第拾壱話 変生へんじょう(後編) 1




 
「…これじゃねェのか?」

 豊島区目白不動――その境内の中で、酷く苔むしながら、どこか清浄な雰囲気を漂わせる祠を見つけた京一は、同行して来た美里葵に声をかけた。

 他の者の姿はない。二人だけである。

「…本当に、私たちだけできて良かったのかしら…?」

 ここまで来る途中でも、葵はしきりにその事を口にしていた。しかし集合時間になっても龍麻、醍醐、小蒔は姿を現わさず、携帯電話での連絡も付かぬまま一時間待ち、予定通り不動巡りに行く事を決定したのであった。昨日の別れ際に、【珠の封印を最優先】と龍麻自身が言っていたのだから、京一はそれを忠実に守る事にしたのだ。

「仕方ねェだろ。三人とも連絡が取れなかったんだしよォ。醍醐と小蒔は判らねェが、ひーちゃんがわざわざ珠を俺に預けていったって事は、あいつ…ひょっとして囮にでもなってるかも知れねェしよ」

「龍麻…そういうトコあるからね…」

 そんな沈んだ雰囲気を破るかのように、京一の持つ白い珠が柔らかな光を放ち始めた。

「おっ、オッ、オッ!?」

 突然光り出した珠をもてあます京一。しかしその手から転がり落ちた珠は、同じように光を放っている祠にポンと吸い込まれ、見えなくなった。代わりに奇妙な形の金具――U字型の金属に、円盤を縦に取り付けたような物が出現した。

「な、なんだコリャ!?」

「カウボーイの拍車に似てるけど…あ、見て、京一君。祠が…」

 宝珠を納めた祠は、京一と葵の見ている前でその存在を薄れさせ、完全に消え失せてしまった。

「これは…結界が作用したっていう事なのかしら?」

「多分な。するってェと、この拍車みてェなのは珠の代わりになってたって事か。まァ良いや。こいつは貰っておこうぜ」

「でも…これはお寺のものじゃ…」

「良いって事よ。こんな拍車なんか、寺の方でももてあますさ。如月にでも聞けばこいつの正体も分かるだろうし、俺たちが持ってるのが正解だろうぜ」

 もはや祠は、そこにあった事を知る京一たちでさえ、本当にそれがあったと断言できぬほど完璧に消え失せていた。その代わり、周囲の空気が一層浄化されたようで、桜ヶ丘中央病院か織部神社にいるかのような気分にさせられる。

「――それが五色不動の【力】って訳ね」

 ふっと気を緩めた瞬間に背後からかけられた声に、京一も葵もビクッとする。しかしその声は聞き慣れた女性のものであった。

「エリちゃん…心臓に悪いぜ…」

「ふふふ、ごめんなさい。あなたたちが不動巡りをするって白蛾先生から伺っていたから、まずここに来ると思って待ってたのよ。ここ二、三日の取材中にも色々な事が分かったし、風水や陰陽道に付いてなら白蛾先生が誰より詳しいと思って訪ねたら、丁度あなたたちと入れ違いだって言うじゃない。それで…ね」

 そこで天野は、いつものメンバーが集まって来ない事に気付いた。てっきり分散して境内を捜索もしくは警戒しているのかとも思ったのだが、一向に姿を現わさない。

「今日は…二人だけ? 龍麻君はどうしたの?」

「…エリちゃんに隠してもしょうがねェな。三人とも連絡が取れなかった。そこでひーちゃんの言ってた通り、俺たち二人だけでも珠を封印しにきたって訳さ」

「そう…。今朝ちらっと小耳に挟んだんだけど、まさか新宿御苑のガス爆発には関係してないわよね?」

 京一と葵の顔がさっと強張ったのは、二人とも今朝のニュースでその事件の事を視ていたからだ。昨夜一同が解散して間も無い時間に、新宿御苑で大規模なガス爆発があり、今朝の段階でもかなりの数のパトカーが行き交い、新宿御苑から駅周辺までが騒然としていたのだ。そして現在でも詳しい事はまるで分かっていない。

「いや…多分、何の関係も無いだろうよ。第一、誰の家からも反対方向だしな」

「そうね…。またすぐ別の取材先に行かなくてはならないし…あなたたちだけでも少し時間を貰えないかしら? 鬼道衆に付いて新しい情報が入ったの」

 本当は龍麻がいれば、例のプロファイリングで新たな推測が聞けるのだけど、と天野は付け加える。しかしとにもかくにも、京一と葵は天野の話を聞く事に同意した。なるべく人に聞かれないようにと、木陰に移動してから天野は取材ノートを取り出す。

「まず、今更とは思うのだけど、鬼道衆の目的に付いて…」

「…東京の壊滅だろ? 奴らが自分で言ってた事だしよ」

 これまで倒した二匹の【鬼】。水角と風角の呪いに満ちた言葉を思い出し、京一も葵も思わず身をぶるっと震わせる。

「でも、それだけなら、わざわざ水岐君や他の人たちをそそのかして猟奇事件を起こす必要はないわ。龍麻君も言っていたでしょ? 東京を壊滅させるだけなら某団体がやったように細菌やガスを撒くとか、福島の原子力発電所を破壊するとか、【その気】になればいくらでも確実な手段があるって」

「…鬼道衆は東京を壊滅させる事に【本気】ではない…そういう事ですか?」

「その可能性を、私なりに調査してみたのよ。そしてたどり着いたのが白蛾先生や、織部神社という訳。そして織部神社では、江戸時代に書かれたという興味深い書物を見せていただいたの。そこであなたたち――【菩薩眼】って聞いた事ある?」

 京一と葵は互いに顔を見合わせる。今まで頭脳労働は龍麻に頼りっぱなしであった事を痛感する二人であった。そして雑学に関して、龍麻は恐ろしく詳しい。

「知らないのも無理はないわ。私だって結構色々な資料を漁ってきたけれど、初めて聞く単語ですもの。だからこれから話す事も聞きかじりなんだけどね…」

 【菩薩眼】――別名、龍眼。

 元来は中国の少数民族である客家(はっか)によって伝えられた、風水理論に基づく伝説。曰く【地の龍乱れし時、その瞳持ちたる者現われ、衆生を浄土へと導かん】――つまり、龍脈が乱れる時、【菩薩眼】という能力を持った者が現われ、人々を幸福にするというのだ。

「その瞳は【気】の流れを読み、太極を視ると言われているの。でもなぜかその能力は女性にしか発現せず、また、その女性を手中に納めれば大地の力を我が物にできるという事で、風水に詳しい時の権力者達は競って【菩薩眼】を有する女性を捜し求めたらしいわ」

