第六話 友 3





 
 得体の知れない焦燥感は時間を追う毎に強くなっていき、遂に昼休み、龍麻は行動を起こした。屋上に上がり、さらにその上、給水タンクの上まで昇り、狙撃用のライフルスコープで周囲を捜索し始めたのである。もちろん、まだ皆に最悪の推測は話していない。

 敵の戦力を切り崩すのは戦術の基本中の基本である。直接戦闘を得意とする龍麻、京一、醍醐を襲うにはそれなりの覚悟がいるだろうが、直接戦闘能力のない小蒔や葵を拉致するのは比較的たやすい筈だ。そして今日、葵は通学時間を早めていたから無事だったが、小蒔は…。

(俺とした事が…!)

 よもや指揮官たる自分が、こんな単純なミスをするとは。連勝は時として指揮官の判断を鈍らせると言うが、龍麻は見事にその罠に落ちてしまったのだ。敵の狙いが自分たちにあると予測しておきながら、敵の能力を過小評価し、警戒を怠ってしまったのだ。

(もし小蒔を拉致したとなれば、向こうから接触してくる筈)

 そしてそのためには部下か、あるいは自らこの真神を監視している筈だ。そして龍麻は、真神に転校して間もない頃に、この学園を狙撃あるいは監視しうるポイントと、こちらからそれらをチェックできるポイントを調べ上げていた。食事は携帯用の軍用食レーションで済ませ、午後の授業も欠席して監視と警戒に当たる。敵が動くとすれば、まず放課後だろうと踏んでの事である。失ったポイントを取り返すためには、向こうからの接触を待つのではなく、接触してくる者を先に押さえる事だ。

 ひたすら監視体制を続ける事、二時間以上。やがて六時限目の授業も終了しようかという時、龍麻はスコープの隅に見覚えのある制服を認めた。

(あれは、比良坂紗夜…)

 品川が地元の彼女がなぜこの新宿に? しかもなぜ、この真神を見ているのか? 

 女性関係でも己惚れの強い京一辺りならば、「俺に会いに来たんだ」とでも言うだろうが、あいにく龍麻にはそんな感情の持ち合わせはなかった。

(まさか彼女が…いや、それはない)

 鎧扇寺で得た情報では、犯人と思しき不審人物はスキンヘッドに派手な格好、そして左腕の刺青という、注目してくれと言わんばかりのスタイルだ。人より濃い《陰気》を持つ彼女だが、共犯者という事は万に一つもあるまい。

 やがて彼女はスコープから姿を消し、入れ替わりにやや崩れた感じのする若者…龍麻視点でなければはっきり《不良》と言っても良い二人組が現れた。

(…あいつらか!? )

 スコープに意識を集中する龍麻。彼は右手だけを動かし、組み立てておいたライフルを手元に引き寄せた。

 コートを辞めたために装備はぐっと減ってしまったが、制服の背中にはレミントンM1100が、鞄の中には組み立てが容易な銃器を忍ばせてある龍麻であった。監視のために用意した銃は、オーストリアはステアー社が誇る自動小銃、AUG(アーミーユニバーサルガン)である。弾丸は五・五六ミリNATO弾。ベトナム戦争では悪評ひんぷんの弾丸であったが、その後改良が加えられ、今では全世界で信頼されている弾丸だ。そして機関部以外は硬質樹脂を採用したAUGは軽く取りまわしが効く上、流行のブルパップ式…弾倉を銃の後部に取り付けるタイプのため、見た目の全長の短さとは裏腹に命中精度が高い。そしてAUGには通常の銃身の他にサブマシンガン用の三七〇ミリ、カービン用の五七〇ミリ、狙撃用の六三〇ミリ銃身が用意されている。現在龍麻が使用しているのは狙撃用六三〇ミリ銃身だ。

 若者たちは真神の校門が見える位置で監視の姿勢に入っている。間違いないようだ。龍麻はAUGを構え、コッキング・ボルトを引いて初弾を装填、スコープを覗き込む。

 ここから若者まで直線で三〇〇メートル。AUGなら問題なく狙える距離だが、射殺するための狙撃でないのが少々難儀であった。AUGに装填してあるのは超小型の発信機マーカーである。これを若者の持っているDバッグに、若者に気付かせずに撃ち込まねばならない。学園内であるためにサイレンサーを使用し、火薬量も減らして弾速を押さえてあるとは言え実銃である。一歩間違えばマーカーでも若者を射殺する危険がある。それでも構わないと考える所が龍麻の恐ろしい所だが、それでは小蒔の救出に問題が生じるのだ。ミスは許されない。

 と、その時、屋上の扉が開いた。

「ひーちゃん! ここにいるのか!?」

 京一の声だ。一瞬動揺した時、若者たちがふいと背中を見せた。一瞬の凝集時間。発砲…。マーカーは見事に若者のDバッグを捉え、走り出した瞬間だったので狙撃に気付かれる事もなかった。

