第八話 邪神街 3





「ふえええ…さすがに疲れたね」

「ああ、こんなに遊んだのは久しぶりだな」

 太陽が大分西に傾き、やや日差しの勢いが和らぎ始めた頃、龍麻たちはプールから上がった。プールの営業は一応5時までなのだが、既に人影はまばらになり始めている。女性陣の着替えの時間も考え合わせ、少し早めに出てきたのだ。

「いっぱい遊んだから、お腹も減っちゃったよ」

「ああ。例によってラーメンでも食って帰ろうぜ」

「でもひーちゃんがなんか大荷物なんだけど…」

「いいんだよッ。自業自得って奴なんだから」

「?」

 そんな会話を交わしつつ、プールの柵を横手に駅への道をたどり始めた一同であったが、突然、龍麻がプールを振り返った。

「どうしたの? ひーちゃ…ウッ! なにこの臭い…!」

「臭いというより…何か腐っているみたいな…!」

 プールから襲い掛かってくるような凄まじい臭気! 一瞬、数年前の地下鉄毒ガス事件すら思い返すほどの悪臭である。醍醐らが慌ててハンカチで口と鼻を覆った時、柵の向こう側、プールの中から女性の悲鳴が響き渡った。

「何だ!? 何が起こった!」

「見て! 人が逃げてくる!」

「戻るぞ!」

 龍麻の号令一下、混乱に陥っているプールの入場口へと向かおうとした一同であったが、その前に白い影が立ちはだかり、鋭い制止の声を上げた。

「駄目だ! 行ってはいけない!」

 急停止する龍麻に、他の四人も慌てて止まる。一同を制止したのは、まったく見知らぬ人間ではなかった。

「こんな所で会うとは、奇遇だね」

「お前は――」

 黙っている龍麻に代わり、京一が前に出たのだが、

「――誰だっけ?」

 ガク、と脱力する青年。

「キミは確か、骨董屋さんの…」

 小蒔の言葉に復活する青年。しかし――

「今日バイト休みなの?」

 再び、脱力する青年。見た目はハンサムだが、ノリは良いようだ。

「――そんな事より、早く行かなくちゃ!」

「待つんだ! 水の中では人間は到底…!」

 青年の言葉が終わらぬ内に、龍麻はプールを囲む塀に目をやった。そして次の瞬間、地を蹴った。

「龍麻ッ!!」

 なんという運動能力! 龍麻は垂直の壁を二回蹴り、五メートルからある塀を飛び越えてしまったのだ。

「駄目だ! 龍麻君!」

 京一たちは立て続けに驚かされた。京一たちは、以前手に入れた《村正》を管理してもらっている骨董屋の店番としてしか知らないが、その青年が龍麻を追って、同様に壁を一回だけ蹴って塀を飛び越えたのである。

「何なんだ! あいつらッ!?」

「判らん! 俺たちは迂回するぞ!」

 いくら《力》に目覚めても、自分たちには龍麻たちのような真似は無理だ。京一たちはプールの入場口目指して走り出した。







 龍麻がプールサイドに降り立った時、円形のレジャープールが激しく渦を巻いていた。ただ排水口が開いただけとは思えない、激しい渦である。まだ何人か残っていた客たちはその急激な流れに飲み込まれ、為す術もなく渦の中心に引き込まれていく。監視員の投げた救助浮き輪も、しがみついているだけで精一杯という状態だ。ただでさえ異常な光景だが、龍麻の目は更に異常な点を発見する。

「助け…ッッ!」

 まだ若いOL風が水面から片手を伸ばす。が、一緒にいた監視員が彼女を水から上げようとした時、彼女の身体が流れに飲み込まれた。監視員はそのまま、彼女だけが!

 龍麻は走りながらサマージャケットを脱ぎ捨て、口に水中ナイフ、手にガス銃を持って渦に身を投じた。

 予想以上にきつい流れに逆らうことなく、龍麻は両腕を体側に付け、全身をくねらせて本物の魚のように泳ぐ。水の抵抗を極限まで減らす、あるいは手足を縛られたままでも泳げる特殊な古式泳法である。数秒とかけず、龍麻はまさに排水口に吸い込まれようとする女性に追いついた。

「ッッ!!」

 女性を小脇に抱えた瞬間、《何か》が排水口から飛び出す。水中をダイナミックに駆けるその姿は真っ黒なイルカとも見えた。しかしそいつには刺の付いた背びれのほか、水かきの付いた手足まで付いていた。



 ――ボボボッ!!



 ガス銃が三点射で吠える。

 先頭にいた一匹は自身に何が起こったか判らぬまま、緑色の爆煙と化した。しかし後の二匹は身体をくねらせ、ガス銃の射線を外した。速い! 一瞬で龍麻のもとに泳ぎ着く。

「グッ!!」

 龍麻の脇腹がそいつの爪で浅く裂かれる。龍麻はガス銃を乱射したが、水中ではいくら龍麻でもスピードが半分以下に鈍る。背後に廻り込んだ一匹が龍麻を羽交い絞めにし、その隙を突いてもう一匹が女性を奪った。そちらは一目散に排水口を目指して泳ぎ、振り向いた龍麻の視界には、大きく裂けた口と、槍の穂を植えたような牙が映る。

「オオオオッッ!!」

 龍麻を救ったのは、死中にも勝機を見出す、レッドキャップスでの猛訓練で身に付けた勘であった。強靭な脚力に物を言わせ、一気に水上へと踊り出る。

「ギョエッ!!?」

 龍麻と共に空中に踊り出た怪物…それはまさに怪物であった。白い腹、緑色の鱗、瞬きしない濁った目。そして、両生類とも魚類ともつかぬフォルムの中に、人と似た手足。――そう、人と似ているのだ。カエルとも魚とも付かぬ目の中にあるのは、人にしかありえぬ感情――憎悪がある。

 いきなり空気中に放り出された事で、一瞬、怪物の緊縛力が緩む。その顔面に肘を打ち込むや、龍麻はナイフを女性をさらった怪物の未来位置に投げた。水中戦用に抵抗を極限までなくしてある細身のナイフは、龍麻自身の筋力も加わって水中でもスピードをほとんど減じることなく、女性をさらった怪物の首筋を刺し貫いた。

「ゲオオオオォォッッ!」

 背後の咆哮! しかし怪物は仰け反って舌を吐く。その首筋に細身のナイフ…手裏剣が突き刺さっていたのだ。ガス銃を突き出し、発砲する龍麻。怪物の鱗が弾け飛び、緑色の血潮が飛び散る。

 水の抵抗をかき分け、浮いている女性に走り寄る龍麻。他にも何人かいた筈だが、もう姿は見えない。とにかく水から上がらねばと女性を肩に担いだ龍麻であったが、背後に強烈な気配を感じて振り返った。

「――ッッ!」

 排水口から這い出してきた、タコのようなイカのような触腕! それは赤黒い半透明で、八腕類に見られる吸盤は存在せず、夥しい繊毛に覆われていた。見た目の形状以上に器用そうで、周囲を探っている。それが、龍麻の方を向いた。



 ――《脅威レベル――レッド!》



 ギン! と龍麻の左眼が赤光を放つ。潜在能力を解放。しかし弾き出された最良の行動は――《即時撤退》!

「水から上がれ!」

 プールサイドから鋭い叱咤。この装備では圧倒的に火力が足りない! 龍麻は腰より下になった水を蹴立ててプールサイドに走った。しかし触腕はそれ以上のスピードで龍麻の足首に絡み付いた。

「――ッッ!!」

 背筋を突っ走る悪寒! 凄い勢いで水中に引きずり込まれるのと、ガス銃の銃口を排水口に向けるのと同時であった。



 ――ボボボッ! ボボボボボボボッッ!!



 一発の威力が対人手榴弾の三分の一…それが数十発まとめて叩き込まれ、触腕の一部がちぎれ飛んだ。しかし、総合すれば手榴弾十発分にも相当する爆発が生んだ衝撃波が龍麻の肉体にも叩き付けられ、彼の四肢をねじ切ろうとした。肺が絞り上げられ、口から泡が飛び出す。――その捨て身の攻撃は功を奏し、触腕も怪物の死骸も渦に引き込まれて排水口に消える。龍麻のガス銃も、ナイフもだ。

 全身打撲に匹敵するダメージを負いつつも龍麻は立ち上がり、救出に成功した女性を担いでプールサイドに上がる。女性は水面に浮いていた為、爆発の衝撃は最小限で済んだようだ。

「なんて無茶な事をするんだ、君は!」

 青年が激しく詰め寄るが、龍麻は意に介さず、女性をデッキチェアに座らせて活を入れ、水を吐き出させた。既に彼の左眼に赤い光はない。

「…他の者は?」

「…四人ほどさらわれた。だが君は、死者の一人になるところだったんだぞ」

「…一人は救えた」

 その時、プールの入場口から迂回してきた京一たちがプールサイドに駆けつけてきた。

「龍麻! 無事か!?」

 駆けつけた四人は龍麻の無事を知ってほっとし、しかし水の抜けたプールの惨状を知って青ざめる。

「うう…うひゃひゃ…けひゃひゃ…!」

「ひっく…うっく…ひひっ…ひっひっひ…!」

 水のなくなったプールで呻いているのは、体中にいくつもの裂傷を負った男性たちであった。いずれも渦に巻かれて逃げられなかった上、あの触腕に触れられた者たちの末路だ。《ナンバー9》…戦闘知性体ですら無視し得なかった悪寒は、彼らを速やかに狂気の淵へと引きずり込んだのである。そして、そこに女性の姿は一人もなかった。

「…また何人かさらわれた。この分では増上寺も奴らの手に落ちたか…」

 青年の呟きに、京一が我に返る。

「おい! テメェ一体なにモンなんだよ! それに龍麻! テメエも一人で勝手に飛び出しやがって!」

 《ひーちゃん》ではなく、《龍麻》と呼んだところに、京一の怒りが現れていた。彼にしてみれば龍麻が一人先走り、怪我をしたようにしか見えないのだ。先の事件以来、龍麻を一人では戦わせないと誓っていたのに、その誓いをもう破られたのである。

 そんな京一を見て、青年が呟くように言う。龍麻に向けて。

「縁とは不思議なものだ。この東京には異形の《気》を纏った者が集う。だが君は――君たちは手を引け。一刻も早くここを離れて、今起きた事を全て忘れてしまう事だ。いずれ、全て解決する」

