第九話 鬼道 2





 
「…食べながらで悪いけど、これを見てくれるかしら?」

 夏の日差しで凍結の解けた京一がやっと元に戻り、おとなしくラーメンを食べ始めたところで、天野は今日の日付が入った新聞を三人の前に差し出した。

「…江戸川の事件ですね」

 季節限定、特盛り冷やし中華に挑みつつ、醍醐が記事を読み上げる。

「――江戸川区で連続猟奇殺人事件発生中。被害者はいずれも十代後半から二十代前半の若い女性。いずれも頸部損失。犯人の手がかりはいまだ不明――」

「…これが殺人事件でなければ、京一を警察に突き出せば終わりなのだが」

「ひーひゃん! ばびばふぁな事いっひぇんだひょ!」

 口に麺を詰め込んだまま喋る京一からガタガタとテーブルを離す龍麻と醍醐。天野もそそくさと椅子ごと移動する。天野も馴染みやすい性格らしい。

「この事件のポイントはね、まず首が切断され、持ち去られている事。そして、遺体があまりにも不用意に発見されるって事なのよ。強いて言うならば屋外限定だけれども、川辺で散策していた人、信号待ちをしていた人、中には、喫茶店のカフェテラスでお茶を飲んでいた人。それが瞬きした次の瞬間には首なしで殺されていると言うの。――あるカップルの場合は酷かったわ。その彼氏は首のない彼女と数メートル一緒に歩いたっていうのだから。――衆人環視の中、瞬間的に首を切断して持ち去る…どう考えても常人には不可能よね」

「警察の見解は?」

 最初から宛てにはしていないと判る口調である。リアリズムの世界である警察は、この現象さえも理屈で考えようとしているだろう。――極一部を除いては。

「これまでの事件と同じよ。犯人はあくまで人間と見ているわ。だけど検死結果に付いては興味深い話があるの。切断面から推察される凶器は刃物にあらず、かと言って熱やレーザー光線でもない。内側から外側に向けて皮膚を裂くものは――」

「…真空の刃。日本では《かまいたち》と言えば判りやすいか」

 おそらく天野は、龍麻ならそう答えると踏んでいたのだろう。満足そうな笑みを作った。

「…さすが…。龍麻君は私の言わんとしている事を理解してくれたみたいね」

「…どういう事だよ、ひーちゃん?」

 この辺りは、一般教養しかない京一や醍醐の出る幕ではない。そこで天野が簡単に説明する。

「《かまいたち》と言うのは、北海道のような寒い地方で冬場に稀に見られる現象なの。気候の変動で空気中に真空が生じた時、これに触れた人体の一部が気圧変化に耐えられず内側から裂けるのよ。昔の人はそんな科学的解釈ができなかったから、これに《かまいたち》という名をつけたの。それが、いわゆる自然現象としての《かまいたち》の定義よ」

「…すると、自然現象でない場合と言うのは…?」

「それは私より、龍麻君の方が詳しいんじゃなくて?」

 自分に関われば自らにも危険が降りかかるというのに、天野は龍麻の調査をあきらめなかったらしい。珍しく龍麻は苦笑して言葉を継いだ。

「《かまいたち》――真空把を武器にする事自体は珍しい事ではない。むしろ裏世界の更に裏――魔術や呪法を能くするものにはポピュラーな技だと言っていい。ドルイド系精霊魔術ではエア・エレメンタルを使役するし、日本には《飯綱の法》という術がある。妖怪の類では天狗も有名だな。そして最近では、未確認生物――UMAの一種である《スカイフィッシュ》こそが《かまいたち》の正体だという説もある。――まあいい。俺には心当たりが一人、いや、一匹いる。鬼道五人衆の一人、風角だ」

「鬼道衆!?」

 思いがけずその名が出てきた事で緊張する京一と醍醐。このいささか時代錯誤な名前とは裏腹に、やっている事は並みのテロリスト以上にたちの悪いテロリストだ。特定の個人を狙って国家や政府の転覆を図るのではなく、不特定多数の市民――この東京そのものを壊滅させようなどという連中だ。話だけ聞けば冗談に聞こえるかも知れないが、彼らは実在し、自分達はこれと戦った。そしておそらく向こうも、こちらを敵と見なした筈。

「しかし、風角ってのは何だ?」

 龍麻と共に一番多く戦ってきた京一や醍醐にしても、風角と名乗る者と遭遇した事はない。当然の疑問であった。

「奴らは自分で五人衆の一人だと名乗った。今まで姿を見せたのは炎角に、水角。――如月から聞いたのだが、仏教や陰陽五行説によればこの世界は五天輪――すなわち、《地》、《水》、《火》、《風》、《空》の五つから成り立っていると言う。恐らく奴らも、それぞれの属性を帯びた名を冠しているはずだ。風角はまず間違いない。残りは地角か土角か、岩角。空角…は少しおかしいが、属性を考えると天角、雷角と、まあ、その辺りだろう」

「あんな連中が他にもいるって事か…面白え。腕が鳴るぜ」

 聞きようによっては不謹慎極まりない発言だが、今の京一の顔つきは普段のおちゃらけた彼のそれではなくなっていた。

 鬼道衆と戦う――これを決めたのは、他でもない彼ら自身だ。一人一人が己の存在意義と《力》に悩んだ果てに行き着いた答えだ。そして何より、あの炎角! あの男は死蝋の研究所もろとも、比良坂兄妹を焼き殺している。事もあろうに、彼ら一同の目の前で!

「話というのは、この事件の調査に力を貸して欲しいという事なの」

 三人の意を汲み取り、天野が代弁する。

「今はまだ推測の域を出ないけど、これが鬼道衆というテロリスト集団の起こしている事件なら、残念だけど警察は無力よ。若い女性の首だけを切り取って持ち去るという手口から、マスコミもこぞってこの事件を取り上げているけど、誰も真相までは手がかからないでしょうね。そして大人たちは誰一人知らぬ間に、この東京は…」

「壊滅する――か」

 難しい顔をして醍醐が唸る。これを三ヶ月前に聞いていたならば、何を馬鹿なと笑い飛ばしていただろう。一ヶ月と少し前でも、そうだったかもしれない。しかし、死蝋の一件といい、港区の事件といい、既に冗談事では済まなくなりつつある。前回の事件では、現実に異世界の《神》の眷属と戦う羽目になったのだ。《あれ》の復活を阻止できなかったら、既にこの東京は海の底に沈んでいたかも知れないのだ。

「けどよ…」

 神妙な顔を維持したまま、京一が口を開く。

「今回の一件がヤツラの仕業として、首なんぞ集めて何をしようってんだろうな?」

 普段の彼からは想像できない鋭さに、天野は少し京一を見直した。なぜ《少し》なのかは、ついさっき、京一の馬鹿さ加減を目の当たりにしてしまったからだ。

「私もその点には注目しているわ。確か鬼道衆は港区の事件にも深く関わっていたのよね。そして増上寺の地下にある《鬼道門》を開こうとしていた…と」

 あの《門》の向こう側に潜むものの気配を思い出し、京一と醍醐はブルッと身を震わせた。もし《門》が開かれ、あの気配の主がこちら側の世界に姿を現していたら…。

「…今までにああいった《門》が開いた事ってあんのかよ?」

 いかに水岐が《力》の持ち主だったとは言え、《門》は感覚的にはたやすく開きかけたのである。京一の疑問ももっともだった。

「世界各地に点在する《門》が開いたという記録はいくつか残されているわ。私が…と言うよりマスコミに情報が流れたもので一番新しいのは、八年前に南米の小さな村が消失した事件かしらね。やっぱりその辺りは、龍麻君の方が詳しいと思うけど」

 全員の目が龍麻に注がれる。龍麻は珍しく、話すべきかどうか少し迷った。

「一九四七年九月にラバン・シュリュズベリイ博士がアメリカ海軍を動かして南太平洋ポナペ島沖合いに出現した通称《黒い島》を核攻撃させて以来、《奴ら》は沈静化していたが、ここ十年ほどの間に《奴ら》の活動は再び活発になってきている。イハウエラは最悪の例だが、他にもムルロワ環礁に於けるフランスの核実験やコロラドで起こった宗教団体の集団自殺も少なからず《奴ら》が関わっている」

