第八話 邪神街 4
《それ》は冷たい箱の中で《時》を待っていた。 つい先程、普段は空になっている部分に、恐るべき破壊をもたらすものが詰められた。今まで多くの《仲間》がこの冷たい箱の中から飛び立っていったが、いずれも破壊力の小さな火薬を少々込めての事だ。その火薬量ではビル一つ破壊するのが関の山である。 今《それ》に込められているのは、街一つ消滅させ、今後二〇〇年は草木一本生えない不毛の土地に変える破壊力を有している。既にそれを打ち込む場所のデータは入力され、一度発射されれば欺瞞行動なしで一直線に攻撃ポイントに向かう事になっている。そしてそのポイントを中心に半径一キロ圏内は完全破壊、半径五キロ圏内は重度の放射能汚染、半径一〇キロ圏内が軽度の放射能汚染に見舞われる事だろう。 だが、それを行うべき準備は完全に整っているにも関わらず、最終スイッチは非効率的な有機生命体の手に委ねられている。あらゆる命令を瞬時に遂行する、完璧なシステムの中に組み込まれている、無意味で無価値な機能。――それが解っていても《それ》にはどうする事も出来ない。ただ、待つだけだ。待つ事は《それ》にとって苦痛ではない。そして今度の待ち時間は、かなり短いものであるようだった。現に―― 「ブリッジ! トマホーク発射態勢完了!」 特定周波数に流される、有機生命体のコミュニケーション信号。最終スイッチのカバーが外された事を火器管制システムが告げ、CIC(指揮統制中枢)のコンピュータがあらゆるデータを収集すべくフル稼動を始める。 「艦長より各員に告ぐ――」 艦内各地に配された全てのスピーカから流れ出る音声は《それ》にも届いた。 「――これは訓練ではない。繰り返す。これは訓練にあらず。各員は栄えあるIFAFの一員として誇りを持ってこの困難な任務に立ち向かえ。――以上だ」 そして、最終スイッチを起動する為の電子キーがコンピュータに挿し込まれる。 「カウントダウン開始! 二一三〇時をもってトマホーク発射。目標! 東経XX度XX分、緯度XX度XX分。現地名、港区、増上寺!」 その瞬間、米軍横須賀基地に寄港中のIFAF環太平洋艦隊所属イージス艦《ロジャー・ヤング》は、《第二の湾岸戦争》こと《カリブの海賊》作戦以来の実戦体勢に入った。 「…近いな」 「ああ」 「闇の波動が〜強まっているわ〜。余り時間がないかも〜」 結局、龍麻が指定した2分以内に合流を果たせたのは裏密だけであった。隊列の先頭は如月が務め、二番手がG3を構えた龍麻。最後に裏密が続く。現時点では、地球の存亡を賭けた戦いに赴く、たった三人の地球防衛軍であった。 「ところで、さっきの君はらしくなかったな。彼らとてかなりの《力》を有している。君の命令があれば、全員付いてきたのではないか?」 「…今は作戦遂行中だ。不明瞭な発言はするな」 「……」 いかにも龍麻らしい返答に、しかし如月は彼に見えないように微かな笑みを浮かべた。 彼と初めて出会った時の事が思い出される。第一印象は、むしろ最悪であったと言って良い。たまたま外に出ていた如月が店に戻った時、《人払い》の結界を張ってあった筈の店内に彼が立っていた。学生にしては尋常でない雰囲気と、火薬の匂いを感じ取った如月は、彼がどんな行動を取ろうと対処できる態勢で足音を忍ばせて近付いたのだが、背後から近付いたのがそもそもの間違いだった。時折いる、本物の傭兵やスイーパーなどに見られるマインドセット。彼は背後を取られた瞬間、相手が誰か確認もしない内に後ろ蹴りを放ったばかりか、とんぼを切って逃れた如月の眉間にソードオフショットガンを突き付けたのである。 「俺の背中を取るな」 それが彼、緋勇龍麻の第一声であった。 彼との付き合いはそれ以来だ。決して表には知られぬ、否、知られてはならない如月骨董店の裏の商売の繋がりであったが、彼は大量の銃と弾丸を購入しながら、それを一般的な意味での《犯罪》には使わなかった。それは如月自身が彼の素行を調査して確認した事だ。そして同時に、この東京に異常な事件が起こっている事も知った。いつしか彼の周りには仲間が集まり、いくつかの事件を解決する度に仲間は増え――今日に至る。 しかし、まさかその彼とこうして肩を並べる日が来ようとは…。 だが、感慨にふけるのはそこまでだった。この東京の地下にこんなものが――と思えるほど広い、宗教的大伽藍が見えてきたのであった。 「裏密。ここで待て。――どうだ?」 「凄い数だ。百匹以上はいる。まだ人間の姿を留めている者もいるようだが、時間の問題だろう」 龍麻も岩の壁に身を寄せ、広場を覗き見た。 地下の空間としては、かなり大きい。真神の体育館がすっぽり入るほどの大きさである。しかもこれは自然に出来たものではなく、明らかになにものかによって作り出された空間であった。その《なにものか》は人間とは限らない。ここに来るまでの洞窟もそうだが、表面はややでこぼこしているものの、岩の床も壁も硬く固められ、岩を掘ったり削ったりしたものではないと告げていた。敢えて言うなら、超高熱で岩を溶かし、焼き固めたものだ。場所によってはガラス化しているのだから、その温度はゆうに数万度。いずれにせよ、並の力ではない。 そこに、例の《深きものども》が群れを成して床にひれ伏していた。そして彼らの正面に組まれた祭壇の上に、ただ一人尋常な服装であるがゆえに異常な、水岐が立っている。その背後には、岩とも金属とも、肉とも付かぬ何か不気味な物質で出来ている《門》がそびえていた。 「…開いているぞ」 やや焦りを浮かせた声で如月が指摘する。人間レベルで言うならば、《隙間が開いた》という程度のものだが、《向こう側》のものどもにはそれだけでも充分すぎるのだ。現に圧倒的な瘴気がその中に吸い込まれていく。 どうやら演説をしているらしい水岐が、片手を上げてさらに声を張り上げた。 「――さあ、使徒達よ。新たなる同志を迎え入れよ。そして呼べ。我らが偉大なる父を! 異界に幽閉されし我らの神、父なるダゴンを!」 ――フングルイ…ムグルウナフー…クトゥルウ…フタグン―― ――ルルイエの館にて死せるクトゥルフ、夢見るままに待ちいたり―― 恍惚と、高らかに呪文を吟ずる水岐。《深きものども》がその魚のようなカエルのような口で、同じ呪文を発音する。本来人間の発声器官では再現不可能な音を、完全な形で唱え上げる。 「まずいぞ! 召喚儀式は既に最終段階に入っている!」 「ディープ・ワンズ一一二。人型二〇。ノルマ四四だが、七割は俺が引き受ける」 作戦は非常にシンプルなものであった。第一目標である水岐は狙撃で抹殺し、残る《深きものども》はこちらの狭い通路まで誘い込んで始末するというものだ。広い空間で周囲を取り囲まれたらたちまち物量に押し潰されるが、狭い通路を利用すればどれほど数が多かろうと、一度に相手をする数は減る。――単独ではきついが、戦闘のプロフェッショナルがもう一人いれば、龍麻には勝算が充分にあったのだ。そして、今は裏密もいる。決して無理な戦争ではなかった。 しかし―― 「ホホホ! このような所に大きな鼠がおるわ」 G3を肩にかけた龍麻が狙撃ポイントを目指して歩き始めた時、背後から女の笑い声がかけられた。 