「ふざけんな! テメエが邪魔しなけりゃ間に合ったかも知れねえだろうが! テメエ――」

「王蘭高校三年、如月翡翠だ。…僕はそうは思わない。いらぬ犠牲が増えるだけだ。そしてどの道、一人二人救ったところで何の解決にもならない」

 酷く冷徹で、冷酷にも聞こえる言葉。こんな声を、京一たちは前にも聞いたことがある。――転校して来たばかりの龍麻と同じだ。

「如月といったか。これだけの事態を前にして、どうしてそんなに落ち着いていられるんだ?」

 敢えて龍麻の行動は問わない。多分、今聞いても答えは得られないと思ったからだ。

「僕はただ、義務を果たそうとしているだけだ。それにこの一件に他人を巻き込むのは本意ではない」

 やはり、そう来るか。その言葉も、あの時の龍麻と同じだ。――だが龍麻は、それがあるために先の事件で…。

「…なんだか知らねえがよ、こいつはお前一人で解決できる事なのか? 義務だ任務だって、そんなモン背負い込んでおっんじまってみろ。それこそくだらねェ」

「――止せ。京一」

 龍麻のその後の言葉は、自分と如月に共通して存在している想いを知られぬためのものかと思われた。

「ようやく誰かが通報したようだ。この場を離れるぞ」

 戦闘中に出す、あの声。京一たちはまだ如月に聞き出したいことがあったのだが、龍麻の《命令》である。パトカーのサイレンにも尻を叩かれ、京一たちは後ろ髪を引かれる想いでプールを後にした。







「この辺りまで来れば大丈夫だ」

 龍麻が宣言した時、他の四人はほっと荒い息をついた。

 あの、水岐という少年と遭遇した辺りである。太陽はその勢いを失い、真っ赤な夕日をきらきらと池の水面に反射させている。

 ようやく一息つくと、早速京一が龍麻に絡んだ。

「龍麻。さっきのあれはどういう事だよ? 一人で勝手に先走りやがって!」

「……」

「今回の事、お前は予測していたんじゃないのか? もしそうなら、なぜ俺たちに知らせない? 俺たちはそんなに頼りにならないのか?」

 黙っている龍麻に対して、醍醐も詰め寄る。あの如月に付いても龍麻は何か知っていて、それも黙っている。目の前で何人もさらわれたのに、肝心なところを龍麻は喋ろうとしないのだ。これではいくらなんでも腹ただしい。

「龍麻…」

「ひーちゃん…」

 葵も小蒔も、不安そうな顔で龍麻を見つめる。龍麻が実は前の事件を引きずっているのではないかと、気が気ではないのだ。

「…ちょっと待て。今、情報を整理しているのだ」

「……!」

 いつもと変わらぬ龍麻の口調。またこれか、と思った一同であったが、よくよく見てみると、それは本心を見せない時の態度と違っているようだった。つまり、本当にいつも通りなのだ。

「事前におかしな情報を入手していたのは認める。しかしあのような事態は予測範囲外だ。お前達を頼りにしていないというのは、お前達の誤解だ。俺はむしろ、なぜお前達こそ付いて来なかったと言いたい」

 一同、顔を見合わせ、しばし絶句。

「…あのな! 自分ができるからって、俺達まで壁を飛び越せると思ってんのかよ!」

「…駄目なのか? 如月はやったぞ」

「そりゃ、お前らがおかしいんだよ!」

「そうか…」

 この男は…!

 これにはさすがに全員が呆れる。幼少時より兵士として鍛え上げられ、古武道に手を染め、《力》にも目覚めた彼ならばこそあの身体能力であろうが、この男は自分の能力を少しも特殊なものだとは考えていない。良く言えば殊勝なのだが、悪く言うと無頓着すぎる。

「ま、まあそれは良いとして、如月君の事は?」

 葵もこういうフォローがうまくなっている、巧みに話を違う方に持っていった。

「それは時期尚早だ。誰にでも秘密はある。下手に詮索して敵を作ってはならん」

 つまり、味方ではないが、敵でもないという事か。龍麻にしてははっきりしない言い方だが、とりあえず一同はその点については黙った。

「しかしこの一件、放っておくつもりはないのだろう? プールの噂を聞いてから、お前はいつもより積極的だったような気もするしな」

「俺はいつもと同じだ。何も変わらん。ただ、行動を起こすには情報が少ない」

 とりあえず、自分達を邪魔にするという訳ではなかったようだ。どうも比良坂の一件以来、色々と考える事が多くなって、邪推や悩みが増えたようだ。こんな事ではいかん、と、京一たちは腹を決める。

「そうなると、頼みの綱は情報屋か…」

「それじゃ私、アン子ちゃんに連絡を取るわ。調べる内容は…」

「プールに限らず、港区周辺における怪情報の収集。アン子ならそれだけで通じるだろう」

 有無を言わせぬ口調。如月の事はいいのか、という言葉を京一は飲み込んだ。

 さっきは頭に来ていたから気が付かなかったのだが、落ち着いて考えると、龍麻と如月は良く似ている。使命とか義務とか、そういうものに従うべく鍛えられた人間の匂いとでも言うか。そのためには命を投げ出すのも惜しくないというような、危うさが。

「全ては明日だ」

 龍麻は言った。

「この件は、今までのようには行かない。行き当たりばったりの行動はたやすく死を招く。改めて、死を現実のものとして受け入れろ。臆病と言われるほどに警戒しろ」

 そう言う龍麻の目は、まだ見ぬ敵さえも見えているかのようだった。







 深夜、龍麻は一人、北区にある一軒の家に向かった。

 賑やかな商店街から少し外れたところに、目的の家…店がある。白い泥壁に囲まれた、敷地内に蔵まである古風な造りの店である。門の所には檜の一枚板の看板が《如月骨董店》と告げている。

 此処こそ、龍麻が以前手に入れた《村正》の保管を依頼した店であった。もちろん《妖刀》を扱えるくらいだから、並みの骨董品店ではない。その創業は江戸時代まで遡るという。そしてあの、如月翡翠の実家でもあった。

 だが龍麻は、骨董品にも如月翡翠にも用はなかった。彼の用はいつも別のものだった。

 店のシャッターを横目に、そこに立っている石灯篭の中に手を入れる。すると赤外線センサーが反応し、どこかにあるカメラが龍麻の顔を確認する。すると店のシャッターではなく、ただの壁であったところがするすると開いた。当然それは、門の外からはまったく見えない。

 壁に入ると、そこから石造りの階段が地下へと続いている。空気は乾いているが、下に下りるにしたがって、龍麻が嗅ぎ慣れている匂いが空気にこもり始めた。それは火薬の匂いだった。

「…来ると思っていたよ」

 この空間の主人、如月翡翠が作業台から顔を上げた。

「…今日の仕入れだ」

 それだけ言って、龍麻はメモを差し出す。ここは、そういう付き合い方をする所だ。

 メモを受け取った如月はざっと《店内》を見回し、メモに書かれた商品を選び始めた。

「H&K・MP5G3A4にアーウェン37・グレネードランチャー。ヤティ・マティック九ミリサブマシンガンにイングラムMAC−10。それに火炎放射器。弾丸は七・六二ミリ軍用弾が五〇〇発。三五七マグナムKTW一〇〇発。九ミリ炸裂弾二〇〇発。45ACP三〇〇発。一二番ゲージ・スラッグ弾一〇〇発。四〇ミリ対人溜弾二ダース。ゲル化油一〇ガロン。破砕手榴弾二ダース。テルミット弾二ダース。閃光弾一ダース。クレイモア対人地雷一ダース。…戦争でもする気かい?」

「肯定だ。海からの化け物とな」

「……」

 それだけで話が通じたのか、如月は黙って選び出した商品を作業台に並べた。

 果たして誰が、住宅街の真中にこのような《店》があると知るだろう。《如月骨董店》は江戸時代から続くれっきとした骨董の老舗だが、同時にこの日本における裏世界のアウトローに武器を卸している武器商でもあった。《店内》を見回せば、古今東西、世界各国のありとあらゆる武器が所狭しと並んでいる。拳銃だけでも小は護身用のポケット・ピストル《デリンジャー》から、フリーダムアームズ社製454カスールやデザート・イーグル50AEなどの大口径拳銃まで。軍用ライフルは良く知られたM−16シリーズから、FN、ガリル、ステアー社などの自動小銃の名機が並び、さらにH&K・MP5G3やM−60シリーズ、ロシア製AK−47・74などの大口径機関銃。レミントンM−700・ボルト・アクション・ライフルやバレッタM82A1、H&K・PSG−1などの狙撃銃。そしてありとあらゆる形状、機能特性をもつサブマシンガンの数々。豊富なショットガン。更にはC3,C4などのプラスチック爆弾にTNT火薬、時限信管、各種手榴弾に至るまで、およそ個人用兵器で手に入らぬものはないと言って良い。そして客の注文に応じて様々なカスタムを行うのも重要な仕事の一つだ。龍麻のような人間にとって、ここは真に重宝する店であった。

 もちろん、非合法な武器商人と言えど、ただそれだけでは龍麻が自分用の武器を調達する窓口とはしない。裏世界には裏世界のルールがあり、小国ならクーデターを起こせるほどの武器弾薬を有しながら、《如月骨董店》はまず犯罪には荷担しない。矛盾しているようだが、たとえばヤクザや強盗などとは始めから取引しないのだ。取引先は主に待機中の傭兵やスイーパーと呼ばれる揉め事処理屋トラブルシューター、あるいは危険地帯に赴くトレジャー・ハンターなどである。龍麻がここを知ったのも、とあるスイーパーからの伝だった。

「…銃の調整はいつものように自分で。試射用の弾丸の値は同じ。――支払いは?」

「――キャッシュだ」

「…試射用の弾代込みで、締めて三二〇万だ」

 龍麻は上着の内ポケットから分厚い封筒を取り出し、如月に手渡した。手早く数えた如月は、

「…多すぎるようだが?」

「もう一つ欲しいものがある。《奴ら》に関する情報だ」

 G3のボルトの噛み合わせやストックのバランスをチェックしつつ、龍麻はそちらを見ようともせずに言う。

「手を引け…と言って、引く君ではないな」

「肯定だ」

 如月はそっとため息を付く。

「昼間も言ったが、これは僕が果たさなければならぬ使命だ。この東京を護る事が僕達一族の、代々の使命なんだ」

「俺は、お前の事情には関知しない」

 G3に試射用の弾丸をセットし、コッキング・ボルトを引く。龍麻がここを利用するのは、銃そのものの手入れが行き届いているためでもある。自分専用の調整は必要だが、基本的にどの銃も高品質なのだ。

「だが俺にも奴らと戦う理由がある。共闘しろとは言わん。この戦争に勝つためにも、情報を買いたい」

 これが高校生の会話か? しかし当人達にとって、それは当たり前のやり取りであった。日本で平和ボケしまくっているのは表世界だけであって、裏世界は戦前戦中戦後を問わず、血と闘争の世界なのである。