 マスコミの世界にいる天野でさえ、その断片たりと知りえなかった情報に一同は青くなる。だが龍麻は、更に恐るべき事を告げた。

「今、天野殿が言った事件は間違いなく《奴ら》が仕掛けたものだ。我々レッドキャップスが初めて実戦投入された事件だ」

「なんですって!?」

 思わず大声を上げてしまい、天野は慌てて周囲を見回す。幸い、ここのラーメン屋は味は良いのに客は少ないという店だ。部外者は主人しかいない。

「それじゃ龍麻君は、あそこで何が起こったか知ってるの? 新種ウイルス説っていうのはやっぱり嘘?」

 気負いこんで聞く天野に、しかし龍麻は首を横に振った。

「我々にも何が起こったか詳しくは判らなかった。ただ、村を中心に半径三キロ圏内はあらゆる動植物が変貌し、遺跡発掘に携わっていたネオナチも村人も全員死亡した後、化け物となって生き返ってきた。生存者は一人。作戦開始後二時間で我々は撤退し、B−1で気化爆弾を投下、全て吹き飛ばした。それきり異常事態は収まったから、ネオナチの言っていた《目覚めしもの》は再封印されたのだろう」

 龍麻の口から淡々と語られる生々しい真実。口では《真実の追究》を唱える天野も、すぐには二の句が次げなかった。この少年…緋勇龍麻は八年前――十歳に満たぬ頃から《奴ら》と戦っていたのだ。

「…すると何か? そういった《門》の位置さえ判れば、後は開け方だけ知ってりゃあんな化け物を呼び出せるって事かよ?」

「肯定だ。当然、その手段は恐ろしく複雑で厳密な計算に基づいて行われる為、並の者には行使不可能なのだが。そして多くの場合、《神》に捧げられる生贄は処女もしくは童貞の心臓や首などが望まれる。南米の事件ではあと僅かで召喚儀式が完成するところに俺が乱入した事で生け贄の子供を殺し損ない、《奴》の完全な覚醒を妨げたようだ。――我々としては任務に成功したのかしないのかはっきりしない結果であったのだが」

 最後のところで少し表情を難しいものにする龍麻。天野にしてみれば《奴ら》…旧支配者に関わるものの呼び出しを阻止した事は、それこそ全人類が諸手を挙げて感謝しても良い事だと思える。それなのに龍麻の反応は…?

「――どういう事だ? 龍麻。今、《俺たち》と言わなかった様だが、その儀式とやらにはお前一人で乗り込んだとでも言うのか?」

「うむ…」

 龍麻の記憶は、一挙に八年前の南米へと飛んだ。







 新月に加え、夕闇が深まるほどに墨を流すように広まった暗雲が星明りさえ遮り、真の闇に閉ざされた空を、エンジンを切って滑空している一機の軍用機があった。

 ロッキード社製C−130ハーキュリー。些か古いながら現在も第一線で物資、人員の輸送に活躍している輸送機である。しかしながらこの機体には最新鋭のECM(電子撹乱装置)が搭載され、機体表面をくまなくステルス素材で覆っている。そして今、航空灯を消し、エンジンを切って滑空飛行している状態では、いかなる探知システムをもってしてもその存在を知る事はできない。

 その内部では、既に十四人の兵士が降下ポジションに整列していた。機の内部は既に減圧済みで、兵士は小型のボンベから酸素を供給されている。

『―――降下ポイントまで後一分』

 C−130の後部ハッチが開かれる。気圧の変化はないものの急激に空気が吸い出され、体重の軽い兵士たちは手すりに掴まって空気乱流に耐えた。

『Hell’s  gate  open。』

 インカムを通して、冗談めかした《少佐》の声が届く。

『Well  come  to  war.  ――これがお前らの初舞台だ。栄えあるアメリカ軍史上最強部隊として相応しいのは自分たちだと証明してこい!』

 機内のランプがレッドからグリーンへ。

『――降下!』

 ナンバー0を先頭に降下開始。一歩外に飛び出せば、そこは果てしなく広がる暗黒の世界であった。空は闇に閉ざされ、下界にも光の類は一切ない。敵の探知を逃れる為に、高度計や速度計を確認する事も禁じられていた。これほどの闇夜となると星の光を増幅するスターライト・スコープすら使用不能だろうが、逆に光源があった場合、それが二キロ先の煙草の火であっても見つけ出す事が出来る。

(二五…二六…二七…二八…二九…開傘用意)

 高度千メートルで開傘し、ラムエア・キャノピーを操縦しつつ湖に降下。そこから水中を一五キロ泳いで敵の陣地に侵入、破壊工作を行う。――初任務としての難易度はCクラスであると《少佐》は言っていた。当面の敵であるネオ・ナチス…第三帝国復活を掲げる中規模テロリストの部隊は歩兵が五〇人ほどのゲリラ部隊である。精鋭ではあるが、装備はやや貧弱であるとの情報が出ている。何事もなければ、レッドキャップスの敵ではない。

 何事もなければ――だった。

 降下開始から正確に一分後、彼…ナンバー9は開傘コックを引いた。

(――!?)

 開かない!?

『――ナンバー4、ナンバー9。パラシュート開傘せよ』

インカムからナンバー0の声。彼だけは超音波式の暗視装置を装備している。

『ナンバー4。パラシュートに不具合発生』

『ナンバー9。パラシュートに不具合発生』

 手探りでパラシュートの状態を確認。しかし潜水装備が邪魔をして、不具合の発生している場所まで手が届かない。

『ナンバー0より4、9へ。スペアを開傘せよ』

『了解』

 パラシュート不開傘の確率は三十万分の一だという。数値的にはゼロに近い確率だが、空挺装備には必ずスペアのパラシュートが用意されている。こちらはただ落下速度を減じる為の通常仕様だが、これで命が助かるのであれば文句を言う奴はいない。

 しかし、こんな場合は!?

『ナンバー4。スペア開傘不能』

『ナンバー9。スペア開傘不能』

 こんな事が起こり得るものか、二人の予備パラシュートの開傘コックは根元から抜けてしまい、無用の長物になってしまったのだ。

『ナンバー11。不具合原因を確認。ナンバー4、ナンバー9、減速姿勢を取れ』

 ナンバー4とナンバー9は両手両足を大きく広げ、空気抵抗を大きくする。それでも稼ぎ出せる時間は数秒だ。《鷹の目イーグルアイ》ナンバー11が赤外線スコープを使って二人の背中を捉える。するとそこには何故か、小さなダイヤル錠が取り付けられ、パラシュート開傘を阻害しているのが確認できた。

『ナンバー11よりナンバー0。不具合原因を発見。――発砲許可願う』

『許可する。――ナンバー0より4,9へ。高速降下姿勢を取れ』

『了解』

 共に落下中。それも片方はパラシュート付き、もう片方は自由落下中という常識外れの条件下での狙撃を許可するナンバー0。限界高度到達まであと三秒! そこで更にナンバー4とナンバー9は頭を下に、高速降下姿勢を取った。地上二八〇メートル、限界高度を割った次の瞬間――



 ――バスン! ドシュ!



 背中ギリギリに高速飛行物体を感じたと同時にパラシュートが開傘し、強烈なショックが二人を襲った。この闇夜の高速降下中に、ナンバー11は二人のパラシュートを縛めていたダイヤル錠を撃ち飛ばしたのであった。

『――ナンバー4、ナンバー9、体勢を立て直せ。地上降下後、予定通り、降下地点へと向かえ』

『了解』

 二人の危機を救ったナンバー11に対する賞賛も礼もなく、ナンバー11自身も何も言わない。――彼は必要な事をしただけだ。無言のまま開傘成功させた他の隊員が去っていくのを、ナンバー4もナンバー9も無感情に見送る。――何者かによる妨害工作が行われた事は明白だが、誰もそれに付いて触れない。――無事だったからだ。

 しかし――間もなく着地というところで、ジャングルの梢が激しく揺らめいた。

『――ナンバー4、三時方向に注意。――突風だ』

『回避しろ。ナンバー9』

 二人は思い切り急制動をかけ、突風の回避を試みる。だがそれは突風と言うより、何かの衝撃波のようであった。幅一〇メートルほどの溝が次々にジャングルに走り、しかしそこ以外は枝葉がそよとも揺らがない。――なんだこれは!?

 その突風の一つが、ナンバー4をその顎に捉えた。

『ナンバー4! 対衝撃姿勢!』

 ナンバー9はサイレンサー装備のヤティ・マティックを抜き様、風を受けて大きく膨らんだナンバー4のパラシュートに向けて発砲した。三〇連マガジンをまるまる消費し、パラシュートをずたずたに引き裂くと、ナンバー4はタイミングを見計らってナイフでハーネスを切断、自分の意志で密林に落下する。

 ナンバー4はレッドキャップスで最高の運動性能を有する。彼が木の枝にうまく降り立ったのを確認した途端、ナンバー9にも突風が襲い掛かった。

『――ッッ!!』

 急激な加速に伴うGがナンバー9の視界をブラックアウトさせる。彼は風に翻弄され、ヤティ・マティックとインカムを吹っ飛ばされた。なんとか態勢を立て直そうとするものの、装備の重さと自身の体重のなさが致命的であった。ナンバー4はあっという間にジャングルの彼方に消え去り、着地点である湖も飛び越え、ナンバー9は成す術もなく空中を吹っ飛ばされていった。

 このままでは敵の警戒ラインに飛び込んでしまう。そうと知りつつ、ナンバー9には何も出来なかった。やがて湖に注ぎ込んでいる川の上流…ジャングルにぽっかりと開いた広場に、無数のかがり火と人の姿が見えてきた。激しく打ち鳴らされるトムトムの原始的な調べも耳に届いてくる。

 だが――これはなんだ!?