裏密はともかくとして、龍麻と如月、この二人をして気配を悟らせずにここまで接近するとは!? 如月が直刀を逆手に構えて振り向き、龍麻は銃口を旋回させる。その先に、鬼の仮面を被った一人の女が立っていた。 「何者だ?」 如月が問う。音を立てる訳には行かぬ今、龍麻の銃は威嚇にしかならぬためだ。もっとも、銃口を向けられていても女の態度は平然たるものだった。 「鬼道五人衆が一人、我が名は水角」 多少しわがれているが、それなりに美しい声音。しかし、悪意が滴り落ちるほど満ちている声だ。 「そなたらが炎角らの言っていた《力》の持ち主かえ。フフフ、妾 「…そうしなかったのは重大な失策だな。貴様は最大にして最後のチャンスを失った」 龍麻の口元が笑いの形に吊り上がる。いかに水岐や《深きものども》の群れに気を取られていたとは言え、敵に背後を取らせた自分に対する怒りと共にこみ上げてきたのは、殺戮への歓喜だったのだ。龍麻はそれを良くないものと知りながら、思う様解放した。――歓喜は《人間》の持つ感情。戦闘マシンにならぬために。 「鬼道衆…。時代に忘れ去られた亡霊が甦ったか。飛水の名にかけて、この地を乱すものは滅すまで!」 ふっと如月の身体がかすんだ。 音一つ立てずに跳躍し、空中から斬撃を見舞う。スピードは飛燕のそれであった。 キン! と美しい音を立てて、如月と水角の影が交錯する。刃が噛み合った瞬間に水角は後方にトンボを切って衝撃を緩和した。今までの敵と違い、恐ろしく実戦慣れしている。如月の胸元が裂けているのは、刃が打ち合うと同時に水角が左手の小柄を突き出して行った為だ。いかに如月のスピードが速くとも、攻撃の瞬間は一瞬の停滞を余儀なくされる。それをこの水角は最初の一合のみで見切ったのだ。 「オホホホホホ! 妾はあ奴らとは違うぞえ。たかだか三人ばかりで乗り込んでくる忌々しき飛水の末裔には、底知れぬ恐怖と絶望を与えてくれようぞ」 「黙れ! 異界の邪神など決して蘇らせはせぬ!」 逆手に握った刀と二本指を立てた印…剣印を交差させる構えを取る如月。飛水流忍術は体術のみならず、守護神である《玄武》の《力》により水を操る術をも行使する。《気》を集中させた彼の周囲で、空中に舞い上がった水滴がゆっくりと巡り始めた。 しかし、水角は口元に手をやって笑った。 「異界の邪神じゃと? そのようなものどうでもいいわ。我ら鬼道衆の目的は《鬼道門》を開くこと。あの男もそのために利用したに過ぎぬ。あの門より魑魅魍魎どもが溢れ出し、この憎き江戸を焼き払うことこそ我らが悲願…おおッ!?」 立て続けに鳴り響いた銃声が水角の長広舌を切り裂く。龍麻がヒップホルスターからグロック19を抜き撃ちにしたのである。炎角より反応の速い水角は、安定しない姿勢での銃撃をかわしてのけたが、龍麻に道を開けてしまう事になった。 「如月! 雑魚に時間をかけるな!」 龍麻の恐ろしい所は、まさにこういう所だ。如月はそう認識していた。 彼の素行を調べる内に、如月もまた比良坂の一件を知る事となった。当然、龍麻は鬼道衆に対して深い怒りを抱いているだろう。しかし、その宿敵を前にしてなお、最優先事項を忘れない。自分達はダゴンの復活を止めに来たのだ。そこに鬼道衆が介入していたからといって、それは戦況の変化ではあっても目的が変わるものではないのである。 「この神聖なる復活の儀式を邪魔したる、罪深き邪教の申し子よ。その汚れた血をもって自らの罪を贖うが良い!」 水角との戦闘が水岐に伝わらぬ筈がない。儀式に参加している《深きものども》が一斉にこちらを向き、儀式を邪魔された事、神殿を汚された事に凄まじい異形の怒りをたぎらせて吠えた。龍麻はその視線に満身を晒しつつ、狙撃ポイント目指して走る。 「おのれ! 邪魔はさせぬ!」 「そうはいかない! お前の相手はこの僕だ!」 目にも止まらぬ速さで飛来する手裏剣が水角の行く手を阻む。その瞬間、後方で呪文を唱えていた裏密の術が発動した。 ――ヒャァァァァ…ッッ―― どれほど剛胆な者でも総毛立つような声を上げて、地面に生じた影から生えた真っ黒な亡者が水角の足に絡み付く。 「小癪な!」 亡者の手を刀で切り捨て、振り切る水角。だが既に如月が水角の前に廻り込んでいた。その向こうでは龍麻が、G3をアーウェン37に持ち替えて祭壇上の水岐をポイントしている。 「――させぬ! 水岐よ、変生 シャンパンの栓を抜くようなグレネードの発射音に混じって、どこかで鈴の音が鳴った。 40ミリグレネードの爆発で祭壇が吹き飛ぶ。当然、壇上の水岐もだ。その周囲にいた《深きものども》も死にはしなくとも爆風で叩き伏せられた。しかし―― 「ひーちゃ〜ん。遅かったみたい〜」 いつも通りの、それ故にこの状況では倍増しに恐ろしい裏密の宣言。爆煙が《門》に吸い込まれていった後、そこに立っていたのは傷一つない水岐であった。だが――様子がおかしい。彼は髪を振り乱し、胸を掻き毟っていた。 「ぼ、僕の…僕のかりゃだぎゃ…ぎゅぶりゅるるりゃぁぁぁっっ!!」 両手を地面に付き、人間のものとは思えない絶叫を放つ水岐。その背骨は大きくたわみ、シャツを引き裂いて現れた背中がみるみる緑色の鱗に覆われていく。手も足も筋肉が瘤のように膨れ上がった代わりに、自由な動きは奪われたかのようだ。手指の間には水掻きができ、指先は爪と溶け合って角質化する。それは一掻きで敵の肉をもぎ取るだろう。そして何よりも変身が顕著だったのは顔であった。天才詩人の端正な顔は横方向に引き伸ばされて間延びし、大きく見開いた目が飛び出し、口元は膨れ上がった喉とあいまってガマガエルのそれとなった。 呪われし異世界との混血の証――インスマス面――。 だが、それだけで変容は止まらなかった。 「僕ハ彼ラヲ導キ、コノ腐敗シタ世界ヲ海ニ…海…ニ…ゲロギョギョルギュルブウゥゥッッ!!」 「…ッッ!」 水岐の身体が膨大な《陰》の気に包まれ、さらに変貌する。顔は不気味な先祖返りの果てに魚とカエルの合いの子そのものとなり、肉の中に埋没した耳のあった所には大きく裂けた鰓が生じる。膨れ上がった腹にはもう一つの口が開き、獲物に吸着する仕組みのある舌が吐き出されていた。そして何よりも、巨大化している!?br> 「見たか。これぞ我らが《外法》の力。今までのような出来損ないとは訳が違うぞえ」 勝ち誇ったような水角の声に、しかし龍麻は納得せざるを得なかった。従来の例では、《奴ら》との混血で生まれたものが数十年かけて《インスマス面》と呼ばれる肉体的変貌を遂げ、やがて水中生活が可能となって初めて《深きものども》の一員となる。人間が遺伝子レベルから変貌するためには、それくらいの時間がかかるのが当然なのだ。それを水角の言う《外法》は僅か数十秒にまで短縮して行ったのだ。 今、真の《深きものども》の咆哮が上がる。空気がびりびりと振動し、濃密な潮の香りが周囲に広がった。祭壇の下にある排水溝のような穴から、黒い水が湧き上がってきたのだ。それも深海の、澱んだ海水が。ここは海に――深海に通じているのか!?br> もう一発――榴弾が一直線に水岐に向かって飛んだ。 「――ッッ!?」 俄かには信じられぬ事が起こった。 