第壱拾四話 京洛奇譚 ５
身体を捻じ切る浮遊感覚の後、豹馬の身体は盤石にあらぬ、無限の広がりを持つドブ泥の海に叩き落された。跳ね起き、膝まで泥に浸かりながら遥か上空を見渡せば、そこには銀河とも見まごう色彩の渦…としか表現できぬものが宇宙的スケールで広がり、一際大きな赤い月が周囲を淡く照らしていた。
「…貴様！」
初めて生々しい怒りの形相で、豹馬が牙を剥く。
「ちょっと、何よここは？ 酷い…血の臭い！？」
「どうなってやがんだ？ ここはどこだ？」
異常な空間でも明るく響く弥生の声に、軽薄ではあってもこんな時にはむしろ安心できる京一の声が被る。透明な妖魔は豹馬のみならず、彼の仲間と真神の一同、隆ややくざ達…あの場に居合わせた全ての者をもこの未知の空間に引きずり込んだのであった。
『――全ては混沌の渦より生まれ、誰もがそこに還る。我らが生まれ、我らが生き、我らが戦い、我らが果てる終焉の地…。――懐かしかろう？ 恐ろしかろう？ 嬉しかろう？ 貴様の揺り篭はここにある。貴様の墓穴はここにある。貴様の全てはここにある。貴様はここに、生まれ故郷に還ってきたのだよ、【ザ・パンサー】』
「……」
不意に叩き付けられてきた風に、龍麻たちが顔面を庇う。何が彼をそこまで激怒させたのか、豹馬の全身が真紅の炎…先ほどよりも猛々しいオーラに包まれていた。【仲間】の存在さえも忘れたかのような殺気の発露は、彼の長髪やコートを揺らし、足元の泥に蒸気を噴き上げさせた。
「豹馬！」
友の名を呼ぶ拳士朗であったが――
「駄目！ 風見君！ みんなも離れては駄目です！」
何を悟ったものか、焦燥に駆られた舞の声が拳士朗を止める。そして龍麻も鋭い声を上げた。
「京一！ 醍醐！ マシンを中心にデルタ・フォーメーション！ 葵と小蒔は俺の後ろに！ お前達はマシンの陰に入れ！」
「ひーちゃん！？ どういう事だよッ！？」
疑問よりも先に身体が動く京一と醍醐。鋭い声に押されてやっと動く隆たちとは対照的に、妙に粘つく泥を蹴立てて配置に付いた時である。ジルが重く口を開いた。
『これは…何の真似だ。我が戦いに水を差す気か？』
声を向けたのは己の下半身…馬の胴である。どこに口があり、どこに意思の源があるのか知れず、しかし声は聞こえた。
『全ては我ら【使徒】の悲願。我らが宿敵を倒す為の――【司教】様の仰せにございます。伯爵様』
『ムウ…ッ！』
ギシッと音を立てるほどランスを握り締めるジル。それに構わず、声は続けた。
『我らには相応しき地なれど、人たる身には暗かろうな。どれ、光をくれてやろう』
「！ ――目を閉じろ！」
豹馬と龍麻が同時に叫び、しかし見える限りの空間が一気に明るくなった事で一同は目を見張った。実際には天空の赤い月が光量を増し、宵闇が黄昏時の明るさに変わった程度であったが、それでも充分過ぎた。自らの置かれている場所がどのようになっているのか知るには。
「ッッキャアァァァッッ！」
「う、うわァァァッッ！」
真っ先に悲鳴を上げたのは隆と朋子、そしてチンピラ達であった。むしろ慈悲深い事に、悲鳴を上げた直後に気絶し、その場に崩れ落ちる。しかし…ベチャッと跳ね散らかしたものは、全て鮮血と臓物であった。彼らがいるのは、見渡す限りの血と臓物…死体の海だったのである。
「なッ…んなのよ…！ これは…ッ！」
「これ…全部本物だよッ！」
さすがに頬を引き攣らせ、呻くように言う弥生に唯。それでも葵や小蒔のように吐き気を催す様子もないのは、さすがＩＦＡＦの【ストライダー】といったところか。そして、舞は…
「【黒い島】…！」
「え？」
「奢り高ぶった人類が【奴ら】に惨敗した島。【竜騎兵】が全滅した地…。よりにもよって…豹馬君をこんな所に！」
この少女がこれほどの怒りを見せようとは！？ 彼女の身体を白い燐光が彩り、背の清麿がカタカタと鳴り始める。だが、無理もあるまい。目を凝らせば、血の海の中に戦車を始めとする戦闘車両、ヘリや戦闘機、戦艦や空母に至るまで、血錆に埋もれた墓標となっている。龍麻が知り得た情報では、ここで五十万を数える兵士達が死に果てているのだ。いや、それ以前から、遥かな太古から、この地を巡る戦いが行われる度に積み重ねられてきた血と臓物の海だ。人間も、人間以外のものも、ここで苦しみ、嘆き、のた打ち回って死んで行った、恨みと憎悪の吹き溜まりだ。それを、そこを、豹馬の生まれ故郷と呼んだのだ。あの、ジル・ド・レエ伯爵は…正確には、その身に潜むものは。
「ケッ、俺達に揃って休暇とかって、やっぱり罠かよ。評議会のクソどもが…！ って事は…」
「妖魔反応を感知。数は…三千を突破、なお上昇中。位置は…周り中だ…！」
貴之の固い声を裏付けるように、血の海原がぐうっと盛り上がり、いくつもの異形の塊を生み出した。
――ゲッゲッゲッゲッゲ…！
幾千幾万…地平線が蠢いて見える、数える気にもならないほどの妖魔妖獣の群れ。それらが立てる笑い声が不協和音となって血臭渦巻く大気を震わせる。無理矢理巨大化させた原生動物か、想像の域を出ない太古の生物に、悪魔的な悪戯を加えたとしか思えぬ、生物と呼ぶ事さえ冒涜的な魔物の群れであった。【彼ら】は一つしかない、あるいは千を越えるであろう目に邪悪な歓喜…殺戮の期待と血への渇望を湛え、しかも最小のものでも身長二メートル、体重二百キロは下らず、最大は先程の大百足よりも巨大な影が見える。龍麻たちにとっては、鬼道衆との最終決戦にも勝る、真に――絶体絶命。
「――気に入らねェな」
伝法に、不遜に、笑いを含みつつ、豹馬の口からそんな言葉が洩れた。
「不粋――陳腐――下衆――。まったく、相変わらず、どうしようもないクソッタレぶりだな、【黒蝿王の息子】」
聞き覚えのある…忘れようのない名が、龍麻の歯をギリッと鳴らせる。
「【黒蠅王】…だと…！」
一度接敵したものの取り逃がし、龍麻に苦い記憶の楔を打ち込んだ者の名だ。街に獣人を放ち、静かに、深く人間社会を侵食していく魔物。龍麻にとって、鬼道衆と並び立つ、倒すべき【敵】。同時に――亡き父の親友にしてただ一度拳を交えたのみの【師匠】、不破弾正の仇。
「そして――気が利くね。ちょうど腹が減っていたところだ。でも出前ならピザかパスタの方が良かったな。寿司ならサビ抜きでね。自分で擂るから」
『ククク。相変わらずとぼけた男よ。確かにこの者たち、いずれも驚天の技を身に付けておるが、全てを差し向けたとしても、お前を殺すにはいささか役不足であることは否めん』
「…ッ！？」
豹馬の眉が寄る。――自分一人に向けられていた筈の殺気が、一斉に外れたのである。そして――
『だが、別の者ならばどうだ？』
ずわり、と膨れ上がった殺気が龍麻たちに向いた。
「ッガンボーイ！ スパイラルフィールド！ 全開！」
「〜〜〜〜ッッ！！」
貴之が叫び、ガンボーイを中心に青い球体として視認できる電磁シールドが形成された瞬間、そこに熱線、冷線、超音波、高周波、低周波、超震動、電撃、つぶて、棘、剣撃…ありとあらゆる攻撃が加えられ、龍麻たちは爆発の渦の中に飲み込まれた。
「貴様！」
吠えて飛び出そうとする豹馬であったが、彼の前にも複数の【使徒】が立ちはだかる。尻尾が九本にも枝分かれした大蛇の頭に、八本の腕で剣と盾、三本の弓矢を握る騎士が跨るように生えているという合体型【使徒】だ。
「どけ！」
一瞬で抜かれたアナコンダが吠えたが、ぐにゃりと上半身を捻った大蛇騎士は難なく弾丸を盾で受け止めた。そして放たれる無数の矢！ しかし異常な軌跡を描いたそれは豹馬を直接狙わず、彼の足元で爆発した。
「クッ！」
彼が足止めされた直後、大音響と共にガンボーイのシールドが吹き飛んだ。地響きを蹴立てて殺到する【使徒】の群れ！
「【螺旋掌】ッ！」
「【旋】――ッッ！」
「【破岩掌】ッッ！」
真神の三強の発剄が炸裂し、前列の【使徒】が消し飛ぶ。更に空気そのものが破壊槌と化す衝撃波に、宙を裂く光の円盤、五色の光弾が発せられ、後続の【使徒】を打ち砕く。
「――舐めるな！ 化物！」
一撃で十体以上の【使徒】を屠り去った【乾坤圏】を受け止め、弥生が啖呵を切った。
「頭数を揃えればパンサーに勝てるとでも思った？ あたし達がパンサーの足を引っ張ると思った？ 【ストライダー】にそんなアマちゃんは一人もいやしないわよ！」
ダン！ と踏み締めた足の下で、血泥に紛れて忍び寄ってきた蛇のような【使徒】が断末魔の苦鳴を放つ。弥生がそいつの首を踏みにじって完全に絶命させると、常人ならば信じられぬ現象〜首なしの【人間】の死体に変わった。しかし弥生の目は酷薄な光を揺るがさず、ジルに向けられる。正確には、彼の中にいるものに。
『解っておるとも、【ストライダー】。【ザ・パンサー】の仲間を侮ったりはせんよ』
その声は笑いを含んでいた。それも、とび切り凶悪な響きを。
『だが、所詮は【人間】』
「――クッ！」
【人】に戻った【仲間】の死体を蹴散らしながら、新たな【使徒】が進撃して来る。ガンボーイがグレネードをばら撒き、チェーン・ガンで掃射するが、頭を吹き飛ばされ、胴に風穴を開けられても、狂気に満ちた笑い声を上げながら突き進んで来た。死を恐れる、生物的な本能さえ持ち合わせていないのか！？
「チッ、切りがねェぜ！ ――醍醐！ 美里達を頼むぜ！」
