第六話 友 4
「…入り口に見張りが二人。裏手に二人。バイクが一三台。タイヤの食い込み具合から見て…総勢一五人プラスマイナス二人というところだ。む…バイクが二台追加だ。プラス三人」 中学時代の醍醐が溜まり場としていたという廃屋から五〇メートルほど離れた高台で、ライフルのスコープを覗きながら龍麻が言うのを、葵がメモを取る。醍醐は当初、真っ直ぐ凶津のアジトに向かうつもりだったのだが、龍麻の指示により、相手の戦力分析の出来るここに来たのである。 「敵戦力は二〇人弱だ。基本装備は棍棒とナイフだな。しかし人質の有無が分からん」 「二〇人か…。ノルマ三人ちょい。楽勝だぜ」 そんな事を言う京一の頭を盛大に小突く龍麻。京一は涙目になりながら頭を抱えて蹲った。 「そういう考えが作戦に支障を来す。たかがアマチュアと思うな。百戦錬磨のテロリストを相手にすると思え。お前たちも、いいな?」 「おおよ! 龍麻サン!」 「まかせて!」 「うむ! 油断は出来ぬな!」 直接戦闘に参加する雨紋らが気合の声を上げる。雨紋の槍と藤咲の鞭は先日新調したばかりで、旧校舎での実戦訓練以外では初の実戦使用である。紫暮は空手着の上に羽織っていたジャージを脱ぎ、きちんとたたんでバッグに仕舞う。裏密や高見沢は何やら怪しげな薬の入ったビンやフラスコを取り出し、用途や効用別にポケットに仕分けする。 「Attension!」 各自装備点検が終了したところで、龍麻はいつものように作戦を説明しようとした。 普段ならば、全員が黙って龍麻の練った作戦を聞き、己の配置や役割を頭に叩き込む。しかし今回は意外、と言うか、むしろ当然の場所から声が上がった。 「龍麻。その…済まないが、ここから先は俺一人で行かせてはもらえないだろうか?」 「却下」 間髪入れず、龍麻は断じた。 「まずエントリーだが…」 「龍麻!」 何事もなかったように続けようとする龍麻に、醍醐は思いつめたような顔で詰め寄った。 「醍醐。お前の発言は許していないぞ」 「全ての原因は俺にある」 醍醐は苦渋に満ちた顔で言った。 「この一件は俺の手で決着を付けねばならん。皆を巻き込む訳には行かない」 醍醐ならばきっとそう言うだろうと予測済みであった京一は、おもむろに彼をなじろうとしたのだが、龍麻の表情に気付いて押し黙った。 「――醍醐、お前は風邪を引いているようだな。今回は待機していろ」 「なに!?」 またしても、龍麻の唐突な物言いである。そして今回も、醍醐のみならず、他の仲間たちも絶句し、あるいは呆気に取られた。 「残念ならが葵も舞子もこの場でお前の風邪を治す事は出来ん。お前は家に帰って休め。作戦は我々だけで遂行する」 龍麻が醍醐を《風邪》だと言い張るのは、醍醐を闘わせないためだと判る。しかし、犯人は醍醐のかつての親友であり、そもそも事件の発端は彼に対する逆恨みである。それを解決すべきは、やはり醍醐本人にあるのではなかろうか? 「…どういう事だ?」 「言葉通りの意味だ。お前は作戦から外す」 「なぜだ?」 ただでさえ巨漢の醍醐が、さらに倍加したかのような錯覚に仲間たちは陥った。京一にとって龍麻と対峙した醍醐を見るのはこれで二度目だが、《力》を得た今の醍醐はあの時とは比べ物にならないほどに強く感じられる。 だが、龍麻は―― 「戦闘時における指揮権は俺にある。これは命令だ」 「龍麻!」 恐らくここまでは龍麻も押さえていたのだろう。《命令》という言葉を発した自分に対して醍醐が反抗した瞬間、龍麻は彼の水月に拳を叩き込んでいた。仲間内でも最大の防御力を誇る醍醐が、声もなく腹を押さえて膝を付く。 「反抗は許さん。今のお前は作戦そのものを破壊する危険な存在だ。――さて、フォーメーションだが…」 この事件の中核を成す醍醐を沈め、何事もなかったように話に戻る龍麻に対して注がれたのは、仲間たちの困惑の視線であった。 彼らとて、今の醍醐が冷静さを欠いている事は分かる。それが彼自身の危険につながる事も。しかしもう少し言い様があっても…と思うのが、龍麻の日常を知らぬ仲間たちの想いだった。 「何か言いたい事が有りそうだな。一分やる。言いたい事があるのなら聞いておこう」 そんな言葉を、龍麻は今まで一度も発しなかったと、京一と葵は顔を見合わせ、そして気付いた。龍麻はまた、自分たちの覚悟を試していると。 「言いたい事って訳じゃないけど…なんか、そういうのって良くないわよ」 「うむ…。醍醐とて、責任を感じているからこそだろうしな」 「龍麻サン…俺サマも龍麻サンたちと出会わなかったら、独りで行ったかも知れなかったから…」 もとより、真神の仲間たちの絆の強さは藤咲たちも承知の上だ。だからこそ、今この場で醍醐を外そうとする龍麻の心情が理解できなかった。 「他には?」 ひとしきり声を上げた者たちも、常と変わらぬ龍麻の調子に黙り込む。龍麻は改めて一同を見回して宣言した。 「では新たな作戦を指示する。全員、この場にて待機」 「な、なんだって!?」 ああ、と天を仰いだのは京一と葵だけで、他の者はまたしても驚かされる事になった。 「俺は単独でサイレント・エントリーを敢行する。敵殲滅後、人質を保護しろ。京一、お前が指揮を執れ」 そこまで言うと、龍麻は鞄からAUGを取り出して再び組み立て始めた。銃身は三七〇ミリ。サイレンサー使用。赤と青のテープで色分けされた弾倉の内、赤いテープの貼られている弾倉をセットする。そこから顔を覗かせている弾頭は完全被甲弾だ。 「ちょっと…それ、どういう事よ!? 醍醐だけじゃなく、あたしたちまでここで待っていろって言うの!?」 「人質の救出は重要な役目だぞ。気を入れてかかれ」 AUGの次は、常に携帯しているウッズマンだ。銃自体が小さいため、サイレンサーが異様に太く見える。 「そ、そうかも知れないけど、なんであたしたちまでのけ者にするのよ!?」 「そうだぜ龍麻サン、俺サマだって納得いかねえよ!」 「ダーリ〜ン…」 仲間たちの声がはっきりと非難の調子を帯びても、龍麻の態度は変わらなかった。AUGを引っさげ、立ち上がる。雨紋たちの方は見向きもしない。既に伝えるべき事は伝えた後だからだ。 「京一! 黙ってないであんたも何か言ってよ」 「何か? 何か…ねえ」 珍しく、神妙に言う京一。手にした木刀で肩を叩くのは、非常に機嫌が良い時か、非常に悪い時だ。 「なあ、ひーちゃん。俺たちは確かに並みじゃねえが、それ以外はただの高校生だぜ。一応、理由の説明くらいはしてってやっても良いんじゃねえか? 何しろ実戦経験も浅いし、現実認識だって甘いんだからよ」 「…お前が言ってやったらどうだ? この場合はお前の方が説得力がある。俺は、時間が惜しい」 「それでももうちょっとだけ待ってくれ。…なあ醍醐、それに皆もよ。