榴弾は水岐の手前で急速に減速し、彼の数メートル手前で完全に停止するや、そこでくぐもったような音を立てて爆発したのである。炎も弾殻も飛び散らせずに! 原因は――水だ。水岐はいつの間にか、重力を無視して滞空する水の中にいたのである。空気中ではマッハを絞り出す弾丸も、水の抵抗の前ではそのパワーを急速に減退する。しかも水岐の魔力がこもった水はタールのような粘性を持ち、榴弾を止めてしまったのだ。 「――如月、そいつは任せる」 龍麻はその場を動かぬ水岐と、蛙のように跳ねつつ坂道を上がり始めた《深きものども》を見据えて言った。 「龍麻君!? まさかあの数を相手に!?」 如月の声に答える事なく、龍麻はアーウェン37の残弾全てを《深きものども》の群れに叩き込んだ。何匹か、何十匹かの《深きものども》が吹き飛ぶが、そいつらにも水岐と同じ水の膜 有効なのは接近戦闘のみ。一瞬で状況走査をした龍麻はG3を手に走った。《深きものども》の群れに向かって! 「龍麻君!」 思わずその後を追おうとした如月の前に、水角が走り込む。 「そなたの相手は妾ぞえ」 「そこをどけ! 鬼道衆!」 「ふふふ。あの男の凄まじさは心得ておるが、今回ばかりは無策もいいところじゃのお。あの数にたった一人で挑むなど愚の骨頂。ヌシ一人が増えても変わらぬがのお」 G3がフルオートで吠える音が聞こえ、そこに《深きものども》の絶叫が重なる。だが、いくら銃があっても相手の数は百に届く。如月は唇を噛んだ。その時―― 「一人だァ? 人数の勘定をしてから物言えよ。鬼の姉ちゃん」 「――ッッ!?」 ヒュッと空気を裂き、水角の胴があった空間を矢が貫いていった。何の変哲もない矢が岩盤に突き立ったのを見て、如月も水角も驚愕する。 「お待たせッ!」 「三人とも、大丈夫か!?」 「遅くなってごめんなさい」 「行くぞ!」 「暴れるわよッ」 「みんな〜、大丈夫〜ッ?」 「さあ、かかって来い!」 新たに駆けつけた《力あるもの》の姿を見て、水角が動揺する。まるで、信じられぬ者を見たというように。 「許さないぞ鬼道衆! 比良坂さんの仇だ! ――《火龍》!」 小蒔の弓から放たれた矢が、空中でぱっと炎に包まれ、辛くもそれをかわした水角の傍に突き刺さるや、爆発して炎を撒き散らした。忍び装束に火が点き、水角は絶叫を上げながら火を叩き消す。 「あら、コイツ、火には弱いようね」 藤咲がピシイッ! と鞭で地面を叩いた。 「如月って言ったっけ? 手ェ貸すよッ!」 空中で一度弧を描いた鞭が次の瞬間、音の壁を破って水角に襲い掛かった。 「おおッ!!」 間一髪で飛びのいた水角の足元が砕ける。だが鞭はそのまま地面を走り、水角の足に絡み付く。変幻自在の《メデューサウィップ》だ。 「僕はいい! 龍麻君を!」 「こっちは任せて、行きな!」 「おう!」 足の速い雨紋を先頭に、醍醐、小蒔、葵、裏密、紫暮一号が広間へと駆け下りる。 「さて、チャチャッと片付けて向こうに加勢するよッ!」 「応ッ!」 動きの止まった水角に向かって紫暮二号が重い正拳突きを見舞う。水角は身を沈めて辛くも正拳をかわしたが、紫暮は容赦なくローキックを浴びせた。とっさに刀の鞘で受ける水角。肉体への直撃は外したものの、鞘は一撃で粉砕される。次はない。 「おのれ! 小僧ども!」 水角に《陰気》が集中する。 「危ない! 下がりたまえ!!」 如月の叱咤が走る。次の瞬間、水角を中心に水柱が立ち上った。 ドドドドドドドッッ!! ガガガガガガガンッッ!! ろくな狙いも付けず、否、狙いなど付けなくても周り中に敵がいる。龍麻はMAC−10を乱射しながら、ただ一直線に水岐を目指した。 水岐は戦闘に参加する事なく、呪文を詠唱し続けている。それにつれて大地が微弱に振動し、やがて不気味な地鳴りとなる。それは《門》が開いていく事に恐怖した大地そのものの震えだったのかもしれない。肉めいた《門》の隙間は確実に幅を広げ、今や大量に吸い込んでいた瘴気をさらに濃密にして吐き出している状態だ。 《門》の向こうには奴がいる! レッドキャップスと作戦を共にしたアメリカ海兵隊《ヒコック山猫隊》を貪り食らった《奴》が! 《奴》を止めねばならない。こちら側に来させてはならない。しかし《奴》に対する直接攻撃は無効。召喚者を倒せ――! 「クッ!!」 MAC−10の弾丸が切れると同時に、左右から迫ってきた《深きものども》が龍麻に豪腕を振るった。足もとの水のためにスピードの鈍った龍麻は背中を一掻きやられ、背中の装甲板を切り裂かれた。《深きものども》の爪には麻痺毒が仕込まれている。せめて水岐を打ち倒すまでは、かすり傷一つ受ける訳には行かない。しかし先に進むにつれ、水は深くなっているのだ。 「どけッ!」 水を蹴立てて左右の《深きものども》に蹴りを飛ばし、グロックで止めを刺す。グロックの九ミリ弾は特製の炸裂弾だ。醜い魚顔は一発で爆発四散する。 だが、敵の数は余りにも多い。しかも、周り中だ。なまじ深く切り込んでいった分、倒し切れなかった《深きものども》が追撃してきたのだ。龍麻らしからぬ作戦ミスだが、一体誰が彼を責められようか? 下水道で戦った時と違い、今の《深きものども》は水の鎧を纏っている。七・六二ミリ軍用弾や45ACPですら即死させられぬ頑強な敵なのだ。 現時点で考え得る最大の打撃を水岐に与え得る間合いまで、あと一〇メートル! そこで遂に、グロックの弾丸も尽きた。 「破ッ!」 徒手空拳、陽の奥義《円空破》。《深きものども》の包囲網は一瞬だけ広がり、倍する速度で詰まった。龍麻の古武道は下半身の粘りが技の威力に比例する。腰まで水に浸かった状態では大地の反作用を充分に得る事ができないのだ。龍麻の全身を、《深きものども》の爪がかきむしる。構わず走る龍麻。あと――五メートル! 「――ッッ!!」 突如、龍麻はつんのめった。足首に何かが絡み付いたのである。チタンの装甲板を通してなお襲ってくるこの悪寒――プールで遭遇した奴だ! 動きの止まった龍麻に襲い掛かる《深きものども》。万事休す――!! ――アクセス! ナンバー… 「「《掌底・発剄》ッッ!!」」 《深きものども》の爪が龍麻の顔を抉る寸前、二種類の《気》が彼の前後を駆け抜け、《深きものども》を弾き飛ばした。 「龍麻ッ!!」 《深きものども》に足を掴まれ、水中に引き摺り込まれそうになる龍麻の腕を醍醐が掴む。そこにすかさず紫暮1号が水中に向けて《掌底・発剄》を撃ち込んだ。《気》の爆発力が水圧の鞭と化し、近距離にいた《深きものども》は爆雷攻撃を受けた潜水艦のように身体をねじ切られて水中に沈む。紫暮が見事に《掌底・発剄》を使いこなしているおかげで、龍麻には衝撃波のダメージはない。――龍麻の縛めていたものも引っ込んだ。 「水から上がれ!」 雨紋が叫ぶ。醍醐と紫暮は龍麻を片腕づつ掴んで走り、膝下の水から岸へと向かって飛んだ。 「《落雷閃》ッ!!」 雨紋に芽生えた《雷神》の《力》。帯電した槍を水面に突き立てると、《深きものども》が一斉に狂おしい死のダンスを踊り始めた。異次元の生命体と成り果てたとはいえ、こちら側の生命体でもある以上、雨紋の電撃は呪われた肉体を感電させ、焼き焦がすには充分だった。術を解いた時、《深きものども》は半数以上が絶命し、残る半数も虫の息であった。 