第九話 鬼道 4





 
 ハワイ島沖合い二〇〇キロ、深度五〇メートル。
   IFAF第一三独立戦隊《ウォーロック》旗艦《白鯨モビィ・ディック》艦長室
     太平洋標準時二二三〇時



「…どういう事ですか、それは?」

 高密度な電子機器で埋め尽くされた部屋の中で、金鈴を震わせるような美声が部屋の主に向かって放たれた。

「今言った通りです。全世界で二十ヶ所同時にクトゥルーケースが発生。その内、東京で発生したCケースに付いて、日本政府が我々の出動を拒否しました。あなた方は残るCケース発生地点、アラスカに飛んでください」

 機能性一点張りのデスクの上で手を組み合わせている若い男――まだ二十代半ば――は、デスクを挟んで立つ少女を静かに眺めながら、先程伝えた指令を繰り返した。

「――私たちが十時間前に中東での任務を終えて帰って来たばかりという事も、規約では任務完了後に最低七二時間の休息が認められている事も、今は忘れてお尋ねします。――《奴ら》に対抗できる軍事力を持たない日本が、なぜエージェントの派遣を拒否するのですか、大佐?」

 デスクに手を掛け――ここではそれも許されている――少女は身を乗り出した。白いヘアバンドで留めた長い黒髪が揺れ、ふわ、とフリージアらしい香りが空気を染める。――炎のような怒気を放っていても、大変美しい少女であった。腰までかかる艶のある黒髪、すっきりと伸びた鼻梁に、小さくまとまった桜色の唇。そして、今でこそ無茶な命令を下された怒りに満ちているが、見る者をほっとさせる、おっとりとした印象を与えるぱっちりした目。面と向かえば、吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどに深く神秘的な黒瞳の中に、若い男…大佐の姿が映っている。

「それは当然、私の疑問でもあります」

 歳若い大佐は、少女の怒気を涼しげに受け流しながら続けた。

「これまでの日本政府には考えられない強硬姿勢。エージェントの派遣拒否どころか、日本で活動中の機関員全てを引き揚げさせなければ、スパイ防止法を適用して逮捕するとまで言ってきましたよ。要求の中には、我々IFAFが運営する教育機関の廃止までありました」

「――私たちの学園まで!?」

 動揺が少女に身を引かせ、彼女の胸元で赤いリボンが揺れる。――セーラー服。戦争を目的に造られた潜水艦の中にあっては、あまりにも場違いな服装――高校の制服であった。

「…それはまた、随分と大きく出たな」

 少女の後方に控えていた少年が、低くも透明感のある声で言う。豊かな金髪に、精悍さと美しさを兼ね備えた顔立ち。サングラスを外しているので、切れ長の目の中でブルーの瞳が少女と大佐を映しているのが見える。ただし――映しているだけだ。ドールアイのごとき、無感情。

「同感です。そして、不穏な事夥しい。――Cケースの早期解決は人類の命題です。だからこそ我々の要求に各国政府は逆らわないし、逆らわせない。それがここに来てエージェントの派遣を拒否、極東支部の撤退、教育機関の廃止を要求してくるなど。まるで政府中枢が《奴ら》に乗っ取られたかのような雰囲気です」

「…必要なら三分で全滅させる」

 ごく簡潔な少年の言葉に、少女が少し顔を顰める。しかし大佐の反応はそれを遥かに上回っていた。

「その時はお願いします。――彼らは我々が《本気》である事をまったく信じていませんからね。国会を丸ごと潰されれば、少しは良識のある人間が後を継ぐかも知れません」

「――無理だ」

 国会を三分で潰すと言い切る少年と、それをあっさりと肯定する大佐。そんな二人に向かって少女が愛らしい唇を尖らせた。

「悪質な冗談は止めてください。――そんな折りに私たちをアラスカ派遣なんて変じゃありませんか? 日本政府が何を企んでいるのか知りませんけど、まず被害に遭うのは力のない人たちなんですよ」

「承知していますとも。既に我がIFAF第五機動海兵中隊《ケルベロス》が、横須賀基地寄港中のイージス艦《ロジャー・ヤング》で臨戦待機しています。ですが…」

 そこで、大佐は言葉を切った。少年は無表情に、少女はやや緊張の面持ちで次の言葉を待つ。

「三〇分ほど前、アメリカ政府から《ロジャー・ヤング》に港外退去命令が出されました」

「――え!?」

 余りに意表を突かれたものか、少女がきょとんとして目をぱちくりさせる。

 IFAFの母体は国連に属しているが、特定の国家に従属するような形は取らない。特にCケース…《旧支配者》絡みの事件に関わる部隊に対しては、政府レベルでも命令権や拒否権を持たないのだ。それなのに現在進行中のCケースに備えて待機中の艦艇に、Cケースの恐ろしさを知っている筈のアメリカ政府が退去命令を出したというのである。

 アメリカ軍の管轄下にある横須賀基地を使用している限り、日本政府は《ロジャー・ヤング》に退去命令は出せない。物資の搬入はアメリカ軍の艦艇を経由して行われる為、《非核三原則》を盾にしての抗議も、通用しない。――子供の理屈のようだが、接岸していない《ロジャー・ヤング》に対しては、運輸省も立ち入り調査を要求できないのである。

 しかし、アメリカ政府が横須賀港の使用を拒否したとなると…。

「同時に、IFAF評議会からはアラスカの事件に関してはあなた――最強の対妖魔戦略特殊工作員アンチダムドシングタクティカルスペシャルエージェント《ストライダー》、《ザ・パンサー》を派遣せよと言っています。――政府筋依頼ガバメント・オーダーだからと言って、独立戦隊である我々にはそんな命令に従う義務はありません。しかし――扱いの難しい問題になりそうですね」

「……」

 訪れた沈黙が、事態の深さを物語る。人類の存続の為に、迅速に処理しなければならないCケースを前に、日本政府にアメリカ政府、IFAF内部にさえ不可解な行動が見られるとは…。

「…乗ってやろうじゃないか」

 ややあって、少年…《ザ・パンサー》が口を開いた。

「最近のCケースに関わる《奴ら》は紛い物が多い。どこの誰が描いたシナリオか知らんが、明らかな陽動作戦だ。何をしでかすにせよ、《ストライダー》が出払っている今がチャンスだろう。さっさと片付けて、誰が何を企んでいるのか見極めるべきだな」

「…あなたなら、そう言うと思いましたよ」

 大佐は、引き出しから取り出した箱をデスクの上に置いた。

「これをお持ちなさい。任務の早期解決に役立つでしょう。我々に対して良からぬ陰謀を巡らせるとどういう事になるか知らしめる為にも」

荷重力弾グラビテック・カートリッジか。――良かったな、舞。四時間の回り道だが、着替える必要はなさそうだ」

 その時初めて、《ザ・パンサー》の目が感情の光を見せた。澄んだブルーの瞳を嵌め込んだ切れ長の目、柳葉のような眉、剣のように鋭く伸びた鼻梁、意志の強さを示して引き締められた唇…元の造作が良いだけに、それだけで恐ろしく魅力的な顔になる。

「…また、見ていろって言うつもりですか?」

 並の女性なら見惚れてしまいそうだが、その手は食わないとばかりに、少女…舞というらしい…はつんと澄まし顔でそっぽを向いてから、大佐に向き直った。

「アラスカの件はともかく、日本の方はどうするんです? アメリカ政府までがそんな要求をして来た以上、出撃を強行するのは得策ではないと思いますけど」

「その通りです。しかし、我が方の機関員からの報告によると、現在進行中のCケースに、《ダゴン》の復活を阻止した者が介入しているという事です」

 今度は少女のみならず、《ザ・パンサー》の表情も動いた。

「…噂は聞いている。マクシミリアン中佐が、消滅した嘉手納基地から連れ帰った少年だな。今はIFAFの管理下を離れ、日本の非公開組織に付添人アテンダントの任が移ったそうだが。――使えるのか?」

「…かつてマクシミリアン中佐は、彼を御自分の《竜騎兵隊ドラグーン》にスカウトしようと考えておられたようです。――あなたのように」

「……」

「しかし彼はマクシミリアン中佐にとって親友の…盟友の忘れ形見。感情まで奪われていた彼を再び戦場に出すのは忍びなかったのでしょう。同時に中佐は、彼に刷り込まれた戦闘マシンとしての本能プログラムを危険視していました。それは強い生命危機やストレスを受けた際…簡単に言えば感情を高ぶらせると発動し、《敵》と認識した者を手当たり次第に殲滅するというものだったようです。――攻撃対象が《敵》に限定されるところが救いですが、彼は《最強の兵士》として創られたのではなく、《最強の部隊》の《部品》として創られている。レッドキャップス以外の戦闘部隊では、限りなく突出してしまう危険性があったのです」

