第八話 邪神街 1
――単に口にされるだけでも目くるめくような、時の渦中における位置について、
そして宇宙について、人はその概念を受け入れる心構えをしなければならない。また、人類全体を巻き込むことはないにせよ、一部の冒険好きな人々に、推
測することも不可能な凄まじい恐怖を与えることになるかもしれない、ある種
の潜伏する危険を防ぐ手立ても講じなければならない―― ――H・P・ラブクラフト |
一九九五年九月 ドドンッ! ガガンッ! 散発的な銃声に、時折人間が出すものとは思われない絶叫が深夜の空気を切り裂く。そして、古ぶるしい石畳を黒く染めながらのた打ち回る人影に走り寄る、闇よりも濃い戦闘服に身を固めた者たちの影。ただし――かなり小柄だ。 ボボッ! ボボボッ! 五メートルも離れると何も聞こえない、高性能な消音器を通して放たれた弾丸が人影の頭部を撃ち抜き、更に続いた弾丸が上半身を蜂の巣に変える。しかし黒い戦闘服の人影はそれだけの結果に満足せず、更に一〇発の九ミリ軍用弾 「……」 それでもなお戦闘服の人影は、半ばミンチと化した死体から銃口を逸らさない。油断なくヤティ・マティック九ミリサブマシンガンを片手保持しながら、手信号で《仲間》を呼ぶ。速やかに駆けつけて来た《仲間》は死体にゼリー状の物質をふりかけ、焼夷手榴弾の安全ピンを引き抜き、それに向けて放った。 ――ゴウッ! 焼夷手榴弾のテルミットに加え、ナパームジェリーが着火し、優に二千度を越える炎が死体を焼く。そのままならば数分を経ずして骨まで焼き尽くせる――筈だった。 ――突如、炎が立ち上がった。いや、蜂の巣にされた上に火を放たれた死体が起き上がったのである。脳を飛び散らせ、心臓も撃ち抜かれている死体が! ――ボボボッ! ボボボッ! ボボボッ! ボボボッ! こうなる可能性は事前に考慮していたので、戦闘服の人影は慌てもせずヤティ・マティックを三点射で連射し、人影を駒形切り妻屋根の民家の壁に叩きつけた。もはや下半身だけと言っても過言ではない《それ》は、まだしぶとく蠢いていたが、やがて炎が筋肉繊維を焼き尽くしたか、動かなくなった。 「――制圧 傍らの人影に向けて呟く。まだ若い…と言うよりは、どう聞いても子供の声だ。それに答える声に至っては…。 「通信封鎖解除まで十五秒」 こちらは、どう聞いても少女の声だ。共通しているのは子供の声というだけではない。共に、感情というものが全く感じられない。機械の合成音声でも、もう少し抑揚がある。 「――通信封鎖解除。こちらC 《A 《B 若干のタイムラグの後、新たな通信が入る。 《隊長 《A 《B 「C ヤティ・マティックのマガジンを交換し、《彼》は告げた。 「8 通りの向こうから駆けてくる、同じ装備の人影が二つ。 「――C 「「「了解」」」 「…中々旨くやっておるようだな、君の子供たちは。少佐」 「まだまだヒヨッコですよ。准将」 「《山猫》はどうしている? 地下神殿の入り口は発見したのか?」 電子機器の密度が異常なほど高い空間。ずらりと並んだモニターには活動中の兵士達の脳波、心拍数その他が逐一表示されている。その他のモニターは真っ暗な町の全景を映すばかりだが、中に二つだけ、異様な光景を映すモニターがあった。そちらに視線を移し、《少佐》は移動指揮車のマイクを取った。 「司令部より《山猫 《――こちら《山猫》。神殿に到達。敵影無し。これより爆破作業に入ります》 「了解、《山猫》。――カエル野郎が一匹網から洩れた。そちらに向かった可能性もある。充分注意せよ」 《――了解。通信終わり》 モニターには酷いノイズが入っているものの、岩盤と石畳で構成された地下神殿の様子が見て取れる。ジャンボジェットの解体整備ができそうなほど広大な空間を行くのはアメリカ海兵隊、グリーンベレーの精鋭、《ヒコック山猫隊》だ。 その時、通信兵が悲鳴のような声を上げた。 「准将! 国防総省 「何ィ!?」 「イハウエラ公国を!? 馬鹿な! 総攻撃にはまだ時間が…!」 「一〇分も前だとッ!? 他の連中はッ!?」 無意味な発生をする准将とは対照的に《少佐》は通信兵に向かって怒鳴った。 「ふ、フロリダとサハラ砂漠、ウガンダで展開中の部隊が報復攻撃で壊滅! マチュ・ピチュとソールズベリでは現在撤退中であります!」 「マックスめ! 早まった真似を・・・! いや…アイツらでも間に合わなかったって事か…!」 吐き捨てるように言い、《少佐》はマイクを取った。 「――作戦中止! 総員直ちに撤退! 《レッドキャップス》! 《山猫 「ま、待て! 少佐! 任務は完了していない!」 《少佐》は大きな傷のある頬を歪めて言った。 「《奴ら》の報復が行われます! 部隊は直ちに撤収します!」 「いかん! 任務をやり遂げるのだ! ――私の経歴に傷を付ける気か! 少佐!」 「准将殿! あなたは御自分の経歴と部下の命とどちらが大切でありますか!? ――部隊は撤収させます!」 「私に逆らうつもりか! 少佐!」 《准将》はベレッタを抜き、《少佐》に向けた。 「命令を撤回するのだ、少佐。この任務をやり遂げるのだ。このまま《門》を残して、グレッグめに笑われる訳には行かぬ」 「…ッッ!」 大事なのは自分のメンツだけか! これだから大学出のボンボンは…! とでも言いたげに《少佐》が頬を引き攣らせた時であった。興奮と恐怖に濁った声がスピーカーを唸らせた。 《少佐! 少佐聞こえますか! ――《奴ら》です!》 「――ッッ!」 《水が急に湧き出して…物凄い数です! ――軍曹! 二班を下がらせろ! 一班、応戦しろ!》 《――ウワァァァァッッ!!》 《駄目だ軍曹! 手に負えない!》 《――余計な事を考えるな! 撃て撃て! 撃ちまくれ!》 《ジェンキンス! ゼペック! 下がれ! 下がるんだ! ――少尉殿! 救援を! ――ウオッ!》 