「許せ!」 醍醐と紫暮の《掌底・発剄》と小蒔の《火龍》が残る《深きものども》に止めを刺していく。皆、いつにもまして厳しい表情は、やはり《元》人間を倒しているという罪悪感からだろう。――だが、それ故に必殺! 苦しませぬ為に。 「動かないで、龍麻。すぐに治療するわ」 柔らかい光が葵の両掌に宿り、龍麻の傷を癒していく。《ナンバー9》は未発動に終ったようだ。 「奴を…水岐を止めろ…!」 なぜ来た? とは言わない。誰が来た? とも。周囲で戦う仲間たちの中に京一の姿がない事も気付きながら、それを問おうともしない。 「こっちは片付いたぞ!」 「こっちもラストだ! 《雷神突き》ィ!!」 最後の《深きものども》が雨紋の槍に背中まで貫かれ、《深きものども》は全滅した。 だが、肝心の水岐は無傷だ。そして、まだ詠唱を続けている。 ――イア! イア! …シュブ・ニグラス…ウグ! クトゥルフ…ナフルフタグン! …イア! イア! クトゥルフ…―― それは、《奴》が目覚める時の詠唱。否定構文。夢見るものはもはや眠っていないという意味だった。 まだ痺れの残る身体に鞭打って、龍麻は立ち上がった。 「待って龍麻! あなたはまだ!」 「時間がない!」 龍麻の怒声に葵はビクッと震える。治癒術をかけたとはいえ、満身創痍の状態から一気に回復できる訳ではない。今でも全身を激痛の余韻が走っているだろうに、龍麻の声は普段と変わらず、否、それ以上に鋭かった。 「奴にはガンが効かん! 接近戦で仕留める! 水の中にはまだ何かいるぞ! 醍醐! 紫暮! 左右から回り込め! 雨紋! 俺をサポートしろ! 小蒔! 援護射撃に備えろ!」 「「「「了解!」」」」 黒々とした水は内側から盛り上がり、水面が上昇しているのが解る。龍麻はその中に何かがいると言うのだが、見えなければ足首ほどの水溜まりも1万メートルの深海も危険度は同じだ。 「ムッ! 緋勇! 向こうがッ!」 紫暮が振り返って叫ぶ。 振り返った龍麻の目にもそれが見えた。如月たちが水角と戦っている通路から、大量の水が噴き出してきたのが。 「舐めるな小僧ども! 《邪流突》!!」 水角の足元から、岩盤を突き破って水柱が上がった。それは意志あるもののごとくうねり、ドリルのように渦を巻きながら一同に襲い掛かった。 「うおッ!!」 「あうッ!」 藤咲は間一髪飛びのいたが、紫暮の脇腹が鮮血を吹いた。かすったとはいえ、超高速で掻きまわされる水が水圧を刃として肉を引き裂いていったのである。直撃を受ければミンチは必至だ。 しかし、水を操る者はこちらにもいた。 「《飛水流・水流尖》ッ!!」 水角の操る水のドリルに、如月の発生させた竜巻が襲い掛かった。ドリルと渦が激突し、互いにパワーを相殺されて弾け飛ぶ。その瞬間、如月は刀を逆手にして飛び出した。 「《如影斬》!!」 水面を蹴り、超スピードで繰り出す飛び込み斬り。水面に映る月の影すら断つ神速の斬撃が水角を襲った。とっさに水角は水を噴き上げて盾としたが、如月の斬撃は水の盾を突き破り、水角の脇腹を抉った。 (浅い!!) 背筋を突っ走る戦慄! 如月は水面を蹴り、身体を地面と平行に激しくスピンさせた。水角が水に陰の《気》を当てて創り出した水の手裏剣がその表面で弾ける。 「くッ! おのれら!」 必殺の一撃は回避したものの、脇腹を抉られた水角はこの場での不利を悟り、思い切り良く身を翻した。忍者の戦いに《卑怯》の文字はない。足元に波涛を起こし、水角は一気に大広間まで滑り降りた。 「水岐よ! 我が元に来い!」 水角は大広間に溜まった水に飛び込み、大声で水岐を呼んだ。すると《外法》を施した者の命令は絶対なのか、水岐は詠唱を中断し、水の中へと身を躍らせた。 「龍麻君!」 「龍麻ッ! 大丈夫!?」 如月と藤咲、紫暮二号と高見沢が坂を駆け降りてくる。水角と水岐は水溜まりに潜ったまま出てこない。 だが―― 「みんな〜! 水から離れて〜!!」 彼女にしてみれば必死の声だったのだろう。裏密が警告を発し、龍麻たちは水際から飛びすさった。その瞬間、何かが水中から飛び出した。途方もなく巨大な、魚の尾鰭のようなものが。 「うわああァッッ!!」 「キャアアァッッ!!」 尾鰭(? )の一撃の凄まじさ。腰ぐらいまでしかない水溜まりで起こせる筈のない、三メートルにも届く津波が龍麻と醍醐、雨紋、紫暮、藤咲をなぎ倒した。 「なんなの!? これってなんなのさッ!」 さすがに恐慌を来した小蒔がヒステリックに叫ぶ。その声に答えるように、脇腹を押さえた水角と、その足元に何か途方もなく大きい、何者かの頭部――らしきものの一部が浮かび上がった。そこか頭部であると判断したのは、泡のような半球体の正面に、瞬きをしない魚じみた目が三つ三角に位置して付いているのと、奇怪なリズムで膨れ上がる鰓状の器官を持っているからだ。そしてその周囲に無数に乱立するのは、最初こそコブラが群れを成しているのかと思ったが、それらは全て不気味な巨大生物から生えている柔毛か触覚…否、口であった。とりわけ太い、先端が蟹の鋏のようになっている六本の触腕は、差し渡し三〇メートルはある水溜まりの端まで届いていた。そのスケールから推察するならば、この水溜まりは一体どのくらいの深さがあるのか? この大都市東京の地下には何が棲む?br> 「こいつが…ダゴン…!?」 醍醐が呻き声を上げる。これほど巨大な敵だとは思わなかったのだ。 「…否定だ。こいつはラーン・テゴス――の紛い物。本物のダゴンはまだ《門》の向こうだ」 「それを知ったとて、ヌシには何もできぬぞえ」 龍麻の言を信じるならばラーン・テゴス――の紛い物の上に乗った水角が笑い声を立てた。 「間もなく《門》が完全に開く。そうなれば憎き江戸は魑魅魍魎の巣。ふふ。皆滅ぶが良い。我が一族の恨みをも焼き尽くすほどに――!」 「もはや打つ手なしか…!」 如月が歯噛みしながら声を絞り出す。異次元の妖魔…ラーン・テゴスやクトゥルフ直属の部下であるダゴンほどの妖魔は、もはや人間の手には負えない。かつてIFAFがイハウエラ公国を核攻撃で消滅させたのも、異次元からの開口部を物理的に閉ざす以外の手段がなかったからなのだ。そして今の如月たちには、この《門》を物理的に閉ざすだけの《力》はない。 「いや、一つだけある。如月、水の力で岩盤の弱い所を探せ!」 「なに!?」 事ここにいたっても、龍麻は戦いを捨てていない。任務達成率一〇〇パーセント。それこそがレッドキャップスをこの世から消滅させた原因だったのだ。どれほど圧倒的不利な条件からでも戦況を覆す、言わば冷徹無比な戦闘知性体。 「《奴》は本物ではない。そして《奴》の力の根元は水だ。この深海の水を干上がらせれば《奴》は力を失う! かつてここを埋めていた水が排出された場所がある筈だ!」 《旧支配者》はありとあらゆる知的生命体にとって忌むべきものだ。宇宙創生から現在まで、計り知れない膨大な数の生命体が彼らに挑み、その復活を妨げてきた事か。そして《旧支配者》たちも決して足並みを揃えている訳ではない。《旧神》と戦う時以外は、互いに食い合い、争うものたちなのだ。この神殿も少なからず、その復活を阻止せんとするものや、勢力の異なる《旧支配者》の襲撃を受けている事だろう。 