「…自分の《敵》を始末するのを優先し、味方を見殺しにする可能性か。――危険だな」

 最後の一言に、少女が肯く。

「見殺しにしないまでも、一人で戦おうとする癖がある…。そういう事ですね」

「ええ。――現在の彼は多くの特殊能力者の仲間を持ち、一つの戦闘部隊のリーダーとして活動しているようです。しかしその仲間たちはレッドキャップスの《部品》ではない。彼の《信頼》を得るには決定的なものが欠けているのです。現に《ダゴン》の召喚儀式を阻止する際には、仲間の同行を拒否したとの報告がありますからね。――彼とその仲間を結び付けているものが、人間的な《信頼》なのか、機械的思考が勝利条件の一つとして仲間を《必要》としているのか、現時点では判断できません。できれば――前者である事を望みます」

 人間同士の信頼――《奴ら》と戦う為には絶対必要な条件。腐敗と堕落を司る《奴ら》と戦う為には、最後まで《人間》を主張できなければならない。《人間》を捨てて《奴ら》を退けても、それは《勝利》とは言えないのだ。

「―― 一人で戦う事を選べば、後者だ」

 《ザ・パンサー》は冷然と言い捨てた。しかし即座に異を唱える声が一つ――

「でも、人は成長します。仲間がいるという事は、人間的な成長の証でしょう。――大丈夫ですよ。いつまでも、鉄のハートではいられません」

 にっこりと笑顔を向けてくる少女に、極めて小さな苦笑を浮かべる《ザ・パンサー》。――彼は、この少女を相手にする時だけは人間味を見せる。

「いざとなれば、政府が何を言おうと《ケルベロス》が出撃するでしょう」

 大佐は続けて言った。

「しかし同時に、我々も彼の行動に注目し、期待しています。レッドキャップスとして培われた技能が人類の未来に役立つか否か。――あなたと同じく」

 その瞬間、大佐は軽く目を閉じた。凄絶な殺気の照射が、物理的な圧力となって端正な顔を掠めたのである。

 少女の手元で、チン、と澄んだ金属音が鳴る。大佐はその時になって初めて、少女の手に美しい意匠を凝らした日本刀が握られている事に気付いた。

「…そういう言い方は許さないと、以前にも申し上げました。――次はないと思ってください」

 今の凄絶な殺気が、その瞬間までにこやかに話していた筈の少女から放たれたとは!? 少女の瞳には怒りの炎が揺れていた。年頃の少女には似合わぬ、超低温の炎。触れただけで切り裂かれそうな殺気。

「解りました。気を付けましょう。――無礼な事を言ってしまいましたね。許して下さい」

「…俺は構わん」

 《ザ・パンサー》はすっと手を伸ばし、デスクの上にある花瓶にそっと触れた。

 つう、と斜めに滑っていく花瓶の口元。いや、その中ほども二ヶ所、まるで始めからそうなっていたかのようにずれ、コトリ、と小さな音を立ててデスクの上に落ちた。――少女はその一瞬に花瓶を三回も斬っていたのであった。抜く手も見せず、ガラスに音も立てさせず。――もし《ザ・パンサー》が手を触れなければ、ずっとそのままであったかも知れない。神業的な居合いであった。ただし――誰も驚かない。当たり前の事のように。

「彼に対する監視は強化しています」

 何事もなかったように、大佐は続けた。

「しかし、今のところ彼一人に拘泥する余裕はありません。日本、アメリカ両政府が何を画策しているのか早急に調べ、対処せねば。――囮になると判っていて送り出すのは不本意ですが、アラスカの件はお願いします」

 《ザ・パンサー》が肯きかけた時である。大佐のデスクの艦内電話が鳴った。

「――なんですか?」

『――待機中の《ケルベロス》指揮官、グレッグ中佐より緊急連絡です。――Cケースに介入したレッドキャップス隊員が戦闘状態に入ったとの事です』

 俄かに緊張する空気。大佐も少女も表情を引き締めた。

「――さて、どう出る? レッドキャップス」

 風もないのに、《ザ・パンサー》のコートが揺れた。口元には、鬼気迫るような淡い笑み。――それは、先程の疑問の反復であった。そして大佐も少女も、それに答える事は出来なかった。







(ヌウッ! こやつ…ッ!)

 銃を持っているとは言え、たった一人で自分に向かってきた龍麻を、風角は最初から侮っていた。

(以前の借りは返す。ついでだが、水角の仇でもある)

 そんな事を考えていた風角は、背に走る戦慄と、半ばちぎれた左腕の激痛に、己の不覚を後悔する暇もなかった。



 ダラララララッッ!!



 石柱の陰から踊り出た龍麻の手元で、ACRが火を吹く。

「ぐおっ!」

 ACRの射線を見切り、弾丸を避けようとした風角であったが、脇腹に焼け串を突っ込んだような激痛を受けて地面に頭から突っ込んだ。それでもさすがは忍者。すぐに立ち上がり、トンボを切って石柱の陰に隠れる。

「カハッ! カハッ! カハッ!」

 新たに増えた傷を押さえる風角の息は荒い。一回限りの手合わせとは言え、水角をも倒した輩との認識から、油断はできぬ相手だとは思っていた。それでも、まさかたった一人で自分をここまで追い込むほどとは思わなかった。

 カシャン! とACRのマガジンが地面に落ちる。その周囲には、累々たる下忍の―― 一つとしてまともな形状を留めていない死体。

 鬼道五人衆の一人に単独で挑むという龍麻の行為は、自信過剰でもハッタリでもなかったのだ。

 龍麻が《対風角用》として用意したライフル、ACR(アドバンスト・コンバット・ライフル)は、極めて特異な銃であった。弾丸は従来の鉛ではなく、直径二ミリ、長さ五〇ミリの、カーボン製の矢。これはフレシェット弾と呼ばれ、本来は狙撃用なのだが、これが従来の中距離での銃撃戦には恐ろしいほどの効果を発揮する。

 通常の小銃では実効限界距離四〇〇メートル。狙撃用ライフルでも一〇〇〇メートル。――これが軍隊におけるほぼ一般的な数字である。ところがこのカーボンの矢は三〇〇メートル以上フラットな弾道を描いて飛び、実用有効射程は狙撃用ライフルの二倍以上、実に二六〇〇メートルに達する。

 そして特に龍麻が、五・五六ミリNATO高速弾をかわしうる風角用にと注目したのは、その凄まじい弾速であった。AUGやM16シリーズに採用されている五・五六ミリ(二二口径)弾が、その弾頭の小ささの割に強力なのは、ライフル弾ゆえの火薬量とそれによって得られる弾速にある。僅か一二グラムの鉛粒はマッハ二・七という超スピードによって発生した衝撃波を伴って獲物の体内に突入し、脆弱な皮膚や筋肉組織を破壊するのだ。しかしACRのフレシェット弾は二二口径弾よりもさらに軽い上、火薬量は七・六二ミリ軍用弾のそれに匹敵する。その弾速は実に秒速一二〇〇メートル…マッハ六に達するのだ。この速度ならば炸薬や弾頭部の強化抜きで軽戦車の装甲を貫き、衝撃波だけで人体を引き千切る。――対人用としては強力すぎる、まさに恐怖の殺戮銃なのだ。

(…なかなか当たらんな)

 一方、龍麻もあまり使い慣れているとはいえないACRに苦慮していた。確かに《対風角用》として、そして開けた場所での銃撃戦にはほとんど最強と言ってもいいACRだが、何しろやや大型の上、戦闘場所が洞窟内の、鍾乳石が立ち並んでいる場所である。AUGほど取りまわしが効かないし、強化樹脂で軽量化を図った分、七・六二ミリ軍用弾と同等の発射ショックを軽減できず、龍麻でさえ両手撃ちでなければ反動を押さえきれない。ACRが次期主力小銃開発プロジェクトで不採用に終ったのは、それも原因の一つであった。そして風角は巧みに壁を、柱を足場に立体的に逃げるので、正確に撃ち倒すという訳には行かないのだ。

 とは言っても、龍麻の絶対的有利は動かない。

 龍麻は風角が隠れている石柱に向かって発砲した。



 ガガガガンッッ!!



