第七話 恋唄 1





 
 涙とは眼球表面を洗う体液である。彼にとって涙とはそれ以外のものではなかった。彼は悲しみを意識しない。戦いに感情は無用だ。

     神林長平 著 《戦闘妖精・雪風》 《インディアン・サマー》冒頭より抜粋





「…………」

 この地球上でも特に四季がはっきりしていると言われる国、日本。暦は既に六月の半ばに至り、この季節独特の梅雨に入り、ここ東京も連日の雨に見舞われていた。

 窓辺に身を寄せ、そろそろ上がりそうな雨に煙るグラウンドを眺めているのは、《真神の鬼軍曹》緋勇龍麻であった。

 ここ真神でもとっくに衣更えが行われ、男子は半袖ワイシャツ、女子に至ってはセーラー服から白の半袖ブラウスに変わっているのだが、龍麻は上着こそ脱いでいるものの、ワイシャツは腕まくり一つしていない長袖である。理由は全身に刻まれている傷を必要以上に他の生徒たちに見せぬためだ。彼は体育の時でさえ、基本的にジャージの着用を許可されている。当然、水泳の授業は受けなくても良い事になっていた。

 その服装云々はともかく、黙っていればハンサムな彼の事だから、一人窓辺に佇む姿はそれだけで一幅の絵画となった。これでシャルル・ボードレールか中原中也の詩集でも手にしていればずいぶんと様になる事だろう。

 しかし――

「逃げるな、京一」

 後ろを向いているのになぜ解るのか、と考えるのは一般人である。この男は後に目が付いているがごとく、一〇メートル以内の生物無生物の存在を尽く感知しうるのだ。

「ひーちゃん…もう勘弁してくれよう…」

 およそこの男ほど、普段と戦闘中のギャップが激しい者はいない。自称《真神一の良い男》蓬莱寺京一は実に十三回目に及ぶ脱走劇を、遂に忍び足二歩目にして見抜かれて身も世もないような情けない声を上げた。

「…何度も言うようだが」

 文学青年然とした雰囲気は一瞬にして消え去り、渾名に相応しい《鬼軍曹殿》の顔になった龍麻は言った。

「このテストの成績いかんで夏期休暇の有無が決定する。そう言って泣き付いてきたのはお前の方だぞ。同条件下にある醍醐や小蒔を見ろ。未だに愚痴一つこぼさん」

 龍麻にとってそれは一種の賞賛であったろう。しかし、当の醍醐や小蒔にしてみれば、《鬼軍曹》モードになってしまった龍麻に逆らうのが恐いからで、心境的には京一と同レベルであった。しかしながら罵声を浴びせられ、殴られ、蹴飛ばされ、それでもなお脱走しようとする京一の根性と言うかしぶとさには、呆れるよりも感嘆してしまっている二人であった。

「そうよ、京一君。高校最後の夏休みを無駄にしないためにも、今こそがんばらないと」

 と、菩薩様(葵の新ニックネーム・本人未承諾)のありがたいような、何気に酷いような言葉も投げかけられ、京一は渋々席に戻る。

 一連の会話は、真神学園三年C組教室、放課後に交されたものである。龍麻風に言うならば、《作戦名SUT〇七(スキルアップトレーニング第七回)》を遂行中に交されたものである。この作戦の目的は蓬莱寺京一、醍醐雄矢両名の補講を未然に阻止し、夏期休暇の全面獲得にある。技能向上教官は緋勇龍麻、美里葵両名。さらに技能向上志願者として桜井小蒔が作戦に参加、本日で作戦遂行三日目になる。

「…けどよお、こんなじめじめしているんじゃ集中なんか出来ねえよ。せめて美人のオネーチャンが傍にいるなら話は別だけどよ。あいにく女は一人で、それも臨時の先生様だ。クソ、俺の青春が無駄に過ぎていくぜ」