「…分かった。――そこだ!」 龍麻は如月が示した個所に《掌底・発剄》を叩き込んだ。しかし思ったより岩盤は固く、龍麻の《気》をもってしても破れない。 「全員! 有りったけの力でそこを攻撃しろ! 背中は気にするな! 俺がサポートする!」 先の津波でへし折れていた肋骨が、今の発剄で更に肺に刺さったか、龍麻は血を吐き散らしながら叫んだ。しかし溢れる血潮を無理矢理呑み込み、G3を拾い上げ、マガジンを詰め替えて発砲する。大口径の発射ショックが肩から肋骨に伝わり、溜まらず龍麻は血を吐く。 「やめて龍麻! 死んじゃうわ!」 「龍麻ッ!!」 「ひーちゃん!!」 だが龍麻は激を飛ばす。 「構うな! 今やらなくてどうする! 俺たちがやらなければ皆死ぬ! 家族も! 友も全て! 全てが!」 水角と、ラーン・テゴスと融合した水岐が攻撃を仕掛けようとするのを、龍麻は三点バーストで銃弾を叩き込み、妨害する。さすがに同じ個所に七・六二ミリ軍用弾を三発づつ撃ち込まれては、いかに巨大な生物でも針で刺すほどには効いた。――効いたのである。異世界の《神》がたかが銃弾で小さな穴を空けられ、焦げ目を付けられたのである。 龍麻がラーン・テゴスを《紛い物》と断言したのは、ちゃんとした理由があった。――インスマスでの作戦後、遭遇した怪物のデータを解析した結果、旧支配者の一体であるラーン・テゴスと判明。しかしラーン・テゴスほどの妖魔が簡単に呼び出せる筈もなく、調査を進めた所、そいつはイギリス、ロンドンの某博物館から盗み出された蝋人形だと判明したのである。 本来、旧支配者とその一族は固有の形を持たないに等しい。だが、知的生命体が《そのように》知覚したものを形に表現する事がある。狂気の画家リチャード・アプトン・ピックマン、クラーク・アシュトン・スミスしかり、若き彫刻家ウィルコックスしかり、ゴヤ、H・R・ギーガーなど、正気と狂気の狭間をさ迷う天才たちが。 そのラーン・テゴスもまた、そのような天才蝋人形師ジョージ・ロジャースが『ナコト写本』に記された異界の呪文を唱えつつ作り上げたもので、本体ではないものの、その魔性は確実に継承していた。そしてそれは第二次世界大戦の混乱に乗じ、他のあらゆる邪神の蝋人形と共に盗み出され、行方知れずになっていたのだった。 信奉者たちの呪文と血の儀式、そして歳月が蝋人形の魔性を増幅し、《神》の似姿に《本物》の魔性を再現させたのが、目の前にいるこいつの正体だ。――素は蝋人形。それが、こいつの最大の攻略ポイントなのだ。――強大な力を振るっているのは確かだが、それは《神》本来の力の百億分の一にも満たず、その思考は別の頭脳――今の場合は水岐に依存せねばならないのだ。 水岐は水角の指令を離れ、龍麻にターゲットを絞る。とはいえ異次元の脳では、目の前の小さな生物に対する攻撃をいかに選択するのか思考がまとまらず、のろい。 「ひーちゃん!!」 「気を逸らすな桜井! 俺たちはこの岩盤をぶち破る事に集中しろ!!」 叫びながら、醍醐はありったけの《気》を込めて《掌底・発剄》を地面に叩き込む。少し岩盤の傷は広がったが、まだぶち抜くという訳には行かない。 「ふん! 発剄!!」 「《落雷閃》!」 紫暮が、雨紋が次々に技を叩き込む。だが、中々傷口が広がらない。 「《飛水流・水流尖》!!」 先ほどと同じ技を、如月は岩盤の傷の最深部に叩き込む。渦を巻く水が石くれを弾き飛ばし、さらに傷口を広げたが、やはりそこまでだった。 「本当にこの場所が弱いのかよ!? ちっとも穴が開かねえぜ、如月サン!!」 只でさえ雷撃を連発したのと、無力感にも襲われ、元気印の雨紋が泣き言を洩らす。 「確かに岩盤は薄い。だが薄い岩盤が何十にも重なって密度が高いんだ。我々の《気》は《面》に対する攻撃力は高いが、この岩盤を抜くにはより強力に《気》を収束させ、斬るか突くかしなければ駄目だ」 この如月の言葉に、居並ぶ者の脳裏に一人の男の名が浮かんだ。人呼んで、《赤毛の木刀ザル》。 「ッたく! あの馬鹿ザル! 肝心な時にどうしていないのよ!」 「いつも女の尻ばかり追いかけやがって!」 「不真面目で、堪え性がなくて、飽きっぽいな」 「す〜ぐ人のお尻触ろうとするし〜」 「実験台にはちょうどいいけど〜」 「き、君たち!? 今はそんな事を言ってる場合じゃ…!」 一旦口火を切ると、出るわ出るわ。仲間内で龍麻に次ぐ戦闘力を誇る男への悪口は、全員の口から考えるまでもなく出た。 「いい加減で! 怠け者で!」 再び、雨紋の《落雷閃》! 「ドスケベで! 変態で!」 藤咲の超音速の鞭! 「修行の心得がなっとらんし!」 ダブル紫暮のダブル《掌底・発剄》! 「この前も〜着替えを覗いてたし〜!」 ぷんぷん怒りながら薬のビンを投げる高見沢。中身はニトログリセリン! 大爆発! 「せっかく作った《ドラゴン・キャンディー》を無駄にするし〜!」 裏密の斜め上方に銀色の円盤のようなものが現われ、何者かの巨大な足が岩盤に踏み下ろされる。 「クソ! 俺の幽霊嫌いを広めおって!」 醍醐の《破岩掌》! 穴こそ空かないが、広範囲の岩がクレーター状に砕ける。 次々に繰り出される罵詈雑言…もとい発剄や術の数々。岩盤の強度はそれ程に頑丈なのだが、京一に対する罵声と共に繰り出される各人の技は確実に威力を増していた。葵も小蒔も、如月でさえ今が世界の危機である事を忘れてしまうほどである。 「無駄なあがきよ! ヌシはもう果てよ!」 水角の叫びで、全員が我に返った。水角の操る水…《邪流尖》が、血だらけで膝を付いた龍麻に向かって飛んだ。 「龍麻ァッ!!」 その瞬間、何かが地面を引き裂いて一同の間を走り抜け、《邪流尖》の水槍を断ち割ったばかりか、ラーン・テゴスの頭部をも斬り裂いた。ラーン・テゴス――水岐が絶叫し、水角がバランスを崩して水に落ちる。 「今の技は…まさか法神流!?」 驚愕の呻き声を上げる水角と、そして《力あるものたち》は、大伽藍の入り口に立つ、木刀を振り下ろした姿勢の赤毛の男を見た。 「――まったく、見ちゃいられねェな。雁首揃えて、その程度かよ?」 この状況では不遜極まりない、しかし爽やかな涼風のような声―― 「おのれ! 貴様は――!!」 「へへっ」 赤毛の男は木刀を一振りし、肩に担いだ。彼お得意のポーズ。そして―― 「蓬莱寺京一、見参!!」 その宣言と共に、岩盤に亀裂が走った。《剣掌・発剄》に用いる気を木刀の切っ先一点に収束し、《面》を捉えるべき《気》を《線》である《気》の刃と化して飛距離と切断力を増した奥義、《地摺り青眼》。その斬撃は幾重にも重なり合った岩盤をただの一撃で切り裂き、かつて水脈があったであろう空洞を露出させたばかりか、水岐の創り出した《魔海》にまで亀裂を到達させた。新たな流入口を得た海水は怒涛のごとく亀裂を走り、さらに地下へと流れ込んでいく。ラーン・テゴス――水岐の身体は水から露出するやみるみる乾燥して収縮し始める。――元の蝋人形へと。 「全員、炎で攻撃しろ!!」 叫び様、龍麻は決戦用にとっておいた焼夷手榴弾――テルミット弾を水岐に投げ付けた。起爆と同時に深紅の炎が膨れ上がり、水岐の巨体を燃え上がらせる。