第八話 邪神街 2





 
 さすがに日本全国夏で、しかも猛暑の休日となれば、考えることは一緒である。区立芝プールは、なぜか職員の活気が薄いものの、それなりの盛況ぶりであった。昨今、海や川できれいな水が失われているとなれば、手軽に行けて、それなりに水のきれいなプールの方に人が集まりやすいのは自明の理である。

「おお、おお! いるいる! さすがにあんまり過激な水着じゃねえが、ナイスバディのオネーちゃんがいっぱい」

「はしゃぐな京一! 恥ずかしい奴だな、お前は」

 基本的に海パン一丁で済む男の着替えは早い。プール到着後五分もたたぬ内に京一と醍醐はプールサイドに出てきていた。

 しかし、しかしである。この二人の登場と共に、プールサイドのこの一角からは人気が遠のいた。近くを通りがかる客たちも、なるべく京一や醍醐と目を合わせないようにして通り過ぎる。

 なんとなく周囲の空気が冷たい事に気がついた醍醐は、京一の所持品を見て呆れたように言った。

「おい、京一、何でプールサイドにまで木刀を持ち込んできてるんだ?」

「何だよ、別にいいじゃねえかよ。大事なモンは肌身離さず持っとく主義なんだよ。それより醍醐、何だお前のその格好は? プールにゴーグルとシュノーケルを付けてくる馬鹿なんて、俺は初めて見るぜ!」

「何をッ! この二つは泳ぐ時の必需品だろうが! 俺はプールに木刀を持ち込む奴の方がよほど馬鹿だと思うぞ!」

「ナニィ!?」

 傍から見ればどちらも馬鹿であろうが、色々な意味で怖いので周囲の客は距離を取るばかり。監視員もこんな奇抜な客は初めてなのか、注意すべきか否かのジレンマに悩んでいる。

 当然、そんな事にはお構いなしに二人の言い合いは続く。

「よっしゃ! こうなったらどっちが本当の馬鹿か龍麻に判定してもらおうじゃねえか!」

「望むところだ! 龍麻なら判断を誤ったりしないからな!」

 と、その時、周囲がにわかに騒がしくなった。

 家族連れは泣き出した子供を抱えて逃げ出し、呆然と立ち上がった監視員は監視台から足を踏み外してプールの中に落ちた。彼らはそこに、とんでもないモノを見たのであった。

「――二人とも、何を揉めているのだ?」

「「ああ、ひーちゃん(龍麻)。実は醍醐(京一)が……って、何だその格好はァァッッ!!?」」

 そこに立っていたのは、全身を黒のウェットスーツで包んだ謎(? )の人物。頭にはカーボンファイバー製のヘルメット、顔にはレギュレーターと一体化するフルフェイスゴーグル。口元から左右に伸びるパイプは腹に抱えるように止められたタンクへと繋がっている。ウェットスーツの上にはたくさんのポケットが付いた高撥水ゴム製のベストを付け、腕には水圧計はおろかアクティブソナーやGPSまで備えた多機能ダイバーズウォッチ。腰のゴムベルトには左側にチタン合金製のダイバーズ・ナイフ。右側には水中戦用ガス・ニードルガンがぶら下げられている。更に手には、水中での高速移動を可能とするガス噴出式航行具が握られていた。

 そんなのがズル…ベタタン、ズル…ベタタンと足ヒレを鳴らしながら歩いてきたら、そりゃあ誰だって逃げ出すだろう。龍麻だと知らねば京一や醍醐とて例外ではあるまい。

「SEALSで使用される隠密作戦用水中戦装備だ。このタンクはドラッガー循環式酸素呼吸器といい、従来の酸素ボンベと異なり、泡を一切出さぬために隠密作戦には実に重宝する。そしてこのガス銃は銃後部に圧縮したCO2のタンクと、直径三ミリ、長さ五センチのタングステンの針を三〇〇本収納可能な弾倉を備えている。そしてこの針には高性能炸薬と信管が仕込まれ、三メートル級のサメならば一発、ジョーズ級のサメでも三発で行動不能にできるのだ」

「「…それでッ!!?」」

 もはや京一と醍醐のどちらが馬鹿かというレベルの話ではない。彼らを足して一〇乗したくらい非常識な戦争馬鹿がいるのを忘れていたのは、京一と醍醐の失策であった。

「しかし二人とも、その馬鹿な格好は何だ? 京一、その木刀は水中戦には長すぎるぞ。そして醍醐、そんなゴーグルでは視野が狭い。それになぜ足ヒレを持っていない? 忘れたのか?」

