第拾話 変生(前編) 1
静岡県、修善寺、《ロナウドヴィラ》、〇二〇〇時。 保養地として全国にも知られる修善寺にあって、その敷地面積の広さと庭園の美しさから、修善寺《ロナウドヴィラ》は一、二位を争う高級保養施設として認知されていた。 自然との調和を謳い文句に、シイやナラの木が植わっている、手入れの行き届いた日本庭園がある。刈り込まれた築山といい、大きな錦鯉がゆったりと泳ぐ池といい、緩やかなアーチを描く朱塗りの橋といい、あたかも一幅の名画のごとく美しい。そしてそれは生命あるものとして当然のごとく、一瞬たりとも同じ風景に留まらぬ、自然の営みを感じさせる。 風雅な竹柵による目隠しの向こうは露天風呂だ。風向きの加減で湯気が静かに流れ、早くも色づき始めた紅葉にかかって、一種幻想的な美しさを演出する。美しく掃かれた玉砂利の下には水琴が配され、雅な音色を奏でて静寂を強調している。 建物も無論、負けていない。バブルの全盛期に公共事業の一環として建てられたものの多くは手抜きも多いが、ここは一部権力者が特権階級の集まる高級クラブを目指したため、外見こそ普遍的な造りだが、内部は鹿鳴館時代を意識した豪奢な造りである。一歩足を踏み入れれば、そこは明治の香漂う華族の社交場だ。 料理にも気を使っている。海も山も近い土地柄もあって、魚介類は伊東の漁船を丸ごと一隻契約して常に最高級の素材を選び出し、野菜や山菜、猪の肉などはこれまた徹底して無農薬有機農法を貫く農家と、山を知り尽くした猟師から優先的に買い上げる。それら旬のものをふんだんに取り揃え、銀座や赤坂のホテルで数十年の修行を積んだシェフが仕上げた料理は批評好きな評論家を黙らせ、唸らせる。 そんな保養施設であるから、《保養施設》を銘打ちながら、一般の客を泊めない。 ここを訪れる客は、選ばれた者たちだ。温泉や料理、静けさや景色、全てにおいて行き届いたもてなしを受けられるのは、ある特別な身分の者に限られるのだ。 《ロナウドヴィラ》の中でも最高級の設備を持つロイヤルスイートの客も、そんな身分を持つ一人であった。 しかし、その人物は《ロナウドヴィラ》の持つ風格や品位とは程遠い人間であった。 名は室田克典。かつては一流証券会社の社長であった男だ。しかし企業や事業団体に対する損失補填や、広域指定暴力団に対する融資などが明るみに出た事で引責辞任し、現在では代表権のない副社長という肩書きを持っている。――実質的な権力はそのままに。 バブルと呼ばれた異常な好景気が去った後、証券業界は凋落の一途を辿っていた。既にモラルの回復が絶望的であった業界では場当たり的な投資が乱発し、バブル経済の波に乗って成り上がった個人投資家は次々に倒れた。彼らの出資金を預かる証券マンたちは資金が底を尽きかけた投資家を《ゾンビ》と呼び、投資家が資金を完全に失った時、それを《殺した》と称した。――他人の金を預かって証券取引をする者たちが、事もあろうに投資家を単なる金蔓扱いし、ギャンブル紛いの投資を繰り返した挙げ句に多くの投資家を破滅させて行ったのだ。――家を含む財産全てを失い、家長の自殺から一家離散、一家心中にまで及んだ投資家の怨嗟の声は全国に満ち、しかしかけらほどの責任も取らない証券会社はのうのうと税金から援助を受けて存続。未だに経済界に黒い根を張り続けている。 そのトップに立っていた室田が、およそ善良な人間である筈はなかった。既に六十半ばを越えていたが、美味飽食の果てに肥え太った顔にはぎらぎらと脂ぎった精力が満ち、一種妖怪じみた印象すら与える。そして実際に愛人を五人ほど囲っており、土日以外の五日間はそれぞれの曜日に割り当てられた妾の家に泊まる事が日課となっていた。当然、その妾たちにも一流どころのサロンやブティックを持たせている。 だが、今日は平日にも関わらず、妾の家には行かなかった。――慰安旅行という柄でもなかったのだが、ある一本の電話を受けてから、とりあえず手元にある現金、貴金属類をかき集め、それ以外は普段着同然に田園調布にある豪邸からここまで逃げてきたのである。 ――逃げてきた? その通りである。 室田は先程から、部屋の中で立ったり座ったり、そわそわと歩き回ったりして少しも落ち着きがなかった。 「――なんでわしが始末されなあかんのや。そら、ちいと調子に乗り過ぎたかも知れんけんど、みんなやっとる事やないか。それをあの葦下 上京した時に身に付けた標準語と入り混じり、いびつに歪んだ関西弁で、同じ業界人を罵る室田。 「大体、日本をわしらのもんにするっちゅう話を持って来たんは向こうやないか。たかだか女 ぶちぶちと文句を言っている内に本格的に腹が立ってきたものか、室田の声はだんだんと大きくなる。しばらくは聞くに耐えない悪罵が続き、そして―― 「けんどなぁ…マジどないしょ…。何とか大先生の機嫌を取り戻さん事にゃ、わしの命 《後悔》という二文字とは無縁の人生を送ってきた室田であったが、この時ばかりは少し調子に乗り過ぎた事を後悔し始めていた。 《シグマ》と呼称される組織への参加を要請されたのは二年ほど前の事である。現在の政治経済の腐敗を払拭し、選ばれた者のみで日本を支配しようという、何と子供じみた思想だと当時は思ったものだ。しかし蓋を開けてみると、選ばれたメンバーは政界財界に君臨する大物ばかり。しかも次々にメンバーが接収され、組織としてみるみる膨れ上がって行く途上である。 徴兵されるより志願した方が給料が高いというのは軍隊のあり方である。そこでもそれは当て嵌まった。元々エリート思想の塊であった室田は、自分の為に他人を踏み付けにする事に罪悪感を持たない人間だった為、選ばれしエリート気分を存分に満喫させてくれる組織への参加を積極的に表明した。 日々の生活や仕事こそ何も変わらないように見えたが、室田には以前以上に怖れるものがなくなった。 便宜上《シグマ》という名前が与えられているが、室田はそれを一種の寄り合い世帯のようなものだと捉えている。政界や財界の代表者が集い、これからの日本のあり方を討議する。あらゆる世界に伸ばされた支配の根が確実に機能すれば、愚かな国民は誰一人気付かぬままに操り人形と化す。――政界、財界に君臨する権力者たちが本気で結託すれば、《何か妙だな》と思いつつも何もしない一般市民を奴隷化するなどたやすいのだ。 室田はその、選ばれしエリートの身分を存分に堪能した。 《シグマ》では結束を高める為に良くパーティーを開いた。それも一部の上流階級の者のみが楽しめる類のパーティーだ。妙に宗教じみた――悪魔崇拝を模したパーティー。酒に麻薬に女に――殺し。そこでは殺人さえも余興の一つに過ぎなかった。全国から誘拐されてきた百人以上の女たちを相手に乱交パーティーが行われ、浮浪者を相手に人間狩り しかしその一部がこの春に摘発を受けた。