「京一ィ、女は二人だろッ。それに今ちゃんと勉強しとかないと、補習でもっと青春を無駄にする事になるんだよッ」

「うるせェな。そんな事くらい解ってるけどよォ」

 龍麻はするすると京一に近づき、犬神が良くやるようにボカッと彼の頭を殴り付けた。

「解っているなら無駄口を叩かずさっさとやれ。お前の愚痴に付き合うほど暇ではない」

「――あら、そんなに忙しいかしら?」

 美声と共に教室に顔を覗かせたのは、担任のマリア・アルカードであった。

「何か御用でしょうか? マリア先生」

 いつものように直立不動、敬礼でマリアを出迎える龍麻。他の教師はいざ知らず、担任にまでそんな態度を取る事はないと言い続けているマリアだけに、さすがに困ったような顔になる。

「ええ。もし時間があれば職員室に顔を出して欲しかったのだけど」

「何か、重大な問題でしょうか?」

「…そう言われると困るけど…一応、そうなるかしら。あなたに…と言うよりは、あなたたちに関する事なのだけど…」

「……」

 微妙なニュアンスの違いではあるが、龍麻個人ではなく、《あなたたち》全員に関する事となると重大である。

「了解しました。後ほど出頭いたします」

 敬礼。マリアはまた苦笑した。

「そんなに畏まらないで。では、また後で」

 そう言ってマリアは教室を出ていった。

 すると京一がすかさず絡んでくる。

「おーおーおー、俺たちがヒーコラ言ってる時に、緋勇先生はマリア先生のご指名か。いや〜うらやましい。俺も手取り足取り腰取りイロイロと教えて欲しいもんだぜッ」

「京一ィ、なに馬鹿言ってんのさ。ひーちゃんは京一みたいに下品じゃないんだぞ」

「うるせェよ、男女」

 売り言葉に買い言葉はいつもの事だが、京一の一言で空気が凍った。

「な…んだって…? 京一君…?」

 ギー、ガッション! と歯車の軋みか圧縮空気の噴出音が聞こえないのが不思議なくらいのぎこちない動きで小蒔が立ち上がった。小蒔は自らこの居残り勉強に志願したとは言え、やはり赤点ラインに不安のある身としてストレスを受けていない訳がないのだ。

「男女って言ったんだよ。お前は女の服を着ているが実は男だろ。その証拠に胸がない!」

 ビシイ! と小蒔の胸元に人差し指を突き付ける京一。葵は天を仰ぎ、醍醐は片手で顔を覆った。

 数秒後、底冷えするような声を絞り出す小蒔。

「京一君…。ボク…ちょっと誤解してた。君の事、アホだアホだと思っていたんだけど…」

「うんうん。間違いは誰にでもある。俺みたいに完璧な人間は中々いないからな」

 何を根拠に言っているのか不明だが、胸を張って言う京一は同意を求めるように龍麻を見た。しかしこの先の展開が読めている龍麻は既に我関せずとばかりにそっぽを向いて、なぜかM1100にスポッター・ライトを取り付けている。

「まあ安心しろ美少年。男は背のでかさじゃないからな」

 戦闘中以外はただのアホでしかない京一は、場の雰囲気というものをまったく意識せず《へへへ》と愛敬たっぷりに笑う。《エヘヘ》と笑い返したのは小蒔だが、彼女の目は既に凍り付いている。

「って、小蒔、何をごそごそと…なんで弓を取り出す?」

「――ゴメン、京一。死んでくれ。君みたいな男は全人類の女の敵だッ!」

 ギュン! と引き絞られる弓。しかし小蒔はいつのまに弓の弦を張ったのだろうか? 

