第拾話 変生へんじょう(前編) 4




 
「…下手な尾行だな」

 龍麻は振り返らぬまま、背後にいる者に向けて静かに言った。

 仲間達と別れてから、まだ十分ほどしかたっていない。そして龍麻が今いるのは新宿御苑。家とは全く逆方向である。仲間達と別れて間もなく背中に張り付いた尾行者の視線を感じた龍麻は、いつものように【始末】を付けるべく、お決まりのコースでここに来たのである。新宿界隈の裏世界は大まかに分けて香港系の組織【九頭竜】と大陸系の組織【双頭蛇】、そして地元に古くからあるヤクザ――【華山組】が仕切っているが、新宿御苑は彼らの取り決めた緩衝地帯なのだ。ここならば――邪魔は入らない。

「どうした? 周囲には誰もいない。仕掛けるチャンスだ」

 そう言いつつも、龍麻は違和感を禁じえなかった。龍麻の存在を知って挑んでくる殺し屋は、名を上げたくてやって来るだけあって一流とは言いがたいが、かと言って二流だと侮れる連中ではない。しかし今回の尾行者から感じる気配は、どう見ても素人のそれであった。そのくせ、彼の勘は危険度をかなり高い数値に弾き出している。彼が声をかけたのは、そんな理由からであった。プロなら、もう撃ち合っている。

「クックック…」

 なにやら狂気じみた笑いと共に、街灯の下に現れたのは、龍麻と同じ真神の制服であった。しかも、知っている顔。佐久間に付き従っている金魚のフン一号(名前は覚えていない)であった。

 そんな男がこれほどの殺気を!? 敵に対しては容赦ない龍麻も、束の間怪訝な顔になる。

「緋勇…龍麻…! テメエはもう終わりだぜえ…げひゃひゃひゃ…」

 焦点の定まらぬ濁った目。だらしなく涎を垂らす口――明らかに薬物使用による中毒症状だ。喋り方も語尾が間延びし、聞き取りにくい。

「テメエも…蓬莱寺も…みんな…みんな死ぬんだ…。ケケケッ…今の佐久間サンには敵なんかいないぜえ…」

「大層な自信だな。ガンでも手に入れたか?」

 もしそうならば、宣言通り佐久間は殺す。この取り巻きも例外ではないと、龍麻はヒップホルスターのグロックを意識した。

「クックック…そんなモンじゃねェよ…佐久間サンは【力】を手に入れたのさあ…もう誰にも佐久間サンは止められねェ…。くひゃははは…今ごろ、醍醐もくたばってるだろうなァ…桜井と一緒に…」

「!!」

 一瞬! それ以上の時間を必要とせず、龍麻はグロックを抜いた。

「貴様…佐久間は何処だ?」

「知って…どうする? …テメエは…ここで死ぬんだ!」

 金魚のフン一号は、制服の前をガバッと開いた。

「!」

 体中に巻きつけたダイナマイト。そしてリード線。先日の後楽園に現れた強盗のようだが、あれよりもっと性質が悪かった。一般的に知られるダイナマイトのみならずTNT火薬まで抱え込み、体の前面にナパームジェリーと釘を詰めた袋までぶら下げているのである。その殺傷範囲――半径五〇メートル強! そしてそこにペンキで書かれている文字…



 ――Hell's gate open. Well come back to war.Redcaps.
  (地獄の扉が開いたぞ。戦場へようこそ、レッドキャップス)



「――があああっっ!!」

 金魚のフン一号が突っ込んでくる。タイマーのセコンド音! こいつは最初から死ぬ気だ! 足か? 胴か? ――頭か? どこを撃っても間に合わない!

 龍麻が身を翻した瞬間、彼の背後で凄まじい爆発と毒々しい炎が膨れ上がった。









「…下手な尾行だな」

 仲間たちと別れた醍醐は、数分前から付いて来ている尾行者に声をかけた。

 場所は人気のない路地裏。大方、【新宿真神の醍醐】を倒して名を上げようという連中だろうが、醍醐は【気】を溜めながら用心深く振り返る。

「クックック…」

「へっへっへ…」

 下卑た笑いと共に現れた三つの影。それは醍醐にとって意外すぎる人物であった。

「――お前たち、佐久間の取り巻きの…」

 同じクラスでありながら、いまだに名前を覚えてもらえない、哀れな佐久間の舎弟であった。確か四人いた筈だが、今一人は姿が見えない。

「佐久間はどうした? 家にも帰っていないそうじゃないか」

 醍醐の呼びかけに、しかし不良たちは酷く人を苛立たせるような笑いを浮かべた。

「いつまでも…図に乗ってるんじゃねェよ…」

「余裕…ぶっこいていられんのも…今の内だぜえ…」

 その時になってようやく醍醐にも判った。不良たちの理性のない濁った眼と、開きっぱなしになって涎を垂れ流している口――彼らが薬物を使用している事を。

「…佐久間はどうした?」

 油断なく【気】を練りながら、醍醐は重ねて問うた。麻薬によって体機能に異常を来たしている人間は通常の打撃程度では倒す事ができないと龍麻に学んでいる。必要とあらば荒療治もやむを得まい。