 京一&醍醐、しばし沈黙。そして、互いの肩にぽんと手を置く。

「…醍醐、俺が間違っていた。お前は馬鹿じゃない」

「…俺も、さっきの発言は取り消すぞ、京一」

「…二人とも、何を意味不明な事を言っている?」

 その刹那、京一と醍醐は物凄い形相で龍麻を振り返った。

「史上かつていない、超絶馬鹿軍曹を殲滅するんだよォォッ!!」

「ムッ!? それは俺の事か? ――フフフ、面白い。その貧弱な装備で俺を殲滅しようなどとは」

 かつてない、そしてこれからも絶対にないであろう珍客三人が一大決戦を始めようとするのを、プールの監視員はブワーッと涙を流しながら見ていることしかできない。しかし、そんな珍客三人に近づいていく、一人の勇気ある少女の姿があった。

「おい! そこの変な三人組ッ!」

「アアッッ!?」

 自分たちのはるか上を行く龍麻の馬鹿さ加減に、既に壊れた京一と醍醐が同時に振り向く。さすがにこれは怖い。威勢良く声をかけてきた、いかにも気の強そうな少女がうろたえる。

「京一、醍醐、一般人に凄んではいかん。――我々は水中活動における基本装備について討議中だが、何か用か?」

 三人の中では一番、極め付けに怪しい格好をした男が意外とまとも(? )な対応をした事で、少女は少し自分を取り戻したようだ。

「い、いや、用ってほどの事じゃねえンだけどよ。その…なんだ。この辺で、オレと似た感じの女の子を見なかったか? 性格はオレと正反対でおとなしいんだけどよ」

「何だァ? 人にモノを尋ねる時にはそれなりの態度ってモンが…」

「残念ながら、我々の認識範囲内にそのような人物はいなかった。悪いが、他を当たってくれたまえ」

 京一の言を遮り、簡潔かつ実直に言い切る龍麻。

「そ、そうか。邪魔したな。…それと、あまりはしゃぎすぎない方が良いぜ。プールの人、泣いてるぜ」

 そう言い残すと、少女は若干小走りにその場から立ち去った。さすがに自分がとんでもない人間に声をかけてしまったと判ったのだろう。

「はあ…あれでも女かよ。…頭冷やしてくるぜ」

「…俺もそうしよう。龍麻、お前もその格好はやめろ。ここは軍事基地の訓練施設じゃないんだ」

「むう…」

 そう言われてはやむを得ない。京一と醍醐が頭を冷やしにプールに入っていくのを見届け、龍麻は装備を外すべくデッキチェアに向かった。

 レギュレーターを外し、ヘルメットとマスクを脱いだところで、龍麻は不意に背後から話し掛けられた。

「あ、あの…」

「うん?」

 龍麻が振り向くと、そこには少しおろおろしている少女が立っていた。

「…つかぬ事をお伺いしますが…この辺りで私に似た女性を見かけてはいらっしゃらないでしょうか?」

 似たような質問をされたばかりの龍麻は、少女の顔立ちが先程の少女と瓜二つである事に気付いた。

「肯定だ。一二〇秒ほど前に同様の質問を受けた」

「まあ、そうですの」

「まだ近くにいる公算は高い。…うむ、あそこだ」

 見れば先程の少女がこちらに気付き、駆けて来る。

「おいッ、雛ッ!」

「あッ、姉さま」

 なるほど、姉妹なら似ていて当たり前…どころか、はっきりと二人は双子であると龍麻でなくとも判る。ただし《性格は反対》と言っていただけあって、その雰囲気から双子であるととっさに判る者は少ないであろう。姉の方は茶色に染めた髪をポニーテールにまとめ、水着はスポーティーな青のハイネック、妹の方は艶のある黒髪を古風に結い上げ、前髪を眉の上で切り揃えている。水着は飾り気のない淡いピンクのワンピース。――同じ顔立ちでも、雰囲気がまるで正反対なのだ。