「ふう…」

 一息付き、龍麻は給水タンクから顔を覗かせた。

「ちょうど良い所に来たな、お前たち」

 京一たちは午後の授業をエスケープした龍麻がライフルを持っているのを見て目を丸くすると同時に、やっぱり何か隠している…と複雑な表情をした。

「小蒔はどうだった?」

「それが…朝、いつも通りに家を出たって…」

「…そうだろうな。小蒔は敵の手に落ちたと考えられる」

 龍麻があっさり認めた事で、京一が嫌そうな顔をする。

「ひーちゃん、お前まさか、こうなる事が判っていたんじゃねえだろうな?」

 責めるような口調ではなかったが、その言葉に動揺したのは龍麻ではなく醍醐であった。

「痛恨のミスだ。当然、こうなる可能性も考慮すべきだったのだが、敵の行動力を侮っていた。全ての責任は俺にある」

 龍麻がそう告げた時、醍醐は何か言おうとしたのだが、それよりも早く龍麻が命令を下した。

「小蒔の捜索と救出作戦を開始する。各員に臨戦態勢での待機命令を出せ。葵は裏密と高見沢、京一は雨紋と藤咲、醍醐は紫暮にそれぞれ連絡。俺は、敵の一味と思しき連中を追う」

「ええッ!?」

 龍麻の行動力には驚かされっぱなしの京一たちだが、今回も同様だった。

「この学園は既に敵の監視下に置かれている。たった今、監視役に発信機を取り付けた。向こうからの接触を待っていてはみすみす罠に落ち込むようなものだ。監視役を速やかに拉致し、敵の本拠地を確定、奇襲攻撃をかける。連絡終了後、葵と京一は正門から出撃。《王華》で監視役の目を引き付けつつ次の指示を待て。醍醐は俺と共に監視役をかわして校外に離脱し、監視役を拉致する」

 息も付かせぬほどに理路整然とした、合理的かつ効果的な作戦。そしていつもより鋭い龍麻の口調に、京一たちが反抗する余地などなかった。

 しかし、龍麻が醍醐と共に姿を消すと、京一はやっと釈然としないように首を捻った。

「あいつにゃいつも驚かされるが、今回の組み合わせには何の意味があるんだ? 俺たちに囮になれなんてよ」

「醍醐君…この件に付いて何か隠してるみたいだから、龍麻はそれを聞き出すつもりじゃないかしら?」

「それなら別に、俺たちがいたって話せない事はねえだろうよ」

 京一と醍醐の付き合いは真神に入学して以来だ。一方、龍麻はこの春に転校してからの付き合いである。付き合った時間と信頼は関係ないと判っている京一だが、やはり《水臭い》という感情は捨て切れない。

「龍麻がどこまでこの件を分析しているかは判らないけど、少なくとも醍醐君が鍵を握っているのは間違いなさそうでしょ? でも醍醐君はみんなの前で自分の悩みを話すような人じゃないわ。少なくとも、私たちには」

「…龍麻なら、醍醐の悩みにも冷静に対処できるって事か…。確かに、龍麻にだけは幽霊嫌いを自分から相談してたしな」

 龍麻は自分たちが想像もかなわぬ世界を体験してきた男だ。年齢は同じでも、あらゆる点において彼らよりずっと大人なのである。腹を割って話せる親友同士でさえ話せぬ事も、龍麻という男なら話せる事もあるかもしれない。葵が言いたいのはそういう事だった。

 大方において、葵の予想は当たっていた。だが、そんな彼女でも忘れていた事がある。龍麻の過去において、彼の仲間が全滅しているという事実を。そして彼の心にはその事がトラウマとなって残っている事を。





「…こっちだ」

 反抗を許さぬ龍麻の指示で彼と組む事になったものの、正直なところ醍醐は困惑していた。

 龍麻は腕時計に組み込まれたGPSを使用して、発信機を取り付けたという監視役を追っているのだが、実際に監視役の姿を見ていない醍醐には、それが龍麻一流のフェイクではないかという疑念があったのだ。今回の事情を知っていそうな自分を連れ出す事によって、真相を(無理にでも)聞き出そうとするのではなかろうか、と。

 醍醐とて、話そうとは思っているのだ。確証がないとか、認めたくなかったから、というのが言い訳に過ぎない事は醍醐自身、良く判っている。紫暮の話を聞いた時点で思い浮かんだ《あの男》…胸に突き刺さったままになっている罪の意識という名の刺を暴露できたらどれだけ楽だろう。そうしていれば、龍麻得意のプロファイリングによって、《あの男》が自分の関係者を狙ってくる事も判った筈だ。龍麻ならそれを逆手に取り、犯人を捕らえる事も可能だろう。

 ――《全ての責任は俺にある》。

 龍麻の言った言葉は、そっくり自分が言うべき言葉なのだと醍醐は思った。もっと早く龍麻に心当たりの事を伝えていれば、あるいは《あの男》と比較的穏便な交渉も出来たかもしれないのだ。

欺瞞ぎまん行動にしては、やけに立ち止まるな。こちらに気付いているとも思えんが」

 相変わらず、龍麻は腕時計を見ながらそんな事を呟く。龍麻の事だから、嘘の付けない自分の隠し事などとっくにお見通しだろうに、彼は何も聞いてこない。そう…まるで自分が自ら話すのを待っているかのように。

