第九話 鬼道 1
――士官が有能であるべきは当然のことである。士官はまた、洗練された作法、細心の礼儀、優秀なるユーモアを持ち、自由なる教育を受けた紳士であらねばならぬ…その賞がたとえ一言の承認であろうとも、部下の功績ある行為を見逃すべきではなく、その反対に、いかなる部下であろうと、些細な過失とて盲目であることは許されぬ。 われらがいまや戦いつつある政治原則が真実であれ…艦艇自体は絶対専制のもとに支配されなければならぬ。 余はいま諸君に非常なる責任のあることを明らかにしたと信ずる…われらは現在、われらの持てるものにて最善を尽くさなければならぬ。―― ジョーン・ポール・ジョーンズ 一七七五年九月一四日 海軍反乱参加者委員会に宛てたる手紙よりの抜粋 |
「お館様――!」 広大な城の中を、一人の忍び装束が大声で主人の名を呼ばわりながら走っていた。 だが、日本にこのような城があったであろうか? ――否、そもそもここは何処なのか? かつて戦乱に消え、徳川の手によって再建された大阪城よりも広大で、美しさは姫路城のそれに迫り、外に面した小窓からは城下町が見て取れる。コンクリートのビルに建売住宅、駅前のデパートに商店街。――紛れもない現代の町並みの中心にそびえる巨大な城。ここは、日本ではないのか?br> 忍び装束には見慣れた光景なのか、異様でいながら美しい風景には目もくれず、主人の姿を求めて広い廊下をひた走る。徹底的に磨き上げられた総檜造りの柱にも床にも忍び装束の虚像が映り、大勢の人間が駆けているようにさえ見える。 しかし――人の気配はない。 これだけの城を維持するとなれば、それこそ使用人の数も半端では済まない筈だ。それなのに次々とふすまを開けて走る忍び装束は誰一人出会うことなく、やがて城の最深部――天守閣に相当する奥の間にたどり着く。そこには壮麗な日本庭園があり、松が陽光に青葉を輝かせ、一面に敷き詰められた真っ白な玉砂利がきらめき、池では錦鯉が悠々と泳いでいる。その中央に茶室…というには大きすぎる離れが鎮座し、そこからは人の話し声が洩れていた。 「お館様! こちらにおいでですか!」 「――なんでェ、騒々しい」 この城に入ってから初めて、人の声が応じる。 失礼しますと断り、障子を正確に三〇センチほど開けて主との会見に臨んだところで、忍び装束――下忍はうっと立ちすくんだ。 ここに至るまでの部屋には人の気配などまったくなかったのに、この部屋にだけは若やいだ、生気に満ちた空気に染められている。その原因は、若い男を中心に床に横たわり、あるいは男にしなだれかかっている若い娘たちであった。 「俺のかわいい女たちが怖がるじゃねェか」 自分を見つめる娘たちの視線。セーラー服をまとっているところから高校生に間違いなく、しかし歳に不似合いな妖艶な眼差しに圧倒されていた下忍は、慌てて首を垂れた。 「お館様に申し上げますッ! 鬼道門の封印は、邪魔が入り解くこと叶わず、すっ、水角様も討ち死にされた御様子で――!」 「――なんだと…?」 若い男の端正な顔に、一瞬だが不快な表情が過ぎる。 「……!」 「――もう一度言ってみろ」 物静かな声に潜む、圧倒的な威圧感。下忍は背筋が凍りつきそうになるのをやっと堪えつつ言った。 「きッ、鬼道門開封の儀は邪魔が入り失敗に――!」 「…失敗しただと? 水角にはあのハリボテまで付けてやったじゃねェか。軍隊でも乗り込んできたってェのか?」 「いいえ。軍隊ではありません。しかし各々が超絶の技を――《力》を持つ者たちでありました」 ヒュウッと口笛が鳴った。 「そうかい。いよいよ始まりやがったか。《力》を有する者――《魔人》たちの饗宴が」 心底嬉しそうな声音。部下が、それも幹部が殺されたというのに、そちらにはまったく興味を示していない。 若い男の次の言葉も、それを証明していた。 「それで、珠はどうした?」 「そッ、それが、水角様を倒した輩に奪われ――目下、人を出して探させておりますッ!」 若い男はしばし、押し黙る。幹部の死よりも、珠が奪われた事こそ重要――下忍にはその沈黙がこの上なく恐ろしく、数十年も続くのではないかという錯覚にとらわれた。 ややあって、若い男が口を開いた。 「水角の奴め…。せっかくこの俺が、封印を解いてやったってェのによ…」 「……」 「水角を倒したのはどんな奴らだ?」 「はッ。それが…」 下忍が言いよどむ。その目で見たものをありのまま伝える事こそ任務なのだが、それでも躊躇うに有り余る情報だったのだ。 「どうした?」 それ以上は一瞬一瞬が死への刻限となる。下忍はやや乾いた声を絞り出した。 「それが、まだ歳若い輩で、全員が十七、八かと…」 ここで少しだけ、若い男は面白そうに唇を歪めた。 「若ェな。水角はそんな連中に殺られたのか」 「はッ。しかしながら、この者たちの長と思しき男、数々の銃器を駆使し、その戦術、指揮、徒手の技、そして《力》においても水角様を圧倒、一敗地に塗れさせました。さりとて政府の犬とも思えず、正体はまったく不明であります」 「餓鬼の分際で銃か…。そいつは黒尽くめで金髪のハーフじゃなかったか? マグナムの二丁拳銃で、でかい西洋剣を背負っている色男だ」 「――いいえ。金髪の者はおりましたが、その者は槍使いでありました」 若い男は口元をへの字に結び、視線を宙にさ迷わせた。どうやら彼の心当たりとは違ったらしい。 しかし、若い男の黙考は短かった。先程から平伏しっぱなしの下忍に視線を向ける。 「――もう良い、下がンな」 「はッ」 下忍はほっと胸を撫で下ろし、平伏したまま奥の間を辞そうとした。 「あァ、ちょっと待ちな」 「はッ。何でございましょう――ッッ!」 顔を上げた瞬間、何かが光ったような気がして、下忍は目を瞬かせた。 「あァ、鯉に餌をやって行け」 なにやら意味不明な命令。しかし、主人の気まぐれはいつもの事であるし、命令に逆らう訳には行かない。下忍は一礼して縁側まで下がり、庭に降りた。 「――えッ!?」 池にかかる橋に至った時、急速に接近する石畳。身体を支え――! ドシャアッ! と無様な音を立て、下忍は石橋に抱き付くように倒れた。――上半身のみが。 「おッ、御館…様!」 首だけねじ向けた視界に、まだ立っている自分の下半身と、左手に刀を帯刀している若い男の姿が映る。