「わー! 待て待て! いくらお前より俺の方が、背もナニもでかいからって、いきなり殺すってのは…」

「エヘヘ…」

「へっへっへ…」

 小蒔の乾いた笑いに唱和して笑う京一。しかしその一瞬後――

「殺すッ!」

 物凄い殺気と共に、ほんの一メートルという超至近距離から放たれた矢が京一の頬を掠めた。

「ウオオッ!」

「逃げるなッ! 女の敵!」

 すかさず次の矢が番えられる。しかしその小蒔の手を止める手があった。龍麻だ。

「待て。小蒔」

「ひーちゃん! 邪魔しないで! 今日という今日はこいつを殺すッ!」

「許可する。こいつを使え」

 龍麻は小蒔の手から弓を取り上げる代わりに、ライト付きのM1100を手渡した。しかも二〇発入りのダブルドラムマガジン装備である。

「変態三面記事男の退治に弓はもったいない。好きなだけぶち込め」

 てっきり止めるものだとばかり思っていた龍麻がそんな行動に出たので、さすがの京一も血相を変えた。

「ちょっと待てひーちゃん! お前は俺を殺す気かッ!?」

「自分の手でやりたいところだが、小蒔に任せる。さあ小蒔! 下半身男を殲滅しろ!」

「了解! ひーちゃん!」

 シャキン! と音を立てて腰溜めに構えられるM1100。旧校舎での訓練で龍麻の射撃を散々目にしている小蒔なので、初めて握ったショットガンの構えも道に入っている。しかも引き金に触れると同時にスイッチが入ったスポッター・ライトの白い光点が京一の眉間(!)をポイントした。

「おわあっ!」

 こいつらマジかッ!? ほとんど涙目になりながら京一は逃げ出した。

「うふふふふふふ! 待て! 京一ィ!」

 どこか裏密まで混じった小蒔もすかさずその後を追って走り出した。数秒後に廊下の方でドスン! バスン! とラバーボール・カートリッジの発射音がして、京一の悲鳴が響き渡る。更に追撃する銃撃と京一の悲鳴が徐々にフェードアウトしていった。

「龍麻…」

 教室に残った二人から注がれる冷たい視線にも、龍麻は平然と言ったものだ。

「良い子は絶対に真似しないように。――京一には懲罰が必要だ。そして小蒔も、ストレスの溜め過ぎは良くない」

 それから龍麻は醍醐の取り組んでいるプリントに無造作に印を付けた。

「お前ははかどっているようだから、本日分はここまでとしよう。俺は職員室に出頭してから、直帰する。葵、小蒔の熱が下がったらM1100を回収しておいてくれ」

 そう言い残し、龍麻は服装を整え直し、職員室に向かうべく教室を後にした。

 雨は、既に止んでいた。





「緋勇龍麻、出頭いたしました!」

 聞きようによってはかなり不穏当な発言だが、前回の呼び出し時同様、職員室にはマリア一人しかいなかった。いくら放課後とは言え、生徒よりも早く帰宅する教員というものはどうであろうか? とか、余計な事を考えてしまう龍麻であった。

「いらっしゃい、緋勇君。こっちに座って」

「はっ」

 前回と同じ椅子を勧められ、背筋を伸ばしたまま着席する龍麻。どうあっても彼の態度は軟化しそうにないと、マリアはほとんど諦めたようにため息を付いた。

「話というのは、他でもない、あなたたちの《力》に付いてなの」

 なるほど、このような話では、周囲に《普通》の教師はいない方が良いだろう。マリアは花見の一件以来、ずっとその事に付いて考察していたという。

「あの《力》は、いわゆる超能力とも、生まれ持ったものでもなさそうだわ。でも、なぜあなたたちだけに《力》が宿ったのか…。緋勇君、あなたは《力》の源はなんだと思う?」

