑の中に、己の【故郷】を見たのであった。
だが、緑の成長が止まり、懐かしき日々の光景が消え去った時、舞いを止めた【もんちゃん】もまた、疲れ果てたような顔になっていた。
『…今のわいじゃ、これで精一杯や。さすがに少し休まんとあかん。けんど、ここがまた壊されてしもうたら、今度こそわいの命もあらへん。ま、それが時代の流れっちゅうもんなら仕方ないやろな…』
「そんな!」
葵と小蒔が声を上げる。
「そんなのってないよ! せっかくこんなに自然が戻ったのに、天狗様が死んじゃうなんてさ!」
『…桜井はん。それからみんなも、よく覚えておきや。ピセルはんや伯爵はんがそうであったように、絶対に護りたいものがあるからちゅうても、時代の流れに逆らうっちゅう事はこれでなかなか大変なんや。人はいつか滅ぶ。国も、わいらのようなもんもな。けんど、この大地と空だけは、変わらず残っててくれるもんや。そのおかげで命ちゅうもんは、そこで限りなく輪廻転生して受け継がれていく。それが判る人が多くならへんと、何もかも失ってしまうもんや。そうやって生きとるもんも、決して少なくはないんやで』
それから【もんちゃん】は一同を見回した。
『わいにできるんはここまでや。後はあんさんら、人間同士で決めたらええ。わいも…少し疲れてしもうたわ…。ほな…さいなら…』
その時【もんちゃん】は、直立不動になって敬礼した。
それは龍麻を知っていると、何よりも雄弁に語っている。しかしその謎は明かされることのないまま【もんちゃん】は一陣の風と共に溶けるように大気に消え、代わりに隆がその場に崩れ落ちた。
「…呼吸正常。脈拍正常。――問題ない」
隆に駆け寄った龍麻が素早く状態を確認し、彼の無事を告げる。すると隆は夢から覚めたように頭を振り振り、身を起こした。
「今…天狗様が俺の中にいた…。この山を護るために…少しだけ身体を貸してくれって…」
「うむ。かの天狗は見事に山を護った。そしてそれは、君たちのお蔭でもある」
「ああ…。子供の頃から見てきた筈なのに…この風景を守りたかったから頑張ってきたのに…まだ…何も知らないのと同じだった…。自然がこんなにも美しく、あったかいものだったなんて…」
ジャングルの奥地で自然と共に暮らす人々でもない限り、自然の価値を人間が真に理解するのは難しかろう。しかし隆はこの山の精気そのものである【もんちゃん】の眼を通して、この山の真の姿を見たのだ。
「…それでお前ら、これからどうするつもりだ?」
現実認識を取り戻し始めたか、それともただの強がりか、とにかく若頭はタバコに火を点け、深みのある声で問うた。
「どうするもこうするも…こうなってしまってはな。せめて機械くらいは壊しておくか。せっかく戻った緑だ。少しの間だけでも残しておきたいからな」
「…無駄の見本だな」
醍醐の発言を、若頭は冷笑で切り捨てた。
そんな事は、言われるまでもなく判っている事だ。一度立ち上がった開発事業は、よほどの事情がない限り止める事ができない。自然保護を訴え、それが開発の中止に繋がった例など数えるほどしかない。それが特に、公共事業ともなれば皆無と言って良い。
「無駄かどうか、やってみなくちゃ判らない。この人たちだって、あんなでっかい化け物と戦って勝ったんだ。あの天狗様も昔、あの化け物…伯爵と戦ってこの山を護った。自分の命と引き換えにして、俺たちや山に棲むたくさんの命を守り、育んでくれたんだ。あの伯爵だって、大切なものを守ろうとした果てにあんな姿になってしまって…! だから今度は、俺たちが恩返しをする番だ。相手が政治家だろうとヤクザだろうと、絶対に負けない! 負けちゃ駄目なんだ!」
