第七話 恋唄 3





 
 三日後、三−C教室――放課後。

「…ひーちゃんってば、今日も来なかったね…」

「ええ…」

 主のいない机を前に、葵と小蒔がそんな事を話していると、そこに京一が割り込んだ。

「家に電話したんだが、留守電のままだったぜ。あいつが連絡抜きで三日も休むなんて、珍しいよな。なあ、醍醐」

 何かがあると、自然に龍麻の席を中心に集まってしまう四人である。当然醍醐も、その輪に加わっていた。

「そうだな…何事もなければ良いが…」

「何事も――って?」

 醍醐の口調に、ふとある事を思い出し、京一が口を尖らせた。

「なんだよ醍醐。まさかお前、凶津が言ってた事、本気にしてるんじゃあるめェな?」

「……」

 醍醐はあいまいな表情を浮かべ、腕組みをするだけだった。彼にとって凶津の言葉は、友としての警告に聞こえたのだ。それが最後の警告になった事は、醍醐もまだ知らない。

「鬼だ鬼道衆だ――って、時代錯誤もはなはだしいぜッ。今がいつだと思ってんだよ。江戸時代じゃねェんだぜ。――バッカバカしい」

「う〜ん…。でも、ボクたちみたいに《力》を持っている人がいるんだから、凶津の言うこともウソだとは決め付けられないよ」

 それなりに的を得た小蒔の言うことに、京一も押し黙る。彼とてその可能性を考えない訳ではないのだ。何しろ凶津は《エビル・ハンド》を《与えられた》と言っていたのだから。

「確かに…時代錯誤な名前ではあるが、その本質はテロリズムだ」

 醍醐が、意を決したように切り出す。

「そして龍麻は、そのテロリズムと闘うために訓練された兵士だ。もし、その鬼道衆とかいう連中と接触があった場合、龍麻はそいつらを敵と認識するかも知れん。もちろん、俺の思い過ごしであれば、それに越した事はないんだが…」

 それから醍醐は、龍麻の家に行ってみないかと提案した。

「そうね…。龍麻は一人暮らしだから、ただの風邪でも大変だろうし…」

「そうだね…。行ってみよう!」

 葵と小蒔が真っ先に賛成の意を示し、京一も頷いた。

「いいアイデアだぜ。この際風邪でヒーコラ言ってる内に鬼軍曹殿を懲らしめておくか」

「もうっ! こんな時に何言ってるんだよ! 京一はッ!」

 とにかく、こうしていても埒が開かないため、全員で龍麻の家に行く事が決まり、葵は職員室で龍麻の住所を聞き、校門前で皆と合流した。一人欠けているが真神の名物グループがぞろぞろと歩いているのに気付き、偶然通りがかったマリアが声をかけてきた。

「アラッ、ミンナ、今帰り?」

「はい…」

「今から、皆でひーちゃんの家に行くんです」

「緋勇クンの家に?」

 全員が頷くと、マリアは「そう…」と言って何事か考え込んでしまった。

「先生も、ひーちゃんから何も聞いてないですよね?」

「え!? ええ…。緋勇クンに会ったら、なるべく早く学校に出てくるように伝えて」

「わかりましたッ」

 小蒔が元気に言うと、マリアは相好を崩し、「気をつけてね」の一言を残して校舎に戻って行った。

「マリア先生も、龍麻のことを心配してるようだな」

「マリア先生は優しいから」

「うんうん。それじゃひーちゃんの家にしゅっぱーっつ!」

 四人の心の中には、龍麻を心配する気持ちと同時に、《龍麻に限って》という、絶対的な信仰にも等しい思いがある。自分たちとは根本から異なる、この歳にして完璧な兵士。それでもなお、彼が連絡なしで姿を見せないという状況が、彼らを不安にさせている。そんな心にかかる暗雲を吹き払うべく、小蒔が元気一杯に宣言した時であった。

「あ…あの…。こんにちは…」

 校門の脇でずっと待っていたらしい、少女の声が控えめに響いてきた。

「オーッ、紗夜ちゃんッ」

 かわいい子に目がない京一が真っ先に彼女に歩み寄る。少女は比良坂紗夜であった。

「あっ、どうもです」

「どうしたんだ、こんなところで?」

「あ、あの…緋勇さんのことで…」

「龍麻の?」

 何かが葵の首筋を刺したが、彼女にはまだそれが何なのか判らなかった。

「緋勇クンなら休みだよ。ボクたちこれから、緋勇クンの家にお見舞いに行くところなんだけど…」

 すると紗夜は急に黙り込み、ひどく思いつめた顔になった。何事かと京一が彼女の名を呼ぶと、紗夜は意を決してそれを口にした。

「皆さん! 緋勇さんを助けてください!」

「え…!?」

「場所は、品川区の…」

 あまりに唐突かつ、意外な紗夜の言葉に、全員が面食らい、次に驚愕した。彼女は「龍麻を助けて」と言ったのだ。あの最強の鬼軍曹こと、緋勇龍麻を。

「チョ、チョット待ってよッ。ひーちゃんがどうかしたのッ!?」

 紗夜はそれには応えず、持っていた紙袋を京一に押し付けた。

「詳しい場所はこの中のメモに…。皆さん! 急いでください!」

 そこまで言うと、紗夜はぱっと身を翻して走り去っていった。彼女の言葉の内容が余りにも衝撃的過ぎて呆然としていた四人は、その後姿を見送ることしかできなかった。

「龍麻が…何だと!? 京一! その中には何が入っているんだ!?」

 はっと我に返った京一は、慌てて紙袋の中を探った。中に入っていたのは地図らしきものが書いてあるメモと、妙に重い布の包み。それを開けた途端、全員の顔が強張った。

「それ…龍麻の…!」

「…間違いねェ。龍麻のパイソンだ」

 コルト・コンバット・パイソン・357マグナム――それは龍麻が、必殺を期する時にのみ使用するものであると、京一だけは知っていた。そのパイソンがここにあるということは、龍麻は…。

