東京都北区、如月骨董店より西へ五〇〇メートル地点 「…気付いてるか、京一?」 「ああ、位置までは判らねェが、殺気を感じる。二人…三人か?」 「中々研ぎ澄まされてきたな」 実はもう一人監視している気配があるのだが、龍麻はそれを口にしなかった。京一が見つけられなかった監視者は、自分達のいる場所から三〇〇メートルは離れている。狙撃主の気配を探知する能力を京一に求めるのは酷というものだ。――今後は、そんな事を言ってはいられないが。 「今のところ襲ってくる気配はねェな。――で、俺たちは何処に行くんだ?」 「如月骨董店だ」 「如月ィ〜ッ!? あいつに醍醐の居場所が判るのかよ!?」 謹厳実直プラス、ハンサムな如月の事を、どうも京一は苦手なようである。実際、仲間内で女性にモテるのは龍麻がトップで、次が如月なのである。ところがどちらも朴念仁と来たもので、女性陣はかなりやきもきしているようなのだ。自称【真神一の良い男】の京一としては面白くない。 「確証はない。しかし今まで集めた情報に小蒔の話を加えると、醍醐が何に変わったのか推測は立つ。四聖獣の一つ、【白虎】だ」 「【白虎】!?」 その名を聞いたのはつい先日の事だったので、京一もさすがにまだ覚えていた。 「お前の疑問も判る。だが、既に俺たちは世間の常識外の場所にいるのだ。事実をありのまま受け入れろ」 いつもと変わらぬ口調で言い切る龍麻。しかし京一にしてみれば、親友がいきなり四聖獣の一つだと言われてもピンと来ない。【鬼】ではないらしいと安心したのも事実だが、だからと言って、とても安心できる状況ではないのだ。 「けどよぉ、【白虎】って聖獣なんだろ? なんでその…なんと言うか、暴走しちまったんだ?」 「京一。以前にも言ったが、【力】そのものに善悪はない。要は人の心の持ちようだ。――醍醐は小蒔を傷付けられた事で怒りを押さえられなくなった。それを切っ掛けとして目覚めた【白虎】は破壊の権化だったろう。――聞く所によれば、アランも似たような事があったらしい」 「アラン!? ――なんでアランがここで出て来るんだよ?」 戦闘では頼りになる奴…とは思っても、京一はあのラテン青年が苦手であった。自分と似ていると言われる為もあるが、あの独特のテンポに人を巻き込んで行くのが気に入らないと言うか何と言うか――あのおぞましい後楽園遊園地の悪夢(笑)でオ○カル様の格好を推薦(強要?)したのは彼なのである。 「アランは【青龍】だ」 「何ィ!?」 「アランには【風】を司る聖獣、【青龍】が宿っている。――かつてアランが【盲目のもの】の生け贄にされそうになったのもそれが原因と思われる。あの時の突風はアランが俺を【呼んだ】ものらしいな。そして先日の事件ではアラン自身、自分の中に眠っていた【力】を再認識したそうだ。――如月の助言でな」 あのアランが聖獣を…。無性に納得いかない京一。あのラテン気質の何処が【四聖獣】とか【守護神】とか言える!? 「――で、なぜに如月? まさか奴も【そう】なのか?」 「肯定だ。如月は――と言うより、飛水流の守護神は【玄武】だ。如月は祖父からその【力】を継承したらしいな。現時点では【四聖獣】に付いて一番詳しいのは如月だ」 アランだけではなく如月まで…。しかもあの明朗闊達無節操軽薄男(京一主観)のアランと、根暗お澄まし守銭奴忍者(京一主観)の如月が同格の守護神を持っているなどとは…。そこに、謹厳実直お堅い格闘馬鹿(京一主観)の醍醐まで加わるとは…。 「ン――!? まさかひーちゃん、醍醐が【白虎】だってコト、知ってたんじゃあるめェな?」 「!? いいや。如月は飛水流の話を聞いた時に知った。アランは、如月を交えて相談に乗った時だ」 「ホントかよ? それにしちゃあ妙に的を射たような・・・」 そこまで言ったところで、京一は全身のジンマシンを掻き毟り、同時に爆笑しそうになるのを必死で堪えた。 ジンマシンは、それが京一にとって凄まじく嫌な記憶だからだ。――とりあえずそれは脇に放り出しておき、改めて思い起こすと、如月のミュー○ント・ニ○ジャ○ートル(笑)、あれにもちゃんと(?)意味があったのだ。なぜあの時如月があれほど嫌がったのか? その答えが飛水流の守護神【玄武】にあったのだ。【玄武】イコール【亀】、【飛水流】イコール【忍者】。