良心の呵責などというものが残っていた裏切り者が、犯罪の証拠となるテープを持って警察に駆け込んだのである。無論、警察にも《シグマ》の手は伸びていたのだが、警視庁の厄介者である、《妖刀村正》の異名を取る南雲春奈警視の手に証拠が渡ってしまったのだ。その結果、彼女が雇ったらしいアンダーグラウンドの人間によって定例のパーティー会場が一つ潰され、誘拐された被害者の一部が解放されてしまった。 それを皮切りに、《シグマ》の結束が揺らぎ始めた。 《日本古武道振興会》という組織のトップが何者かに始末されてしまい、支配していた組織も学園も空中分解してしまった。 信者十万から成る、とある宗教団体のトップは、何者かに狙撃されて死亡し、その後釜に座った者も始末されて、団体としての存続が不可能になった。 それらに対して《シグマ》組織内は浮き足立ったが、今考えると、《シグマ》内でも振るい落としが行われていたのではないかとも思える。 それでも室田は安心していたのだ。証券会社の実権を掌握しているとは言え、他の者のように突出した活動はしていないし、何より資金提供者が振るい落としされる筈がないと。 ところが、極めて些細な事で彼は振るい落としの穴に嵌まった。それは殆ど魔女裁判のようなものであった。 スナッフ・ムービーの一件が明るみに出た時、収容所に残っていた三十名の女性の中から特に気に入っていた一人の少女に無許可で手を出したのである。事件が発覚した以上、どうせ始末されるくらいならと思っての行動であったが、軽率すぎた。《シグマ》はその女性たちを、ある計画の為に特別に残しておいたのだ。 その時、共犯者とも言える葦下兄弟は室田を組織に告発した。――彼らも同じ少女に目を付けていたのだが、交渉の結果室田は百万円で一日の独占権を得、葦下兄弟はその後で手を出すつもりでいた癖に。――その一日の差が明暗を分け、手を出す前だった葦下兄弟は叱責だけで済み、室田のもとにはあの場を取り仕切っていた《司教 当然、訳も判らず謝罪したのだが聞き入れられず、《シグマ》で親交のあった与党の大物議員に間を取り持ってもらって《大先生》に許してくれるよう懇願した。しかし誰も正体を知らぬ《大先生》は議員を通じて「《司教》の言う通りにせよ」と言ったのだ。 そして言われるままに、室田はこの保養施設にやって来たのだ。もしかしたら殺されるかも知れないという思いも、ボディーガードを何人付けても良いという言葉で否定された。 不意に、そのガードたちの事を思い出すと、ふっと室田の肩から力が抜けた。 「そやな…。わしの命ァ取るつもりやったら、アイツら連れて来いとは言わん筈や。ああ、何とか金で解決できればええんやけど…」 少しだけ安心したのか、室田はベッドに腰掛けた。深々とため息を付いたその時―― ――カシャン… 隣室で、ガラスの割れる音が響いた。 「――ッ!?」 神経が過敏になっていたせいか、やけに大きく聞こえる。――このロイヤルスイートが完全防音である事を、室田は既に忘れていた。 何かが接近している。自分にとって極めて危険な何かが。――それなのに、この高揚感は何だ!? 先程までは恐怖の代名詞でなかったそれが、今は凄まじい好奇心と闘争心に成り代わっている。 ――ええで。相手したるわ。 室田は落ち着いた足取りでドアを開け、廊下に出た。 途端に襲い掛かってくる、猛烈な血臭。古典的な表現だが、廊下は血の海と化していた。 廊下の壁にもたれるように倒れているボディーガードをしげしげと眺める室田。恐怖が既に遠い事を、室田は不思議ともなんとも思わなかった。 「ふんふんふん…。ナイフで喉を一突きかいな。なかなかえげつない真似さらしてくれるやんけ。それにしても――アホウどもが。拳銃 先程までのおどおどした態度が嘘ではないかと思えるほど、今の室田の口調は余裕に満ちていた。それどころか唇は笑いの形にめくれ上がり、異様に尖った犬歯を晒している。そして――流されたばかりの血を眺める目は何とも言えない光をたたえていた。今にも舌なめずりせんばかりの顔である。 「――ええで。隠れとらんと出て来 《そいつ》が出てきたのは、室田の口調の中に含まれた歓喜に誘われたからかも知れない。 室田は《そいつ》に率直な驚きを示した。 「ああン!? こりゃ驚いたわ! あんさん、ホンマもんの忍者かいな!?」 返り血一つ浴びていないが、血塗られた短刀が《そいつ》こそ襲撃者だと告げる。 だがその装束は、室田にとって驚きと失笑を誘うものでしかなかった。この時代に――忍者とは。 「そら、いわゆるコスプレいう奴やろか? ――違う言うなら、証明してみいや」 トッ、と《忍者》が床を蹴った。 「――ッッ!!」 速い! 目で追えない! 目に優しい黄昏色の照明の中で、ぱっと墨のような血が飛んだ。常人には不可能なスピードで室田の傍らを駆け抜けながら振るった刃の成果であった。室田の猪首が半ばまで切り込まれ、血がどくどくと溢れ出す。 しかし―― 「――やるねえ」 手で傷口を圧迫しながら、室田は凄絶な笑いを零した。 「何で《司教》がここに来いゆうたのか判ったわ。殺されたくなきゃ、わいの《力》を見せてみろゆうこったな。――ええで。とくと見いや」 傷口から手を放す室田。――あろう事か、出血は止まっていた。手のひらにたっぷりとこびりついた己の血潮を、室田はさもうまそうに長い舌で舐め取った。 「クク…ク…! なんちゅうええ味や…! もっと吸いとうて、たまらんわ…!」 爛々と赤く輝き始める室田の目。ルビーの如き輝きの奥に揺れるのは地獄の炎か。元から決して人好きする顔立ちではなかったが、更に口が耳まで裂け上がり、外向きの牙がギラリと光った。 「おどれの味はどんなじゃァァァッ!!」 醜く肥え太ったまるっちい身体が空気をえぐって疾った。先の忍者に匹敵するスピード! 一瞬で接近し、子供が振るうような稚拙なパンチを振るう。 「――ッッ!!」 忍者は思い切り身を投げ出した。室田のワイルドパンチが空を切り、しかしコンクリートの壁を縦横一メートル以上に渡って砕き散らした。 「グルルルル…ッ」 もうもうと沸き起こる砂塵の中から、野獣の如き唸りが洩れる。忍者は短刀を順手に握り直し、半身になって腰を低く落として身構えた。――日本の組み打ちから現代軍隊のナイフ術にいたるまで、幅広く採用されている構えである。相手から見ると刃と四肢が直線上に並び、全ての急所が一撃では決められない位置にある。 だが、こんな奴が《敵》ではどうか? 室田は完全に変貌を遂げていた。 一言で言うなら、豚だ。元から薄かった頭髪が全て抜け落ちて地肌を晒し、印象の決め手となったように鼻が上向きに上がって鼻の穴を正面に向けている。耳元まで吊り上がった口の中には大きなものから小さなものまで、肉を引き裂くのに適した牙が並んでいる。そして――肥えた肉体は大きさこそそのまま、筋肉と脂肪の鎧と化している。鈍重そうな外見が見せかけである事は既に証明済みだ。 