第七話 恋唄 4





 
 その悲鳴が聞こえた時、京一たちは不気味な髑髏に導かれて、地下研究所の頑丈なシャッターの前に至っていた。

「今の声、この中だよッ!!」

「龍麻!」

 葵、小蒔たちがシャッターを叩くが、当然、その程度でビクともする筈がない。並の倍はある鋼鉄のシャッターである。

「美里! 小蒔! お前らは下がれ! 醍醐! ぶち破るぞ!」

「うむ! 紫暮ッ!」

「応ッ!!」

 京一は木刀を青眼に、醍醐と、二人に分身した紫暮が《気》を両掌に溜める。そして――

「《剣掌・発剄》!!」 「「「《掌底・発剄》!!」」」

 物理的常識を覆す《気》の衝撃。都合四人分の《剄》の直撃を受け、シャッターは轟音と共に吹き飛んだ。そして、その中に見たものは――

『龍麻ッ!!』

 今まで見た事もないようなおぞましい標本の並ぶ研究室の中で、これまた信じられない怪物と真正面から対峙する龍麻。そして、その腕の中に崩れ落ちた紗夜の姿だった。

「なぜだ…紗夜…なんで…そんな奴を庇うんだ…?」

 狂気と復讐に凝り固まった死蝋に、紗夜の行動が理解できよう筈もない。だが龍麻の仲間たちには瞬時に理解できた。豪腕の一撃で真っ二つにへし折られた手術台にたった今まで拘束されていただろう龍麻を、紗夜が身を呈して庇ったという事を。

「紗夜…なぜこんな真似を…!」

 紗夜の行動が理解できないのは、残念ながら龍麻も同じだった。自分が同じ事を平然とやってみせるのは、自らがそれを成し遂げる絶対の自信があるからである。そして、自分を犠牲にして他人を守るという行為が、崇高ではあるが、残された者に深い傷を与える事も知っている。今の自分には、それが解る。

「龍麻…さん…。私…いいえ、私たちは、飛行機事故以来…何かがおかしくなってしまったんです…」

 ゴボリ! と紗夜は深紅の血の固まりを吐き出した。

「…!」

 龍麻ならずとも、一目で分かる。紗夜が受けた傷が致命傷である事を。

「紗夜ちゃん!!ッッ美里! 高見沢! 治療だ!」

「えっ、ええ!」

 あまりにも異様であまりにも凄惨な光景を目の当たりにして、酷く動揺していた葵であったが、自分の役割を思い出して紗夜に駆け寄る。高見沢もほとんど涙目になりながら葵と一緒に治癒術をかけ始めたが、紗夜の受けた傷が深すぎて効果が中々現れない。

 その光景から目を離しがたい京一たちは、しかし死蝋と怪物…腐童を半円状に包囲して、龍麻たちの守りを固める。

「テメエが龍麻を攫った張本人だな! 紗夜ちゃんまであんな目に遭わせやがって! 許せねえ!」

 京一の木刀が突き付けられ、死蝋は初めて彼らがそこにいる事に気が付いたように、一同を見回した。

「そうか…そうなんだな…! お前たちが、紗夜をそそのかしたんだな! またしてもお前ら人間は薄汚い真似を…!」

「はン! 何言ってんだい! コイツ!」

 藤咲が鞭で激しく床を打った。

「アタシらの大事な龍麻をこんな目に遭わせてくれたんだ。あんた、罪重いよ」

「うふふふふふふふふ〜、本物のゾンビーがお目にかかれるなんて〜。でもひーちゃ〜んを傷つけた事は許さない〜」

 底冷えするような藤咲と裏密の脅し文句に、しかし死蝋は不気味な含み笑いを洩らした。

「ククク…。そうさ。お前らが皆死んでしまえば良いんだ。さあ、紗夜。お前の呪縛は僕が解いてあげるよ。行け! 死人ども!」

 死蝋は背後にあった別のシャッターの開閉装置を叩き付けるようにして解除した。途端に都合三つのシャッターが開き、中にひしめいていたゾンビーが躍り出してきた。

「うわ! なんだコイツら!」

 武道の心得があるとも思えない蕪雑な攻撃と腐臭に、反射的に水月突きを繰り出した雨紋であったが、槍の穂先があっさりと背中まで抜けた事と、その時の異様な感触に彼らしからぬ悲鳴を上げた。

「ぬうっ! こいつら、倒れんぞ!」

 紫暮の正拳突きを浴びて顔面が陥没したゾンビーは、その衝撃で倒れこそしたが、すぐにのろのろと起き上がってきた。もう一撃! ――また立ち上がる。更に一撃を加え、とどめに下段の下突き! 胸骨が完全粉砕されたゾンビーはさすがに数秒は痙攣していたものの、折れた手足を省みずギクシャクと起き上がってきた。

「ちいっ! 《剣掌・発剄》ッッ!!」

「うらあッ!!」

 《気》の斬撃が、丸太のような蹴りが飛ぶ。京一の斬撃はゾンビーを腰の上で両断し、醍醐の蹴りはゾンビーをくの字にふっ飛ばし、机の縁に激突させて頚骨をへし折った。しかし…!

「――ッマジかよ…ッ!」

 頚骨の折れた奴は首を横向きに傾けたままふらふらと立ち上がり、胴体を真っ二つにされた奴は何と、上半身のみで床を這いずり始めた。後方でその様を見た小蒔の喉がゲフッと鳴る。京一や醍醐、雨紋も同様だ。いくら切り伏せ、叩きのめしても、見るもおぞましい傷だけを増やしながらすぐに起き上がってくるのだ。

 怪物と呼称できるものならば、旧校舎での実戦訓練で散々相手にしてきた一同ではあるが、初の人造の、それも科学の狂気をたっぷりと詰め込んだおぞましいゾンビーには、さすがの彼らもいつもの勢いが出なかった。ゾンビ―であると、怪物であると判ってはいるのだが、その姿は一応、人間のものなのだ。そして攻撃を加えれば、人間の形そのものが崩れていくのだ。自分たちの手によって――

「寄るんじゃないよ!」

 女性だけによりゾンビーに対する嫌悪感が強い藤咲は鞭を超音速で振りまわし、ゾンビーを寄せ付けないが、やはり、それだけであった。

「うふふふふふふふ〜〜〜〜〜」

 ほとんど全員が実力を十分に発揮できない中、それが彼女なりの怒りの表現か、裏密がいつもより長く笑いながら光る粉を空中に散りばめる。その粉を浴びたゾンビーは術を破られ、たちまち肉と骨の堆積と化した後、それさえも干からびて塵となった。

 そう。こっちにも専門家がいたのだ。

「ナイスだ! 裏密!」

「裏密サン! こっちも頼む!」

 京一は木刀をトンボに構え、雨紋は槍を中段よりやや下、丹田に据えて《気》を高める。木刀の切っ先、槍の穂先まで《気》が漲った次の瞬間、彼らは同時に技を発動させた。

「《剣掌・旋》ッ!!」

「《旋風輪》ッ!!」

 比較的広いとは言え、密閉空間で旋風と竜巻が同時発生し、ゾンビーどもを一箇所に跳ね飛ばした。そこに醍醐が、紫暮が、藤咲がそれぞれ自分の前にいるゾンビーを同方向に弾き飛ばす。

「うふふふふふふふ〜〜〜。そ〜れ〜!」

 裏密の気合(?)と共に輝く粉が夢のように舞い散り、それに触れたゾンビーをことごとく分解してのける。

 これなら、勝てる! 全員がそう思った時であった。

「うおっっ!!」

「紫暮ッ!!」

 分身を龍麻たちの護衛に一人残し、ゾンビーの群れに深く切り込んでいった紫暮は、突如目の前に現れた巨大な拳にブロックごと弾き飛ばされた。体格だけなら醍醐をも上回る巨体が吹き飛ばされ、壁に叩き付けられたのを見て一同の顔が恐怖に強張った。