 かつての巨石文明の名残らしい、石造りの祭壇の前に、無数の杭が立ち並び、そのどれにも恐ろしい力で引き裂かれたとしか思えない、かつて人体であったと思しき肉塊がぶら下がっている。そしてその周囲では、地元のインディオと思しき裸の男女が獣のような声で喚き、手足を振り回し、跳ね回り、踊り狂っている。人間の獣性を思う様露呈したかのような、激しい狂気に満ちた踊り。さらに彼らは踊りながら互いに手にした鞭で打ち合い、全身を血まみれにしながら、なお恍惚と、天に向かって太古の呪文を唱え上げる。



 ――ハスタア! ハスタア! クフアヤク・ブルグトム! アイ! アイ! ハスタア…!



 既に儀式はクライマックスを迎えているようだ。その呪文が声高に唱えられると、中央の祭壇で燃え盛る炎が血の色に、時に紫に変色して夜空を焦がす。――かがり火のさらに外周で銃を手に儀式を眺めている兵士たちも、心なしか震えているようだ。ぽっかりと開いた祭壇の入り口。その奥からは地球上のどんな獣とも似ていない、なにものかの唸り声が響いてくる。そして、耐えがたい腐臭を乗せた風。それが哀れな犠牲者の周囲で渦巻き、滴る血を巻き上げ、空気そのものを血と臓物で染めていくのだった。

 と、その時、祭壇に乗せられていた子供に向かって石のナイフを振り上げた神官らしき人物が顔を上げた。そして、やっとパラシュートのコントロールを取り戻したナンバー9と視線を鉢合わせた。

 神官が何かを叫ぶ。おそらく「殺せ」と言ったのだろう。眼前で行われる儀式の凄まじさに気死していた兵士達が慌てて銃を構え直す。

 しかし、ナンバー9の着地地点がまずかった。

 操縦式のラムエア・キャノピーとは言え、自在に空を飛び回れる訳ではない。着地を急いだナンバー9はパラシュートのハーネスをナイフで切断したのだが、落下地点は事もあろうに祭壇の真上であった。兵士達は一瞬、撃つべきか否か迷い、神官は振り上げたナイフをどこに下ろすべきか躊躇した。次の瞬間――



 ――ゴウッ!



 一体何が起こったものか。祭壇の入り口から吹き出した凄まじい突風が、物理的圧力をもってナンバー9に、神官に叩き付けられる。踊り狂っていた男女も、銃を構えた兵士も薙ぎ倒され、吹き飛ばされた。

 そして、そこから《何か》が這い出してきた。

 石の祭壇に深々と食い込む、クレーンのフックを研ぎ上げたかのような爪! その部分はどう見ても硬質なものなのに、そこから伸びている腕とも足とも知れぬものは絶えず流動し、不可思議な紋様を描きつつ脈動していた。



 ――《勝率〇パーセント。即時撤退》



 ナンバー9はそのように判断したが、神官の叫びが次の行動を決定付けた。

『は、早く生贄を! 我らの手で生贄を捧げぬと、神は我らをも…!』

 絶えず光が明滅するゲル状の触手が祭壇に伸びる。その先端の鉤爪が生贄の子供を掴み取る直前、ナンバー9は子供をひっさらった。鉤爪は目標を失って祭壇に突き刺さり、石を粘土よりも容易く抉り取った。



 ――グモォォォ…



 暗黒口から聞こえてきたのは怒りか困惑か? 次の瞬間、暗がりからまたも突風が吹き出してきたところを見ると前者であろう。

 無論、そんな事には構わず、ナンバー9は生贄の子供の手を引いて走り始めた。事前情報によれば、儀式の遂行は古来の方法に則って忠実に行わなければならず、生贄が一人足りないともなれば絶対に儀式の成功はありえない。絶対的な恐怖の虜となっていた少年も、文字通り天から降って来た生への希望にしがみつき、必死に付いて来る。

『追え! 逃がすな! 早く生け贄を捧げるのだ!』

 神官の叫び声が響くが、祭壇からの突風は続いており、兵士達も顔を上げられない。しかしナンバー9と少年の周囲だけはなぜか突風が避けている。否、二人の周囲には竜巻状の風が激しく吹き荒れているのだが、それが祭壇からの突風と相殺し合っているようだ。

 考えてみればこれも異常な事態だが、そんな事に構っていられない。ナンバー9は少年を伴って川縁まで走り、そこに係留されていたモーターボートに飛び乗った。南米のジャングルでは川が通行手段となる。――基本知識だ。

 エンジンは一発で始動し、ナンバー9は最高速度で川を下り始める。湖まで出れば、対岸にはレッドキャップスの仲間がいるのだ。一刻も早く彼らと合流しなければならない。そしてそうはさせじと、数台の水上バイクが五〇メートルほど遅れて追いすがってきた。

 だが、突如として視界が真っ赤な光に包まれた。

 彼らの後方、祭壇のあった辺りで何かが爆発したかのようであった。空に向かって真紅の光が広がっていく様は核爆発を思わせた。――が、音はなく、爆風も来ない。その代わり、数万数十万もの赤い光の玉が意思あるもののように乱舞し、こちらに向かって飛んできた。

 大きさはテニスボールほど。しかし、速い! 追い付かれる! そして――危険だ!

 ナンバー9はサイレンサー・バレル装備のルガーを抜き、発砲した。

「ッッ!?」

 銃弾に貫かれた《それ》は怯む様子は見せたものの、すぐに立ち直って追いすがってきた。それが一〇メートルにまで接近してきた時、ナンバー9は《それ》に人間を酷く戯画化した目鼻が付いている事を知った。

 いわゆる悪霊…スピリットというやつだ。――現代科学では未だ推測の域を出ないが、《霊》と呼ばれる一種のエネルギー体は、年月を経るほどに土地の磁場や微量な宇宙線、その他ありとあらゆるエネルギーを吸収同化することで強力になっていく。その初期段階では生前の姿を克明に残している場合が多いが、エネルギーの吸収同化が進むにつれて精神領域が曖昧になり、その精神状態に相応しい姿に変貌を遂げるという。

 見よ。もはや夜空を埋め尽くすほどに乱舞する光の玉は、遠目には美しい光景でありながら、近くにいる裸の男女やネオナチの兵士たちに襲い掛かり、その身体に次々と潜り込んでいくではないか。

 そして、変貌が始まった。

 《人》という種が人外に変わる瞬間。ある者は全身から針金のような剛毛を生やし、またある者は手足が細長く引き伸ばされ、人型のカマキリかクモを思わせる形状へと変貌する。兵士たちの変貌は更に凄まじかった。肉体のみならず、手にしていた銃やナイフ、弾丸に至るまで、いびつに溶け合い、交じり合い、奇怪極まる融合を遂げる。

 こんな奇怪なものを《生物》と称するのは生命に対する明らかな冒涜だ。しかし否定しようのない事実――走って逃げるナンバー9と生け贄の少年を見据える目には、生物にしか有り得ぬ意思…《飢え》が刻み込まれていた。



《贄ェェ…!》



 生まれたての《怪物》――もはやそうとしか呼べない――が一斉に手を、触手を、鉤爪を伸ばす。――見れば水上バイクすら、赤黒い臓腑のようなものが蠢く奇怪な《怪物》に変化しているではないか。

「ッッ!」

 《怪物》が宙に跳ねた。イルカにも似た優美な跳躍は、どこか奇怪な軌跡を描く。狙いは――生け贄の少年だ!

『右にかわせ。ナンバー9』

 インカムに聞き慣れた声が響くや、ナンバー9は一歩間違えれば転倒必至の速度で急旋回した。次の瞬間、傍らを走り抜けていく衝撃波!



 ――ドボォッッ!!



 ドブに石を叩き込んだような音と悪臭! ナンバー9はとっさに息を止めたが、少年は間に合わずにそれを嗅ぎ、胃の中身を水面にぶちまけた。そのままバランスを崩して湖に落ちかかるのを掴み止めるナンバー9。

『腕を掴め!』

 この地方の公用語であるスペイン語で命じると、少年はのろのろと手を伸ばしてナンバー9の袖を掴んだ。しかし嘔吐感は止まらないのか、涙を流しながら胃液まで吐き散らす。この臭気…まともに吸い込めば発狂すらあり得る。

 片手運転の為スピードの余裕がなくなったモーターボートに、新たな《怪物》が肉迫する。

『ナンバー9、十一時方向の水路に飛び込め。――頭を上げるな』

 ナンバー0の叱咤。その意味するところを知ったナンバー9は少年を座席に引きずり込み、思い切りスピードを上げた。モーターボートが波を切り裂いて走るのに対し、《怪物》はアメンボかミズスマシのように水面を駆ける。スピードの差が段違いなのはそのせいであった。そして遂に、その触手が届く距離に達した瞬間、モーターボートは指定された水路へと飛び込んだ。



 ――ザシュッ…!