 京一は素早くシリンダーラッチを引き、シリンダーを振り出した。銃を縦にして、弾丸を取り出す。

「…一発だけ残ってる。しかもこいつはダムダム弾だぜ! 龍麻の奴がこんな弾丸を使ったってことは…!」

 一瞬、最悪の予感が全員の頭を過ぎる。それを打ち払うように京一は頭を振った。

「考えてる時間はねえ! この場所に行くぞ!」

 そう叫びながら、もう京一は走り出していた。

「ちょっと待ってよ京一! もしひーちゃんに危険が迫っているなら、皆も呼んだ方が良いよ!」

「そうだな。人数が多いに越した事はない!」

 京一を追って走りつつ、葵、醍醐、小蒔はそれぞれ、雨紋、高見沢、裏密、藤咲、紫暮に連絡を入れた。その誰もが龍麻の緊急事態を真っ先に疑い、それが冗談でないと知るや、矢も盾もたまらず集合に同意した。集結場所は品川駅。彼ら一同にとっては、指揮官抜きで臨まねばならぬ初の総力戦であった。





 ――山中に墜落した乗客二〇〇名を乗せたニューデリー発のインド航空機は、今日二日目も地元の救助隊の懸命な救助活動が行われておりますが、墜落現場が深い密林に覆われているため、依然として救助活動が難航しております。旅客機はほとんど原形を留めておらず、乗客の安否が心配されます。この機に乗り合わせた日本人乗客で、身元が確認されているのは――



 ――今回の任務ミッションは、約三時間前に撃墜されたニューデリー発インド航空機に積まれていた新型細菌兵器を回収する事だ。敵陣営は既に墜落機体の北二〇キロ地点に三個中隊が展開している。総員、可能な限り戦闘は避け、サンプルを回収した後は速やかに撤退。痕跡を残すな。なお、今回の情報提供者比良坂洋一郎博士の生存を確認した場合は状況によりプランA及びBを適用せよ。旅客機の生存者に存在を感知された場合は速やかにこれを抹消せよ。――レッドキャップス中隊、起動! 精神凍結処置開始! 第一、第二、第三拘束具解除! クラスB+J(化学戦+ジャングル戦)装備後、直ちに降下! 任務を遂行せよ! ――



 《ナンバー0より隊長コマンダー目標ターゲットAを確保。カプセル損壊は認められず。目標ターゲットBに対してプランAを実行する》

 《隊長コマンダーよりナンバー0。プランA中止、速やかに撤退せよ。繰り返す。速やかに撤退せよ》

 《ナンバー0了解。――ナンバー0より各員へ。これより脱出シーケンスに移る。ランデブーポイントA。即時撤退せよ》

 《アルファナンバー1了解》

 《アルファナンバー3了解》

 《ブラボーナンバー4,5,7、12了解》

 《……》

 《チャーリーナンバー2,6,8,9、応答しろ》

 《チャーリーナンバー2よりナンバー0。現在敵と交戦中。ランデブーポイントAへの退路を断絶》

 《ナンバー0了解。チャーリー小隊チーム、ランデブーポイントBに変更》

 《チャーリーナンバー2了解》

 《チャーリーナンバー6了解》

 《チャーリーナンバー8了解》

 《……》

 《チャーリーナンバー9、応答しろ》

 《チャーリーナンバー9よりナンバー0。現在座標A−17、B−11。敵歩兵5と交戦中》

 《ナンバー0よりナンバー9。ランデブーポイントCに変更。三〇〇秒後に二〇秒待つ》

 《チャーリーナンバー9、了解》



 ランデブーポイントCまで直線距離にして約四〇〇メートル。途中には炎上中のインド航空機がある。炎は敵のスターライトスコープを無効化するが、こちらも目視される。《彼》は可能な限り身を低くし、下生えの草を蹴散らしながら走った。時折耳元を高速弾の唸りが過ぎていく。敵も精鋭だ。ジャングル戦にも夜間戦闘にも慣れている。

 《彼》は狙撃をかわすため、墜落機体の破片の陰に身を潜めた。後方を確認。追って来る。敵の装備はサイレンサー、スターライトスコープ装備のM−16A2。こちらはH&K・MP5SD6。赤外線ゴーグル使用は同条件だが、向こうは五・五六ミリNATO高速弾で、こちらは九ミリ軍用弾パラベラム。この距離では圧倒的にライフル弾の方が有利だ。一〇メートル間隔のV字フォーメーションのため、ハンドグレネードの効果も薄い。あと、二四〇秒。背後から声が届いたのは、正にそんな時であった。

「お願い。パパとママを助けて」

 《彼》が身を潜めた場所から一〇メートルほど離れた地点で、涙を流しながらすがり付いてくる少女を、同じ生存者と思しき大人たちが邪険に払いのける。それでもなお、服の裾を掴む少女を、頭に軽傷を負った男が激しく殴りつける。



「こんな時に、誰が他人の面倒なんか見るか!」

「運のない奴は死ぬしかないのさ!」

「誰か、助けて!」

「俺はここだあ!」

「誰か、パパとママを助けて」



 炎上している機体の破片の下に、まだ多数の生存者がいることを《彼》は確認した。そして恐らく、救助が来る前にその大部分が焼け死ぬであろう事も。――しかし《彼》の任務は生存者の救出ではない。

 生存者に発見されてはならない。《彼》は移動を開始した。幸い、敵陣営は互いに牽制し合い、炎上している機体の傍に近付けないようだ。真っ先に動くべきインド陸軍も外交交渉で出撃を遅らされている。ただし公式発表では《墜落》としているものの、既にインド陸軍は旅客機が携帯ミサイル《スティンガー》で《撃墜》された事を知っており、旅客機に高度な機密が乗っていた事も、それを狙って各国特殊部隊が動いている事も知っている。レッドキャップスが降下した時には既に完全武装のヘリ一個大隊が出撃準備を完了していたから、そろそろ機密獲得に乗り出して来る頃だ。

 延焼を免れた機体の破片に身を寄せ、MP5の弾倉を交換。三〇連マガジンは残り二本。追っ手をまくには心もとない。

 その時、《彼》の一〇メートルほど向こうで巨大な炎が膨れ上がった。

 闇を焦がす炎。人の焼けるなんとも言えぬ嫌な臭いと、炎にまかれた際の断末魔――ただ一息分の絶叫。そして――その前で呆然と炎を見つめる少年…。

「パパ…ママ…」

 恐らく、肉親が下敷きになっていたのだろう。そして、その瞬間まで、二人とも生きていたであろう事も。少年の顔には涙が流れ落ち、しかしその表情は感情の凍結を示していた。――肉親が焼けていく様をじっと見つめる目は、ガラス球のようだ。

