第拾話 変生へんじょう(前編) 2




 
「…この状況は《粗忽そこつの使者》だな…」

 龍麻がしみじみとそうごちたのは、荒川区にあるゆきみヶ原高校の正門前であった。

 幸い(?)このネタは葵も知らなかったようだ。ちなみに《粗忽の使者》とは、使者の口上を忘れたと言う使者が口上を思い出そうと奮闘した挙句、用件そのものを聞くのを忘れた事を思い出すという、愛すべき《粗忽者》のお話である。――小蒔が葵に渡したメモにはゆきみヶ原高校の所在地だけが書かれていて、練習試合会場までは書かれていなかったのである。

「どうする? 中に入って探すか?」

「その意見は建設的ではあるが、後のことを考えると実行できん。この学校は小、中、高校、短大まで一貫教育をしている。一種隔離施設的な要素さえ感じるが、と、なれば外部の人間が無許可で立ち入るのは大いに問題がある」

「しかしこのままでは、桜井の試合が終わってしまうかも知れん」

「うむ。ここの生徒なり教師なりに問い合わせるしかなかろう。しかし誰も通りがからんな」

 そうなのだ。校門前に見慣れぬ輩が四人もうろうろしているせいか、先程から誰一人として出てこようとしないのだ。

「やむを得ん。ここは一つ――酒屋でございま…」

 途中まで言いかけ、背後から襲い掛かってきた二つの殺気から転がって逃げる龍麻。完璧な不意打ちだったにも関わらず避けた龍麻に感嘆しつつも、京一と醍醐はツッコミを忘れない。

「馬鹿かお前は! 何で女子校に酒屋が来るんだよッ!」

「龍麻! それじゃますます怪しまれるだろう!」

「しかも前にも使ったネタ。龍麻、マンネリね」

 龍麻、本日三度目の撃沈。やはり一番堪えたのは、葵の《マンネリ》の一言だろう。どうも葵は先月の一件、龍麻が《隠れオタク》であると判明して以来、言う事がいちいちきつい。

「オイ! お前ら! 人の学校の前でなに騒いでやがんだ!」

 再び龍麻が地面にのの字を書いていると、校門を抜けて一人の女生徒が京一並に威勢の良い啖呵を切った。

「怪しい奴らだな…」

 言われてみれば、確かに名門女子校に用があるような顔ぶれには見えまい。その少女の詰問をきっかけに、龍麻は自分達がずいぶんとたくさんの視線を浴びている事に気が付いた。

「なんだいきなり! 怪しいって俺達の事か!?」

「他にいるか! 見るからに怪しい格好しやがって! 返答次第じゃ痛い目見るぜッ」

 グン! と少女の手が伸び、緩やかに湾曲した袋入りの棒を突き出す。その形状からすると長刀か。まだ袋入りのままであるのに、一分の隙もない構えである。

(スッゲ―女。コイツに比べりゃ小蒔の方がまだ可愛いぜ)

(う、うむ…そうだな…)

 少女の迫力プラス、女子校内部からの黄色い視線に気圧されたか、京一と醍醐はこそこそとそんな事を話す。しかし小声だったにも関わらず、少女にはそれが聞こえたようだ。

「あん? 小蒔だって? あんたら小蒔の知り合いか? ――あいつにこんな柄の悪い知り合いがいるとは思わなかったぜ」

「率直な意見、痛み入る」

 龍麻は立ち上がり、少女を見た。

「うん? 確か君はいつぞやのプールで…」

「!? ――ああ〜ッッ!! あの時の特殊部隊男!! で、そっちは木刀男にシュノーケル男!」

 真神の男三人は同時に思い出した。港区のプールに遊びに行った時、プールに持ち込んだ物に関して問答していた時に話し掛けてきた、あの少女だった。

「な、何でお前らがこんな所に来るんだよッ!」

 かなり本気でうろたえる少女。しかし龍麻は平然と、

「我々は真神学園弓道部主将である桜井小蒔の応援に参上した者だ。しかしながら桜井小蒔より手渡された案内状には試合場の場所が書かれていなかったのだ。もはや時間も差し迫っているゆえ、君に観覧許可を願いたい。そちらの指定したポイント以外には立ち入らず、武装解除にも応じる。当然、撮影機材、通信機器などの制限も受け付ける所存だ」

「…解りやすく言いますと、私たち、小蒔の最後の試合を見に来たんです。こちらの学校の方々に迷惑はかけませんから、弓道場の場所を教えていただけますか?」

 まるでミサイル基地か核施設の査察に来ているような龍麻の物言いを葵が通訳すると、ようやく少女は態度を軟化させた。

「そ、そうか。えと…真神って事は…アンタ、美里葵さん?」

「え、ええ…」

「そうか…最初にそれを言ってくれれば…。弓道場なら、門に入ったら左に曲がって、体育館を目指せば良い。その、すぐ隣だからよ」

「感謝する」

「お、おうッ」

 堂々たる龍麻の敬礼に、まだ少し気圧されながらも、少女は「あばよッ」と言って去っていった。

「ふええ…。お嬢様学校だってのに、あんなのがいるなんてなァ…」

 京一は理想を壊されたものか、妙に肩を落としている。

「そんな事より、早く行こう。もたもたしていると桜井の試合が終わってしまうかも知れん」

 醍醐の言葉に急かされ、あたふたと移動する真神の四人。伝統ある名門女子校だけあって小奇麗な施設内を進むこと一分ほどで、わっと歓声が上がる弓道場に辿り付いた。

「おお、どうにか間に合ったようだぞ」

 試合は既に佳境に入っていたが、主将クラスの試合はこれから始まるところであった。龍麻たち一同の反対側にある入場口から、弓道着に身を固めた小蒔が、ゆきみヶ原の主将と思しき少女と共に姿を現す。これが、下校時刻にも関わらずゆきみヶ原の生徒がいなかった理由か、会場からはみ出すほどに詰め掛けた女生徒たちは、黄色い声を張り上げて小蒔とゆきみヶ原の主将に声援を送っている。声援の数も互角だ。ちなみに相手の主将は《織部》というらしい。

 一瞬、小蒔の緊張に満ちた顔がこちらを向く。

「……」

 龍麻は片手を上げ、親指を立てた。I wish you luck。

 小蒔がそれと判らぬほど小さく頷き、束の間目を閉じる。龍麻が教えた足芯呼吸法…親指の付け根に力を入れ、足裏より大地の《気》を呼吸する。小蒔の表情から雑念が払われ、きりっと引き締まった。

「構え――」

 すっと目が開かれる。涼やかな眼差しが捉えたのは、遥か先にある的。弓が静かに引き絞られ、きりりと糸鳴りを立てる。

 会場は水を打ったように静まり返っている。息が詰まるような静寂。その中で、張り詰めた糸鳴りがひどく大きく響く。

「射て!」

 次の瞬間、会場は大歓声に包まれた。











「本当…凄かったわね、小蒔」

「うむ」

「あんなに息が詰まるような思いをしたのって、初めて」

「…うむ」

 葵は興奮を押さえきれず、熱に浮かされたような口調でひたすら「凄い」と「素敵」を繰り返す。律儀な龍麻はいちいちそれに頷いていた。

 実際、凄い試合だったのだ。小蒔と織部なるゆきみヶ原の主将の対決はまさに一進一退、互いに一歩も譲らぬ勝負であった。弓道における試合形式――《近的》は的を確実に捉えた数を競うもので、一本でも的を外せばそこで勝敗が決する。そもそも二八メートル先の三六センチの円内に矢を撃ち込むという行為に、一体どれほどの集中力を必要とする事か。一射(一回)に付き四本の矢を射撃し、双方とも的を外さなければ二回目、三回目と射撃を続ける。接戦であればあるほど射撃数は多くなり、体力も集中力も消耗する。それはまさしくサバイバルなのだ。

 その勝負に、小蒔は僅差で勝利した。共に汗が顎先から滴り落ちるような疲労の中で、小蒔は三〇射…一二〇本目の的を外してしまった。そして織部主将もまた、震える腕で放った矢では的を射抜くことができなかった。そして運命の三一射目…。既に幾度もの死線を潜り抜けてきた小蒔はこれを皆中(全弾命中)させ、織部主将は三中…最後の矢を的から僅かに外してしまったのである。