「紫暮ッ! 大丈夫かッ!?」

「ぬうう…奴…見た目以上に素早い。しかもあの技は…!」

 形としてはいびつな人型のオブジェである腐童は、しかしある独特の構えを取っている。凄まじい筋力を有しながら、それに頼らない構え。軽く握った拳を顔前よりやや手前に、左右に開くように置き、重心は腰の中央に置き、ステップを自在に効かせるために膝を緩めに、それもスタンスを小さ目にまとめる。それは、素早い蹴りを繰り出す事を想定した構えだ。

「タン・ガード・ムエー…ムエタイを使う巨人ゾンビーか…!」

 まるで冗談のような敵だが、現実に目の前にいるのだから仕方がない。しかも、とてつもない強敵だ。他のゾンビーはしつこい事は確かだが、打撃を加えれば少なくとも肉体は破壊できる。だが腐童はスピードで紫暮を凌駕し、拳を叩き込まれながらも放った紫暮の前蹴りをものともせず跳ね返したのだ。

 龍麻は仲間たちの苦戦を横目で見ながら、しかし紗夜からも目を離す事が出来ない。左手首を脱臼させて脱出した龍麻がダメージを軽減させたにも関わらず、腐童の一撃は紗夜の肋骨を砕き、折れ口を肺に突き立てていたのだ。

「駄目だよぉ…《陰気》が強すぎてちゃんと治癒術が効かないよぉ…」

 葵にしろ高見沢にしろ、それこそ全力で治癒術をかけているのに、紗夜の怪我は出血を押さえる事すら叶わなかった。それは彼女自身が今まで《陰気》に晒され続けていたため、体質的に治癒術が効きにくくなってしまったからであった。

「諦めちゃ駄目よ…! 高見沢さん!」

 そう励ます葵も、疲労が激しく浮き出ている。

「いいんです…。自分の体の事は…自分が一番良く分かります…」

「喋るな。諦めるな。お前は自分の道を歩き始めた筈だ」

「…龍麻さん…。人は、何を護るために生きているんでしょう…? 私…ずっと考えていたんです。あの事故の時から…ずっと…」

 喋れば喋るほど吐血するというのに、紗夜は黙らなかった。そうする事が、龍麻たちを苦しめた万分の一の罪滅ぼしになるとでもいうように。

「私の両親は、私たちを護って死にました…。墜落して…燃える飛行機の残骸の下敷きになって…。私たちに…逃げろと言って…。他にも、大勢の人が同じような目に遭っていました…。でも、助かった人たちは自分の事ばかり必死になって…誰も、誰も助けてはくれませんでした。救助に来た筈の人たちも、何かを探すのに夢中になって、助かった人たちに暴力を振るい、私たちも…」

「…!」

 葵たちは紗夜が何を言っているのか解らない。だが、龍麻には、その背後に横たわる事実さえも解ってしまう。

 あの細菌兵器は無事に米軍の管轄下に置かれ、その後レッドキャップスはウイルスを開発していたテロリストの基地を強襲、完全殲滅した。しかし墜落現場では、レッドキャップスがサンプル回収に成功した事を知らぬ各国特殊部隊とインド陸軍の間で激しい戦闘が行われ、生存者たちは丸二日間、半ば放っておかれたのである。墜落当初、空軍上がりの機長の神業的な操縦により乗客の半数、約一〇〇名が生存していたのだが、バイオハザードを恐れた各国政府の外交交渉やら特殊部隊の派遣やらで対応は遅れに遅れ、最終的に救助されたのは二〇名足らずという悲惨な結果になった。そして特に、この事件の中核にいた比良坂兄妹は、その親類も含めて諜報機関による厳しい追及を受けたのだ。

「日本に帰ってからも…別々の親戚に引き取られた私たちは厄介者でしかありませんでした…。兄は両親が焼け死ぬのを最後まで見続け、誰も助けてくれなかった事を、助けに来た筈なのに逆の事をした軍人を、親戚達の冷たい眼差しを、私たちを虐待した全ての人を、この苦しみを知らぬ人々を怨みました。怨んで、憎んで、ついには、人そのものが存在するべきではないと思うようになり…あのような事を…。そして…私も…」

「お前はこちら側を選んだ。足掻き、挑み、戦う道だ。逃げ出した先に楽園などない事をお前は知っている筈だ。ならばこそ、ここで死んではならん」

 違うだろう! 他に言うべき事がある筈だ! そう思いつつ、龍麻はその言葉を探し当てる事が出来なかった。こういう時、どんな顔をすればいいかさえ、彼には解らないのだった。

「そう…。それを、龍麻さんは教えてくれましたよね…。困難に立ち向かう事を…。自分から進んで、護る事の大切さを…。私…龍麻さんに会えて良かった…。いいえ…もっと…ずっと前にも…会っていましたよね…。あの…妖精の刺青…。龍麻さんは…二度も私を救ってくれましたね…」

「――紗夜…! あの時の事を…!」

 だが紗夜は龍麻の言を力ない笑みで遮り、震える手で腐童を、兄を指差した。

「…行ってください、龍麻さん…。あなたの仲間が戦っているのは、私と兄の心の闇…。人を怨む心から生まれた醜い怪物…。でも…皆さんと…龍麻さんの力が合わさればきっと勝てます…」

「紗夜…!」

 龍麻は、血にまみれて震える紗夜の手を握った。酷く冷たく、冷え切った手。

 あの時と同じだ…! あの時も、自分は何も出来なかった。死に行く仲間を前に、ただ立ち尽くすだけ…。

「龍麻さんの手…あったかい…。そうだ…また、どこかに出掛けませんか…?」

「――良いとも。アフガンでもキプロスでもモザンピークでも、どこへでも付き合ってやる。俺がいれば安全だ」

「エヘヘ…凄い所ばっかり…でも、楽しみ…だ…なあ…」

 ヌルリ、と龍麻の手から紗夜の手が抜け落ち、力なくぱたりと落ちた。

「比良坂さん!!」

 葵が叫ぶ。まだ…まだ死んだ訳ではない。死んだ訳ではないが…。

「…比良坂紗夜…。お前たちの憎しみを育てたのは、俺だ」

「え…!?」

 何を言い出すの!? と、葵と高見沢が龍麻を見上げた。

「――お前の親は世界を救った…! だが俺はお前を…あの時の俺が…お前の両親を…!!」

 龍麻の目が紗夜の血に染まった己の手に落ちる。紗夜に目を戻すと、それは《仲間》の姿へと変わった。――ベトナム症候群シンドロームと呼ばれる、記憶のフラッシュバック現象。龍麻の目にダブって映る、紗夜と《仲間》の死に様。記憶の中に封印していた《死》と《破壊》が目の前を飛び交い、銃弾の、砲弾の唸りが、爆発音が、兵士たちの悲鳴が、断末魔の叫びが龍麻を打ちのめす。――忘れていた訳ではない。《人として生きる》事を選択した時、《それ》に触れても何も感じぬようにしたのだ。戦闘マシンである自分が人として生きる為には必要な処置であるとして、怒りも、哀しみも、憎しみも感じぬように。――果たして、それは人と言えるのか!? 人でなければ、自分は何だ!? 人か、マシンか、それとも、それ以外の何者か――!? 