 しかし《彼》は、別のものを見ていた。

(ターゲットBの抹消を確認。プランA完了コンプリート

 たった今、炎に包まれて焼け死んだ夫婦の片割れは、今回の目標Bである比良坂洋一郎の顔を持っていた。《国境なき医師団》に所属し、伝染病予防に従事していた医学者。彼が、某テロリストが極秘に研究開発していた新型ウイルスの存在に気付いたのは世界にとって幸運だった。テロリストが実験場にしていた村で、ウイルス抗体を身に付けた少女の治療にあたっていた事も。

 しかし、重要なのはウイルスとワクチンのサンプルそのものであり、比良坂洋一郎本人はさして重要ではない。もともと比良坂洋一郎の確保は保険に過ぎず、サンプル回収成功時には機密保持の為にプランA…消去指令が出ていた。サンプル回収成功と同時に撤退命令が出たのは、敵勢力の展開が予想以上に早かったからである。

 ――と、それだけの情報を目に映していた《彼》は、とっさに顔を横に振った。



 ――キュン!



 頬を掠めていく弾丸! 今の炎の照り返しで、見つかった!? 

 素早く身を伏せ、前進を開始する。少年に気付かれる気遣いはない。

 だが、左翼に展開しようとする敵をかわすべく、機体の残骸を回り込んだ《彼》は、残留物資を漁っていた生存者の一群と鉢合わせてしまった。

「な、なんだよ! おい!」

「救助が来たのか? 救助隊なのか!?」

 生存者たちが喚きながら走り寄ってくる。まずい! 敵に位置を知られる!

「な、なんだよ! こいつ、まだ餓鬼じゃねえか!」

「餓鬼が鉄砲なんざ振り回して何やってやがる!」

「あなたどこから来たの!? 救助隊はどこ! さっさと言いなさい!」

 全身を、顔に至るまで対化学戦闘装備で包んでいるが、《彼》の小柄な身体は子供のそれである。生存者達は相手が子供と悟るや嵩にかかり、言葉が通じるかどうか確かめもせず日本語で喚き散らした。《彼》が銃口を彼らに向けようとしたその時、生存者たちの服に赤い光点レッドポイントが点った。《彼》は反射的に地面に身を投げ出す。

「何やってんだ、この餓鬼は!?」

「見ろ! あっち! 救助隊だぞ!」

「助かった! へへっ、やっぱり神様って奴は善人の味方だぜ」

 だが、彼らが歓声を上げて、密林から姿を現した者たちに走り寄っていった時だ。

「――ッッ!!」

 前方を走っていた数人の男女の頭部に、胸に真紅の花が咲き、次の瞬間には全身から血飛沫を吹き上げた。言うまでもなく、その連中は《彼》を追って来た某国特殊部隊の精鋭兵士であった。比良坂博士の打信は世界の諜報組織に流され、アメリカのみならず各国の特殊部隊からテロリストまで、ざっと一〇からの組織がこの件で動いている。そして《目撃者は殺せ》とは、何も《彼》の部隊だけに命令されている訳ではない。このエボラ出血熱にインフルエンザの空気感染能力を付与した細菌兵器には、アメリカ一国でさえ一ヶ月で滅ぼすほどの威力がある。どこの組織が入手したとしても、その存在を秘すのは常識だ。

 血煙を吹き上げる生存者たちの傷から射線を割り出し、《彼》はSD6を三点バーストで連射した。武器を持つ敵の掃討を完了する前に、目撃者の抹殺を図ったのは彼らにとって致命的なミスであった。あるいはスコープを赤外線モードにしたままだったので、走り寄って来る生存者を《彼》とその仲間だと思ったのだろう。

 ワンマガジン三〇発で五人の追っ手を撃ち倒し、《彼》は弾倉を交換、コッキング・ボルトを引いて初弾を装填する。――敵もプロだ。弾丸に胸をえぐられながらも放った一連射が《彼》のマスクの一部と左肩の装甲を撃ち飛ばしていた。その下の黒いジャングルジャケットも張り裂け、剥き出しの二の腕に刻まれた殺戮妖精レッドキャップの刺青が、紅蓮の炎の照り返しを受け、残虐に笑ったかのようだった。――ウイルスの拡散バイオハザードが確認されていた場合、自決命令を実行するケースだ。

 マスクを毟り取り、傷の状態を確認する。高速弾が掠めた衝撃波で額の一部が切れているが、それだけだ。左側なので、血が目に入っても何も問題はない。元々そちらの視力はないのだ。

 腕時計のコンパスを確認し、位置を割り出す。あと一八〇秒。その時、何者かが足首を掴んだ。反射的というのも足りぬ速度で銃口が旋回する。

「助け…助けて…!」

「……」

 撃たれた生存者の一人、女だ。先程少女に罵声を浴びせて蹴り倒していた女だった。

 《彼》は女の行為について、何の感慨も持っていない。ただ、その言葉と行為だけは記憶していた。しかし、それだけだ。この女への対処は、命令の中にあった。



 ――《目撃者は抹消》



 向けられた銃口に自分の運命を見たか、女の目が零れんばかりに見開かれる。《彼》は一瞬の躊躇いもなくSD6の引き金を引き、女の頭部を撃ち抜いた。



 ――運のない奴は死ぬしかない――確かにその通りだ。



 《彼》は一個の物体と成り果てた女の指を引き剥がした。グズグズしてはいられない。更に追っ手が迫っている。

 しかし、再び歩き出そうとした《彼》の前に、白いワンピース姿の少女が転げ落ちてきた。

「――ッッ!」

 とっさにMP5を向ける《彼》。そして少女は《彼》とまともに目を合わせてしまった。《彼》の指が引き金を引き切るまでゼロコンマ二秒! 少女は恐怖に硬直し――!