「いつも桜井に背中を預けてきたからな。腕前は知っているつもりだったのに、今日はつくづくその凄さを思い知ったよ。あんな離れた所にある的に良く当てられるものだ」

「ああ。今日はちょっとばかり格好良いとか思っちまったぜ」

 醍醐も京一も、小蒔の勝利を我が事の様に喜んでいる。龍麻も喜んではいるのだが、他を賞賛する語彙が少ないので口には出さないのだ。

「それにしても遅いわね」

 この感動を一刻も早く伝えたいものか、葵は少しじりじりしているようだ。

「葵――」

 いつになく興奮している葵を宥めるには龍麻が適任だろう。そう思ったからこそ京一も醍醐も口は出さなかったのだが…

「――トイレなら向こうだ。…ッッ!」

 笑顔を浮かべたまま、龍麻の足を思いっきり踏む葵。

「…なかなか痛いぞ」

「ひーちゃんが馬鹿なコト言うからだろうが。――心配いらねェって。ボク勝っちゃった〜、ラーメン奢って〜とか言いながら戻ってくるさ」

 その途端、京一の背後から声が響く。

「ふう〜ん、京一、ラーメン奢ってくれるんだ」

「おわッ! 小蒔!」

 ぷん、と香る石鹸の香り。どうやら遅くなったのは、シャワーを借りてきたかららしい。

「本当! 凄かったわ! 小蒔!」

 取って食うような勢いで親友の両手を握り締め、まるで情熱的な愛の告白でもしているかのような葵。周囲ではゆきみヶ原の女生徒たちが非常に嬉しそうな表情でその光景を眺めている。ただ途切れ途切れに聞こえる単語は「禁断の愛」とか、「どっちがタチ(ネコ)かしら?」などという、さすが女子校! と言わんばかりに不穏当なものではあったが。

「エヘヘッ、ありがと葵。皆も、サンキュ!」

「実に見事であったぞ、小蒔」

 ただ一言。しかし龍麻のそれは非常に重く、暖かい。

「あ…ありがと! ひーちゃん!」

 死線に立つ時、もっとも信頼される指揮官である龍麻。その彼からの賞賛は、一言でも小蒔の胸に響いた。

「あ、そうだ。雛乃がもうすぐこっちに来るんだ。なんでも皆に――」

 龍麻の口元の笑みを直視しきれなくなった小蒔は、赤らめた顔を逸らしながら話題を切り替えた。ちょうど、目当ての人物もそこに現れた。

「――こちらの方々が、小蒔様の御学友の皆様なのですか?」

 見ればそこに現れたのは、先程の織部主将であった。凛々しさに満ちた弓道着は水色のゆきみヶ原の制服に変わり、しかしまるで日本人形のようなたたずまいを見せる少女である。

「小蒔様〜ッ!? お前いつからそんなに偉くなったんだよ」

 おっとりとした、それこそ普通では聞くことのなくなった上品な言葉使いに面食らった京一が小蒔に尋ねる。

「雛乃は誰にだってこの調子なんだよ。ひーちゃんだって初めて会った頃はそうだったでしょ? でも、確かにボクも小蒔様って柄じゃないし」

「ふふ、小蒔様はわたくしにとって大切な方ですもの。そうは参りませんわ」

 笑い方まで上品でおっとりとしている雛乃に、龍麻は記憶を呼び起こされた。

「そうか。どこかで見た顔だと思ったが、君も港区のプールで会ったな」

 あ…と雛乃は驚いたような顔をした後、にっこりと微笑んだ。

「これはこれは、その節はお世話になりまして…」

「いや、君が小蒔の親友であるとは、世間とは意外と狭いものだ。――改めて名乗る。自分は真神学園三年、緋勇龍麻だ」

 初対面の者に対する礼儀。龍麻は踵を揃え、直立不動でピシリと敬礼した。

「ご丁寧に。私は織部雛乃おりべひなのと申します。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます」

 雛乃もまた、深々とお辞儀をする。礼儀という事に関してはどちらも筋金入りであった。

「ひーちゃん…。雛乃のコト、知ってるの?」

「うむ。以前、プールで会ったのだ。正式に名乗ったのは今が初めてだが」

「そっか。それじゃひーちゃんはもういいんだね。こっちの背が高いのが醍醐雄矢クン。その隣が美里葵さん。ボクの親友なんだ」

 改めて雛乃は彼らの方を向き直り、やはり深々とお辞儀をする。

「皆様初めまして。織部雛乃と申します。今後とも、よろしくお願い申し上げます」

「こちらこそ」

「う、うむ。よろしく頼む」

 礼儀正しさもここに極まれりと思われながら、雛乃の柔らかな物腰に一同は和やかなムードに包まれる。しかし約一名、その輪から除外されている者がいた。

「…あの〜桜井さん。誰か忘れていないでしょうか?」

「うん? どこかでセミが鳴いているみたい」

「おーい。小蒔様ァ?」

「おかしいなあ。どこかで鈴虫も鳴いている」

「違うぞ小蒔。それはサルだ。――鳴け!」

「ウキャ、ウキャキャ! ――って、ノせんな! ひーちゃん!」

 いきなり命令口調で言われた京一は、条件反射で馬鹿丸出しの応答をしてしまう。それを見て一同が笑い、雛乃もクスクスと屈託ない笑顔を見せた。

「アハハ、冗談だってば。あ、この人は一応友人の蓬莱寺京一クン。名前と顔は速攻で忘れて構わないからね」

「俺は一応かッ!」

 ちょっぴり逆上した京一を押さえつけながら龍麻が言う。

「すると先程の女性が、君の姉上なのだな」

「え? もしかして雪乃にも会ってるの?」

「雪乃というのか? 肯定だ」

 ふうん、と小蒔は頷く。

「雪乃は、雛乃の双子のお姉ちゃんなんだ。長刀部の部長で、薙刀の師範代の免状も持っているから、京一なんて簡単にノされちゃうかもね」

「――そいつは大袈裟だぜ、小蒔」

 颯爽と肩で風を切って現れたポニーテールの少女――雛乃の姉、雪乃は小蒔の肩に手を置いて言った。

「よお、怪しげな二人組にハンサムな兄ちゃん。ぱっとには小蒔の友達にゃ見えねえけど、よろしく頼むぜ」

「て、てめ…誰が…!」

 余りにも酷い言い草に京一がキレかかるが、龍麻はひょいと差し出した手で彼の突進を止める。

「先程は助かった。重ねて感謝する」

「お、おう。別に礼なんて良いよ…」

 なまじ同じ顔で、性格が正反対だという雛乃がいるだけに、雪乃の、はっきり言ってがさつな性格はかなり目立つ。しかしそれを微塵も意識していない龍麻の態度に、雪乃は圧倒されたようだ。

「こんな場所で立ち話もないですから、皆様、今からうちに遊びにいらっしゃいませんか? 小さいのですけれども、古い歴史のある神社なのです。是非、いらしてください」

「エッ!? 雛、それ本気かよ!?」

 雪乃はあからさまに嫌そうな顔をする。

「そりゃ、こっちの美里って子ならともかく、あとはこっちの礼儀正しい緋勇君なら構わねえけど、オレは反対だぜ。こんなむさくるしい男どもを神社ウチに連れて行くのは」

「面目ない。彼らが身だしなみに注意しないのは、指揮官である自分に責任がある」

「あ、いや、別にあんたを責めてる訳じゃなくってさ…」

 どうやら堂々とした、それでいて礼儀のしっかりした人間は、雪乃の苦手な人種であるらしい。龍麻にそう言われると、雪乃の威勢がたちまち揺らぐ。そして実際、身だしなみに関して龍麻が言うことが事実であることを知っている京一や醍醐も何も言えなかった。何しろこの男と来たら、旧校舎での訓練を終えた後、誰よりも遅くシャワールーム(特別に作らせたのだ)に入りながら、出てくるのは一番早い。そのくせ汗はきっちり流しているし、髪のセットも(意味ナシだが)万全、制服のしわまできっちり取って現れるのである。これも軍隊経験者の賜物なのか、彼に付いていけるのは如月とアランだけという有様だ。

「姉様」

 雛乃はそっと、しかし強いものを含む声で言う。

「わ、判ってるよ。大事な話があるって言うんだろ。ちょっと言ってみただけだって」

 どうやら姉とは言うものの、雪乃は雛乃に頭が上がらないらしい。プールでの一件と考え合わせると、遊びなどの行動力を必要とするものでは雪乃が、頭脳労働分野は雛乃が主導権を握るようだ。これはこれで、理想的な姉妹関係と言える。不承不承ながら、雪乃は一同を実家に案内することを承諾した。











 姉妹の実家である織部神社は、ゆきみヶ原高校から徒歩で数分という距離にあった。あとから植林されたものではない自然木が適度にちりばめられた街の一角に、古色蒼然とした神社が姿を現す様は、独特のわびさびがある。