今の俺たちが何しに行くか判ってるのか?」 京一は龍麻の背後、醍醐の前に立った。 「特に醍醐。お前はここに何しに来た? 大昔の感傷に浸るためか? それとも過去にケリをつける為か? …違うだろ? 俺たちは小蒔を救出するために来たんじゃねえのか?」 「……!」 「お前たちだって、小蒔が誘拐されたかも知れねェってんで動いてくれたんだろうが。それがなんでここまで来た途端に闘いの方に目が向いちまうんだよ? 小蒔の事はどうでも良くて、暴れたいだけだったのかよ?」 「そ、そんな事ないわよ! で、でもさ…!」 「そんな言い方はねえだろ! 京一!」 その時、AUGに初弾が装填される金属音が鋭く鳴った。 「俺は自殺願望者や英雄願望者を仲間に加えたつもりはない」 龍麻は冷然と言った。 「醍醐、お前は凶津を殺せるか?」 「!!」 「殺せないなら、お前が殺される。小蒔も、他の人質も、空手部員もだ。雨紋たちが付いていっても結果は同じだ。全員が死ぬ。確実にな」 酷薄だが、口調そのものにまったく変化がないのは龍麻の恐ろしいところだ。《死》を現実のものとして受け入れている男は、時として酷く冷酷だ。 「一人で行くと言うお前。そしてお前を一人で行かせる事に賛成する者に問う。石化能力者をリーダーとする二〇名のチンピラ相手に、小蒔を始めとする人質の救出、敵の殲滅が一人で行えると思うか?」 「……」 「結果は分かりきっている。人質にナイフ一本突き付けられれば、お前たちは何一つ出来なくなる。嬲り殺しは必至だ」 「それではどうしろと言うんだ! いや、お前ならどうすると言うんだ! 凶津を殺して、それで何もかも終わりにすると言うのか!」 遂に、醍醐が激昂した。今まで悩みに悩んでいた事を容赦なく切り捨てられ、醍醐自身の選択をまったく認めようとしない龍麻に、仲間たちにも不快感が伝染する。龍麻という男の中に甘えや妥協など皆無に等しい事に、今更ながらに気付いた彼らであった。 「今のお前と同じ行動を取って死んだ奴を、今まで何人も見てきた。そして俺はそのために創られ、今も生きている。俺に言えるのはそれだけだ」 「………!」 今度こそ絶句した仲間たちを尻目に、龍麻はAUGを抱えて歩き出した。 互いに顔を見合わせ、慌てて彼の後を追おうとした雨紋や藤咲であったが、ひょいと差し出された木刀がそれを遮った。 「な、なにすんのさッ!?」 「そいつは俺の方が聞きてェな。お前たちこそ、ひーちゃんの後を追って何をするつもりだよ? 半端な気持ちで闘いに行って、奴の足手纏いになるつもりか?」 「京一!」 一斉に京一に詰め寄る雨紋に亜里沙。だが、京一も彼らに対して木刀の切っ先を向けた。その剣先から迸る《気》の凄まじさ。――京一は本気だ。 「今の指揮権は俺にある。行きたきゃ、俺を倒して行くんだな。だが――ぶっ殺されるぜ。ひーちゃんに」 「あ、アンタ…ッッ!」 亜里沙が口を開きかけたところで、意外なところから怒声が浴びせられた。 「やめなさい!」 恐らく真神の生徒でも、《真神の聖女》の怒声を聞いたのは京一と醍醐、そして裏密が初めてではなかろうか? あまりにも意外すぎる人物が初めて怒りの表情を露にした事で、仲間たち全員が呆然と、無骨一辺倒の紫暮や、何を考えているか判らない裏密までが呆気に取られた。 「醍醐君! 私たちの《力》は何のためにあるのッ!? 他の誰かを傷つけるため? それとも誰かと争うためなのッ!?」 「そ、それは…!」 「ここに来たのは何のため? 昔の友達と闘うため? 争うため? 違うでしょう! 小蒔を助けるためでしょう!」 白い美貌を怒りの朱に染め、固めた拳を小さく震わせながら怒鳴る葵。こんな葵を見た事は、恐らく親友の小蒔でさえあるまい。そして醍醐は、本来の力を発揮すれば、吹けば飛ぶような少女の気迫に完全に圧倒されていた。龍麻のように、野生の肉食獣に睨み据えられたような威圧感ではなく、いかなる大悪人でさえもその滋眼をもって改心させるという、いわば菩薩の包容力が醍醐の頑なに凍り付いた心をも溶かしていくようだった。 「醍醐ォ、俺たちはそんなに信頼できねェか?」 葵に気圧され、うろたえる醍醐に、京一が更に畳み掛ける。 「事の発端は確かにお前だ。だがその凶津って奴は、お前だけじゃなく小蒔を狙ったんだ。うちの空手部員もな。もし凶津がお前だけを名指しで挑んで来たってんなら、俺たちもひーちゃんも手は出さなかったろう。だが奴は、わざわざ俺たちを巻き込むようなやり方で挑んできたんだ。こいつはとっくに、お前だけの問題じゃなくなっているんだよ。――小蒔は俺たちが必ず助ける。俺たちにとって小蒔は大切な仲間だ。皆も、そうだろッ?」 当然だ! もちろんよ! と、口々に仲間たちが肯く。 「そうとも。醍醐、お前だってそうだろ? 俺たちの、大切な仲間だろ? ―― 一人で行かせられる訳ねェだろうが」 「京一…」 見かけも言動も軽薄な、しかし暖かくも熱くもある親友の言葉と、それだけ自分を必要とし、安らぎを与えてくれる仲間たちの気持ちに、醍醐は自分が昔の凶暴なだけの自分に戻っていた事を見返り、深く反省した。そして龍麻が繰り返し語っていた《最良の選択》や《ヤマアラシのジレンマ》の意味が、おぼろげながら解ったような気がする。 どんなに肉体を鍛えようと、人間は弱いものだ。他人を思いやるどころか、自分さえ救えず、人と解かり合おうとしながら傷つけ合ってしまうものだ。 だが、それを怖れてはならないのだ。無力であると思うのなら、強くなる事。解かり合う事が出来ないのならば、解かり合おうとする事。どれほど足掻き、傷付き、苦しもうとも、昨日より今日、今日より明日、確実に成長すれば良いのだ。昨日を振り返るのは良い。だが、昨日に留まってはならない。目は常に、未来を見ていなければならない。 龍麻は説教を垂れたのではない。彼はそうやって生きてきたのだ。実の孫、それも五歳の子供に日本刀で切り付けて片目を奪い、散弾銃で撃つような祖父も、対テロ特殊部隊レッドキャップスとして屠ってきた敵も、レッドキャップスを罠に落としいれたアメリカ軍も、そして、彼と共に自由を求めて戦ったレッドキャップスの仲間たちも、龍麻の心には重い鎖となって絡み付いている。だが彼はそれを引きずりながらも、明日を目指して歩き続け、闘い続けてきたのだ。そして恐らく、この先も。 「さあ、どうする? 今のお前にとって何が一番大切なんだ? ――考えている時間はないぜ。少しでも遅れれば、小蒔は助かるだろうが、二〇人以上の不良とお前の元ダチの命と、俺たちの優秀な指揮官が失われる。そして今後も起こるだろう事件に対して、指揮官を失った俺たちは対処できないだろうぜ」 暫し、沈黙の時が流れた 「…………済まんな、京一」 一度うつむき、顔を上げた時、醍醐は、かつて龍麻に完敗した時のような、清々しい顔になっていた。 