――亀と忍者の組み合わせから連想されたのがミュー○ント・ニ○ジャ○ートル・・・龍麻にしては信じられないほど絶妙なセンスである。 そして、今問題の醍醐。問答無用のタイ○ーマ○ク。――確かに醍醐はプロレスが好きだが、コスプレまではやるまい。ところが龍麻は用意周到と言おうか狡猾と言おうか、醍醐にいつの間にか催眠術をかけ、自分をタイ○ーマ○クだと思い込むようにしておいたのだ。――他の者には単に【命令】で済ませていたと言うのに。 (ひーちゃんが先を読んで行動するのはいつもの事だけどよ…) うまく言えないが、何か物事が龍麻を中心に動いているような感覚。ミュー○ント・ニ○ジャ○ートル…もとい【玄武】の如月、【青龍】のアラン。――龍麻と共に闘う事を選んだ者の中に、【聖獣】を宿す者がいるという事実。そして醍醐が――三人目とは!? しかしどうしても如月のミュー○ント・ニ○ジャ○ートルが頭に浮かんでくるので思考がお笑い一色に染まってしまう。――そんな場合じゃないと言うのに! 「・・・何を考えているのか容易に理解できるが、如月の前では堪えろ。――殺されるぞ。――奴らは戸惑っているが」 親友の非常事態でありながら、否、それ故に真面目を維持しようとするためにかえって爆笑を必死で堪えているのが解る京一。一瞬ごとに頬が緩み、引き締まり、なかなか不気味な光景である。――尾行している者の気配からも「あれは何だ?」というような困惑が伝わってくる。 そんな事を話している内に角を二度ほど素早く曲がって尾行を回避し、龍麻たちは如月骨董店に至った。 「いるか、如月?」 結界の張られた門を入った時点で店主の在宅を知った龍麻だが、入店の礼儀に乗っ取って声をかける。すると店主こと如月翡翠が、招き猫の群れの中で顔を上げた。 「やあ、いらっしゃい」 龍麻が表玄関から入ってきた時は、如月も【表】の応対をする。手に白い布を持っているところを見ると、居並ぶ招き猫たちを磨いていたのだろう。――如月目当ての若い女性客をターゲットにした人気商品だ。彼は商売人である。 しかし、そんな彼も龍麻の怪我を見て顔色を変えた。 「龍麻君…! その怪我は…!?」 「…話せば長くなる。それよりも今はお前の知恵を借りたい」 龍麻と京一は居間に通され、冷たい茶と共に如月が用意した、怪我を癒し体力を充填する【大清神丹】を摂った。劇的な効果は望めないが、それでも気休めにはなる。 「…そうか。醍醐君が…」 彼には予感があったものか、醍醐が【白虎】に目覚めた事自体にはそれほど驚かなかった。しかし、それ程に突発的で不安定極まる覚醒を迎えるとは思わなかったと述べる。 「…確か、江戸川で俺に何か言いかけてたよな? それが、この事だったのかよ?」 京一は以前、江戸川の地下洞窟に入る直前、如月に話し掛けられていた。その時の質問が、醍醐に関する事だったのだ。 「そうだ。彼と初めて会った時、彼には僕と共通のものを感じた。僕の――と言うより、飛水流の守護神は四聖獣の一つ、【玄武】。そこにアラン――【青龍】を守護神に持つ者が現れた事で、ひょっとしたらと思ったんだ。だけど彼の【力】にはどこか不安定なところもあったし、話すにしても時期を見計らってと思ったんだが…まさかこのような事態を引き起こすとは…」 「お前の責任ではない、如月」 きっぱりと、龍麻は言った。 「問題は醍醐だ。今何処にいるか、お前に判るか?」 「…残念だが、そこまで僕は器用じゃない。しかし覚醒直後は精神的に非常に不安定になる。恐らく新宿を出る事はないよ。近郊の心当たりを探す方が早いだろう。…僕も行こうか?」 「…そうだな。いざという時、纏め役をこなせる人間がいた方が良い。しかし鬼道衆がどう動くか判らん。呼集をかけるまでは待機していてくれ。それと…」 龍麻は右腕を上げた。そこだけは奇跡のように包帯も判創膏もないが、指の骨は三本までが接合したばかりである。 「この手でも撃てる小口径多弾頭のガンが欲しい。目下、九ミリでも支えきれん」 「判った。――蓬莱寺君、少し席を外すが、待っていてくれ」 本当は一刻も早く行動に移したい京一であったが、なんと言っても龍麻が闘えない状態ではやむを得ない。京一は肯いた。 如月が先に立ち、二人は如月骨董店の【裏】に入った。