「使い捨ての物量で押し潰す気か。単純だが、効果的ではある」
龍麻の【掌底・発剄】に京一の【地摺り青眼】！ 頭を吹き飛ばされてなお動いていた【使徒】も【気】の打撃と斬撃の前に、顆粒状に崩れ去って息絶える。【気】のダメージは思った以上に良く通るが、その反面物理攻撃が効きにくく、必然的に発剄を多用する事になる。また、接近を阻む為にはロングレンジの技を行使せねばならない。その意味するところは――
『いかに超絶の【力】を振るう【ストライダー】と言えど、殺すほどに活力を得る我らのようには行くまい。その気力はいつまで保つ？ バリヤーのエネルギーは？ 特製弾丸の残量は？ 何よりも、いつまで【ザ・パンサー】の足を引っ張らずにいられる？ そして【ザ・パンサー】！ お前は【ここ】がどういう所か知っておろう。【仲間】の危機に、お前はいつまで【人間】を気取っていられる？』
「テメエ！」
拳士郎の目が鋭さを増し、歯がギリッと鳴る。【百歩神拳】の衝撃波が【使徒】の群れを一時押し退けたが、差し渡し二十メートルはあろうかと言うエイに似た【使徒】が押し寄せ、一同に覆い被さってきた。拳士郎の凄絶なアッパーカットが【使徒】の巨体をかち上げ――龍麻の【螺旋掌】と醍醐の【破岩掌】が二つの大穴を開ける。しかしその躯を避けて地を蹴った拳士郎が、突然硬直して、倒れてきた【使徒】の残骸に跳ね飛ばされた。そこに人面蛇身の【使徒】が襲い掛かり――
「ケンちゃん！」
【乾坤圏】を放とうとした弥生であったが、彼女も突然、足をひっさらわれて転倒し、全身が血に塗れたところで硬直する。見れば血だまりに浮かぶ【使徒】の残骸が、その血や臓物で彼女に絡み付いているのであった。弥生は唯一動く左手でそいつを引き剥がそうとしたが、掴んだ分があっさりと剥がれた分、逆に倍する血の触手が弥生の首にくびれを走らせ、美貌が苦悶に歪んだ。
「弥生！ 動かないで！」
赤い薄闇を駆け抜ける白銀の妖精！ 弥生の傍らに着地した舞の背で澄んだ鞘鳴りが響くと、弥生を戒めていた血の蛇が、拳士郎に噛み付こうとしていた蛇が無数の破片と化して散った。だがそこで舞が硬直する。――血が生じさせた蛇と言うならば、彼女も血の海に没しているのだ。白銀のプロテクターがあっと言う間に血色の螺旋模様に覆い尽くされる。
『【触れ得ぬ天使】――捕らえたり！』
――ドゴッ！ ドゴォッ！ ドゴォッ！ ドゴオォンッ！
四四マグナムの咆哮が巨大な水柱〜血柱を立てて【使徒】を消し飛ばし――
「ＧＯＦ！」
真の狙いがそれであったと、子供でも判っただろう。それでも尚【仲間】を――舞を救う為に無防備を晒した豹馬に二体の大蛇騎士が襲い掛かり、その両腕を噛み千切った。アナコンダが血の海に没し、倒れ掛かる彼の胴をがっぷりと咥え込む大蛇騎士！ 背から入った牙は腹に、腹から入った牙は背に抜け、鮮血が内臓と共に吹き零れる。
『――やはり、そう動いたか、【ザ・パンサー】！』
声が勝ち誇ったように言う。
『【ここ】で死は訪れぬ。いかなる火器、いかなる術を用いようとも、【ここ】での死は全て偽り。【使徒】を殺しきる事は出来ぬ。――【人間】などに身をやつし、【人間】などに情を移す【使徒】の面汚しよ。貴様ならば必ずそう動く。動かずにはおれぬ。ランデベールならば動くまい。マクシミリアンならば動くまい。だが、貴様だけはそう動く！ 我らの勝ちだ！ 恨み骨髄に達せし貴様に、真の地獄を見せてくれるぞ、【ザ・パンサー】！』
全ては響豹馬を殺す為の罠であったという事か。ジルとの戦いと異なり、豹馬の傷は強烈な腐食毒の前に再生が追い付かない。両腕のない彼は抵抗する事もできず、大蛇騎士に腰まで飲み込まれる。
「クッ！ 豹馬！」
「畜生！ こいつら、片っ端から生き返りやがるぜ！」
龍麻の【巫炎】が炎の壁となってそそり立ち、【使徒】の進撃を阻む。その隙に拳士郎たちを助け起こす龍麻たちであったが、豹馬まで手が回らない。ぐわ、と口を開いた蛇が豹馬を胸まで咥え込み――
「真の…地獄を見せるって？ 死を憎み、死を厭い、死を恐れ、死に脅え、【そこ】から逃げ出した貴様らが、地獄を知っているのか？ クク、そいつは驚きだ」
ゴボゴボと血を吐きながら、不遜極まりない笑い声を立てる豹馬。その目が真紅の輝きを帯び、耳まで裂け上がった口が凶暴な笑いを刻む。
「あいにく俺は、地獄なんて知らないな。死が溢れていれば地獄か？ 苦痛が多ければ地獄か？ 恨みか？ 憎しみか？ 裏切りか？ 悲しみか？ 憂いか？ 絶望か？ そんなもの、どこにだって転がっているじゃないか。――兄貴が言ってたぜ。自力で戻って来られる所は地獄じゃないってさ」
遂に頭まで、牙の檻の中に捉えられる豹馬。しかし――なぜか大蛇騎士は必死の形相で彼を噛み砕こうとしていた。
「――豹馬君！」
舞が叫んだ。【使徒】の唸りをも圧する、凛とした声で。
「貴方を殺すのは、この私です」
「ッッ！？」
とんでもない舞の宣言に皆が驚くのも束の間、豹馬が大蛇騎士に飲み込まれた。凶悪な顎が噛み砕いた美貌は確かに、誰をもそっと魅了するような笑みを浮かべていた。
『――ヌオォォォォッッッ！』
突如、ジルは咆哮を上げて飛び出した。猛然と血泥を跳ね飛ばし、周囲の【使徒】さえも巻き込みながら光り輝くランスを突き出す。白い思念の槍が大蛇騎士を貫き、その胴を二つに引きちぎる。
続いて沸き起こる地鳴りと、狂気に満ちた咆哮！
「うわっ！ 何だこいつらッ！？」
「――【体持たぬ精霊の燃える盾よッ、私達に守護をッ】！」
「スパイラルフィールド！ 再展開！」
間一髪で葵の防御術が発動した一同に、更にガンボーイのバリアーが被せられる。その周囲を駆け抜け、あるいは頭上を乗り越えて、全ての【使徒】が大蛇騎士に突進し、ありとあらゆる攻撃を加え、その身をミンチへと変えた。否、ミンチとなってなお、同志討ちすら厭わず炎を吐き付け、冷気を叩き付け、雷撃を打ち付け…肉の一片たりとも残さぬ執念を込めて踏みにじる。さすがのジルも自制の一切ない【使徒】の津波を避けて宙へと飛ぶ。
「これは何だ拳士郎ッ！？ あいつに何が起こったんだよッ！？」
京一が叫ぶが、拳士朗たちは応えなかった。唇を噛み、目には悲痛な色。武器を持つ手はぶるぶると震えている。――幾度も死線を潜り抜けた者の勘。その意を悟って京一は愕然となった。
（我慢してる！？ 弥生ちゃん達までッ！？ あいつを――殺そうとするのを！？）
しかし京一自身、木刀に漲らせた【気】の放出場所を求めて戸惑う。無意識の内に、発剄の狙いを大蛇騎士…それに噛み砕かれて死んだ筈の豹馬に向けているのだ。醍醐など、今にも【白虎変】を発動させんばかりに【気】を張り詰め、葵や小蒔までも限界まで【気】を高めて。その理由は――たった一つ…！
『我が背なが凍り付く！ 我が肌が粟立つ！ なんという戦慄！ なんという恐怖だ！ 心を捨てた【使徒】どもさえも、この場にある全てのものが恐怖している！ あの男に！ あの男一人に！ 彼奴を殺さねば！ 彼奴を完全に殺さねば！ 恐ろしい事が起こると！ 取り返しの付かない事になると！ 彼奴はその身に何を潜ませている！？ 我は【何】に闘争を挑んだッ！？』
狂気に駆られるまま、もはや何を攻撃しているのかさえ理解していない【使徒】どもの足元で、酷く禍々しい血色のスパークが駆け巡り、周囲の躯――同志討ちとなった【使徒】たちの残骸が溶け崩れて得体の知れぬ蠕動を始め、ネバネバぶよぶよと奇怪に渦を描き始める。集まる程に密度を増していくそれは時に蛇のように、時に竜のようにとぐろを巻き、膨れ上がっていく。【使徒】達は吠え声とも悲鳴とも判らぬ奇声を張り上げつつ【それ】を打ち砕き、焼き潰そうとしたが、あらゆる攻撃がいくら当たろうとも、水面に映る月に石をぶつけるがごとく手応えがない。
「な…んなんだよ…こりゃあ…ッ！？」
この現象と言うか、こんな光景は見たことがある！？ かつて――江戸川区の地下で――
突如、【使徒】の群れの中心で爆発が起こった。
「キャアァァッ！」
「クウッ！」
厳密には、それは爆発ではなかった。突如としてそこに黒い太陽が出現した為に、その体積分の大気が押し退けられて爆風となったのである。そして…電磁シールドをもってしても蒸発し尽くせぬ鮮血の豪雨が降りかかる。その一瞬だけで四桁に届く【使徒】が闇色の光〜棘に貫かれて天空に掲げられていた。赤一色の世界にそそり立つ、見渡す限りの槍衾。それを生やしているのは、狂気の画家が黒と赤を多めにありとあらゆる色彩をその独立性を維持したまま混ぜ合わせ、雲ともゼリーとも知れぬ原形質状の物体に塗りたくったかのような、テニスコート十面は軽く覆い尽くすであろう【何か】であった。【それ】には明確な付属器官は見当たらぬものの、人、獣、妖魔を問わぬ目鼻口手足爪牙翼が生えては溶け、溶けては生えてを繰り返している。そして…果たして呼吸音なのか移動に伴う駆動音なのか、狂おしく吹き鳴らされている、胸の悪くなるようなフルートの音色…どこまでも恐ろしく、不気味としか言いようがないものであった。しかし…江戸川区地下で遭遇した【盲目のもの】と異なり、【それ】はおぞましさと同時にある種の懐かしささえ覚え、自らもその中に飛び込んで溶け合いたいとの願望すら催させるものであった。実際、粘塊に呑まれて分解吸収されつつある数十数百に及ぶ【使徒】たちは尽く逃れる努力をせず、むしろ異形の肉も骨も溶け崩されている最中、その状況では絶対にありえぬ途方もない安堵の光をその目に宿していた。