「ク…ククク…この期に及んで、まだ佐久間サンを心配してるたあ、真神の総番殿は余裕だねェ…」

「もう…テメエは終わりさあ…佐久間サンは…【力】を手に入れたんだ…もう…テメエなんか目じゃねェのさ…」

 単に薬物で気分が高揚しているだけではない、奇怪な自信。それが醍醐の胸に警戒の針を刺した。

「【力】――だと!?」

 その意を問い質そうとした醍醐に向かって、不良の一人が何かを投げた。ナイフその他、危険なものではないと察知した醍醐はそれを掴み取る。そして、驚愕に目を見開いた。

「ッこれは――!!」

 見た目は何の変哲もない、何処の神社でも売っている御守り。しかしそれは、身に付けている時は決して試合に負けぬというジンクスを持つ、醍醐が小蒔に送った御守りであった。

「貴様ら…ッッ!!」

 凄まじい怒りが、醍醐の肉体を倍にも膨れ上がらせたかのようだ。特大の制服が肉体を内包しきれず、メリメリと音を立てる。しかし、【新宿真神の総番】の逆鱗に触れた不良たちは、既に人として壊れたような笑い声を立てただけであった。

「くひゃひゃ…今の佐久間サンは危ねェからなァ…。今ごろ…あの女もどうなってる事か…」

「貴様らッ! 佐久間は何処にいるッ!!」

「げひゃひゃ…慌てなくたって…判る筈だぜえ…テメエが佐久間サンを見捨てた場所さあ…」

 佐久間を見捨てた!? 俺が!? いつ!? 

 だが醍醐の思考は、不良たちの次の言葉に、かつてない戦慄と共に答えを導き出した。

「ククク…今ごろは頼みの緋勇も…木っ端微塵だァ…!」

 まさにその瞬間、伊勢丹や丸井ビルよりも更に向こう、新宿御苑方面から鈍い振動が伝わってきた。空気がびりびりと振動し、キノコ型に黒煙が空に上がっていくのが見える。この距離でこれだけの振動と、黒煙の大きさ。尋常な爆発ではない。

「――貴様らァッ!! 一体何をしたァ!!」

「げひゃひゃひゃひゃ…」

「けけっけっけっけ…」

 駄目だこいつらは! 既に麻薬で頭がやられている!

 醍醐は猛然と、両手を広げたラリアートで三人まとめて叩き伏せ、一目散に真神学園に向かって走り出した。

 龍麻なら大丈夫! 絶対に! あの男なら、どんな状況でも必ず生き残る! それは醍醐の龍麻に対する絶対の信頼であった。だが、小蒔は…!

「おのれ…おのれ佐久間ァ!」

 激しい怒りと後悔に苛まされながら、醍醐は咆哮しながら真神への道を疾走していった。

 だが、彼は気付かなかった。その夜、通りに人の姿が全くなかった事に。真神に至る道が、街が、全ていつもよりも濃い闇に沈んでいた事に。









「佐久間ァ!! 出て来い!!」

 無我夢中で駆け付けた、真神学園体育館裏。三年生になったばかりのあの日、龍麻と佐久間はここで戦ったのだ。そして醍醐が佐久間を【見捨てた】と誤解したのならば、その場所とはここに他ならない。

「でけェ声を出すなよ…。総番ともあろうものが、みっともねェ」

 今までにはなかった、陰鬱な自信に裏打ちされた余裕に満ちた声と共に、佐久間が姿を現した。

「佐久間! 桜井は何処だ!!」

「慌てるんじゃねェよ。…こうやって話をするのも久しぶりじゃねェか。ゆっくりしろよ…」

 醍醐の苛付きイラつきをより煽るように、佐久間はタバコに火を点けた。そして信じがたい肺活量を示すように、一気に煙を吸い込む。タバコはその一息で根元まで灰になり、佐久間は盛大に煙を吐き出した。

「この場所だったよなァ。緋勇の野郎と闘りあって、テメエに見捨てられたのはよォ…」

「佐久間! 俺はお前を見捨ててなど…!」

「うるせェ!」

 佐久間の一喝は、まるで雷鳴であった。声の圧力が突風のように醍醐に叩きつけられる。

「俺はよォ、醍醐。テメエのその善人面が前から気に入らなかったんだよォ。そうやって、俺をあざ笑ってやがったんだ。テメエも結局、他の連中と同じだったんだ」

 図らずもその言葉は、醍醐の中で燻り続けている、癒されかけた心の傷口を大きくえぐった。

「これでも…テメエだけはと思ってたのに、俺を裏切りやがって!」



 ――お前だけは裏切らないと信じていたのに…なぜなんだよ!