 最初の三発ほどだけで石柱は耐えかねて砕ける。風角も左腕を完全に撃ち飛ばされて地面に叩き付けられた。それでも地面を転がりざま、右手でカマイタチを送ったのはさすがだが、《気》を読む能力に長けた龍麻には目に見えないカマイタチの攻撃も簡単に避けられてしまう。一方的な戦いであった。

 しかし、止めを刺そうとACRを肩付けにした龍麻の左右から、かなり強烈な殺気が襲い掛かってきた。

 上半身のみ仰け反らせて飛来してきた物をかわす龍麻。しかしそれは大きくカーブを描いて再び龍麻に襲い掛かってきた。ブーメランのような軌道を描く金属の輪…チャクラムだ! 祭壇を組む為の作業員として用意した下忍と異なり、風角の影として存在する精鋭の忍者――敢えて言うならば中忍――は立て続けにチャクラムを、それぞれ狙う部位、角度を変えて放った。龍麻は前後左右、どちらにも逃げられない!

「死ね! 小僧ォッ!!」

 龍麻は宙に跳んだ。十数個のチャクラムが彼のいた空間を走り抜ける。

「無駄じゃ!」

 風角はカマイタチを、龍麻の着地点へと放つ。――人間は空中では身をかわせない!

(勝った!)

 しかし龍麻は、そこに落ちてはこなかった。思わず頭上を振り仰いだ風角は、袖口から伸ばしたワイヤーで洞窟の天井からぶら下がっている龍麻を見た。

 そして、ACRが吠えた。

「ぐわっ! ぎゃっ!!」

 血煙を上げて吹っ飛ぶ風角。

 龍麻はそのままACRの射線を横薙ぎに振るう。発砲の反動で身体が回転するのを利用し、残る中忍の群れにフルオートで弾丸を叩き込んだ。

 龍麻が回転を止め、地面に着地した時、立っている忍者は一人も残っていなかった。ただ一人、石柱に身を凭せ掛けて荒い息を付いている風角以外は。

「――終わりだ。テロリスト」

「ヌウウ〜〜〜ッッ! 舐めるでないわァァァッッ!!」

 ガアッと血息を吐き、自分を中心に発生させた竜巻に乗って跳躍する風角! 竜巻から弾き出される真空刃のみならず、風角の腕と脇腹、肩口から噴き出る血潮が超高速の弾丸となって龍麻に襲い掛かった。

 ギン! と龍麻の左眼が輝いた。瞬時にその姿が掻き消え、真空刃が無明の彼方へと散華する。

「――ッッ!!」

 次の瞬間、風角の視界一杯に龍麻の顔と無数の拳撃が広がった。

 残像すら定かには捉えられぬ龍麻の突きと蹴りの連撃! 肺一杯に溜めた酸素の循環と丹田より生じさせた《気》を完全に同調させる事によって達成する超スピードをもって、二、三秒で突きと蹴りを百のオーダーで叩き付ける徒手空拳《陽》の奥義、《八雲》! ――龍麻の怒りを具現化した神速の連撃は風角の肉体を容赦なく砕き散らし、とどめに放たれた後ろ回し蹴りで風角はくの字になって一〇メートル以上吹き飛ばされ、洞窟の壁にクレーター状の窪みを作る勢いで叩き付けられた。一瞬後、手も足も有らぬ方向へとへし折られた風角の全身が盛大に血を噴き散らす。

「…制圧クリアー

 《八雲》の余韻である《気》で拳を輝かせつつ呟きを洩らす龍麻。《仇を取った》…。そんな感慨は彼には遠い。しかし奇妙な達成感と、先程まで炎のように燃え盛っていた感情がすうっと落ち着きを取り戻すのを覚える。何か…夢から覚めたような感覚。

 その時、仲間達の悲鳴が聞こえた。

 龍麻はACRのマガジンを交換して走り出した。







「アランクン――ッ!」

 小蒔の《火龍》がアランの身体すれすれを走り、彼を捕まえようとしていた触手に刺さって爆発する。



 ――《グモォォォ…!》



「え!? 効いた…!?」

 今までほとんど効果を上げなかった小蒔の《火龍》で、《盲目のもの》は苦痛と思しき唸り声を上げ、触手を引っ込めた。

「――でりゃああっ!!」

 これは勝機かと、近距離から京一が《剣掌・発剄》を放つ。しかしどうした事か、やはり目立った効果が上がらない。

「何だァ!? どうなってやがる!」

 その隙に如月は背負い袋から抜いた金槌ほどのピコピコハンマー(!)でアランの頭をピコ! と叩いた。誰がやってもお間抜けなその光景だが、如月ほどのハンサムがやると間抜けさ加減は倍増しである。しかしピコピコハンマーに偽装された低出力超音波麻酔のお陰でアランは正気を取り戻した。

「ソーリー、ヒスーイ。油断したネ」

「礼などいい。それよりも、君は今何をしたんだ?」

 《盲目のもの》から距離を取りつつ如月が早口で尋ねる。

「What?」

「桜井さんの矢が君のそばを掠めた途端に威力が大きくなった。てっきり君が何かしたのだと思ったのだが…!」

「ソーリー。ボクには判らないネ。デモ何か…力が合わさるような感じがしたネ」

「力が…合わさる…?」

 その言葉に何か閃きを覚えた如月であったが、次の瞬間、横殴りに吹き付けてきた突風に吹き飛ばされそうになった。

「え〜い!」

 裏密が光の粉を撒き散らし、それが反射される事によって生じた衝撃波が運良く突風を相殺した隙を突いて態勢を立て直す京一、如月、アラン。しかし勢いを盛り返した風は更に凄まじい竜巻となって《盲目のもの》を覆った。桁外れの妖気のこもった風は、小蒔の矢も裏密の術も、醍醐や紫暮の発剄さえ弾き飛ばし始めた。

「クソ! コイツ、パワーアップしてやがる!」

「《光》は駄目〜。反射されたわ〜」

 同じ旋風を巻き起こす雨紋の《旋風輪》すら、渦のスピードに負けてかき消される。直接攻撃はおろか、《気》や《術》さえも届かず、魔物に対して有効な《光》属性の攻撃すら受け付けぬとなれば、もはや倒しようもない。――龍麻は自分たちを信頼してこちらを任せたというのに!

「くそ! 龍麻がいれば方陣技が使えるのだが…!」

 つい、龍麻の存在に頼ってしまう自分に怒りを覚えつつも、そう言わずにはおれなかった醍醐。しかし苦し紛れの醍醐の唸り声が、如月をはっとさせた。

「――そうだ! 方陣技だ!」

「な、何だよいきなり!」

「さっきの桜井さんの技が通じたのは、アラン君の《気》と共鳴したからだ。君たち三人の方陣技も《気》の親和性を利用している以上、他の者でも組み合わせ次第で強力な力となる筈だ! もうそれしか、あの風の防御を破る術はない!」

 そうは言われても、当人達は半信半疑である。方陣技の条件とは、当人たちの気が合っているのが条件だとばかり思っていた一同である。それがいきなりアランと、はっきり言ってアランのようなタイプが苦手な小蒔とで方陣技が可能だと言われたのだ。アランはともかく、小蒔が困惑するのは無理もない。

「桜井さん! 迷っている暇はないんだ!」

 こうしている間にも、《盲目のもの》の力は増している。犠牲者達の残した負のエネルギーを吸って成長しているのだ。そして一同も、こんな妖気に満ちた風の中にいたらいずれ衰弱死してしまう。

「わ、判ったけど、どうすればいいのか、ボク、判らないよ」

 あ! と京一が声を上げる。

「おい小蒔! あの時と同じだ! 夢の中で闘った時の事を思い出せ!」

 それを聞いて、小蒔も、醍醐も思い出す。かつて葵を救出するため、嵯峨野の夢に入った時、龍麻の悪夢を倒すために全員の力を結集した事があった。いわば方陣技とは、あのように発動するものではなかろうか? 