 ――脳波に異常発生。ベータ波レベルB超過、上昇中。



 ――『敵は皆殺しにしろ。それが貴様らの任務だ』



 ――『――肯定ポジティブ



 ――精神抑制措置。自己暗示起動。



 ――『よくもこんな真似を! テメエらだって、人間だろうがァァァッ!』



 ――『――否定ネガティブ



 ――ERROR――アドレナリン強制分泌開始。昂精神暗示起動。



 ――『あと二週間で除隊だったってのに、ツいてねェなァ、オイ』



 ――ERROR



 ――『俺の女房と息子だよ。俺はこいつらのために戦っているんだ』



 ――ERROR



 ――『テメエらは生き延びろ。いずれ地獄で逢おうぜ、クソ餓鬼ども!』



 ――ERROR



 ――『死ぬのは怖かねェ。だが、もし生まれ変われるなら、戦争のない時代に生まれたいもんだぜ』



 ――ERROR――ベータ波レベルA超過。ARART! ARART! ARART!



 ――『よく考えろ。誰の為に、何のために闘うのか』



 ――『殺せ!』



 ――『殺しは好かねェ。でも、殺らなきゃ殺られる』



 ――『殺せ!』



 ――『理由を持たなきゃ、ただの殺人狂だ。誇りを持たなきゃ、ただの殺戮機械だ』



 ――『殺せ!』



 ――『絶対に譲れねェもんがある。生き方ってのはそういうもんだぜ、ボウヤ』



 ――『殺せ! 潰せ! 破壊しろ!』



 ――ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART! ARART!



 ――『貴様らの廃棄処分が決定した。武装解除後、自決しろ』

 ――『否定ネガティブ。我々は、我々自身の戦いを始める。我々が生き延びるべく戦う』



 ――ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR! ERROR!



 ――『生き延びろ! せめて人間らしく!』

 ――『生き延びたきゃ、俺の屍を越えて行け! ――息子よマイ・サン!』



 一九九六年八月――その日――彼は己以外の全てを失った。そして、残ったものは――



 ――精神攻撃感知。精神攻撃防御手段起動。精神麻酔開始。ノル・アドレナリン無制限分泌開始――



「――――――ッッ!!」

 その時葵と高見沢は、龍麻が変わるのを目撃した。

 龍麻の長い前髪の間、左目の辺りから真紅の輝きが洩れ出していた。








「うおおッッ!!」

 手四つの構えで腐童の間合いぎりぎりまで接近した醍醐は、腐童がミドルキックを放ってくるのに合わせて猛然とタックルを仕掛けた。肩口に丸太を叩き付けるような衝撃を受けた醍醐であったが、腐童の片足に組み付く事に成功する。

「離すな醍醐!」

 木刀を大上段に振りかぶり、京一が腐童の右側面から、雨紋が左側面から突っ込む。床を蹴り、全体重を乗せた京一の諸手上段斬りが腐童の側頭部に半ばまでめり込み、雨紋の水月突きで槍が柄まで食い込む。

 しかし――

「ッッ!!」

 京一と雨紋の攻撃を無視して、腐童の肘が醍醐の背を襲った。足元が定まらないとは言え、常人の筋肉八人分の筋力である。腕だけの力だというのに、車にでも撥ねられたような衝撃を受けて醍醐は口から血を吐いた。単純な物理衝撃だけで《気》の防御が打ち破られる。

「おのれ! 発剄!」

 二重存在だからこそ可能とする、前後から同時に放たれた発剄に、醍醐を首相撲からの膝蹴りの餌食にしていた腐童は僅かに怯む。その隙を突いて京一と雨紋は醍醐の腕を掴んで後退し、それに気付いて追撃しようとする腐童の顔面に《気》の炎をまとった小蒔の矢が突き立ち、追撃を阻む。だが、《力あるもの》がほとんど総がかりで攻撃をしているのに、腐童には決定的なダメージを与えられない。

「クソ! このままじゃジリ貧だぜ!」

「むう! 俺たちだけではまともに戦えんというのか!?」

 いつもは、どんな敵に対しても龍麻がいた。彼が先陣を切りながら、冷静に敵の戦力、能力を見極め、的確な指示を出す。自分達はその指示通りに戦っていれば、かなりの強敵でさえも倒せていたのだ。それがどうだ? 龍麻がいないというだけで、こんなゾンビーにこれほどてこずっている。

「あははははは! 死ね死ね死ね死ねェ! 紗夜は僕のものだ! 僕たち兄妹を邪魔する奴はみんな、みんな死んでしま…ッッッ!!」

 狂気に満ちた死蝋の笑いは、そこで止まった。

 今まさに京一を、紫暮を打ちのめさんとしていた腐童が、拳を振り上げた姿勢のまま止まった。

「――ッッ!?」

 小蒔が、藤咲が、裏密が振り返り、次いで醍醐、雨紋、最後に、腐童を目の前にした京一と紫暮が振り返った。

「たつ…ま…?」

 葵が、震える声で目の前に立つ男の名を呼ぶ。仲間たちのリーダー、真神の鬼軍曹とあだ名される男の名を。

 しかし、それは本当に緋勇龍麻であったか? 

 断じて違う。誰もがそう思った。龍麻はこんな冷たい殺気を放ちはしない。表情に乏しい彼だが、こんな冷たい仮面のような無表情ではない。

 だが、その男は緋勇龍麻であった。少なくとも、外見だけは。中身だけが、そっくり別の何かに入れ替わってしまった。

 その男は、口の中で何かを呟く。恐ろしく早口。それも、英語で。もし誰かがそれを聞き取れたなら、それはこう言っていた。



 ――《ノル・アドレナリン、アルファライン超過により戦闘起動許可発令》

 ――《戦闘起動状況レベルA確認》

 ――《目前敵の完全沈黙まで第一、第二、第三封印暗示解除》

 ――《目標選定終了。アクセス! レッドキャップス・ナンバーナイン!》



 ゴオ! と風が鳴った。

 超高速移動物体が移動したことにより、気圧変化がもたらされた結果であった。次の瞬間、緑色の巨体が吹き飛んで壁に叩き付けられる。

「龍麻…!!」

 今放ったのは突きか蹴りか? それさえも判らぬ龍麻のスピードであった。ダン! と床を踏み締め、すっと立ち上がると、床から…大地から伝わった気がスパークとなって龍麻の身体を駆け上っていった。ゆっくりと振り返る顔の中には、真紅の光点…!

「緋勇龍麻…! お前が…お前がすべての元凶だ…! 僕たちの前から消え失せろ! 殺人機械め!」

 京一たち、すべての仲間の硬直が、その一言によって破られた。決して触れてはならぬ絶対的禁忌。それを破られたことによる怒りだった。

 しかし死蝋はもはや京一たちの存在など無視して、腐童と残りのゾンビーをすべて龍麻一人に差し向けた。

「オロロロアアアッ!」

 死蝋を守っていただけにより完成品に近いものか、若者のゾンビーが床を蹴って龍麻に踊りかかる。練度は高くないが、無意識下の抑制を離れたゾンビーの怪力がそれを補う飛び蹴りが龍麻を襲う。

「―――ッッ!!」

 龍麻が動いた。そう思った瞬間、凄絶と言うにもほどがある後ろ回し蹴りが若者のゾンビを撃墜し、壁に叩きつけるや瞬時に分解せしめた。

「ゾンビーを…一撃で…!」

「強ェ…!」

 自分たちがあれほどてこずったゾンビーを、ただの一撃で消滅させた龍麻に、京一たちの胸に彼に対する畏怖に加え、恐怖のひと捌けが走り抜けた。全身をぶるっと震わせ、彼に対して感じた恐怖をふるい落とす間に、龍麻はゾンビーの群れに呑み込まれた。