悲鳴と怒号、そして銃声が入り乱れて伝わってくる。通信兵は蒼白な顔だ。《山猫》の通信兵が付けているカメラに、血煙を上げて飛び散る人間の手足と《奴ら》の姿が映る。 「《山猫》各員に告ぐ! 逃げられる者は逃げよ! 繰り返す! 逃げられる者は逃げよ!」 「少佐! 貴様!」 《准将》は大分後退した額に青筋を浮かべてベレッタの引き金を引こうとしたが、それよりも速く《少佐》のパンチが顎を打ち抜いていた。 「まったく! ケツの青い新兵も大学出のボンボンも、死ぬって事がどれほど簡単な事か判ってねェ! くそったれが!」 ケッと唾を吐き、《少佐》はマイクに向かって怒鳴った。 「《レッドキャップス》! A 《A 《B 《C それから《少佐》はトレーラーの運転手に向かって怒鳴った。まだ若い伍長である。 「餓鬼どもを迎えに行くぞ! 出せ!」 「し、しかし! 《奴ら》の侵攻が既に始まっています!」 モニターに映し出された地図上に、無数の移動物体を示す光点が瞬き始めている。海と、川から《奴ら》が侵攻を始めたのだ。攻撃に対する報復。それは《こちら側》も《向こう側》も変わりはない。 たちまち増えていく光点は一〇〇や二〇〇では利かない。 「刃向かうのか、テメェ! 俺が行けと言ったら行くんだよ!」 「イイィィィ――イエッサァ――ッッ!」 殺気だけでも殺されそうな《少佐》の迫力に、伍長は悲鳴じみた返事と共にアクセルを踏み込んだ。総重量一五〇トンに及ぶ装甲トレーラーは、その巨体に相応しい咆哮を上げ、腐ったような匂いを放つ泥を蹴立て、寂れきった小さな港町に向かって走り始めた。 「ハドソン! トップに立て! 他の者もちゃんと付いてきているか!?」 「大丈夫です、少尉殿! 遅れるな! ビッグス!」 「ロックはどうした!? ロ――ック!」 「ここにいます! 軍曹! ウェッジが重傷です! あとナッシュが…ナッシュ!? オイ! ナッシュ!!」 「助け…! 助けて! 少尉殿ッ! 軍曹ォォッ!!」 「ナ――ッシュッ!!」 見れば金髪の若い隊員…ナッシュは真っ黒な何者かに足を掴まれたところであった。 「放せ! このヤロウォォッッ!!」 ナッシュはベレッタを抜き、影に向けて発砲するが、三発で弾丸が尽きる。そして… メリッッ…! ブチィィッッ!! 「グワァァァァァァッッ!!」 ナッシュの足がちぎれ、闇に向かって飛んだ。それを激しく奪い合う何者かの影、影、影…! 「ハドソン! お前たちは先に行け!」 「駄目です少尉殿! 間に合いません!」 「部下を見捨てられるか! 行け!!」 《山猫》隊長ヒコック・メイヤー少尉がM16A2を構えて影どもに向かっていった時、一陣の風と化して黒い人影が《山猫》の両脇を走り抜けた。そして… ――ボボボッ! ボボボッ! ボボボッ! ボボボッ! ヒコックのM16に混じり、ヤティ・マティックが吠え、黒い影たちを薙ぎ倒す。 「《レッドキャップス》!?」 「1 「了解」 数十…いや、数百のオーダーに達する影の群れの前に立ちはだかる少年兵。彼らの銃撃が影を食い止めている間に、ただ一人銃を持っていない4が両手のナイフを振るい、ナッシュに食らいついている影の手足と首を切断する。ナッシュは左腕も食いちぎられていたが、辛うじてまだ生きていた。6がピストル型の無針注射器でモルヒネを打ち込む。そして、他の隊員よりも遥かに華奢な…少女がM79ソードオフを暗がりに向かって発射した。 ゴオオォォォォォォンンン…! 毒々しい紅蓮の炎が膨れ上がり、暗がりを真っ赤に染め上げる。そこにひしめき合っているのは、カエルとも魚とも付かぬ奇怪な生き物。それは炎が苦手なのか、悲鳴を上げて暗がりへと戻っていく。しかし―― 「グガッッ!!」 突如としてヒコックの首に、手足に、黒い何か細いものが絡み付き、彼を恐怖の深淵へと引きずり込もうとした。 「少尉殿ッ!!」 ハドソン、ロック、ビッグスが駆け出す。2と9がその後ろに続き、逃げようとする黒い影どもに銃撃を浴びせる。だが影どもは急速に水位を増した真っ黒な水に身を躍らせ、たちまち見えなくなった。ヒコックも派手な水飛沫を上げて水中に没する。 「少尉殿――ッッ!!」 ハドソンら海兵隊員は膝まで水の中に駆け込んだが、2と9、僅かに遅れて7は水際で踏みとどまった。――彼らの《勘》が危険を告げたのである。 そして、ハドソンの目の前でぐうっと水面が盛り上がった。 「――グガァァァァァッッ!!」 砕けた波涛から現れたのは、巨大な蛇のようなトカゲのような、得体の知れない生き物に胴の半ばまで咥え込まれているヒコックであった。 「チイィィィィィッッッ!!」 「FU〜〜〜〜〜〜〜CK!!」 蛇のような生き物の胴に向けて発砲するハドソンたち。しかし、突然ビッグスが足をすくわれてひっくり返り、水面を物凄い勢いで滑って行った。 「ビッグス!!」 「――軍曹! 足元!!」 「――ッッ!!」 とっさに銃口を足元に向けるハドソン。だがそれよりも早く、ヒコックを咥え込んでいるものと同じ形状の、スケール的にはニシキヘビほどの怪物がハドソンの腹を突き破り、彼の中に入り込んだ。2,7,9の放った弾丸がその胴を銃撃で引き千切るまでに、《それ》はハドソンの内臓を食い破り、彼の口から飛び出してきた。 「撤…退…しろ!!」 既に上半身も半ばまで呑み込まれつつあるヒコックが血の混じった叫びを上げた。そこに混じった嫌な音は、ヒコックの骨格が強大な圧力で潰されて行く音だった。 「少尉殿ォォォッッ!!」 ロックが半狂乱になって走り出す寸前、9が水を蹴立てて走り、彼の弾帯を掴んで陸上へと投げ飛ばした。そして9は腰のウッズマンを抜き、ヒコックの額をポイントする。血まみれの顔で、ヒコックが一瞬、にやりと笑った。――別れを告げるように。 ――TAN! 二二口径の乾いた銃声が反響するや、スポッという音を立ててヒコックが謎の生物に呑み込まれた。 