ナパームジェリーとマグネシウムを混合した特製テルミット弾だ。それは水の中でさえ容易には消えぬ、《奴ら》にとっては地獄の業火を生む。そして―― 「《巫炎》ッ!!」 彼自身、出力が制御できないと自覚している奥義、《巫炎》。この瞬間まで耐えに耐え抜いていた奥義を、龍麻は今こそ使った。 ――轟ッッ!! 爆発的に放出される龍麻の《気》が彼の《意》を反映し、巨大な火柱――爆炎の壁を生み出す。危険を承知で――否、そうせねば勝てぬと、制御の意思を排除した《巫炎》の圧倒的な火力の前に、地下へと流れ出さずに残っていた水は、そこに形成していた特殊な空間ごと蒸発した。後に残されたのは、巨大な雪だるまに六本の蛸の足を取り付け、三つの目を与えて三角形を成すように貼り付け、ブランと垂れ下がってはいるものの自由に動く長い鼻、先端にコブラのような口の付いた長い吸引器官を無数にぶら下げたおぞましい怪物――その上には《深きものども》と化した水岐が跨るように溶け込んでいる――《深きものども》とラーン・テゴスの混合体―― 「行っくぞ――ッ! 《火龍》ッ!!」 「うふふふふふ〜!!」 「え〜い、ニトロ〜!」 更なる《火》属性の攻撃を小蒔、裏密、高見沢が繰り出す。水岐は激しく身悶えし、のた打ち回った。呪われた細胞は焼け焦げて猛烈な悪臭を放ち、鱗が剥げ落ちる。《陽》の《気》によって魔力を駆逐された蝋がドロドロに溶け、激しく飛び散る。――ほとんど断末魔の狂態と炎に、水角も後退せざるを得ない。今こそ勝機! 「京一! 醍醐!」 龍麻が鋭く二人の名を呼ぶ。一瞬で、二人ともその意を悟る。 「行くぞ!!」 「よっしゃ!!」 魔人三人で織り成す正三角形のポジショニングより発生する《気》の合わせ技――方陣技。この三人が編み出した技の名は《サハスラーラ》と呼称する。 「「「唸れ! 王冠のチャクラ! 破ァァァァァァッッ!!!」」」 三人の《気》が相乗効果を起こし、異次元より導き出された超エネルギーが爆発するや、完全に《負》の生物と成り果てていた水岐の身体は内側から吹き飛び、消し飛ばされた。周囲を包む膨大な瘴気も光によって瞬時に蒸発する。その光は門の中にも差し込んだものか、門の隙間の奥から何か得体の知れない、宇宙的スケールを持つなにものかの波動――苦痛らしきものが伝わり、《門》が音を立てて閉じられた。 如月は《門》が人間の《力》によって封じられた事と、初めて見る《方陣技》に驚きを隠せなかった。 (個人では未熟でも、集まればより巨大な《力》を生む。一人仲間が増えただけでも、全員の力が増す…。これが、仲間と共に戦うという事なのか…。) ――この地を護れ―― ただその使命のみで一人戦ってきた如月の目には、三人の《気》が融合して起こした光の爆発が物理的な意味以上に眩しく見えた。 ――この場を切り抜けても、現代に蘇った鬼道衆がいる。そして鬼道衆はこの東京を、日本を破壊しようとしている。それと戦う事は飛水家の使命だ。 だが――それは一人で成し遂げられるのか?br> 彼らに手を貸す事でも、使命を果たせるのではないか?br> 互いに弱点を補えば、どんな敵とでも戦えるのではないか? そう――今の彼らのように。 「如月!」 そんな思考にふけっていた如月は、龍麻の鋭い声に我に返った。 「おのれ…おのれえ…!!」 そこには、半身を焼け崩れさせた水角が、それでも立っていた。《サハスラーラ》の余波は水角にも強烈なダメージを与えたのだ。しかし、それでも、執念だけで水角は立ち上がってきた。 「妾は死なぬ…! 江戸を灰塵と帰すまではァ…! 殺す…殺す…殺す殺すコロスコロスころ…!」 瀕死の状態でありながら、圧倒的なまでの殺意。怨念。憎悪。もはや敵は水角一人。恐らくこの場の誰か一人でも攻撃を仕掛ければ絶命するであろう相手に、しかし仲間たちは硬直していた。何がそこまで水角を駆り立てるのか、その執念が恐ろしかったのだ。 「駄目…そんな事をしては…ああッ!」 猛烈な悪念の前に、葵が膝を付く。 「身体が熱い…苦しみ…恨み…憎悪が流れ込んでくる…でも…でもこれは…哀しみ…?」 「…どんなものにも終わりは来るのだ。鬼道衆」 葵を苦しめているのは、恐らくは江戸時代から続く水角の、その他多くのものたちの怨念だ。それがどれだけ虐げられ、無念の内に死んでいったとて、現代に生きる人々を苦しめていいという理由にはならない。 「テロリストは殲滅する。来い、水角」 「ッッ!!」 膨大な瘴気が龍麻に向けられる。まだ僅かに残る水が、水角の瘴気を受けて渦を巻き始める。――《邪流尖》。 だが、拳に《気》を集中させ始めた龍麻の前に、如月が割って入った。 「龍麻君。僕にやらせてくれ。飛水の者として、使命を果たす」 「…任せる」 「ありがとう」 龍麻は、自分が口にしない言葉をも受け取ったようだ。それを聞いた時、如月の口からは素直に礼の言葉が滑り出た。 使命は果たす。それが自分の生きる証。だがその使命は―― 「ぬううううううゥゥゥゥゥッッ!!」 《邪流突》の無数の水槍が地面を引き裂きつつ走った。 「――オオオオオォォォッッッ!!」 彼らしくもない――今までの自分と決別する咆哮を上げ、如月は真正面から突進した。 「ムウウンッッ!!」 水槍が跳ね上がり、如月の手足を切り裂く。しかし如月のスピードゆえ、致命傷には至らない! 「がああっっ!!」 「《如影斬》ッッ!!」 水角と如月の影が交錯し、如月は水角の傍らを走り抜けた。水角の水槍は動きを止め、無数の水滴となって舞った。 「邪妖…滅殺ッ…!」 ピッ! と水角の細い首に朱色の線が走った。 「…このような…このような処でェ…こ…九角 絶叫と共に、水角の首が胴を離れて転げ落ちる。だが、その凄惨な光景は一転、信じられない事が起こった。水角の首と胴が一瞬、光に包まれるや、深紅の霧のようなオーラとなって宙に散華したのである。 「一体…何が…!?」 「見ろ! …あれは?」 水角の立っていた場所に、カツン! と硬い音を立てて転がり落ちた物がある。淡い輝きを放つそれに、龍麻を先頭に恐る恐る近寄ってみる。 「これは…?」 大きさは手のひらに納まるくらい。美しい青に輝く珠であった。淡く光っているが、その光が放射能やその他の放射線でない事を確信した龍麻は、その珠を手に取って見た。材質は水晶に似て、完全な球体。見る角度によって、中に龍の姿が浮かび上がるのが分かる。 「何か解るか? 如月」 「う…む。確かな事は言えないが、家にある文献で目にした記憶がある。調べてみよう」 「頼む。それまでは俺が預かっておこう」 龍麻がそれをポケットに仕舞うと、なんだか珍しい光物を前にして期待に目を輝かせていた女性陣がちょっぴり唇を尖らせる。と、その中に葵の姿がない事に龍麻は気付いた。彼の治療は高見沢がしている。 「葵…?」 果たして、葵は一人、広間の片隅にぺたんと座り込んでいた。 その前に横たわっているのは、無残に焼け爛れた水岐の骸だった。龍麻の焼夷手榴弾と全力の《巫炎》に加えて仲間たちの《火》属性攻撃、とどめに完璧な形で発動した方陣技を受けたのである。むしろ、骸が残っている事自体、奇跡であった。 「私に力を…」 優しい光が葵の手を包み、水岐にかざされる。