「何かある度にお前と比べられる…お前の陰で、俺がどんな思いをしていたか、テメエに判るかッ?」



 ――俺がどんな惨めな想いをしたか…お前にゃ一生判らねえだろうよ



「もう俺は学園にも部にも戻れねェ。もう俺は――」



 ――もう俺達は、友と呼べる存在じゃねぇって事か…。



 佐久間と凶津は違う。醍醐は全力で自分にそう言い聞かせようとしたが、うまくいかなかった。友だと思っていた者に、自分を押し付けていたという悔恨。自分はまたしても同じ過ちを繰り返していたと、今更ながらに気付いた事が情けない。どうしてもっと早く気付いてやらなかった? どうしてもっと早く、相談に乗ってやらなかった? それどころか、これほどまでに佐久間を追い詰め――

「もう俺は――立ち止まるつもりはねェ。今の俺は【力】を手に入れたんだからな」

「佐久間…!?」

 自分の言葉に酔ったのか、佐久間はそっくり返って哄笑した。虚ろに乾いた、それでいて邪悪な笑いが夜の学園に木霊する。

「ククク…そうさ! 【力】だ! もう誰も俺を止められやしねェ。テメエも、蓬莱寺も、テメエらが仲良しこよしを気取ってる連中も皆殺しにしてやるぜェ。ただ残念なのは、緋勇を俺の手でぶっ殺せなかった事だがなあ」

 そうだ! 龍麻! 龍麻はどうしたのだろうか!? あの爆発は一体!? 

「くっくっく…。あいつ、あのツラでアメリカ軍の特殊部隊上がりなんだってなァ。胸糞悪いが、あの時の俺が手も足を出なかったのも無理はねえや。レッドキャップス・ナンバー9だっけか? 今の俺みたいに、仲間だと思ってた奴らにぶっ殺された間抜け部隊の生き残りなんだってなァ」

「お前がなぜそれを知っている!」

 龍麻の秘密は、自分達を含めた仲間内以外では、裏社会でも相当の実力者でないと知り得ないと聞かされた事がある。少なくとも、佐久間がそれを知り得る事はありえない筈なのだ。

 しかし、佐久間がそれに答える事はなかった。

「死んじまった奴の事なんかどうでもいいか。それより醍醐ォ、お前ならこっちの方に興味あるよなァ?」

「――ッッ!!」

 背後の暗がりに向けて顎をしゃくる佐久間。すぐそこにいたというのに、闇に紛れて見えなかった、一目で不良と判る集団が姿を現す。だが醍醐を驚愕させたのは十数人という彼らの多さではなく、先頭の不良二人によって地面に放り出された小蒔であった。

「桜井ッ!!」

 皆と別れてから、まだ二十分ほどしかたっていない。それなのに小蒔の顔や手足には無数の打撲痕が刻まれ、醜く腫れ上がっていた。龍麻たちと死線を潜り抜けてきた彼女ではあるが、龍麻の的確な作戦と指揮によって、異形の魔物たちとの戦いでさえこれほどの重傷を負ったことはない。だが、いかに【力あるもの】とは言え、スナイパー狙撃手である彼女が、直接戦闘では佐久間に敵う筈もないこともまた、周知の事実であった。

「醍醐ォ、テメエ、この女に惚れてんだってなァ。――この女ァ、以前、俺の事を殴りやがってよォ。こいつはそン時のお返しって訳だが、この程度じゃまだ腹の虫が納まらねェぜ」

 そう言って佐久間は、小蒔の髪を掴んで乱暴に引き起こした。その痛みで意識を取り戻したか、小蒔は詰まったような苦痛の喘ぎを放つ。

「止めろ! 桜井に手を出すな!!」

 猛然と走り出そうとする醍醐。しかし佐久間が小蒔の首に当てたものが醍醐を止めた。安っぽい銀色の光がやけに冷たく光るのは、事もあろうについ先日も目にした自動拳銃であった。中国製トカレフ…ノーリンコの再生品。現在最も多く国内に出回っている、通称【ヤクザ拳銃】。

「動くんじゃねぇぞ、醍醐ォ。こいつの脳みそをぶちまけたくなかったらよォ…」

「佐久間…ッ!」

「テメエを殺るのにこんな物は必要ねェんだが、簡単な方がいいからなァ」

 次の瞬間、佐久間の手が真っ直ぐ伸び、銃声が響き渡った。

「ぐわっ!!」

 弾かれたように跳ね上がり、どっと両膝を地面に付く醍醐。佐久間の銃弾が醍醐の右腿を撃ち抜いたのであった。

「醍醐クンッ!」

 叫んだ途端、腹部に鉄の塊を受けて小蒔はウッと呻いた。龍麻が見たらなんと言うだろうか、佐久間は引き金に指をかけっぱなしの状態で、小蒔にトカレフの銃把を叩きつけたのである。暴発しなかったのは奇跡だ。