「え? でも…風水そのものは学問として確立されている筈じゃ…」

 織部姉妹に話を聞いた後、自分なりに風水に付いて調べた葵である。中国本土、香港、台湾などには専門職である【風水師】がいて、伝統の学問を研究しつつ、最近ではビルやオフィスを建てる際に建物のデザインや壁の色などのアドバイザーとして重宝されている。風水とは神秘性を帯びつつも、綿密な計算式を持つ立派な学問なのだ。当然、学ぼうと思えば誰でも学ぶ事が出来る。

「そう。大地の【力】を利用する学問が風水。当然、風水を学ぶ者は多いし、現代でも様々な場面で風水理論は利用されているわ。――でも、考えてみて。例えば【三国志】の諸葛孔明しょかつこうめい。蜀の劉備玄徳りゅうびげんとくは二度まで門前払いされながらも、三度まで彼を訪問し、遂に諸葛孔明を蜀の軍師に迎える事が出来た…これが有名な【三顧の礼】だけど、これ一つ取ってみても、風水がいかに権力者たちに重要視されていた事が解るわよね」

「はい」

「諸葛孔明は自分の風水の知識をフルに活用し、蜀の勝利に貢献したわ。でも、最終的に勝利を納めたのは魏の曹操孟徳そうそうもうとく。――おかしいと思わない? 諸葛孔明の風水が真に正しければ、歴史の天秤は劉備玄徳に傾いた筈なのに」

 あ…と葵は口元に手をやる。確かに風水がそれほどの効果を持つなら、蜀が負ける事はなかった筈だ。

「――この点が、風水否定派の人たちが指摘する所なの。日本でも最大の風水都市京都が繁栄したのは都の建設からせいぜい二百年足らず。風水が正しいものならば未来永劫、繁栄を極めている筈だ――ってね」

「そいつは――勉強不足ってもんだろ?」

 意外と言えば意外な京一の言葉に、天野は「お!?」という顔をする。

「ひーちゃんが言ってたぜ。自分ができることは相手もできると思え。自分が持っている武器は明日にも無力化されると思え――ってな。その諸葛なんたらが凄い奴だってんなら、もう片方だってそいつに対抗できそうな奴を探すだろうさ。風水一つで勝つの負けるのなんて考え方は、核武装と同じでどうかしてるぜ。それに京都だって、どんなに良い街を作ったって、そこに住んでいる奴らが掃除しなけりゃ汚くもなるさ」

「そう…。正にその通りなのよ、京一君」

 自分の言いたい事が伝わるのは龍麻くらいか…と、少々失礼な事を考えていた天野は反省と満足を表情に乗せた。

「風水に絶対性が無いように思えるのは、そこに存在する大地、自然は元より、そこに住む生き物や人々までが密接に絡んでくるからなのよ。風水において大地を【龍】と称するのは決して比喩的な表現ではないわ。大地ガイアとはそこに住む生物全てを内包する生き物として常に活動しているものの事。つまり、その動きを割り出す学問が風水なんだけど、生き物だけに気まぐれな動きも見せるわ」

 好例がある、と天野は取材ノートのページをめくった。

「ある場所に最高の風水の地があって、そこに儀式に則ってお墓を建てたら、なぜか悪い事ばかり起きる。そこでより深く研究していったら、およそ五百年に一度、陰陽が逆転する事が判明したの。最高が最悪に、最悪が最高になる訳ね。――もう一つの例はもっと面白くて、最高の風水の地を見付けて、お墓を建てる準備も万全に整えて、あとは計算した埋葬時間を待つばかりだった時、下男の一人が木陰で用足しをしてしまったのよ。風水師は驚いて止めようとしたんだけど、時既に遅く下男は大地を汚してしまった。すると森の中から巨大な鳩が飛び出して逃げ去って行き、風水師は落胆して【もうここに山の精気はない】と言って帰ってしまったというのよ。このケースでは大地の【気】が鳩の形に具現したのね。――これはおまけだけど、恐らく【青龍】とか【白虎】とか、人々に崇められている霊獣はそういう形で人々の目に触れてきたんじゃないかしら」

 そこで天野は一つ息を付いた。

「前置きが長くなったけど、風水は神秘的な学問ではあるけれど、数学や物理のように絶対的なものではない。それは対象が大地、自然、生き物そのものだから。ところが【菩薩眼】には、その生き物たる気まぐれな部分をも視る事が出来るというのよ。つまり【菩薩眼】を持つ者は、特別な計算や複雑な儀式を抜きにして、常に最良の【力】を得るポイントを見付ける事が出来るという訳ね」

「…なんとなく解ったぜ」

 京一が後を継ぐ。

「権力者にとっちゃ、人々の幸せなんかより、自分の為に大地の【力】が欲しいんだよな。それを確実に手に入れる為には学問としての風水より、【菩薩眼】を手に入れた方が手っ取り早いって訳だ」

「…ひどい話…」

 ポツリ、と呟き、葵は我が身を抱き締めた。そんな【力】を有するがゆえに、本人の人格も何も無視して、時の権力者に狙われる。本人はそんな能力など、権力など望まないかも知れないのに。それを葵は、酷くおぞましいものに感じた。

「そう…ひどい話ね。でもここからもっと酷くなるの。その書物には、鬼たちが【菩薩眼】の女性を攫っている様子も書かれていたのよ」

「何だってェ!?」

「どうやら江戸時代にも、人と鬼の間で【菩薩眼】を巡る戦いがあったようね。そして当時の人々がその鬼の事をなんと呼んでいたか。それが――鬼道衆」

 今この場に龍麻がいれば…! そんな事を考えても仕方ないのだが、どうしてもそう思ってしまう二人であった。

「それでは、今私たちが戦っている鬼道衆も…」

「…その可能性が高いわね。もし鬼道衆が起こしてきた事件が【菩薩眼】に関わる事であるなら、彼らの無差別テロも説明付けられるわ。東京を壊滅させるのではなく、混乱に陥れる事で龍脈を乱し、【菩薩眼】を有する者を覚醒させる為だとね」

「そんな…」

 今まで犠牲になった人々の事を想い、葵は絶句する。

「たった一人の【力】を覚醒させる為だけにそんな事を…!」

「ふざけやがって…そんなくだらねェ理由で…!」

 この時ばかりは相当腹に据えかねたものか、京一は不快な表情を隠そうともしない。

 二人の気分を慮ってか、天野が話を切り替えた。

「なぜ【力】が…【神威】がこの時代に発現したのかしら?」

 二人とも、慌てて天野の言葉に耳を傾ける。

「あなたたちに出会って以来、ずっと考えていたの。なぜあなたたちのような若者だけに【力】が発現したのだろうって。なぜ、私たち大人ではなく…」

 その疑問を、龍麻たちも考えないではなかった。以前、龍麻は言ったものだ。



 ――【未来を切り開くなら、未熟でも若い方が良いだろう。未来を憂う者が棺桶に片足を突っ込んでいるようではいかん】



 あれは、政治の有り様に対して龍麻が述べた感想であったが、【力】に関しても同じ事が言えるのではなかろうか? 