「龍麻…」

 気まずい沈黙に耐えられなくなって、その言葉は自然に醍醐の口を衝いて出た。

「お前には、《友》と呼べる存在はいるか?」

 ふと、龍麻が振り返る。

「それは現在においてか? 過去においてか?」

「!」

 やはり、龍麻は気付いている。この事件の犯人が、自分の過去と直結している事に。

「現在ならばいる。過去ならば、いた」

 並の人間には使いようのない微妙なニュアンス。彼にとって過去は振り返るものではなく、ただ記憶の中にだけ留めておくものなのだ。

 この先は、踏み込むべきではない――否、踏み込んではならない。そう思いつつ、醍醐は口にしてしまっていた。

「では、友を裏切ってしまった事はあるか?」

「……」

 一瞬の沈黙。醍醐は自分の迂闊さを呪い、その沈黙がとてつもなく長いものに感じられた。その果てに出てきた言葉は、あまりにも平凡であった。

「判らん」

「……」

 これが他人ならば、答えをはぐらかされたと取れるだろう。しかし、答えたのは龍麻だ。彼が判らないと言う時は、本当に判らない時だ。だが、否定しなかったところに、龍麻の恐ろしい過去が伺える。――現に一度、見たではないか。彼の生きてきた世界における裏切り行為には、必ず死の影が差しているのを。レッドキャップス・ナンバー14しかり、《少佐》しかり…彼が誰かを裏切ったとしたら、その誰かは既に死んでいる事だろう。それに比べれば、自分の悩みなど…。

「どんなに喧嘩が強くても、どんなに頭の回転が速くても、人は…大切な存在を前にして、時にどうしようもない自分の無力さを思い知らされる。俺はあの日…あの時どうすべきだったのか…。龍麻、そんな事を考える俺は、弱い人間だろうか?」

「自分を弱いと思うなら、強くなれ。俺にはそれしか言えん」

 龍麻は真っ直ぐ醍醐を見つめて言った。

「世界中のどこを探しても、万能な人間など存在しない。他人を傷付ける事なく生きていける人間もな。――醍醐、正義か悪かなどという事は後の人間が決める事であって、現在を生きる我々はその場その時を精一杯考えて生きるしかない。他人からはどれほど愚かに見えようとも、お前はお前にとって最良の選択をしろ。生きるという事は即ち闘いだ。その勝利を悔い続けるのは最も性質の悪い敗北主義だ。困難に立ち向かえ。屈辱を怖れるな。戦いを諦めるな。あらゆる戦術を駆使して、勝利を掴み取れ。たとえ万人が否定しようとも、お前と同じ立場に立った事のある人間は決してお前を否定しない」

 それが、緋勇龍麻という男なのか。醍醐は改めて、戦場を駆けてきた男の大きさを認識した。この男は自らの成した事に対して絶対に後悔などしない。それが彼にとって最良の選択だから。

 彼は唐栖に言った。《英雄になりたければ百万人を殺せ》と。

 先日の事件の時、彼は言った。《過去に縛られてはいかん。忘れないだけで良い》と。

 この男ならば、自分を否定するまい。いや、間違いなく彼の方が、自分より遥かに辛い道を歩んでいる。

「龍麻…。俺は自分なりに考え、行動してきたつもりだ。しかし何が正しくて、何が過ちだったのか、俺一人では答えが出せない時は、俺の話を聞いてくれるか?」

「俺は指揮官である前に、お前の友人たらんと思っている。いつでも構わん」

「そうか、お前という男には本当に頭が下がる。――そうだな。今は迷っている場合ではない」

(…心当たりを疑いながらも、まだ疑いきれないか。その優しさが仇とならなければ良いのだが)

 そんな風に思う自分を、龍麻は冷酷だと思えるほどにはなっていた。しかし、彼らの指揮官たる自分は、時として非情に徹しなければならぬ事を骨身に沁みている龍麻であった。

「…どうやら奴らは、中央公園に向かっているようだな」

 先回りをしよう、と龍麻は提案した。監視者はこちらの追跡にまったく気付いている様子がないのに、無闇に立ち止まっては時間を浪費する。この行動を見る限り、向こうも誰かを追っているらしい。しかし真神を監視していた筈の彼らが追っている相手とは? 

 こちらは勝手知ったる地元の人間である。商店街を外れた龍麻たちは路地に抜け、中央公園への先回りを決行した。しかしその途中で、意外な人物と遭遇した。

「あっ、ダーリンだ〜、元気ィ〜?」

「…何をしているのだ、高見沢?」

 そこにいたのは、ピンクの色彩が目に麗しい桜ヶ丘中央病院の看護婦の制服を着た高見沢であった。しかもその格好で龍麻に抱き付いてくる。

「院長先生の言った通り〜。ねェねェ、今度どっかに遊びに連れてって〜。私ぃ、遊園地に行きたい〜」

「高見沢、まず人の話を聞け。現在我々は重大な任務を遂行中なのだ。その件に付いては後日改めて話をしよう。そしてその制服のまま新宿を歩くのは危険だ。性風俗産業の関係者と間違われるぞ」

 幸い人通りが極端に少ない路地の事だから良かったが、それでもたまたま通りすがった主婦が奇異の視線を向けていく。龍麻はその視線こそ気にしなかったものの、高見沢を邪険にならぬように離れさせた。

「ブウ〜ッ、ダーリンの意地悪〜」

「俺は事実を述べているだけだ。ところで高見沢、なぜこの新宿にいるのだ?」

「エヘッ、ダーリンとすぐに会えたから忘れてた〜。あのねえ〜、意識不明だった人たちの内、一人が意識を回復したの〜。おまけに石化の進行もゆっくりになって〜、その事を知らせてこいって院長先生に、この辺りにいる筈だからって言われてきたの〜」