「豹…馬…！？ あれが…豹馬なのか…！」
さすがの龍麻も驚愕を隠せず、呻くように友の名を搾り出す。
あの春の陽気に蕩けたような優男が、このような【モノ】に成り果てるなど、一体誰が想像し得るだろうか？ 時折、ぶよぶよと波打つ粘液の中に彼の面影が浮かんでは消えるが、それだけに一層おぞましく、正に悪夢の光景であった。
「【望まれざる命の萌芽、地を這い、水を渡り、空を駆け、時を奔り、いつかは還る混沌の海】…。これが…豹馬の変異第一形態【アルティメット・ビースト】ACT１、【混沌の悪夢】ですね？ 如月さん」
「…ええ。でも…」
【仲間】である貴之にしても、【これ】を実際に目にするのは初めてなのだろう。舞は頷き、言いよどんだ言葉は拳士郎が引き継いだ。
「外道ジジイが相手となりゃ、あれだけじゃ済まねェぜ」
その言葉が終わらぬ内に、新たな変異が起こった。
「むう…ッ！」
具体的には、【立ち上がった】と言うべきだろう。差し渡し五十メートルはある粘塊の端がぐうっと持ち上がり、反対側の端が三本の【足】らしきものを形成して大地を支えたのだ。無理に人間の形を当て嵌めるなら、円錐状か逆さまの漏斗のような【頭】には顔が存在せず、【肩】に相当する部分からは全てが自在に動く触手状の【腕】が垂れ下がり、こればかりは形状も用途も明確な【爪】を振り回していた。狂おしいフルートの調べはなお盛んに吹き鳴らされ、出所の定かでない吠え声が唱和する。
「馬鹿な…！ あれではまるで、這い寄る混沌…ッ！」
龍麻の呻き声が終わらぬ内に、【それ】の表面が盛り上がった。そこから真っ黒な袋のような臓物のようなものが迫り出し、その薄皮を突き破って【そいつ】が生れ落ちた。
周り中に描写困難な異形がひしめいている中で、一際異彩を放つ異形の存在。身長は二メートル強と大幅にスケールダウンしながら、そこにいるだけで何もかもが焼け焦げ、凍り付きそうな妖気。基本形は人間のそれでありながら、眉間から伸びる二筋の長く赤い触覚と共に、豊かな金髪が業火の如く立ち昇り、胴も手足も、金属的な質感でありながらしなやかに脈打つ刺々しい皮膚に覆われ、その背には蝙蝠のそれを酷く戯画化したような翼が畳まれていた。酷く攻撃的な、禍々しい変身。そして全身に絡み付く赤い妖気のスパーク。その姿を見ているだけで全身が冷え、気力が萎えて行くのが解る。正規のものの他、額にも真っ赤に輝く第三の目、唇が耳まで裂け上がり、ぞろりと牙が覗いていても、顔だけには元の端正さの名残があるのは奇跡のようだ。ただしそれが――【使徒】の生首を咥えていなければ…！
――古来より、それは人々の記憶の中にある単語と共に刻み込まれてきた。それは言葉で、文字で、絵画で、おおよそそのような形で表されてきたのだ。
すなわち――悪魔と。
シュウゥゥ…と悪魔〜豹馬が息を吐いた。【這い寄る混沌】と呼称されるものを忠実に再現した肉の塊と槍衾が瞬時に縮小して彼の影と化し、【使徒】の躯がボトボトと降ってそこかしこで血柱を上げた。
『シャ…ギイィィィッッ！！』
槍衾の餌食とならなかった【使徒】が、再び狂気の咆哮を上げて襲い掛かる。いくつかの咆哮は「よせ！」という意味もあったかも知れない。
先手を打ったのは、敏捷性に優れる二足歩行型の中型恐竜に似た【使徒】であった。変生した炎角と似て、しかし片側三本、計六本の腕は極太の鞭と化し、その先端は二メートル以上の刃である。まとめて振り下ろされた刃の先端は音速に達した。
「ッッ！」
いきなり予想外ッ！？ 豹馬は受けようともかわそうともせず、その刃を全身に受けた。顔面と心臓が貫かれ、鮮血が吹き零れる。【使徒】は口を限界まで開き、豹馬の顔面を噛み砕こうとし――
グシュン！
そいつには、自分の身に何が起こったのか理解できなかっただろう。龍麻ですらそうだった。噛み付きに行ったスピードのままそいつの身体は豹馬を通り抜け、上顎から上の頭部と肘、肩の棘、足の一部だけが彼の後方に撒き散らされたのである。【使徒】の爪が豹馬を貫いたにあらず、豹馬こそが【使徒】を貫いたのだ。変異第一形態にもあった吸収同化能力を発揮…率直に言うならば、その肉体そのもので【使徒】を丸齧りしたのであった。
――触れるのは危険…否、触れただけで喰われる！
『シャ…ヒィィィィィ…！』
新たに上がる、恐怖を含んだ咆哮。その口元を飾っていた【使徒】の首が噛み千切られて落ち、豹馬の背の翼が空気を打ち鳴らして広がった。
「ッッ！」
翼持つ身でありながら、地を蹴る姿は正しく人型の豹か！ 三十を越える【使徒】が何をされたとも判らぬ内に輪切りになって吹っ飛び、一際巨大…超巨大な全身を装甲で鎧った雷竜のごとき【使徒】がその巨体で迎え撃とうとしたが、一瞬で死角〜頭部の裏側に回り込まれ――拳か？ 肘か？ 蹴りか？ ――全部違った。大の大人三人がかりでやっと抱えられるような【使徒】の首筋に喰らい付き、豹馬は全身を捻って首を振った。体重二百トンは下らぬ【使徒】が地面から引き剥がされて宙を舞い、仲間を叩き潰す破壊槌として振り回され、首が食いちぎられて吹っ飛ぶまでに三桁に届く【使徒】が撲殺された。なお無数に残る【使徒】どもは、怯みつつも接敵せぬよう熱線、冷線、超音波などの遠隔攻撃を豹馬に向けて放ったが、彼が片手を一振りするや、ジルを遥かに凌駕する思念障壁が展開され、全ての攻撃を跳ね除けた。そして翼を広げ――
『ムウッ！』
羽ばたくと言うより、ロケットのごとき飛翔！ あっという間に地上数百メートルの高みに至り、宙に逃れていた【使徒】どもの度肝を抜く。そして――翼を大きく広げた彼の触覚が激しく震え、その間に赤い電光が走った。
『――ギャァァァァァッッ！！』
【使徒】どもが身を翻す間もなく、轟く雷鳴！ 豹馬を中心に真紅の稲妻が暗天を埋め尽くすほどに奔った。その恐るべき威力！ 翼ある【使徒】はその多くが強大過ぎる【闇】の稲妻を防御も中和もできず、焼け焦げた躯となって地上に落下する。思念障壁が間に合ったものも決して少なくはなかったが、反撃どころではなかった。更に豹馬が片手を天に掲げ、その手の中に星雲状の輝きを発したのである。それは――
「あの技はッ！？ ――貴之君！ 空気を遮断して！」
「了解！ ――シールド切り替え！ 【クリスタル・キャッスル】！」
ガンボーイの電磁バリアーが、光と共に実体化した透明な物理シールドに切り替わる。【使徒】の唸りも戦闘騒音も絶え、多面カットされた水晶の中にいるような美しさ。しかしその物理障壁の外側では、音が聞こえない事こそ幸いな酸鼻極る光景が展開した。豹馬の作り出した星雲状の輝きが周囲に飛び散り、それらの輝き一つ一つが宇宙と繋がるワームホールと化して猛烈な勢いで空気を吸い込んだのであった。空中は勿論、地表にさえも、猛烈な気圧変化のもたらした竜巻〜真空把の嵐が荒れ狂い、風の刃に触れた【使徒】は輪切りを通り越して木っ端微塵に切り刻まれ、気圧の谷間に落ちたものは身体中の穴という穴から血と脳漿と内臓を引きずり出され、あるいはバレーボール大にまで押し縮められて圧死した。彼が翼を広げて優雅に舞い降りて来た時には、あれほどひしめき合っていた筈の【使徒】が、その大半…実に九割強が無残な躯に成り果てていた。
「初めて見た…。これが最強の【使徒】、【ストームライダー】の奥技【アポカリプス・サイクロン】…！ いつ習得したんですか、如月さん…？」
「…多分、先月のアラスカでの事ですね。ランディーさんが核ミサイルの放射能を宇宙へと吸い出してくれましたから」
今の光景を記録できた事を確認しながら貴之が頷き、龍麻も記憶にある事件なので驚愕に頬が引きつる。本来は生命を護り、生命を育む大気が、ランダムに形成されたワームホール…超小型ブラックホールに吸い込まれる事によって恐るべき気象兵器と化す、豹馬の兄、【嵐に乗りて歩むもの】ランデベール・ロワールの超能力。異空間であろうとも大気が存在する以上、気象兵器の威力は絶大であった。幾千幾万――最低でも変生した鬼道五人衆クラスの能力を持っていたであろう【使徒】の群れが、これほど一方的に壊滅するとは…！
「これが…【ザ・パンサー】…ッ！」
かの【ファイルＸＹＺ】の最終項目として記されていた【ザ・パンサー】の真実。【ハングマン】【虐殺者】【断罪者】【夜歩く核弾頭】【意思あるブラックホール】etc、そして…【悪魔の化身】――その言葉が、単なる忌避感から来る形容やレトリックな罵詈雑言ではない事を戦慄と共に知った龍麻であった。しかし――
「凄ェ！ マジもんの【デビルマン】じゃねェか！」
京一が興奮した声を上げて手を打ち鳴らす。龍麻にとっても意外な事に、京一の声に恐怖はなく、むしろ純粋な感嘆と喜びの響きがあった。京一の眼は、憧れのヒーローに出会った子供のように輝いていた。
「あ、ああ。正にそんな感じだな」
「ウン…。凄いね、響クンって」
「え、ええ。ちょっとびっくりしたけど」