目の前に重く垂れ込めていた暗雲が、妥協なき戦士によって切り裂かれ、そこから《友》の、《仲間》の優しい光が差し込み、導いてくれた。悩みに悩んでいた事の答えは、これほど近くにあったのだ。 「それに美里も…。俺はどうやら、とんでもない思い違いをしていたようだ。仲間を守らねばならぬのは当然だが、その仲間も強くあらんとする者たちだという事を忘れていた。今なら、龍麻の言葉の真意も解る。全てを解決したいのならば、一人ではなく信頼する仲間たちと共に闘えという事だったんだな」 二年以上も悩んで、そんな事をようやく解ったのかよ、と京一は毒づき、そっぽを向いた。どうやら自分で言っておいて、照れくさくなったらしい。葵も怒りの表情を消し、いつもの優しい微笑を京一に、そして醍醐に向ける。 「本当に済まなかった。雨紋、藤咲、高見沢、紫暮。…裏密も」 今、信頼すべき仲間たち、小蒔のために集まってきた仲間たちに、醍醐は素直に頭を下げた。 「いや、俺たちはただ…」 「そうよ! 改まれるとなんだか恥ずかしいじゃない!」 「みんな仲良し〜、舞子嬉し〜」 「うふふふふふふふふ〜」 「はははっ、実に良いものだな。仲間というものは」 それが、仲間というものだ。人間は誰でも過ちを犯す。それを責めるのではなく、許せる間柄。それが《仲間》というものだ。 「皆と行くんだな、醍醐?」 「ああ、皆で桜井を、そして被害に遭った人たちを助けよう。それに急がないと、龍麻に人殺しをさせる事になるからな」 それはねえよ、と京一は思ったが、口には出さなかった。龍麻は常に自分たちの予想を上回る言動と行動をするが、今、この時だけは、京一にも彼の行動が予測できたのだ。 だから代わりに、こう言った。 「よっしゃ! んじゃ、俺からの命令だ。――全員でひーちゃんを支援。以上だ」 『応ッ!』 走れば僅か一分もかからない距離。醍醐を始め、全員が廃虚に続く工事用の幌を潜った時だった。 「…何をしている?」 背後からかけられる声。京一以外、全員が飛び上がるほど驚いた。龍麻の事だからとっくに戦闘を開始していてもおかしくないと思ったのである。 すかさず、京一がすまし顔で言う。 「蓬莱寺京一以下七名、ひーちゃんを支援するぜ」 「――了解した」 実にあっさり頷く龍麻。先ほどの一件は気にならない――と言うより、こうなる事は全て予測できていたという事か。 やや緊張したまま、醍醐は龍麻の前に進み出る。 「すまん、龍麻。俺は…」 しかし龍麻は、 「厄介なのは一人だけだ。気を抜くな」 それだけ言うと、彼はぽんと醍醐の胸板を叩いて、先頭きって歩き始めた。 「龍麻…。私たちが来ると解っていたのね」 「あいつは俺たちを軽く見ちゃいねえよ」 「マジで凄えや。龍麻サン」 「龍麻…素敵…」 「ダーリン、かっこいい〜」 「うふふふふふふふふふふふふふ〜」 「なるほど。まさしく《漢》だな」 仲間たちは口々に龍麻を賛じ、少しでも彼に不快感を抱いた自分を恥じた。現実主義で、余り他人の込み入った事情には立ち入ろうとせず、時にその言動は酷薄だが、それらは全て指揮官として、友として周囲を思いやる心からのものだ。機械のように冷徹な判断を下しつつも、人間らしく他人を思いやる事の出来る男。そんな男と知り合えた事、《仲間》と呼んでもらえる事を、仲間たちは素直に喜んだ。 時代の波に取り残された廃虚はどこも似たような光景であろうが、ここには奇妙な熱気がこもっていた。比較的古くからある廃虚だけに、かつての醍醐のように不良たちが溜まり場にしてきたせいだろう。煙草の吸い殻や缶ビールの屑などが堆く積まれているが、良くある廃虚のように散乱してはいない。捨てっぱなしは同じだが、それなりにまとめて捨ててあるのは、不良たちも自分の居場所くらいはゴミを散らかさないためだろう。 それだけなら彼ら不良どもにも少しは可愛いところがあると苦笑できたかもしれない。しかし今、龍麻たちの目の前にある光景は常軌を逸し、仲間たちの激しい怒りと憤りを誘うには充分であった。 「これが…皆石化された人たちなの…?」 葵が真っ青な顔で呟いたのを切っ掛けに、仲間たちも嫌悪を吐き出す。そうしなければ、身体が内側から腐っていくとでもいうように。 そこに並んでいたのは、無数の石像であった。大半が若い女性であるが、中にはその女性たちの恋人か兄弟、あるいは親と思しき男性の姿もある。それにしても、その全てに刻まれている恐怖の相ときたらどうだ? どの顔にも迫り来る恐怖の前に引き攣り、嘆き、醜く歪んだ表情が貼り付いている。およそ人間が作り得る、最大クラスの恐怖の相ばかりであった。しかも若い女性に関しては、明らかに口には出せない行為に及ばれた生々しい姿のものがほとんどであった。 「…キレるよ。あたし。…マジで…!」 藤咲の手の中で鞭がギリリ! と音を立てる。気丈な彼女をして、この有り様だ。 「俺サマもだぜ、姐サン…。こんな事する奴らはただじゃおかねえ…!」 雨紋もまた、唐栖戦の時でさえ外すに至らなかった槍の覆いを外し、穂先を剥き出しにする。見た目に反して心優しい彼をここまで怒らせるのも無理はない光景であった。高見沢などは声も出ないし、紫暮も必死で激情を押さえているが、拳が白くなるほど固く握り締められている。 「うふふふふふふふふふ〜、さすがは《邪眼》ね〜。ミサちゃん、久々に怒ったぞ〜ッ!」 口調こそ本当に怒っているかどうか解らないのだが、龍麻や京一、葵などの、特に気に敏感な者は彼女から立ち上る不穏な気を感じ取った。裏密も京一や醍醐を使って人体実験をしたりする事があるが、はた迷惑ではあるものの実害があった試しはない。 「…小蒔はいないようだな」 ただ一人、冷徹を極めている声が皆を黙らせる。龍麻の言葉は、明らかに誰かに投げかけられたものだったのだ。 「おおよ、そこにゃいねェよ」 石像の陰から姿を現わしたのは、鎧扇寺で目撃され、さらに被害者の口から語られた犯人像を忠実に具現していた。街を歩けば目を引き、ついでに身も引かれる奇抜なファッション。そして、暗く冷たい目。 「凶津…」 「よお、醍醐。しばらくだなあ」 龍麻たちをぐるりと一瞥し、凶津は馬鹿にするように挨拶をよこした。 「…凶津。お前、変わったな」 「ククク。俺は何も変わっちゃいねえよ。もし変わったとすれば、お前に裏切られてからだな」 醍醐の心情を知らぬではない仲間たちから敵意が吹き上がる。ただ一人、葵だけが怒りを伴わせずに異を唱えた。 「裏切っただなんて…! 醍醐君はあなたのためを思って…!」 「良いんだ美里。あの状況ではそう取られても仕方がない」 せっかくの葵の言葉であったが、醍醐は自らそれを遮り、そんな醍醐を凶津はそっくり返って笑った。 