――ここだけは【仲間】でも限られた者しか入る事を許されない。 「これなんか、どうだい?」 ここに来る前から龍麻の要求を吟味していたものか、如月は真っ直ぐ棚の一つに向かい、油紙に包まれた大型拳銃ほどのサイズのサブマシンガンを差し出した。 龍麻の口元が僅かに緩む。 「ほう。VZ−61か。それも初期型、暗殺部隊専用モデル。良く手に入ったな」 珍しく、龍麻の声に感嘆が混じる。VZ−61【スコーピオン】。現存するサブマシンガンの原形とも言える史上初の実用型サブマシンガンである。口径はウッズマンより大きく九ミリより小さい32ACP。三〇連バナナマガジンを装着してなおコンパクトなこの銃は、現代でこそH&K社製MP5シリーズやウージーに主役の座を譲ったものの、今なお暗殺や隠密作戦を行う特殊部隊などで愛用されている、その名の通りの小さな野獣であった。 ただし、それだけならば龍麻が感嘆するには足りない。このVZ−61、強いて欠点を挙げるとすれば、それが共産国家であるチェコスロバキア製だという事だ。九ミリ自動拳銃の最高峰と言われるCZ−75もチェコスロバキア国営工廠製であるが、その評判の高さの割に自由貿易の許されぬ共産国家の宿命から、出回っている数は非常に少ない。最近になって貿易の間口が広がり、VZ−61やCZ−75が西側諸国でも比較的手に入りやすくなってはいるが、外貨獲得の為に大量生産された後期型は品質のバランスが余り良くないという話である。チェコスロバキアが東側諸国中最高の工業技術力を誇っていた六〇年代から七〇年代のVZ−61、CZ−75のファーストモデルには実戦派の職業軍人からガンマニアまで、目を剥くようなプレミアが付いて出回っているほどだ。 「ウチでも秘蔵品だよ。しかし君が使ってくれるのならば値段は勉強させてもらおう。何ならCZ−75ファーストモデルもあるが、使うかい?」 「コレクターズ・アイテムに用はない」 予想していた通りの返事に、如月は微笑する。CZ−75は確かに優秀だが、スペアパーツの入手が困難なので、発砲機会の多い龍麻のような人種には不向きなのだ。プロは銃の性能もさる事ながら、精度維持にかかるコストも考慮せねばならないのである。 だが、次の龍麻の言葉が、如月の顔を引き締めた。 「――それより弾丸は全て炸裂弾にしてくれ。スペアも五本頼む」 三二口径炸裂弾を一八〇発。一発でも四四マグナムクラスの破壊力を誇る弾丸をそれだけ用意しろと龍麻は言っているのである。 「…龍麻君。もしかして、君は醍醐君を殺すつもりなのかい?」 「……」 「…君でも、その時になるまで判らないか。もし醍醐君が堕ちていたとしたら、それは僕たちにとってとてつもない脅威となる。もしそんな事になったら…」 深刻な如月の言葉を、VZ−61のボルトを引く音が遮った。VZ−61のボルトは携帯性向上の為に出っ張りが殆ど無いが、今の龍麻は両手が使えない為、ベルトに引っ掛けてボルトを引いたのだ。【裏】如月骨董店の銃は常に完璧な整備を心がけている上、実戦向けの調整をしてあるので、基本から外れた扱いをしても完璧に作動する。 「…らしくないぞ、如月。悲観的な仮定は慎むべきだ」 いつもと変わらぬ、自信に満ちた態度。如月は口元の淡い微笑を取り戻した。どんな困難な状況下でもこの男がいれば必ず切り抜けられる――そんな指揮官の姿を龍麻に見たからこそ、如月は付いていく事に決めたのだ。 「そうだな。きっと醍醐君も君たちが来るのを待っている筈だ。早く迎えに行ってやりたまえ」 「うむ。非常呼集の際には、お前が指揮を取ってくれ」 「心得た」 この二人にしては珍しく、龍麻と如月は拳を軽く打ち合わせた。 「幸運を その言葉を背に受け、龍麻と京一が如月骨董店を辞したのは、それから三分後の事であった。 新宿に戻った龍麻と京一は、直ちに携帯電話で葵たちと連絡を取った。そして今は真っ直ぐ中央公園へと向かう。新宿区内で醍醐が身を寄せる可能性があるとすれば、龍麻たちには新井龍山邸くらいしか思い浮かばない。しかし裏密の占いに【竹】、そして【蝶】というキーワードが出てきたところから、まず間違いはないと思われる――という事で意見が一致し、龍麻は如月を中心に仲間全員に非常呼集をかけ、自分たちは先行する事にしたのだ。 