この場に京一がいた事を感謝すべきだな、と龍麻は思った。彼以外の者は、自分も含めて響豹馬の【変身】に恐怖を覚えたのだ。しかし京一の言葉一つで【仲間】に抱いた恐怖が一瞬で払拭されたのである。
「――ありがとよ。本当はもっとビビるかと思ったんだけどな」
「いや、ビビッたぜ。でも変身したって中身はあいつ――お前のダチなんだろ？」
だから、恐れる理由などない――京一の言葉に、拳士朗たちにも安堵が広がる。たとえこのような【変身】をせずとも、【人】は異質な【力】を恐れるものなのだ。恐らく彼らも妖魔と戦える力を有するが故に、嫉妬や猜疑、敵意を向けられ続けているのであろう。それをあっさり無視して「ダチ」の一言で受け入れてしまえるのは、龍麻でさえいまだ及ばぬと感じる京一の強さだ。
しかし、敵対しているものは――
『これほどの…これほどの力とは！ フフフ、この震えは武者震いか？ それとも脅えておるのか？ この、ジル・ド・レエが！』
間一髪でランスに溜めた思念を爆発させて真空の嵐を防いだジルであったが、さすがに表情が硬い。闘志はいささかも揺るがず、全身にますます気迫が満ちるが、持ってはならない疑念が湧き起こるのを止められないのだ。曰く――勝てるのか？ こんな――【化け物】に！？
吸い込む息で肺が血色に染まりそうな血臭渦巻く大地に、豹馬が血を跳ね散らかして着地する。【使徒】は多少残っているが、やはり【好敵手】を前に、歓喜するように牙を剥いた。
『いや、言うまい。我が望むは強者！ 闘争の喜びなくしてなんの【使徒】か！ 全身全霊、我の全てをもって貴様を屠るまで！』
全身を闘気の炎で包み、ランスを構えるジル。噛み合った視線と殺気が空中で火花を散らし、豹馬の口元が更に凶悪な笑いに歪む。シュウ…と吐いた呼気にさえ、赤い妖気の残滓が光っていた。もはや人としての正気を保っているかさえ定かではないが、闘争に歓喜する気高き野獣そのものであった。
しかし、一歩を踏み出したジルの全身に異変が起こった。
『ヌグウッ！ 何…だ！ これはッ！？』
ジルの鎧がひび割れ、露出したたくましい肩がぶよぶよと波打ち、奇怪な人面が浮き上がってきたのだ。それはジルの首を右側に押し退け、更に左側にもう一つ、古臭い中世風の髪型と狡そうな細い眼が特徴的な中年の男の首を従えていた。何とおぞましい、三頭のケンタウロス。
『――久しいのう、【ザ・パンサー】。元気そうで何よりじゃ』
「――奴は！」
龍麻の頬が跳ねるのを他所に、右側の老人が、顔にぽっかりと空いた虚ろな穴から挨拶の言葉を発する。それだけで空気が腐るかと思うほど邪悪な響き。しわの中に埋没した目が血の輝きを放って豹馬をねめつける。――地獄眼。
『堪能させてもらったぞ。アルティメット・ビースト・ACT�機撻�オティック・ナイトメア】にACT�掘撻妊�アボロス】…。その禍々しき姿…実に美しい』
老人の顔…【黒蠅王】はおかしくてたまらないと言うように声を上げて笑い、対する豹馬は怒りの形相も露わに、黄金の鬣を炎のごとく揺らめかせた。
『これでは殺せぬ。殺せる道理が存在せぬ。その引き裂かれた魂魄が彼奴ら旧支配者どもの手元に一つづつ…貴様に死が訪れる度に、残る魂魄を己のものとせんが為に彼奴ら同士が争い、貴様自身の死を阻止するのか。全属性をその身に宿すが故に全属性にとって不倶戴天の敵、全属性にとって裏切り者。その不死身性も、彼奴らの気まぐれゆえ。なるほど確かに貴様は地球上最弱の【使徒】よ。全てを持ち合わせているように見えて、己自身の力など何一つ持っておらぬか。くくく…聞けば最初の力は、姉を喰らって得たものだそうじゃな』
「……！」
『なんと業深きことよ。――いやいや、恥じる事ではないぞ。あのまま【使徒】どもの慰み者のまま生き続けるよりは、愛する弟に喰われる方が遥かにマシであったろうよ』
賞賛とも悪罵とも、もはや意味を汲み取る必要のない邪悪の滴る声音に、豹馬の目が燦！ と輝く。ジルに向けた戦いの歓喜や愉悦は尽く消え去り、計り知れない怒りと恨み、憎しみが燃えているかのようだ。そして――カッと口を開いた。
血海を真っ二つに裂いて奔る衝撃波！ 一同には何も見えず、聞こえず、しかし醍醐だけがウオッと叫んで両耳を押さえた。【白虎】たる彼の耳が捉えたのは、常人の可聴域を大きく逸脱した超高周波であった。それは血潮を蒸気に変え、【使徒】や近代兵器の残骸、地面そのものも顆粒状に分解して伯爵を直撃し――
それが、指一本すら動かさずに防がれるとは！？
『――ぬるいのう』
【黒蝿王】の口元がきゅーっと吊り上り、パカリ、と開いた口から七色の泡がプカリプカリと吐き出された。自ら七色の光を放ちながら宙を漂うシャボン玉――この奇怪な老人をして、ただのシャボン玉である筈がない。豹馬は迷わず二歩飛び退き――
「――ッッ！」
豹馬自身の移動に伴う乱気流に乗って加速するシャボン玉。――と見えた瞬間、何もない空間にまったく同じシャボン玉が現れ、豹馬の背後で弾けた。そして彼が七色の飛沫を払いのけた瞬間――
「――グウッ！」
それはいかなる物理現象なのか！？ 七色の飛沫は豹馬の腕で弾かれるどころか、逆に豹馬の腕が花開くように皮がめくれ上がり筋繊維が跳ね上がり神経組織が踊り…剥き出しになった骨さえもがチーズのように裂けて髄液を撒き散らした。豹馬の腕は飛沫の水滴の数だけ【裏返し】にされ、更に灰褐色の粘液となって飛び散ったのである。
何が起こったのか理解する間もなく、続くシャボン玉の群れ！ 豹馬の触覚が赤い燐光を放ち、先程四桁に達する【使徒】を撃滅した雷撃を放った。しかし実体なき純粋なエネルギーである雷撃がシャボン玉に触れるや否や、これも虚空へと消え去る。反射でも吸収でも対消滅でもなく、ただ消え去ったのである。
更に、豹馬が翼を広げる。
龍麻ら一同にはそよ風の一撫ですらもなく、しかし【黒蝿王】を秒速二百メートルもの豪風が襲う。水がそうであるように、空気もまた膨大な圧力や加速を加える事で途轍もない破壊エネルギーを生む。剛体と化した大気の直撃を受け、【黒蝿王】は――
『ホッホッホ。心地良いぞ、坊主』
「ッッ！」
風は確かに【黒蝿王】に叩き付けられ、その翼を激しく揺らめかせているが、膨大な風圧も真空把も彼に切り傷一つ付ける事もできず、空しく吹き過ぎるだけであった。――あのシャボン玉だ。【それ】に触れた瞬間、風も消滅しているのだ。そして狂風の中、シャボン玉がぷかりぷかりと突き進んでくる！ そして――
「――グハァッッ！」
眼前までのんびりと進んでおきながら、またしても唐突に背後に出現して弾けるシャボン玉！ 今度は思念障壁を展開し、しかしあらゆる物理攻撃を跳ね除ける障壁があっさりと突き抜けられ、豹馬の両腕と片翼が裏返り、腹に開いた大穴から内臓が吹き零れる。一気に百メートルは飛び退ったものの、蒙ったダメージの甚大さに豹馬は血の海を激しく二転三転した。
「思念障壁まで無効化したッ！？ あんなのデータにないよ！」
「当たり前だろッ！ あの外道ジジイがテメエで戦うなんざ聞いた事ねェ！」
いかに単純なエネルギーのぶつけ合いであるとは言え、数千の【使徒】を一方的に壊滅させた豹馬に指一本さえ触れさせず、逆に痛烈なダメージを与えて地を這わせる…。拳士郎たちは無論、龍麻にさえそれは信じ難い光景であった。――ただ一人を除いては。
「いいえ。あのような現象を起こせる妖魔が一種だけいます。――あの人の差し金ですね、【黒蝿王】？」
『――ッッ！』
舞の言う【あの人】とはどのような存在なのか、この連中をして驚愕と戦慄が走り抜けた。あの拳士郎が怒りの形相も露わに髪を逆立て、あの気丈な弥生が我が身を抱き締めるように自らの腕をぎゅっと掴む。
『さすがは【ザ・パンサー】の相棒、【触れ得ぬ天使】よ。良くぞ見抜いたと褒めてやるが、ならば、どうする？ アーミテッジは既に亡く、ウィルバーを滅ぼした呪文も失われた今、こやつを封じる手立てはないぞ』
その言葉にピンと来たか、貴之が唸るように言った。
「そうか。【ダンウィッチの怪】…！」
その言葉を合図としたか、【黒蝿王】の頭上に黒い雲…空間そのものに生じた傷口から輝く球体の塊が零れ落ちてくる。目も鼻も口も手足も…能動的自立行動に必要な器官は一切持たぬ、生物と呼ぶにはあまりにも冒涜的な存在。球体の集合体に見える事さえ、狂気に犯されぬよう網膜に映ったものを心理的なフィルターを透した結果なのかも知れなかった。
だが、そんなものがかつてこの世に呼び出された事があると誰が知ろう。時は一九二〇年代、場所はアメリカ、マサチューセッツ州ダンウィッチ村。時の政府による徹底的な情報操作で架空の村とされた地において、そいつはあろう事か人間の女性と交わり、その魔性を双子の兄弟に受け継がせたのである。その魔性を強く受け継ぎ、次元の扉を開こうとしたウェイトリィ兄弟の野望を、勇敢にして聡明な大学教授がその命を賭して防いだのだ。
その妖魔の名は人類の声帯では発音できず、かろうじてこう呼称される。【全てにして一つのもの】ヨグ・ソトース。
「絶対的確立で本体の筈はないけど、あの球体一つ一つが【ヤツ】であって、時空連続体の時間断層だ。どんな物質もエネルギーも、触れただけで過去か未来に吹き飛ばされるよ！」
「ンな無茶な！ そんな奴をどう倒す…どう追い返すんだ！？」