「でも、もう考えない事にしたの。あなたたちは選ばれたのだから。この街か…時代にね。――実はね、これだけの事が目の前で起こっているのに、手をこまねいて見ている事しかできない自分に腹が立っていたのよ」

「そんな事はねェぜ、エリちゃん。いや、情報将校殿」

 京一は龍麻の口まねをして、敬礼した。

「ひーちゃんならこう言うだろうぜ。――【天野殿の情報があるからこそ、我々は理想的な戦術を組み上げて行動できる。情報将校殿に、敬礼!】ってな」

「そうです。天野さんの存在があればこそ、私たちのような子供が貴重な情報をいただけるんです。私たち、とても感謝しています」

 いくら龍麻がその筋のプロだとしても、余り大っぴらに情報を集めるという訳には行かない。葵の言葉は真実であった。龍麻は余り口にしないが、天野を【情報将校】と呼んだ時から、重要人物として認識している。

「あら、励ますつもりが、私の方が励まされちゃったわね。…ありがとう。私もできる限りの事をするから、これからもよろしくね。龍麻君や醍醐君、小蒔ちゃんにも、よろしく伝えて」

「解ってるって。エリちゃんも、気を付けてな」

 天野はこれから、【菩薩眼】や九角に付いて心当たりの有りそうな人物を片端から調べるという事で、京一、葵とはここで別れる事にした。

「また…謎が深まったみたいね」

「それを考えるのはひーちゃんに任せようぜ。俺たちは早いところ、コイツを封印しちまおう」









 都内の神社仏閣に詳しい葵に導かれるまま、目白から渋谷を経由して三軒茶屋まで移動し、路面電車が走ったり、店先で喧嘩を売っているのではないかと思うほどのだみ声で「らっしゃい!」とか「安いよ安いよ!」との声が飛び交う商店街を抜け、二人は目的地の目青不動にたどり着いた。

「へぇー、こんな街中に寺があんのかよ」

「うふふ、京一君たら。元々お寺というのは地域社会に密接に結びついているものなのよ。ある時は信仰を集め、学問を修めるところでもあり、人が亡くなった時は葬儀も執り行う…。京一君の場合は、真言宗の高野山のイメージが強いのかしら?」

「…なんでも良いけどよ、俺には寺なんて辛気臭いところは似合わねェんだよ。早く行こうぜ」

 ここも目白不動と同じで、境内に入った途端、街の喧騒がにわかに遠くなる。清浄な空気に満たされている感じも同じだ。京一も葵も、より雰囲気が清浄に感じられるところに祠があるだろうと見当を付け、肌で感じるままに境内を進んでいく。すると、目白不動で見たものとまったく同じ祠が発見できた。

「…見れば見るほど、ただの祠だよなァ。鬼を封じていたって割に、どうもチャチに見えるぜ」

「――ああ!? 鬼やてぇ?」

 どうも今日は、突然背中から声をかけられる事が多いようだ。京一の手は反射的に木刀にかかっていた。

「あんさんら、今、鬼ゆうたな?」

「なんだ、テメエ」

 葵を背後に庇うように、京一は男の前に立った。男と言っても、学生服を着た少年である。しかも怪しげな関西弁を使うくせに、どう見ても中華系の顔立ちなのだ。更に、目元に刀傷が走っているために人懐こそうな顔立ちが損なわれ、ぱっと見には難癖をつけているかのようだ。

「わいはただの通りすがりの留学生やねん。今はふぃーるどわーくの最中やねんけんど、あんさんらも、ここに鬼が出るゆう噂を聞いてきはったんか?」

「鬼…?」

「そや。あんまり遅うなるまでうろついとると、鬼に食われてまうで。せいぜい、気ィ付けや」

 そう言うと、少年はさっと身を翻した。背中には布で包まれた幅広の刀のようなものを背負っている。しかし何者なのか解らない。

「今の人…鬼って言ってたけど…」

「特に危なっかしい【気】は感じなかった。大丈夫だろ。それより――おっと」

 京一がポケットから取り出すなり、珠が柔らかく光り始めた。

「珠の色と不動の色は一致するのね。間違いなく」

「そうらしいな。…封印するぜ」

 京一が祠に玉を転がすと、やはり珠は吸い込まれ、代わりに装飾の施された刀が出てきた。刀となれば俺の出番と、さっそく抜いてみる京一。反りのない直刀で、刀身には水龍文がびっしりと彫り込まれている。試しに振ってみると、刀身がさあっと霧を吹いた。

「なんだコリャ? どういう仕掛けだ?」

「京一君、はっきりした事が解るまではあまり触らない方が良いわ」

 旧校舎の探索で見つかる遺物にも、得体の知れないものは数限りなくある。龍麻はそれらを集めはするものの、如月の鑑定が済むまでは極力手を触れぬようにしろと仲間たちに厳命している。その意を汲んでの葵の言葉に、京一も刀を鞘に納め、帰路に付いた。

「これで二つ…。手持ちの珠は封印できたって訳だが…」

「後は私たちだけではどうしようもないわね」

 帰りの電車の中で、二人はそんな事を話し合う。

「こちらから打って出るって訳じゃねェからな。…こういうのは性に合わないぜ」

「龍麻に頼りっぱなしで悪いとは思うけど、本当に、こういう時は龍麻に頼るしかないわね」

「あいつだって俺たちを頼りにしているさ。口には出さねェけどな」

 とにかく今は静観するしかない。京一はそう話を締めくくった。たった一日顔を見なかったくらいでおたおたするようでは、この先とても龍麻と肩を並べて戦えるものではないと思ったからだった。

 しかし、この先丸二日、龍麻、醍醐、小蒔が姿を現わす事はなかったのである。









 珠を封印して早三日目の朝、HRぎりぎりになっても、待ち人は姿を現わさなかった。

「やっぱり皆の身に何かあったんじゃ…」

「悪い方に考えるなって。小蒔は家にいたんだろ?」

「ええ。でも、電話口にも出てくれないなんて…」

「ああ、それなら多分――」

 せめて雰囲気を明るくしようと思い付いた冗談を、京一はかろうじて呑み込んだ。本気で三人を心配している葵に、醍醐と小蒔が痴話喧嘩したなどという冗談を言ったら、後でどうなるか解ったものではない。

 その内に、マリアが教室に入ってきた為、京一は席に戻らざるを得なくなった。

「それでは朝の伝達事項から――」

 ありふれた言葉から始まる、ありきたりの光景。京一は、それが一瞬で崩壊する可能性だってあるんだぞと心中で毒づいた。伝達事項が相変わらず、佐久間に関する事だった事も不機嫌に拍車をかける。