 少年の頭を押さえ付け、自らも伏せたナンバー9のモーターボートを叩き潰そうとした《怪物》の触手が切り飛ばされて宙へと飛んだ。

 《怪物》でも呆然とする事はあるのだろう。切り飛ばされた触手の方にカタツムリのような目を向けた時、今度はその全身に鋭い刃が食い込み、《怪物》をバラバラにしてのけた。

 高速移動物体に対する古典的なワイヤートラップ。――ナンバー9と《怪物》のチェイスを見たナンバー0が即座に組み立てた作戦通り、追跡者は尽く全身を切り刻まれてのた打ち回った。水は瞬時に腐った上に煮えたぎり、《怪物》の断末魔の悲鳴がジャングルの木々を一部枯死させたが、そこまでであった。

「報告せよ」

 モーターボートから降りてきたナンバー9に、ナンバー0が言う。

「敵陣地内で原因不明の爆発を確認。生け贄の少年を確保。敵人員の抹消を確認。――儀式の中断に成功」

「確かか?」

「肯定」

「あの爆発は何だ?」

「――不明。生け贄の消失に対する過剰反応と推察」

 ナンバー9の生還を喜ぶ訳でもなく、ただ淡々と交される会話。無駄の一切ない早口での会話なので、他人が見れば口喧嘩をしているようにさえ見えるだろう。

 しかし、ナンバー0は告げた。

「よろしい。――レッドキャップス! 〇三五五時、任務完了! 脱出シーケンスに移る!」

 ナンバー0の命令に応え、レッドキャップス各員は爆薬を投棄、時限装置を仕掛けてから、超低空で海から侵入してきた兵員輸送ヘリに搭乗した。

 レッドキャップスの任務はここまでであったが、この事件の顛末にはまだ続きがあった。一部暴走した大量のスピリットは日の出までの四時間で《祭壇》を中心に半径三キロの範囲内に存在する動植物へと憑依、周辺地域に甚大な被害をもたらした。レッドキャップスに指令を出したアメリカ国防総省はこのような事態に備えて待機させていたB−1を出撃させ、気化爆弾を使用。――かつて人口三〇〇人を数えた村をこの世から消滅せしめた。







「そう…。そんな事が…」

 天野は少し震える手で、水の入ったコップを取った。京一も醍醐も口の中がカラカラに渇いている。――港区の事件ではあの《ラーン・テゴス》の紛い物と《深きものども》が敵に廻った訳だが、そのような変異を起こすものが無数に解放されたとなるとさすがに背筋が寒い。

「それにしても突風とは…凄い偶然ね。でもそのおかげで世界は救われたのね」

「それほど大袈裟なものではない。装備を失っていた俺は生け贄の子供を連れて逃げるだけで精一杯だった。――おかげで俺の起用を反対していた学者どもが騒ぎ出し、一時は部隊の存続が危ぶまれた。後に俺のパラシュートに細工した者がいたと発覚し、事無きを得たのだがな」

 ひょっとしたら世界の危機に直面するような事件を前に、同じ軍隊、同じプロジェクトチーム内でそんな足の引っ張り合いがあったとは…。天野は頭を抱えたくなった。組織というものはいつでも、現場で動く者と、後方で命令だけ出す者との間に軋轢が生じる。そして常に、上に立つ者の馬鹿さ加減を下の者が多大の苦労と共にフォローするのだ。――それこそ、命懸けで。

 ふと、別の方向に行きかけた天野の思考を、次の龍麻の言葉が引き戻した。

「八年前の事件はそれで解決した。仮に鬼道衆がこの東京で同じ事をしようとしているのならば、この事件の説明もつく。水岐は手間をかけたが――首だけでは、逃げ出せん」

 まだそれは推測の段階でしかない。しかし強烈過ぎる龍麻の体験談と、状況分析から推すと、その予測が覆される事はなさそうに思えた。そして、とどめの言葉。

「被害者はこれまでに十数人。もしこれが《奴ら》絡みなら、儀式が行われるのは満月か新月の夜。月齢一五の今夜が山だ。――行くぞ、江戸川へ」

 龍麻が立ち上がる。確かにこれは一刻を争う事態だ。ラーメンを食べている場合ではない。――食べ終わっているが。

「今度の敵は手強いぞ。前回のようにはいかん。動ける者は全員召集しろ。可能な限り重装備で、現地集合だ」

「お、おい龍麻。美里や桜井はどうする?」

「問題ない。もうすぐここに来る筈だ。俺が戻ってくるまでには間に合うだろう」

「…戻ってくる? どこに行くんだ、龍麻」

「対風角用の装備を取りに行く。奴には通常装備では役に立たん」

 きっぱりと言い切る龍麻に、京一と醍醐はある事に気付いた。

「龍麻…まさかお前、風角とかいう奴と戦ったことがあるのか!?」

「ある」

 即答だった。そんな事、露ほども知らなかった京一たちが思わず声を荒らげる。

「いつ!? どこで!? どうして俺達に知らせない!?」

「…相手がそう名乗った訳でもないからな。それに、俺が有象無象の殺し屋を相手にしている事まで聞きたいのか?」

 冷酷無比な龍麻の言葉に、一気に体温が下がる三人。龍麻を――レッドキャップスの生き残りを狙う者はあまりにも多いのだ。ただし龍麻は、事実をありのままに伝えてはいない。彼が《風角》と思しき者と戦ったのは、凶津が殺された時なのだ。

「奴は強敵だ」

 龍麻の言葉で、三人は現実に立ち返った。

「動きが異常に速い。距離十五メートルでAUGをフルオートで銃撃して、最初の一発しかかすらなかった」

「な…んだって!?」

 それがどれほど凄い事なのか、京一と醍醐には判る。二〇メートル以内なら、龍麻にとってはハンドガンでも必中距離だ。それを、使い慣れた自動小銃の全自動射撃で一発しか、それもかすらせる事しかできなかったとは!?

「加えて、奴の《かまいたち》は鉄すら切断した。注意してかからんと、俺達も首を飛ばされるぞ。入念に準備をしておけ。天野殿は…」

「私も行くわよ」

 底知れぬ《敵》の存在を知り、否、知ったからこそ天野は即答した。

「心配しないで。足手まといになると判断した時点で追い返してくれていいわ。まだいくつか現地情報もあることだし、少しは役に立てると思うの。それに――」

 少しだけ、天野は悪戯っぽい表情を作った。

「警察にも、この手の話が解る人がいるって知っているでしょ?」

 やや緊張を孕みつつ、天野は龍麻を見る。彼の秘密の一端に触れた者を、彼はどう扱うのか? 天野の懸念はその一点だ。《力》を持たぬ、ジャーナリストの自分に龍麻はどのような判断を下す?

 果たして、龍麻はごく簡潔に言った。

「いいでしょう。しかし指示には絶対に従ってもらいます」

 龍麻の指揮に従わない――それは死を意味する。京一と醍醐の反応からもそれが判ったのだろう。天野は重々しく頷いた。

「では京一と醍醐は各員に召集を発令後、この場で葵たちを待て。五分で戻る」

 そう言い残して龍麻は《王華》を出た。

 昼下がりの太陽は、ますますじりじりと照りつけていた。







 龍麻が《武器庫》として使用しているのは自宅であるマンションを始め、旧校舎の一室など、都内に数箇所。最も近い真神学園旧校舎から《王華》前に龍麻が戻って来た時、葵と小蒔はまだ到着していなかった。その代わり、なぜか京一、醍醐、天野は《王華》の店先に出ていた。

「どうした? あの二人はまだ来ていないのか」

「それなんだが…どうやらあの二人、何者かに追われているという連絡が入ったんだ。今、こちらに向かっているそうだ」

 その言葉が終わらぬ内に、こっちに向かって必死に駆けて来る真神の制服姿が二人。

「みんなァ…助かった…!」

 一同のもとにたどり着くなり、心底安堵したような声を上げる小蒔。葵はゼイゼイと息を切らし、ろくに挨拶を交わすこともできない。

「何があったんだ桜井。まさか鬼道衆か?」

「ううん…でも、もっとタチ悪いかも…って、来た!」

 葵と小蒔が走ってきた方角から、一人の大柄な青年が走ってくる。髪の色は茶…あかがね色だ。日本人ではない。そして、ラーメンを食べる前の京一のように、高笑いしながら走ってくる。

「HAHAHAHAHAHA! 待って下さーい、My sweet honey!」

(…なんだ? …風?)