「どうもこうも…アーミテッジ教授の使った呪文ですら不完全なものだったんだ。今の僕たちには不可能…ッッ！？」
さすがに焦りを含んだ拳士郎たちの声を、ガシュウゥゥ…と野太い吐息が遮った。豹馬が身を起こし、牙を剥いたのである。両腕も翼も失っていながら、しかしその口元がみるみる凶暴な笑いを刻んだ。不可能ではない――そう言わんばかりに。
「――ッッ！？ 豹馬君ッ！？」
ビシャリ！ と血飛沫を上げて豹馬が両膝を地に付き、触角を震わせながら天に向かって咆哮した。その三つ目が真っ赤に輝き、全身の筋肉が激しく痙攣を起こす。黄金の髪は激しく蠢き、長く地に這い、そして――
「ひっ――！」
葵が口元を押さえ、小蒔が息を呑む。
――ピシャッ…ビチャッ…ジュルルッ！
これがあの、アン子言うところの【彩雲学園一の美男子】の成れの果てか！？ 豹馬は何と、膝まで埋まる血泥の海に顔を突っ伏し、血を啜り始めたのであった。そして…更に――
「な、何だこれは…ッ！？」
ズズズ、と不快な地鳴りと共に見渡す限りの血の海が沸き立ち、ゴオゴオと唸りながら渦を巻き始める。同時に、【使徒】の躯も粉々に崩れ果て、これも大気に渦を描いた。生き物のごとく駆ける血の激流の行く手に、誰がいるかは言うまでもない。口からのみならず、髪の毛で、地に付いた両足で、尻尾で、引き裂かれた翼でさえも血を舐め、飲み込み、吸い込んでいく。
「血を呑んで…いや、【使徒】を喰っているのか…！」
「…喰うために戦って殺す。殺したら喰う――【使徒】の行動原理さ。皮肉な事に、【使徒】の方がよっぽど、殺した相手の命を粗末にしねえ。【あいつら】はそうやって、相手の命も能力も自分のものにするのさ。だがよ…」
「相手が相手だからって、こんなに食べて正気でいられるの、舞？ ――舞！」
「……」
もはやそれを【食事】などと称する事などできまい。体積にして数億、数十億立方メートルに達するであろう【使徒】のなれの果てと、大地を埋め尽くす血の海ですらも全身の細胞そのもので啜り上げ、吸収し、その全てを己の力として異次元的に還元していく。恐らくジルは止めようとしたのだろうが、【黒蝿王】に肉体の支配権を奪われているのか、その場を動けなかった。僅かな躊躇の間にも、破壊された腕や腹の再生はもちろん、その全身がますます巨大に、凶悪に、攻撃的に変化し、もはや彼自身でも押さえ切れない妖気がスパークとなって彼の全身を駆け巡る。黒い身体のあちこちに浮き出た獣の顎がガチガチと牙を鳴らし、肩からは新たな腕が四本も生えて六本腕となり、蝙蝠状の翼とは別に黄金色の羽毛を持つ翼が大きく伸びていく。そこから長く伸びた尾羽は孔雀のそれに酷似し、しかし酷く威嚇的な紋様を描いていた。
「【ディアボロス】からの変異…いや、追加形態か…！ ――【ガンボーイ】、今までの記録を媒体移行後に全削除。これ以後非圧縮で記録開始」
ゆらり、と豹馬が立ち上がった。
京一が【デビルマン】と称した時よりも更に凶悪且つ攻撃的な妖気に、拳士郎でさえ顔面を庇う。僅か数分で、彼は滅ぼした【使徒】の生命を全て吸収し、遂に消滅させてしまったのである。禍々しくも神々しい悪魔という表現が許されるならば、今の彼が正にそれであった。
つい、と豹馬が【黒蠅王】と輝く球体を見た。
口元を彩る血を舐め上げる、その表情の恐ろしさ。これほど凄まじい【食事】を摂りながら、彼には飽食した様子がなかった。だからこそ、【黒蠅王】を見た。前菜は終わった。次はメインディッシュだと言わんばかりに。
『ホッホッホ。まだ喰い足りないとは、なんとも凄まじい大喰らいッぷりよな。それほど飢えていながら、【使徒】どもを良くぞここまで殺し尽くすとは、さすがはナイアーラトテップと言ったところか。しかしその力、こやつに通じるかな？ 過去現在未来――全てに存在するこやつを滅ぼせるか？ たかが――【使徒】ごときが』
侮蔑の口調こそ傲岸不遜ではあるが、倍増しになった豹馬の攻撃的な妖気に耐えかねたか、さすがに緊張を孕む【黒蠅王】。
舌戦になど応じぬのか、そもそも【黒蠅王】の言葉など理解していないのか、豹馬は両腕を大きく広げ、翼を広げた。物理法則を完全に無視して天に挑み地の果てを目指すが如く広がった翼は、正に孔雀の羽か。その表面に無数に存在する紋様が、表情のない爬虫類の目と変化し、【黒蝿王】をねめつける。
「【アルゴスの目】…ッ！」
舞が呻く。それを受け、貴之が熱に浮かされたように呟く。
「ヨグ・ソトースが過去現在未来に同時存在すると言うなら、こちらは過去現在未来、次元の彼方をも見通す目。いかに強大な存在でも、細胞の一片に過ぎないならその能力も限定的な筈。――全てを見切り、全部同時に倒すつもりか…！」
ヴン！ と一万を越えるであろう【目】それぞれに赤い放電体が出現し、それを中心に空間が歪み、引き攣り、固体化するまで凝縮させた妖気の槍と化す。その一本だけでも、五〇メガトン級の核爆弾ですら線香花火の火花一つにも堕すほどのパワーを秘めていると感じて、龍麻ですら全身の皮膚が粟立った。そこにあるだけで空間――時空そのものを侵食しているそれが、相手を考えるならば最も理想的な殺害術式〜生命の根本原理形である螺旋を空中に描き出す。それが放たれた時、人間はもとより、神や悪魔の類と言えど、生き残るものがいるや否や――
しかし――
「――豹馬！ よせッ！」
何を予感したのか自分自身でも判らぬまま龍麻は叫び、その声に確かに反応した豹馬であったが、槍は放たれた後であった。驟雨の如く襲い掛かった妖気の槍は、その全てが輝く球体の集合体を貫き――それが容易く消し飛んだ事で、残りの槍が【黒蠅王】の胸板を直撃した瞬間――
「――グァッ！」
突如、真っ黒に染まる空！ 突如として豹馬の全身、翼に至るまで妖気の槍が生え、そこから迸った血飛沫が空を染めたのであった。それは確かに【黒蠅王】に刺さっていながら、同時に豹馬をも貫いていた。正確には、刺さっているように見えても【黒蠅王】は無傷で、豹馬は背中から胸板までを串刺しにされていたのである。空間歪曲――【黒蠅王】の体表面に特殊な力場を発生させ、空間そのものを豹馬の体表面と入れ替えたのだ。時空間を越えた万物組成のエネルギーを取り込み続ける事で、魔を過去現在未来を問わず押さえ込む文様が逆に描かれた時、豹馬の肉体から魔力が無際限に放出されて虚空に散華し、天を埋めるほどに広がっていた翼がボロボロと崩壊し、肉体そのものが溶け崩れ始めた。
「クッ！」
「豹馬君ッ！」
「チィィィィッッ！」
咄嗟に飛び出す龍麻。僅かに遅れて――舞と拳士郎！ 【掌底・発剄】と光の矢、そして【百歩神拳】のエネルギー波が【黒蠅王】に刺さった槍を捉え、豹馬の胸…心臓から三本の槍が抜け落ちて陣が破れ、魔力の流出が止まる。しかし――
『ヌウウッ！？』
絶対的なチャンスが来た【黒蠅王】もまた、ランスを構える。しかしジルの唸り声は、ランスが逆手に握られ、己に狙いを定めていると知った驚愕であった。対する【黒蠅王】は勝利の確信を込めた笑みを浮かべつつ呪文を一言唱え、ランスから三叉矛と化したそれを己の胸に突き刺した。
「――ああッ！」
今度は苦鳴すら上げられず、仰け反った豹馬の胸板から噴水の如く赤い鮮血が飛び散り、彼は仰向けに地面に崩れ落ちた。その身体にいかなる魔術なのか、胸板から生えたトライデントに無数の文様…十字の傷が浮かび上がり、それが彼の全身に軍隊アリの行進のごとく広がって彼の命の源、血を更に絞り出していく。キリスト教における奇跡、聖痕現象。本来は聖人に現れるそれが豹馬の全身…手や顔はおろか、眼球や触角、翼膜に至るまで覆い尽くし、そこから噴き出る血潮は彼の足元に大きく血溜まりを作り、血も魔力も流出した【使徒】としての肉体は触角が垂れ下がり、翼も萎れて地面に広がった。
「【アルゴスの目】を破ったッ！？ それにあの槍は何だッ！？ 豹馬をあんな目に遭わせるなんて、あり得ないよ！」
貴之が悲鳴のような声を上げるが、この現実はどうだ？ 聖も魔も、属性すらも超越し、いかなるダメージからも瞬時に復帰し得る豹馬が、なす術もなく倒れ伏すなど…！
しかし、そんな考察をする時間などなかった。豹馬が獣の唸り声を上げて身を起こし、全身の聖痕から鮮血をたぎり落しつつ、猛然と地を這って【黒蠅王】に突進したのである。
「豹馬君！」
舞の制止は届かず、咆哮と共に走る牙！ 狙い違わず【黒蠅王】の首筋に喰らい付き、ジルと、もう一つの首まで肉を裂き頚骨を咬み砕いた豹馬であったが、三つの首を失った肉体が急速に形を失い、血や臓物をごちゃ混ぜにしたマグマのごとき燃える流動体となって彼を呑み込んだ。
「いかん！」
龍麻はワイヤーを飛ばして豹馬の腕を捉えたが、凄まじい吸引力が彼をも粘塊に引きずり込もうとする。のみならず、その場に踏み止まった龍麻に向かって放たれる粘塊の波涛！ 龍麻にかわす術はなく――！
「【剣掌・発剄】ッ！」
「喰らえッ！」
咄嗟に飛び出した京一と拳士郎の同時攻撃！ しかし斬撃も衝撃波も、基本的に流体である粘塊を一時的に押し返したのみで、逆に地表を恐るべきスピードで覆い始めた。そして――
――ブツッ…！
「ッッ！」