「無事に合流できて何よりだ」

「何だ、兄ちゃん…って、さっきの変な兄ちゃんか。へー、素顔は結構カッコ良いじゃん」

「姉さま…この奇抜な方とお知り合いですの?」

 すると姉の方は、そこに龍麻がいるのも構わずブンブンと首を激しく横に振った。

「そ、そんな訳ねえだろ! こんな変なのと…ッと、悪い! 別に悪気があった訳じゃねえんだ!」

「問題ない」

「と、とにかくありがとよ。それと、やっぱりその格好はプールじゃ似合わないぜ。あばよッ」

「どうもお世話になりました。ごきげんよう」

 姉の方はラフに片手を上げ、妹の方はきっちりと折り目正しくお辞儀をする。龍麻も敬礼を返した。

「うむ。事故その他に気をつけて楽しむように。さらばだ」

 何度か振り返りながらも、双子の少女は小走りに去っていった。龍麻の人となりはそれなりに判ったのだろうが、やはり同類に見られるのは御免こうむると言うところか。

 そこに、水から上がった京一たちが戻ってくる。

「何だ、ひーちゃん。今の子誰だよ? 一人はあの凶暴女だったけど、もう一人はえらく可愛い子だったなあ」

「姉妹だそうだ。それも双子だな。骨格から見ても間違いない」

 たとえどんなに可愛い女の子でも、龍麻の目は骨から見るらしい。

 ああ、そうかい、と京一が再びげんなりした時、聞き覚えのある声が彼らを呼んだ。

「あ〜、やっぱりダーリンだ〜。元気ィ〜?」

「おお、高見沢も来ていたのか」

 なぜか絶句する京一と醍醐を尻目に、龍麻はラフな敬礼をする。

「ぶう〜ッ、舞子って呼んでって言ってるのにィ〜ッ。ダーリン意地悪〜ッ」

「では舞子、ダーリンは辞めろ。それに、《やっぱり》とはどういう事だ?」

「ええ〜ッ!? こういうトコでそういう変なカッコしてるの、ダーリンしかいないし〜ッ」

「……」

 先程の双子のみならず、高見沢にまで言われてさすがに黙る龍麻であった。

 するとようやく、京一が活動を再開した。

「高見沢…お前って結構ナイスバディなんだな…」

「わ〜い。誉められた〜ッ」

 京一の(スケベな)言葉にも、素直に喜ぶ高見沢。明るいグリーンのビキニ姿で跳ねるものだから、意外なほどグラマーな胸が揺れ、それを見た醍醐が固まった。

 しかし、龍麻の一言が二人を現実に引き戻し、叩きのめした。

「院長先生も来ているのか?」

「ひーちゃん! 気持ち悪いものを連想させるんじゃねえッ!!」

 だらしなく間延びした顔が一転、恐怖に引きつる京一であった。

「ブーッ、今日は看護学校の友達と遊びにきてるの〜。ダーリンたちも一緒に遊ぶ〜?」

「も、もちろんだとも!」

 京一、復活。しかし――

「あー! そうだ〜! アイス溶けちゃう〜ッ」

 無情にも、高見沢は身を翻して去っていった。

「ああ! 行くならせめて友達を紹介してってからにしてくれえ! 高見沢、カンバーック!」

「アホか、お前は。本当に節操のない奴だな」

 ため息を一つ付き、醍醐が少しつっけんどんに言った。高見沢の去っていく方は意識的に見ないようにしている。

「だって…美人のオネ―サマもいいけど、未来の白衣の天使ちゃんも良いんだもん…」

「ホーッホッホッホ。相変わらず馬鹿なこと言ってるわねえ、京一は」

 突然介入してきたのは、聞き覚えのある女王様笑い。

「ふっ、ふっ、藤咲!」

 最初に彼女…藤咲亜里沙を視認した直後、醍醐は魂の抜けた木偶人形と化した。

「フフフ…ちょっと久しぶりかしら。龍麻、元気?」

「うむ。健康状態は極めて良好だ」

「フフフ。それなら龍麻、今日のあたし、グッと来ない?」

 高見沢以上に成熟した身体を、豹柄(!)のストラップレスビキニに包んだ藤咲は、胸の谷間を強調するように腕組みをして僅かに前かがみ、上目遣いに龍麻を見つめた。アルバイトにモデルをしているだけあって、道に入ったセクシーポーズ。京一のみならず、藤咲に視線を注いでいた周囲の男どもまでがなぜか前かがみになる。しかし――

「グッと来る? 何が来ると言うのだ?」

 そうなのだ。龍麻とは、そういう男である。これが並みの男の台詞だったら藤咲の鉄拳が飛んだであろうが、他でもない龍麻の言う事だ。藤咲も苦笑するしかない。

「あ〜あ、やっぱりこの朴念仁にはあたしの魅力も通じないか。まったく今日はアテが外れてばっかりだわ」

「アテ、とは何だ?」

「だってここは短大生の穴場じゃない。それを狙ってくる男どもをカモろうと思って来たんだけど、今日はロクな男がいやしない。ここにいるいい男はとことん鈍い朴念仁だし。――大体、変な噂のせいで人そのものが少ないのよねえ」