豚が原型となった魔物には、かの《西遊記》に登場する猪八戒がいる。しかし室田が変じた魔物にはもっと相応しい名前があろう。西洋ファンタジーに登場する邪悪な妖精族――豚鬼 先に仕掛けたのは室田であった。 外見は怪物でも知性持つものの証。ボディーガードの使っていたパイプ椅子を片手で投げつけたのである。その唸り飛ぶスピード! フリスビーのように飛んだパイプ椅子はコンクリートの壁を砕くことなく突き刺さった。 椅子の一撃を低く伏せてかわした忍者は、短距離走のロケットスタートの要領で踏み込んだ。 放った技は――刺突! 忍者の全体重を乗せた突きは、室田の膨れ上がった太鼓腹に、その刃を根元まで埋め込んだ。 室田はニヤリと笑った。めくれ上がった口から涎がこぼれる。 「――ッッ!」 刃が抜けない!? 瞬時に引き締められた腹筋は鋼の硬度で刃を封じ込めていた。そして、唸り飛ぶパンチ! グシャッ! と嫌な音が響いた。 吹き飛んだ忍者は猫のように身を捻って着地したが、その左腕はだらりと垂れ下がった。――顔面への直撃はかわしたものの、肘のあたりを掠めたパンチの衝撃波が左腕を丸ごと砕いてのけたのだ。 一瞬、膠着の風が過ぎる。 「グフフ…!」 腹から短刀を引き抜く室田。短刀は分厚い脂肪層と筋肉を貫いていたが、内臓は僅かに傷付けたに留まっていた。しかも血は少し飛んだだけで、傷口がみるみる塞がってしまう。とんでもない回復力だ。 更に、室田は短刀を順手に握って振りかぶった。 人類が武器を手にした瞬間から存在していた構え。棒きれが棍棒に変わり、更に刃が加えられて殺傷力を増した現代でも変わらぬ、理想的な構えだ。そこに室田――豚鬼の腕力が加わった時の破壊力はいかばかりか。 なんと、先に仕掛けたのは忍者であった。 左腕を失っていても衰えを知らぬ突進力! だが室田は既に忍者のスピードを見切っていた。タイミングを合わせて短刀を振り下ろそうと―― 「ッッ!!」 唐突に消える忍者。短刀が空を切った瞬間、室田は膝に強烈な一撃を喰らってもんどり打った。――短刀の間合いに入る直前、忍者はスライディングして室田の内懐まで入り込み、足払い…膝砕きをかけたのである。 「ブガァァッ!!」 聞き苦しい濁った悲鳴…唸り声を上げる室田。そこに、短刀を取り戻した忍者が飛び掛り、その喉元へと刃を打ち込む。喉笛をえぐる確かな手応え――これは効いた。室田の口から鮮血がゴボリと噴き出る。しかし―― 「ッッッ!!」 室田の捨て身の反撃! 忍者の首に豚鬼の手が喰らい付く。その瞬間に忍者の首はへし折られ、彼は絶命した。しかし忍者を押しのけ、短刀を引き抜こうとした所で室田もまた、がくりと力を失って倒れた。 共に、それきり動かない。壮絶とも、あっけないとも言える幕切れ。相討ちであった。 「…相討ちか。ま、今の所こんなモンだろ」 「いやいや。なかなかどうして、見応えあったわい」 凄惨な決着を遂げた二つの生命体をモニター越しに見ながら、二つの人影が声を上げた。 巨大なスクリーンには、室田と忍者の戦いが再生されている。最前列にいた二人が声を上げた事で、その後ろに居並ぶ者たちがヒソヒソと、あるいはザワザワと声を上げた。先の二つの声は日本語だが、残る多くは英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語…それこそ世界各国のあらゆる言語で今の戦闘の批評が行われている。 先の二人以外は、完全に顔が隠れる上、音声変換機能まで付いた仮面を付けているのでどこの誰なのかは判らない。しかし威圧的な雰囲気といい、全身から発散される貫禄といい、いずれ各国の名だたる権力者である事は間違いあるまい。特に軍人…将校が多そうだ。 だが、最前列の二人ほど特異ではあるまい。 若い声の主は、このような場に居合わせるには明らかに若すぎる外見を持っていた。茶色の長髪を昔の素浪人のように高く結んで垂らし、その下には研ぎ澄まされた刃のような目が光っている。鼻筋はすっきりと通り、笑うと尖り気味の犬歯が覗く。――獲物に挑みかかる直前の獣のような印象を与えるハンサムだ。しかし――着ている物は変形の学生服なのである。そして、アクセサリーというには余りにも過激な、朱塗りの鞘を持つ日本刀を携えていた。 一方、老いた声の主は、やはり現代にあっては異様な事この上ない風体。衣服でなければボロ布としか思えない、漆黒のローブを纏った小柄な老人であった。どれほどの年輪を経ればそうなるのか、顔は木肌のように細かいしわの中に埋没し、表情を窺い知る事は出来ない。歯など一本も残っていないので、笑っても木肌にぽっかりと黒い穴が空いたとしか見えなかった。 しかし、目の光を見れば判る。この老人が恐るべき邪悪の権化である事が。微細な切り傷でしかない目からは血色の光が零れ出し、この世の全てを愚弄するかのような冷ややかな視線を周囲に注いでいる。人間的な暖かい感情を全て捨て去り、地獄に生きるものと成り果てたものの証――地獄眼 「受精卵にバイオニック・セルを投与して成人化させるまでに一ヶ月。そこにお主の《外法》を施し、兵士として完成させるまで一ヶ月。…まさに兵士の促成栽培じゃな。しかもわし自らの作品でないとは言え、《使徒》と相討ちとはのお」 「あいにくと、オツムの方はまだ足りねェ」 老人の賞賛に、若者は皮肉な口調で言い捨てた。 「反応速度は悪くねェが、攻撃が馬鹿の一つ覚えだ。場馴れしてる奴相手には通じねェ。――アンタの創った《使徒》の方がマシかも知れねェぜ?」 若者の言葉に、椅子三つ分ほど離れた所にいる、金モールの付いた軍装の肩がぴくりと跳ねた。銀色の仮面の中が覗ければ、怒りに満ちた表情が伺えただろう。 「なんのなんの。わしの方とて課題は山積みじゃて。――あ奴らはちょっと力を与えただけですぐのぼせ上がる癖があるからのお」 「――いいんじゃねェか? アンタが手を加えた女を犯るだけであれだけの魔物になるんだ。こちとらは二ヶ月、アンタは一晩。この差は大きいぜ」 「確かに。――じゃが《使徒》を生む母体となる娘にも、《使徒》となるべきものにも資質があってのお。どちらも潜在的な《気》のキャパシティに左右されて品質が安定せん。あの男は強欲で淫乱で、《使徒》になるには充分な資質を備えていたが、いかんせん《気》のキャパシティが足りんかったようじゃな。あそこまで変貌できたのはこの娘の資質によるものじゃ」 若者は、老人が片手で抱き寄せた娘をちらりと見た。意志剥奪の術を掛けられているのか、それとも完全に心が破壊されているのか、セーラー服を着せられたアイドルそこのけの美貌はどこまでも虚ろで、骨張った手が身体を這ってもまったく無反応だ。良く出来た人形を思わせる。 しかし若者は数秒で目を逸らした。――その存在が示唆されたことで、何とも淫猥な視線が少女に絡み付いたのを感じたためだ。