「自分には解りかねます。憶測や推察は、所詮それ以上のものではありませんので、発言は留保したいと考えます」

「緋勇君らしいわね。現実的で。確かに愛とか友情とか言われても、先生も困ってしまうわ」

「肯定です」

 そんな事を真顔で言われたら自分でも吹き出すだろう。龍麻はそう思った。

「ワタシはね、緋勇君、あなたたちの《力》は何かの《鍵》じゃないかと思うのよ」

「鍵…ですか?」

 出たな、と龍麻は思った。マリアは時々突拍子もない事を口にする癖があると、既に龍麻の中では固定概念になっている。

「そう。あなたの《力》を呼び水として導き出される、もっと強大な《力》を発現させるための鍵」

「……」

 なるほど、そういう考え方もあるか。龍麻は頭の中で肯いた。

 鳴滝は《東京に行け》と言った。詳しい事は語らずとも、まるで東京でこそ何かが起きると言わんばかりに。そして龍麻が再びこちら側の世界に立ち戻ったきっかけを作った莎草はここ真神学園からの転校生であったし、龍麻がここに現れるのと時を同じくして覚醒した京一、醍醐、葵、小蒔の四人。そしてやはり同時期に《力》に目覚めたという雨紋に唐栖、藤咲に嵯峨野、紫暮。そしてやや例外的に高見沢、凶津。龍麻が知っているだけで既に自分を含めて一三人もの《力あるもの》が存在しているのである。恐らくもっとたくさんいるだろう。それも人類という《種》にではなく、《大人》でもなく、同年代の若者の、さらにその一部に。

 戦争という《現実》の中で生きてきた龍麻には、《力》が何のためにあるのかはさして重要な問題ではない。《力》も銃やナイフと同じで、使いどころさえ間違わなければ良いのだ。ただそれが呼び水となって、何か大きな事件なり現象なりが引き起こされるとなると…。

「緋勇君、ちょっと服を脱いでみてくれる?」

「!?」

 やや黙考態勢になっていた龍麻は、このマリアの発言に現実意識を取り戻した。

「あなたの身体を見たいの」

「発言の意図が解りかねます。この《力》は肉体的条件に関わりはないと自分は考えていますが」

「それはあなたの考えでしょ? 先生は別の観点から《力》に付いて考えているの」

「…自分が体育の授業、特に水泳に関して授業を受けない理由は既に承認済みですが」

 龍麻の言葉にはっとするマリア。そうなのだ。元特殊部隊員で古武道の達人でもある龍麻は、《力》抜きにしても運動神経は人のそれを越える。しかし彼は人前で肉体を晒す事を極力避けねばならない。左腕に刺青された《レッドキャップス》のエンブレム。そして全身に刻み込まれている数々の戦歴…ナイフ傷や弾痕は平和ボケした日本の高校生には恐怖の対象にしかなり得ないからだ。

「それは承知しているわ。でもそれとこれとは別」

「…!」

 その時龍麻は、急に目眩にも似た感覚を覚えた。

 相変わらず妙な事を言う、とマリアに視線を向けてしまった一瞬の事である。それをおかしいと思う間もなく、龍麻の意識は混濁した。

「さあ、見せて…」

 妙に艶っぽさを増したマリアの声に誘われ、龍麻がワイシャツのボタンに手をかけた時である。何かが龍麻の中で警鐘を鳴らし、同時に彼の左眼が赤く輝き始める。それが効果を現す寸前、職員室の扉がガラガラと無作法な音を立てた。

「――よォ、緋勇。また何かやらかしたのか?」

「…否定です。犬神先生」

 即答できなかったのは、やはり頭がぼうっとしていたせいだ。しかし本人は時間にして一分ほど、完全な虚脱状態にあった事に気付いていない。彼の中で、何かが意思と肉体を切り離そうとしていた事にも。

「どうしました? 恐い顔をして…何かお邪魔でしたか?」

 なぜかマリアは犬神を睨み付けている。女の放つ殺気は凄まじい事は龍麻も知っていたが、この時のマリアは迫力において尋常ではなかった。かなり押さえているようだったが、真正面から向き合えば相手は凍り付くであろう視線だった。