「この山の木も草も、鳥や虫や獣だって、ずっと昔からここに棲んできたのよ。その生きる権利を人間の勝手な都合や、ましてや欲のために奪って良い筈ないわ。あの天狗様はそれを護るために戦ったわ。私たちもこの山を護りたい。――あなたにだってあるでしょう? 命を賭けても絶対に護りたい何かがあるでしょうッ? あなたも――【見た】のでしょう!?」
【神威】をその身に降ろし、その目を通して世界を【視た】隆と朋子が心情を迸らせた言葉を受け、沈黙がその場を支配した。だが、誰が気付いただろう? 龍麻の、そして豹馬の口元に微笑が刻まれていた事を。
「…ふっ。護りたい何かが…か」
若頭はタバコをぷいっと吐き捨て、靴底でもみ消した。
「餓鬼の感傷には付き合ってられねェぜ。その機械だって高いモンなんだ。上の方はともかく、現場の人間はそれで飯食って、家族養ってんだぜ。お前らの理想だの護りたいものだのの為なら、そいつらの生活は犠牲にするってのかい? そんなの、あの変なジジイと同じじゃねえか」
「そ、それは…」
怯む隆に、若頭は静かな口調で畳みかけた。
「物事一つ始めるのもやめるのも、全てが八方丸く収まるなんて事は滅多にあるもんじゃねェ。そしてこの世の大抵の事は強い奴の思惑と金で動いているんだ。そんな理想論を振りかざすだけじゃ、何一つ変わりゃしねェぜ」
やはり、ヤクザとは言っても世の中を知っている大人だ。彼の言っている事は正しい。ここで建設機械を壊しても、それはただの犯罪行為に過ぎず、結局徒労に――
「だからな、もっと現実的な方法で行こうや。――ここの開発業者はヤクザと癒着してるって訴えてやんな。叩けば埃が山ほど出る連中だからそれで充分だ。この山には化け物が出ますとか、天狗が住んでますなんて言うのはご法度だぜ。銭ゲバ共よりもっとくだらねえ連中に山を荒らされたくはねえだろう?」
「――ッッ!?」
まさか若頭の方からそんな事を言い出すとは!? これには真神の一同も、彩雲学園の一同も驚いた。
「で、でも! そんな事をしたら…!」
「後が怖いってか? くくく…。なに、ウチの組は痛くも痒くもねェし、もともと組長(オヤジ)もこの話にゃ乗り気じゃなかったから手ェ切るには良い機会だ。現場の連中も無理矢理駆り出された下請けだから、元の仕事場に戻りゃ済むだけの事だしな。せいぜい胸張って役所に乗り込むと良いぜ」
そして若頭は、まだぼうっとしているチンピラたちに檄を飛ばし、「帰るぞ」と告げた。
「あ、あのっ」
「ん――!? なんでェ?」
「そのっ、ありがとうございました!」
朋子がぺこりと頭を下げると、若頭は口元を歪ませて笑った。なかなかに渋く決まった、漢の笑みだった。
「礼を言われるほどの事じゃねェよ。それよりも、天狗にもらったこの自然を大事にしな。あの天狗の言い草じゃねェが、時代の流れに逆らうってのは並大抵のことじゃねェ。だが…一つやふたつ、変わらねェもんがあったって良いだろうよ」
それから若頭は、つい、と龍麻を振り返った。正確には、拳士郎も含めて。
「――そうだろ? ひーちゃん。ケンちゃん」
「「――ッ!?」」
急に親しみ深い声になった若頭に、呼ばれた当人達も驚く。若頭はにいっと笑った。
「どうにもおかしな所で出会っちまって言い出し難かったんだが、やっぱこの恰好じゃ解らねェか。――クリスぶっ殺す。あとレベッカは俺の嫁」