「こちらの御祭神はなんですか?」

 規模としてはそれほど大きくはないが、道すがら雛乃が説明していた通り、歴史の年輪を重ねてきた重厚感から、現代女子校生でありながら神社仏閣巡りが趣味という葵は大いに興味をそそられたようだ。

「熊野の御祭神である須佐之男命スサノオノミコトが主祭神です。元々は紀伊の国にあったそうですが、徳川家康が江戸を本拠地とする際にこの地に移転されたのが始まりと言われております。――時に緋勇様は、須佐之男命はご存知でいらっしゃいますか?」

「肯定だ。出雲神話に登場するもっとも無法な神の一人だと認識している。天照大神アマテラスオオミカミなる神の持ち馬を殺し、その死体を屋敷に放り込んで機織りの娘まで殺してしまい、それがもとで天照大神は天の岩戸に閉じ篭り、日本は暗黒の世になったという話であったか」

「その通りでございます」

「うむ。そこで出雲の神々は引きこもりをした天照大神を肴にドンチャン騒ぎを行い、果ては天宇受売アメノウズメなる女神のストリップ観覧にまで及び、なにやら自分抜きで楽しんでいることを妬んだ天照大神が覗き見しようとしたところを、天手力男神ダチカラオなる怪力の神が、ここで出られては宴会がお開きになるからもう少し閉じ篭ってろと押さえつけ、お預けを食わせるのだったな。そして宴会がいい加減終わったところで天照大神を解放し、自分の殻に閉じ篭っているから宴会に出られないのだ大馬鹿者めと…おおっ!?」

 龍麻の後頭部をガン! とばかりに叩いたのは、雪乃の薙刀であった。

「なんだそりゃ!? 一体何の話だよッ?」

「…これはまた盛大につついたな。日本神話をいわゆる心理学における引きこもり治療法にアレンジしたものだが…無理矢理引きずり出したというオチでは納得できないのでな。現に天照大神はその後、閉じ篭っておらんし…」

 日本神話における最高神を引きこもりの患者と同じ扱いにしてしまう龍麻である。しかしそれを聞いて雛乃はさもおかしそうにくすくすと笑った。

「それはまた、斬新な解釈でいらっしゃいます。えてして歴史とは、後の世の人々の解釈によってのみ語られるものですから、真実はそのようなものであったかも知れません」

「光栄だ」

 他の者は呆れ果てているのに、他ならぬ雛乃が同意を示した事で龍麻が相好を崩す。女性には(一部男性にも)最大級の破壊力を誇る龍麻の笑顔に、雪乃も雛乃も数瞬だがぽうっとなった。

 こうなると京一(醍醐も時々)は面白くない。ちっと呟いてそっぽを向いた彼は、ふと目を留めた石碑の前に、見慣れたスーツ姿の女性を見付けて声を上げた。

「ありゃ、エリちゃん!?」

 京一の声に、全員の視線が、いかにも取材中と思しき天野に集中した。

「あのブン屋…また来てやがるのかッ。追っ払ってやる!」

 龍麻の笑顔を見ていた時の表情が信じられぬほど険しい顔で、雪乃が天野に詰め寄っていく。そのただならぬ様子に、こりゃいかんとばかりに龍麻たちもその後を追った。

「あら、あなた達。久し振りね。元気だった?」

「肯定です。情報将校殿」

 雪乃が何か言うよりも先に、踵を揃えて敬礼する龍麻。これならいくら鈍い人間でも、龍麻の関係者と判る。しかも、《情報将校》と来た。

「ふふ、そこまで畏まらなくていいわよ。あんな事件があった後だけど、夏休みは堪能できたみたいね。――担当記者が驚いてたわよ。「本物のスパイ○ーマンが出た!」って」

 面白そうに笑いながら、天野はハンドバッグから雑誌の切抜きを取り出す。そこには東映特撮バージョンのスパイ○ーマンが銀行強盗犯人の手から子供を救出する場面が写されている。先日、後楽園で行われた子供ヒーローショーでの出来事であった。連続写真で、他にもタ○ガーマ○クやら世紀末覇者ラ○ウやら、更にはミュー○ント○ートルやデ○ラー総統などに扮した、どこかで見たような顔立ちの者が救助活動に勤しむ姿が写されていた。――ただし、SATに関する記事は一行もないが。

「こんな風に目立っていると、そのうち一般人にも正体ばれるわよ」

「ご忠告、痛み入ります」

 京一と醍醐は顔を真っ赤にし、葵と小蒔は必死で笑いを堪える中、龍麻一人が真面目に言う。彼がスパイ○ーマンの中身だと知っている天野も、そのギャップに思わず笑ってしまう。

「な、なに笑ってんだよッ」

 しかし、彼らの笑いの理由を知らぬ雪乃は、やっと気を取り直して天野に食って掛かった。

「おい! 近頃ここをコソコソ嗅ぎ回ってるみたいだが、今度ここらで見かけたらただじゃおかないからな!」

「あら、あなた達はここの神社の娘さん達ね。そう言えば、こうして話すのは初めてね。私はルポライターの天野絵梨。よろしくね」

 思い切り喧嘩腰の雪乃に対し、天野は見事なまでに大人の対応をする。こういうパターンでは、最初にキレた方が負けとなるのだが…

「どうしてオレがよろしくされなきゃならねェんで――」

「まあ、これはご丁寧に。私は織部が妹、雛乃にございます」

 姉の言葉を途中で遮り、お見知りおきを、と雛乃は深々とお辞儀する。

「雛ッ、なに挨拶してやがんだ! コイツは探偵だぞ! きっとこの神社を潰そうとしてるんだ!」

「ん〜、ルポライターなんだけどな〜」

「どっちだって同じようなモンだろッ! ッたく、じいちゃんも余計な事喋ってなけりゃいいけど…!」

「姉様」

 龍麻たちの時とは違い、容易に態度を軟化させない雪乃に、雛乃が言った。

「《人を疑わば、信を得る事あたわず》。――無闇に人を疑うものではないと、いつもおじい様がおっしゃっているではありませんか。織部のものはこの言葉を先祖代々、家訓として語り継ぎ…」

「わ、解った解った。オレが悪かった」

 雪乃のこの反応を見るに、雛乃のお説教は長いのだろう。ここは謝っておくのが無難だと先手を打った雪乃であったが、雛乃はあっさりと首を横に振った。

「いいえ。姉様はまだ解っておられません。私たち織部のものは第一に…」

 脇で見ている者にとって、これほど辛い時間はないだろう。雛乃のお説教は織部家の家訓から、歴史上の大人物の残した格言や老子、孟子の訓戒にまで至り、なぜか部外者であるはずの京一たちでさえ、自分達がお説教されている気分になってしまった。事の発端となった天野は雛乃の弁舌の巧みさに口を挟むチャンスを見付けられず、龍麻に至っては直立不動で真剣に聞いている。

「ごめんなさい…」

 心身ともに消耗したような雪乃が言った時、既に五分以上が経過していた。

「解れば結構です。…姉が大変失礼な物言いを致しました。姉に代わりまして、織部が妹、雛乃が慎んでお詫び申し上げます」

 再び深々と頭を下げる雛乃。雪乃もその最敬礼に付き合い、つられるように天野も頭を下げてしまった。

「ご丁寧に。でも安心して。ちょっと調べものがあって、しばらく東京を離れるから」

「あれっ? エリちゃん、何処まで行くんだよ?」

「そうね…。まず紀伊半島を廻って、それから、奈良、京都かしらね」

 まるで修学旅行だね、と言う小蒔に笑顔を見せつつ、龍麻には目配せで何かを伝える天野。龍麻なら、この土地名だけで何かが判ると思っての事だろう。そして龍麻は、小さく頷く。了解の合図だ。

「じゃあね。ちょっと会えなくなるけど、寂しがらないでね」

「そ、そんな事はねェけどよ。エリちゃん、気をつけてな」

 らしくもない台詞を吐く京一ににっこりと微笑みかけ、天野は織部神社を辞した。

「…見事な訓戒であった、雛乃殿」

 ある意味、非常に的外れな賞賛をする龍麻に、雛乃は微笑しながら頭を下げた。

「ありがとうございます。さ、皆様、こちらへどうぞ」











 一同の案内は雪乃に任せ、雛乃は茶の用意をすると言って廊下の反対側へと消えた。社務所兼住居である木造家屋は、東京都の指定文化財に指定されているとか言うだけあって、見かけこそ古いが、それは見事な建造物であった。その感嘆を葵が述べると、雪乃は得意そうに、江戸時代からほとんど建て替えられていないと説明する。