 拳が、脚が、爪が、牙が唸る。全部が、格闘技経験者の動きだった。

 その中を、影が走った。

 影から拳が飛んだ…かに見えた。そう思った時にはゾンビーの頭部が消し飛び、腹に背中まで抜ける大穴が空いていた。次の瞬間、ゾンビーが爆発さながら塵を撒き散らして分解される。

 茶髪のゾンビーが刺だらけのグローブをはめた拳で殴りかかる。

 その前に、龍麻の拳がゾンビーの肩口をえぐっていた。殴りかかる初動を先読みするのは龍麻の得意技だが、今の龍麻はそれ以上に速い上に、手刀の威力も半端ではなかった。茶髪ゾンビーの腕は肩口から切断されてしまったのだ。

「ヌオオアアッッ!!」

 痛みを感じる訳ではあるまいが、茶髪ゾンビーが吠える。その顔面を龍麻の拳が打ち抜いた。古武術独特の拳の形…空手で言うところの竜頭拳が、凄まじ過ぎるスピードゆえに頭蓋骨を粉砕させることなく貫いてしまったのだ。拳を引き抜いた龍麻は指に絡みついた視神経を振り捨て、頭に大穴を空けられてもまだ立っているゾンビーを蹴り倒す。そこに新たなゾンビーが掴みかかってきたのだが、僅か一歩横滑りするだけでそいつに密着した龍麻は、そいつの喉首を掴み、強靭な握力で喉笛を頚椎ごと毟り取った。神経系統を破壊されて後ろによろめくゾンビーを無視して、日本刀で斬りかかってきた奴の顔面にたった今毟り取った肉片を叩き付ける。視覚を潰されたゾンビーは見当違いの方向に刀を振り下ろし、その瞬間に刀を奪われ、あまつさえ己の刀で縦横無尽に分断された。とどめに龍麻は刀を逆手に構え、足元でぐるると唸る生首に突き立てた。

「龍麻…!」

「龍麻サン…!」

 敵の特性を見抜いた、極限まで研ぎ澄まされた、速やかにして確実なる殺戮劇。だが龍麻らしからぬ残虐さに仲間たちの声がかかるが、彼は肩でそれを断ち切った。目に見えているのは敵のみなのだ。

「何なんだ!? どうしたってんだよ! 龍麻サン!」

 自分たちの事などまるで眼中にないような龍麻の行動に、たまらず雨紋が飛び出そうとする。それをかろうじて押しとどめたのは京一であった。

「よせ! 龍麻に近づくな!」

「な、何だよ、京一! 龍麻サンだけじゃなくてアンタまでどうかしちまったのか!?」

「うるせえ! 今の龍麻に近づくんじゃねえ! 殺されるぞ!」

 言葉の内容もさることながら、それを京一が口にしたということで全員がびくっと緊張した。

「あれは龍麻じゃない…! 奴のゴースト…レッドキャップス・ナンバー9だ…!」

 うっと呻いたのは醍醐である。次いで、葵、小蒔、藤咲、高見沢も、京一の考えが解ったのかみるみる顔面蒼白になる。

 今の龍麻の顔…完璧な無表情に加え、目の前の敵を正しく認識しているかどうか判らぬまま、殺戮と破壊を繰り返す殺人マシーンの顔。それは、かつて夢の世界で戦ったレッドキャップス・ナンバー14と同じ顔であった。

 そして、京一と醍醐、二人の記憶が、十日ほど前の旧校舎に飛ぶ。あれは確か、戦闘中に偶然気付いた、互いの気の相乗効果を利用する合わせ技の実験の時だった。






 きっかけは醍醐の何気ない質問だった。地下三〇階の《主》を龍麻がパイソンで仕留めたのを見て、醍醐はこう言ったのだ。

 《なあ、龍麻。お前は素手でも十分過ぎるほど強いのに、どうして銃にこだわるんだ?》

 《自分の装備、能力を有効に利用することに何か問題があるか?》

 《そういう意味ではないが、今の相手ならば銃など使わなくても倒せるのではないかと思ったのだが》

 《結果は変わらん》

 《いや、つまりだな…》

 《よせよせ、タイショー。この鬼軍曹殿にそんな熱血パターンが判る筈ねえだろう?》

 《しかし、強くなるためにはやはり肉体を駆使して戦わなければ意味がないんじゃないのか? 無論、龍麻が素手でも強いことは十分承知しているが…》

 《…お前の言わんとしている事は判る。だがお前の論理においては、俺はそれほど強くはない。》

 《――!?》

 《醍醐、お前は以前言っていたな。「自分を見失わないだけの強さが欲しい」と。それは、俺とて同じなのだ》

 《なんだって!?》

 《俺にとっては《力》も銃やナイフと同じ道具に過ぎん。しかしこの《力》を俺は完璧に制御できていない。銃は目的に合わせて弾丸を選べばいいが、俺の《力》は時として俺の想像以上の威力を生む。《雪蓮掌》や《巫炎》は特にその傾向が強い。それは二二口径を一発で始末できるネズミを退治するのに、戦車砲を撃ち込むようなものだ。しかも、いつ暴発するか判らんときている》

 《…言ってることがよく判らんのだが?》

 《…俺の中にはゴーストがいる。レッドキャップス・ナンバー9だ。起動は《少佐》のみが行えたが、肉体的、精神的に強度のストレスを受けた際に自己保存機能として起動するようにもプログラムされている。残念ながら、俺に施されている深層催眠暗示に関する資料は失われ、現在施してある対抗催眠も頼りにならぬ状態だ》

 《つまり、マジでやばい状況になったら、その…昔に戻っちまうって事か? そうなったらどうなるんだ?》

 《敵と認識したものを完全に殲滅するまで止まらなくなる。僅かでも敵対行動を取った者に対しては敵味方の区別はない。その時の俺は完全な殺戮機械キリング・マシーンだ》

 《……》

 《いかに強力な武器と言えども、暴発の可能性が高い武器など俺は使わん。完全制御まで時間はかかるかも知れんが、今は安全を第一に考えるべきだ。無理をしてナンバー9を起動させてしまっては本末転倒だからな》

 《じゃあ、もし、もしもだぜ? お前がそういう状態になっちまったら、俺たちはどうすりゃいい?》

 《それは、実に簡単なことだ》

 《何だ? 言ってくれ》

 《――逃げろ。全力で》






 まさかこれほど早く、《その時》が来ようとは!? 

 しかし、だからと言って素直に逃げる訳にはいかない。自分たちは龍麻を助けるためにここに来たのだ。しかしこの状況下、自分たちに何ができる!? 