京一を先頭に、いつもとは違うフォーメーション。武器を手に入れたとは言え、まともに戦えない龍麻を葵と小蒔が左右を挟むようにする。龍麻は表情こそ苦痛の片鱗も見せていないが、良く見れば頬に一筋、冷や汗が浮かんでいる。痛みを無視することを訓練されている彼だが、精神はともかく、肉体の方はとっくに限界に達しているのだ。一般人ならば、そして普通の病院に行ったのであれば、全治十ヶ月、左腕と右足首を欠損していたところだったのだ。リハビリまで加えれば二、三年はかかる重傷の身で、こうして歩いている事はまさに奇跡だ。 いくら急ぐと言っても、龍麻は杖を突いている身だ。自ずと歩く速度は鈍る。そして岩山も、いざとなれば平気で無茶をする龍麻の性格を見抜いてか、ギプスを並の三倍以上の厚さに固めていた。京一たちはもちろん、彼に無理をさせるつもりはないが、仮に彼が無茶しようとしてもできないのである。 だからこそ、龍麻は事前に葵たちにも醍醐が【白虎】に目覚めたのだという推測を語った。推測とは言っても、それはほぼ断定であったが。 「じゃあ、醍醐君の【力】は鬼とは別物なんだね。そうだよねッ?」 確かに醍醐は佐久間と、その他大勢の若者を殺した。しかしあの場面で醍醐が【白虎】に目覚めなかったら、醍醐も小蒔も殺され、そして佐久間以下、暴走した若者達は生き残った龍麻に皆殺しにされていただろう。あのような暴挙に出た時点で、佐久間たちの死は決定されていたようなものなのだ。 「しかし、強力なだけに危険だ」 希望的観測など縁のない声で龍麻は言う。醍醐が【白虎】に目覚めてから早三日。醍醐の心の中には自己の力に対する恐怖、佐久間を、若者達を殺した自分への嫌悪が渦巻いている筈だ。同時に、圧倒的なまでの力が生む陶酔感が加わり、思う様敵を引き裂き、その血を浴びる快感が負の感情をエスカレートさせる。これが心理学に言うところの【ベトナム・シンドローム】の初期症状だ。 殺戮の狂気に打ち勝てる人間など、滅多にいるものではない。訓練された兵士でさえ一個の人間である以上、【そう】なのだから、平和な日本で生まれ育った一介の学生が果たしてそれに耐えられるか? 「鬼道衆は醍醐が【白虎】である事に気付いていたのだ。凶津の一件も今回の件に繋がる布石だ。そして最も効果的なタイミングで醍醐の精神に揺さ振りをかけた。友を裏切ったと悩んでいるところで、目をかけている佐久間を殺させる。単純だが効果的な心理作戦だ。その場にいるべき者に小蒔を選んだのも偶然ではない。全て――奴らの計画の内だ」 分析した結果を仲間たちに話しつつ、龍麻は背筋にぬるい汗を感じていた。強力な敵が迫っているとか、テロリストが核兵器を完成させたとか、そういう脅威とは違う感覚。胸を焼くような焦燥感を覚えつつも、その先に踏み込む事を拒もうとする本能的な危機感。自分の行動全てが見透かされ、相手の手のひらの上で踊らされているという嫌な感覚がどうしても拭えない。自分達がこうして醍醐のもとに向かっている事さえ、相手の計画の内だとしたら…。 「それ…じゃあ、醍醐クンが戻ってきてくれないのは…ボクのせい…?」 震える声で小蒔が言う。 ――何がなんだか判らないよッ―― 「あの時…あんな事を言っちゃったけど…あれじゃあ醍醐クン…自分が否定されたと思っても…無理…ないよ…ね…」 「そうだな」 いつのまにか両目からはらはらと涙を零している小蒔に向けて、龍麻の非情なる即答。さすがに京一も葵も顔色を変えて龍麻を見る。 「ひーちゃん…!」 「後悔しても始まらん」 龍麻の声は風刃の鋭さを持って、三人の胸に切り込んだ。 「仕方がなかったなどと俺は言わん。事前に何か方法や対処ができた筈なのだ。醍醐が苦しんでいるのも、小蒔にそう思わせたのも、全て俺の責任だ」 「そ、そんなコトないよッ! ひーちゃんは悪くなんか――」 「指揮官とは、そういうものなのだ」 龍麻はきっぱりと言った。 「部下を死地に赴かせる以上、指揮官は部下の命に責任を持たねばならん。自らの馬鹿さ加減の為に部下の命を危険に晒したとあっては指揮官失格なのだ。――醍醐は自分の精神が意外に脆弱であると自覚していた。それを知りながら俺は対処法を良く検討しなかった。その結果がこれだ。