「どうして京一ってこんな時だけ頭良くなるのさッ!」

「ほっとけ! そうとなりゃ…」

「俺達は援護あるのみだな。よし、美里! 俺たちにもう一度防御術を頼む! 京一と紫暮は左翼から、俺は右翼から行くぞ! ――発剄!」

 葵の防御術を受けた京一、醍醐、紫暮が散開し、再び発剄を叩き込み始める。先ほどまでと同じくまるで効いた様子がないが、今までと違って攻撃に熱が入る。《盲目のもの》はアランにのみ狙いを定めていたようだが、周囲から襲い掛かってくる《気》の衝撃に、とりあえず目標を変える事を選択したようだった。

「攻撃目標から外れたな。――今がチャンスだ、桜井さん。アラン君」

「なんか納得行かないけど…ヨロシク! アランクン!」

「OK、コマーキ。――ヒスーイ、ボクたちはどうすればいいネ?」

 如月は先程の現象を思い返す。この二人の《気》は親和性が高いようだった。ならば…

「桜井さんの矢ではあの風を破るのは困難だ。攻撃はアラン君が主体となった方が良いだろう」

 小蒔は大きく肯いた。

「それじゃボクの《火龍》の《力》をアランクンの銃に注ぎ込むよ! アランクン! ボクの前でしゃがんで銃を構えて!」

「OK!」

 普通に構えたのではアランと小蒔とでは身長差がありすぎる。アランは片膝立ちで霊銃を《盲目のもの》に向けた。そのアランの肩に両手を置く小蒔。

(イメージ…ボクの《火龍》を、アランクンの銃に…)

 内なる《気》が炎と化し、両腕を伝っていくイメージ。普段は矢へと送られる炎の《気》がアランの身体にとうとうと注ぎ込まれ、霊銃まで届く事をイメージする。小蒔の全身が青白い輝きを放ち、それがアランのオーラに触れると、停滞なく融合して金色の光に変わる。光は渦を巻き、螺旋を描きつつアランの両腕を走り、霊銃を輝かせる。

(コマーキの力がボクの中に…。これなら、勝てるネ!)

 《気》の融合によって導き出された《力》と自信。そして二人は、同時にかっと目を見開いた。

「――行け!」

「――Shot!!」

 龍麻のマグナムよりも凄まじい銃声と共に、アランの銃から真紅に燃える弾丸が発射された。それは《盲目のもの》を取り巻く竜巻を難なく突き破るや、爆発して紅蓮の炎を撒き散らす。炎は竜巻に乗り、たちまち《盲目のもの》を火達磨にしてのけた。

「――今だ! 集中攻撃!」

「応ッ! 《破岩掌》ォッ!!」

「《剣掌・旋》ィ!!」

「《掌底・発剄》ッ!!」

 火達磨と化し、明らかに苦しむ《盲目のもの》に向けて魔人たちの《気》が続けざまに叩き込まれる。それは今までのような無力なものではなかった。風のプロテクターが引き剥がされた今、《気》による攻撃を阻むものはなくなったのである。

「よっしゃあッ! 俺サマも…!」

 気合を上げて突進しようとする雨紋。しかしアランと小蒔の間を走り抜けた時、彼は奇妙な違和感を覚えた。まるで磁石が引き合うような、不思議な感覚。

「な、何だァ? 今のは…?」

「ライト…」

 雨紋とアランは、二人同時に悟った。

「俺達でも、できるな!」

「YES、ライト。今のでコツが判ったネ。奴の前で《ライトニング・ショット》ヨ!」

「おっし! 俺サマ達も魅せてやろうぜ!」

 雨紋を前に、二人が《盲目のもの》に突進する。その縦列隊形を取った時、二人の気が相乗効果を起こすのを如月は目撃した。方陣技は《気》の相性と、技を発動する者たちのポジションが重要な鍵なのだろう。――これは、研究の余地がある。

「蓬莱寺君! 奴の気を逸らせ!」

「よっしゃ!」

 京一の《地摺り青眼》と如月の《水烈斬》を左右から同時に浴び、《盲目のもの》は苦悶の声を上げる。その隙を見逃さず、雨紋とアランはその眼前に走り込んだ。

「行くぜ! ライトニング!」

 雷気を帯びた槍を風車のごとく回転させる雨紋。《旋風輪》の縦バージョン。アランの《気》と相乗効果を起こしている今、その《雷気》は珊瑚のごとき電撃の触手を天井に届くほどに放電させる。そして――

「Take get you fiend!!」
(これでも食らえ!!)

 全身全霊を込めて放つアランの銃撃! アランの《気弾》は雨紋の雷撃を突き抜ける瞬間にプラズマ化し、数十万から数百万度の超高エネルギーとなって《盲目のもの》に叩き込まれた。《盲目のもの》の中央部には二つにちぎれんばかりの大穴が空き、蒸気を噴く腐汁を跳ね散らしながらのた打ち回る。

「スッゲェ…!」

 自分達でやっておきながら、その威力に目を見張る雨紋にアラン。《盲目のもの》はと言えば、再生能力にも限界が来ているのか、残っていたゲル状細胞が寄り集まり、一つの個体になろうとしているかのようだ。しかし――確実に小さくなっている。

 そこに、龍麻が戻ってきた。

「遅いぜ! ひーちゃん!」

 絶好調! とばかりに叫ぶ京一。

「龍麻! とどめだ!」

 龍麻が何を言わずとも、京一も醍醐も例のポジションを取る。最初に発見した方陣技。《サハスラーラ》。

 だが、それに待ったをかける者がいた。――裏密だ。

「そのままじゃ駄目〜。反射されるわ〜」

「何ィ!? あと一息だってのに!」

 方陣技はまだ謎が多い。《気》の消費量に関係なく、使用は一日に一回が限度という制約がある。《盲目のもの》に対して有効な小蒔とアラン、雨紋とアランの組み合わせによる方陣技を使ってしまった今、残っている方陣技は、葵に絡むもののみ。――しかし、未だ暴れつづける《盲目のもの》に葵を接敵させることは危険極まりない。

「《盲目のもの》は特定の形を持たない、闇に属するもの〜。《光》を反射し〜あの形を維持するものを抱え込んでいる筈よ〜。それを抉り出すのよ〜」

 《光》を反射するもの…いきなりそう言われても、この腐肉と腐汁の塊のような怪物のどこにそんな物を見出せるというのか!?

 しかし、闇雲に振り回される触手をかいくぐりつつ、龍麻が口を開いた。

「――アラン、お前の霊銃でこいつの中心核を撃て!」

「エッ…!? でもボク一人の力じゃ…!」

「――お前は海兵隊で何を学んだ? ――見える筈だ。《俺たち》が進むべき道――《活路》が!」

「――!!」



――拳銃は右手で押し出すようにしっかり持ち、左手は引き付けるように支えろ

――目を閉じるなよ。閉じたら絶対当たらない

――的に当たるようになれば、次は《活路》が見えてくる。それが見えたら卒業だ



(ジェリー少尉…ワン曹長…ウェズリー軍曹…)



――行くのかい、ボウヤ。――しっかりな

――忘れるな。俺たちはいつでもここにいるからな

――海兵隊の本分を忘れるな。困難に立ち向かい、《活路》を見出せ



「アラン君!」

 葵の叫びが、アランを現実へと引き戻す。

「アラン君! 私たちの《力》は殺し合う為にあるんじゃないわ! 怒りや憎しみは人として当然の事! でも、そこに《力》はないのよ!」

「アオイ…!」

 かつて《力》を求めた、少年の日の想い。それに応えてくれた《ジェリー黒蠍隊》の面々と、彼らの言葉を思い出させてくれた龍麻。そして、《力》の本質を説く葵。

 ――戦場には正義などない。《力》こそが全て。敵よりも多く訓練し、敵よりも殺しの腕を磨き、敵よりも早く標的を発見し、これを殲滅する――アランはそれを海兵隊で学んだ。敵を殺し、生き残る術を。

 それ以上は必要ない。いや、必要ないと思っていた。たった今、この瞬間までは。

 復讐に凝り固まっていた自分。《ジェリー黒蠍隊》でひたすら戦闘力を養い、《奴ら》と戦い得るレッドキャップスの生き残りを求め、遂にここまで来た自分。――だが、《ジェリー黒蠍隊》の面々は《活路》を説き、葵は復讐すべき仇を前に、復讐心は《力》となり得ぬと言う。そして今、それを受け入れられる自分がいる。

 アランは周囲を見回した。

 龍麻がいる。葵がいる。京一がいる。醍醐が、小蒔が、雨紋が、紫暮が、裏密が、如月が…! 自分を《仲間》として見ている目がある。かつての《ジェリー黒蠍隊》にいた時と同じ、暖かい心地良さ。優しい両親と、姉と、友達と、故郷の風と大地とに抱かれていた時の、あの大きな安心感。――ここが、自分の居場所だ。そして、《力》の本質とは――《活路》とは――

「OK」

 アランの手の中で霊銃がスピンし、ぴたりと《盲目のもの》を照準した。教本のそれよりも様になっている、立ち撃ちの基本姿勢。

「ボクのガンさばーき、とくと拝むといいネ!」

 ギン! とアランの目が爬虫類のそれに変わる。爆発的に膨れ上がるオーラ!