「オオオオオォォォォォゥゥゥゥッッ!!」

 痛みも恐怖も感じない腐童は、仲間のゾンビーを跳ね飛ばしながら龍麻に突っかけた。

 唸り飛ぶワンツー! そして、ローキック! この巨体にして、京一たちにさえ定かに捉えられぬほどのスピードでパンチとキックを雨あられと繰り出す。呼吸も体力も関係ないため、ラッシュを休むこともない。

 だが相手は殺戮機械。レッドキャップス・ナンバー9だった。

 立ち技最強とさえ言われるムエタイの猛攻を、龍麻は冷徹に計算され尽くした動きでかすらせもしなかった。拳や足を受けることもない。腐童の猛攻を完璧に見切っている。それでいて、余裕を見せている訳ではなかった。狙いはただ一つ。自らの損耗は最大限に抑え、攻撃時には確実に相手を抹殺できる技を、最良のポイントに、最速で叩き込む瞬間のみを狙っているのだった。すべて、計算づくで。

 業を煮やすという概念がゾンビーにあるのか不明だが、腐童は突如戦法を変え、龍麻を首相撲に捕らえた。掴んでからの膝蹴りならば確実に当たる。そして龍麻には、醍醐ほどの耐久度はない。

「龍麻!」

 その瞬間、龍麻が仕掛けた。

 ストロークの短いキックが腐童の膝を真正面から捕らえ、分厚い筋肉に包まれた膝をたやすくへし折る。さすがに身体を支えきれずに龍麻に体重を預ける形になった腐童の腕…肘関節に、下から振り上がった龍麻の《掌打》が襲い掛かる。今まで《力あるもの》の総攻撃を跳ね返したのが信じられなくなるほどのあっけなさで、腐童の両腕がへし折れた。

 いくら肉体を強靭に鍛え上げ、打撃に耐えうる筋肉を作り上げても、身体を動かす仕組みがある以上、間接は絶対の急所だ。それはゾンビーである腐童にも当てはまった。龍麻の軍隊格闘術の前には、腐童も巨体だけが取り柄の木偶の棒であった。

「グルルオオオォォッッ!!」

 折れた膝を床に付き、腐童はなおも龍麻に掴みかかろうとする。その水月に龍麻の前蹴りが突き刺さり、そこを踏み台にして龍麻が跳んだ。《龍星脚》! 二の足が腐童の顎を蹴り上げ、一抱えもありそうな腐童の首がへし折れて真後ろを向く。そして龍麻は腐童の肩を蹴り、さらに高みを目指して跳ぶ。空中で身をひねり、天井を足場にして、両掌に気を溜め――

 その瞬間、ただでさえ巨大な腐童の肉体が倍以上も膨れ上がり、内側から爆発四散した。

 これもすべて計算づくであったのか、首をへし折られて開いた腐童の大口に叩き込まれたのは龍麻の《円空破》であった。何人分もの筋肉をつなぎ合わせた腐童の肉体は神経系統もその数だけ持っているため、完全抹殺するためには身体ごと吹き飛ばすしかない。そして外側が筋肉の鎧であるなら、残る手段は内側から破壊することのみ――

「キャアアッッ!!」

「うわあっっ!!」

 激しく飛び散った腐童の肉片と血飛沫を浴び、仲間たちが悲鳴を上げるのを、龍麻は意にも介さなかった。残る敵は死蝋ただ一人。彼を殲滅するまで、龍麻は元に戻らない。

「腐童…腐童が…!」

 自ら最高傑作と自負する腐童を文字通り完膚なきまでに叩き潰され、この狂気の科学者もさすがに全身でガタガタと震えていた。手に持つ瀟洒な造りの剣も、もはや用を成さないほどにカタカタと鳴っている。

 だが、それこそが狂った科学者の本分なのか、死蝋は突然全身を震わせながら笑い始めた。

「クククク…・素晴らしい! 素晴らしいぞ緋勇龍麻! 君こそまさに最高の素材! 人類の未来に捧げる最高の生贄! くくく、そうでなくては! そう来なくては僕の研究は完成し得ない!」

「ヤロウ…この期に及んで何を…!」

 毒づいた京一の目に、死蝋の手に握られた太い注射器が映った。龍麻も何か感じたのだろう。立ち止まる。

「ククク…君の血液から作り出した、僕の真の最高傑作! 今僕は、人類の未来となる!」

 死蝋の狂気と恍惚に満ちた表情のおぞましさ。この場の誰もが感じた。それを使わせてはならないと。

「小蒔! 裏密! ヤツを止めろ!!」

「うっ、うん!!」

「止めるわ!」

 素早く矢を番える小蒔と、珍しくはっきりと言い抜いて術を発動する裏密。しかし、どちらも僅かに遅れた。小蒔の矢が肩に刺さったのも、床から生えた亡者の手が足を掴んだのも、死蝋が注射器を首筋に当てた後であったのだ。

「……ッッ!」

 誰もが息を呑み、つかの間訪れた沈黙。その数瞬後のことであった。突如死蝋がすさまじい悲鳴を上げ、床で激しく痙攣し始めた。凄まじいハートアタックによる死の舞踏ダンス・マキャブルだ。全身の肉という肉が飛び散ってもおかしくないような狂態の果てに、パタリ、と手が床に落ちた。

 しかし――

「…………くく…くはは…・ぐわはははははっっ!!」

 けたたましい笑い声を上げ、死蝋が跳ね起きた。

「なにィッ!!」

 背こそ高いが、肉体的には貧相と言わざるを得ない死蝋の腕の一振りで、仲間内で一番の巨体を誇る紫暮が弾き飛ばされた。それがどれほど強烈なものであったか、紫暮の二重存在が消えてしまった事でも知れる。紫暮はそのまま昏倒し、ピクピクと身体を痙攣させた。

「ククク…解る…解るぞ! 力が溢れて来るのが解る! 緋勇龍麻! 君はこんな力を独り占めしていたのか! なんて卑劣な男だ、君は!」

「このヤロウ! なに抜かしやがる!」

 裏密の術で文字通り足止めを食っている今、先手必勝とばかりに雨紋が水月突きを繰り出す。雨紋の槍には必殺の意思がこもっていた。

 それが、止められようとは!? 

 槍の穂先は死蝋の水月の手前で、彼の片手によって掴み取られていたのだ。しかも、力を込めているようには見えないのに、雨紋が渾身の力を振り絞っても槍はびくともしなかった。

「お前たち劣等種ごときが、この僕に傷一つでもつけられると思ったかい…?」

「ッッ!」

 槍を握った死蝋の腕がじっと膨れ上がり、白衣が張り裂ける。死蝋の肉体そのものが巨大化しているのだ。腐童よりも巨大に、生物的整合を保ったまま、美しいとさえ言える筋肉美を誇る巨人へと変貌を遂げる。

 危険だ! それもとてつもなく。龍麻より、強い!? 

「雨紋君! 逃げて! ――精霊よ!!」

「ッガアアッッ!!」

 雨紋がその場を飛びのこうとするのと、葵の防御術が発動するのと、死蝋が巨大化した手のひらから《気》を放射するのと、ほとんど同時だった。爆発に等しい《気》の衝撃を受けて雨紋が吹っ飛ばされるのを、辛うじて醍醐が受け止めるが。その醍醐はおろか、彼の傍にいた京一も《気》の余波だけで叩き伏せられた。

「――今のは龍麻の《螺旋掌》!? いや、ただ《気》を放出しただけか…!」

 雨紋は完全に白目を剥いている。技そのものは龍麻の広範囲放射型発剄――《螺旋掌》に似ているが、死蝋のそれは膨大な《気》を叩き付けるだけの、技と呼べるような代物ではない。しかし威力は実に《螺旋掌》の三倍強! 葵の防御術がゼロコンマのレベルで遅れていたら、雨紋はこの世から消滅していたに違いない。

「これが《力》だ! 緋勇龍麻! 君はこれだけの《力》を持ちながら、使いこなせていなかったようだねえ。でももう君は不要だ。新しき超人類の手にかかって死ぬことを誇りに思うがいい!」

 死蝋の強烈なパンチが龍麻に向かって飛ぶ。初動を完璧に見切って入り身になり、死蝋に密着した龍麻であったが、発剄を打ち込んだその瞬間、巨大な手に手首を掴まれた。

「!!」

 龍麻の身体が宙に浮く。裂けた脇腹など意にも介さず、死蝋はまるで人形でも扱うかのように龍麻を壁に、天井に叩き付けた。床でバウンドした龍麻に、更に死蝋の蹴りが飛ぶ。今の龍麻をもってしても、一方的な戦いとなった。《柔よく剛を制す》とはよく言われるが、《剛よく柔を断つ》もまた真実だ。今の死蝋の圧倒的な力は、ナンバー9である龍麻の技をも凌いでいた。

 コンピュータや薬品の棚をなぎ倒して床に転がった龍麻は、すぐに立ち上がったものの、今の蹴りで胃でも破れたか、口から粘い血を吐いた。これでまだ無表情というのも恐ろしいが、こうまで戦闘力に差があっては成す術がない。

 一瞬で死蝋が間合いを詰めた。龍麻より速い! 反射的に、それでも的確に死蝋の脇腹…先程作った傷に剄を打ち込もうとする龍麻であったが、それを死蝋に掴み止められた。

「ッッ!!」

 龍麻の左腕がさあっと霜に包まれ、凍り付く。と、見る間に前腕部にひびが入り、ぱっと吹き出した血さえ凝固する。

 これは徒手空拳《陽》の奥義!? まさか、《雪蓮掌》まで!? 