まだ大人の色気には遠い、あどけなさを残す女子高生から、どれほど頭の固い男でも肉欲の虜に変えてしまいそうな強烈な淫風が放たれている。――元はどこかの高校から攫われて来た少女らしいが、《気》の資質が高かった為に老人の術を施され、《使徒》を生む母体へと変えられてしまった結果だ。若者は舌打ちしそうになる自分を辛うじて押さえた。 「《気》の資質を高めるには修行とやらを積まねばならん。昔は信仰心の強さがそのまま高い《気》の資質に反映されたものじゃが、現代のような情報化社会では宗教など見向きもされん。なまじ敬謙な修行者を見付けても、今度は堕落させるのに骨が折れる。手っ取り早く麻薬なぞ使ってみたが、まだまだじゃ。精神を一時的に狂わせる事は出来ても、殺人狂になる訳ではない」 「――それでも、我々には必要なものだ」 二人の会話に、野太い声が割り込んだ。 背はそれほど高くはないが、威風堂々とした態度と声は、権力を握った者の特徴だ。地味なスーツを着ていても、その身に宿る剃刀のような雰囲気までは消せない。 「二年前の惨めな敗北以来、我々の戦力は最盛期の六割を切っている。君らはまだまだと言うが、今の我々はとにかく兵士の頭数だけでも揃えたい。まずは三ヶ月以内に我ら《Z−GRAT 「ああ。太陽光があれば良い。自然光でなくても、適度な紫外線光からエネルギーを作り出せる」 再び、ざわめく場。千体の兵士が太陽光のみで活動できるというのは正に驚嘆に値するのだ。 「しかし各国に千体――全部で一万体となると、保管場所にも問題ありだぜ。こちとらの生産力も考慮に入れて貰いてェな」 「――我々はその為に《シグマ》に資金提供しているのだ。――場所は問題ない。IFAFに潜り込ませているスパイに、《ストライダー》どもの使う亜空間発生装置の機密を探らせている。近日中には手配できるだろう」 その時、若者と老人の口元に皮肉な笑いが掠めた。 「IFAFには《奴》がいるぜ。亜空間発生装置も次元連結システムも《奴》が具体化したものだ。下手をすれば《奴》――《ザ・パンサー》と真っ向から戦う事になるぜ」 ざわめきが大きくなる。《ザ・パンサー》の名がもたらした成果、恐怖の一刷毛であった。 「だからこそ、早急に大量の兵士を欲しているのだ」 その男は苛々したように言う。 「あの男とて無敵ではない。圧倒的な物量で押せば押し切れる筈だ。例え奴が…――であっても」 最後の所で少し言葉を濁す。よくよく、《ザ・パンサー》が恐ろしいらしい。《個人》に対して圧倒的な物量で挑めば倒せる《筈》と称しているのだ。つまり、それだけでは倒す自信がないという訳だ。なぜならば―― 「《奴》はまだ、アラスカにおるのかな?」 「……」 「…やれやれ。かの地で《奴》を撃墜したのは二週間も前じゃろう? まだ仕留められんとは、いやはや、無能もここに極まれりかのう」 「《奴》は化け物だ!」 男は激昂して机をドンと叩いた。――誰も彼を咎めない。ただ、気まずそうに肩をすくめたきりである。 「あの極寒の地に裸同然で放り出されて二週間も生き長らえているんだぞ! 《奴》一人ならばともかく、あの娘まで…! あんな化け物どもをどうやって殺せと言うのだ!」 「ほう。《あのお方》の言い付けを守らず、《奴》に手を出したと認めたな」 「――ッッ!」 慌てて口を押さえる男。勿論、手は仮面に当たっただけであった。 「グノフ・ケーの群れを餌に《奴》をおびき寄せて始末する…か。うまくいけばお主らも安泰じゃったが…また核ミサイルでも撃ち込むつもりかな?」 さも面白そうな老人の言葉に、水を打ったように場が静まり返った。 「くくく…。アラビアでは遺跡の中に逃げ込まれたが、氷原では身の隠しようがないと判断したか。しかし、それでも生き残ってしまったら次はどうするつもりかのう」 「……」 「倒しきれる自信がないならば、焦らぬ事じゃな。《奴》に手を出して、これまで何人の同胞が殲滅されたか思い出してみるが良い。《崑崙》のオーバーテクノロジーが生み出した最強の戦士という称号は伊達ではないぞ。足止めするだけでも充分に《あのお方》の利益に繋がるのだ」 「勿論、考慮している。全ては《あのお方》の手を煩わせぬ為だ。――その為に我々は同盟を結び、IFAFに対抗しているのだからな。《ザ・パンサー》さえ倒せば、残りの《ストライダー》は人間ばかりだ。御するのはたやすい。――世界を制するのは《あのお方》と我々《Z−GRAT》だ」 そこでモニターが消され、部屋の中に光が戻った。現時点における兵士――忍者と《使徒》の性能評価試験は終了という訳だ。 「《シグマ》への資金援助は従来通り続ける。早く君らの納得するソルジャーを創り上げてもらいたいものだな。願わくば――《ザ・パンサー》を殺せるほどの。――全ては、《あのお方》の為に」 それだけ言うと、金仮面を付けた男たちは次々に退出して行った。僅か二十分程度の会合とは言え、分刻みのスケジュールを持つ者が殆どなのだろう。退出と同時に外で待ち構えていた秘書と思しき銅仮面が付き従う。 最後に残ったのは、金モールの軍装を纏った銀仮面と、若者と老人である。老人に連れられている少女は数の勘定には入らない。 「…聞いての通りだ。三ヶ月で一万体…できるかい、ドクター?」 ドクターと呼ばれた銀仮面は、胸をそびやかしつつも明確な返答を避けた。 「できなくはない。だが、それだけの数を揃えるにはやはり培養カプセルの数と敷地面積を現在の五倍に拡大する必要がある。現在の生産力では三ヶ月で二千体が限度だ」 ドクターが暗に言っている事に気付かぬほど鈍感ではない。若者は口元を歪めた。 「…予算を十倍にしてやる。現在の水準の奴を一万体揃えてやれ。俺用には、もっと強力な奴が欲しい。もう少し頭の廻る奴だ」 「…心得た」 鷹揚に肯くと、ドクターも部屋を出て行った。資金を提供しているのは若者だが、部下という訳ではないらしい。悪党同士に良くある、金だけの繋がりなのだろう。 「…ふふん。彼奴も色々と小知恵を巡らせているようじゃのう。下らぬ夢を追い続ける、前世紀の亡霊めが」 「――使える内は好きにさせておくさ。前のサイコ野郎みたいに勝手な真似をしなければな」 「死蝋とかいう死霊術士 老人の声が陰鬱な笑いを帯びた。 「数百年来の怨念も、ただそれだけでは大した事ないな。聞けば水角も風角も同じ輩…それも高校生 「――そう言うアンタはどうなんだ? 《ザ・パンサー》には相当煮え湯を飲まされているみてえじゃねェか。アンタ自慢の《息子》はどれだけ殺られた?」 「――全部で一〇〇体ちょっとじゃな」 大して興味もないといった口調で老人は言う。 「人間の質的堕落が顕著になっておる分、《使徒》になるべき資質を持った者は増えても、母体となれる者は極めて少なくなってきておる。それでもアメリカやヨーロッパに比べればまだまだ多い方じゃが、《ザ・パンサー》を倒し得る《使徒》を生むには足りぬ。