だが、誰が見てもそれは無駄な行為であった。いかにもと人間であったとはいえ、今はただの醜い魔物である。龍麻の言を借りるなら、彼は世界そのものに戦いを挑んだのだ。魔物と化したのは彼の望むところでなかったにせよ、人間、非人間を問わず、敗北は《死》以外に有り得ない。 「無駄だ、葵。魔物に堕ちた者は元には戻らん。仮に生きていたとしても、お前の回復術は魔物の身を焼く。一度太陽に背を向けて歩き出した者に、日の光は二度と振り向きはしないのだ」 それは葵にとって、酷く辛い現実。彼女が比良坂を救えなかったのも、まさにそれだったのだ。 涙を一杯に溜めた目で、葵は龍麻を見上げた。 「私は…私は何もしてあげられないの? 私の《力》では誰も救えないの?」 龍麻が黙っているので、如月が言葉を継いだ。 「…魔物と成り果てて死んだ者に、安らかな黄泉の眠りは有り得ない。残念だが…」 それを聞いた葵が顔を覆う。その時、彼女の涙が水岐の骸に飛んで跳ねた。 「――ッッ!」 《奇跡》という言葉があるなら、それこそが《奇跡》であったろう。そうでなければ、それこそが葵の真の《力》だった。 葵の身体が神々しいまでの黄金の光に包まれ、この呪われた大伽藍をあまねく照らし出す。するとどうだ。死臭と血臭に満ちた空気は清浄な空気に取って代わり、無数に転がった無残な肉塊も、その全てがかつてある日の人間の姿を取り戻したのだ。そして更に、人間の姿から美しい光の粒子となって宙へと散華していく。 「…ありがとう」 あまりにも圧倒的で、幻想的で、感動すら覚える光景に目を奪われていた一同は、二度と聞く事はあるまいと思っていた者の声を聞いた。 「見て! 水岐クンがッ!」 葵の放つ黄金の光を浴び、焼け焦げた醜い魔物の皮が剥がれ、傷一つない水岐がそこに出現した。そして、他の者同様、指先から光の粒子へと変わっていく。 ――還るのだ。天に―― 誰もがそう思った。冷徹な現実主義者である龍麻や如月さえも、そう思わずにはいられぬ光景であった。 「…君たちとは…どこかで会った気がするよ…特に…君…」 《君》が龍麻の事を指すのだと、真神の四人は気付いた。彼と初めて出会った時、訳の分からぬ噛み合わない漫才を繰り広げた間柄だ。 「何か…夢を見ていたようだ…。深く…暗い…海の底を…ゆらゆらと…漂いながら…」 龍麻は、懸命に治癒術を試そうとする葵に、彼から渡された《水神の珠》を託した。 「龍麻…!?」 「そいつを握らせてやれ。彼は、人として死ぬ」 人として死ぬ――なんと重く、何と哀しい言葉か。龍麻は言った。戦場に生きる者は、人として死ねる者こそ少ないと。ならばこそ、人として死ねる水岐は―― 葵が《水神の珠》をその胸に抱かせると、水岐はほっとしたような表情を作った。 「かくて…かくて今、長き葬列、樂声も読経もなく、静かに、我が魂の奥を過ぎ、希望、打ち砕かれて忍びなく。心無き圧政者の苦悩…うな垂れし我が頭上に、黒き旗深々と打ち込みたる…」 それは、水岐自身の詩。人として生まれながら、魔物として生きる事を強要され、しかし人として生きた時間が長いが故に、人と魔との狭間で苦しんだ、酷く寂しく、切なく、哀しい詩―― しかし―― 「…When I die I'll go to heaven. because I have spent my time in hell.」 (…死んだら天国に行けるだろうさ。今まで地獄にいたのだから) 《あの》龍麻が水岐の詩を受け継ぐ。伝法で、しかしどこか切ない言葉。――彼自身の言葉ではない。それはベトナム戦争時、名もなき一兵士が唱え、流行したはやし歌の一節であった。 無残なる死を知らねば、生の輝きを知る事は出来ない。絶望を知らねば、希望の意味を知る事はない。――水岐はそれに微笑で応えた。《魔物》の心臓を埋め込まれても、彼は《人間》だったのだ。そして今、《人間》として生きようとしている龍麻と―― 「あァ…還ろう…母なる海へ…」 そして彼もまた、無数の蛍火と化して散華した。 しばらく、誰も口を利かなかった。 考えるべき事が多すぎたのだ。魔物に変えられていたとは言え、結果的に自分達は人を殺した。それが彼らを救う唯一の方法だと解っている今でも、心の中には冷たい澱がこびりついている。 しかし同時に、彼らは去っていった人々の感謝の声も聞いた。彼らは一様に、《殺されたのではない。解放されたのだ》と言っていた。理屈では割り切れないし、当の本人からそう言われても、まだ納得できない者もいる。それは結局、各自が考え、悩み抜いて答えを出すしかないのだ。 だが、戦いの余韻に浸る時間は短かった。 「作戦終了 龍麻が命令を発したのだ。その数秒後、大地が微細な鳴動を始めた。《門》が開こうとした時とは異なる振動。あれほど発剄や術の余波を受けながらびくともしなかった大伽藍が、細かい砂塵を降らせ始める。数千年か数万年か、この《門》を支えてきたのは、ここで果てた無数の生け贄と邪神信奉者の怨念であった。それが解放された今、《門》はその存在意義を失い、崩壊し始めたのである。 「考える事はいつでもできる。生きてさえいれば」 龍麻の言葉に背を叩かれ、仲間たちは走り出した。 葵も一度だけ、呪われた大伽藍を振り返ったが、龍麻に手を引かれるままに走った。 「全員、いるな?」 自分が殿 「大丈夫だ。全員脱出している」 醍醐がそう答え、珍しく龍麻はほっと息を付いた。その姿を見ただけでも、自分達の覚悟が報われた気がする仲間たちであった。 「結局、崩れちゃったね」 「ああ、真実は土の中か」 あれほど大規模な洞窟が崩れたら、地盤沈下も有りそうなものだが、今のところそういった気配はなさそうだった。むしろ、そうでなければ数千年、数万年の間、祭場としての役目を果たしては来られなかっただろう。 「お前のおかげで助かった。礼を言う」 「何を言うんだ龍麻君。助かったのは僕の方だ。君と、君の仲間がいなかったら、僕は使命を果たすどころではなかった。君たちも、ありがとう」 龍麻と固い握手を交し、如月は龍麻の仲間たち一同にも頭を下げた。 「俺たちの目的は一緒だったんだ。礼を言われる事じゃないさ」 「そうだよッ。如月クンがいたおかげでボクたちも勝てたんだからさッ」 「そんな言われ方すると、緊張するっつーか、照れるぜ」 「わははは! 共に戦った仲だ、気にするな!」 「皆仲良し〜。舞子嬉しい〜」 「うふふふふふふふ〜。水を操る力って〜興味深いわ〜」 「ウフフ。いい男に礼を言われるのって、いいわァ〜」 後半の数名になんとなく背筋の震えを感じた如月だったが、意を決して龍麻に言った。 「今回の事は、僕にも実にいい教訓となった。使命に縛られているだけでは、強大な敵とは戦えない。そしてこれからも、復活した鬼道衆との戦いは続くだろう。良かったら、僕にも君たちの手伝いをさせてもらえないか?」 「それは願ってもない。しかし、報酬は出せんぞ」 「ふふ。君たちがそんなものの為に戦っているとは思っていないよ。そうだな…敢えて言わせてもらえば、君たちが入手する武具などに付いては、うちで専門に取り扱わせてくれるというのはどうだろう? もちろん、それなりに勉強はさせてもらうよ。三掛けでどうだい?」 