 龍麻は死蝋の肘関節に蹴りを放ち、死蝋から逃れる。瞬時に《気》を送り込み、左腕の凍結を解除した龍麻であったが、左腕のダメージは深刻なものであった。神経がやられたものか、動かないのだ。逆に死蝋の方は、不気味に折れ曲がった腕を一振りしただけで元通りになってしまう。脇腹の傷もみるみる肉が盛り上がり、完全に消失してしまった。

 かなわない…! こんなヤツをどうやって倒す!? 

 戦闘マシン状態にある龍麻はともかく、京一たちの胸には絶望の二文字がチリチリと刻まれつつあった。

「さあ、これで最後だ。ククク…。君を消し潰したら、すぐに仲間も送ってあげるよ。もはやできそこないの魔人どもに用はないからねェ」

 死蝋は両手を掲げ、これまでにない強力な《気》を集中させ始めた。血色に輝くオーラが渦を巻き、スパークを撒き散らす。そのオーラが形成する形は、まるで何かの生物のようであった。

「…醍醐ッ! アレやるぞ!」

 木刀にすがって立ち上がった京一が叫んだ。

「アレ…? アレか? しかしアレはまだ…それに龍麻があの状態では…!」

「他に手があるかッ! 無理でもやるっきゃねえだろ!」

「ぬうう…!」

 京一の言う《アレ》とは、気の相乗効果を利用した合わせ技の事である。敵を中心に三人で正三角形を描く位置に構えた時、気が共鳴して一種の結界状の場を形成、その内部で気を大爆発させるというものだ。しかし発動のさせ方はわかったものの、威力がどの程度まで広がるのか不明である上、危険を少なくするために常に龍麻が発動役をこなしてきた。そしてまだ、実戦で使用したことはない。要するに、自分たち自身にとっても何から何まで未知の技なのだ。

「…迷ってる暇はないぜ、醍醐サン…!」

「雨紋!」

 雨紋は「大丈夫だ」と言うように手を振り、まだ笑っている膝をどやしつけて立ち上がった。

「俺と紫暮サンでヤツの気を逸らす。あんたらはその《アレ》とやらでヤツを仕留めろ…。もう、それしかねえ…!」

「しかし!」

「雨紋の言う通りだぞ、醍醐」

 腹を押さえながら、紫暮も立ち上がる。彼は肋骨をやられて、胸板の一部が変形していた。

「悔しいが、ヤツには一人の力では勝てん。緋勇でも無理かも知れん。だが全員で力を合わせれば何とかなるやも知れぬ」

「…考えてる暇なんてないよッ! 今やらなくてどうするんだいッ!」

 一瞬の逡巡。だが本当に、考えている時間などない。

「醍醐!!」

「…うむ。やるしかないか! ――桜井! 裏密! ありったけの技をヤツに打ち込め! 美里と高見沢は雨紋、紫暮、藤咲に防御術をかけろ! 京一! 回り込め!」

「よっしゃァァッ!!」

「判った! 任せて!」

 全員がボロボロの身体に鞭打って散開する。醍醐はその場に残って小蒔と裏密を死蝋の死角に隠し、京一は手術台やら標本やらを迂回して、死蝋を挟んで醍醐の対角線上に移動する。そして――

「行くぞ雨紋! 藤咲!」

「OK! 紫暮サン! ――でやあああッッ!!」

 太い気合を上げて紫暮が突っ込み、死角となるその背後に雨紋、藤咲が続く。龍麻と対峙していた死蝋はそれを最後の悪あがきと受け取り、余裕をもってパンチを飛ばした。



 ――要はタイミングなのだ。これなくして戦術は成り立たない――



 旧校舎における実戦訓練で、龍麻がくどいくらいに繰り返していた言葉がよみがえる。



 ――全体で戦う時には、特に重要だ。たとえゼロコンマのズレであっても、そのズレがやがては大きなロスを生み、致命的な作戦ミスを引き起こす。そのズレをなくすためにも己を磨け。仲間を信頼しろ。仲間の信頼に応えろ。自分が全体の一部であり、全体を自分だと認識しろ。軍団全部が一人の人間であるがごとく機能すれば、倒せぬ敵は存在せん。――



 タイミングの初手を切る紫暮は、ぎりぎりまで死蝋の拳を引き付け、二重存在を発動させて左右に分かれた。文字通りの分身がまったく同時に左右に分かれたため、死蝋の神経がどちらを追うべきかゼロコンマのレベルで迷う。

「――食らいやがれッ!! 《雷神突き》ィィィッッ!!」

 それこそが、雨紋に必要な瞬間であった。彼は渾身の力を込めて基本中の基本、中段の水月突きに彼自身の《力》、雷撃を込めて死蝋の腹に叩き込んだ。

「ムオッ! 貴様ッ!」

 死蝋は雨紋に拳を振り上げ――そこに藤咲の鞭が絡み付いてその腕を束の間封じる。攻撃も防御も封じられた刹那、左右同時に紫暮の《掌底・発剄》が、小蒔の火矢…《火龍》が、裏密の呼び出した亡者が襲い掛かった。完全にタイミングを一致させた同時加重攻撃に、さすがの死蝋も怯む。その瞬間こそ、最大最後のチャンス――!!

「行くぞ!!」

「よっしゃ!!」



 ――龍麻! 動くなよッ!!――



『唸れ! 王冠のチャクラ!! ――破ァァァァッッ!!』

 死蝋の硬直に隙を見た龍麻が動こうとする寸前、龍麻、京一、醍醐による方陣が完成。共鳴した気が三人の構成する三角錐状の力場内を乱反射し、エネルギーの飽和状態をナノセコンドで達成。通常空間内におけるエネルギーの許容限界を突破、超超小型の高次元エネルギーを形成させるに至った。そして高次元エネルギーとこの次元の物質が反応して起こった爆発は、京一たちには熱を伴わない光の爆発として捉えられた。

「グオオオオオォォッッ!!!」

「うわああっっ!!」

「キャアアアッッ!!」

 捨て身で臨んだ雨紋、紫暮はもちろん、技の発動者となった龍麻、京一、醍醐も高次元エネルギーの爆発に巻き込まれた。しかし光が納まった数秒後、爆発によるダメージがないことに驚いている自分たちに気が付く。

「ウゴゴ…ルガアアァァッッ…!!!」

 ただ一人、死蝋だけは違った。彼の全身は内側から煮え立ち、細胞を焼き潰されていた。先刻まで吹き上がっていた血色のオーラは、今や全身の毛穴という毛穴から吹き出す蒸気のごとき血潮と変わり、溶解した筋肉が床に流れ落ちる。技を発動した当人にしても理解不能な事だが、高次元エネルギーの爆発は破壊する相手を選択したかのようであった。