唐突にサングラスを掛けて髪をオールバックに掻き上げ、更に唐突に訳の解らぬ台詞を吐いた若頭に、龍麻と拳士郎だけは驚きの声を上げた。
「おおっ!? 貴殿は夏コミで出会ったアルバート・ウェスカー隊長(解らない人はバイハザードでググってみよう)ではないか!」
「こりゃたまげた。アンタ、いわゆる血で血を洗う自由業の人だったのか!?」
聞き様によってはひどい言われようだが、若頭は苦笑して片手をひらひらと振った。
「よせやい。これも時代の流れって奴なんだろうが、今時シマとか抗争とか超めんどいんだぜ。だから今じゃ足を洗って、ちゃんとお天道様の下を歩ける芸能プロダクションよ。こいつらだって全員、芸人のタマゴだぜ」
ぺこ、と頭を下げるチンピラ達。いや、それっぽい服装をしているだけで、雰囲気は善良な人間のそれだ。
「なるほどね。道理でチンピラ臭くなかった訳だ」
「するとやはり、金の亡者の策略でこんな芝居を?」
京一と醍醐の言葉に、軽く頷く若頭。
「先代の頃世話になった代議士の息子が泣き付いてきたんでな。もう堅気の仕事をやってんだって突っぱねても良かったんだが、義理も人情もねェ世の中ってのも泣けるってんで、組長もこの話を受けてやったのさ。だが、もういいだろ。ああいうボンボンは少し痛い目を見るのも社会勉強ってもんだし、そっちの兄さんを殺す為の罠だなんて事だったら二度とお天道様に顔向けできねえ。――じゃあな、二人とも。まさかモノホンのヒーローやってるとは思わなかったが、また【冬】にでも会おうや」
若頭は一同に片手を上げ、背を向けた。歩き始めてからふと気付いたように、先程捨てたタバコの吸殻を拾った。その背中に、時代に取り残された【侠】の文字が見えたような気がするのも、あながち錯覚ではあるまい。
黒いスーツ姿が闇に消えると、小蒔がぺろっと舌を出した。
「エヘへッ、まさかひーちゃんたちの知り合いだったなんてね。――良かったね、二人とも。これでもう、争わなくて済むよ」
「本当に…何から何まで…ありがとうございました…。でも…おばあちゃんが言ってた通り、本当に天狗様がいらっしゃるなんて…」
若頭が言っていたように、天狗が実在したという話はたとえ村の者でも信じる事はあるまい。しかし朋子は、ピセルの助力により自らの身をもって山を護れた事に加え、祖母が信じていた天狗と出会えたという事にも感涙していた。恐らくあの老婆と同じく、一生の思い出となることだろう。
「ところで、これからどうするんだ? 組の名前を出しても彼らは敵に廻らんだろうが、うまくやらないと次の連中が雇われるだろうしな」
醍醐の意見に、隆は大きく頷いた。
「明日、村長にこの事を報告する。天狗様やピセルさんたちの事は信じて貰えないかも知れないけど、青年団でもう一度話し合って、村ぐるみで反対運動を起こすんだ。きっと、この山を護ってみせる。天狗様がくれた、この自然を…!」
もはや更地の方こそ見る影もなく、剥き出しにされていた地面は緑に覆われ、腰くらいの高さにまで若木が伸びている。数年を経ずして、ここは元の緑を取り戻す事だろう。
「お二人とも、頑張ってくださいね。私たちも応援していますから。――それじゃ龍麻、私たちもそろそろ…」
「うむ。撤収するか」
龍麻が宣言すると、隆も朋子も凄く残念そうな顔を作る。
「も、もう行ってしまうのか? 良くは判らないけど、天狗様たちはあんたのことを知っていたみたいだったけど…」