 京一の脳裏に、ふと、夏休みの補習の合間、昼食を摂る為に醍醐と屋上にいた時の事が過ぎった。





【京一、お前…最近の佐久間に付いてどう思う?】

【あ? 俺には男を観察する趣味はねェよ】

【そう言うとは思ったが…。最近のあいつは何かにイラ付いているようだ。前以上に暴れまわっているらしい】

【ひーちゃんに勝てねェからだろ。身のほど知らずってのはあいつの事だぜ。そういや、雨紋に藤咲、紫暮から苦情が来てたな。ひーちゃんが即刻殲滅を宣言したらそこまでしなくて良いとは言ってたけどよ】

【ああ…】

【お前が奴を気にかけるのは勝手さ。だがあの馬鹿は気にしちゃいねェぜ。むしろ煙たがってる】

【そうだな…。分かるよ】

【おせっかいもいいが、程々にしておけよ。勝者が敗者に優しい言葉をかけるのはスゲェ侮辱になるんだ。お前も分かってる筈だぜ】

【うむ…。だが、京一。俺たちの【力】は、本当に何の為にあるんだろうな】

【何だよ、薮から棒に。別に良いじゃねェか。あって困るモンでもねェし、人には無いモンを持ってるってのは気分が良いじゃねェか】

【…そう考えられるお前が羨ましいよ】

【何だァ? ひーちゃんだけじゃなく、お前まで俺を馬鹿にするつもりか?】

【そうじゃない。確かに俺たちの【力】によって助けられた人たちはいる。しかし、【力】を持ったところで、やはり助けられない人がいるのも事実なんだ】

【紗夜ちゃんとか、水角に化け物にされちまった人たちの事か?】

【それもある。そして、目の前の事も】

【それが、佐久間って訳か?】

【俺は凶津の時にも何もできなかった。龍麻のおかげで少しは解り合えたようだが、それでもかつての友をまた警察に渡してしまった。もう、あんな思いはしたくないんだ。そして俺は龍麻のように強くはない。あいつは自分以外の大勢の為に、平然と人を殺せるだけの精神力と、それによって生じる恐れや憎しみを受け止めるだけの器量もある。そして何より、自分自身の弱さをまっすぐに見据えられる強さもある。だが、俺はそこまで強くはなれない。化け物に変えられてしまった人たちを殺した時、一人になってから恐ろしくなって吐いたよ。身体の震えが止まらなくて、一晩中眠れなかった。あの時、龍麻が【帰れ】と言った理由が今ならはっきり解るよ】

【そいつは、誰だって同じさ。仕方ないで片付く問題じゃねェからな】

【だがこの先も、人を殺す事になるかも知れん。やむを得ない場合もあるだろうが、願わくはそんな事態になって欲しくはない。そしてこの【力】が、人を効率よく殺す為の力などであって欲しくないんだ。そんな【力】など…俺は欲しくない】

【お前の気持ちは解らなくもねェが…なんでも背負い込み過ぎるなよ。その内そのお堅い頭が破裂しちまうぞ】

【ああ。そうだな…】





「それから今日の欠席者は…醍醐君に、緋勇君に、桜井さんね」

 ふうっと憂いを秘めた顔でため息を付き、マリアが出席簿に印を付けようとしたところで、教室前方のドアがカラカラと力なく開いた。

「桜井さん…」

「…遅れて済みません…」

 これがあの、元気が零れそうだと称される小蒔か!? このところ学校以外でも付き合う時間の長い京一や葵には、それは別人だと疑いたくなるほど、今の小蒔は憔悴し切っていた。

「…桜井さん。とにかく席に付いて」

「は…はい…」

 声にも覇気がまったく感じられない。それどころか、明らかに打撲傷の跡と思われる痣が顔にもいくつか浮かんでいた。

(こりゃ、ただ事じゃねェ…!)

 京一が机の下でギュッと拳を固めた時、一度閉まったドアがもう一度開かれた。

「遅れて申し訳ありません。緋勇龍麻、参上しました」

「ひ、緋勇君ッ!?」

「ひーちゃん!?」

 マリアにつられ、京一も思わず席を立ち上がって声を上げてしまった。

 そこにいたのは、正しく満身創痍。体中を包帯とギプスで固め、杖まで突いた真神の少尉殿、緋勇龍麻であったのだ。

 誰が龍麻をこんな目に遭わせる事ができる!? 龍麻の事だから、事故という事は絶対に有り得ない。死蝋の一件以来、重武装している彼だから、不意の襲撃に対しても滅多に不覚を取る事はない筈だ。しかし現実に、彼の額から右半顔にかけて血の滲む包帯が巻かれ、左腕は肘から先が指先まですっぽりとギプスに包まれ、右足も膝から下が同様に分厚くギプスで固められている。杖を突いている右腕も小指と薬指、そして親指が包帯に包まれている。

「緋勇君…大丈夫なの?」

「問題ありません」

 かなり本気でうろたえているマリアに対しても龍麻は胸を張って答え、杖を突き、足を引きずりながら自分の席に向かった。

(何だってこうも一遍に悪い事が重なるんだよ! ったく!)