「誰が喋っていいっつったんだ? ああ!?」

「止めろ…佐久間…!」

 とっさに【気】で防御を固めたものの、トカレフの弾丸はライフル弾並みの威力である。貫通すればしたで腿に大穴が空くし、貫通しなければ肉の中に弾が留まり、早急に処置しなければ敗血症を引き起こす。それ以前に、出血多量で絶命もありうる。

「チッ、この期に及んで、まだ俺に命令できるつもりでいるのかよ、醍醐ォ」

 佐久間はケッと醍醐に唾を吐きかけ、小蒔を地面に放り出した。

「…俺を殺しても…龍麻に殺されるだけだぞ…! 銃を持ったくらいで…あいつに勝てると思っているのか…?」

「しゃらくせえんだよ、醍醐ォ。あの野郎はとっくにくたばってらあ。野郎をよく知ってる、アイツらが立てた作戦なんだからよォ」

「あいつら…?」

 また、だった。凶津も、水岐も同じ事を言った。アイツら――鬼道衆。

「そうよ。野郎の仲間だったナンバー12とかを殺ったのと同じ手口だとよ。餓鬼を人質に取った母親に爆弾抱えさせて突っ込ませたんだと。――緋勇には俺を裏切った舎弟を突っ込ませてやったぜ。レッドキャップスだろうがなんだろうが、絶対に逃げられないほど大量に爆薬持たせてよォ。げひゃひゃ! ほっといても爆発、撃っても爆発。つまり、どうあがいても野郎は助かりッこねェのさ。げひゃははは! あーははははははっ!」

 あの爆発は、そういう事だったのか…。しかし佐久間が、自分の舎弟を人間爆弾に仕立て上げたなど…!



【――ここが日本でなければ、俺はとっくに奴を殺している】



 龍麻の言葉が甦る。



【手段のためならば、目的を選ばないというどうしようもない奴は確実に存在する】



 冗談だと龍麻は言ったが、それは自分達を慮っただけであって、彼は本気だったのだ。



【半端な力を誇る者は、手軽で強力なガンを求める。奴はそれをためらうことなく使うだろう】



 全て…すべてが龍麻の言う通りになってしまった。ひょっとしたら龍麻は、佐久間が何か仕掛ける度に醍醐にチャンスを与えていたのではなかろうか? そうでなければ、日頃から佐久間を【殲滅する】と公言して憚らない龍麻の事だ。その気になれば佐久間を殺さないまでも、再起不能にする事などたやすかった筈なのだ。何より彼は転校初日に、佐久間に対してそれを実行しようとしたのだから。

 しかし、己の不明と無力を噛み締めている時間は、醍醐にはなかった。

「ケッ、あんな奴を思い出させるからせっかくの良い気分が台無しじゃねェか。そろそろ死ぬかァ、醍醐ォ?」

「佐久間…貴様…!!」

「ほっほーう! その目だよ、醍醐ォ。初めて会った時の、その凶暴な目だよォ。テメエがそれを忘れなければ、俺たちゃダチでいられたかもなァ」

 だが、と佐久間は続けた。

「だがテメエは変わっちまった。あのふざけた特殊部隊野郎と、あのナンパ男と付き合い始めてから、テメエは牙をなくして腑抜けちまった。それが! 俺を裏切ったって事だ!」

 佐久間は暴力を信仰する者。そして醍醐は強さを求める者。この二つの道は容易な事では交わらないが、極めて近いところを走っている。佐久間は醍醐の存在を疎んじながらも、その強さを認めていたのだ。それなのに緋勇龍麻に負け、その傘下に入った彼は、惰弱の極みに佐久間には見えたのだ。

「今からテメエに昔を思い出させてやるよ、醍醐ォ…」

 そう言うと、佐久間はいきなり小蒔のセーラー服を引き裂いた。

「あうっ!」

「やめろ!」

 佐久間が何をするつもりか一瞬で悟った醍醐は地面を這って小蒔に近付こうとしたが、その右手に弾丸が撃ち込まれた。鮮血がしぶき、手のひらに風穴が開く。

「邪魔すんじゃねェよ、醍醐! テメエはそこで這いつくばって吠えてりゃいいんだよ! ――ククク、最高の気分だぜェ。テメエのそんな吠え面が見られるなんてよォ」

 オイ、と佐久間が顎をしゃくると、背後に控えていた不良がぞろぞろと動き出し、小蒔を取り囲んだ。何をされるのか判った小蒔が、腫れ上がった顔を青ざめさせる。

「テメエをぶち殺すのは後回しにしてやるよ、醍醐ォ。惚れた女がまわ輪姦されるところをゆっくり見るがいいぜ。テメエが目を逸らしやがったら桜井の指を一本づつへし折ってやる。桜井よォ、テメエも途中で舌でも噛みやがったら、即座に醍醐のドタマァ吹き飛ばしてやるぜェ。もっともこいつら全員、醍醐たちに恨みを持ってる連中だから荒っぽいかも知れねェけどよォ。――ああ、心配いらねェよ。蓬莱寺の時は家族もろとも同じ目に遭わせてやるからよォ。それと美里は、この俺が可愛がってやるぜェ」