ここで敵の作戦を阻止し、醍醐を奪還せねば、俺は貴重な――を失う事になる」 貴重な…の後に続いた言葉を、京一も葵も小蒔も聞き取る事ができなかった。龍麻が言葉を濁した為であるが、それはまるで龍麻が、その言葉を口にする事を怖れているかのように京一には感じられた。 「小蒔。余計な事は考えるな。前だけを見ろ。醍醐を取り戻せば俺たちの勝ちだ」 その言葉に、小蒔も涙をぐいと拭い、戦いに赴く時の顔つきを取り戻した。 この瞬間、苦しんでいるのは自分だけではない。醍醐も苦しんでいる。一言の相談もなく醍醐に姿を消された京一も、葵もだ。そして誰より、【仲間】を失う事の恐怖を骨の髄まで知っている龍麻が、実は一番苦しんでいるのだ。本当ならば身体が元通りになるまで安静にせねばならぬ身に鞭打って動くのも、二度と【仲間】を見捨てないという誓いの現われだ。それを止める事は自分達にはできない。 ならば自分は、いつものように龍麻の指揮に従い、己の役割を果たすだけだ。小蒔は目の前で起こった怪異にパニックになり、龍麻への信頼を揺らがせていた自分を恥じ、気持ちを立て直した。この男といれば、どんな困難な事でも成し遂げられるのだと。 京一はとっくにそのつもりでいる。従って彼には小蒔のような精神的葛藤はなかった。彼にあるのは、一人で勝手に悩んだ挙げ句に暴走した醍醐を一発ぶん殴る! と、ただ、それだけであった。これとて深く分析すれば、彼自身も気付かぬ深層意識の中で様々な葛藤があった末の結論であるが、彼の場合はそれをまず行動に移すところが良いところだ。 しかし、悩みを抱えると考え込む、醍醐と似たようなタイプがもう一人いた。 「龍麻…」 葵の治癒術によって少しづつではあるが龍麻の肉体が回復しつつあるため、小蒔は京一と並ぶように前を行く。【気】の探知を京一が、目視確認を小蒔が担当する形だ。そのため、葵の声は二人には届かない。 「もし…もしもよ? 今の状態が続くとしたら、この東京はどうなってしまうのかしら? ――私たちの【力】だけで、この東京を護る事ができるのかしら?」 「……」 「――近頃なんだか恐いの…。どんどん仲間が倒されていって…私たちだけになって…それでも闘わなければならないとしたら…私たちは護る事ができるの? 大切な人を…」 醍醐の失踪に加え、重傷を負った龍麻。この二つが葵をこれまで以上に不安にさせているのだろう。織部神社での宣言は嘘ではないが、自分達が倒される可能性については、まだ覚悟が足りなかったようだ。 しかし龍麻に、そんな質問は無意味だった。 「葵。正義とは何だ?」 唐突に、龍麻は切り出した。 「え?」 「いつの時代でも人は争い、傷付け合う。その行為に善悪を付けるものは誰だ?」 「……」 「いつでも、行為に善悪を決め付けるのは後世の人間だ。さもなくば、戦いの勝利者だ。現在を生きる我々に、戦いの善悪など解る筈も無い。ただ、全力をもって闘うのみだ。この瞬間を闘っている我々がそんな事を気にしてどうする? ――この失点は必ず取り戻す。だから、余り俺をいじめるな」 「いじめるなんて…そんな…」 そこに、くい、と京一が振り返る。小声で話していたつもりであったが、彼の耳にはしっかりと届いていたらしい。 「ひーちゃんの言う通りだぜ、美里。――確かに鬼道衆からこの街を、人を護れる保証はない。だが――それでも俺たちはやらなければならない。俺たちの【力】はその為にある気がするんだ――醍醐がいたらきっとこう言うだろうぜ。俺たちは手を抜いて闘った事もなければ、戦いを楽しんだ事もなかった筈だぜ。少なくとも、奴ら相手に関してはな」 木刀で肩を叩く、いつものポーズ。京一は続けて言った。 「美里も醍醐も深く考え過ぎなんだよ。俺たちは正義の味方になった訳じゃねェ。この街を護るのは、ここが俺たちの街だからだ。俺たちの生活をぶっ壊そうって奴が気に入らねェから、奴らと闘っているんだ。――俺たちが負けるなんて事を考えるんじゃねェよ。俺たちゃ、一人じゃねェだろう?」 「そうだよッ、葵!」 先ほどまでの不安を完全に捨て去ったか、小蒔がいつものように元気な声で言う。 「大丈夫! 皆一緒にいるんだもん。ボクたちは絶対勝つよッ」 一番落ち込んでいた小蒔にここまで言われては、葵も余計な不安を抱え込んでいる訳には行かない。 「そうね。