「道理でボロッちいと思ったぜ」

 この男にかかると、風情も情緒もあったものではない。雪乃は京一に食って掛かった。

「歴史があると言え! 木刀馬鹿!」

「ボロッちい事に変わりはねェだろ。地震が来たら一発で潰れちまうんじゃねェのか」

「………アホ」

 ぼそッとした龍麻の呟きに、京一は胸を押さえてへなへなと腰砕けになった。

「ひ、ひ、ひーちゃん…! 今のはそうとう堪えたぞ…!」

「当たり前だ。肺腑をえぐるように言ったのだからな」

 冗談ではなく、言葉だけで京一にそこまでダメージを与える龍麻こそ恐るべし。

(まるで裏密のようだ)

 先の《催眠暗示》の一件で酷い目にあっている(笑)醍醐はそんな感想を持ったが、全力で黙っていた。

「見た目にばかりこだわるから本質が見抜けんのだ。江戸時代から建て替えが行われていないという事は、明治維新の動乱も関東大震災も、東京大空襲をも潜り抜けてきたという事だろう。それにこの建築様式は鉄の釘を一切使わぬ寄せ木造りだ。そして建材は全て燻しをかけ、耐久性を飛躍的に増している。火事にさえならなければあと三百年はもつ。その辺のツーバイフォーやバブル時代の手抜き住宅などと一緒にするな」

 龍麻の博識ぶりは周知であるが、よくもまあ、これだけの雑学を覚えていられるものだ。落語にしても、その他の事にしても、龍麻は一体そんな知識をいつ吸収しているのだろう? 平均睡眠時間は三時間で、それ以外は訓練に明け暮れている筈なのだが…。

「嬉しいコト言ってくれるな、緋勇君よ。まあ、多少ボロいのは認めるけどよ」

 龍麻に言われて満更でもないのか、雪乃は相好を崩す。

「ボロいなんて事ないです。四百年の歴史を刻んだ立派な社殿ですよ。とっても落ち着きます」

 《奥の間》に通された一行は雪乃に勧められるまま、檜の一枚板で造られたお膳の周囲に身を落ち着ける。京一など、一番不平タラタラだったにも関わらず、ちゃっかり上座だ。

「…ただ刻が流れたからといって、そのものに価値が生まれる訳ではありません」

 立て付けの見事さゆえ、襖が音も立てず開き、お茶の用意を整えた雛乃が入って来た。

「わおッ、巫女さんルック」

 神社の娘なのだから正装なのに、なぜか喜ぶ京一。

「まずはお茶をどうぞ」

 純和風の社殿にふさわしい馥郁たる茶の香りに、しばし瞑目する龍麻。落語にハマっただけあって、茶やお華など、日本文化へのアプローチはかなり深いものになっている彼であった。

 龍麻が湯飲みを置いたのを見計らって、雛乃は静かに切り出した。

「時間の流れよりも大切なものを経て、初めて価値は生まれます。例えば、そこに纏わる人の想い、言い伝え、そしてそのものが持つ意味など。そして、それは時として私たち人間の為すべき道を指し示すのです」

「雛ッ!」

 深い暗示を込めた雛乃の言葉を咎めるように雪乃が声を上げる。どうやら彼女には、雛乃がこれから話そうとしている内容の見当が付いたらしい。そしてそれが、非常に重要である事も。

「…それは、我々の《力》に関する事だな」

 龍麻の言葉は質問ではなく、確認であった。それを悟った仲間たちははっとして彼を見た。

「あの…もしかしてお二人は私たちの《力》の事を…?」

 雛乃が頷くよりも早く、小蒔が両手を合わせる。

「ゴメン! 実は内緒で、この事を相談した事があったんだ…」

 京一と同じくらい、《力》について楽観視していたような小蒔だが、やはり家に帰れば大家族の中とは言え、一人悩みを抱えていたのだろう。聞けば雛乃は昔からそのテの話に詳しかったという。ある意味、相談するにはうってつけの人物であったという事だ。それを龍麻たちに黙っていたのは、《力》の発現時に、この事は全員一致で秘密にすると決めたのを破ってしまったからだ。そして龍麻の存在は、平和な日本の日常に放り込まれた核爆弾のようなものである。小蒔は龍麻と身近に接しているためにその人となりを知っているが、何も知らぬ、あるいは話だけでしか知らぬ者は龍麻を極悪人だと称しても不思議はないのだ。

「緋勇様。私たちは確かに小蒔様の口からあなた様のことを色々と聞き及んでおります。しかしこの織部、誓ってこの事を口外してはおりません。そして一年程前から神事仏事に携わる方々から寄せられる異変の数々と、小蒔様より伺った皆様の《力》を考え合わせるに、いつかこのようにお話する機会が来ると思っておりました」

 雛乃は真っ直ぐに龍麻を見た。小蒔は恐らく、全てを包み隠さず話したに違いない。そして雛乃は、龍麻が元アメリカ軍特殊実験部隊レッドキャップスである事も、人殺しである事も承知の上なのだ。

「…話を聞こう」

 龍麻はたとえ、最悪の情報でも拒否したりはしない。雛乃は「承知いたしました」と頷いた。

「私がこれから話します事は、あくまでこの織部神社に伝わる言い伝えです。それをどう解釈なさるかは皆様次第ですが、この東京に起こりつつある異変の謎を解く鍵になれば幸いかと存じます。」







 それは、記録に残る事を許されず、ただ人々が口伝に語り継いできた悲恋の物語だった。

 かつてこの地方に、一人の侍がいた。その男は剛の者にして、心優しく、民を思い、近隣の人々の信頼厚く、敬愛されていた。

 しかしある日をもって侍は人が変わってしまった。きっかけはほんの些細な事。道に迷った女性を助けたという、それだけの事だった。しかし侍にとってその出会いは、まさに運命の出会いであった。侍はその女性に恋心を抱いてしまったのだった。そしてあろう事か、その女性は都の姫君であった。

 自由平等が叫ばれる現代でさえも立ち塞がる、身分の違い。封建制の敷かれた世にあって、それは決して許されぬ恋であった。たとえ片思いであろうとも、身分違いの恋など考えるだけでも罪と言われた時代である。

 侍は呪った。自分の身分を――自分の無力さを――。

 一騎当千の力を持とうとも、所詮自分は田舎侍の一人。一夜にして国が建ち、国が滅びる戦国の世ならばいざ知らず、天下統一が為された世にあっては手柄を立てて身分を上げる機会もなく、性格的に政治の高官に取り入ることもできない。

 現実的に物を考えるならば、《諦める》のが筋だろう。だが恋に狂った侍は心底諦めなかった。自らの属領に祭られていた龍神の力を解放し、姫を奪うために三日三晩、都に嵐を起こした。しかしそれとて多勢に無勢。都の軍勢はたちまち侍の屋敷に攻め込んだのだが、そこには既にかつての侍はいなかった。代わりにそこにいたのは、醜くおぞましい異形のものたちだったのだ。それは大地の裂け目から現れた鬼であり、龍神の力によって鬼と化した侍自身であった。

 激しい戦いの果て、鬼は討ち取られ、その温床である屋敷は焼き尽くされた。しかし大逆を犯したとは言え、地元の人々は屋敷の跡地に社を立て、侍の霊を弔ったと言われる。







「――それが、この神社のそもそもの発祥だと伝えられております」

「…知らなかった…。この神社にそんな意味があったなんて…」

 それは小蒔だけでなく、龍麻を除く一同全員の思いであった。そもそも神社仏閣に詳しい葵にしても、その祭神や由来は表向きに伝えられるものしか知らない。そして歴史の古い神社仏閣ほど、その発祥にはあいまいな部分が多いのだ。

「…しかし、妙な話だな」

 龍麻がそう呟いたことで、全員が彼に注目する。

「緋勇様の考え…お話しくださいますか?」

「うむ。先程聞いたところによると、この神社が建てられたのは四百年前だ。それは丁度戦国時代が終了し、徳川政権が発足した時期と一致する。もしその話が真実ならば、侍は徳川政権よりの人間だったと推察できる。当時敵対していた豊臣方の侍であったならば、江戸近郊に屋敷を構えることなどありえないからな」