「――跳べ!!」 7が叫ぶ。その意を悟り、9は大きく水底を蹴った。その背後に、水面を割って飛び出した同種の生物! だが、大きく開いた口(?)らしきものに、2と7が投げた対人手榴弾が飛び込んだ。まったく同時に、戸惑ったような反応をする生物。そして… ――ボシュウッッ!! バシュウッッ!! 生物の遥か後方で二つの水柱が上がり、水面に何か巨大なものが姿を現わした。 タコのように軟質なカリフラワー…とでも言えば良いのか!? その得体の知れない物体の中央に、魚の目と酷似した巨大な眼球が、ちょうど三角形を描く位置で埋め込まれ、周囲をぎょろぎょろと見回していた。その下からは細長い髭状のものが数百から数千のオーダーで伸び…ビッグスの死体に無数の穴をあけて内臓を啜 とっさに銃を構える2と9であったが、その顔はすぐに黒い影に呑み込まれて見えなくなった。7はAR−18の赤外線スコープを覗いたが、少年の体温反応はあっという間に消滅した。――水位が増している!? この町一番の高台にある、教会の所まで!? その時、背後から0の叱咤が響いた。 「――伏せろ!」 2,7,9に叫び様、右手を振り下ろす0。8と13が姿を現わした巨大な怪物に向けてグレネードを発射する。着弾! 爆発と炎に、怪物の《口》が凄い勢いで去って行く。しかしそれはどこか、熱いものに触れてしまった人間がちょっと手を引っ込めるのに似ていた。つまり…少し驚いただけというような…。 「――総員撤退!」 ナンバー0が叱咤し、《レッドキャップス》は《山猫》の負傷兵を援護しつつ地上まで脱出する。既に町はどこからともなく現れた黒い影どもによって占領され、彼らのいる教会を十重二十重に包囲していたが、そこに彼らの《移動基地》である装甲トレーラーが影どもを轢き潰しつつ突入、彼らを回収して合流ポイントまで走った。そして大型輸送ヘリに全員が搭乗し、ヘリが急速上昇した時、取るに足らない小さな港町を高さ一〇メートルに及ぶ津波が襲い、町も人も、影たちも全て黒い水の底に飲み込んだ。 「…あと二ヶ月で除隊だったってのに…ツイてねェなァ…オイ…」 基地へと帰還を急ぐヘリの機上で、ナッシュはそう言い残し、逝った。 一九九八年七月 ドウッ! ドウッ! ドウッ! ドウンッ! 暗がりに重く鋭い銃声が木霊する。連続で六発。最後の残響が消える少し前に、小さな金属が地表でチャリチャリン…と澄んだ音を立てる。続いてやや離れた空間から、ガタン! と板の立てかけられる音。そして再び、銃声。 愛用の木刀を抱え、耳にはイヤー・プロテクターをつけた京一は、今となっては見慣れた光景ながら、やはり驚嘆の眼差しでそれを眺めていた。 真神学園旧校舎地下一階。そこで射撃訓練をする高校生は世界に一人しかいない。緋勇龍麻。《魔人学園》の《魔人》たちを統括するリーダーである。先の事件で重傷を負った彼だが、現代医学とは一線を隔す桜ヶ丘中央病院での霊法治療と彼自身の驚異的な回復力により三日後には退院を申し渡され、二日間の失踪の後、《気》のコントロールを中心に訓練を開始した。そして事件から二週間後の今日、射撃訓練を再開したのである。 しかし、その訓練というのが、いわゆる日本人の想像しうる訓練とはかけ離れている。龍麻は旧校舎一階の天井にハーケンを打ち込み、そこに渡したロープで身体を逆さまに吊るした状態で射撃を行っているのである。これは各国の特殊部隊…SASやSEALS、デルタフォースなどで通常に行われている射撃訓練法で、走行中の車両や舟艇上など、不安定な状態での射撃を想定している。射撃時の反動が絶え間ない揺れを生み、その中で確実に標的を捉えるためには凄まじい集中力に裏打ちされた射撃センスが必要とされる。そして龍麻の場合は使用する銃を短銃身のハンドガン、それも反動の大きい357マグナムを片手撃ちにしている。標的までの距離は25メートル。実戦の場面で拳銃弾を正確に当てられる距離は二〇メートル以内というのがおおよそのプロの意見であるから、龍麻の射撃がいかに凄まじいものか窺える。 全弾撃ち尽くし、龍麻が降りてきたので、京一はイヤー・プロテクターを外して彼に近付いていった。 薄闇の中、目を凝らすと、標的は全て中心を撃ち抜かれている。二五メートル先の二センチの円など点以下でしかない。それを撃ち抜く事がどれほど困難なことか、銃には素人の京一でも判る。小蒔なら、もっとよく判るだろう。弓道ではほぼ同距離で、直径三六センチの円が中心となるのだ。 「…いつ見ても凄えな。もう完全復活じゃねェか?」 「いや…」 龍麻は以前持ち込んだ机にコンバット・パイソンを置き、左腕を撫でた。 「二二口径なら問題ないが、九ミリパラや三五七マグナムクラスになると、撃つ度に鈍痛が走る。ただの幻痛 的の中心…2センチの円がくりぬかれているのがその証拠だと龍麻は言った。京一はかつて同条件下で彼がワンホール・ショットを決めるのを何度も目撃している。文字通り、最初に開けた弾痕に次弾以降全てを叩き込むのだ。彼自身はそれを《撃ち返して来ないからだ》と言ったものだが。 「心配いらねェよ。今のところ変な事件は起きてねェ。ミリ単位のミスで負けるような事にはならんだろ。…それよりも、耳寄りな話があるんだが、聞くか?」 「何だ?」 「いやあ、暑くなってきたことだし、プールでも行かねェか? ちょっとばかり遠いんだが、港区にいいプールがあってよ、そこには美人でナイスバディのお姉ちゃんたちがいてだなぁ――」 「京一…お前の頭の中には本当にそれしかないようだな」 「ひーちゃん! またしても俺のこと、思いっ切り馬鹿にしただろッ!?」 「馬鹿にされるような行動と言動を取るお前が悪い。この前も全世界の女は俺のモノとか言っていたが、大体、その程度で納まるような性欲ならば、いっそ街頭のプロに依頼して性体験を済ませておくというのも…」 「わ――ッ! みなまで言うな!」 