 京一は心中で悪態を吐いた。









 マリアが教室を出るや否や、京一はすぐさま龍麻の席にやってきた。憔悴し切っている様子の小蒔も、龍麻の凄まじい姿に触発されたか、おずおずと近寄ってくる。

「龍麻…何があったの…?」

 聞くべき事、言うべき事は他にもたくさんあるような気がしたが、今の葵にはそう聞くだけで精一杯であった。

「その前に…どうした小蒔? 元気が無いな」

「えっ…そ、そうかな…」

 龍麻の怪我も気になるが、京一はすかさず龍麻をフォローする。

「そうだぜ小蒔。お前は能天気さだけがウリなんだからよ」

「…ゴメン」

 普段の彼女なら有り得ない返事に、京一と葵は同時にため息を付く。

「ちっ、やっぱり嫌な予感が当たっちまったか…」

「…説明しろ」

 龍麻には状況が分かっていない。彼は完全に別行動だったと知り、京一は簡潔に説明した。

「醍醐の奴も来てねェんだよ。不動巡りをする前から、連絡が取れねェ」

「醍醐が?」

 龍麻がその名を口にした瞬間、小蒔の顔に脅えが走った。そして龍麻の怪我を見て、わなわなと震え出す。

「病気で休んでたなんて、嘘だろ? 何があったのか、俺たちに話してみろよ、な?」

 声のトーンを落とした京一の言葉に、しかし小蒔は黙りこくっているだけであった。

「話せよ、小蒔。さもなきゃ、俺は一生怨むぜ」

 小蒔は顔を上げたものの、声に詰まっているのか、中々話し出そうとしない。

 ややあって、龍麻が宣言した。

「ここでする話ではあるまい。移動するぞ」

 今までにない重傷の身でありながら、龍麻の声から威厳は失われていない。授業をエスケープする事も構わず、彼は杖を突きつつ先に立って教室を出た。

 いつも話題の四人が出ていった事で、残されたクラスメートたちの間で盛んに噂が飛び交ったのだが、それは四人にとってさしたる問題ではなかった。









 屋上に辿り着くまでに、龍麻が実は酷く無理をしている事を知った小蒔は覚悟を固め、問われるまでも無く、先日目の前で起こった出来事をありのまま語った。

 醍醐の変貌と、大虐殺。鬼と化した佐久間。二人の死闘と、結末。

 小蒔が目を覚ました時、醍醐は見る影も無いほどに巨体を縮こまらせていた。





 ――俺は、佐久間を殺した

 ――俺の姿を見ただろう。化け物のような姿を

 ――俺は…桜井…俺は…





「…あの野郎」

 小蒔の話を聞き終えた京一は、腹の底から絞り出すかのような声で悪態を吐いた。

「醍醐君は、きっと私たちに迷惑をかけまいとして…姿を…」

「それがテメエ勝手だって言うんだよ! あいつは前からそんなトコがあんだ! クソッ! 俺たちがそんなに頼りにならねェのか!」

 親友である自分にも何も言わずに姿を消した事が腹立だしくて仕方ないのだろう。京一は屋上のフェンスを思い切り蹴飛ばした。

「…なぜ、もっと早く俺たちに…葵たちに知らせなかった?」

 龍麻の口調は、責める者のそれではない。しかし小蒔は、ビクッと体を震わせた。それだけで龍麻には、小蒔が口にしない事まで解ってしまった。

「京一。体育館裏にそんな痕跡が残っていたか?」

「…いや。第一、そんなものが残っていたとしたら大騒ぎにならねェ訳がねェ」

「うむ」

 すると、誰かが故意に痕跡を消したか。しかし死体が消えていたとしても、二〇人からの若者が一晩で失踪したとなると、いずれ何らかの形で世間が騒ぎ出すだろう。佐久間との付き合いが取り沙汰され、醍醐への復讐に向かったなどの証言があれば、醍醐は不利な立場に立たされる。まして醍醐は失踪中。それが発覚すれば醍醐は参考人から一気に容疑者へと上げられてしまう。

「…ひーちゃん。なに考えてる?」

 沈黙に耐え兼ね、京一が口を開く。今にも爆発しそうになる自分を押さえているのが解る口調だった。

「醍醐の居場所。死体を処分したのは誰か。その他、色々だ」

「醍醐の居場所!? そうだ…それが一番問題だぜ! 俺たちに一言の相談もなく…! 一発ぶち込んでやらねェと気が済まねェぜ!」

「それは構わんが、無駄に体力を浪費するな」

 そう言い、龍麻は葵に良く動かない指でサインした。治せという事らしい。

「一刻も早く醍醐君の行方も知りたいけれども、龍麻は一体何があったの? これほどの怪我なんて今まで一度もした事なかったでしょう?」

 それを聞いて、京一も我に返る。小蒔も。タイミング的に変身した醍醐と戦ったのかと思った小蒔であったが、龍麻の怪我は醍醐の件とは基本的に無関係らしいとなれば、そちらも気になる。

「うむ。不覚だった。――佐久間の舎弟が爆弾を抱えて特攻してきたのだ。とっさに近くのマンホールに飛び込んだのだが、体機能の六五パーセントに及ぶダメージを受けた。幸い近くに知り合いがいて桜ヶ丘に搬送されたのだが、目覚めたのは今朝だ。それまで院長も舞子も俺の治療に掛かり切りで、お前たちに連絡を取る暇もなかったらしい。半ばちぎれた左腕と右足を接合し、俺が目を覚ました段階で院長も舞子も倒れてしまい、今は休んでいる最中だ」

 ごく簡潔な説明に留めたものの、実際にはそんなものでは済まなかった龍麻である。龍麻の意識が退避不能を感じた瞬間、彼のゴースト【ナンバー9】が起動し、マンホールの蓋を発剄で破壊して逃れたまでは良かったが、爆発が余りに凄まじく、思ったより浅かった下水道が落盤を起こしたのである。その際、瓦礫と鉄骨の直撃で骨折多数の他、左肘と右足首を切断するという重傷を負ったのだが、幸い近くを通りかかったのが新宿の裏世界に君臨する【九頭竜ヒュドラ】の総帥李飛鴻リー・フェイオンで、彼の鍼灸術とアラミド繊維よりもなお強い【霞刃】による縫合で龍麻は命を取り留めたのだ。龍麻を桜ヶ丘に搬送したのも李である。

「佐久間が…そんな事を…?」

 醍醐の件に加え、龍麻を殺す為に佐久間が舎弟を人間爆弾に仕立てたという事実に、さすがに京一も葵も蒼白になる。しかも、大言壮語しない龍麻が、「腕と足がちぎれた」と言ったのだ。彼にそれほどの重傷を負わせたなど…!

「気になるのは、その手口が俺の【仲間】が初めて殺された時と同じだったという事だ。TNTにナパームジェリー…。いずれも佐久間程度の者が手に入れられる代物ではない。そしてタイミングを合わせた醍醐の異変。どう見ても佐久間のスタンドプレーではあるまい」

 龍麻の推理に、小蒔がうつむきながら肯く。

「ボクもそう思う…。佐久間が自分で言ってた…。ひーちゃんがレッドキャップスだったって事も知ってたし、ナンバー12って人を殺した時の手口だって…」

「……」

 それが、言ってはならない事だった事だと思い当たり、小蒔は蒼白な顔で「ゴメン!」と言った。

「恐かったんだよ…。醍醐君があんな事になっちゃって…。ひーちゃんがそんな目に遭ってるなんて知ろうともしないで…醍醐君が…ひーちゃんに…殺されちゃうかもしれないって…!」

 後はもう声にならず、小蒔はその場にくずおれて泣くだけであった。龍麻に治癒術を掛け続けている葵に代わり、京一がその肩に手を置く。小蒔はたった一人で、それほど辛い思いを抱え込んでいたのだ。最も頼りとできる仲間たち自身が、仲間の命を奪う可能性があるという現実。それがどれほど残酷で辛いものか。

「…俺と醍醐に対する襲撃が偶然でないならば、狙いは醍醐だな」

「え…?」

「小蒔。醍醐は戦闘終了後、元に戻ったのだろう?」

 哀しみも憐れみもない、無感情な龍麻の声。しかし小蒔は肯いた。

「ウン…。それに、今まで見た鬼とは違うような気がした…」

「鬼と化した者は決して戻れない。水岐の場合は既に死に行く肉体であったのと、葵の【力】が作用した一種の奇跡だ。それを考慮すると、醍醐は鬼になったのではない。何か、別のものだ」