「協力はできない。これは返す」

 封筒の中から余剰分、三〇万円を抜き出し、龍麻に差し出す。龍麻は黙ってそれを受け取った。取引は破談したが、それで切れる二人の関係ではない。

「君はともかく、君の仲間の力は《奴ら》に対して未熟すぎる。僕としては君が手を引いてくれる事を願うばかりだ」

「実力で止めたらどうだ? 武器を売らなくても同じだが」

「この世界が信用第一なのは知っているだろう? 上客を拒否する事はできないよ」

 それきり龍麻は黙り込み、更に地下の射撃場に入ってG3、ヤティ・マティック、MAC−10の試射をそれぞれ三〇〇発ほど行ってから帰宅した。







 ――明けて月曜日。

 放課後、例によって例のごとく、京一たちは生徒会の用事がある葵を除き、龍麻の机を中心に集まっていた。三−Cにおいては既に見慣れた光景の一つであるので、他のクラスメート達は彼らに干渉しようとしない。五人そろって何かやっているという事は薄々気付いているようだが、敢えてそれを探ろうという物好きもいなかった。――彼女を除いては。

「フーフッフッフッフ! 皆、手がかりを掴んだわよッ!」

「…早いな。アン子」

  龍麻は読んでいた詩集から顔を上げた。

「とーぜん! 情報はレアなものほど高く売れるでしょ。――って、龍麻、アンタ詩なんか読むの? へー、こりゃまた意外だわ」

「…変か?」

 詩集のタイトルは《沈む藍》。作者は水岐涼とある。――言うまでもなく、昨日出会った怪しさ満点の自称天才詩人である。

「まあねェ。黙ってりゃそれなりに似合ってるとは思うけど、口を開けば軍事オタクの経済オタクだもんね、龍麻は」

「……」

 えらい言われように、少々気分を害する龍麻。軍事オタクはともかく、経済オタクと呼ばれるのは心外である。

「でも、そーゆーの読んで理解できるの?」

「侮ってもらっては困る。昨日出会った時は言動も行動も不可解な男であったが、これらの作品は良い出来だと思える。自然を、特に海を称えると同時に、それらを汚す人間に対する憂いが語られている。怒りや憤りを声高に唱える者は時として先鋭思想に走るものだが、人間を憂いているところに、人に対して未だ絶望していないという意思が見られる。――この水岐涼という男は、心優しい男だ」

 ただし、昨日の言動からすると、彼にも心境の変化が見られるのであるが…。

「ふーん、そういうものかしら? ――ま、それは置いといて、あたしの方の情報だけど――」

 誰にも知らせず如月のもとに情報を買いに行った龍麻としては、アン子の情報収集の早さに舌を巻くしかなかった。所詮素人と思いつつも、素人だからこそ思わぬ情報を手に入れる事もあると情報収集を依頼したのだが、まだどこか彼女を侮っていた。しかし実際は、もう情報を集めたという。

「――ッという訳で、はい」

 差し出されたのは情報ではなく、アン子の手のひらであった。

「…何も書いていないが?」

「そー来ると思ったわ。情報はただじゃない事くらい判るでしょ。今なら必要情報満載の真神新聞最新号が、一部たったの五〇〇円! さあ、買った買った!」

 金を取るのか! ヒドいよアン子ォ、という非難の声が上がるが、アン子はまったく動じない。

「いくら友達でもロハじゃ教えられないわ。むしろ友達ならばこそ、苦しい新聞部を救うためと思って五〇〇円!」

 京一が「この守銭奴」と毒づくが、小蒔は既に迫力負け。そこで醍醐が、

「遠野…ことは俺達だけの問題じゃないんだ。現に俺達の目の前で行方不明者が出てしまい、警察も宛てにできない状況だ。だからこそ俺達がこうして…お前なら判ってくれるだろう?」

「うッ…正論攻撃で来たわね。そうは言ってもあたしだって苦労したのよ。これだって充分勉強した値段なのよ」

 醍醐クンの説得も効果なしか…と、小蒔が頭を抱える。

「…アン子、全員購入で一〇〇円でどうだ?」

 やはり交渉はプロの出番だ。龍麻が口を挟んだ。

「安すぎるわよ! 五〇〇円ッたら五〇〇円!」

「一五〇円」

「駄目! 大負けに負けても四五〇円!」

「二〇〇円」

「せこいわよ! 龍麻! せめて四〇〇円!」

「売り込みが足らんのでな。二五〇円」

「うッ、アン子ちゃんの情報収集能力をなめてるのッ!? うむむむ…三七五円!」

 半端だな、と京一が突っ込むが、当事者には聞こえていない。

「三〇〇円。役に立つ情報なら3掛けしてもいい」

「うぬぬぬぬぬ……ッッ!」

 額に青筋浮かべて考え込んでいたアン子であったが、やがてがっくりと肩を落とした。

「判ったわよ判ったわよ。三二五円で手を打ちましょう」

 せこいのはどっちだよという、再度の京一の突っ込みはやっぱり無視する。

「良かろう」

 如月相手にはぽんと三〇万円差し出した龍麻は、ポケットの小銭だけで支払いを済ませた。

「さあ、あんた達も買ってくれるんでしょ?」

「え!? いや、その〜、ボクは後でひーちゃんに見せてもらおうかな〜って…」

「ぬわんですってェェッ!?」

 小蒔の返事に、顔が鬼になるアン子。

「俺もそうする。今月はちょっと厳しいのでな」

「なによッ! あんた達それでも友達なのッ!?」

 そこに、葵が戻ってくる。

「うふふ。なに騒いでるの?」

「あッ、葵〜、今アン子から新聞を買うか買わないかで…ッて、葵! それ、何ッ!?」

「え!? さっきアン子ちゃんから買った新聞だけど…」

「なに――ッ!」

 交渉など最初から参加していなかった京一が真っ先に声を上げる。

「ヒドいよアン子ォ。まさかボク達全員に売りつける気でいたの!?」

 (チッ、もう少しでうまくいくところだったのに…!)

 心の中で地団太を踏むアン子に、龍麻の無情の声が突き刺さる。

「アン子、3掛けはなしだ」

 高校生らしからぬ財力を誇るくせに、とことんせこい龍麻であった。

 あんた達相手だと商売にならないわよ、と床にのの字を書くアン子をよそに、龍麻は記事をざっと眼で追った。

 港区周辺で多発する失踪事件。水辺の怪異と、水中に潜む影。そして青山墓地での怪物の目撃情報。例によってアメリカのタブロイド誌のような文面だが、龍麻は「行方不明者が20名以上」、「青山墓地に怪物」の二点に注目した。

「アン子、情報の整理を。…一件一〇〇円」

「…二〇〇円」

 まだ言うか。アン子もなかなかしぶとい。

「一五〇円だ。いいな?」

 わかったわよ、と不満たっぷりながら、アン子は説明を始めた。

「港区の事件を調べていくと、大別して二種類に分かれるわ」

 一つがプールで発生する失踪事件。もう一つが、青山墓地での怪物の目撃情報。

「この二つの事件を繋ぐのが、失踪して数日後に発見された人たちの存在なのよ」

 全員が全員という訳ではないのだが、失踪した人々は青山墓地で発見されるのだという。そして奇妙な事に、保護された人々は全て、失踪時の記憶が抜けているというのだ。事件の事は何一つ、犯人の事も、自分がなぜ青山墓地にいたのかも、それこそきれいさっぱり記憶が欠落しているらしい。

 そして、失踪事件とほぼ同時期に発生した怪物の目撃談。

「単なる怪談にしては、目撃者の証言が一致しすぎているのよね。体型は魚とも蛙とも付かぬものを二足歩行させたよう。頭は魚そのもので、目が大きく飛び出している。皮膚は滑りのある灰緑色。長い手には水かきがあって、夜の墓地をピョンピョン跳ねながら移動していく…と、こんな所かしら」

 その光景を想像したのか、京一と小蒔が吹き出す。醍醐は夜の墓地という時点で青ざめていたが。

「そうそう。それから皆が会ったっていう、如月って子についても調べてみたのよ」

 龍麻はちら、と葵を見た。葵は少しだけビクッとする。龍麻は葵に調査内容を告げる時、如月の事は盛り込まなかったのだ。彼の、裏の仕事を知っているから。もし如月の名前が出たとしたら、それは葵の口からである。

「特に怪しいところがあるって訳じゃないんだけど…どうも匂うのよ。何かこう…《隠された何か》を感じるのよね」

「その情報に金は出さんぞ」

 それは言外に、「余計な事をするな」というものだと、京一たちには判った。どうやら龍麻と如月の間には、何かしら同盟関係があるぞ、と。

「それで、どうするんだ、ひーちゃん?」

 龍麻の真意は知らずとも、京一は巧みに話を逸らした。

「プールに証拠は残っていまい。だがルートを辿るならプール側からの方が確実だ。各自、いったん家に戻って夜間戦闘装備。服装も作業着に変えろ」

「夜間戦闘装備?」

 龍麻の言う事はいつも唐突だが、今回のは更に特殊だ。放課後だから早いとは言えないが、かといって遅いとも言えない時間に、夜間戦闘装備とは?br>
「ひょっとして、青山墓地を夜調べるの?」

「な、なに!」

 小蒔の言葉に、醍醐が思った通りの反応をする。しかし龍麻は、

「それも視野に入っているが、ルート探索には必要不可欠になる。芝プールと青山墓地を繋ぐルートを考えてみろ」

「?」

 一分ほど待ってみたが、誰からも答えはない。

「…判らんのなら、俺一人で行くぞ」

「ちょっと待って! ええと…芝プールと青山墓地を繋ぐルート…途中の目撃者がいないということは…」

「車とか電車は最初からないよね。だとすると…」

「地下…地下鉄とか、下水道。そうだな…下水道か!」

 三段論法的考察で、やっと龍麻の言葉の意を悟る三人。しかし約一名、取り残されている。

「きょ〜いちィ。キミも少しは頭使いなよッ」

「う、うるせえな! 俺は頭使うのは苦手なんだよッ」

「…その分ではいつまでたっても二等兵のままだな。――集合は今から三十分後。行動開始だ」

 イエッサー! と小蒔が元気良く言い、一同はそれぞれ準備に走った。







 港区に移動するべく校門前に集合した一同であったが、ちょっとした事件があった。

「…佐久間君!?」

 懐中電灯の数が人数分に足りないので、アン子から借りてきた葵と小蒔は、近頃姿を見かけなかった人物が突然目の前に立ちはだかったので、困惑と僅かばかりの恐怖を感じた。

「美里…俺と来い」

 突然現れた佐久間にたじろいだ小蒔であったが、出会い頭にいきなり葵の手首を掴んで連れて行こうとする佐久間に果敢にも立ち向かった。

「何で葵が君と一緒に行かなきゃいけないんだ! その手を離せ!」

「うるせぇ、お前にゃ用はねえんだ。消えろ」

 いつもと違う、確実に暗さを増した佐久間の目。小蒔はまるで旧校舎で怪物を相手にしているような気になったが、葵の小さな悲鳴を聞いた次の瞬間、思い切り平手を放っていた。京一や龍麻に気軽に叩き込んでいるグーパンチではなかったが、これは予想外であったか、佐久間がたじろいだ。