「変な噂?」

 前かがみ状態ながら、藤咲の台詞に引っ掛かりを覚えた京一が尋ねる。藤咲も《力》を持つ仲間だ。彼女が言う《変》な事は、かなり異常な事の筈である。

「アラ知らないの? てっきりあんたたち、その噂を聞いて首を突っ込みに来たのかと思ったけど。龍麻は例によってとんでもない格好だし、アンタも木刀なんか持ち込んでるし…」

「事前のリサーチでその噂は知っている。このところ港区周辺のプールで行方不明者が続出しているというものだな。その為に一応、装備を整えたのだが」

「なにィ!?」

 すると龍麻の格好は、単なる天然ボケから来た一発ギャグではなかったのか? いや、しかし、それにしても…。

「しかし、プールで行方不明者ァ!? 海だとかなら解らなくもねえけどよ」

「だから噂だって言ってるじゃない。――そう言えばアンタ、あれ、行かなくていいの? あそこでやってるの、舞園さやかの撮影会よ」

「な、なに!!」

「このプールのイメージアップのためだってさ。その噂のせいで客足が減ってるからって…って、早ッ!」

 藤咲の言葉を最後まで聞かず京一は走り出し、既に豆粒ほどの大きさになっていた。

「まったくアイツは…。じゃ、あたしもそろそろ帰るわ。そんな格好してられたんじゃ、あたしまで同類に見られるし。せいぜい水遊びを楽しんで頂戴」

「うむ。そのつもりだ」

 やっぱり生真面目な龍麻の返答に吹き出し、色っぽいウインクを一つして藤咲も去っていった。

 周囲の男どもの欲望に満ちた視線を睥睨へいげいしつつ去るモンローウォークが見えなくなったところで、醍醐の魂が戻ってきた。

「…醍醐、帰還したようだな」

「た、龍麻…。藤咲は!?」

「ターゲットがいないとかで、帰投した」

 そう言いつつ、龍麻はいそいそとウェットスーツを脱ぎにかかった。人と言葉を交わす度に格好の事を言われて、ようやく改める決心ができたのである。

「しかしプールで行方不明者とは、また奇妙な話だな。うむむ…なにやら妙な視線と寒気を感じるぞ」

「それはそうだろうな」

 あっさり肯定する龍麻。その意味を問い質そうとした醍醐の耳に、まさかこんな所で遭遇する筈のない笑い声が聞こえてきた。

「うふふふふ〜、こんな所で会うなんて〜すごい偶然〜。でも〜、ひーちゃ〜ん達なら〜可能性あったかも〜」

「どういう事だ、裏密?」

 声はすれども姿は見えず。怯えながら周囲をきょろきょろしていた醍醐は、龍麻が話し掛けた相手を見て絶句した。そこにいたのはブルーの生地にピンクの小花のプリントをしたワンピース姿の、あえて言うなら中の上レベルの可愛いらしい少女であった。しかしその少女は紛れもなく、《あの》裏密であった。

「うふふふふふふふ〜。何か言いたそうね〜醍醐く〜ん」

「い、イヤ! オレハナニモ!」

 メガネを取ると実は美少女…という使い古されたシチュエーションが現実に存在するとは…。自分がまだまだとんでもない世間知らずであると悟った醍醐であった。

「裏密。醍醐を怯えさせるな。それに何なのだ。俺たちならここに来る可能性があるというのは?」

「うふふふふ〜、ここにはね〜出るのよ〜。…白い腹〜、灰緑色の鱗〜、瞬きしない濁った目〜。んふふふふ〜。早く現れないかな〜」

 大方、また妙な占いをしたのだろう。裏密が笑いながら立ち去った後、醍醐は冷や汗を拭い、そして龍麻が妙に難しい表情をしている事に気が付いた。

「一体なにが出るって言うんだ…って、龍麻、どうした?」

「いや…なんでもない」

 珍しく言葉を濁す龍麻。しかしそれを聞いたところで、この男が決して答える事はないと、醍醐は既に知っていた。紗夜の一件で彼は深い悲しみを感じただろうに、それを悲しみと理解できないゆえに、彼は不調の原因を体調不良だと判断した。そして自分に鞭打つように過酷な訓練を課したりもした。彼が苦しみ、体調を崩している原因を醍醐たちは知りながら、それを示唆する事さえできなかったのだ。

 龍麻は自分たちを信頼してくれているが、自分たちは龍麻の悩みを取り除いてやれるほど、まだ強くはない。しかしできる限り早く、彼に悩みを相談されるほどに強くなりたいと願う醍醐であった。