 まだふらつく足取りながら、龍麻は葵に「もう良い」と告げ、立ち上がった。やっと右手だけがまともに動かせる状態だが。

「何者か、俺たちの情報を掴んでいる者がいる。いずれにせよ、狙われているのは醍醐だ。――全員に臨戦態勢で待機を命じろ。葵と小蒔はアン子、裏密と合流して醍醐の情報を当たれ」

 ポケットから取り出した小切手帳を放り投げる龍麻。葵はそれを慌てて受け取る。

「アン子には好きな数字を書けと言え。一億までならキャッシュで出せる」

 凄まじい事を平然と言ってのける龍麻だが、それだけ今回の件は重要だという事だ。

「私たちだけ? 龍麻は…?」

「俺は目下、戦闘不能だ。しかし今は動かねばならん。京一がいれば問題ない」

 敵と遭遇しても、今の龍麻はまともに銃を握る事さえできない。桜ヶ丘で、そして今葵に治癒術をかけてもらったとは言え、全身打撲と骨折、加えて左腕と右足を失うところだったのだ。今、まがりなりにも五体が揃っているのは奇跡に近い。

「醍醐は恐らく、自分の殻に閉じこもっているだろう。新兵が良くかかる病気の一つだ。初めて人を殺した時、自己を嫌悪すると同時に、人を殺せる自分に酔う。身に付けた技術と力を思う様使える歓喜。絶え間ない恐怖と緊張、そして敵を殺し自分が生き残る事への快感。醍醐は佐久間を殺す事でそれを知ってしまった。殺しという美酒、殺戮という麻薬の味を。――今はまだ自ら塞ぎ込んでいる状態だろうが、そこから出てきた時、醍醐がどちらを選択するか。殺しの誘惑を断ち切り、力なき者の為に闘う者となるか。それとも、殺戮の快感に酔い痴れる悪鬼となるか。――急げ。一分でも早く、醍醐を見つけねばならん」

「う、ウン! 判った」

「龍麻はどうするの?」

 右手一本でウッズマン――久々の使用である――の初弾が薬室に納まっているのを確認し、ホルスターに納める龍麻に葵が問う。

「裏の情報網の他、もう一つ心当たりがある。情報源は多いに越した事はない。――困難な作戦だが、必ず成功させる。各自、行動開始だ」

 龍麻が宣言し、メインメンバーの一人を欠いた【真神愚連隊】は行動を開始した。









 龍麻たちと別れた葵と小蒔は、その足で新聞部の部室を訪れていた。

「アン子…いるかなぁ…?」

 醍醐の失踪という事態に、やはり学生であるアン子の情報収集能力に頼るのは若干の不安があるらしい。小蒔の声にはまだ力が感じられなかった。

「何か新しいネタを見付けたとかで、毎日飛びまわっているという事だけれども…」

 部室のドアをノック。すると奥から声がした。

「だ〜れ〜? 今忙しいのよ〜」

「良かった、アン子、いたよ。…でも、何だか喋り方が変…」

 とりあえず中に入らないと始まらないので、部室の中に入る葵と小蒔。――と、一歩部室に足を踏み入れて驚いた。新聞部が乱雑に散らかっているのはいつもの事だが、今日は特に凄い。床一面、足の踏み場もないほどに新聞の残骸が散らばっていたのである。

 そして、当のアン子も髪はクシャクシャ、服装も乱れ気味、眼鏡が少しずれているのも気にせず、新聞から記事を切り抜くのに没頭していたのである。

「あら、美里ちゃんに桜井ちゃん。今日は二人だけなの?」

 龍麻たちは五人でセット。これは真神の生徒の共通認識であるらしい。

「ええ…ちょっと今日は別行動を…。――アン子ちゃん、今日はちょっとお願いがあって来たんだけど…」

 アン子はまだ、龍麻の真の姿を知らない。葵はなるべく深刻さが表情に出ないように切り出したのだが…それがまずかったようだ。

「ん〜、弱ったわねぇ。今、ちょっと忙しくてさぁ」

 余り重要な用件と捉えなかったのか、普段なら謝礼の交渉に入るアン子が首を横に振る。

「ここのパソコンだと遅くてさぁ。結局力仕事になっちゃったのよねぇ。最新型のパソコンなら検索条件だけ入力すればものの十分で終っちゃう仕事なんだけど…」

「それで、新聞の切り抜きやってるの? 今度のネタってなんなのさ? この事件が片付いたらボクが手伝うからさっ」

「ん〜、桜井ちゃんが…って、ダメダメ! そもそも素人が首を突っ込むには危険なネタなんだから!」

 ようやく、顔がシャン! とするアン子。

「アン子ちゃん、余り危ない事はしない方が…」

「――なに言ってるの、美里ちゃん! ジャーナリストは時に危険に飛び込むものなのよ! 特にアンタたちみたいに、陰ながらこの街を護っている者たちの事を、一般大衆は知らなければならないのよ! あ、勿論、その正体に迫るって訳じゃないわよ? ただねぇ…陰に隠れている人たちが命を張って戦っているからこそ、アタシたち一般大衆が何も知らずに笑っていられるかと思うと、ちょっと…ね」

 珍しいアン子の物言いに葵も小蒔も「!?」となる。アン子は龍麻たちに何かと情報を提供してくれているが、【力】を持たぬという理由で、龍麻は彼女に真実を包み隠さず明かすというような事はしていない。それでも彼女をそれなりに重要視している事は間違いないから、彼は言っている。――「アン子は情報収集係として立派に戦っている」と。

「アン子ちゃん…ひょっとして、誰かそういう人を知っているの?」

「え!? あ、ああ、まあ、そうね」

 そこで、ますます珍しい反応。アン子は頬を赤く染め、もじもじと視線を逸らしたのだ。その瞬間に誰か人の名のようなものを呟いたが、良く聞き取れはしなかった。

「ま、まあ、そんな訳で、ちょっと関連性のある事件を首っ引きで調べている最中なのよ。悪いけど…」

「アン子ちゃん…次の生徒会の予算案でパソコンの事、考慮しても良いけど…」

「え!?」

 葵らしからぬ言動に、アン子の目が爛々と輝き出す。葵の申し出は、明らかに職権乱用である。つまり今度のネタはそれだけ大きいという事なのだ、と。

「あ、そう言えば葵、ひーちゃんに小切手預かっていたでしょ? それで良いんじゃない?」

「龍麻の小切手!?」

 ますます輝くアン子の目。龍麻は謝礼に糸目を付けるような真似はしない。パソコン云々は時間が掛かるとしても、こちらの方は即金が期待できる。旨く行けば一万円くらいは…と、考えていたアン子であったが…葵から受け取った小切手帳を見て、眉を顰めた。