 あからさまに怪しい人物の登場であったが、龍麻の意識は頬に当たった涼風に向けられた。暑い事は確かなのだが、日本特有のじっとりとしたそれではなく、カラッと心地良い空気が周囲に満ちたのである。

 しかし、空気の変質に気が付いたのは龍麻だけのようだ。

「うわわわっ! かくまって醍醐クン! 葵も早くひーちゃんの陰に隠れて!」

「え、ええ!」

 なんだか一人仲間外れにされた気分の京一は、ちょっと考えて天野を護るように前に立った。前衛と後衛(?)に分かれた完璧な布陣である。

 当然のように変な外人(?)も一同の前で立ち止まった。

「Oh! 何でそんなトコ隠れーるでスカ?」

 見るからに怪しい外人青年は、聞くからに怪しい日本語と英語のチャンポンで話し掛けてくる。

「何なんだよ、こいつは?」

 あからさまに嫌そうな顔をして、京一は小蒔に聞いた。直接尋ねるのが嫌だったと見える。

「ボクたちだって知らないよ! 急に声をかけられて…葵をナンパしているみたいなんだけど…ひーちゃん! 葵をちゃんと護ってよッ!」

「了解した。…お前に尋ねる。何者だ?」

 ここは龍麻の本領発揮である。有無を言わさぬ口調でいきなり切り込んだ。

「Oh! ユーたちは誰でスカ? どーしてボクとハニーの邪魔するでースカ?」

「質問しているのは我々だ。速やかに姓名素性を明らかにしろ。なお、虚偽申告が発覚した場合、生命の保証はできない」

 いきなり過激な龍麻の言葉だが、変な外人は少しもうろたえない。

「ボクの名前はアラン蔵人クロードいいマース。聖アナスタシア学園の三年生でース。ユーたちはMy Sweetheartとどういう関係デスか?」

「我々は《真神愚連隊ラフネックス》の者だ。自分が隊長の緋勇龍麻少尉だ」

 相手が名乗ったのだから、こちらも名乗るのが礼儀だろうが、この台詞には真神の一同も「何だァ?」という顔をする。いくら相手を煙に巻くための冗談としても、これではまるで自分達が何か悪の集団みたいではないか。

「Oh! Excuse Sir!」

「ッッ!?」

 一同が立て続けに面食らう。何とアランと名乗った変な外人は、まるで龍麻のように直立不動になって敬礼したのである。しかも、ちゃんと上目遣い――上官に対する礼儀――で。

「少尉殿に申し上げマス。自分の行動に悪意ありまセン。やっと出会えた理想のヒト、ハニーと話をしたかっただけデス。自分がハニー追いかけたのは、ハニーが逃げたからデス」

「…そうなのか?」

 まさか自分と似ていると親近感でも持ったのだろうか? 龍麻は振り返って葵に尋ねた。

「誰だって逃げ出すよッ。道に迷ってるみたいだからって葵が声をかけたら、いきなりこの調子で抱きつこうとするんだもん!」

「何ィ!」

 京一と醍醐が口を揃える。実直な醍醐は単純に「不埒者!」という意味合いだが、京一の場合は「俺でもそこまではやらねえ!」と、「なんて命知らずな…」という意味があった。《命知らず》というのは、真神の聖女を崇める《美里葵ファンクラブ》なる集団の目に触れたらどうなるか、という事だ。転校当初の龍麻が勘違いした《新興宗教の教祖》的な葵の立場は、今や本物と化してしまっているのだ。さすがに真神の鬼軍曹緋勇龍麻や、神速の木刀使い蓬莱寺京一、真神の陰の総番長醍醐雄矢という、真神の三強に対して何かできる強者は存在しないが、葵に対する不埒な振る舞い――悪戯電話やいかがわしい写真を撮ろうとするなど――を行った者は速やかにフクロにされている。それは他校の生徒であっても例外ではあるまい。

 そんな本能的危機を訴えるような二人の態度も、アランは一向に気にしない。

「アオイ? それがハニーの名前でスカ? お願いデース。どうかFullname教えて下サーイ」

「えっ!?」

 葵は迂闊にも名前を口走ってしまった小蒔とアランを交互に見て、最後に救いを求めるように龍麻を見た。しかし龍麻は何かアランに引っかかるものを感じたのか、何事か考えている。

「Please!」

 龍麻の背を掴みながらたじろぐ葵。更に迫るアラン。

「わ、私は、美里葵といいます。都立真神学園の三年生です」

「ああ〜っ! 教えることないのに」

「だ、だって、気の毒だったから…」

 龍麻は護ってくれないし、とは、口が裂けても言えない葵である。

「Cool! アオイ! ついでに、他のヒトも名前教えて下サーイ」

 ついでに…あからさまにそんな単語を使われてさすがに顔を見合わせる一同。

「俺達はついでか…日本語の勉強が足らんようだな」

「日本語だけじゃねえ。頭の中身も足りねえぜ。――いいか、アホ外人! 一度しか言わねえから耳ィかっぽじって良く聞きやがれ! 俺は新宿真神一のいい男、神速の木刀使い、蓬莱寺京一だ!」

 男に対しても、やはり大見得を切ってしまう京一。しかし、アランは――

「アホーダ・キョーチ?」

「な、何ィ! 違う! ほ・う・ら・い・じ・きょ・う・い・ち、だ!」

「Oh! ホラー・ザ・キョーチ!」

「――誰がホラーだッ! ええい! 名前だけ覚えろ! 京一だ! 京一!」

「OK! キョーチ」

「こ、コイツ…!」

 思わず木刀を取り出す京一を押さえるように、醍醐が前に進み出る。

「まともに覚えられないなら敢えて名乗る必要もないと思うが、俺は…」

「Oh! ユーの事は知ってますネ! ユーはスモーレスラー!」

「な、何!?」

 プロレスラーだと言われるならまだしも、スモウレスラーとは…。アランの言葉に思わず絶句する醍醐。ちょっと傷付いたらしい。

「ジャパニーズ芸術はファンタスティックね。カブキ、ノウ、スモウ、シャミセン、ナガウタ…」

「…外人の癖に長唄まで知っているのか」

 何とかやり返そうとする醍醐。しかしアランは即座にNOと答える。

「ボク、ガイジン違う。メキシコ人のパパと日本人のママの間のハーフ。二人ともファンタスティックなジャパニーズ文化の大ファンだったネ。コミケ、ワンフェス、C3、トーキョーゲームショウ…」

 相変わらずのハイテンションでオタク文化の結晶であるイベントを列挙するアランから、龍麻を除いて引く一同。しかし、そこで龍麻が声を上げた。

「そうか、思い出した。どこかで見た事のある顔だと思ったら、お前は先日のコミケで《デス○ー総統》に扮していた男だな」

「Oh! Jesus! そう言う少尉殿は、あの時のユーサク・マツダ…シュンサク・クドーではないでスカ!」

 唖然! とする一同を尻目に、なぜかガシッと握手する二人。《真神の鬼軍曹》改め《真神の少尉殿》の謎に新たな一ページが加わった瞬間であった。なぜに泥と硝煙にまみれた戦場の死神、血みどろの殺戮妖精こと、レッドキャップス・ナンバー9が、オタクの祭典、コミックマーケットでコスプレなど…。

「ちょっとアレンジ入ってますケド、今日はマサヤ・オキのキャップですカ。こちらもお似合いですネ」

「感謝する。――あのサイズの蝶ネクタイを見付けられなかったのだ。だが、知り合いに手芸を能くする者がいる。今度、彼に製作を依頼するつもりだ」

「WOW! 手作りはコスプレーヤーの醍醐味デスネ!」

 最初の警戒はどこへ行ったのか、オタク会話に没頭する二人に向けられる奇異の視線。余りに異質な光景なので理解が及ばないのだ。

「ボク…ひーちゃんが判らなくなってきた…」

「安心しろ小蒔。俺もだ…」

 まるっきりフォローにならない会話をする京一と小蒔に、アランは愛嬌たっぷりの目を向ける。

「Oh、ミナサンは少尉殿のBest Frendでしタカ。ぜひ、あなたの名前も教えて下サーイ」

 自分達も龍麻と同類と見られているのか、と思い切り悩んだ小蒔であったが、仕方なく自分の名を名乗る。

「ボクの名前は、桜井小蒔だよ…」

「Oh、コマーキ。キュートな名前ネ」

「私は天野絵梨よ。フフフ、よろしく、アラン君」

「Oh、エリー。ワンダフル!」

「あらためて言うが、俺は醍醐雄矢だ」

「タイコ? 打てば響く名ですネ」

「コイツ…女の名前だけは覚えるんだな」

 もはや処置なしである。しかも今回は龍麻が妙に意気同合しているので、いまいち反論に力が入らない。

「これで皆グッドフレンド。HA−HA−HA。楽しーネ」

 何がどう楽しいのかまったく解らぬ一同だが、これがいわゆるラテン系というものだろう(偏見である)。

「本題に入りマース。ヒユー少尉殿、葵を僕に下サーイ!」

「な、何だとォッ!?」

「葵は僕の運命の人ネ。葵も僕といればハッピー、ハッピーね」

 龍麻の返事を待たず、地面に膝を付いて葵に手を差し伸べるアラン。公衆の面前で、これは恥ずかしい。さっきの京一の時と同じく、周囲で主婦や学生たちがひそひそ話をしている。