 ふむ…と頷きつつも、既に京一と醍醐と小蒔は逃避モードである。久々発揮のプロファイリングだが、これでは歴史の授業みたいだ。

「そして道に迷った《都の姫君》――いかにも昔話的だ。当時の政治体系を考え合わせると、《姫》と呼称される身分の者が一人で外出することは考えられん。そして日本では《都》と言えば基本的に京都を指す。仮にこの話が四百年前の出来事とした場合、徳川幕府が発足したばかりの江戸はそれほど大きな街ではなかった筈だからな。京都にいる姫が興されたばかりの街に来る途中で道に迷う――考えられぬ話ではないが、矛盾点も多い」

「…仰る通りです」

「最後に、龍神を呼び起こすというくだりだ。確かにこの東京にもいわく因縁のある遺物が多く存在しているが、それらがたやすく利用できるとも思えん。仮にそれが叶ったとして、自ら鬼に変じてまで姫を奪うものだろうか? 《恋は盲目》という言葉があるそうだが、多くの市民に信頼されるような人物が、恋する相手を脅えさせるような姿を望むとも思えん。現代に照らし合わせるならば、ダイアナ妃を差し出せと言ってロンドンで爆弾テロを行うようなものだ。独占欲の強い男ならまだしも、信頼厚いという風評のある男がそんな真似はするまい。そして、侍が討ち取られたあとに、供養のために社が建てられた…。やはり、どこかで話がすり替えられているようだ」

 最後の言葉だけは、龍麻らしくもなく言葉を濁す。それも無理はない。雛乃が最初に断っていた通り、この話はただの伝承であり、解釈はそれぞれに委ねられるものなのだ。

「…歴史云々はよく判らんが、大地の裂け目から鬼が出るとはどういう事なのだろうか? そして龍神の力で鬼に変じるというのは…?」

「俺達が戦ったところには訳の判らねえ《門》があったよな? 仮にその《大地の裂け目》ってのがあの《門》と同じだったとして、あの《向こう側》から出てくる奴に、そんな昔の連中が対抗できたのかよ?」

 醍醐も京一も、自分で口にしながらぶるっと身を震わせる。《ダゴン》、そして《盲目のもの》との戦い。今思えば、良く勝ち残れたと思う。対テロリスト部隊上がりの龍麻がいて、強力な《力》を有する仲間たちを的確な判断と指揮で纏め上げたからこその勝利だった。

「…そうですね。その疑問にお答えする前に、皆様は《龍脈》という言葉はご存知でいらっしゃいますか?」

 雛乃の言葉に、一同は龍麻を除いて顔を見合わせる。

「…緋勇様はご存知のようですね」

「…《俺達》に与えられた基本知識の一つだ」

 龍麻の言葉に一同がさっと緊張する。龍麻の言う《俺達》とはレッドキャップスの事だ。

「それでは、《風水》というものもご存知ですね」

「肯定だ。――中国古来より伝わる地相占術。木火土金水の五行を基本とし、山の連なりや川の流れ、湖や池の配置、現代では高速道路の配置やカーブもその要素に加え、小は個人の墓から大は国の首都に至るまで、吉相に導く手法の事だ。そして《龍脈》とは、これらの要素から導き出される、大地のエネルギー流通路。そのエネルギーが地上に噴出するポイントを《龍穴》という」

 即答する龍麻に雛乃も雪乃も驚きに目を見張る。対テロリスト部隊である彼が、なぜそのようなことを《軍隊》によって教育されていたのか、彼女たちには皆目見当が付かなかったのだ。

「…お見事です」

 雛乃は、そう言うのが精一杯であった。

「あの…さ。《風水》って、最近本屋さんでよく見る《幸せを呼ぶ風水》とか、《Dr○パの風水学》とかいうタイトルで出ている、占いのコトじゃないの?」

 こっそりと、それこそ蚊の鳴くような声で小蒔が口を挟む。龍麻は軽く頷いた。

「現代ではそのような形で日常生活の身近なところにも取り入れられている。しかし《龍脈》と、その流れを割り出す《風水》はもっと奥が深いものだ。《龍脈》の存在は西洋でも《レイ・ライン》の名で知られていてな。古代遺跡の数々はおおむね、このラインに沿って建設され、《龍穴》に相当する《レイ・ポイント》には《ストーンヘンジ》、《グランストンベリー》、《ソールズベリ》など、有名な古代祭祀場が残っている。日本にも石舞台古墳や要石の伝説があるように、《龍脈》から導き出される《力》は古代から利用されていたのだ。もっとも有名な例は、やはり京都、平安京であろう」

「緋勇様の仰る通りです」

 雛乃が補足説明をする。

「京都は我が国で最大の、風水の理論を極限までつぎ込んだ呪法都市なのです。詳しい説明は省きますが、時の為政者桓武かんむ天皇は早良さわら親王の怨霊を恐れて僅か十年で長岡京を捨てた後、平安京を建設しました。そしてその後数百年に渡り、平安の世が続いたのは、まさしく平安京が風水にのっとって建設されたからに他ならないのです」

 そこで雛乃は一旦言葉を切った。

「前置きが長くなりましたが、先程の言い伝えの龍神とは、この地に流れる《龍脈》ではないかと、私たちは考えております」

「…それはつまり、我々の《力》もまた、《龍脈》の影響によるものではないかと言いたい訳だな」

「はい。証拠と言うほどのものでもございませんが、ご覧下さいませ」

 雛乃は頷き、《気》を発した。

「――ッ!!」

 龍麻と雪乃以外、全員が驚きに目を見張る。それは彼らが既に見慣れた《力》を持つ者の証。青白い清浄な輝きを持つオーラとして現出したのである。

「我が織部神社は代々、三種の神器の一つ、《草薙》の《力》を継承しております。そして《草薙》とは須佐之男命が八俣大蛇ヤマタノオロチを退治した際、その尾より出現した、闇を打ち払う剣の事です。織部に名を連ねる者は代々、この《力》を用いてこの地を護ってきたと伝えられ、私達姉妹にもこの《力》が継承されたのです」

 小蒔は親友が自分と同質の《力》の持ち主であった事に率直な驚きを示しているが、龍麻の反応は、目の前の事実をありのまま受け入れる者の落ち着いたものであった。

「なるほど。――この神社もまた、レイ・ラインの真上にあるのだな」

「その通りでございます。私たちはこの地に流れる《龍脈》より《力》を授かり、《草薙》の《力》を振るう者なのです」

 これで《風水》と《龍神》に関わる侍の話が《力》に繋がった。深く雛乃が頷き、一同が俄かに驚きと困惑の表情を作る。

「ボクたちの《力》が《龍脈》から得たものだとしたら、凄い話だよね」

「…凄い…と言うより、何かこう…重大な責任を感じるな」

 小蒔の言を受け、醍醐が深刻な顔で腕組みをする。織部姉妹は《草薙》…魔を打ち払う《力》を振るう者として《龍脈》より《力》を授かっているというのだ。ならば自分たちに与えられた《力》は一体何の為に…?

「責任か」

 ポツリ、とした龍麻の呟きが、全員の注目を呼んだ。

「我々の《力》が《龍脈》によって生じたものだと仮定するならば、確かに責任は重大極まるな」

「どういう事だ、ひーちゃん?」

 龍麻が答えるより先に、葵がはっとして口元を押さえる。

「…葵は気付いたようだな」

 困惑と脅えを含んだ表情を浮かべる葵に注目が移る。葵は龍麻にすがるような目を向けた。

「もし…もしそれが本当だとしたら、私たちも《鬼》になる可能性があるという事なの、龍麻!?」

 一瞬、場を恐ろしいほどの沈黙が支配した。

 《龍脈》によって《力》を得た者たちは既に十人以上もいる。その中には必ずしも正しい心の持ち主ばかりではなかった。

「…まさか龍麻…凶津が言っていたのは…!」

 数ヶ月前に闘った《力あるもの》の一人、凶津。一同は闘いに敗れた彼の残した言葉を思い出した。



――『俺は鬼になれる筈だった。お前を憎み怨む事で鬼の力を手に入れられる筈だった』



 龍麻は静かに頷いた。

「…日本には、《気は鬼に通じる》という言葉がある。人は、心の持ち様で鬼にも仏にもなり得るのだ。凶津はぎりぎりのところで踏みとどまったが、《力》に溺れ、《鬼》と化した者を俺は知っている。――莎草だ」

「な…んですって…!」

 莎草覚さのくささとる――真神学園より明日香学園に転校して行った男。《力》を振るい、学園を恐怖で支配しようとし、龍麻によって殲滅させられた《力あるもの》。

「今まであの現象を論理的に説明することはできなかったが、なるほど確かに、莎草は鬼と化したと言える。我々もまた、憎しみや怨みを溜め込めば鬼と化す可能性を秘めているだろう。――その時は、殺さねばならない。俺とて例外ではなく」

 かつてない残酷な、《力》に対する考察。《力》を正しいものだと、誰かを護るものだと信じてきた者たちにとっては余りに衝撃的な事実であった。まさか自分たちの《力》が、それほどたやすく外道に転がり落ちる可能性を秘めているなどとは…!