この男の放言を許しておくと、本当に何を言い出すか判らない。こんな台詞を葵や小蒔あたりに聞かれたら最後、何を言われるか判ったものではない。 「とにかくプールだプール! こんなクソ暑い日が続く時には水が一番! そうだろッ!?」 「…俺は構わんが、日本の公共の浴場やプールでは、タトゥーをしている者は入れない筈だが?」 へっへーと、京一は親指を立てて笑った。 「それに関しちゃ美里たちがバッチリ考えておいてくれたぜ。後はお前が行くか行かねェかだよ」 「ふむ」 龍麻はちょっと考え、 「いいだろう。水の抵抗は筋肉のリハビリに有効だ」 「よし! 決まりだな。明日の朝9時にアルタ前に集合。遅れるなよ」 ――というような会話が交わされたのが先日の事。緋勇龍麻は誰よりも早く集合場所に到達したのだが、なぜか妙に女性たちに話し掛けられ、その扱いに苦慮していた。その原因は、実は彼にあるのだが、この朴念仁ではそれに気付きようもない。 その原因とは、彼の今の格好にあった。一刻も早く都会の生活と雰囲気に馴染むため、そして自然に都会に紛れるために、彼はかなりの数のビデオを視聴して参考にした。その果てにたどり着いたのが今の彼のスタイルである。ピンと糊の効いた黒のカッターシャツに、ルーズに結んだブルーのネクタイ。そこに黒のサマージャケットとスラックス。いつもは前に垂らしている前髪をアップにして、銀縁に黒レンズのサングラスで目と傷を隠す。とどめは、ジャケットに合わせた黒のソフト帽だ。 とどのつまり、髪型以外は某探偵ドラマの主人公のスタイルそのままである。これが彼にも大ヒットで、鍛え上げられ、男の渋みを備えた顔立ちはとても高校生には見えず、サマージャケットの上からでも見事な体格と筋肉の躍動が見て取れる。それこそ、こんな朝っぱらから芸能人でなければホスト・クラブやジゴロのナンバーワンクラスが町に出ているものと思われるだろう。そして彼の周囲には、通りすがりの女子高生や女子大生、OL、果ては派手な服装の中年婦人 多少とも、男の放つ匂いを嗅ぎ分けられる者には判るのだ。そこにいる若者が、決してハンサムなだけの若者ではない事を。顔立ちやファッションセンスでは並び立つ者は多かろうが、所詮彼らは自分たちと同じ羊の群れの一角に過ぎない。そしてこの若者は、羊の皮こそかぶっているものの、内には凶暴な牙を秘めている。実際、その通りだった。龍麻の腰に付けられたインサイド・ヒップホルスターには新装備のオーストリア製グロック19・九ミリ自動拳銃が突っ込まれている。 だが、身を焼くと承知で火に飛び込む蛾のごとき心境に浸っている女性たちに囲まれた龍麻は、その優雅な物腰とは裏腹に気が気ではなかった。 (むう…俺としたことがこうまで包囲されてしまうとは…。この壁を撃ち抜かれることはないだろうが、全員がテロリストだとしたら俺でもただでは済むまい。やはり先制攻撃すべきか? いや、しかし…) 実際はただの《逆ナンパ》なのだが、龍麻は自分が女性受けする顔立ちであることをまったく自覚していない。その上、《女テロリストを先に撃て》という教育がなされている彼の右手はさっきからウズウズしっ放しなのだ。しかし彼のグロック19の装弾数は一五+一発。スペアマガジン二本込みで計四六発。この人数が相手では一発も無駄にできない。そして女たちの鞄やポシェットにどのような武器が隠されているのか判らない今、先制攻撃が有効とは言い切れない。女子高生の鞄ほどの大きさがあれば拳銃はおろかH&K・MP5A4やイングラムMAC−10などのサブマシンガンすら優に入れられるし、ポシェットにも手榴弾の二〜三個は入れられる…。 などなど、不毛極まりない思考に支配されていた龍麻は、少し離れた所に立った、水色のワンピース姿の女性を見つけて行動を開始した。 (慌てるな。あくまで自然に…) 龍麻の移動に合わせて包囲網も動く。傍から見ている者は何事かと驚いている様子だ。M1100を持って来るべきだったと後悔しても始まらない。 「Good Morning、 葵」 「え!?」 一瞬面食らった葵であったが、服装や雰囲気は初見でも、見慣れた敬礼に笑顔を返す。 「おはよう、龍麻」 ずわり! と周囲に殺気が満ち、龍麻の手が無意識のうちにジャケットの内側に滑り込んだが、やがて「チッ」という舌打ち(!)と共に、包囲網を形成していた女性たちはぞろぞろと去っていった。 「…疲れているみたいね」 「うむ。極力都会に馴染む服装を選んだつもりだったのだが」 どこが!? どの辺が!? とツッコミを入れたかった葵であったが、彼自身の勘違いから生じたらしい服装は、見れば見るほど様になっているので黙っていた。 「やはりもう少しジミー・ヘンドリックスにするべきであったろうか?」 「え…?」 間…………。 「いや、なんでもない。ところで、葵は一人か?」 「え!? ええ。途中まで小蒔と一緒だったのだけど、忘れ物をしたからって…」 多分、地味とジミーを引っ掛けたのだろうと思った葵であったが、既に笑うべきタイミングは逸している。せめて冗談を飛ばす時くらい表情を和らげればいいのだろうが、まだそういう訳にはいかないようだ。 「それにしても、プールのために遠出することになるとは」 「そうね。でも発案者は京一君だから」 さらっと酷いことを言う葵。それでもいつものメンバーで出かけることに異存はない。あの事件以来、怪我の治療やら練度維持に忙しい龍麻とは、あまり行動を共にすることができなかったのだから。 そして龍麻もまた、そんな仲間たちの様子に気付かぬ筈はない。始めの頃こそ、唯一の実戦経験者であることから仲間たちの指揮を執ってきた彼だが、今では完全に彼らの指揮官たらんとしている。そして指揮官は部下の動向や心理状態を把握していなければならない。