「葵に、触るなッ…!」

 気圧された方が負ける。その事をこれまでの闘いで学んだ小蒔は背中に葵をかばいつつ、佐久間をぐっと睨みつけた。まさか小蒔がそのような行動に出るとは思っていなかった佐久間であったが、「テメエ…」と低く呻いて身構えた。

 まさしく一触即発のその瞬間、佐久間は突然、横っ飛びに弾き飛ばされ、たまたま開いていた生物室の中に吹き飛んだ。

「ひ、ひーちゃん…!」

 そこに立っていたのは我らが鬼軍曹、龍麻であった。

「何をしているのだ? 出発するぞ」

 たった今自分で佐久間を蹴飛ばしておきながら何をしているもないだろうが、これが龍麻流だ。このところ佐久間は事あるごとに龍麻に突っかかっているのだが、その度に一撃で、存在さえ認識されているのかも判らぬままに沈められている。――今回もそうだった。人間がアリを踏み潰しても意識しないのと同じように、龍麻も佐久間を蹴飛ばした事を何ら意識していなかった。ただ、彼の所まで歩いていったので、とりあえず誰を蹴飛ばしたのか確認はしたようだ。

「ん!? どうしたんだ?」

 そこに醍醐もやって来たのだが、龍麻は佐久間の件は口にせず、一同を促した。

「な、なんでもないよ、醍醐クン。さ、早く行こう!」

 小蒔は笑顔を取り繕いながら醍醐の背を押し、葵だけが後ろ髪引かれるように何度も振り返りながら、その場を立ち去った。







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   ――お前たち、この消えてしまった兵隊どもは、まったくくそ忌々しい

   野郎どもだと思うだろう。ところが、そうじゃないんだ!――



   ――紀元前一一九四年、トロイ城の前でギリシャ人の伍長が言った言葉







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 シュコー、パー、シュコー、パー…

 点検時に使用される蛍光灯の頼りない明かりの中を、あるいは都会が《都会》たる象徴である下水が流れていく。一応、人が歩くスペースと、汚水の流れる場所は区切られているのだが、それでもぬらつく足元と、時折流れてくる汚物には嫌悪感がこみ上げてくる。これがあるから自分達が快適に暮らせるのだと判ってはいても、理性よりも感情が先に出てしまうのは無理もない。

「ひーちゃんのお陰で助かったよね。こんなトコ、ガスマスクなしじゃ来られないよ」

「ああ。マスクしててもなんとなく匂ってきやがる。さっさと調べて早いところ出ようぜッ」

 マスクのせいで声がくぐもっているが、誰もそんな事に文句は言わない。マンホールを開けた時の臭いは、それは凄まじいものであった。《事件》の事があったとしても、マスクなしには入れなかっただろう。そんな事態を見越していた龍麻がガスマスクを人数分用意していなかったら、入り口で引き返そうかという話になってもおかしくなかった。

「でも…本当に龍麻はマスクなしで大丈夫なの?」

「問題ない」

 この猛烈な悪臭の中、龍麻の口調は変わりなかった。彼だけは一人、マスクをしていない。彼は対化学戦訓練の中で、希薄な毒ガスを吸わされ続けてきた。その結果一般的な催涙ガスやCS(セシウム)ガスには完全な、呼吸器系に働きかける青酸ガスなどにもかなりの抵抗力がある。そんな彼には下水道の臭気など物の数ではなかった。そして――

「…潮の臭いがきつくなってきた。敵は近いぞ。注意して進め」

 この臭気の中でさえ、海の磯臭さを嗅ぎ分ける龍麻。改めてこの男の凄まじさを再認識させられる一同であった。

 一〇分ほども進んだろうか? 突然、龍麻が左手を上げた。《止まれ》の合図である。同時に、足元を照らしていたライトも消す。

《あれを見ろ》

 龍麻の手信号に従い、京一と小蒔が目を凝らす。醍醐と葵もそちらに視線を向けたが、すぐに背後の警戒に戻る。

《あれがアン子の言っていた化け物だな》

《間違いないよ。本当にカエルみたい》

たいを低くしろ。やり過ごす》

 カエル人間――仮にそう呼ぶが――は、人間の女性を二人ほど担いでいた。いずれどこかからさらわれてきたのだろうが、迷路のごとく張り巡らされている大都会東京の下水道の中。戦うには不利な条件が多すぎる。

 しかし――

「やあ、また会ったね」

 それは、思いがけない再会と言えよう。こんな汚物にまみれた下水道の中で、なお涼やかで静謐な雰囲気を保ちつつたたずんでいるのは、あの天才(?)詩人、水岐涼であった。

「お前は水岐…! なぜこんな所に!?」

 全員の気持ちを代弁する醍醐。しかし水岐は先日と同じく、オペラ歌手のような大げさな身振り手振りを加えながら恍惚と言葉を紡ぎ出す。

「――かつてこの世界は薔薇に溢れ、香気に満ちた風が吹く世界だった。豊穣なる大地に豊かな実り。小鳥が歌うは生命の賛歌。おォ…それが今ではどうだ…。花園は踏みしだかれ、石と鉄の息吹に草木は枯れ、灰褐色の墓標に包まれた刑場のごとき惨状。おォ、嘆かわしきは人の性。なんと罪深きかな人類…」

 口を差し挟む余地もない、自己陶酔に満ちた声、表情。だが、しかし、この若き天才詩人の口から紡ぎ出される言葉は、悪意と憎悪にまみれながら、それを極めたもののみがもつ凄惨な美があった。世に頽廃美という言葉がある。老い、古び、打ち砕かれ、腐り果てたものの中に見出される、嫌悪をかき立てられながらも惹きつけられてしまうもの。言葉の内容は似ているのに、所詮自己主張と自己憐憫しかなかった唐栖とは、その精神において雲泥の差であった。

「その飽くなき欲望の炎は美しくやさしい草木を絶やし、気高き獣を殺し、世界を暗き闇に閉ざしてしまった。破廉恥なる地獄の寵児のごとき奴ばらは、醜き同朋の血さえ啜り合い、いとおぞましき触手を伸ばし、世界を腐らせる。さもこの世界で生きているのが人類だけだと言わんばかりに! おォ、何という傲慢。何という愚鈍。今こそ忌まわしきバベルの塔を打ち砕きし雷、汚濁と悪虐のソドムとゴモラを焼き尽くせし炎をもって、人類に滅びをもたらさん! そう…人類は滅ぶべきなのさ!」

「ふざけてんじゃねえぞ! この妄想狂が!」

 マスクのためにくぐもっていても、京一の啖呵は見事なものだった。長広舌を邪魔され、水岐が京一に向き直る。

「妄想かどうかはすぐに判るよ…。シテールに住まう罪人に贖罪を与えるため、そして哀れなる魂を捧げるため…僕は神に選ばれた。この街の地下に広がる魔界の扉を開き、この世の全てを大海の底に沈めて浄化するべく、今こそ目覚めをもたらさん! 我らが偉大なる父、ダゴンよ!」

「――ッッ!!」

 《力》あるものの証、真紅のオーラをまといつつ、水岐は高らかに宣言する。陶酔の極みの中放たれた神の名に対し、空気が振動し、流れる汚水が煮えたぎり、蒸気を吹き上げた。《力》あるものが邪神の名を唱えただけで、この超現象。京一たちは一瞬とは言え、魂を鷲掴みされるかのような恐怖を感じた。人間ならずとも生物全てが持つ本能の領域。その深奥に根ざした、暗黒と共に潜む恐怖。水岐の唱えた神の名は、それを抉り出したのである。

 同時に、空気が氷結した。邪悪なる神の名がもたらした熱気に挑んだのは、対テロ特殊部隊・レッドキャップス・ナンバー9の放つ殺気であった。

「ッ龍麻!!」

 あの時――死蝋の時と同じだと京一が悟った時、龍麻は空気をえぐりぬく勢いで猛然と水岐に襲い掛かっていた。その痩せ型の身体のどこにそんな身体能力が隠されていたのか、水岐は龍麻のパンチを横っ飛びしてかわしてのける。戦闘マシンと化した龍麻のパンチは下水道の壁を粉砕し、空気をびりびりと振動させた。

「おお、そなたらこそ風車に挑みし愚かなるドン・キホーテ。我が剣に掛かりて父なるダゴンの喉しめしとなるべし」

 高らかに言い放ち、水岐は腰に差していた細身の剣を抜き放った。まるで決闘に赴く騎士か猛牛を前にした闘牛士のように、剣を額の前に掲げて見栄を切る。そして剣を一振りすると、それを合図として左右に開いた下水溝から、あの怪物どもが姿を現す。

「さあ、《深きものどもディープ・ワンズ》どもよ! 我らが聖域を汚せし者どもの血を我らが父の祭壇に捧げよ!」

 水岐の号令一下、そこかしこの通路から出現した二〇体あまりの《深きものども》が前進を開始した。

 まずい…! そう感じたのは京一だけではなかった。今まで異形の闘いをいくつかこなしてきた彼らだが、今まで明確な指揮系統を持つ敵と戦った事はなかった。そして今、こちらの指揮官は…!