「確かに、《龍脈》より得られる《力》は、その持ち主を選びます。《龍脈》に選ばれし《力》を振るう者は古代において《神威カムイ》、もしくは《八百万やをよろず》と称され、人の歴史と共に存在してまいりました。そしてその《力》そのものは中立である事も事実でしょう」

 《神威》…神の力を振るう者という、古い言葉である。そして《八百万》とは、出雲神話に登場する、日本全国に存在する様々な力を持った《神》の事だ。特に《八百万》に関しては、並みの人間とは多少毛色の違った力を持っていれば、《神》の眷属と認められたという。いわゆる妖怪変化も、この中に含まれるのだ。

 雛乃は続けた。

「《神威》は互いに戦う宿命を背負っています。即ち《龍脈》の乱れとは乱世の始まり――ですが同時にそれを治める者も現れると伝えられております。そしてその者と共に、この地を護ろうとする者たちも。それはまさに、緋勇様の仰られた心の持ち様でありましょう」

 場の空気が重く沈んだのを知り、フォローの言葉も交える雛乃。《力あるもの》…《神威》がその心を乱し、汚さぬ限り、鬼と変じる事はないと。

「――いずれにせよ、この東京の歩む道は二つのみです。――陰と陽が互いに共存を目指す陰(かげ)の未来。そして、闇を払い、全てを浄化する陽(ひかり)の未来」

 そこで雛乃は言葉を切り、龍麻を真っ直ぐに見つめた。

「緋勇様ならば、いずれを選ばれますか?」

 雪乃には、そして小蒔には、雛乃がこの選択で龍麻を試そうとしているのが判った。《力》に目覚めた《魔人》たちを束ねるリーダーは龍麻である。その龍麻の返答如何によっては、《力》の謎に最も近いところにいる織部姉妹はこれ以降、龍麻たちに力を貸す事はない。かつて龍麻が言ったように、行き着く先が地獄であったとしても、織部姉妹は干渉しないと。

「…俺に対してその質問はナンセンスだ」

 一同の緊張をよそに、龍麻はごく軽い口調で言った。

「俺は世界中で、多くの戦場を渡り歩いてきた。全てとは言わんが、そこで戦ってきた《敵》のほとんどが政府を、世界を腐ったものと、倒さねばならぬものと唱え、血で血を洗う闘争を挑んでいた。だが、どれほど理想を掲げようと、一つの戦いの終結は新たな戦いの始まりでしかない。世界を浄化しようと、光と闇の共存を目指そうと、人は何も変わらぬよ。光あるところに必ず闇は生じる。独裁者を倒す英雄が現れ、その英雄がまた独裁者となる。人間の歴史とは、全てその繰り返しなのだからな」

「……」

 龍麻の答えは、織部姉妹の予想を越えていた。この二者択一を迫られ、その両方を否定するなど。そしてその二者択一が、無意味であるなどとは…。

「だが、俺が言えるべき事は一つだ」

 龍麻の言葉に、ふっと緊張する織部姉妹。

「人がいれば、争いが起こる。それは人の宿業かも知れない。だが、だからと言って《力あるもの》…《神威》の意思一つで未来が決定されるなど、それこそ愚行の極みだ。今までの歴史が全て、戦いの勝者の歴史である事は認めよう。そしてこの先も愚行を繰り返していくだろう事も。だがどれほど血を流そうとも、争いのない世界は、人間の手によって作られるべきだ。俺はそれを、ほんの僅か手助けするに留めよう」

 これが、緋勇龍麻という男だ。

 この歳にして数多の戦場を歩き、人としての生を否定され、真の人間たるを目指して戦う男。心のない機械として生きた時間が長いからこそ、より深く人間を見ることができる男。その言葉には単なる理想や希望を超えた重みがあった。彼には陽の未来も陰の未来も共に等しく、それは自分という《個人》が選ぶべきものではないというのだ。そして彼は、彼らレッドキャップスは、特定の個人や組織の意思または思想が多くの命を貪ろうとする時にのみ出現していたのだ。

「…お見事なお言葉です。緋勇様」

 雛乃は感じ入ったように言った。龍麻の答えこそ予想とは異なったものであったが、人間に希望を託し、自らの《力》を積極的に行使しようとはしないというのだ。

「…でも、緋勇君よ。現在の東京が置かれている状況はそんな甘っちょろいことは言ってられねェかも知れないぜ。今までの事件でも、犠牲者になったのは《力》のない人たちなんだろ?」

 やや苦しげな顔で、雪乃が言う。港区の事件でも江戸川区の事件でも、三桁に届く人々が殺されているのだ。そして港区の事件では、怪物に変えられてしまったとは言え、龍麻たちは彼らを殺している。それしか方法がなかったと言っても、そう告げるのは辛いだろう。

「それによ…今年の初めに、戦乱の予兆が現れたんだ。新年恒例の歳旦祭で、うちの神宝の刀が鍔鳴りを起こしたんだ」

 聞けばその刀とは、かの草薙の剣の分身として譲り受けたものだという。

「記録では、今から約百五十年前に鳴った事があるらしい。その時も江戸は動乱に陥ったらしいんだ」

「ふむ…?」

 龍麻は顎に手をやった。

「戦乱の予兆を刀が告げるというのか? しかし、百五十年以内にも日本は三度の戦争を起こしている。その時には鳴らなかったのだろうか?」

「う〜ん…じいちゃんが言うには《力》のある者が生まれる時に鳴るって話だったけど…」

 龍麻は暗に「心配するな」と言いたかったに違いない。しかし、思ってもみない人物が声を上げた。

「もしこの街が戦火に包まれるようなことがあれば、きっとたくさんの人が不幸になるわ。でも、私たちの《力》でその未来が変えられるならば…私は変えてみたい」

「葵…」

 親友の決意表明に瞠目する小蒔。しかし、その気持ちは痛いほど判る。

「龍麻はずっと戦ってきたのでしょう? より大きな不幸を招かないために、龍麻は自ら手を汚してきたのよね。誰にも知られる事なく、感謝される事もなく…。でも私は、たとえ人から疎まれ、恐れられても、大切な人たちを不幸にしないためにこの《力》を使いたい」

「人を不幸にしない《力》。護るための《力》か…」

 醍醐が深く頷く。

「俺はそんな小難しい理屈はどうでもいいぜ。だがこの東京が薄汚ねェ連中に荒らされるのは気に食わねェ。――だろッ、ひーちゃん?」

 京一の軽口を受けて、一同は龍麻を見た。

「《悪しき者を責める者は、自ら傷を受ける》――その覚悟があるならば、お前たちは鬼にはならん。俺を信用しろ」

「いいえ。私たちは龍麻を信用なんかしないわ」

「!?」

 いきなり過激な葵の言葉に、雪乃も雛乃も唖然とする。

「信頼してます。――隊長殿」

 葵はクスっと笑って敬礼した。京一も、醍醐も、小蒔も合わせて敬礼する。珍しく、本当に珍しく、龍麻は苦笑を洩らした。

「…光でも闇でもなく、人を不幸にしないためにこそ…か。――決めたぜ、雛ッ。オレはこいつらに付いて行く。何より緋勇君よ――アンタの侠気に惚れた。いいだろッ? そこの木刀野郎より、オレの長刀の方が役に立つぜッ!」

 龍麻が口を開こうとするより早く、気負い込む雪乃とは対照的に雛乃がそっと、しかし強い意思を込めて言った。

「姉様はいつもお一人で決めてしまわれるのですね…。私と姉様の《力》は二つで一つ。表裏対を為すものでございます。二人が《力》を合わせれば、より大きな《力》となるのです」