「残念ながら、自分はあの天狗にもピセルなる女騎士にも面識はない。彼らも認めた通り、我々の先祖との友好的関係から手を貸してくれたのだな。それに我々も就寝点呼の時間が差し迫っている。ここでお別れだ」
「そうか…残念だな…。でも、そういう事なら近道を教えるよ」
「ありがたい。感謝する。――豹馬、お前たちはどうするのだ? …豹馬!?」
見れば豹馬は、音もなく倒れるところであった。
「おっと」
素早くその身体を支える拳士郎。だが拳士郎は突如、戦闘時と同じくらいの【気】を放出する。見れば拳士朗の手は、豹馬の体表面に浮き出た獣の顎に咥え込まれていたのだ。おぞましい事に、彼の肉体は人面瘡のように浮き出た獣の顎によって埋め尽くされ、何者にも触れさせまいとガチガチと牙を噛み鳴らしていた。――自ら魔物に変身する事が可能な故に生じたデメリット…【友】たる【使徒】が彼を護ろうとしての事とは言え、彼らは【仲間】を認識する事ができずに全てを拒絶するのだ。ただでさえ彼は、人と触れ合う事すら許されていないと言うのに。
「このままじゃ運べねェ。――舞ちゃん、悪ィけど頼むわ」
「…はい」
本当に、彼に触れられるのは舞だけらしい。舞が彼の額に手をやると、獣の顎は静かに彼の身体に引っ込み、彼女は豹馬を木に持たせかけた。
「――ホラホラ、男どもはあっちを向くッ!」
唐突に弥生がどこかから取り出したハリセンをひらひらさせたので、真神の一同は何事かと首を捻った。
「コラ! 龍麻君たちも! ――そっちのお兄さんも、ヨロシク」
「…何だというのだ?」
下手に逆らうと本当に殴られそうなので、取り敢えず後ろを向く龍麻たち。
「あの…暁さん?」
「ゴメンね。ちょっと待ってて。――小蒔ちゃん達も、見てない方が良いかも」
なにやら深刻な様子の弥生と唯に、しかしそれ以上強くは言われなかった葵と小蒔は興味を引かれてそれを見ていた。
(エ!? エッ!? エエエッ!!?)
思わず声を上げそうになるほどドキリとする葵と小蒔。男たちは取り敢えず後を向かせたとは言え、人目のある中、舞は躊躇なく豹馬の頬を両手で包み、唇を豹馬のそれと重ねたのである。
(わ、わ! 如月さんって、大胆ッ…!)
顔を真っ赤にしてそんな事を考えていた葵と小蒔であったが、不意に豹馬がビクン! と身体を痙攣させたのを見て我に返った。
「ぐ……うう……!」
豹馬の唇から、明らかに苦痛と思しき呻き声が上がる。それに連れて彼の皮膚の下でざわめく何者かの動きが激しくなり、所々で血が流れ始めた。それに対する自動反応なのか、彼の全身からじわりと赤いオーラが噴き出し、痙攣する手足が明滅するように漆黒の鎧や白い外骨格、粘液に塗れた触手に入れ替わる。当然…舞の美貌と重なる顔も無残に溶け崩れ、時に骸骨になり、剛毛に、鱗に、棘に覆われた。文字通り、悪夢としか思えぬ光景である。そして――
「ひっ…!」
そのおぞましさに、息を呑んだ葵と小蒔が後ずさりする。次々に不気味な変身を繰り返す豹馬の金髪が、それ自体が独立した生き物であるかのように舞に襲い掛かったのだ。首を締め手足を絡め取り…何より葵と小蒔を青褪めさせたのは、それらが明らかに舞を陵辱せんとしてうねくり、這い回り始めた事であった。始めはプロテクター越しである為に見た目だけであったが、やがて襟元からスーツの下に潜り込んだ髪が卑猥な動きを始め、さすがに舞も頬を紅潮させ、眉をしかめた。しかし自身をボウ、と赤いオーラに委ねながらなお強く唇を重ね、彼と何がしかのエネルギーのやり取りを行う。並の男女間の事であれば情熱的であろう口付けが、豹馬の変化とオーラのぶつかり合いが生む火花と相まって酷く淫靡で、背徳的に見えた。