だからこそ、小蒔が遅れる理由にも察しが付いていた龍麻は、おもむろに口を開いた。 「…葵。答えの出ない悩みを持つな」 「え…?」 龍麻の唐突な物言いはいつものことだが、この時ばかりは不意を突かれ、葵はドキリとした。 葵は、先の事件以来、思い悩んでいた。自分に芽生えた《力》に対する戸惑い、恐れ。――仲間たちと共にある時には、自分の《力》が役立つのがうれしかった。必要とされる自分が誇らしかった。だが、一度家に帰り、ベッドに潜り込むと、決まって考えてしまう。 ――自分の力は、何のためにあるのか―― その疑問をずっと引きずっていた葵には、先の比良坂の一件は衝撃的過ぎた。《力》を持たぬが故、否、《力》など持たずとも、その身を犠牲にして龍麻を護った紗夜。そして、《力》があるのに、彼女を救うことができなかった自分。更には、戦闘マシンと化した龍麻を、自分は怯えて見ている事しかできなかったのに、紗夜は瀕死の身体を引きずって、仲間たちの誰もが成し得なかった、龍麻を元に戻すことを成し遂げた。――自分の命と引き換えに。 自分の《力》は何のためにあるのか? 自分に何ができるのか? それは龍麻の言う通り、答えのない悩みなのかも知れない。しかし、言葉ではなく行動で、その身を挺して龍麻を護りきった紗夜の姿を見てしまった葵にとっては、考えずにはいられぬ悩みなのだ。 「考えるという事、悩むという事は人間にとって重要な事だ。しかし、不毛な思考の堂々巡りに陥ってはいかん」 「でも…でも、考えずにはいられないわ」 龍麻の前では、紗夜のことは触れずにおこうというのが仲間たち全員の一致した意見だった。しかし、龍麻自身がそれに触れた以上、葵もそれ以上はこらえ切れなかった。 「私にも《力》が目覚めたけど、私…みんなの役に立てているの? 京一君も醍醐君も、小蒔も敵と向かい合って戦っているのに、私はいつも皆に護られて後ろにいるだけ…。誰かを救うための《力》だと信じていたのに、私は比良坂さんを救えなかった…。私の《力》は何のためにあるの? 私には何ができるの?」 知らず、鬱屈していた胸の内をすべて晒してしまう葵。何もそれは、葵一人に限った事ではなかった。あの場に立ち会った仲間たち全員が、葵と同じ思いを抱いていたのだ。龍麻一人が抜けただけで、いかに頑強とは言え戦術も何もないゾンビーにあれだけてこずり、死蝋には総がかりで挑みながら軽くあしらわれてしまった。龍麻の冷静沈着な判断と、的確な指揮あってこそ、これまでの闘いを勝ち残ってきたのに、その勝利を自分たちが強くなったせいだと勘違いしていた自分たちに気付かされたのだ。 強くなりたい――誰かを護れるほどに。誰かを護るために。龍麻がリハビリに勤しむ中、その共通の想いを胸に京一たちは旧校舎に集い、修行と研鑚に務めている。あの時何もできなかった悔しさを払拭するためには、己自身が強くなるしかないのだ。 「…俺が言えることは多くはない。だが、これだけは言っておこう。自分を卑下するな。今の自分が限界などと思うな。それはただの敗北主義だ」 「……」 「そして、紗夜の事で思い悩むのもやめろ。それは彼女を否定する事に通じる。紗夜は俺のために死んだのではない。彼女は自らの生き様を自ら選択し、戦った。凶悪なテロリストとして多くの死を振りまく者から、人間たることを選び取ったのだ。力及ばず果てた事は悲しむべき事だが、自らの信念に従い、人として生きた事を喜んでやるべきだ。戦場に生きる者が果てる時には、人として死ねる者こそ少ないのだからな」 常と変わらぬ、淡々とした口調。それは彼が薄情だからではない。この歳にして多くの死を見続けてきた者の、死を現実として受け入れている者の口調だ。今日を生き延びても、明日はわからない。明日を生き延びるために、今日も戦わねばならぬ者の言葉だ。 「そして葵。俺たちにとって、葵の存在は極めて重要だ。俺たちは前線で戦う事しかできないが、俺たちが思い切って前に出て行けるのは、小蒔の正確な援護があり、思わぬ負傷をしても葵が癒してくれるからだ。俺たちがどれだけ葵のおかげで助かっていると思う? それを思えば、俺たちはお前に足を向けては寝られんぞ」 「龍麻…」 相変わらず生真面目な顔のままで冗談を言う彼だが、葵はずいぶん胸の内が軽くなるのを覚えた。 やはり、相談して良かった。この男は決して真剣に悩む者を卑下したりしない。彼とて傷つく事はあろうに、どんな悩みにも真摯に応じてくれる。 だからこそ、この男は男女を問わず人を惹き付けるのだろう。自分たちの想像も及ばぬ苦難の道を経てきた男ゆえの大器だ。 しかし葵は同時に、自分と龍麻との距離も感じていた。 自分たちは自分では答えの出せない悩みを龍麻に相談できる。しかし龍麻は悲しみを意識せず、仮に意識してもそれに耐えうるだけの強さを既に持ってしまっている。だからこそ決して、彼は悩みを他人に打ち明けたりはしない。悩みそのものを意識する事がないため、おそらくは間違った処理をしてもそれに気付きもしない。 紗夜を失った直後、彼は明らかに悲しんでいた。あの時の光景は仲間たちの誰もが目に焼き付いている。能面のごとき無表情のまま涙を流す龍麻の姿。悲しみを意識しない――できない男が流す涙が。 「考える事はいつでもできる」 龍麻は続けた。 「誰かのために何かしてやりたいと思うのなら、生き残る事だ。誰かが流した血を無駄にしたくなければ、生き延びる事だ。生き残っていれば、きっと何かをしてやれる時が来る」 これは龍麻自身が、最近になって学んだ事でもあった。人の身である以上、限界があるのはやむをえない事だ。しかしそこであきらめては何事も成しえない。自らの限界以上に挑みつづけ、挑戦し続ける事によってこそ、人として成長しうる。そしていずれは、自分も人として、太陽の下を歩ける日が来るかも知れない。 「…小蒔と醍醐が来たな」 葵を見つけた小蒔が手を振りながら駆けて来る。