皆一緒なら大丈夫よね」 ようやく気難しい顔を止めた葵を見て、龍麻は内心ほっとしていた。 醍醐の失踪も重大な事件だが、自分の怪我も少なからず彼らに不安を与えている。そしていよいよ鬼道衆は自分達の情報を揃えつつあり、個人攻撃の可能性も出てきたという事実が彼らにしこりのような恐怖を与えている。それがこの瞬間だけでも払拭できたのは良い事だ。あとは自分がこの怪我を治し、より防備に気を入れてかかれば、彼らの不安は大きく取り除かれる。 しかし龍麻自身は、焦燥感を消された訳ではなかった。 それは、中央公園に入った途端に現実のものとなった。 「あん? 何でこんなに静かなんだ?」 やはり、龍麻に次いで異変に気付いたのは京一であった。葵もほぼ同時に気付いたようだが、具体的な情報を得るのは京一の方が早い。 「どうやら奴らの結界に入り込んだらしいな」 龍麻も【スコーピオン】を抜いた。やや重く感じられるのは本調子でない証拠だが、そんな事に構ってはいられない。 「ざっと五、六〇人ってところか。へッ、少しは俺たちの実力が判ってきたみてえじゃねェか」 そんな軽口を叩きながら、京一は木刀を袋から取り出した。小蒔も急いで弓の弦を張る。気配で人数を割り出した京一とは違って、彼女には敵の姿がまだ見えていないが、公園全体を包んでいる殺気は感じている。 「――出て来いよ。いるのは判ってる。その代わり出てきたら最後だぜ」 二歩ほど前に進み出、最も強力なプレッシャーを放っている気配に向けて木刀を突き出す京一。本来そこは龍麻のポジションだが、彼は今まともに戦えない状態で醍醐は失踪中。必然的に戦闘の要は京一という事になる。今の京一からは、普段の軽薄さが信じられぬほどの剣気が溢れ出していた。 そいつが出てきたのも、その剣気に触れたからかもしれない。 「……ッ!」 葵と小蒔が息を呑む。 「鬼道五人衆が一人。我が名は岩角」 そいつは正しく【岩】であった。 そびえる、という表現がぴたりと合う巨躯。幾層にも重なった岩から削り出したような分厚い胸板に、葵のウエストほども有りそうな上腕筋。拳はサザエのようにごつく、熊でも撲殺できそうだ。足は大木のごとく太く力強く、大地にしっかりと根を下ろしている。 スピードはそれほどでもなかろう。しかし、耐久力は並みではなさそうだ。水角や風角もそうであったが、彼ら五人衆はクローニングや薬物投与で生まれた下忍や中忍とは違い、極限まで鍛え上げた肉体を、さらに【外法】によって人間以上に変成させている。龍麻は手の中の【スコーピオン】が酷く頼りないのを感じた。 「…ごの先、どおざない…。おで、命令された…九角様に…お前たちをごろせと」 聞き取りにくいなまりにどもりの入った声であるが、岩角の発する威圧感はそんな愚鈍な印象を軽く吹き飛ばしてしまうほどに強かった。そしてわざわざこの中央公園で待ち構えていたという事は、既に醍醐にも鬼道衆の手が伸びている。 援軍を待つか? それは無理だろう。如月には全員が集合してからと厳命してあるから、到着までにあと十分はかかる。そして見た目からも耐久力抜群な岩角をここに配置し、結界内とは言えこれだけ広い場所で五〇人以上の下忍を揃えたとなると、その目的は時間稼ぎである事が明白だ。援軍が間に合ったとしてもこの戦線を突破するのは容易な事ではない。 「小蒔」 「な、なに? ひーちゃん」 「京一。不動で手に入れた装備を出せ」 「お、おうッ」 なぜこんな時に…とは、京一は考えもしなかった。いや、こんな時だからこそ、龍麻の指示は絶対だ。どれほど突拍子もない命令に聞こえても、それは必ず勝利への布石となる。絶体絶命と思われる状況を覆し、任務達成率一〇〇パーセントを誇ったレッドキャップス。その名を今に残す男の言葉を疑う者は仲間内にはいない。 「ローラースケートに乗った事はあるな? よし、小蒔、こいつを装備しろ。【気】を込めて踏み込めば加速。減速は前足の爪先を上げれば良い。慣性制御システムが作動するから重心にさえ気を配っていれば良い」 「わ、判ったけど…何をするつもりなのさッ!?」 そして龍麻は、恐るべき【作戦】を口にした。 「醍醐は小蒔に任せる」 「ええッ!?」 「合図をしたらあの布陣を突っ切れ。後ろを見る必要はない。