「それにしても美里や桜井は遅いな。女の着替えというのはこれほど時間がかかるものだろうか?」

「うむ。女性ならばこそ、日焼け対策その他、入念な準備が必要だろう。今ごろは二人して日焼け止めを塗り合っているに違いない」

 不意に龍麻がそんな事を言ったので、思わずその光景を想像してしまった醍醐が顔を真っ赤にする。

「た、龍麻…お前、京一に似てきたな…」

「む!? 心外な事を言うな、醍醐。俺は事実を述べているだけだ。俺は傷を隠すだけだから簡単に済んだが、葵たちはそうは行くまいが」

 京一に似て…という部分に過剰反応する龍麻。そして、言われてみれば確かに、龍麻の全身の傷は、左腕の紋章も含めて、よほど注意しないと判らないくらいになっている。今日のプールのために、葵たちが水落ちしにくいカラークリームを用意したのだ。傷が目立たなくなる程度まで厚塗りした為、多少、龍麻本来の肌の色とは異なるが、それでも気になるほどのレベルではない。むしろ猫科の猛獣のような発達を見せている筋肉のおかげで、弾痕はともかく、多少の傷くらいあって当然という気さえする。ただし露骨な視線を避ける為、彼は防水バッグに入れておいた薄手のヨットパーカーを羽織った。左眼の傷を隠すのはサングラスだ。

 と、そんな事を話し合っていると、なにやら遠くの方から悲鳴と怒号が聞こえてきた。京一が向かった、撮影会の会場の方である。

 そして、プールサイドを駆け抜けて行った一陣の旋風。それはまさしく《剣掌・旋》。

「京一ッ!?」

「――行くぞ!」

 いつにも増して鋭い龍麻の叱咤。醍醐は一瞬、比良坂の一件を思い出して青くなったが、彼はそれほど弱くはないと自分に言い聞かせ、一緒に走り出した。

 龍麻たちがいたプールサイドが静かなのも道理。若者の大半はこの会場に集まっていたのだった。そして今、会場は大混乱であった。悲鳴と怒号が押し合いへし合い、その中心にいるのは、木刀を持った赤毛の男だった。

「ウオオオオッ! さやかちゃーん!!」

 アホの咆哮が響く。

「……!」

「た、龍麻…!」

 その瞬間、醍醐は龍麻が変わるのを見た。

 龍麻自身、何か感じる事があったから、こうして駆けつけてきたのに、この体たらく。葵に対する哲学的長台詞と、精神的均衡を保つために飛ばす冗談(最近発見された龍麻の性癖だ)も済ませてある龍麻は、かの有名な《鬼軍曹》モードに突入した。

「ええい! どけどけえッ! 秘剣! 朧残げ…!!」

「――《円空破》」

 まさしく問答無用。現時点で最大奥義である《秘剣・朧残月》を放つべく《気》を集中していた京一を、龍麻は容赦なくプールの中に叩き込んだ。

「馬鹿たれが。一般市民に剣掌奥義など使いおって」

 プカ、と水面にラッコのように浮かんだ京一を、醍醐に回収するように言う。

「友人に発剄を叩き込むお前もどうかと思うんだが…。手加減なしだし」

「俺の辞書に加減の文字はない。それに、このくらいやらんと止まらんだろう、この馬鹿は。ところで…」

 これも正当な評価か? と首を傾げる醍醐はさて置き、龍麻はあまりのことに呆然としている舞園さやかを振り返った。

「どうも部下が失礼をした。自分が代わってこの通り謝罪する。怪我はないか?」

 相手が今をときめくアイドルであっても、常と変わらぬ龍麻の声である。その為さやかは無意識のうちに《気をつけ》をしてしまっていた。

「は、はい! 大丈夫です! ありがとうございました」

「うむ。それは重畳…」

 そう言いかけた龍麻は、ふと気付いたようにさやかの顔を注視した。

「あの…何か?」

 芸能界とはそれこそ美男美女が海千山千の世界だろうが、最初のショックから立ち直ったさやかは改めて龍麻の顔を見て、少し照れくさそうな顔になった。京一を肩に担いで水から上がろうとしていた醍醐が「おっ!?」と驚いた顔をする。《あの》龍麻が芸能人と話をして、そのアイドルが龍麻に見とれている…? 