少し遅れて、醍醐も続いた。しかし赤毛の木刀男の姿はまだない。 「おっはよー! 葵。…って、京一はいつもの事だけど、ひーちゃんまでまだ来てないの?」 「こ、小蒔…!」 葵も敬礼されるまでは気付かなかったのだから似たようなものだが、小蒔もどうやら葵の隣にいる男こそ龍麻であることを見抜けなかったようだ。それどころか、 「この人、誰? 葵の彼氏?」 とまで言ってきた。これにはさすがに葵は真っ赤に頬を染める。 「それなら挨拶せねばな。俺は美里の同級で醍醐雄矢というものだ」 醍醐までが重々しくそんな事を言うものだから、ついに葵は吹き出してしまった。 「…葵。お前も判らなかっただろう?」 「ええ。でもおかしくって…!」 これでようやく、二人は龍麻に気付いた。 「ええッ!? ひーちゃん!?」 「た、龍麻だったのかッ!?」 龍麻はなぜか得意そうに頷き、ラフな敬礼をして見せた。そうされて初めて、本物の龍麻であると二人とも納得できた。 「ぜんぜん判らなかったよッ。何で今日に限ってそんな格好してるの? …カッコ良いけど」 「うーむ、馬子にも衣装とはよく言うが…」 それ、誉め言葉になってない(わよ)と突っ込みたかった葵と小蒔だが、龍麻が何か得意そうにしているので黙っておく。 「お前たちにも判らんのなら、この偽装は完璧だな。研究の甲斐があった」 「偽装って…そっちの方が目立つんじゃ…」 「枝を隠すなら森の中と言ってな。都会派ファッションというものはやや目立つくらいがかえって良いのだという結論に行き着いた。どうやら間違っていなかったようだな」 周り中の女性から注目の視線を浴びて、まだそんな事を言うかこの朴念仁は。しかし彼がそういう性格である限り、このハンサムは独り占め(二人占め?)できるので黙っている葵と小蒔であった。 「…これで残るは京一だけだね。まったくあの遅刻魔ッ!」 「――誰が遅刻魔だって?」 ひょい、と柱の影から京一が姿を現す。出て来た所を考えるに、芸能人の入り待ちをしている女の子をナンパでもしていたのだろう。成果は当然、ゼロのようだが。 「ははは、京一、いたの?」 「いたの、じゃねえ! まーた俺の悪口言ってやがったな。…って、醍醐、何だその格好は!? このクソ暑いのに学ランなんか着やがって」 「ふん! 学生が学ラン着て何が悪いんだ。心頭滅却すれば火もまた涼し――だ。まあ、我慢とか忍耐とかいう言葉に縁のないお前には判らんだろうがなッ」 「ちッ、開き直りやがって。ところで、ひーちゃんはまだ来てないのかよ?」 やはり、京一にも今の龍麻は判らなかったらしい。戦闘時において先陣を切り、最前線に身を置く、名実ともに龍麻の相棒たる男が、である。しかし―― 「それに誰だよ? そこの、できそこないの松田優作か沖雅也みたいなのは?」 「……」 龍麻の頬がピクリと跳ねたのを見て、葵、小蒔、醍醐の顔がサーっと青ざめた。しかし周囲をきょろきょろしている京一は気付かない。 「まったくあの鬼軍曹。いつも気軽に人の事をポンポン殴りやがるくせに、何で遊びに行く時は遅刻すんだよ。ッたく、なあ?」 誰にともなく同意を求めた京一は、黒のサマージャケットの男が近づいてきたのに気が付いた。 「ところで、お前、誰?」 「京一…」 地獄からでも響いてきそうな声に、はっと気付いて青ざめる京一。だが、遅い! 「貴様を不敬罪と上官侮辱罪で懲罰に処す」 「ノオッ!!」 けったいな悲鳴を上げて、京一の身体が垂直に跳ね飛ぶ。龍麻の《気》のこもった掌打の成果だった。 「行くぞ」 有無を言わせず、気絶した京一の足を掴んで歩き出した龍麻に、他の三人は黙って付いていく事しかできなかった。そして龍麻にとって偉大な俳優松田優作と沖雅也を侮辱した京一は、地下鉄丸の内線のホームに至る階段の段数だけ、頭にコブを作る羽目になったのであった。 「京一。葵がいてくれる事を感謝するがいい。どうだ葵、自分の重要性が認識できただろう?」 「私…こんな形で役に立つのはイヤなんだけど…」 それはある意味、実に平和な光景であった。 「うおー、あちー、もう歩きたくねー」 「もうッ、うるさいなあ」 既に十数回は繰り返されたであろうやり取りに、そろそろ小蒔は我慢の限界が来ているようだ。夏だから暑いのは当たり前で、何も京一一人が暑い訳ではないのである。目的地がプールとは言え、京一はいつまでも暑さに不平タラタラ、小蒔にストレスを溜めさせる。 「大体お前らおかしいぜッ。どうしてこのクソ暑いのに長袖なんか着ていられるんだよッ」 「それ見たことか。普段の精神修養が足らんから、暑いくらいで文句が出るんだ」 だからと言って、夏の最中に学ランを着てなくても…と、心の中で突っ込む葵と小蒔である。 「でもひーちゃんは汗かかないよね。やっぱり沖縄生まれだから?」 「それだけではない。中東やアフリカの砂漠に比べればこの程度の気温は暑い内に入らん。南米や南アジアなら更に湿度九〇パーセント以上などザラだ。特に対化学戦闘ともなると摂氏五〇度の砂漠でも全身を防毒スーツで包み体感温度は実に――」 「はいはい。ひーちゃんに聞く方が間違ってました」 龍麻の突拍子もない体験談には、もうだいぶ慣れた真神の面々であった。そして、すぐに話題も切り替わる。 「あ! 東京タワーだ!」 彼らの現在位置は港区芝公園。当然、東京タワーも見える。別に何と言う事はないテレビ塔なのだが、モスラやギャオスといった怪獣に倒されたり繭をかけられたりしたお蔭で、すっかり東京の観光名所としての地位が板についている。 「ねえ! せっかくここまで来たんだからちょっと寄ってかない?」 「何だよッ! 東京タワーなんか珍しくもねえじゃねえか!」 暑さで頭の中で溶けている京一がキレる寸前の声を出す。しかしそこに葵までが追い討ちをかけた。 「そう言えば、増上寺もこの近くだったわね」 「な、何!? 寺ァ!?」 