 ほう、と龍麻は肯いた。

「それは、わざわざご苦労だったな、高見沢」

「エヘッ、誉めてくれる〜?」

「うむ。偉いぞ」

「わ〜い、ダーリンに誉められた〜」

 近頃女性の扱い方を覚えてきたようだと言われる龍麻に誉められ、無邪気にはしゃぐ彼女に、醍醐が至極当然な疑問を投げかけた。

「しかし、なぜ今になって急に容体が良くなったのだろうか?」

「うん。院長先生が言うには〜、一度に多人数を石化させるには、ある程度の限界があるんじゃないかって〜」

 それを聞いて、醍醐の顔がさっと強張る。龍麻は予想していた事だからあまり驚かなかったが、つまりそれは、今まさに石化されている人間が増えたという事を示している。

「龍麻…まさか桜井がッ!?」

 らしくもなくうろたえる醍醐とは対照的に、龍麻は感情のこもらぬ声で問うた。

「…高見沢。意識を回復した生徒は何か言っていたか?」

「う〜んとねえ〜、犯人は派手な服で〜、頭はつるつるで〜、顔に色を付けてて〜、左腕に刺青のある人だって〜」

「紫暮が言っていた奴と同一人物だな」

 龍麻は肯き、ポケットから財布を取り出した。

「高見沢。これは礼だ。この少し先に真神の女子が話題にしているケーキ屋がある。これで院長先生他、皆の茶菓子を買っていってくれ」

「え〜、別に良いのに〜」

 高見沢は差し出された五千円札に戸惑ったようだが、日頃の感謝の印だと言われて、恐縮しながらも受け取った。

「本日中に招集をかけるかも知れん。その時はよろしく頼む」

「は〜い」

 笑顔で手を振り、龍麻に教えられたケーキ屋目指して歩み去る高見沢。本当は危険がないように付いててやるべきなのだろうが、さすがに今はそんな事態ではなくなってしまった。彼女に手を出そうとする奴らは、この際ニトロ(本来は医療用だが、高見沢の護身武器)で強烈な灸を据えられるのも良いだろう。

「急ぐぞ、醍醐。ターゲットを確保する」

 腕のGPSを確認しつつ、龍麻は醍醐を伴って走り出した。

(お前なのか!? 本当に。お前は今でも、俺を怨んで――)

 先を行く龍麻には、醍醐の苦渋に満ちた顔を見る事は出来なかったが、彼が酷く落ち込み、悩んでいる事は容易に判った。しかし今は、彼の感傷に付き合っている暇はない。龍麻は走りながら葵の携帯を呼び出した。





「…この辺りだな」

 やってきたのは新宿中央公園の噴水広場付近である。龍麻が使用しているGPS利用のマーカーは半径五〇メートル以内で作用するため、道が入り組んでいる所では少々使いづらい。しかし林の奥から少女の悲鳴と、争うような騒ぎが聞こえてきたので龍麻と醍醐は迷う事なくそちらに向かった。