「龍麻! 戻って!」

 葵の叫びが届くよりも早く龍麻のコートが跳ね上がり、二丁のMAC−10、通称《ビッグ・マック》が抜き出された。

「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 狭い下水構内に轟くMAC−10の咆哮が、反射的に耳を押さえた京一たちを打ちのめす。だが《深きものども》はそれだけでは済まなかった。フルオートでばら撒かれる巨弾を無表情な顔や膨れ上がった腹に受けて吹き飛ぶ。

 高性能なマグナムや九ミリ弾が闊歩する現代においても、西部劇の時代からある45口径はマン・ストッピング・パワーにおいて抜群の性能と信頼性を誇る。西部開拓時代の英雄達を輩出したコルトSAA《ピースメーカー》は45COLTを使用し、戦場の兵士に最も信頼された名銃、コルトM1911A1《ガヴァメント》に《牛殺し》の名を与えたのも、この45ACPなのだ。そして龍麻の腕力は、その強烈な反動をねじ伏せ、正確に《深きものども》に弾丸を叩き込む。

 携帯性重視の二〇連マガジンが尽きた時、《深きものども》はその半数が肉塊と成り果てて汚水の中に飛び散っていた。思わぬ攻撃にたじろいだ水岐の意識を反映し、《深きものども》の統率が僅かに乱れる。その乱れを龍麻が――ナンバー9が見逃す筈はなかった。空になったMACを腰のクリップに引っ掛け、M1100ショットガンを抜き出す。射程は短くとも、およそ狭い空間内での戦闘でショットガンに勝る武器はない。

 下水道内にひしめき合う《深きものども》の隙間をかいくぐり、その群れの中央まで一気に突っ込む龍麻。そこでショットガンが立て続けに咆哮した。弾丸はOOB(ダブルオーバッグ)。通常散弾の中にタブレット状の弾丸九個が混入された弾丸はコンクリートブロックをたやすく破壊してのける。魔物と言えど、こちら側に存在している以上、生物的物理常識からは逃れえず、魚のような頭部は爆発四散し、ぶち抜かれた腹からは緑色の臓物を吹き零れさせた。水のある空間内で、しかも耐久力もかなりのものがあったであろう《深きものども》であったが、彼らに合わせた装備を揃えていた龍麻の敵ではなかった。

「おのれ!」

 最後の《深きものども》が倒れ、龍麻のショットガンの弾が尽きた時、水岐が飛び込み様に斬撃を放った。フェンシングのフレッシュ――いわゆる飛び込み斬りだ。咄嗟にショットガンを掲げて斬撃を受け止めた龍麻であったが、水岐の斬撃はその一撃のみでショットガンの機関部…鉄を切断してのけた。



 《脅威レベルイエローからオレンジへ》



 龍麻の戦闘知性体が水岐の武器の攻撃力を算出する。白銀に輝く長剣はアルバニアの英雄イスケンデルベイが使用したといわれる《魂の剣》。技量次第で掲げられた剣を断ち切り、鉄兜ごと頭を叩き割ることも可能だという。龍麻の記憶では、それは大英博物館の地下保管庫に封印されていた筈だが、あの《村正》と同じく盗み出されたのか!?br>
「フフッ、見切れるかな?」

 ショットガンを破壊され、跳び下がる龍麻に対して水岐が再び斬り込む。並みの格闘技者ならばなす術もなく唐竹割りにされていたであろう斬撃を、龍麻は逆に自ら間合いを詰めた。龍麻の肩が裂けるが、刃の付け根の部分であったためにダメージはほとんどない。そしてそこから《掌底・発剄》!

「グウッ!」

 水岐の右脇腹が裂けて吹っ飛ぶ。きりきり舞いしながらも剣を床に突き立てて停止したのは、あの密接間合いから放たれた龍麻の発剄を、不完全とは言えかわしてのけたためだ。ダメージはかなりのものであろうが、今の龍麻の攻撃で即死しないとは!?br>
 噴き出る血を押さえようともせず、龍麻が突っかけた。

「チッ!」

 脇腹を押さえながら、水岐は剣を真上に薙ぎ払った。

 天井の裂け目から水が噴出し、一瞬にして広がった亀裂が崩れ出す。急制動をかけた龍麻は慣性の法則すらねじ伏せ、後方に激しくスピンしながら跳んだ。降り注ぐ岩塊は全てコートの表面で弾き飛ばされたが、通路は崩れた瓦礫で塞がれてしまう。

「龍麻ッ!!」

 追撃できないと知った龍麻の動きが止まる。そして、崩れた通路の向こう側から、悪意が滴り落ちるような水岐の声――

「フフフ…その殺気、その赤く光る目。…思い出したよ。我らが宿敵。小ざかしく愚鈍な政府どもの犬。対テロ特務部隊レッドキャップス! こんなところで再び対峙しようとは…!」

 まさか!? 龍麻と水岐は前にも会っているというのか? それも敵同士として!?br>
「……」

「だが、これで勝ったなどとは思わぬことだ。我が下僕、神の子達の力はこんなものでは済まない。そして僕の下僕にはあいつら――鬼たちもいるのだからね」

「鬼って、まさか――ッ!」

「鬼道衆…!」

 またしても《鬼道衆》だった。凶津の時も、比良坂の時も、《鬼道衆》が陰で糸を引いていた。この東京を破壊し、ひいては世界をも混乱に陥れると言う、謎の集団。龍麻が《敵》として認識したテロリスト集団…。

「間もなく門は開く――」

 水岐は唄うように言った。

「暗く深い海の底から、破壊の神が目覚める刻は近い。そうなればこの世の全ては僕の下にひざまずく。――インスマスでは君らに勝利の凱歌が上がったが、今回は僕の上に日が昇る。来るがいいレッドキャップス! 決着を付けてやる!」

 ひとしきり水岐の笑い声が下水道内に残響し、気配が絶えた。

「龍麻…?」

 恐る恐る声をかける葵。龍麻はそれには応えず、MACの弾倉を交換した。空になった弾倉はコートのポケットに納める。ここから離脱したら弾丸を込め直すのだろう。

「…戻るぞ」

 龍麻がそう告げたことで、京一たちは龍麻の《戦闘マシン》モードが解除されている事を知った。

「どういう事だよ龍麻。勝手に一人で先走りやがって!」

 昨日に引き続き、今日も一人で…! 今度という今度は京一も腹に据えかねていた。昨日のはある意味不可抗力かも知れないが、今日は完全に一人だけで飛び出し、一人だけで闘った。京一たちの存在を蔑ろにして。

 そして龍麻が黙って京一の脇を通り過ぎようとしたので、醍醐がその前に立ち塞がる。

「待て、龍麻。今日のお前はどうかしているぞ。俺から見ても冷静さを欠いているし、京一の言うように先走りすぎだ。まさかお前――」

 比良坂の一件を引きずっているのか――そう言いかけて、醍醐はそれを葵に止められた。

 葵にはなんとなく判ったのである。龍麻が何か、使命感のようなものに駆られていた事に。それは水岐との間になにか因縁があったという事とも関係しているだろうが、それ以上に、先程の《深きものども》と自分たちを戦わせたくなかったようにも見えた。

 しかし京一は今度ばかりはやめようとしない。

「おい龍麻! 何とか言いやがれ!」

「……」

 これ以上黙っているなら、今度こそぶん殴る! 京一は木刀を龍麻に向けた。

 その時、ふと龍麻の視線が京一から外れる。思わず彼の視線を追った京一はうっと呻き声を上げてその場を飛び退いた。そこにいたのは胴が二つにちぎれていながら、じりじりと彼らに這い寄っていた《深きものども》の一匹であった。

「うわ! こんなになってもまだ生きてるよ!」

「チッ! この野郎!」

 とどめを刺すべく京一が木刀を逆手に構え――それより早く一発の銃声が《深きものども》の頭部を吹き飛ばした。血とも体液ともつかぬものが飛び散り、京一が呻く。

「…可及的速やかにここを出る。次の目的地は青山墓地だ」

 最後の一匹のとどめすら仲間たちには任せず、龍麻は冷徹に言った。







 龍麻たち一行が最も近いマンホールから脱出した地点は、芝公園内、噴水の傍であった。既に夕暮れが深まっているため、周囲に人の姿はない。マンホールから出てきた若者たちを咎める者はいなかった。

 いや、一人だけいた。咎めるのではなく、驚きの声で彼らを出迎える。

「あなたたち、こんな所でなにしてるの…って、これは愚問かしらね」

「肯定だ」

 先程の戦闘の余韻か、龍麻の口調からは感情が欠けていた。注意すれば彼の身体からは下水道の悪臭に混じって血と硝煙の匂いが漂っているのが判るだろう。そして実際、龍麻の肩は浅手とは言えいまだに出血が続いている。

「ちょっと…緋勇くん! 怪我してるの!?」

「装甲の上からだ。問題ない」

 苦痛の色一つ見せずコートと戦闘服を脱ぎ、龍麻は噴水の水で傷口を洗った。すると葵がそっと傷口に手をかざし、癒しの光を放射する。刃物で裂かれた傷がみるみる塞がっていくのを目の当たりにした天野は感嘆で声も出ない。

「天野さんはここで何をしておられるのですか?」

「え!? ええ、もちろん、仕事よ。まあ、あなたたちには隠しても仕方ないわね。怪物探しよ」

「怪物って、エリちゃん…」

 天野はきりっと居住まいを正し、

「安心して。みんなの邪魔はしないわ。見たところ、やっぱり怪物は本当にいて、皆ももう一戦を交えたってところかしら。それにしても、あなたたちがもう下水道に注目しているなんて、正直驚いたわ」

「エッ!? それじゃ天野さんも…?」

「ええ。私は事件のあったプールに頼み込んで排水溝を見せてもらったのよ。そこには怪物のものと思しい爪痕がいくつもあったわ。下水道を自在に移動し、水辺の人々を攫う。――緋勇君、あなたはクトゥルフ神話を知ってる?」

 そう言って何気なく龍麻を見た天野は絶句した。

 龍麻は噴水の縁に腰掛け、先程空になった弾倉に45ACPを詰め直していたのだった。そして広げられたコートの内側に詰め込まれた銃器。ずらりと並ぶ手榴弾に閃光弾、ガス弾、四〇ミリ榴弾。およそ平和な日本では目にすることのない武器弾薬の数々。それを身に付けるべき男は、身分こそ一介の高校生。だが、今剥き出しにされている肩には、彼の正体にして、彼の背負ったもっとも大きな誇り、そしてもっとも大きな傷。レッドキャップスのエンブレムがくっきりと浮き出していた。

 天野はそれを知っていた。しかし、確信はなかった。約二年前に発生した、沖縄のアメリカ軍嘉手納基地消滅事件。その渦中にいたとされる、対テロ特殊実験部隊レッドキャップス。その実態はロボトミー処理を施された少年兵ばかりで構成され、事件発生直前にクーデターを起こし、反乱鎮圧寸前に気化爆弾を使用して自爆、2千の将兵を道連れに壊滅したと聞いていた。そしてその生き残りがこの日本のどこかに潜伏しているらしいとも。

 この少年が、そうなのだ。レッドキャップス最後の生き残り、ただ識別番号のみで呼ばれる兵士。レッドキャップス・ナンバー9…。

「知っている」

  龍麻は簡潔に告げた。

「そ、そう? 緋勇君って意外と博識なのね。それともラブクラフトのファンなのかしら?」

 一九〇〇年代初期、アメリカのウィアード・テイルズ誌に掲載された、H・P・ラブクラフトやオーガスト・ダーレスなど、怪奇幻想小説家達がこぞって作り上げた《クトゥルフ神話体系》。ブラム・ストーカーなどの古典的ホラーやスティーブン・キングのモダン・ホラーなどとは一線を隔す、人類の有り様が極限まで貶められたホラー小説を、まさか元マシン・ソルジャーが知っているとは、さすがに天野も思いも付かなかった。