「相変わらずの偽善者ぶりだな、醍醐よォ。そいつのおかげで俺がどれほど惨めな想いをしたか、お前にゃ一生解らねえだろうよ」 「…そうかも知れんな。桜井はどうした?」 《お前には解らない》を否定しなかった醍醐に、凶津は少なからず驚いたようだった。恩着せがましい、おせっかいな奴…それが凶津の、醍醐に対する印象なのである。 そんな戸惑いを隠すように、凶津はいかにもわざとらしくシーツのかけられた石像を指し示した。そして皆の注目を一身に集めたところで、シーツを取り去った。 「!!!」 予想はしていても、やはりそれは衝撃的な光景であった。あのうるさいくらいに明るい小蒔が、今や物言わぬ石像に成り果て、見る影もなくなっている。しかし、その中にかすかな救いを見出すとすれば、その表情には恐怖など微塵もなく、凛々しくも相手を睨み据えている事であろう。彼女は石にされきるその瞬間まで、凶津に屈服などしなかったのだ。 「どうだ、中々の出来だろ」 驚愕が絶望へ、それが怒りへと転換されつつある醍醐を嘲笑うかのように、凶津は不遜な手つきで小蒔の石像を撫で回した。 「強いて言うなら、ツラが気にいらねェな。他の連中は足先を石にされただけで泣き喚いて、勧んでケツの穴まで舐めやがったのに、この女、最後までビビリもしやがらねえ。俺は恐怖に歪む顔を見ねェとイケねェってのに」 「凶津ッ!!――貴様ァッ!!」 ゴオ! と突風のごとき闘気が醍醐の全身から吹き出し、仲間たちさえも思わず我が身を庇った。龍麻は別格として、《気》の絶対量も闘気もトップクラスの醍醐が本気で《力》を解放したのであった。 「そうだ! お前のそのツラが見たかったのさ! チンケな偽善者ヅラしたお前なんぞ、お前じゃねえ! 俺と同じ、手の付けられない狂犬こそがお前の本性さ!」 さも満足そうに叫ぶや、凶津は右手に填めていた手袋を取り去った。そこにあったのは手首から先が青黒く変色した手。そして、《負》の気を放つ者が纏う、血色のオーラが凶津を包む。 「さあ! 決着を付けようぜ、醍醐!」 石像が乱立するこの場所で闘う事は彼にとっても本意ではないらしい。凶津は一同を手招きつつ、廃虚の外へと身を翻して行った。 「望むところだ! 凶津!!」 大声で叫び、凶津を追うべく一歩を踏み出した醍醐であったが、寸前で思いとどまる。龍麻の指示は得ておらず、小蒔もこのままにはしておけない。 「…奴の能力は《邪眼》ではなく、《エビル・ハンド》のようだな」 この状況下でも、常と変わらぬ口調で龍麻が言った。 「バビロニアのネブカドネザル王が使ったと言われるものに近いわね〜。でも〜触られなければ大丈夫〜」 「――紫暮。一人はここに残って小蒔たちを護衛。チンピラどもの自棄行動に備えろ。醍醐、やれるな?」 「うむ! もう俺は迷わん! 凶津を、倒す!」 「油断するな。――全員だ」 その一言で、仲間たち全員が、頭に昇っていた血がすうっと冷めるのを知った。たとえどのような雑魚が相手であっても、頭に血が上っている状態で100パーセントの実力を発揮する事は出来ない。やはり龍麻は、理想的な指揮官であった。 「行くぞ」 全員の精神状態が戦闘向きになったのを《気》から読み取り、龍麻は宣言した。 外、といっても、そこは廃虚の内部に過ぎない。外側は工事用の幌で覆ってあっても、内部は何年も放置されて荒れ放題。かつては工場で働く労働者の憩いの場であったろう、やや広めの中庭である。不況という奈落に落ちた現在、このようにうち捨てられた土地は都内といえど少なくない。 既に外からの観察で中庭の状態も走査済みの龍麻は、仲間たちを引き連れて真っ直ぐ凶津と、その部下であるチンピラどもに向かって歩いて行った。相手の数は凶津を含めて21人。それも龍麻の分析通りであった。ついでに、凶津以外は取るに足らない雑魚であるという事も当たっている。 「何だよ、今回も男付きかよ。それになんだァ? あのモデルガン野郎は」 「良いじゃねえか。あのビン底眼鏡はともかく、女の方は今までにない上玉ぞろいだぜ。おお! 看護婦のコスプレまでいるじゃねえか!」 「たまんねえや。凶津さんに付いていれば女にゃ不自由しねえもんな」 既に戦闘態勢にある一同を前に、まだそんな事を言い交わしている辺り、まごう事無き雑魚ばかりであった。但し持っている武器は《新宿真神の醍醐》を相手にするとあって、バットには釘が打ち付けられ、ナイフも大型のサバイバルナイフ、挙げ句には本身らしい日本刀を手にしている者までいた。 「ケッ、頭数ばかり揃えやがって」 挑発的な、と言うより、挑発のために京一が放った言葉を、凶津は笑って受けた。 「そいつはどうかな? 仮にも醍醐を相手にするために用意した連中だぜ。尻尾を巻いて逃げるなら、男どもは逃がしてやっても良いぜ」 京一は再びケッと吐き捨てたが、それは心底呆れ返ったからであった。さっきまでの、迷いも甘さもあった醍醐一人ならばともかく、こちらにはあらゆる意味で常識を超えた凶悪で危険な人間がいるのだ。現に―― 「それは無理だ」 龍麻が薄く笑う。例の、悪魔的な笑み。まだ、今ひとつ様にならない。 彼はポケットから携帯電話を取り出し、ある番号をプッシュした。すわ、警察でも呼ぶつもりか!? と身構えた不良たちであったが、次の瞬間、周囲で湧き起こった爆発に度肝を抜かれた。 「な、なにィ!?」 仲間達を待つ僅かな時間にセットしたであろう爆弾によって鉄塔がへし折れ、並べて駐車してあったバイクをまとめて叩き潰す。廃虚の壁が崩れ柱が倒れ、中庭に通じる全ての通路が塞がれた。――何という事か!? 龍麻は凶津や不良たち共々、自らも仲間たちも閉じ込めてしまったのだ。 「――これで誰も逃げられない」 冷酷無比な仮面を貼り付けた龍麻に、京一が突っ込む。 「ひーちゃん! 俺たちまで閉じ込めてどうするんだ!?」 龍麻、答えて曰く。 「醍醐、凶津はくれてやる。我々は雑魚を食い散らすだけで我慢するが、それだけでは面白くない。――手足の二、三本で済むなどと思うな。両手両足をへし折ったら、五体満足に戻してもう一度、いや、何度でもへし折ってやる。それが嫌なら死にもの狂いでかかってくるがいい」 声高らかに宣言する龍麻の、なんという凛々しさ、恐ろしさ。ここに来てようやく、京一と葵は、この一件で誰よりも激怒していたのは龍麻であると知った。かつての仲間たちを全滅させられた過去を背負う彼だ。そのため、仲間を想う気持ちは他の誰よりも強い。その彼が不覚にも小蒔を拉致され、その身を危険に晒す事になった。指揮官として当然警戒すべき所を忘れた自分に対する怒り。《仲間》に手を出された怒り。それらは龍麻の中で渾然一体となり、本当は腸が煮え繰り返るような思いを味わっていたのだ。