 しかし、《盲目のもの》と初めて対峙した時のように荒れ狂いはしない。龍麻と如月、そして葵は、アランのオーラが雄々しい獣の姿を取り、アランを優しく包むのを感じ取った。その形は――龍。その時アランは、己の内に沸き上がった声に耳を傾けた。



『――《力》を信じ、しかし《力》に溺れるな。大気の慈愛を知る者よ。暗雲散らす、風となれ。全ては――護る為に』



 妖風を切り裂くように大気が渦巻き、空気分子の一つ一つが《盲目の者》に関するありとあらゆる情報を伝えてくる。今のアランにはこの洞窟内で繰り広げられる大気の流れ、《盲目の者》の、龍麻たちの動きから息遣いまで、全てを知覚する事が出来た。――大気そのものを味方とする。それこそがアランの《力》であった。

 大気を――風を司るもの。その名は――《青龍》。

(――見えた!)

 腐肉と腐汁の奥底に、四角い何かが浮遊している。《それ》こそがこのゲル状の怪物を維持している源だ。《それ》を守るべく《盲目のもの》はゲル状細胞を絶えず流動させ、その位置を変化させているのだ。《それ》を撃ち抜く為に必要なのは、針を突くような精密射撃。

『――くたばれイピカイェ化け物ファッキン・クリーチャー

 万感の想いを込め、アランは霊銃の引き金を引いた。



 ――ギィィ―――――――ンッッ!!



 龍麻の《螺旋掌》を一点集中したかのような光弾が、流動するゲル状細胞の僅かな間隙を潜り抜け、《盲目のもの》がぶら下げている胃だか心臓だか判らぬ袋状の器官をぶち抜いて反対側まで抜けた。壁に叩き付けられ、汚らしい粘液を引きつつ地上に落ちたのは、茶色に変色した表紙を持つ、恐ろしく古い装丁の本。――如月と裏密が同時に驚愕の声を放つ。それは伝説の魔書《アル・アジフ》。またの名を《ネクロノミコン》。

 次の瞬間――

「京一! 醍醐!」

「よっしゃ!」

「行くぞ!」

 急速に崩れて形を失う《盲目のもの》を中心に、正三角錘状に展開する結界!

『破ァァァァァァッッ!!』

 インドのヨガで伝えられる、人間に七つ(諸説あり)存在するというチャクラ。その中でも聖人のみが輝かせる事が可能だという頭頂部のサハスララ・チャクラ。宇宙と一体化して誘発される高次元エネルギーの爆発は、宇宙の構成元素から産み落とされた異次元の魔物にも痛打を浴びせ、それが本当にとどめとなった。



《ゴアアアアァァァァッッッ…!!!》



 《旧支配者》の眷属は抹殺する事ができない。だが、この次元に実体化するエネルギーの根源を破壊された《盲目のもの》は、急速にその汚物のごとき実体を蒸発させ、毒々しい血色の気体と化し、《鬼道門》へと吸い込まれていく。



《イヤ…ダ…。アノ暗闇ニ戻ルノハ…イヤ…ダ…!》



 それは明らかな、この次元における断末魔の悲鳴。Good byeと、龍麻は小粋に指を振った。

「Mission comp, ――See dreams」
(任務完了。――ネンネしな)



《ウオオォォォッッ…門ガ…門ガ閉ジル…暗イ…クライ…クラクラクラクラ――ッ!!》



 赤い霧は身をよじりもがき、必死になって《門》から離れようとしたが、圧倒的なまでの吸引力に細長く引き伸ばされ、《鬼道門》へと吸い込まれ、最後の一片までも無限の闇の彼方へと消えていった時、《鬼道門》は轟音と共に扉を閉じた。

 吹き荒れていた妖風が途絶え、瘴気が急速に薄れる。取り戻された優しい静寂。今回もまた、ぎりぎりで間に合ったのだ。

「やった―ッ! ボクたち、勝ったんだね!」

「うふふふふふ〜、その通りよ〜」

 張り詰めていた緊張を跳ね除けるようにはしゃぐ小蒔に、《ネクロノミコン》を抱えた裏密が保証し、手を取り合って喜ぶ女性陣。醍醐と紫暮は拳をぶつけ合い、京一がにやりと笑うのへ龍麻も頷いて見せる。裏密に《ネクロノミコン》を強奪された如月だけはちょっと渋い顔だ。

「――アラン」

 両親と、故郷の人々の仇を討った感慨を噛み締めていたアランは、龍麻が立てた親指と、《仲間》たちの笑顔を見た。

「…アリガトウ。ミンナ」

 そしてアランも、親指を立てた。







 瘴気の薄れた洞窟内で、肩を叩き合って喜ぶ魔人たちを、憎悪の眼差しで睨み付ける者がいた。

「…おのれ…! このままでは…九角様に申し訳が立たぬ…。せめて…誰ぞ道連れにして…くれようぞ…!」

 口から血を溢れさせながら呪いの言葉を吐いたのは、全身の傷から黒血を垂れ流しにしつつ、地面を這いずる風角であった。両腕は既になく、銃撃を浴び全身の骨を砕かれ肉を潰され、もはや死は目前であろうに、九角に対する忠誠心と、この世への憎悪の執念が彼を支えている。ミイラのようなしなびた顔の中では両眼がぎらぎらと怨みの炎を散らしていた。正しく――鬼。

「我が命を糧に…鬼道の力を見せてくれよう…!」

 ずわり! と、瘴気の薄れた洞窟内に、再びどす黒い《気》が立ち込める。風角が狙ったのは、最も恨み深き、こちらに無防備な背を向けている龍麻であった。

「風よ――ッ、斬り刻めッ、死ね死ね死ね死――ッ!!!」

 命の最後の炎を絞り上げた、執念の刃! その無数のカマイタチが龍麻に襲い掛かった。

 龍麻の身体が横に流れる。舞踊のごとき優美な転身。その手で冷たく光ったのは、グロック19。



 ――ドウンッ!



「がッ――! こづ…ぬ…様!」

 銃声は一発。だが着弾は二箇所だった。一発は風角の心臓を貫き、もう一発は眉間を撃ち抜いていた。龍麻並に速い、アランの早撃ちクイックドローであった。

「――Jack pot」
(――大当たり)

「――You’re not my match」
(――相手が悪かったな)

 事も無げに言い放ち、銃口から棚引く硝煙をふっと吹き散らすガンスリンガー二人。女性陣が、天野まで含めてポウッとなる。

「チッ、格好付け過ぎだっつ―の」

 やっかみをたっぷり込めて京一がぼやいた時、風角の死体が緑色の光の粒子となって宙に散華した。

「おっ、あれは…」

「水角の時と同じだ」

 色こそ違うが、水角を倒した後に変じたものと同じ珠。やはり光に透かすと、龍の姿が見える。

「何か意味があるのだろうな。とりあえず俺が持って――ッ!」

 龍麻がそれをポケットに収めた時、突如地面が鳴動し始めた。

「じ、地震!?」

「いや、あの時と同じだ! 崩れるぞ!」

「――総員直ちに撤退! 出口まで走れ!」

 龍麻がそう叱咤した時、彼の足元に亀裂が走った。

「タツマ! 危ない!」

 アランが龍麻を突き飛ばす。その瞬間、地面に底知れぬ巨大な地割れが生じた。しかし龍麻は助かったものの、アランが地割れの反対側に取り残されてしまう。

「アラン君!」

 葵が金切り声で叫ぶが、地割れはますます広くなり、いかに彼ら《魔人》をもってしても飛び越せないほどになる。そして洞窟の天井も細かい亀裂が走り、砂塵がさらさらと落ちてくる。――大地そのものが《鬼道門》を地の底に葬り去ろうとしているのだった。

「ミンナ! 早く逃げるネ!」

 もはや覚悟を決めたか、アランが亀裂の向こう側から叫ぶ。

「馬鹿言ってンじゃねえ! そんな事できるかよ!」

「キョーチ! ボクはもう助からない。デモ、ミンナは生き延びなければならない! タツマ! 早くミンナを連れて逃げるネ!」

「そんな! アランクンッ!」

 アランの寂しい笑顔に、小蒔の視界がぼやける。

「ツツツ、コマーキ。キミにそんな顔は似合わないネ。スマイル、スマイルよ」

 洞窟の崩壊は激しさを増し、ツララ石まで落ちてくる。もはや一刻の猶予もない。

「ッ龍麻!」

 どうするんだ!? という問いを込めて醍醐は彼を見た。

「お前達は先に撤退しろ」

「なッ!? 龍麻君!?」

 龍麻はコンバット・ベルトを外し、ACRもショットガンも捨てた。デッドウェイトになりそうなもの全てを外して地面に打ち捨てる。

「まさか! 跳ぶつもりか!? 無茶だ!」

 亀裂はますます広がり、既に一五メートル強! 人間が跳べる距離ではない!