あの瞬間に走った光――あれは、若い男の居合であったのか?br> 「長い黄泉路の旅行きだ。これで水角も寂しくはないだろうよ」 部屋の中でキン、と男の刀が鞘鳴りの音を立てると、その瞬間、下忍の胴が盛大に血と内臓を吹き零れさせた。まるで、今更ながらに斬られた事に気付いたように。 池の鯉が一斉に飛び跳ね、下忍の死体を水中へと引きずり込む。《餌》とは下忍自身だったのだ。ピラニアの群れに襲われる牛よりも遥かに早く、下忍の肉体は食いちぎられ、咀嚼され、この世から消滅して行った。 「イマイチ鈍いな」 それは自らの剣の腕か? それとも下忍の反応か?br> 人が魚に食われるという惨状を目の当たりにしながら、それを気にする様子もなく絡み付いてくる女たちの手を払い除け、若い男は顎に手をやった。 「それにしても、アイツ以外に銃を振り回して、ハリボテとは言え《奴ら》を倒す《力》を持つ餓鬼だと…? ――炎角ッ、雷角ッ、岩角ッ」 どこへともなく、若い男は呼びかけた。すると今までまったく人の気配がなかった部屋に、気配だけがにじみ出た。 「ここに…」 ひどく若いとも、ひどく年老いているとも判らぬ声が、どこからともなく降ってくる。相手の姿が見えぬことも気にせず、男は言った。 「炎角、岩角。お前たちは、引き続き例のものを探せ。あれが俺の手に入らぬ限り、全ては世迷言に過ぎん。――手段は問わん。多少の事じゃ邪魔は入らねェようにしておく」 「御意…。この炎角、必ずや御屋形様の御為に御役に立ってごらんに入れましょうぞ」 「お…おでも頑張る…御屋形様のだめに、頑張る…」 若い男に応える二つの声。それぞれ個性的な響きを持つ声だが、共通しているものがひとつ。全てを憎み、恨み、血と闘争の業火に燃やし尽くさんとする狂おしい情念だ。 「よし、行け。――雷角、お前の方はどうなっている?」 「はい。――兵隊の方は三週間以内に生産ラインが確立いたします。しかし一部警察筋の妨害工作で銃器類の供給ルートが一部断たれ、初期配備分の兵器が届くまでに二ヶ月ほどかかるかと」 先程の二つよりはずっと丁寧な声。しかし、暗い情念は同じだ。なまじ静謐な雰囲気を漂わせているだけ、より邪悪にすら感じる。 「兵隊の頭数だけ揃っていても仕方ねェ。フィリピンマニラ、アフリカルートでも、とにかく武器を揃えろ。最悪、そこらのヤー公を襲っても構わん。一ヶ月以内に形だけでも初期配備を済ませにゃならん。それと、もう少し兵隊の質を上げさせろ。ちいっとばかり脆すぎる」 親指で池を示す若い男。まだ少し水面がざわついているようだ。 「御意…」 ただ静かな答えだけが返ってくる。それは――可能だという事であった。 「うむ。――それから、風角ッ。風角はいるかッ」 若い男の背後に、一陣の旋風が舞った。次の瞬間、旋風は緑色の忍び装束をまとった忍者へと姿を変えた。――顔は見えない。鬼の面を付けているのだ。 「御屋形様のおそばに…」 先の三つの声よりも更に慇懃無礼な声。首 「水角は失敗した。お前に任せた計画は順調だろうな?」 そちらを見ようともせずに、若い男は言った。 「もちろんでございます。もう間もなく――最後の贄と、月の満ちるのを待つばかりでございます」 「そうか。上出来だ」 「ははッ、ありがたき御言葉。この風角、老いた我が身果てるまで御屋形様の御為となりましょう」 「世辞はいい。抜かるんじゃねェぞ。IFAFも陽動に気付く頃だ。それに、どうやら新手の障害も現れたらしい。多分、お前や炎角が出くわした奴だろうよ」 「おお、それは…」 慇懃無礼な声に含まれる、邪悪なる歓喜。殺戮の期待と愉悦に緑色の忍び装束が小刻みに震えた。しかし―― 「水角はそいつに殺られた。――お前も次の《逃げ》はないと思え」 この時初めて、風角の背がピク! と跳ねた。仮面をつけている為に判らなかったが、その下には冷たい汗が一筋流れ落ちていた。邪悪な歓喜は凍り付いている。 「ははッ、では――」 出現した時と同様に、風角は障子もふすまも開けぬまま、旋風となって男の背後から消え去った。 「…くくくっ。それじゃ俺は高みの見物としゃれ込むか――って、そういう訳にもいかねェな。それにしても――くくくっ、《力》を持ちながら銃をねえ…。面白くなってきやがったぜ。ゲームってヤツァ、こうでなくちゃな」 手近にいた少女をいささか乱暴に抱き寄せ、男は声高く笑った。邪悪と狂気に漲る者たちを束ねる者としては、信じられぬほど無邪気で純粋な笑い声だった。 一つの命が池の鯉に貪り食われている頃、地球の裏側でも多くの命が失われていた。 かつて気化爆弾により吹き飛ばされた土地を再度爆撃し、クレーター状に陥没した土地を取り囲むようにM2ブラッドレーやHMMWVハマーが榴弾砲やブローニングM2の照準を、クレーターの最深部にある石造りの建物…の残骸に向けている。上空ではヒューイ・コブラを始めとする攻撃ヘリが待機し、更に高空ではFA−18ホーネットが空対地ミサイルを抱え込んで上空制圧を行っている。しかし、戦いは終焉を迎えていた。 ハマーの機関銃座で、軍曹の階級章を付けた男が手で額を拭った。真っ黒な機械油が迷彩を施した顔に尾を引く。銃弾数百発分の硝煙と煤だ。 「…どうやら、ケリが付いたようですね。少尉殿」 「ああ、そのようだ。だが油断するなよ、軍曹」 「承知していますよ。事によったらアイツの方がよっぽど…」 そこまで言って、若い軍曹は口を押さえた。少尉の鋭い視線に応じたのである。 「…気に入らんのは俺とて同じだ。俺たちの縄張りに余所者がノコノコ割り込んできた上、たった一人の、それも高校生 「高校生じゃありませんよ。アイツは」 口にするのも嫌だと言わんばかりに、軍曹は唾を地面に吐き捨てた。 「《奴ら》は《奴ら》同士で共食いしていれば良いんですよ。あんなのを飼っているからってIFAFも調子に乗り過ぎだ。俺たちを顎で使えるつもりでいやがる。――大体、あの化け物どもは何なんですか? この十年で、もう居るのが当たり前になってきていますけど、普通ならあんなの、御伽噺にしか出てこないような化け物じゃないですか。先月闘 「…俺とてそう思う。だが軍曹。俺たちの目の前にあるのは紛れもない現実だ。目を瞑ろうが毛布を被ろうが、決して《奴ら》は消えない。現実の俺たちが現実のこの銃で――豆鉄砲ほどに効かなくても――弾丸をぶち込めば現実の血を流す、現実の化け物だ。