目を付けている者はいるのじゃが…IFAF出資者の如月財閥の一人娘の上、《ザ・パンサー》の相棒じゃからな。あの娘が使えれば《ザ・パンサー》や《ストームライダー》を超える《使徒》を生み出すことも可能と思えるのじゃが、流石に相手が悪いのお」 「――止めておいた方が無難だろうぜ。噂じゃ《ザ・パンサー》の暴走を押さえているのはあの娘らしいじゃねェか。そんなのに手を出してみろ。何が起こるか判らんぜ」 「くくく…《黒い島》作戦 「…《希望》ねえ」 若者の呟きに、老人の表情が歪む。――笑いの形に。 「そもそも《邪悪》が詰まっていたのがパンドラの箱って訳だろ? だとしたら《希望》も邪悪なものじゃねェのか。少なくとも奴は、人類の未来に興味なんかねェ。《奴ら》をぶち殺すためなら巻き添えも気にしないと聞いたぜ。去年、マジソンスクエアガーデンで《ストームライダー》と戦った時の巻き添えは三千人に届いたそうじゃねェか」 「――そうよ。人の姿はしていても、あれは《わしら》よりも《奴ら》に近い――否、《奴ら》そのものと言って良かろう。――だからこそ恐ろしい。だからこそ興味が尽きぬ。わしの知る限りでも《奴》は十回以上死んでおる筈なのに、その度に別の所に現れる。――《Z−GRAT》はおろかIFAFでさえも《奴》を殺す方法ばかり考えておるそうじゃ。何とも勿体無い話よ。《奴ら》の呪いを受けた崑崙最後の戦士。これほどの素材はあるまいにのう」 「…アンタの趣味に口出しするつもりはねェが、こっちにまでとばっちりが来るような真似はしねェで貰いてェな。俺も《奴》と戦って生き残る自信は余りねェ」 「心得ておるとも。どうせ《奴》もしばらくは海外から戻ってくるまい。――鬼のいぬ間のなんとやら。せいぜい《シグマ》にも《Z−GRAT》にも気張って貰おうではないか。お主ら《鬼道衆》にも、面白い遊び相手が出来た事だしのう。――もう、手は打ってあるのだろう?」 「――当然だ。さすがにそろそろ目障りだからな。ついでに、間抜けな部下の代わりが務まりそうな奴も見付けた。――ゲームって奴はこうでなくちゃ面白くねェ」 「くくく…。現代の鬼道衆頭目はまことに頼もしい。お主の作り出す屍山血河、期待しておるぞ、九角天童」 「――アンタが中世ヨーロッパでやった事には及ばねェさ、司教 その時僅かに、若者の声が剛性を帯びた。老人の目がますます細まり、彼をねめつけたのだ。 《ベルゼブル》――聖書に登場する、魔界の四大実力者である悪魔の名前だ。《蝿の王》と称されるその悪魔は中世ヨーロッパにペスト禍を起こしたという。そして日本にはこの《ベルゼブル》と酷似した表現をされる《蝿声 そんな悪魔の名を冠するこの老人は何者なのか? 答えは、老人の含み笑いであった。 「――おまけに度胸も良い。本当にこの世界は楽しみが尽きぬわ」 「――同感だ」 そして二人はどちらからともなく笑い出した。若者は無邪気に声高く、老人はどこまでも陰鬱に。 東京、新宿中央公園、〇三〇〇時 「糞ッ…! 畜生…ッ!」 もはや酔客や夜遊びの若者の姿さえ絶えた深夜の新宿中央公園を、一人の少年が肩をいからせ、やたらに唾と罵声を吐き散らしながら歩いていた。 「畜生ッ…どうして…どうしてあいつらに勝てねえ!?」 少年――佐久間の脳裏にいくつかの顔が通り過ぎる。 「醍醐…蓬莱寺…緋勇龍麻…!」 声に出す事さえおぞましいと言わんばかりに、佐久間は唾を吐き捨てる。 この数ヶ月…三年に進級して以来、彼はほとんど人生最大と言っていい不遇をかこっていた。 原因はあの転校生――緋勇龍麻だ。彼が、佐久間から全てを奪っていった。 暴力の世界に身を置く者は、程度の差こそあれ、相手の力量を見極める能力を有している。佐久間も当然、そうであった。だからこそ、うっとおしいと思いつつも醍醐には逆らわなかったし、京一にも積極的に絡もうとはしなかった。 しかし、緋勇龍麻に対しては違った。第一印象は《大したことねえ》だった。だがそんな軍人かぶれの優男に、美里葵が興味を示した事は佐久間にとって許せない事だった。清楚で、可憐で、高嶺の花(佐久間主観)の葵は、それ故に誰も手出しできない神聖不可侵の女神だった。そんな彼女が自分以外の男に興味を示すなど、彼の中ではあってはならない事であったのだ。 だからこそ、さっそくリンチにかけようとしたのだが、妙に意気同合したらしい京一が邪魔に入った。だが、京一が明確に敵に廻った事以上に、緋勇龍麻がとてつもなく強い男だと思い知らされた。そして、悪党(佐久間主観)ぶりにおいても、龍麻は佐久間の遥か上を行っていた。普段、自分の周りを囲んでいる部下達は何をしたのか解らぬ内に重傷を負わされ、自分もあっという間に片付けられてしまった。しかも龍麻はあっさりと自分を「処分する」と言ったのだ。あの時の龍麻は本気だった。一瞬の躊躇もなく、龍麻はナイフを振るおうとした。京一が止めなかったら、間違いなく自分は両腕の腱を切られ、さらに片目くらい抉られていただろう。 あの時は助かった…。佐久間はそうは思わなかった。彼に自業自得という言葉はなかった。自分の味方をする筈の醍醐は一方的に自分が悪いと決め付け、しかも地面に転がされた無様な姿を、事もあろうに葵にまで見られた。そして葵までが、自分が悪いというような発言をしたのである。 佐久間の中に、何か黒い炎が宿った。その日から、諸悪の根元である緋勇龍麻に対する復讐が始まった。 退院した彼はさっそく龍麻に挑んだ。教室を選んだのは、醍醐や京一、特に葵にも、自分が強いところを見せなければならなかったからだ。 勝負は一瞬で付いた。「戦え!」と言ったら、即座に「良かろう」との返事と共に、龍麻は首を絞めてきたのである。衆人環視の中で、佐久間は三秒と保たずに失神してしまった。 (緋勇の奴…不意打ちとは卑怯な真似を…!) 最初に五人がかりで彼をリンチにかけようとした事は卑怯に当たらない。なぜならそれは、美里葵にくっついた害虫を退治するためだからだ――と、考えていた佐久間には、挑んだ直後に手を出してきた龍麻は卑怯者の権化であった。 正攻法はいかん。佐久間の頭でもそれは分かった。龍麻は卑怯な上に凶悪だ。まずはそれなりのダメージを与えてやらねばならない。まずは、精神的に。 教室移動で誰もいなくなったところを見計らって、佐久間は龍麻の机に近付いた。登校時に拾っておいた犬の糞をその鞄の中に仕込んでやるのだ。そして奴が鞄を開いた時、その悪臭は葵にも届き、奴は不潔者として軽蔑されるに違いない――と考えていたのだが、龍麻の鞄を開いた瞬間、白いガスが噴き出し、佐久間は激しいくしゃみ鼻水鼻詰まり…風邪の諸症状に加え、涙が止まらず、嘔吐まで催すという羽目に陥った。鞄の中に自動小銃まで入れてある龍麻は、盗難対策用にちゃんと罠を仕掛けておいたのである。