「い、いいえ、どうしてここに?」

「そんなあ、どうしてって、ここは職員室ですよ。いくら僕が物臭な教師だからって、たまには用事もありますよ」

 これも一種の対決であったろうが、マリアの視線を犬神は眼鏡の奥の目で静かに受け止め、反発させなかった。中々出来る事ではない。

「緋勇君、今日はもう帰って良いわ」

「あ、僕の事はお構いなく」

 わざとらしい犬神の言葉を聞き流し、マリアは龍麻に退出を促した。

「では、失礼します」

 龍麻は椅子から立ち上がり、直立不動で敬礼、回れ右をして扉に向かった。

「おっと。緋勇、くれぐれも言っておくが、旧校舎には近付くなよ。あそこは危険だからな」

「承知しております。犬神先生」

 なんと空々しい会話か、と龍麻は思ったのだが、犬神が龍麻の旧校舎入りを注意するのは職員室の中、はっきり言ってマリアの前だけである。《内密に》と釘を刺されたものの、既に旧校舎の使用を承認されている龍麻だ。この台詞はマリアへの牽制と、龍麻にもマリアを旧校舎に入れるな、という意味にも取れる。

 (何か意味があるのだろうな。マリア先生にしろ犬神先生にしろ、どこか普通の人間と言えない節があるからな。)

 だが、今は特に問題ではない。マリアが何らかの術を行使した事に気付かなかった龍麻は単純にそう考え、扉の前でもう一度敬礼し、職員室を辞した。





「あら、龍麻も職員室? ははあ、呼び出しね。龍麻も意外とワルねえ」

「それは誤解だ。俺は常に誠実をモットーにしている」

 龍麻がそう言うと、アン子はわっはっはと大口を開けて笑った。

「龍麻の口から《誠実》なんて言葉が出るとなんだか笑えるわあ。じゃあ聞くけど、校門のところで龍麻を待ってる女の子って誰よ?」

「なに?」

 自分を待っている女の子? 龍麻が心当たりがあり、アン子が直接知らないとすると、せいぜい藤咲くらいのものではなかろうか。

「ふっふ〜ん、龍麻もスミに置けないわねえ。あんなすっごく可愛い女の子とどこで知り合ったのかしら? ま、あんまり待たせちゃかわいそうだから、早く行ってあげなさいね。美里ちゃんたちには黙っておいてあげる。とーぜん、貸しよ、貸し」

「むう…」

 誰か解らないが、妙なところでアン子に貸しを押し付けられたではないかと、龍麻は少しばかり憤慨した。真神に来て数ヶ月。ほとんど隙を見せない龍麻ではあるが、このところアン子にちょこちょこと小ネタを握られているので、警戒心が増しているのである。

 ともあれ、約束はなくとも待ち人を待たせるのは性に合わない。龍麻はその足で校門に向かった。

 雨は上がっているが、手には濡れた傘を持っているから、それなりの時間を待っていたのだろう。龍麻はその少女に声をかけた。

「…ここで何をしているのだ?」

「あ! 緋勇さん!」

 やや憂いを帯びた顔に、ぱっと花が咲く。少女は比良坂紗夜であった。

「突然押しかけてきたりしてごめんなさい。あの…先日はどうもありがとうございました」

「先日…?」

「はい。あの時公園で…覚えていらっしゃらないですか?」

 紗夜の顔に寂しさが揺れる。龍麻は訳も解らず居たたまれなくなり、必死で記憶を探った。龍麻は百科事典や広辞苑、六法全書に至るまで、入力する時間さえあれば全て丸暗記できるほど記憶力抜群なのだが、興味のない事、ありふれた事に関しては鶏並みの記憶力しかないのであった。つまり龍麻には、小蒔が誘拐された事件の記憶はあるものの、小蒔の居場所を探るために拷問したチンピラの事はきれいさっぱり忘れていたのであった。

「う…うむ。済まない」

「あの…ひょっとして私の事までは…」

「問題ない。君は比良坂紗夜。住所は品川区と聞いた。ところで友達は元気だろうか? 妊婦にはとにかく高い栄養と精神衛生上良い環境が望まれる。桜ヶ丘ならば、きっと元気な子供に恵まれるであろう」