 先見の明、龍麻にあり。そこには一人の少女の手首を掴んで無理矢理連れていこうとする、二人のチンピラがいた。間違いなく、龍麻がマーカーを撃ち込んだ《監視者》である。

 しかし、捕まっている少女は…

「やッ、止めてください!」

「へへへ、止めてくださいだって、可愛いねえ」

「俺たちは、別に恐い事しようって言ってる訳じゃねえんだ。ちょっと付き合ってくれればそれで充分なんだぜ」

「もっともその後は…クククッ」

 なるほど、任務放棄か。龍麻は不満気に納得し、二人組ではなく、少女に声をかけた。

「ここで何をしているのだ?」

「あッ、龍麻さん!」

 龍麻が幾通りもの意味を込めた問いを放った相手は、比良坂紗夜であった。

「なんだぁ、てめえは?」

「今日は見舞いに行かないのか?」

「いえ、あの、今日は新宿に別の用事で…」

「テメエ! 無視すんじゃねえ!」

「お前たち! 何をしている!」

「俺たちはこの子をデートに誘ってるだけさ。邪魔するんじゃねえよ」

「そんな無粋な誘い方があるかよッ」

「なかなか良いタイムだ、京一、葵」

「龍麻! 今はそんな場合では…!」

 めいめいが一斉に好き勝手な事を並べ立てた直後、龍麻の脚が振り上がってチンピラ二人の水月に叩き込まれた。

「…これで落ち着いて話が出来る」

 初っ端で行動のベクトルを比良坂に向けたのは龍麻だろうに、彼は自分に責任はないとばかりに言った。

「まず京一、首尾はどうだ?」

「ああ、《王華》のおっさんに頼んで裏口から出してもらった。尾行はされちゃいねえよ。で、こいつらがそうなのか?」

 腹を押さえて蹲ったところを、素早く縛り上げられてしまったチンピラ二人を見下ろし、京一が木刀で肩を叩く。出来れば自分がぶちのめし役に廻りたかったらしい。

「ああ。六時限目終了十五分前から真神の校門を見張っていた。そこに比良坂が現れたために任務放棄をしたらしいが」

 龍麻が思い切り手加減したせいもあってか、チンピラ二人は龍麻を憎々しげに見上げてケッと吐き捨てた。

「貴様ら、見ない制服だな。どこの者だ?」

 これが関西弁であったなら、まるっきりヤクザの詰問である。しかしチンピラ二人は虚勢にまみれた目を醍醐に据え、ふと、表情を変えた。

「テメェ…杉並桐生中の醍醐雄矢か?」

 ム…と龍麻の頬が跳ねる。

「…そうだ」

 醍醐が肯くと、途端にチンピラたちは下卑た笑い声を立てた。

「こりゃあちょうど良いや。俺たちはお前を探していたんだ」

凶津まがつさんが、お前を待ってるぜ」

 凶津…その名を聞いて醍醐の顔が苦しそうに歪む。

「凶津…やはり出所していたのか…」

 《出所》と聞いて、龍麻はピン、と来た。得意のプロファイリングの発動であるが、今回は口には出さなかった。所詮、それは醍醐の過去の事であり、現在とは関係ない事だからである。

「そうとも。女も一緒だぜ。助けたいんなら早く行かねえと手遅れになっちまうぜえ」

「…ッッ!!」

「そういうツラはあの人の前でやりなよ。へへっ、今頃はあの女もどうなってるかなあ」

 醍醐の苦渋に満ちた顔を笑うチンピラに、「野郎…」と呻いて京一が前に出ようとする。しかし龍麻はそんな京一を遮り、尋ねた。

「場所はどこだ?」

「さ〜て、どこかねえ。醍醐なら判る筈だって言ってたぜえ」

「大体それが人に物を聞く態度かよ。人をこんな物で縛りやがって。教えて欲しけりゃ土下座でもしやがれってんだ」

 チンピラは口汚なく龍麻を罵ったが、京一は天を仰いで嘆息した。これでこの二人の運命は決まった。ただ、どの程度かは京一にも分からなかったが。

 くる、と龍麻は比良坂を振り返った。

「比良坂紗夜、怪我はないか?」

「え…は、はいッ」

「それは重畳。しかし、この辺りを一人歩きするには少々無防備が過ぎる。我々が偶然通りがからねばどうなっていたか判らんぞ」

 例の鬼軍曹的口調ではないが、やや厳しい龍麻の声音に比良坂はしゅん、とうな垂れた。

「…すみません。本当に…ありがとうございました」

「うむ。気を付けて帰りたまえ」

「はい。それでは失礼します。その…また会えると良いですね」

 龍麻が少し表情を緩めて肯くと、比良坂も笑みを返して新宿駅の方に向かって歩み去っていった。

「ケッ、格好付けんじゃねえよ。さっさとこいつを解きやがれ」

「…誰が貴様らを解放してやるなどと言った?」

 周囲の空気が一気に氷点下の厳しさを帯びる。龍麻の口調の変化がそうさせたのだ。

「攫った女はどこにいる?」

「な…なんだよ…テメエ…!」

 たとえチンピラでも、少しは暴力の世界を覗いているだろう。それが彼らに悟らせた。目の前の男が、とてつもなく危険な男だという事を。しかし哀しいかな、彼らはそこまでしか判らず、また、現実認識は情けないほどに甘かった。

「お、俺たちにゃ凶津さんが付いているんだぜ!」

「そ、そうだ! さっさとこいつを解けってんだよ!」

 口々に喚いたのは、そうでもしないと心臓を鷲掴みにするような恐怖に耐えられなかったからか? 

「俺は、女の居場所を聞いている」

 葵は言うに及ばず、京一、醍醐までが青ざめている。龍麻の本気を見れば誰でもこうなるのだ。

「俺は時間を無駄にしない主義だ。下らぬ推理ごっこに時間を費やすつもりはない。知っている事を洗いざらい喋ってもらおうか」

「だ、誰がテメエなんぞに…!!」

 精一杯声を絞り出した虚勢は、龍麻が取り出した大振りのファイティングナイフによって遮られた。彼らが使うようなバリソン・ナイフ…通称バタフライ・ナイフや形だけ真似たサバイバル・ナイフとは二桁ほども迫力が違う。

「下がっていろ、葵。女子供が見るものではない」

 そう言うと、龍麻はいきなり一人のチンピラの顎を掴み上げ、口を開かせた。

「た、龍麻! 何をするつもりだ!?」

「通称《歯医者》と呼ばれる、モサドなどでは良くやる拷問法だ。歯をナイフで根元から抉るものでな。こういう輩には自白剤メスカリンを使うより手っ取り早い」

 ナイフで歯を…!? 歯をいじるなんて、歯医者に行く事を考えただけでも痛いのに、健康な歯をナイフで抉る? そんな苦痛、とても想像できない。

「止めろ龍麻! 場所なら俺が判る!」

 敵対した者とは言え、そんな目に遭わせるなど冗談ではない。ずっと隠し事をしていた醍醐は、まるで自分の代役をチンピラがする羽目になったような気がして、顔を引き攣らせながら必死で止めた。