 しかし龍麻は制止を振り切って走った。助走を付け、空中に飛び出す。

「龍麻ァ!!」

「ひーちゃん!」

 一気に亀裂の半分ほども飛び越したのはさすが魔人たちのリーダーだが、そこで龍麻の身体は重力に負けて落下し始めた。足元にあるのは底も知れぬ奈落のみ!

「龍麻!」

 葵の金切り声。次の瞬間、龍麻は右手を宙に突き出した。

「ええッ!?」

 龍麻の右袖からワイヤーが射出され、ハーケンが天井を捉える。龍麻の身体は振り子のように宙へと跳ね上がり、慣性の力が失われる寸前に龍麻は左手を伸ばす。そこからもワイヤーが射出。同様にハーケンが天井に刺さる。右袖の分は即座に抜け、ワイヤーが巻き取られる。

「――来い! アラン!」

「OK! タツマ!」

 龍麻が反動を付けて戻ろうとする時、アランは彼の両足首に掴まった。二人は振り子運動に従って亀裂を飛び越え、二度目で仲間の下へと着地する。

「凄いよタツマ! スパイ○ーマンみたいだネ!」

「許可する。もっと誉めろ。――即刻撤退!」

 なにやら間抜けな発言もあったが、わだかまりのなくなった一同は全力で洞窟を走り抜けた。この《鬼道門》もまた、永遠の眠りに付くのだ。そしてその眠りが二度と覚まされる事がないようにと願いつつ、龍麻たちは地上へと帰還していった。







「ふへえええ…最近ってやたらにこういう展開多くない? こんなんじゃ命がいくつあっても足りないよッ」

 あんな激戦の直後だというのに、足場の悪い洞窟を全力疾走させられ、もとの江戸川河川敷に戻ってくるなり、小蒔がそうぼやいた。

「ああ、まったくだ」

 醍醐も肩で息をしながら応える。ほとんどの者が地面にへたり込み、ゼイゼイと息を切らせていた。ほとんど――というのは、例外が三人もいるからだ。龍麻と如月、アランである。

「何だお前達。だらしのない」

 ピンと背筋を伸ばし、無情に告げる龍麻。あだ名が《鬼軍曹》から《少尉殿》に格上げされても、本質的には何も変わっていない。

「そ、それよりもさッ、あの《門》はもう大丈夫だよねッ?」

 すわ「訓練計画」を龍麻が持ち出す前に、小蒔が話題を逸らす。「ナイスだ小蒔!」と、京一他、へたり込んでいる全員がこっそりと親指を立てる。

「ダイジョーブ。あの《門》はもう開く事はないネ」

 小蒔の真意を知ってか知らずか、力強く答えたのはアランだった。

「あの《門》の位置関係からすると、《門》の真上にはゼンヨージがあるネ。ボクには聞こえマシタ。六百年もの間、たくさんの人の死を見てきた偉大な樹の声が…」

「…もしかして、《影向の松》の事? …そうね。あの樹なら封印の役割を果たしていたとしても不思議ではないわ」

 何の話やら判らぬ龍麻たちに、天野は説明を始めた。

 善養寺には《浅間山噴火横死者供養塔》がある。その周辺は一七八六年に発生した浅間山大噴火によって二千人以上の死亡者を出した。仮に現代のような消防施設や医療施設があったとしても、浅間山の九〇パーセント以上が吹き飛ぶという大噴火である。当時の人口と照らし合わせれば、それは凄まじい人的被害であった。そして天高く昇った噴煙により発生した冷害が、有名な《天明の大飢饉》を誘発し、トータルで数十万にも及ぶ人命が失われたのだ。噴火で焼け死に、灰に埋もれ、そして飢餓の果てに亡くなった人々や牛馬は利根川や江戸川を流れ流れてこの地に打ち上げられ、付近の村人達が手厚く葬り供養した。それが今の善養寺なのである。

 それ以降、供養塔建立に合わせて植えられた《影向の松》は、幕末の動乱や東京大空襲などにも焼けることなく、人の生死を静かに見続けてきたのだ。

「樹は言ってマス。有限モータルであるヒトが命半ばで死ぬのを見るのはmany many悲しいと」

 アランには樹の気持ちが判るという。南米の自然の中で育ち、風を《視る》事のできる彼だ。龍麻たちにとってそれは自然に受け入れられる事だった。――人も動物も植物も、この地球に育まれた命…家族なのだ。次元を異にする《敵》を退けた今、それは良く解る。

「ウン。ボク、なんかの本で読んだことあるよ。植物や動物、命のないものでも、長い年月を経ると魂や強い霊力を得る事があるんだって」

「それを日本では付喪神つくもがみと呼んで、妖怪の一種とされているけどね。だが、ヒトの優しい気持ちで大事にされたり、可愛がられたりしたものには、より美しく、気高い魂が宿るものだよ。――アラン君。君は《影向の松》の《影向》の意味を知っているかい?」

 小蒔の言を継いだ如月に、アランは首を傾げて見せる。

「《影向》とは、仏教の言葉で、神仏が仮の姿を取って現れ、あるいは姿は見せずとも顕現するという意味なんだ。君の大切な人々は既に五感では捉えられないかも知れない。しかしそれは必ずしも消滅してしまったという訳ではあるまい。君が彼らを忘れ得ぬ限り、常に彼らは君と共にある筈だ。――風と語り合える君なら判るだろう?」

「ヒスイ…」

 飛水流という、江戸=東京を護るという使命から、あまり積極的に人と関わろうとしなかった如月の言葉に、誰もが驚く。しかしアランは深く頷き、次いで龍麻を見た。

「タツマ…。タツマもそう思うデスカ?」

 アランの問いに、全員の注目が龍麻に集まる。

 彼は左袖を捲り上げて見せた。そこにあるのは、彼が最も誇りとするもの。そして最も大きな傷。――レッドキャップスの紋章エンブレム

「…俺は、《仲間》の名前すら知らん」

 龍麻は静かに言った。

「だが俺が生きている限り、俺達レッドキャップスは終わりではない。例えどのような汚名を着せられようと。――俺が言えるのはそれだけだ」

 それがどれだけ重い言葉なのか、アメリカ海兵隊にいたアランには良く判る。自分達が戦えるのは、共に肩を並べて戦う仲間がいるから。たとえ死しても、ほんのひと時でも語り継いでくれる仲間がいるから。

 アラメニシヤにおける悲劇の真相を、アランは知っていた。二五〇〇人に及ぶイナディール人を殺したのはレッドキャップスではなく、CIAの命を受けた傭兵部隊であったのだと。――紛争調停委員に加わった国務長官は、実はナバール人であり、アラメニシヤに赴いた本当の目的はイナディール人の根絶にあった。そのために彼はアメリカ空軍の一部を買収し、一発の巡航ミサイルを手土産に、アラメニシヤのナバール人大統領と結託した。

 レッドキャップスの任務は、この事が世間に知られる前に、第一級テロリスト認定された国務長官を暗殺、巡航ミサイルを回収する事にあったのだが、意外な…ある意味必然的なところから横槍が入った。それがCIAであった。

 レッドキャップスはアメリカ国防総省ペンタゴンに所属する合衆国統合特殊作戦群(US・SOCOM)、陸軍特殊作戦軍団(USASOC)の一部である。――空軍の失態を知られる訳には行かぬ国防総省は最も隠密作戦に適した部隊としてレッドキャップスに出動を発令。しかし巡航ミサイルがアラメニシヤに運び込まれ、国防長官がイナディール人反政府ゲリラに撃墜されたと装った事で、この一件を政治機密レベルで解決すべき問題だとしてCIAが介入したのである。

 ところが、ここにとんでもない裏があったのだ。――国務長官の陰謀は既にCIAの知るところとなっており、彼の計画である《撃墜を装う》という部分を《確実に撃墜》と書き換え、国務長官を暗殺しようとしたのである。しかしその計画に国務長官が気付いてしまい、計画実行寸前に巡航ミサイルともども国外脱出、アラメニシヤへの入国を果たしてしまった。実際に墜落したのは、慌てたCIAが計画遂行のためにでっち上げたもので、そこには薬で眠らされた不法入国者が乗せられていた。CIAの第二のミスは、《撃墜》が完全に行われず、人数合わせの為に乗せた不法入国者が二人、生き残ってしまった事であった。