 人間はかくも醜くなれるのか、欲望と憤り、恨みと憎しみ、何者をも破滅させずに置かぬ破壊欲。それら【負】の感情を一緒くたにした佐久間の哄笑。それはあの水角や風角と同じ笑いであった。龍麻の敵、自分達の敵。鬼道衆。あの凶悪なテロリストと同じものの。

「うう…!」

 押し殺したような小蒔の苦鳴。それを聞いた時、醍醐の中で何かが動いた。

(やめろ…来るな――!)

 いつの頃からか、醍醐の中に棲み付いた【獣】。常に飢え、醍醐を闘争に駆り立てた【獣】。拳を振るう時、自分と共に歓喜の声を上げた【獣】。それは醍醐の成長に合わせ、より強く、凶暴に育っていた。凶津との一件以来、龍山の教えに従い、醍醐はその【獣】に鎖をかけた。精神を鍛え、理性を強化し、己の力に、【獣】に呑まれまいとトレーニングに打ち込んだ。そして京一と出会い、龍麻と出会った。共に戦う仲間たちを得た。いつしか醍醐は【獣】の存在すら忘れるほど、太い鎖を【獣】にかけていた。

 しかし、太い鎖をかけてはいても、【獣】は消滅などしていなかった。【獣】は佐久間が称した【牙】そのものだ。佐久間が信仰しているのは【獣】であった。佐久間はそれを、解放しようというのだ。

「やめろ! 来るな――!」

 醍醐は片手で顔を覆った。

「テメエ! 目を逸らすなと――ッッ!?」

 醍醐はその声を聞いていなかった。酷い頭痛がする。体中の血が逆流するかのような熱さ。指がこめかみに食い込んで血を噴かせ、噛み締めた口の端からも血が流れ出す。



 ――目覚めよ



 【あの時】と同じ声が、頭の中で響く。【獣】を繋ぎとめている鎖がぎしぎしと悲鳴を上げる。



 ――目覚めよ



 頭を押さえて苦悶する醍醐を、その異常性から目を離せなくなった佐久間と、その手下達。小蒔さえも、自分の状況を忘れて醍醐に見入る。



 ――目覚めよ



 割れ鐘のように鳴り響く声と共に、様々な情景が頭の中に浮かんでは消える。それはあたかも、死の間際に人がその一生を垣間見るがごとく。しかしそれは、そんな生易しいものではなかった。



 ――目覚めよ



 醍醐が【人】として生きた時間。【人】として得た思い出。それらすべてが【獣】を繋ぎとめる鎖であった。それが、引き剥がされ、砕け散っていく。そして獣は、鎖を引きちぎらんとますます荒れ狂う。



 ――目覚めよ



【テロリストは殲滅する】

【鬼と化せば、仲間でも殺す】

【闘争の契約だ! 奴は来た! 俺を殺すために! 俺に殺されるために!】

【悪しき者を責める者は、自ら傷を受ける】



 今までに聞いた、戦士の言葉。ほんの一時、鎖が強くなる。



 ――目覚めよ



「ッなんなんだよッ! 畜生が!」

「構うこたねェ! ぶっ殺せ!」

(やめろ…! 鎖が――!)

 ちぎれる…ちぎれる――!