「あ、暁さん…これは…?」
「…一応、内緒なのよ。裏の世界じゃ有名だけど」
弥生の口調に悲痛さはないが、それが感情を抑えての事であるのは明白であった。文字通り、親友が魔物に犯されている光景そのものなのだ。しかし舞自身は真剣で、厳粛で、闘いに臨んでいる気迫に満ちている。そして弥生達は、自分にできるのは応援する事だけ…。そんな感じが見受けられる。
「【使徒】を食べると、パンサーは魔物に最も近くなるの。でも肉体は【陰】で、心は【陽】…。さらに属性のバランスまで崩れて、この世界に形状を維持する事さえできなくなるの。その間はパンサーも、中の魔物も、とんでもない苦痛を味わっているらしいわ。それを少しでも和らげるには原初の力、混沌の力に最も近い生命創造のエネルギー、【元精】を大量に取り込むしかないんだけど、それはあらゆる生物にとって、一度失えば二度と取り戻せない【気】の根源。【元精】を与えてしまったら、もう二度と舞は彼を救えない。だから舞は彼から乱れた気を吸い取って、【陽気】に変換して彼に送り返すのよ。でも魔物の身体のままではチャクラのコントロールができないから、舞ほどの力があっても一分未満で衰弱死させてしまう。だから――」
弥生が言葉を切った時、豹馬に新たな変化が生じる。彼の背に、まず蝙蝠に似た翼が広がり、次いで金髪の美女が彼を抱くような形で分離したのである。舞を陵辱する髪の毛の主は、その美女であった。背の翼、頭部の角、そして全身から発散される淫気から察するに、彼女こそ伝説の夢魔サッキュバスか!?
「――ああやって、彼の代わりにお姉さんが舞から【気】を受け取るのよ」
「そんな…! あれ…あの人も響さんのお姉さん…!?」
我が身を抱き締め、絶句するしかない葵。弥生の話に度々登場した豹馬の姉、彼を至上のフェミニストにした張本人がもう一人、そんな形でそこにいるとは!? そして豹馬を助ける為と弥生は言ったが、それが自ら彼の姉…魔物の蹂躙に身を任せる事に他ならないとは!?
「これが、彼が【最弱】と言われる理由よ。彼の【力】は全てが借り物。それがなければ、魂を切り刻まれている彼は立つ事もできない。それなのに【力】を使えば、敵に勝ったとしても、その代償は常人なら即死するほどの苦痛。――だけど、勘違いしないでね。舞は自分を犠牲にしている訳じゃないわ。口にするのは照れ臭いけど、本当に愛し合っているからこそあそこまでできるの。パメラお姉さまも同じ。彼を救う為にその身を捧げた最初の人。パンサーの影になってずっと彼を護り続けているのよ」
それは、弥生の言う通りだろう。舞のような才女が自らそのような境遇に挑んでまで豹馬を助けようとする理由などそれ以外に考えられず、確かに彼女を凌辱する形となっているサッキュバスも、舞に優しい眼差しを注ぎながら、その頭を愛しげに撫で摩っている。だが――果たして自分が彼女…彼女たちの立場であったら、そこまでできるだろうか? 鬼道衆との決戦の折に文字通り命を賭けた葵であったが、その彼女をしてこの境遇に戦慄し、それに耐える舞の強さには圧倒された。
それに絶句したのは、葵や小蒔ばかりではなかった。
(そんなのアリかよ…! そりゃあ解っちゃいたけどよ…キボーの欠片くらい持っていたかったのによォ…!)