 ――ボボボッ! ボボボッ! ボボボッ!



 弾丸が少女の頭上を掠め、ジャングルから飛び出してきた某国特殊部隊員を撃ち飛ばす。――と、同時に《彼》も草むらに身を投げ出し、敵の射線をかわす。敵の増援部隊が追い付いて来たのだ。敵影は確認できるだけで六! ――圧倒的不利だ。しかも、この場では最も目立つことこの上ない少女がしがみ付いてきた。

「怖いよ…! 怖いよォ…!」

「……」

 《彼》は少女の腕を引き剥がし、機体の残骸の陰に放り出した。――邪魔なのは確かだ。しかし――なぜ殺さない? なぜ――盾にしない? 

 《彼》は自分の行動に論理的な説明が出来ず、しかし派生結果が《彼》の行動を決めた。急激に動いた白い移動物体に追っ手の射線が集中したのである。その瞬間――!



 ――ドボッ! ――バシュッ! ――バスンッ!



 追っ手六人の内三人までが、身を潜めている樹木ごと大口径ライフルによる狙撃を受け、胴をぶち抜かれた。間髪入れず《彼》も暗がりを掃射! 残る三名を蜂の巣にする。

 《――アルファナンバー11よりナンバー9、インド陸軍が接近中。ランデブーポイントDに変更。一二〇秒後にデルタ小隊チームと合流せよ》

 《――チャーリーナンバー9、了解》

 《彼》は空になったMP5を背に廻し、走り出そうとしたところで少女を振り返った。

 自分を見つめる、涙に濡れた目。恐怖に濁った眼。

「……」

 ――目撃者は抹消――《彼》はサイドアームであるウッズマンを抜き、少女をポイントした。

 その時、遅ればせながらインド陸軍のものらしいヘリの爆音が響いてきた。サーチライトがジャングルの暗がりを切り裂き、《彼》の方にも向かってくる。闇夜を圧して響いてくる爆音からして、情報通り一個大隊。戦闘になればまず殲滅される。

 ここで発砲は出来ない。ヘリに音響センサーが備わっている。――ナイフは!? ――タイムオーバーだ。《彼》は身を翻し、ジャングルの中に飛び込んだ。

 少女の泣き声はまだ続いている。生存者の呻き声も。だが《彼》は任務を遂行すべく、ランデブーポイントDに向かって走り出した。一一〇秒後、インド陸軍による爆撃音を背にレッドキャップスデルタ小隊チームのヘリに搭乗した《彼》は任務完了を告げた。

チャーリーナンバー9、帰投した」





 ――プルルルル…・



 遠く響いてくる電話の音に、龍麻は意識を取り戻した。

 高圧電流によるダメージに加え、さらには薬物を使用されていたのだろう。頭の芯が重く酩酊している。しかし戦闘状態を持続している龍麻の意識は痛みを無視し、状況分析に取り掛かった。

 右手神経接続…OK。左手神経接続…OK。右足…OK。左足…OK。四肢に問題なし。内蔵へのダメージ…おおむね問題なし。通常機動に問題なし。戦闘機動に障害あり。戦闘力三五パーセントダウン。

 同時に龍麻は、両手両足に拘束具がかけられていることにも気付いた。軽く手を動かして強度確認を行うが、一回で止めた。龍麻の《力》を考慮しているためか、単純な力だけでは到底外れない特注品だ。無駄な労力は行使しないに限る。

 次に龍麻は、聴覚での走査スキャンを開始した。

「…もしもし――ああ私です。いつも研究に協力してくれて感謝しています。あれはいい素材だ――心配しなくても、あなたの所に研究資料はお送りしますよ。――いえいえ、お気遣いなく。共に人類の未来を憂いている者同士、これからも協力していきましょう。我々には共通の協力者がいることですし――それでは」

「……」

 これは、死蝋の声だ。この電話一つから、龍麻は多くの情報を獲得していた。

 まず、この部屋…というより研究施設は、さほど広いものではない。龍麻が寝かされている場所に電話の声が聞こえるのだから。相手は死蝋の同業者。おかしな実験に手を染めている者が死蝋の他にもいるということだ。そして最も重要な、《共通の協力者》の意。死蝋の背後には、もっと大きな組織の力が働いている。そして…

「ククク…。いまだに黴の生えた妄想を追う愚か者め。これほど貴重な資料を誰が貴様らなどにやるものか。世界を変えるのはこの僕だ。ククク…クックック…」

 いつの時代、どこの国でも、裏の世界は陰謀と裏切りの巣窟だ。《共通の協力者》はいても、厳密には電話の相手とは協力関係にない。どちらが先に裏切るか、互いに腹を探り合う関係だろう。

「また、あの人からの電話?」

 これは紗夜の声だ。やや咎める口調。そこはかとない嫌悪感も含んでいる。

「紗夜…どこへ行っていた?」

「ちょっと外へ…」

 言葉を濁すような紗夜を、死蝋は喉で笑いながら抱き寄せた。

「お前は僕のものだ…」

 小さく震える紗夜の耳元で、死蝋は囁いた。

「誰にも渡さない…。お前のこの髪も、この指も、この唇も…全て僕のものだ…紗夜」

 聞き様によっては情熱的な愛の囁きであったろう。だが死蝋のそれはひどく冷たく、人をもの扱いして恥じぬ歪み切った精神が表れていた。

「人間は脆い。すぐに呆気なく死ぬ。でも悪いのは脆弱な人間の身体なんだ。強い魂を入れる強い《器》があれば、人間は今以上に強くなれる。そうすれば愛する者を失うこともない。死を恐れることもない。まったく、お前はいい素材を見つけてくれたよ」

 《素材》という言葉に、龍麻の頬がぴくり! と跳ねる。良くない傾向だった。感情抑制に綻びが生じている証拠だ。戦闘状態における完璧な感情抑制ができない者は生き残る事ができない。

 龍麻は意識的に深い呼吸をして精神凍結と気の回復を図った。肉体を動かすには支障のないレベルだが、アンペア数の高い高圧電流を浴びたために筋肉と骨格に微細な歪みが生じている。これを戻さない限り、徒手空拳・《陽》の奥義を駆使するほどの気を凝集することができない。