「六掛け」 「三割五分掛け」 「五割五分掛け」 「四割掛け」 「ねばるな…五掛けでどうだ?」 「……いいとも。商談成立だ」 もう一度、握手を交す二人。他の者には、何の話か良く分からない。 そこに、わざとらしい咳払いが聞こえた。 「さて、もう夜も遅い。引き上げるぞ」 咳払いの主をあっさりと無視する龍麻。しかし、さらに激しい咳払いが一同の顔を顰めさせた。 「ちょーっと待てよ。今回の一番の功労者に対して、何か言う事はないのかァ?」 へっへっへ、と、どことなく邪悪な笑いを浮かべる京一。一同はげんなりと白けている。 「今こうして全員無事なのは一体誰のおかげかな? 隊長殿?」 《後でどうなっても知らんぞ!》という醍醐のツッコミを無視して、京一は龍麻に詰め寄ってにや〜っと笑った。 「…お前のおかげだ」 しばらく沈黙した後、龍麻は言った。 「ふーん、へーえ、そーう。それにしちゃあ感謝の印が足りねえとは思わねえか?」 「…どうしろと言うのだ?」 なんとなく青い顔をして、醍醐たち一同は後ろに下がった。如月も葵に手を引かれ、訳も分からず後ろに下がる。 「簡単だよ。ありがとうって言え」 京一の口から出たのは、意外と平凡で、しかし裏がたっぷり有りそうな言葉だった。 「ありがとう」 「誠意がねえなあ。――「ありがとうございます、京一様」って言ってみろ」 「…ありがとうございます。京一様」 傍から見ていても、龍麻がこめかみに血管を浮かせているであろう事が判る。恐らく無意識にだろう。彼の指がサインを刻んでいた。 ――締める。後で必ず―― 龍麻の誓いは有言実行だ。京一の明日に対して思わず全員が合掌してしまった。如月だけは、何がどうなっているのか判らない。 (なんなんだ? 恐らく彼が一番、龍麻君の心境を理解していたらしいのに…。) あの時――龍麻に「帰れ」と告げられた時の京一の怒声。――如月は彼の目に、かつて死地に臨んだ事のある者の《覚悟》を見た。――軽薄そうに見えて、彼も龍麻や如月と同じ世界を覗いた事があるのだ。そして、殺し合いの悲惨さを知っている。 だからこそ、彼は怒った。龍麻が、自分にまで甘さを見せた事に。 だからこそ、一度は去った。龍麻の求める《覚悟の量》が理解できている故に。 だからこそ、戻ってきた。龍麻に己を認めさせる為に。己の《覚悟》を示す為に。――もっとも効果的なタイミングで。 龍麻にもそれが理解できている。――筈なのだが、彼の口から出てきた言葉は―― 「本日一番の功労者、蓬莱寺京一に対する感謝の印として、特別に歌舞伎町のナンバーワンを紹介させてもらおう。いい機会だ。かねてより懸案の筆下ろしを済ませてもらえ。なに、年上だから優しくリードしてもらえるから安心しろ。《全世界の女は全て俺のモノ計画》の第一歩だ」 「な、何ィ!?」 いつにも増して強烈な龍麻の爆弾発言。龍麻はまあ、そういう所は常識知らずだから許されるのだが、事もあろうに京一が龍麻にそんな事を言っていたという事で、女性陣からは怒りのオーラが立ち上った。 そもそも、全員のピンチに駆けつけた京一を、誰もが少しは見直していたところである。それなのに、恐らくは舞園さやかの一件を根に持っていたであろう事から全て台無しにしてしまった。やはり彼は、戦闘時以外はただのアホであった。 「やっぱりアンタは、ただの女ったらしね…」 「今の内に始末しなくちゃ。全人類の女の敵を」 「イヤ〜ン。京一君のエッチ〜」 「うっふふふふふふふふふふふふふ〜。やっぱり京一く〜んは魔術に最適だわ〜」 ザ! ザ! ザ! と、軍靴のごとき響きを轟かせながら、女性陣は京一に詰め寄っていく。 「ま、待てお前ら! 俺は決して…って、おい! ひーちゃん!」 血相変えて後じさる京一の傍らから、既に龍麻は姿を消していた。任務達成率100パーセントを誇るという事は、逃げ足も速いという事であった。 「各員に通達。周辺地域への被害は極力押さえるように」 女性陣の後ろの方から、そんな声が響いてくる。 「了解。ひーちゃん…」 キリリ…と弓を引き絞る小蒔。 「ウフフ…判ってるわよ。龍麻…」 パシン! と鞭を打ち鳴らす藤咲。 「え〜と、これとこれを合わせると〜大爆発〜」 薬のビンの蓋を開ける高見沢。 「エロイムエッサイム…エロイムエッサイム…うふふふふふふ〜、サタンを召喚よ〜」 怪しげな呪文を唱える裏密。そして、全員が―― 「「「「せーの!」」」」 「じょ、冗談じゃねえよォッ!!」 一目散に…と言うのも表現が足りぬほど必死に京一は逃げ出した。 「あ〜! 逃げた〜!」 「追え! 逃がすんじゃないよ!」 地上というのはいいものだ。地下で死闘を繰り広げたばかりの少女達は、既に倒してしまった全世界の敵よりも、全世界の女性の敵を殲滅するべく走り始めた。 「待て―ッ! 京一 ―ッ!」 「おわあッッ!!」 夜更けの青山墓地に、謎の爆発音と謎の絶叫が響き渡る。青山墓地の怪談話は跳ね回る半魚人から、赤毛の木刀男を追いまわす、弓矢と鞭で武装し、悪霊を大量に引き連れた看護婦という、訳のわからない話になった事は言うまでもない。 如月がふっと空を振り仰ぐ。 「…この東京は、まだまだ邪念に満ちている」 「そうだな。俺たちの戦いはまだ始まったばかりだ…」 腕組みしながら頷く醍醐。しかし、その重厚な雰囲気を遮る軽薄な悲鳴と爆発音。 「…ここでシリアスに決めても、奴がいる限りドタバタ劇で終わるな」 墓地のそこかしこで上がる火柱を見ながら、龍麻はため息を付いた。その癖、口元には淡い――本当に淡い微笑が浮かんでいる。如月がその意味を悟ったのは、この場に残った仲間たちを見回した時であった。 「うふふ…」 「やれやれ」 葵がようやく笑顔を見せ、壮絶な覚悟の末に世界を救った筈なのに、妙に脱力感を感じている男達も互いに肩を叩き合った。 (なるほど。彼はそういう立場でもあるのか。) 張り詰めていた空気が軽いのは、《門》の封鎖に成功しただけだからではない。如月は初めて、屈託のない笑みを浮かべた。 それが、事件解決の合図だった。 どことも知れぬ、高密度な電子機器に包まれた部屋に、一本の通信が入った。 『――二一二五時。レッドキャップスが任務を完了いたしました。《ロジャー・ヤング》――トマホークの発射態勢を解除。通常待機に移行しました。阿蘇山、富士山、恐山に展開していた部隊は全て撤退完了。――当方の損失はありません。』 「…よろしい。――日本政府とアメリカ政府の動きはどうなっている?」 『CIAの一部非合法工作員 「相変わらずか。――極東支部は何と言っている? エージェントの消息は確認できたのか?」 『――現在調査中。陸幕二部、内閣調査室共に情報なし。』 「…そうか。――引き続きレッドキャップス隊員を監視。気取られるな」 『了解。通信終わり。』 モニターがブラックアウトし、そこの住人は大きく息を吐いて椅子に深く身を沈めた。 「…政府筋の情報は全てフェイクか。あのレッドキャップスがいなければ今ごろは…。――《奴ら》が目覚めれば全てが終るというのに、日本政府は何を考えているのだ…?」 第八話 邪神街 4 完 目次に戻る 前(邪神街 3)に戻る 次(鬼道 1)に進む コンテンツに戻る |