「…貴君の要求には応じられない」

 最近、世間体という言葉を理解し始めた龍麻はきっぱりと言った。

「Oh! ナゼですカ少尉殿? もしかして少尉殿も、葵のコト好きですカ?」

「えっ…!?」

 思いがけずアランがそんな事を言ったので、思わず頬を染める葵。そんな親友の様子を見逃す小蒔ではない。天野も「ふうん」と意味ありげに微笑した。

 しかし――

「彼女は我々にとって非常に重要な衛生班長だ。我が《真神愚連隊》の守護天使である彼女を抜けさせる訳にはいかん。まして我々には、これから重要な任務があるのだ」

 いかにも龍麻らしい返事と言えば言えるのだが、これを聞いて葵は僅かに俯いていた。本人もまだ無意識下の行動なのだろうが、これは周囲の者にとってはもどかしい。

――龍麻と葵…意外と似合いのカップルではないか?――

 確かに、日本人の常識からはかけ離れた存在である龍麻だが、それは決して彼が悪い訳ではない。職業軍人が即人殺しか、と問われれば、彼らは《否》と答えられるほどに社会を見る目が養われていた。人に人を殺す権利などありはしないのだろうが、彼ら職業軍人がいなければ、世界中に無秩序な暴力が蔓延することもまた、現実なのだ。

 緋勇龍麻は人殺しかも知れない。だが、彼は人として生きようとしている。ならば普通の高校生らしく、馬鹿をやって、恋愛をすることだって――

「任務? どのような任務ですカ?」

「それは機密事項に触れる。答えることはできない。残念だが、お別れだ」

 このあたりは、やはり龍麻らしい。思いがけない類友の出現に気を良くしながらも、自分のなすべきことを忘れることはない。

「そうそうッ、俺たちはお前に構ってるほど暇じゃねェんだ。さあ、行こうぜ」

「えッ、行くって、どこに?」

「忘れたのか? 俺たちの任務だぜ」

 京一は葵の方に目配せする。すると葵はその意を一瞬で悟り、言葉を合わせた。

「そうよ。小蒔。今回の任務は非常に重要なんだから」

「そ、そっか。そうだったね!」

 やっと小蒔も口調を合わせる。

「そういう訳だ。俺たちはこれから出かけねばならん。達者でな」

 醍醐がそう締めくくった時、アランが不意に言った。

「判りマシタ…。でも、江戸川にだけは行かないでくだサーイ」

「なっ…!?」

 龍麻を除く全員が絶句する。

「おいお前! 何で俺たちが江戸川に行くことを知ってるんだよ!」

「馬鹿…」

 一種の誘導尋問にあっさり引っかかった一同に、龍麻は思わず天を仰いだ。そんな仕草が自然に出るようになった龍麻である。

「やはりそうデシタカ…。江戸川にはボクのホームありマース。いま江戸川ではヒトたくさん死んでる…。あれは悪魔のしわざ。行けば皆の命も危ないデース」

「…忠告痛み入る。だが我々は行かねばならん」

 仲間たち程度の説得では埒が開かないと、龍麻はきっぱりと言い切った。

「我々《真神愚連隊》は不可能犯罪に対応するために存在する。これ以上多くの犠牲者を出さぬためにも早急に行動を起こす必要がある。また会おう」

 その堂々たる態度には、アランもさすがに怯む。ラテンのノリと勢いだけで龍麻を言い負かすことは不可能だ。

 それ以上の問答は無用とばかりに、龍麻はラフな敬礼をした。

「行くぞ」

 全員が頷き、歩き始めようとした一同に、アランが立ちはだかった。

「待って下サイ。――少尉殿、そういう事なら、僕も連れて行って下サイ」

「!?」

「江戸川はボクのホームある街。多分誰よりも詳しいネ。皆さんの任務の邪魔しまセーン。どうか連れてって下サーイ」

「冗談じゃねえ。誰がお前なんかを…!」

 一見しただけで彼を《気に入らない》と思った京一が声を上げるが、アランの妙にひたむきな口調と、彼がまっすぐに見ているのは龍麻一人だと知って押し黙った。彼は龍麻を指揮官だと承知で話しているのだ。《真神愚連隊》などというふざけた名前を、アランは冗談としては受け止めていない。

「…お前の言う通り、危険だぞ」

「承知していマス。少尉殿」

「…命令は守れるか?」

 え!? と京一たち一同が唖然とする。それは龍麻が、《仲間》に対して最初に問う事ではないか!?

「イエッサー!」

 アランは両足を揃え、直立不動で敬礼する。先程のものと違い、付け焼刃ではありえない、道に入った敬礼だ。京一たちの胸に《まさか…》という思いが去来する。

「良かろう。アラン蔵人。俺の指揮下に入るがいい」

「ありがとうございマス。――HAHAHA。楽しーネ」

「……」

 敬礼を終えた途端、アランは元のラテン青年に逆戻りする。京一たちの《まさか》という想いは一瞬にして霧消した。

(やっぱりコイツ、ただのオタクだ)

 これが龍麻を除く全員の思いだった。

「…なあ、ひーちゃん。本当にコイツ連れて行くのかよ」

「指示に従うならば、何も問題はない」

 龍麻が決定を覆す事はめったにない。そして多くの場合、その判断は正しいのだ。しかしこの場合は――と考えていると、天野がそっと京一に耳打ちした。

(これはジャーナリストの勘だけど、あの子、事件について何か知ってるわ。龍麻君はそれに気付いて同行を許可したんじゃないかしら。少し様子を見ましょう)

 ボクはなんとなくヤダなー、と言う小蒔。龍麻の判断だから個人的感情を差し挟む余地はないとは思うものの、アランのような軽薄タイプはどうも苦手なのだ。――京一に対しては、ここぞと言う時に頼りになるところを見せているから、まあ、許せるのだが。

「まあそう言うな、桜井。外見こそ軽そうだが…俺はあのアランを信用できそうな気がするぞ」

「エーッ!? だって醍醐クンも、ああいうタイプは嫌いじゃなかったっけ?」

「う、うむ…。言われてみれば確かにそうなんだが…なぜだろうな? 奴に関してはその…何か信用して良い気がするんだ」

「?」

 醍醐の微妙な言い回しに首を捻る小蒔。真神の総番殿は、他人を第一印象だけで判断するような事はなかった筈なのだが…。

「ねえ、葵。葵はどう思う?」

「…龍麻の判断だもの。私は別に気にしないわ」

 あちゃあ、と額に手を当てる小蒔。聞く相手を間違えた。彼女にとって龍麻の判断は絶対なのだ。葵とてアランは苦手な部類に入るだろうが、彼女は小蒔以上に個人的感情を切り捨てる。

「速やかに移動するぞ。江戸川へ」

 そう龍麻が宣言すれば、あとは行動あるのみ。龍麻言うところの《真神愚連隊》プラス二名は行動を開始した。







「…ところで、何なんだよ。《真神愚連隊ラフネックス》ってのは?」

 京一がそんな事を言ってきたのは、都営新宿線で篠崎駅に向かう車中の事であった。

「なにか、いかんのか?」

「いかんって事はねえけどよォ、なんか俺達、悪役みたいじゃねェか?」

「何を言うか。《愚連隊ラフネックス》とは偉大な小隊の名だぞ。小説世界では《ラスチャック愚連隊》が、現実世界でもIFAFの《グローヴァル愚連隊》が勇名を馳せている」

「いや、だからなんでそんな小隊の名前を付けなきゃならねェんだよ」

「敵は《鬼道衆》と名乗るテロリストだ。こちらも人数が増え、組織的戦闘が可能になっている今、より結束を固めるためにも小隊としての名があって良いと思ったのだが」

「そう思うならせめて俺達に相談くらいしろよ。そういうのは勝手に決めるモンでもないだろうが」

「そうか? …お前はどう思う、醍醐軍曹?」

「ぐ、軍曹? 俺がか!?」

 醍醐がうろたえたような声を上げる。

「そうだ。お前には苦労性の傾向が見られるが、ならばこそ直接戦闘の場面でそれを指揮能力として発揮できよう。無論、責任は重大だが、それはお前にとって必ずプラスとなる筈だ」