 死蝋の声は続く。

「見てご覧よ、紗夜。この素晴らしい《魔人》の血を。赤血球は両凸型、手足の一部には核が二つある細胞まで備わっている。恐らくDNAもRNAも生物学の常識を覆すものに違いないよ。更に…」

「もう止めて…!」

 紗夜の声が再び聞こえた。

「そんな顔をして…心配しなくても研究は成功する」

「もう止めて! もうこんな事をするのは…!」

 最後に会った印象からして、予測できた事態だ。これまでの彼女の行動パターンを分析すると、彼女は全て死蝋の指示に従って動いていたと推測できるが、それは強制されていたものだ。彼女自身は全ての行動を望んで行っている訳ではない。それがここに至って、両者の関係に齟齬が生じたのだろう。

「どうしたんだ。愚かな人間たちに復讐したくはないのか。僕たちにこんな仕打ちをした奴らを見返したくないのか。忘れた訳じゃないだろう」

「忘れた訳じゃないわ! でももうこんな事は…!」

「紗夜…お前は疲れているんだ。しばらくゆっくりと休むがいい。素材は手に入れられたんだからね。ククク…」

 革靴が床を叩く音が近付いてきて、龍麻の視界に死蝋が姿を現した。計器類を一瞥した死蝋は、脳波計の反応から龍麻が目を覚ましていることを知った。

「おや、どうやらお前の王子様も目覚めたらしい。これほど早く麻酔から覚めるとは、その身体は薬物に対する抵抗力も高いようだねェ。常人ならとっくに廃人になっている筈なのに」

「……」

 龍麻の肉体が薬物に強いのは、元来の体質に加え、、米軍によって大量の薬物投与を受けていたからだ。訓練中の海兵隊に拾われた時、肩の銃創に両手足の複雑骨折、そして全身に回ったハブ毒による細胞の壊死が進んでいた龍麻は、もはや役に立たぬと学者たちに実験動物扱いされたのだが、レッドキャップス・プロジェクトの検体の中でも二〇名しか適合しなかった遺伝子操作細胞バイオニック・セルがうまく適合し、その結果龍麻には現存するほとんどの薬物…毒物、劇物は言うに及ばず、麻薬や麻酔なども効かなくなっている。以前、藤咲にガスを嗅がされた時、自ら眠りに入ったのは、自分には効かないと判っていたからだった。

「ククク…まあ、いいさ。その拘束具は君の《力》をもってしてもそう簡単には外れない」

「……」

 嫌味に満ちた死蝋の言葉にも、龍麻は反応しなかった。レッドキャップスでは徹底的に拷問耐久訓練を積む。機密情報の漏洩は全体の危機を招くからだ。その耐久力が限界を超えた時には自決するための催眠暗示すら施されている。それがなくとも、龍麻は敵の言うことなど聞き流す男である。

 龍麻の沈黙にも構わず、死蝋は自らの研究成果だと言って次々におぞましい物を取り出して見せた。

「どうだい、素晴らしいだろう。このネズミは水の中で五日間も生き続けているんだ。あそこの檻にいる二つ首の犬は、二頭の犬の脳を一つの身体に合体させたものだよ。この犬は内臓を共有しながら、同時に二つの脳を使うことができる。…この猿は一度死んだんだが、僕が生き返らせたんだ。どうやったと思う? ククク…癌細胞だよ。これを移植したのさ。…ここにいる生き物は全て従来の進化形態に当てはまらない、新たな種と言っていいだろうね」

 聞いているかどうかも判らぬ龍麻を相手に、死蝋は自己陶酔の極みで実験結果を披露する。

「この技術を人間に応用したらどうなると思う? 水の中でも呼吸ができる人間。二つの脳で同時に別々のことを思考できる人間。そして、死から甦ることもできる…。素晴らしいだろう? もはや死は恐れるに足りない。この僕の研究が、人間の新たな進化を導くのさ」

 その時龍麻は、僅かなミスを犯した。完璧に感情をコントロールしていたつもりだったのに、フッと鼻先で笑ってしまったのである。それは彼自身も予期せぬ笑いだった。以前の、真神に転校する前の龍麻ならば、絶対にこんな事はあり得なかったのに。

 もちろん、龍麻が笑ってしまった理由はある。死蝋が得意げに披露した研究成果など、龍麻にとっては時代遅れの技術でしかなかったのだ。世間に公表されている軍事技術など氷山の一角…一欠けらにも満たない。国家という巨大なスポンサーを背景に行われる新兵器、新技術開発は凄まじいという言葉で表現するには足りぬのだ。どんなスポンサーが死蝋に付いているのか不明だが、実験内容も実験設備も、それらを世界中で叩き潰してきた龍麻の目から見れば十年は遅れている。そこで働くスタッフもその国最高の頭脳が召集されて、総計すれば四桁に届くスタッフが非道な実験に明け暮れているのである。そして龍麻自身、その実験成果の一人…いや、サンプルの一つなのだ。

 だがその笑いに、龍麻は自分自身に対して怒りを覚えた。本来、片目という理由で龍麻はレッドキャップス候補ではなく、ほぼ同等能力を持つ実戦標的として訓練されたのである。そして選抜を終えたレッドキャップス一四名が最終実戦訓練に臨んだ際、龍麻の所属する標的部隊三〇〇名はことごとく殲滅され、龍麻だけがレッドキャップスの前ナンバー9を抹殺し、その座に組み込まれたのである。

 その自分が、同じ境遇にあるサンプルを見て、死蝋の実験を笑うとは!? しかもそんな自分に怒りを覚えるとは!? 駄目だ。感情抑制がまるで効いていない!