「はい?」

「母親にも子供にも、世間や法律の壁が次々と立ちはだかるであろうが、決して世にはばかる必要はない。人は胸を張って堂々と生きるべきだと伝えてくれ」

 《公園での一件》を忘れていたという負い目から、龍麻は自分がとんでもない事を口走っている事にまったく気付かない。プロファイリングは龍麻の特技だが、今回ばかりは薮蛇も良いところだろう。  なんだか話が別方向に飛び(ぶっ飛び)そうな気がしたものか、紗夜はその話を打ち切った。

「あの、ところで緋勇さん。今、お暇ですか?」

「暇という事はないが、特別なスケジューリングはしていない」

 あくまで口調も態度も変えない龍麻だが、既に紗夜はそんな彼の性癖を知っているので、顔をほころばせた。そして、急に背筋を伸ばし、少し声を大きくする。

「そ、それでしたら、あの…私とデートしていただけませんか?」

「…………」



 間…。



 このような形で龍麻を絶句させたのは紗夜が初めてではなかろうか? 聞きなれない単語と人生始まって以来の申し出に、龍麻は顔中に脂汗を浮かべていた。

 (ぬう…。まさかこのような場所で奇襲を受ける羽目になろうとは…! M1100ショットガンを手放したのは失敗であった…!)

 彼自身、既に忘却していたのだが、転校して間もない頃、小蒔に《葵の恋人候補》と称され、どえらい誤解をした事があった。そしてその誤解は、実は今も続いているのである。高校生の恋愛事情を知るべく恋愛シミュレーションゲームなどもやった彼であるが、結局のところ男女関係に付いてはまったく成長していないと言っても過言ではない。

「あの…駄目ですか?」

「い、いや、その…」

 うろたえ、吃る龍麻。この場に京一がいたらさぞかし冷やかされ、アン子がいたら絶対的な弱みを握ったとガッツポーズを取るところであろう。

「あの…一度だけで良いんです! お願いします!」

「そ、それほど深刻にならなくても良い。了解が良く事情できんが、理解する」

「わあ、良かったあ、勇気を出して」

  何やら単語の順番がおかしな龍麻の言動は敢えて無視し、紗夜は胸に手を当ててますます顔をほころばせた。いつもどこか儚げな印象が付きまとっている彼女だが、この時ばかりは本当に嬉しそうだ。

「それで、デートというのはどのような段取りになっているのだ? 爆薬の投棄や現地連絡員との接触地点は? 帰投ヘリは何時にやってくる?」

「私、緋勇さんに見せたいところがあるんです!」

 しつこいほどに言動がおかしい龍麻を、紗夜は半ば強引に腕を取って歩き出した。こういう所は意外と積極的らしい。龍麻は半ば引きずられるようにして紗夜とデートする事になった。





「あ! 緋勇さん! あそこの魚、可愛い!」

「…フグの一種だな。毒を持っていないため、海水魚ながら鑑賞用として人気があるらしい」

「あれは…ウツボですね」

「毒があり、危険な魚だ。しかし一メートルを越えるものは食用として美味だ」

「きゃっ、サメですね。やっぱり恐そうな顔ですよね」

「うむ。カリブ海で麻薬シンジケートの魚雷攻撃を受けた時は本当に危なかった。三メートル級のハンマーヘッドシャークの群れだったが、今考えると良く生きて帰還できたものだ。………忘れてくれ」

 以上、《しながわ水族館》に現れた風変わりなカップルの会話である。龍麻と紗夜がいるのは《しながわ水族館》の売りである《トンネル水槽》であった。ここはほとんど視界一杯に水と魚が映るので、むしろ魚たちに観察されているような気分にさせられる。