酷薄な言動も態度も、全てはその怒りのため、そして冷静さを欠いている仲間たちを危険に晒さぬためだったのだ。 そして今、龍麻は抑圧していた怒りを解放すべき場所に立ったのだ。相手が雑魚であっても、ただの一人も逃がすつもりがない事は明らかだ。それは不良どものみならず、仲間たちにとっても背水の陣で望まねばならぬ状況を創り出した事で知れた。彼は仲間たちに対しても、甘さを捨てて必死になる事を示唆したのである。恐らくは、今後も生き残るために。 「ッざけんじゃねェぞ! 死ねやコラァ!!」 威勢良く日本刀を抜き放ち、突っかけてくる角刈りの不良。だが、龍麻が背中から抜いたものを見てせせら笑おうとした次の瞬間、轟音がその男をふっ飛ばした。 轟音が耳をつんざいたのと、およそ自分たちの常識からかけ離れた出来事のために、不良たちの頭がシャットダウンした。それは凶津とて例外ではない。そして龍麻の持つM1100から排出された空薬莢が地面に跳ねた次の瞬間、恐怖と恐慌の叫び声が上がった。 「なななな、何であいつ、マジ銃 「き、聞いてねえぞ! こんな奴!」 不良たちは龍麻の正体を知らぬのだから当然だが、龍麻が本物の銃を携帯していると知っている雨紋や藤咲、高見沢にしても、まさかただの不良相手に発砲するとは思わず、度肝を抜かれていた。しかしすぐ立ち直ったのは、彼と最も近い場所にいる京一が平然としていたためだった。 「さあ! テメエらこそどうするんだ!? もうどこにも逃げ場なんかねェんだぜ!」 ビュッと木刀を振りつつ、京一が啖呵を切る一方で、仲間たちに向けてちょいちょいと指を立ててみせる。雨紋たちがその指先を視線で追うと、そこには銃で撃ち倒されたにも関わらず血の一滴も出ていない不良がいた。AUGには実弾が込めてあったが、M1100には訓練用模擬弾が装填されていたのである。 「さあ醍醐、決着を付けるがいい。お前が倒されても、俺が凶津を殺す。全力を尽くすがいい」 「…分かった」 ありがとう、と続く言葉を醍醐は飲み込んだ。龍麻が決着を付けるべき相手はこの世にはおらず、そして凶津はまだ生きている。決着を付けるべきは醍醐だと、龍麻は認めたのだ。自分が倒されたら凶津を殺す、というのも、彼の本音だろうが、それは裏を返せば、凶津を殺されたくなければ、醍醐自身の手で倒せと言っているのだ。生きてさえいれば、幾らでも考える時間はあるのだと。 醍醐は一人、凶津に向かって足を踏み出した。 ようやく自分たちがとんでもない連中を相手にしてしまった事に気付いた不良たちが道を開ける。しかしもちろん、そんな事で彼らが許される筈もない。彼らは既に、人として越えてはならない一線を越えてしまっているのだから。 「各自任意に展開。一人残らず殲滅しろ!」 龍麻の指揮、と言うより、檄が飛び、《力あるもの》対《ただのヤンキー》の闘いが始まった。ある意味それは、一方的な掃討戦であったが。 チンピラたちの掃討は、まさしくあっという間の出来事に終った。龍麻の初手の銃撃で完全に戦意を喪失していた彼らを倒す事は、《力》に目覚めた者たちにとって雑草を刈り取るようなものに過ぎなかったのだ。わざわざ死にもの狂いで向かってくる状況を作り出した龍麻の行為は、物事をすぐに諦めて投げ出す彼ら相手にはまったくの徒労に過ぎなかったのである。 最初こそ小蒔の事、被害者たちの事で怒りに満ちていた仲間たちも、チンピラたちの歯ごたえの無さに、一度叩きのめした後はやる気を完全に無くしてしまっていた。元々《力》を悪用しようとはしなかった者たちの集まりであるし、藤咲も《弱い者苛め》に対する忌避感が龍麻たちと出会う事で最も強くなっている。多少なりと反撃しようとしていた内は、未来の姿が覗えるような女王様笑いと共に鞭を振るっていた藤咲だったのだが、チンピラどもが卑屈に縮こまるだけになってしまってからは明らかに生彩を欠いた。元々正義感の強い雨紋や、鎧扇寺に対する汚名を晴らさんとする紫暮も、勢いがあったのは最初だけであった。 例外は、龍麻は当然として、裏密であった。彼女の逆鱗に触れたチンピラたちを《哀れ》と言うのは偽善かもしれない。しかし彼女の手から撒き散らされる粉を浴びて麻痺し、あるいは混乱し、挙げ句の果てには地面に生じたコールタールの池のような空間から伸びてきた得体の知れない手によって地面に引きずり込まれるとあっては、人として多少の同情の余地はありそうであった。 そして、緋勇龍麻。《テロリストは皆殺し》という鉄則の中で生きてきた龍麻は、現在の《仲間》たちが来た事により、《抹殺》は取りやめた。《仲間》たちの《論理》を一部考慮したのである。 その代わり龍麻は、今後彼らが二度と同じような事件を起こす事など出来ないように、既に仲間たちによって徹底的にぶちのめされている彼らに治癒術を施させ、改めて容赦なく模擬弾を叩き込んで全員昏倒させた上、とどめに顎を踏み砕いた。非殺傷のゴム弾とはいえ、屈強なアメリカ海兵隊員が昏倒し、目覚めたら目覚めたで痛みのために眠る事も出来ないという威力がある。彼らも目覚めればまず生きている自分に驚き、顎の激痛にのたうちまわる事だろう。そして銃で狙われる恐怖、圧倒的な暴力の嵐に翻弄された彼らは一生、夜の闇に怯えて生きねばならない。全ては――自業自得だ。 当然、仲間たちにはかすり傷一つ負う者も出ず、龍麻たちは醍醐の闘いを見る立場に廻ったのであった。 「凶津!!」 「醍醐ォ!!」 もはや交す言葉はなく、二人は真っ向からぶつかって行った。 上背も体重も醍醐の方が勝る。耐久度においては比べる必要性すらないほどだ。しかし凶津には奥の手である石化能力がある。能力だけを見るならば、醍醐が不利な事は否めない。 「チイッ!」 凄まじい勢いで繰り出されたハードブローを身を捻ってかわしざま、《力》を込めた右拳を打ち込もうとした凶津だが、間をおかず繰り出された丸太の一撃のようなスピンキックに蹈鞴 「ひーちゃん、どんな事になろうと手は出すなよ。これは醍醐の闘いなんだからよ」 「優しさと甘さは違う。それに気付けば、醍醐は負けん。だが、苦戦しそうだ」 いかに《力》に目覚めているとは言え、醍醐の闘い方は基本的に中学時代と同じなのだろう。無論、パワーもスピードもその頃とは桁外れだろうが、パンチやキックの軌道や、技を繰り出す予備動作、自分でも気付かぬ癖――はそう変わるものではない。二年のブランクを経ても、凶津は醍醐の闘い方を知っているという強みがあった。そして彼もまた《力》に目覚めた一人だ。醍醐の技は尽くかわされる。 「そんなものかよ! 醍醐ッ!!」 醍醐のハードブローを掻い潜りざま、凶津が繰り出したキックが醍醐の脇腹を直撃する。体重差はかなりのものだが、ブーツの先には鉄板が仕込まれている上、カウンターで入ったそれは醍醐の耐久力を僅かに上回って彼に膝を付かせた。 