「…金額が書かれてないけど?」

「ええ。龍麻が言うには、好きな数字を書けって…。一億までならキャッシュで出せるからって…」

 それがどれほど重大な事を言っているのか、葵も小蒔も正しく認識できていないと知ったアン子は、小切手帳を閉じてハアッと盛大にため息を付いた。

「…アンタたちねえ…アタシがそこまで冷酷非情な守銭奴だなんて思ってるワケ?」

「え!?」

「未記入の小切手を差し出すって事がどれほど大変な事か解ってるのッ!? 龍麻がこのアタシを頼れって言ったって事は、メチャメチャ重要な事を聞きに来たんでしょッ!? アタシの情報が欲しいならせいぜいやきそばパン一週間で良いのよっ! なんでそんな時に変な遠慮するのよ!」

 いきなり捲し立て始めたアン子の剣幕に、葵も小蒔も圧倒される。今の彼女の怒りようは、京一にビンタをくれる時のような軽いタッチのものではなかった。そんな重要な時に変な先入観を持たれた事に対する怒りであった。

 しかしアン子は、一転して怒りを納めた。

「まあ、そんな重要な事で頼られるなんてありがたいわよ。――で、何があったのか隠し事なしで話して。――アタシだって満更、龍麻の秘密を知らない訳じゃないのよ」

 きらりと光るアン子の眼鏡。その奥の目は恐ろしく真剣だ。そして同時に存在する、決意と覚悟。それは…

「アン子ちゃん…ひょっとして龍麻の事を…?」

「――アンタたちが知っている程度の事は、一応ね。あとは、渋谷の事件の少し後に発覚したスナッフ・ムービー事件の解決に一役かったっていう事とか。――それ以上はオフリミットよ。アタシだって一応、アンダーグラウンドのしきたりを知ってるんだから」

 そんな事より、とアン子は小切手帳を葵に返し、今の用件を促した。

「一体何が起こっている訳? 噛み砕いて説明してくれないと、あたしだって情報の出しようがないわよ?」

 アン子が龍麻の秘密を知っていた事に驚愕を覚えないでもなかったが、とにかく今やらねばならぬ最優先事項は醍醐の捜索である。葵は、そして小蒔は醍醐の変貌から龍麻を襲った奇禍まで包み隠さず話した。――常人ならば頭の中身を疑いかねないような事まで、アン子は時々相づちを打ちながら聞く。大して驚きもしないのは、やはり龍麻の秘密を知っているからだろう。

「ふんふんふん…。醍醐君が獣…虎みたいに変身した…と。それでその後、元の醍醐君に戻ったのね?」

「ウン…。でも…前に見た水岐クンとか、今度の…その…佐久間クンの時とはずいぶん違ってるような気がした。はっきり見た訳じゃないけど…その…恐くて気を失っちゃったから…」

 ポツリ、と付け加える小蒔に、アン子が静かにフォローを入れる。

「無理ないわよ。一遍にそんな事が立て続けに起こっちゃ、ね。――で、考察に移るけど、まずは人が獣に変わるってトコから行くと、そういった伝承は世界各地に残されているわね。一番有名なのは、満月の夜に変身する狼男…人狼ワーウルフよ」

 他にも虎、豹、蛇、猿など、人から獣への変化は、獣の種を問わない。敢えて言うならば、霊力が強いとされる動物への変貌が多いという事くらいか。

「子供っぽい戒めには、【食べてすぐに寝ると牛になる】っていうのがあるでしょ? あれも決して比喩じゃなかったかも知れないわ。これはいわゆる【呪い】の領域とされているの。【深きものども】なんかはいい例ね。――もう一つは、日本の呼び方で憑き物憑きかしら」

 憑き物憑き…いわゆる狐憑きの事である。狐や狼の霊が人間に憑いて祟るという現象だが、憑かれた者の行動は獣そのものとなり、時にその身体能力すら発揮するという。特に関東は秩父地方に、狐や【オーサキ】と呼ばれる山の神の使いが人に憑いて祟ったり、あるいは危機を知らせに来るという話が伝承として今に伝わっている。

「第三のケースは…これはちょっと有り得ないと思うけど、醍醐君が元々虎だったっていうケースね」

「え…!?」

 さすがに困惑を露にする二人。何処をどう突ついても人間の醍醐が、元は虎だったなんて…。しかし醍醐の現状を鑑みるに、そういうのも…と少し考えてしまう。

「可能性は限りなく低いけど、一応挙げておく一例よ。中国の古典に【封神演義ほうしんえんぎ】っていう作者不詳の物語があるんだけど、この中に登場する仙人の多くが、元が人間以外の動物だったりするのよ。【黒点虎こくてんこ】っていう真っ白な虎は、彼を乗騎にしている【申公豹しんこうひょう】っていう仙人から、「あと千年もすれば人化の法ができるようになる」って言われるの。文字通り、人になる術よ。もっと凄いのに【石機娘々せっきにゃんにゃん】っていう仙人がいてね、元はただの石ころだったっていうのよ」

 第一、第二のケースまでは良いとして、第三のケースにはちょっと引く葵と小蒔。醍醐が元は虎で、千年以上も修行して人間に化けているなんて…。

「そんな顔しないでよ。一応、人が獣になるっていう点だけを列挙しただけなんだから。これ以上の事はもっと情報がないと無理ね」

「う〜ん…」

 深く考え込む小蒔と、それを心配そうに見詰める葵。

「でもね、桜井ちゃん。第一印象って意外と重要よ? 少なくとも桜井ちゃんは醍醐君の【変身】が他の人とは違うように見えたのよね?」

「ウン…。なんだか…凄くでっかい感じがした。なんて言ったら良いんだろう? とっても大きくて…自分が凄く小さくなったような気がして…怖かったけど…なんだか…ああ! 旨く言えないや!」

 小蒔なりに自分の感じた事を表現しようとしてはいるのだが、やはりあの衝撃的な光景ばかりが目の前にちらついて思考がまとまらない。

 突然、部室のドアも窓も開かず、第四の声が聞こえたのは、小蒔の声なき声を聞き取って参上したかのようであった。

「んふふふふふふふ〜、思念の渦巻く処〜、其は運命の女神ファタエーの御地よ〜」

「わっ!? ミサちゃん!?」

 確かにドアは閉まっていたのに…と呟く葵にニヤ〜ッと笑いかけ、魔界の愛の伝道師、裏密ミサはするすると三人の下まで滑ってきた。

「トネリコの枝を使った土占いゲオマンシーでみんなの姿が視えたの〜。ミサちゃんなんでもお見通しよ〜」

「すると、醍醐君の件も知っているって事?」

「うふふふふふ〜、醍醐く〜んの身に危険が迫っているわ〜。ミサちゃんにも協力させて〜」

 いつぞやも使用した水晶球を取り出す裏密。ただし、龍麻に関わる事象として醍醐の危機を知ったので、醍醐の事を占えるのは一つの事項だけであると裏密は告げた。――基本的に占いとは、一つの事項につき一日一回が限度とされている。