 次の瞬間、龍麻が矢のように動いた。

 「なッ! 龍麻!!」

 怪我をしていても正確無比な《龍星脚》! 龍麻の爪先は死蝋の腹筋を突き破り、顎への蹴りは頚椎を叩き折った。腐童を仕留めた時と同じく宙へと跳び、空中から掌法の奥義、《螺旋掌》を浴びせて死蝋を床に叩き伏せた。

 勝った…! 誰もがそう思った。

 だが、龍麻はそうではなかった。

 一切の表情変化を見せぬまま、龍麻は死蝋の髪を掴んで引き起こし、三メートルに届く巨体を壁に叩きつけた。ただでさえ皮膚が焼け崩れている死蝋である。血とも膿とも付かぬものが激しく飛び散る。誰の目にも戦闘不能は明らかなのに、龍麻は突っかけた。

「た…龍麻…!」

「ひー…ちゃん…!」

 その光景を、この世の誰が正視できるだろうか。既に血だらけの肉塊に等しい死蝋に向けて容赦なく突きと蹴りを浴びせる緋勇龍麻を。死蝋は成す術もなく打たれ、蹴られ、肉を潰され、骨を砕かれた。そして真に戦慄すべき事に、目を覆うばかりの極めて残虐な行為にも関わらず、そういう行為につき物の怒りや憎しみ、あるいは殺戮の愉悦などは龍麻にはなかった。冷酷、というのも当たらない。それらすべてが人間の有する感情から生じるものだからだ。今の龍麻には殺意すらなかった。目の前の標的をプログラム通りに完全破壊する、機械の意思があるだけであった。

「やめろ! 龍麻! もう充分だ!」

 もはやこれ以上は見ていられない。そうする事が危険だと、一番良く判っている筈だった京一が龍麻に組み付いた。

「――ッッ!!」

 龍麻は意に介さない。無造作に京一を引きずって、歩みを止めない。

「いかん! 龍麻! 戻ってくれ!」

 醍醐が龍麻を羽交い絞めにすると、さすがに歩みが止まった。しかしその瞬間、京一と醍醐の背筋をかつて味わったことのない戦慄が走った。

「ッッ!!!」

「うおおっっ!!」

 軽量の京一は言うに及ばず、醍醐の巨体までが宙に浮き、二人は猛烈な勢いで弾き飛ばされた。龍麻は手足を使用せず、体を揺すっただけで剄を放ったのであった。二人が死ななかったのは、彼らの妨害行動のレベルが龍麻の殺人許可レベルに達していなかったためであろう。――単純な凶暴化とは訳が違う。それ故に、力ずくでは止められない!

 しかし、それを見て雨紋が、紫暮までが飛び出す。

「正気に戻ってくれ! 龍麻サン!!」

「もういいのだ! もう終ったのだ!!」

 雨紋はともかく、紫暮は二人がかりである。今度こそ止められるかに見えた龍麻であったが、今度は腰を僅かに落としただけで三人を…正確には二人を腰砕けにさせた。古武道の合気だ。《気》に敏感な者ほど、龍麻の《気》の圧力に押さえつけられてしまう。

「紗夜…!」

 その時、血泡をゴボゴボと吐き出しながら、死蝋が妹の名を呼んだ。

「どこ…どこにいるんだ、紗夜ォ…僕を…僕を一人にしないでくれよぅ…」

「……」

 それを聞いた龍麻が、再び死蝋に歩み寄る。声を出すという事は、まだ死んでいないという事。レッドキャップスの任務は、テロリストの殲滅。だが今の死蝋は、幼い子供のような泣き声を上げる。

「パパ…ママ…! 恐いよ…みんなが…みんなが僕と紗夜を殺しに来るよ…! 紗夜が…紗夜が…! アイツらに…アイツらに…!」

「――ッッ!」

 それは、紗夜の独白にあった事ではないか? するとこの男がここまで狂ったのは…!

「駄目だァッ! 龍麻ァッッ!!」

「やめろ! 龍麻サン!!」

「殺してはいかん! 外道に堕ちては!!」

「やめてくれ! お前はそんな男じゃない筈だ!!」

 しかし、再び走り寄った京一が、醍醐が、雨紋も紫暮もまとめて跳ね飛ばされた。見かねた葵や小蒔、藤咲も裏密も龍麻に駆け寄り、すがりつく。

「やめて! 龍麻!」

「ひーちゃん! 正気に戻ってよ!」

「こんなの、アンタらしくないよ!」

 口々に叫ぶ女性陣であったが、男性陣以上にやすやすと引きずられてしまう。龍麻が右手に気を集中し始めると、その圧力だけで葵たちは押しのけられてしまった。

 そして龍麻は、とどめの一撃を加えんと拳を振り上げた。技は――《螺旋掌》。

「龍麻さん…」

 今まさに拳が放たれる寸前、その拳をそっと押さえる手があった。

「……」

 何が戦闘マシンを躊躇させたのかは判らない。だが確かに、龍麻は動きを止めて首を巡らせた。腕を掴んでいるのは、胸元を朱で染め上げている紗夜であった。

「比良坂さん…!」

 思わず、誰もが高見沢を振り返った。彼女の治療が成功したからこそ、紗夜が起き上がったのだと思ったのだ。

 しかし、涙をいっぱいに溜めた高見沢は口元を覆い、信じられないというように震える声で言った。

「そんな、紗夜ちゃん…もう…動ける筈ないのに…!」

 しかし紗夜は、龍麻にもたれるようにしてその拳を下ろさせた。

「もう…いいんですよ…。もう…誰も殺される事はないんですよ…。だから…もう…殺さなくて…いいんですよ…」

 紗夜の声は、尻すぼまりに消える。高見沢の見立てでは、声を出すことさえ不可能な筈だったのだ。



 ――コロサナクテイイ



 ――『いいんだぜ、ボウヤ。もう…殺さなくてもよォ。』



 龍麻の表情が動いた。赤い輝きが明滅し、そして、唇が…。

「さ…よ…?」

 小さく、しかしはっきりと龍麻は口にした。

「龍麻! 戻ったのね!?」

 葵が叫ぶと、龍麻が不思議そうに周囲を見回す。

「お前たち…俺は…なにを…」

 確かに、龍麻は戻った。戦闘マシンから、人間に。そう確信し、皆が喜びの声を上げようとした時であった。

「龍麻さん!」

 紗夜が叫び、彼を突き飛ばす。次の瞬間、彼女の胸に緩やかに湾曲した刃が突き立った。すでに大量の血液を消失していた紗夜はそのまま人形のように倒れた。

「紗夜…!」

 龍麻の、驚愕の呻きが地を這う。それに重なって、憎々しげに吐き捨てる声が響いた。それと合わせ、突如として一同の周囲が炎に包まれる。

「ケッ、最後まで使えねえ奴らだぜ」

 ここにいる全員に気取られずに、いったいいつからそこにいたというのか!? 声の主は、真紅の忍び装束に身を包んだ、鬼の面を付けた大男であった。

「何だ、テメェはァァッ!!」

 目の前で一人の少女を殺され、怒りにぶちキレた京一が木刀を振り上げる。鬼面の男は、紗夜を殺した凶器である巨大な鉤爪をカチャカチャと鳴らして笑った。

「鬼道五人衆が一人…我が名は《炎角》」

「鬼道五人衆? するとお前が凶津の言っていた鬼道衆か!」

 醍醐の詰問に、炎角と名乗る男は一同を見回し、そっくり返って笑い始めた。

「クックック…。貴様らが風角の言っていた小僧どもか。特にそこのお前、飛び道具を使ったとは言え風角に傷を負わせるなどたいした奴よ。まったく面白え。これも――えにしってやつか」

 どのような手段によるものか、男の笑いによって炎が大きくなる。これも《力》か!? さほど広くない地下室にいくつも火柱が立ち上り、まるで生き物のようにうねり、這い、触れるものすべてを発火させる。

「この東京はまもなく俺たちの手に落ちるぜ。そうなりゃここは阿鼻叫喚の地獄と化す。今日の縁が真なら、再び合見えることもあるだろうよ。それまでせいぜい長生きする…」

「京一!!」

 炎角の長広舌を遮り、龍麻の鋭い叱咤が跳ぶ。《背中を護る》と宣言した者…京一は瞬時にその意を悟り、ウッズマンを龍麻に向かって放った。龍麻はウッズマンを掴むや、初弾の装填を確認するまでもなく口でスライドを引き、発砲した。この間、実に一・五秒!