 ――目覚めよ



【お前なら、ミサイルを撃つか? 大事なものを護れないとあれば】

 無数の銃口から発せられる炎。そして銃声。その中には小蒔の声が――



 ――目覚めよ。【白虎】よ



 鎖が、ちぎれ飛んだ。

 血煙を上げて吹っ飛ぶ醍醐の顔は、どこか恍惚としていた。









「殺った…殺っちまった…!」

 血だるまと化した醍醐が動かなくなった事で、佐久間の新たな舎弟となった者たちの中で恐慌が起こった。

「うろたえんじゃねェよ。最初っからこうするつもりだったろうが!」

「そうとも! 今まで散々こいつの為に惨めな想いをしたんだ!」

「そうさ! 銃さえあれば怖いものなんか何もねェ! 俺達に逆らう奴ァ皆殺しだ!」

 もともと、性根を腐った者たち。殺人を犯したという罪の意識に苛まされるより、銃という圧倒的な力を手にした歓喜と、殺戮の快感に酔う方が早かった。

「醍醐…クン…!」

 地面にぺたんとへたり込み、呆けたように呟く小蒔。仲間の死を目の当たりにして、すべての精神活動が凍結してしまったのだ。

 そんな小蒔に、不良たちは銃を向けた。

「もうこんな貧相な女なんかに用はねェ。殺っちまっていいッスよね、佐久間サン?」

 一瞬の躊躇の後、佐久間は頷いた。

「…殺れ」

「よっしゃ! ――悪く思うなよ、お嬢ちゃん」

 不良たちは引き金を強く引き――

「あれ?」

 銃声は上がらなかった。一発も。我知らず、小蒔に銃を向けた者たちが顔を見合わせる。

「なんだよ。何で銃を落っことして――!!?」

 なぜか落とした銃を拾おうとして、男たちはそれが叶わないので首をかしげた。落ちている中に何か絡み付いているのを見て、ああ、こんな物がくっついているから――と、そこまで考えたところで、彼らの頬を一筋の汗が伝った。

 信じられない。信じたくない。でも、中にくっついているのはどう見ても…そして、俺の――!!

「――ッぎゃあァァァァッッ!!!」

 【それ】を理解した途端、暗がりに鮮血が奔騰した。小蒔に銃を向けていた五人の不良たちの両腕はことごとく、肘から先を断たれていたのである。

 それをやったものは、羽毛のごとくふわりと、その巨体を地上に降り立たせた。

「だ、醍醐…!!」

 【それ】は果たして本当に醍醐であったか!? 

 逆立つ髪の毛、異様に尖り、せわしなく動く耳。頬にも腕にも虎のような縞が走り、鋭く長く伸びた爪は鉄にすら食い入りそうだ。虎に服を着せて立ち上がらせたら、このようなモノになるのではないか? それはまさに、人型の野獣であった。

「うッ、撃てェッ!!」

 未知の恐怖が、佐久間にそう叫ばせた。先程までの余裕も残虐性も既にない。

「く、くたばれッ!!」

 罵声と共に、残る一〇個の銃口が全て火を噴いた。

 七・六二ミリ・トカレフ弾が確実に醍醐の肉体を捉え、しかしそれだけであった。着弾のショックで多少傾ぎはするものの、パワーにして四五口径以上、貫通力にして四四マグナム以上の威力を誇る弾丸は、全て醍醐の肉体の表面近くで止められていた。



『ガルルルルルアアァァァァッッ!!!』



 腹の底から揺り動かされるような咆哮! 巨大な人虎の肉体が更に膨れ上がるや、弾丸が筋肉によって外に吐き出された。血が噴いたのは一瞬で、傷口はたちまち塞がってしまう。よく見れば【人】であった時に撃ち込まれた腿や手のひらの傷も消え失せている事に気付いただろう。

 そして醍醐の金色の目が、爛! と光った。

「ヒイッ!!」

 それを生涯最後の声として、不良の首が、上半身に至るまで輪切りになって吹っ飛んだ。大気中に真空把が生じるほどのスピードで振るわれた醍醐の爪の成果であった。

「うわっ! うわあああっ!!」

「ヒッ、ヒイイィィィッッ!!」

 その光景を、小蒔は思考の止まった目で見ていた。

 逃げる者も逃げない者も、醍醐――白虎は容赦しなかった。その爪が振るわれる度に、確実にもと人間の残骸が地面にぶちまけられる。夢中になって引き金を引き続けた不良は、着弾をものともせずに迫ってくる白虎の目に、己の首が飛ぶ光景を見た。一目散に逃げ出した者は、その途中で地面に顔面から突っ込んだ。立ち上がろうとしてもそれは叶わない。両足が消失しているのだから。それでも這って逃げようとするところに重量物が叩き落され、背骨も肋骨も、内臓諸器官も一息に踏み潰されて悶死した。逃げる事もできず、失禁しながら壁に張り付いていた者はそのまま拳を叩き込まれて頭部を熟柿のごとく粉砕された。白虎は思う様暴れまわり、人間を虫けらのごとく捻り潰し、引き裂き、食いちぎった。まるでそれこそが、真のあるべき姿であるかのように。

 雑魚どもをあらかた片付け、全身を朱に染めた白虎はゆっくりと佐久間を振り返った。

「止せ…! やめろ…! こっちに来るんじゃねェ!」

 佐久間は狂乱して喚いた。当たり前だ。未知なるものを前にした時、人間の取る行動などたかが知れている。逃げるか、闘うか。だが、そのどちらも許されぬとなったら――

「醍醐! これを見ろッ!」

 佐久間は最終手段として、小蒔を人質に取った。

「それ以上一歩でも近付いてみやがれ! この女ァ、ぶっ殺す…って、聞いてンのか、テメエ!!」

 今の醍醐――白虎にとって佐久間の脅迫は、獲物の洩らす唸り声でしかなかった。そこにいるメス族を盾にして、この生き物は何をしようというのか? ヒトならぬ、四神の一つである【神】は人間には窺い知れぬ思考でそう侮蔑した。