 しかし、龍麻は聞く耳を持たない。

「俺が必要としているのは最新情報だ。敵の戦闘能力、本拠地、人数、装備、人質の人数、周囲の地形と見張りの配置。そこまではお前も知らぬ」

「ひぎィ…ッッ!!」

 ナイフの切っ先が、下前歯と歯茎の隙間に二ミリほど食い込み、チンピラが声にならない悲鳴を上げ、脂汗と涙で顔をくしゃくしゃにした。

「ひひまふ! ひひまふからひゃめふぇくだふぁい!」

「…何を言っているのか判らんな。はっきり喋れ」

 それは無理だろ、と突っ込んでいいものかどうか。龍麻は相手がまともに喋れないのを承知の上なのだ。それは、彼の次の台詞が証明していた。

「もっとも口は二つある。お前のは、特に必要ない」

 さらに二ミリほど食い込むナイフ。歯茎から血が流れ始め、血と涎が地面まで粘い糸を引いた。人間は余りに酷い痛みを感じると脳がエンドルフィンという物質を分泌して苦痛を取り去ろうとするが、だからこそ龍麻はじりじりと時間をかけてナイフを食い込ませていく。失神させず、脳に危険信号を出させぬために。

「ひゃめ…ひゃめれ…!!」

 もはや何を言っても龍麻は止めるまい。醍醐は救いを求めるように京一を見たが、彼も顔面蒼白で「無理だ」というように首を横に振った。

 京一には判ったのだ。龍麻がこれほどの無茶を《ただの》チンピラにやる理由が。彼のポケットの中には、ひしゃげた五百円玉が今も入っている。葵の命が危険に晒された時、表面上は冷静沈着を保ちつつ、しかし凄まじい怒りと憎悪を必死で自制していた証である。そして今回は特に、小蒔が攫われ、恐らく石にされつつあるという事実を《自分の責任》と感じているのだ。そんな今の彼に、容赦という言葉などある筈もなかった。

 しかし目の前でこれほどバイオレンスな光景を見せられては…!

「まずは見本の一本。次はお前の番だ。良く見ておくがいい」

 龍麻は今まさに歯を抉り取ろうとするチンピラの顔を、もう一人が良く見えるように向けた。そしておもむろにナイフにかけた手に力を込め――

「や、やめろ! 止めてください! なんでも話す! 話しますです!」

 プシィッ! と飛んだ血の迫力か、無傷の不良は恐怖に耐え兼ねて喚き散らした。この場合は、直接手を下されている者より、それを見せられている方が恐ろしかったのだ。自分たちはやられない立場にいる立場の京一や醍醐さえ背筋の凍る戦慄の光景を、「次はお前だ」と予告された上で行われるのである。この場合に想像力など必要ないから、恐怖はむしろ倍増しなのだ。

 だが――

「――嘘だ」

「――ッッ!!!」

 ギチッ! ともメリッ! とも付かぬ耳の奥に残るような嫌な音を立てて、チンピラの歯は根元から抉られて地面に落ちた。

(本当にやりやがった…!)

 龍麻なら本当にやると思いつつも、チンピラさえ喋る気になれば大丈夫だと、京一も醍醐も考えていた。しかし実際はどうだ? 白状するというチンピラの言葉をあっさりと否定し、本当に歯を抉ってしまった。

「歯の一本や二本抉られたくらいで白状した内容など信じられるものか。アフガニスタン・ゲリラの少年は歯を全部抉り抜かれ、手足を切り落とされてなお《我々》を売ることはなかった」

「〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!」

 半ば失神しながら、否、痛みより恐怖のために狂う事もできず、チンピラは再び近付いてくるナイフをこぼれんばかりに見開いた目で見つめた。

「やめて…もうやめて下さい…! 何でも喋りますから…!」

 いまだ無傷のチンピラが涙で顔中をくしゃくしゃにしながら哀願する。ズボンが濡れているのは失禁したせいだが、誰が彼を笑えようか? しかし龍麻は冷然と告げる。

「あと五本も抜いてからなら信じてもいいがな。――続きだ」

「ひーちゃん! その辺にしとけって! そいつら相手じゃただの弱い者苛めだぜ!」

 ここで止めねば、と京一がタイミング良く口を挟むと、龍麻は不承不承、チンピラを解放した。しかし極限まで張り詰めていた恐怖と緊張が緩む事はなかったのか、解放されたチンピラは息も絶え絶えに震えながら吐いた。純粋な恐怖から来る嘔吐であった。

「最初に断っておくが、嘘は許さん」

 これだけの事をされて嘘など付ける者などいるものか…そう思いつつも、龍麻の所属していた世界の事を思えばそれも当然かと黙るしかない京一と醍醐である。

 もちろん、チンピラ二人に嘘など付ける余裕もなく、彼らは闇雲に情報を吐き出すだけのテープレコーダーに成り下がった。凶津のアジトの場所、手下の人数、凶津の能力など。龍麻はそれらを無表情に聞いていたが、葵、京一、醍醐は、真神空手部員以外に石化されているという女性たちの存在とその人数に、先ほどの龍麻の行為さえ容認するほどの激しい怒りを感じた。そして醍醐は、自分がかつて友と呼んだ男がそれほどの非道を行った事のみならず、本当ならそうなる前に止めなければならなかった自分に対しても憤りを感じていた。

「…葵。待機中の雨紋たちに通達。現地の最寄り駅にて合流する」

「は、はい…」

 いつもと同じ表情と口調。いや、むしろいつもより冷たいか。彼の纏う雰囲気は既に戦闘中のそれであり、冷徹な特殊部隊員そのものであった。

「我々も移動するぞ。三十分以内だ」

「ひーちゃん、こいつらはどうするんだ?」

 すう、と龍麻の視線がチンピラに戻った。《喋ったんだから逃がしてくれ》と、目で懇願している。卑屈と媚びを貼り付けた、人間がする中でもっとも嫌な顔つきだった。



 ――ガキッ!! ドゴッ!!