しかもあの男は「花粉症か? 健康には気を付けろ」と、嫌味極まりない言葉を投げつけてきた。 まだある。あの卑怯者はそれだけでは済まさなかった。 なまじ、葵の前で恥をかかせようと思ったのが間違いだと悟った佐久間は、ガスの影響から一週間かかって回復し、次はシンプルに攻めようと下駄箱に向かった。古典的だが、靴に画鋲を仕込もうというのである。鞄と違い、大勢の生徒が使う下駄箱に罠は仕掛けられまいとの打算もあった――が、甘かった。佐久間は下駄箱の中に手紙…ラブレターが(大量に)突っ込まれているのを見てケッと唾を吐き、龍麻の靴に手をかけた。その途端、高圧電流が佐久間を襲ったのである。龍麻は下駄箱そのものには罠を仕掛けなかったものの、靴を二足同時に取ろうとすると作動するスイッチを仕掛けておいたのだった。 ガスに続いて高圧電流である。この平和な日本にそんな物騒なものを持ち込むとはとんでもない悪党だ。やられる側の身にもなってみろ――と、佐久間はますます復讐の念を強くした。 それからの佐久間は(卑怯な)正攻法に終始した。 階段を歩いていた龍麻を突き落とそうとして飛び出したところ、京一に呼ばれた龍麻が急に方向転換したので、目標を失った佐久間は一人で階段を転げ落ちる羽目になった。 トラップにはトラップを。自腹を切って購入したスポーツ飲料を、体育の授業から戻ってくる直前の龍麻の席に、正確には京一、醍醐、葵、小蒔の席に置いておいた。スポーツ飲料のボトルは醍醐の席に置いたので、きっと醍醐が用意したものだと思うだろう。そして龍麻と京一の分には、強烈な下剤を入れておいたのだ――が、あの男は隣のクラスの裏密から何かおかしな飴を渡され、その扱いに苦慮していた。そして最終的に口の中に放り込もうとしたところで、「死ぬ気か!」と京一に後ろからどつかれ、飛び出した飴は佐久間の口の中に飛び込んだ。その瞬間、佐久間は文字通り口から火を吐いた。冗談ではなく、本当に火を吐いてしまったほどの辛さであった。唇お化けと化した佐久間が七転八倒していると、「大丈夫か」と龍麻が水を差し出した。――何と狡猾な! それは佐久間が用意した下剤入りのスポーツ飲料を二人前だったのだ。《火吹き飴 《もうやめましょうよぉ》と泣き言を言う舎弟に激を飛ばした佐久間は、街中を龍麻が京一たちと歩いているのを見かけたので、とっさに手元にあった空缶を投げつけたところ、龍麻が道に落ちていた十円玉を拾った弾みで空缶は明後日の方に飛んでいき、頬に傷のある《その筋》のお兄さんにぶつかり、仲間もろとも《本職》のリンチを受けた。《新宿真神の醍醐》の舎弟という肩書きを知っているチンピラがいたのでそれ以上の目には遭わなかったのだが。 《もう勘弁してください》。一週間の入院と診断されたベッドの上で、舎弟は涙ながらに訴えた。彼らの親も、ほとんど見捨てたも同然の我が子とはいえあまりにも哀れな姿に親子の情を取り戻し、佐久間に《もううちの子に付きまとうな!》と罵声を浴びせた。佐久間は唯一の心の拠り所であった自分の王国さえ失ってしまったのだ。 そして先日、遂に緋勇龍麻本人への復讐は諦め、直接葵に手を出そうと決心した。いくら神聖不可侵の女神とは言え、所詮は女。XXでXXXすればXXXXをXXXXするようになる筈だ(不適切な語句により削除)――と、粗悪なアダルトビデオか三流ポルノ小説のような考えのもと、葵にレッツ・アタックした佐久間であったが、たまたま一緒にいた小蒔にひっぱたかれ、このヤロウと襲い掛かろうとしたら、いきなり背後から何者かに蹴飛ばされて気絶した。後になって、すれ違う連中がやたらと自分を見て笑うので鏡を見ると、額に《肉》と書かれていた。それも油性ペンで。そんな極悪非道な事をするのは、あの緋勇龍麻以外に有り得なかった。 「畜生…! あのヤロウ…!」 思い出せば思い出すほどに沸き上がる、深い恨みつらみ。しかもそれを発散させようにも、相手もいなければ舎弟もいない。今の狂犬のような佐久間には、誰一人寄り付こうとはしなかったのだ。 「あの…クソヤロウが!」 佐久間は足元にあった空き缶を思い切り蹴飛ばした。 しかし、悪いことは重なるもので、佐久間は思い切り良すぎて転倒し、何かグチャッと柔らかい物を掴んでしまった。見ればそれは、不心得者が片付けずに残していった犬の糞であった。クソヤロウとは、佐久間であったらしい。 「ど畜生ォ!」 いくらなんでも、これは哀しい。佐久間はほとんど涙目になりながらそれを方向も確かめずに投げ捨てた。 道の奥にある闇に吸い込まれていく犬の糞。何気なくそれを目で追った佐久間は、なぜか違和感を覚えた。今まで何十回も通った、馴染み深い中央公園の道。それが突如として、見知らぬ世界の一角と化したかのように。 「ククク…クックック…」 闇の奥からひそやかな笑い声が聞こえてきたのは、何か得体の知れない恐怖を感じて佐久間が立ち上がった時であった。 「何を迷うことがある、我らが同胞よ…」 龍麻や京一たちのみならず、本格的に武道に手を染めた者たちには判るであろう、汚れた殺気と邪気に塗れた声。しかし佐久間には、気味の悪い声としか判らない。 「だ、誰だ!?」 「クックックックック…」 「出てきやがれッ!」 威勢良く啖呵を切ったまでは良かったが、姿も見せぬ相手に対し、佐久間は腰が引けていた。武道家のように上等ではないが、不良には不良の勘というものがある。自分と同類で、しかも力量が上の者に対しては敏感なのだ。龍麻、京一、醍醐に対してその勘が働かぬのは、彼らがあらゆる意味で佐久間とは違う人種だったからに他ならない。 「お主の抱くその怨恨は、我らが鬼道の恩恵を得るに相応しい。――限りなく我らに近き魂を持つ男よ――」 「な、何だァ!?」 犬の糞をぶつけられた者の因縁にしては妙な文句だ。佐久間は本能的に一歩下がった。 「さあ、解き放て――嬲り、殺し、そして喰らうがよい。思いのまま――奪うがよい」 「奪う? ――オイッ! さっきから何訳わからねえこと言ってやがる! 姿を見せやがれ!」 佐久間の声は、前方の暗闇に吸い込まれて消えた。 「クックックック…。恐れることはない。《選ばれし者》よ。さあ、己の内に渦巻きし暗き念に身を任せるがよい」 声と共に、周囲の暗闇にぽうっと人影が浮かび上がる。 「ヒイッ、緋勇!」 それは、厳密には緋勇龍麻ではなかった。容姿から背格好に至るまで、完全に緋勇龍麻のそれでありながら、口元には邪悪極まりない、皮肉な笑いが浮かんでいる。明らかに佐久間を嘲笑する顔だ。ただ、本物の龍麻は一度たりとも佐久間に対して表情の変化を見せた事はない。 更に、人影が浮かび上がる。 「だ、醍醐…! ――蓬莱寺…!」 今や真神の三強として恐れられる三人の男たち。そこにもう一つ、快活そうなふりをした小悪魔そのものの笑顔を浮かべた小蒔が加わる。全員が佐久間を蔑んだ顔で眺め、嘲弄している。 