 その生き残りが反政府ゲリラからアラメニシヤ政府の…国務長官の手に渡れば、アメリカは喉元に剣を突き付けられたも同然になる。そのためCIAは国務長官の暗殺と同時に、二人の不法入国者を始末する為に国務長官の当初の計画…イナディール人皆殺しを後押しする事になったのである。

 しかしCIAの計画の為には、巡航ミサイル回収を命ぜられたレッドキャップスが邪魔であった。もともと国防総省と中央情報局は犬猿の仲であり、それぞれの長官が大統領選出馬を考えていた折りだったので、双方が作戦を譲ろうとしなかった。そしてある男…国務長官のスキャンダルを望まぬ最高権力者の裁定によって、CIA側の作戦が採用されたのである。だがその時、既にレッドキャップスは出撃してしまっていた。

 そこからが、軍史に載らぬ暗部となる。既に事件の詳細を伝えられていたレッドキャップスはCIAに《危険分子》として捉えられ、イナディール人の殲滅時に共に抹殺される事になった。世間的には、勇敢な特殊部隊が国務長官の救出に赴き、無法な反政府ゲリラの自爆攻撃によって全滅したというシナリオで。

 計画は実行に移され、レッドキャップスを支援するという名目でCIAが送り込んだ傭兵部隊は、問答無用で反政府ゲリラの拠点である町を砲撃した。作戦変更を知らされていないレッドキャップスが、巡航ミサイルの回収を優先させる為に砲撃を中止させ、町に侵入、捜索を開始する事を見越しての事である。

 そして、レッドキャップスがその通りの行動を取った時、彼らはレッドキャップスが命令に背いて反政府ゲリラに組みしたと報告、そして《予定通り》皆殺し作戦に移行した。CIAは事前に用意していた工作員を使ってレッドキャップスを攻撃、イナディール人との戦闘に陥らせ、その戦闘の模様とレッドキャップス隊員の死亡を政治工作用映像として残し、国務長官の息の掛かった政府軍に情報をリーク、一斉攻撃を開始させた。

 何もかも旨く行けば、イナディール人は政府軍に追われるままに拠点のある町に集結し、あらかじめ町にセットされている、巡航ミサイルの核弾頭から造ったデザスター・ボム(核廃棄物爆弾)で二人の証人もろとも全滅する筈であった。その際に、政府軍の陣頭指揮を取っている国務長官を暗殺すれば、アラメニシアにおける作戦は終了。国際会議の場で、紛争調停委員会救出に赴いたレッドキャップスを壊滅させた上デザスター・ボムまで使用したアラメニシヤのEU加盟を否決して終了――となる筈だった。

 CIAの立てた計画における決定的な誤算は、レッドキャップスが強すぎ、優秀すぎたところにあった。

 レッドキャップスは当初の戦闘で二名の死者を出したものの、傭兵部隊による陽動作戦を見抜き、反政府軍と交渉。デザスター・ボムの無力化に成功後、国務長官暗殺の為に戦車一〇〇両からなる機甲部隊を有する政府軍と、その陰で国務長官暗殺を目論んでいた傭兵部隊に戦闘を挑んだのである。――その結果、尋常でない戦闘力を発揮したレッドキャップスは戦闘に勝利し、当初の計画通り、巡航ミサイルの回収と国務長官の暗殺を成し遂げたのである。その結果、アラメニシヤは反政府ゲリラが政権を取る事になり、血で血を洗う民族紛争に一応の決着が付いたのである。

 しかし、その勝利が彼らレッドキャップスを追い詰める事となった。

 政府にとってレッドキャップスはチェス盤の駒であり、最終的な国益の為の捨て石に過ぎなかったのだ。――アラメニシヤの民族紛争が決着してEU加盟が叶うと、ソ連の崩壊後に乱立した東欧諸国がEUに雪崩れ込み、ヨーロッパ全土に跨る一大経済圏が誕生してしまい、それはアメリカの得る利益を大きく損なう事になる。それなのにレッドキャップスは政府の思惑を無視して完璧に任務を成し遂げた。政府が望む時に死んでこそ優秀な駒であろうに、捨て石に過ぎぬ駒が丹念に作り上げたチェス盤を破壊して生き残ってしまったのである。

 アラメニシヤのEU加盟は多額の資金を投じた政治工作で阻止したものの、アメリカ政府がレッドキャップスに汚名を着せた事により、イナディール人によるアラメニシヤ新政府はアメリカへの不信を募らせ資金援助を拒否。ナバール人の政治参加を積極的に認め、両民族の共存共栄を模索し始めたのである。それによりアメリカはアラメニシヤにおける再開発事業と軍事産業の両面で、利益を上げる事が出来なくなってしまったのだ。

 政府は恐れた。レッドキャップスの存在を。自分たちが創り上げた殺戮妖精の戦闘力を。そして、自分達がレッドキャップスに《敵》として認識されている事を。

 その恐怖が後に、レッドキャップスにクーデター…自決指令を拒否し、生き残る為の闘いを起こさせる原因になったのだ。

 ――まったく、反吐が出るほどの陰謀である。それに巻き込まれ、汚名を着せられたままに全滅させられたレッドキャップス。かつてレッドキャップスと作戦を共にした兵士たちは彼らの無実を信じ、名誉回復を願っていた。――アランもその一人だ。だからこそこうして直接接触を試みたのだが…彼は、頗る強かった。

 彼は国に裏切られ、彼らを育て上げた上官に裏切られ、仲間を全滅させられた。しかし彼が生き続ける限り、彼らレッドキャップスもまた生き続け、彼と共に戦い続けるのだ。だからこそ彼は、弁明も弁解もしない。汚名など気にもしない。――レッドキャップスの名誉は、彼と仲間たちだけのものだからだ。



『〜When I die〜』



 川辺に腰掛けた龍麻の口から、静かな声が紡ぎ出される。――詩ではない。それは歌であった。京一たちには解らぬ、バンドマンの雨紋でさえ知らぬ、英語の歌だった。

 龍麻にこんな才能があったのかと驚く、甘いテノール。そしてどこか寂しい旋律。言葉の意味は判らないのに、酷く胸を打たれる歌だった。

 やがてアランも龍麻の隣に腰掛け、共に歌い出す。龍麻よりやや低い、しかし美しい声で。

「…如月君は、この歌を知っているの?」

 静かな旋律を邪魔せぬように小声で問う葵に、如月は頷いた。

「《もし俺が死んだら》という歌だ。兵士達の、特に傭兵達の間で歌われている歌だ」





――もし俺が戦場で死んだら

    故郷の皆に伝えて欲しい

      俺はベストを尽くしたと



  もし俺が戦場で死んだら

    可愛いあの娘に伝えて欲しい

      楽しい想い出 抱いて行くと



  もし俺が戦場で死んだら

    親しい友に伝えて欲しい

      銃に向かって俺は死んだと



  もし俺が戦場で死んだら

    俺の墓に名前はいらない

      ただ一人の男が生き 戦い

        死んでいったと刻んで欲しい





「アラン、お前はこれからどうするつもりだ?」

 龍麻がそう問い掛けたのは、歌が終わって数分後の事であった。

「ン〜、今のボクには叔父サン叔母サンがいる。除隊して、仇を取った今、二人を護るのがボクのこれからの使命ネ。だけど、やらなくちゃいけない事もある。もう、帰らなくチャ。――タツマなら、判ってくれるネ?」

「うむ…」

 同じ元軍人同士。誰も入り込めない間柄の会話であったが、そのどこかもの哀しげな台詞に小蒔が割り込んだ。

「そんな! アランクン、もう帰っちゃうの?」

「どうかしましたか? コマーキ?」

「だって…だってボクたち力を合わせて戦ったのに…これでお別れなんて寂しいじゃないかッ」

「そうだぜアランッ。俺サマたちは、力を合わせればあんなすげえ技が使えるじゃねェか。そんな寂しいコト言うなよ!」

 かつて小蒔に、同じ言葉で引きとめられた事のある雨紋も言葉を合わせる。他の仲間達も、おおむね同じ反応だった。アランは信頼できる、力強い仲間だ。仲間のために、命を投げ出すような真似までして見せたのだ。

「Oh、コマーキもライトも、そんな顔しないで下サイ。ボクはどうしても行かなければならないのデース」

「で、でも…! ねえ、ひーちゃんもなんか言ってよ!」

 出会いの時は最悪の印象だったらしいが、方陣技を通じて、アランの本当の姿を見た小蒔は食い下がる。小蒔はすがるような目で龍麻を見た。

「…小蒔。男には、どうしても行かねばならぬ時がある。アランは、今がその時だ。察してやるがいい」

「そんなあ…!」

 ほとんど泣き出しそうになる小蒔。いつもならここで茶々を入れるであろう京一も黙っている。葵も醍醐も紫暮も、アランを引き止めたい気持ちで一杯であったが、それが彼の選択ならばやむなしと黙るしかない。そして、如月は…

(おかしい…。彼が《青龍》ならばここを離れる筈は…。龍麻君は…違うというのか?)