「はあ…なんだか首が痛くなってきちゃいましたね。緋勇さん、そろそろ出ましょうか」

「うむ」

 平日の午後で空いているのを良い事に、ずいぶんと長い事魚たちを眺めていたので、龍麻は紗夜に同意する。特殊部隊員として訓練された龍麻だが、その生活の中で唯一人間らしい行為の一つに《釣り》があった。無論、食糧確保が目的であったのだが、その経験が彼の数少ない趣味の一つとして定着している。そして目の前を横切るシマアジやブリ、クエなどを見るに付け、出来れば《釣りたい》という願望も感じたのだが、さすがにそれは無理というものだ。

 紗夜に連れられるまま龍麻が来たのは、水族館の向かいにある公園であった。雲間から顔を覗かせる太陽はだいぶ傾いてはいるが、暗いというほどの事はない。人工池の周りには散歩している老夫婦や、水辺で遊ぶ子供たちの姿もある。

 公園のベンチで少し凝り気味の首を揉み解しながら、それらをしばらく眺めていた二人だが、不意に紗夜が口を開いた。

「あの…龍麻さんは、奇跡って信じますか?」

「奇跡?」

「はい。奇跡です」

「概念が定まらないものを俺は信じない」

「は?」

 何気に難しい言い回しに、紗夜は目をぱちくりさせた。

「この世の全ての事象は、原因があってこそ発生するものだ。無から有は生じない。たとえば京一は知っているな? 奴が今度のテストで満点を取ったとしよう。恐らく教師も周囲の者もそれを《奇跡》と称するだろう。だがそれは、奴が今行っている努力を認めていない事に通じる。奇跡、運命、偶然。俺にはそれら全てが、敗北主義者が自らの敗北を正当化するために作り上げた枕詞に思える」

 久しぶりの、龍麻の長台詞である。そしてやはり、哲学的だ。いるかどうかも解らない神に祈ったり、奇跡などに頼るようでは、闘いに勝利などないと分かり切っている男の言う言葉だ。説得力が違う。

「私も…そう思います。だって…奇跡が本当にあるなら…大切な人を失う事なんてないですものね」

「その通りだ。しかし人間があらゆる状況を想定し、情報を収集し、無数の戦術を組み上げ、そして行動を起こした時、極めて希な事であるが、《奇跡》という単語でしか称する事が出来ぬ現象があるのも事実だ。使い古された哲学には《人事を尽くして天命を待つ》という言葉がある。人間が努力を怠らず、労力を惜しまず、あがき、挑み続けていった先には、たとえ不可能と思われていた未来さえ、掴むことができるのだ」

 無意識の内に、龍麻は左腕を撫でていた。失われた《仲間》たちとの絆。大きく刻まれた心の傷。そして最も大きな誇り。《レッドキャップス》のエンブレムを。

 (俺が生きている事も、奇跡と呼ぶ奴はいるだろう)

 龍麻はそんな事を思う。世界でも最高レベルにあった戦闘部隊に所属していたとは言え、アメリカという一超大国と闘って生き延びているのだ。それは世界の軍事関係者にとって、奇跡などという言葉では足りないほどの現象なのである。

「…龍麻さんは…強いんですね…」

 何か、絞り出すような紗夜の声が龍麻を思考の世界から呼び戻した。

「そうだ。龍麻さんは、夢ってありますか?」

「夢? 将来の展望の事なら…まだ考えていない」

 考えていないというより、考えた事もないのだ。今まで、生き残る事だけで精一杯だった。身分を悟られぬよう、過去を知られぬように身を潜め、目に見えぬ暗殺者の影と闘いながら生きる。それがどれだけ困難なことか。近頃派手に立ち回る機会の増えた自分だが、本質的にはあまり変わっていないと思う龍麻であった。