「てめえら…!」 もごり、と佐久間の中で何かが動いた。 更に加わる人影。ただしそれは、まるで天使のように白く輝いていた。 「み、美里…!」 面白くもない学園生活の日常に舞い降りた天使。それが佐久間にとっての美里葵という少女だった。ただ一人、自分に微笑みかけてくれる神聖不可侵の女神。 その葵が、自分に向かって微笑みながら手を差し伸べてくる。 「み、美里…!」 佐久間はその手を掴もうと手を伸ばした。 「――ッッ!!」 葵が急速に遠ざかる。彼女に背後から組み付いているのは、緋勇龍麻! 必死になって抵抗する葵を抱きすくめ、蛇のように嫌な顔で笑う。そこに京一が、醍醐が、小蒔が加わり、彼女を暗黒の彼方へと引きずり込んでいく。 《助けて!》 葵の口が、そう叫んだ。 「美里!」 佐久間は必死で走りながら手を伸ばす。しかし、葵の姿は遠のくばかりだ。追い付けない! 《助けて!》 もう一度叫んだ直後、葵の姿は龍麻たちが化けた暗黒の中に塗りつぶされて消えた。 「クソ! 畜生ォ!」 自分に助けを求めた美里を、救う事もできなかった佐久間は打ちひしがれて地面に両手を付く。 「畜生! 畜生ォォッッ!!」 佐久間は喚きながら地面を殴った。拳が血を噴き、ひどく痛んだが、それでもやめなかった。腹の奥底で蠢くものがひどく熱いものに変わり、身体を内側から焼いていくような感覚。それに連れて精神までがひどく残酷なものに侵食されていく。 「力が欲しい…! 奴らをぶっ殺せるだけの力が…!」 「その力、我らが与えてやろうぞ――」 先刻の声がすぐ背後で響く。しかし佐久間は振り返ろうとしなかった。ただ、葵が消えた暗黒のみをぎらついた目で見据えていた。 「どうすれば…どうすればいい…?」 「簡単なことだ。《選ばれし者》よ」 じわり、と冷たい刺激が佐久間の背筋を貫く。 「恨め――。憎め――。殺せ――」 言葉が刺すような痛みと共に佐久間の中に潜り込んでくる。佐久間の中で荒れ狂っていた熱いマグマは、それによって更に沸き立った。 「堕ちるがいい、佐久間よ――」 再び、暗黒より現れる、憎むべき男たちと、桜井小蒔。 「変生せよ――佐久間よ」 「うう…おお…ウオオオオオオオォォォッッ!!」 己の中で沸き立つマグマが、佐久間の全身を突き破って飛び出したかのようだった。佐久間は吠え声を上げて跳ね起き、猛烈なパンチを緋勇龍麻の顔面に叩き込む。思ったより簡単に優男風の顔は陥没し、血と脳漿を撒き散らした。続いて京一に蹴りを浴びせ、腹を突き破り、醍醐にはパンチのつるべ打ちを叩き込んでアバラを全て砕き散らした。小蒔の両足をローキックでまとめてへし折り、その首の骨を踏み砕いた。 「ウオオオオオオォォォッッッ!!」 迸る咆哮は己への賞賛の叫びか、殺戮の歓喜か。そのどちらとも知れぬまま、佐久間は闇の中で咆哮し続けた。 ――呆けた様に立ち尽くす佐久間の背後で、陰鬱な忍び笑いが起こる。 「――我が事成れり。覚悟するがいい。餓鬼ども――」 東京、新宿、真神学園三−C教室、一五三〇時 「――佐久間クンがいなくなって、もう一週間かあ」 ホームルームが終わり、いつものように真神の名物五人組、《真神愚連隊》の面々が《隊長》の緋勇龍麻の席に集まる。 「一体、どうしちゃったんだろう?」 このところ、ホームルームの度に、佐久間の事が話題になる。担任としての責任もあり、マリアは欠かさず、「佐久間君を見かけた人は先生に知らせてください」と告げる。他の教師が同じ事を言ったならば無視されるかもしれないが、生徒達に慕われているマリアの言葉にも関わらず、いまだ有力な目撃情報は寄せられていない。 「さァな。俺は野郎のコトに興味はねェよ」 最初から興味なしと言わんばかりの京一。 「どうやら、自宅にも帰っていないらしいな…。このままだと、警察に捜索願を出すことになるらしい」 さすがに醍醐はいまだに佐久間の事を気にかけているようだ。 「イヤな奴だったけど、心配だなァ。妙な事件に巻き込まれてなければいいけど。ねえ、ひーちゃん?」 京一以上に佐久間に無関心な龍麻は経済新聞などを眺めて一人頷いたり難しい顔をしていたのだが、小蒔の問いにようやく顔を上げた。 「奴がいなくなると、不都合でもあるのか?」 実も蓋もない言葉である。 「そういう訳じゃないけど…一応、同じクラスの仲間なんだからさ」 「俺にとって、奴は取るに足らない《敵》の一人に過ぎん。どこで野垂れ死のうと、俺の知った事ではない」 常日頃から、何かと佐久間に絡まれている龍麻である。龍麻自身は彼の存在そのものを認識する前に《排除》するという器用な事をしているが、人間がカやゴキブリを毛嫌いする程度には、佐久間を嫌っていることは判る。しかしいくらなんでもこれは言い過ぎだろう。 「――龍麻。お前の考えは判らないでもないが、どうもお前は不良全体と言うより佐久間一人にえらく厳しいように見えるのだが、何か理由でもあるのか?」 「あるとも。ここが日本でなければ、俺はとっくに奴を始末している」 「――ッッ!?」 龍麻の放言はいつもの事だが、今日のは特別だ。確かに不良ではあるが、テロリストでもなく、《力》を犯罪に使う者でもなく、《鬼道衆》の一味でもない佐久間を、こうもあっさり《始末》するなどとは…。 「オイオイ、ひーちゃんらしくねェな。確かにあいつは暴力馬鹿だが、ほんの小物だぜ?」 「小物か。それは間違いない」 龍麻は経済新聞を畳んだ。 「しかし、それだけに危険なのだ。元来テロリズムとは、目的のためには手段を選ばないのが普通だ。そして目的遂行のためならば、自分自身をも含めたいかなる犠牲にも揺るがぬ強靭な意志を持っている。だがしかし、その中には時に、《手段のためならば、目的を選ばない》という救いようのない異物が混じるのだ」 「《手段のためには、目的は選ばない》? なに…それ?」 「…テロ行為による殺戮劇は、人の心を歪ませる。そもそも何の関係もない多くの人々を殺すという行為が理想の実現に必要だと考る事こそおかしいのだが、殺人に罪悪感を抱くことなく、女子供さえ容赦なく殺していく内に、理想の実現などよりも、いかに多くの犠牲者を出して世界に恐怖を与えるか、この一点のみを求めるようになる。そうなった時、この世で最凶最悪の、制御不能の殺戮機械が生まれるのだ。そいつは敵を殺し、味方を殺し、無関係の者を殺し、自分自身を殺し尽くしても決して満ち足りることはない。あとに残るものは、全て死に絶え、破壊され尽くした荒野のみだ」 犯罪を、テロリストを良く知る男の言葉は、やけに重たく一同に染み入る。何しろ、ここ最近戦った《鬼道衆》なるテロリストの所業は、この東京に住む無辜の人々を、果ては世界すら滅ぼしかねぬほどの行為だったのだ。 「…佐久間がそうだと言うのか?」 たっぷり熟孝した後、醍醐が口を開く。 「…暴力を信仰し、人の血を吸う事を覚えた者は、決して敗北を認める事はない。