「ちょ、ちょっと待ってよ。醍醐クンが軍曹なら、ボク達は何なのさ?」

「うん? これは一度全員が揃う時に発表する筈だったのだがな。小蒔伍長。君は狙撃班長だ。そして美里軍曹はさっき言った通り、衛生班長だ。編成を説明するとだな…」





 《真神愚連隊》編成表

 小隊長  緋勇龍麻少尉。

 副長   如月翡翠曹長

 長距離支援班長 桜井小蒔伍長

 中・長距離支援戦闘員 裏密ミサ上等兵

 中距離戦闘班長 雨門雷人伍長

 中距離戦闘員 藤咲亜里沙上等兵

 直接戦闘班長 醍醐雄矢軍曹

 直接戦闘員 紫暮兵庫上等兵

 直接戦闘員 蓬莱寺京一二等兵

 衛生班長 美里葵軍曹

 衛星兵  高見沢舞子伍長





「…以上だ」

「ちょっと待てィ! ひーちゃん、何で俺だけ二等兵なんだ!?」

「不服なのか? 俺は能力を正当に評価した上で階級を決定したぞ」

「何が正当だ! 雨紋や藤咲や紫暮、それに高見沢までが俺の上ってのはどういう事だよ!?」

「簡単な事だ。お前には指揮能力がない」

「な、何ッ!?」

「勘違いするな。お前は最前線で目の前の敵を確実に殲滅するのが役目だ。階級などにこだわるな。二等兵というのは本来、軍の根幹と言って良い存在なのだ。士官ばかりいたところで戦闘はできん。俺はそれだけ、お前を信頼しているのだ」

「ひーちゃん…」

 めったに聞く事のない《信頼》という言葉に、京一は天を仰いで感涙したが、当の龍麻は横を向いて舌など出している。それを目撃した醍醐たちは 「龍麻もやるようになった」などと妙なところで感心してしまった。

「すると私は、どんな立場にいるのかしら?」

 面白そうに、天野が聞いてくる。

「当然、情報将校であります」

 ピシ! と敬礼する龍麻。天野を始め、一同が笑った。

「すると少尉殿、自分は何でありマスカ?」

「とりあえず、現地案内人という事にしておこう」

 当然の事だが以上の会話は、彼ら以外誰もいない車両の中で行われたものである。そして、そんな事を話している内に、地下鉄は篠崎駅に滑り込んだ。







 事件の多発している篠崎町周辺は、繁華街という事もあって人出は多かった。忙しそうに、あるいはのんびりと歩いている人波だけ見ていると、この街で陰惨な猟奇殺人が起きているなどとはとても信じられない。

「江戸川はいいところデース」

 やはり地元民としては地域自慢もしたいのだろう。すぐ後ろを歩く龍麻と天野に話し掛けてきた。隊列は龍麻の後ろに京一が、その後ろに葵と小蒔、殿は醍醐である。

「特にゼンヨージのヨーゴーの松は見事デース。アオイにも一度見せたいデスネ。デモ、今は枯れかかってマス」

「善養寺の《影向の松》を知ってるなんて、さすが地元民ね。でも《影向の松》が枯れかかってるなんて知らなかったわ」

「ハイ。とても残念な事デス」

 アランははあっとため息をつく。その仕草は下手な日本人より日本人らしい。

「アラン君って、日本語上手だけど、何年くらい日本にいるの?」

「Oh、コマーキ。よく聞いてくれました。日本に来たのは二年前デース。両親とは死別シタので、今は叔父サン叔母サンと暮らしてマス」

「そっか…ゴメンね。変な事聞いて」

「No、コマーキにそんな暗い顔似合わない。叔父サン叔母サン、とても良い人。だからボク、今とてもハッピーね。だから…二人を傷つける人は絶対に許さない。…少尉殿も大切なモノ傷つけられたら、怒るネ?」

 龍麻は、ほんの一瞬だけ走ったアランの殺気めいた目の光を見逃さなかった。しかし――

「肯定だ。家族、友、仲間。それら大切なものを傷つけられて怒らぬ者はいない。可能ならば、誰もが他を傷つけるような真似をせずとも生きていけるようになって欲しいと、俺は考えている」

 それは龍麻の本心であると同時に、微妙な心理戦でもあった。龍麻はアランが何か秘密を持っていると知り、カマを駆けたのである。

「LOVE&PEACEデスカ? 少尉殿は優しいデスネ」

 うまく答えをはぐらかせたようだが、龍麻はその言葉にあるアランの真意を多少なりと読み取っていた。

 アランも、たとえて言うなら龍麻に近い。目的のためならば、自ら手を汚す覚悟ができているような、そんな雰囲気が見受けられる。龍麻のそれと微妙に違うところは、彼のそれは豊かな人間性――怒りから来るものだという点だ。

「アラン。少尉殿はやめろ。龍麻で良い」

「…OK、タツマ」

 そこまで言ったところで、不意にアランが天を仰いだ。

 龍麻もほとんど同時に、《気》を緊張させる。和やかに話していた二人が不意にそんな緊張をはらんだので、京一たちも緊張した。

「風が…」

「え!? 何、アラン君?」

「風が…止みマシタ…」

 周囲の一般人達はまるで気付いていないようだが、確かに、先程まで吹いていた風がぴたりと止み、ねっとりとした、しかし異様に張り詰めた空気が辺りを覆っていた。そう…まるであの、増上寺の地下にいた時のような空気が。

「いや…止めて…!」

 負の《気》に対して敏感に感応する葵が、我が身を抱きしめて震えだす。心臓の鼓動が早くなり、じっとりと冷たい汗が滲んでくる。そして――

「…来る!」

「…来タ!」

 微妙なニュアンスの違い。次の瞬間、全員の耳に何かが激しく衝突する音が飛び込んできた。

「事故か!? 近いぞ!」

「Shit!」

 なんという事か、アランは龍麻の状況走査よりも早く、江戸川大橋方面に向かって駆け出していた。

「チッ! 地元民だからって先走りやがって!」

(違う。彼は俺より早く状況走査した。…何者だ?)

 とにかくアラン一人を先走らせる訳には行かない。葵たちを醍醐に任せ、龍麻たちはアランの後を追った。程なく、高速道路の通っている江戸川大橋の上で白い煙が上がっているのが目に入る。立ち入り禁止の看板を無視して橋の管理者用の階段を駆け上がった龍麻たちは、橋の欄干に衝突して煙を噴く乗用車を確認した。型は古いが、かなり高級なオープンタイプのスポーツカーである。

「…ブレーキ痕がないわ。この辺りはこういう交通事故が多くて有名なところよ。学者の話によると、こういう金属で作られている橋は落雷などで磁石化し、強力な磁場を生み出すらしいの。つまり、霊現象が起こりやすい場所って訳ね」

「――だが今は、違うようだ」

 龍麻が示唆した瞬間、玉突き事故を起こしてでたらめに停まっている車の屋根を蹴って走る緑色の影が飛び出した。次いで、アランの悲鳴!

「京一! 醍醐!」

「おうよッ!」

「任せろ!」

「カマイタチに注意しろ!」

 橋の欄干から河原へと飛び降りた――高さ一〇メートルはある――緑色の影を追って、京一と醍醐は素早く河原へと降りていく。龍麻は予測される光景を考え、小蒔と葵をその場に残し、天野一人を伴ってアランのもとに駆け寄った。

「無事か、アラン?」

「Shit…油断したネ」

 アランのTシャツは胸元が真一文字に切られていたが、ぎりぎりで身をかわしたのか皮膚そのものは皮一枚斬られた程度の傷であった。彼を跳ね飛ばしたのは、カマイタチの真空把に伴って生じた衝撃波ソニックブームだろう。

 龍麻が手を貸してやると、アランは頭を振り振り、しかしすぐに起き上がった。

「…一足遅かったようね」

 アランの無事を確認してほっと息を付いた天野であったが、事故車の内部を見て固い声を出す。運転席に座っていた若い女性の首は失われ、その切断面からはいまだにどくどくと鮮血が噴き上がっている。あまりに鋭利に斬られると痛みすら感じぬと言うが、この犠牲者の心臓も、もはや死に行くしかない肉体のために鼓動を続けているのだ。

「おかしな面をかぶった男が、レディの首を持って…」

「判っている」

 首を失った哀れな犠牲者に天野は手を合わせ、アランは簡単に十字を切ったが、龍麻は死者には興味がないように肩で風を切った。祈りの言葉は知らぬ男だ。冷徹に澄み切った眼差しのみ死者に手向け、龍麻は走り出した。