「ええ、徳川時代からの由緒正しいお寺よ」 葵の言葉に、醍醐は意味ありげに顎に手をやって、隣で不平を洩らす木刀男を見やった。 「寺か。そうだなあ、ここにいる堪え性のない男に忍耐を付けさせるには良いかも知れんなあ」 「そうね」 実にあっさりと葵は同意する。 「増上寺は徳川将軍の菩提寺だけど、もとは浄土宗のお寺ですものね。座禅を組むには良いかも知れないわ。何しろ代々の将軍の尊祟を受けたほどですものね。今も境内に将軍や御台所のお墓があるのよ」 「何だよ、御台所って?」 もはや頭が煮え立っている京一がそんな質問を発する。既に投げているのかも知れない。 「御台所って言うのは、将軍の正妻の事を言うの。大奥と言えば判るかしら?」 「ああ、それなら知ってる。若くてきれいな女ばかり集めた将軍のハーレムだよな。くーッ、俺も将軍に生まれたかったぜ」 「…話がずれているぞ、京一」 これは、冷たい醍醐の言葉。次いで龍麻が、 「お前が将軍になったら、たちまち革命が起こって暗黒裁判で死刑だな」 と、辛辣な事を言う。 「それよりも、東京タワーは見えているからいいとして、なぜそこに寺が出てくる? 葵、まさかこの世界の製作者に妙な電波を受けているのではあるまいな?」 「え?」 「ウィアード・テイルズなどに代表される幻想怪奇小説の世界概念だ。我々が知覚するこの世界そのものが、実は何者かの見ている夢に過ぎぬのではないか、という思想だ」 「…よく判らないんだけど?」 「つまりこの世界が、想像も及ばぬ誰かが織り成す物語の世界であり、ここで喋っている我々自身、その製作者によって台詞を言わされているのではないかという事だ。その世界に属する我々は自分の意志で決定しているように見えているのだがな。この世界が誰かの見ている夢、誰かの描いた物語、あるいはプレステのゲームの中ではないと、我々には言い切れぬのだ」 久しぶりの龍麻の長台詞だが、いつにも増して難解で、喩えもぶっ飛んでいる。まさかこの世界が、プレステのゲームの中だなんて…。 「それじゃボクたちは、ゲームの中のキャラクターってコト? いくらなんでもそれはないよ」 「…そういう考え方もあるという事だ。そうすれば俺たちの《力》についても説明がしやすかろう。ゲームの世界なら、それこそ魔法でも何でもありだ」 つまりそれが、龍麻なりの《力》に対する考察なのだろう。葵に限らず、《力》に目覚めた者たち共通の疑問、「力は何のためにあるのか?」に対する、一つの答えという訳だ。 しかし―― 「もしそうなら俺は美少女ゲームの中がいいな。藤○詩○ちゃんとか、月○あ○ちゃんとかと仲良くなって、そして…」 ――ドスン! 「うぐぅ…!」 皆まで言う前に、京一は龍麻の掌打で沈んだ。 「――アホめ。場の空気が読めん奴だ」 所詮全ては考察であり、推論なのだが、だからと言って重要でない訳ではない。それを茶化されたのでは、やはり龍麻でも怒るだろう。 しかし、ひそやかな拍手が木陰から響いてきたのはその時であった。 「む…」 暑いくらいで、気付かぬ内に龍麻がこれほど人の接近を許す筈はない。今の話、《力》の事を聞かれたかと、一同は一瞬ひやりとしたが、なにやら夢見がちな目をしている青年は親しげに声をかけてきた。 「やあ。君の世界に対する考察には僕も深い感銘を受けたよ。《ルルイエの館にて死せるクトゥルー、夢見るままに待ちいたり》。大地と水の狭間にて、僕は友と出会ったようだ」 突然の闖入者にあっけに取られる一同を前に、青年は詩を吟ずるように――事実吟じているのだが――続けた。 「この世界は、放蕩と死に溢れている。だが、それも美しき婦人たちの前では無に等しい」 「「「「「…………」」」」」 はっきり言って、これはなかなか不気味な光景である。見ればなかなか整った顔立ちの青年だが、まるでオペラ歌手のような身振り手振りを交えながら、意味不明の単語を並べ連ねているのだ。 「ねえ、何かぶつぶつ言ってるけど、危ない人かな?」 小蒔がこっそりと葵に耳打ちしたが、それが聞こえたのか、青年は中空に手を差し伸べた姿勢のまま、クル、と首だけ小蒔に向けた。 「君、今僕に何か言ったかい?」 「イエ! 別二何モ!」 思わずカタカナ言葉になるほど焦りまくる小蒔。青年は上から下、下から上と小蒔の全身に視線を走らせ、言った。 「君は美しい顔をしているね…まるで髑髏の上に腰掛けた乙女のようだ」 言葉だけ聞くと褒め言葉のようだが、難解な上にいかにも怪しい青年の言うことである。とてもではないが素直に喜べるものではない。そもそも、なぜそこで髑髏が出て来るのか!? 「小蒔を見て美しいとは…こいつはかなりイカれてるぜ」 京一が青年にも聞こえるように毒づくが、既に自分の世界にどっぷりと浸っている青年はあっさりと聞き流す。 「だが――美しいものほど、残酷で罪深きものはない…。――なんという悲劇。時こそが人の命を齧 更に難解な言葉を連ねつつ、どこかに魂を置き忘れてきたかのように妙なパントマイムをする青年。もはや処置なしだと言わんばかりに京一も小蒔も龍麻を振り返り、《どうする、これ? 》という顔をした。 龍麻は右手を上げ、サインを出した。 《敵はキ印。迂回せよ》 《了解》 池に向かってオーバーアクションで高らかに詩を吟ずる青年を避け、真神の一同はこっそりと通り過ぎようとする。 すると、青年がまたしても首だけこっちに向けた。 「フフフ、ボードレールの詩だよ」 こいつ、わざとやってるのか? と疑いたくなるタイミングである。 「ぼおどれえる? なんだそりゃ?」 「ボードゲームとは違うよね…?」 撤退に失敗した京一たちはやむなく問い返す。 「シャルル・ボードレール。フランスの詩人だ」 その問いには龍麻が答えた。知ってるならなぜ言わない!? と京一が恨みがましい目を向ける。 