 死蝋の方は、それを単純に龍麻の虚勢と取ったか、薄笑いを浮かべただけであった。

「まァいいさ。いずれ君にも僕の研究の偉大さが判るだろう。ようやく僕の研究も完成する。――感謝しているよ、紗夜」

 死蝋は、機材の陰からこちらを見ていた紗夜を龍麻の前に引き出した。

「ククク…。緋勇龍麻くん。紗夜はね、僕の命令で君を観察していたんだよ。あの病院…桜ヶ丘と言ったか。あの病院は特殊な治療を行っている所らしいから、そこに出入りする者に目を付ければいいと思ったのはやはり正解だった。君を見つけて以来、紗夜は君が僕の研究の素材として相応しいかどうか、それだけを見るためだけに近付いていたんだよ」

「…それがどうした?」

 初めて、龍麻は応じた。

 実際、龍麻は紗夜との遭遇を偶然などとは考えていなかった。二度目は偶然かも知れないが、三度目は必然。四度続けば、そこには意志の力が働いている。紗夜が何らかの目的を持って自分に近付いていることを、龍麻はとっくに気付いていたのである。今更そんな事を言われたところで、彼が驚くには当たらないのだ。

「ククク…。信じられないようだね。それとも、信じたくないのかな? 紗夜、お前の口から緋勇くんに何か言ってやったらどうだい。彼はまだ現状が理解できないらしい」

「龍麻さん…」

 震える声は、龍麻をだましていた自責からか、それとも龍麻の真の姿を知ったせいか。

「ごめんなさい…本当に…ごめんなさい…!」

「ククク…何を謝ることがあるんだ、紗夜。彼の身体は、人類の未来のために役立つんだよ? 感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない」

 恐ろしく自分勝手な論理を展開する死蝋は、手術台の上で手足をきしらせる龍麻に顔を寄せた。

「ククク…。これからいよいよ実験の最終段階に入る。今更どうあがこうと君には何もできやしないよ」

「…顔を寄せるな。貴様の口は臭い」

「…!」

 急に口調を変えた龍麻に、死蝋は僅かにうろたえた。龍麻の口調はどう聞いても、諦めた者のそれではなかったのだ。

「ククク…かわいいよ。君は。この状況でまだ何とかできると思っているようだね」

「なんとでもほざけ。貴様は殺す」

「クックック…それもまた、人類の救世主たる資質だね。何を言ったところで、君にそれを実行する力など残ってはいないよ。さあ、紗夜。手術台のスイッチを入れておくれ。人類の真の進化が、これから始まるんだ」

 躊躇いながらも、死蝋の命令には逆らえないものか、紗夜は震える手で手術台のスイッチを押した。手術台のライトが点灯し、恐らくは摘出した臓器を保存するためであろうカプセルの中に液体が注入される。他にも得体の知れない機材が次々にランプを点灯させ、低い振動音がそれほど広くない地下室の空気を震わせ始めた。





「本当にここでいいのかよ? 人の気配なんてまるでしないぜ」

「確かに悪党が潜みそうな所だけどさ。この日本に龍麻を拉致できる奴がいるなんて…ねえ?」

 品川駅から地図に従ってここまで来る間に、大よその情報は仲間たちに伝えてある。京一たちとてそれほど多くの情報を持っている訳ではなかったが、龍麻のパイソンだけが返されてきたという事実に、誰もが驚き、緊張を露わにした。同時に、《そのような事がある筈ない》という想いもあり、紗夜のもたらした情報に対してどうしても否定的になってしまうのだ。

「だから、お前らにも来てもらってんだよ。本当に龍麻を拉致できる奴がいるとしたら、俺たちの誰一人欠けても太刀打ちできねえ」

 いつもは自信の塊である京一が、珍しく仲間の存在を頼りにしている発言をする。普段なら冷やかしや嫌味の一つも出ようが、今はとてもそんな状況ではなかった。龍麻のパイソンに一発だけ残っていたという事は、少なくとも五発は相手に向けて発砲したという事である。その上で、拉致された…かも知れない。あの真神の鬼軍曹、緋勇龍麻が。

「とにかく中に入ってみましょう」

「そうだね。とにかく行動しないと何も判らないよッ」

 小蒔がもう一度地図を確認し、示されている建物を指差した。確かに、ここで議論している場合ではないので、全員が装備を再確認して緊張の面持ちで建物に近付く。

「鍵はかかっていない…と言うより、頻繁に使われているみたいだぞ。皆、油断するな。美里は下がれ。雨紋、藤咲は美里、桜井、裏密の護衛を頼む。紫暮、済まんが殿しんがりを頼む。京一、先導してくれ」

 龍麻がいない今、暫定的な指揮官は醍醐である。直接戦闘が得手の醍醐だが、《壁》のポジションが多い彼が、龍麻の指揮と全体の動きを誰よりもよく見て知っているからだ。

「よっしゃ。行くぜ、皆」

 京一は木刀を構え、醍醐と肩を並べて廃工場に侵入した。

 《OK。人の気配はない》

 《うむ》

 龍麻に次いで、《気》から気配を読む事に長けた京一が周囲に人がいない事を確認する。それを手信号で伝えると、残りの仲間たちも油断なく四方に視線を走らせながら工場内に入り込んだ。

「誰もいねえな…」

「本当にここなの? その比良坂って子、あたしたち全員を罠にかけるつもりじゃないでしょうね?」

「う〜ん、そんな感じじゃなかったんだけど…」

 だがそんな憶測は、工場内を少し奥に入ったところで消し飛ばされた。

「ねえ! あれを見て!」

 床に転がっている物を見付け、葵がガードの輪から飛び出す。慌てて後を追った全員が見たものは、床一面に散らばる空薬莢と、黒い二二口径自動拳銃であった。

「龍麻のウッズマンだ…。全弾撃ち尽くしてる…」

「これはただ事じゃないぞ。龍麻の奴、一体何発撃ったんだ」

 無意識の内に、全員が葵を中心に全周囲を警戒する態勢になっている。間違いなく、ここが闘争の現場だ。

「京一! これもひーちゃんのだよねッ!?」

「醍醐! これも緋勇のものか!?」

 目ざとい小蒔が、既に二人に分身して周囲を探っていた紫暮が声を上げた。小蒔が見つけ出したのは、弾丸の残っているウッズマンのスペアマガジン。紫暮が見つけたのはソードオフだ。小蒔からマガジンを受け取った京一は紫暮に走り寄り、ソードオフの開閉レバーを押して弾丸を確認する。そこから床に落ちて軽い音を立てたのは、中身を全て吐き出したショットシェルであった。