 しかし、それだけでは済まなかった。

「今回の主犯は《ダゴン秘密教団》の生き残りだ」

「ええッ!?」

「《奴ら》は実在する。…九五年にインスマスで《奴ら》の集会を襲撃し、ターゲットのエルハップ・マーシュを抹殺した際、逃げ延びた信者の中に数名の日本人が含まれていた。骨相は変わっていたが、あの時の少年が水岐だろう。だとすると、ダゴン復活まで余り猶予がない」

「そん…な! どういう事!?」

 クトゥルフ神話という言葉自体、聞くのが初めてな京一たちはまったく話に付いていけない。従って龍麻がこうもあからさまに武器の準備をしている理由も、天野が血相を変えている理由も判らなかった。

「エルハップ・マーシュの目的は人間の中に奴らの尖兵を紛れ込ませることだった。これまでのような混血種ではその容貌から正体がすぐにばれるが、《奴ら》と成り果てた者の心臓を人類の物と交換すれば奴らの性質を持ちながら見た目は人間のままの魔物が生まれる。心臓を抉り出された《奴ら》は一三体。だが俺たちが始末したのは一二人。――水岐が最後の一人だ。奴が生け贄の儀式を行い、コンタクトを取ればダゴンは目覚める」

「…!」

 天野が蒼白になるのを見て、しかし話がまったく見えない一同の内、京一が真っ先に口を開いた。

「何なんだよ? その、クトゥルフとかダゴンってのは? そいつが目を覚ますと、何がどうなるってんだ?」

 天野は一瞬、《何を言ってるの? 》と言うような顔で京一を見たが、そもそも一般人がクトゥルフ神話に隠されている、恐るべき暗示を理解できる筈がないのだ。

 激しい動悸を静めるように胸に手を当て、天野は簡単にクトゥルフ神話に付いて説明した。

 クトゥルフに代表される太古の《邪神》達は、宇宙創生時の混沌より発生した、《負》もしくは《陰》の性質を持つ一種の超生命体である。彼らは宇宙を構成する四元素の性質を有し、それぞれ固有の形を持たないエネルギー体もしくは精神体としてこの宇宙に存在し、宇宙創造時に生まれた数多の生命体に対する絶大な脅威となった。気が遠くなるほどの年月の果てに生まれた数多い知的種族は彼らを恐れ、絶対的畏怖を込めて崇拝した。彼らはその《信者》の恐怖と生命を吸い、肥え太り、自らと相反する性質を持つもの…《水》なら《風》を敵視し、激しい戦いを繰り広げた。そのままならば宇宙は彼らの勢力争いの果てに滅びる運命にあったのだが、彼らと同じく宇宙創生時に生まれた大いなる《正》もしくは《陽》の性質を持つ《旧神》がベテルギウス星系より飛来し、数十数百万…人間の理解が及ばぬ長い時を経た戦争の果てに、彼ら《旧支配者》をこの銀河系に追放する事に成功した。《水》のクトゥルフは地球の海底都市ルルイエに、《風》のハスターは冥王星の湖、暗黒のハリ湖に…というように。

 しかし宇宙の構成原子でもある彼ら《旧支配者》を完全に駆逐する事は不可能。《旧神》は宇宙の大銀河そのものを結界として《旧支配者》を封印したのだが、星の配置が変わる事によって封印に綻びが生じる事もまた予知していた。現に《旧支配者》達は幽閉場所から自由に動く事は出来ずとも、宇宙の果てにまで届く精神波を用い、原住生物とコンタクトし、腐敗と汚濁に満ちた邪気でその精神を狂気に変成、おぞましき魔物を無数に創り出していた。そこで《旧神》は《旧支配者》との戦争に疲弊した本体はベテルギウス星系で休ませながらも、彼らに対抗するために《人間》を創り出した。ここに《人間》対《魔物》の、いわば代理戦争が始まったのである。そして《旧神》の加護を強く受けていた《人類》は《旧支配者》の下僕である古代種族を尽く打ち滅ぼし、事実上の地球の支配者となったのである。

 だが、下僕のほとんどを失ったとはいえ、《旧支配者》そのものが滅びた訳ではない。彼らは《旧神》の創り出した人類そのものにその邪悪な精神波を伸ばし、信者と生け贄を獲得した。やがて人類の中に彼ら《旧支配者》の僕たる血を有する者たちが潜むようになり、人類の歴史を血と闘争で染め上げていったのだ。

「…クトゥルフの下僕となった一番有名な例が、アメリカのマサチューセッツ州の港町インスマスで隆盛を極めたマーシュ家なの。彼らは海の神に生け贄を捧げ、《ダゴン秘密教団》を創り、クトゥルフの従者であるダゴンを復活させようと目論んだ。でもそれはアメリカ政府の知る所となり、政府の派遣した軍隊によって滅ぼされた筈だったのよ」

「…後は図書館ででも本を探して読め。――葵、全員に招集をかけろ。集合場所は青山墓地入り口。可能な限りの重装備で来いと言え」

 龍麻はG3を肩に吊り、その上からコートを羽織った。この季節にコートは目立つ事この上ないが、まさかその下に自動小銃を隠しているとは思うまい。

「青山墓地に《鬼道門》があるの?」

「青山墓地そのものではあるまい。恐らくは一番近い神社仏閣…増上寺地下だ」

「《鬼道門》?」

 またしても聞き慣れない単語の出現に、それでも必死に食い下がる葵。彼女はまた龍麻が一人で行ってしまうのではないかという、胸騒ぎを覚えていた。《全員を招集》とは言ったものの、それは別れを告げるためとも考えられるのだ。

「世界各地にあると言われている、現世と常世を結んでいる入り口の事を《黄泉の門》あるいは《鬼道門》と呼ぶの。普通は厳重に封印されているのだけど、その門を開ける事が出来れば《旧支配者》本体はともかく、その従者くらいなら召喚する事も可能だと言われているわ」

 天野の説明で、葵たちは先程の水岐の言葉を思い出した。



 ――間もなく門が開く。暗い海の底から、破壊の神が目覚める――



 その事を天野に告げると、天野の顔から血の気が引いた。龍麻はそこまでは告げていなかったのだ。

「それじゃその水岐っていう子は、既に門の封印を解除しているって事になるじゃない! 早くその子を止めないと、まず東京は海の底に水没するわ!」

「そうさせないために、俺がいる」

 龍麻は言った。《俺たち》ではなく、《俺》と言った事で、京一と醍醐は思わず唇を噛み締めた。

「奴ら相手には警察も自衛隊も役に立たない。かといって他の国に…特にIFAFにでも知られたら、東京は水没する代わりに核ミサイルで焼き尽くされるだろう。イハウエラの二の舞は願い下げだ」

「イハウエラ? まさかあの事件も、《奴ら》が関わっていたの!?」

 イハウエラ…カリブ海に浮かぶ島々で構成された、小さな共和国。それが事もあろうに超大国アメリカに宣戦布告。パナマ運河、ダラス、ヒューストンを一気に接収した《第二の湾岸戦争》はまだ記憶に新しい。だがその顛末は悲惨なものだった。世界が核軍縮に動いていた昨今、その戦争で遂に核兵器が実戦使用されてしまったのである。《カリブの真珠》と唄われた美しい島々は、五万に及ぶ国民と共に核の炎で消滅した。しかもそれは国連直属の紛争治安部隊として設立したインターナショナル・フリーダム・アトランティック・フォース…通称IFAFで最も悪名高い第7機動海兵中隊《マックス竜騎兵隊ドラグーン》の独断で行われたものであった。

「あの事件に対し、我々を始め各国特殊部隊が世界各地に点在する《神殿》を同時破壊すべく派遣されたが、《奴ら》の動きは我々の想像以上に速かった。《神殿》が召喚儀式とは無関係だと見抜いた彼ら《ドラグーン》は、時間切れになる前に独断で核攻撃を敢行。イハウエラを消滅させた。しかし《奴ら》の報復がその直後に始まり、各地で部隊が壊滅的打撃を受け、我々と同行した《ヒコック山猫隊ワイルドキャット》も五〇名中四五名が死亡した。しかし《ドラグーン》が核兵器を使用しなかったら、五万の生け贄を得たダゴンが復活し、この世を地獄に変えていただろう。ダゴンによって水没されるか、人類の手によって核ミサイルを撃ち込まれるか。――どちらも止めるためには、俺が動くしかない」

「……!」

 いつもと同じ口調で話す、いつもより過激で深刻極まりない龍麻の体験談。葵たちは声も出なくなった。自分達がのうのうと暮らしている世界の陰で、まさに世界の存亡に関わる戦争が繰り広げられていたなど…。

「そう…ね。とてもじゃないけど、この先は私なんかの出る幕じゃなさそうだわ。でも私も調査を諦める訳には行かない。情報は少しでも多い方が良いでしょ?」

「肯定だ。そして、奴らに戦いを挑んだ者は、軍隊よりも一般の科学者やジャーナリストの方が多い」

「…ありがとう。――何か解ったら連絡するわ。奴ら以外の邪魔が入りそうだけど、何とかやってみる」

 奴ら以外の邪魔――思い当たる名前は一つ。如月翡翠だ。

「…奴は味方ではないが、敵でもない。奴が手を引けと言うなら、そうしても良いだろう。いずれにせよ、決着は付ける。安心しろ」

 年上も何もあったものではない、龍麻の言葉であったが、その信頼するに十分な声音に天野は微笑した。

「本当に、あなたたちって頼もしいわ。こんな言い方って凄く空々しいけど、頑張って。あなたたちの肩にこの東京の、ひいては世界の運命がかかっているのだから」

「感謝する」

 龍麻は両足を揃え、敬礼した。

 それは正しく、決死の作戦に挑む兵士の姿だった。







「…龍麻。今何時か解るか?」

「現在二〇一〇時。グリニッジ標準時では――」

「これから更に夜が深まる。これ以上遅くなると――」

 龍麻より先に、醍醐が言わんとしている事が解った葵と小蒔が表情を固くする。ここまで来て、《もう夜だから》という理由で返されたのではたまったものではないだろう。

「だからなんだ?」

 龍麻は冷然と言い放った。

「今回に限り、作戦参加の意思決定は完全に個人に委ねる。くだらない理由を引っ張り出すな」

「そうだよ醍醐クン! ボクたちだって戦えるじゃないかッ!」

「醍醐君…私たちにも、きっと何か出来る事があると思うの…。だから…お願い」

 龍麻の真意は分からなかったものの、小蒔と葵に詰め寄られてたじたじになる醍醐。この上さらに藤咲や高見沢、裏密まで加わったらさすがにたまらないだろう。醍醐は脂汗を流しながら「分かった」と肯いた。