最後まで見えていた豹馬の手が爪を振るい、ワイヤーを切断する。足元を襲った粘塊から間一髪で身を引いた龍麻であったが、豹馬は粘塊の海に没してしまった。粘塊が狂喜するように激しく震え、飛沫を撒き散らす。
「チイッ！」
「クッ！」
京一も拳士朗も後退せざるを得ず、身をかわした二人であったが、僅かにはねかかった粘塊の一部に京一は腕を、拳士朗は足首を噛み付かれ、神経に沁みるような痛みに苦鳴を放った。
「ケンちゃん！ 蓬莱寺君！ 大丈夫ッ！？」
「ああ。あの野郎〜ッ。豹馬を…！」
拳士朗が皆まで言う必要はなかった。再び【黒蠅王】の首が笑いを刻んだまま、もう一つの首と共に生え、粘塊の海には豹馬と同じ形状の翼が、ブレードが、触角が無数に生じては消えてを繰り返し、辺り構わず妖気のスパークを散らし始めたのである。
「まさか！ 豹馬を取り込んだッ！？」
さすがに動揺を隠せない一同を嘲笑うかのように、【黒蠅王】が口を開いた。
『ホッホッホ。我が計算に誤りなし。【ザ・パンサー】を遂に仕留めたぞ』
「――ふざけるな！ あいつはまだくたばっちゃいねェぜ！」
【黒蠅王】の勝利宣言を即座に否定する拳士朗。粘塊の震えはどう見ても苦悶の狂態であり、その表面は激しく泡立ち、蠢き、奇怪な腕や鋏、鎌などが生えたり引っ込んだりを繰り返している。仮に豹馬を【捕食】したと称するならば、彼はまだ消化されず、抵抗を続けているのだ。まだ終わっていない…筈だ。
『ホッホッホ、お前たちには到底分からぬ。わしは遥かな太古…貴様たち人類が生まれる遥か以前から奴を始末する手立てを講じてきたのだからな』
「んだとォ…ッ！？」
『【使徒】を喰らって己と同化し、限りなき増大と増殖を繰り返す地上最弱の【使徒】。その実態は【使徒】にして【使徒】にあらぬ、主なき【使徒】。力は弱く、能力は低く、常に飢え、渇き、戦う事すらままならぬながら、あらゆる属性を超越し、いかに強大な【使徒】あるいは【旧支配者】の下僕をけしかけようとも、決して殺せず、決して滅ぼせぬ不滅不死身の化物。僅かに血の一滴でも奪われようものなら、たちどころに己の虚像となり得るもの。遥かな太古の時にそのような敵の出現を予見し、産まれてもおらぬ敵を打ち滅ぼす研究と研鑚の日々は我らにしても長かったぞ。だが、同時にこの場、この時こそ、我らの宿敵となるべき存在を打ち滅ぼせる千載一遇の好機となり得るとも、偉大なるものの目は見通していたのだ。そして今！ 長き暗中模索の時が終わりを告げ、この瞬間を迎えたならばその全てが報われた。――見るが良い。彼奴はその力を全て失い、程なく混沌の海で永劫に蠢き続けるだけの、意思なき腐汁と化すであろう。いかに【旧支配者】の力が強大であれ、混沌の海に溶けた者を元通りにする事は出来まい。各々が奪い合い、元より欠けている魂ならば、尚更な』
その言葉にピンと来たのか、貴之が唸るように言った。
「長々と説明ありがとう。要するにヨグ・ソトースを囮に豹馬の力を全開放させて、人と魔と、全属性を揃えた人海戦術で押し潰したって事だろ！」
『ホッホッホ。僅かに細胞の一片に過ぎぬとは言え、ヨグ・ソトースを滅するとはさすが【ザ・パンサー】、さすが全てを見通す【アルゴスの目】よ。しかしそれは己の身をも傷付ける諸刃の剣。見え過ぎる事こそが、強大過ぎる事こそが、そして血気に逸る若さが命取りじゃ。彼奴を加護するナイアーラトテップはノーデンスの三叉矛により封じ、彼奴に潜む魔性もジルら【使徒】どもに中和させた今、残るは一魂一魄しかない彼奴の魂のみ。幾千幾万もの怨霊どもの前には塵芥も同然ぞ』
「ッッ！」
【黒蠅王】ともう一つの首を残して変異は加速し、肉塊はむしろアメーバに近い形状で地面に急速に広がり、魔物の手足や目鼻、人間や非人間の形を浮き出させては、また溶けるを繰り返す。それは確かに先ほど豹馬が見せた変異第一形態【アルティメット・ビースト】ACT�機◆撻�オティック・ナイトメア】に他ならなかった。
「やはりな。彼を倒せるものがいるとすれば、それは彼自身に他ならぬ。ジル・ド・レエ伯爵も、無数の【使徒】も、ヨグ・ソトースでさえも全て囮か」
常人は言うに及ばず、【使徒】であろうと魔物であろうと死を免れない致命傷を受けながら平然としていた豹馬。それは彼が【這い寄る混沌】ナイアーラトテップの呪いを受け、あらゆる生物の命をその属性や性質ごと己のものとしていた事に起因するのだ。【使徒】としての攻撃力が最弱であろうとも、決定的な弱点を持たぬが故の膨大な消耗戦の果てに、倒れた敵の血肉を喰らい、その能力も属性も全て取り込み、己の命、能力として使用可能としていった事で、彼は通常の【使徒】ではあり得ない属性を越えた不死身性を確立していったのだ。全てが【敵】であると同時に【味方】である彼は、果たして今までどれほどの命を喰ってきた事か。
それに対抗するべく、いかなる魔技によってかヨグ・ソトース程のものを一時的にせよ顕現させ、あろう事か囮として利用した【黒蝿王】こそ恐るべし。細胞一片とて計り知れない力を持つものを相手に、豹馬が全力を尽くさぬ筈はなく、【アルゴスの目】によって【滅ぼせる】と確信すればこその魔力の全開放であったろう。――見え過ぎる目をただヨグ・ソトースのみに集中させてしまった〜それを責める権利を持つものは旧神や旧支配者たちにすらいまい〜事が、その背後で空間を捻じ曲げていた【黒蝿王】の存在を失念させてしまったのだ。
理屈は単純であろうとも、その達成に恐ろしく困難且つ膨大な試行錯誤と犠牲を払ってきた、【黒蝿王】の作戦勝ちだ。全開放した魔力を彼自身に送り返し、そのタイミングで彼を守る【神】の守護力を封じ、残る魔性も【使徒】による数の暴力であらゆる能力、あらゆる属性を中和する事で、豹馬を本来の…人間へと堕したのだ。そして止めは、人間の怨霊による人海戦術――【黒蝿王】ら魔のものにとっても途方もない投資であり、賭けであったろう作戦だ。
『【ザ・パンサー】が混沌の海に消えた今、我らを阻む者はおらん。ピエールよ、彼奴らを片付けい。ただし、女子どもは殺すな。新たなる、真の【使徒】の母体とするからのう。特に――如月舞。今まで【ザ・パンサー】と共に我が息子を滅ぼしてきた分、役に立ってもらわねばな』
「――お断りします」
ふわりと前に進み出、舞は凛と言い放った
「豹馬君をそのような目に遭わせた事には驚いておきましょう。でも調子に乗り過ぎですわよ。そこまで手駒を揃えたとしても、その中核はたかが殺人鬼上がりの【使徒】。そんな輩が豹馬君を殺し切れるとでも？」
『ククク、愛する男を信じればこその強気の発言か。だが、我とて彼奴に対する手駒に、ただの殺人鬼など使わぬぞ』
「！？」
『全ては彼奴を倒すため、時の果てから練りに練った計画よ。ジルは確かに粗暴な男ではあったが、その実態は大地より【力】を与えられし【ガイアの戦士】よ』
「何だとッ！？」
京一が、醍醐が色めき立つ。【ガイアの戦士】…豹馬が口にしていた、【神威】の同義語だ。【使徒】とは真逆の、【陽】の【力】を振るいしもの。
『信じられぬようだな。だがそれこそ、我らの策がうまくいった証拠よ。――人とは真に愚かな生き物。ただ一つの事実を伝えるだけで済むべき事も、余計な脚色と誇張を加えずにはいられぬ。あの百年戦争で疲弊した国土に、【殺人鬼】ジルが好んで殺すような子供が数千人もいたと思うのか？ いかに貴族の権威が猛威を振るった時代とて、己の財産である人民を食い潰し切る愚か者がいたなどとなぜ信じられる？』
「……ッ」
『もっともらしい嘘を一つ付けば、人は勝手に尾鰭を付けたがるもの。まして己の利益に繋がるとなれば、子供でも気付くような矛盾さえも恐怖と暴力でごり押しするものよ。ヨーロッパは英雄も奸臣も事欠かない、実に良い狩場だったわ。神の名において誰もが殺し合い、英雄は殺し奸臣は肥え太り、神の庇護を受けた者、【ガイアの戦士】さえも、神の子羊を自称する愚か者はその力を恐れ妬み、自ら殺してのけた。神を信じる気持ちが強ければ強いほど、それが裏切られた時の絶望と恨み、憎しみは強くなる。光の【力】を有しながら、心は闇に満たされる。十字軍遠征、百年戦争、革命に独裁者の台頭…今にして思えば長い道のりであったものよ。特に――ふふ、ジルの盟友であった小娘も、今のお前と同じ事を言っておったぞ。悪魔に身を任せるくらいならば死を選ぶとな。真の神の【使徒】でありながら、神罰の地上代行者と名乗る【人間】どもに焼き殺されおったがな』
「――オルレアンの乙女の事か。シャルル七世を唆して彼女をみすみす火刑にさせ、ジル・ド・レエ伯爵を狂わせたのもお前の策略か。更にペストを流行させ、魔女狩りを推進したのも。文字も読めず情報も限られている人民ならば、【彼ら】に対する神罰のとばっちりだとでも言えば容易く信じたろうな。その怨みと憎しみは神を裏切った者、神への反逆者とされた者たちに向けられ、限りなく増大する訳か。数百年かけて育ててきた、神も悪魔も、それらを信奉するもの全てを否定する集団的無意識こそが、豹馬の真の敵なのだな」
突然、【黒蝿王】の言を遮る形で龍麻が口を挟んだ。
「――ならば、勝機は見えた」
『オオッ！』
龍麻の発剄！ これは思念障壁に弾かれたが、龍麻は既に宙に跳んでいた。驚く【黒蠅王】に【龍星脚】！ 二発までは思念障壁で相殺されたが、三発目の蹴りが顔面を捉え、【黒蠅王】の頭は奇怪なゲル状細胞の上を滑って行った。