「こいつも撃ち尽くしてやがる…。おまけにこっちのカートリッジはマグナムかよ」

「こうしちゃいられねえ! マジで龍麻サンが拉致られたって事かよ!?」

「そんな! あの龍麻が…!」

「しかし! 一体どんな奴が!?」

 京一はウッズマンのマガジンを交換し、腰のベルトに挟んだ。スライドを引いて初弾を装填しない限り、暴発の危険はない。ソードオフは醍醐がやはりベルトに突っ込んだ。

「どんな奴か? ああ、それが問題だ。龍麻の奴はウッズマンで数十発、マグナムを十発以上、散弾二発をぶっ放してる。それだけ撃って壁に傷一つないのは、正確に相手にぶち込んだって事だ。それなのに相手の血痕一つ残ってねえし、弾丸の残りカスもねえ。おまけに龍麻ならウッズマンを全弾撃ち尽くすなんてヘマはしねェ。これがどういう事かよく考えろ」

 ひとたび戦闘状態になれば京一も無類の分析力を発揮する。龍麻が全銃器類を駆使し、スペアが残っている状態にも関わらず拉致された以上、それだけで相手が只者でない事は判る。だがそれを可能とする相手のレベルは…。

「相手が何者かは判らねえ。だが龍麻は殺られた訳じゃねえんだ。何でもいい! 手がかりを捜せ! そんじょそこらの奴にあいつを殺せる訳がねえんだ!」

「そ、そうだな! 比良坂は龍麻がここにいると言ったんだ。きっとここに何か手がかりがある筈だ。手分けして捜そう!」

 その時、裏密と一緒に床にしゃがみ込んで何かを見ていた高見沢が声を上げた。

「あの〜、手がかりかどうか判らないけど〜、裏密さんが〜何か見つけたって〜」

「な、なに!?」

 四方に散ろうとしていた仲間たちが、彼女たちの周囲に集まってくる。裏密は呪文を唱えながら、床の上に散らばっている灰の様なものを撫でている。

「うふふふ〜、黒魔術の波動を感じるわ〜。どうやら〜ひーちゃ〜んが闘ったのは〜ブードゥーの秘術で甦ったゾンビーのようね〜」

「ぞ、ゾンビ!?」

 全員の裏返った声がハモる。そういう怪しげな単語こそ、裏密の口から出ると凄まじい説得力があるのだ。

「そうよ〜。相手は一度死んでるから〜倒すのは苦労するわ〜。でも〜この感じからすると〜純粋なブードゥーの秘術だけじゃないみたい〜」

「あのね〜、この人たち、ダーリンに助けてもらったんだって〜。眠っているところを無理やり起こされて〜、苦しかったのをダーリンが解放してくれたって〜」

 全員の視線が、裏密から高見沢に移動する。そう言えば、彼女の特技は…。

「舞子…この人たちって…」

「いや! 龍麻は!? 龍麻はどうなったんだ!?」

 藤咲のツッコミを強引に遮る醍醐。こんな状況でなければ逃げ出したいところだったろう。しかし今は、他ならぬ龍麻のためだ。苦手意識などに負けていられない。

「う〜んとね〜。う〜…駄目〜。それを言うと、耐えがたい苦痛に襲われる術をかけられているんだって〜」

「つまり…死人にまでそのような術を…? なんという事を…許せん!」

「裏密! お前の占いとかで判らないのかよ!?」

「うふふふ〜。ここでなら判るかも〜。まかせて〜」

 裏密はテニスボール大の水晶の髑髏を取り出し(どこでそんなモンを手に入れたというツッコミは無視して)、床に置いてからゾンビーのなれの果てだという灰をその上にふりかけ、呪文を唱えた。するとどうだ。裏密と高見沢を除く全員が息を呑む(醍醐は失神寸前になる)のを尻目に、水晶髑髏がころころと床を転がっていくではないか。

「この髑髏が案内してくれるわ〜。みんな〜ついて来て〜」

 これほどおぞましい案内役もなかろうが、余りの超常現象に及び腰の男性陣を差し置き、葵、小蒔、高見沢、藤咲ら女性陣は肩で風を切って裏密に続いた。

(龍麻…無事でいて…)

 この想いは全員共通のものであったが、女性陣には更にもう一つ、女性独特の共通の想いがあったため、多少、《我先に》という状態になったのは無理もないことだった。





「…うん?」

 手術用のマスクと手袋を着用していた死蝋は、地下室への入り口周辺にセットした警報装置が反応しているのを見てほくそえんだ。

「どうやらまた鼠どもが入り込んだようだな。ククク、今日はツイてる。向こうから新鮮な素材がやって来るなんて。紗夜、死人たちの檻の扉を開けるんだ。鼠どもを捕まえさせろ」

「……」

 その侵入者が京一たちである事を、紗夜は疑わなかった。龍麻の元に集い、龍麻と共に闘う仲間。そして、龍麻に惹かれて新たに加わった仲間たち…。

「ん…? どうしたんだ、紗夜。早く死人どもの檻の扉を開けてくれ」

「もう…止めて…。もう、こんな事は止めて!」

 龍麻の仲間たちは来た。龍麻の銃を渡した事で、龍麻よりも強力な敵がいることが判っている筈なのに。自分たちの危険も省みず――

「何を言い出すのかと思えば、また、そんな事を…。こっちへおいで、紗夜」

「……」

 ふるふると首を横に振る紗夜。彼女の顔は、手術台で身をよじる龍麻に向いた。

「龍麻さん、今、拘束具を外します」

 死蝋から逃れるように紗夜は手術台に走り寄り、龍麻の拘束具の一つに手を伸ばした。

「紗夜! …な…なぜそんな事を…? 僕にはお前の行動が理解できないよ…」

 死蝋の困惑した叫びを、紗夜はまったく取り合わずに手を動かした。そして――

「龍麻さん…私、ずっとあなたを見ていました」

 既に人をモノ扱いしかできない死蝋によって施された拘束具はガッチリと固められ、非力な紗夜の手ではなかなか外せない。

「あなたの強さを…あなたの優しさを…。そしてほんの一時だけ見せる、あなたの笑顔を…。始めは…あなたの動向を監視するためだった。…ッッ!」

 余りに強靭に止められていたボルトが外れる拍子に、紗夜の指先が血を吹いた。それでも、龍麻の右足首が解放される。先程から行っていた整体が一気に効果を発揮し始める。歪み矯正率七〇パーセント。