「うむ…。貴殿は直接関与していないが、自分は貴殿に謝罪せねばならない。重ねて謝罪する」

「は?」

 それは以前、第一次強化訓練の際、訓練にへばった京一を罵倒する際にさやかを引き合いに出したことに対する謝罪であったのだが、無論、さやか本人がそんな事を知る訳がない。それでも謝ってしまうあたりが、龍麻らしいと言えば言える。

「いや、こちらの事だ。では我々はこれで――」

 そのとき龍麻の目と全身の感覚器官は、照明や音響設備を支える鉄骨が歪み、舞台の骨組みが崩れるのを感じた。

「さやかちゃん! 危ない!」

 舞台の倒壊と共に、照明器具を支えていた鉄骨が倒れ掛かってくる。マネージャーらしい女性が叫ぶより速く、龍麻はさやかの腰を横抱きにひっさらって床を蹴った。倒壊する舞台。崩れ落ちる撮影機材。――タッチの差で脱出が間に合わないと判断した瞬間、龍麻はさやかを抱いたまま身を捻り、空に向けて《螺旋掌》を放って、跳ね飛んできたスピーカーやライトをまとめて吹き飛ばした。その直後、舞台演出用のスモークが暴発し、辺り一面が色とりどりのスモークに包まれた。

「大丈夫か?」

 鉄骨やガラスの破片を避け、プールサイドまで移動した龍麻は、腕の中にいるさやかに尋ねた。

「は、はい!」

「無理はするな。ショック症状が出ているようだ。落ち着いて息を整えろ」

 平然と言ってのける龍麻であったが、さやかにしてみればそれは無理な注文であった。イベント中にいきなり木刀を持った暴漢(!)は現れるわ、その暴漢を一撃で沈めるハンサムが出現するわ、鉄骨の下敷きにされそうになるわ、ハンサムがパンチらしきものを飛ばして落下物を弾き飛ばすは…。とどめは、自分の窮地を救ったハンサムに、いわゆる《お姫様抱っこ》をされているのである。――その横顔の凛々しい事。しかも辛うじてハンサムの方がヨットパーカーを羽織っているが、自分はビキニの水着のみ。びっくりした弾みで思わずしがみ付いてしまったために、今も自分の胸がハンサムの胸に押し付けられて――

 だが――

「…誰かに狙われているのか?」

「え?」

 不意に鋭さを増した龍麻の口調に、思わず緊張してしまうさやかであった。

「あの鉄骨の倒壊は京…先の男とは無関係だ。それにこのスモークもタイミングが良過ぎる。恐らく、細工をした者が逃亡するために仕掛けたものだろう。先程不審なモヒカン刈りの男がいたが、今は姿が見えん」

「あの…大丈夫です。本当に…」

 可憐な顔立ちに少し哀しみを滲ませたさやかに、龍麻はうむと頷いた。

「聞くところによれば、芸能界とは実に大変な世界らしいな。あえて事情は聞かんが、気を付けたまえ」

 どこまでも平然とした口調で言い、龍麻は彼女を下ろした。スモークも晴れ始め、ようやく騒ぎを収集しようとスタッフたちが動き始める。

「あっ、サングラスが…!」

 2メートルほど先に転がっているのが龍麻のサングラスと知って、さやかは小走りにそれを拾い、彼に差し出した。その途端、さやかは龍麻の顔を正面から直視してぽっと頬を染め、同時に硬直した。

「…!」

 一瞬の沈黙。そして――

「無事か! 龍麻!」

「さやかちゃん! どこにいるの!?」

 醍醐と、さやかのマネージャーの声が響く。

「――即時撤退!」

 スモークに向かって固有名詞抜きに怒鳴り、龍麻はさやかの手からサングラスを受け取った。

「それでは舞園さやか殿。才能に相応しい成功と健康を祈る」

「あ、あの!」

 ビシ! と敬礼して身を翻した龍麻に、さやかは慌てて声をかけた。気の利いた言葉の一つもかけたかったのだが、彼女の口をついて出たのはあまりにも通俗的で、シンプルで、使い古され、しかし王道的と言えるものだった。

「せめてお名前を…!」

 彼女の姿を認めて駆け寄ってくるマネージャーやスタッフから逃れるために彼がプールに飛び込む寸前、風がさやかに一つの名を運んできた。

「――緋勇龍麻」

 龍麻はドボン! でもバシャーン! でもなく、跳ねた魚のように僅かな水柱を立てたのみで水中に没し、潜水したまま姿を消した。

「緋勇龍麻…さん」

 この強烈な出会いは、舞園さやかの記憶にしっかりと刻み込まれたのだが、この数ヵ月後、彼と共に戦うことになろうとは、現在の龍麻もさやかも知る由のないことであった。







 (…忍…。)