それと、こいつも持っていけ」 そう言って龍麻が小蒔に託したのは、彼愛用のウッズマン。そして水神、雷神の【力】のこもった珠であった。 「ここで足止めを食う訳にはいかん。しかしここを突破するのは時間がかかり過ぎる。小蒔一人に危険な真似をさせるのは本意ではないが、醍醐を任せられるのは小蒔しかいない」 「ひーちゃん…!」 「…これは命令ではない。必ず醍醐を連れて戻ってきてくれ。それまでは必ず持ちこたえる」 龍麻は杖を捨て、足を引き摺りながら前に出た。いつもの木刀は右手に、左手に水龍刀を持った京一もその隣に付く。 「佐久間という男を鬼に変えたのは貴様だな?」 傷付いていても一切衰えぬ鋭い眼光と声。もちろん、わざと言い掛かりを付けているのだ。その龍麻に何を見たのか、岩角の鬼気が少したじろいだ。 「違う…おでじゃない」 「嘘を付け!」 鞭打つような声音に、隣にいる京一までがビクッとする。それを向けられた岩角は本気で首を振って否定した。 「嘘じゃない…それは炎角のやった事…。だども炎角はあいづの望み叶えてやっただげ…。あいづは強くなりたいと望んでいた…だがら変えてやった」 ぐへぐへと笑う岩角に、龍麻はふんと鼻を鳴らしてみせた。一応、挑発のつもりなのだが、相手にとってはつもりでは済まない。龍麻がこれをやると、やられた方は恐ろしく馬鹿にされたような気分になるのだ。現に岩角は満身創痍の龍麻に馬鹿にされたと判ったのか、駄々っ子のように地団太を踏んだ。 「まるで新興宗教だな。では貴様らの望みは何だ。今更蘇って人を殺し、世を乱し、何を望む?」 龍麻としてはほんの挑発のつもりだったのだが、この岩角は思った以上に愚鈍であるようだ。そのため彼は挑発して下忍を出現させるという目的以上に、岩角から情報を引き出そうと試みたのだ。 「おでたちは、ある女を捜してる」 ピク、と京一の頬が跳ねた。龍麻も小さく頷く。 「それが【菩薩眼】って訳か?」 「ぞで…ぞど女を捜してる」 「【菩薩眼】を手に入れてどうする?」 「…ぞでは言えない…。言っだら九角様に怒られる…。お前たち殺すこど…おでの役目」 自分が喋り過ぎている事にようやく気付いたのだろう。岩角は片手を上げた。すると公園の木陰や茂みの中から茶色の忍び装束を着た鬼道衆忍軍が現れる。 「――小蒔!」 一瞬で敵の数、配置を見て取った龍麻は詰問の最中から用意していた手榴弾を岩角の足元に放り様、小蒔に合図を送った。 ――バシン!! 岩角の足元で炸裂する強烈な閃光! しかし龍麻の装備を知っている京一も葵も小蒔も瞬時に両目を手で庇っている。そしてそのまま小蒔が飛び出した。 「京一!」 「応ッ!」 スプリンターも遠く及ばぬロケットスタートをした小蒔を掠めるように、京一は水龍刀を振り下ろす。刀身の水龍文から吹き出した霧がザアッと小蒔を押し包み、岩角や忍たちの視界を遮った。途端に響く銃声。位置的に小蒔を遮る下忍三人の上半身が吹き飛ぶ。炸裂弾の威力だ。 「頼んだぜ! 小蒔!」 「気を付けてねッ!」 仲間たちの声を背に、小蒔は鬼道衆忍軍の包囲網を突破する事に成功する。それに気付いた中忍が追いすがろうとするが、小蒔は風よりも速く竹林の中へと、薄く煙を引きながら走り込んでいった。【封神演義】で語られる人造生命体【ナタク】が使用したとされる宝貝(パオペエ)、【風火輪】。それは使用者に高速移動能力を与える超古代兵器であったのだ。 「さて…俺たちはこれから正念場か」 霧を吹き出し続ける水龍刀を地面に突き刺し、京一は木刀を正眼に構えた。ほぼ背中合わせにスコーピオンを構えた龍麻が立つ。葵を護る形だ。実質、三対六〇。しかし龍麻たちは二人しか攻撃力を持つ者がいない。さらにその内の一人は銃こそ持っているものの、自由に動き回れるほどではないという有り様だ。 だが――今の彼らには迷いも恐れもない。 「まとめて面倒見てやるぜッ! かかってきなッ!」 京一の啖呵が、戦闘開始の合図となった。 ――…よ――。…虎よ――。白虎よ―― (やめろッ! 俺はそんな名前じゃない!) ――思い出せ…己の内の暗い欲望を…柔らかき肉の感触を―― (やめろッ! やめてくれ――!) ――喰らえ。――殺せ。肉を引き裂き、血を啜れ―― (やめろ…やめて…くれ…) タールのように黒々とした、掴んで引けば手に絡み付いてきそうな濃密な闇。