「――――ッッ!!」

 鋭い打撃音が二つ。チンピラ二人の顎は見事なくらいきれいに蹴り割られていた。

「た、龍麻!」

「喋れば解放するとは言っていない」

 思わず上げそうになった仲間たちの抗議を、あっさりと、酷く冷徹に切り捨てる龍麻。

「行くぞ。雑魚に構っている暇はない」

 ナイフをしまい、代わりにウッズマンを取り出して薬室に初弾が納まっているかどうか確認する。常日頃からコンバット・ローディングをしている彼だから今更確認するまでもない事であるが、それでも戦闘前の確認を欠かさない龍麻である。

 彼はそれだけ、いつも本気なのだ。だからこそ、中途半端なままで向上心や自制心を持たぬ者に対しては酷く厳しい。

 この男と、あいつを逢わせるべきだろうか!? 醍醐の迷いは、むしろ当然であった。今のあいつがどのような《力》に目覚めたかは判らないが、龍麻と敵対して生き残れるとは到底思えない。自分が何とかしなければ――

「醍醐、先導しろ」

 しかし龍麻は、そんな醍醐の心中を知りつつも、やはり冷徹に告げたのだった。





「…今回の事件の黒幕は凶津…凶津煉児まがつれんじという男だ。かつての…俺の親友だった」

 醍醐がそう切り出したのは、彼が中学時代を過ごした杉並区…東高円寺で雨紋たちと合流してからの事であった。

「あの頃の俺はどうしようもなく荒れていた。ただ自分がどれくらい強いのか、自分にどれくらい強さがあるのか知りたがり、連日相手構わずの喧嘩三昧だった。そんなある日、俺と同じ瞳をした、凶津に出会ったんだ」

 龍麻自身は醍醐に過去の出来事を話すようには言っていない。しかし、今回の事件の原因が自分にあり、それを黙っているという後ろめたさに醍醐は耐えられなかった。そして何よりも、凶津と対面した時に自分が何をすべきか、未だに答えが出ていないのだ。考えるべき時間が短すぎるのである。

 醍醐の独白はこうだ。

 《新宿真神の醍醐》として畏敬の念を持って呼ばれる今の醍醐だが、中学時代の彼は世間的には《喧嘩好きの不良》として、教師やPTAの手をさんざか焼かせたらしい。そんな彼が同様に《狂犬》と評されていた凶津と出会い、闘う事は自然の成り行きだった。しかし共に満たされない想いを抱える者同士、そして腕力においても同格だった彼は自他共に認め合う親友となった。醍醐と凶津、この二人のタッグの前にはどんな不良たちも逆らう事が出来ず、教師たちも彼らとは極力関わり合いになる事を避ける有り様であった。

 月日が経ち、中学三年。醍醐はただ凶暴なだけだった自分から、節度や加減というものを知るほどに成長していた。周囲の目が彼をどう見ていたにせよ、醍醐の中には求道精神があったからである。

 一方で凶津は、肉体的に成長するにつれてますます暴力的、頽廃的になっていった。拳一つで喧嘩をしていた頃とは違い、武器を用い、だまし討ちし、集団で相手に襲いかかる。それは喧嘩ではなく、ただの暴力でしかない。しかも彼は周辺のチンピラたちの大将に納まり、日々傷害、窃盗、婦女暴行に明け暮れるようになっていた。若い頃には一角の武道家として鳴らし、柔術の道場主となりながら、若い頃の評判が嘘のように粗暴で酒乱、事あるごとに世を呪い、自分が生きている事さえ疎んじているようになった父親との荒んだ生活がそれに拍車をかけていた。どれほど世間の評価が酷く、近隣の不良どもに怖れられようと、父親の暴力には敵わなかった凶津であったのだ。

 そんな二人の距離が離れていくのもまた、自然な事であった。そして中学最後の冬、決定的な事件が起こってしまった。ある夜、酒に酔った父親の暴力に対し、凶津は遂に刃物で父親を刺したのであった。当然、日頃から要注意人物として凶津をマークしていた警察は直ちに親族に対する殺人未遂として逮捕状を申請、裁判所も即決で逮捕状を発行した。同時に凶津の部下であった不良少年たちも一斉摘発を受けた。醍醐が凶津の一件を知ったのも、彼の立ち回り先を聞き込みに来た刑事たちの口からであった。

 いくら疎遠になっていても、親友と呼んだ男の事である。凶津の行方が分かった醍醐は、真っ直ぐかつて溜まり場としていた廃屋で彼を発見した。血塗られた手と、泣き腫らした顔。そこにいたのは日々を喧嘩に明け暮れ、暴れまわっていた暴君ではなかった。世間に背を向け、社会に牙を剥き、父親に刃を向けた挙げ句に惨めな逃亡者となった、哀れな子供がいるだけであった。

 《助けてくれ》。凶津は醍醐にそう言った。

 だが、何から? 警察からか、荒んだ環境からか、彼を認めぬ世間からか、それとも惨めな敗北者に成り下がった自分自身からか? 