 江戸川大橋のたもとで葵、小蒔らと合流し、河川敷に降りると、醍醐が大きく手を振って合図を送っているのが見えた。

「よォ、そいつも無事だったか」

 相変わらずの京一の憎まれ口であるが、アランは「ノープロブレム」と笑顔で返した。

「…奴はその中か?」

 見れば醍醐の足元、斜面に生えた草が覆い被さるように入り口を隠している穴が開いている。ちょっとやそっとでは見つけられないであろう上に、中の様子を確認しようとした龍麻の手に静電気のごとき衝撃が走ったのは、結界が張ってあるせいだろう。

「間違いない。しかし、罠だな」

「罠?」

「俺達がここに着いた途端に事件発生など、タイミングが良すぎる。奴は風を視る能力があるのだ。俺達が来るのを見越して首をさらっていったのは、任務を完遂すると同時に、俺達をここに誘い込み、抹殺しようというのだろう」

 首を切り落とされたばかりの犠牲者を見たせいか、いつもより冴えた龍麻の洞察力である。だが彼はそこで一言付け加えた。

「…気に食わんな。素人め」

「…どういう事だ?」

 全員の考えを代弁して、醍醐が切り出す。

「…プロは余計な仕事はしないのが鉄則だ。任務を完遂する事を第一に考えるならばこれまでと同様、絶対に隠密行動に限る。――ついで仕事に俺たちを始末しようなどとは、今回の敵は、俺たちを侮り過ぎている」

 珍しく吐き捨てるように言った龍麻は、バッグから取り出した銃を組み立て始めた。

「動ける者に召集だ。特に如月を優先する。忍者のトラップは俺でも把握し切れん」

「了解」

 仲間達がそれぞれ担当する者へと連絡を取り始める中、龍麻は慣れた手つきで銃を組み上げて行った。手持ち無沙汰の天野はその様子を興味深げに眺める。

「…前回使っていたのとは違うのね。それが、風角用の装備?」

「肯定だ」

 龍麻が常用する自動小銃は大まかに分けて二種類。五・五六ミリ(二二口径)ならばステアーAUG、七・六二ミリ(三二口径)ならばH&K・MP5G3A4だ。しかし今回龍麻が用意したのは、そのどちらでもない、かなり大型のライフルである。AUGと同じブルパップ式だが、弾倉はG3のそれよりも大きい。

「Wow! ソレ、ACRデスネ?」

 天野の後ろからアランが覗き込み、驚きと感嘆の声を上げる。

「まだドコの軍隊でも使っていない最新装備ネ。そんなの使う相手、いるデスカ?」

「肯定だ」

 龍麻はサマージャケットを脱ぎ、シャツの上にタクティカル・ベストを装着した。そこにはステアーACR用のマガジンが三本、M72A1対人手榴弾を五個、そしてファイティング・ナイフを吊る。腰のベルトにはいつも携帯しているグロック19とその予備弾倉が二本。更にイサカM37ショットガンも用意し、ショットシェル二〇発をずらりと並べた弾帯も肩からたすき掛けにした。

 ここまでがいわば決戦兵器プラスサイドアームで、龍麻のメインウェポンはフィンランド製ヤティ・マティック九ミリサブマシンガンだ。形としてはイングラムに似ているが、銃身が水平より上方にずれているように見える特異な構造を持ち、発射の反動を上方に逃がすようになっているので、サブマシンガンに必須のストックが最初から省かれている。それこそ映画のような片手撃ちが可能なサブマシンガンなのだ。そして集弾性能は二五メートル先で実にトランプカード並。龍麻が持つにふさわしいガンである。

「龍麻。如月と雨紋、紫暮と裏密が来るそうだ。藤咲と高見沢は連絡が取れない。何か、用事があって出かけたらしい」

「うむ」

 龍麻は頷き、女性陣を振り返った。これは龍麻が何か言う時だと、女性陣は緊張する。その中には天野も含まれていた。

「…裏密も含めて、お前達は自由参加とするが、どうする?」

「ちょっと、ひーちゃん。それって、ボクたちをのけ者にするって事?」

 前回は外泊させる事にも反対しなかった龍麻がそんな事を言ったので、小蒔が膨れて唇を尖らせる。

「今回は相当嫌なものを見る事になるからだ。奴らは犠牲者の首だけを持っていった。大方、前回と同じような《神》を呼び出す儀式に使うのだろうが、その首が今、どんな状態にあるか判らんぞ」

 珍しく、他人の心情を思いやるような龍麻の言葉である。今までの龍麻ならそんな事はまったく意識しなかったろうから、これは大きな進歩だろう。それは嬉しい事なのだが、葵も小蒔も首を横に振った。

「いいえ。行きます。みんなが闘っているのに、ここで待っているなんてできないわ」

「そうだよッ。ボクたちなら大丈夫だって」

 口々に言う二人に、龍麻はごく軽く頷いた。

「天野殿。あなたは…」

「今回は、私も同行させてもらうわ」

 先手を打って、天野はきっぱりと言った。

「今回も《鬼道門》絡みなら、私はそれを見てみたいの。あなた達から話を聞いて大体のイメージは掴んでいるけど、より細部の情報があれば、その様式から鬼道衆なるものの正体に迫れるかも知れない。ジャーナリストの情報網も、捨てたものじゃないわ」

「…そう言うと思いました」

 龍麻は苦笑を洩らし、バッグを探ると、銀色の自動拳銃を取り出して天野に差し出した。

「あなたの分だ。持っていろ」

 差し出した人物が人物だけに、本物だ。天野はさすがにうろたえた。

「わ、私は拳銃なんて…!」

「この先、戦闘能力のない者を連れて行く訳にはいかん。ぎりぎりのラインで自分の身は自分で守れ。そいつはスターム・ルガーMk1。アメリカ国民が護身用に最適だと太鼓判を押したスタンダード・モデルだ。二二口径だから反動は軽い。充分扱える筈だ」

 龍麻はルガーのマガジンを一度抜き、マガジンをセットしてから銃後部のボルトを引いて初弾を装填するところを天野に見せた。それから、天野にやってみろと言う。

「撃つ寸前まで絶対に引き金に指をかけるな。本当に撃つ時は相手の一番大きなところだけを狙えばいい。人間なら腹だ。ガンを抜いてから安全装置を外し、コッキング・ボルトを引くところまで条件反射でできるようになるのが望ましい。最後に、必要と思われる時まで絶対に抜くな。弾丸は訓練用模擬弾だから相手を殺す心配はないが、パニックを起こして撃ちまくられては困る」

「…判ったわ」

 少なくとも、人殺しをする心配だけはない訳だ。天野は少しほっとして、ルガーを手に馴染ませるために練習を始めた。

 そうこうしている内に、まず如月が、続いて雨紋が現場に駆けつけてきた。

「…君は…!」

 如月がアランを見るなり声を上げるが、アランは気付かないふりをしている。代わりに龍麻が彼に言った。

「アラン。案内はもういい。お前は家に帰れ」

「ナゼデスカ? タツマ」

「ここから先は本物の悪魔の巣だ。先程も言ったが、戦う能力を持たぬ者は連れて行けない」

「Oh! タツマ、それはナイネ。レディ達が危ないところ行くのに、ボクだけ帰れまセーン。ボクだってちゃんと闘えマース」

「そうか?」

 いきなり、龍麻はアランに向けて蹴りを飛ばした。

「なッ!?」

 京一たちが愕然とする。龍麻が攻撃を仕掛けたからではない。アランが、それをかわしたからだ。間髪入れず放った龍麻の左右の突きも、アランは円を描くように振った前腕部で弾き飛ばすと同時に、地面を蹴って間合いを取る。それは明らかに、訓練された者の動きであった。

「…良かろう。天野殿の護衛に就くがいい」

「…ありがとう、タツマ」

 これで、少なくとも龍麻にははっきりした。アランは何か目的があって、自分達と行動を共にしている。

 しかし今は、少なくとも敵ではない。

「ヘェ、龍麻サンにそう言わせるなんて、お前も結構やるじゃん。それにレディを守るってのは男の甲斐性だもんな。俺サマは雨紋雷人だ。よろしくな!」

「Oh! ライト。こちらこそよろしくデース」

 ロックのバンドマンにラテン気質の男。気が合うのはむしろ当然か。初対面とは思えないほど打ち解けて話す二人を横目で見ながら、如月が龍麻にだけ聞こえるように言う。

「龍麻君。本当に彼を連れて行くのかい?」

「…何か隠しているのは判っている。だが、俺は奴の事情には関知しない」

「君なら、そう言うだろうな」

 ふっと如月は笑みを見せる。自分の時もそう言いながら、いつのまにか自分から協力を申し出させた男だ。この緋勇龍麻がそう言うのならば、好きにさせるべきだろう。それに彼…アランは…。

「おお、待たせて済まん!」

「うふふふふふ〜、お待たせ〜」

 待ち人きたる。如月は思考を打ち切り、龍麻はACRのコッキング・ボルトを引いて初弾を装填した。

戦闘開始コンバットオープンだ」







 第九話 鬼道 2    完



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