舞が何をするのかこっそりと見ていた京一は、グッサリと何かが突き刺さったように痛む胸の内でがっくりと肩を落とす。
「…それが、ザ・パンサー生存の秘密か…」
余命幾ばくもないと【常に】噂されるザ・パンサーの伝説。それを覆し続けているのがこの如月舞なのだと、龍麻は悟った。舞が施しているのは仙道の一つである房中術の大周天法…エネルギー変換術だ。崩壊した陰陽のバランスを取り戻させる為に、彼女は豹馬の妖気を吸って己の生気と変え、魔物として豹馬と融合しているパメラの凌辱に身を任せ、己の生気を分け与えているのだ。これも世界を賭けた戦いであった。美男美女のキスが、実は地上最強の妖魔ハンターを生かすか殺すか、二つに一つの綱渡り(…。
「でも、あまり深刻に考えないでね。彼も言ってたでしょ? 【使徒】である事を忌避していないし、諦めてもいないって。他人から見れば絶望的な状況に見えるけど、割と本人たちは――」
急に口調が柔らかくなった弥生の言葉が終わらぬ内に、舞が「ひゃん」と変な声を上げた。
「――あ、あのっ。もう豹馬君は大丈夫ですよ…。んんっ」
豹馬が子供の姿で静かな寝息を立て始めたのだが、うねる金髪が舞を離そうとしない。それどころかサッキュバス…豹馬の姉が無邪気な笑みを見せ、舞に両手を差し伸べて彼女を豊かな胸に抱き締めたのである。
『良いじゃない。今日は特別たっぷり栄養採ったんだし、舞ちゃんももう少し抜いておかないと精力有り余っちゃって大変よぉ』
「い、いえっ、ですからそういう事は後でゆっくり…ひゃん!」
『もう〜っ、後でゆっくりだなんて、舞ちゃんたらホント可愛いんだからっ。食べちゃいたいくらいっ』
「ひゃあぁぁん!」
重厚な雰囲気が一転、何やらピンク色の空気が漂い始めた事に唖然とする一同。弥生が困ったように苦笑して、舞たちの傍らに歩み寄る。
「パメラ姉さま。その位で勘弁してやってくださいな。あたしら旅行中で、早く宿に帰らないと怒られちゃうんですよ」
『ええ〜っ。――残念ねえ。せっかく久しぶりにここまで顕現したのにぃ』
「そうかも知れませんけど、よその子もいるんですからここは我慢してくださいな」
『あら。確かにおいしそうな男の子が三人も』
サッキュバス〜パメラという名らしい〜の視線が背に刺さり、龍麻の肌が粟立った。恐怖ではなく、くすぐられるような感触がむず痒い。――レイバーはクールビューティーという言葉が相応しい美女であったが、こちらのパメラは少し垂れ目がちの美貌も豊満そのものの身体もお色気満点、失礼ながら淫乱な感じである。
「手ェ出しちゃダメですよ。あの子達、あたしらとは違うんですから」
『そうなの? それにしては随分強そうな子達だコト。特にあのコートの子なんて、パンサーより強そうじゃない?』
「――ッ!?」
はっとしたように龍麻を見る彩雲学園の一行。そして弥生が止める間もなく、パメラはするりと龍麻に歩み寄った。
『ふうん。キミがさっき、パンサーを目覚めさせてくれたのね。――ありがとう。あなたの言葉がなかったら、あの子は完全に未来に取り込まれちゃう所だったわ』
「はっ、恐縮であります」
『ウフフ。そんなに固くならないで。パンサーの友達なら私にとっても友達よ。――ほら、手を出してみて』
唐突に、手のひらを差し出すパメラ。勘は危険なしを告げているので、龍麻は彼女と手のひらを合わせた。【魔物】と呼称される姿はしていても、その手は温かかった。
『…やっぱりね。キミの【気】はとても熱いけど、私たちにも苦痛じゃない。パンサーのはもう取られてしまったけど、君はそれを失くしちゃ駄目よ。キミの【力】は人にも魔物にも、世界にとっても大切なものなのだから』
「どういう事でしょうか?」