「ただ、帰りが遅くなるだろうから、美里と桜井は家の方に電話を入れておいた方が良いだろう。そうだな、龍麻?」

「良かろう」

 葵と小蒔がほっと息を付き、それじゃどうしようかとアリバイ工作の相談を始めるのを背中で聞きながら、龍麻はまだ迷っている自分に気が付いた。

 意思決定は個人に委ねる――そうは言ったものの、今回ばかりはそれが正しいかどうか、彼にも判らない。この闘い――戦争は自分一人きりではあまりにもきついが、かと言って彼らに…。

「なんか、久しぶりだよな。こんな、餓鬼の頃みたくワクワクすんのはよ」

 京一の能天気な声が聞こえる。

 全ては、全員が揃ってからだ。龍麻はそう決めた。こちら側に来るも来ないも、全ては彼ら次第なのだ。







「Attention!」

 既に夜の闇が重く垂れ込めている青山墓地の中で、龍麻の声が注目を喚起した。

 仲間達は全員集合している。夜も9時近いというのに、よく高校生である彼らが集まれたものだが、やはり龍麻の精神状態を気にしている者、前回の屈辱を晴らしたい者など、各々が胸に強い想いを抱いている。そしてもっとも強烈に、共通してある想いは、《龍麻と共に戦いたい》というものだ。それがある以上、時間など問題ではなかった。

「今回のミッションは、おそらくは増上寺地下で行われている邪神の復活儀式を阻止、敵を完全殲滅する事である。敵戦力は不明。ただし弱点が《火》である事は判明している。このミッションが失敗すれば、この東京が水没し、ひいては世界をも滅ぼす事になりうる。各自健闘せよ! 以上、質問は?」

 もとより質問などなかった。一応事前にざっと説明を受けていたのだが、今回の作戦はちょっとスケールが大きすぎるのである。実際、クトゥルフ神話がただの小説だと考えている者が大多数で、しかし実際に《深きものども》を目撃した京一たちの言から、「面白い」とは考えていたが。

「これより先は私語禁止。各自三メートル以上離れぬように捜索開始」

 龍麻の号令と共に、直接戦闘を得意とする者が左右に散り、中距離戦闘を得意とする者が葵や高見沢、小蒔を護る。殿は紫暮2号だ。Y字フォーメーション。ツートップを行くのはもちろん、龍麻と京一である。

 夜の墓地という、ただでさえ不気味なところを極力音を立てぬように進む一行。こういう所はとかく痴漢や思慮の足りないカップルの温床となるものだが、空気にこもっている妖気の濃さの為か、いわゆる一般人は一人もいなかった。一行は誰にも会わぬまま、やがて青山墓地でも最もうら寂れている場所に近づいた。

《全体停止。見ろ》

 龍麻の手信号で全体が止まる。一同は体を低くして、前方の闇に目を凝らした。

《いた…!》

 一目見たら忘れようのない、グロテスク極まりない半魚人。目撃情報通り、跳ねるように歩いている。足に水かきがあるのと、バランス取りの難しさゆえだろう。しかし実際にそんなのが夜の墓地を跳ね回っているのを見ると、それは妙にシュールな光景であった。

《墓石を動かしている。その下に穴がある》

《あそこが入り口だな》

《行こうぜ》

 《深きものども》が地下に下りていったのを確認し、龍麻たちは周囲を警戒しながら、地面にぽっかりと開いた穴のそばに近寄った。穴の入り口は直径一メートル足らずだが、奥からは磯臭く生ぬるい風が吹き、相当深く広い事が予測できた。

「君達…」

 龍麻を除く全員がはっとして背後を振り返る。《気》に対して龍麻の次に敏感な京一や雨紋さえ、声をかけられるまでその男の存在に気付かなかったのだ。

「また君たちか…。手を引くように忠告した筈なのに、無視するつもりなのかい?」

「そう言うテメエは一体…!」

 気配を悟れなかった自分に怒りを感じた京一は、謎の骨董屋の青年――如月翡翠に食って掛かった。しかし――

「俺も言った筈だ。お前の事情は関係ないと」

 酷く冷徹な龍麻の声。龍麻の人となりを知っているつもりだった京一たちであったが、その声音には違和感を覚える。他の仲間たちも同様だった。この声音の印象は…如月が対等…?br>
「これは、僕が決着を付けなければならない事件だ。僕の中に流れる飛水ひすいの血が命じる。主の眠りと、この地の清流を汚すものを倒せ、と」

「事態は極めて深刻だ。そして、奴は俺の獲物だ。お前こそ手を引け、飛水流忍者」

「――ッッ!」

 一瞬! それ以上の時間を必要とはしなかった。確かに二人の距離は五メートル以上離れていた筈なのに、次の瞬間には如月の握った刀は龍麻の喉元に当てられ、龍麻のMAC−10は如月の眉間に突き付けられていたのである。

「これは僕の使命だ。なぜ身を潜めているべき君が介入する?」

「俺にとってはやり残した仕事だ。俺が俺であるための戦いだ」

「……」

 数瞬、互いに一歩も退かず睨み合う。ぶつかり合う凄まじい殺気に他の仲間たちは声も出ない。その殺気の質は、如月翡翠が龍麻と同種の人間である事を物語っていた。とても一介の高校生などが介入できうる事態ではない。

 だが、二人は同時に武器を下ろした。

「…ここで僕たちが争っても《奴ら》が利するだけだ。やむを得ん。今回だけは同行しよう」

「良かろう。俺も、お前にいなくなられては困るからな」

「僕も、上客に死なれては困る」

 偉そうな龍麻の声音に、如月が苦笑で返す。先ほどまであれほど殺気をぶつけ合っていたとは思えぬ二人に、仲間たちはほっと胸をなで下ろした。

 しかし、ほっとしたのも束の間、龍麻は驚くべき事を告げた。

「せっかく集まってもらったが、お前たちはもう良い。帰れ」

「なっ…!!」

 いつもの放言にしても、今回のは度を越している。仲間たちは一斉に激発した。

「どういう事だ! 龍麻!」

「なんだよ龍麻サン! ここまで来て、そりゃねえだろう!」

「アタシらを舐めてんの? いくら龍麻でもそんなの承知しないよッ!」

「あのような敵を相手に、一人で戦おうとでも言うのか!?」

「龍麻…」

 女性だから遅くなると云々――どころではない。はっきりと龍麻は言ったのだ。《如月がいれば良い。お前たちは必要ない》と。

「…なあ龍麻。理由くらい聞かせてくれても良いんじゃねェか?」

 こんな場面なら真っ先に激発しそうな男、京一が静かに口を開いた事で、他の仲間たちは少し自分を押さえる。龍麻が頑なな態度を取った時、彼の口を開かせるのはいつもこの男だからだ。普段の龍麻は京一をいつも馬鹿にしているようだが、こと仲間内で一番信頼しているのも京一と言える。

「これは命令だ。お前たちは速やかに帰還し、次の出撃まで待機しろ」

「――理由になってねえぜ!」

 付き合いの長い醍醐にしてから、初めて聞く京一の鞭打つような声。龍麻のそれと匹敵するほどの迫力に、醍醐たちさえビクッとした。常に龍麻の隣で剣を振るってきた京一だ。戦いにおいて龍麻に蔑ろにされて一番憤っているのは彼なのだ。

 ややあって、龍麻が口を開いた。

「…お前たちに、人が殺せるか?」

「…ッ!?」

「先ほど見たアレ――《深きものども》は、元は人間だ」

「なッ――――!!」

 あれが、あの怪物が、元は人間!? 裏密を除く全員が驚愕に顔を引き攣らせた。中でも真神の四人は、ほんの数十分前の戦闘で龍麻が《深きものども》を殲滅するのを目にしている。あれは、あの行為は、実は人殺し…!?br>
「馬鹿な! それではお前、あれが人間だと分かっていて――ッッ!」

 そこまで言って、醍醐は自分が酷く馬鹿げた事を口にしているのを知った。

 くどいほどに繰り返されている、龍麻の正体。対テロ特殊実験部隊レッドキャップス・ナンバー9。本物の職業軍人。《敵》と認識すれば人でも、人でないものも殺す。速やかに、確実に。彼にとって人殺しは当然であり、そこには何の感情もありはしないのだった。

 しかし、だからこそ彼は一人で戦った。重武装していたとはいえ、十数匹もの《深きものども》に対して。京一がとどめを刺そうとしたのも遮り、自らの手で全てを殺した。

「…ここが最後の一線だ」

 龍麻は言った。

「《奴ら》は怪物の姿こそしているが、元はただの、攫われてきた人間たちだ。何も解らぬ、何も知らねば、普通に生活をし、ささやかな平穏に埋没していた、ただの人間たちだ。だが今は魂を汚され、あの通りだ」

「……!」

「俺は殺せる。一瞬の躊躇も、微塵の後悔もなく、奴らを殲滅できる。それは俺が向こう側の人間であり、俺の存在理由であるからだ。だがお前たちはどうだ? ――学生さん?」

 酷く胸に響く、残酷な声。それは龍麻が《自分は違う》と言っているも同然であった。すぐ目の前にいるのに、酷く遠い存在に感じてしまう。自分達は、龍麻と共に戦うと誓ったのに!