着地と同時にコートを跳ね上げ、グロックを三連射！ これは思念障壁に弾かれ、弾丸は空の彼方へと消える。遠隔攻撃は弾丸であれ発剄であれ、障壁の阻害を免れないようだが…
「なるほど。手品のタネか」
それだけ確認すれば十分なのか、龍麻は納得したように鼻を鳴らした。
『誰かと思えばお主…【闇の刃】の仲間だな』
「――こいつは意外だ。耄碌してとっくに忘れたものと思ったがな」
珍しく挑発するように言い、グロックをしまう龍麻。敵の攻撃を気遣う様子もないのは、彼にとっては異常とも言えた。
『忘れいでか。サバトを妨害し我らが作品を滅ぼした生意気な小僧め。聞けば【覇王館】を潰し、鬼道衆を壊滅させたのもお主だそうだな。くく、それが【ザ・パンサー】と同道しておるとは思わなんだが、運の良い事だ。貴様もついでに、我らの取るに足らない餌となるが良い』
「――我々はこの後、カラオケに行く予定だ」
『！？』
「女にケツを蹴飛ばされた好色ジジイに、俺の相手が務まるか。彼を返してさっさと墓穴に帰れ。年寄りの僻みで若者の楽しみを邪魔するな」
ピク、と【黒蝿王】のしわが増える。それを見て舞や拳士郎の表情が動いたのは、彼女達にも【黒蝿王】との浅からぬ因縁があるからだろうが、それは驚きであった。【黒蝿王】が【人間】の挑発に反応した事に対して。
『――小僧めが。付け上がりよる』
すう、と【黒蝿王】の目が赤く光り、アメーバから無数の触手が立ち上がる。しかし龍麻は唐突に後ろを振り返った。コートが大きく翻り――
――ドウッ！ ドウッ！ ドウンッ！
『ヌウッ！』
コートで作られた死角からの三連射！ これも思念障壁で弾いた【黒蝿王】であったが、シールドが発生したのは着弾寸前、目と鼻の先であった。しかも同時に龍麻は地を蹴っており――大胆不敵！ 生えたばかりの触手を足場に、【黒蝿王】の後頭部にパイソンを突き付けたのである。
「――王手」
――ドウンッ！
『ッッ！』
【黒蠅王】の後頭部から入ったマグナム弾が、しわだらけの顔面を半分以上も吹き飛ばす。ほぼ同時に触手がうねって龍麻を捕縛しようとしたが、時既に遅く龍麻は発砲と同時に後退していた。
「惜しい。彼の銃なら殺せたな」
『おのれ！ こぞッ…！』
――ドウッ！ ドウッ！ ドウンッ！
自ら効かない事を明言しながら、更にマグナム弾を浴びせる龍麻。今度は思念障壁の妨害はなく、【黒蠅王】の下顎部が消し飛ぶ。傷口からはゼリー状の血が噴き上がり、アメーバ状の胴に落ちると、その部分がぶよぶよと波打ってしわだらけの顔を再び浮かび上がらせた。
「やはり張りぼてか。これでは弾丸がもったいない」
『ヌウッ！ ――やれい！ ピエール！』
ぐわ、と口を開き、蛇のごとく伸びるもう一方の頭。ぷっと頬を膨らませて強酸性の唾液を吐きかけようと――
「――そいつだ」
「【剣掌・発剄】ッ！」
「【破岩掌】ォ！」
特に指示もないまま――これこそ以心伝心。龍麻の合図を待ち構えていた京一と醍醐が同時に剄を放つ。信じがたい事に、龍麻以外に目が向いていなかった【使徒】――ピエールと言うらしい――は二人の発剄をまともに浴びて悲鳴を上げた。
「便乗するぜ！ 兵庫直伝！ 【華厳踵】ォッ！」
「行っけーッ！ 【乾坤圏】！」
のたうったピエールに向かって空手道・心道流の雄が放つ胴回し踵落とし！ 蛇と似た組成の筋肉は、しかしスピードの乗り切った衝撃を緩和できずに打撃部位をえぐり取られ、そこに襲い掛かった【乾坤圏】がピエールを肉塊から分断してのけた。
『ギイイッ！』
ビシャッと地面で跳ね、吠えるピエールであったが、突然、その顔が上半身に至るまで縦に裂けた。舞の背で澄んだ鞘鳴りがした時、ピエールの身体は汚らしい泡を吐き出しながら崩れていくところであった。そして同時に、粘塊の狂態が一層の激しさを増す。先程のような歓喜のわななきではなく、明らかに苦悶するように。
「ピエール？ もしかして、ピエール・コーション司教かな？ ――フン、やはり完全に統率が取れている訳ではないな。釘一本抜いただけで壊れる、張子の虎だ」
『ッッ！ 貴様…！』
「ネタが劣化したな、【黒蝿王】。合体使徒は諦めたのか？ 締め切りのない命ならばもっと頑張れ。年甲斐もなく色事などに夢中になるからそのザマだ」
並の人間相手にするような挑発が、なぜか絶大な効果を発揮した。【黒蠅王】は明らかに怒りを見せて立ち上がったのである。ぶよぶよネバネバと蠢く体は黒に赤にと激しく明滅した。
『言わせておけば！ 図に乗るなよ、小僧！』
「図にも乗るさ。一応【黒蝿王】と呼んだが、そもそもお前は【黒蠅王】ではあるまい」
『ッッ！』
「その妖気と臭い――俺もすっかり騙されたものだが、今は小物の臭いしかせんな。あの槍こそが【黒蠅王】の分身であり、ヨグ・ソトースを呼び出した張本人か。あと二秒早く気付いていれば、彼をゲロ塗れにさせる事もなかったが…。――雑魚に用はない。作戦は失敗でしたと【黒蝿王】に泣き付きに帰れ」
度重なる挑発にもはや問答無用と決めたか、肉塊から大量の血潮が噴き上がり、飛び散った血飛沫がみるみる巨大化してそれぞれが【使徒】の形を取る。表皮が黒い剛毛に覆われた巨体に、肘から先が二本に分かれた巨腕。稚拙な造作の顔に、縦に開く巨大な口と乱雑な牙、良く動く長い舌…その姿から推察するに、【夢の国】に生息するとされるガグか。一同はたちまち数十の【使徒】の群れに取り囲まれた。ところが…
「なるほど。怒っても自分じゃ手を出せないのか。それにこいつら、さっきの連中と違って個体差がほとんどないんだね。言わば廉価版の量産型【使徒】。雑魚士官の下働きってトコか」
貴之がポンと手を打ち、【黒蠅王】…の偽物が忌々しげに唸る。やはり龍麻には、神楽坂で出会った【司教】とは別物と感じられた。魔物には違いないが、こちらの方が遥かに人間臭い。
「策士、策に溺れる――足掻いても無駄だぞ。お前達の作戦は標的を豹馬のみに限定し、数を頼みに彼を封じただけだ。【黒蝿王】もかき集めた【使徒】も、今や彼にかかりきり。我々がほんの少し外から手助けするだけで、彼は内側からお前たちを倒す。そして今の貴様に【黒蝿王】の助力はない。その程度の雑魚をいくら繰り出したところで、我々は止められんぞ」
【手品のタネ】――解ってしまえばどうという事もない解答であった。【旧支配者】自身ですら、固有の属性以外の能力を発揮する事は本来なく、相反する属性の力を己のものとする事など不可能である。しかし豹馬は【使徒】としての強靭な肉体を持たぬ代わりに、喰った【使徒】の能力を属性に関わらず再現する、【使徒】としても極めて珍しい能力を有し、その為に豹馬は【最弱】でありながら【不死身】という、不可解な存在と化したのだ。
そんな彼に対抗する手段が、【使徒】同士の合体だったのだが、異なる属性を一つの個体に融合するなど容易な事ではなく、神楽坂で龍麻が遭遇した瀬川ら五人分の合体使徒に辿り着くまでにどれほどの犠牲を強いた事か。制御が難しいと知りつつ麻薬を媒介に【使徒】を生むウイルスを広めようとしたのも、強引な手法で不破弾上に各地の学園を接収させようとしたのも、あらゆる属性、能力を備えた【使徒】を早急に揃える為の策略だったのだろう。かくして膨大な【使徒】を取り揃えたは良いが、それら全てを融合させれば当然のように吸収分解されてしまう固体も出る為、元【神威】の【使徒】であるジルをリーダーとし、要所に腹心の部下を置いた妖魔の軍団…日本風に言うなら【百鬼夜行】として顕現させ、統率させていた。豹馬はそれを己の能力を封じる為の人海戦術であると見抜いていたのだが、その布石が無視するには強大すぎる相手だった為に、罠に落ちるしかなかったのだ。しかし…
「【身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある】――さすが【ザ・パンサー】。見事な作戦勝ちだ。今夜は俺が奢らせてもらおう。――【巫炎】！」
既に収束済みであった【炎気】を放つ龍麻。ただし狙いは【黒蠅王】ではなく、新たに出現した【使徒】であった。牽制の意味も込め、強めに【気】を放った為に一気に十体の【使徒】が炎に飲み込まれる。
「京一！」
「応ッ！ 【剣掌・旋】ィィ――ッ！」
【方陣技】ではなくとも、相乗効果を生む合わせ技！ 龍麻の炎を巻き込んで走る旋風が真空把と炎を撒き散らしながら【使徒】の群れを両断する。何体かは【炎気】を中和したようだが、残りは消し炭になった。分析通り、同じ【使徒】でもこちらはレベルが低い、数稼ぎ要員だ。真神の【旧校舎】ならば地下五〇層あたりのボス妖魔程度に相当する。
「就寝前の軽い運動だ！ 葵は防御術を展開！ 小蒔は支援射撃用意！ 京一、醍醐はトライアングル！ 近付いてくる雑魚のみ虱潰しにしろ！ 本体は後回して充分だ！」
『ウヌウッ！』