『ん〜、意味ありげな事言ってごめんね。あの天狗も言ってたけど、私の口からそれは言えないわ。でも、大事な事はキミ自身が決められるって事は覚えておいてね。キミは、キミ自身が思い描く最良の未来の為に自由に選択できるの。時には大変な責任を背負う事にもなるだろうけど、キミなら大丈夫そうね。パンサーよりずっと大人っぽいし、友達も多いみたいだし』
ニコリ、と笑いかけられて京一は真っ赤になった顔をデレッと崩れさせ、醍醐はビクッと身を震わせて【気をつけ】をしてしまった。【大人の女性】の流し目の前には、彼らはごく普通の青少年でしかなかった。
『あらやだ。ホント、かわいいわあ〜。ちょっとだけ味見くらいなら…』
「だ〜か〜ら〜、駄目ですってば!」
『んもう、弥生ちゃんってば固いんだから。固くていいのは殿方の…』
「ストップストップ! そういう事を平気で言っちゃうパメラ姉さまが柔らか過ぎるんですっ。――って言うか、ジョニー兄様もとぼけてないで何とかしてくださいよっ」
兄様…!? 弥生の言葉に首を傾げる間もなく、豹馬の背から、一頭の犬が分離した。顔のない犬――無貌の猟犬、ティンダロス・ハウンド。先程の戦いの最中、龍麻に豹馬の銃を預けた一頭であった。
『とぼけてるつもりはないんだがな。――戻るぞパメラ。パンサーの友達に迷惑かけるな』
『なによお、迷惑だなんて。可愛い男の子を男にしてあげるだけじゃない』
『それがいかんと言ってるんだ。さっさと戻れ。彼らには休息が必要だ』
『んもう、残念ねえ。――ま、いいわ。それじゃ皆、パンサーのコト、よろしくね』
パチッと色っぽいウインクを一つ残し、豹馬に覆い被さるように身を屈めるパメラ。と、見る間に、豊満な女体は豹馬に吸い込まれるように融合して消え去った。ティンダロス・ハウンドも消え去る前に龍麻を振り返り、多分、笑ったのだろう。口元を軽く歪めてから、豹馬に溶け込んでいった。
「…個性的な姉上方だな」
「ええ。とっても素敵な方々です」
ふう、と息を吐き、身を起こそうとした舞であったが果たせず、弥生に支えてもらう。その明らかに欲情し、上気した顔と潤んだ眼に、特に京一はドキリとした上に全身が無性に熱くなったが、弥生に「めっ!」と睨み付けられて一歩下がった。
「パメラ姉さまったら相変わらずね。――お疲れ様。少し休んで行く?」
「――いいえ、大丈夫。早く宿に帰りましょう」
聞きたい事は山ほどあったが、それ以上は誰一人口を開くことができぬまま、月明かりに照らされた新しき生命の園を後にする一同であった。
「――こんな時間まで、一体どこをほっつき歩いていたのかしらッ!?」
ある意味人類の存亡に関わっていたかも知れない激戦を繰り広げてきた十一名を待ち構えていたのは、金髪碧眼、おまけにグラマーな鬼女であった。
消灯時間まで残り五分。とりあえず間に合ったのだが、先程の戦闘時に起こった地震のせいで、生徒達に非常点呼がかかっていたのであった。そしてこの十一名が行方不明だったため、両学園側は上へ下への大騒ぎになっていたのである。
「い、いや、だからセンセー…醍醐の奴が生徒手帳を落としたって言うから探しに行って…」
「ウソおっしゃい!」
京一の苦しい言い訳をばっさりと切り捨てるマリア。初日から立て続けに問題行動を起こされ、やっと一日目が終わろうかというところでまたしてもエスケープである。これではマリアならずとも怒るだろう。
「まったく…どれだけワタシが心配したか…」
激昂した顔から一転、よよと泣き伏すマリア。本心半分演技半分であろうが、龍麻はともかく、京一と醍醐はそれなりに胸に迫るものがあったようだ。
「センセー、違うんだ! 実は俺が木刀を落として…!」
「Shut Up! 言い訳しても駄目です! ここでじっくり反省してもらいますからねッ! 三人とも、朝まで正座です!」
「こ、ここでですかッ!?」
一瞬にして鬼女に戻ったマリアに、醍醐がうろたえる。ちなみにここはホテルのロビーだ。そして周囲には真神の生徒のみならず、彩雲学園の生徒たちもちらほらいる。こんなところで怒られているだけでも恥晒しなのに、さらには朝まで正座とは…はっきり言って晒し者である。まあ、基本的に罰とはそのようなものなのだが…。