俺たちはそいつらと戦っている。IFAFも、あそこに一人で入って行ったアイツもだ。そして、人間同士の争いよりも、《奴ら》との戦争が優先されるのもやむを得まい」 最後のフレーズが、軍曹をぶるっと震わせた。クレーターの底にある遺跡に単身で乗り込んで行った少年の残した台詞が思い出されたのである。崩壊寸前の麻薬カルテルと、アメリカ海兵隊とコロンビア陸軍の混成部隊が、この遺跡を巡って戦っている最中に舞い下りてきたIFAFエージェントの言葉が。 ――《奴ら》を始末する。その後で好きなだけ殺し合え。 ヘリのスピーカからそんな言葉が響いてきた時、敵も味方も激劫した。しかしそれも、彼が名を名乗るまでだった。たった一人の、それも高校生の身分である若者が名乗っただけで、戦闘中の海兵隊員は引き金を引く事も忘れて硬直し、麻薬カルテルの構成員たちは銃を放り出して両手を上げたのである。 「国を守るのが我々の務め。――《奴ら》が相手でも同じだろう。だが我々と違い、IFAFは《奴ら》と戦う専門機関を有している。《奴ら》絡みの事件で指揮権を奪われるのもやむを得んのだ。それが不服だと言うなら除隊届けを出せ。転属願いでも良い。装備課か補給部隊にでも行けば、少なくとも《奴ら》と顔を合わせる事はなくなる。――危険手当が一人一日五〇ドル。死亡時見舞金が一〇〇〇ドル。――どう考えても割に合わんぞ」 軍曹は大袈裟に顔を歪め、わざとらしく身を震わせた。 「――やめてくださいよ、少尉殿。補給部隊の書類馬鹿の下で働くくらいなら、《奴ら》と戦っている方が良いに決まっているじゃないですか。――俺たちは海兵ですよ」 「ふふん。もう少しで一人前だな。――だがお前も海兵隊の一員なら、《臨機応変》って言葉を忘れちゃいまい。除隊もまた、生き残る為の選択肢の一つだ」 「《一人だけで逃げるな》ってのも海兵隊の本分でしょう? ――そう言やあ、《ボウヤ》ももう高校生でしたっけ?」 「何を今更――例によって特例措置だ。二年前に日本の高校に編入させたそうだ。――できれば、俺が親代わりをしてやりたかったが」 「五年も付合ったんだ。俺たち皆、そう思ってますよ。だけど少尉殿。《兄貴》としては、《弟》が一応平和な国に行った事を喜んでますよ。何せあいつは両親も友達も――」 軍曹は言葉を切った。無線機から悲鳴のような声が響いてきたのである。 『こちらブラボー21 「――こちら《黒蠍 周囲が俄かに緊張に支配され、兵士たちが一斉に銃を構える。軍曹も五五キロにも及ぶブローニングM2の銃口をジャングルに向けた。空中でホバリング中のヘリもミサイル使用に備えて上昇する。 突如、ジャングルの一角が爆発する。続いて、空中へとちぎれ飛んでいく巨木。 ――来る! ジャングルを一直線に引き裂いて、《何か》が! 「――照明弾! ――撃て!」 クレーターの周囲はサーチライトの光に満ちているが、更に三発の照明弾が夜空を照らし出した。その光の中に《何か》が飛び出してきた。 ――ゲオオオオォォォォッッ!! 剛胆な海兵隊員をして耳を押さえたくなる悪声! この作戦に際して全員が五〇ミリリットルの昂精神薬の投与を受け、特定周波数の音波を遮断する耳栓を支給されていたが、それでも一瞬、悪声の持つ波動が兵士たちを打ちのめす。 「撃てェェェッッ!!」 目視確認も照準のセットもない。少尉の声に応えたのは第二の本能とでも言うべき戦闘技術であった。《敵》を撃つ! 肉体に刷り込まれた動きが全てであった。 ――ドドドドドッッ! ガガガガガガッッ!! ハマーから、ブラッドレーから、そして地上の兵士から凄まじい火線が《何か》に浴びせられる。 しかしこれは、どのような《敵》か? 一見すれば翼長5メートルにも及ぶ巨大なペリカンかダチョウだが、その嘴はナイフをずらりと並べたような牙が乱立し、せわしなく吐き出される舌は先端が三つに分かれ、その中心には吸入管と思しき穴が空いていた。虚ろな目玉は地球生物の正位置である頭部の両脇に二つある他、額にあたる部分にも一つ光っている。そして、黒とも紫とも付かぬ色合いを持つ柔毛は、それぞれが独立した生き物のように蠢いていた。 こんな生物は地球には存在しない。少なくとも現代には存在しない――筈だ。しかし幻想怪奇小説愛好家、もしくは神秘学者はこの生物の特徴から、一つの名を脳裏に結ぶだろう。曰く――シャンタク・バードと。 地球上の生物であれば、灰色熊だろうとアフリカ象の群れだろうと止めるであろう大口径機関銃の一斉射撃! しかしシャンタク・バードは着弾のショックに多少ぐらつきはするものの、そのまま突進して前列の兵士の首にかぶりついた。 ガチン! と金属質な音を立てて閉じる嘴。一瞬にして首無しとなった兵士は、それでもまだ引き金を引き続けた。 「駄目だ! 効かない! ――軍曹! 射撃そのまま! 後退する! ――マーベリック1 『動きが速い! 巻き添えを食らわんようにしろッ!』 「無茶抜かせ! ――退避! 総員退避!」 少尉が歩兵を先に退避させ、自らは軍曹と共にブローニングとM60の火線をシャンタク・バードに集中させて動きを止めようとする。だが一二・七ミリ50BMGの固め撃ちがまったく意味を成さない! 逃げ遅れた三人の兵士がたちまち五体を分断され、夜空に血潮をぶちまけた。 『畜生 ヒューイ・コブラの二〇ミリ機関砲が吠えた。嘴に脇腹を貫かれた兵士は助からぬものとして。しかしシャンタク・バードは思いがけない行動を取った。絶叫を放つ兵士の肉体をコブラに向けて持ち上げたのである。そして―― 「――ッッ!!」 二〇ミリ砲弾の直撃を浴びてちぎれ飛ぶ人体! ――シャンタク・バードは着弾のショックで数十センチづつ後退するものの、傷は負っていない。 解っていて盾にしたのだ。人体では二〇ミリ弾を防げぬ事も、二〇ミリ砲弾ごときでは自分を傷付けられぬ事も理解した上で。――なんという邪悪な知性か!?br> 「ヤロウォォォッッ!!」 軍曹はブローニングから手を放し、携帯用の対戦車ロケット砲――ドラゴンを構えた。 「――くたばれ! 化け物ォォォッッ!!」 赤い炎の尾を引いて走るロケット弾! それは狙い違わずシャンタク・バードの胴を直撃した。膨れ上がる炎と絶叫。――殺ったか!?br> 「逃げろ! 軍曹ッ!!」 「――何ィィッッ!?」 