自分の力の未熟を認めず、その力が通用しないと不必要なまでに屈辱を覚える。放っておけばいずれ自分のみか、周囲の者を巻き込んで自滅するだろう。そういう奴を見付け次第始末するのも俺達の務めだった。…この失踪がその序章とならねばいいがな」 「…どういう事だ?」 「半端な力を誇る者は、自ら鍛えようなどとはしない。そういう奴は、手軽で強力な力を求める。例えば――ガンだ」 「……!」 「それを手に入れた時、奴は躊躇うことなくそれを使用するだろう。奴の身を案じる前に、自分の身を案じる事だ。鬼道衆だけが敵ではないぞ」 時々、一同は龍麻の冷酷なまでの洞察力が怖くなる。龍麻はどんな時でも、最悪のケースを想定して動くが、さすがにクラスメートに対してここまで考えているとは、いささか度が過ぎていると感じざるを得ない。 だが―― 「…ほんの冗談だ」 ガタガタッ! と、男二人が崩れ落ちる。 「二人とも、足元には注意しろ」 「ひ、ひーちゃん。今のはちょっとタチ悪いよ」 京一や醍醐のように盛大にコケはしなかったものの、小蒔はげんなりした顔でそう言った。龍麻が時々飛ばす哲学的長台詞には、現代高校生には決して知りえないバイオレンスな世界を渡ってきた者の重みがあるので、つい真剣になって聞いてしまうのだ。それなのに、今のが冗談だったとは…!? 「そ、そうだぞ龍麻! やっていい冗談と悪い冗談がある! 特に今のはシャレにならん!」 「ふむ」 龍麻は顎に手をやった。 「ある時、立川談志 「!?」 「電車がホームに入ってきた時、何を思ったのか突然毒蝮が談志の背中をドンと押した。談志はホームから転がり落ちて、危うく電車の下敷きになるところだった」 「…あの、ひーちゃん?」 「談志は猛烈に怒って怒鳴ったね。《この野郎、俺を殺す気か!》。そこですかさず毒蝮は一言――《シャレだよ》」 「……」 「《そんなモン洒落になるか!!》――と、まあ、そんな事を言いたいのか?」 再び、へなへなと脱力する三人。 「そ、それはまあその通りなんだが、何でそこまで回りくどく…」 そうやって龍麻が毎度ばかばかしいお笑いを堪能していると、そこに葵が戻ってきた。 「――あら小蒔、こんな所でつまらない落語を聞いている暇あるの? もう時間でしょ」 ガーン! と、どこかで何かが鳴ったような音がした。 そんな事には構わず、小蒔は時計を見てはっとなる。 「あッ、やばッ、もう時間だ! あ、葵、これ地図ね!」 慌ててポケットから取り出したメモらしきものを葵に渡す小蒔。 「なんなんだ? 時間って、デートの約束でもあるのかよ?」 京一の軽口に「な、なに!?」とうろたえる醍醐。 「小蒔…皆にはまだ話してなかったの?」 「あれっ? そうだったっけ。――エヘヘ。今日はウチの部と親交のあるゆきみヶ原高校で練習試合があるんだ」 おお! と京一が身を乗り出す。醍醐は…なぜかほっとしたようだ。 「ゆ、ゆきみヶ原だとォ!? ゆきみヶ原って言えば、荒川区にあるお嬢様学校じゃねェか!」 「ヘェ。京一、知ってるの?」 「知ってるも何も…都内でもオネーチャンレベルが高いって評判なんだぜッ!」 人として壊れかけたような裏声を出す京一に対し、小蒔は「ふうん」と興味なさそうに答える。 「まっ、そんな事よりもボクにとっては雛乃 「雛乃って?」 「雛乃はゆきみヶ原弓道部の部長で、ボクのライバルなんだ。実家が由緒ある神社でね、ボクも時々遊びに行ったりするんだよ」 「雛乃ちゃんか…」 妄想の世界にシフトする京一。 「神社の娘なんて、さぞかし和服美人なんだろうな〜」 「それは想像に任せるよ。それよりひーちゃんもボクの最後の試合、見に来てくれる?」 なにやら酷いショックを受けていたらしい龍麻が、やっとこっちの世界に帰ってきた。 「う、うむ。日頃の精進の成果を試す時だ。ぜひ観覧させてもらおう」 「エヘヘッ。よろしく!」 龍麻に敬礼する小蒔の胸元に、赤いお守りがぴょんと跳ねた。 「あん? 小蒔、お前、前からそんなお守り付けてたか?」 こういう瞬間、やけに目ざとい男が声をかける。 「あッ、これは醍醐クンに借りたんだ」 「ふ〜ん、へ〜え、ほ〜う。醍醐がねェ…」 殊更意味ありげに醍醐と小蒔を交互に、ニヤニヤと笑いながら眺める京一。葵もニコニコと、二割くらいは苦笑も込めて笑っている。 「も、もう! 変な意味じゃないんだからねッ! 大事な試合だからって、ボクに貸してくれたんだから!」 なぜか顔を真っ赤にして「じゃ、後でね!」と教室を出て行く小蒔を、龍麻のみが訳が判らず見送った。 「それにしても、醍醐よォ…」 小蒔の赤面の理由が判らず首を捻る龍麻は放っておき、京一はニヤニヤしたまま醍醐に言った。 「仮にも女にプレゼントするのに、もう少し気の利いたモンを思い付かなかったのかよ。いくらなんでもお守りはねェだろう」 「な、何を言うかッ。あのお守りはだな、そのッ、由緒ある品でな。あれを持っているとき、俺は試合に負けた事が一度もなかったという…」 「――なるほど。大戦中に行われた《千人針》なる魔よけ神事と同じだな」 龍麻の一言で、周囲の空気がズ〜ンと重くなる。ちょっとした御守りが一気に《千人針》に…。やはり龍麻は《いろんな意味で》只者ではない。ちなみに《千人針》とは、戦時中によく行われた民間信仰で、千人の手によって縫い上げられた腹巻を身に付けていると、敵の弾に当たらずに済むという、迷信であったとしても親心や家族愛に溢れる言い伝えである。 「うふふっ、小蒔喜んでたわよ。醍醐君に借りたんだって、私に見せに来たし」 龍麻のボケを強制的に排除する葵である。 「と、とにかくッ、深い意味はないんだからなッ」 龍麻のボケ対策とフォローも兼ねた言葉も、醍醐にはむしろ逆効果だったか、顔を真っ赤にした醍醐は「先に行く」と告げて教室を出て行ってしまった。 「醍醐君…試合会場どこか知ってるのかしら?」 「そんな訳ねェだろ。おいッ、醍醐、待てよ――」 そう言いつつ、京一も教室を出て行ってしまう。どうやら廊下で呼び止めたようだが、そのまま二人の声はフェードアウトしていった。 教室に二人取り残され、おもむろに龍麻が口を開く。 「うむ。この状況はみ…」 「《木乃伊 ネタを先に言われてしまい、へこむ龍麻。 「龍麻。冗談を言う時は表情を変えるものよ。はい、これをあげる」 龍麻の前で葵がぱっと広げたのは、東急ハ○ズなどで売っている《日の丸》扇子であった。 「葵、その扇子――」 「センスが良いでしょう?」 「……」 再び撃沈し、床にのの字を書く龍麻。最近、本当に普通の高校生(?)らしくなってきた龍麻であった。 「さあ、へこんでないで私たちも行きましょう」 自分で止めを刺しておきながら、何気に酷い葵であった。 第捨話 変生(前編) 1 完 目次に戻る 前(鬼道 4)に戻る 次(変生(前編)2)に進む コンテンツに戻る |