「わ、解ってるけどよ…」

「私に対する気遣いはご無用です。姉様」

 きっぱりと言い、雛乃は居住まいを正して龍麻に向き直った。

「どうか緋勇様。私たち織部が姉妹、お連れ下さいませ」

 深々と座礼する雛乃。気負いこんで立ち上がってしまっている雪乃は、立ったままだが深く頭を下げた。

 龍麻は静かに立ち上がり、両手を後ろで組み、胸を張って言った。

「我々《真神愚連隊》は優秀な人材に対して常に門戸を開いている。――歓迎するぞ。織部雪乃。織部雛乃」

「やった! 思う存分、暴れるぜッ!」

「ありがとうございます。緋勇様」

 雪乃が拳を振り上げ、雛乃が満面の笑みを浮かべた時、柱時計が一八〇〇時を告げた。

「あっ、もうこんな時間だ」

「ずいぶん長居をしてしまったようだな。龍麻、俺達もそろそろ…」

「うむ。お前達の《力》は日を改めて見せてもらうとしよう。では、今日のところはこれで失礼する」

 一同は立ち上がり、門の所まで見送るという織部姉妹に率いられて境内を歩き出した。

 織部姉妹が《力》を有する《神威》だと聞き、改めてこの神社の特殊性が理解できる。ただ木々が多いだけではありえない、清浄な空気。心身が清められ、研ぎ澄まされていく感覚。――これは、この織部神社にも小規模ながら《龍穴》が存在しているからだったのだ。龍麻たち一同の《力》が《龍脈》によるものだという推論は、織部姉妹にとってはごく自然に導き出された事だろう。

 しかし、それだけではない、何かの《力》を感じた龍麻はふと立ち止まった。

「どうした? 龍麻クン」

 雛乃は三年越しで競い合ってきた思い出と、これからも続く友情の誓いだと言って、自分の弓を小蒔に送っている。口に出さずとも判る思い出の数々を噛み締めている彼女達を邪魔しないように、龍麻は雪乃に尋ねた。

「あの建物は何だ? 本殿とはまた別の、強力な結界が張られているようだが」

 龍麻が指差したのは、古式ゆかしい校倉造り…京都の正倉院のような建物である。規模は小さいが、入り口に張られた注連縄の太さが結界の強力さを物語っている。

「ああ、あれは預かり物だよ」

「預かり物?」

「うん。何とか言う偉い人から預かったもので…」

「あの宝蔵には、曽祖父が乃木のぎ様よりお預かりした宝物が納められていると聞いております」

 自分の家の事なのにはっきりした事が判らないらしい雪乃に代わり、雛乃が説明する。

「乃木? 旧日本陸軍大将の、乃木のぎ希典まれすけの事か?」

 さすがは元軍人。既に故人であっても将軍の名を彼が忘れる筈はない。

「はい。乃木様と、当時の織部神社神主であった曽祖父は親交があり、ロシア遠征に赴く際にある品とこんな言葉を残していかれたそうです」



 ――もうすぐ《塔》が完成する。その《塔》が地上に姿を見せた時、わが帝の国は変わるであろう――



「《塔》?」

「はい。詳しい事は私どもにも伝わっていませんが、乃木様は当時の海軍大将である東郷とうごう様と共に、何か重大な研究を極秘裏に進めていたとの事です」

「ふむ…続きを」

「はい。――ここに納められている品とは、その計画の文字通り《鍵》となるものだと伝えられています。その品はここの他にあと一つ、千代田区九段坂に在ります靖国神社に預けられたと聞き及んでおります。ただ、その品が納められてより宝蔵を一度も開封しておりませんので、どのような品なのかは私どもにも皆目判りません」

「俺にゃ最初からさっぱり判らねェ。乃木だ東郷だ、それに《塔》に《鍵》。これで何か理解しろったって無理だぜ」

 難しい話は逃避モードで回避していても、腹の減った京一が茶々を入れる。

「京一ィ、キミ一応日本史の授業は受けてるんだろ?」

「当然だ。俺の日本史は俺の生まれた日から始まっている!」

 思い切り馬鹿な事を胸を張って答える京一。しかし次の瞬間、何を思ったか木刀で頭をかばう。数秒後、周りの者が怪訝な顔をしているのを見て、京一は予想された打撃が来ない事を知った。

「二人とも、静かに」

 葵が注意を喚起する。いつもならすかさず教育的指導を入れる龍麻が京一を殴らなかったのは、何か考えに没頭していたからだった。

 しかし、実際に龍麻が考えに没頭していたのはせいぜい一分ほどの事であった。――それでも彼にしては異例の長さだが。

「緋勇様、何か?」

「――いや、情報が少ない。推測でものは言えん」

「何事か疑問がおありでしたら、ヒントなりと差し上げられるかと存じますが?」

「うむ。では話そう。――乃木希典、東郷平八郎と言えば、当時の陸軍、海軍の第一線司令官だ。軍事政権下の日本にあって、そんな二人が組んで、一体何を建設しようとしたのかと思ってな。《塔》とは何か? それも、なぜ《地下》に建設せねばならなかったのか? 最後に《国が変わる》とはどういう事か? ――軍国主義が台頭し、怪力乱神よりも科学が叫ばれるようになった世の中と、列強各国の生き馬の目を抜くような世界情勢の中で、夢物語を語る事は許されない。そして国の中枢を動かしうる二人の力を持ってすれば大抵の事は叶う筈だ。歴史に埋没した事実とは言え、何か…危険なものを感じるな」

 そんな龍麻の様子に、真神の一同はなんとなく緊張を漂わせる。最近、落語好き(下手の横好き)が目立ってきたり、隠れオタクである事が判明したりしてハードなイメージが崩れつつあるが、龍麻の本質は何ら変わっていない。そして彼の特技の一つに、僅かな情報からより多くの情報を割り出すプロファイリングがある。今回、答えは出せなかったものの、感覚として捉えたもの。龍麻はそれを《危険》と称したのだ。

「…残念ですが…私どもが答えられる事はないようです」

「気にする事はない。これはむしろ、俺個人の疑問だ」

「そうそうッ。そんな昔の人間の事をいちいち考えることはねえって」

 相変わらずお気楽な京一の軽口。しかし今度は龍麻の鉄拳が飛んだ。ボカッという音がして、京一は頭を抱えてしゃがみこむ。

「イッテーッ! なにすんだ、ひーちゃん!」

「京一…戦車一〇〇両からなる機甲師団に包囲された時、お前ならどうする?」

「ああ!?」

「敵の包囲はまだ完全ではないが、確実にこちらに向かっている。そしてしきりに降伏を勧告してくるが、降伏すればお前の大切なものは全て奪われてしまう。当然、逃げる事もできない。さて、お前はどうする?」

 龍麻の口調は、ふざけている者のそれではない。彼がたまにやる、判断能力を高めるためのテスト…謎かけであった。

「突然そんなコト言われても、そうなってみなきゃ判らねェよ」

「…当時の日本が、まさにその状態だったのだ。徳川政権が倒れ、明治政府が発足したのは、近代化に乗り遅れた日本が世界の中で生き残るためにはどうしても必要な事だったのだ。それが《富国強兵》策などに通じていく訳だが、近代化の遅れを取り戻すのは容易な事ではない。だが、その世界情勢下で、日本は独立国家として生き残ったのだ」

「……」

「もちろん、もっともらしい理由はいくらでも挙げられる。列強同士の水面下の探り合い。植民地獲得競争など。だが、それだけで日本という国家が独立を保ったというのは、歴史的に見るとかなり異質な出来事なのだ。解りやすく言うなら、《運が良かった》としか言いようがない」

「運が良かったって…?」

 龍麻は葵に「待て」と言うように手を上げた。

「さて、最初の質問に戻る。京一、一〇〇両の戦車に包囲されたお前だが、その手元に限定核兵器が使用可能な状態になっているとしたら、どうする?」

「な、何ィ!?」

「それを使えば、敵は全滅する。大切なものも護りきれる。敵から奪えるものもあるかも知れん。――お前はミサイルのスイッチを押すか? 敵とは言え、四〇〇名の人間を核の炎で焼けるか? その四〇〇名にも、それぞれ家族や親類、友がいるだろう。その恨みや憎しみを一身に受けようとも、ミサイルを使うか?」

 珍しく、京一は必死になって考え込んだ。

 これは単なる質問ではない。闘いに対する決意や戦略にも通じるものだ。そして葵、雛乃には解った。この質問のたとえ話は、織部神社に伝わる侍の話に通じると。

 ずいぶん悩んだ果てに、京一は搾り出すように言った。

「使う…だろうな。それを使わなきゃ、大事なモンも護れねェとなりゃ」

「及第点をやろう、京一。そのような状況下では、ミサイルを使わねば自分の命を含め、全てを奪われるだけだ。そして《敵》も銃火をもって闘争を始めた以上、無様な死を迎える覚悟があると見て良い。――それを覚えたところで、話を戻そう。世間一般の評価はいずれ、現代の戦略研究においては、乃木大将も東郷元帥も非凡な戦術家ではなかった。そんな彼らが更に過酷な状況下をいかにして乗り切ったか? 俺はその《塔》とやらに何らかの答えがあるのではないかと思ったのだ。何か強大な、借り物の《力》の存在を感じる」