「でも…いつの頃からか、そんなあなたに惹かれ始めていました。そして…そして三日前…あなたの本当の姿を知りました…」

「…!」

 いつしか、紗夜の目には涙が溢れていた。

「全て…全てが本当だったんですね…。あなたの腕に刻まれたエンブレムも、身体中の傷も、あなたが…あなたが世界中で人のために闘って来た証…。あなたの強さは、常人では計り知れない苦しみの中から生まれた、本物の強さ…」

 自らの手の痛みをも無視し、紗夜は拘束具を外そうとあがき続ける。彼は言っていた。あがき、挑み続ける者だけが、不可能と思われる未来さえ手にすることができると。

「人は、復讐のためだけには生きられない。人は一生を、そのためだけに捧げることはできない…。そう思い始めたんです…。私…間違っているでしょうか?」

「…自ら道を選び取る者こそ、勝者だ」

「龍麻さん…」

 そういう不器用な物言いこそ、龍麻だ。紗夜は微笑を浮かべた。

「ククク…そうか。そういう事か…」

 極めて危険な響きを持つ死蝋の声が、紗夜を振り返らせた。

「道理で最近、様子がおかしいと思った…。許さないぞ、紗夜。お前は僕のものだ。心も、身体も…」

「やめて!」

 最後のフレーズはさすがに耐え難がったのだろう。紗夜は血に染まった手で顔を覆った。

「やめて…兄さん!」

 死蝋の手が伸びてくるのを、紗夜は強い意思を込めて振り払った。

「私は兄さんのものじゃないわ! 私は生きているの! 私は自分で考えられるの! 兄さんが造った怪物たちと一緒にしないで! もう私は、兄さんの命令に従うだけの人形じゃないわ!」

 恐らく今まで一度も反抗した事のない紗夜に初めて、それも激しく拒絶されて、死蝋はうろたえるあまり三歩ほどよろめいた。そんな彼を、紗夜は視線のみで詰め寄った。

「もうこんな事は終りにしましょう。…そして、楽になりましょう。病院から死体を盗んだり、人を攫ったり…こんな事をしても何にもならないわ。兄さんは騙されているのよ。復讐を口実にして、あいつらにいい様に利用されているだけだわ!」

「…!」

 また、だった。あいつら…死蝋の陰にいるスポンサー。死蝋の他にも、似たような研究に携わる者に資金を提供している組織。思い当たる名は…鬼道衆。

 よろめくあまり、とうとう壁に背中を凭せ掛けた死蝋から目を離し、紗夜は龍麻に向き直った。

「龍麻さん。あとは両手だけです」

「…任せる」

「はい!」

 龍麻は滅多に人に頼る発言をしない事を知っている紗夜は、今までにないはっきりした口調で応じた。それを見た死蝋が、紗夜が手元から離れた恐怖と凄まじい嫉妬のために半狂乱になって喚く。

「お、お前も僕を裏切るのか!? 薄汚い人間たちと同じように!」

 両手は既に血だらけだが、コツを掴んだものか、紗夜は龍麻の右手の拘束具をたやすく解いてみせた。右手が自由になった龍麻は肩口をしごき、肘、肩、鎖骨、アバラへと続く経絡を矯正する。歪み矯正率九四パーセント。

「緋勇…龍麻! お前さえ…お前さえ現れなければ紗夜は僕のものだった…! お前さえ…!? …ククククッ。何だ。そうだよ。簡単な事じゃないかッ。緋勇龍麻、お前が死ねばいいんだ。そうすれば紗夜は僕のところに帰ってくる…」

「…急げ。紗夜」

 自分勝手な、正常な思考の持ち主には理解不能な理論を展開する死蝋の口調に極めて不吉なものを感じた龍麻は、彼女の名を呼んで紗夜を急かした。自分が名を呼ぶ事でなぜ女性が志気を鼓舞されるのか未だに解らぬ朴念仁だが、その絶大な効果は利用できる。そしてもう一つは、錯乱している死蝋の殺意を自分に向けさせるため――

 死蝋はよろめきよろめき、この部屋で一番大きなシャッターの開閉スイッチに近付き、半分狂気に犯された引き攣った笑いと共にシャッターを開いた。

「――ッいけない! あそこには…!」

「――紗夜!」

「は、はい!」

 そこに何がいるかを知っている紗夜は思わずそちらに気を取られたが、龍麻の叱咤で我に返る。彼の左手の拘束具はこれまでで一番固く、コツを掴んでいても力不足のために中々外れないのだ。

腐童ふどう! こいつを殺せ!!」

 悲鳴のような奇声のような命令を受けて姿を現わしたのは、かのビクター・フランケンシュタイン博士が造った怪物を彷彿とさせる、緑色の巨人であった。

「…紗夜、下がれ!」

 拘束は緩んでいるが、解けた訳ではない。だが龍麻はそう命じずにはいられなかった。

 そいつは最初に遭遇したゾンビーなどとは何もかもが桁違いだ。身体全体のシルエットが歪んでいるのは、その全身を継ぎ接ぎした人間の筋肉のサイズが異なるためだ。そう、そいつは腕一本とって見ても、実に人間の腕八本が不気味かつ巧妙に結合され、一本の腕として機能している。当然、骨格も強化済みだろう。そいつこそ、狂気の科学が生んだ本物の怪物であった。

「やめて! 兄さん!」

 龍麻の叱咤を無視し、紗夜が腐童と呼ばれる怪物の前に両手を広げて立ち塞がったが、もはや狂気の淵に落ち込んだ死蝋には紗夜の声も届いていない。

「死ね! 緋勇龍麻!」

「…グウウッ!!」

 レッドキャップスには伝説がある。それは、絶体絶命の境地からでも必ず帰還するという事。しかし、これでは…!

「オオオオオオオオォォォゥゥゥゥゥッッ!!」

 異形の雄叫びと共に豪腕が振り下ろされ、地下研究所に紗夜の悲鳴が響き渡った。





 第七話 恋唄 3    完



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