「おお、彼の高潔な魂を理解する人がいてくれて、今僕の心はアンジェラスの鐘のごとく高鳴っている」 「東山三十六方草木も眠る丑三つ時――」 「…?」 「どこで鳴るのか夜陰の鐘が、陰にこもって物凄く。――ゴオオオオオオン…」 一同アンド青年、しばし絶句。ここ数日、読書量が倍にも増えている彼の事だから、またいずれおかしな落語でも聞いたのだろう。龍麻の訳の判らんギャグで場の空気が寒くなる。無理に理解してやろうとするならば、おそらくは《鐘》つながりだろう。 「…で! お前、いったい何なんだよッ!?」 無理やり場を取り繕おうとする京一。しかしそのため、青年も復活してしまった。 「僕を知らないのかい? 詩人という高貴なる僕を」 ガガーン! と漫画なら書き文字が入ったであろうポーズで青年がよろめいた。 「知るか! いきなり湧いて出てきやがって!」 「おお、なんと言うことだ…僕の心はシテールのように荒涼たる風が吹いている」 「どどどどどうっどどどどぅどどうっどどどどどぅどどどどど!」 「今度はなんだァ! ひーちゃん!」 「うむ。宮沢賢治著《風の又三郎》だ」 「真面目な顔して冗談を言うなァ!!」 完全に自分の世界に浸っている青年に、天然ボケの始まった龍麻の組み合わせは最悪だ。京一など、既に半分壊れかかっている。 その時、ふと葵が声を上げた。 「そう言えば、この近くにあるセント・クライスト学院に13歳で文壇デビューした天才詩人がいるって聞いた事があるわ。確か名前は水岐――」 「♪ゲ、ゲ、ゲ○ゲのゲー♪」 「それは水木しげる」 「♪マジィィィ―――ン・ゴオッッ!!♪」 「それは水木一郎」 龍麻の妙なリアクションに、律義に突っ込む葵。そのやり取りを、小蒔と醍醐はお茶でも啜るような風情で眺める。 「葵、性格変わったよね」 「龍麻もな。良いのか悪いのか判らんが」 そして、青年は―― 「おお、君こそは砂礫の砂漠にいる慈悲深き尼僧。そう、僕がその水岐涼 やっとこれで本題である。 「へえーッ、このヒト、天才だったんだ。道理で難しいコト言ったり、ボケ倒されても堪えなかったんだ」 何気にひどい事を言っている小蒔だが、《天才》の水岐は褒め言葉と受け取ったらしい。なにやら機嫌良さそうな顔で、ボケの犯人、龍麻に向き直る。 「君は海が好きかい?」 「何だ、やぶから棒に」 龍麻はそう言って、何か…恐らく扇子…を持っているつもりであろう手でぴしりと額を叩いた。ただし――無表情で。 「――いーえ、壁から釘です」 「――海は良いねえ」 なんなんだよお前ら! と京一が地団太踏むのも構わず、水岐は続けた。 「君には共通の感性を感じる。今度君の為に詩を作ろう…。ベトラルカが理想の恋人ラウラに捧げたように」 「《石川や、浜の真砂は尽きるとも》」 まだ何か言うか。この落語好きの鬼軍曹は。 「《それにつけても金の欲しさよ》」 「ええい! 龍麻! もう喋ンな! それにテメエも何なんだァさっきから! いきなり海が好きかなんて、どうでも良いだろが!」 完全に壊れた京一が木刀を振り上げ、声を張り上げる。ただでさえ暑い所に噛み合わない漫才を繰り広げられれば誰だってイライラするだろう。 「海は偉大なんだよ。全てを生み出し、そして全てを無に還す。そう、万物の根源なんだ」 「あのさ…君の言うことはいちいち難しいよ」 京一と同様、既にダレている小蒔である。 「では噛み砕いて説明しよう。海は全てを呑み込む。汚れた人間も、腐敗しきった世界も。この世界は、一度海へと還るべきなんだ」 事、ここに至って、ようやく哲学的長台詞のツケをギャグで払い終わった龍麻の思考が通常に戻る。しかもこの水岐の言葉。かつて渋谷の事件で聞いた言葉と似ていて、実に不快だ。 「水岐と言ったか…。一体何が言いたい?」 ずっと傍観者に成り下がっていた醍醐も、やや険のある声で問い返す。不快感は同じらしい。 「罪深い邪教を信じた報いを、この世界は受けねばならない。かつて紅の花に埋もれた美しい世界を壊した報いをね。――もうすぐこの世界は、全て海の中に沈むんだ。誰も逃れることは叶わない…。この世界はもうすぐ、海の眷族によって支配されるんだ」 「《お母さん、アメリカって遠いの? 》」 京一も、もう額に青筋を浮かべるだけで突っ込まない。 「《黙って泳ぎなさい。》――小朝師匠がやっていたのだが、つまらんか?」 聞き様によってはこの季節に鳥肌の立つような不気味さを持つ水岐の妄想を、龍麻はまたしても落語ネタで切り捨てた。 「へえへえ。小朝がやったら面白いかもな。――俺たちはお前の妄想に付き合ってやるほど暇じゃねえ。さっさとプールへ行こうぜ」 「待ちたまえ。君たち、プールへ行くのかい?」 これ以上誇大妄想狂にも、どしつこい落語軍曹にも用はないとばかりに歩き出していた京一は、振り返って歯を剥き出した。 「悪いか! プールへ行っちゃァ!」 まだ何か妙なことを言うようなら、今度こそぶん殴るという風情の京一を見て、さすがに水岐も言葉を濁した。 「いや…楽しんで来るといい。君たちとはまたどこかで会えそうな気がするよ。――そうだ。今日会えた記念に、これをあげよう」 龍麻に差し出されたのは、テニスボールほどの、青く輝く珠であった。特別な仕掛けがあるようには見えないのだが、ひんやりとした冷気を伝えてくる。 「何だ、これは?」 「水神の霊力が宿ると言われている霊玉さ。使い方は持ち主次第。使いこなせるかも、持ち主次第さ」 そう言って水岐は、やってきた時と同じように、なにやら詩を口ずさみながらふらふらと去っていった。 「あー! もう、気分悪い! さっさとプールに直行しようぜッ!」 「うん…そうだね。なんかテンション下がっちゃったし」 なにやら得体の知れない問答をしている内にも気温はぐんぐん上昇し、今日も猛暑になりつつあった。 第八話 邪神街 1 完 目次に戻る 前(恋唄 4)に戻る 次(邪神街 2)に進む コンテンツに戻る |