しかし当の龍麻は…
「Sir! Yes Sir!! 緋勇龍麻、蓬莱寺京一、醍醐雄矢三名は罰則規定に基づき、現地点において朝まで正座いたします! 以上!」
周囲の忍び笑いなどものともせず直立不動で敬礼するのであった。龍麻の事を知っている真神の生徒たちは「ああ、またやってる」と気にもしなかったが、彩雲学園の生徒は何事かと目を丸くし、これにはマリアの方が居たたまれなくなったか、「朝までかどうかはあなた達の態度によります!」と若干の訂正をした。
そこに、騒動があれば必ずやって来る女生徒が、彩雲学園の制服を着た少女と共に現れた。肩で切り揃えた黒髪のストレート。ちょっと吊り目の可愛らしい少女だが、アン子と同じ【好奇心の固まり】と【守銭奴】のオーラを放っている。彼女が彩雲学園の情報通、【ハルちゃん】だろう。
「あ〜らあらあら、三人とも、どうしたのかしらぁ? 正座なんかさせられて」
思い切り白々しい台詞と共に、カメラのシャッターを切るアン子。
「テメェ、アン子! 何で小蒔と美里が無罪放免で、俺たちだけ正座なんだよッ!? それに! アイツらは何で最初から不問なんだよッ!?」
そう…エスケープに関して怒られたのは実に十一名中三名、龍麻と京一と醍醐だけなのである。
「ハルちゃん、コイツがアホの蓬莱寺京一よ。で、こっちの大きいのが醍醐君で、このハンサムが真神の少尉殿こと緋勇龍麻! ――で、京一、アンタ、そんなコト言える立場な訳?」
グッ…と詰まる京一。厳密にはばれていないものの、超言いがかり的切り札をアン子は手放そうとしていない。少なくとも、今は下手に逆らうべきではない。
「だってねェ、美里ちゃんと桜井ちゃんが介助したおばあさんの忘れ物を届けに行ったことは知っているけど、あんた達の事まではねェ」
「弥生ちゃんたちは響君が迷子になったから探しに行っただけだしね。でもさあ…」
何か言いかけた晴美の言を遮るアン子。口元には邪悪な笑いが浮かんでいる。
「いーのいーの。こいつらの場合、こういう風になってた方が面白いのよ」
すると、アン子の言葉を肯定するかのように京一が馬鹿な発言をする。
「そ、そうか。あのばあさんの所に行くか、醍醐が迷子になった方が良かったか…」
「蓬・莱・寺クンッ! ――遠野サンも、早く部屋に戻りなさい。美里サンも桜井サンも、そちらのあなたも」
ハーイッ、と口を揃える新聞部部長が二人。そして葵も小蒔も少し躊躇ったものの、【ゴメン!】と手を合わせて部屋に戻って行ってしまった。
「…これが日頃の行いの差というものか」
しみじみごちる醍醐。龍麻は既に瞑目しており、周囲の声は無視である。
しかし、この男だけは黙っていなかった。
「チクショーッ! こんなんアリかよぉ〜ッ! こっそり抜け出して京都のオネーチャンたちをナンパしまくる俺の大計画がァ――ッ! 半年も前から計画してたのにィィッッ!!」
もはや処置なしである。醍醐も龍麻を見習い、【忍】の一文字と共に目を閉じた。
しかし、京一だけは黙らない。
「クソ――ッ! 誰か俺と代わってくれェ――ッ! 伯爵様ァ――ッ!! もんちゃ――ん!! ピセルちゃ――んッ!!」
「ほぉぉぉぉぉうるぁぁぁぁぁいじ(巻き舌)クンッッッ!! !」
消灯二二〇〇時をもって人気の絶えたロビーに、発情期の猫のような京一の遠吠えと、龍麻たちをしてピサの斜塔せしめるマリアの怒声は、この後一時間近く続いていたという。
「…うむ。実に楽しいものだな、修学旅行とは」
「いや…多分、思い切り普通じゃないぞ…」
正座させられていながら、珍しく笑みを浮かべている龍麻には、醍醐のツッコミも通用しなかった。
第壱拾四話 京洛奇譚 完
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