「誰かを助けるとか、武道家がどうとか、そんな甘っちょろい考えを持っているからそのザマだ! 自分のためだけに闘う奴が一番強え! お前も、そうだった筈だぜ!」 ブン! と唸る凶津の拳が醍醐の腹にめり込む。直撃だ! 醍醐の口から息が洩れる。ぐらつく巨体に、凶津は猛然とラッシュをかけた。パンチとキックが雨あられと叩き込まれ、醍醐は防戦一方…どころか、一方的にめった打ちにされた。 「ちょっと! これ以上はやばいんじゃないのッ!?」 「醍醐君…!」 「あれじゃあ、醍醐君が死んじゃうよぉ」 「……」 ほとんどサンドバッグにも等しくなってしまった醍醐を見るに忍びず、女性陣が龍麻にすがるような目を向けた。しかし龍麻も、その隣の京一も静かに醍醐の闘いを見つめているきりだ。 「ねえったら! 醍醐を見殺しにする気ッ!?」 「うるせえな! 黙って見てろ! 醍醐は負けやしねえ!」 醍醐の戦い振りを瞬き一つせずに見つめながら怒鳴る京一。雨紋も紫暮も同様に、拳を固めながらも闘いを見ている。 これが、男女の違いというものか。男たちには解ったのだ。醍醐の今の心境が。 「……そんなものか? 凶津。いや、煉児」 「ッッ!!?」 パンチとキックの猛攻を浴びつつ、醍醐はゆっくりと立ち上がった。さながら、山がそびえるかごとくに。制服はずたずたに張り裂け、口の端と眦が切れているが、なんという事だ! 彼にはそれ以上のダメージがなかった。 「…中国武術ならば《硬気功》または《硬体功》。日本武術ならば《金剛調息》などの名で呼ばれる防御術だ。単純な力技であの防御は破れない。だが…」 それをとっくに見抜いていたものか、龍麻の表情は変わらない。 「奴には石化能力がある。それを使うタイミングが勝敗を決めるだろう」 醍醐とてそれは解っている筈だ。そして凶津も。しかし龍麻も、京一たちも、醍醐がなぜ凶津の技を受け続け、凶津が即座に石化能力を使わぬのかまでは理解できなかった。 「醍醐…テメエ…!」 「そんなものか? 煉児」 「テメエ! そっちの名を呼ぶんじゃねえ!!」 ドウッと音を立てて凶津の前蹴りが醍醐のどてっ腹を直撃する。しかし音の派手さとは裏腹に、弾き飛ばされたのは凶津の方であった。武道を本格的に納めた者とは明らかに違う稚拙な蹴りだが、喧嘩で叩き上げた実戦的なヤクザキックが醍醐の呼気一つで跳ね飛ばされたのであった。 凶津の顔に焦りと、屈辱をはらんだ畏敬の表情が浮かぶ。それは決して、醍醐一人に向けられているものではなかった。目の前に立ち塞がるようにそびえ立つ醍醐に重なって映る、彼にとって最も大きく、圧倒的な存在。それは――父親。 「テメエはいつだってそうだ…。いつも俺を見下して…!」 絞り出すような声とは、このような声の事を言うのだろう。凶津からは完全に余裕が失われていた。パンチもキックも充分に力がこもっているのだが、それがまったく効かないというのは凶津には恐怖であったろう。闇雲な乱打の果てに凶津は息を切らせ、突っ立っているだけの醍醐から自ら離れざるを得なくなった。 「…終わりにするぞ。凶津」 肩で息をする元親友に向かって、醍醐は拳を突き出して見せた。 「あの時どうすべきだったのか、俺は今でも答えが出せない。そして今も、俺にはこれしか思い付かない。――来い! 凶津!」 「オオッ!!」 凶津の右手に急速に膨れ上がる《陰》の気。その手で触れられた瞬間、あらゆる生き物は石と化す。その危険を知らぬでもあるまいが、醍醐は小細工一切無しに真っ向から突っ込んで行った。 「醍醐ォッ!!」 「凶津ゥ!!」 先手を取ったのは凶津! 石化能力を秘めた拳が醍醐の顔面を狙い澄まして襲い掛かる。 「何ィ!?」 始めから腕一本捨てる気だったのか、醍醐は凶津の拳を左手で受け止めた。醍醐の左手は凶津の拳を掴んだままみるみる石化して行く。それはつまり、絶対に離れられない状態になったという事だ。敏捷性において醍醐に勝る凶津でも、捕まえられていては―― 「オオオオオッッ!!」 左肘の自由が消える寸前、左足の踏み込みから発生した螺旋状の気が体内を駆け上がり、醍醐の手のひらから爆発さながらに放出され、凶津に叩き込まれた。密着状態からの《掌底・発剄》。醍醐の放った《気》は凶津の肉体を破壊する事なく、その禍々しい《力》の根元のみを粉砕してのけた。 「ぐ…は…ッッ!!」 醍醐の発剄を受けた瞬間、《力》を失った凶津は、石化の解けた醍醐の左手から抜け落ちるかのように、地面に大の字になって倒れた。 「…勝ったな」 京一が呟くのへ、龍麻は黙って肯く。かなり不安要素があったのだが、結果的に醍醐が勝った。それで良しとしなければなるまい。 「紫暮。人質の様子はどうだ?」 龍麻がすっと踝を返す。とりあえず主犯格は倒したが、彼にとってこの作戦はまだ終っていない。 「ん!? ああ…おかしいな。まだ元に戻らない。…おっ、何か光って…おお、戻り始めたぞ!」 この場合はどちらを本物と呼べば良いものか? とにかく紫暮はそこにいながらにして、もう一人の自分が見ている光景を口に出して説明した。石化されていた者たちは例外なくその場に倒れ、意識を失っているらしい。小蒔も元に戻ったとの事だ。 「戻るぞ」 短く告げる龍麻。 「戻るっつったって、どーやって!? 入り口はひーちゃんが潰しちまっただろッ!?」 京一のツッコミを軽く無視し、つかつかと龍麻は何もない壁まで歩いて行くや、何気なく差し出したとしか思えない掌底の一撃で壁を縦横3メートルに渡って粉微塵に粉砕した。その凄まじい威力に、仲間たちの口があんぐりと開く。龍麻がそれほどの力を溜めていたのは、誰に非難されようともいざという時には醍醐を救うためだったと、後に京一だけが気が付いた。 「…俺も行く。桜井を救出して終るんだ」 二年前と、現在。二度に渡って己の手で打ちのめした親友を残して行く事がどれほど辛い事か。しかし醍醐は今度こそ真の目的を見失うまいと、肩で風を切った。それはずっと彼の心の中でくすぶっていた少年時代との決別と、大人としての新たな一歩を意味していた。 ただ一人立っている紫暮を目印に、葵がまっすぐ小蒔の元に駆け出す。小蒔は完全に人肌の温もりを取り戻し、静かな呼吸を繰り返していた。 「…外傷はないようだな。どうだ? 高見沢、裏密」 「う〜んとねえ、大丈夫〜。どこにも怪我はないよ〜」 「邪気は〜感じられないわ〜。キルリアン反応も正常〜。もうすぐ目を覚ますわ〜」 見習いとは言え本職の看護婦と、オカルト系魔術のエキスパート(? )の二人が保証したので、仲間たちはほっと息を付いた。そして、安心から来る穏やかな気が作用したのか、葵の腕の中で小巻が身じろぎする。彼女自身、《力》を持つ身ゆえの耐性なのか、他の者は未だ目覚める様子はないが。 