「こ…このヤロォ!!」

 一瞬とて立ち止まらぬ醍醐に、佐久間がキレた。唸り声を上げ、小蒔を醍醐に向けて突き飛ばした。

「わッ――!」

 思いがけない佐久間の行動に、これまでのダメージもあって地面に倒れる小蒔。白虎の注意は小蒔に向いた。

(今だ!)

 もはや是非もない。佐久間は仲間を全滅させられながら、一人だけで逃げ出した。

 白虎は追ってこない。だが、ほんの数メートルと走らぬ内に、佐久間の体は地面に接着されたように動かなくなった。

「な、何だ…身体が動かねェ…!?」

 力を込めて身体を動かそうとする佐久間。だが、指一本さえ自由にできない。



【ヌシには、まだやってもらう事がある】



 何処からともなく、陰鬱な声が響いてきた。

「ぐ…ぐううッ! 頭が…いてえ…!」

 一人苦悶する佐久間に、白虎も小蒔も視線を向けた。白虎は小蒔を敵と認識しなかったのだ。と、言うよりは、取るに足らない存在だったのだが。



【…変生せよ佐久間。我らに近き魂を持つ、選ばれしものよ】



「ううっ…うぐるるるうおおおああぁぁっ!!」



【さあ、解き放て。――堕ちよ、佐久間】



『グガ………ガガガガガルルルッッ!!』

 変貌は一瞬であった。

 佐久間の身体が内側から炸裂した…そう思った瞬間、そこには見るもおぞましい異形のものが立っていた。馬のように長く愚鈍な顔に、金属光沢を持つ角。でっぷりとせり出した太鼓腹には、脇腹まで裂けた巨大な口。それは港区の地下神殿で見た水岐と似た、【鬼】であった。

「そん…な! 佐久間…クン…まで…!」

 その光景を目にするのは、小蒔は初めてだ。

 人が魔物に変わる。昔から良く言い習わされてきた現象だし、映画やアニメでも散々扱われてきている。しかし、それが現実に、目の前で、よく見知った者が二人も変貌を遂げたのだ。しかもその内の一人は、大切な【仲間】の一人、ほのかな想いを抱いている相手なのだ。

 ジャキン! と白虎の両手の爪が伸びた。それが戦闘開始の合図――

 鈍重そうな外見からは想像もできないスピードで鬼が体当たりをかけた。白虎は真っ向からそれを受け止め、五メートル以上もの長さの溝を地面に刻みつつ踏みとどまる。

 ギイ! と鬼が哭いた。ガオウッ! と白虎が吠えた。

 鬼からは血色のオーラが、白虎からは青白いオーラが共に爆発的に放出され、渦を巻きながら激しくぶつかり合った。互いに爪を相手の胴に食い込ませながら全力で押し合う。白虎の赤い血も、鬼の緑の血も空中に飛び散った瞬間に蒸発する。陰陽の気がスパークし、地面といわず立ち木といわず激しく打ち付け、炎を吹き上げた。

 そのまま千日手が続くかに思われた押し合いが急展開する。

 白虎が鬼を空中へと持ち上げたのである。鬼の爪には毒があったのだが、四神の一つである白虎に元より毒が効く筈もない。白虎はそのまま鬼を地面に叩きつけた。長年踏み締められてきた固い地面に、クレーター状の穴が開く。

『ゴルルルアアアッッッ!!』

 一瞬の間を置かず、白虎が優美に宙を舞った。

 鬼が天を振り仰いだ瞬間、その顔面に白虎の手のひらが叩き込まれ、刺だらけの頭部を地面に叩きつけ、そのまま一〇メートル以上も地面にこすり付けた。鬼の刺が根元からもぎ取られ、肉まで引き剥がされる。

 鬼が悲鳴を上げる。だが白虎は止まらない。鬼の腹に開いた口から舌を引っこ抜き、分厚い胸板を一撃で踏み抜く。顔面に拳を叩き込むと、一発で鬼の頭骨はひしゃげた。最後の抵抗か、それとも肉体の反射運動か、毒爪を振り上げた鬼であったが、白虎はあっさりとそれを掴み止め、鬼の腕を根元からもぎ取った。

 あとはもう、正視に耐えない残虐な破壊劇であった。鬼に馬乗りになった白虎の爪が振るわれる度に、鬼の肉が、骨が、内臓が周囲に飛び散る。人間が決して見てはならぬ異形同士の戦い。しかし双方とも、ほんの数分前までは人間だったのだ。