「乃木大将に東郷元帥が? だって、あのお二人は各地で軍神として祭られているほどじゃないの?」

 葵が《信じられない》というような顔をする。事実、東京、京都、下関に乃木神社が、横須賀に東郷神社が建立されているのは彼女にとって周知の事実だ。

「勿論、物の見方は幾通りもあって然るべきだ。そしてこの分析は、多くの情報が揃っている現代でなされたものだから、本質的に意味はない。ただ、乃木希典は西南戦争の折に軍旗を奪われ、数々の戦術的失敗から多くの将兵を死なせてしまっている。日露戦争時、かの二〇三高地、旅順の要塞戦では、日清戦争時に同じ要塞を攻め落とした作戦を取り、実に四万もの犠牲者を出した。結局旅順の要塞は後任の児玉こだま源太郎げんたろう大将が最新型の二八センチ砲をもって、僅か一日で陥落せしめた。戦術面では、決して優れた大将ではなかったのだ。東郷元帥もまた、当時の政府高官から総司令官を任されたのは、《運が良いから》という理由であったという。実際、有名な日本海海戦――対バルチック艦隊戦においては、旗艦である三笠の艦橋に直撃弾を受けても怪我一つする事がなかったり、ロシア艦船の五分の一しか射程のない三笠の一二インチ砲が、偶然にもロシア側の戦艦《ツェザレウィッチ》に命中し、司令官ウイトゲフ少将らが戦死している。そしてかの敵前大回頭…丁字作戦は、実は三度に渡り失敗しているのだ。この作戦を成功させたのは、実は第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将の指揮によるもので、世間に知られているようにバルチック艦隊を一方的に殲滅したというようなものではなかったのだ」

「……」

 まさしく知らぬが花である。歴史上の偉大な人物、軍神に祭り上げられている人物像が、葵の中で壊れたようであった。

「だが、勘違いするな」

 龍麻は教師のような口調で続けた。

「俺はこの両氏を、戦術面では優れていないと言ったが、それは当時の軍に於ける指令系統上の問題が密接に絡んでいるからだ。乃木大将は旅順の要塞ならびに二〇三高地の攻略を強行すれば多数の犠牲者が出ることを予見していた。しかしその作戦の要因となった旅順艦隊の殲滅を確認したい海軍上層部が、御前会議を開いてまで二〇三高地攻略を強要し、乃木大将は兵員、装備、物資、時間全てに不足した状態で正面攻撃を余儀なくされたのだ。――現代戦においても高地の要塞攻略とは非常に難しい。かのベトナム、エイショウ・バレー九三七高地、通称ハンバーガー・ヒルの攻略戦では、航空兵力を動員してナパーム弾を何百と投下しながら、制圧までに大量の人員と時間を犠牲にしている。――結果だけを見て現場指揮官を無能だと罵るのは愚の骨頂なのだ」

「……」

「さて。戦略家としては決して優れてはいないこの両氏がなぜ軍神として祭られる事になったか? それは当時の軍部による宣伝に利用された部分も多々あるが、最大の理由はやはり、兵士達に絶大な信頼を寄せられていた事に尽きる。――犠牲を惜しまぬ冷酷非情な指揮官のもとでは、兵士達は盲目的に命令に従うだけになってしまうものだが、乃木大将は敵国人と言えども無闇に憎み、蔑むものではないと将兵達に説き、自分達の同胞のみならずロシア兵の戦死者も丁重に葬った当時の日本軍は、世界で最も気高い軍隊であると評価された。また、乃木大将は帰国後、一連の作戦で両手を失った戦傷兵に、私財を惜しみなく投げ打って極めて高価な義手を作らせ、一人一人に手渡した事もある。――兵を駒としか見ない指揮官にはできぬ事だ」

 ひーちゃんもそういうトコあるよね、と、小蒔がこそっと醍醐に耳打ちする。龍麻は仲間達の装備に関しては金に糸目を付けず、常に各人の技量に応じた最高レベルの装備品を用意するのだ。その恩恵を思い、醍醐は小さく、重々しく頷いた。

「そしてもう一人、東郷元帥は対バルチック艦隊戦の折、ロシア艦隊の砲撃の最中、甲板に出て轟然と敵を睨み、微動だにしなかった。その恐れを見せぬ姿に将兵は奮起し、当時世界最強のバルチック艦隊を打ち破る原動力となったのだ。後の太平洋戦争時、アメリカ太平洋艦隊司令長官、チェスター・W・ニミッツ提督は、敵国日本の軍人である東郷元帥を尊敬してやまなかったという。――そんな両氏が日本の独立を護るために何をしたのか? それが俺の疑問だ」

 龍麻の話はいわゆる《学校では教えない歴史》の一つであった。これを理解するには様々な専門知識を必要とする。だからこそ龍麻は、そこで話を締めくくった。完全逃避モードの京一、半逃避モードの醍醐、小蒔、雪乃がほっとした表情を作る。

「この世の全ての事象には全て意味がある。二人とも、そこに何があるか知らんが、しっかり護ってくれ。では、今日のところはこれで失礼する」

 龍麻、敬礼。雪乃は真似をして敬礼を返し、雛乃は微笑と共に深々とお辞儀した。

「それでは皆様、ごきげんよう。…お気をつけて」

「……」

 雛乃自身は、特別深い意味があって付けた言葉ではなかろう。だが龍麻は、極めて小さな違和感を覚えた。だがいかに絶大な分析力を誇る彼をもってしても、情報が全くない状態で未来を予測するなど、無理な相談であった。











「結構遅くなったなァ」

 五人が新宿まで戻って来た時、既に一九三〇時を過ぎていた。

「腹も減った事だし、ラーメンでも食って行かねェか?」

「そうだな…。桜井の祝勝も兼ねて…」

 醍醐が多少の照れを込めてそう言った時、小蒔は「ごっめーん」と両手を合わせた。

「実はウチの皆が、もうボクが勝ったつもりになって朝からお祝いを用意してくれてたんだ。だから、早く帰って知らせてあげたいんだ」

「ほう。それは良い話だ」

 龍麻がうむと頷く。

「家族の者も吉報を首を長くして――待ってたら帰れんな。早く帰って知らせてやらなくてはな」

 せっかく頭に閃いた落語の《ろくろ首》であったが、小蒔がせっかく気分を良くしているのに、ここで《押す》と白ける可能性(少しは解ってきたようである)もあったので途中で止めた。

「うん!」

「まあ、それじゃしゃあねェし、四人で…」

「ごめんなさい。私も今日は帰るわ。この時間だと、家の方で夕食を用意していると思うから」

 小蒔に続いて、葵もパスである。京一は「付き合い悪いなァ」と文句を言った。そこで醍醐が、

「まあ、そう言うな。――そうだ。さっきの話を聞いていて思い付いたんだが、明日、皆に会ってもらいたい人物がいる。実は以前からみんなを連れて行こうと、何度も手紙を出してはいたのだが、一向に返事がないものでな…」

「ほう。どのような人物だ?」

「名前は新井龍山。易の世界では《白蛾翁はくがおう》と呼ばれて、かなりの有名人だ。俺にとっては師匠のような人なんだ」

 聞けばその人物はごく近所、西新宿の外れに住んでいるという。

「新宿にそのような人物が・・・・・・・・・・・・・・・♪ビルのま〜ちにガオ・・・」

「――アナクロ」

 ばっさり斬り捨てるような葵の一言に怯む龍麻。辛うじて踏み止まり、またもや何か言おうと口を開きかけると、更に葵が――

「――二等兵から大将まで全部不許可。――ネタが古過ぎ」

「むう・・・」

 《鉄○二八号》から《の○くろ》に至るまでネタを先読みされて絶句する龍麻。どうやら葵は龍麻の思考パターンを読めるようになってきたらしい。

 ――と、そんな事は脇に放り出して、小蒔が言った。

「へえ〜。醍醐クンの師匠って龍山先生って言うんだ。――そんなに近くに住んでいるなら、明日早速行ってみようね」

 情報源は多いに越した事はない。龍麻は明日、その新井龍山なる人物を訪ねる事を決定し、その日は解散と相成った。

 京一と醍醐が、気難しい顔をした龍麻を引きずって行った《王華》には、やはり彼ら以外に客がいなかった。









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