 誰もアランの選択を拒絶しないと知り、小蒔の頬を涙が一粒流れ落ちる。一同の間に何とも寂しく、切ない空気が流れ――

「Oh、コマーキ。別れは辛いですけど、二週間だけネ。だからお願いデス。笑ってくだサーイ」

「へ…?」

 二週間だけ…!?

  「ソウダ! そんなに寂しいナラ葵も小蒔もボクにTELナンバー教えてくだサーイ! 葵も小蒔も寂しくないよう、ボク毎日TELしマース」

 重厚な雰囲気が一転、元のラテン青年に戻ったアランに、一同は目を丸くする。

「ちょっと待てコラァ! 何だその、二週間ってのは!」

「HAHAHA。キョーチ、なにを怒ってるネ?」

「アラン…。俺もその《二週間》の意味を聞きたいのだが?」

 泣いてしまった小蒔のこともあって、醍醐がちょっぴり怖い顔で前に進み出る。なまじ実直な紫暮は、何が起こっているのか気付いていない。裏密に至っては《ネクロノミコン》に夢中で周囲の事などどこ吹く風だ。

「Oh、醍醐も一緒に来マスカ? それにシグレも。醍醐ならタイ○―マスク、シグレなら世紀末覇者ラ○ウがぴったりネ」

「おお、言われてみれば確かに…」

 脇で納得したように頷く龍麻。

「あの…龍麻。二週間って、何なの?」

「うん? 決まっているではないか。来週ニューヨークで行われるCF(キャラクターフェスティバル)の事だ」

「…………」

 CF…言わばアメリカ版のコスプレ大会の事である。シン、となる一同。続いて何やら、一同の背後に「ゴゴゴゴゴゴゴ」と書き文字が立ち昇っている。

「アメリカでのイベントは金にあかせているという批判もあるそうだが、盛大だと聞く。一度目にしてみたいものだが、場所も時期も問題なのでな」

「Oh、タツマ。ボクも残念ネ。タツマがいればスパイ○ーマンをライブでできるのに…」

「まったく残念だ」

 場の空気をまったく理解せず、そんな事を話し合うオタクが二人。

「…すると、アラン君。これからも私たちと一緒に戦ってくれるの? 龍麻も――承知の上?」

 何故か、にこにこと笑いながら話し掛ける葵。

「うん? 決まっているではないか。アランは優秀だ。そしてお前たちと同じく、信頼できる」

「HA−HA−HA。陸軍アーミー海兵隊マリーンは仲悪くても、ボクとタツマはムリのシンジューデース。今度は、ボクがタツマをHELPする番デース」

 互いに肩を叩き合って笑う元陸軍特殊部隊と元海兵隊。滅多に見られぬ、龍麻の貴重な笑顔なのだが…。

「…それを言うなら《無二の親友》だよ。――さて、僕は店があるのでね。これで帰らせてもらうよ」

 ――気にするだけ損したな、と小さく呟き、さすがは忍者。一陣の風と共に如月は姿を消した。

「む? どうしたのだろうか、如月は? ――うん? 小蒔、何をしているのだ?」

「ヘイ! コマーキ。弓を人に向けると危ないネ」

「それに京一、その木刀は何だ?」

「ライト…顔が怖いネ。スマイル、スマイルよ」

 そんな二人の態度に、グシッ、と鼻水をすする小蒔。

「何だよ…。本当に…これでお別れかと思ったんだゾ…!」

「…俺サマも小蒔サンに一票」

「なあ〜に、ちょっとここでオタクを二人ばかり退治しようかと思ってよ…」

 各々武器を携え、龍麻とアランに詰め寄る。醍醐が天を仰ぎ、紫暮は難しい顔をして腕組みをした。そしてなぜか葵と裏密は、笑っていた。

「た、タツマ。ミンナどうしたネ!? 何で怒ってるネ!?」

「いや…俺にも判らんが…!」

 先陣を切ったのは京一であった。

「――くたばれ! オタク小僧ォ!」

「おおッ!? 《スパイ○ーネット》!」

 龍麻の右袖口から飛んだネットが、京一、雨紋、小蒔を絡め取る。

「わッ! なにコレッ!」

「うおッ! 卑怯だぞ!」

 ネットにこんがらがって土手を転がり落ちる三人を尻目に、龍麻はだっと身を翻した。

「た、タツマ! どうするネッ!?」

「判らん! とりあえず戦略的撤退!」

 ほんの十数分前の死闘はなんだったのか、まるっきり緊張感も何もなく、龍麻とアランは泡を食って逃げ出した。その後を、ネットから抜け出した京一たちが罵声を上げながら追う。真っ赤な夕日の中をもつれ合いながら遠くなっていく影は、ごく普通の少年達のものであった。

「本当…事件を解決したら瞬時に子供に返っちゃうのね」

 困ったような顔で、しかし天野は楽しそうに笑った。龍麻にとって過去は過去であり、忘れはせずとも、そこに縛られてはいないのだと解ったからだ。

「あれで良いんだと思います。きっと」

 そう言って、葵も微笑を浮かべた。

 川面を渡る風は、いつの間にか頬に心地よい涼風へと変わっていた。







 東京、赤坂、某ホテルのレストラン、二一〇〇時



「…そう。江戸川の事件はそれで解決と見て良い訳ね」

「ええ」

「《鬼道衆》…時代錯誤な名前だけど、どうやら本物のテロリストのようね。しかも江戸時代から続く怨恨に、忍者に、《鬼》ですって!? そんなのが相手じゃ、確かに警察の領分じゃないわね」

「やっぱり…警察は動けない?」

「残念ながら、ね。でも、いくら荒唐無稽で科学的根拠がなくても、現実に人が死んでるんだから、もう少し真剣に動いても良い筈だったのよ。それなのにこれほど組織としての動きが鈍いって事は…解るでしょ?」

「…誰かが警察の動きを鈍らせているのね」

「もしくは組織、連合がね。まだ断言するには早いけど、政治や司法の世界に跨るカルト的性質を持つ組織が育ちつつあるようよ。それが《シグマ》構想という先鋭思想になって蔓延しているというか…空気が妙にギスギスしているのよね。権力闘争も以前の比ではないわ。誰が味方で誰が敵なのか、当事者たちでさえ解っていないみたいよ」

「まったく…そんな場合じゃないって言ってやりたいわ。あの子達は死ぬような思いをしてこの東京を守っているのに…」

「本当。《ボウヤ》たちの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわね。――でも、コトはこの東京だけに留まるかどうか…」

「どういう意味?」

「この数ヶ月の内に異常な事件が起こっているのは東京だけじゃないって事。ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン…世界の主要な都市では少なからず似たような事件が発生しているわ。逮捕者を調べた限りでは組織的な繋がりを見出す事は出来なかったんだけどね。ただ、揃って口にしているのは《刻は近い》っていう事」

「《刻は近い》…。どういう意味かしら?」

「意味はまだ解らないわ。でも、世界の宗教関係者の中にもこれと同じ文句を口にする者が増えているようよ。シンクロニシティを信じる訳じゃないけど、何かがこの世界に起こっている事は確かね。このところIFAFからの打信も頓に増えてきているし、それに対して政治家たちがやけに強気なのも気になるわ。――なんだか全体像が大きすぎて、まだ何も見えてこないって状態ね」

「…同感」

「――まあ良いわ。当面、その《鬼道衆》って連中とやりあえるのが《ボウヤ》たちしかいないなら、アタシとしても陰ながらできる限りの協力はするわ。――勿論、未成年者のボランティアばかりに任せておくつもりもないわよ。警察が無能じゃないって所を見せてあげるわ」

「――ありがとうございます、南雲春奈警視正殿」

「いえいえ、貴重な情報をありがとう。フリールポライターの天野絵里さん」

 そして学生時代からの旧友二人は、《彼ら》の勝利を祈って乾杯した。







 第九話 鬼道 4    完



目次に戻る    前(鬼道 3)に戻る   次(変生(前編)1)に進む    コンテンツに戻る