「やめてよ…もう…やめてよ!」

 白虎の貫手が鬼の胸板を深々と貫き、いやらしく脈打つ肉の塊を引きずり出す。心臓だ。白虎がそれを一息に握り潰すと、ねっとりとした緑色の血が大量に飛び散った。それを高々と掲げ、だらだらと溢れる緑の血潮を白虎が飲んでいるのを見た時、遂に小蒔は意識を暗黒に委ねた。









 果たして、どれくらいの時が経ったのだろうか。冷たい雨に頬を叩かれ、小蒔は目を覚ました。

 思った以上に冷たい秋の雨。小蒔は冷え切った己が身体を抱き締め、ブルッと震えた。

「ボク…一体…?」

 急速に記憶が回復する。自分の事より、まず醍醐の事が。醍醐が虎のような姿になり、佐久間が鬼に変わった事が。

「醍醐クン!!」

 身体中の痛みを堪え、小蒔は立ち上がって周囲を見回した。

 それこそ常人なら、恐怖のあまり発狂しそうな光景が広がっていた。突然降り出した秋の雨によって血は大分薄れているが、それでも生々しい元人間の残骸が無数に散らばっている。原形を留めているものなど一つとてなく、もとからそのような状態で地面にぶちまけられたかのような非現実性であった。

 その向こうに、広い背中がうずくまっていた。

「醍醐…クン?」

 恐る恐る声をかけてしまったのは、やはりあのショッキングな光景を見てしまったからだ。しかし、ほんの僅か振り向いた横顔は、元の醍醐であった。

「醍醐クン…?」

「来るなッ!!」

 そろそろと近付いてきた小蒔に向かって、醍醐は血を吐くような声で怒鳴った。

 醍醐の肩ががっくりと落ちる。両手を地面に付き、泥水を掴む。

「取り返しのつかない事を…取り返しのつかない事をしてしまった…! 俺は…佐久間を殺してしまった…! こんなにも多くの人間を…殺してしまった…!」

「だ、醍醐クンのせいじゃない! 醍醐クンのせいじゃ…!」

「なぜそう言えるッ!」

 思わず小蒔が硬直するほどヒステリックな声で醍醐は叫んだ。そこにいるのはかつて恐れられた【真神の総番】、【新宿真神の醍醐】ではなく、友を、人を手にかけた事を嘆き悲しむ哀れな子供であった。

「見ただろ…桜井…! 俺が…俺が化け物になって佐久間を殺すところを…! 人間を…殺すところを…!」

 不意に、龍麻の言葉が思い起こされる。



【――その時は、俺が殺す】



 嫌だ…! あの男とは戦いたくない…! だがあの男は、俺を殺しに来るだろう…。化け物と化した俺を生かしておく事は、仲間達すべてを危険に晒す事になる。それをあの男が許す筈がない。

 ――死にたくない! そう思った時、これまで倒して来た者たちの声が聞こえたような気がした。



【人間は愚かで罪深い。自分だけ生き延びたいのかい?】

【弱いもの虐めは楽しかっただろうね。でも、やったらやり返されても仕方ないよね】

【人を殺した君が、人の罪を責められるのかい?】

【テメエだって、俺らと同類だって事だろう?】

【わらわとて、虐げられたものの一人なのぞえ】

【ヌシも地獄に落ちるが良いわ】



 今まで倒してきた敵が、事件の被害者が、醍醐を指差して叫弾する。【お前は人殺しだ!】と。醍醐は否定する事ができない。群がり寄って来る亡者たちが身体にまとわりつき、彼を暗黒に引きずり込もうとするイメージが頭の中に弾ける。

「醍醐クン…醍醐クン!!」

 その声に、はっと我に返る醍醐。思わず振り返り、小蒔と視線がぶつかった。その時、小蒔の目の色は…

「うう…うわああああああっっ!!」

 醍醐は身を翻し、一目散に走り出した。圧倒的な、恐怖のためであった。化け物と化した自分自身への恐怖。化け物と化した自分を殺しに来るであろう、仲間達に対する恐怖。そして何より、今の小蒔の目に宿っていた光に対する恐怖のためであった。

 醍醐を見る小蒔の目は、【人】に向けるものではなかったのだ。

「醍醐クン! ドコ行くんだよッ! 醍醐ク――――ン!」

 追ってくる声も、今の醍醐にとっては恐怖であった。彼は恐怖と絶望の入り混じった咆哮を上げつつ、学園の塀を飛び越えて夜の闇に紛れた。彼の行く手には、闇ばかりが濃い。

「醍醐クン…どうしちゃったんだよ…!」

 醍醐の消え去った闇を見つめながら、小蒔は呆然と雨に打たれていた。



                           続く…









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