そこに醍醐はいた。 自分以外は、否、自分の存在さえ定かではない闇の中なのに、囁きのようにも、大音声のようにも聞こえてくる声が盛んに彼を誘惑する。胃どころか身体の中身を全て吐き出してしまいそうな嘔吐感と、いっそそうなってしまえと思うほどの自己嫌悪。自らの存在を否定しそうになる度に、声は生温い誘惑の触手を伸ばして醍醐を絡め取ろうとする。 いっそ、暗黒に身を委ねてしまえばどれほど楽かもしれない――そう考えるほどに、醍醐の精神は追い詰められていた。 自分の中で、巨大な獣が唸っているのが判る。今やその獣は細い鎖で繋がれているだけだ。暴れ出そうとすれば、佐久間を殺した時よりもたやすく鎖を引き千切るだろう。 ――こいつを暴れさせてはならない―― 必死でそいつが暴れ出すのを押し留めようとしている醍醐であったが、そもそも心身ともに消耗しきっている彼である。自分が何の為にそいつを押し留めているのかすら、彼は定かに認識していなかった。最初はこの獣が暴れ出せば、佐久間にしたように、自分の大切な者たちを傷つけるから――と、考えていた。だから一人姿を消さねばならない――そう思った。しかし今はそれが卑怯な言い訳であるとの考えにもとらわれている。 ――そうだ…。お前は我らに近き者。あの男にとっては敵に過ぎぬ―― もっとも触れられたくない部分に、声が容赦なく染み込んでくる。 ――黙っていれば殺される。殺される前に殺せ―― (やめろ…! 龍麻はそんな男では…!) ――お前は友を殺した。今更戻れない―― (……) ――殺せ…食らえ…白虎よ…ッッ! 傷付き、弱った醍醐の精神を汚染していく誘惑の声が揺らいだ。 【…ナウマリサラバタタギャティビャク…サラバモッケイビャク…サラバタタ…】 ――不動明王咒…! ジジイめ…! 小癪な真似を…!―― この世の悪を浄化の炎で焼き尽くし、大慈悲を具現するという不動明王の真言。その独特の音調が精神の底無し沼に引きずり込まれつつあった醍醐をほんのわずか引き止める。 ――まあ良い。そうしていられるのも今の内だ。ククク―― 闇に同化していた瘴気が朝靄のように消えていくのを感じ取り、新井龍山は不動明王咒を唱え終え、静かに息を吐いた。 「人の弱き心につけ込むとは何と卑怯な…」 額に浮かぶ汗を拭い、龍山はふと、苦笑してしまう。あの男、緋勇龍麻ならそんな言葉は口にするまい。ごく簡潔に「それも戦術だ」の一言で片付けるだろう。 「雄矢よ…。己の内に篭ったままでは何も解決せぬぞ。このままでは…お主の心は確実にあやつらに囚われてしまう。そうなれば、お主が最も怖れている事が現実になってしまうのじゃぞ」 龍山は首を巡らし、それこそ人形のようにぴくりとも動かない醍醐を見た。 三日前、庭に倒れていたのを運び込んで以来、醍醐はこの状態が続いている。心臓は脈打ち、息もしているのだが、開かれたままの目には光がなく、何も映し出さない。多少の荒療治もやむなしとその横面を張ったりもしたのだが、今の醍醐は完全に外界の刺激から精神を遮断してしまっていた。醍醐がそこから出てくる気にならぬ限り、目覚める事は叶わない。 「…わしにはこうしてお主を護ってやる事しかできぬ。お主自身が強き心を持ち、立ち向かう勇気を取り戻さねば、お主はいつまでたってもそのままじゃ。いや、その前に奴らに取り込まれてしまうのじゃぞ…」 この三日というもの、龍山は一睡もせずに醍醐を護り続けている。若い頃に無茶をしたおかげでこの高齢にして見た目以上に頑健な体ではあるが、寸刻でも隙を見せれば醍醐に囁きかけて来る魔の誘惑を退ける為に術を掛け続け、さすがに限界に近付いていた。龍麻たちに連絡を取ろうにも、普段は訪ねてくる者とてない龍山邸であり、姿こそ見せぬままに鬼道衆の忍が包囲している。【彼ら】が自らここに辿り着かぬ限り、龍山は身動きが取れぬのである。 「龍麻よ――早う参れ。お主こそが――」 焦れたような龍山の呟きを、小さな鈴の音が遮った。竹林に施した結界に、何者かが入った時の警報である。そしてその鳴り方は、敵意ある者が侵入した時の音ではない。 「来たか…。――どうやら客人が来たようじゃぞ、雄矢」 目次に戻る 前(変生(後編) 1)に戻る 次(変生(後編) 3)に進む コンテンツに戻る |