「手を引くなら今の内だ。既に奴らは世界に対して闘争を挑んだ。そこには人間も非人間もありはしない。そして水岐――奴は俺を名指しで挑んできた! 俺を殺すために! 俺に殺されるために! だから俺は奴を殺す! それが俺たちの礼儀であり、それが唯一絶対の、闘争の契約だ!」

「ッッ!!」

 かつてこれほど、龍麻が激昂した事などなかった。彼を過去に引き戻す《敵》の出現。かつて自分が取り逃がした《敵》との遭遇。否応無しに自分を戦闘マシンに変える戦いを前にして、《人間》の心を持ってしまった《殺戮機械》の上げた咆哮であった。

 《仲間たち》に人は殺せない。また、殺させない。人間には、越えてはならぬ一線がある。それを越えてしまったら、もはや《普通》ではいられない。どんな理由を付けようと、人殺しは人殺しだ。敵に撃ち込んだ弾丸の数だけ、重くなっていく自分の体。胸の奥でザリザリ鳴っている弾丸の影――感情なき頃は気付かなかったそれを、龍麻は知ってしまった。そしてそんなものは、絶対的に知らずにいる方が良いのである。そして――

「この一件、既に米軍かIFAFは勘付いている筈だ。今、この瞬間さえ、限定核兵器が飛んできてもおかしくはない。――下で二分待つ。手を汚す覚悟の出来た奴だけ来い。それ以外の者は戻れ。――普通の生活に」

 そして龍麻はG3ライフルを手に、穴の中に身を躍らせた。僅かに遅れて、如月も続く。二人に共通するのは、使命と決意。その目にはまったく迷いはない。

 二人が姿を消してから、京一たちは互いに顔を見合わせた。

「おい…どうするよ?」

「ど、どうするって言われても…」

 雨紋は困ったように一同を見回したが、皆、その後の言葉を継ぐのが恐ろしくて顔をしかめるばかりだった。

 彼らは決して生命に対して差別主義者ではない。人間は殺せないが、怪物なら殺せる――そんな安直な考えで闘いに臨む者は、少なくとも一人もいない筈だ。それでもやはり、怪物の方が戦いやすいという考えは否定できない。

 一人では行かせない――その誓いは嘘ではない。嘘ではないが、自ら自分の手を人間の血で汚せるのか!? 大体龍麻にしても、この街に人殺しをしに来たのではなかった筈だ。そして願わくば、一人の学生として生きようとしていたのではなかったのか。それがなぜ今になって、明らかに自分の手に余る戦いに赴くなど…。

「…ミサちゃん!? どこに行くの!?」

「もちろん〜ひーちゃ〜んの後を追うのよ〜」

「な、なんだって!? マジかよ裏密サン!」

 仲間たちの誰が、こんな事態を想像したであろう。まさか真っ先に動いたのがこの少女だったとは?br>
「…どういう事だよ、裏密」

 かつてない真剣さで、京一は裏密に詰め寄った。だが裏密はいつもの笑いを消し、その脇を通り過ぎようとする。

「裏密!」

「…みんなは、ひーちゃんの何を見てきたの?」

 穴の縁で立ち止まり、首だけ傾けて裏密は言った。いつもとは異なる、厳粛な声で。

「今までのひーちゃんの闘いを見て、ひーちゃんが殺人狂だって言える? ひーちゃんは何度も言ってた筈よ。何のために、誰のために戦うのか」

「……!」

「ワタシが解るのは一個だけ。一度《深きものども》になった者を戻す方法はないの。そして《深きものども》は未来永劫にこの世を憎み、人を殺し、人を食べ続けるわ。助けようと思ったら、殺すしかないのよ」

 かつてないシリアスモードで顔が強張ったか、裏密は手で頬の辺りを二、三度揉み解し、いつものようにニヤ〜ッと笑った。そしてふわっと穴の中に飛び降りる。

「ミサちゃん…!」

 葵も、小蒔も絶句する。救うためには、殺すしかないなんて…!

 次に動いたのは、雨紋であった。槍の覆いを外し、その場に打ち捨てて歩き出す。

「雨紋!」

「…止めねェでくれよ、紫暮サン。それから、アンタらも」

 雨紋は新調して間もない槍を一振りした。比良坂の事件の時に折ってしまった槍の代わりだと言って、龍麻が彼に持たせた品である。例の旧校舎探索の際に入手した、言わば拾い物だが、威力、重量、扱いやすさ、どれを取っても以前の槍より高品質な代物だ。

「俺は、龍麻サンがいなけりゃ唐栖を止められなかった。それだけじゃねェ。龍麻サンの言う通り、俺は唐栖と決着を付ける事に本当はビビッてたんだ。口じゃずいぶん奇麗事を言ってたが、心のどこかで、唐栖の言う事にも一理あるなんて事も思ってた。《街をきれいにするには、どぶをさらう人間が必要》――俺サマの好きな漫画にあった台詞さ。だがそれは唐栖の事じゃねェ。龍麻サンの事だったんだ。自分から泥をかぶる人間がいるから、俺サマ達は安心して暮らしていける。だが龍麻サンのような人間たちは、その汚い仕事で栄光もなく死んでいくんだ。――もう、目を逸らす訳にはいかねェんだ!」

「…止めはせんよ。俺も行く。緋勇…龍麻が真に武道家なのか、それとも修羅道に堕ちた悪鬼なのか、俺は見届けたい」

 雨紋の肩を叩き、紫暮は背後を振り返った。

「俺たちは行く。お前たちも、頭で考えていても答えは出んぞ。己自身に問え」

 雨紋と紫暮が穴に消える。間を置かず藤咲が続いた。その後に高見沢も続いたが、藤咲がそれを押し留める。

「舞子、アンタは残りな」

「え〜! どうしてえ〜!」

「アタシの手はもう血で汚れてるんだよ。だけど龍麻は《血は洗い流せる》って言ってくれたんだ。…アタシは行くよ。龍麻に付いて行くって決めたんだからね。でも舞子、アンタは駄目よ。アンタの手は人殺しのためにあるんじゃない。人を助けるためにあるんだからね」

「亜里沙ちゃん、意地悪。私だってダーリンの役に立ちたいし、あんな姿にされちゃった人たちを助けたいんだよ。たとえそれが、殺す事であっても」

 かつて藤咲の弟の言葉を伝えた時の、厳粛なる雰囲気。死霊の苦しみさえ理解してやれる、限りなく優しい看護婦見習いの決意を秘めた目に、藤咲はふん、と鼻を鳴らした。

「馬鹿だよ…アンタ…」

 藤咲は強く高見沢を抱き締め、順番に穴に飛び降りていった。後に残ったのは、最も長く龍麻と接してきた、真神学園三−Cの面々だけである。

「皆行っちゃったよ…ねえ、どうするの?」

 龍麻が《待つ》と言った二分はとうに過ぎている。真っ先に追っていった裏密はともかく、雨紋や紫暮、藤咲に高見沢は後から追いかける形になるだろう。

「どうすると言っても…皆、人を殺すという事が本当に解っているのだろうか?」

「解ってる訳ねえだろう? 龍麻以外、人殺しの経験なんかねえんだからよ」

 吐き捨てるように言う京一。藤咲は自分を人殺しと言ったが、京一はそうは思っていない。他ならぬ龍麻が《違う》と言っていたからだ。

「で、でもさ! ダゴンっていうのが復活しちゃったら、東京は滅びちゃうんでしょ!?」

「…核兵器を使用してでも止めねばならぬ敵…つまり、龍麻たちが失敗したら、早いか遅いかの違いという事か…」

 そうなのだ。元々選択肢などある筈はなかった。龍麻が全員に招集をかけたのは、今思えば彼にとって酷く辛い事だったのだ。彼は、テロリズムと戦うために訓練されている。戦いを求めて戦うのではなく、多くの見知らぬ人々の生活を護るために戦うべく。それを実現させるためには絶対に敗れてはならない。この戦いに勝つためには仲間の協力は不可欠だ。しかしそれは同時に、仲間に人殺しをさせる事につながるのだ。自分独りでどうにか出来るなら、彼は独りで闘いに行っただろう。

 絶対に勝たねばならぬという重圧と、仲間に人殺しをさせてしまうという責務。この二つの板挟みで、龍麻はどれほど苦しんだ事か。彼は自分の事には滅法強いが、他人の痛みには意外と脆い。だからこそ、自分と同じ使命を持つ如月には気を許したのだろう。恐らくはあの如月も、たった一人で戦ってきた男なのだ。――何もかも投げ出して逃げるという選択肢を持たぬ故に。

「…私、行くわ」

「葵ッ!」

「美里!」

 唇を白くなるほど噛み締めながら、葵は地下への入り口に歩み寄った。

「私…何度も何度も龍麻に相談した…。《この力は何のためにあるのか》って…。本当は、龍麻にだって何も解っていない。だけど龍麻は前に進む…。前に進まないと、何も変えられないから…。ひょっとしたら私は、ずっと龍麻を否定し続けていたのかも知れない…。ずっと…人のためにしか戦ってこなかった龍麻を…」

「葵…」

 今の葵の心情を知らずして、どうして彼女の親友を語れようか。小蒔には葵の気持ちが痛いほど分かった。

 葵はまだ、比良坂紗夜の事を引きずっている。死というものを多く見続け、失うという事に耐えうる精神力を身に付けてしまった龍麻でもそうなのだから、仲間全員が。しかし葵は(高見沢もそうだが)、戦う《力》ではなく、人を癒す《力》に目覚めている。それなのに、その腕に抱いた紗夜を救えなかった事は彼女にとって深い心の傷となったのだ。龍麻が転校してからずっと一緒に過ごしてきた自分達以上に、龍麻を理解した紗夜を死なせてしまったと。

 龍麻が血みどろの闘争に再び身を投じたのは、紗夜の一件があったからかも知れない。だがそれ以上に、戦闘マシンと化した龍麻を見て、ただでさえ怖れと不安の対象ともなっていた《力》に対する恐怖が芽生えてしまったのだ。

 ――誰かを護れる力が欲しい――それは逆に、――人を傷付けるだけの力など要らない――に通じる。自らの手を汚す事によって、多くの人々の生活を護ってきた龍麻。雨紋の言うように、栄光もなく、世に知られる事もなく、最後は、味方の手によって全滅させられたレッドキャップス…。平和な世界では彼らの存在は必要とされず、平和を得るためには彼らの力が必要不可欠で、平和を得た暁には邪魔者扱いされる――。そんな現実の中で生きてきた龍麻に、《殺し屋は要らない》と意識しないままに言っていたのではなかろうか?br>
「葵、ボクも行くよ。ひーちゃんは大切な仲間だもんね!」

「…うむ! このまま何もせずにいてはきっと後悔する事になる。京一、俺たちも…!」

 醍醐は振り返り、そこに京一の背中を見た。

「…行けよ。勝手に」

「京一ッ!」

 小蒔が非難の声を上げたが、京一はケッと唾を吐き捨てた。

「お前ら皆どうかしてるぜ。わざわざ好き好んで人殺しをやりに行くなんてよ。――俺は降りるぜ」

「京一! お前…!」

「文句はねえ筈だぜ。あいつは自分で決めろって言ったんだからな。薄っぺらな同情だの仲間意識だのだけで動いたんじゃ、あいつだって迷惑だろうさ。――じゃあな。せいぜい死なないようにしろよ」

「京一君…!」

 ただ一人立ち去る彼の背中は、酷く孤独に見えた。最も龍麻に近く、いつも背中合わせで戦ってきた男が《必要ない》と言われたのだ。そのショックは解らなくもないが…。

「…行こう。美里、桜井。龍麻は自分で決めろと言ったんだ。そして京一は自分で決めた。俺たちがとやかく言える立場じゃない」

「で、でも! こんなのって…寂しいじゃないか!」

「やむを得ん。龍麻の言う事が本当なら東京の――世界の危機なんだ」

 握り拳をぶるぶると震わせながらも、努めて冷静に醍醐は言い、葵と小蒔を先行させ、自らも最後に穴の中に飛び降りた。







 第八話 邪神街 3    完



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