片翼と半顔を焼け爛れさせながら突進してくるシャンタク・バード。その突進力と蹴爪の一撃でハマーが横転し、軍曹は地面に投げ出された。とっさに受け身を取り、特別支給の四五口径を抜いたのはさすがだが、シャンタク・バードは彼の目の前で仁王立ちになっていた。 嘴がギリギリと鳴る。軍曹にはそれが「死ね」というように聞こえた。次の瞬間―― ――ドゴオォォォン!! 50BMGや二〇ミリ機関砲弾の銃撃があった直後にも関わらず、それら以上に耳をつんざく銃声。シャンタク・バードの額の目が潰れ、次の瞬間、爆発した。 ――グゲェォォォォォォォッッ!! 先程までとは明らかに違う、苦痛の悪声を放ったシャンタク・バードはもんどりうって倒れる。一瞬に凝縮された生と死の転換に、軍曹は這うようにしてその場から逃げ出す。 シャンタク・バードを含め、その場にいる者の目が全て、クレーターの最深部に注がれる。弾丸はそこから飛来したのだ。 「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」 サーチライトの光芒を反射して輝く黄金の炎。豊かな金髪をローターの巻き起こす風になびかせつつ現れたのは一人の青年――先の会話を信じるならば少年――であった。光を吸い込む漆黒のコンバットスーツの上に闇色のコートを纏い、背にはバスタード・ソードと呼ばれる長剣、手には硝煙たなびく巨大な回転式拳銃 二〇ミリ機関砲が効かぬシャンタク・バードをそれで撃ったのか!? ――かつては《最強》の名を冠したとは言え、たかが拳銃弾――44マグナムで!?br> 「《ザ・パンサー》…ッッ!」 誰かが呻き声を上げる。異次元の怪物――シャンタク・バードと対峙した時以上に恐怖のこもった視線を少年に向ける。 「――下がれ」 高くもなく、低くもない、しかし血臭と硝煙に満ちた空間には場違いなほど澄んだ声。それに誘われたか、シャンタク・バードがよろめきつつ立ち上がる。しかし、少年を映している目には兵士たちと同じく恐怖の色があった。 ――魔物ですら怖れさせるのか、この少年は!?br> つい、と少年の手が上がった。あろう事か、シャンタク・バードを手招いたのである。 ――グゲェォォォォォォォォォッッ!! 放った絶叫は取るに足らない生物への怒りか、少年に恐怖を感じた己に対する鼓舞か。 嘴を大きく前に突き出し、極端なまでの前傾姿勢を取るシャンタク・バード。片翼を失ってはいるが、翼を後方に向かって鋭角的に突き出す。その姿はまるでジェット戦闘機であった。そして実際、このシャンタク・バードは強靭な筋力と、全身の柔毛が空気抵抗を極限まで減らす事で、平坦な地表において時速六〇〇キロ――〇・五マッハを叩き出すのである。 土煙を上げて、シャンタク・バードが突進した。 マグナムをホルスターに収め、剣の柄に手を掛けた少年の長い金髪がうねった。次いで、轟く地響き! 中国拳法では震脚と呼ばれる少年の踏み込みであった。そして―― ――ギョオォォォォッッッ!! 悪声を放ちつつ宙に飛ぶシャンタク・バードの首! 胴はそのまま時速四〇〇キロで遺跡に叩き付けられ、その衝撃の凄まじさに呪われた筋肉も骨格もバラバラに分解された。途端に周囲に満ちる、千もの墓が開いたような悪臭! 迂闊にもマスクを外していた者はたまらずその場に吐いた。《奴ら》の存在を感知するもっとも手っ取り早い方法――悪臭は、都会の生活で嗅覚の衰えた文明人の鈍い鼻でも脳髄を直撃する刺激を伴う。マスクを着用していた者さえ、息を止めて後じさったのである。 少年は無造作に、首だけになっても地表で喘いでいるシャンタク・バードに近付いた。 その嘴がギシギシと軋む。それは彼らの言葉であろうか? だとすればそれは、途方もない悪意に満ちた呪いの悪罵であったろう。だが――すぐに首の悪罵は途絶え、舌がだらしなく地面に伸びた。 勝利の余韻も敵に対する感慨もなく、少年は長剣を背に収めた。――誰が今の一瞬を見抜けたか? 時速四〇〇キロで突っ込んでくるシャンタク・バードを、その長剣で迎え撃ったなどと。二〇ミリ砲弾を設け止める、鉄よりも硬い柔毛を切り裂き、只一撃で異次元からの怪物を屠ったなどと。 少年が近付くのを待ってから、少尉は前に進み出た。直立不動で、敬礼。 「作戦は成功でありますか?」 自分より遥かに年下の少年に向けて、酷く丁寧な口調で尋ねる。――嫌味でやっているのではない。少尉の口調に込められた緊張と敬意、そして畏怖は本物であった。 「…こいつは囮だ」 威嚇的なサングラスを外して血糊を拭き取り、少年は怪物を屠った直後とは思えぬ澄んだ声で言った。声に相応しい、精悍さと美しさを兼ね備えた顔立ち。だが、一見すれば人懐こそうに見えるブルーの瞳には虚無が広がり、言葉の一つ一つからもとことん感情が欠落している。 「レッドキャップスは確実に任務を果たしていた。八年前の痕跡はどこにもない。この木偶人形は後から置かれた物だ」 少年は親指でシャンタク・バードを示す。《木偶人形》と言い切ったのは何故かと、少尉は口元を押さえつつシャンタク・バードの首を見る。そして、驚愕した。たった今まで明らかな生物として動いていたシャンタク・バードは、首の所々が溶け付き、場所によっては焦げている、硬質とも軟質とも付かない物質に変わっていた。手っ取り早い結論は――蝋。コロンビア陸軍一個中隊を壊滅させた怪物は、蝋で出来ていたのであった。では、この悪臭は一体…!?br> 「…本部に連絡しろ」 その場にいる者全ての畏怖を一身に受けつつ、少年は静かに言った。 「陽動作戦にまんまと引っ掛かった。次の満月までに怪しい所は全てチェックし直せ。そこがホワイトハウスだろうとランチェスター大聖堂だろうと例外はない。――特に日本…トーキョーを調べるように伝えろ。あそこでは先日、ダゴンが復活しかけた」 それは軍事関係者にとっては最高レベルに達する機密。ここに展開しているアメリカ海兵隊《ジェリー黒蠍 「後始末は任せる。――そのくらいならできるだろう」 この作戦に参加した者にとっては噴飯ものの言葉――このシャンタク・バード一匹の為にコロンビア陸軍の一個中隊が全滅し、今の戦闘で一〇名の海兵隊員の命が失われたのだ――を一方的に言い、少年はコートの裾を翻しつつ、ただ一機だけ着陸していたIFAFマークを付けたヘリに乗り込んで行った。 (アイツこそ化け物だ。) ヘリが離陸すると、軍曹はM4A1カービンの銃把から指を引き剥がした。余りに強く握り締めていたせいで手が冷たい。ついでに、背中も。――あろう事か、シャンタク・バードの殲滅が確認された直後から、その場にあった全ての銃口はその少年一人に注がれていたのだった。自分たちが総がかりでも倒せなかった怪物を倒した、味方である筈の少年に。その行為の代償が、骨がらみ縛り付けられるような恐怖であった。 「行ったか…。それにしても、東京だと?」 「少尉殿…。東京って言えば、《ボウヤ》が…」 「いや、まさか。そんな事にはなるまいよ。俺たちは《ボウヤ》に戦い方を仕込んだが、戦えとは言っていない」 「そう…ですよね。《ボウヤ》が俺たちの言い付けを守らない筈がない…」 軍曹は自分に言い聞かせるように呟いたが、《ボウヤ》の性格を熟知しているため、それが儚い希望に過ぎない事も判っていた。 東京、新宿。現地時間一〇〇〇時。 「おーい、ひーちゃん! こっちこっち!」 全国的に記録的な猛暑である八月最後の土曜日、芸能人の入り待ちで混雑の極みに達している新宿ALTA前で、ひときわ元気な声が、混雑の原因にもなっている一人の青年を呼んだ。 ――ひーちゃん!? ひーちゃんだって!?br> 自分達が周囲を囲んでいた青年がその名に反応した事に驚きを隠せない女性達。その輪の中心にいたのは、我らが真神の鬼軍曹、最近では《真神の少尉殿》と呼ばれている緋勇龍麻であった。 服装はプールに行った時と正反対、日差しを受けて目映い白のサマージャケットにソフト帽。カッターシャツも勿論白なので、ネクタイの赤がより映える。そして今回は髪にジェルを付けて多少縮れ気味に仕上げ、目元を覆うサングラスはパイロットタイプから丸型に変えてある。また誰かの真似ッ子だろうが、素材がいいからどんなスタイルにしても自分流に仕上がるのは彼の凄いところだ。 「少し待たせちゃったかしら、龍麻?」 「問題ない。現在一〇〇〇時。二人とも、時間通りの参上だな」 龍麻。龍麻ね…。周囲でチェックの声が囁き合う。 「ところで、二人とも買い物に行くそうだが、俺が役に立つのか? 民間人の服飾その他には素人だぞ」 「へっへー、いいからいいからッ。せっかくの夏休みなんだから、たまにはお馬鹿な連中から解放されなくちゃ」 「まあ、小蒔ったら…」 それは、例によって例のごとく、京一と醍醐の二人が高校生活最後の夏休みだというのに補習を受けているという事実であった。責任感の強い龍麻としては、自ら指導した筈の二人があろう事か赤点を取り、補習を受ける羽目になった事実がどうしても許せず、頼まれもしないのに学校に現れては、鬼軍曹ぶりを発揮している。教師陣も事あるごとに脱走しようとする京一に手を焼いている折でもあり、学年主席の葵と並ぶ学力の上に軍事オタク(一部を除いた教師陣主観)の龍麻が臨時講師を買って出たのはまさに渡りに船だった。何しろ龍麻はマリアか犬神くらいしか扱えない問題児を腕ずくで止めてしまえるからだ。玩具の銃(くどいようだが教師陣主観)を持ち込むのはさすがにいただけないが、逃げ足の速い京一を捕まえるためには有効だと言う龍麻に説得され、遂に彼には特別許可が下ろされた。結果的に龍麻は京一をダシに銃の携帯許可を取り付けてしまった事になる。 とは言え、京一も醍醐も補習科目が多く、龍麻の夏休みは丸潰れ同然だ。いくら時諏佐校長の計らいでバイト代が出ていても、それではあまりに気の毒なので、葵と小蒔は相談して龍麻を引っ張り出す事にしたのである。 「しかしながら、今日は課題の提出日でもある。昼頃には一度学校に顔を出さねばならんだろう」 「…そうね。私も生徒会の引継ぎとかいろいろあって、午後には登校しなくちゃいけないし」 「う〜ん、それじゃやっぱりのんびりって訳には行かないか。ささっと買い物して、その分ゆっくりしよう」 小蒔がそう言って先頭切って歩き出す。続いて龍麻と葵も歩き出し、傍目には両手に花である龍麻を逆ナンパする事は無理だと判断した周囲の女性達は、恨めしそうに歯噛みしながら彼らを見送った。 「再度問うが、買い物とは何だ?」 「えっとね、ボクは弟の誕生日プレゼントを、葵は日記帳だよね。とりあえず、どっちから行こうか?」 「…それ以前に、店は決めてあるのか?」 「もちろん。高島屋だよ」 「…《高島屋、ああ高島屋、高島屋》」 なんか言うぞ、と二人が思った矢先である。しかし―― 「…ひーちゃん、相変わらず冴えないね。ひょっとして、少し疲れてるでしょ」 「うむう…」 戦闘ならばいざ知らず、龍麻のギャグはいまだに切れに欠けるのであった。 そうこうしている内に、三人は高島屋入り口に辿り付いた。 「効率を考えるならば小蒔の買い物が先だな。次いで葵の買い物。最後はカフェテラスで小休止と行こう」 「えッ、ボクが先でいいの?」 「もともとメインは小蒔の買い物なのだから気にしないで。ところで、今度お誕生日を迎えるのは、今度中学になるすぐ下の弟さん?」 葵の微妙な言い回しに、「?」となる龍麻。 「ううん。違うよ。誕生日が近いのは、来年小学校に上がる一番下の弟。ほんでもって、今度中学生になるのは上から二番目の弟だよ」 「…小蒔には、一体何人の兄弟がいるのだ?」 ざっと計算しただけでも、小蒔には三人の弟がいる事になる。しかも表現から推察するに、妹の存在も示唆されている。 「あッ、そうか。まだひーちゃんは知らないよね。ボクは一番上のお姉ちゃんで、下に弟が三人と双子の妹がいるんだ。他に両親と、おじいちゃんにおばあちゃんも一緒にいるから、全部で十人家族なんだ」 「…ほほう。核家族化が進む現代には珍しい大家族だな。三世代同居ともなれば年輪を経た知恵を受け継ぐ機会も多い。非常に良い事だ」 「えへへッ、ありがと。ところでひーちゃんは――って、ううん。なんでもない」 思わず口を滑らせた小蒔は慌てて言葉を濁した。龍麻の方は気付いていないが、それが余計に彼の家庭事情の深刻さを浮き彫りにする。いや、そもそも彼に《家庭》事情など存在しない。 「しかし、兄弟たちの長として責任重大だな。プレゼントを何にするのか決めてあるのか?」 「えッ? う、うん。目星は付けてあるんだけど、なかなか絞り込めなくて悩んでるんだよね」 龍麻としてはまったく意識していないが、それが巧みなフォローになったと葵は微笑する。