 《自首しよう》。共に付いていくからと、醍醐は言った。それが世間一般の常識的な言葉だったろう。

 《変わったな》と凶津は返した。彼の知る醍醐雄矢はもっと飢えた目をしていたと。

 変わるという事が、成長するという事と同義であるなどと誰が決めた事か。少なくとも、醍醐は確実に大人になっていた。凶津は、素のままだった。その違いは二人にとって決定的な溝であった。

《俺たちはもう、友と呼べる存在じゃねえって事か》

 それは醍醐にとって、もっとも胸を抉られる言葉であった。そして、言葉では伝わらぬ思いを、醍醐は拳に託す事にした。それしか思い付かなかったのだ。

《どうしてもやるってェのか》

《ああ、俺にはこれしか思い付かない…》

《なんでだ…? なんでなんだよッ! お前だけは解ってくれると思っていたのに…!》

 降りしきる雪の中、二人は闘った。闘う事で己を高める事に気付き始めた醍醐と、飢えを満たすためだけに闘いを求めた凶津では始めから勝負は見えていた。そして、醍醐は勝った。その時既に、醍醐ならば凶津の居場所を知っていると尾行してきた刑事の通報によって、二人は完全に包囲されていた。





「助けを求めていたあいつを、俺は裏切ったんだ。あれからもう二年近くたつが、あの時の事は今でも忘れられない」

 間もなく、凶津が潜んでいるであろう廃屋に付こうかという所である。真神の面々はともかく、合流を果たした雨紋、藤咲、高見沢、紫暮は、《新宿真神の醍醐》の意外に繊細な精神に深い感銘を受けていた。そんな過去があったからこそ、今の醍醐は畏怖されるほどの器があるのだと。

「人はどうやったら他人を傷付けずに生きていけるのだろうか。どうやったら他人を理解してやれるのだろうか。俺はその時からずっと考えている。人は足掻きながらも自分を――ましてや他人を理解してやる事など出来ないのかもしれない」

 それから醍醐は龍麻を、仲間たちを振り返った。

「お前たちは――お前は、こんな俺を軽蔑するか?」

「…………」

 全員、無言である。何か言ってやりたいのは山々なのだが、それを言葉にしてしまった途端に安っぽい奇麗事になってしまいそうで恐かったのだ。

 藤咲は弟を救えなかった。やり場のない怒りを、弟をいじめた相手にぶつける事しか出来なかった自分に、何も言う資格はないと思った。

 高見沢は、持って生まれた霊視能力ゆえに、周囲の人間たちから奇異の目で見られていたため、人の心の弱さも美しさも知っているからこそ、何も言えなかった。

 紫暮は元々実直な性格であり、鎧扇寺の教育方針にある《禅》の精神からも、うわべだけの言葉は語らうべきではないと感じた。

 そして雨紋はつい最近、過去の醍醐とそっくりな境遇にあった。しかし彼は龍麻たち五人の力を借りる事が出来た。一人だったらどうなっていたか解らなかった。

 《お前のせいじゃない》――そう言うのは簡単だ。しかしそんな言葉など、何の慰めにもならぬのであった。

 いつしか醍醐は、龍麻一人を見つめていた。あらゆる意味で《普通》ではない時間を過ごしてきた彼は、どんな答えを出すのか? 仲間たちの視線も、龍麻一人に注がれた。

「…醍醐」

 仲間たちの視線を一身に集め、龍麻はおもむろに口を開いた。

「京一が馬鹿なのは普段勉強しないからだが、それなりに勉強に取り組むお前の成績が悪いのは記憶力に問題があるからだな」

 突然こんな事を言った龍麻に、全員がコケた。

「た、龍麻ったら…!」

「ひーちゃん! なんで俺を引き合いに出すッ!?」

 重厚な雰囲気を一瞬で破壊され、それでも龍麻の天然ボケ(真神陣主観)に多少なりと抵抗力のある京一や葵が腰砕けな声を上げたが、龍麻はそれを無視して、やはり面食らっている醍醐の厚い胸板を拳で軽く叩いた。

「俺は言った筈だ。お前はお前にとって最良の選択をしろと。たとえ万人が否定しようとも、お前と同じ立場に立った事がある人間は決してお前を否定しないともな」

「た、龍麻…!」

「それともう一つ。自分の事さえ理解しきれぬ人間が他人を一〇〇パーセント理解しようなどというのは傲慢な考えだ。他人を傷付けずに生きる事もまた、不可能だ。そういうのは《ヤマアラシのジレンマ》と言ってな。触れ合おうとすると身体の刺で互いに傷つけ合ってしまう間柄の事だ」

「……」

 重厚な雰囲気を破壊したのに、否、そう思っていたのは京一たちの方で、えらく哲学的な龍麻の言葉である。

「良く考えろ。幾らでも悩み抜け。生きてさえいればいつか答えは出る。お前の相手も、まだ生きているのだからな」

 さらりとした言葉の中に垣間見せた、龍麻自身の過去。傷付け合うどころか、殺し合う事しか許されなかった男の言葉。だからこそ彼は――

「――考えるのは後でも出来る。生きてさえいれば」

 そう言って龍麻は話を締めくくり、先を急ぐように醍醐を促した。





 第六話 友 3    完



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