 元いたプールサイドのベンチに戻った龍麻は、早くも復活した京一の高音攻撃に黙って耐えていた。

「直に話したァッ!? 俺のさやかちゃんとォ!? 抱っこしただァ!? 俺のさやかちゃんをォォッ!!?」

「うるさいぞ京一! 誰のせいでこんな騒ぎになったと思っている!」

 舞園さやかのイベントは終了間際だったこともあって、京一が暴れたこともセットの倒壊事故も全てうやむやになっていた。これは、ともかく無事だったさやかが色々と進言したおかげなのだが、この三人は預かり知らぬことである。

「お前が舞園さやか嬢に好意を抱く理由はよく判ったが、その《俺の》という表現は止めろ。さやか嬢は万人に心から笑顔を向けられる稀に見る良い少女だ。お前ごときの所有物であるかのような表現は許されん」

「ごごご…ごときってなんだ! ひーちゃん! この天下一品の腕の冴え! 明朗活発な性格! そしてこのルックス! 三拍子揃った俺のどこが!」

「お前はアホだ」

「ぐ…!」

「短気、寝坊魔、遅刻魔、サボり魔。加えて、女性がらみの素行の悪さ。等等だ。反論があるなら述べるがいい」

「ぐぐ…!」

 《鬼軍曹》モードに入った龍麻に、口で勝てる者など存在しない。感情の捌け口がなくなった京一が発情期の猫のように「さやかちゃーん!」と叫ぶのを、龍麻は再び蹴り飛ばして沈めた。

 そこに、ようやく連れの二人が顔を出した。

「ごっめーん! 待った?」

「遅くなってごめんなさい」

 龍麻たちの姿を見て、葵と小蒔の後にぞろぞろと続いていた男どもがチッと舌打ちをして去っていく。まるで今朝の龍麻を見ているようだ。

「――って、あはは! なあに、二人とも、そのカッコ」

 プールに木刀、そしてシュノーケルの京一と醍醐を見て、小蒔が腹を抱えて笑う。京一も醍醐も互いに顔を見合わせ、はあっとため息を付いた。言外に、《さっきの龍麻を見せてやりたい》と言っている。

「ところでさあ、どう? ボクたち」

 既に高見沢、藤咲と遭遇し、更には舞園さやかの水着姿も見た男どもである。しかし――

「ヘェ、二人ともなかなかカワイイじゃねェか」

 京一らしい軽い口調だが、その言葉は本心であろう。葵は白地にオレンジの縁取りのあるワンピース。長い黒髪はカチューシャでまとめて後ろに流す。小蒔は実に彼女らしい、スポーティーなスカイブルーのセパレートである。いつもは《胸がない》とか《美少年》と憎まれ口を叩く京一でも、ちゃんと見るべき目はあるのだ。

「ね、ね。醍醐クン、どうかな?」

 京一の賞賛に満面の笑顔で「サンキュ」と返し、小蒔は醍醐の顔を見た。

「う、うむ…その…なかなか…じつに…」

「もうッ、ちゃんと言ってよ」

「その…似合っているのではないかと…」

 まあ、醍醐ならその辺りが限界であろう。小蒔はそれだけで許してにっこりと笑った。顔を赤くした醍醐は視線をあちこちにさ迷わせる。

 そして、葵が最大の難関に挑んだ。

「あの…龍麻…。この水着…似合うかしら?」

 既に充分予測できていた質問なので、龍麻の頭の中に返事の例が明滅する。



 一 −「シンプルな水着だけど、よく似合ってる」

 二 −「ほのかに色気のある水着だ」

 三 −「○骨の辺りがうっすら黒いのはナゼ?」



 龍麻は一番を選択した。

「シンプルだがよく似合っている。着用者が良ければどんなものでも似合うな」

 龍麻にしてみれば某恋愛シミュレーションゲームからの引用だが、葵には充分殺し文句であった。顔を真っ赤にして「うれしい」と呟く。作戦成功。この心の中の肯きを葵や小蒔が知ったら、龍麻でも無事には済むまい。

「さて、全員揃ったところで、各自プールに突撃!」

「オーッ!!」

 普段と同じノリで、しかし楽しい命令を下す龍麻に応える仲間たち。それぞれが一斉にプールに飛び込もうとして、突然親しげな声をかけられた。止まり損ねた京一と小蒔はそのままプールにダイブする。