「う〜ん………………ここ…どこ…?」 「小蒔! 気が付いたのね!?」 「あれ…葵? …ひーちゃんに…醍醐君に、京一…それに皆も? どうして…?」 石化されている間の事は記憶にないだろうから、当たり前と言えば言える記憶の一時的な混乱である。 「小蒔。《どうしてウチにいるの》と言ったら、京一が伝染したと見なす」 「えっ! ヤダッ!」 とっさに小蒔は四方を見回し、状況を整理しようとする。そんなに嫌なのか! と約一名の嘆きの声は女王様の鞭で封じられた。 「えーと、確か学校に向かう途中で変な連中に囲まれて、その時に変な格好をした男の人が出てきて…気付いたらここにいて、それから…」 「もう良い、小蒔。お前は正常だ」 そう言って、龍麻はポンと小蒔の肩を叩いた。 「無事で何よりだ」 「エヘヘ…。ホントはちょっぴり恐かったんだ。でも、皆が助けに来てくれると思ったから…。皆、ありがと!」 「小蒔…良かった…!」 葵の目一杯に溜まっていた涙が遂にぽろりと零れ落ちる。それは嬉しい涙だから、誰もが穏やかな微笑を浮かべつつ、それを止めようとはしなかった。高見沢や藤咲などの女性陣は小蒔を取り囲んで互いに手を取り合って無事を喜び合う。 しかし、いつまでも無事を喜んでばかりいられない。 「お前たち。祝杯は後で上げるとして、この場は撤収するぞ。被害者も犯人も、後は警察に任せるしかない。良いな、醍醐?」 「ああ。それしかないだろう」 二度に渡り、友を警察の手に委ねるのだ。その心中は辛いの一言では現わしきれないだろうが、龍麻は敢えてそう言わせた。 「総員撤収!」 龍麻が号令をかけ、仲間たちはそれぞれ自分たちの足跡となりそうなものを消しつつ、廃屋から立ち去ろうとした。 「ム…!?」 撤収の際には仲間内で龍麻に次いで《気》の感覚の鋭い京一が先導する手筈になっている。その京一が前方に人の気配を感じて立ち止まる。 「…凶津…!」 そこにいたのは、憑き物が落ちたかのように無気力でひ弱そうに変貌を遂げた凶津であった。 「…クッ、これじゃあの時とまったく同じじゃねえかよ…」 今の彼にしてみれば、精一杯毒を込めたつもりの言葉だったろう。しかしそれは既に、負け犬の遠吠えにすらなり得なかった。 「当然の結果だ。所詮貴様は素人に過ぎんし、未だ餓鬼のままであり続けるお前と、大人に成長している醍醐とでは格が違う。お前の敗北は闘う前から決定していたのだ」 その前に先手打たれたのは誰だよ、と、京一はこっそりツッコミを入れたのだが、絶対聞こえないだろうと踏んだのに、龍麻はM1100の銃床で京一の頭をガンと叩いた。 「イッテーッ! なにすんだ、ひーちゃん!」 「ム!? いや、そこはかとなくお前が馬鹿な事を言ったような感覚に襲われてな」 「そんな事で人の頭をポンポン叩くなよ!」 そう文句を言いながらも、心の中でさえツッコミを入れられないのかと戦慄する京一であった。 「京一が馬鹿な事ばっかりやってるからだよッ!」 「俺サマも小蒔サンに一票」 「と−ぜん、アタシもね」 龍麻と京一の珍妙な掛け合いに笑顔を零れさせる仲間たち。しかし凶津はそんな彼らを見てケッと吐き捨てた。 「ふん…テメェら…せいぜい束の間の平和を楽しんでおくが良いぜ」 既に人として壊れたに等しい凶津から吹き上がる、奇妙な自信に満ちた《気》。醍醐は目を見張り、龍麻の表情が僅かに剛性を帯びた。 「…俺は《鬼》になれる筈だった。お前を憎み怨む事で鬼の《力》を手に入れられる筈だった…」 「鬼の力? 凶津…何を言って――」 「寄るんじゃねえ!」 叩き付けるような怒声。醍醐の体がビクッと震えるが、凶津はすぐに肩を落とした。 「…そんな目で俺を見るんじゃねえ。…俺のこの《エビル・ハンド》と奴らの《鬼》の力があればこの世に敵なんかいねえと思ったんだがなあ」 「奴らとは誰の事だ」 思わず背筋が寒くなるような、龍麻の声。誰も無視できない、否、出来る筈のない詰問。凶津は既に敗れた身でありながら、それでも戦慄的な笑いと共にそれを話し始めた。 「俺にこの《エビル・ハンド》を与えた奴らさ。…この街、東京はもうすぐ鬼の支配する国になる。俺たちのような《力》を持つものと、《鬼》どものな。ククク、奴らはいずれ、お前たちの前にも現れるぜ。奴等――鬼道衆がな」 「鬼道衆!?」 「この俺を倒したんだ。お前たちはもう奴らの敵になっちまったんだよ。テメェらにもう平和な日常なんてものは帰ってこないぜ」 互いに顔を見合わせる醍醐や京一たちを見て、凶津は乾いた笑い声を立てた。嘲るような響きはない。ただ、虚ろに乾いた笑い声。 「元よりそのつもりだ。我々は既に、その覚悟を決めている」 きっぱりとした龍麻の声が、凶津の視線を彼に向かわせた。目元は隠れて見えないが、これだけの仲間を従え、絶対の信頼を受け、恐らく醍醐さえ成長させたであろう男。この男は、一体…。 「撤収だ、醍醐」 「龍麻…」 肩を叩かれて促された醍醐はその場を立ち去りがたかったのだが、凶津自身がそれを遮った。 「行けよ、醍醐。お前が、お前らが奴らに対してどこまでやれるのか、俺は塀の中からゆっくりと見物させてもらうぜ」 結局、最後まで憎まれ口である。しかし、過去の醍醐ならいざ知らず、今の醍醐には今言うべき言葉が一つだけ思い浮かんだ。 「…またな、凶津」 先に身を翻した龍麻たちを追って、醍醐は凶津に背を向けた。その背に、凶津の言葉が当たる。 「…またな、醍醐」 今の醍醐にとって、その言葉は何よりも嬉しかった。 「さて…と」 醍醐の後ろ姿を遠く見送ってから、凶津はゆっくりと立ち上がった。 誰かが通報したものらしきパトカーの音が近づいてくる。だが凶津は彼と醍醐の《城》であった廃屋を出て、すぐ隣の廃虚に足を踏み入れた。 「…出て来いよ。いるんだろ?」 先程とは打って変わった、挑戦的な口調で凶津は暗闇に呼びかけた。 「こそこそ覗いてやがって、ムカつくぜ。出てきやがれ、鬼道衆ッ!」 こちらは窓一つないため、既に暗闇が重く垂れ込めている廃虚の中に、ぼうっと鬼の面が一つ浮かび上がる。目を凝らせば、深緑の忍び装束と腰の刀を見て取る事も出来る。 誰もが一目で《それ》と知れる格好――忍者――まさか、この現代に!? 「所詮ヒトか…みすみす敵を見逃すとはのう」 「ケッ、だったらどうだってんだよ?」 「ヌシがあの男を本当に殺せるかどうか見届けに来たのだが…。ヒトの情というものは不思議なものよ。希代の剣豪もそのために命を落としたという」 声の質からすると老人のようである。しかしその体躯は若者のそれであり、まったく隙が窺えない。 「…テメェらには解らないだろうが、人間って奴はその情を支えに生きているのさ。その情のおかげでとんでもねえ力を出せる時だってある。