小蒔もほっとして元気を取り戻した。 「う〜ん。やっぱり決めかねるなあ。ひーちゃんならこの三つの中からどれを選ぶ?」 そう言って小蒔が示したのは、テレビで放映中の特撮番組に出てくるロボット、ラジコン、そしてゲームソフトであった。すると龍麻は参考意見だがと前置きし、迷うことなくロボットを選んだ。 「うん。これなら弟がいつも見てる奴だし、やっぱりこれがいいかな。でもひーちゃんがこれを選んだのって、何か理由があるの? ひょっとして、テレビ見てるとか?」 「肯定だ」 あまりにさらっと言うものだから、小蒔も葵も一瞬、龍麻が何を言ったのか理解できなかった。まさか、《この》龍麻が子供向け特撮ヒーロー番組を見ている!?br> 「実は最近、テレビを購入したのだ。ニュース以外9割以上が低俗な番組ではあるが、あえて子供向けと言うだけあってヒーロー番組は子供の情操教育に良い影響を与える」 生真面目な顔で玩具のロボットを手に、現代教育を語る沖雅也風の高校生。玩具売り場の店員は目が点になっている。 「多くの子供、特に男子は強いヒーローに憧れるものだ。そしてヒーローから、正義の何たるかを教えられる。仮面ライダーやゴレンジャー・シリーズ、宇宙刑事に至るまで、ヒーローとは教師でもある。弱きを護る事、強くても悪事に走らぬ事は、杓子定規な学校教育で教えるのはなかなか難しい。現実で悪事ばかり働く大人達が奇麗事を言うより、虚構のヒーローが「正義を護れ」と言った方が説得力もある。それに、ラジコンでは他の兄弟達も遊びたがるだろう。それよりは、その弟専用となる玩具のほうが良い。そしてゲームソフト。これはいかん。目は悪くなるし、脳の発達にも妨げとなる。日がな一日家にこもってゲームばかりしているなど不健康極まる上、社会に蔓延しているオタクの一人になるのがオチだ」 「ひーちゃん…。最後の台詞で全国にたくさんの敵を作ったような気がする…」 「そうか? しかし俺はむしろ真のオタクこそ、日本の将来を救うと考えているぞ。先日行われた某イベントで俺はそれを確信した。出店者たちの己が作品に対する情熱といい、原案となった作品に対する深い洞察力といい、見事と言うほかない。そして、彼らが仕上げた本を買わんとする者たち。――あれは凄い。目的の本を買うためにあの猛暑と水分欠乏、加えて数千数万もの行列のプレッシャーという劣悪な条件下、何時間でも待ちつづける精神力は尊敬に値する。訓練された兵士でもなければああはいかんだろう。――俺が言っているのは、求道精神を持たぬにわかオタクはいかんという事だ。そしてもちろん、社会のゴミのようなゲームの中にも、たたえられるべき名作は存在する」 夏休みの玩具売り場の前で、なにやらオタク哲学の講釈である。小蒔としては単純に「どれがいいかな?」と聞いただけなのに、これほど深い理由を延々と講釈されては、頭の中がパニックを起こしてしまう。周囲の家族連れ、特に若いお父さん達はなぜか妙に納得していたりするのだが。 「そうだね…。ボクも弟には正義を護るような子になって欲しいし、これにするよ。ちょっと待ってて」 とにかく「これが良い」という事だけは納得し、小蒔はロボットを持ってレジへと向かった。プレゼント用にラッピングしてもらう都合もあり、少し時間がかかる。 「小蒔ってやっぱり弟さん想いよね。でも龍麻、自分は素人だって言ってたけど、子供のプレゼントにまでそんなしっかりした意見を持っているなんて驚いたわ」 「…多くは情報番組の受け売りでもある。ただ一つ俺に言えることは、子供には玩具が必要だ。玩具より銃やナイフを与え、遊びよりは人殺しの訓練をさせる世界など、やはり間違っている。屋根のある居心地の良い家、暖かい家族。――全世界の子供達にそれが与えられるのは、果たしていつになる事か」 「…すぐには無理かもしれないけど、きっとそういう時は来るわ」 この男の視野は非常に広い。いつでも、小さな目の前の現実だけにこだわったりしない。それは時に自らの存在を否定する事に繋がるが、それでも構わないとさえ思っている節もある。《命に換えてもこの世界を護る》――とは言わないが、テロリストを根絶し、多くの人々を護る事は彼の行動原理の指標であり、図らずも先日の事件で、龍麻はそれを実証して見せた。重傷を負いながらも《神》の眷属と闘い、勝利したのである。 だからこそ、葵はくよくよ悩むのをやめた。他の仲間達もそうだ。自分の手を汚す事を恐れていては、もっと悲惨な事態を招く。それを身を持って証明した龍麻を、仲間達は改めて見直したものだ。 「そうだな」 それが希望的観測に過ぎぬと知りつつも――葵もそれを承知の上だ――、龍麻は頷いた。認めがたい現実に絶望するより、儚くとも希望を胸に生きる、それが人間なのだから。 「お待たせッ。次は葵の買い物だねッ」 綺麗にラッピングされた包みを抱えて小蒔が戻ってくる。三人はフロアを移動し、文具売り場に至った。 そこでもやはり、選択に悩む少女が一人。 「う〜ん。この市松模様は先月のと同じだし、唐草模様はその前に使ったし、熱帯魚シリーズは全部制覇したし…色々あって悩むわね。――龍麻はどれがいいと思う?」 「…この棚全部を制覇するなら、どれでも同じではないか?」 葵が既に使ったと称する日記帳は既に十数種類。残るは三種類だけである。龍麻でなくても「なぜ悩む必要がある?」と思うだろう。 「もう、ひーちゃんってばデリカシーがないなあ。葵はひーちゃんに選んで欲しいんだよ」 「そ、そうなのか?」 龍麻の脳裏に、某恋愛シミュレーションゲームの一幕がよぎる。かの有名な《と○めき○モリ○ル》のイベントシーンだ。 (確か選択を間違えると、相手を怒らせる事になる筈…。) 三種類の日記帳を前にした龍麻の顔から、だらだらと脂汗が流れ始める。集めて煮詰めたらガマの油が取れそうだ――などと思うほど。 「あの…龍麻?」 「ひーちゃん…どうしたの?」 玩具売り場で哲学を語るのも変だが、文房具選びにこうまで悩む奴も変だ。ここでもやはり、店員の目が点になっていた。 熟考五分(!)。龍麻は決断した。 「…これだな」 龍麻が指し示したのは、コスモスの花を散らした花柄のダイアリーだった。 「へえ、さっすがひーちゃん。