「アラッ、あなたたちも来ていたのね。私の事、覚えてる?」

「もちろん! その形のいい胸に脚線美は、エリちゃん!」

 すぐさま水面に顔を出した京一が叫ぶように言う。

「お久しぶりです、天野さん」

 セパレートの水着の天野を下から見上げる構図にデヘヘと笑う京一を踏みつけて沈める龍麻と醍醐を尻目に、葵が笑顔で挨拶を交わす。

「フフフ。相変わらず仲良いわね。例の事件も無事に解決したみたいだし、本当に凄いわ、あなたたち」

 彼女が言うのだから、《例の事件》とは渋谷の鴉事件だろう。既に彼らにとっては過去になりつつあるが。

「へへっ、まあな」

 龍麻に上から踏み付けられているのに耐えつつ、得意げに胸を張る京一。

「しぶとい奴め。醍醐、沈めろ」

「おうッ!」

 肩を踏む龍麻に醍醐まで加わり、京一が沈む。一応、まじめな話になりそうなので、おやかまし男を事前に排除しようというのだ。

「天野さんは、仕事で来られたのですか?」

「ウフフ。今日は一応プライベートよ。私だって年中事件を追いかけている訳じゃないわ。あなた達も、そうでしょ?」

 なにやら含む言い方で、天野は龍麻の反応を窺った。その目ではどうやら渋谷の事件以外にもいろいろと知っているようだ。

「否定は致しません。しかしながら、記事にできなかった事で自分への干渉が危険だと判ったのではありませんか?」

「そうね」

 天野は頷いた。

「この世界にいると、渋谷の事件に限らず、いろいろな情報が入ってくるもの。あなた達に関する暴露記事を発行しようとしていた編集長が、警察からの圧力で閑職に飛ばされちゃった…なんて事もね」

「何だって!?」

 驚きの声を上げる醍醐たちだったが、やはり龍麻だけは平然としている。

「安心して。私はあなたたちの事を記事にするつもりはないわ。そりゃあ、興味がないといえば嘘になるけど、私だって記者を続けていたいし、警察の方も満更知らない人からの警告でもなかったし。――でも、お互いに手探りで進んでいった先でぶつかるくらいなら問題にしないみたいね」

「肯定です」

 真神の面々にも、龍麻の言葉の真意は判らない。しかし天野には通じたようだ。――龍麻の背後にある組織と、着実に伸びつつある人脈。それらは、敵対さえしなければ何もしないと。

「まあいいわ。いずれあなたたちとはまた会う事になりそうだから。――ところで、そろそろ許してあげたら?」

  天野本人に言われたのでは仕方ない。龍麻と醍醐はやっと京一を踏むのを止めた。

「蓬莱寺君。男の子だからしょうがないかも知れないけど、露骨な視線は女の子に嫌われるわよ?」

 大人の女性らしいお説教を一つ、息も絶え絶えの京一に与え、龍麻たちには「じゃあね」、と親しみ深い挨拶をして、天野は去っていった。

「…何か、色々と意味ありげだったけど、またおかしな事件でも起こっているのかしら?」

 ちょっと思案顔になる葵の肩を、龍麻はぽんと叩いた。

「事件があるところに現れるのがルポライターというものだ。とりあえず、我々には我々の目的がある筈だ」

「え?」

 龍麻は鋭く叱咤を飛ばした。

「醍醐、小蒔、葵各員へ攻撃命令! ドスケベ魔人を撃沈せよ!」

 ビシ! と指差した先には、たった今お花畑を見そうになったにも関わらず、デレッとした顔で天野の後ろ姿を眺めている京一がいた。

「ラジャー! ひーちゃん!」

「行くぞッ!!」

 ドッパアン!! と、爆雷が爆発するような水しぶきを上げて醍醐も飛び込む。

「うおッ! 醍醐! 水かかったぞ! こ、こら小蒔! 足を引っ張るな!」

 そうなのだ。今日は遊びに来たのである。龍麻もその気でいるのに、こんな顔をしていてはいけない。

「よーし! 私も!」

 葵も勢いよくプールに飛び込んだ。

「うわあ! 美里までッ!? こ、こら! パンツが脱げるだろがッ!」

 四人がかりの攻撃に逃げ回る京一。そしてそれを容赦なく追いまわす龍麻たち。そんな彼らの姿はごく普通の高校生でしかありえなかった。

 本来、公共のプールは《飛び込み禁止》、《プールサイドは走らない》、《過剰な迷惑行為はしない》が基本原則であるが、もはや彼らには何を言っても無駄だろう。まだブワーッと涙を流している監視員の背に、哀愁が漂っていた。







 第八話 邪神街 2    完



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