 ――TAN!



「ウオッ!!」

 鬼面で22LRが弾かれる。しかし龍麻は炎角が身を翻すのも見越して、立て続けに五発の弾丸を同じ場所に叩き込んだ。鬼面の半顔が割れ、その下から醜く焼け崩れた男の顔が覗く。

「小僧ォッ!!」

 撃たれながらも炎角が右手を上げる。紗夜を貫いた刃が龍麻を襲い、しかしそれは龍麻の頬を浅く裂くのみでかわされて背後の壁に突き刺さった。逆に龍麻の弾丸が炎角の鉤爪を撃ち飛ばす。

「チイイイイィッッッ!!」

 炎角は吠え、左手を龍麻に向けた。

 首筋に走る戦慄! 龍麻の脳裏に走る、強烈な赤のイメージ! それを感じた瞬間、龍麻は炎角の右肩を撃った。

 轟く大音響! 天井に大穴が空き、崩れ落ちてくる。炎角は左腕に旧式の大砲…大筒を仕込んでいたのだった。

「崩れるぞ!!」

 痺れる鼓膜にも届くよう、醍醐が大声を上げる。それに混じって、炎角の捨て台詞も聞こえた。

「おのれ小僧! この借りは倍にして返すぜ!!」

 今の砲撃だけでなく、高熱で溶け始めた鉄骨が歪んで建物全体が崩れ始める。脱出しなければ生き埋めか焼死か、窒息死だ。

「総員脱出! 京一! 雨紋! 先導しろ! ――紗夜はッ!?」

 血を吐きながらも指示を飛ばした龍麻は、仲間たちの中に紗夜の姿がないことに気付いた。そして振り返った先の炎…死蝋が倒れている、最も炎の勢いが強い場所にそっとたたずむ少女を視認した。

「比良坂さん! 早くこっちに!」

 小蒔が叫ぶが、紗夜は儚げに笑って首を横に振った。

「私たちの犯した罪は、こんな事くらいで償えるものではないと判っています…。皆さん…ありがとうございました。龍麻さん…私、もっと早くあなたに会いたかった…」

「お前の行為は容認できない! 紗夜! 早く来い!」

 龍麻たちのいる側からは、炎の勢いが強すぎて紗夜のもとには行けない。仲間たち…京一たちでさえ初めて聞く、龍麻の悲痛な叫び声。今の彼は先程まで見せていた、冷徹な機械ではなかった。しかし、彼を人間に戻した少女は、炎の中で兄を抱き起こす。

「ふざけるんじゃないよ! 罪を償いたいなら生きるんだよ! 龍麻に会ったアンタなら判るだろ!」

 自分たちの力がどれほどのものか知らぬまま六人も殺害し、龍麻たちと敵対し、その果てに龍麻の仲間に迎えられた藤咲の事は、紗夜も知っていた。そして、思ったのだ。自分も、彼女のようになりたいと。

 しかし――

「…ごめんなさい。私は…兄さんを置いてはいけません…」

「俺は約束を果たしていない! あきらめるな! 死ぬな! 紗夜!!」

 しかし、龍麻には判っていたかも知れない。戦場で多くの死を見続けてきた彼だからこそ、死に行く者の覚悟は直感で判ってしまう。今、彼女が言葉を遺せる事こそ奇跡だ。

「本当に…ごめんなさい…」

 紗夜は兄の頭を膝に乗せ、力尽きたかのように兄に覆い被さった。

「ごめんね、兄さん…。でもこれからは…ずっと…一緒だから…」

 そんな言葉で片付けられるものではあるまいが、運命に翻弄された兄妹を、炎に包まれた柱が、崩れた天井が飲み込む。炎が更に膨れ上がり、爆発を引き起こす。

「紗夜ォッ!!」

「駄目だ! 龍麻ッ!!」

 自らの身も省みずに炎に飛び込もうとする龍麻を、今度こそ全力で京一が、醍醐が止める。

「頼む龍麻! 聞き分けてくれ!!」

「…ッッ!!」

 自分の邪魔をする京一たちをはったと睨む龍麻。しかしそこには自分を見つめる仲間たちの視線。自分を救出に来た、仲間たち。そして自分は、彼らの命を預かる指揮官…。

「………脱出する!」

 文字通り、血を吐く思いで龍麻は告げた。――初めての経験であった。

 そして彼は京一と雨紋を先導させ、醍醐、紫暮に女性陣をサポートさせつつ、自らは殿を務めて走り出した。





 辛うじて安全と思える場所まで逃げ切り、京一たちは炎上し、爆発を続ける工場を呆然と見つめた。

 あの地下室にあった薬剤や燃料だけでは、これほどの爆発は起きまい。あの炎角が何か仕掛けたのだと容易に知れた。そして比良坂紗夜と死蝋を操っていたのも、炎角の仲間、鬼道衆であるということも。

「比良坂さん…なんで死んじゃわなきゃいけなかったの…」

 小蒔が地面にへたり込み、嗚咽を上げる。彼女を慰める葵も口元を覆い、藤咲は泣きじゃくる高見沢を胸に抱いてやりながら、彼女自身も唇をきつく噛み締めて泣いていた。

「何なんだよ…! あいつら…一体何なんだよッ!」

 目の前で、知らぬ仲でもなかった紗夜とその兄を殺され、しかしそれを黙って見ている事しかできなかった自分への憤りと無力感から、京一は木刀を地面に叩きつけて叫ぶ。

「今回ばかりは俺サマもぶちキレたぜ…! 人間を虫けらみたいに殺しやがって…!」

 折れた槍を手に、涙が溢れそうになるのを必死でこらえる雨紋。紫暮も、轟然と天を睨んで己の無力を噛み締める。

「…この東京を地獄に変えると言っていた…。鬼道衆…一体あいつらは、何を企んでいるんだ…」

 かつての親友が警告した事とは言え、半信半疑であった《鬼道衆》なるものの存在。それが遂に目の前に現れた。そして彼らは、この東京を壊滅させると言う。

 激闘の果てに運命に翻弄された少女の命が失われ、そして今また、新たなる敵が姿を見せ、更なる闘いを予感していた一同に、ひどく冷静な声がかけられた。

「…まもなくここにも官憲の手が及ぶ。移動するぞ」

「…ッ龍麻! お前…!」

 紗夜と一番心を通わせ、その死に一番衝撃を感じる筈だった男の発言に、京一が激発する。しかし京一は龍麻に殴りかかろうとして、突然うっと呻いて硬直した。

「龍麻…!」

 葵も、呆然と龍麻を見た。それに合わせるように、全員の目が龍麻の顔に注がれた。

 不意に吹いてきた風が、彼の長い前髪をかき上げる。そして、仲間たちは見た。能面のごとき無表情の頬を流れる、ふた筋の光を。

 龍麻は表情を変えず、拳で頬をぬぐった。

「――煙が目に染みる。涙が止まらない」





 第七話 恋唄 4    完



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