「私は…夢があります。えへへッ、笑わないでくださいね。それはね…看護婦さんになること」

 紗夜は一旦言葉を切り、表情の変わらぬ龍麻の顔を覗き込んだ。

「あの…変ですか? こんな夢…」

「いや、そうではない。看護婦とは病気や怪我に苦しむ人々を癒し、勇気付ける立派な職業だ。良い夢だと感動していたのだ」

「もう…からかわないで下さい」

 紗夜は照れくさそうに顔をそむける。しかし龍麻は自分の言い方がまずかったのかと額に脂汗を浮かせていた。

 ややあって、紗夜はややトーンを落とした口調で話し始めた。

「私…小さい頃に両親を亡くしているんです。飛行機事故で…」

「……」

「たくさんの人が、その事故で死にました。私は父と母に護られて、ほとんど怪我もなかったそうです。でも父と母は――」

 その先の言葉を、紗夜は告げることができなかった。しかし龍麻がいかに朴念仁でも、語られない言葉の察しはつく。そして、それを口にすべきではない事も。

「…だからかも知れません。看護婦さんに憧れるのは――。看護婦さんになって苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。誰かの命を…」

 そこで再び、紗夜は言葉を切った。今度のそれは、龍麻でも察しがつかなかった。唯一つ、彼女が何か、秘密を持っているという事だけは判ったが。

「ごめんなさい。こんな話して…」

 急に紗夜が謝ってくるのを、龍麻は困惑の眼差しで受けた。と、言っても彼の目は見る事ができないのだが。

「でも龍麻さんには聞いて欲しかったんです。だって、私ッ――」

 束の間、何かに激昂するかのような紗夜であったが、急に我に返って黙り込む。龍麻の方は例のシミュレーションゲームで似たような場面を体験していたが、紗夜は生身の少女である。当然、この場の対応など、彼にわかる筈がない。

「いえ…何でもないです…。今日は付き合ってくれてありがとうございました」

「う、うむ…」

 そして紗夜は唐突に、

「もう、帰ります…。本当に、ありがとう」

 その言葉が、龍麻に何か警鐘を与えた。秘密を持つ者が、その秘密のために自分を押し殺す瞬間。ある作戦の時、レッドキャップスを襲った女暗殺者がそうだった。その暗殺者はなんと、ごく普通の平凡な生活を送っているただの主婦であったのだ。一人娘を誘拐され、その命と引き換えにレッドキャップスを倒せと命令された。そしてナンバー12トゥエルブが――

「ごめんなさい…」

 正に、あの時と同じ言葉を発し、紗夜は身を翻して走り去った。理解不能な事だったのと、あまりにも突然の事で虚脱状態にあった龍麻は走り出すのが遅れ、彼らしくもなく紗夜を見失ってしまった。

「むう…」

 なぜあの場面で謝罪の言葉が――。自分とデートした事か? それとも夢を話した事か? そうではない事くらい、いくら龍麻でも判る。しかし、それでは何の謝罪かと聞かれると、判らない。考えられる可能性があるとすれば――

「む…!?」

 その時龍麻は、足元にひらひらと舞ってきた紙片に目を留めた。

 何気なく拾ってみると、それは一枚の写真であった。細面の青年に、幼い少女が抱きついている写真だ。

「比良坂紗夜…」

 たとえ年齢が違っても、骨格から人相を見分ける龍麻が見間違えるはずもない。少女は比良坂紗夜だ。青年の方は、判らない。しかし紗夜の懐き方と、写真全体の雰囲気から察するに、恐らくは兄弟、少なくとも親類以上ということはあるまい。

「………」

 もし紗夜が落とした物ならば、いつか返さねばなるまい。しかし、である。戦闘マシンとして育て上げられていた龍麻は、嫌が応にももう一つの可能性を探り出していた。それは紗夜が、故意に落とした物ではないかという可能性だ。

 二度目は偶然、三度目は必然。それ以上となると、龍麻は無意識下で警戒態勢に入る。自分の秘密を知らずして近付いてくる者も、自分の秘密を知りつつ近付いてくる者も、いつか《敵》に回る可能性がある。《デート》の間中、龍麻は彼女に対して警戒していた自分に初めて気が付いた。

「因果な性分だな」

 自嘲気味に呟き、龍麻ははっとなった。自分が、そんな風に思えるようになっている事に驚いたのだった。





 第七話 恋唄 1    完



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