これなら葵のイメージにぴったりだよッ」 「うむ。任せろ」 胸を張って言ったものの、実は内心ほっとしている龍麻であった。 「でも葵って本当にマメだよね。毎日日記をつけるなんてさ。ボクだったら三日と続かないよ」 「…子供の頃からの習慣ですもの。それに、このごろは書く事が多すぎて困るくらい。事件の事とか…皆の事とか…」 「ふうん。…案外、ひーちゃんの事とかいっぱい書いてあったりして」 「えッ!?」 意味ありげな小蒔の言葉に、明らかに動揺する葵。そのため久しぶりに、龍麻の誤解コンボが炸裂した。 (ぬう! まさか葵が俺を監視しているとは! 俺の行動パターンを分析し終わった暁には、やはり俺を闇討ちに――!) 常人には理解しがたい龍麻の思考回路。またしても顔中脂汗で埋め尽くした龍麻に、葵はにこりと笑いかけた。 「龍麻、そんな顔しないで。日記の中身なんて人に見せるものじゃないから」 「そうか…そうだろうな」 とりあえず話を合わせるために頷く龍麻。 (…つまり機密扱いになっているという事か。俺に情報抹消の機会などないと…うむむ…かつてない強敵だ!) 敢えて言おう。龍麻は馬鹿である。少なくとも戦闘以外においては、並みの高校生以下だろう。 約一名が顔中を脂汗で埋めていたものの、それなりに楽しいお茶の時間を過ごした三人は、途中までは方向が同じだからと、揃って学校近くの道を歩いていた。聞けば小蒔も部活の関係で顔を出す用事があるらしい。 そんな三人の背後から、陽気な声がかけられた。 「よォッ、久し振り」 「あら、雨紋君」 いつでも木刀を離さない真神の赤毛ザルと同様に、いつでも槍を手放さない渋谷のピ○チューこと、雨紋雷人であった。 「あれッ? 今日は龍麻サンと一緒じゃないんだ。このキャップかスコッチ刑事かってヒトはどこの誰だい?」 「う…雨紋君…」 以前にもあったようなシチュエーション。今度の犠牲者は雨紋か?br> しかし龍麻は雨紋の肩を両手で叩いた。 「そうか、雨紋。お前には判るか」 「おわッ、龍麻サン!?」 《できそこない》とか《もどき》と言わなかったのが功を奏したのだろう。果たして雨紋は命拾いをした。先輩後輩の礼儀など眼中にない彼ではあるが、葵や小蒔に対してはそれなりの礼儀をわきまえていたのも運が良かった。特に――名優沖雅也のファンであった事が。 「ぜんぜん判らなかったぜ。そう言や龍麻サンの私服姿って初めて見るもんな。いや、お世辞抜きで決まってるぜ」 「ありがたい言葉だ。馬子にも衣装とは良く言ったものだ」 それは自分で言う事じゃないって――と、三人は心の中で思ったが、とりあえず黙っていた。 「ところで雨紋、お前はどうしてこの新宿に? 訓練表は提出されていないが」 訓練表とは、旧校舎探索による実戦訓練の出席を管理しているものである。几帳面な龍麻は、ただ漫然と探索するだけでは訓練にならないと、各自にその日の目標や達成倒数などを提出させ、挑戦する階層やメンバー編成などを決めているのだ。未知の階層への探索はほぼ全員で行うが、それ以外では計画を練った方が訓練の成果も上がりやすい。まるで学校の授業の延長なのだが、実際に強くなっていくのが実感できるので、京一以外の者は文句を言わない。ちなみに最近龍麻が《鬼軍曹》から《少尉殿》に格上げされたのも、これが理由であった。 「ああ。今日は訓練じゃないんだ。実はサ、渋谷で天野サンから、龍麻サンたちに連絡を取りたいって頼まれて、それなら学校に行ってみなって言ったンだ。最低でも京一は補習してるだろうからって」 「あはは! 言えてる!」 思わず葵も小蒔も吹き出す。しかし龍麻は憮然とした顔だ。自分が指導したのに、あの体たらくなのだ。 「俺サマはてっきり龍麻サンも補習組かと思ってたンだが…ホラ、龍麻サンって妙に仲間付き合いがいいからサ」 「似たようなものだ。あの二人の指導のために毎日学校に顔を出している」 「…指導って、ナニ?」 きょとん、としたような顔の雨紋に、葵が笑って説明する。 「龍麻は学年でトップクラスの成績なの。そこで先生方から京一君用の臨時講師を頼まれているのよ」 「うへッ、マジで?」 戦闘中の指揮能力や、判断の的確さから、相当頭がいいだろうとは思っていたが、改めて葵の口から聞かされて驚くと共に納得してしまう雨紋であった。 「あの馬鹿者どもの事はいいとして、天野殿が連絡を取りたいとは、また何か妙な事件でも起きたか?」 既に龍麻の中ではアン子と同じ扱いの天野であった。 「さあ…? 俺サマも詳しい事は教えてもらってないんだ。まッ、何か厄介事だったらいつでも連絡くれよな」 「そうしよう。ご苦労だった」 龍麻がラフな敬礼をすると、雨紋も真似をして敬礼し、駅の方へと去っていった。 「…雨紋君、わざわざそれだけを伝えるために新宿まで来てくれたのかしら」 「夏休みだからね。皆がなかなか揃う事がなくて退屈なのかも」 葵と小蒔はそんな事を話し合う。 「でも天野さんの用事って何なのかしら? 本当に、またおかしな事件でも起こっていたら…」 「それを考えるべきは後だ。俺はこのまま学校に直行する。後で《王華》で会おう」 「そうだね。じゃ、また後でねッ。――そうそう、京一と醍醐クン、連日の補習で気が立っているだろうから、絡まれないようにね」 「問題ない。新兵器を用意している」 多分、本人は冗談のつもりなのだろう。葵と小蒔は背筋に冷たいものを感じつつも、笑顔を取り繕った。龍麻の新兵器!? 哀れなり京一(君)。――既に京一に対して《新兵器》が使用される事を見越している、何気に酷い二人であった。 夏休みの学校は静かである。それはそうだ。長い夏期休暇、誰が好き好んで学校になど来るものか。しかしながら、ここ3−Cの教室にはどんよりとした空気が漂い、突如怒声も響いてきた。 「逃げるな! 蓬莱寺!」 「へへーんだ! やってられっかよッ!」 軽口一番、教室を抜け出してきたのは、例によって真神の赤毛ザルであった。そしてばったりと龍麻と鉢合わせてしまう。 「――京一、また脱走か。懲りない奴め」 「やァ、緋勇クン。こりゃまた遅いご出勤で、さぞかし夏休みをエンジョイしていたのかなぁ?」 連日、毎度毎度京一の脱走を止めるのは龍麻の役目である。そして今日に限っては龍麻が休みだったので、少しも懲りない京一はまたしても脱走を企てたのだが、その企みはまたしても寸前で瓦解したのであった。 