常人や普通の軍隊ならばいざ知らず、対妖魔戦闘にも慣れた龍麻たちの事である。たちまち殲滅されていく【使徒】に【偽物】が吠えるが、龍麻の挑発的指摘は正しく、豹馬を取り込んでいる本体はただ狂態を繰り返すだけで役立たずであった。【黒蠅王】は自らを餌に豹馬を策に填めたつもりであろうが、むしろ豹馬は自ら罠に填まる事で、【黒蝿王】らを罠にかけた。敵戦力を自分に集中させる事により、拳士郎たちが敵の背面を容易に攻撃できる構図を作り上げたのである。無論、【黒蝿王】とて拳士郎たちを警戒してはいただろうが、龍麻たちの存在までは計算外だったのである。
「俺も混ざるぜ！ ――ははっ、ひーちゃんってばマジで凄ェな！ 俺はそこまで見抜けなかったぜ！」
「彼とは気が合うようだ。それよりもケン、彼女達には手を出させるな。俺の推測が正しければ、この量産型【使徒】どもは――」
龍麻の言を遮る、拳士朗の掌。彼は首を横に振った。その後から弥生も顔を出す。
「そいつは言いっこなしだ。俺達もとうに腹ァ括ってんだよ」
「そうそうッ。水臭い事言わないのッ。――舞！ 小蒔ちゃんに弓を貸してあげて！ 貴之君も遠距離支援ヨロシク！」
「暁殿…！？」
「――ホント、優しいよね、龍麻君って。パンサーがあんなに気を許す人なんて久しぶりに見たわ。でも、あたし達の事は気にしないで。後でわんわん泣いて、我慢するから」
「…了解した。――では敵の戦術変更に備え、後方支援と目視による指示、防御線を突破した敵の掃討を願いたい」
弥生はちょっと驚いたように目を見開き、ふっと笑みを浮かべた。
「解ったわ。ここは任せる」
ふわりと身を翻し、唯と共にガンボーイの前まで下がる弥生。
「何だァひーちゃん？ 今のって何の話だよ？」
「きつい仕事はなるべく男に任せておけ。――そういう話だ」
「なるほど。――こういう事かッ！」
敵は地表を駆けるのみに非ず、地中から飛び出してきた【使徒】に木刀を突き立てる京一。その瞬間、【使徒】は人間のような悲鳴を上げた。
「何あれッ！？ あの鎧…元は人間なのッ！？」
舞に凝った作りの弓を借り、狙いを付けていた小蒔が叫ぶ。――京一の木刀が貫いた【使徒】が身を包んだ鎧の表面には、酷く醜い歪み方をした人面…いや、手足を鎖で縛られ、切り刻まれ、腸をはみ出させた男女が奇怪なレリーフと化して溶け込んでおり、京一の刻んだ傷から鮮血を噴いて蠢き、のたうち、喘いでいた。それがただの偽装や擬態でない証拠に、鬼火のごとき光を放つ目には憎悪と怨恨がこれでもかとばかりに満ち満ちている。【使徒】自身もまた、その凶相に【人間】の面影を色濃く刻んだ。
『そうよ。こ奴らは元々、異端審問と魔女狩りで責め殺された者たちよ。人にも神にも見放され、恐怖と絶望の中、苦しみ抜いて死んでいった者たちだ。――哀れじゃろう？ 恐ろしかろう？ 生きとし生ける者全て、今や神も悪魔も呪う、純粋なる恨みと憎しみの魂は』
「死すら許さずに、人々を魔物に堕としたのね。なんて酷い事を」
防御術を次々と展開しつつ、葵が悲痛な表情でつぶやく。
『何が酷い？ 我らは耳元で囁いただけだ。誰でもその身に悪魔を飼っているのだと。誰もがその魔性を抱えて生きているのだと。我らはただ、少し背中を押しただけだ。幾千幾万、屍の山を築いたのは人間自身よ。人間が！ 神の子を名乗る人間達が！ 自ら地獄を演出したのだ』
「はいはい。定番の言い訳をありがとよ」
京一の木刀が振りかぶられ、【気】に輝く。その光を浴びて【使徒】と、その身に取り込まれている【人間】達は恐怖に濁った悲鳴を上げた。
「だったら――速攻で楽にしてやるぜ！ 【地摺り青眼】！」
地表を引き裂く京一の斬撃！ 泣き叫ぶ無数の男女の顔を浮き出させた【使徒】が、背後の【使徒】共々切り裂かれ、包囲網に切れ目が走る。
――やめろ、やめろ、やめろ！
――助けて、助けて、助けて！
――人殺し…人殺しィィィ…！
【使徒】の悲鳴を圧して、今や魔物を守る鎧にされている人々の怨嗟の声が空気を震わせる。しかし醍醐はぐっと唇を噛み締め、固めた拳に【気】を込めた。
「苦しかったろう。辛かったろう。悲しかっただろう。だが俺達も殺されてやる理由はないんだ。成仏しろ！」
醍醐の【円空破】！ 放射状に広がった衝撃波が【使徒】を薙ぎ倒し、彼らの陣形を更に崩す。そこに無数の矢が襲いかかって彼らを貫き、炎を噴いて焼き払った。小蒔の【疾風撃ち】と【火龍】である。
「――小蒔ちゃん！？」
「長距離支援はボクの役目だからね。――怨んだって良いよ。言い訳なんてしないから、ボク達はッ！」
「ごめんなさい。私たちにはまだ、あなた方を救ってあげるほどの力はないの。向かってくるなら、滅ぼす事しかできないわ」
龍麻以下、真神の五人の闘志はいささかの揺るぎなく、むしろ【使徒】達の殲滅速度が上がる。龍麻は言うに及ばず、綺麗事の介入を許さぬ戦いを経た彼らなのだ。狙いが外れた【偽物】は目に見えてうろたえた。
「ざ〜んねん。せっかくの心理戦も逆効果だったわね。とーぜん、あたしもちょっとばかりキレるわよ」
「悪いが、俺らに取っちゃ【仲間】の方が大事でね。――そらッ！」
弥生の【乾坤圏】が切り裂いた陣形に滑り込み、【龍旋脚】！ 【使徒】が衝撃波によって煽られ、京一たちの作り上げた【狩場】に追い込まれる。そこに――
「【巫炎】ッ！」
「行けッ！ 【火龍】ッ！」
龍麻と小蒔の放った炎が天も焦がさんばかりに吹き上がり、炎の渦の中で【使徒】が狂おしい断末魔のダンスを踊る。死してなお業火に焼かれる苦しみに亡者達は血の涙を振り撒き、それさえも蒸発して崩れ落ちた。
「次行くぜ、拳士郎！ 【剣掌・旋】ィィ――ッ！」
「応ッ。ちょ――――ッッ！」
新たに粘塊から零れ落ちた【使徒】を打ち抜く【気】の猛打。――単に【使徒】を繰り出すだけでは龍麻たちを倒す事ができないと判っても、【偽物】はどうする事もできなかった。【使徒】として、またその鎧として【力】を与えたとは言え、この【使徒】どもは元が宗教殉難者だ。自ら【使徒】と成った者とは異なり、恨みや憎しみが魔力や攻撃力に換算される程強い訳ではなく、属性も後から付与されたものだ。人間特有の同情や憐憫から怯んだところを大物量で押し潰すつもりであったが、半端な正義を標榜せず、コンビネーションで互いを補い合う【神威】と【ストライダー】の前には雑草も同然であった。そして…
（何だ…ここは…？）
苦悶にのたうつ肉塊の中で、酷く冷静な意識がひとつ目覚めた。
（ここはどこだ…。我は今、何をしている…。戦っているのか…何と…？）
肉塊に浮き出た半顔は、ジルであった。対【ザ・パンサー】専用の能力を与えられていた彼は首を食いちぎられたくらいでは無論滅びず、しかし豹馬封印の要として、再生された肉体を強靭な触手の鎖で縛り付けられていたのである。その片目に映った、コート姿の少年と、奇妙な乗り物の上で祈りを捧げる少女。その光景が、過去に見た情景を思い起こさせ、ジルを動揺させた。
（似ている…！ これは…こやつらは…！）
その時、ジルの目を白く輝く爆発が焼いた。
「――【ジハード】ッ！」
【菩薩眼】を有する【神威】、美里葵の最大奥義！ 【偽物】がムキになって放った【使徒】どもに追い込まれたと見せながら、全方位に放つ浄化の光！ 一撃で三桁に及ぶ【使徒】が消し飛び、ジルの記憶が一気に鮮明になった。
『――あれはッ！？』
虚ろだったジルの目に戻る、強い意思の光。それと――怒りが。
「――何だァッ！？」
混戦の最中、不意に吹き付けてきた突風のような妖気に、思わず顔を庇う一同。肉塊からジルの上半身が這い出し、強力な妖気の爆風を生んだのだ。
『その気は…！ 【彼女】が神の声を聞いた時に必ず感じられた【気】…！ ――貴様ら！ 何者か！』
身を捩りもがき、その肉体を縛る鎖を引きちぎりながら憤怒の【気】を滾らせて立ち上がるジル。妖気が凝結して形成された長槍がゴオゴオと唸りを上げて魔力を収束させる。訳も判らぬ内に向けられた圧倒的な憎悪と憤怒には、京一達ですら硬直した。しかし、真に彼らを凍り付かせたのは、ジルの声に含まれた底知れぬ激情と愛惜であった。ジルの目から涙…血涙が流れ落ちていたのである。
『貴様らは恐らく、何も知るまい。知る筈もない…だが…許せぬ！ 理不尽な恨み、的外れな憎しみであると判っていて尚！ 許し得ぬ！ 貴様らが何も知らずとも、その【力】あるのみで貴様らは万死に値する！ 【彼女】もその【力】さえなければ、あのような死を迎えずに済んだ！ 異端の【力】などなければ、戦う事すらなかったであろうに！』
グン！ としごかれる長槍。狙いは――葵！？
『消え失せろ、人間！ その呪われた【力】と共に――！』
「何を言っているのか判らんな。だが、貴様が敵対を望むなら相手になろう！」
わざと挑発的に宣言し、【秘拳・鳳凰】の構えを取る龍麻。一気に膨れ上がった膨大な【気】に、ジルの長槍が彼に向いた。彼こそが最大の敵と察したのだ。
『その【力】を護る騎士はお前か！ 良かろう！ 護ってみせるが良い！ お前が真に神の使徒であるならば――！』
（――近過ぎるッ！）
豹馬との戦いを楽しんでいたジルならば、よもやこの距離で奥技を放つまいが、今の彼は激情に駆られていた。長槍が、燃え盛る光の獅子の形を取った魔力を解き放ち、龍麻もやむなく――
「【秘拳・鳳凰】――ッッ！！」
強大無比な【気砲】が至近距離で激突し、激しい爆発が起こった。
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