俺もあいつに出会ってからそうやって生きてきた」 今ならば、自信を持ってそう言える。だが、あの頃には戻れない。 (遅すぎるんだよなァ、醍醐の事も、オヤジの事も…) 今なら解る。いや、本当はずっと前から解っていた。父――凶津剛が何かに酷く悩み、苦しみ、それが周囲への暴力という形で現れていた事を。――昔の写真の中にいる父は輝いていた。強く、たくましく、そのままであれば自慢の父親になっていた。それが、物心付いた時には既にあの体たらく。凶津煉児は、父のそんな姿が許せず、反発したのだ。 醍醐の事もそうだ。醍醐もまた、家庭を顧みず、母の死に目にも現れなかった父親への反発が彼を暴れさせていた。しかし彼は時と共に、父親を理解しようと、許そうとし始めたのだ。――だからこそ自首を勧めた。それは罪を認めろという事ではなく、父親を許そうと、理解しようとしてやれとの意思表示だったのだ。結局それは言葉でも拳でも伝わらず、決定的な別れとなってしまった。 (いや…そうでもねェ…かな?) あの時より成長した醍醐と戦った事で、自分の中にある暗い炎が消えてしまっている。石化能力を使わず、ただ全力を尽くす喧嘩の楽しさ――それを思い出した時、凶津は憎しみを全て忘れた。いや、今の醍醐が全ての憎しみを受け止め、吐き出させてくれたのだ。最後に残ったのは――妙に清々しい気分。――悪くない。 「やはり曇った太刀でヒトは斬れぬか」 「そうかも知れねェ。だが、そう馬鹿にしたモンでもないぜ?」 ザッ、と凶津は爪先で砂利を蹴り上げた。次の瞬間、エビル・ハンドに《力》を込めてパンチを繰り出そうとする。が、砂利もパンチも突如鬼面の男の顔前に生じた《何か》に弾き飛ばされた。 「なにィ!!?」 何が!? と思う間もなく、凶津の両腕が裂け、血を吹き上げた。鋭利な刃物で斬り付けられたような激痛。だが、鬼面の男は五メートル以上離れた所で立っているだけだ。腰の刀も抜いていない。それなのに―― 「ぐわあっ!」 《何か》が襲ってくるのを、凶津は目でも耳でもなく、本能で感じた。しかし必死で固めた防御を、見えない《何か》はたやすく切り裂き、凶津は全身を血だるまと変えて地面に倒れ込んだ。 「他愛ない。たかがヒトごときが我らに勝てると思うたか。ククク、黄泉路の果てで待っておれ。あの男もすぐに後を追わせてやる」 《あの男》という単語に、凶津の手が反応した。あの男――親友――醍醐雄矢――殺させるものか! 「くらえッ!」 「――ッッ!」 凶津を見下していた男の鬼面に走った一筋の傷。それが凶津の最後の力を振るった成果であった。 「へへっ、ざまあみやがれ…!」 がくりと地面にのめりながら、鬼面の男に向かって中指を立ててみせる凶津。しかし、そこまでだ。それきり、彼は動けなくなった。 「面白い…まこと、面白い」 傷口から垂れる鮮血を指で拭い、それを口元に持って行った男はくぐもった笑い声を立てた。 「人の力、それがどれだけのものか今しばらく見せてもらおうぞ。お前のは、もう要らぬが」 そう言って、鬼面の男の右手が軽く上がった時であった。 「――ヌウッ!!」 まさに止めの一撃を加えんとしていた鬼面の男は、空気を切り裂いて飛翔してくるものから必死に身をかわした。それでも忍び装束の肩口が裂け、鮮血が一筋飛ぶ。 (かわされた!?) 柱の陰から飛び出した龍麻も驚愕をねじ伏せる。さらに後方に跳躍した鬼面の男に向けて、AUGがフルオートで吠えた。 パラララッ! パララララララララッ!! サイレンサーを装備しているので銃声はしないものの、五・五六ミリNATO弾がトタン板を縦横に引き裂く音がやけに激しく響いた。しかし、鬼面の男を追い切れない! 三〇発の弾丸がたちまち尽き、鬼面の男の気配も絶えた。 「…なんて奴だ」 敵に対して余り感想じみた事を言わぬ龍麻が悪態を吐く。彼にしてみればこんな事は初めてであった。ライフルどころか拳銃でも必中距離内一五メートルで、フルオートでばらまいたNATO高速弾を全てかわされてしまったのだ。 龍麻はAUGの弾倉を交換し、油断なく凶津のもとに走り寄った。 「…生きているか?」 「なん…だ、テメェ…。何しにきや…がった…」 「何者かが監視している事には気付いていた。今のが《鬼道衆》か?」 「そう…だ…」 龍麻は凶津のポケットを探り、煙草を一本取り出して凶津に咥えさせた。その一方でテーピング・ベルトを取り出し、止血を図る。――葵か高見沢を連れてくるべきだったと後悔しても始まらない。 「気を楽にしろ。お前など知った事ではないが、醍醐がうるさい」 「醍醐…醍醐か…。クソ…馬鹿が…。まだまだ甘ェぜ…」 憎まれ口を叩きながら煙草を一息吸い込んだ凶津であったが、その唇からぽとりと煙草が落ちる。 「凶津!」 「うあ…醍醐…!」 凶津の息が急激に大きくなる。それは死の前の息吹―― 「醍醐…死ぬなよ…醍醐…………」 「心配するな。醍醐は死なせはせん」 龍麻は、空を掻く凶津の手を掴んで言った。ポケットから取り出した無針注射器を彼の首筋に押し当てる。 「だから、お前も死ぬな」 しかし、注射の効果が現れる前に、凶津の体は断末魔の痙攣に震え、その首が力なく横たわった。 「………」 この薬が効かねば、蘇生の見込みはない。龍麻は無言の内に、凶津の手をその胸に乗せた。そして、立ち上がる。 「鬼道衆…」 ポツリ、と彼の唇がその単語を絞り出すや、薄闇の中に深紅の輝きが点った。 空気がざわめく。憤怒の《気》が彼に満ちる。 「テロリストは殲滅する。俺は、レッドキャップス・ナンバー9、緋勇龍麻!」 その宣言を聴くものは誰一人おらず、しかし凄愴の《気》が夜空に向けて放たれた。 天を衝く、怒りの気であった。 「ひーちゃん、遅かったな」 「うむ。ATMが花金のサラリーマンで込んでいてな。しかし予算は確保した。安心するがいい」 よっ、太っ腹! という掛け声と共に、仲間たちが笑う。小蒔の無事を祝って祝杯を全員で上げようというのだ。紫暮や裏密の歓迎会も兼ねて。龍麻が抜け出したのは、そのための予算を下ろしに行くという口実を使っての事であった。 「行くぞ、醍醐。何を呆けている?」 「龍麻…? いや…何か聞こえたような気がしてな…」 醍醐はしきりに首を捻っていたが、龍麻はそれ以上何も言わなかった。仲間内で高見沢だけが龍麻に何か言おうとしたのだが、龍麻は髪をかき上げ、目配せで彼女を黙らせた。 今の醍醐にとって、この事実は残酷すぎる。そして仲間たちにとって、日常との決別も。 今だけは、この瞬間だけは、まだ新たな闘いが始まった事を知らぬ方が良い。龍麻は轟然と顔を上げ、仲間たちの後を追って歩き始めた。 第六話 友 4 完 目次に戻る 前(友 3)に戻る 次(恋唄 1)に進む コンテンツに戻る |