「京一、いいかげんにあきらめろ。すまんな、龍麻。京一の奴、連日の補習で拗ねてるんだ」 「誰が拗ねるか! 餓鬼じゃあるまいし! 高校最後の夏休みをこれ以上無駄に過ごしてたまるかってんだ! 逃げるぞ! 今日という今日は、俺は逃げる!」 「ほほう」 龍麻はジャケットの背中からイサカM37ソードオフショットガンを抜いた。《裏》如月骨董店にM1100が入荷するまでの繋ぎとして携帯しているショットガンである。ベトナム戦争でも使用された、かなり古いタイプなのだが、同系列のレミントンM31やM870シリーズよりも細身なので、コートでなくても隠し持てるのだ。 「本当に懲りない奴だ。何度痛い目を見れば気が済むのだ?」 「ケッ! 俺は三歩歩いたら昨日の事は忘れるんだよッ!」 それは絶対自慢になっていないと醍醐は思ったが、ここで何か言うと絶対自分にも火の粉が降りかかるので、全力で黙っている。どちらかと言うと龍麻は、勉強をしていなかった京一よりも、それなりに勉強していたにも関わらず赤点を取った醍醐に対して厳しいのだ。 「京一。おとなしく教室に戻ればよし。さもなくば…」 「さもなくば、何だよ?」 京一は既に木刀に手をかけている。この二人、こんな所で戦う気か? もはや彼らに存在すら忘れられている社会科教師は目の幅涙をブワーッと流している。 ドン! とショットガンが吠えた。 「フン!」 京一が木刀を一閃する。醍醐は目を見張った。ほんの三メートル足らずの距離で、京一は龍麻の発射したラバーボール弾を打ち落したのである。 「ほう。やるな」 慌てもせず、ポンプを引いて次弾を装填する龍麻。使い慣れたオートと違い、若干のタイムラグがある。京一はそれを見逃さず一気に間合いを詰めた。 「でやあッ!」 かなり本気の《諸手上段》! 龍麻は一歩跳び下がる。そして次弾を発砲! これも京一は見事に打ち落した。反射神経も技の切れも格段に向上している――と言うより、すでにそれは《人》の領域ではなかった。 「目にもの見せてやるぜ! 少尉殿!」 「甘いぞ、二等兵」 ドン! ドン! ドン! 間をおかず発射されるラバーボール弾! この至近距離で京一はその全てを撃ち落す。発端は別にして、他の仲間達にも見せてやりたいほど高レベルな攻防であった。年がら年中龍麻に殴られ続けている京一だが、龍麻の戦闘力に一番近いのも、やはり京一なのだ。 ガチン! と引き金が鳴る。龍麻のM37の装弾数は五プラス一発。弾切れだ! 京一は一気に畳み掛けた。 「行くぜ! 《剣掌・発剄》!」 思わず本気になった京一が剣掌奥義を放とうとする寸前、彼の身体を龍麻の左袖口から飛んだ何かが包み込んだ。技が未発に終わり、京一は床に転ぶ。 「な、何だコリャッ!?」 「ふ、人呼んで《スパ○ダー・○ット》。さあ、京一、あきらめて教室に戻るがいい」 これこそ龍麻の新兵器、発射式の捕獲ネットであった。元はアメリカのFBIなどで、犯人を殺さずに捕獲する事を目的に開発された非殺傷兵器 「さあ、楽しい勉強の時間だ」 網に絡まったままずるずると教室に引きずり戻される京一。 実に平和な光景であった。 「やあぁ…………………ッと終わったぜ!」 一三〇〇時を回ったところで、やっと課題を終了させた京一は、校門の前で思い切り伸びをした。 「辛く長い日々であった。しかし無茶な課題と鬼軍曹にどつき回される日々は終わりを告げ、今、輝かしいオネーチャンたちとの日々が始まるのだ!」 そんな事を叫ぶ京一と、知り合いだと思われないように距離を取る龍麻と醍醐であった。 しかし、間の悪い事に、彼らを《知り合い》だと知っている人物が声をかけてきてしまった。 「HI。良かったわ。三人に会えて」 「…恐れながら、我々とあそこの赤毛の男は無関係です」 周囲から向けられる奇異の視線を断ち切るようにきっぱりと言う龍麻。 「あら? 何、喧嘩でもしてるの?」 「重ねて申し上げますが、彼とは無関係です。話は別のところで。行くぞ、醍醐」 「お、おうッ」 周りの視線をわきまえず、まだ一人妄想の世界を跳ね回っている京一をそのままに、天野の背を押すようにしてその場を離れようとした龍麻たちであったが、赤毛の木刀ザルはそういう時こそ余計な事に気付く。 「あーッ! エリちゃん! ――なんだよひーちゃん! 俺を置いて行くな!」 周囲のざわめきがにわかに大きくなる。 《なに、あの子達、知り合い? 》 《せっかくのハンサムなのに、幻滅〜ッ》 《あんなのがいるんじゃ、うちの子、真神に入れるのよすわ》 等等の声が聞こえてきて、ようやく天野は事情を悟った。ひいては自分も、彼と知り合いだと見られている事に。 「何だァ、ひーちゃん!? なぜ逃げるんだ、ひーちゃん!? おい、ひーちゃん! どこ行くんだ、ひーちゃん!」 「うるさい! 付いてくるな!」 「何だよいきなり! 冷てェぞ、ひーちゃん!」 龍麻本人は今まで自覚していないが、他人にとっては驚天動地のあだ名を連発しながら追ってくる京一。龍麻は目立つのが嫌なだけだが、醍醐と天野にとっては恥ずかしくてしばらくこの辺りは歩けなくなってしまうと必死になって逃げた。 「ぬははははは〜ッ! 俺から逃げられると思っているのか〜ッ!」 「ぬう…!」 補習が終わった嬉しさのあまり壊れた京一に対し、龍麻は懐から取り出した手榴弾の安全ピンを抜いた。 「わッ! やめろ龍麻! それだけは堪えろ!」 「放せ醍醐! 今殺らずにどうする!」 「もう《王華》だ! あそこに逃げ込もう!」 龍麻を羽交い絞めしながら、天野と共に《王華》に逃げ込む醍醐。親父さんの「らっしゃい」の声に迎えられながら、ぴしゃりと引き戸を閉める。数秒後、京一の高笑いが《王華》の前を走り抜けていった。 龍麻は手榴弾のピンを戻し、服のほこりを払って身だしなみを調えた。 「さて、天野殿。お話を伺いましょうか」 「…さすがは龍麻君。話題の切り替えが早いわね」 「恐縮です」 と、龍麻が改めて敬礼した時、店の扉がガラッと開いた。 「ぬはは〜ッ! ここにいたか〜ッ!」 まるで東北地方の伝統的妖怪《なまはげ》のごとく現れた京一を、問答無用の《雪蓮掌》(先ごろ制御に成功)で固める龍麻であった。 第九話 鬼道 1 完 目次に戻る 前(邪神街 4)に戻る 次(鬼道 2)に進む コンテンツに戻る |