「一つだけ判れば充分だよ! 醍醐クンの居場所を教えて、ミサちゃん!」

「らじゃ〜。カーテンを引いて、灯りを落として〜」

 占いを暗い所で行うのは、単なる舞台効果ではない。強い光は精神集中を妨げ、精霊の働きを阻害する。そして特に裏密の場合は水晶球に映像を映し出すという絶技を使うので、灯りを落としておいた方が映像の映りが良いのだ。

 準備が整うと、息を潜めて待つ一同の前で裏密は印を組み、呪文を唱え始めた。

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…我は求め、告げんとす。汝、魔界より出でて魔界に帰る者。星のダエモーンたる者の輝けるエンス・アストラーレを映し出し、凡庸なる我の前にそれを示さん…」

 休み時間に部活動の一環として行っている占いとは明らかに異なる、高レベルな占い。裏密の白い顔は一旦紅潮し、それからみるみる蒼白になっていった。部屋を暗くしたせいで裏密の身体を縁取る青白いオーラが、一般人であるアン子にさえ視認できるほどに高まる。

「…虎…に与えられしヴィア…は損失アミッシオに満ち…精神こころ悲しみの檻トリスティシア…とならん…。…ふたつ…の導き手たる者は…白き手アルプスより希望を…紅き手ルベウスより絶望を誘う…」

 裏密の口から紡ぎ出される、熱に浮かされているような言葉を細大漏らさず聞き取り、メモに取る葵。

「何か…見える…。強い…念…」

 つう、と裏密の頬を汗が滑り降りる。それを皮切りに彼女の顔中に脂汗が浮かび、机に滴り落ちた。彼女の全身が瘧にかかったかのように激しく震える。――術を強めたのだ。

「四匹の獣…蝶の棲む森…違う…森じゃないわ…蒼く伸びる細い木…そこ…は…!」

 いよいよ確信的な言葉が出るかと葵達が緊張した時、裏密はビクン! と身体を震わせ、がっくりと椅子にもたれかかった。

「ミサちゃん! ――大丈夫ッ!?」

 とっさに裏密の身体を支え、葵は戦慄した。確かに裏密は小柄だが、今の彼女は異常なほど軽く、全身が汗でずぶ濡れであった。まるで身体中の水分を汗と共に流し尽くしてしまったかのように。

「大丈夫〜。でも〜ワタシ〜が判るのはここまで〜」

 このような症状に効くかどうか自信がなかった葵だが、【癒しの光】を放射すると、裏密の顔に血色が戻る。

「これをどう解釈するかは〜皆次第〜。でも〜醍醐く〜んが危ない状況にあるのは〜間違いなさそうよ〜」

 ――占いでは「あれはどこ?」と聞いて「ここ」と答える事は滅多にない。それは変化に富んだ【未来】を限定的なものとしないために、【神】と呼んでも差し支えない宇宙の構成要素そのものがプロテクトを施しているためだ。あらゆる未来予知は、可能性の高い未来に関するヒントを導き出すだけのものに過ぎない。――人は、自ら道を選択しなければならないのだ。

「そ、そんな! それじゃ早く捜さないとッ!」

今すぐにでも部室を飛び出していきそうな勢いで小蒔が立ち上がる。だがその手を葵がしっかりと握り止めた。

「落ち着いて、小蒔」

「だ、だって醍醐クンが…! こうしている間にも危険が迫っているんでしょッ!? 何でそんなに落ち着いて…ッッ!」

 そこまで言ったところで、小蒔は気付いた。自分の手をぎゅっと握り締めている葵の手が震えている事に。

「今は、そうなる事が、必要な時よ」

 一語一語、はっきりと区切って告げる葵。小蒔はその姿に、かつて葵が夢の世界に囚われた時の龍麻をダブらせた。

 無闇に騒ぎ立てた所で、事態は改善されない。そんな時こそ感情ではなく理性で動く。それが出来ねば、もっと悪い事態を招く事になるのだ。

「ごめん…葵…」

 またしても、自分はこんな場面で慌てる事しかできないでいる。そんな自分に小蒔は酷く腹が立った。今まで何度も命に関わるような戦いを経てきたというのに、自分は何も成長できていない。

「謝らないで。私の気持ちも小蒔と一緒。だから…一緒に考えましょう。醍醐君もきっと、私たちが来るのを待っているわ」

「ウン…」

 自分を鼓舞するべく、小蒔は自分の頬をバチンと打った。それと深呼吸一つで頭の中がすっきりしてくる。――それが以前の自分とは違う事に気付き、小蒔は驚きと共に反省する。自分をここまで鍛え上げてくれた人物を疑い、怖れてしまった事を。

「――それじゃ、ミサちゃんの占いを分析しよう!」

 努めて明るく言う小蒔に、葵もアン子も優しい笑みで応えた。そしてメモを中心に輪を作る。ただ、裏密は思ったより消耗しているので、少し横になってもらう。

「まず占いの前半部分は今の醍醐君の精神状態を現わしていると思うわ。あと【四匹の獣】って所だけど…これは保留した方が良いわね。これって多分、醍醐君が変身したものを指すんだと思うわ」

「具体的な場所を示す単語は【蝶の棲む森】と【蒼く伸びる細い木】ね。【蝶が棲む】って言うと…新宿御苑の植物園があるけど…」

「新宿御苑は今、閉鎖中だよね…」

 まだ暑い日もあるが、季節は秋の装いを濃くしている。そんな時に蝶と言われてもピンと来ない。

「でも、蝶が棲んでいるのは森じゃないってコトだったから、この【蒼く伸びる細い木】って…ひょっとして、竹のコトかな?」

「――そう! それよ小蒔!」

 突然、葵が大きな声を出したのでビックリする小蒔にアン子。

「ご、ごめんなさい。――あのね、蒼くて細い木が竹を指すなら、蝶って龍山先生――白蛾先生の事だと思うわ」

「あ! そうか! おじいちゃんは醍醐クンの師匠だったんだっけ!」

「他に思い当たる所はないし…龍山先生の所で間違いないと思うわ」

「よし! それじゃ急いで――ひーちゃんたちと合流しなきゃ!」

 今度は先走りするのを押さえてみせた小蒔に、葵は【真神の聖女】と呼ばれる所以たる微笑みを送った。

「そうね。何があるか判らないから、皆揃ってないと。――それじゃアン子ちゃん、ミサちゃん、色々ありがとう」

「いーのよいーのよ。いくらでも頼ってちょーだい」

「うふふふふふふふふふふ〜」

 ありがたい友達の言葉に、ちょっぴり目尻に涙が浮かぶ小蒔。

「ウン! 今度、やきそばパンにサンドイッチも付けて奢るからねッ」









                           









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